2026年05月18日
ボタン空振り日記 薬王院編
4月25日にダメモトで出かけた豪徳寺で咲いていたボタンはわずかに2輪。出かけなければ今年に見られたボタンはゼロだから肯定的に捉えたいところでも、やはりあまりも数が少ない。それに花は小さくて花びらも少なかった。もうちょっとボタンらしいボタンを見たいな〜でももう咲いていないだろうな〜と思い悩む。
それで結局、さらにダメダメモトを承知で3輪見られたらいいや&満開の時期に行くべき名所なのか雰囲気チェックを兼ねてーーーなんて都合のいい理屈をこねて4月28日に訪れたのが薬王院。当初はここが今年のボタン鑑賞第1候補だったけれど、時期を逃したので4月25日に近所の豪徳寺にしたのに。
薬王院といえば高尾山にある寺が有名で検索してもそちらが先に出てくる。訪れたのは新宿の下落合にある薬王院。23区内では足立区の西新井大師、上野公園の東照宮とここがボタンの3大名所とされる。地図でピンク色で囲っているのが下落合で高田馬場の北側に位置する。新宿区ではあるもののどちらかといえば池袋圏内。
高田馬場駅で下車。
この駅で降りたのは25年振りくらいだと思う。
駅前商店街の入り口。
東京富士大学入り口を書かれている。商店街にこんな表示は珍しいのでは?
5分ほど歩いてこれが東京富士大学。初めて名前を聞いた。略称は「とうふ」になるのかな。豆腐大学だと職人さんの学校みたいだ(^^ゞ 建物の隣を流れているのは神田川。
西武新宿線の踏切を渡ると、
新目白通りに出る。
新目白通りはこの先で目白通りに合流して、目白通りは関越自動車道まで延びている。
新目白通りを300mほど進むと薬王院の標柱。
ボタンの名所とアピールしている。
標柱のところで曲がるともう山門が見える。
山門到着。
ここまで駅から10分くらい。
山門をくぐるとーーー
来なかったことにしようか(^^ゞ
半月前にはこの両サイドにたくさんのボタンが咲いていたんだろうな。
それでもきれいに咲いているのを見つけた。
この大きさ、風が吹けばユサユサと揺れそうなボリューム感がボタンの魅力。
傾斜地の上にある本堂を見上げて。
ベストシーズンに来れば、この写真の下の方にボタンが咲き並ぶ。
ボタンの花の残骸(>_<)
傾斜地を本堂を過ぎて上まで行くと、
墓地だった。
その先にボタンはないと考え下るとする。
六地蔵にボタンが満開のときに来られますようにとお願い。
この階段の左右にもボタンが咲いていたはず。
これは庫裏(くり)のようだ。
庫裏とは住職とその家族の住居。
下まで降りてきて再び本堂を見上げると黄色いボタンがあった。先ほどはなかったのに(最初の写真参照)。六地蔵が私を哀れんで咲かせてくれたのか!?
境内ウロウロ。
とはいっても境内は縦長で幅の狭い形なので見回れる範囲は限られている。
写真はマキと新緑がきれいだったセダム(たぶん)。
退散しましょう。
滞在時間は10分弱。ここまで来るのに電車を乗り継いで1時間ほどかかったのに(/o\)
とはいえボタンを3色、合計で5輪ほど見られたから目標はクリア。それにボタンが満開なら薬王院は美しい場所なことも確認できてヨシ。
時間が余ったので近くの「おとめ山公園」へ。
薬王院から10分ほどの距離。
おとめ山というだけあって少し坂道。「おとめ」は乙女ではなく、このあたりは江戸時代に将軍家の狩猟地となり立ち入り禁止を意味する「御留山」が由来みたい。
坂の途中に出入り口があった。
入ったところは池。
ここから湧き出しているらしい。
少し進むと傾斜地。
薬王院と同じ崖線(がいせん)地形に公園はある。
傾斜地を下から見上げるとなかなかの眺めだったのだが、
1分ほどで登り切ってしまった。
引き返す。
傾斜地の途中で下を眺めて。
これはヒトツバタゴ(一つ葉タゴ)。
同じモクセイ科のトネリコの別名がタゴ。トネリコが複葉なのに対して、これは単葉なので「一つ葉タゴ」となった。でも単葉と複葉の見分け方はややこしい。まあ植物を眺めている分には見分ける必要もないが。
それよりもヒトツバタゴは別名がナンジャモンジャあるいはナンジャモンジャの木。なんじゃそれ(^^ゞ 一説によると水戸光圀がこの木を見て名前がわからず「この木は何というもんじゃろか」と述べたのが始まりとされるが諸説多数あり。
ツツジとキショウブ。
キショウブはハナショウブの黄色版ではなく、主にヨーロッパ原産の外来植物。ハナショウブに黄色系がなかったため明治時代に輸入された。しかし繁殖力が強く現在は環境省の重点対策外来種に指定されているお気の毒な存在。なおキショウブとハナショウブを掛け合わせたキハナショウブというのもある。キショウブとキハナショウブを素人が見分けるのは困難。でもキハナショウブは栽培されているところが少ないので、黄色だったらたいていはキショウブ。
さらに下る。
公園に入ってきたのはここより上側。
一番下の出入り口にある案内地図を見てびっくり。おとめ山公園は道路を挟んで反対側にもあって、そちらの方が広い。また見晴台や林間デッキなどもあって面白そう。
どうしようかなあと考えたものの、もう気分が公園を出るになってしまっていたので、そこはいつかまた「ボタンが満開」の薬王院を見に訪れた際に探検するとした。
今年のボタン鑑賞は豪徳寺と薬王院を併せて7輪。
何度も書くが、それでも見られなかったのよりはマシ。
でも来年はしっかり予定を立てて満開のボタンを楽しみたいもの。
それで結局、さらにダメダメモトを承知で3輪見られたらいいや&満開の時期に行くべき名所なのか雰囲気チェックを兼ねてーーーなんて都合のいい理屈をこねて4月28日に訪れたのが薬王院。当初はここが今年のボタン鑑賞第1候補だったけれど、時期を逃したので4月25日に近所の豪徳寺にしたのに。
薬王院といえば高尾山にある寺が有名で検索してもそちらが先に出てくる。訪れたのは新宿の下落合にある薬王院。23区内では足立区の西新井大師、上野公園の東照宮とここがボタンの3大名所とされる。地図でピンク色で囲っているのが下落合で高田馬場の北側に位置する。新宿区ではあるもののどちらかといえば池袋圏内。
高田馬場駅で下車。
この駅で降りたのは25年振りくらいだと思う。
駅前商店街の入り口。
東京富士大学入り口を書かれている。商店街にこんな表示は珍しいのでは?
5分ほど歩いてこれが東京富士大学。初めて名前を聞いた。略称は「とうふ」になるのかな。豆腐大学だと職人さんの学校みたいだ(^^ゞ 建物の隣を流れているのは神田川。
西武新宿線の踏切を渡ると、
新目白通りに出る。
新目白通りはこの先で目白通りに合流して、目白通りは関越自動車道まで延びている。
新目白通りを300mほど進むと薬王院の標柱。
ボタンの名所とアピールしている。
標柱のところで曲がるともう山門が見える。
山門到着。
ここまで駅から10分くらい。
山門をくぐるとーーー
来なかったことにしようか(^^ゞ
半月前にはこの両サイドにたくさんのボタンが咲いていたんだろうな。
それでもきれいに咲いているのを見つけた。
この大きさ、風が吹けばユサユサと揺れそうなボリューム感がボタンの魅力。
傾斜地の上にある本堂を見上げて。
ベストシーズンに来れば、この写真の下の方にボタンが咲き並ぶ。
ボタンの花の残骸(>_<)
傾斜地を本堂を過ぎて上まで行くと、
墓地だった。
その先にボタンはないと考え下るとする。
六地蔵にボタンが満開のときに来られますようにとお願い。
この階段の左右にもボタンが咲いていたはず。
これは庫裏(くり)のようだ。
庫裏とは住職とその家族の住居。
下まで降りてきて再び本堂を見上げると黄色いボタンがあった。先ほどはなかったのに(最初の写真参照)。六地蔵が私を哀れんで咲かせてくれたのか!?
境内ウロウロ。
とはいっても境内は縦長で幅の狭い形なので見回れる範囲は限られている。
写真はマキと新緑がきれいだったセダム(たぶん)。
退散しましょう。
滞在時間は10分弱。ここまで来るのに電車を乗り継いで1時間ほどかかったのに(/o\)
とはいえボタンを3色、合計で5輪ほど見られたから目標はクリア。それにボタンが満開なら薬王院は美しい場所なことも確認できてヨシ。
時間が余ったので近くの「おとめ山公園」へ。
薬王院から10分ほどの距離。
おとめ山というだけあって少し坂道。「おとめ」は乙女ではなく、このあたりは江戸時代に将軍家の狩猟地となり立ち入り禁止を意味する「御留山」が由来みたい。
坂の途中に出入り口があった。
入ったところは池。
ここから湧き出しているらしい。
少し進むと傾斜地。
薬王院と同じ崖線(がいせん)地形に公園はある。
傾斜地を下から見上げるとなかなかの眺めだったのだが、
1分ほどで登り切ってしまった。
引き返す。
傾斜地の途中で下を眺めて。
これはヒトツバタゴ(一つ葉タゴ)。
同じモクセイ科のトネリコの別名がタゴ。トネリコが複葉なのに対して、これは単葉なので「一つ葉タゴ」となった。でも単葉と複葉の見分け方はややこしい。まあ植物を眺めている分には見分ける必要もないが。
それよりもヒトツバタゴは別名がナンジャモンジャあるいはナンジャモンジャの木。なんじゃそれ(^^ゞ 一説によると水戸光圀がこの木を見て名前がわからず「この木は何というもんじゃろか」と述べたのが始まりとされるが諸説多数あり。
ツツジとキショウブ。
キショウブはハナショウブの黄色版ではなく、主にヨーロッパ原産の外来植物。ハナショウブに黄色系がなかったため明治時代に輸入された。しかし繁殖力が強く現在は環境省の重点対策外来種に指定されているお気の毒な存在。なおキショウブとハナショウブを掛け合わせたキハナショウブというのもある。キショウブとキハナショウブを素人が見分けるのは困難。でもキハナショウブは栽培されているところが少ないので、黄色だったらたいていはキショウブ。
さらに下る。
公園に入ってきたのはここより上側。
一番下の出入り口にある案内地図を見てびっくり。おとめ山公園は道路を挟んで反対側にもあって、そちらの方が広い。また見晴台や林間デッキなどもあって面白そう。
どうしようかなあと考えたものの、もう気分が公園を出るになってしまっていたので、そこはいつかまた「ボタンが満開」の薬王院を見に訪れた際に探検するとした。
今年のボタン鑑賞は豪徳寺と薬王院を併せて7輪。
何度も書くが、それでも見られなかったのよりはマシ。
でも来年はしっかり予定を立てて満開のボタンを楽しみたいもの。
2026年05月17日
ボタン空振り日記 豪徳寺編
4月の中旬過ぎに「しばらくボタンの花とはご無沙汰だな」と気付く。すると無性に見たくなるのが人間の性(さが)というもの。ただし時すでに遅しの感は否めない。都内だと20年前はゴールデンウィーク頃だったボタンの見頃時期は年々早くなり、現在は4月中頃がピーク。さらに今年はサクラの開花が昨年より5日早かったからボタンも似た傾向のはず。
4月18〜19日の土日に出かけられれば間に合っただろうが、なかなかそうもいかず。その後の平日も都合がつかなかった。そこで第1候補だった新宿区の薬王院を諦め、散歩距離内にある世田谷区の豪徳寺を4月25日に訪れた。今まで知らなかったがここはボタンの隠れた名所らしい。しかし当然ながら、そこで見事な空振りに終わり、なのに見られないとますます見たくなるのも人間の性で、よせばいいのに4月28日に薬王院まで出かけて、再び三振をしてきたのが今回からのお話。
つまり実にショボい内容。しかしこのブログは「いつかやって来るかも知れない」昔のことを思い出せないときに備えて書いている意味合いもあるので、私としては大切な記録なのだ。それでよかったら読んでちょうだい。
豪徳寺は世田谷区役所近くにあり室町幕府中頃に創建された古刹。
2020年に紅葉を見に訪れている。
豪徳寺で紅葉と招き猫
https://wassho.livedoor.blog/archives/53373803.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53373908.html
参道入り口に到着。
100mちょっと続く松並木の参道。
根がむき出しになっているマツも多かった。
山門をくぐると、
静謐な雰囲気がよし。
この三重塔は2006年の落慶。
2020年に見たときは、まだすごく新しい感じがしたが、今回はごく普通に寺の景色に馴染んでいた。でも当時の写真と見較べると↓ほとんど変わっていない。人間の感覚なんてそんなもの。
それでも20年が経って木材部分はそれなりにヴィンテージ感が出ている。
ボタンはどこかと歩いていると墓地エリアに入り込んでしまった。
上の写真は井伊家の墓所。
幕末に桜田門外の変で水戸や薩摩のテロリストに惨殺された井伊直弼(なおすけ)の墓もここにある。直弼は彦根藩の16代藩主で、3代藩主の直孝(なおたか)がこの地にあった寺を井伊家の菩提寺とし、直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」を引用し豪徳寺に改名したのがこの寺の歴史。
墓地の中にボタンはないと思われるので、
本堂などが建っているエリアに出る。
そこでまず目についた紫の花。
これはアヤメ。
似たような形をしていて、花びらの根元に
網の目がある→アミノメ→アヤメ
黄色い筋がある→ハナショウブ
白い筋がある→カキツバタ
である。ただし栽培されているのはハナショウブが圧倒的に多くてアヤメを見られる機会は貴重。アヤメ園の名前なのにハナショウブしかないところもあるくらい。なおハナショウブとカキツバタは湿地に育つがアヤメは普通の土壌。
思いがけずにアヤメを見られたのはラッキーとはいえ、
ボタンはどこだ?
見つけた!
見つけたけれど咲いていたのはこれだけ(/o\)
それに花もあまり大きくなくて、
花びらの枚数も少なくイメージしていたボタンとはずいぶんと違う。
手前にツボミがたくさん。これから咲くのか?
でも葉の形が少し違うので別の花のような気もする。
他にボタンはないのかとさらにウロウロ、キョロキョロ。
また見つけたと思ったものの、これはシャクヤク(たぶん)。
そしてこのシャクヤクも花びらが少ない。
豪徳寺はシンプル好みなのか?
というわけで結局、
お目当てのボタンはショボい花2輪が本日の成果。でもまあここに来なければ今年はボタンが見られなかったわけで、ゼロと2の違いは大きいと自分に言い聞かせる(^^ゞ それに同じくショボかったとはいえシャクヤクと、久しぶりにアヤメも見られたし。
ボタンを探していたときに見つけたこの木は、
葉に水色の砂糖菓子のようなものが付いている。
時間が経つと色が濃くなるようだ。
画像検索してみるとこれはコノテガシワ(児の手柏)。砂糖菓子のようなものは球果と呼ばれる裸子植物の実のようなもの(マツの球果が松ぼっくり)。
こちらの赤くてプロペラのようなのはモミジの種。
よく見るとプロペラの付け根の部分に小さな種が2つ見える。種がもっと大きく成長したら葉から離れて、プロペラ部分で風に流されてより遠くに種を落とそうとする。街中でモミジが勝手に生えてきたなんて話は聞かないものの、山の中などではそれなりに機能する生存戦略なのだろう。
さて豪徳寺といえば招き猫である。
(そのいきさつは2020年のブログに書いた)
今やすっかり世界的にも有名となって、
この写真でも半数以上が外国人。
ところでインバウンドとは「外から内に入ってくる」こと。外国人観光客が日本を訪れるのも含まれるとして、最近たまに聞く「インバウンドの観光客」を省略し、彼らを指して「銀座はインバウンドだらけだ」などの表現にはちょっと違和感を覚える。
それはさておき、
見渡す限りの招き猫である。
これらの招き猫は寺務所で販売している。
2020年は300円〜5000円だったので1.6倍〜1.4倍の大幅値上げ。
画像は豪徳寺のホームページから引用
本来は持ち帰り、福を招いてくれたらお寺に奉納するのだが、小さいサイズは絵馬のような感覚でそのまま置いて帰るのだろう。
中には自分の飼い猫の写真を飾ったり、
意味不明のメッセージや、
人形ではないものも。
ただしこれも豪徳寺が販売している交通安全祈願のキーホルダー。
座布団を敷いてもらっている招き猫もいた。
他に変わったものはないかと眺めていると、
こんな風に並べられている招き猫を見つけた。
2020年に撮った写真を見直すと当時は見当たらず、それ以降に誰かが置かれている招き猫を並べ替える遊びを発見したようだ。グッドジョブである。
何か相談している?
もっとヒソヒソと。
老若男女が集まって集会。
最も大規模だったのがこちら。
円の中心には豪徳寺のものではないネコまで置かれている。
別にネコ好きではないのだけれど、これらを見ているうちに顔が緩んでくる。思わず「かわいいニャー」とつぶやいてみたり(^^ゞ
ボタンは空振りでも招き猫に心癒やされた1日でした。
4月18〜19日の土日に出かけられれば間に合っただろうが、なかなかそうもいかず。その後の平日も都合がつかなかった。そこで第1候補だった新宿区の薬王院を諦め、散歩距離内にある世田谷区の豪徳寺を4月25日に訪れた。今まで知らなかったがここはボタンの隠れた名所らしい。しかし当然ながら、そこで見事な空振りに終わり、なのに見られないとますます見たくなるのも人間の性で、よせばいいのに4月28日に薬王院まで出かけて、再び三振をしてきたのが今回からのお話。
つまり実にショボい内容。しかしこのブログは「いつかやって来るかも知れない」昔のことを思い出せないときに備えて書いている意味合いもあるので、私としては大切な記録なのだ。それでよかったら読んでちょうだい。
豪徳寺は世田谷区役所近くにあり室町幕府中頃に創建された古刹。
2020年に紅葉を見に訪れている。
豪徳寺で紅葉と招き猫
https://wassho.livedoor.blog/archives/53373803.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53373908.html
参道入り口に到着。
100mちょっと続く松並木の参道。
根がむき出しになっているマツも多かった。
山門をくぐると、
静謐な雰囲気がよし。
この三重塔は2006年の落慶。
2020年に見たときは、まだすごく新しい感じがしたが、今回はごく普通に寺の景色に馴染んでいた。でも当時の写真と見較べると↓ほとんど変わっていない。人間の感覚なんてそんなもの。
それでも20年が経って木材部分はそれなりにヴィンテージ感が出ている。
ボタンはどこかと歩いていると墓地エリアに入り込んでしまった。
上の写真は井伊家の墓所。
幕末に桜田門外の変で水戸や薩摩のテロリストに惨殺された井伊直弼(なおすけ)の墓もここにある。直弼は彦根藩の16代藩主で、3代藩主の直孝(なおたか)がこの地にあった寺を井伊家の菩提寺とし、直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」を引用し豪徳寺に改名したのがこの寺の歴史。
墓地の中にボタンはないと思われるので、
本堂などが建っているエリアに出る。
そこでまず目についた紫の花。
これはアヤメ。
似たような形をしていて、花びらの根元に
網の目がある→アミノメ→アヤメ
黄色い筋がある→ハナショウブ
白い筋がある→カキツバタ
である。ただし栽培されているのはハナショウブが圧倒的に多くてアヤメを見られる機会は貴重。アヤメ園の名前なのにハナショウブしかないところもあるくらい。なおハナショウブとカキツバタは湿地に育つがアヤメは普通の土壌。
思いがけずにアヤメを見られたのはラッキーとはいえ、
ボタンはどこだ?
見つけた!
見つけたけれど咲いていたのはこれだけ(/o\)
それに花もあまり大きくなくて、
花びらの枚数も少なくイメージしていたボタンとはずいぶんと違う。
手前にツボミがたくさん。これから咲くのか?
でも葉の形が少し違うので別の花のような気もする。
他にボタンはないのかとさらにウロウロ、キョロキョロ。
また見つけたと思ったものの、これはシャクヤク(たぶん)。
そしてこのシャクヤクも花びらが少ない。
豪徳寺はシンプル好みなのか?
というわけで結局、
お目当てのボタンはショボい花2輪が本日の成果。でもまあここに来なければ今年はボタンが見られなかったわけで、ゼロと2の違いは大きいと自分に言い聞かせる(^^ゞ それに同じくショボかったとはいえシャクヤクと、久しぶりにアヤメも見られたし。
ボタンを探していたときに見つけたこの木は、
葉に水色の砂糖菓子のようなものが付いている。
時間が経つと色が濃くなるようだ。
画像検索してみるとこれはコノテガシワ(児の手柏)。砂糖菓子のようなものは球果と呼ばれる裸子植物の実のようなもの(マツの球果が松ぼっくり)。
こちらの赤くてプロペラのようなのはモミジの種。
よく見るとプロペラの付け根の部分に小さな種が2つ見える。種がもっと大きく成長したら葉から離れて、プロペラ部分で風に流されてより遠くに種を落とそうとする。街中でモミジが勝手に生えてきたなんて話は聞かないものの、山の中などではそれなりに機能する生存戦略なのだろう。
さて豪徳寺といえば招き猫である。
(そのいきさつは2020年のブログに書いた)
今やすっかり世界的にも有名となって、
この写真でも半数以上が外国人。
ところでインバウンドとは「外から内に入ってくる」こと。外国人観光客が日本を訪れるのも含まれるとして、最近たまに聞く「インバウンドの観光客」を省略し、彼らを指して「銀座はインバウンドだらけだ」などの表現にはちょっと違和感を覚える。
それはさておき、
見渡す限りの招き猫である。
これらの招き猫は寺務所で販売している。
2020年は300円〜5000円だったので1.6倍〜1.4倍の大幅値上げ。
画像は豪徳寺のホームページから引用
本来は持ち帰り、福を招いてくれたらお寺に奉納するのだが、小さいサイズは絵馬のような感覚でそのまま置いて帰るのだろう。
中には自分の飼い猫の写真を飾ったり、
意味不明のメッセージや、
人形ではないものも。
ただしこれも豪徳寺が販売している交通安全祈願のキーホルダー。
座布団を敷いてもらっている招き猫もいた。
他に変わったものはないかと眺めていると、
こんな風に並べられている招き猫を見つけた。
2020年に撮った写真を見直すと当時は見当たらず、それ以降に誰かが置かれている招き猫を並べ替える遊びを発見したようだ。グッドジョブである。
何か相談している?
もっとヒソヒソと。
老若男女が集まって集会。
最も大規模だったのがこちら。
円の中心には豪徳寺のものではないネコまで置かれている。
別にネコ好きではないのだけれど、これらを見ているうちに顔が緩んでくる。思わず「かわいいニャー」とつぶやいてみたり(^^ゞ
ボタンは空振りでも招き猫に心癒やされた1日でした。
2026年05月05日
チマキ食べ食べ
先日、ある人の誕生日パーティーに参加した。
パーティーと言ってもただの居酒屋での飲み会である。
それでも誕生日ということもあって、その日は会話の中で「昭和世代」との単語が多く聞かれた。もちろん私もそうなんだけれど、考えてみれば昭和より平成と令和を生きている期間のほうが長い。まあ、それがどうした(^^ゞ
ちなみに昭和は64年まであっても、元年は12月25日に始まり64年は1月7日に終わっているので実質的には62年ほど。
1962年12月25日〜1989年1月7日=62年と14日
平成は
1989年1月8日〜2019年4月30日=30年と3ヶ月と23日
令和は本日までで
2019年5月1日〜2026年5月5日=7年と5日
大正は
1912年7月30日〜1926年12月25日=14年と4ヶ月と26日
明治は
1868年10月23日〜1912年7月30日=43年と9ヶ月と8日
ところで明治の最終日と大正の初日は同じ日。同様に大正の最終日と昭和の初日も。しかし平成の初日は昭和の最終日の翌日、平成と令和も同じく。ただし明治以降のどの時代も天皇が崩御したら同日に新しい天皇が即位している(正確には践祚:せんそ=実質的な皇位の継承、即位はそれを公式に示す儀式)。
この違いはどうしてーーー
昭和から平成への改元が翌日になったのは、1日の途中で元号が代わると(違う元号の同じ日が存在すると)コンピューター処理で混乱が起きるのを避けるためだったようだ。もちろん昭和の初めにコンピューターは存在しない。改元にも意外と社会状況が反映されている。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
本日はメデタク子供の日。
国民の祝日に関する法律に従えば「こどもの日」。
子供も読めるように「こどもの日」と平仮名を使うのはわからなくもないが、前日の「みどりの日」までどうして平仮名なのだ? 「海の日」「山の日」は漢字なのに。
(/_')/ソレモコッチニオイトイテ
チマキを買ってきた!
子供の頃に、子供の日にチマキをよく食べていたわけではないのに、なぜか5月5日になると食べたくなる。でも柏餅なら近所のスーパーにもあるのにチマキは売っていない。近頃はチマキと言えば中華チマキを指すようになっている。と、ずっと不満に思っていたのだが別のスーパーで見つけた。
笹の葉のいい香りがする。
新しい畳の香りにも少し近く、微妙にお茶の香りも一緒に感じる。
こんなに笹の葉をクンクンしたのは生まれて初めてかも知れない。
中身は米粉のお餅。
笹の香りは意外と移っていない。
柏餅は中に餡子(あんこ)が包まれている。
チマキは米粉だけでかすかに甘みがつけられている程度。
この頼りなさがいいのよ(^^ゞ おいしゅうございました
ちなみに3本で税別498円。
そこそこのお値段。
子供の日は男子の成長を祝い健康を祈る端午の節句がルーツ。その女子版が桃の節句。ただし元々この両者に男女の区別はなかったし、子供専用でもなく季節の変わり目の行事。やがて江戸時代より雛人形が豪華になり、それで桃の節句を女子、端午の節句が男子とされるようになったらしい。
ところで
「こどもの日」は国民の祝日に関する法律によれば
こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
と条文に書かれている。
お父さんには感謝しないのか?!
そこにはこんな裏事情が。
国民の祝日に関する法律の制定は1948年(昭和23年)。
終戦(1945年)からまもない頃である。
いつを祝日にするかの議論で、主に女性議員や女性団体から
男子の端午の節句だけでなく、女子の桃の節句も(3月3日)も祝日にせよ
アメリカと同じく母の日(5月の第2日曜日)を祝日にせよ
との意見が上がる。
そこで、
子供の日は端午の節句と同じく5月5日とするが男女の区別はない
母の日と近いので、母親への感謝を条文に盛り込む
との妥協案で政治的決着が図られたのが実情のようだ。
とりあえず子供の日くらいは、
そんな世の中のあれやこれやは忘れ、
チマキでも食べて子供の気持ちに返りましょ。
パーティーと言ってもただの居酒屋での飲み会である。
それでも誕生日ということもあって、その日は会話の中で「昭和世代」との単語が多く聞かれた。もちろん私もそうなんだけれど、考えてみれば昭和より平成と令和を生きている期間のほうが長い。まあ、それがどうした(^^ゞ
ちなみに昭和は64年まであっても、元年は12月25日に始まり64年は1月7日に終わっているので実質的には62年ほど。
1962年12月25日〜1989年1月7日=62年と14日
平成は
1989年1月8日〜2019年4月30日=30年と3ヶ月と23日
令和は本日までで
2019年5月1日〜2026年5月5日=7年と5日
大正は
1912年7月30日〜1926年12月25日=14年と4ヶ月と26日
明治は
1868年10月23日〜1912年7月30日=43年と9ヶ月と8日
ところで明治の最終日と大正の初日は同じ日。同様に大正の最終日と昭和の初日も。しかし平成の初日は昭和の最終日の翌日、平成と令和も同じく。ただし明治以降のどの時代も天皇が崩御したら同日に新しい天皇が即位している(正確には践祚:せんそ=実質的な皇位の継承、即位はそれを公式に示す儀式)。
この違いはどうしてーーー
昭和から平成への改元が翌日になったのは、1日の途中で元号が代わると(違う元号の同じ日が存在すると)コンピューター処理で混乱が起きるのを避けるためだったようだ。もちろん昭和の初めにコンピューターは存在しない。改元にも意外と社会状況が反映されている。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
本日はメデタク子供の日。
国民の祝日に関する法律に従えば「こどもの日」。
子供も読めるように「こどもの日」と平仮名を使うのはわからなくもないが、前日の「みどりの日」までどうして平仮名なのだ? 「海の日」「山の日」は漢字なのに。
(/_')/ソレモコッチニオイトイテ
チマキを買ってきた!
子供の頃に、子供の日にチマキをよく食べていたわけではないのに、なぜか5月5日になると食べたくなる。でも柏餅なら近所のスーパーにもあるのにチマキは売っていない。近頃はチマキと言えば中華チマキを指すようになっている。と、ずっと不満に思っていたのだが別のスーパーで見つけた。
笹の葉のいい香りがする。
新しい畳の香りにも少し近く、微妙にお茶の香りも一緒に感じる。
こんなに笹の葉をクンクンしたのは生まれて初めてかも知れない。
中身は米粉のお餅。
笹の香りは意外と移っていない。
柏餅は中に餡子(あんこ)が包まれている。
チマキは米粉だけでかすかに甘みがつけられている程度。
この頼りなさがいいのよ(^^ゞ おいしゅうございました
ちなみに3本で税別498円。
そこそこのお値段。
子供の日は男子の成長を祝い健康を祈る端午の節句がルーツ。その女子版が桃の節句。ただし元々この両者に男女の区別はなかったし、子供専用でもなく季節の変わり目の行事。やがて江戸時代より雛人形が豪華になり、それで桃の節句を女子、端午の節句が男子とされるようになったらしい。
ところで
「こどもの日」は国民の祝日に関する法律によれば
こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
と条文に書かれている。
お父さんには感謝しないのか?!
そこにはこんな裏事情が。
国民の祝日に関する法律の制定は1948年(昭和23年)。
終戦(1945年)からまもない頃である。
いつを祝日にするかの議論で、主に女性議員や女性団体から
男子の端午の節句だけでなく、女子の桃の節句も(3月3日)も祝日にせよ
アメリカと同じく母の日(5月の第2日曜日)を祝日にせよ
との意見が上がる。
そこで、
子供の日は端午の節句と同じく5月5日とするが男女の区別はない
母の日と近いので、母親への感謝を条文に盛り込む
との妥協案で政治的決着が図られたのが実情のようだ。
とりあえず子供の日くらいは、
そんな世の中のあれやこれやは忘れ、
チマキでも食べて子供の気持ちに返りましょ。
2026年05月01日
皇居東御苑でツツジと新緑 その4
芝生広場を抜けて百人番所のところへ降りてきた。
左側の石垣は天守台と同じ材質と積み方。
少し離れたところの石垣はかなりラフ。
家康が豊臣秀吉の命で江戸に移されたのは1590年。そして江戸城を本格的に築城し始めたのは1603年とされる。この石垣がいつ積まれたのかは知らないが、現在に残る天守台が造られたのは1658年だから、最大で55年の間に不揃いな石垣から、きちんと形を整えた石垣に進化したことになる。
ただしそれでもこの石垣はきれいに積まれている部類。もっと不揃いな石でガタガタに摘まれている城の石垣も多い。城好きな人はそれを「いい石垣だ」なんて見入っているけれど、私はいつも情けない気持ちになる。エジプトのピラミッドなんて(建設当時は)紙一枚通らなかったといわれるほど精緻に積み上げられている。そのピラミッドが造られたのは今から4500年前の紀元前2500年頃やゾ! それが日本では16〜17世紀にこのレベル(>_<)
もっともこんなにバラバラの石を積み上げて崩れない技術はある意味凄いが。
日本に石の加工技術がなかったわけではない。墓石は江戸の初期にはあるし、石できた供養などは平安時代から建てられている。また日本最古の石橋である長崎の眼鏡橋は1634年と江戸時代初期の建造(設計は中国人の僧侶)。
ただし石造りの建物が造られるのは明治になって西洋の建設技術が導入されて以降。墓は部材だし石垣や石橋は構造物。どうして日本で石の建築が生まれなかったのか、そのうち研究してみましょう。
ところで前々回に家光天守が1657年に明暦の大火で焼け落ちたと書いた。そのときには本丸御殿等も焼失している。それどころか江戸城の歴史は火事の歴史でもある。御殿全体が燃えた火災だけでも10回を数える。
1634年 西の丸御殿を焼失
1639年 本丸御殿を焼失
1657年 天守と本丸、二の丸、三の丸の各御殿を焼失
1747年 二の丸御殿を焼失
1838年 西の丸御殿を焼失
1844年 本丸御殿を焼失
1852年 西の丸御殿を焼失
1859年 本丸御殿を焼失
1863年 本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失
1868年 二の丸御殿を焼失
(なお表記は新暦)
それ以外に大規模な火災が26回あり合計36回。江戸時代は265年間だから7年に1回の割合で炎上している計算。その度に幕府は膨大な建設費を投じて御殿を再建(1863年に焼失した本丸と西の丸を除く)。「そろそろ燃えないように石造りにしようぜ」とは誰か言わなかったのかな(^^ゞ

(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
百人番所と新緑。
江戸時代の侍も「新緑がきれいでござるなあ」とか会話してたかもね。
アップで撮り忘れたが、建物の隣にある生け垣は百人番所の形に刈り込まれている。
石垣と新緑。
ここで東御苑の新緑も見納め。
出入り口の大手門と丸の内のビル群。
東京駅が明治と現代の組み合わせなら、こちらは江戸と現代。
大手門を抜けて丸の内の街並み。
以前は東御苑を散策した後に丸の内のビル群を見ると、江戸時代から現在へタイムスリップして戻ってきたような感覚を味わえた。しかし今は御苑内に外国人観光客がたくさんいて、あまり江戸時代気分になれず、したがってタイムスリップ感も希薄。
内堀通りを日比谷方向に向かう。
巽櫓を過ぎて、
右に曲がると皇居前広場に入る。
写真は東京駅方向。
内堀通りを挟んで東京駅側の芝生は中に入れるが皇居側は立ち入り禁止。
これは坂下門。
井伊直弼が襲撃された「桜田門外の変(1860年)」ほど有名じゃないものの、その2年後に同じような「坂下門外の変」という事件もあった。
坂下門の右奥に見えるのが宮内庁。
宮内庁に営業に出かけて、この坂下門を通りたい(^^ゞ
南側を向いて。
まさに広場!
写っているのはこれでも皇居前広場の1/5ほど。
皇居は大きく4つのエリアがある。図は宮内庁ホームページから引用編集
天皇の住まいや宮殿、宮内庁がある狭義の皇居
日本武道館のある北の丸公園
皇居東御苑
皇居前広場
地図で「皇居外苑」と赤線を引いてある場所が「皇居前広場」。皇居外苑は正確には皇居前広場、和田倉噴水公園、北の丸公園、その他の全体を指す。皇居東御苑が含まれていないのは皇居外苑が環境省の管轄で、狭義の皇居と東御苑は宮内庁の管轄だから。この地図は宮内庁制作で環境省管轄部分には色がついていない(^^ゞ
なお一般的には皇居前広場のことを皇居外苑と呼ぶ場合も多い。
トータルの面積は230ヘクタール。面積単位の東京ドーム(4.7ヘクタール)で換算すると49個分。でも東京ドーム2つ分、3つ分位なら広さのイメージが湧くけれど、49個だとピンとこないね。
そこで皇居の230ヘクタールを単位として使用すると
千代田区:1166ヘクタール:皇居5つ分:千代田区の2割を皇居が占める
山手線の内側:6300ヘクタール:皇居27個分:皇居が約3.7%を占める
バチカン:44ヘクタール:皇居の約2割
モナコ:202ヘクタール:皇居とほぼ同じ
これは慶長江戸絵図と呼ばれる1608年頃、つまり江戸時代が始まって6年目の江戸城を描いた地図。
本丸には本丸御殿があり江戸幕府の中枢。
御殿の内部は3つの区画に分かれ、
表:将軍の政務の場。現在なら首相官邸。
中奥:将軍の私的空間。現在なら首相公邸。
大奥:将軍家族の生活空間であり、将軍が世継ぎ作りに励むところ(^^ゞ
面積では大奥が本丸御殿の約半分を占めて最も広い。将軍の仕事としてそれだけ世継ぎ作りが重視されていたわけで、それはそれでプレッシャーかかるよね。
二の丸には二の丸御殿と庭園があり将軍の別宅的存在。いくら江戸城が広いとはいえ本宅の隣に別宅とは。西の丸には西の丸御殿。ここには将軍を引退した大御所や将軍の世継ぎなどが住んだ。また本丸御殿のバックアップ的な存在でもあり、表・中奥・大奥を備えている。何たってしょっちゅう火事で燃えているので備えは大事。三の丸にも初期には御殿があったが二の丸の拡大で取り壊され、本丸に登城する際の通路に。
それ以外のエリアは幕臣や大名の屋敷として使われた。ちなみに江戸では将軍の使う建物が御殿で、それ以外は屋敷。だから大名屋敷で大名御殿とは言わない。江戸を離れたそれぞれの領地では大名は御殿を持っている。(この解釈の自信度は60%くらい)。
この絵図と照らし合わせると皇居前広場は西の丸下だった場所。
明治になって伊藤博文がここを広場に造り替えた。
ついでに
何度も御殿を焼失した江戸城であったが、1859年の焼失まではすぐに再建している。しかし1863年に本丸・二の丸・西の丸の各御殿を焼失した頃には幕府の弱体化が進んでおり、
本丸御殿→再建せず
二の丸御殿→再建。ただし1868年1月にまた焼失し、その後は再建せず
西の丸御殿→仮御殿にスペックダウンして再建
となる。
したがって1867年11月:大政奉還〜1868年1月:鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て、1868年5月に幕府が江戸城を引き渡した際に残っていたのは西の丸仮御殿のみ。それで天皇がそこに入り、戦後の1949年(昭和24年)に皇居前広場、1968年(昭和43年)皇居東御苑、1969年(昭和44年)北の丸公園が一般開放され、江戸城の西の丸と吹上エリアが狭義の皇居となった。
だからもし江戸末期に本丸や二の丸を焼失していなければ、明治天皇はそちらに入ったはずで、現在の皇居東御苑はなかったかも知れない。まあ皇居西御苑ができた可能性もあるが。
さらについでに
明治天皇が使っていた西の丸仮御殿であるが1873年(明治6年)に火災によって焼失! 江戸城の火災の歴史は明治になっても続いていた。そやから石造りにしろとーーー(^^ゞ
ところで皇居前広場が一般開放されたのが1949年(昭和24年)なのは、所管の環境省のホームページにも記載されており確かなものの、思い浮かべるのは終戦の日になるとよく見るこの映像。
玉音放送を聴いて皇居に集まってきた人たちで、その場所は皇居前広場。当時も自由に出入りできたのか、それともこの日は特別だったのか。
ちなみに江戸城は1868年(明治元年)に東京城(とうけいじょう)→1869年(明治2年)に皇城(こうじょう)→1888年(明治21年)に宮城(きゅうじょう)→1948年(昭和23年)に皇居と名前が変わっている。だから当時は宮城前広場。
皇居の宮殿に渡る二重橋。
かつては木造で下部にも補強の橋桁のある橋だったのでそう呼ばれる。
正式名称は正門鉄橋。
皇居の正門。
デザインは坂下門とよく似ている。
お堀をまたいで正門につながっているのが正門石橋。
10年ほど前まで私もそうだったように、こちらを二重橋と思っている人も多い。また正門石橋と正門鉄橋の2つの橋があるから二重橋なんて新解釈も生まれている。
皇居の宮殿に入るには、この2つの橋を渡る。
正門の脇にいる皇宮護衛官。
皇族を守る皇宮警察に属する職員は警察官ではなく護衛官と呼ばれる。職種によって様々な制服があり、ここで着用しているのは儀礼服。肩から胸にかかっている赤いのは「警笛つりひも」とよばれ先端に警笛(ホイッスル)がつながっている。警察官の儀礼服の警笛つりひもは金色、護衛官は赤。
直立不動の姿勢でご苦労様と思っていたら!
まばたきをしたときにたまたまシャッターを切ったと思っておこう。
皇居のアイコンである正門石橋を正面で。
アーチがふたつあるので、これを二重橋と思ってしまうのは仕方ない。奥に見えているのは伏見櫓(やぐら)。別名は月見櫓。秀吉の建てた伏見城から家光が移築したと伝わるが記録はないそうだ。
皇居前広場を一番南側で振り返る。
180度向きを変えて右側に見えるのが桜田門。
桜田門の前に並んでいる建物は右が警視庁、左が警察庁。
刑事ドラマで仲が悪く描かれるが実際はどうなんだろう。
なお先ほどの皇宮警察が属するのは警察庁。
桜田門とは反対方向から内堀通りに出る。
日曜日の午前10時〜午後4時まではサイクリング道路。
ここでクルマは通行止め。
というわけで交差点は赤信号でもクルマは来ないので、
堂々と道路の真ん中で最後の1枚。
おしまい
左側の石垣は天守台と同じ材質と積み方。
少し離れたところの石垣はかなりラフ。
家康が豊臣秀吉の命で江戸に移されたのは1590年。そして江戸城を本格的に築城し始めたのは1603年とされる。この石垣がいつ積まれたのかは知らないが、現在に残る天守台が造られたのは1658年だから、最大で55年の間に不揃いな石垣から、きちんと形を整えた石垣に進化したことになる。
ただしそれでもこの石垣はきれいに積まれている部類。もっと不揃いな石でガタガタに摘まれている城の石垣も多い。城好きな人はそれを「いい石垣だ」なんて見入っているけれど、私はいつも情けない気持ちになる。エジプトのピラミッドなんて(建設当時は)紙一枚通らなかったといわれるほど精緻に積み上げられている。そのピラミッドが造られたのは今から4500年前の紀元前2500年頃やゾ! それが日本では16〜17世紀にこのレベル(>_<)
もっともこんなにバラバラの石を積み上げて崩れない技術はある意味凄いが。
日本に石の加工技術がなかったわけではない。墓石は江戸の初期にはあるし、石できた供養などは平安時代から建てられている。また日本最古の石橋である長崎の眼鏡橋は1634年と江戸時代初期の建造(設計は中国人の僧侶)。
ただし石造りの建物が造られるのは明治になって西洋の建設技術が導入されて以降。墓は部材だし石垣や石橋は構造物。どうして日本で石の建築が生まれなかったのか、そのうち研究してみましょう。
ところで前々回に家光天守が1657年に明暦の大火で焼け落ちたと書いた。そのときには本丸御殿等も焼失している。それどころか江戸城の歴史は火事の歴史でもある。御殿全体が燃えた火災だけでも10回を数える。
1634年 西の丸御殿を焼失
1639年 本丸御殿を焼失
1657年 天守と本丸、二の丸、三の丸の各御殿を焼失
1747年 二の丸御殿を焼失
1838年 西の丸御殿を焼失
1844年 本丸御殿を焼失
1852年 西の丸御殿を焼失
1859年 本丸御殿を焼失
1863年 本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失
1868年 二の丸御殿を焼失
(なお表記は新暦)
それ以外に大規模な火災が26回あり合計36回。江戸時代は265年間だから7年に1回の割合で炎上している計算。その度に幕府は膨大な建設費を投じて御殿を再建(1863年に焼失した本丸と西の丸を除く)。「そろそろ燃えないように石造りにしようぜ」とは誰か言わなかったのかな(^^ゞ

(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
百人番所と新緑。
江戸時代の侍も「新緑がきれいでござるなあ」とか会話してたかもね。
アップで撮り忘れたが、建物の隣にある生け垣は百人番所の形に刈り込まれている。
石垣と新緑。
ここで東御苑の新緑も見納め。
出入り口の大手門と丸の内のビル群。
東京駅が明治と現代の組み合わせなら、こちらは江戸と現代。
大手門を抜けて丸の内の街並み。
以前は東御苑を散策した後に丸の内のビル群を見ると、江戸時代から現在へタイムスリップして戻ってきたような感覚を味わえた。しかし今は御苑内に外国人観光客がたくさんいて、あまり江戸時代気分になれず、したがってタイムスリップ感も希薄。
内堀通りを日比谷方向に向かう。
巽櫓を過ぎて、
右に曲がると皇居前広場に入る。
写真は東京駅方向。
内堀通りを挟んで東京駅側の芝生は中に入れるが皇居側は立ち入り禁止。
これは坂下門。
井伊直弼が襲撃された「桜田門外の変(1860年)」ほど有名じゃないものの、その2年後に同じような「坂下門外の変」という事件もあった。
坂下門の右奥に見えるのが宮内庁。
宮内庁に営業に出かけて、この坂下門を通りたい(^^ゞ
南側を向いて。
まさに広場!
写っているのはこれでも皇居前広場の1/5ほど。
皇居は大きく4つのエリアがある。図は宮内庁ホームページから引用編集
天皇の住まいや宮殿、宮内庁がある狭義の皇居
日本武道館のある北の丸公園
皇居東御苑
皇居前広場
地図で「皇居外苑」と赤線を引いてある場所が「皇居前広場」。皇居外苑は正確には皇居前広場、和田倉噴水公園、北の丸公園、その他の全体を指す。皇居東御苑が含まれていないのは皇居外苑が環境省の管轄で、狭義の皇居と東御苑は宮内庁の管轄だから。この地図は宮内庁制作で環境省管轄部分には色がついていない(^^ゞ
なお一般的には皇居前広場のことを皇居外苑と呼ぶ場合も多い。
トータルの面積は230ヘクタール。面積単位の東京ドーム(4.7ヘクタール)で換算すると49個分。でも東京ドーム2つ分、3つ分位なら広さのイメージが湧くけれど、49個だとピンとこないね。
そこで皇居の230ヘクタールを単位として使用すると
千代田区:1166ヘクタール:皇居5つ分:千代田区の2割を皇居が占める
山手線の内側:6300ヘクタール:皇居27個分:皇居が約3.7%を占める
バチカン:44ヘクタール:皇居の約2割
モナコ:202ヘクタール:皇居とほぼ同じ
これは慶長江戸絵図と呼ばれる1608年頃、つまり江戸時代が始まって6年目の江戸城を描いた地図。
本丸には本丸御殿があり江戸幕府の中枢。
御殿の内部は3つの区画に分かれ、
表:将軍の政務の場。現在なら首相官邸。
中奥:将軍の私的空間。現在なら首相公邸。
大奥:将軍家族の生活空間であり、将軍が世継ぎ作りに励むところ(^^ゞ
面積では大奥が本丸御殿の約半分を占めて最も広い。将軍の仕事としてそれだけ世継ぎ作りが重視されていたわけで、それはそれでプレッシャーかかるよね。
二の丸には二の丸御殿と庭園があり将軍の別宅的存在。いくら江戸城が広いとはいえ本宅の隣に別宅とは。西の丸には西の丸御殿。ここには将軍を引退した大御所や将軍の世継ぎなどが住んだ。また本丸御殿のバックアップ的な存在でもあり、表・中奥・大奥を備えている。何たってしょっちゅう火事で燃えているので備えは大事。三の丸にも初期には御殿があったが二の丸の拡大で取り壊され、本丸に登城する際の通路に。
それ以外のエリアは幕臣や大名の屋敷として使われた。ちなみに江戸では将軍の使う建物が御殿で、それ以外は屋敷。だから大名屋敷で大名御殿とは言わない。江戸を離れたそれぞれの領地では大名は御殿を持っている。(この解釈の自信度は60%くらい)。
この絵図と照らし合わせると皇居前広場は西の丸下だった場所。
明治になって伊藤博文がここを広場に造り替えた。
ついでに
何度も御殿を焼失した江戸城であったが、1859年の焼失まではすぐに再建している。しかし1863年に本丸・二の丸・西の丸の各御殿を焼失した頃には幕府の弱体化が進んでおり、
本丸御殿→再建せず
二の丸御殿→再建。ただし1868年1月にまた焼失し、その後は再建せず
西の丸御殿→仮御殿にスペックダウンして再建
となる。
したがって1867年11月:大政奉還〜1868年1月:鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て、1868年5月に幕府が江戸城を引き渡した際に残っていたのは西の丸仮御殿のみ。それで天皇がそこに入り、戦後の1949年(昭和24年)に皇居前広場、1968年(昭和43年)皇居東御苑、1969年(昭和44年)北の丸公園が一般開放され、江戸城の西の丸と吹上エリアが狭義の皇居となった。
だからもし江戸末期に本丸や二の丸を焼失していなければ、明治天皇はそちらに入ったはずで、現在の皇居東御苑はなかったかも知れない。まあ皇居西御苑ができた可能性もあるが。
さらについでに
明治天皇が使っていた西の丸仮御殿であるが1873年(明治6年)に火災によって焼失! 江戸城の火災の歴史は明治になっても続いていた。そやから石造りにしろとーーー(^^ゞ
ところで皇居前広場が一般開放されたのが1949年(昭和24年)なのは、所管の環境省のホームページにも記載されており確かなものの、思い浮かべるのは終戦の日になるとよく見るこの映像。
玉音放送を聴いて皇居に集まってきた人たちで、その場所は皇居前広場。当時も自由に出入りできたのか、それともこの日は特別だったのか。
ちなみに江戸城は1868年(明治元年)に東京城(とうけいじょう)→1869年(明治2年)に皇城(こうじょう)→1888年(明治21年)に宮城(きゅうじょう)→1948年(昭和23年)に皇居と名前が変わっている。だから当時は宮城前広場。
皇居の宮殿に渡る二重橋。
かつては木造で下部にも補強の橋桁のある橋だったのでそう呼ばれる。
正式名称は正門鉄橋。
皇居の正門。
デザインは坂下門とよく似ている。
お堀をまたいで正門につながっているのが正門石橋。
10年ほど前まで私もそうだったように、こちらを二重橋と思っている人も多い。また正門石橋と正門鉄橋の2つの橋があるから二重橋なんて新解釈も生まれている。
皇居の宮殿に入るには、この2つの橋を渡る。
正門の脇にいる皇宮護衛官。
皇族を守る皇宮警察に属する職員は警察官ではなく護衛官と呼ばれる。職種によって様々な制服があり、ここで着用しているのは儀礼服。肩から胸にかかっている赤いのは「警笛つりひも」とよばれ先端に警笛(ホイッスル)がつながっている。警察官の儀礼服の警笛つりひもは金色、護衛官は赤。
直立不動の姿勢でご苦労様と思っていたら!
まばたきをしたときにたまたまシャッターを切ったと思っておこう。
皇居のアイコンである正門石橋を正面で。
アーチがふたつあるので、これを二重橋と思ってしまうのは仕方ない。奥に見えているのは伏見櫓(やぐら)。別名は月見櫓。秀吉の建てた伏見城から家光が移築したと伝わるが記録はないそうだ。
皇居前広場を一番南側で振り返る。
180度向きを変えて右側に見えるのが桜田門。
桜田門の前に並んでいる建物は右が警視庁、左が警察庁。
刑事ドラマで仲が悪く描かれるが実際はどうなんだろう。
なお先ほどの皇宮警察が属するのは警察庁。
桜田門とは反対方向から内堀通りに出る。
日曜日の午前10時〜午後4時まではサイクリング道路。
ここでクルマは通行止め。
というわけで交差点は赤信号でもクルマは来ないので、
堂々と道路の真ん中で最後の1枚。
おしまい
2026年04月29日
皇居東御苑でツツジと新緑 その3
天守台の前は芝生広場。
かつてはここに本丸御殿と呼ばれた江戸城の中枢をなす約130棟の建物が建ち並んでいた。ここを歩くとき自分が家康や家光と同じ場所にいると思うとテンションが上がるね。
皇居東御苑のパンフレットによると正式名称は本丸大芝生。
それには
本丸大芝生の面積は13万平米(13ヘクタール)で、
ここに建っていた本丸御殿の面積が3万3000平米と書かれている。
建ぺい率を計算すれば 3.3万 ÷ 13万=25%。
しかしこれが本丸御殿の図面。制作は家光天守も焼け落ちた明暦の大火(1657年)の後、1659年に本丸御殿を再建した当時。
どう見ても建ぺい率は25%ではなく70%以上はある。
どうしてこんな矛盾が生じるのか?
結論を書くと間違っているのはパンフレットに書かれた本丸大芝生の面積。
皇居東御苑は江戸城の本丸と二の丸と三の丸だったところで総面積は21ヘクタール。そしてこの図を見てわかるように本丸地区がその半分以上を占めている。つまり13ヘクタールというのは本丸大芝生ではなく本丸全体の面積。考えてみれば13ヘクタールは東京ドームの2つ半以上。この芝生がそんなに広いはずもない。画像はhttps://x.gd/Tqz09(短縮URL使用)から引用
しかしパンフレットの表現では芝生面積=13万平米としか読めない。どうしてこんなミスをするかな。こういうところにこの国のレベル低下がにじみ出ているようにも思う。とりあえず誰か宮内庁に説教してきて。
結局のところ本丸大芝生の正確な面積はわからなかった。ネットの情報はいつも指摘するようにコピペのループなので13ヘクタールとしているのものも多い。
Googleマップで計測すると2ヘクタールほど。でもそれだと本丸御殿の建築面積3万3000平米(3.3ヘクタール)より小さくなってしまう。しかし松の大廊下跡も芝生広場の外にあるので、本丸御殿の敷地は芝生広場よりもっと広い範囲だったのだろう。だとすればパンフレットの本丸大芝生に本丸御殿が建っていたとの記述も間違っていることになる。
さて芝生広場をローアングルで。
でもでもやはり今の季節は新緑に目が行く。
この新緑の密集感にクラクラするゼ。
芝生広場中程から天守台を振り返って。
2ヘクタールとはいえ芝生広場は充分に広く、天守台のそばにいてもあまり大きいと感じない。しかしもし江戸城の天守が現存していれば国内最大。図は姫路城との比較。
もっとも姫路城は大天守と小さな天守3つが連なる建物なので、見た目の体積感では江戸城の天守より存在感はあるかも知れない。画像はhttps://travel.rakuten.co.jp/mytrip/howto/worldheritage-kinkiより引用
これはAIが描いた江戸城天守の想像図。
芝生広場の脇に出て、
まだ残っていた八重系のサクラ。(この日は4月19日)
これはヤマブキ(たぶん)。
芝生広場を南に下がったところで天守台方向。本丸御殿で幕府の政治が、その大奥では権謀術数が繰り広げられ、背後に巨大な天守が睨みをきかしていた時期もあった。江戸時代が終わって159年。今は実にピースフルな光景が広がりツワモノどもが夢の跡。
ーーー続く
かつてはここに本丸御殿と呼ばれた江戸城の中枢をなす約130棟の建物が建ち並んでいた。ここを歩くとき自分が家康や家光と同じ場所にいると思うとテンションが上がるね。
皇居東御苑のパンフレットによると正式名称は本丸大芝生。
それには
本丸大芝生の面積は13万平米(13ヘクタール)で、
ここに建っていた本丸御殿の面積が3万3000平米と書かれている。
建ぺい率を計算すれば 3.3万 ÷ 13万=25%。
しかしこれが本丸御殿の図面。制作は家光天守も焼け落ちた明暦の大火(1657年)の後、1659年に本丸御殿を再建した当時。
どう見ても建ぺい率は25%ではなく70%以上はある。
どうしてこんな矛盾が生じるのか?
結論を書くと間違っているのはパンフレットに書かれた本丸大芝生の面積。
皇居東御苑は江戸城の本丸と二の丸と三の丸だったところで総面積は21ヘクタール。そしてこの図を見てわかるように本丸地区がその半分以上を占めている。つまり13ヘクタールというのは本丸大芝生ではなく本丸全体の面積。考えてみれば13ヘクタールは東京ドームの2つ半以上。この芝生がそんなに広いはずもない。画像はhttps://x.gd/Tqz09(短縮URL使用)から引用
しかしパンフレットの表現では芝生面積=13万平米としか読めない。どうしてこんなミスをするかな。こういうところにこの国のレベル低下がにじみ出ているようにも思う。とりあえず誰か宮内庁に説教してきて。
結局のところ本丸大芝生の正確な面積はわからなかった。ネットの情報はいつも指摘するようにコピペのループなので13ヘクタールとしているのものも多い。
Googleマップで計測すると2ヘクタールほど。でもそれだと本丸御殿の建築面積3万3000平米(3.3ヘクタール)より小さくなってしまう。しかし松の大廊下跡も芝生広場の外にあるので、本丸御殿の敷地は芝生広場よりもっと広い範囲だったのだろう。だとすればパンフレットの本丸大芝生に本丸御殿が建っていたとの記述も間違っていることになる。
さて芝生広場をローアングルで。
でもでもやはり今の季節は新緑に目が行く。
この新緑の密集感にクラクラするゼ。
芝生広場中程から天守台を振り返って。
2ヘクタールとはいえ芝生広場は充分に広く、天守台のそばにいてもあまり大きいと感じない。しかしもし江戸城の天守が現存していれば国内最大。図は姫路城との比較。
もっとも姫路城は大天守と小さな天守3つが連なる建物なので、見た目の体積感では江戸城の天守より存在感はあるかも知れない。画像はhttps://travel.rakuten.co.jp/mytrip/howto/worldheritage-kinkiより引用
これはAIが描いた江戸城天守の想像図。
芝生広場の脇に出て、
まだ残っていた八重系のサクラ。(この日は4月19日)
これはヤマブキ(たぶん)。
芝生広場を南に下がったところで天守台方向。本丸御殿で幕府の政治が、その大奥では権謀術数が繰り広げられ、背後に巨大な天守が睨みをきかしていた時期もあった。江戸時代が終わって159年。今は実にピースフルな光景が広がりツワモノどもが夢の跡。
ーーー続く
2026年04月26日
皇居東御苑でツツジと新緑 その2
日本庭園をブラブラ。
正確には二の丸庭園。
いつもはまずマツに目が行くのに、この季節は新緑の引き立て役。
二の丸庭園の池は「二の丸池」と何のヒネリもない名前がついている。
この池で泳いでいるのがヒレナガニシキゴイ。
その名前の通り胸ビレや尾ビレなどすべてのヒレが普通の錦鯉と較べて約2倍の長さ。ひらひらと舞っているように泳ぎ、特にこの金色のヒレナガニシキゴイはとても優雅かつ神秘的に見える。
この鯉は皇室ゆかりの品種。そのいきさつは、
1962年 皇太子時代の上皇がインドネシアを訪問し、当地でヒレナガゴイを見る。
1977年 埼玉県の水産試験場を視察。
その際にインドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを掛け合わせて
新種ができないかと提案。
水産試験場は1980年より品種改良に着手し、1982年にヒレナガニシキゴイが誕生。
1991年 二の丸池に放流される。
上皇といえばハゼの研究をライフワークとしていて、今までに10種類もの新種を発見しているのは知る人ぞ知る話。それに加えて鯉の交配にまで関わっていたとは根っからのサカナクンだね。
ちなみにこのヒレナガニシキゴイは別に皇室専用ではなく、鯉を売っているペットショップで普通に買える。
参考までに写真で形の比較
普通のニシキゴイ → https://x.gd/AB1vs
インドネシアのヒレナガゴイ→ https://x.gd/8jCZk
交配種のヒレナガニシキゴイ→ https://x.gd/53zLx
金色以外→ https://x.gd/a9HLx
二の丸池の奥に回り込むと、
落差1メートルほどの小さな滝がある。
この水はどこから来ているのだろう?
それはさておき滝とくれば、
ハイスピードシャッターで静止している水しぶき写真!
もっともこちらに来たのは滝の写真を撮るためではなく、
滝が池に注いでいる場所にヒレナガニシキゴイがよく集まるのを知っていたから。
泡と遊んでいるのか、あるいは水中の酸素が豊富なのか。
しばらく待っていると狙い通りヒレナガニシキゴイがやって来たものの、止まってポーズをとってくれるわけじゃないので思ったような写真にならず。これじゃ普通のニシキゴイとほとんど見分けがつかない(/o\)
あまり咲いていなかった二の丸庭園ツツジゾーンを後にして、
次の目的地へ向かう。
このそこそこ急な勾配の坂は梅林坂。
そういえば皇居東御苑の梅はまだ見ていない。
まあ70本しかないし。
梅林坂に入らず、そのまま真っ直ぐ住むと平川門に向かう。
平川門から出入りした経験はないので、その方向に何があるのか興味があった。
上の写真の外国人オバチャンと同じポーズで私も案内マップをチェック。
特に何もないようだ。
それで引き返して梅林坂。
これは坂の途中で下を見たところ。
美しい新緑に目を奪われる。
梅林坂を上ったところにあるのは宮内庁の書陵部。
皇室関連の文書や資料と陵墓の管理をしている。
ちなみに陵墓(りょうぼ)とは
陵(りょう、または みささぎ): 天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓。
墓(はか): その他の皇族の墓。
もちろん古墳も含まれて仁徳天皇陵なんて呼び方をする。それにしても書類と墓なんて変わった組み合わせの部署である。
ついでに
陵に葬られる太皇太后(たい こうたいごう)とは現在では先々代の天皇の配偶者=正妻=皇后を意味する。皇太后(こうたいごう)は一世代下がって先代の天皇の配偶者=正妻=皇后。つまり現在の天皇から見て祖母または母。ただし子や孫にあたる天皇が即位したときに存命しているのがこの称号が与えられる条件。
例えば昭和天皇の配偶者である香淳(こうじゅん)皇后は平成の天皇時代の皇太后。ただし2000年に亡くなり令和は2019年に始まるので、令和においての太皇太后ではない。なお美智子上皇后は本来ならば皇太后なのだけれど、
まず生前に譲位した平成の天皇を通例の太上天皇(だいじょうてんのう)ではなく上皇とした。そして皇太后=天皇が亡くなった未亡人のニュアンスがあるのと、上皇の名称とのマッチングを踏まえて上皇后に決まったいきさつがある。
いずれにせよ太皇太后と皇太后はかつては皇后であったわけで、そして皇后は「陵」にはいるのだから墓としては区別はない。
ここからが少しややこしい。
側室がいた時代には先々代または先代の皇后でなくても、天皇の祖母にあたる女性は太皇太后で母は皇太后とされた。ただしいろいろと例外や死後の贈位もあり、このあたりの事情は複雑でよく理解していない。
参考までに現在までの人数は天皇が126人で重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び即位)を差し引くと124人なのに対して、
皇后 110人
皇太后 68人 うち皇后でなかった女性 25人
太皇太后 16人
(カウント方法には諸説あり)
太皇太后(祖母)が16人なのは昔は寿命が短かったせいかも知れないが、皇太后(母)が68人なのは意外で何か制度上の理由がありそうだ。
案外と知られていないが明治天皇と大正天皇は側室の子供である。というか歴代天皇の半数以上はそうで、過去400年に限れば正妻である皇后もしくは中宮から生まれた天皇は明正天皇(102代:江戸時代初期:女性天皇)、昭和天皇、上皇、今上天皇の4人のみ。
それで
明治天皇の側室であった柳原愛子は3人の子供を産み、そのひとりが後に大正天皇となる。彼女が亡くなったのは1943年で、子である大正天皇の即位(1912年)、孫の昭和天皇の即位(1926年)時には存命。なのに皇太后や太皇太后になっていない。
逆に明治天皇の昭憲皇后は子供を産んでいないのに昭憲皇太后となった。また明治天皇の先代になる孝明天皇の側室である九条夙子(あさこ)は、別の側室である中山慶子が産んだ後の明治天皇を養育したとの理由で、明治天皇が即位すると英照皇太后となる。しかし生みの母の中山慶子は皇太后になっていない。
なにかと複雑な皇室のしきたりである。
さらに大宝律令の古代より「太皇太后→皇太后→皇后」の序列だったものを、明治43年になって「皇后→太皇太后→皇太后」の順に改めた。かつ追号(死後に贈られる・確定する位みたいなもの)は生前の最高位と定めたので、大正天皇の皇后は昭和になって皇太后になり、亡くなって皇后に戻るというややこしいことになっている。この法律は昭和22年に廃止されたが、昭和天皇の皇后もそれに準じて平成に皇太后、亡くなってからは皇后である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
宮内庁書陵部を過ぎると見えてくるのが天守台跡。
皇居東御苑で人気のスポットだが、それは後回しにして、
その先にあるのが北桔橋門(きた はねばし もん)の出入り口。
どうして桔橋が「はねばし」と読めるのか不思議なものの、かつては江戸城防御のために「跳ね橋」が架けられていたのでその名前が残る。写っているのは東御苑から出て行く人。
そしてこの北桔橋門のすぐそばにあるのが、
東京で最高に美しいと思っているケヤキの新緑。
ドーン!どや!(是非拡大して閲覧を)
たまらんなあ。
なぜか異常に新緑好きである。私があちこちの花を見て回っているのを知っている人に「何が一番好きですか?」と尋ねられて「実は花より新緑」と答えて笑われている。新緑のこのキミドリ色を見ると気分爽快になるし、同時にとても生命力を感じる。この季節に新緑を眺めて向こう1年分のエネルギーを蓄えているといっても言い過ぎじゃない。また首を伸ばしてムシャムシャ葉っぱを食べたい衝動に駆られて、前世はきっとキリンだったに違いないと思っている(^^ゞ
新緑と石垣とマツと鳥。
天守台の石垣とツーショットで。
北桔橋門から入ってきた人が、ここを素通りして天守台に向かうのが信じられない。私なんかこのケヤキの周りを3周したのに。この新緑を眺めないなんて皇居東御苑の楽しみの9割を見逃しているようものだゾ。
そろそろ天守台に上りましょう。
上部の様子。
ここは天守台の前に広がる芝生広場、かつての江戸城本丸跡を眺めるためのもの。
ーーーなのであるが私の目的は北桔橋門前の新緑を目線の高さでもう一度見ることにある。
ここまで行くとヘンタイの域に達しているね。
これが天守台を使った正しい景色の眺め方。
城には防御のための監視塔である櫓(やぐら)があり、建築構造的にはそれが巨大化したのが天守。しかし最初の天守は1576年に信長が築いた安土城に造られ、つまり戦国時代も終わりかけで、防御施設というより城のステイタスを誇示する建物である。
江戸城の天守はまず家康が1608年に築く。なのに二代将軍秀忠は「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と家康天守を取り壊し新天守を1622年に建設。このときにもう少し南側(日比谷寄り)にあった天守を、大奥を拡大する目的もあって、現在の天守台の位置に変更している。これで終わりかと思いきや三代将軍家光も「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と秀忠天守を取り壊し新天守を1638年に建設。どんだけ負けず嫌いな親子関係。
ただしこの家光天守は1657年(四代家綱の時代)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火で焼失。従って江戸城の天守は、解体・建て替え工事期間を考慮しない単純な引き算で
家康天守 1608年〜1622年=15年間
秀忠天守 1622年〜1638年=16年間
家光天守 1638年〜1657年=20年間
1608年〜1657年のトータルで50年しか存在しない。参考までに江戸時代は1603年〜1867年の265年。
明暦の大火の翌年に天守の基礎となる現在に残る天守台がまず復旧された。しかし「江戸市中が焼け野原になって困っているのに天守を再建するのはイカガナモノカ」と見送られ、その後も「もう徳川の御威光は広く行き渡っているし、今さらステイタスシンボルの天守は必要ない、財政もキビシイ」と再建されなかった。
ところで10年ほど前から江戸城天守の再建を目指す人々が活動を行っているようである。彼らは天守をインバウンド観光の目玉にとかクールジャパンの文化と技術を世界に発信とか理屈を並べているものの、江戸幕府が不要とした江戸城天守を再建する意義があるとは思えない。
そんなことをするより安土城を再建してくれ!
あの天守にこそ歴史のロマンが詰まっている。
さて
天守台の石垣も眺めましょう。
材質は花崗岩(かこうがん)、石材としての名称は御影石(みかげいし)。
この焦げ跡のようなものは何?
しかもなぜに円形?
全体としてけっこう緻密に積み上げられているのに、
ところどころにこういう「現物合わせ」的な処理もされている。。
ーーー続く
正確には二の丸庭園。
いつもはまずマツに目が行くのに、この季節は新緑の引き立て役。
二の丸庭園の池は「二の丸池」と何のヒネリもない名前がついている。
この池で泳いでいるのがヒレナガニシキゴイ。
その名前の通り胸ビレや尾ビレなどすべてのヒレが普通の錦鯉と較べて約2倍の長さ。ひらひらと舞っているように泳ぎ、特にこの金色のヒレナガニシキゴイはとても優雅かつ神秘的に見える。
この鯉は皇室ゆかりの品種。そのいきさつは、
1962年 皇太子時代の上皇がインドネシアを訪問し、当地でヒレナガゴイを見る。
1977年 埼玉県の水産試験場を視察。
その際にインドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを掛け合わせて
新種ができないかと提案。
水産試験場は1980年より品種改良に着手し、1982年にヒレナガニシキゴイが誕生。
1991年 二の丸池に放流される。
上皇といえばハゼの研究をライフワークとしていて、今までに10種類もの新種を発見しているのは知る人ぞ知る話。それに加えて鯉の交配にまで関わっていたとは根っからのサカナクンだね。
ちなみにこのヒレナガニシキゴイは別に皇室専用ではなく、鯉を売っているペットショップで普通に買える。
参考までに写真で形の比較
普通のニシキゴイ → https://x.gd/AB1vs
インドネシアのヒレナガゴイ→ https://x.gd/8jCZk
交配種のヒレナガニシキゴイ→ https://x.gd/53zLx
金色以外→ https://x.gd/a9HLx
二の丸池の奥に回り込むと、
落差1メートルほどの小さな滝がある。
この水はどこから来ているのだろう?
それはさておき滝とくれば、
ハイスピードシャッターで静止している水しぶき写真!
もっともこちらに来たのは滝の写真を撮るためではなく、
滝が池に注いでいる場所にヒレナガニシキゴイがよく集まるのを知っていたから。
泡と遊んでいるのか、あるいは水中の酸素が豊富なのか。
しばらく待っていると狙い通りヒレナガニシキゴイがやって来たものの、止まってポーズをとってくれるわけじゃないので思ったような写真にならず。これじゃ普通のニシキゴイとほとんど見分けがつかない(/o\)
あまり咲いていなかった二の丸庭園ツツジゾーンを後にして、
次の目的地へ向かう。
このそこそこ急な勾配の坂は梅林坂。
そういえば皇居東御苑の梅はまだ見ていない。
まあ70本しかないし。
梅林坂に入らず、そのまま真っ直ぐ住むと平川門に向かう。
平川門から出入りした経験はないので、その方向に何があるのか興味があった。
上の写真の外国人オバチャンと同じポーズで私も案内マップをチェック。
特に何もないようだ。
それで引き返して梅林坂。
これは坂の途中で下を見たところ。
美しい新緑に目を奪われる。
梅林坂を上ったところにあるのは宮内庁の書陵部。
皇室関連の文書や資料と陵墓の管理をしている。
ちなみに陵墓(りょうぼ)とは
陵(りょう、または みささぎ): 天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓。
墓(はか): その他の皇族の墓。
もちろん古墳も含まれて仁徳天皇陵なんて呼び方をする。それにしても書類と墓なんて変わった組み合わせの部署である。
ついでに
陵に葬られる太皇太后(たい こうたいごう)とは現在では先々代の天皇の配偶者=正妻=皇后を意味する。皇太后(こうたいごう)は一世代下がって先代の天皇の配偶者=正妻=皇后。つまり現在の天皇から見て祖母または母。ただし子や孫にあたる天皇が即位したときに存命しているのがこの称号が与えられる条件。
例えば昭和天皇の配偶者である香淳(こうじゅん)皇后は平成の天皇時代の皇太后。ただし2000年に亡くなり令和は2019年に始まるので、令和においての太皇太后ではない。なお美智子上皇后は本来ならば皇太后なのだけれど、
まず生前に譲位した平成の天皇を通例の太上天皇(だいじょうてんのう)ではなく上皇とした。そして皇太后=天皇が亡くなった未亡人のニュアンスがあるのと、上皇の名称とのマッチングを踏まえて上皇后に決まったいきさつがある。
いずれにせよ太皇太后と皇太后はかつては皇后であったわけで、そして皇后は「陵」にはいるのだから墓としては区別はない。
ここからが少しややこしい。
側室がいた時代には先々代または先代の皇后でなくても、天皇の祖母にあたる女性は太皇太后で母は皇太后とされた。ただしいろいろと例外や死後の贈位もあり、このあたりの事情は複雑でよく理解していない。
参考までに現在までの人数は天皇が126人で重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び即位)を差し引くと124人なのに対して、
皇后 110人
皇太后 68人 うち皇后でなかった女性 25人
太皇太后 16人
(カウント方法には諸説あり)
太皇太后(祖母)が16人なのは昔は寿命が短かったせいかも知れないが、皇太后(母)が68人なのは意外で何か制度上の理由がありそうだ。
案外と知られていないが明治天皇と大正天皇は側室の子供である。というか歴代天皇の半数以上はそうで、過去400年に限れば正妻である皇后もしくは中宮から生まれた天皇は明正天皇(102代:江戸時代初期:女性天皇)、昭和天皇、上皇、今上天皇の4人のみ。
それで
明治天皇の側室であった柳原愛子は3人の子供を産み、そのひとりが後に大正天皇となる。彼女が亡くなったのは1943年で、子である大正天皇の即位(1912年)、孫の昭和天皇の即位(1926年)時には存命。なのに皇太后や太皇太后になっていない。
逆に明治天皇の昭憲皇后は子供を産んでいないのに昭憲皇太后となった。また明治天皇の先代になる孝明天皇の側室である九条夙子(あさこ)は、別の側室である中山慶子が産んだ後の明治天皇を養育したとの理由で、明治天皇が即位すると英照皇太后となる。しかし生みの母の中山慶子は皇太后になっていない。
なにかと複雑な皇室のしきたりである。
さらに大宝律令の古代より「太皇太后→皇太后→皇后」の序列だったものを、明治43年になって「皇后→太皇太后→皇太后」の順に改めた。かつ追号(死後に贈られる・確定する位みたいなもの)は生前の最高位と定めたので、大正天皇の皇后は昭和になって皇太后になり、亡くなって皇后に戻るというややこしいことになっている。この法律は昭和22年に廃止されたが、昭和天皇の皇后もそれに準じて平成に皇太后、亡くなってからは皇后である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
宮内庁書陵部を過ぎると見えてくるのが天守台跡。
皇居東御苑で人気のスポットだが、それは後回しにして、
その先にあるのが北桔橋門(きた はねばし もん)の出入り口。
どうして桔橋が「はねばし」と読めるのか不思議なものの、かつては江戸城防御のために「跳ね橋」が架けられていたのでその名前が残る。写っているのは東御苑から出て行く人。
そしてこの北桔橋門のすぐそばにあるのが、
東京で最高に美しいと思っているケヤキの新緑。
ドーン!どや!(是非拡大して閲覧を)
たまらんなあ。
なぜか異常に新緑好きである。私があちこちの花を見て回っているのを知っている人に「何が一番好きですか?」と尋ねられて「実は花より新緑」と答えて笑われている。新緑のこのキミドリ色を見ると気分爽快になるし、同時にとても生命力を感じる。この季節に新緑を眺めて向こう1年分のエネルギーを蓄えているといっても言い過ぎじゃない。また首を伸ばしてムシャムシャ葉っぱを食べたい衝動に駆られて、前世はきっとキリンだったに違いないと思っている(^^ゞ
新緑と石垣とマツと鳥。
天守台の石垣とツーショットで。
北桔橋門から入ってきた人が、ここを素通りして天守台に向かうのが信じられない。私なんかこのケヤキの周りを3周したのに。この新緑を眺めないなんて皇居東御苑の楽しみの9割を見逃しているようものだゾ。
そろそろ天守台に上りましょう。
上部の様子。
ここは天守台の前に広がる芝生広場、かつての江戸城本丸跡を眺めるためのもの。
ーーーなのであるが私の目的は北桔橋門前の新緑を目線の高さでもう一度見ることにある。
ここまで行くとヘンタイの域に達しているね。
これが天守台を使った正しい景色の眺め方。
城には防御のための監視塔である櫓(やぐら)があり、建築構造的にはそれが巨大化したのが天守。しかし最初の天守は1576年に信長が築いた安土城に造られ、つまり戦国時代も終わりかけで、防御施設というより城のステイタスを誇示する建物である。
江戸城の天守はまず家康が1608年に築く。なのに二代将軍秀忠は「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と家康天守を取り壊し新天守を1622年に建設。このときにもう少し南側(日比谷寄り)にあった天守を、大奥を拡大する目的もあって、現在の天守台の位置に変更している。これで終わりかと思いきや三代将軍家光も「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と秀忠天守を取り壊し新天守を1638年に建設。どんだけ負けず嫌いな親子関係。
ただしこの家光天守は1657年(四代家綱の時代)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火で焼失。従って江戸城の天守は、解体・建て替え工事期間を考慮しない単純な引き算で
家康天守 1608年〜1622年=15年間
秀忠天守 1622年〜1638年=16年間
家光天守 1638年〜1657年=20年間
1608年〜1657年のトータルで50年しか存在しない。参考までに江戸時代は1603年〜1867年の265年。
明暦の大火の翌年に天守の基礎となる現在に残る天守台がまず復旧された。しかし「江戸市中が焼け野原になって困っているのに天守を再建するのはイカガナモノカ」と見送られ、その後も「もう徳川の御威光は広く行き渡っているし、今さらステイタスシンボルの天守は必要ない、財政もキビシイ」と再建されなかった。
ところで10年ほど前から江戸城天守の再建を目指す人々が活動を行っているようである。彼らは天守をインバウンド観光の目玉にとかクールジャパンの文化と技術を世界に発信とか理屈を並べているものの、江戸幕府が不要とした江戸城天守を再建する意義があるとは思えない。
そんなことをするより安土城を再建してくれ!
あの天守にこそ歴史のロマンが詰まっている。
さて
天守台の石垣も眺めましょう。
材質は花崗岩(かこうがん)、石材としての名称は御影石(みかげいし)。
この焦げ跡のようなものは何?
しかもなぜに円形?
全体としてけっこう緻密に積み上げられているのに、
ところどころにこういう「現物合わせ」的な処理もされている。。
ーーー続く
2026年04月24日
皇居東御苑でツツジと新緑
2024年4月30日 練馬区の平成つつじ園 完全終了
2025年5月3日 世田谷区の西沢つつじ園 9割終了
ーーーと、この2年間はツツジ見物に出遅れて空振りが続いた。
今年はその轍を踏むまいと4月19日に皇居東御苑へ。
もっとも皇居東御苑のツツジはそれほどの規模ではない。それでもここを選んだのは今までツツジの季節に訪れたことがなかったのと、ここには私が東京で最も美しいと評価している新緑の木があるから。
スタートは東京駅。
明治の建築遺産と高層ビル群が織りなす美しくも不思議な眺め。
東京駅センターから皇居方向に向かうのが行幸(みゆき)通り。
行幸通りと交差して皇居の東南側のお堀沿いを通っているのが国道1号線。
たまに地方から来た人を皇居に案内して、これは1号線と言うと「こんなところに?」と驚かれる。1号線は東京(日本橋)を起点に大阪(梅田)を結んでいるが、なぜか日本橋から真っ直ぐに横浜方向へ向かわず、いったん皇居をかすめるようなルートになっている。
江戸時代の東海道もそうなのかな。
気が向いたら調べましょう。
1号線を渡ると内堀エリアなので皇居ぽくなってくる。
もう前方にビルはない。
写真左側はお堀。
東京駅方向を振り返って。
クレーンが立っているところは東京海上の本社ビルを建て替え工事中。
もちろん正確には東京海上日動。正式社名は東京海上日動火災保険。東京海上と日動火災が合併して20年以上も経つのに、なぜか東京海上日動との呼び方に慣れない。普段の生活でほとんど縁がないからかも知れない。
少し皇居方向に進んで和田倉噴水公園。
ここは1961年(昭和36年)に上皇(平成の天皇)の結婚を記念して造られ、また1993年(平成5年)に今上天皇(きんじょう:現在令和の天皇)の結婚で再整備されためでたいウエディング公園。次のリニューアルはいつかな? あまり知られていなくて皇居周辺の穴場スポット的存在。
それはさておき、こういうのを見るとシャッタースピードを速くして静止した水しぶきを撮らずにはいられないのが性分。たぶん病気だと思う(^^ゞ
内堀通りに入ると見てくるのが巽櫓(たつみやぐら)。桜田巽櫓や桜田二重櫓ともいう。江戸城は最大時で28基の櫓(監視塔)に取り囲まれていたが現存するのは3基のみ。奥でわずかに見えているのは桔梗門(ききょうもん)。
内堀通り。
どうして自転車が道路のど真ん中を?と思ったら、
日曜日はクルマを通行止めにしてサイクリング道路にしていると後で知った。
こちらは歩道の様子。
皇居を周回している内堀通りのうちサイクリング道路となっているのはわずか1.5kmほど(前掲の地図参照)。その程度の距離はサイクリングとして意味がないし、またここまで自転車で来られる人だって限られているのだから、その1.5kmを歩行者天国にして欲しい。
東御苑に3つある出入り口のひとつである大手門が見えてきた。土日はとても混雑するので次の平川門まで歩いたほうがいいとも聞いていたものの、人の流れはスムーズなようだ。
大手門到着。
門の手前で少し混み合うのは、
手荷物検査をしているから。
東御苑に来る度に憤慨していつも書いているように思うが、この検査というのが実にいい加減な役所仕事。まず警官1人で対応しているのがこの種の業務としては常識外。逆にいえばそれはきちんと検査をするつもりはなく「やってる感」を出しているだけの証拠。だいたい東御苑から天皇がいるエリアには入れないのだから、ここで手荷物検査をする意味もない。
そんなわけで警官は私のバッグの中に0.5秒ほど目をやっただけで、タオルにくるんであったピストルは見つからずに無事内部に侵入成功(冗談ですよ)。もっとも手荷物しか見ないので、ピストルでもナイフでもポケットに入れておけば問題なく通過できる。
さていよいよ皇居東御苑の散策。
同心番所と百人番所。
これらは江戸城の警備に当たっていた武士の詰め所。初めて見たときは「そんなものが残っているんだ」「百人番所デカっ!」など印象的だったが何度も来て見慣れてしまった。
それよりも瓦屋根越しの新緑の美しさに見とれる。
百人番所とは反対方向、二の丸エリアに向かう。
つい新緑を見上げてしまう。
二の丸エリアは通路に近い側が雑木林的な仕立てで奥に日本庭園。
その一部がツツジ園になってる。
上の写真でも見えているツツジをアップで。
遠景→アップはいつもの撮り方手順。
でもこの季節は新緑とのツーショットでしょ。
雑木林を抜けて写真の左側が日本庭園。
庭園入り口付近のツツジは1分咲き未満。
来るのがまだ早すぎたかと思うより先に、
背後の巨大なケヤキの新緑に見とれてしまった。
日本庭園の池を横目で眺めて、
ツツジがたくさん咲いている場所へ。
それでも5分咲き程度。
もう1週間ほど後に来ればよかった(/o\)
ここのツツジは色違いを混ぜて植えられている。
それとなぜだかわからないが葉と花の高さが同じ。
これは別の場所の写真。
花が葉より高くなっているのがわかるでしょ。
これが一般的なツツジの咲き方。
天気は悪くなかったのに、周りに高い木が多いせいでツツジに日光が充分に当たっていない場所が多い。ツツジは光の反射率が高くて、強い日差しだと肉眼でも写真でも花が輝いて、まるで色が飽和しているように見える。それもツツジを鑑賞する楽しみのひとつ。
できるだけ日の当たっている部分を狙って。
ピンクや紫のツツジで強く日が当たっていて、
かつたくさん咲いているところはなかった。
これは偶然に撮れた前ボケ・後ろボケした葉の緑色に囲まれた写真。
満開でなかったのは残念とはいえ、
去年と一昨年が終了したツツジだったのと較べれば充分に満足。
ーーー続く
2025年5月3日 世田谷区の西沢つつじ園 9割終了
ーーーと、この2年間はツツジ見物に出遅れて空振りが続いた。
今年はその轍を踏むまいと4月19日に皇居東御苑へ。
もっとも皇居東御苑のツツジはそれほどの規模ではない。それでもここを選んだのは今までツツジの季節に訪れたことがなかったのと、ここには私が東京で最も美しいと評価している新緑の木があるから。
スタートは東京駅。
明治の建築遺産と高層ビル群が織りなす美しくも不思議な眺め。
東京駅センターから皇居方向に向かうのが行幸(みゆき)通り。
行幸通りと交差して皇居の東南側のお堀沿いを通っているのが国道1号線。
たまに地方から来た人を皇居に案内して、これは1号線と言うと「こんなところに?」と驚かれる。1号線は東京(日本橋)を起点に大阪(梅田)を結んでいるが、なぜか日本橋から真っ直ぐに横浜方向へ向かわず、いったん皇居をかすめるようなルートになっている。
江戸時代の東海道もそうなのかな。
気が向いたら調べましょう。
1号線を渡ると内堀エリアなので皇居ぽくなってくる。
もう前方にビルはない。
写真左側はお堀。
東京駅方向を振り返って。
クレーンが立っているところは東京海上の本社ビルを建て替え工事中。
もちろん正確には東京海上日動。正式社名は東京海上日動火災保険。東京海上と日動火災が合併して20年以上も経つのに、なぜか東京海上日動との呼び方に慣れない。普段の生活でほとんど縁がないからかも知れない。
少し皇居方向に進んで和田倉噴水公園。
ここは1961年(昭和36年)に上皇(平成の天皇)の結婚を記念して造られ、また1993年(平成5年)に今上天皇(きんじょう:現在令和の天皇)の結婚で再整備されためでたいウエディング公園。次のリニューアルはいつかな? あまり知られていなくて皇居周辺の穴場スポット的存在。
それはさておき、こういうのを見るとシャッタースピードを速くして静止した水しぶきを撮らずにはいられないのが性分。たぶん病気だと思う(^^ゞ
内堀通りに入ると見てくるのが巽櫓(たつみやぐら)。桜田巽櫓や桜田二重櫓ともいう。江戸城は最大時で28基の櫓(監視塔)に取り囲まれていたが現存するのは3基のみ。奥でわずかに見えているのは桔梗門(ききょうもん)。
内堀通り。
どうして自転車が道路のど真ん中を?と思ったら、
日曜日はクルマを通行止めにしてサイクリング道路にしていると後で知った。
こちらは歩道の様子。
皇居を周回している内堀通りのうちサイクリング道路となっているのはわずか1.5kmほど(前掲の地図参照)。その程度の距離はサイクリングとして意味がないし、またここまで自転車で来られる人だって限られているのだから、その1.5kmを歩行者天国にして欲しい。
東御苑に3つある出入り口のひとつである大手門が見えてきた。土日はとても混雑するので次の平川門まで歩いたほうがいいとも聞いていたものの、人の流れはスムーズなようだ。
大手門到着。
門の手前で少し混み合うのは、
手荷物検査をしているから。
東御苑に来る度に憤慨していつも書いているように思うが、この検査というのが実にいい加減な役所仕事。まず警官1人で対応しているのがこの種の業務としては常識外。逆にいえばそれはきちんと検査をするつもりはなく「やってる感」を出しているだけの証拠。だいたい東御苑から天皇がいるエリアには入れないのだから、ここで手荷物検査をする意味もない。
そんなわけで警官は私のバッグの中に0.5秒ほど目をやっただけで、タオルにくるんであったピストルは見つからずに無事内部に侵入成功(冗談ですよ)。もっとも手荷物しか見ないので、ピストルでもナイフでもポケットに入れておけば問題なく通過できる。
さていよいよ皇居東御苑の散策。
同心番所と百人番所。
これらは江戸城の警備に当たっていた武士の詰め所。初めて見たときは「そんなものが残っているんだ」「百人番所デカっ!」など印象的だったが何度も来て見慣れてしまった。
それよりも瓦屋根越しの新緑の美しさに見とれる。
百人番所とは反対方向、二の丸エリアに向かう。
つい新緑を見上げてしまう。
二の丸エリアは通路に近い側が雑木林的な仕立てで奥に日本庭園。
その一部がツツジ園になってる。
上の写真でも見えているツツジをアップで。
遠景→アップはいつもの撮り方手順。
でもこの季節は新緑とのツーショットでしょ。
雑木林を抜けて写真の左側が日本庭園。
庭園入り口付近のツツジは1分咲き未満。
来るのがまだ早すぎたかと思うより先に、
背後の巨大なケヤキの新緑に見とれてしまった。
日本庭園の池を横目で眺めて、
ツツジがたくさん咲いている場所へ。
それでも5分咲き程度。
もう1週間ほど後に来ればよかった(/o\)
ここのツツジは色違いを混ぜて植えられている。
それとなぜだかわからないが葉と花の高さが同じ。
これは別の場所の写真。
花が葉より高くなっているのがわかるでしょ。
これが一般的なツツジの咲き方。
天気は悪くなかったのに、周りに高い木が多いせいでツツジに日光が充分に当たっていない場所が多い。ツツジは光の反射率が高くて、強い日差しだと肉眼でも写真でも花が輝いて、まるで色が飽和しているように見える。それもツツジを鑑賞する楽しみのひとつ。
できるだけ日の当たっている部分を狙って。
ピンクや紫のツツジで強く日が当たっていて、
かつたくさん咲いているところはなかった。
これは偶然に撮れた前ボケ・後ろボケした葉の緑色に囲まれた写真。
満開でなかったのは残念とはいえ、
去年と一昨年が終了したツツジだったのと較べれば充分に満足。
ーーー続く
2026年04月15日
東品川海上公園でチューリップを見るつもりが品川運河祭り その2
屋上庭園に上がる階段で撮った広場の様子。
チューリップを見ようと思ってこの公園にきたら品川運河祭りだったわけだが、調べてもこれがどんなイベントなのかの解説は見つけられなかった。主催は地元のNPOだから地元を盛り上げようとの趣旨だろう。まあ祭りに理屈はいらない。初日の夜には運河祭りの一環として5分程度のミニ花火大会があり、また秋には花火がメインの「秋の運河花火まつり」と年に2回ここで祭りが開かれるようだ。
東品川ポンプ所の階段を上って最初のエリア。
屋上庭園のメインはさらに上。
シャボン玉で遊ぶ子供。
今はいろいろな器具を使って大きなシャボン玉を作れる。あっ「今」じゃなくてかなり前からか。でもそういうシャボン玉作りをしたことがないんだよな。私が子供の頃は石けん水にストローを浸けて吹くだけのシンプルな仕組みだった。
DJブースがあるものの聴衆のノリは今ひとつ。
こんなに人が少ないと恥ずかしさが先にたって踊りにくいよね。
ビルの屋上とは思えない広さ。
航空写真。
3階屋上は(庭園ではない部分を含めて)幅50m、奥行き80mくらい。
ところでビルの上に庭園を造っているのなら、2004年の都市公園法改正で可能になった立体都市公園のはず。横浜のアメリカ山公園のブログを書いたときに、それについて少し調べたがこの公園は検索でヒットしなかった。アメリカ山公園が5520平米、ここの屋上庭園は4664平米と広さはそんなに変わらないのだからアピール不足じゃない?
チューリップは一番奥のエリアを中心に咲いている。
ネモフィラと一緒にーーーというかネモフィラの引き立て役。
♪並んだ並んだ、赤、白、黄色 どの花見てもきれいだな〜♪
清楚なのと派手なの。
濃い赤紫だけれどチューリップの世界でこれは黒と呼ばれる。
こんな雰囲気の小径。
他の花も。
これはエルサレムセージ(たぶん)。
ラナンキュラスを品種改良したラナンキュラス・ラックスがあり、それをさらに改良したのがラナンキュラス・ラックス・ムーサ。ラナンキュラスとラックスはまったく違う花の形だが、ラックスとムーサは見分けられない。とりあえずこれはそのどちらか(おそらく)。
上を見上げるとハナミズキ。
正体不明。
これは八重系のサクラ。
ユニークなブースを見つけた。
ネイル屋さんごっこにお嬢ちゃんたちは夢中。
予約不要なのがなぜか面白く感じる。
ただ秘密基地という単語は近頃ーーー(/o\)
屋上庭園を降りる。
広場では謎のパフォーマンス。
とてもゆっくりとした動き。
屋上庭園から眺めていると、広場でたくさんの人々が手を振り上げている場所があったので何だろうと近づく。
盆ロック!
そんなものがあるとは初めて知った。
その名前の通り、
ロック音楽に合わせて盆踊りを踊っている。
浴衣を着て参加している人も多かったから、それなりの認知度はあるみたい。普通の盆踊りの人、かなり腰が揺れている人もいて、皆さんとても楽しそうである。
またここには写っていないが輪から少し離れた場所で、かなりお年を召した女性が粋に着こなした浴衣姿で踊っていた。それはとても正調的な盆踊りに思えて、そこでふと「音楽のリズムとダンスの動きは関係あるのかないのか?」と考えたり。
それはさておき、このときに演奏されていたのはサディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」。まさか令和の時代になって「タイムマシンにおねがい」をライブで聴けるとは。しかもそれに併せて人々が盆踊りを踊ってなんて夢にも思わなかった光景だゼ。いつかあの世に行ったら加藤和彦に伝えなくては(^^ゞ
さてそろそろ帰らなければとステージを離れかけたときに、サンバダンサーが入場! サンバ独特の羽根飾りがついていないものの雰囲気でサンバチームだとわかる。
このタイミングで入ってきたのなら、ステージでの出番は盆ロックの次の次当たり。
夕方から約束があったのでそこまでは待てない。
後ろ髪を引かれる思いでーーー
ちょっとチューリップを見るだけにやって来たつもりだったのに、品川運河祭りの賑わいにつられて1時間半ほど過ごした。公園内には子供たちがいっぱい。普段よく散歩する公園にも親に連れられた幼稚園くらいまでの子供はたくさんいるが、この日は小学3〜4年生くらいまでの子供同士のグループも多く見かけた。彼・彼女たちも元気いっぱいに動き回っていて、幼稚園児達よりは身体が大きいし、その年代の集団を見慣れていないせいもあり、近くを通りかかるとその熱量に押されそうになる。そしてそこからパワーを分けてもらったような気分にも。
当初の目的だったチューリップのボリュームは事前の想定通り。まあたいしたことはないわけで、それだけならごく普通の土曜日になっていただろう。この日にたまたま東品川海上公園を訪れたなんて、まさに日頃の行いの良さのたまもの(^^ゞ
ところでブログを書きながら気がついたのだけれど、
正調盆踊りを踊っていたあのバアさん。加藤和彦がもし生きていたら今年で79歳なので、彼と同い年くらいだったかも知れない。ちなみに「タイムマシンにおねがい」は1974年の発表。もう52年も昔ぢゃないか(>_<) 時が過ぎるのは早いね。
おしまい
チューリップを見ようと思ってこの公園にきたら品川運河祭りだったわけだが、調べてもこれがどんなイベントなのかの解説は見つけられなかった。主催は地元のNPOだから地元を盛り上げようとの趣旨だろう。まあ祭りに理屈はいらない。初日の夜には運河祭りの一環として5分程度のミニ花火大会があり、また秋には花火がメインの「秋の運河花火まつり」と年に2回ここで祭りが開かれるようだ。
東品川ポンプ所の階段を上って最初のエリア。
屋上庭園のメインはさらに上。
シャボン玉で遊ぶ子供。
今はいろいろな器具を使って大きなシャボン玉を作れる。あっ「今」じゃなくてかなり前からか。でもそういうシャボン玉作りをしたことがないんだよな。私が子供の頃は石けん水にストローを浸けて吹くだけのシンプルな仕組みだった。
DJブースがあるものの聴衆のノリは今ひとつ。
こんなに人が少ないと恥ずかしさが先にたって踊りにくいよね。
ビルの屋上とは思えない広さ。
航空写真。
3階屋上は(庭園ではない部分を含めて)幅50m、奥行き80mくらい。
ところでビルの上に庭園を造っているのなら、2004年の都市公園法改正で可能になった立体都市公園のはず。横浜のアメリカ山公園のブログを書いたときに、それについて少し調べたがこの公園は検索でヒットしなかった。アメリカ山公園が5520平米、ここの屋上庭園は4664平米と広さはそんなに変わらないのだからアピール不足じゃない?
チューリップは一番奥のエリアを中心に咲いている。
ネモフィラと一緒にーーーというかネモフィラの引き立て役。
♪並んだ並んだ、赤、白、黄色 どの花見てもきれいだな〜♪
清楚なのと派手なの。
濃い赤紫だけれどチューリップの世界でこれは黒と呼ばれる。
こんな雰囲気の小径。
他の花も。
これはエルサレムセージ(たぶん)。
ラナンキュラスを品種改良したラナンキュラス・ラックスがあり、それをさらに改良したのがラナンキュラス・ラックス・ムーサ。ラナンキュラスとラックスはまったく違う花の形だが、ラックスとムーサは見分けられない。とりあえずこれはそのどちらか(おそらく)。
上を見上げるとハナミズキ。
正体不明。
これは八重系のサクラ。
ユニークなブースを見つけた。
ネイル屋さんごっこにお嬢ちゃんたちは夢中。
予約不要なのがなぜか面白く感じる。
ただ秘密基地という単語は近頃ーーー(/o\)
屋上庭園を降りる。
広場では謎のパフォーマンス。
とてもゆっくりとした動き。
屋上庭園から眺めていると、広場でたくさんの人々が手を振り上げている場所があったので何だろうと近づく。
盆ロック!
そんなものがあるとは初めて知った。
その名前の通り、
ロック音楽に合わせて盆踊りを踊っている。
浴衣を着て参加している人も多かったから、それなりの認知度はあるみたい。普通の盆踊りの人、かなり腰が揺れている人もいて、皆さんとても楽しそうである。
またここには写っていないが輪から少し離れた場所で、かなりお年を召した女性が粋に着こなした浴衣姿で踊っていた。それはとても正調的な盆踊りに思えて、そこでふと「音楽のリズムとダンスの動きは関係あるのかないのか?」と考えたり。
それはさておき、このときに演奏されていたのはサディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」。まさか令和の時代になって「タイムマシンにおねがい」をライブで聴けるとは。しかもそれに併せて人々が盆踊りを踊ってなんて夢にも思わなかった光景だゼ。いつかあの世に行ったら加藤和彦に伝えなくては(^^ゞ
さてそろそろ帰らなければとステージを離れかけたときに、サンバダンサーが入場! サンバ独特の羽根飾りがついていないものの雰囲気でサンバチームだとわかる。
このタイミングで入ってきたのなら、ステージでの出番は盆ロックの次の次当たり。
夕方から約束があったのでそこまでは待てない。
後ろ髪を引かれる思いでーーー
ちょっとチューリップを見るだけにやって来たつもりだったのに、品川運河祭りの賑わいにつられて1時間半ほど過ごした。公園内には子供たちがいっぱい。普段よく散歩する公園にも親に連れられた幼稚園くらいまでの子供はたくさんいるが、この日は小学3〜4年生くらいまでの子供同士のグループも多く見かけた。彼・彼女たちも元気いっぱいに動き回っていて、幼稚園児達よりは身体が大きいし、その年代の集団を見慣れていないせいもあり、近くを通りかかるとその熱量に押されそうになる。そしてそこからパワーを分けてもらったような気分にも。
当初の目的だったチューリップのボリュームは事前の想定通り。まあたいしたことはないわけで、それだけならごく普通の土曜日になっていただろう。この日にたまたま東品川海上公園を訪れたなんて、まさに日頃の行いの良さのたまもの(^^ゞ
ところでブログを書きながら気がついたのだけれど、
正調盆踊りを踊っていたあのバアさん。加藤和彦がもし生きていたら今年で79歳なので、彼と同い年くらいだったかも知れない。ちなみに「タイムマシンにおねがい」は1974年の発表。もう52年も昔ぢゃないか(>_<) 時が過ぎるのは早いね。
おしまい
2026年04月13日
東品川海上公園でチューリップを見るつもりが品川運河祭り
特に理由はないけれど2026年シーズンもチューリップを植えなかった。だからかどうか4月11日に突然チューリップを見に行こうと思いつく。この日は最高気温27.3度を記録する陽気でそれも影響したのかも知れない。ただし夕方に人と会う約束があったのであまり遠くへは行けないし、できれば散歩圏内にしたい。
それで探し当てたのが東品川海上公園。
公園は池尻大橋から始まって、中目黒や五反田の駅前を流れているサクラで有名な目黒川(地図で水色のライン)が天王洲運河に合流する場所にある。散歩の目的地としてはちょっと遠く、特にチューリップの名所というわけでもない。でも今まで訪れていない適当なところが見つからず帰りは途中から電車でもいいやと。
自宅からテクテク歩いて1時間半弱。
この日は今年初めての短パンにサングラスと夏スタイル。
東品川海上公園が見えてきた。
公園の中に入ると人が多い。
土曜日で天気がいいにしてもちょっとビックリするくらいの人出。
少し奥に進むとテントが見えたので、
何かイベントでもやっているのかと考える。
しかしさらに進むとズラーッと屋台が並んでいて、
何かイベントどころではなくお祭りレベルだと理解する。
公園はいくつかの区画に分かれていて、
上の写真の左側に広がっているのがミッフィー公園。
別の公園ではなく東品川海上公園の一部がそう呼ばれている。
ミッフィーのバッテンは口ではなく口と鼻の両方を表しているらしい。でもウサギの鼻の部分はXではなくてYの形をしているんだけどな。バッテンだとおしゃべり禁止みたいでどうにも違和感がある。
ミッフィーの機関車はテントやシートに取り囲まれていて近づけず。
私もてっぺんに登りたいヨ(^^ゞ
ところでここの名前は海上公園とはいえ、
もちろん海の上にあるわけではなく、さらに海に面してもいない。
写真はミッフィー公園からの眺め。正面に見えている水門が天王洲運河で左から流れ込んでいるのが目黒川。写真手前を右に流れていく部分も天王洲運河なのでここがまさに目黒川の終点。もっとも天王洲運河を流れているのは海水で海といえば海だが。
公園はいくつかの区画に分かれている。
公式な案内図が見当たらずネーミングは適当につけた。
このうち屋上庭園は「東品川海上公園 屋上庭園」の名称だが、東品川ポンプ所の屋上に造られていて分類上は東品川海上公園と別の公園扱いとなっている。東品川ポンプ所は下水施設のようで、同じ品川区の施設でも管轄部署が違うのだろう。面積は東品川海上公園が2.7ヘクタール、屋上庭園が0.4ヘクタール。
飛び地は野球グラウンドが3つある天王洲公園に隣接しいる。天王洲公園は3ヘクタールあり、それも併せてとらえればそこそこ広い公園。
その天王洲(てんのうず)とは、元は江戸時代末期に東京湾を守る砲台として埋め立てられた土地。砲台のある場所=台場で品川に12箇所が計画され(海上埋め立て以外を含めて)6箇所が完成した。ペリーは2度目の来航で品川沖まで来たものの、台場を見てそれ以上は奥に進入せず上陸地点を横浜に変更したといわれている。
現在「お台場」と呼ばれていてフジテレビなどがあるのは第3台場。天王洲は第4台場だったが資金難で完成せず。大正時代に民間に払い下げられ埋め立てを拡大し造船所が建設された。昭和になった頃に造船所はなくなり、その後は倉庫街に。1980年代前半までは港湾地域独特のちょっとヤバそうな雰囲気を感じさせるエリアだった。しかしバブル期のウォーターフロントブームで再開発が始まる。そのときにつけられた愛称が天王洲アイル。駅名にもなっている。公園の飛び地に渡るアイル橋もそこからのネーミング。アイランド(island)が島でアイル(isle)とは小さな島。さらに近年はアートスポットの多い街としても知られる。
さてミッフィー公園を離れて歩いて行くと、また小さな機関車と列車があった。この公園はこういうのが好きなのかと思って眺めていたら、
なんと動き出した!
子供が中に入るだけの遊具と思っていたのでビックリ。
アイル橋を渡って飛び地に向かうのをお見送り。
広場のエリア。
自衛隊のブースもあった。
緑のゾーンに入る。
やや人が少なくなってホッとする。
チューリップ発見。
いろいろな草花と混植されていてきれい。
ここならゆっくりお弁当を食べられそう。
藤棚はまだ香りがしない。
シャクナゲが咲いていた。
いくつもの花が集まり房のようなって咲くのがシャクナゲ。
でもこの公園のは花と花とがあまり重なり合っていない。
緑のゾーンをブラブラ。
もう新緑の季節ですね。
遠くにまたシャクナゲ。
チューリップは主に屋上庭園にあるのは事前に確認済み。
この階段を上っていく。
そして階段に掲示されていたこのポスターで、
ようやくこの日に開催されているのが「しながわ運河まつり」だと知る。
漢字名称を平仮名にするネーミング手法は、文章の中だと読みにくい気がして「しながわ〜」と括弧でくくらなければいけないので嫌い。ブログのタイトルはスペースの関係もあって品川運河祭りにした。
ーーー続く
それで探し当てたのが東品川海上公園。
公園は池尻大橋から始まって、中目黒や五反田の駅前を流れているサクラで有名な目黒川(地図で水色のライン)が天王洲運河に合流する場所にある。散歩の目的地としてはちょっと遠く、特にチューリップの名所というわけでもない。でも今まで訪れていない適当なところが見つからず帰りは途中から電車でもいいやと。
自宅からテクテク歩いて1時間半弱。
この日は今年初めての短パンにサングラスと夏スタイル。
東品川海上公園が見えてきた。
公園の中に入ると人が多い。
土曜日で天気がいいにしてもちょっとビックリするくらいの人出。
少し奥に進むとテントが見えたので、
何かイベントでもやっているのかと考える。
しかしさらに進むとズラーッと屋台が並んでいて、
何かイベントどころではなくお祭りレベルだと理解する。
公園はいくつかの区画に分かれていて、
上の写真の左側に広がっているのがミッフィー公園。
別の公園ではなく東品川海上公園の一部がそう呼ばれている。
ミッフィーのバッテンは口ではなく口と鼻の両方を表しているらしい。でもウサギの鼻の部分はXではなくてYの形をしているんだけどな。バッテンだとおしゃべり禁止みたいでどうにも違和感がある。
ミッフィーの機関車はテントやシートに取り囲まれていて近づけず。
私もてっぺんに登りたいヨ(^^ゞ
ところでここの名前は海上公園とはいえ、
もちろん海の上にあるわけではなく、さらに海に面してもいない。
写真はミッフィー公園からの眺め。正面に見えている水門が天王洲運河で左から流れ込んでいるのが目黒川。写真手前を右に流れていく部分も天王洲運河なのでここがまさに目黒川の終点。もっとも天王洲運河を流れているのは海水で海といえば海だが。
公園はいくつかの区画に分かれている。
公式な案内図が見当たらずネーミングは適当につけた。
このうち屋上庭園は「東品川海上公園 屋上庭園」の名称だが、東品川ポンプ所の屋上に造られていて分類上は東品川海上公園と別の公園扱いとなっている。東品川ポンプ所は下水施設のようで、同じ品川区の施設でも管轄部署が違うのだろう。面積は東品川海上公園が2.7ヘクタール、屋上庭園が0.4ヘクタール。
飛び地は野球グラウンドが3つある天王洲公園に隣接しいる。天王洲公園は3ヘクタールあり、それも併せてとらえればそこそこ広い公園。
その天王洲(てんのうず)とは、元は江戸時代末期に東京湾を守る砲台として埋め立てられた土地。砲台のある場所=台場で品川に12箇所が計画され(海上埋め立て以外を含めて)6箇所が完成した。ペリーは2度目の来航で品川沖まで来たものの、台場を見てそれ以上は奥に進入せず上陸地点を横浜に変更したといわれている。
現在「お台場」と呼ばれていてフジテレビなどがあるのは第3台場。天王洲は第4台場だったが資金難で完成せず。大正時代に民間に払い下げられ埋め立てを拡大し造船所が建設された。昭和になった頃に造船所はなくなり、その後は倉庫街に。1980年代前半までは港湾地域独特のちょっとヤバそうな雰囲気を感じさせるエリアだった。しかしバブル期のウォーターフロントブームで再開発が始まる。そのときにつけられた愛称が天王洲アイル。駅名にもなっている。公園の飛び地に渡るアイル橋もそこからのネーミング。アイランド(island)が島でアイル(isle)とは小さな島。さらに近年はアートスポットの多い街としても知られる。
さてミッフィー公園を離れて歩いて行くと、また小さな機関車と列車があった。この公園はこういうのが好きなのかと思って眺めていたら、
なんと動き出した!
子供が中に入るだけの遊具と思っていたのでビックリ。
アイル橋を渡って飛び地に向かうのをお見送り。
広場のエリア。
自衛隊のブースもあった。
緑のゾーンに入る。
やや人が少なくなってホッとする。
チューリップ発見。
いろいろな草花と混植されていてきれい。
ここならゆっくりお弁当を食べられそう。
藤棚はまだ香りがしない。
シャクナゲが咲いていた。
いくつもの花が集まり房のようなって咲くのがシャクナゲ。
でもこの公園のは花と花とがあまり重なり合っていない。
緑のゾーンをブラブラ。
もう新緑の季節ですね。
遠くにまたシャクナゲ。
チューリップは主に屋上庭園にあるのは事前に確認済み。
この階段を上っていく。
そして階段に掲示されていたこのポスターで、
ようやくこの日に開催されているのが「しながわ運河まつり」だと知る。
漢字名称を平仮名にするネーミング手法は、文章の中だと読みにくい気がして「しながわ〜」と括弧でくくらなければいけないので嫌い。ブログのタイトルはスペースの関係もあって品川運河祭りにした。
ーーー続く
2026年04月11日
青山墓地でサクラ
新宿御苑でサクラを見た後に国立競技場を間近で眺め、
スタジアム通りで青山通りまで降りてきた。
写真は渋谷方向。
少し進んで青山通りと外苑西通りが交差する場所に建っているのがアーガイル青山。
と言っても、東京でもほとんどの人は「何、それ?」な反応になる。
でもここにはかつて青山ベルコモンズ、通称ベルコモが建っていたというと話が通じる。
1976年に開業し長らく青山の顔であったベルコモが閉館したのは2014年。当初はオフィスビルに改装されると報じられていたのに、いつの間にか解体された。そしてすぐには着工されず、アーガイル青山が竣工したのは2020年とかなり経ってから。何か権利関係で揉めていた?
それでも既に6年なのにベルコモと較べると知名度は雲泥の差。ここではアーガイル青山と書いたが、表記は基本的にthe ARGYLE aoyamaでカタカナでもジ アーガイル アオヤマとなる。そういう取っつきにくさも影響してるかも知れない。ところで母音の前のtheをジと発音するのはわかっていても、カタカナ表記でジと書くとヘンな感じ。
さらに渋谷方向に進んで。
この奥に都営住宅の団地があって、それを取り壊して再開発しているのは知っていたものの、青山通り沿いのビルやお店も再開発対象だったんだ。
先に再開発された区画に建ったタワマン。
このまま渋谷まで歩くつもりだったけれど、
ここで突然に気が変わって方針転換。
外苑西通りに戻り南側に進む。
スキーショップジローはまだ健在だった。
酒井法子が夫婦で覚醒剤でパクられた当時の旦那の実家が経営するお店。開業は1973年。バカ息子のせいでブランドは傷ついたとはいえ、日本のスキーウエアをファッションのレベルに高めたショップで、その功績は大きいと評価している。
スキーショップジローがある角を左折して、
青山通りと平行に赤坂方向に進み、
消防署の横を通って、
やって来たのは青山墓地。
ここはサクラの名所でもある。
ずっと昔によく花見をしていたのを思い出し懐かしくなって。
なお標識にも青山墓地とありほとんどの人が青山墓地と言うが、正式名称は青山霊園になる。都心の超一等地に26ヘクタールの広さを誇る東京都所管の公営墓地。
これが青山墓地のメインストリート。
この日(3月28日)、気象庁は東京でのサクラ満開宣言(=8分咲き)を発表。ただし新宿御苑では6.5分咲きくらいで、ここはそれよりまだ開ききっていない印象。
メインストリートはずっと同じ景色なので脇道に入る。
お花見に来ている人はそんなに多くなかった。
昔は墓石の横にシートを敷いて(^^ゞ 宴会しているグループがたくさんいたのに。
また記憶と較べてサクラはかなり減ったように感じる。
こんなキレイなサクラが咲いたら、
あの世から戻ってきたくなるね
ところで昔は広い墓地にぎっしりとお墓が建っていたのに、今回歩いてみるとところどころに更地になっている区画が目立つ。ここは明治初期からある古い墓地だし、いわゆる墓じまいとかの影響だろうか。
メインストリートに戻る。
また横道に入ろうと思ったがどこも似たり寄ったりなので。
メインストリートでサクラ越しに眺める六本木のミッドタウンと六本木ヒルズ。ここから直線距離で700メートルほど。
青山墓地は南まで通り抜けると西麻布につながっている。
ここはその少し手前。
そしてここでデジカメ2つ目のバッテリーが切れた。
最後にキレイなサクラ並木を撮れてよかった。
これも日頃の行いの良さ(^^ゞ
というわけで新宿御苑と青山墓地での花見のハシゴはここで終了。途中に国立競技場や青山界隈を挟み、この後も高樹町〜骨董通り〜渋谷まで歩いて本日の歩数は2万歩を突破!健脚に感謝。
スタジアム通りで青山通りまで降りてきた。
写真は渋谷方向。
少し進んで青山通りと外苑西通りが交差する場所に建っているのがアーガイル青山。
と言っても、東京でもほとんどの人は「何、それ?」な反応になる。
でもここにはかつて青山ベルコモンズ、通称ベルコモが建っていたというと話が通じる。
1976年に開業し長らく青山の顔であったベルコモが閉館したのは2014年。当初はオフィスビルに改装されると報じられていたのに、いつの間にか解体された。そしてすぐには着工されず、アーガイル青山が竣工したのは2020年とかなり経ってから。何か権利関係で揉めていた?
それでも既に6年なのにベルコモと較べると知名度は雲泥の差。ここではアーガイル青山と書いたが、表記は基本的にthe ARGYLE aoyamaでカタカナでもジ アーガイル アオヤマとなる。そういう取っつきにくさも影響してるかも知れない。ところで母音の前のtheをジと発音するのはわかっていても、カタカナ表記でジと書くとヘンな感じ。
さらに渋谷方向に進んで。
この奥に都営住宅の団地があって、それを取り壊して再開発しているのは知っていたものの、青山通り沿いのビルやお店も再開発対象だったんだ。
先に再開発された区画に建ったタワマン。
このまま渋谷まで歩くつもりだったけれど、
ここで突然に気が変わって方針転換。
外苑西通りに戻り南側に進む。
スキーショップジローはまだ健在だった。
酒井法子が夫婦で覚醒剤でパクられた当時の旦那の実家が経営するお店。開業は1973年。バカ息子のせいでブランドは傷ついたとはいえ、日本のスキーウエアをファッションのレベルに高めたショップで、その功績は大きいと評価している。
スキーショップジローがある角を左折して、
青山通りと平行に赤坂方向に進み、
消防署の横を通って、
やって来たのは青山墓地。
ここはサクラの名所でもある。
ずっと昔によく花見をしていたのを思い出し懐かしくなって。
なお標識にも青山墓地とありほとんどの人が青山墓地と言うが、正式名称は青山霊園になる。都心の超一等地に26ヘクタールの広さを誇る東京都所管の公営墓地。
これが青山墓地のメインストリート。
この日(3月28日)、気象庁は東京でのサクラ満開宣言(=8分咲き)を発表。ただし新宿御苑では6.5分咲きくらいで、ここはそれよりまだ開ききっていない印象。
メインストリートはずっと同じ景色なので脇道に入る。
お花見に来ている人はそんなに多くなかった。
昔は墓石の横にシートを敷いて(^^ゞ 宴会しているグループがたくさんいたのに。
また記憶と較べてサクラはかなり減ったように感じる。
こんなキレイなサクラが咲いたら、
あの世から戻ってきたくなるね
ところで昔は広い墓地にぎっしりとお墓が建っていたのに、今回歩いてみるとところどころに更地になっている区画が目立つ。ここは明治初期からある古い墓地だし、いわゆる墓じまいとかの影響だろうか。
メインストリートに戻る。
また横道に入ろうと思ったがどこも似たり寄ったりなので。
メインストリートでサクラ越しに眺める六本木のミッドタウンと六本木ヒルズ。ここから直線距離で700メートルほど。
青山墓地は南まで通り抜けると西麻布につながっている。
ここはその少し手前。
そしてここでデジカメ2つ目のバッテリーが切れた。
最後にキレイなサクラ並木を撮れてよかった。
これも日頃の行いの良さ(^^ゞ
というわけで新宿御苑と青山墓地での花見のハシゴはここで終了。途中に国立競技場や青山界隈を挟み、この後も高樹町〜骨董通り〜渋谷まで歩いて本日の歩数は2万歩を突破!健脚に感謝。
2026年04月10日
スタジアム通り
3月28日に新宿御苑でサクラ巡りをした後はノープランだった。そこでとりあえず国立競技場に向かい建物の周囲を半分ほど歩いて回った(前回の投稿)。その後は青山通りまで下って、外苑前か表参道あるいは渋谷まで散歩して、そこから電車で帰るつもりで歩き始める。
手前のビルはJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREとビル名がなぜか英語。フリガナを振ればジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア。日本スポーツ協会と日本オリンピック委員会の本部。ここが日本スポーツ界の総本山でありスポーツ利権の巣窟でもある(^^ゞ 以前は代々木競技場に隣接するビルに入っていたのを、東京オリンピックに併せてこのビルを2019年に竣工。
ところでビル名のJAPAN SPORT〜は日本スポーツ協会の英文表記がJapan Sport Associationなのによる。各種競技団体の集まりなのにsportSの複数形ではなくsporTと単数形なのは
複数形:具体的な複数の競技
単数形:個別の競技以外に「スポーツという概念・活動全体」を表す
から。英語は何かと難しい。日本スポーツ協会の前身の日本体育協会はJapan Amateur Sports Associationと複数形だったけれど、2018年の改称の際にAmateurを外しただけでなくSportsからSportへ変更している。しかし日本語表記ではスポートではなくスポーツのまま。英語と日本語の関わりはもっと難しい。ついでに書くとネイティブは語尾のTもSもごく弱くしか発音しないので、どちらもほとんど「スポー」にしか聞こえない。
奥のビルは日本青年館。かつては神宮第二球場(2021年に解体)の向かいで現在は国立競技場の敷地内となっているところに建っていた。こちらも国立競技場の建て替え・拡張に伴ってこの場所に移転。竣工は2017年。
日本青年館とはヘンな名前に感じる。ホームページによれば「日本青年館は、ホテル経営の傍ら、全国の青年団の育成と青少年活動を支援すると共に施設の利活用を通じ、スポーツの振興を図ることを目的とする一般財団法人です」となっている。青年団の全国組織としては日本青年団協議会があり(法人ではない任意団体)、その拠点とする日本青年館の設立運営のために分離・法人化したのが日本青年館のようだ(任意団体では不動産の所有はできない)。例えは悪いがヤクザの組とフロント企業のような関係。
それはさておき、これが1979年竣工で2015年まであった旧日本青年館。
現在の青年館はただのビルでも、こちらは「館」ぽい建物。
屋根が低くなっている部分はホール。私が初めて数百人を前に講演をしたのがここ。思い出の場所だったのに無くなってしまいちょっと残念。
なお新しい日本青年館の正式なビル名は「日本青年館・日本スポーツ振興センタービル」となっている。日本スポーツ振興センターとは国立競技場などの施設を所有している文科省の独立行政法人。totoやBIGなどのサッカーくじもここが運営している。日本青年館とビルを共同所有しているのだろう。
国立競技場から青山通りに向かう道路が通称スタジアム通り。
左側の植え込みは、
神宮球場。
正式には明治神宮野球場でオーナーは明治神宮。
ただしその名前で呼ばれることまずないね。
その先に秩父宮ラグビー場。
ゲートの上部に「国立競技場秩父宮ラグビー場」と書かれている。しかしそれが正式名称でも、ここが国立競技場の付属施設でもない。おそらくこれは国立の霞ヶ丘陸上競技場、国立の秩父宮ラグビー場と呼び分けていた頃の名残が建物に刻まれたまま残っていると思われる。文字も「國立」と旧字。
秩父宮ラグビー場は2030年頃に神宮第二球場跡へ移転され、その後にここは取り壊されて新しい神宮球場が建設される。だからこの「国立競技場秩父宮ラグビー場」を見られるのもあと4年ほど。
東京サントリー・サンゴリアスのバナー。
ところで上の写真もサンゴリアスの黄色ばかりで対戦相手の掲示が何もない。入場口を分けているのか? まあラグビーチームはどこも知らないからいいけど。サンゴリアスもこの日に初めて知った。ちなみに現在、新日鉄釜石は日本製鉄釜石シーウェイブス、神戸製鋼はコベルコ神戸スティーラーズになっているらしい。もう浦島太郎状態(^^ゞ
ところでサッカーのJリーグに相当するのが、ラグビーではジャパンラグビー リーグワン(JAPAN RUGBY LEAGUE ONE)で通称がリーグワン。JリーグにはJ1〜J2〜J3とあるのでリーグワンは最上位リーグかと思うと、そうではなくリーグワンの中にデビジョン1〜3と階層化されている。つまりリーグワン1、リーグワン2、リーグワン3。ネーミングセンス的にはちょっと首をかしげたくなる。
さらにラグビーには一般に普及している15人制とは別に13人制のラグビーが存在してルールもかなり違う。イングランド、フランス、オーストラリア、ニュージーランドそれにフィジー、パプアニューギニアなどの南太平洋の国々で人気がある。そしてそれを区別する英語名称が
15人制:ラグビーユニオン Rugby Union
13人制:ラグビーリーグ Rugby League
であり、13人制でリーグの単語が使われている。つまり日本のラグビーは15人制なのに13人制とリーグの文字が被るのだ。なのにどうしてジャパンラグビー リーグワンなんて名称にしたのだろう。次にラグビーに詳しい知人に会ったら尋ねてみよう。
秩父宮ラグビー場を過ぎれば青山通りまで200mほど。
さてこの後はどうするか。
手前のビルはJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREとビル名がなぜか英語。フリガナを振ればジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア。日本スポーツ協会と日本オリンピック委員会の本部。ここが日本スポーツ界の総本山でありスポーツ利権の巣窟でもある(^^ゞ 以前は代々木競技場に隣接するビルに入っていたのを、東京オリンピックに併せてこのビルを2019年に竣工。
ところでビル名のJAPAN SPORT〜は日本スポーツ協会の英文表記がJapan Sport Associationなのによる。各種競技団体の集まりなのにsportSの複数形ではなくsporTと単数形なのは
複数形:具体的な複数の競技
単数形:個別の競技以外に「スポーツという概念・活動全体」を表す
から。英語は何かと難しい。日本スポーツ協会の前身の日本体育協会はJapan Amateur Sports Associationと複数形だったけれど、2018年の改称の際にAmateurを外しただけでなくSportsからSportへ変更している。しかし日本語表記ではスポートではなくスポーツのまま。英語と日本語の関わりはもっと難しい。ついでに書くとネイティブは語尾のTもSもごく弱くしか発音しないので、どちらもほとんど「スポー」にしか聞こえない。
奥のビルは日本青年館。かつては神宮第二球場(2021年に解体)の向かいで現在は国立競技場の敷地内となっているところに建っていた。こちらも国立競技場の建て替え・拡張に伴ってこの場所に移転。竣工は2017年。
日本青年館とはヘンな名前に感じる。ホームページによれば「日本青年館は、ホテル経営の傍ら、全国の青年団の育成と青少年活動を支援すると共に施設の利活用を通じ、スポーツの振興を図ることを目的とする一般財団法人です」となっている。青年団の全国組織としては日本青年団協議会があり(法人ではない任意団体)、その拠点とする日本青年館の設立運営のために分離・法人化したのが日本青年館のようだ(任意団体では不動産の所有はできない)。例えは悪いがヤクザの組とフロント企業のような関係。
それはさておき、これが1979年竣工で2015年まであった旧日本青年館。
現在の青年館はただのビルでも、こちらは「館」ぽい建物。
屋根が低くなっている部分はホール。私が初めて数百人を前に講演をしたのがここ。思い出の場所だったのに無くなってしまいちょっと残念。
なお新しい日本青年館の正式なビル名は「日本青年館・日本スポーツ振興センタービル」となっている。日本スポーツ振興センターとは国立競技場などの施設を所有している文科省の独立行政法人。totoやBIGなどのサッカーくじもここが運営している。日本青年館とビルを共同所有しているのだろう。
国立競技場から青山通りに向かう道路が通称スタジアム通り。
左側の植え込みは、
神宮球場。
正式には明治神宮野球場でオーナーは明治神宮。
ただしその名前で呼ばれることまずないね。
その先に秩父宮ラグビー場。
ゲートの上部に「国立競技場秩父宮ラグビー場」と書かれている。しかしそれが正式名称でも、ここが国立競技場の付属施設でもない。おそらくこれは国立の霞ヶ丘陸上競技場、国立の秩父宮ラグビー場と呼び分けていた頃の名残が建物に刻まれたまま残っていると思われる。文字も「國立」と旧字。
秩父宮ラグビー場は2030年頃に神宮第二球場跡へ移転され、その後にここは取り壊されて新しい神宮球場が建設される。だからこの「国立競技場秩父宮ラグビー場」を見られるのもあと4年ほど。
東京サントリー・サンゴリアスのバナー。
ところで上の写真もサンゴリアスの黄色ばかりで対戦相手の掲示が何もない。入場口を分けているのか? まあラグビーチームはどこも知らないからいいけど。サンゴリアスもこの日に初めて知った。ちなみに現在、新日鉄釜石は日本製鉄釜石シーウェイブス、神戸製鋼はコベルコ神戸スティーラーズになっているらしい。もう浦島太郎状態(^^ゞ
ところでサッカーのJリーグに相当するのが、ラグビーではジャパンラグビー リーグワン(JAPAN RUGBY LEAGUE ONE)で通称がリーグワン。JリーグにはJ1〜J2〜J3とあるのでリーグワンは最上位リーグかと思うと、そうではなくリーグワンの中にデビジョン1〜3と階層化されている。つまりリーグワン1、リーグワン2、リーグワン3。ネーミングセンス的にはちょっと首をかしげたくなる。
さらにラグビーには一般に普及している15人制とは別に13人制のラグビーが存在してルールもかなり違う。イングランド、フランス、オーストラリア、ニュージーランドそれにフィジー、パプアニューギニアなどの南太平洋の国々で人気がある。そしてそれを区別する英語名称が
15人制:ラグビーユニオン Rugby Union
13人制:ラグビーリーグ Rugby League
であり、13人制でリーグの単語が使われている。つまり日本のラグビーは15人制なのに13人制とリーグの文字が被るのだ。なのにどうしてジャパンラグビー リーグワンなんて名称にしたのだろう。次にラグビーに詳しい知人に会ったら尋ねてみよう。
秩父宮ラグビー場を過ぎれば青山通りまで200mほど。
さてこの後はどうするか。
2026年04月09日
国立競技場へ
3月28日に新宿御苑でサクラ巡りを終えて時刻はまだ12時半。そのまま帰るにはもったいない天気。そこでとりあえず国立競技場へ向かう。外苑の周回路からいつも見ていても、その敷地内まで立ち入ったことはなかったので。もちろん競技場の中までは見られないが。
新宿御苑の千駄ヶ谷門を出てJRの線路沿いに進む。左側は御苑の塀(へい)で最後に通った桜園地あたり。電車との距離はこれだけしかなく、苑内の南東側は電車の車輪と線路がきしむ騒音がうるさいのが新宿御苑のマイナス点。
高架下をくぐって、
千駄ヶ谷の駅を過ぎ、東京体育館の横を通り抜ける。
目の前に見えている国立競技場に気を取られて、それらの写真は撮り忘れた。
国立競技場に到着。
新宿御苑の千駄ヶ谷門からは7〜8分の距離。
近づいて外観の特徴である木製のルーバーを見上げる。
見えている部分までの高さは41.5m。屋根のてっぺんだと47.4m。
さらに近づくと今まで見たことのない未知の構造物のようで、軽いトリップ感を味わえる。ただし首をそらして上を見ているせいもある(^^ゞ
最上段のルーバーは屋根で覆われていて雨をしのげるようになってはいても、その機能にルーバーは関係ない。それより下のルーバーは細長い角材が隙間だらけで建物から突き出しているだけ。つまりこれらのルーバーに実用性はなく装飾のためにあるとわかる。(それが悪いといっているわけではない)
ところで建物で雨よけや日差しを遮る構造には軒(のき)と庇(ひさし)がある。画像はhttps://www.daiken.ne.jp/blog/detail.html?id=6316から引用
国立競技場のこのルーバー部分は何と呼ぶのだろうと調べたら、何と「軒庇」なる造語を作っていた!パソコンで変換できないよ。画像は公式ホームページから
さて2015年にまで遡ると、この競技場は既に国際コンペで決まっていたザハ・ハディド(イラク出身でイギリスの建築家)の案をスッタモンダして取り下げ、隈研吾(くま・けんご)の案に切り替えて建設したいきさつがある。
ザハ・ハディド案
隈研吾案
ザハ・ハディド案では建設費用がかさむとの理由だったものの、デザインで見るならザハ・ハディド案が圧倒的に素晴らしい。このようなランドマークとなり得る建築には独創性と、ある種のエグさも必要。そうでないと時代の風雪に耐えられない。エッフェル塔だって建設当時は無用にして醜悪と非難囂々だった。隈研吾の案はまるで無印良品のように無個性で人畜無害なデザイン。ファッションや家具ならそれもありだが、こんな巨大建築には向かないし退屈。
ほら、1964年(昭和39年)の東京オリンピックのときに、
丹下健三が設計した代々木競技場(体育館)だって。
これくらいイキってくれないと。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
スタジアムに沿って歩く。
何かプレートが見えたので、
近寄ってみると、2021年のオリンピックでメダルを獲得した人が刻まれていた。ずっと名前が残っていいね。
それにしてもコロナの影響で1年遅れて2021年にオリンピックを開催したのに、名称が東京2020オリンピックなのは未だに違和感がある。まあニイマルニイマルで覚えやすいけれど。
そのまま壁沿いに進む。
でも通路じゃ景色がつまらないので外に出ましょう。
国立競技場は三菱UFJフィナンシャル・グループが今年からネーミングライツ(命名権)を取得し「MUFGスタジアム」となった。正式名称は「国立競技場」のままで略称が「MUFG国立」と少しややこしい。まだ3ヶ月ちょっとしか経っていないからあまり浸透していないような。またエムユーは発音しにくいね。
そして写真右側に見えているのがドコモゲート。これはネーミングライツとは別のスポンサー契約で、4つある出入り口のひとつにドコモの名前がつけられている。運用開始は4月から。この日は4日前でもう看板は完成。
しかしこう企業名が並ぶと何となく「金まみれ」なイメージになるというかナショナルスタジアムとしての威厳がそがれるというか、そんな気がしなくもない。
ただし、それも仕方ないのだろう。
この日は何も開催されていなかった。そこで国立競技場で何をやっているのか、ちょっと興味を持って公式ホームページで調べてみるとビックリの数字。
2024年12月 スポーツ2件 イベント2件
2026年1月 スポーツ6件
2026年2月 スポーツ3件
2026年3月 スポーツ5件
2026年4月 イベント5件
2026年5月 スポーツ4件
2026年6月 スポーツ2件
2026年7月 イベント1件
確認できたのはこれだけ。6月以降はこれから埋まるのかも知れないが、とりあえず単純計算すると243日間で30件。稼働率は12.5%で月に4日足らずしかない。逆にいえば月のうち25日は休業。これじゃスポンサーなしではやっていけない。
もう少し歩く。
彫刻があった。
全体の広さの割にこういった飾りの要素は少なめに感じた。
最後にまたルーバーを見上げて、
ここで国立競技場とはお別れ。
建築面積6.9ヘクタールの巨大建物の回りを約半周した。
でも散歩はまだ続く。
新宿御苑の千駄ヶ谷門を出てJRの線路沿いに進む。左側は御苑の塀(へい)で最後に通った桜園地あたり。電車との距離はこれだけしかなく、苑内の南東側は電車の車輪と線路がきしむ騒音がうるさいのが新宿御苑のマイナス点。
高架下をくぐって、
千駄ヶ谷の駅を過ぎ、東京体育館の横を通り抜ける。
目の前に見えている国立競技場に気を取られて、それらの写真は撮り忘れた。
国立競技場に到着。
新宿御苑の千駄ヶ谷門からは7〜8分の距離。
近づいて外観の特徴である木製のルーバーを見上げる。
見えている部分までの高さは41.5m。屋根のてっぺんだと47.4m。
さらに近づくと今まで見たことのない未知の構造物のようで、軽いトリップ感を味わえる。ただし首をそらして上を見ているせいもある(^^ゞ
最上段のルーバーは屋根で覆われていて雨をしのげるようになってはいても、その機能にルーバーは関係ない。それより下のルーバーは細長い角材が隙間だらけで建物から突き出しているだけ。つまりこれらのルーバーに実用性はなく装飾のためにあるとわかる。(それが悪いといっているわけではない)
ところで建物で雨よけや日差しを遮る構造には軒(のき)と庇(ひさし)がある。画像はhttps://www.daiken.ne.jp/blog/detail.html?id=6316から引用
国立競技場のこのルーバー部分は何と呼ぶのだろうと調べたら、何と「軒庇」なる造語を作っていた!パソコンで変換できないよ。画像は公式ホームページから
さて2015年にまで遡ると、この競技場は既に国際コンペで決まっていたザハ・ハディド(イラク出身でイギリスの建築家)の案をスッタモンダして取り下げ、隈研吾(くま・けんご)の案に切り替えて建設したいきさつがある。
ザハ・ハディド案
隈研吾案
ザハ・ハディド案では建設費用がかさむとの理由だったものの、デザインで見るならザハ・ハディド案が圧倒的に素晴らしい。このようなランドマークとなり得る建築には独創性と、ある種のエグさも必要。そうでないと時代の風雪に耐えられない。エッフェル塔だって建設当時は無用にして醜悪と非難囂々だった。隈研吾の案はまるで無印良品のように無個性で人畜無害なデザイン。ファッションや家具ならそれもありだが、こんな巨大建築には向かないし退屈。
ほら、1964年(昭和39年)の東京オリンピックのときに、
丹下健三が設計した代々木競技場(体育館)だって。
これくらいイキってくれないと。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
スタジアムに沿って歩く。
何かプレートが見えたので、
近寄ってみると、2021年のオリンピックでメダルを獲得した人が刻まれていた。ずっと名前が残っていいね。
それにしてもコロナの影響で1年遅れて2021年にオリンピックを開催したのに、名称が東京2020オリンピックなのは未だに違和感がある。まあニイマルニイマルで覚えやすいけれど。
そのまま壁沿いに進む。
でも通路じゃ景色がつまらないので外に出ましょう。
国立競技場は三菱UFJフィナンシャル・グループが今年からネーミングライツ(命名権)を取得し「MUFGスタジアム」となった。正式名称は「国立競技場」のままで略称が「MUFG国立」と少しややこしい。まだ3ヶ月ちょっとしか経っていないからあまり浸透していないような。またエムユーは発音しにくいね。
そして写真右側に見えているのがドコモゲート。これはネーミングライツとは別のスポンサー契約で、4つある出入り口のひとつにドコモの名前がつけられている。運用開始は4月から。この日は4日前でもう看板は完成。
しかしこう企業名が並ぶと何となく「金まみれ」なイメージになるというかナショナルスタジアムとしての威厳がそがれるというか、そんな気がしなくもない。
ただし、それも仕方ないのだろう。
この日は何も開催されていなかった。そこで国立競技場で何をやっているのか、ちょっと興味を持って公式ホームページで調べてみるとビックリの数字。
2024年12月 スポーツ2件 イベント2件
2026年1月 スポーツ6件
2026年2月 スポーツ3件
2026年3月 スポーツ5件
2026年4月 イベント5件
2026年5月 スポーツ4件
2026年6月 スポーツ2件
2026年7月 イベント1件
確認できたのはこれだけ。6月以降はこれから埋まるのかも知れないが、とりあえず単純計算すると243日間で30件。稼働率は12.5%で月に4日足らずしかない。逆にいえば月のうち25日は休業。これじゃスポンサーなしではやっていけない。
もう少し歩く。
彫刻があった。
全体の広さの割にこういった飾りの要素は少なめに感じた。
最後にまたルーバーを見上げて、
ここで国立競技場とはお別れ。
建築面積6.9ヘクタールの巨大建物の回りを約半周した。
でも散歩はまだ続く。
2026年04月07日
新宿御苑でサクラ巡り その5
日本庭園の芝生広場。
ここで見逃せないのがこの変わった形のマツ。
ゴツゴツのプラタナスと同様に新宿御苑に来たら見るのを楽しみにしている。
これを夏目漱石が坊ちゃんの中で書いていた「ローマの松」のショート版とずっと思っていたが、昨年に多行松(タギョウショウ)だと知る。黒松を土台に赤松を接木して江戸時代後期に生み出された園芸品種。
(参考写真:これがローマの松で日本とはずいぶん樹形が違う)
幹は赤くても、
地面すれすれのところの樹皮は黒っぽくて黒松の痕跡が見える。
こういう植物は漢字も併記して欲しい。
タギョウショウを眺めながら芝生広場を離れ、
台湾建築の旧御凉亭を横目で見て、
前回に文句をつけた水たまりだらけの砂利道を進む。
本当にどうにかして欲しい。
こ、こ、これは!
まるで犬神家の一族で衝撃的だった、池から突き出ている脚のシーンのようだと思っていたサクラじゃないか。私の中で新宿御苑の隠れ名物だった。この写真は2022年4月の撮影。
こちらは昨年1月の姿。
特に変わりはなかったのに。
この1年ほどの間にバッサリ切り落とされたことになる。もともと上部は伐採されていて樹勢は弱っていたのだろうけれど、さらに老化が進んだのか。最近はサクラ倒木のニュースも多く仕方のないところ。
残ってるのはもうほとんど根元だけ。それでもそこから枝を伸ばして花を咲かせているのには驚く。これってまた大きくなるのか、あるいは最後の延命措置のようなもの? いずれにせよ君の股裂き姿が見られなくなって寂しいよ、犬神クン。
日本庭園と風景式庭園の境界まで戻ってきた。
先ほど歩いてきた中の池。
今度はその南沿いを少し東に戻る。
途中の橋で池を北側に渡って、
池とサクラとドコモタワー。
ドコモタワーの段々になっている部分はアンテナが納められていて、それゆえの形状らしいがエンパイヤステートビルのパクりにしか見えない。それと苑内のどこからでもこいつが視界に入ってきて超ジャマ。
この日、最後のサクラゾーンはその名も桜園地。先にも書いたが新宿御苑はソメイヨシノだけではないので眺めていて楽しい。
左がヤマザクラで、右がオオシマザクラ(大島桜)。
オオシマザクラは純白に近い。ソメイヨシノは桜色をしていなくて嫌いといつもディスるのに、オオシマザクラはなぜか好き。人間とは矛盾した生き物(^^ゞ
本日撮影の最高傑作。
どうよこの色の豊かなこと。
このソメイヨシノは幹の形がアートしていた。
アートが続く。
アートが終わった先に見えた真っ赤な花は、
モモ。
赤が目に眩しい。
奥には白やピンク、ミックスの源平咲きもあった。
いろいろなサクラ巡りをして楽しかった一日。以前に寒桜と八重桜のシーズンにも来ていて、これで新宿御苑のサクラを一通りは見たかな。でもまたときどき来ましょう。
昼過ぎに千駄ヶ谷門から退出。
ここで新発見。新宿御苑ではお花見シーズンピーク時は入場予約制をとっている。今年は3/28(土)・3/29(日)・4/4(土)・4/5(日)。この日は3月28日で、前日に午前10時の予約チケットを買ったのは初回に書いた通り。
しかし出口にこんな看板が。
予約は1時間刻みで、例えば午前10時の予約なら10時〜10時59分までに入場する必要があると思っていたのに、予約時刻以降ならいつ入場してもいい決まりになっている。看板の隣にいた係員にも尋ねて、その解釈で間違いなし。
それを知っていたら、この日は徐々に晴れる予報だったので昼頃に来たのに。でも晴れ待ちの間に温室を見たし、思っていたより早く晴れたし、また新宿御苑を見終えた後に他の場所へ足を伸ばす余裕も生まれて結果オーライ(死語?)。
おわり
ここで見逃せないのがこの変わった形のマツ。
ゴツゴツのプラタナスと同様に新宿御苑に来たら見るのを楽しみにしている。
これを夏目漱石が坊ちゃんの中で書いていた「ローマの松」のショート版とずっと思っていたが、昨年に多行松(タギョウショウ)だと知る。黒松を土台に赤松を接木して江戸時代後期に生み出された園芸品種。
(参考写真:これがローマの松で日本とはずいぶん樹形が違う)
幹は赤くても、
地面すれすれのところの樹皮は黒っぽくて黒松の痕跡が見える。
こういう植物は漢字も併記して欲しい。
タギョウショウを眺めながら芝生広場を離れ、
台湾建築の旧御凉亭を横目で見て、
前回に文句をつけた水たまりだらけの砂利道を進む。
本当にどうにかして欲しい。
こ、こ、これは!
まるで犬神家の一族で衝撃的だった、池から突き出ている脚のシーンのようだと思っていたサクラじゃないか。私の中で新宿御苑の隠れ名物だった。この写真は2022年4月の撮影。
こちらは昨年1月の姿。
特に変わりはなかったのに。
この1年ほどの間にバッサリ切り落とされたことになる。もともと上部は伐採されていて樹勢は弱っていたのだろうけれど、さらに老化が進んだのか。最近はサクラ倒木のニュースも多く仕方のないところ。
残ってるのはもうほとんど根元だけ。それでもそこから枝を伸ばして花を咲かせているのには驚く。これってまた大きくなるのか、あるいは最後の延命措置のようなもの? いずれにせよ君の股裂き姿が見られなくなって寂しいよ、犬神クン。
日本庭園と風景式庭園の境界まで戻ってきた。
先ほど歩いてきた中の池。
今度はその南沿いを少し東に戻る。
途中の橋で池を北側に渡って、
池とサクラとドコモタワー。
ドコモタワーの段々になっている部分はアンテナが納められていて、それゆえの形状らしいがエンパイヤステートビルのパクりにしか見えない。それと苑内のどこからでもこいつが視界に入ってきて超ジャマ。
この日、最後のサクラゾーンはその名も桜園地。先にも書いたが新宿御苑はソメイヨシノだけではないので眺めていて楽しい。
左がヤマザクラで、右がオオシマザクラ(大島桜)。
オオシマザクラは純白に近い。ソメイヨシノは桜色をしていなくて嫌いといつもディスるのに、オオシマザクラはなぜか好き。人間とは矛盾した生き物(^^ゞ
本日撮影の最高傑作。
どうよこの色の豊かなこと。
このソメイヨシノは幹の形がアートしていた。
アートが続く。
アートが終わった先に見えた真っ赤な花は、
モモ。
赤が目に眩しい。
奥には白やピンク、ミックスの源平咲きもあった。
いろいろなサクラ巡りをして楽しかった一日。以前に寒桜と八重桜のシーズンにも来ていて、これで新宿御苑のサクラを一通りは見たかな。でもまたときどき来ましょう。
昼過ぎに千駄ヶ谷門から退出。
ここで新発見。新宿御苑ではお花見シーズンピーク時は入場予約制をとっている。今年は3/28(土)・3/29(日)・4/4(土)・4/5(日)。この日は3月28日で、前日に午前10時の予約チケットを買ったのは初回に書いた通り。
しかし出口にこんな看板が。
予約は1時間刻みで、例えば午前10時の予約なら10時〜10時59分までに入場する必要があると思っていたのに、予約時刻以降ならいつ入場してもいい決まりになっている。看板の隣にいた係員にも尋ねて、その解釈で間違いなし。
それを知っていたら、この日は徐々に晴れる予報だったので昼頃に来たのに。でも晴れ待ちの間に温室を見たし、思っていたより早く晴れたし、また新宿御苑を見終えた後に他の場所へ足を伸ばす余裕も生まれて結果オーライ(死語?)。
おわり
2026年04月05日
新宿御苑でサクラ巡り その4
中の池南側にある子供広場の横を通って、
外周通路に入る。次に向かうのは日本庭園ゾーンでこれだと遠回りになるけれど、ちょっと人混みに疲れたので静かなところを歩こうかと。
そのおかげで、
たくさんのツバキが咲いているのが見られた。
それがサクラとコラボレーション。
このサクラは満開なのに茶色い葉桜だからヤマザクラ。
そのヤマザクラの根元に落ちたツバキの花が重なって!
誰かが並べて置いたのかな。でも木の後ろにも花がたくさん落ちているから、まれに見る偶然に遭遇したと思うとする。
外周通路を途中で右折。
枯れているのに落ちずに元気いっぱいな葉。
見習おう(^^ゞ
日本庭園に到着。
この池は上の池。もっとも名前は上の池〜中の池〜下の池と変わっても、すべてつながっているひとつの細長い池。
このヤナギは毎回撮っているように思う。
今はまだ色がちょっと浅い。
上の池の南側に回り込んで対岸の風景。
ところで日本庭園ゾーンの通路は砂利道。前日まではかなりの降水量でこの日も朝まで雨は残っていて、このように水たまりがいっぱい。どうして舗装しない? アスファルトじゃ雰囲気が壊れるなら石畳でもいいはず。
これはボケの花。
奥に色の濃いのも咲いていたが状態があまりよろしくなく。
きれいな花なのだけれど名前がなあ(^^ゞ 関西弁ではボケ=アホ=カスでバカを意味する。この不名誉な名前の由来はボケの実が瓜(ウリ)に似ており、木になる瓜で木瓜(モッカあるいはモッコウ)だったのがモケ→ボケに転訛したとされる。なおボケの漢字は今も木瓜。ただし瓜に似た実もあるが、ネットで画像検索すると丸い実の方が多い。
名前がボケに変わったのは江戸時代中期が定説。ちなみに関西弁のボケは、「惚ける」から派生した軽いニュアンスの用法は江戸時代後期には見られ、罵り言葉として使われだしたのは昭和になってかららしい。よく関西弁のアホ・ボケはそんなにキツい意味合いはないと言われるものの、言葉そのものより前後の文脈や口調しだい。それは標準語のバカだって同じ。ただカスはちょっと攻撃的。
話を植物のボケに戻すとボケの花は家紋によく用いられ、藤、桐、鷹の羽、片喰(かたばみ)と並んで5大家紋に数えられる。変形バージョンは織田信長も使っていて織田木瓜として有名。もっとも彼は7つもの家紋を用途ごとに使い分けていたが。家紋としての木瓜の読みはモッコウ(家紋の始まりは平安時代後期で、まだボケの名称になっていなかった)。
それほど昔から日本人に馴染みの深い伝統花木のボケなのに、あまり見かけないように思う。これといった名所もほとんどない。低木なので公園や庭園のメインになりづらいせいかも知れない。
いい花なんだけどな。
ツツジのように道路脇の植え込みで見られるようになるとうれしい。
しだれ桜と、
ソメイヨシノが並んで。
その前でツボミをつけているのはハナカイドウ。
ソメイヨシノが終わる頃にサクラに似た花を咲かせる。
ハナカイドウはバラ科リンゴ属で、サクラはバラ科サクラ属と遠い親戚。
ところでハナカイドウって花街道?と連想してしまうが漢字は花海棠。原産は中国で中国語読みのハイタンが日本語読みのカイドウになった。海棠は桜や梅と同じように名称であり、その単語自体に意味はない。花とついているのは実がなる海棠もありハナカイドウとミカイドウで区別するため。ミカイドウの果実は食用にもなるが、どちらかといえばこれも実を観賞する花木でナンテンみたいな存在。実の直径は1〜2cm。
ーーー続く
外周通路に入る。次に向かうのは日本庭園ゾーンでこれだと遠回りになるけれど、ちょっと人混みに疲れたので静かなところを歩こうかと。
そのおかげで、
たくさんのツバキが咲いているのが見られた。
それがサクラとコラボレーション。
このサクラは満開なのに茶色い葉桜だからヤマザクラ。
そのヤマザクラの根元に落ちたツバキの花が重なって!
誰かが並べて置いたのかな。でも木の後ろにも花がたくさん落ちているから、まれに見る偶然に遭遇したと思うとする。
外周通路を途中で右折。
枯れているのに落ちずに元気いっぱいな葉。
見習おう(^^ゞ
日本庭園に到着。
この池は上の池。もっとも名前は上の池〜中の池〜下の池と変わっても、すべてつながっているひとつの細長い池。
このヤナギは毎回撮っているように思う。
今はまだ色がちょっと浅い。
上の池の南側に回り込んで対岸の風景。
ところで日本庭園ゾーンの通路は砂利道。前日まではかなりの降水量でこの日も朝まで雨は残っていて、このように水たまりがいっぱい。どうして舗装しない? アスファルトじゃ雰囲気が壊れるなら石畳でもいいはず。
これはボケの花。
奥に色の濃いのも咲いていたが状態があまりよろしくなく。
きれいな花なのだけれど名前がなあ(^^ゞ 関西弁ではボケ=アホ=カスでバカを意味する。この不名誉な名前の由来はボケの実が瓜(ウリ)に似ており、木になる瓜で木瓜(モッカあるいはモッコウ)だったのがモケ→ボケに転訛したとされる。なおボケの漢字は今も木瓜。ただし瓜に似た実もあるが、ネットで画像検索すると丸い実の方が多い。
名前がボケに変わったのは江戸時代中期が定説。ちなみに関西弁のボケは、「惚ける」から派生した軽いニュアンスの用法は江戸時代後期には見られ、罵り言葉として使われだしたのは昭和になってかららしい。よく関西弁のアホ・ボケはそんなにキツい意味合いはないと言われるものの、言葉そのものより前後の文脈や口調しだい。それは標準語のバカだって同じ。ただカスはちょっと攻撃的。
話を植物のボケに戻すとボケの花は家紋によく用いられ、藤、桐、鷹の羽、片喰(かたばみ)と並んで5大家紋に数えられる。変形バージョンは織田信長も使っていて織田木瓜として有名。もっとも彼は7つもの家紋を用途ごとに使い分けていたが。家紋としての木瓜の読みはモッコウ(家紋の始まりは平安時代後期で、まだボケの名称になっていなかった)。
それほど昔から日本人に馴染みの深い伝統花木のボケなのに、あまり見かけないように思う。これといった名所もほとんどない。低木なので公園や庭園のメインになりづらいせいかも知れない。
いい花なんだけどな。
ツツジのように道路脇の植え込みで見られるようになるとうれしい。
しだれ桜と、
ソメイヨシノが並んで。
その前でツボミをつけているのはハナカイドウ。
ソメイヨシノが終わる頃にサクラに似た花を咲かせる。
ハナカイドウはバラ科リンゴ属で、サクラはバラ科サクラ属と遠い親戚。
ところでハナカイドウって花街道?と連想してしまうが漢字は花海棠。原産は中国で中国語読みのハイタンが日本語読みのカイドウになった。海棠は桜や梅と同じように名称であり、その単語自体に意味はない。花とついているのは実がなる海棠もありハナカイドウとミカイドウで区別するため。ミカイドウの果実は食用にもなるが、どちらかといえばこれも実を観賞する花木でナンテンみたいな存在。実の直径は1〜2cm。
ーーー続く
2026年04月04日
新宿御苑でサクラ巡り その3
プラタナス並木は素敵なのに、センターの植え込みに芸がなさ過ぎて残念な整形式庭園を背にすると風景式庭園が広がっている。整形式と風景式については以前に少しだけ解説したので、ここを興味があれば読んでちょうだい→https://wassho.livedoor.blog/archives/53421344.html
でもこれが風景式庭園だと認識している人はほとんどいないんじゃないかな。一般的な感覚でいえばビッグサイズの芝生広場。庭園とは作り込んだものとの観念があるから風景式庭園は日本人にはピンとこない。
それでもサクラは楽しめてヨシ。
ところで整形式と風景式の間には不自然な更地がある。
実はここに元赤坂にある迎賓館のようなベルサイユ風の宮殿が建築されるはずだったが、日露戦争に戦費を取られて国家財政が苦しくなり中止になったいきさつがある。これが当時の完成予想図。
時間の経過で並べると
迎賓館(当初は東宮御所=皇太子の住まいとして建設)
1899年着工〜1909年竣工(明治32年〜42年)
農業試験場から新宿御苑への改造、含む宮殿建設計画
1901年立案〜1906年竣工(明治34年〜39年)
日露戦争1904〜1905年(明治37年〜38年)
日露戦争の5年前に着工していた東宮御所は予定通り完成させたものの、工期最盛期に戦争が始まった新宿御苑宮殿はそのとばっちりを受けた模様。なお当時の新宿御苑は今と違って皇室のための施設である。もっとも同じ宮殿でも建設の必要性があった東宮御所と違って、新宿御苑のそれは農業試験場から庭園への改造を依頼されたフランス人造園家が、整形式庭園は宮殿がつきもの程度で配置しただけで、その使い道が明確でなかったのも影響したかも知れない。
なお迎賓館は間口が約120mで奥行きが約85m。新宿御苑に計画されていた宮殿は完成予想図から推測すると間口50m奥行き30m程度かな。それでも充分に大きな建物。ここに西洋宮殿風の建物があれば新宿御苑の景色もずいぶんと違ったはず。
参考までに同縮尺での航空写真。
ただし宮殿計画が中止になって120年ほど経つのに、今でも砂利を敷いただけの更地のままなのが解せない。新宿御苑公式ホームページには「宮殿建設は実現しなかったものの、現在もバラ花壇の前には広いスペースが確保され、その先に広がる風景式庭園が臨めます」とまったく意に介していない様子。芝生を張るとかフラワーガーデンにするとか活用方法はあるはず。なんなら宮殿風の建物を建ててもいいと思うゾ。なぜなら前回に書いたように中央部分をもっとまともな幾何学模様に造り直すとして(勝手に決めた)、整形式庭園の美しさを堪能するには上から眺める必要がある。
風景式&背形式庭園を離れて第三目的地の下の池にあるしだれ桜に向かう。新宿御苑が素晴らしいのはいろいろなサクラがあって、ソメイヨシノだけの白一色でないところ。
多くの人が集まって写真を撮っていいるこの大きなサクラは、
地面すれすれにまで枝が伸びている珍しい樹形。
掲示はなかったが品種はたぶんソメイヨシノ。
なぜか苑内の他のソメイヨシノと違ってこれは満開で、
枝も大きく張りだしておりまさに咲き乱れるとの表現がぴったり。
このタイプでは中に入ってみるのがお約束。
サクラ越しのプラタネスを狙うも遠すぎて企画倒れ(^^ゞ
さらに進む。
しだれ桜が見えてきた。
状態は想像通りーーー
ソメイヨシノと一緒に。
5分散りといったところ。
でもたくさん花のあるところを眺めれば充分に楽しめる。
色もキレイでこのしだれ桜はモフモフに咲くタイプ。
青空だけじゃなくて緑も背景にしましょう。
隣のしだれ桜は白っぽい。
この一画はいくつもの種類のしだれ桜が植えられている。
右はヤマザクラ系。
逆光で透けて見える姿は白いフジを思い出した。
いつかここのしだれ桜が満開のときに来られますように。
これが下の池。
その隣に中の池が連なっている。
中の池沿いを日本庭園方向に歩くと、
またしだれ桜があって、
サンシュユもまだ咲いていた。
ウメと同時期と思っていたのに意外と開花期間が長い。
新宿御苑のツツジは私の好きな丸い刈り込み。
その背景にサクラ。
近くのサクラを見上げたり遠くのサクラを眺めたり。
イヌザクラは初めて知った。
樹皮や枝に臭気があるってイヤなサクラだな。
それに花もサクラのイメージとはずいぶんと違う。
中の池の東端、日本庭園との境目付近までやって来た。
ーーー続く
でもこれが風景式庭園だと認識している人はほとんどいないんじゃないかな。一般的な感覚でいえばビッグサイズの芝生広場。庭園とは作り込んだものとの観念があるから風景式庭園は日本人にはピンとこない。
それでもサクラは楽しめてヨシ。
ところで整形式と風景式の間には不自然な更地がある。
実はここに元赤坂にある迎賓館のようなベルサイユ風の宮殿が建築されるはずだったが、日露戦争に戦費を取られて国家財政が苦しくなり中止になったいきさつがある。これが当時の完成予想図。
時間の経過で並べると
迎賓館(当初は東宮御所=皇太子の住まいとして建設)
1899年着工〜1909年竣工(明治32年〜42年)
農業試験場から新宿御苑への改造、含む宮殿建設計画
1901年立案〜1906年竣工(明治34年〜39年)
日露戦争1904〜1905年(明治37年〜38年)
日露戦争の5年前に着工していた東宮御所は予定通り完成させたものの、工期最盛期に戦争が始まった新宿御苑宮殿はそのとばっちりを受けた模様。なお当時の新宿御苑は今と違って皇室のための施設である。もっとも同じ宮殿でも建設の必要性があった東宮御所と違って、新宿御苑のそれは農業試験場から庭園への改造を依頼されたフランス人造園家が、整形式庭園は宮殿がつきもの程度で配置しただけで、その使い道が明確でなかったのも影響したかも知れない。
なお迎賓館は間口が約120mで奥行きが約85m。新宿御苑に計画されていた宮殿は完成予想図から推測すると間口50m奥行き30m程度かな。それでも充分に大きな建物。ここに西洋宮殿風の建物があれば新宿御苑の景色もずいぶんと違ったはず。
参考までに同縮尺での航空写真。
ただし宮殿計画が中止になって120年ほど経つのに、今でも砂利を敷いただけの更地のままなのが解せない。新宿御苑公式ホームページには「宮殿建設は実現しなかったものの、現在もバラ花壇の前には広いスペースが確保され、その先に広がる風景式庭園が臨めます」とまったく意に介していない様子。芝生を張るとかフラワーガーデンにするとか活用方法はあるはず。なんなら宮殿風の建物を建ててもいいと思うゾ。なぜなら前回に書いたように中央部分をもっとまともな幾何学模様に造り直すとして(勝手に決めた)、整形式庭園の美しさを堪能するには上から眺める必要がある。
風景式&背形式庭園を離れて第三目的地の下の池にあるしだれ桜に向かう。新宿御苑が素晴らしいのはいろいろなサクラがあって、ソメイヨシノだけの白一色でないところ。
多くの人が集まって写真を撮っていいるこの大きなサクラは、
地面すれすれにまで枝が伸びている珍しい樹形。
掲示はなかったが品種はたぶんソメイヨシノ。
なぜか苑内の他のソメイヨシノと違ってこれは満開で、
枝も大きく張りだしておりまさに咲き乱れるとの表現がぴったり。
このタイプでは中に入ってみるのがお約束。
サクラ越しのプラタネスを狙うも遠すぎて企画倒れ(^^ゞ
さらに進む。
しだれ桜が見えてきた。
状態は想像通りーーー
ソメイヨシノと一緒に。
5分散りといったところ。
でもたくさん花のあるところを眺めれば充分に楽しめる。
色もキレイでこのしだれ桜はモフモフに咲くタイプ。
青空だけじゃなくて緑も背景にしましょう。
隣のしだれ桜は白っぽい。
この一画はいくつもの種類のしだれ桜が植えられている。
右はヤマザクラ系。
逆光で透けて見える姿は白いフジを思い出した。
いつかここのしだれ桜が満開のときに来られますように。
これが下の池。
その隣に中の池が連なっている。
中の池沿いを日本庭園方向に歩くと、
またしだれ桜があって、
サンシュユもまだ咲いていた。
ウメと同時期と思っていたのに意外と開花期間が長い。
新宿御苑のツツジは私の好きな丸い刈り込み。
その背景にサクラ。
近くのサクラを見上げたり遠くのサクラを眺めたり。
イヌザクラは初めて知った。
樹皮や枝に臭気があるってイヤなサクラだな。
それに花もサクラのイメージとはずいぶんと違う。
中の池の東端、日本庭園との境目付近までやって来た。
ーーー続く
2026年04月02日
新宿御苑でサクラ巡り その2
温室を出た横の通路。
これが東方向で、
こちらが西方向。
天気は西から変わるというが、温室にいた30分ほどでわずかながら晴れ間が増えてきた。もっとも気象庁の定義では全天に占める雲の割合が0〜1割なら快晴、2〜8割で晴れなので天気予報にはこれでも晴れマークがつく。一般的な感覚だと本日は半曇りかな。
向こうに見えるのが大木戸門の出入り口。
新宿門と較べると混雑は少ない。
大木戸門から延びる通路にあるサクラとツバキのコラボレーション。
左側が前回でも紹介したオトメツバキ。
右側が普通の赤いツバキ。
赤いツバキのほうは葉が黄色くなって色が賑やか。
ところでツバキの一般的な開花時期は12月〜4月と長い。でも私はツバキは冬に咲く花との先入観があり、ウメと一緒ならまだしもサクラと並んでいると違和感を感じてしまう。
その原因ははっきりしていて、小学校の頃に雪の上に落ちているツバキの花を見た経験。ツバキは花びらがバラバラになって散るのではなく、まだ花びらがそれほど傷んでいないうちに花の形を保ったまま丸ごとストンと落ちる。そんな花は初めて見たし、白い雪の上に真っ赤な散っていない花の姿が強烈に印象的で「あれ何〜?」「ツバキ」と教えてもらって、それ以来ツバキ=冬となってしまった。
でも何年か前に、ツバキとサザンカは日が強く照っている明るい場所だと、その派手な色と形で何となく南国植物のようにも見えるとわかり、どうにも脳内が困っている(^^ゞ
玉藻池に向かう途中の色違いのサクラの競演。
このピンクは河津桜に似ているものの、
河津桜の時期は終わっているのでヨウコウ(陽光)という品種だと思う。
その近くに植えられていたヨウコウより色の濃い横浜緋桜はまだ幼木。
これはジャノメエリカ。アップを撮り忘れたが紫色をした草ではなく、色が付いている部分は小さな花の集まり。
タカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸・桜)が見えてきた。
しかしその手前にあって無視して素通りできないのがこれ。
幹や枝を白くした盆栽のようだし流木のようでもある。
これも作庭要素?ナゾの配置。
新宿御苑に4つある池のひとつ玉藻池(たまもいけ)。
ここにある灯籠はデカい!
玉藻池は江戸時代に信州の高遠藩・内藤家の屋敷に造られた庭園の一部。そして内藤家の屋敷がどうしてここにあったのかのエピソードが興味深い。
三河岡崎に生まれ徳川家康の小姓(世話係)をしていたのが内藤清成。つまり最古参の家来。江戸時代的な歴史用語でなら譜代の家臣。家康と苦楽を共にし多くの戦を勝ち抜き、家康が秀吉に関東への国替えを命じられた際には鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣も務めた。
それまでの功績が認められ内藤清成は家康より「馬を走らせて回った範囲すべての土地を与える」と破格の褒美をもらう。内藤は「東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保」まで白馬で駆け回ったと伝わる。
その地名が付いた駅を直線で結んだのがこの地図。
皇居=江戸城より大きいやないかい(^^ゞ
そしてこの広い敷地の玉藻池当たりに内藤は屋敷を構えた。
上の地図は現在の駅と駅を単純に結んだだけなので相当に広くなっているが、資料によると内藤清成が拝領したのは20万余坪となっている。仮にマックスで23万坪だとすると、17.8万坪ある新宿御苑より2回り大きい程度で、駅を直線で結んだ面積の半分弱くらいか。江戸城=皇居の宮殿部分と外苑部分の総面積は230ヘクタール=70万坪。まあ家康も江戸城より広い土地は与えないだろうし。
それでも家康が住み江戸城の中心であった江戸城本丸(現在の皇居東御苑:21ヘクタール:6.35万坪)よりはるかに広い敷地。さすが家康は太っ腹とみるか、内藤清成が白馬を走らせたときにそこは何もない荒れ地だったはずで「この欲張り者に土地を整備させよう」と考えていたのか。
ただしどの資料にも内藤清成が20万余坪を拝領と書かれているものの、それについてはちょっと疑いも持っている。ネットで得られる情報はコピペにコピペを重ねたものが多く、最初が間違っている場合もあるから鵜呑みにできないとはいつも書いているところ。20万余坪の出所はネット以前の資料のようだが、それでも同じことがいえる。
そう考える理由は江戸時代の面積単位。
歩(ぶ)=坪
畝(せ)=30坪
反(たん)=300坪
町(ちょう)=3000坪
今と違って面積を示すのは坪だけではなく、坪は面積の中で最も小さな単位。こんな江戸城並みに広い面積を記すのに坪を使うか?との疑問。別に内藤清成が手にした正確な面積や地図を知りたいと思っているわけじゃないにせよ、ちょっと気になる。誰かが町で記されていた資料を現代人にわかりやすいよう坪に換算した可能性はあるが。
それはさておき、
その後、清成より5代後の内藤清枚が現在の伊那市にあった高遠(たかとう)藩の城主となる。徳川家直属の家臣から城持ちの大名への出世。なお一般に高遠藩内藤家と記されるのは城主(=藩主)が保科家〜鳥居家〜内藤家と変遷したのを区別するため。
とはいっても石高はわずかに3万3000石。家康から拝領した土地の広さと身分がまったく釣り合っていない。そこで時代が下るにつれても徐々に土地を幕府に返納していく。
それでも明治になった時点でまだ10万坪ほどを所有しており、それに元は内藤家の土地だった隣接地を合わせた17万8000坪(58.3ヘクタール)で誕生したのが、新宿御苑の前身である近代農業振興を目的とした内藤新宿試験場。内藤の名前は現在も新宿区に町名として残っていて新宿御苑も新宿区内藤町11番地。とはいっても内藤町の8割ほどは新宿御苑が占めている。
さて本日の第一目的であるタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸桜)。このサクラを初めて知ったのは芦花公園。ソメイヨシノの開花宣言が出る頃に満開を迎える。花の咲き方はソメイヨシノに似ているが、ソメイヨシノと違って淡いピンクすなわち桜色なのでお気に入り。
遠目ではそこそこキレイだったとはいえ、この日は既にソメイヨシノの満開宣言日。近づくと見頃過ぎな感はやはり否めない。
隣のソメイヨシノとの色の違いを楽しみましょう。
ところでこのタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸桜)はその名前の通り高遠(現在の長野県伊那市)地方の固有種。分類的には江戸彼岸と近畿豆桜の自然交雑種と見られている。ちなみにソメイヨシノは同じく江戸彼岸と大島桜の人工交配(自然交雑説もあり)。
そして高遠藩の時代からかどうかは不明なものの、なぜか現在でも門外不出の桜とされている。都内で植えられているのは新宿御苑と新宿周辺に数カ所、世田谷区の芦花公園のみ。そのうち御苑を含む新宿区内については、前述した高遠藩が幕府に返還した土地が「内藤新宿」という甲州街道で日本橋から最初の宿場町となり、それが現在の新宿や新宿区につながったので高遠の「門内」であるとの笑える理由。芦花公園については最初は門外不出を理由に当時の高遠町(現在は合併して伊那市)から断られたものを、東京都知事が直談判して移植したとか。
いいサクラなんだから高遠の人たちにはもっと心を広く持って、
このサクラを日本中に広めてもらいたいね。
玉藻池を離れて第二目的であるプラタナスのある整形式庭園に向かう。
これはアオキの新芽とつぼみ(たぶん)。
苑内のそこら中で芽吹いていた。
あと少し。
ツバキや高いところにある夏みかん?を眺めて、
やって来ましたプラタナス並木!
たまりませんな(^^ゞ このゴツゴツ感。
以前に書いた「プラタナスのゴツゴツ問題」について、その後は特に調べていないけれど、おそらくは剪定で枝が短く切られる→でもパワーが有り余ってゴツゴツ変形しているのだと想像している。
プラタナス並木は東西に延びていて先ほどの写真は一番北側。
その隣に中央の木を共有した少し幅の狭い並木がある。
その並木を少し外側で眺める。
もうちょっと離れて。
もっと離れて。
自分でも笑うほど、この時期の葉がなくてゴツゴツむき出しのプラタナスが好き。
プラタナス並木は南側にもあって、その間に挟まれているのが整形式庭園。整形式とはフランス発祥で幾何学模様的に木々を配置するのが特徴。ある意味人工的な造園美。しかし新宿御苑のはごく普通に植え込みがあるだけで、この程度で整形式と呼ぶのは間違いだと思っている。
(参考写真↓ ベルサイユ宮殿のオレンジ庭園)
南側のプラタナス並木。
北側と変わりはないのに毎回必ず4列すべて見て帰る(^^ゞ
お気づきのように中央の植え込みを挟んでプラタナス並木は左右対称。整形式の造園作法には幾何学模様だけでなく左右対称も含まれる。だから正確にはプラタナス並木を含めた全体が新宿御苑の整形式庭園な訳だけれど、このプラタナス並木が素晴らしいがゆえに、中央の植え込み部分をもっと頑張って欲しいと願っている。
最後にまたゴツゴツを眺めましょう。
中央部の周辺にはバラが植えられている。新宿御苑はバラの名所に名を連ねているとはいえ、写真で見える細長い花壇が周りを囲んでいるだけの規模で、なおかつ植え方にも芸がないので今までバラを目当てに見に来たことはない。関係者の皆さん、幾何学的にバラを配置した超エキセントリックな整形式庭園を!
ーーー続く
これが東方向で、
こちらが西方向。
天気は西から変わるというが、温室にいた30分ほどでわずかながら晴れ間が増えてきた。もっとも気象庁の定義では全天に占める雲の割合が0〜1割なら快晴、2〜8割で晴れなので天気予報にはこれでも晴れマークがつく。一般的な感覚だと本日は半曇りかな。
向こうに見えるのが大木戸門の出入り口。
新宿門と較べると混雑は少ない。
大木戸門から延びる通路にあるサクラとツバキのコラボレーション。
左側が前回でも紹介したオトメツバキ。
右側が普通の赤いツバキ。
赤いツバキのほうは葉が黄色くなって色が賑やか。
ところでツバキの一般的な開花時期は12月〜4月と長い。でも私はツバキは冬に咲く花との先入観があり、ウメと一緒ならまだしもサクラと並んでいると違和感を感じてしまう。
その原因ははっきりしていて、小学校の頃に雪の上に落ちているツバキの花を見た経験。ツバキは花びらがバラバラになって散るのではなく、まだ花びらがそれほど傷んでいないうちに花の形を保ったまま丸ごとストンと落ちる。そんな花は初めて見たし、白い雪の上に真っ赤な散っていない花の姿が強烈に印象的で「あれ何〜?」「ツバキ」と教えてもらって、それ以来ツバキ=冬となってしまった。
でも何年か前に、ツバキとサザンカは日が強く照っている明るい場所だと、その派手な色と形で何となく南国植物のようにも見えるとわかり、どうにも脳内が困っている(^^ゞ
玉藻池に向かう途中の色違いのサクラの競演。
このピンクは河津桜に似ているものの、
河津桜の時期は終わっているのでヨウコウ(陽光)という品種だと思う。
その近くに植えられていたヨウコウより色の濃い横浜緋桜はまだ幼木。
これはジャノメエリカ。アップを撮り忘れたが紫色をした草ではなく、色が付いている部分は小さな花の集まり。
タカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸・桜)が見えてきた。
しかしその手前にあって無視して素通りできないのがこれ。
幹や枝を白くした盆栽のようだし流木のようでもある。
これも作庭要素?ナゾの配置。
新宿御苑に4つある池のひとつ玉藻池(たまもいけ)。
ここにある灯籠はデカい!
玉藻池は江戸時代に信州の高遠藩・内藤家の屋敷に造られた庭園の一部。そして内藤家の屋敷がどうしてここにあったのかのエピソードが興味深い。
三河岡崎に生まれ徳川家康の小姓(世話係)をしていたのが内藤清成。つまり最古参の家来。江戸時代的な歴史用語でなら譜代の家臣。家康と苦楽を共にし多くの戦を勝ち抜き、家康が秀吉に関東への国替えを命じられた際には鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣も務めた。
それまでの功績が認められ内藤清成は家康より「馬を走らせて回った範囲すべての土地を与える」と破格の褒美をもらう。内藤は「東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保」まで白馬で駆け回ったと伝わる。
その地名が付いた駅を直線で結んだのがこの地図。
皇居=江戸城より大きいやないかい(^^ゞ
そしてこの広い敷地の玉藻池当たりに内藤は屋敷を構えた。
上の地図は現在の駅と駅を単純に結んだだけなので相当に広くなっているが、資料によると内藤清成が拝領したのは20万余坪となっている。仮にマックスで23万坪だとすると、17.8万坪ある新宿御苑より2回り大きい程度で、駅を直線で結んだ面積の半分弱くらいか。江戸城=皇居の宮殿部分と外苑部分の総面積は230ヘクタール=70万坪。まあ家康も江戸城より広い土地は与えないだろうし。
それでも家康が住み江戸城の中心であった江戸城本丸(現在の皇居東御苑:21ヘクタール:6.35万坪)よりはるかに広い敷地。さすが家康は太っ腹とみるか、内藤清成が白馬を走らせたときにそこは何もない荒れ地だったはずで「この欲張り者に土地を整備させよう」と考えていたのか。
ただしどの資料にも内藤清成が20万余坪を拝領と書かれているものの、それについてはちょっと疑いも持っている。ネットで得られる情報はコピペにコピペを重ねたものが多く、最初が間違っている場合もあるから鵜呑みにできないとはいつも書いているところ。20万余坪の出所はネット以前の資料のようだが、それでも同じことがいえる。
そう考える理由は江戸時代の面積単位。
歩(ぶ)=坪
畝(せ)=30坪
反(たん)=300坪
町(ちょう)=3000坪
今と違って面積を示すのは坪だけではなく、坪は面積の中で最も小さな単位。こんな江戸城並みに広い面積を記すのに坪を使うか?との疑問。別に内藤清成が手にした正確な面積や地図を知りたいと思っているわけじゃないにせよ、ちょっと気になる。誰かが町で記されていた資料を現代人にわかりやすいよう坪に換算した可能性はあるが。
それはさておき、
その後、清成より5代後の内藤清枚が現在の伊那市にあった高遠(たかとう)藩の城主となる。徳川家直属の家臣から城持ちの大名への出世。なお一般に高遠藩内藤家と記されるのは城主(=藩主)が保科家〜鳥居家〜内藤家と変遷したのを区別するため。
とはいっても石高はわずかに3万3000石。家康から拝領した土地の広さと身分がまったく釣り合っていない。そこで時代が下るにつれても徐々に土地を幕府に返納していく。
それでも明治になった時点でまだ10万坪ほどを所有しており、それに元は内藤家の土地だった隣接地を合わせた17万8000坪(58.3ヘクタール)で誕生したのが、新宿御苑の前身である近代農業振興を目的とした内藤新宿試験場。内藤の名前は現在も新宿区に町名として残っていて新宿御苑も新宿区内藤町11番地。とはいっても内藤町の8割ほどは新宿御苑が占めている。
さて本日の第一目的であるタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸桜)。このサクラを初めて知ったのは芦花公園。ソメイヨシノの開花宣言が出る頃に満開を迎える。花の咲き方はソメイヨシノに似ているが、ソメイヨシノと違って淡いピンクすなわち桜色なのでお気に入り。
遠目ではそこそこキレイだったとはいえ、この日は既にソメイヨシノの満開宣言日。近づくと見頃過ぎな感はやはり否めない。
隣のソメイヨシノとの色の違いを楽しみましょう。
ところでこのタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸桜)はその名前の通り高遠(現在の長野県伊那市)地方の固有種。分類的には江戸彼岸と近畿豆桜の自然交雑種と見られている。ちなみにソメイヨシノは同じく江戸彼岸と大島桜の人工交配(自然交雑説もあり)。
そして高遠藩の時代からかどうかは不明なものの、なぜか現在でも門外不出の桜とされている。都内で植えられているのは新宿御苑と新宿周辺に数カ所、世田谷区の芦花公園のみ。そのうち御苑を含む新宿区内については、前述した高遠藩が幕府に返還した土地が「内藤新宿」という甲州街道で日本橋から最初の宿場町となり、それが現在の新宿や新宿区につながったので高遠の「門内」であるとの笑える理由。芦花公園については最初は門外不出を理由に当時の高遠町(現在は合併して伊那市)から断られたものを、東京都知事が直談判して移植したとか。
いいサクラなんだから高遠の人たちにはもっと心を広く持って、
このサクラを日本中に広めてもらいたいね。
玉藻池を離れて第二目的であるプラタナスのある整形式庭園に向かう。
これはアオキの新芽とつぼみ(たぶん)。
苑内のそこら中で芽吹いていた。
あと少し。
ツバキや高いところにある夏みかん?を眺めて、
やって来ましたプラタナス並木!
たまりませんな(^^ゞ このゴツゴツ感。
以前に書いた「プラタナスのゴツゴツ問題」について、その後は特に調べていないけれど、おそらくは剪定で枝が短く切られる→でもパワーが有り余ってゴツゴツ変形しているのだと想像している。
プラタナス並木は東西に延びていて先ほどの写真は一番北側。
その隣に中央の木を共有した少し幅の狭い並木がある。
その並木を少し外側で眺める。
もうちょっと離れて。
もっと離れて。
自分でも笑うほど、この時期の葉がなくてゴツゴツむき出しのプラタナスが好き。
プラタナス並木は南側にもあって、その間に挟まれているのが整形式庭園。整形式とはフランス発祥で幾何学模様的に木々を配置するのが特徴。ある意味人工的な造園美。しかし新宿御苑のはごく普通に植え込みがあるだけで、この程度で整形式と呼ぶのは間違いだと思っている。
(参考写真↓ ベルサイユ宮殿のオレンジ庭園)
南側のプラタナス並木。
北側と変わりはないのに毎回必ず4列すべて見て帰る(^^ゞ
お気づきのように中央の植え込みを挟んでプラタナス並木は左右対称。整形式の造園作法には幾何学模様だけでなく左右対称も含まれる。だから正確にはプラタナス並木を含めた全体が新宿御苑の整形式庭園な訳だけれど、このプラタナス並木が素晴らしいがゆえに、中央の植え込み部分をもっと頑張って欲しいと願っている。
最後にまたゴツゴツを眺めましょう。
中央部の周辺にはバラが植えられている。新宿御苑はバラの名所に名を連ねているとはいえ、写真で見える細長い花壇が周りを囲んでいるだけの規模で、なおかつ植え方にも芸がないので今までバラを目当てに見に来たことはない。関係者の皆さん、幾何学的にバラを配置した超エキセントリックな整形式庭園を!
ーーー続く
2026年03月31日
新宿御苑でサクラ巡り(まずは温室から)
今年のしだれ桜は新宿御苑に見に行こうと割と早くに決めていた。そして公式SNSで3月22日にしだれ桜が見頃になったとの報告。しかし翌日からは曇ったり雨が降ったりが多く。早く行かないと見頃が過ぎるし、またソメイヨシノが満開になって混雑するのにと気を揉むものの天候には勝てない。結局は出遅れて、東京でサクラ(ソメイヨシノ)の満開宣言が出た3月28日に出かけてきた。
ついでに書くと見頃になったの前に、いつ頃に見頃になりそうかの報告が欲しいな。それがあれば事前に都合を立てやすい。23日はそこそこいい天気だったが、そんなに急には出かけられない。
新宿御苑ではお花見シーズンの3/28(土)・3/29(日)・4/4(土)・4/5(日)は入場予約制になっていて、事前にネットで電子チケットを購入しなければならない。そのQRコードをスマホに表示し、駅の改札のようなゲートで読み込ませて通る仕組み。普段は入場口でチケットを買うこともできるが、この4日間は電子チケットのみ。もうスマホがないと花見すらできない時代になっている。
前日に午前10時からのチケットを買って、
10時ちょっと過ぎに新宿御苑の新宿門に到着。
改札ゲートまでの間をジグザグに何度も何度も歩かされる。
ようやく改札ゲート。
この人数ならジグザグの回数は半分程度でよかったはず。
おそらく最混雑時に備えて通路を設定したのだろうが、もっと臨機応変に対応して欲しい。
敷地の北西にある新宿門から東に進む。
本日の第1目的地は玉藻池にあるタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸)、第2目的地が大好物の整形式庭園のプラタナス並木。第3目的地が下の池にあるしだれ桜。それ以外は適当にブラブラしながらとのプラン。タカトオコヒガンザクラも公式SNSでしだれ桜より先に見頃とあったので、もう期待薄なのは承知の上。
最初に迎えてくれたのはオトメツバキ。
ツバキといえば花の中心に黄色い雄しべが集まっているのが特徴で、これがオトメツバキと知らなければバラに見えなくもない。この花の中心部が見えない咲き方が「宝珠(ほうじゅ)咲き」。珠とは丸いものを示す。真珠や数珠(じゅず)など。
花びらが多い咲き方をよく八重咲きというが、あれは花びらが8枚ではなく八重=重なっているとの意味。例えば八重歯。花の場合は花びらがだいたい6枚以上を八重咲きと呼ぶみたい。そしてこのオトメツバキのように枚数の多いのは千重(せんえ)咲きとオーバーな表現になる。千重咲きは花びらが密集するので必然的に宝珠咲き。
オトメツバキは江戸時代にいわゆる品種改良によって生まれた園芸種。可憐な姿だから乙女かと思いきや、これを栽培している藩が他藩への流出を禁止し、それで「お止め椿」になったとの説もある。
通路沿いのソメイヨシノ。
気象庁はこの日に東京で満開宣言を出した。
でもここ新宿御苑ではまだ6.5分咲きくらいな印象。
なお気象庁の満開の定義は靖国神社にある標本木の8割が開花している状態。いわゆる八分咲き。最初に咲いた花から順に散っていくので花芽のすべてが開花している10分咲きはあり得ない。
このソメイヨシノの下は以前に見に来たスイセン。
ここにあったのはたぶん花の中心部まで白いペーパーホワイトというスイセン。スイセンの花は終わって今はニラにしか見えない。なおかつその下にたくさん咲いている小さな白い花がハナニラとややこしい状態である。
スイセンはニラと似ており間違えて食べて中毒を起こしたニュースが毎年報じられる。また野菜のニラの花(花ニラ)は食べられるけれど、このハナニラも有毒で要注意植物。名前の由来は葉を傷つけるとニラのような匂いがするのでハナニラ。ここでは傷ついていないのでこのあたり一帯がニラ臭いなんてことはもちろんない。
ソメイヨシノと通路を挟んだ反対側にもハナニラが咲いていた。
中央のピンクがかったサクラはジュウガツザクラ。
旧暦の10月(現在の11月)にも花を開く二季咲き。
以前に新宿御苑は品種の表示が不足していると書いた。
それが一気にQRコードで音声案内付きの表示をするようだ。
しかし、この花見シーズンに準備中とは。
そういうとこやぞ新宿御苑。
やはりサクラはほんのり桜色をしていないと。
こちらは隣のサクラで、こんなに白くちゃつまらないと、
いつものようにソメイヨシノをディスる(^^ゞ
少し先にあった桜色のサクラ。
実に美しい。
ただし品種名の表示はなかった。
そういうとこやぞ新宿御苑(2回目)。
芝生広場を右手に見ながら、
左手側に見えてきたのは温室。
上の写真の左側に芝生が少し盛り上がっている部分がある。高いところは登る、突き出しているところは先端まで行くのが子供の頃から変わらない行動パターン。
温室での展示とは別に植物を育てているようなバックヤードが見えた。
温室入り口近くにあった説明看板。
大正時代のものを「遺構」で「発掘」とは表現が大げさ過ぎないかい?
温室は少し高台にあり周りの景色がよく見える。
そしてここで予定にはなかった温室を見学すると決定。その理由は本日は午後になると晴れ間が広がるとの予報で、写真のようにこの時点ではまだ雲が多かった。つまり晴れるまでの時間稼ぎ。青空が背景でないと肉眼でも写真でも花の美しさは半減する。もちろん温室の中の展示にも興味があった。入館は今回が初めて。
温室の入り口。
別途料金は不要。
中に入って緊急事態発生!
ものすごい湿度でカメラのレンズが曇る。
レンズを拭いても拭いても瞬時にまた曇る(/o\)
もちろん曇っているのはレンズだけで肉眼では別にモヤが掛かっているわけではない。
画像ソフトの「かすみ除去」のコマンドを実行してみたら曇りが取れた。
以降の写真は「かすみ除去」済み。
ジャングルっぽい雰囲気は大好き。
変わった花を期待していたのに花はあまり多くなかった。
通路の最後は行き止まりで、
引き返してここが分岐点。
この写真は「かすみ除去」なし。
レンズはこれだけ曇っている。
それが不思議なことにこの扉をくぐると、
レンズの曇りが取れた。
この写真も「かすみ除去」をしていないのにクリア。
いくつかにゾーニングされている別の場所へと移動したとはいえ、天井部分は共通でつながっているし、体感的に湿度が下がったとも思えないのに不思議。
クリアなレンズで花もきれいに撮れてよし。
新宿御苑のホームページにはなぜか温室の案内マップが掲載されていない。そういうとこやぞ新宿御苑(3回目)。これはネットで見つけた2012年のこの温室竣工当時の平面図。おそらく大きくは変わっていないだろう。画像はhttps://xtech.nikkei.com/kn/article/building/news/20121127/593210/から引用
レンズが曇ったのはピンクで塗ったエリア。
現在位置は青い星印。
でも少し先でまた曇ってきた。
温室の中より眺めるサクラ。
これは「かすみ除去」あり。
サボテンがあるからここは乾燥地コーナー。
でも曇ったので「かすみ除去」あり。
メキシコ原産のセドゥム・モルガニアヌム。
長くて覚えられないが、和名は「玉つづり」とわかりやすい。
絶滅危惧種のキンシャチ。
でもお店ではたくさん売っている。
これは以前に育てていた緋牡丹の台木の三角柱というサボテンに似ている。サイズはまったく違うが。
サボテンコーナーを離れてしばらく進むと、またレンズはまったく曇らなくなった。
アロカシア・グリーンベルベット。葉がベルベットの質感らしいが触ってくるのを忘れた。それよりもこんな模様をした宇宙怪獣がいたような気がして、それを思い出せなくてずっと気になっている(^^ゞ
ランのコーナー。
水もしたたるいいお花。
1度見たら忘れられない形のアンスリウム。
赤いのは花ではなく葉が変化した苞(ほう)。
黄色い突起が肉穂花序(にくすい かじょ)と呼ばれ、その表面にあるツブツブが花。
池にはスイレンが3つだけ。
温室とはいえまだ季節じゃないからか。
唐突にレモンが出現。
インド東北部と書かれているのはヒマラヤ山脈のこと。
意外にもヒマラヤの麓(ふもと)は亜熱帯気候。ネパールは冬でも20度はある。
このレモンは手のひらを広げたくらいのビッグサイズ。
でも、できれば実になる前の花を見たかったな。
最近は園芸店でよく見かける人気のビカクシダ。麋角(びかく)とはヘラジカの角。コウモリランとも呼ばれるがランとは関係なくシダ植物。
ざっと回って30分弱。
本当はもう1周したかったのだけれど暑くて断念。
そこそこ汗ばんだ。
でも楽しかったので、これから新宿御苑に来たら毎回訪れましょう。
ーーー続く
ついでに書くと見頃になったの前に、いつ頃に見頃になりそうかの報告が欲しいな。それがあれば事前に都合を立てやすい。23日はそこそこいい天気だったが、そんなに急には出かけられない。
新宿御苑ではお花見シーズンの3/28(土)・3/29(日)・4/4(土)・4/5(日)は入場予約制になっていて、事前にネットで電子チケットを購入しなければならない。そのQRコードをスマホに表示し、駅の改札のようなゲートで読み込ませて通る仕組み。普段は入場口でチケットを買うこともできるが、この4日間は電子チケットのみ。もうスマホがないと花見すらできない時代になっている。
前日に午前10時からのチケットを買って、
10時ちょっと過ぎに新宿御苑の新宿門に到着。
改札ゲートまでの間をジグザグに何度も何度も歩かされる。
ようやく改札ゲート。
この人数ならジグザグの回数は半分程度でよかったはず。
おそらく最混雑時に備えて通路を設定したのだろうが、もっと臨機応変に対応して欲しい。
敷地の北西にある新宿門から東に進む。
本日の第1目的地は玉藻池にあるタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸)、第2目的地が大好物の整形式庭園のプラタナス並木。第3目的地が下の池にあるしだれ桜。それ以外は適当にブラブラしながらとのプラン。タカトオコヒガンザクラも公式SNSでしだれ桜より先に見頃とあったので、もう期待薄なのは承知の上。
最初に迎えてくれたのはオトメツバキ。
ツバキといえば花の中心に黄色い雄しべが集まっているのが特徴で、これがオトメツバキと知らなければバラに見えなくもない。この花の中心部が見えない咲き方が「宝珠(ほうじゅ)咲き」。珠とは丸いものを示す。真珠や数珠(じゅず)など。
花びらが多い咲き方をよく八重咲きというが、あれは花びらが8枚ではなく八重=重なっているとの意味。例えば八重歯。花の場合は花びらがだいたい6枚以上を八重咲きと呼ぶみたい。そしてこのオトメツバキのように枚数の多いのは千重(せんえ)咲きとオーバーな表現になる。千重咲きは花びらが密集するので必然的に宝珠咲き。
オトメツバキは江戸時代にいわゆる品種改良によって生まれた園芸種。可憐な姿だから乙女かと思いきや、これを栽培している藩が他藩への流出を禁止し、それで「お止め椿」になったとの説もある。
通路沿いのソメイヨシノ。
気象庁はこの日に東京で満開宣言を出した。
でもここ新宿御苑ではまだ6.5分咲きくらいな印象。
なお気象庁の満開の定義は靖国神社にある標本木の8割が開花している状態。いわゆる八分咲き。最初に咲いた花から順に散っていくので花芽のすべてが開花している10分咲きはあり得ない。
このソメイヨシノの下は以前に見に来たスイセン。
ここにあったのはたぶん花の中心部まで白いペーパーホワイトというスイセン。スイセンの花は終わって今はニラにしか見えない。なおかつその下にたくさん咲いている小さな白い花がハナニラとややこしい状態である。
スイセンはニラと似ており間違えて食べて中毒を起こしたニュースが毎年報じられる。また野菜のニラの花(花ニラ)は食べられるけれど、このハナニラも有毒で要注意植物。名前の由来は葉を傷つけるとニラのような匂いがするのでハナニラ。ここでは傷ついていないのでこのあたり一帯がニラ臭いなんてことはもちろんない。
ソメイヨシノと通路を挟んだ反対側にもハナニラが咲いていた。
中央のピンクがかったサクラはジュウガツザクラ。
旧暦の10月(現在の11月)にも花を開く二季咲き。
以前に新宿御苑は品種の表示が不足していると書いた。
それが一気にQRコードで音声案内付きの表示をするようだ。
しかし、この花見シーズンに準備中とは。
そういうとこやぞ新宿御苑。
やはりサクラはほんのり桜色をしていないと。
こちらは隣のサクラで、こんなに白くちゃつまらないと、
いつものようにソメイヨシノをディスる(^^ゞ
少し先にあった桜色のサクラ。
実に美しい。
ただし品種名の表示はなかった。
そういうとこやぞ新宿御苑(2回目)。
芝生広場を右手に見ながら、
左手側に見えてきたのは温室。
上の写真の左側に芝生が少し盛り上がっている部分がある。高いところは登る、突き出しているところは先端まで行くのが子供の頃から変わらない行動パターン。
温室での展示とは別に植物を育てているようなバックヤードが見えた。
温室入り口近くにあった説明看板。
大正時代のものを「遺構」で「発掘」とは表現が大げさ過ぎないかい?
温室は少し高台にあり周りの景色がよく見える。
そしてここで予定にはなかった温室を見学すると決定。その理由は本日は午後になると晴れ間が広がるとの予報で、写真のようにこの時点ではまだ雲が多かった。つまり晴れるまでの時間稼ぎ。青空が背景でないと肉眼でも写真でも花の美しさは半減する。もちろん温室の中の展示にも興味があった。入館は今回が初めて。
温室の入り口。
別途料金は不要。
中に入って緊急事態発生!
ものすごい湿度でカメラのレンズが曇る。
レンズを拭いても拭いても瞬時にまた曇る(/o\)
もちろん曇っているのはレンズだけで肉眼では別にモヤが掛かっているわけではない。
画像ソフトの「かすみ除去」のコマンドを実行してみたら曇りが取れた。
以降の写真は「かすみ除去」済み。
ジャングルっぽい雰囲気は大好き。
変わった花を期待していたのに花はあまり多くなかった。
通路の最後は行き止まりで、
引き返してここが分岐点。
この写真は「かすみ除去」なし。
レンズはこれだけ曇っている。
それが不思議なことにこの扉をくぐると、
レンズの曇りが取れた。
この写真も「かすみ除去」をしていないのにクリア。
いくつかにゾーニングされている別の場所へと移動したとはいえ、天井部分は共通でつながっているし、体感的に湿度が下がったとも思えないのに不思議。
クリアなレンズで花もきれいに撮れてよし。
新宿御苑のホームページにはなぜか温室の案内マップが掲載されていない。そういうとこやぞ新宿御苑(3回目)。これはネットで見つけた2012年のこの温室竣工当時の平面図。おそらく大きくは変わっていないだろう。画像はhttps://xtech.nikkei.com/kn/article/building/news/20121127/593210/から引用
レンズが曇ったのはピンクで塗ったエリア。
現在位置は青い星印。
でも少し先でまた曇ってきた。
温室の中より眺めるサクラ。
これは「かすみ除去」あり。
サボテンがあるからここは乾燥地コーナー。
でも曇ったので「かすみ除去」あり。
メキシコ原産のセドゥム・モルガニアヌム。
長くて覚えられないが、和名は「玉つづり」とわかりやすい。
絶滅危惧種のキンシャチ。
でもお店ではたくさん売っている。
これは以前に育てていた緋牡丹の台木の三角柱というサボテンに似ている。サイズはまったく違うが。
サボテンコーナーを離れてしばらく進むと、またレンズはまったく曇らなくなった。
アロカシア・グリーンベルベット。葉がベルベットの質感らしいが触ってくるのを忘れた。それよりもこんな模様をした宇宙怪獣がいたような気がして、それを思い出せなくてずっと気になっている(^^ゞ
ランのコーナー。
水もしたたるいいお花。
1度見たら忘れられない形のアンスリウム。
赤いのは花ではなく葉が変化した苞(ほう)。
黄色い突起が肉穂花序(にくすい かじょ)と呼ばれ、その表面にあるツブツブが花。
池にはスイレンが3つだけ。
温室とはいえまだ季節じゃないからか。
唐突にレモンが出現。
インド東北部と書かれているのはヒマラヤ山脈のこと。
意外にもヒマラヤの麓(ふもと)は亜熱帯気候。ネパールは冬でも20度はある。
このレモンは手のひらを広げたくらいのビッグサイズ。
でも、できれば実になる前の花を見たかったな。
最近は園芸店でよく見かける人気のビカクシダ。麋角(びかく)とはヘラジカの角。コウモリランとも呼ばれるがランとは関係なくシダ植物。
ざっと回って30分弱。
本当はもう1周したかったのだけれど暑くて断念。
そこそこ汗ばんだ。
でも楽しかったので、これから新宿御苑に来たら毎回訪れましょう。
ーーー続く
2026年03月27日
テレビのリモコンにワンタッチの消画ボタンを!
昨年末からテレビのリモコンが不調になり、電源のオンオフにとても時間が掛かるようになった話を前2回に渡って書いた。
普段はテレビを見ていて、しばらく別のことをするときには当然ながらテレビを消す。しかしリモコンが故障して電源ボタンを長く押し続けていないと電源のオンオフができなかったので、それが面倒でテレビをつけっぱなしにしている場合も多かった。
見もしないのにテレビをつけている=無駄に電力を消費しているである。
そんな体験で思いついたのが今回のテーマ。
テレビは見るものラジオは聴くものであるが、
テレビ番組には2種類あると思う。
(1)映像が重要、あるいは映像がないと楽しめない
(2)映像はそれほど重要ではない、音声だけでだいたいの用は足りる
前者では当然ながらテレビの前に座って番組を見る必要がある。しかし後者なら画面を消しても構わないのではないかとの発想。
私は後者の番組ではパソコンやスマホを操作していることが多い。またインターネットが普及して少し状況は変わったものの、以前は家にいて寝ている時間以外は、ずっとテレビがつけっぱなしになっている家庭も多かった。その場合、画面は目に入っていてもしっかりと番組を見ているわけではない。何となくテレビがついていないと寂しいからそうしているだけ。今でも一定数はいるだろう。
現在の主流である液晶テレビの場合、消費電力の50〜80%が画面の表示に使われている。ついでに書くとブラウン管は70〜90%で、液晶とブラウン管では液晶のほうが省エネ。しかし消費電力は画面サイズに比例し、液晶になってテレビが大型化したのでブラウン管時代より消費電力は大きくなった。また昔は一家に一台だったテレビが複数台所有になったのもテレビによる電力消費を押し上げている。ただしネットの普及に従ってテレビの視聴時間は2000年と較べると現在は約半分に低下していると、電力消費に占めるテレビの割合変化はけっこう複雑で興味深い。
それはさておき、
とりあえず画面を消せば、ざっくり電気代は半分になる。
そこでテレビメーカーにお願いしたいのは、
テレビのリモコンに
消音ボタンと同じように
ワンタッチで画面を消せる消画ボタン
の配置である。
現在、そのような機能を持ったリモコンが付属しているテレビはない。テレビによっては消画機能を備えている機種も少数あるとはいえ、画面を消すには、まず設定画面を呼び出しいくつかの階層をたどる必要がある。つまり日常的に画面のオンオフを切り替えられる仕組みになっていない。
それに対して消音ボタンはかなり昔からある。おそらくはテレビにリモコンが付属しだした1980年代前半にはあったと記憶する。テレビにリモコンのない時代があったのかと若い人はビックリするだろうが(^^ゞ おそらくはテレビを見ているときに電話が掛かってきたケースを想定して開発された親切機能。消音ボタンがあって消画ボタンはないのは、テレビの価値は映像>音声との認識があるせいかも知れない。
ところで消画ボタンを押せばどれくらい電気代の節約になるのか。
石油会社の出光が運営するidemitsuでんきのホームページで昨年5月に公開された記事によると(https://denki.idemitsu.com/media/column/lifestyle018/)
50インチ4K液晶テレビの消費電力は155Wで1時間当たりの電気代は4.8円とある。それに総務省の2014年版情報通信白書の一般家庭におけるテレビの視聴時間「平日2.8時間、休日3.75時間」と、それより長い「平日5時間、休日10時間」を掛け合わせて年間の電気代は
平日2.8時間、休日3.75時間:5454円
平日5時間、休日10時間:1万1628円
と算出している。
家にあるレグザ720X(49インチ4K液晶)の消費電力は236Wなので、前提となる数値に少し疑問はあるが、とりあえず後者の年間1万1628円を基準に、番組の1/3を消画してその場合に電力消費が50%になると計算すると
1万1628円 × 1/3 × 1/2 =1918円
年額で2000円足らずではたいした節約にならないものの、それでも冷蔵庫を素早く閉めたり廊下の電気をこまめに消すよりは効果があるはず。ついでに1918円を日本の世帯数5482万戸に掛け合わせると1050億円ほどになる。
まあ実際の金銭面よりも「しっかり見てはいない、でもテレビを消しづらい」ときに無駄に電力消費をしていると思うと精神上よろしくないから、テレビにワンタッチの消画機能があればと思う。新たに機種に消画モード・消画ボタンを設定するコストはほとんどゼロに近いはずで、ここはテレビメーカーの皆さん、ひとつよろしくm(_ _)m
普段はテレビを見ていて、しばらく別のことをするときには当然ながらテレビを消す。しかしリモコンが故障して電源ボタンを長く押し続けていないと電源のオンオフができなかったので、それが面倒でテレビをつけっぱなしにしている場合も多かった。
見もしないのにテレビをつけている=無駄に電力を消費しているである。
そんな体験で思いついたのが今回のテーマ。
テレビは見るものラジオは聴くものであるが、
テレビ番組には2種類あると思う。
(1)映像が重要、あるいは映像がないと楽しめない
(2)映像はそれほど重要ではない、音声だけでだいたいの用は足りる
前者では当然ながらテレビの前に座って番組を見る必要がある。しかし後者なら画面を消しても構わないのではないかとの発想。
私は後者の番組ではパソコンやスマホを操作していることが多い。またインターネットが普及して少し状況は変わったものの、以前は家にいて寝ている時間以外は、ずっとテレビがつけっぱなしになっている家庭も多かった。その場合、画面は目に入っていてもしっかりと番組を見ているわけではない。何となくテレビがついていないと寂しいからそうしているだけ。今でも一定数はいるだろう。
現在の主流である液晶テレビの場合、消費電力の50〜80%が画面の表示に使われている。ついでに書くとブラウン管は70〜90%で、液晶とブラウン管では液晶のほうが省エネ。しかし消費電力は画面サイズに比例し、液晶になってテレビが大型化したのでブラウン管時代より消費電力は大きくなった。また昔は一家に一台だったテレビが複数台所有になったのもテレビによる電力消費を押し上げている。ただしネットの普及に従ってテレビの視聴時間は2000年と較べると現在は約半分に低下していると、電力消費に占めるテレビの割合変化はけっこう複雑で興味深い。
それはさておき、
とりあえず画面を消せば、ざっくり電気代は半分になる。
そこでテレビメーカーにお願いしたいのは、
テレビのリモコンに
消音ボタンと同じように
ワンタッチで画面を消せる消画ボタン
の配置である。
現在、そのような機能を持ったリモコンが付属しているテレビはない。テレビによっては消画機能を備えている機種も少数あるとはいえ、画面を消すには、まず設定画面を呼び出しいくつかの階層をたどる必要がある。つまり日常的に画面のオンオフを切り替えられる仕組みになっていない。
それに対して消音ボタンはかなり昔からある。おそらくはテレビにリモコンが付属しだした1980年代前半にはあったと記憶する。テレビにリモコンのない時代があったのかと若い人はビックリするだろうが(^^ゞ おそらくはテレビを見ているときに電話が掛かってきたケースを想定して開発された親切機能。消音ボタンがあって消画ボタンはないのは、テレビの価値は映像>音声との認識があるせいかも知れない。
ところで消画ボタンを押せばどれくらい電気代の節約になるのか。
石油会社の出光が運営するidemitsuでんきのホームページで昨年5月に公開された記事によると(https://denki.idemitsu.com/media/column/lifestyle018/)
50インチ4K液晶テレビの消費電力は155Wで1時間当たりの電気代は4.8円とある。それに総務省の2014年版情報通信白書の一般家庭におけるテレビの視聴時間「平日2.8時間、休日3.75時間」と、それより長い「平日5時間、休日10時間」を掛け合わせて年間の電気代は
平日2.8時間、休日3.75時間:5454円
平日5時間、休日10時間:1万1628円
と算出している。
家にあるレグザ720X(49インチ4K液晶)の消費電力は236Wなので、前提となる数値に少し疑問はあるが、とりあえず後者の年間1万1628円を基準に、番組の1/3を消画してその場合に電力消費が50%になると計算すると
1万1628円 × 1/3 × 1/2 =1918円
年額で2000円足らずではたいした節約にならないものの、それでも冷蔵庫を素早く閉めたり廊下の電気をこまめに消すよりは効果があるはず。ついでに1918円を日本の世帯数5482万戸に掛け合わせると1050億円ほどになる。
まあ実際の金銭面よりも「しっかり見てはいない、でもテレビを消しづらい」ときに無駄に電力消費をしていると思うと精神上よろしくないから、テレビにワンタッチの消画機能があればと思う。新たに機種に消画モード・消画ボタンを設定するコストはほとんどゼロに近いはずで、ここはテレビメーカーの皆さん、ひとつよろしくm(_ _)m
(画像は合成)
2026年03月25日
初めてリモコンを買った その2
褒めてばかりじゃつまらないので、
そろそろケチを付けますか(^^ゞ
いくつかあったレグザ対応製品の中でどうして今回の1259円だったリモコンを選んだのかはよく覚えていない。Amazonの画面に並んだ中で純正の次に出てきたノンブランド品を特に深く考えずに選んだような気がする。
それで自宅に届いてから気付いた不満点は
<1>
「始めにジャンプ」ボタンがなかった。
これは他メーカーテレビのリモコンにはない機能かと思う。レグザにはタイムシフトマシンという6チャンネル分の放送を24時間自動で録画する機能がある。(ディスク容量にもよるが5日分くらい録画し、古い録画から順番に消去して新しい番組を録画する仕組み)
テレビをつけて番組が放送の途中でも、タイムシフトマシンに録画されているので「始めにジャンプ」ボタンを押せば瞬時に番組冒頭から再生される仕組み。
もちろんタイムシフトマシンに録画されている過去番組表を呼び出し、目的の番組を選択すれば冒頭から再生できる。あるいは現在放送されている番組を巻き戻してもいい。でも「始めにジャンプ」ボタンを押せばワンタッチなのでとても便利(巻き戻し機能を使う場合はツータッチ必要になる)。そしてそれはテレビの見方が変わったといっていいくらい重宝していた。
レグザのテレビを買って以降、例えば民放のニュース番組は放送開始時刻に自宅にいても放送が始まってしばらくしてから見るようになった。既に放送が始まっている番組にチャンネルを合わせる→「始めにジャンプ」ボタンで冒頭から再生→CMになったら30秒送りボタンを何回か連打してCMをスキップ、興味のないニュースも早送りしてどんどんスキップ。実に効率的にニュース番組を見られる。
どうしてこのボタンを省いたのだろう。
レグザにとって重要な機能なのに。
<2>
いくつかのボタン配置が悪い。
これは純正リモコン中央部のボタン配置。
決定ボタンの周りに▲マークで上下左右のボタン、その外側に二重の矢印のような表示で同じく上下左右のボタンがある。
例えば▲マークの上下ボタンは番組表で選択をひとつずつ上下させるボタンであり、二重矢印の上下ボタンは番組表のページを切り替えるボタンになっている。つまり小さく動かすと大きく動かすが並べて配置されている。
しかしこちらが1259円リモコンの中央部。
▲マークと二重矢印のボタンの位置が離れている。
これが実に使いづらい。今まではブラインドタッチで操作できたのに、いちいちリモコンを見なければならない。最初は慣れの問題かと考えていたが、もう20日以上使っているのに毎回戸惑っている。
難しい表現をすれば1259円リモコンのボタン配置はエルゴノミクス的に無理がある。エルゴノミクスとは人間工学、人間工学とは人間の身体や精神的な特性に合わせて設計すること。1259円にそこまでの配慮を期待するのは無理か。
別の観点で見ると純正リモコンは幅が5センチで、1259円リモコンは4.5センチしかない。だから寸法的に▲マークと二重矢印を並べるのが無理だったのかも知れない。
ところがである。
ブログを書くために改めてAmazonでチェックしてみると、
こちらの純正に色まで似せたノンブランド品は▲マークと二重矢印が並んでいるではないか。(▲マークは色が付いていないので画像ではわかりにくい)
そしてわずかばかり位置はずれているとはいえ、この998円リモコンも!
しかもこのリモコンの幅は4.5センチと1259円リモコンと同じ。
やればできるんぢゃないか。
それに998円と上の1336円のリモコンには「始めにジャンプ」ボタンも備わっている!!
凹むなあ〜。
Amazonで1259円リモコンを買ったときに、おそらくこれらのリモコンも画面に並んでいたはず。もっと良く見較べればよかったのだけど、なかなかこの価格帯の買い物でそこまで熱心に検討できない。
998円リモコンに買い換えるか? いや1259円リモコンを買ったばかりなのに、そんなことをしたら死んだバアちゃんに叱れらそう気がするから我慢しよう(^^ゞ
皆さんもリモコンを買うときは慎重に。
おしまい
そろそろケチを付けますか(^^ゞ
いくつかあったレグザ対応製品の中でどうして今回の1259円だったリモコンを選んだのかはよく覚えていない。Amazonの画面に並んだ中で純正の次に出てきたノンブランド品を特に深く考えずに選んだような気がする。
それで自宅に届いてから気付いた不満点は
<1>
「始めにジャンプ」ボタンがなかった。
これは他メーカーテレビのリモコンにはない機能かと思う。レグザにはタイムシフトマシンという6チャンネル分の放送を24時間自動で録画する機能がある。(ディスク容量にもよるが5日分くらい録画し、古い録画から順番に消去して新しい番組を録画する仕組み)
テレビをつけて番組が放送の途中でも、タイムシフトマシンに録画されているので「始めにジャンプ」ボタンを押せば瞬時に番組冒頭から再生される仕組み。
もちろんタイムシフトマシンに録画されている過去番組表を呼び出し、目的の番組を選択すれば冒頭から再生できる。あるいは現在放送されている番組を巻き戻してもいい。でも「始めにジャンプ」ボタンを押せばワンタッチなのでとても便利(巻き戻し機能を使う場合はツータッチ必要になる)。そしてそれはテレビの見方が変わったといっていいくらい重宝していた。
レグザのテレビを買って以降、例えば民放のニュース番組は放送開始時刻に自宅にいても放送が始まってしばらくしてから見るようになった。既に放送が始まっている番組にチャンネルを合わせる→「始めにジャンプ」ボタンで冒頭から再生→CMになったら30秒送りボタンを何回か連打してCMをスキップ、興味のないニュースも早送りしてどんどんスキップ。実に効率的にニュース番組を見られる。
どうしてこのボタンを省いたのだろう。
レグザにとって重要な機能なのに。
<2>
いくつかのボタン配置が悪い。
これは純正リモコン中央部のボタン配置。
決定ボタンの周りに▲マークで上下左右のボタン、その外側に二重の矢印のような表示で同じく上下左右のボタンがある。
例えば▲マークの上下ボタンは番組表で選択をひとつずつ上下させるボタンであり、二重矢印の上下ボタンは番組表のページを切り替えるボタンになっている。つまり小さく動かすと大きく動かすが並べて配置されている。
しかしこちらが1259円リモコンの中央部。
▲マークと二重矢印のボタンの位置が離れている。
これが実に使いづらい。今まではブラインドタッチで操作できたのに、いちいちリモコンを見なければならない。最初は慣れの問題かと考えていたが、もう20日以上使っているのに毎回戸惑っている。
難しい表現をすれば1259円リモコンのボタン配置はエルゴノミクス的に無理がある。エルゴノミクスとは人間工学、人間工学とは人間の身体や精神的な特性に合わせて設計すること。1259円にそこまでの配慮を期待するのは無理か。
別の観点で見ると純正リモコンは幅が5センチで、1259円リモコンは4.5センチしかない。だから寸法的に▲マークと二重矢印を並べるのが無理だったのかも知れない。
ところがである。
ブログを書くために改めてAmazonでチェックしてみると、
こちらの純正に色まで似せたノンブランド品は▲マークと二重矢印が並んでいるではないか。(▲マークは色が付いていないので画像ではわかりにくい)
そしてわずかばかり位置はずれているとはいえ、この998円リモコンも!
しかもこのリモコンの幅は4.5センチと1259円リモコンと同じ。
やればできるんぢゃないか。
それに998円と上の1336円のリモコンには「始めにジャンプ」ボタンも備わっている!!
凹むなあ〜。
Amazonで1259円リモコンを買ったときに、おそらくこれらのリモコンも画面に並んでいたはず。もっと良く見較べればよかったのだけど、なかなかこの価格帯の買い物でそこまで熱心に検討できない。
998円リモコンに買い換えるか? いや1259円リモコンを買ったばかりなのに、そんなことをしたら死んだバアちゃんに叱れらそう気がするから我慢しよう(^^ゞ
皆さんもリモコンを買うときは慎重に。
おしまい
2026年03月23日
初めてリモコンを買った
2015年に買ったテレビ(レグザZ8)は搬入・設置後わずか10分で音声が出ない故障が発生し、その後に電源が落ちる故障を3回も繰り返して、通算4回目の故障となった2020年に修理ではなく新品の別モデル(レグザ720X)に交換となった。その都度あれこれブログにネタを提供してくれたが↓ 新品に交換して以降の6年間は不具合は発生していない。
2020.04.18 4度目のテレビ修理は新品に交換 その2
2020.04.16 4度目のテレビ修理は新品に交換
2019.11.14 3度目のテレビ修理
2015.12.26 テレビ録画用のハードディスクが7ヶ月で故障
2015.04.30 テレビ購入後10分で故障(/o\) 修理編
2015.04.25 テレビ購入後10分で故障(/o\)
当時に書いた「部品交換した基盤におそらくは製造工程上の欠陥があった」とする仮説は、今では確信に変わっている。2015年4月から2020年4月までに4回の故障、つまり平均すれば15ヶ月に1度故障していた計算で、もし新品の別モデルに交換していなければ、今頃は9回目の修理をしているところだった(^^ゞ
それでテレビにはまったく問題はないのに、去年の暮れ当たりからリモコンの調子が悪くなる。具体的には電源がなかなか入らない&落とせない。いったん電源が入れば、それ以外のボリュウーム調節やチャンネル切り替えなどに支障はないものの、なぜか録画の早送り・巻き戻しだけは機能しない。
最初は電源のオンオフに1秒かかるようになり、それが3秒〜5秒〜10秒〜それ以上と延びていった。電源を入れようとリモコンを押しっぱなしにしていて、よそ見しているうちに電源が入り、でも押しっぱなしだから電源が落ちるなんてこともあった。
電池の交換と、リモコンの発光部にあるLEDやテレビの受光部を拭いて汚れを落とすなどの基本的な対処はもちろんした。ついでにリモコンを振ったり軽く叩いたりも試みたが(^^ゞ まったくダメ。それにしても特定の機能だけに不具合が現れるのがナゾ
リモコンでの電源オンオフに時間が掛かるようになってもテレビ本体で操作はできる。録画の早送り・巻き戻しは、それとは別にある「30秒送り・10秒戻し」が機能していたのでそれで代用できた。(ただしAmazonビデオで見る映画にこのボタンは使えない)
しばらくそうしていたが、見る始める・見終わる度にテレビの裏側にあるスイッチを手探りで探し当てて押すのも面倒になり、ようやく先日リモコンを購入。そういえばリモコンなんて家電製品を買ったら付属で付いてくるので、それ自体を買うのは初めてだなと気付いたのが今回のタイトルの由来。
最初に心配したのは現在のテレビは2020年に故障の交換品としてやって来たとはいえ、発売されたのは2018年。8年前のテレビのリモコンってまだ売っているのかということ。リモコン下部にCT-90483と品番が印刷されていたので、それを打ち込んで検索。最初にヒットしたのがレグザの公式オンラインストア。
とりあえずまだ売っていてホッとする。
でも7150円とはリモコンって結構な値段。
リモコンは付属品でタダみたいな感覚があるからそう思うのかも知れない。
意外だったのはヨドバシ、ビッグカメラ、ケーズデンキなどの家電量販店もレグザ公式と同じ7150円。
でもさすがはAmazon。
47%も安い3780円!
それでこれをポチろうかと思ったものの、Amazonの検索画面にはノンブランドでレグザ対応のリモコンがたくさん並んでいた。
そして選んだのがこれ。
買ったときは新生活セールの値引き期間中で、画像より10%引きの1259円だった。
レグザ公式価格の7150円と比較すると82%引きのびっくり価格。
そんなに安くてこれって大丈夫?との不安は多少あった。しかしレビューを見ても問題はなさそうだったし、それに1259円なのだからダメだったら改めて3780円の純正リモコンを買い直せばいいやと。
さて届いた1259円リモコン。
まったく問題なく使える。
電源ボタンを押したらすぐに電源が入る当たり前の動作にとても感動(^^ゞ
調子の悪いリモコンを使っていたときはそれほど感じていなかったのに、それがとても心理的な負担になっていたと気がついた。ちょっと大げさだけれどリモコンひとつでQOL(Quality of Life:生活の質)が向上した。電源のオンオフに3秒掛かるようになった時点で買い換えておくべきだったと少し反省。
リモコンのすべてのボタンは試していないものの、普段使いしているボタンはどれも機能する。しかもたった1259円だったのでこのリモコンには満足。でも使ってみていくつか馴染めない点もある。
ーーー続く
2020.04.18 4度目のテレビ修理は新品に交換 その2
2020.04.16 4度目のテレビ修理は新品に交換
2019.11.14 3度目のテレビ修理
2015.12.26 テレビ録画用のハードディスクが7ヶ月で故障
2015.04.30 テレビ購入後10分で故障(/o\) 修理編
2015.04.25 テレビ購入後10分で故障(/o\)
当時に書いた「部品交換した基盤におそらくは製造工程上の欠陥があった」とする仮説は、今では確信に変わっている。2015年4月から2020年4月までに4回の故障、つまり平均すれば15ヶ月に1度故障していた計算で、もし新品の別モデルに交換していなければ、今頃は9回目の修理をしているところだった(^^ゞ
それでテレビにはまったく問題はないのに、去年の暮れ当たりからリモコンの調子が悪くなる。具体的には電源がなかなか入らない&落とせない。いったん電源が入れば、それ以外のボリュウーム調節やチャンネル切り替えなどに支障はないものの、なぜか録画の早送り・巻き戻しだけは機能しない。
最初は電源のオンオフに1秒かかるようになり、それが3秒〜5秒〜10秒〜それ以上と延びていった。電源を入れようとリモコンを押しっぱなしにしていて、よそ見しているうちに電源が入り、でも押しっぱなしだから電源が落ちるなんてこともあった。
電池の交換と、リモコンの発光部にあるLEDやテレビの受光部を拭いて汚れを落とすなどの基本的な対処はもちろんした。ついでにリモコンを振ったり軽く叩いたりも試みたが(^^ゞ まったくダメ。それにしても特定の機能だけに不具合が現れるのがナゾ
リモコンでの電源オンオフに時間が掛かるようになってもテレビ本体で操作はできる。録画の早送り・巻き戻しは、それとは別にある「30秒送り・10秒戻し」が機能していたのでそれで代用できた。(ただしAmazonビデオで見る映画にこのボタンは使えない)
しばらくそうしていたが、見る始める・見終わる度にテレビの裏側にあるスイッチを手探りで探し当てて押すのも面倒になり、ようやく先日リモコンを購入。そういえばリモコンなんて家電製品を買ったら付属で付いてくるので、それ自体を買うのは初めてだなと気付いたのが今回のタイトルの由来。
最初に心配したのは現在のテレビは2020年に故障の交換品としてやって来たとはいえ、発売されたのは2018年。8年前のテレビのリモコンってまだ売っているのかということ。リモコン下部にCT-90483と品番が印刷されていたので、それを打ち込んで検索。最初にヒットしたのがレグザの公式オンラインストア。
とりあえずまだ売っていてホッとする。
でも7150円とはリモコンって結構な値段。
リモコンは付属品でタダみたいな感覚があるからそう思うのかも知れない。
意外だったのはヨドバシ、ビッグカメラ、ケーズデンキなどの家電量販店もレグザ公式と同じ7150円。
でもさすがはAmazon。
47%も安い3780円!
それでこれをポチろうかと思ったものの、Amazonの検索画面にはノンブランドでレグザ対応のリモコンがたくさん並んでいた。
そして選んだのがこれ。
買ったときは新生活セールの値引き期間中で、画像より10%引きの1259円だった。
レグザ公式価格の7150円と比較すると82%引きのびっくり価格。
そんなに安くてこれって大丈夫?との不安は多少あった。しかしレビューを見ても問題はなさそうだったし、それに1259円なのだからダメだったら改めて3780円の純正リモコンを買い直せばいいやと。
さて届いた1259円リモコン。
まったく問題なく使える。
電源ボタンを押したらすぐに電源が入る当たり前の動作にとても感動(^^ゞ
調子の悪いリモコンを使っていたときはそれほど感じていなかったのに、それがとても心理的な負担になっていたと気がついた。ちょっと大げさだけれどリモコンひとつでQOL(Quality of Life:生活の質)が向上した。電源のオンオフに3秒掛かるようになった時点で買い換えておくべきだったと少し反省。
リモコンのすべてのボタンは試していないものの、普段使いしているボタンはどれも機能する。しかもたった1259円だったのでこのリモコンには満足。でも使ってみていくつか馴染めない点もある。
ーーー続く
2026年03月18日
ジンチョウゲを探して4 油面公園
タイトルは「ジンチョウゲを探して」で過去3回と揃えてあるものの、今回は探しに出かけたわけではない。前回に書いた林試の森を出て東横線の祐天寺駅に向かう途中に油面公園があり、近道をするために公園の中を横切ったらシャクナゲが咲いていた。
油面と書いて「あぶらめん」。漢字の読み方としては素直なのに、本当にそう読むのと思ってしまう聞き慣れない言葉。これはこのあたりの昔の地名。江戸時代中期より菜種(なたね)が栽培され、それを絞った菜種油を芝の増上寺や近くの祐天寺に奉納していたため、絞油業に対する租税が免除されて油免と呼ばれ、それがいつしか油面となったと伝わる(諸説あり)。
ここに写っているのは油面公園の半分くらい。
0.45ヘクタールと少し広めの児童公園。
ジンチョウゲは白の方が多かった。どれもまだ幼木。2025年3月に公園を大規模リニューアルしたとのことで、そのときに新たに植えられたのだろう。
探して出かけた場所ではないのにブログにしたのは、中目黒八幡神社や林試の森公園で見たジンチョウゲとは花の形というか数が違ったから。
これが油面公園のジンチョウゲ。
こちらは林試の森のジンチョウゲ。
中目黒八幡のも同じで、それ以外の場所で見たのものこのタイプ。
見較べればわかるように油面公園のは花がたくさん密集している。そのせいか今まで見たジンチョウゲより香りが少し強かった。香りそのものに違いはないと思う。画像検索してみたが品種名はわからず。
花と書いたが開いているのは花びらではなく萼(がく)で、筒状のものが上部でが4つに裂けて花びらのようになっている。萼は花びらの下にあって本来はそれを支える役割だが、花びらがなくて萼が花びらのように見えるのはアジサイと同じ構造。
ジンチョウゲは室町時代に中国から入ってきた。雌花と雄花が分かれる雌雄異株で、花つきのよい雄株のみを挿し木で増やしたため、国内に雌株はほとんどないとされる。だからジンチョウゲが実をつけるのはまれ。
ちなみに雌雄異株あるいは雌雄同株は異株(いしゅ)同株(どうしゅ)と「株」を「しゅ」と読む。そう読むのは枯株(こしゅ)や守株(しゅしゅ)など聞いたことがないような熟語ばかりで珍しい。ただし雌株や雄株は「めかぶ」「おかぶ」で「かぶ」と読むのが日本語のややこしいところ。
また植物学の分野では雌花・雄花あるいは雌株・雄株とメス→オスの順番で書く習わしがある。これは雌雄(しゆう)という言葉があるせいかな? しかし雄しべと雌しべはオス→メスの順番で書かれている場合が多く、やはり日本語は複雑怪奇。
話の脱線ついでにーーー
植物のオス・メスすなわち性別の区別は複雑。
それは生殖器官としての花と株(身体)の組み合わせがあるから。
まず花の分類は
両性花:ひとつの花に雄しべと雌しべの両方がある(全体の70〜80%)
単性花:ひとつの花に雄しべと雌しべのいずれかかがある(全体の20〜30%)
雌花:雌しべのみが発達し、雄しべはない、あるいは退化している
雄花:雄しべのみが発達し、雌しべはない、あるいは退化している
中性花:雄しべ雌しべ共にない、あるいは退化している(全体に対してごくわずか)
生殖機能を持たないので中性というよりは無性
中性花に性別はないから、
性別で区分すると花には両性花・雌花・雄花の3種類があることになる。
そしてひとつの株に、3種類のどの花が咲くかを組み合わせると次の7通りになる。
1 両性花が咲く
2 雌花が咲く →雌雄異株の雌株
3 雄花が咲く →雌雄異株の雄株
4 雌花と雄花の両方が咲く →雌雄同株
5 両性花と雌花の両方が咲く
6 両性花と雄花の両方が咲く
7 両性花と雌花と雄花のすべてが咲く
それでジンチョウゲは単性花であり、日本では雄株がほとんどだと先ほど書いた。雄株に咲くのは雄花であって、雄花とは「雄しべのみが発達し、雌しべはない、あるいは退化している」のが定義。しかしジンチョウゲの雄花の雌しべは退化していない。また数少ない雌花の雄しべも同じく。
画像はジンチョウゲの雌花と雄花を解剖した写真→ここをクリック
写真では雄花に退化していない雌しべがあり、雌花にも退化していない雄しべがあるのがわかる。つまりこれは両性花の断面そのもの。
いくつかの学説があるようだ。
(1)
ジンチョウゲは両性花であって雌雄異株ではない。たまたま実付きの悪い品種が日本に入ってきて、これは雄株だと勘違いした。
(2)
植物の進化は両性花から単性花の雌雄異株への流れ。ジンチョウゲはこの進化の途中にある。だから雌花にある雄しべ、雄花にある雌しべはまだ退化していなくても、もう機能していない。
(3)
ジンチョウゲは自生地が見つかっていない。したがってこれは(はるか昔に)人工的な交配によって生み出された植物。ジンチョウゲの生物分類は
科:ジンチョウゲ科
属:ジンチョウゲ属
種:ジンチョウゲ
でジンチョウゲ属には約90の品種がある。それらのどれかとどれか、あるいは違う属の植物を掛け合わせてできたのがジンチョウゲ。いわゆる園芸品種で生物学的な表現なら交雑種。そして交雑種は生殖能力が低い場合が多い。
ーーーとまあ、庭木としてポピュラーなジンチョウゲなのに、実はわかっていないことの多い不思議な植物なのである。
とりあえず私としては油面公園のジンチョウゲは花粒(これは私の造語)が多くて、香りもよく出ていたのがヨシ。
ジンチョウゲの植えられている場所の対角線上にあった遊具。この「なのはなのおか」はここ油面一帯が昔は菜種畑だったのに由来している。昭和初期まで栽培が続いていたらしい。ここで遊んでいる子供たちは知っているかな。ちなみに菜種=菜の花=油菜ね。
それでこの遊具の横を通り抜けようとしたら足裏がビックリ。地面がとても柔らかい。指で押したら少し凹んだ。いわゆるラバーマットだけれど、これは切れ目がないのでゴムチップ舗装と呼ぶみたい。
今はこんな風になっているんだ。安全への配慮に感心したり過保護のような気がしたり。ただし「今は」と書いたものの、いつ頃からゴムチップ舗装がこのように使われているのかは知らない。何たって公園の遊具で遊んでいたのははるか遠い遠い昔(^^ゞ
油面と書いて「あぶらめん」。漢字の読み方としては素直なのに、本当にそう読むのと思ってしまう聞き慣れない言葉。これはこのあたりの昔の地名。江戸時代中期より菜種(なたね)が栽培され、それを絞った菜種油を芝の増上寺や近くの祐天寺に奉納していたため、絞油業に対する租税が免除されて油免と呼ばれ、それがいつしか油面となったと伝わる(諸説あり)。
ここに写っているのは油面公園の半分くらい。
0.45ヘクタールと少し広めの児童公園。
ジンチョウゲは白の方が多かった。どれもまだ幼木。2025年3月に公園を大規模リニューアルしたとのことで、そのときに新たに植えられたのだろう。
探して出かけた場所ではないのにブログにしたのは、中目黒八幡神社や林試の森公園で見たジンチョウゲとは花の形というか数が違ったから。
これが油面公園のジンチョウゲ。
こちらは林試の森のジンチョウゲ。
中目黒八幡のも同じで、それ以外の場所で見たのものこのタイプ。
見較べればわかるように油面公園のは花がたくさん密集している。そのせいか今まで見たジンチョウゲより香りが少し強かった。香りそのものに違いはないと思う。画像検索してみたが品種名はわからず。
花と書いたが開いているのは花びらではなく萼(がく)で、筒状のものが上部でが4つに裂けて花びらのようになっている。萼は花びらの下にあって本来はそれを支える役割だが、花びらがなくて萼が花びらのように見えるのはアジサイと同じ構造。
ジンチョウゲは室町時代に中国から入ってきた。雌花と雄花が分かれる雌雄異株で、花つきのよい雄株のみを挿し木で増やしたため、国内に雌株はほとんどないとされる。だからジンチョウゲが実をつけるのはまれ。
ちなみに雌雄異株あるいは雌雄同株は異株(いしゅ)同株(どうしゅ)と「株」を「しゅ」と読む。そう読むのは枯株(こしゅ)や守株(しゅしゅ)など聞いたことがないような熟語ばかりで珍しい。ただし雌株や雄株は「めかぶ」「おかぶ」で「かぶ」と読むのが日本語のややこしいところ。
また植物学の分野では雌花・雄花あるいは雌株・雄株とメス→オスの順番で書く習わしがある。これは雌雄(しゆう)という言葉があるせいかな? しかし雄しべと雌しべはオス→メスの順番で書かれている場合が多く、やはり日本語は複雑怪奇。
話の脱線ついでにーーー
植物のオス・メスすなわち性別の区別は複雑。
それは生殖器官としての花と株(身体)の組み合わせがあるから。
まず花の分類は
両性花:ひとつの花に雄しべと雌しべの両方がある(全体の70〜80%)
単性花:ひとつの花に雄しべと雌しべのいずれかかがある(全体の20〜30%)
雌花:雌しべのみが発達し、雄しべはない、あるいは退化している
雄花:雄しべのみが発達し、雌しべはない、あるいは退化している
中性花:雄しべ雌しべ共にない、あるいは退化している(全体に対してごくわずか)
生殖機能を持たないので中性というよりは無性
中性花に性別はないから、
性別で区分すると花には両性花・雌花・雄花の3種類があることになる。
そしてひとつの株に、3種類のどの花が咲くかを組み合わせると次の7通りになる。
1 両性花が咲く
2 雌花が咲く →雌雄異株の雌株
3 雄花が咲く →雌雄異株の雄株
4 雌花と雄花の両方が咲く →雌雄同株
5 両性花と雌花の両方が咲く
6 両性花と雄花の両方が咲く
7 両性花と雌花と雄花のすべてが咲く
それでジンチョウゲは単性花であり、日本では雄株がほとんどだと先ほど書いた。雄株に咲くのは雄花であって、雄花とは「雄しべのみが発達し、雌しべはない、あるいは退化している」のが定義。しかしジンチョウゲの雄花の雌しべは退化していない。また数少ない雌花の雄しべも同じく。
画像はジンチョウゲの雌花と雄花を解剖した写真→ここをクリック
写真では雄花に退化していない雌しべがあり、雌花にも退化していない雄しべがあるのがわかる。つまりこれは両性花の断面そのもの。
いくつかの学説があるようだ。
(1)
ジンチョウゲは両性花であって雌雄異株ではない。たまたま実付きの悪い品種が日本に入ってきて、これは雄株だと勘違いした。
(2)
植物の進化は両性花から単性花の雌雄異株への流れ。ジンチョウゲはこの進化の途中にある。だから雌花にある雄しべ、雄花にある雌しべはまだ退化していなくても、もう機能していない。
(3)
ジンチョウゲは自生地が見つかっていない。したがってこれは(はるか昔に)人工的な交配によって生み出された植物。ジンチョウゲの生物分類は
科:ジンチョウゲ科
属:ジンチョウゲ属
種:ジンチョウゲ
でジンチョウゲ属には約90の品種がある。それらのどれかとどれか、あるいは違う属の植物を掛け合わせてできたのがジンチョウゲ。いわゆる園芸品種で生物学的な表現なら交雑種。そして交雑種は生殖能力が低い場合が多い。
ーーーとまあ、庭木としてポピュラーなジンチョウゲなのに、実はわかっていないことの多い不思議な植物なのである。
とりあえず私としては油面公園のジンチョウゲは花粒(これは私の造語)が多くて、香りもよく出ていたのがヨシ。
ジンチョウゲの植えられている場所の対角線上にあった遊具。この「なのはなのおか」はここ油面一帯が昔は菜種畑だったのに由来している。昭和初期まで栽培が続いていたらしい。ここで遊んでいる子供たちは知っているかな。ちなみに菜種=菜の花=油菜ね。
それでこの遊具の横を通り抜けようとしたら足裏がビックリ。地面がとても柔らかい。指で押したら少し凹んだ。いわゆるラバーマットだけれど、これは切れ目がないのでゴムチップ舗装と呼ぶみたい。
今はこんな風になっているんだ。安全への配慮に感心したり過保護のような気がしたり。ただし「今は」と書いたものの、いつ頃からゴムチップ舗装がこのように使われているのかは知らない。何たって公園の遊具で遊んでいたのははるか遠い遠い昔(^^ゞ
2026年03月16日
ジンチョウゲを探して3 林試の森公園
日本の四大香木のうち、まだその匂いを嗅いだ経験のなかったジンチョウゲを探しに中目黒八幡神社と目黒天空庭園に出かけたのが3月5日。
中目黒八幡神社で初めてクンクンして
いい香りとはいえ、いつまでも記憶に残るようなものすごくいい香り
というほどではない。
キンモクセイやロウバイと違って周りに漂うような強い香りではなく、
鼻を近づけないと香りが感じられない。
とわかった。
四大香木とは春:ジンチョウゲ、夏:クチナシ、秋:キンモクセイ、冬:ロウバイ。
クチナシの香りもまだ知らないが、ジンチョウゲをキンモクセイやロウバイと並べて四大香木とするのはちょっと疑問に思えたのが正直な感想。またどうしてフジがこのランクに入っていないのだと憤慨している(^^ゞ
ジンチョウゲの東京での開花時期は2月下旬に始まるとされる。しかし今年はウメの開花も早かったので3月5日のジンチョウゲはもう香りのピークを過ぎていたのかも知れない。花の香りは揮発性成分で開花した後は徐々に弱くなる。
ただ、
今までジンチョウゲの匂いを嗅いだことがなかったと書いたけれど、小学6年生頃に実家を建て増しする前の庭にジンチョウゲはあった。しかしまったく香りの記憶はない。同じく庭にあったキンモクセイがいい香りだったのはよく覚えていて、やはりジンチョウゲの香りはそれほど強くないのだと思っている。それはまた来年の咲き始めた頃に確認しましょう。
3月5日でジンチョウゲに対する関心はずいぶんと下がってしまったものの、3月12日にも2箇所訪れた。まずは林試の森公園。
ジンチョウゲは南門から出会いの広場に向かう通路沿いにある。
上の写真の1枚目は幼児コーナーのある敷地の隅でそこそこ大きな株。
赤紫と白の両方がある。
香りは中目黒八幡と同じレベル。
つまり弱くて鼻を近づけないと香りはわからない。
また中目黒八幡で嗅いだのは白だけだったが赤紫も同じ香りだった。
ひょっとしたら中目黒八幡のジンチョウゲの香りが弱かっただけとの淡い期待もいだいていたものの、ここでも同じで「やっぱりね」と確認。
軽く森林浴して、
白くて格好いいプラタナスの幹を眺めて公園を後にする。
ところで森林浴の言葉を最近はあまり聞かないような。
私はその効果をとても信じていて木々の下を歩くととても落ち着く。
樹木が発散するフィトンチッドという物質が影響するらしいが、その作用はしばらく森にこもっていないと現れない。だから木々の下を歩いた程度で落ち着くとは「気のせい」なのだけれど、気持ちとは気のせいなのでそれでいいのだ。
中目黒八幡神社で初めてクンクンして
いい香りとはいえ、いつまでも記憶に残るようなものすごくいい香り
というほどではない。
キンモクセイやロウバイと違って周りに漂うような強い香りではなく、
鼻を近づけないと香りが感じられない。
とわかった。
四大香木とは春:ジンチョウゲ、夏:クチナシ、秋:キンモクセイ、冬:ロウバイ。
クチナシの香りもまだ知らないが、ジンチョウゲをキンモクセイやロウバイと並べて四大香木とするのはちょっと疑問に思えたのが正直な感想。またどうしてフジがこのランクに入っていないのだと憤慨している(^^ゞ
ジンチョウゲの東京での開花時期は2月下旬に始まるとされる。しかし今年はウメの開花も早かったので3月5日のジンチョウゲはもう香りのピークを過ぎていたのかも知れない。花の香りは揮発性成分で開花した後は徐々に弱くなる。
ただ、
今までジンチョウゲの匂いを嗅いだことがなかったと書いたけれど、小学6年生頃に実家を建て増しする前の庭にジンチョウゲはあった。しかしまったく香りの記憶はない。同じく庭にあったキンモクセイがいい香りだったのはよく覚えていて、やはりジンチョウゲの香りはそれほど強くないのだと思っている。それはまた来年の咲き始めた頃に確認しましょう。
3月5日でジンチョウゲに対する関心はずいぶんと下がってしまったものの、3月12日にも2箇所訪れた。まずは林試の森公園。
ジンチョウゲは南門から出会いの広場に向かう通路沿いにある。
上の写真の1枚目は幼児コーナーのある敷地の隅でそこそこ大きな株。
赤紫と白の両方がある。
香りは中目黒八幡と同じレベル。
つまり弱くて鼻を近づけないと香りはわからない。
また中目黒八幡で嗅いだのは白だけだったが赤紫も同じ香りだった。
ひょっとしたら中目黒八幡のジンチョウゲの香りが弱かっただけとの淡い期待もいだいていたものの、ここでも同じで「やっぱりね」と確認。
軽く森林浴して、
白くて格好いいプラタナスの幹を眺めて公園を後にする。
ところで森林浴の言葉を最近はあまり聞かないような。
私はその効果をとても信じていて木々の下を歩くととても落ち着く。
樹木が発散するフィトンチッドという物質が影響するらしいが、その作用はしばらく森にこもっていないと現れない。だから木々の下を歩いた程度で落ち着くとは「気のせい」なのだけれど、気持ちとは気のせいなのでそれでいいのだ。
2026年03月15日
ジンチョウゲを探して2 目黒天空庭園
前回に書いた中目黒八幡神社を見た後、
その足でジンチョウゲを探しに向かったのは目黒天空庭園。
住宅街を抜けて中目黒駅に出て山手通り。山手通りと目黒川が交差したら目黒川沿いに歩いて池尻大橋駅近くの目黒天空庭園へ。神社からは25分くらいの距離。
そこにあるのはまず大橋ジャンクションという道路施設。高架である首都高の3号渋谷線と地下トンネルの中央環状線を1周400mのらせん状スロープでつないでいる。その屋上に造られたのが目黒区立の目黒天空庭園。
このようにジャンクションの中ではクルマがグルグル回って上り下りしている。
目黒天空庭園へは建物の上に公園を設ける立体都市公園を体験したくて2023年に訪れた。大橋ジャンクションや目黒天空庭園の概要についてはそのときに詳しく書いたのでご参考に↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53454710.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53454758.html
大橋ジャンクションが見えてきた。
その前を流れるのはサクラで有名な目黒川。
3月5日現在のツボミはまだこれくらいの大きさ。
大橋ジャンクションに近づく。
建物との目黒川の間で何か工事をしている。
目黒川はここから100メートル先の国道246号線のところで地下水路(暗渠)が終わり地上に姿を現す。そこが事実上の起点。そして大崎までにしだれ桜が植えられているのは3箇所しかない。そのひとつがこれ。サクラが咲くまでにフェンスは外れるといいね。
前回は山手通り沿いの建物を経由して目黒天空庭園に入った。
こちらの目黒川沿いにも出入り口があったはずだとそれを探す。
この駐車場の中に入ると「オーパス夢広場」の名前がついた人工芝グラウンドがある。おそらく日本で一番高い壁に囲まれたグラウンド。
ここじゃなかったかと引き返そうとしたとき、
ネットが途切れたところに入っていく人がいたので、
後をついていくとエレベーターがあった。2023年のブログにも書いたけれど、この施設は案内サインの類いがまったく少なく不親切。
エレベータに乗って目黒天空庭園に到着。
もう午後3時過ぎだったのになぜか男子高校生がお弁当タイム。
目黒天空庭園はジャンクションのらせん状スロープ道路に天井を付けた構造をしており、屋上は平らではなく高い位置で建物の9階相当、低い位置では5階相当と斜面になっている。ここは9階出入り口と5階出入り口の中間で7階くらいの高さ。
とりあえず下の方に向かう。
芝生広場があって、
その先に咲いていたのは河津桜。
こちらはたぶんソメイヨシノ。
さらに下がって、
マツとタワマン。
あのタワマンの9階に目黒区役所の出先機関があり天空庭園への出入り口も兼ねている。
ネットで覆われた菜の花。
虫除け?寒さ対策?
まるで写真を撮れといわんばかりに設けられた花壇。
アップで撮って差し上げる。
この白いツボミはユスラウメ。
ウメと名前がついているが分類的にはサクラに近い。
ユスラウメ→バラ科:サクラ属
サクラ→バラ科:サクラ属
ウメ→バラ科:サクラ属:スモモ亜属:アンズ節
また英語ではNanking cherryまたはdowny cherryとチェリー(サクラ)がつく。そしてユスラウメはサクランボのような赤い実がなり似たような味らしい。
一番低い5階位置にある管理事務所。
この先は通れず天空庭園は1周できるような造りにはなっていない。
引き返す。
再び芝生広場を過ぎて、
エレベータを降りた位置に戻る。
このピンクの花はモモ。
私はハナモモという呼び方が嫌い。ハナモモとは果実を育てるモモをモモ、花を観賞するための園芸品種をハナモモと区別するネーミング。しかしハナウメやハナサクラとは呼ばないのに、どうしてモモだけモモとハナモモを分ける必要があるのだと思っている。
こんもり剪定されたマツ。
この紅葉している葉は
オタフクナンテン。
どうして縦書きなのに左から右へ書くのだ?
これはナンテンの仲間でも、ナンテンのように赤い実はつけず葉が赤く紅葉する。その葉の形が丸みを帯びておりオタフクの名前がついた。同じ意味でオカメナンテンとも呼ばれる。
ここはオタフクナンテンを灯籠の周りに植えるのが好きみたい。
他にもたくさんあった。
この白い小さな花は春になるとよく見かけるユキヤナギ。
これはゴヨウマツ(さきほどのこんもり剪定も同じく)。
普通のマツは松葉が2本で、これは5本あるので五葉松。
展望台的なところより南方向の風景。
オシャレなデザイナーズ銭湯として有名な文化浴泉の煙突が見えた。
この写真で天空庭園が斜面になっているのがわかるかな。
展望台の反対側は9階の出入り口。
5階の管理事務所から始まってここが終点。
あれ?ジンチョウゲがなかった!
ここにはないのか?
いや複数のSNSで確認したはず。
もう一度管理事務所方向へ下る(^^ゞ
管理事務所の少し手前で見つけた。
もう少し近寄って撮らないとわからないくらい背が低い。
まだ咲き始めたばかりのようで花も小さいし少ない。
そして香りもほとんどしなかった。
ここは屋上なので寒くて成長が遅いのかな?
こんなはずじゃなかった ーーーまったくの無駄足(/o\)
とはいえ中目黒八幡では初めてジンチョウゲの香りを嗅げたし、
久しぶりの天空庭園は気持ちよく、また今年の初モモを見られたので、
この日の帳尻はプラスと考えましょう。
その足でジンチョウゲを探しに向かったのは目黒天空庭園。
住宅街を抜けて中目黒駅に出て山手通り。山手通りと目黒川が交差したら目黒川沿いに歩いて池尻大橋駅近くの目黒天空庭園へ。神社からは25分くらいの距離。
そこにあるのはまず大橋ジャンクションという道路施設。高架である首都高の3号渋谷線と地下トンネルの中央環状線を1周400mのらせん状スロープでつないでいる。その屋上に造られたのが目黒区立の目黒天空庭園。
このようにジャンクションの中ではクルマがグルグル回って上り下りしている。
目黒天空庭園へは建物の上に公園を設ける立体都市公園を体験したくて2023年に訪れた。大橋ジャンクションや目黒天空庭園の概要についてはそのときに詳しく書いたのでご参考に↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53454710.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53454758.html
大橋ジャンクションが見えてきた。
その前を流れるのはサクラで有名な目黒川。
3月5日現在のツボミはまだこれくらいの大きさ。
大橋ジャンクションに近づく。
建物との目黒川の間で何か工事をしている。
目黒川はここから100メートル先の国道246号線のところで地下水路(暗渠)が終わり地上に姿を現す。そこが事実上の起点。そして大崎までにしだれ桜が植えられているのは3箇所しかない。そのひとつがこれ。サクラが咲くまでにフェンスは外れるといいね。
前回は山手通り沿いの建物を経由して目黒天空庭園に入った。
こちらの目黒川沿いにも出入り口があったはずだとそれを探す。
この駐車場の中に入ると「オーパス夢広場」の名前がついた人工芝グラウンドがある。おそらく日本で一番高い壁に囲まれたグラウンド。
ここじゃなかったかと引き返そうとしたとき、
ネットが途切れたところに入っていく人がいたので、
後をついていくとエレベーターがあった。2023年のブログにも書いたけれど、この施設は案内サインの類いがまったく少なく不親切。
エレベータに乗って目黒天空庭園に到着。
もう午後3時過ぎだったのになぜか男子高校生がお弁当タイム。
目黒天空庭園はジャンクションのらせん状スロープ道路に天井を付けた構造をしており、屋上は平らではなく高い位置で建物の9階相当、低い位置では5階相当と斜面になっている。ここは9階出入り口と5階出入り口の中間で7階くらいの高さ。
とりあえず下の方に向かう。
芝生広場があって、
その先に咲いていたのは河津桜。
こちらはたぶんソメイヨシノ。
さらに下がって、
マツとタワマン。
あのタワマンの9階に目黒区役所の出先機関があり天空庭園への出入り口も兼ねている。
ネットで覆われた菜の花。
虫除け?寒さ対策?
まるで写真を撮れといわんばかりに設けられた花壇。
アップで撮って差し上げる。
この白いツボミはユスラウメ。
ウメと名前がついているが分類的にはサクラに近い。
ユスラウメ→バラ科:サクラ属
サクラ→バラ科:サクラ属
ウメ→バラ科:サクラ属:スモモ亜属:アンズ節
また英語ではNanking cherryまたはdowny cherryとチェリー(サクラ)がつく。そしてユスラウメはサクランボのような赤い実がなり似たような味らしい。
一番低い5階位置にある管理事務所。
この先は通れず天空庭園は1周できるような造りにはなっていない。
引き返す。
再び芝生広場を過ぎて、
エレベータを降りた位置に戻る。
このピンクの花はモモ。
私はハナモモという呼び方が嫌い。ハナモモとは果実を育てるモモをモモ、花を観賞するための園芸品種をハナモモと区別するネーミング。しかしハナウメやハナサクラとは呼ばないのに、どうしてモモだけモモとハナモモを分ける必要があるのだと思っている。
こんもり剪定されたマツ。
この紅葉している葉は
オタフクナンテン。
どうして縦書きなのに左から右へ書くのだ?
これはナンテンの仲間でも、ナンテンのように赤い実はつけず葉が赤く紅葉する。その葉の形が丸みを帯びておりオタフクの名前がついた。同じ意味でオカメナンテンとも呼ばれる。
ここはオタフクナンテンを灯籠の周りに植えるのが好きみたい。
他にもたくさんあった。
この白い小さな花は春になるとよく見かけるユキヤナギ。
これはゴヨウマツ(さきほどのこんもり剪定も同じく)。
普通のマツは松葉が2本で、これは5本あるので五葉松。
展望台的なところより南方向の風景。
オシャレなデザイナーズ銭湯として有名な文化浴泉の煙突が見えた。
この写真で天空庭園が斜面になっているのがわかるかな。
展望台の反対側は9階の出入り口。
5階の管理事務所から始まってここが終点。
あれ?ジンチョウゲがなかった!
ここにはないのか?
いや複数のSNSで確認したはず。
もう一度管理事務所方向へ下る(^^ゞ
管理事務所の少し手前で見つけた。
もう少し近寄って撮らないとわからないくらい背が低い。
まだ咲き始めたばかりのようで花も小さいし少ない。
そして香りもほとんどしなかった。
ここは屋上なので寒くて成長が遅いのかな?
こんなはずじゃなかった ーーーまったくの無駄足(/o\)
とはいえ中目黒八幡では初めてジンチョウゲの香りを嗅げたし、
久しぶりの天空庭園は気持ちよく、また今年の初モモを見られたので、
この日の帳尻はプラスと考えましょう。
2026年03月14日
ジンチョウゲを探して1 中目黒八幡神社
以下は2023年の秋にブログに書いた一節。
日本の四大香木とされるのは
春:ジンチョウゲ(沈丁花)
夏:クチナシ
秋:キンモクセイ
冬:ロウバイ
キンモクセイはそこら中にある。またロウバイはあちこちの名所を訪れた。
しかしジンチョウゲとクチナシはあまり馴染みがないなあ。
来年の春と夏は意識して出かけましょう。
しかし2024年なったらそれをすっかり忘れる(^^ゞ
2025年に今年こそはと思い、まず春にジンチョウゲを探しに近所の公園に出かけた。しかし「春」といえば4〜5月と思うじゃない。それでゴールデンウィーク頃に見に行ったと思う。でも実はジンチョウゲの開花時期は2〜3月だったのでどこにも見当たらず。そのせいで気落ちしたのか夏のクチナシをまたすっかり忘れる(/o\)
さて3度目の正直の今年。
実はまた忘れていたのだがーーー
先日、目黒川沿いを歩いていて携帯が鳴ったので立ち止まった。
するとなんたる偶然かそこにジンチョウゲ!
ジンチョウゲは低木。さらにここのは地面に這うように生えていた。
人通りもあり残念ながらしゃがんでのクンクンは恥ずかしくてできず。
ところでジンチョウゲはウメやサクラと違って名所と呼ばれるところ、あるいは相当の数がまとまって植えられている場所はないみたい。それでも近所で何カ所かを探し出し、外出や散歩のついでに回ってきた。その第1弾が中目黒八幡神社。訪れたのは3月5日。
中目黒八幡神社は名前の通り中目黒にある。でも中目黒駅からは500メートルほど離れていて大きな通りにも面していない。その存在は知っていたけれど訪れたのは初めて。これは参道とは反対側の裏口。
境内の様子。
こぢんまりとした神社。
ひと通り見て回る。
でもジンチョウゲが見当たらない。
もう花が散ってしまったのか?
別にジンチョウゲが名物の神社ではないので案内板にもそんな表示はなし。
ひょっとしてこれ? ジンチョウゲは最初に載せた写真のように赤紫の花だと思い込んで見落としていた。この神社で咲いていたのは白いジンチョウゲ。
SNSではジンチョウゲの周りに来るといい香りがするなんてよく書いてある。でもまったく香りは漂っていない。そこで鼻を近づけてクンクン。
甘さはあってもあまり濃厚ではない。どちらかといえば爽やかに甘く、それほど似ていないのになぜかリンゴの香りや味を思い出した。しかし、いい香りではあるとしてもキンモクセイやロウバイと並べて四大香木とは過大評価とも思う。香りの絶対量も足らないし。ちょっとガッカリ。
本殿のある境内上部から参道を見下ろす。
上の写真では見えないが、
階段を降りて左側、灯籠の手前にあった神泉と書かれた湧き水。
ただし昔は湧き水だったものの、現在は井戸の水をここへ流しているらしい。
ところでよく見ると水盤の上にはワイヤーが張ってあり、
また隣にはこんな注意書き。
赤文字で書かれていたであろう部分が日光で退色して読めない。ネットで得た情報によると「カラスがここの水でエサを洗うことを学習した」のようだ。それでカラス防止用のワイヤー。カラスって頭いいんだね。もっともカラスは雑食性でネズミや小鳥なども食べるから、その残骸がここに残っていたらと思うとゾッとする。
湧き水の向かいにあるのが「さざれ石」。
さざれ石には2つの意味があってまずは小さな石。そしてその小さな石が地中の炭酸カルシウムなどによって結合し大きな塊となった状態。一般的には後者の意味で使われる場合がほとんど。ここにあるのもそんなメカニズムで形成されたさざれ石。また昔の人は炭酸カルシウムによる結合を石が成長して岩になったと見なし、それをめでたいものと考えた。
ところでさざれ石と聞いて思い出すのは「君が代」。
君が代の歌詞の元となったのは平安時代初期に編纂された古今和歌集に載っている和歌。作者は「読み人知らず」となっている。その和歌は冒頭を除けば「君が代」と同一。
我が君は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて
苔のむすまで
これは長寿を祝う和歌。
わかりやすい言葉遣いに置き換えると
愛しい(あるいは大切な)あなたが
1000年あるいはもっとずっと長く
→千代が1000年で、八千代の八は「多く」の意味。八百万(やおよろず)や
嘘八百と同じ語法
小さなさざれ石が、巌(いわお:大きな岩)となり
苔に覆われるまで長生きして欲しい
となる。
この和歌は御伽草子、謡曲、小唄、神楽、舟歌などに広く引用されていて、なぜか13世紀以降は「我が君」を「君が代」と変えて詠まれるようになる。理由はよく調べていない。それでも「我が君」と「君が代」の意味は同じ。
しかしその「君が代」が示す内容を、明治政府が天皇の治世、皇室の永続性と限定解釈して生まれたのが、後に国歌となった「君が代」。
それはさておき、
問題はメロディー。
♪千代に八千代にさざれ〜
(息継ぎ)
♪石の巌とな〜りて
と誰もが歌っているはず。まあ君が代は子供の頃に暗記して歌わされたままで、意味まで考えている人はほとんどいないものの、これでは千代に八千代に「さざれる」と意味不明の動詞になってしまう。それに「巌となりて」ではなく「石の岩音鳴りて」と思っている人も多いはず。私も「巌」と知ったのは大人になってずいぶんと経っていた。
どうして「さざれ石」を「さざれ」と「石」に分けるメロディーにしたのか?
実は現在の「君が代」はセカンドバージョン。
ファーストバージョンの作曲は駐日イギリス公使館付の軍楽隊長ジョン・フェントン。イギリス王族の来日に際し、日本に国歌がないのを知り作曲を申し出る。初演は1870年(明治3年)、演奏は薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)。元は和歌である君が代の歌詞が選ばれたのは、薩摩藩で、それが琵琶歌(びわうた)としてポピュラーだったから。
ただしフェントン作曲のメロディーは不人気で5年ほどで廃止された。
セカンドバージョンの作曲は宮内省雅楽師の林廣守(ひろもり)とされるが諸説あり。なお西洋楽器での伴奏を編曲したのは、プロイセンの軍楽家で音楽教師として来日していたフランツ・エッケルト。初演は1880年(明治13年)。
それにしても外国人が作曲したファーストバージョンならまだしも、セカンドバージョンは日本人が作曲しているのに「さざれ石」を分断したのがナゾ そのうち暇があれば調べましょう。
話がそれて、
しかもジンチョウゲよりも長くなったm(_ _)m
さて、さざれ石の隣にもジンチョウゲがあった。
同じく白いジンチョウゲで香りの強さも同じ。
しかし写真をよく見ると、
奥に赤紫のジンチョウゲも咲いているではないか。
この場にいたときはまったく気付かなかった。
ジンチョウゲは赤紫だと思い込んで白いジンチョウゲをすぐに見つけられず、
白いジンチョウゲもあると頭にインプットされたら、
今度は赤紫のジンチョウゲを見落とす。
私の脳認知のポンコツさを思い知らされた!(^^ゞ
神泉&さざれ石のところか見た参道の入り口。
参道を道路側より。
ジンチョウゲはイメージしていた香りとは違ったとはいえ、
生まれて初めてそれをクンクンできて満足。
日本の四大香木とされるのは
春:ジンチョウゲ(沈丁花)
夏:クチナシ
秋:キンモクセイ
冬:ロウバイ
キンモクセイはそこら中にある。またロウバイはあちこちの名所を訪れた。
しかしジンチョウゲとクチナシはあまり馴染みがないなあ。
来年の春と夏は意識して出かけましょう。
しかし2024年なったらそれをすっかり忘れる(^^ゞ
2025年に今年こそはと思い、まず春にジンチョウゲを探しに近所の公園に出かけた。しかし「春」といえば4〜5月と思うじゃない。それでゴールデンウィーク頃に見に行ったと思う。でも実はジンチョウゲの開花時期は2〜3月だったのでどこにも見当たらず。そのせいで気落ちしたのか夏のクチナシをまたすっかり忘れる(/o\)
さて3度目の正直の今年。
実はまた忘れていたのだがーーー
先日、目黒川沿いを歩いていて携帯が鳴ったので立ち止まった。
するとなんたる偶然かそこにジンチョウゲ!
ジンチョウゲは低木。さらにここのは地面に這うように生えていた。
人通りもあり残念ながらしゃがんでのクンクンは恥ずかしくてできず。
ところでジンチョウゲはウメやサクラと違って名所と呼ばれるところ、あるいは相当の数がまとまって植えられている場所はないみたい。それでも近所で何カ所かを探し出し、外出や散歩のついでに回ってきた。その第1弾が中目黒八幡神社。訪れたのは3月5日。
中目黒八幡神社は名前の通り中目黒にある。でも中目黒駅からは500メートルほど離れていて大きな通りにも面していない。その存在は知っていたけれど訪れたのは初めて。これは参道とは反対側の裏口。
境内の様子。
こぢんまりとした神社。
ひと通り見て回る。
でもジンチョウゲが見当たらない。
もう花が散ってしまったのか?
別にジンチョウゲが名物の神社ではないので案内板にもそんな表示はなし。
ひょっとしてこれ? ジンチョウゲは最初に載せた写真のように赤紫の花だと思い込んで見落としていた。この神社で咲いていたのは白いジンチョウゲ。
SNSではジンチョウゲの周りに来るといい香りがするなんてよく書いてある。でもまったく香りは漂っていない。そこで鼻を近づけてクンクン。
甘さはあってもあまり濃厚ではない。どちらかといえば爽やかに甘く、それほど似ていないのになぜかリンゴの香りや味を思い出した。しかし、いい香りではあるとしてもキンモクセイやロウバイと並べて四大香木とは過大評価とも思う。香りの絶対量も足らないし。ちょっとガッカリ。
本殿のある境内上部から参道を見下ろす。
上の写真では見えないが、
階段を降りて左側、灯籠の手前にあった神泉と書かれた湧き水。
ただし昔は湧き水だったものの、現在は井戸の水をここへ流しているらしい。
ところでよく見ると水盤の上にはワイヤーが張ってあり、
また隣にはこんな注意書き。
赤文字で書かれていたであろう部分が日光で退色して読めない。ネットで得た情報によると「カラスがここの水でエサを洗うことを学習した」のようだ。それでカラス防止用のワイヤー。カラスって頭いいんだね。もっともカラスは雑食性でネズミや小鳥なども食べるから、その残骸がここに残っていたらと思うとゾッとする。
湧き水の向かいにあるのが「さざれ石」。
さざれ石には2つの意味があってまずは小さな石。そしてその小さな石が地中の炭酸カルシウムなどによって結合し大きな塊となった状態。一般的には後者の意味で使われる場合がほとんど。ここにあるのもそんなメカニズムで形成されたさざれ石。また昔の人は炭酸カルシウムによる結合を石が成長して岩になったと見なし、それをめでたいものと考えた。
ところでさざれ石と聞いて思い出すのは「君が代」。
君が代の歌詞の元となったのは平安時代初期に編纂された古今和歌集に載っている和歌。作者は「読み人知らず」となっている。その和歌は冒頭を除けば「君が代」と同一。
我が君は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて
苔のむすまで
これは長寿を祝う和歌。
わかりやすい言葉遣いに置き換えると
愛しい(あるいは大切な)あなたが
1000年あるいはもっとずっと長く
→千代が1000年で、八千代の八は「多く」の意味。八百万(やおよろず)や
嘘八百と同じ語法
小さなさざれ石が、巌(いわお:大きな岩)となり
苔に覆われるまで長生きして欲しい
となる。
この和歌は御伽草子、謡曲、小唄、神楽、舟歌などに広く引用されていて、なぜか13世紀以降は「我が君」を「君が代」と変えて詠まれるようになる。理由はよく調べていない。それでも「我が君」と「君が代」の意味は同じ。
しかしその「君が代」が示す内容を、明治政府が天皇の治世、皇室の永続性と限定解釈して生まれたのが、後に国歌となった「君が代」。
それはさておき、
問題はメロディー。
♪千代に八千代にさざれ〜
(息継ぎ)
♪石の巌とな〜りて
と誰もが歌っているはず。まあ君が代は子供の頃に暗記して歌わされたままで、意味まで考えている人はほとんどいないものの、これでは千代に八千代に「さざれる」と意味不明の動詞になってしまう。それに「巌となりて」ではなく「石の岩音鳴りて」と思っている人も多いはず。私も「巌」と知ったのは大人になってずいぶんと経っていた。
どうして「さざれ石」を「さざれ」と「石」に分けるメロディーにしたのか?
実は現在の「君が代」はセカンドバージョン。
ファーストバージョンの作曲は駐日イギリス公使館付の軍楽隊長ジョン・フェントン。イギリス王族の来日に際し、日本に国歌がないのを知り作曲を申し出る。初演は1870年(明治3年)、演奏は薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)。元は和歌である君が代の歌詞が選ばれたのは、薩摩藩で、それが琵琶歌(びわうた)としてポピュラーだったから。
ただしフェントン作曲のメロディーは不人気で5年ほどで廃止された。
セカンドバージョンの作曲は宮内省雅楽師の林廣守(ひろもり)とされるが諸説あり。なお西洋楽器での伴奏を編曲したのは、プロイセンの軍楽家で音楽教師として来日していたフランツ・エッケルト。初演は1880年(明治13年)。
それにしても外国人が作曲したファーストバージョンならまだしも、セカンドバージョンは日本人が作曲しているのに「さざれ石」を分断したのがナゾ そのうち暇があれば調べましょう。
話がそれて、
しかもジンチョウゲよりも長くなったm(_ _)m
さて、さざれ石の隣にもジンチョウゲがあった。
同じく白いジンチョウゲで香りの強さも同じ。
しかし写真をよく見ると、
奥に赤紫のジンチョウゲも咲いているではないか。
この場にいたときはまったく気付かなかった。
ジンチョウゲは赤紫だと思い込んで白いジンチョウゲをすぐに見つけられず、
白いジンチョウゲもあると頭にインプットされたら、
今度は赤紫のジンチョウゲを見落とす。
私の脳認知のポンコツさを思い知らされた!(^^ゞ
神泉&さざれ石のところか見た参道の入り口。
参道を道路側より。
ジンチョウゲはイメージしていた香りとは違ったとはいえ、
生まれて初めてそれをクンクンできて満足。
2026年03月08日
残り5分咲きだった池上梅園
タイトルを変更して3月1日の大田区でウメをハシゴする散歩の後編。
聖蹟蒲田梅屋敷公園から40分ほど歩いて池上梅園に到着。
ここは2020年2月にウメ、2022年にロウバイを見に来て以来の3回目。
聖蹟蒲田梅屋敷公園は残り1分咲きの終了状態だったが、ここならもっと咲いているのはわかっていた。それは出かける前に見た大田区のホームページに、2日前の2月27日付けで「まだまだ見頃です!」と載っていたから。
ウメの本数は聖蹟蒲田梅屋敷公園が100本で池上梅園は370本。数が多い=多様な品種=全体の開花時期が長いのだと思う。
園内は3つのゾーンに分かれる。案内看板にウメがたくさん描かれているのがメインとなる西向きの斜面。斜面の下に前庭的なものがある。南側は茶室などが点在する庭園的なゾーン。(看板地図は左が北)
面積は約0.9ヘクタール。ウメが植えられているのが約半分としても、メインは斜面なので表面積で考えれば平面の敷地面積より広い。そこにウメが密集して植えられており0.45ヘクタールの敷地と聞いてイメージするより本数は多い。(聖蹟蒲田梅屋敷公園も0.46ヘクタールである)
ただし斜面の中に入れず花には近づけない。
どちらかといえばウメ景色を眺める設計の梅園になっている。
まずは斜面を登る。
この日は日曜日で人が多いせいか北側階段が上り、南側階段が下りの一方通行になっていた。
途中で斜面を横から。
この密集感が池上梅園の魅力。
ただもうちょっと花数の多いときに来たかったな。
水平の通路になったら、
下を眺める。
斜面の向こうに写っているのが前庭ゾーン。
さらにその先は同じ大田区立なのに池上梅園付属緑地となぜか別の公園になっている。
通路に近いウメを撮るものの、どうにもサマにならない。
ウメのせいではなく私のテクニック不足(^^ゞ
せっかくのサンシュユなのにちょっとウメから遠い。
通路を南に渡ったところに咲いていたのは八重揚羽という品種。
八重なのでモフモフ。
斜面上部には東屋(あずまや)的な休憩所もある。
こちらの階段は気をつけて降りましょう。
上ってきた北側階段の途中で斜面を眺めると南を向くので逆光。南側階段では順光になって撮影的に条件はいいのに、南側は広く斜面を見渡せないルートになっているのが残念。
庭園ゾーンに入ってロウバイ。
もう香りは残っていなかった。
鳥に食べられたと思われる柑橘系の実。
そして向かったのは、
池上梅園を含めて日本に数本しかないとされる希少種の座論梅。
既に見頃終了(/o\)
初めて来た2020年2月27日も同じような状態だった。わりと早咲きのウメのよう。ロウバイ目的だった2022年の2月6日はまだ開花前。まあまた来る機会はあるでしょう。なお宮崎県で国の天然記念物に指定されている樹齢600年の座論梅とは別の品種。ここの座論梅は昭和になって中国からもたらされた品種なのに、どうして同じ名前を付けたのかナゾ
庭園ゾーンをブラブラ。
雪吊りのトップとボトム。
奥に小さな広場があって、
屋台も出ている。
その手前の紅梅の色が印象的だった。
ほとんど花が残っていないけれど。
この門をくぐると、
池があり、この建物は「和室」というヘンな名前。
池の横にあるヤナギ。
まだ葉が少ないので何となく「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な雰囲気。
尾花とはススキ。ただし日本画で幽霊と最も一緒に描かれるのはヤナギ。
それとは打って変わって、おめでたいイメージの源平咲きのウメ。
源平咲きとは1本の木に白梅と紅梅が一緒に咲く、あるいは花びらに白と赤やピンクが混ざる咲き方。源平合戦(源氏の白旗、平氏の赤旗)にちなんだネーミング。モモやツバキではよくあるもののウメやサクラでは珍しい。
庭園ゾーンを抜けて斜面の下の通路。
お嬢ちゃんたちはウメより砂利遊びが楽しいみたい。
斜面の横から上から、あれこれ撮り方を工夫してみたのに、
素直に下から眺めるのが一番キレイだったとのオチ(^^ゞ
斜面のごく一部だけ立ち入れるようになっている。
でも至近距離で満開のウメはこれくらいしかなかった。
その代わりにゴツゴツした幹を見て楽しみましょう。
ずいぶんと緑色のツボミを発見。
前庭エリア。
ここには藁ボッチがたくさんある。
包まれているのはボタン(牡丹)だと思う。
池上梅園にはボタンが50本、ツツジが800本、それ以外にもシャクヤクやハナショウブなどが植えられている。それらも見てみたい。ただ開花情報がつかめるが不明。ウメならSNSにたくさん投稿されるけど。
前庭から斜面を見上げて「大田区でウメをハシゴする散歩」は終了。
この後は自宅まで帰る普通の散歩。
聖蹟蒲田梅屋敷公園から40分ほど歩いて池上梅園に到着。
ここは2020年2月にウメ、2022年にロウバイを見に来て以来の3回目。
聖蹟蒲田梅屋敷公園は残り1分咲きの終了状態だったが、ここならもっと咲いているのはわかっていた。それは出かける前に見た大田区のホームページに、2日前の2月27日付けで「まだまだ見頃です!」と載っていたから。
ウメの本数は聖蹟蒲田梅屋敷公園が100本で池上梅園は370本。数が多い=多様な品種=全体の開花時期が長いのだと思う。
園内は3つのゾーンに分かれる。案内看板にウメがたくさん描かれているのがメインとなる西向きの斜面。斜面の下に前庭的なものがある。南側は茶室などが点在する庭園的なゾーン。(看板地図は左が北)
面積は約0.9ヘクタール。ウメが植えられているのが約半分としても、メインは斜面なので表面積で考えれば平面の敷地面積より広い。そこにウメが密集して植えられており0.45ヘクタールの敷地と聞いてイメージするより本数は多い。(聖蹟蒲田梅屋敷公園も0.46ヘクタールである)
ただし斜面の中に入れず花には近づけない。
どちらかといえばウメ景色を眺める設計の梅園になっている。
まずは斜面を登る。
この日は日曜日で人が多いせいか北側階段が上り、南側階段が下りの一方通行になっていた。
途中で斜面を横から。
この密集感が池上梅園の魅力。
ただもうちょっと花数の多いときに来たかったな。
水平の通路になったら、
下を眺める。
斜面の向こうに写っているのが前庭ゾーン。
さらにその先は同じ大田区立なのに池上梅園付属緑地となぜか別の公園になっている。
通路に近いウメを撮るものの、どうにもサマにならない。
ウメのせいではなく私のテクニック不足(^^ゞ
せっかくのサンシュユなのにちょっとウメから遠い。
通路を南に渡ったところに咲いていたのは八重揚羽という品種。
八重なのでモフモフ。
斜面上部には東屋(あずまや)的な休憩所もある。
こちらの階段は気をつけて降りましょう。
上ってきた北側階段の途中で斜面を眺めると南を向くので逆光。南側階段では順光になって撮影的に条件はいいのに、南側は広く斜面を見渡せないルートになっているのが残念。
庭園ゾーンに入ってロウバイ。
もう香りは残っていなかった。
鳥に食べられたと思われる柑橘系の実。
そして向かったのは、
池上梅園を含めて日本に数本しかないとされる希少種の座論梅。
既に見頃終了(/o\)
初めて来た2020年2月27日も同じような状態だった。わりと早咲きのウメのよう。ロウバイ目的だった2022年の2月6日はまだ開花前。まあまた来る機会はあるでしょう。なお宮崎県で国の天然記念物に指定されている樹齢600年の座論梅とは別の品種。ここの座論梅は昭和になって中国からもたらされた品種なのに、どうして同じ名前を付けたのかナゾ
庭園ゾーンをブラブラ。
雪吊りのトップとボトム。
奥に小さな広場があって、
屋台も出ている。
その手前の紅梅の色が印象的だった。
ほとんど花が残っていないけれど。
この門をくぐると、
池があり、この建物は「和室」というヘンな名前。
池の横にあるヤナギ。
まだ葉が少ないので何となく「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的な雰囲気。
尾花とはススキ。ただし日本画で幽霊と最も一緒に描かれるのはヤナギ。
それとは打って変わって、おめでたいイメージの源平咲きのウメ。
源平咲きとは1本の木に白梅と紅梅が一緒に咲く、あるいは花びらに白と赤やピンクが混ざる咲き方。源平合戦(源氏の白旗、平氏の赤旗)にちなんだネーミング。モモやツバキではよくあるもののウメやサクラでは珍しい。
庭園ゾーンを抜けて斜面の下の通路。
お嬢ちゃんたちはウメより砂利遊びが楽しいみたい。
斜面の横から上から、あれこれ撮り方を工夫してみたのに、
素直に下から眺めるのが一番キレイだったとのオチ(^^ゞ
斜面のごく一部だけ立ち入れるようになっている。
でも至近距離で満開のウメはこれくらいしかなかった。
その代わりにゴツゴツした幹を見て楽しみましょう。
ずいぶんと緑色のツボミを発見。
前庭エリア。
ここには藁ボッチがたくさんある。
包まれているのはボタン(牡丹)だと思う。
池上梅園にはボタンが50本、ツツジが800本、それ以外にもシャクヤクやハナショウブなどが植えられている。それらも見てみたい。ただ開花情報がつかめるが不明。ウメならSNSにたくさん投稿されるけど。
前庭から斜面を見上げて「大田区でウメをハシゴする散歩」は終了。
この後は自宅まで帰る普通の散歩。
2026年03月06日
とっくに終了していた聖蹟蒲田梅屋敷公園のウメ その2
園内に入るとウメは想定以上に終了状態(>_<) それと歴史のある梅園なので大きな古木かと思っていたら、そうじゃなかったのが意外。
何本か「咲き残っている」ウメを眺めましょう。
後ろにある構造物は京急の高架。
萼(がく)の色が鮮やかだと花びらがなくてもそれなりにキレイ。
もちろん花びらがないと花じゃないけれど。
このウメの花はとても小さかった。
たぶん今まで見た中で最小クラス。
サンシュユもあったが、いつも書いているようにウメと並べて白・ピンク・黄色を一緒にしてくれないとこれを植える意味がない。
こちらの黄色はマンサクで錦糸卵みたいな花びら。
私の好きな青軸(枝が緑)にもう少し花が残っていて欲しかった。
新しく伸びた枝が緑なのはわかるけれど、
いつから茶色に変化するのだろう?
公園の南側は柵に囲まれて中に入れない。
若木の育成中なのかな。
だから写真としてちょっと遠い。
なんとか柵に近いウメを狙って。
南北に細長い地形で主に東側にウメがあり、西側はこんな雰囲気。
たいした作庭ではないものの、とりあえずマツでも眺めましょう。
でもよく見たらマツの下にウメがあるじゃないか。
マツを背景に咲いているウメが見たかったなあ。
公園の西側は京急の高架で、東側は国道15号線に面している。
つまりこの公園は騒音にあふれていて風情はゼロ。
それがとても残念なところ。
歩道橋に上がって育成ゾーンをマツ越しに見下ろす。
満開なら見応えがあるかも知れない。
(/_')/ソレハコッチニオイトイ
国道15号の品川方向を歩道橋から眺めると。
写真左側の空地は道路の拡幅予定地。
左下隅に公園の敷地が少しだけ写っている。
ということはこの公園は道路になってしまうのか?
航空写真で確認すると半分以上は削られそうだ。
調べてみると大田区公園緑地等箇所図なる資料を発見。
地図の凡例によると赤く囲まれているのは「都市計画決定公園」。
その言葉が意味しているところはよく知らない。しかし赤く囲まれた部分以外は道路になると考えていいだろう。公園の面積は1/3位まで削られそう。
江戸時代 10,000平米
現在 4365平米 (6割減)
近い将来 1300平米 (7割減 江戸時代からだと9割弱減)
前回に書いたように「明治天皇の聖蹟」まで担ぎ出してせっかく江戸時代の梅園を残したのに、これも時代の流れだね。道路の拡幅&公園敷地の削減時期は不明。用地取得率が2022年度末で90%であるくらいしかわからなかった。開通予定が報道されていないから少なくとも2〜3年は先と思う。
できたら4365平米の広さがあるうちに、ここで満開時期のウメを見たい。
いや本当は1ヘクタールの時代に来たかったな(^^ゞ
おしまい
何本か「咲き残っている」ウメを眺めましょう。
後ろにある構造物は京急の高架。
萼(がく)の色が鮮やかだと花びらがなくてもそれなりにキレイ。
もちろん花びらがないと花じゃないけれど。
このウメの花はとても小さかった。
たぶん今まで見た中で最小クラス。
サンシュユもあったが、いつも書いているようにウメと並べて白・ピンク・黄色を一緒にしてくれないとこれを植える意味がない。
こちらの黄色はマンサクで錦糸卵みたいな花びら。
私の好きな青軸(枝が緑)にもう少し花が残っていて欲しかった。
新しく伸びた枝が緑なのはわかるけれど、
いつから茶色に変化するのだろう?
公園の南側は柵に囲まれて中に入れない。
若木の育成中なのかな。
だから写真としてちょっと遠い。
なんとか柵に近いウメを狙って。
南北に細長い地形で主に東側にウメがあり、西側はこんな雰囲気。
たいした作庭ではないものの、とりあえずマツでも眺めましょう。
でもよく見たらマツの下にウメがあるじゃないか。
マツを背景に咲いているウメが見たかったなあ。
公園の西側は京急の高架で、東側は国道15号線に面している。
つまりこの公園は騒音にあふれていて風情はゼロ。
それがとても残念なところ。
歩道橋に上がって育成ゾーンをマツ越しに見下ろす。
満開なら見応えがあるかも知れない。
(/_')/ソレハコッチニオイトイ
国道15号の品川方向を歩道橋から眺めると。
写真左側の空地は道路の拡幅予定地。
左下隅に公園の敷地が少しだけ写っている。
ということはこの公園は道路になってしまうのか?
航空写真で確認すると半分以上は削られそうだ。
調べてみると大田区公園緑地等箇所図なる資料を発見。
地図の凡例によると赤く囲まれているのは「都市計画決定公園」。
その言葉が意味しているところはよく知らない。しかし赤く囲まれた部分以外は道路になると考えていいだろう。公園の面積は1/3位まで削られそう。
江戸時代 10,000平米
現在 4365平米 (6割減)
近い将来 1300平米 (7割減 江戸時代からだと9割弱減)
前回に書いたように「明治天皇の聖蹟」まで担ぎ出してせっかく江戸時代の梅園を残したのに、これも時代の流れだね。道路の拡幅&公園敷地の削減時期は不明。用地取得率が2022年度末で90%であるくらいしかわからなかった。開通予定が報道されていないから少なくとも2〜3年は先と思う。
できたら4365平米の広さがあるうちに、ここで満開時期のウメを見たい。
いや本当は1ヘクタールの時代に来たかったな(^^ゞ
おしまい
2026年03月04日
とっくに終了していた聖蹟蒲田梅屋敷公園のウメ
3月1日の日曜日は自宅でゴロゴロしている予定だったのに、
それじゃもったいないといわんばかりのポカポカ陽気。
今年の観梅は先日の小石川後楽園で最後のつもりだったけれど、どこか近くに見に行こうかと。それで今までずっと行きそびれていた大田区の聖蹟蒲田梅屋敷公園へ。
「梅屋敷公園」とはさぞ名所のように思えてしまうが、実にマイナーなところでSNSでも開花情報はあまりヒットしない。今年のウメ開花は早くもうほとんど咲いていないだろうと思いつつ、まあ半分は散歩目的なので。
そしてその公園から歩いて帰ってくるにはどのルートがいいか地図を眺めていると、帰り道方向にある池上梅園が目に入り、それならばと大田区でウメをハシゴする散歩に決定。
地図で白く抜けているのが大田区。
梅屋敷公園は蒲田近くの国道15号線沿いにある。
国道15号線は日本橋から横浜駅の少し手前までを結んでおり、旧東海道のルートをそのままたどっている。また箱根駅伝のコースとしても有名。別名が第1京浜。並行して走る国道1号線が第2京浜で国道の番号と順番が一致しないのがややこしい。
公園の最寄りは京急(京浜急行)の梅屋敷駅。でもそれだと品川経由になって遠回りなので、東急多摩線の蒲田駅から歩くことにした。15分ほどの距離。
1時過ぎに公園到着。
実に立派な名前の公園である。
聖蹟(せいせき・聖跡とも書く)とは辞書によると
神聖な出来事のあった場所。聖なる遺跡・史跡。
天子がが行幸した場所。
の意味があり、日本では天子=天皇だけれど、実際には明治天皇限定でしかこの言葉は使われていないように思う。大正天皇以降の聖蹟は聞いたことがない。というか「聖蹟と名のつく」ところはとても少なく、この公園以外では
多摩市の旧多摩聖蹟記念館
京王線の聖蹟桜ヶ丘駅
北品川の聖蹟公園
くらいで合計4つ。
それぞれを簡単に紹介すると、
明治天皇は現在の多摩市連光寺付近で兎狩りや鮎漁を合計4回行い(自ら行ったのではなく、その様子を観覧していたようだ)、同地に御狩場も設けたので、それを記念して1930年(昭和5年)に建てられたのが多摩聖蹟記念館。1986年(昭和61年)に所有財団から多摩市に寄贈され、翌年に多摩市立の旧多摩聖蹟記念館としてリニューアルオープン。どうして「旧」とわざわざ付け足したのだろう?
記念館近くの京王線の関戸駅が1937年(昭和12年)に聖蹟桜ヶ丘駅に改称。周辺が桜名所であったのと「聖蹟」の文字によるイメージアップ戦略。多摩聖蹟記念館も「聖蹟」による地域起こしのために地元企業や政治家がその指定を政府に求めたもの。
聖蹟公園は江戸時代に東海道品川宿の本陣があった場所。明治になって新政府は首都を京都から東京に移す際に、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために天皇の移動は行幸(ぎょうこう)扱いにした。行幸とは天皇が御所の外に出かけるのを意味し、帰るのが還幸(かんこう)。
品川宿は天皇行幸途中の行在所(あんざいしょ:一時的に滞在・宿泊する仮の御所)となり、それを記念して1938年(昭和13年)に聖蹟公園となる。
さて聖蹟蒲田梅屋敷公園の歴史は
江戸時代後期に蒲田周辺では農家の副業として梅の栽培が盛んになる。
農家としては梅干しを作るためであったが、やがて観梅に来る人が増える。
農村に過ぎなかった蒲田が行楽地となる。
↓
それを目当てに有力な薬問屋が所有する約3000坪の敷地に梅園や茶店を造った。これが梅屋敷で歌川広重の浮世絵にも「蒲田の梅園」として描かれる。
明治天皇もこの梅屋敷を気に入りよく訪れる。
なぜかその回数は5回説と9回説がある。
天皇の行幸なんて正確に記録が残っているはずなのに。
↓
しかし明治時代後期になると衰退を見せるようになる。そして1920年(大正9年)に京急が買い上げて鉄道用地となり、また京浜国道(現国道15号)の整備で敷地が削られるものの、保存会が結成され1933年(昭和8年)に文部大臣による明治天皇御聖蹟地として保存指定を受ける。1938年(昭和13年)に京急から東京市へ寄贈され、翌年に聖蹟蒲田梅屋敷公園として開園。1953年(昭和28年)に大田区へ移管され区立公園に。
明治の頃の梅園の写真は→ここをクリック
しかし同じ写真を亀戸の梅園と紹介しているものもあり信憑性は不明
→亀戸版はここをクリック
でも時代の雰囲気は感じられるから見ておいて。
現在の面積は4365平米。江戸時代の梅屋敷が3000坪なら10,000平米=1ヘクタールなので、当時と較べれば約4割の規模。
ちなみに江戸時代の梅名所は
亀戸天神近くの亀戸梅屋舗 (屋舗は屋敷と同じ)
湯島天神
向島百花園
小石川後楽園
蒲田の梅園
がトップ5。蒲田以外は現在もメジャーな名所として残っている(亀戸梅屋舗は現存しないが亀戸天神が)。それにしても江戸時代には蒲田が梅で有名だったとは。少し前までの蒲田のイメージを考えると(^^ゞ どうにも想像がつかないね。
ーーー続く
<補足>
岡山県には地名や施設名ではないが、明治天皇が行幸した場所の近くに「聖蹟◯◯◯」の名を付けたマンションがあるらしい。
それじゃもったいないといわんばかりのポカポカ陽気。
今年の観梅は先日の小石川後楽園で最後のつもりだったけれど、どこか近くに見に行こうかと。それで今までずっと行きそびれていた大田区の聖蹟蒲田梅屋敷公園へ。
「梅屋敷公園」とはさぞ名所のように思えてしまうが、実にマイナーなところでSNSでも開花情報はあまりヒットしない。今年のウメ開花は早くもうほとんど咲いていないだろうと思いつつ、まあ半分は散歩目的なので。
そしてその公園から歩いて帰ってくるにはどのルートがいいか地図を眺めていると、帰り道方向にある池上梅園が目に入り、それならばと大田区でウメをハシゴする散歩に決定。
地図で白く抜けているのが大田区。
梅屋敷公園は蒲田近くの国道15号線沿いにある。
国道15号線は日本橋から横浜駅の少し手前までを結んでおり、旧東海道のルートをそのままたどっている。また箱根駅伝のコースとしても有名。別名が第1京浜。並行して走る国道1号線が第2京浜で国道の番号と順番が一致しないのがややこしい。
公園の最寄りは京急(京浜急行)の梅屋敷駅。でもそれだと品川経由になって遠回りなので、東急多摩線の蒲田駅から歩くことにした。15分ほどの距離。
1時過ぎに公園到着。
実に立派な名前の公園である。
聖蹟(せいせき・聖跡とも書く)とは辞書によると
神聖な出来事のあった場所。聖なる遺跡・史跡。
天子がが行幸した場所。
の意味があり、日本では天子=天皇だけれど、実際には明治天皇限定でしかこの言葉は使われていないように思う。大正天皇以降の聖蹟は聞いたことがない。というか「聖蹟と名のつく」ところはとても少なく、この公園以外では
多摩市の旧多摩聖蹟記念館
京王線の聖蹟桜ヶ丘駅
北品川の聖蹟公園
くらいで合計4つ。
それぞれを簡単に紹介すると、
明治天皇は現在の多摩市連光寺付近で兎狩りや鮎漁を合計4回行い(自ら行ったのではなく、その様子を観覧していたようだ)、同地に御狩場も設けたので、それを記念して1930年(昭和5年)に建てられたのが多摩聖蹟記念館。1986年(昭和61年)に所有財団から多摩市に寄贈され、翌年に多摩市立の旧多摩聖蹟記念館としてリニューアルオープン。どうして「旧」とわざわざ付け足したのだろう?
記念館近くの京王線の関戸駅が1937年(昭和12年)に聖蹟桜ヶ丘駅に改称。周辺が桜名所であったのと「聖蹟」の文字によるイメージアップ戦略。多摩聖蹟記念館も「聖蹟」による地域起こしのために地元企業や政治家がその指定を政府に求めたもの。
聖蹟公園は江戸時代に東海道品川宿の本陣があった場所。明治になって新政府は首都を京都から東京に移す際に、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために天皇の移動は行幸(ぎょうこう)扱いにした。行幸とは天皇が御所の外に出かけるのを意味し、帰るのが還幸(かんこう)。
品川宿は天皇行幸途中の行在所(あんざいしょ:一時的に滞在・宿泊する仮の御所)となり、それを記念して1938年(昭和13年)に聖蹟公園となる。
さて聖蹟蒲田梅屋敷公園の歴史は
江戸時代後期に蒲田周辺では農家の副業として梅の栽培が盛んになる。
農家としては梅干しを作るためであったが、やがて観梅に来る人が増える。
農村に過ぎなかった蒲田が行楽地となる。
↓
それを目当てに有力な薬問屋が所有する約3000坪の敷地に梅園や茶店を造った。これが梅屋敷で歌川広重の浮世絵にも「蒲田の梅園」として描かれる。
明治天皇もこの梅屋敷を気に入りよく訪れる。
なぜかその回数は5回説と9回説がある。
天皇の行幸なんて正確に記録が残っているはずなのに。
↓
しかし明治時代後期になると衰退を見せるようになる。そして1920年(大正9年)に京急が買い上げて鉄道用地となり、また京浜国道(現国道15号)の整備で敷地が削られるものの、保存会が結成され1933年(昭和8年)に文部大臣による明治天皇御聖蹟地として保存指定を受ける。1938年(昭和13年)に京急から東京市へ寄贈され、翌年に聖蹟蒲田梅屋敷公園として開園。1953年(昭和28年)に大田区へ移管され区立公園に。
明治の頃の梅園の写真は→ここをクリック
しかし同じ写真を亀戸の梅園と紹介しているものもあり信憑性は不明
→亀戸版はここをクリック
でも時代の雰囲気は感じられるから見ておいて。
現在の面積は4365平米。江戸時代の梅屋敷が3000坪なら10,000平米=1ヘクタールなので、当時と較べれば約4割の規模。
ちなみに江戸時代の梅名所は
亀戸天神近くの亀戸梅屋舗 (屋舗は屋敷と同じ)
湯島天神
向島百花園
小石川後楽園
蒲田の梅園
がトップ5。蒲田以外は現在もメジャーな名所として残っている(亀戸梅屋舗は現存しないが亀戸天神が)。それにしても江戸時代には蒲田が梅で有名だったとは。少し前までの蒲田のイメージを考えると(^^ゞ どうにも想像がつかないね。
ーーー続く
<補足>
岡山県には地名や施設名ではないが、明治天皇が行幸した場所の近くに「聖蹟◯◯◯」の名を付けたマンションがあるらしい。
2026年03月02日
挿し芽1年目のクリスマス・カクタスが咲いた
いつもゴールデンウィーク頃にクリスマス・カクタスを剪定し、ちぎった茎を挿し芽にして増やす作業をする。それが育って花を咲かすまで3年(3シーズン)掛かる。
これは2025年の5月18日に挿し芽した「5代目その3」と名付けたプランター。
花が咲くのは2027年クリスマス頃の予定。
しかしあまり順調に成長せず。
秋には半分くらいに減ってしまい、また全体的に薄っぺらい
撮影日は10月10日。
挿し芽が花を咲かすには3年が必要とはいえツボミはつける。
ただしいつの間にか落ちてしまう。
これは今年の1月15日。
1年目としてはツボミが大きいものの、
今までもこのようなことはあり、
そのうち落ちるだろうと思っていた。
2月24日。
ツボミが色づいている。
1年目でこんなのは初めて。
そして昨日の3月1日。
なんと開花した!
でも茎(サボテンなので葉のように見える部分は茎)に厚みがないので、茎が短いのにもかかわらず花の重みに耐えられずお辞儀をしてしまっている。それは今後を考えるとちょっと不安。そして咲くにしてもどうして今頃なのだ。
でもとりあえずはメデタイと喜ぼう。
これは2025年の5月18日に挿し芽した「5代目その3」と名付けたプランター。
花が咲くのは2027年クリスマス頃の予定。
しかしあまり順調に成長せず。
秋には半分くらいに減ってしまい、また全体的に薄っぺらい
撮影日は10月10日。
挿し芽が花を咲かすには3年が必要とはいえツボミはつける。
ただしいつの間にか落ちてしまう。
これは今年の1月15日。
1年目としてはツボミが大きいものの、
今までもこのようなことはあり、
そのうち落ちるだろうと思っていた。
2月24日。
ツボミが色づいている。
1年目でこんなのは初めて。
そして昨日の3月1日。
なんと開花した!
でも茎(サボテンなので葉のように見える部分は茎)に厚みがないので、茎が短いのにもかかわらず花の重みに耐えられずお辞儀をしてしまっている。それは今後を考えるとちょっと不安。そして咲くにしてもどうして今頃なのだ。
でもとりあえずはメデタイと喜ぼう。
2026年03月01日
小石川後楽園で観梅 その3
梅園の外から日差しをたっぷり浴びたウメを眺め、
キレイやな〜、春やな〜と幸せ気分。
そろそろ中に入りましょう。
連休の初日で天気もよかった割にそれほど混雑していない。
梅園に入ってすぐ、先ほど外側から眺めていたあたりは強く香りが漂っていた。
エエ匂いやな〜。
ウメを見上げながら。
見上げれば東京ドームや周りのビルが視界に入るのは致し方ないところ。それよりも梅林は東京ドームに近いので、ドームの中から漏れているのか、あるいは周辺で音楽を流しているのか、とにかくその騒音がうるさい。ちょっと興ざめ。
なお小石川後楽園の総面積は7ヘクタール。梅園はだいたい1500平米(0.15ヘクタール)といったところ。
ちょっと寄り気味で。
このウメは変わった色をしていると思って撮ったのに、
写真で見るとそうでもなかった。不思議。
その隣にロウバイが少し残っていた。
もうクンクンしても香りはほとんど感じられない。
こちらの黄色い花はサンシュユ。
ウメより先に咲くロウバイと違ってサンシュユの開花期はウメと同じ。そしてウメには黄色がないので梅園にはウメとサンシュユを混ぜて植えるべしが私の主張であり願い。
これは以前に京王百草園で撮ったもの。
ほら黄色がアクセントになっていい感じでしょ。
今まで訪れた梅林でウメとサンシュユが同じ場所に植えられていたのは京王百草園と池上梅園のみ。神代植物園はウメと一緒でもサンシュユは1本だけだったような。新宿御苑、向島百花園、芦花公園は小石川後楽園と同じようにウメとは離れた位置だった。
梅林関係者の皆さん、サンシュユをウメと並べてたくさん植えましょう!
アップで色とりどり。
これは私の好きな青軸(枝がグリーン)。
奥の梅林に進む。
その途中にあったしだれ梅。
枝垂れているとウメのめでたい感じが増すね。
奥の梅林も手前にあったのとそう変わりはないのだけれど、
一番奥は少し日当たりが悪く、
そこから日の当たっているウメを眺めるとちょっと幻想的。
梅林を離れる。
帰りのルート。
小石川後楽園は日本と中国各地の景勝地と、古典になぞらえた見所をいくつも配したテーマパークのような構成になっている。前回に紹介した大泉水は琵琶湖がモデル。とはいっても形が琵琶湖に似ているわけでもなく、琵琶湖にある竹生島(ちくぶしま)がいくつかの石で表現されているだけ。似せる模すではなく「見立てる」のは日本独自の文化様式(たぶん)。
園内の北側は迷路のように細い通路が入り組んでいるのだが、今回は前回より立ち入り禁止カ所が多かったように思う。
この工事の影響のようだ。
通天橋に見立てたところもこの通り。
これは前回2020年に撮った写真。
ところで通天橋(つうてんきょう)って知ってる? 周りの人に尋ねたら大阪の通天閣なら知っているという人ばかりだった。通天橋は京都の東福寺にある。これも奈良の東大寺ならとの答え。
それでもこれを見ればCMやニュースなどで見覚えがあるはず。通天橋は京都でも屈指の紅葉スポット。しかしよく見て欲しい。通天橋は水路をまたぐ橋ではあるが屋根のついた渡り廊下なのだ。それを川に置いた飛び石を通天橋とは。まさに究極の見立て! あるいは単なるこじつけ?
公式ホームページはこれらの見立てを網羅していない。少なくと10、ひょっとしたら20以上はあるように思う。もしすべての見立て箇所がわかったら、全部見て回ってひとつひとつケチをつけたい(^^ゞ
しだれ桜のエリア手前まで戻ってきた。
この橋は嵐山の渡月橋の見立て。下を流れるのは大堰川(おおいがわ)とされる。渡月橋の下は桂川で大堰川はもっと上流の名称。ひょっとしたら江戸時代は違っていたのかも知れないが。しかし渡月橋の先は中国の西湖なんだからもうやりたい放題。
ウメと庭園を楽しんで1時間半ほど。
違う花の季節にまた来ましょう。
おしまい
キレイやな〜、春やな〜と幸せ気分。
そろそろ中に入りましょう。
連休の初日で天気もよかった割にそれほど混雑していない。
梅園に入ってすぐ、先ほど外側から眺めていたあたりは強く香りが漂っていた。
エエ匂いやな〜。
ウメを見上げながら。
見上げれば東京ドームや周りのビルが視界に入るのは致し方ないところ。それよりも梅林は東京ドームに近いので、ドームの中から漏れているのか、あるいは周辺で音楽を流しているのか、とにかくその騒音がうるさい。ちょっと興ざめ。
なお小石川後楽園の総面積は7ヘクタール。梅園はだいたい1500平米(0.15ヘクタール)といったところ。
ちょっと寄り気味で。
このウメは変わった色をしていると思って撮ったのに、
写真で見るとそうでもなかった。不思議。
その隣にロウバイが少し残っていた。
もうクンクンしても香りはほとんど感じられない。
こちらの黄色い花はサンシュユ。
ウメより先に咲くロウバイと違ってサンシュユの開花期はウメと同じ。そしてウメには黄色がないので梅園にはウメとサンシュユを混ぜて植えるべしが私の主張であり願い。
これは以前に京王百草園で撮ったもの。
ほら黄色がアクセントになっていい感じでしょ。
今まで訪れた梅林でウメとサンシュユが同じ場所に植えられていたのは京王百草園と池上梅園のみ。神代植物園はウメと一緒でもサンシュユは1本だけだったような。新宿御苑、向島百花園、芦花公園は小石川後楽園と同じようにウメとは離れた位置だった。
梅林関係者の皆さん、サンシュユをウメと並べてたくさん植えましょう!
アップで色とりどり。
これは私の好きな青軸(枝がグリーン)。
奥の梅林に進む。
その途中にあったしだれ梅。
枝垂れているとウメのめでたい感じが増すね。
奥の梅林も手前にあったのとそう変わりはないのだけれど、
一番奥は少し日当たりが悪く、
そこから日の当たっているウメを眺めるとちょっと幻想的。
梅林を離れる。
帰りのルート。
小石川後楽園は日本と中国各地の景勝地と、古典になぞらえた見所をいくつも配したテーマパークのような構成になっている。前回に紹介した大泉水は琵琶湖がモデル。とはいっても形が琵琶湖に似ているわけでもなく、琵琶湖にある竹生島(ちくぶしま)がいくつかの石で表現されているだけ。似せる模すではなく「見立てる」のは日本独自の文化様式(たぶん)。
園内の北側は迷路のように細い通路が入り組んでいるのだが、今回は前回より立ち入り禁止カ所が多かったように思う。
この工事の影響のようだ。
通天橋に見立てたところもこの通り。
これは前回2020年に撮った写真。
ところで通天橋(つうてんきょう)って知ってる? 周りの人に尋ねたら大阪の通天閣なら知っているという人ばかりだった。通天橋は京都の東福寺にある。これも奈良の東大寺ならとの答え。
それでもこれを見ればCMやニュースなどで見覚えがあるはず。通天橋は京都でも屈指の紅葉スポット。しかしよく見て欲しい。通天橋は水路をまたぐ橋ではあるが屋根のついた渡り廊下なのだ。それを川に置いた飛び石を通天橋とは。まさに究極の見立て! あるいは単なるこじつけ?
公式ホームページはこれらの見立てを網羅していない。少なくと10、ひょっとしたら20以上はあるように思う。もしすべての見立て箇所がわかったら、全部見て回ってひとつひとつケチをつけたい(^^ゞ
しだれ桜のエリア手前まで戻ってきた。
この橋は嵐山の渡月橋の見立て。下を流れるのは大堰川(おおいがわ)とされる。渡月橋の下は桂川で大堰川はもっと上流の名称。ひょっとしたら江戸時代は違っていたのかも知れないが。しかし渡月橋の先は中国の西湖なんだからもうやりたい放題。
ウメと庭園を楽しんで1時間半ほど。
違う花の季節にまた来ましょう。
おしまい
2026年02月28日
小石川後楽園で観梅 その2
さて6年ぶりの小石川後楽園。西門を入ってすぐ、東京ドームがまるで雪山のように思える印象はそのときと変わらず。
2020年はしだれ桜を見に来た。
これは小石川後楽園のしだれ桜のアイコンである馬場桜。
6年前の咲いている姿は→こちら
上の馬場桜はけっこうスカスカで樹勢が衰えている。
別のしだれ桜と較べれば一目瞭然。
6年前の咲いている姿は→こちら
あまり大きな声では言えないが?しだれ桜を見るなら同じ都立庭園でも六義園が断然お勧め。その姿形、大きさ共に小石川後楽園を圧倒している。ただし六義園のは色が薄いのが難点。六義園のしだれ桜は→こちら
雪吊り、藁ボッチと庭園の冬演出はもう見納め。
池の風景を撮ろうとしたら東京ドームがジャマ(/o\)
ではカメラを下に向けましょう。
しかし水面に白い屋根が映り込むので、
それならいっそ東京ドームをメインに(^^ゞ
池の横に回り込む。
この池に名前はなく単に大泉水と呼ばれる。泉水とは庭園用語で池または池のある庭を指す。別に池の底から水が湧き出しているわけじゃない。
少し高台になり、
見通しも悪くなる。これは回遊式(歩いて見て回る)庭園の風景をドラマチックに切り替えるための演出。
その通路を下って現れたのが2つ目の池。
そこにあるのが唐門(からもん)。
逆光に透ける葉を楽しみながら池と唐門。
この2つ目の池があるエリアは内庭と呼ばれる。この先にはかつて水戸徳川家の藩邸があり、今の言い方なら藩邸の裏庭にあたる。そして江戸時代には最初の大きな池のあるエリアが後楽園。唐門は裏庭と後楽園を仕切る門。
江戸時代に藩邸を訪れた客は内庭を通り、唐門をくぐって後楽園に入る。つまり私が歩いてきたのとは逆の道順。それで先ほどの見通しの悪いところを通った後に、大泉水が現れてワォー!となる仕掛け。
この唐門は空襲で焼け落ち2020年11月に復元された。それにしてもずいぶんと長く放置されたものだ。前回にしだれ桜を見に来たのは2020年3月なので、工事風景を見たような気もするが明確な記憶はなし。写真も撮っていなかった。
なぜ唐門の名前かはっきりとしないが、後楽園の造成当時(江戸時代初期)の水戸藩は明の儒学者であり日本に亡命中の朱舜水(しゅ・しゅんすい)を顧問にしており、その関係ではと推測している。後楽園と命名したのも朱舜水。
内庭を離れて梅林に向かう。
途中にある藤棚。
小石川後楽園の藤棚は低い。中に人が立てるか立てないかくらいの高さ。でも数はそこそこある。今回はウメを見るついでに、春にフジを見に来るべきか=藤棚に近づいてクンクンできるかを確認するつもりだった。なのに遠くから写真を撮っただけでそれをコロッと忘れてしまう(/o\)
これは田んぼ。稻田あるいは田端の名称がついている。
二代藩主の水戸光圀が息子の嫁が公家出身なので、農民の苦労を教えるために作ったとされる。光圀をたたえている言い伝えだが、こんなわずかな面積で「苦労」をわかった気になってもらっては困るな。
庭園の案内マップにはこの田んぼの前も梅林と書かれている。
しかし数本のウメがあるだけで梅林とは誇大表記。
その先にあるのがこれ。
不老水とは飲んだら不老不死になる水かと思えば、涸れない井戸の名前だった。
しかも上に柵があって井戸に水があるかわからない。それと例え涸れなくても藩邸の広さを考えれば、このサイズの井戸だけでは足らないね。
梅林が見えてきた!
梅林の隣にある藤棚は極端に背が低い。
満開のウメが光をたっぷりと浴びて美しい。
ということは梅林の中に入れば逆光。
しばらくここから眺めるとした。
ここまで歩いてきたルート。
ーーー続く
2020年はしだれ桜を見に来た。
これは小石川後楽園のしだれ桜のアイコンである馬場桜。
6年前の咲いている姿は→こちら
上の馬場桜はけっこうスカスカで樹勢が衰えている。
別のしだれ桜と較べれば一目瞭然。
6年前の咲いている姿は→こちら
あまり大きな声では言えないが?しだれ桜を見るなら同じ都立庭園でも六義園が断然お勧め。その姿形、大きさ共に小石川後楽園を圧倒している。ただし六義園のは色が薄いのが難点。六義園のしだれ桜は→こちら
雪吊り、藁ボッチと庭園の冬演出はもう見納め。
池の風景を撮ろうとしたら東京ドームがジャマ(/o\)
ではカメラを下に向けましょう。
しかし水面に白い屋根が映り込むので、
それならいっそ東京ドームをメインに(^^ゞ
池の横に回り込む。
この池に名前はなく単に大泉水と呼ばれる。泉水とは庭園用語で池または池のある庭を指す。別に池の底から水が湧き出しているわけじゃない。
少し高台になり、
見通しも悪くなる。これは回遊式(歩いて見て回る)庭園の風景をドラマチックに切り替えるための演出。
その通路を下って現れたのが2つ目の池。
そこにあるのが唐門(からもん)。
逆光に透ける葉を楽しみながら池と唐門。
この2つ目の池があるエリアは内庭と呼ばれる。この先にはかつて水戸徳川家の藩邸があり、今の言い方なら藩邸の裏庭にあたる。そして江戸時代には最初の大きな池のあるエリアが後楽園。唐門は裏庭と後楽園を仕切る門。
江戸時代に藩邸を訪れた客は内庭を通り、唐門をくぐって後楽園に入る。つまり私が歩いてきたのとは逆の道順。それで先ほどの見通しの悪いところを通った後に、大泉水が現れてワォー!となる仕掛け。
この唐門は空襲で焼け落ち2020年11月に復元された。それにしてもずいぶんと長く放置されたものだ。前回にしだれ桜を見に来たのは2020年3月なので、工事風景を見たような気もするが明確な記憶はなし。写真も撮っていなかった。
なぜ唐門の名前かはっきりとしないが、後楽園の造成当時(江戸時代初期)の水戸藩は明の儒学者であり日本に亡命中の朱舜水(しゅ・しゅんすい)を顧問にしており、その関係ではと推測している。後楽園と命名したのも朱舜水。
内庭を離れて梅林に向かう。
途中にある藤棚。
小石川後楽園の藤棚は低い。中に人が立てるか立てないかくらいの高さ。でも数はそこそこある。今回はウメを見るついでに、春にフジを見に来るべきか=藤棚に近づいてクンクンできるかを確認するつもりだった。なのに遠くから写真を撮っただけでそれをコロッと忘れてしまう(/o\)
これは田んぼ。稻田あるいは田端の名称がついている。
二代藩主の水戸光圀が息子の嫁が公家出身なので、農民の苦労を教えるために作ったとされる。光圀をたたえている言い伝えだが、こんなわずかな面積で「苦労」をわかった気になってもらっては困るな。
庭園の案内マップにはこの田んぼの前も梅林と書かれている。
しかし数本のウメがあるだけで梅林とは誇大表記。
その先にあるのがこれ。
不老水とは飲んだら不老不死になる水かと思えば、涸れない井戸の名前だった。
しかも上に柵があって井戸に水があるかわからない。それと例え涸れなくても藩邸の広さを考えれば、このサイズの井戸だけでは足らないね。
梅林が見えてきた!
梅林の隣にある藤棚は極端に背が低い。
満開のウメが光をたっぷりと浴びて美しい。
ということは梅林の中に入れば逆光。
しばらくここから眺めるとした。
ここまで歩いてきたルート。
ーーー続く
2026年02月27日
小石川後楽園で観梅
そろそろウメのシーズンも残りわずか。何となく庭園らしい風景でウメを眺めたくなって2月21日に訪れたのが小石川後楽園。ここへは2020年にしだれ桜を見に来た。
場所は東京ドームの隣。
ところで東京ドームは後楽園球場を建て替えたものと思っている人が多い。実はそれだと半分しか正解にならない。
大まかに歴史を紹介するとこの一帯は
江戸時代には水戸徳川家の上屋敷。
敷地の半分に藩邸などが並び、残り半分が後楽園と名付けられた庭園だった。
↓
明治になって藩邸部分にに東京砲兵工廠(こうしょう)という軍需工場が建てられる。
↓
1923年(大正12年)の関東大震災で被災して工廠は九州へ移転し、
1935年(昭和10年)に閉鎖。
その跡地に
1937年(昭和12年)に後楽園球場
1949年(昭和24年)に後楽園競輪場
が造られた。
これが1974年(昭和59年)の航空写真。
ただし1967年(昭和42年)〜1979年(昭和54年)に都知事を務めた美濃部亮吉の公営ギャンブル廃止の方針を受けて競輪が開催されていたのは1972年(昭和47年)まで。その後の競輪場はプールやゴルフ練習場に改装される。
後楽園ジャンボプールの名前に聞き覚えない?画像はhttps://wasser-urlaub.net/wellenbad-in-japan/から引用
そして
1986年(昭和61年)に競輪場が解体され、
その跡地に東京ドームを建設。開業は1988年(昭和63年)。
後楽園球場はプロ野球の1987年シーズンまで使用され、同年の11月に解体開始。現在はプリズムホールや東京ドームホテルなどになっている。
今となっては貴重な東京ドームと後楽園球場のツーショット。
だから正確に言うなら東京ドームは後楽園球場ではなくて、後楽園競輪場を建て替えた施設となる。まあもう38年も前の出来事なので認識が大雑把になるのも仕方がないけれど。そういえば開業当時は東京ドームをビッグエッグの愛称で呼んでいたのに、それもすっかり死語になった。また世間でそういう評価はないものの、この真っ白な風船建造物はバブル経済のイケイケムードの象徴だったようにも思える。
なお庭園の後楽園は東京砲兵工廠時代も維持され、昭和11年(1936年)に東京市に移管。昭和13年(1938年)に小石川後楽園として開園された。
さて東京ドームは誰でも知っているものの、その場所は東京に住んでいる人でも意外とあやふや。地図で示したように皇居のほぼ真北の位置。皇居の北側、武道館の辺りからだと1キロちょっとの距離。
小石川後楽園の最寄り駅は地下鉄大江戸線の飯田橋駅。この日は先に立ち寄った場所の関係で地下鉄南北線の後楽園駅で下車。
南北線の開業は1991年(平成3年)で、ここまで延びてきたのは1996年(平成8年)。つまり東京ドームができた後。でも地下鉄丸ノ内線の後楽園駅は1954年(昭和29年)からあるので「後楽園」の駅名。
地上に出ると目の前に東京ドーム。
隣の遊園地は東京ドームシティ。
ドームの周りはかなり混雑。
RIIZE(ライズ)という韓国のボーイズアイドルのライブがあるみたい。
ドーム横の通路で道路に降りて、
小石川後楽園の塀沿いに進む。
中央大学の理系が入っている後楽園キャンパス。
道路をこの公園のところで左折して、
そろそろ入り口かと思ったら、
違う道路に出ただけだった。
駅を出て8分ほど歩いて到着。
ここは西門。
後で地図を見たら東京ドームを突っ切って東門に向かった方が近かった。
「見ごろ」の文字で気を取り直し。
門をくぐって、
入場券売り場。
もっと混雑しているかと思って事前にオンラインのチケットを購入しておいた。スマホでバーコードを見せるタイプ。
上の写真で券売機の横に「入園券を買ったら左側から入れ」と書いてある。それで左側に進んで、そこでチケットをチェックされると思いきや係員は誰もいない。オンラインだろうがここでチケットを買おうが素通り状態。つまりタダで入園可能。別にチケットを買って損したとは思っていないが、なんともユルい運営体制。
ーーー続く
まだウメのウの字も書いてなくてゴメンm(_ _)m
場所は東京ドームの隣。
ところで東京ドームは後楽園球場を建て替えたものと思っている人が多い。実はそれだと半分しか正解にならない。
大まかに歴史を紹介するとこの一帯は
江戸時代には水戸徳川家の上屋敷。
敷地の半分に藩邸などが並び、残り半分が後楽園と名付けられた庭園だった。
↓
明治になって藩邸部分にに東京砲兵工廠(こうしょう)という軍需工場が建てられる。
↓
1923年(大正12年)の関東大震災で被災して工廠は九州へ移転し、
1935年(昭和10年)に閉鎖。
その跡地に
1937年(昭和12年)に後楽園球場
1949年(昭和24年)に後楽園競輪場
が造られた。
これが1974年(昭和59年)の航空写真。
ただし1967年(昭和42年)〜1979年(昭和54年)に都知事を務めた美濃部亮吉の公営ギャンブル廃止の方針を受けて競輪が開催されていたのは1972年(昭和47年)まで。その後の競輪場はプールやゴルフ練習場に改装される。
後楽園ジャンボプールの名前に聞き覚えない?画像はhttps://wasser-urlaub.net/wellenbad-in-japan/から引用
そして
1986年(昭和61年)に競輪場が解体され、
その跡地に東京ドームを建設。開業は1988年(昭和63年)。
後楽園球場はプロ野球の1987年シーズンまで使用され、同年の11月に解体開始。現在はプリズムホールや東京ドームホテルなどになっている。
今となっては貴重な東京ドームと後楽園球場のツーショット。
だから正確に言うなら東京ドームは後楽園球場ではなくて、後楽園競輪場を建て替えた施設となる。まあもう38年も前の出来事なので認識が大雑把になるのも仕方がないけれど。そういえば開業当時は東京ドームをビッグエッグの愛称で呼んでいたのに、それもすっかり死語になった。また世間でそういう評価はないものの、この真っ白な風船建造物はバブル経済のイケイケムードの象徴だったようにも思える。
なお庭園の後楽園は東京砲兵工廠時代も維持され、昭和11年(1936年)に東京市に移管。昭和13年(1938年)に小石川後楽園として開園された。
さて東京ドームは誰でも知っているものの、その場所は東京に住んでいる人でも意外とあやふや。地図で示したように皇居のほぼ真北の位置。皇居の北側、武道館の辺りからだと1キロちょっとの距離。
小石川後楽園の最寄り駅は地下鉄大江戸線の飯田橋駅。この日は先に立ち寄った場所の関係で地下鉄南北線の後楽園駅で下車。
南北線の開業は1991年(平成3年)で、ここまで延びてきたのは1996年(平成8年)。つまり東京ドームができた後。でも地下鉄丸ノ内線の後楽園駅は1954年(昭和29年)からあるので「後楽園」の駅名。
地上に出ると目の前に東京ドーム。
隣の遊園地は東京ドームシティ。
ドームの周りはかなり混雑。
RIIZE(ライズ)という韓国のボーイズアイドルのライブがあるみたい。
ドーム横の通路で道路に降りて、
小石川後楽園の塀沿いに進む。
中央大学の理系が入っている後楽園キャンパス。
道路をこの公園のところで左折して、
そろそろ入り口かと思ったら、
違う道路に出ただけだった。
駅を出て8分ほど歩いて到着。
ここは西門。
後で地図を見たら東京ドームを突っ切って東門に向かった方が近かった。
「見ごろ」の文字で気を取り直し。
門をくぐって、
入場券売り場。
もっと混雑しているかと思って事前にオンラインのチケットを購入しておいた。スマホでバーコードを見せるタイプ。
上の写真で券売機の横に「入園券を買ったら左側から入れ」と書いてある。それで左側に進んで、そこでチケットをチェックされると思いきや係員は誰もいない。オンラインだろうがここでチケットを買おうが素通り状態。つまりタダで入園可能。別にチケットを買って損したとは思っていないが、なんともユルい運営体制。
ーーー続く
まだウメのウの字も書いてなくてゴメンm(_ _)m
2026年02月24日
雪から15日で満開になった林試の森の河津桜
2月8日は東京で2年ぶりの積雪となり林試の森公園も雪景色。
もっとも上の写真は人が立ち入らずに雪が残っていたエリアで、
それ以外で地面の雪はほとんど午後には溶けてなくなっていた。
河津桜の開花状況を偵察すると1分咲き程度。
平均気温の推移は雪の降った2月8日がマイナス0.7度。最低気温はマイナス2.5度だった。15〜16日の平均気温は10度を超え、いったん下がったものの2月21日から急上昇。一昨日と昨日には最高気温が15.7度、17.6度と続いた。
そして本日23日は20度越えのポカポカ陽気。
ひょっとしたらもう満開になっているかもと訪れてみると、
雪から15日で満開!
上の写真は左が北、右が南である。
その撮影位置から回れ右をした西側の3カ所に河津桜が植えられている。
メインの北側。北側とは日当たりが悪そうに聞こえるが、南に面しているので最も日当たり良好。ここには3本ずつ2列の6本が植えられている。南側と西側は3本ずつで合計12本が林試の森の河津桜。
もうちょっと近づきましょう。
この日は祝日だったけれど、
公園に着いたのは午後5時前でもう花見客は少なかった。
今年もこのピンクの季節がやって来て祝着至極。
自宅そばのこの公園に河津桜があると知ったのは2019年で、翌2020年は失念してしまったが、それ以降は毎年見に来ている。過去のブログをたどってみると、
2021年2月14日:3分咲き
2021年2月22日:満開
2022年2月24日:1/50咲き
2022年3月3日:北側満開、南側7分先、西側5分咲き
2023年3月4日:満開
2024年2月23日:満開 前日は5分咲き。
2025年2月24日:3分咲き
2025年3月2日:満開
2026年2月23日:満開
河津桜は開花期間が長いので私が見た満開は満開となった日ではない。それでも満開の見頃が2月の最終週と3月の第1週に年に分かれているのがわかる。逆に考えるなら「今年は早い、遅い」といってもたった1週間の違いでしかないのだ。
毎年同じ場所で同じ花なのに撮ってしまうのが写真というもの。今回も気がつけば100枚ほど。考えてみればフィルムカメラの時代は2泊3日の旅行でもそんなに撮らなかった。ここへは何度も来ているのでデジカメは持ってこないが、iPhoneのカメラはマクロ(接写)モードにすると何となく精気のない写りになるのが難点。
だったら離れましょう(^^ゞ
これは西側の木。
ここだけ少し葉桜になっていた。
葉桜になると残念がる人が多いが私は嫌いじゃない。
寄って引いて、寄って引いて。
最後に思い切り引いて全体像。
最初の写真とは逆方向で左が南で右が北、正面が西。
この広場の面積は0.4ヘクタールほど。
ところで2月8日にこの公園に雪景色&雪だるまを見に来た後、おお寒ッと思ってスマホアプリで気温を見たら0.3度だった。本日は暑いなあと思ったら5時10分の時点で19.3度。まだ2月なのに服装はTシャツとパーカーだけ。
予報によれば向こう2週間で最高気温が20度を超える日はないものの10度を下回る日もない。ウメが咲くと「春遠からじ」で河津桜が咲くと「春が半分来た」だね。
もっとも上の写真は人が立ち入らずに雪が残っていたエリアで、
それ以外で地面の雪はほとんど午後には溶けてなくなっていた。
河津桜の開花状況を偵察すると1分咲き程度。
平均気温の推移は雪の降った2月8日がマイナス0.7度。最低気温はマイナス2.5度だった。15〜16日の平均気温は10度を超え、いったん下がったものの2月21日から急上昇。一昨日と昨日には最高気温が15.7度、17.6度と続いた。
そして本日23日は20度越えのポカポカ陽気。
ひょっとしたらもう満開になっているかもと訪れてみると、
雪から15日で満開!
上の写真は左が北、右が南である。
その撮影位置から回れ右をした西側の3カ所に河津桜が植えられている。
メインの北側。北側とは日当たりが悪そうに聞こえるが、南に面しているので最も日当たり良好。ここには3本ずつ2列の6本が植えられている。南側と西側は3本ずつで合計12本が林試の森の河津桜。
もうちょっと近づきましょう。
この日は祝日だったけれど、
公園に着いたのは午後5時前でもう花見客は少なかった。
今年もこのピンクの季節がやって来て祝着至極。
自宅そばのこの公園に河津桜があると知ったのは2019年で、翌2020年は失念してしまったが、それ以降は毎年見に来ている。過去のブログをたどってみると、
2021年2月14日:3分咲き
2021年2月22日:満開
2022年2月24日:1/50咲き
2022年3月3日:北側満開、南側7分先、西側5分咲き
2023年3月4日:満開
2024年2月23日:満開 前日は5分咲き。
2025年2月24日:3分咲き
2025年3月2日:満開
2026年2月23日:満開
河津桜は開花期間が長いので私が見た満開は満開となった日ではない。それでも満開の見頃が2月の最終週と3月の第1週に年に分かれているのがわかる。逆に考えるなら「今年は早い、遅い」といってもたった1週間の違いでしかないのだ。
毎年同じ場所で同じ花なのに撮ってしまうのが写真というもの。今回も気がつけば100枚ほど。考えてみればフィルムカメラの時代は2泊3日の旅行でもそんなに撮らなかった。ここへは何度も来ているのでデジカメは持ってこないが、iPhoneのカメラはマクロ(接写)モードにすると何となく精気のない写りになるのが難点。
だったら離れましょう(^^ゞ
これは西側の木。
ここだけ少し葉桜になっていた。
葉桜になると残念がる人が多いが私は嫌いじゃない。
寄って引いて、寄って引いて。
最後に思い切り引いて全体像。
最初の写真とは逆方向で左が南で右が北、正面が西。
この広場の面積は0.4ヘクタールほど。
ところで2月8日にこの公園に雪景色&雪だるまを見に来た後、おお寒ッと思ってスマホアプリで気温を見たら0.3度だった。本日は暑いなあと思ったら5時10分の時点で19.3度。まだ2月なのに服装はTシャツとパーカーだけ。
予報によれば向こう2週間で最高気温が20度を超える日はないものの10度を下回る日もない。ウメが咲くと「春遠からじ」で河津桜が咲くと「春が半分来た」だね。
2026年02月21日
塩谷亮 刻を描くリアリズム その4
展示室は3〜5階で、
5階に作品はほとんどなくこんなセットが設けられていた。
これはよくあるアトリエ風景の再現ではなくライブペインティングと銘打って、上の写真の椅子に座らせた女性をここで描いていたようだ。つまり塩谷亮による写実絵画の製作実演。なんともサービス精神にあふれた画家。
実演を見られなかった来場者のために、それを録画したビデオまで用意されている。
今回は時間がなくビデオはあまり見なかった。どうしたらあんなに本物ソックリに描けるのか、そのテクニックを見たいような、手品の種明かしと同じで知ってしまえばなーんだと興味をなくしそうで見たくないようなーーー
こんな解説パネルもあった。
こういうデッサンはまあ当然として、
ここまでするのかと驚く。
3階・4階とはまったく違う画風のこれは、2009年に彼がヴェロッキオの「キリストの洗礼」を模写した作品。オリジナルは1475年頃に描かれている。
左側に小さく写っているのが作品全体で模写したのはその一部。(模写右側の天使の鼻のあたりがめくれているように見えるのは照明の反射)
ルネサンス期の画家であるヴェロッキオはレオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリの師匠でもあった。ルネサンス期の絵画制作は師匠と弟子による工房制作方式で、この作品ではキリストと洗礼者ヨハネをヴェロッキオが描き、天使部分をダ・ヴィンチが受け持ったとされる。だからこれはヴェロッキオではなくダ・ヴィンチの模写と表現するのが正確。
なおダ・ヴィンチによる天使があまりに素晴らしかったために、これ以降ヴェロッキオは絵を描かなくなったとの逸話があるが、それは後世に盛られたストーリーみたい。
おそらくこの模写も写実絵画として「本物以上に本物っぽく」描かれているのだろうけれど、展示されていた作品の全体写真が小さくてよくわからなかったのが残念。じっくり見較べてして間違い探しをしたかった(^^ゞ
こちらにある中央の絵は何かの模写でテンペラで描かれている。
その周りに画材や道具が並べてある。
テンペラ画とわかったのは卵の殻があったから。
絵の具の色の元になっているのは、顔料と呼ばれる鉱物やその他の原料を砕いた色付きの粉末。サラサラの粉末では塗れないので、そこに接着剤の役割を果たす粘度のある材料を加える。それをメディウムや展色材などと呼ぶ。
メディウムとして乾性油(空気に触れると固まる植物油)を加えて顔料を練ったのが油絵の具。広く使われ出したのは1400年代中頃以降でルネサンス期の中期。それ以前は卵、膠(にかわ)、蜜蝋などがメディウムとして用いられており、ラテン語で混ぜ合わせるを意味するテンペラで総称される。
ヨーロッパでポピュラーだったのが卵テンペラ。日本画は岩絵の具=顔料を膠(にかわ)で溶いて塗るので膠テンペラではあるものの、あまりそういう表現はしない。また油絵の具で描けば油絵で、テンペラ絵の具だとテンペラ画になるのも美術用語の不思議なところ。
テンペラ画の前は漆喰(しっくい)が生乾きのうちに水で溶いた顔料で描くフレスコ画。漆喰がメディウムの役割を果たす。フレスコはイタリア語でフレッシュ。漆喰が塗り立ての生乾きのうちに描くのがネーミングの由来。でもフレスコ画は古い時代の技法なので、もし翻訳がフレッシュ画だったらヘンな感じになる。なお英語でもfrescoあるいはfresco paintingとイタリア語をそのまま使う。またイタリア語ではフレースコに近い短く伸ばす発音。
フレスコ画の前は色のある鉱物などを粉末の顔料ではなく、細かな破片にした状態で生乾きの漆喰に埋め込んだモザイク画。フレスコ画もモザイク画も建材に描く壁画であり、建物と絵が分離したのはテンペラ画からになる。
ここまででひとつ抜けているのが水彩絵の具。これはアカシアの樹液を固めた樹脂であるアラビアガム(ゴムともいう)を水で溶いたメディウムを使っている。アラビア糊(のり)も以前はアラビアガムを原料にしていてその名前がついた。
これが発明されたのは油絵の具よりはるかに古く、紀元前450年頃のギリシャで既に顔料とアラビアゴムの組み合わせが使われている(古代ギリシャ時代は紀元前3000年〜紀元前146年)。ただし絵画というより植物や動物の姿を記録する「図解」用途が多かったようで、絵画に使われるのは油絵の具と同じくルネサンスの頃。
ちなみに原始人が洞窟に描いた壁画は赤土や木炭を顔料とし、メディウムは獣脂・血・樹液など。そして洞窟土壌より炭酸カルシウムが浸みだして天然のフレスコ画となった。またピラミッドの内部や高松塚古墳の壁画も漆喰に描かれたフレスコ画の一種。
ついでに水墨画や書道は墨を水でするだけでも、墨は植物油や木を燃やした煤(すす)を膠(にかわ)で固めて作るので、墨にメディウムが含まれている仕組み。
絵の具に話が脱線してしまったが、ここに置かれていたテンペラ画も有名な作品の模写なのだろうか。説明を読まなかったのでわからずじまい。
ところで画家が名作の模写をしても、それが展覧会に出ることはあまりない。やはり模写は基本的に練習や訓練で人に見せる作品ではないのが理由だと思う。ゴッホの浮世絵やドラクロアの模写なら見たものの、あれは模写というよりモチーフを借りてきたゴッホのオリジナル作品。
でも考えてみれば写実絵画とは対象を本物ソックリに写し取る技法あるいは流儀。それが他人の描いた絵か、画家が選んだ人物や風景かの違いだけで本質は変わらないのかも知れない。言い換えれば写実絵画にとってすべてが模写。
さらに考えると写実絵画は「まるで写真のような絵画」ともいわれる。じゃ写真を模写したらどうなるのだーーー頭が混乱するね(^^ゞ
何はともあれ久しぶりの写実絵画、おまけにルネサンス期の模写まで見られて満足度の高い展覧会だった。本当は写実絵画の聖地であるホキ美術館も行きたいと思いつつ、電車とバスで片道2時間以上掛かるのでいつも腰が上がらない。
さてブログの最初の回に受け付け(チケット購入)は2階だと書いた。また1階エントランスから2階へ上がるときにエレベーターがなかなか来ずにイライラしたことも。
それで3・4・5階の展示室へは外階段(非常階段)で移動した。
2階の受付でチケットを買って3階の展示室に入るとき、当然チケットを見せるのだと思っていたのにそれはなし。他の階でも同じく。
ということはーーー
帰り際に撮った1階エントランスの写真。
右側に外階段が写っている。
非常階段を兼ねているので出入り自由。
あまり大きな声では言えないけれど、
外階段を使えばチケットがなくても展示室に入れてしまう。
それより心配なのはセキュリティ。展示室内では監視役の学芸員も見かけなかった。防犯カメラはついているとしても、ガードマンの制服でも着て「ちょっとすみませんねえ」とか言いつつ、作品を外して外階段を使って逃走するのはそう難しくないように思える。
とりあえず古今東西の名品を集めた、
私のコレクション展を佐藤美術館で開くのはやめておこう(^^ゞ
美術館を出て青山に向かう。
しばらく歩いていると見えてくるのは国立競技場。
現在は三菱UFJフィナンシャル・グループが命名権を取得してMUFGスタジアム。
ここまで佐藤美術館から6〜7分。
2019年に完成してもう7年も経つのにまだ中に入ったことがない(/o\)
2枚目の写真にある茶色い壁は神宮球場のスコアボード裏側。国立競技場と神宮球場に挟まれたこのエリアは新秩父宮ラグビー場を建設中で、以前は第二球場(野球場&ゴルフ練習場)があった。ここを何百回と通っているのにもう第二球場の姿を思い出せない。人間の記憶なんてそんな程度。
そういえば神宮外苑再開発・樹木伐採の反対運動の声を最近は聞かない。
もう押し切られたのかな?
2023年に少し調べたときのブログはこちら↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53467493.html
有名な神宮外苑前イチョウ並木の現在の姿。
葉を落とした姿なんてあまり見る機会はないでしょ。
おしまい
5階に作品はほとんどなくこんなセットが設けられていた。
これはよくあるアトリエ風景の再現ではなくライブペインティングと銘打って、上の写真の椅子に座らせた女性をここで描いていたようだ。つまり塩谷亮による写実絵画の製作実演。なんともサービス精神にあふれた画家。
実演を見られなかった来場者のために、それを録画したビデオまで用意されている。
今回は時間がなくビデオはあまり見なかった。どうしたらあんなに本物ソックリに描けるのか、そのテクニックを見たいような、手品の種明かしと同じで知ってしまえばなーんだと興味をなくしそうで見たくないようなーーー
こんな解説パネルもあった。
こういうデッサンはまあ当然として、
ここまでするのかと驚く。
3階・4階とはまったく違う画風のこれは、2009年に彼がヴェロッキオの「キリストの洗礼」を模写した作品。オリジナルは1475年頃に描かれている。
左側に小さく写っているのが作品全体で模写したのはその一部。(模写右側の天使の鼻のあたりがめくれているように見えるのは照明の反射)
ルネサンス期の画家であるヴェロッキオはレオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリの師匠でもあった。ルネサンス期の絵画制作は師匠と弟子による工房制作方式で、この作品ではキリストと洗礼者ヨハネをヴェロッキオが描き、天使部分をダ・ヴィンチが受け持ったとされる。だからこれはヴェロッキオではなくダ・ヴィンチの模写と表現するのが正確。
なおダ・ヴィンチによる天使があまりに素晴らしかったために、これ以降ヴェロッキオは絵を描かなくなったとの逸話があるが、それは後世に盛られたストーリーみたい。
おそらくこの模写も写実絵画として「本物以上に本物っぽく」描かれているのだろうけれど、展示されていた作品の全体写真が小さくてよくわからなかったのが残念。じっくり見較べてして間違い探しをしたかった(^^ゞ
こちらにある中央の絵は何かの模写でテンペラで描かれている。
その周りに画材や道具が並べてある。
テンペラ画とわかったのは卵の殻があったから。
絵の具の色の元になっているのは、顔料と呼ばれる鉱物やその他の原料を砕いた色付きの粉末。サラサラの粉末では塗れないので、そこに接着剤の役割を果たす粘度のある材料を加える。それをメディウムや展色材などと呼ぶ。
メディウムとして乾性油(空気に触れると固まる植物油)を加えて顔料を練ったのが油絵の具。広く使われ出したのは1400年代中頃以降でルネサンス期の中期。それ以前は卵、膠(にかわ)、蜜蝋などがメディウムとして用いられており、ラテン語で混ぜ合わせるを意味するテンペラで総称される。
ヨーロッパでポピュラーだったのが卵テンペラ。日本画は岩絵の具=顔料を膠(にかわ)で溶いて塗るので膠テンペラではあるものの、あまりそういう表現はしない。また油絵の具で描けば油絵で、テンペラ絵の具だとテンペラ画になるのも美術用語の不思議なところ。
テンペラ画の前は漆喰(しっくい)が生乾きのうちに水で溶いた顔料で描くフレスコ画。漆喰がメディウムの役割を果たす。フレスコはイタリア語でフレッシュ。漆喰が塗り立ての生乾きのうちに描くのがネーミングの由来。でもフレスコ画は古い時代の技法なので、もし翻訳がフレッシュ画だったらヘンな感じになる。なお英語でもfrescoあるいはfresco paintingとイタリア語をそのまま使う。またイタリア語ではフレースコに近い短く伸ばす発音。
フレスコ画の前は色のある鉱物などを粉末の顔料ではなく、細かな破片にした状態で生乾きの漆喰に埋め込んだモザイク画。フレスコ画もモザイク画も建材に描く壁画であり、建物と絵が分離したのはテンペラ画からになる。
ここまででひとつ抜けているのが水彩絵の具。これはアカシアの樹液を固めた樹脂であるアラビアガム(ゴムともいう)を水で溶いたメディウムを使っている。アラビア糊(のり)も以前はアラビアガムを原料にしていてその名前がついた。
これが発明されたのは油絵の具よりはるかに古く、紀元前450年頃のギリシャで既に顔料とアラビアゴムの組み合わせが使われている(古代ギリシャ時代は紀元前3000年〜紀元前146年)。ただし絵画というより植物や動物の姿を記録する「図解」用途が多かったようで、絵画に使われるのは油絵の具と同じくルネサンスの頃。
ちなみに原始人が洞窟に描いた壁画は赤土や木炭を顔料とし、メディウムは獣脂・血・樹液など。そして洞窟土壌より炭酸カルシウムが浸みだして天然のフレスコ画となった。またピラミッドの内部や高松塚古墳の壁画も漆喰に描かれたフレスコ画の一種。
ついでに水墨画や書道は墨を水でするだけでも、墨は植物油や木を燃やした煤(すす)を膠(にかわ)で固めて作るので、墨にメディウムが含まれている仕組み。
絵の具に話が脱線してしまったが、ここに置かれていたテンペラ画も有名な作品の模写なのだろうか。説明を読まなかったのでわからずじまい。
ところで画家が名作の模写をしても、それが展覧会に出ることはあまりない。やはり模写は基本的に練習や訓練で人に見せる作品ではないのが理由だと思う。ゴッホの浮世絵やドラクロアの模写なら見たものの、あれは模写というよりモチーフを借りてきたゴッホのオリジナル作品。
でも考えてみれば写実絵画とは対象を本物ソックリに写し取る技法あるいは流儀。それが他人の描いた絵か、画家が選んだ人物や風景かの違いだけで本質は変わらないのかも知れない。言い換えれば写実絵画にとってすべてが模写。
さらに考えると写実絵画は「まるで写真のような絵画」ともいわれる。じゃ写真を模写したらどうなるのだーーー頭が混乱するね(^^ゞ
何はともあれ久しぶりの写実絵画、おまけにルネサンス期の模写まで見られて満足度の高い展覧会だった。本当は写実絵画の聖地であるホキ美術館も行きたいと思いつつ、電車とバスで片道2時間以上掛かるのでいつも腰が上がらない。
さてブログの最初の回に受け付け(チケット購入)は2階だと書いた。また1階エントランスから2階へ上がるときにエレベーターがなかなか来ずにイライラしたことも。
それで3・4・5階の展示室へは外階段(非常階段)で移動した。
2階の受付でチケットを買って3階の展示室に入るとき、当然チケットを見せるのだと思っていたのにそれはなし。他の階でも同じく。
ということはーーー
帰り際に撮った1階エントランスの写真。
右側に外階段が写っている。
非常階段を兼ねているので出入り自由。
あまり大きな声では言えないけれど、
外階段を使えばチケットがなくても展示室に入れてしまう。
それより心配なのはセキュリティ。展示室内では監視役の学芸員も見かけなかった。防犯カメラはついているとしても、ガードマンの制服でも着て「ちょっとすみませんねえ」とか言いつつ、作品を外して外階段を使って逃走するのはそう難しくないように思える。
とりあえず古今東西の名品を集めた、
私のコレクション展を佐藤美術館で開くのはやめておこう(^^ゞ
美術館を出て青山に向かう。
しばらく歩いていると見えてくるのは国立競技場。
現在は三菱UFJフィナンシャル・グループが命名権を取得してMUFGスタジアム。
ここまで佐藤美術館から6〜7分。
2019年に完成してもう7年も経つのにまだ中に入ったことがない(/o\)
2枚目の写真にある茶色い壁は神宮球場のスコアボード裏側。国立競技場と神宮球場に挟まれたこのエリアは新秩父宮ラグビー場を建設中で、以前は第二球場(野球場&ゴルフ練習場)があった。ここを何百回と通っているのにもう第二球場の姿を思い出せない。人間の記憶なんてそんな程度。
そういえば神宮外苑再開発・樹木伐採の反対運動の声を最近は聞かない。
もう押し切られたのかな?
2023年に少し調べたときのブログはこちら↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53467493.html
有名な神宮外苑前イチョウ並木の現在の姿。
葉を落とした姿なんてあまり見る機会はないでしょ。
おしまい
2026年02月19日
塩谷亮 刻を描くリアリズム その3
風景画と静物画。
「午後の陽」 2000年
描かれている黄色い花はセイタカアワダチソウ(背高泡立草)に見える。幼い頃は家の周りにいくつもあった空き地でたくさん生えていた。その黄色い花よりも印象に残っているのは、まず茎を折ると茎の中身が白いスポンジ状だったこと。スポンジがつまっている茎なんてセイタカアワダチソウしか知らない。もっともある程度の年齢になればむやみに草の茎を折ったりしないから他にもたくさんあるのかも知れない。
それとコイツは冬になると綿毛に包まれた種を付ける。それがセーターに大量にくっつく。家に帰ると「あそこの空き地で遊んではいけなと言ったでしょ」とすぐにバレて叱られたものだ。
もっとも当時は子供たちも親たちも、これをキリンソウの名前で呼んでいた。黄色い花が咲いて背丈が高い草だからキリンとあだ名のように。それがセイタカアワダチソウだと知った頃には家の周りの空き地も少なくなり、また空き地で遊ぶ年齢も過ぎていた。へえ〜、あれはセイタカアワダチソウだったんだ、長い名前だなあと思ったのを覚えている。
そしてこの作品を見てセイタカアワダチソウが懐かしくなり、
ちょっと調べてみたら大発見!
それはセイタカアワダチソウの名前の由来。
まず昔から日本で自生しているキリンソウ(麒麟草)という植物がある。
分類的にはベンケイソウ科キリンソウ属に属する。
さらにキリンソウとは系統が異なるキク科アキノキリンソウ属なのに、キリンソウに花の形がよく似ていて秋に咲くのでアキノキリンソウ(秋の麒麟草)と呼ばれる植物もある。
このアキノキリンソウの別名がアワダチソウ(泡立草)。
セイタカアワダチソウは北米原産のアワダチソウで日本のものより大きい(花の形も違うが)。それで区別するためにセイタカアワダチソウ(背高泡立草)の名前がついた。つまり言い換えればセイタカ・アキノキリンソウでもあるわけで、子供の頃にキリンソウと呼んでいたのもあながち間違ってはいなかったのだ。
ちなみにアワダチの名前は先ほどの綿毛に包まれた種が、まるで泡立っているよう見えるとの説が有力。ついでにセイタカアワダチソウの新芽は天ぷらやおひたしとして食べられ、ツボミはハーブティーや入浴剤になるらしい。あの空き地に生えていた雑草がね〜とビックリ。
展覧会とは話がそれてしまった。
これはそんなブログなのでご容赦をm(_ _)m
「晩春近江」 2016年
「一の滝」 2017年
「奥会津霧景」 2025年
「一の滝」と「奥会津霧景」は長辺2m以上、「晩春近江」も1.5mの大きさで見応えがあった。
人物画とは距離感が違うからハッとするようなリアルさはないものの、もちろん普通の風景画と較べれば驚くほど細密。「奥会津霧景」は特に遠景だし、さらに靄(もや)まで掛かっているのに、船頭がいかにも写実絵画的に描かれていたのにニンマリ。
それでこの作品を眺めていてなぜか東山魁夷を思い出した。
もちろん絵が似ているわけではない。
彼の風景画には東山ブルーと呼ばれる独特の色彩で描いた作品が多くある。ブルーとはいえ日本は緑の信号を青信号というように緑がかった色調も含まれる。これは東山魁夷の「夕涼」。
細部までを本物ソックリに正確に描くのが写実絵画。そこは譲れないとしても、色彩はもっと遊んでもいのになあと思ったのが東山魁夷が頭に浮かんだ理由。東山ブルーは彼には自然の景色がそう感じられた=印象派的な色彩の再構成。そんな感性でもいいし、まったくあり得ない色で木々を緻密に描いても面白い。後者ならスーパーレアリスムかつシュルレアリスム。
もちろん単なる思いつきに過ぎない。写実絵画の画家の皆さん、色を変えて描いたらまったく売れなかったとの苦情はご遠慮ください(^^ゞ
「碧音」 2015年
「地の脈動」 2022年
「蒼」 2004年
「独活図」 2004年 ※独活は「うど」
以前にも書いたように人物の写実絵画はそのリアリティを超えた「特別な何か」を感じるのに、風景画ではそれが減り静物画になるとまったく感じなくなる。何が違うのか自分でもはっきりしないが冷めた目でテクニックだけを鑑賞している気分。
でも次の作品だけは別格だった。
花があって斜め上から光が差している定番の構図。しかしその光線が本当にそこにあるかのように思えた。これは会場のライト?と上を見て確認したくらい。
「花韻」 2025年
前回に書いた
本物以上に本物そっくりなのに、
本物じゃないと知っていることから来る混乱で
頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚える
がまさにこれ。
写実絵画の静物画でその感覚を味わえたのは初めて。
が、しか〜し
画像だとまったくそれが感じらず、
ありきたりな光の描き分けにしか見えない(/o\)
残念である。
またどこかの展覧会でこの絵が出展されたら見てきてちょうだい。
その代わりに画家のテクニックのすごさがわかる画像を見つけたので紹介。まるで神が筆を握っているとしか思えないね。画像はhttps://ryoshio.exblog.jp/32047414/から引用
再び人物画で似たような構図の2枚。
「晩夏」 2000年
「朝の情景」 2001年
実はこの2枚には気になる共通点があって、どちらも右手の指先が土いじりをして爪の隙間が黒くなってしまったように汚く見えた。特に「晩夏」のほう。しかし絵の内容やタイトルからその必然性はない。
でもそう見えたのだから仕方がないし、
それが気になって気になって。
撮ってしまいました接写で。
隣にいた人にこいつは指フェチ?と思われたかも(^^ゞ
もちろん爪の隙間が黒く汚れていたりはしていない。指のところが少し影になっているのでそう見えてしまったのかな。あるいはリアルな写実絵画ゆえに目が敏感になっていた気もする。
ところでこの作品が描かれたのはどちらも約25年前。当時の少女の爪はこんなに切りそろえられていたのか、若いほうの女性は今ならネイルしているよねと、これまたどうでもいい思いが頭に浮かぶ。
またよく似た構図の2枚。
「相韻」 2018年
「Daria」 2022年
先ほどの2枚は白い布で、こちらは赤い布。その色の違いのせいかずいぶんと妖しく見える。そして人物の存在感、画面から受ける「圧」が強かった。ただ「Daria」の顔はちょっと怖い。ついでに正直に書くと「朝の情景」の女性は顔に表情がなく、飛び降り自殺の現場のようにも思え少し気味悪かった。タイトルは爽やかなのに。
さて、こういう俯瞰した2次元的な絵でよくやる遊びがこれ。「Daria」はこちらのほうが私にはしっくりくる。また目の錯覚で左上から右下に向けて赤い布幅を絞っていったように見えるが面白い。こんなことをして画家に見つかったらシバかれる?
「Lineage」 2024年
タイトルはLINE世代ではなく Lineage とは血統、系統、家柄などの意味(英語)。カタカナではリネージと表記するが、ネイティブの発音はリニエッジに近い。この男性はドイツ人と中国人のハーフだそうでそれにちなんだタイトル。後ろの壁がボロボロなのは何かを表しているのだろうか。
この絵は凄く印象に残ったというか目についた。それはまたまた絵そのものとは関係なくてモデルがはいているスカート。男性がスカートをはいているのはたまに見かけても、今までサマになっている姿を見たことがない。スタイリング云々より「僕はこんなファッションも着こなせます」オーラが出過ぎていて痛い人が多い。しかしこのモデルのスカート姿はとてもナチュラル。風呂上がりに腰に巻いたバスタオルくらいに違和感がない。
これだったら私でもありかな、やっぱり指さして笑われる?ーーーと空想しながら絵を眺めていた。たぶんそれは画家の意図した狙いとはまったく違うのだろうけれど、絵の楽しみ方は自由でいいはずだよね。
ーーー続く
「午後の陽」 2000年
描かれている黄色い花はセイタカアワダチソウ(背高泡立草)に見える。幼い頃は家の周りにいくつもあった空き地でたくさん生えていた。その黄色い花よりも印象に残っているのは、まず茎を折ると茎の中身が白いスポンジ状だったこと。スポンジがつまっている茎なんてセイタカアワダチソウしか知らない。もっともある程度の年齢になればむやみに草の茎を折ったりしないから他にもたくさんあるのかも知れない。
それとコイツは冬になると綿毛に包まれた種を付ける。それがセーターに大量にくっつく。家に帰ると「あそこの空き地で遊んではいけなと言ったでしょ」とすぐにバレて叱られたものだ。
もっとも当時は子供たちも親たちも、これをキリンソウの名前で呼んでいた。黄色い花が咲いて背丈が高い草だからキリンとあだ名のように。それがセイタカアワダチソウだと知った頃には家の周りの空き地も少なくなり、また空き地で遊ぶ年齢も過ぎていた。へえ〜、あれはセイタカアワダチソウだったんだ、長い名前だなあと思ったのを覚えている。
そしてこの作品を見てセイタカアワダチソウが懐かしくなり、
ちょっと調べてみたら大発見!
それはセイタカアワダチソウの名前の由来。
まず昔から日本で自生しているキリンソウ(麒麟草)という植物がある。
分類的にはベンケイソウ科キリンソウ属に属する。
さらにキリンソウとは系統が異なるキク科アキノキリンソウ属なのに、キリンソウに花の形がよく似ていて秋に咲くのでアキノキリンソウ(秋の麒麟草)と呼ばれる植物もある。
このアキノキリンソウの別名がアワダチソウ(泡立草)。
セイタカアワダチソウは北米原産のアワダチソウで日本のものより大きい(花の形も違うが)。それで区別するためにセイタカアワダチソウ(背高泡立草)の名前がついた。つまり言い換えればセイタカ・アキノキリンソウでもあるわけで、子供の頃にキリンソウと呼んでいたのもあながち間違ってはいなかったのだ。
ちなみにアワダチの名前は先ほどの綿毛に包まれた種が、まるで泡立っているよう見えるとの説が有力。ついでにセイタカアワダチソウの新芽は天ぷらやおひたしとして食べられ、ツボミはハーブティーや入浴剤になるらしい。あの空き地に生えていた雑草がね〜とビックリ。
展覧会とは話がそれてしまった。
これはそんなブログなのでご容赦をm(_ _)m
「晩春近江」 2016年
「一の滝」 2017年
「奥会津霧景」 2025年
「一の滝」と「奥会津霧景」は長辺2m以上、「晩春近江」も1.5mの大きさで見応えがあった。
人物画とは距離感が違うからハッとするようなリアルさはないものの、もちろん普通の風景画と較べれば驚くほど細密。「奥会津霧景」は特に遠景だし、さらに靄(もや)まで掛かっているのに、船頭がいかにも写実絵画的に描かれていたのにニンマリ。
それでこの作品を眺めていてなぜか東山魁夷を思い出した。
もちろん絵が似ているわけではない。
彼の風景画には東山ブルーと呼ばれる独特の色彩で描いた作品が多くある。ブルーとはいえ日本は緑の信号を青信号というように緑がかった色調も含まれる。これは東山魁夷の「夕涼」。
細部までを本物ソックリに正確に描くのが写実絵画。そこは譲れないとしても、色彩はもっと遊んでもいのになあと思ったのが東山魁夷が頭に浮かんだ理由。東山ブルーは彼には自然の景色がそう感じられた=印象派的な色彩の再構成。そんな感性でもいいし、まったくあり得ない色で木々を緻密に描いても面白い。後者ならスーパーレアリスムかつシュルレアリスム。
もちろん単なる思いつきに過ぎない。写実絵画の画家の皆さん、色を変えて描いたらまったく売れなかったとの苦情はご遠慮ください(^^ゞ
「碧音」 2015年
「地の脈動」 2022年
「蒼」 2004年
「独活図」 2004年 ※独活は「うど」
以前にも書いたように人物の写実絵画はそのリアリティを超えた「特別な何か」を感じるのに、風景画ではそれが減り静物画になるとまったく感じなくなる。何が違うのか自分でもはっきりしないが冷めた目でテクニックだけを鑑賞している気分。
でも次の作品だけは別格だった。
花があって斜め上から光が差している定番の構図。しかしその光線が本当にそこにあるかのように思えた。これは会場のライト?と上を見て確認したくらい。
「花韻」 2025年
前回に書いた
本物以上に本物そっくりなのに、
本物じゃないと知っていることから来る混乱で
頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚える
がまさにこれ。
写実絵画の静物画でその感覚を味わえたのは初めて。
が、しか〜し
画像だとまったくそれが感じらず、
ありきたりな光の描き分けにしか見えない(/o\)
残念である。
またどこかの展覧会でこの絵が出展されたら見てきてちょうだい。
その代わりに画家のテクニックのすごさがわかる画像を見つけたので紹介。まるで神が筆を握っているとしか思えないね。画像はhttps://ryoshio.exblog.jp/32047414/から引用
再び人物画で似たような構図の2枚。
「晩夏」 2000年
「朝の情景」 2001年
実はこの2枚には気になる共通点があって、どちらも右手の指先が土いじりをして爪の隙間が黒くなってしまったように汚く見えた。特に「晩夏」のほう。しかし絵の内容やタイトルからその必然性はない。
でもそう見えたのだから仕方がないし、
それが気になって気になって。
撮ってしまいました接写で。
隣にいた人にこいつは指フェチ?と思われたかも(^^ゞ
もちろん爪の隙間が黒く汚れていたりはしていない。指のところが少し影になっているのでそう見えてしまったのかな。あるいはリアルな写実絵画ゆえに目が敏感になっていた気もする。
ところでこの作品が描かれたのはどちらも約25年前。当時の少女の爪はこんなに切りそろえられていたのか、若いほうの女性は今ならネイルしているよねと、これまたどうでもいい思いが頭に浮かぶ。
またよく似た構図の2枚。
「相韻」 2018年
「Daria」 2022年
先ほどの2枚は白い布で、こちらは赤い布。その色の違いのせいかずいぶんと妖しく見える。そして人物の存在感、画面から受ける「圧」が強かった。ただ「Daria」の顔はちょっと怖い。ついでに正直に書くと「朝の情景」の女性は顔に表情がなく、飛び降り自殺の現場のようにも思え少し気味悪かった。タイトルは爽やかなのに。
さて、こういう俯瞰した2次元的な絵でよくやる遊びがこれ。「Daria」はこちらのほうが私にはしっくりくる。また目の錯覚で左上から右下に向けて赤い布幅を絞っていったように見えるが面白い。こんなことをして画家に見つかったらシバかれる?
「Lineage」 2024年
タイトルはLINE世代ではなく Lineage とは血統、系統、家柄などの意味(英語)。カタカナではリネージと表記するが、ネイティブの発音はリニエッジに近い。この男性はドイツ人と中国人のハーフだそうでそれにちなんだタイトル。後ろの壁がボロボロなのは何かを表しているのだろうか。
この絵は凄く印象に残ったというか目についた。それはまたまた絵そのものとは関係なくてモデルがはいているスカート。男性がスカートをはいているのはたまに見かけても、今までサマになっている姿を見たことがない。スタイリング云々より「僕はこんなファッションも着こなせます」オーラが出過ぎていて痛い人が多い。しかしこのモデルのスカート姿はとてもナチュラル。風呂上がりに腰に巻いたバスタオルくらいに違和感がない。
これだったら私でもありかな、やっぱり指さして笑われる?ーーーと空想しながら絵を眺めていた。たぶんそれは画家の意図した狙いとはまったく違うのだろうけれど、絵の楽しみ方は自由でいいはずだよね。
ーーー続く
2026年02月16日
塩谷亮 刻を描くリアリズム その2
まるで写真のように精細に描かれた絵画は写実絵画あるいは超写実絵画、スーパーリアリズムなどのジャンル名がある。この展覧会では写実絵画と呼んでいるのでそれに倣う。その手の展覧会を見るのはこれで3回目。写実絵画のあれこれについてはそのときのブログに書いたので、よろしければ下記のリンクからどうぞ。
2020年
超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵
超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 その2
超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 その3
超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 その4
2017年
リアル(写実)のゆくえ その3
私が美術作品を評価する一番の基準は「酔える」かどうか。酔えるって何?を書き出すと超絶に長くなりそうなので割愛するが、要はほろ酔い気分のように気持ちよくさせてくれるのが大事。考察が必要だったり共感を強いられるような現代アートが好みじゃないのは今まで何度も書いてきた。
実は写実絵画の作品のほとんどは絵としては酔えない。
じゃあなぜそんな展覧会を見に行くのかといえば、それは
本物以上に本物そっくりなのに、
本物じゃないと知っていることから来る混乱で
頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚える
から。
クラッとするのもある種の酔えている状態。絵そのものには酔えなくても、これは人が「絵の具」を「筆」につけて「塗って」描き上げたという感嘆に酔えるのである。ちょっとヘンタイな楽しみ方かも知れない。
さて作者の塩谷亮(しおたに りょう)。Wikipediaには載っておらず展覧会公式ホームページの文章を引用すると、
1975年、東京都生まれ。1998 年、武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。
2008 〜 2009年には文化庁新進芸術家海外派遣研修員としてイタリアに留学し、
古典絵画の模写や技法研究に取り組む。これまでに九州産業大学客員教授をはじめ、
武蔵野美術大学、日本大学、長岡造形大学、広島市立大学で講師を歴任。
とあった。
アカデミズム肌の画家なのかな。
前書きはこのくらいにして作品の紹介。
まずは展示の最初のほうにあった作品。
「ウクライナの少女」 2023年
ウクライナといえばロシアとの戦争である。現時点でほとんどの日本人にとって、それ以外にウクライナについて思い浮かぶものはない。でもこの少女からは悲しみや憤りなど戦争の「せ」の字も感じられない。まるでたまたまモデルがウクライナ人なだけで戦争とは関係ない作品のようである。「赤いノースリーブを着た少女」がタイトルでも違和感はない。(参考までにロシアの侵略は2022年)
それでもタイトルにウクライナと書いてあれば現在も進行中の戦争を想起せざるを得ないわけで、それなのにそれとは無関係な、あえて言えば人畜無害な絵があってーーー最初から悪酔いした(^^ゞ
次の2作品は一目見れば何を表現しているのか理解できる。「いや〜あの頃は大変でしたよね」と隣にいる人に声をかけたくなる気分。でも100年後の鑑賞者は風邪か花粉症としか思わないはず。そう考えると「ウクライナの少女」も戦争が終わった後を見越してのタイトル? そんなわけで絵のタイトルや小道具についてボンヤリと考えながらの鑑賞スタート。
「KAON -15 years old」 2022年
「2020春日」 2021年
ところで写実絵画は写真のように精緻に描く。なのでまるでエアブラシで吹いたように筆跡なんてないと思ってしまうが(エアブラシを使う画家もいる)、意外とそれなりに筆跡は残っている。それは画像を拡大してもなかなかわからず実物を見るまで気付かない。
はい、撮っておきましたマクロ撮影で。
この画像なら拡大すれば筆跡も見られるはず。
それに意味があるかどうかは別として。
ここから先は展示順とは無関係に作品を並べている。
まずは女性をモデルにした作品。
「明日」 2008年
鏡に映っている姿を描いているのかと思いきや鏡の中に風景がある。背景が鏡に映り込んでいるとも考えられるが状況的に少しヘン。この絵には背景が必要と考えたからこう描いたのだろう。先ほどのマスクの絵もそうだが塩谷亮の人物画は背景に外の景色を描いている作品が多い。これは写実絵画では珍しいと思う。ただでさえ手間の掛かる写実絵画なのに背景も細かく描くのは大変そう。
「漂」 2007年
「凪」 2024年
「煌」 2012年
塩谷亮はタイトルの付け方が凝っているというか癖が強いね。それが「ウクライナの少女」とも関連している気もするが、彼については画家である以外はほとんど知らないのでよくわからない。
2020年の展覧会で見た石黒賢一郎や三重野慶がカリカリにピントを合わせたような描写だったのと較べると、塩谷亮はソフトフォーカスとはいわないまでも普通のフォーカス。ゾクッとするようなリアルさには欠ける。でも特にそれに不満は感じなかった。テクニックを誇示せずに芸で上手くまとめている印象。
ボーイズも紹介しておきましょう。
これも人物&外の風景の組み合わせ。タイトルにあるようにいかにもトスカーナ的な風景が広がっている。でもトスカーナ地方の風景って絵でしか知らないんだよな(^^ゞ
「Toscana」 2009年
写実絵画でヌードを見たのは初めてかも知れない。意外にも生々しさはまったく感じない。やはり写実絵画ならリアルを超えたリアルさでエロスを表現したものも見てみたい。
「颯」 2015年
「月華」 2014年
男性のヌードは見慣れていないせいで妙に落ち着かない。モデルは「Toscana」で描いた少年の5年後のような気がする。
「17歳のシモーネ」 2014年
これは何と塩谷画伯が5歳の幼少のみぎりでの作品。
「海」 1980年
回顧展は画家の作品を年代を追って展示する構成とはいえ、
5歳のお絵かきが出てくるのは珍しい。
ところで「昔、神童、今はただの人」な私である。小学校の頃は授業で描かされた・書かされた絵や作文や詩を先生がどこかの展覧会に(勝手に)応募するシステムがあり、いろいろ表彰された。絵では文部大臣賞をもらったりもした。また小学1年の時に図工の授業で「ザルにのせた三匹の大きな海老」を皆で描いた。描き終えた絵がしばらく教室の後ろに貼られるのは今もある光景。あるとき父兄懇親会のような会合があって、父兄の中に美大の教授がいて教室で私の絵を指して「この子は天才だ!」といったらしく、母親が有頂天になって帰ってきたのを覚えている。
母上、ただの人になってしまい申し訳ございませんm(_ _)m
5歳といえば幼稚園児。大学1年のとき、実家の建て替えでしばらく引っ越すことになり、部屋を整理していたら幼稚園で使っていたスケッチブックが出てきた。半分は鉄人28号が描かれていて(^^ゞ それが我ながら実に上手な絵でビックリした。そのスケッチブックは永久保存するつもりだったのに引っ越しのどさくさでなくしてしまったのが残念。
でもそのスケッチブックの記憶をたどれば、幼稚園児だからクレヨンだけれど、鉄人以外は塩谷亮が5歳で描いた作品といい勝負していたと思う。
彼が11歳のときに描いた「屋上風景」 1987年
ちょっと引き離された気がする。
でもまだまだ射程範囲。
私は図工の時間しか絵を描いていないのだから練習量の違いさ。
17歳のときの「静物習作」 1992年
あっ、100万光年先に行かれた!(>_<)
17歳なら高校2年。美術の授業は2年までで最後はちょっと大きなサイズの油を描く。私は当時の国際社会で話題になっていた問題をテーマに選んだ。そのアイデアはよかったものの、まったく頭の中のイメージ通りに描けず最後に全部塗りつぶして、新幹線を背景に「修学旅行楽しもうぜ」みたいな当たり障りのない絵に描き変えた。それは軽い挫折。その頃は既に「ただの人」だったから仕方がないけど。考えてみればそれ以来絵筆を握ったことがないな。
まさか展覧会に来て、
幼稚園から高校生までをあれこれと思い出すと考えてもみなかったゼ。
ーーー続く
2020年
超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵
超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 その2
超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 その3
超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 その4
2017年
リアル(写実)のゆくえ その3
私が美術作品を評価する一番の基準は「酔える」かどうか。酔えるって何?を書き出すと超絶に長くなりそうなので割愛するが、要はほろ酔い気分のように気持ちよくさせてくれるのが大事。考察が必要だったり共感を強いられるような現代アートが好みじゃないのは今まで何度も書いてきた。
実は写実絵画の作品のほとんどは絵としては酔えない。
じゃあなぜそんな展覧会を見に行くのかといえば、それは
本物以上に本物そっくりなのに、
本物じゃないと知っていることから来る混乱で
頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚える
から。
クラッとするのもある種の酔えている状態。絵そのものには酔えなくても、これは人が「絵の具」を「筆」につけて「塗って」描き上げたという感嘆に酔えるのである。ちょっとヘンタイな楽しみ方かも知れない。
さて作者の塩谷亮(しおたに りょう)。Wikipediaには載っておらず展覧会公式ホームページの文章を引用すると、
1975年、東京都生まれ。1998 年、武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。
2008 〜 2009年には文化庁新進芸術家海外派遣研修員としてイタリアに留学し、
古典絵画の模写や技法研究に取り組む。これまでに九州産業大学客員教授をはじめ、
武蔵野美術大学、日本大学、長岡造形大学、広島市立大学で講師を歴任。
とあった。
アカデミズム肌の画家なのかな。
前書きはこのくらいにして作品の紹介。
まずは展示の最初のほうにあった作品。
「ウクライナの少女」 2023年
ウクライナといえばロシアとの戦争である。現時点でほとんどの日本人にとって、それ以外にウクライナについて思い浮かぶものはない。でもこの少女からは悲しみや憤りなど戦争の「せ」の字も感じられない。まるでたまたまモデルがウクライナ人なだけで戦争とは関係ない作品のようである。「赤いノースリーブを着た少女」がタイトルでも違和感はない。(参考までにロシアの侵略は2022年)
それでもタイトルにウクライナと書いてあれば現在も進行中の戦争を想起せざるを得ないわけで、それなのにそれとは無関係な、あえて言えば人畜無害な絵があってーーー最初から悪酔いした(^^ゞ
次の2作品は一目見れば何を表現しているのか理解できる。「いや〜あの頃は大変でしたよね」と隣にいる人に声をかけたくなる気分。でも100年後の鑑賞者は風邪か花粉症としか思わないはず。そう考えると「ウクライナの少女」も戦争が終わった後を見越してのタイトル? そんなわけで絵のタイトルや小道具についてボンヤリと考えながらの鑑賞スタート。
「KAON -15 years old」 2022年
「2020春日」 2021年
ところで写実絵画は写真のように精緻に描く。なのでまるでエアブラシで吹いたように筆跡なんてないと思ってしまうが(エアブラシを使う画家もいる)、意外とそれなりに筆跡は残っている。それは画像を拡大してもなかなかわからず実物を見るまで気付かない。
はい、撮っておきましたマクロ撮影で。
この画像なら拡大すれば筆跡も見られるはず。
それに意味があるかどうかは別として。
ここから先は展示順とは無関係に作品を並べている。
まずは女性をモデルにした作品。
「明日」 2008年
鏡に映っている姿を描いているのかと思いきや鏡の中に風景がある。背景が鏡に映り込んでいるとも考えられるが状況的に少しヘン。この絵には背景が必要と考えたからこう描いたのだろう。先ほどのマスクの絵もそうだが塩谷亮の人物画は背景に外の景色を描いている作品が多い。これは写実絵画では珍しいと思う。ただでさえ手間の掛かる写実絵画なのに背景も細かく描くのは大変そう。
「漂」 2007年
「凪」 2024年
「煌」 2012年
塩谷亮はタイトルの付け方が凝っているというか癖が強いね。それが「ウクライナの少女」とも関連している気もするが、彼については画家である以外はほとんど知らないのでよくわからない。
2020年の展覧会で見た石黒賢一郎や三重野慶がカリカリにピントを合わせたような描写だったのと較べると、塩谷亮はソフトフォーカスとはいわないまでも普通のフォーカス。ゾクッとするようなリアルさには欠ける。でも特にそれに不満は感じなかった。テクニックを誇示せずに芸で上手くまとめている印象。
ボーイズも紹介しておきましょう。
これも人物&外の風景の組み合わせ。タイトルにあるようにいかにもトスカーナ的な風景が広がっている。でもトスカーナ地方の風景って絵でしか知らないんだよな(^^ゞ
「Toscana」 2009年
写実絵画でヌードを見たのは初めてかも知れない。意外にも生々しさはまったく感じない。やはり写実絵画ならリアルを超えたリアルさでエロスを表現したものも見てみたい。
「颯」 2015年
「月華」 2014年
男性のヌードは見慣れていないせいで妙に落ち着かない。モデルは「Toscana」で描いた少年の5年後のような気がする。
「17歳のシモーネ」 2014年
これは何と塩谷画伯が5歳の幼少のみぎりでの作品。
「海」 1980年
回顧展は画家の作品を年代を追って展示する構成とはいえ、
5歳のお絵かきが出てくるのは珍しい。
ところで「昔、神童、今はただの人」な私である。小学校の頃は授業で描かされた・書かされた絵や作文や詩を先生がどこかの展覧会に(勝手に)応募するシステムがあり、いろいろ表彰された。絵では文部大臣賞をもらったりもした。また小学1年の時に図工の授業で「ザルにのせた三匹の大きな海老」を皆で描いた。描き終えた絵がしばらく教室の後ろに貼られるのは今もある光景。あるとき父兄懇親会のような会合があって、父兄の中に美大の教授がいて教室で私の絵を指して「この子は天才だ!」といったらしく、母親が有頂天になって帰ってきたのを覚えている。
母上、ただの人になってしまい申し訳ございませんm(_ _)m
5歳といえば幼稚園児。大学1年のとき、実家の建て替えでしばらく引っ越すことになり、部屋を整理していたら幼稚園で使っていたスケッチブックが出てきた。半分は鉄人28号が描かれていて(^^ゞ それが我ながら実に上手な絵でビックリした。そのスケッチブックは永久保存するつもりだったのに引っ越しのどさくさでなくしてしまったのが残念。
でもそのスケッチブックの記憶をたどれば、幼稚園児だからクレヨンだけれど、鉄人以外は塩谷亮が5歳で描いた作品といい勝負していたと思う。
彼が11歳のときに描いた「屋上風景」 1987年
ちょっと引き離された気がする。
でもまだまだ射程範囲。
私は図工の時間しか絵を描いていないのだから練習量の違いさ。
17歳のときの「静物習作」 1992年
あっ、100万光年先に行かれた!(>_<)
17歳なら高校2年。美術の授業は2年までで最後はちょっと大きなサイズの油を描く。私は当時の国際社会で話題になっていた問題をテーマに選んだ。そのアイデアはよかったものの、まったく頭の中のイメージ通りに描けず最後に全部塗りつぶして、新幹線を背景に「修学旅行楽しもうぜ」みたいな当たり障りのない絵に描き変えた。それは軽い挫折。その頃は既に「ただの人」だったから仕方がないけど。考えてみればそれ以来絵筆を握ったことがないな。
まさか展覧会に来て、
幼稚園から高校生までをあれこれと思い出すと考えてもみなかったゼ。
ーーー続く
wassho at 21:46|Permalink│Comments(0)│
2026年02月14日
塩谷亮 刻を描くリアリズム
NHKの「アートシーン」という展覧会情報番組でこの個展を知った。
いきなり話が脱線して恐縮だが、NHKは放送で企業名や商品名を使わないのが原則。公共放送として特定の企業や商品の宣伝にならないようするのがその理由。
子供の頃にNHKのドラマでビール瓶が出てくるシーンでは、ブランドがわからないようラベル部分が黒い紙で覆われていたのを覚えている。かぐや姫が1973年に200万枚を売り上げたヒット曲「神田川」には「♪24色のクレパス買って」との歌詞があり、NHKがクレパスは商品名だからクレヨンに変更を求めたところ、かぐや姫がそれを拒否して紅白の出演を辞退するなんて騒動もあった。
なお1978年の山口百恵の代表曲「プレイバックPart2」には「♪緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ」という歌詞があり、それを紅白では「真紅なクルマ」と歌わされたーーーとよく言われるがそれは間違い。NHKの他の番組で「真紅なクルマ」に置き換えられた事実はあるものの、紅白ではポルシェと歌っている。それは当時の一番人気であったピンクレディがその年の紅白を辞退して裏番組に出演する状況となり、山口百恵にまでヘソを曲げられたら(しかも紅組のトリ)ーーーなんて大人の事情があったみたい。
私感を述べれば「真紅なポルシェ」と「真紅なクルマ」では歌詞の持つ意味や世界観が変わるけれど、「クレパス」と「クレヨン」はどちらでも同じに思える。クレパスが商品名との意識もほとんどない。あの頃は紅白に出場する流行歌歌手と、それ以外のフォークシンガーなどの区別があって、後者は紅白に出るなんてダサいなんて風潮もあったから、出場依頼を断る理由にクレパスを利用したのかも知れない。
ビールはその後に架空の商品のラベルが貼られるようになったし、商品名の扱いも緩やかになった。クレパス問題から19年後の1992年紅白に南こうせつはソロで出場し、神田川をクレパスのオリジナル歌詞で歌っている。2020年の紅白では「ドルチェ&ガッバーナのその香水のせい」と、そのものズバリな商品名の歌詞もOKとなっている。
それでも根底にあるのは次のルール。
放送法第83条
1 協会(NHKを意味する)は、他人の営業に関する広告の放送をしてはならない。
2 前項の規定は、放送番組編集上必要であつて、かつ、他人の営業に関する広告のためにするものでないと認められる場合において、著作者又は営業者の氏名又は名称等を放送することを妨げるものではない。
日本放送協会番組基準(国内)第12項
1 営業広告または売名的宣伝を目的とする放送は、いっさい行わない。
2 放送中に、特定の団体名または個人名あるいは職業、商号および商品名が含まれる場合は、それが、その放送の本質的要素であるかどうか、または演出上やむをえないものかどうかを公正に判断して、その取り扱いを決定する。
ちなみに放送法は196条あって、そのうち15条〜87条までの73条分が、つまり条の数でいえば 73 ÷ 196 = 全体の1/3 以上がNHKに対する規定。それだけNHKは法律でがんじがらめに縛れているともいえる。
まあとにかくNHKでは広告宣伝をしないのが基本。
でも「アートシーン」は展覧会の宣伝以外の何物でもない。開催されている美術館名はもちろん、ご丁寧にもその期間まで教えてくれる。これが例えばアイドルやJ-POPのライブの紹介ならNHKはそんな番組は作らないはず。どこが違うのかな?どういう基準なんだろう?
「アートシーン」は展覧会内容の簡単なレポート番組で、それが宣伝目的の放送ではないとの根拠なのかも知れない。ただしそれらのレポートがすべて終わって、エンドの番組タイトルも出した後に、さらに別の展覧会の告知を挿入する放送日もある。これはレポートもなく告知のみで宣伝そのもの。以前に気になってそれらの展覧会をチェックしたらNHKが協賛している展覧会がほとんどだった。放送法が禁じているのは「他人の営業に関する広告の放送」だからこれは許されるのか。でも展覧会の主催者=展覧会の収益を得るのは「他人」な訳で何となく腑に落ちない。
もちろんアートシーンの番組をケシカランといっているわけではない。あの番組で展覧会を知って訪れたことは今まで多くある。今回の展覧会も番組で紹介されなければ見逃していたはず。そんな宣伝効果抜群(^^ゞ の番組がこれからも続きますように。できれば現在15分の枠を拡大して、もっとマイナーな展覧会も紹介して欲しいくらい。
さて今回の展覧会。場所は新宿区大京町の佐藤美術館。今までここで展覧会を見た経験はなく名前を聞くのも初めて。バブルの頃に飛ぶ鳥を落とす勢いで、ニューヨークのティファニー本社ビルを買収して有名になった第一不動産の創業者が1990年に設立した美術館。第一不動は2007年に倒産したとはいえ、こういう遺産を残せてよかったね。
最寄り駅は徒歩5分のJRの千駄ヶ谷駅か地下鉄大江戸線の国立競技場駅。でも乗り換えるのが面倒だったので地下鉄副都心線の北参道駅で下車。そこからでも15分ほどの距離。
千駄ヶ谷駅の先で高架をくぐってしばらく線路と平行に。
電車と国立競技場のツーショットが撮れた。
左側の木々は新宿御苑。
この道路に出て、
信号を渡りFOR RENTと書かれている左側の路地に入る。
児童公園で行き止まりかと一瞬あせったが、
奥の階段で公園を出ると、
この道路に出る。
このちょっと趣のある建物は四谷第六小学校と幼稚園。
公立で幼少一貫校は珍しいのでは。
その四谷第六のほぼ向かいに佐藤美術館のビル。
例によって思いつくままに書いているので、展覧会の内容にまでなかなか話が進まないが、今回は超写実絵画やスーパーリアリズムと呼ばれるジャンルの展覧会。
このエレベータのサイズでわかるように小さなビル。
エレベーターホールの脇に胡蝶蘭。胡蝶蘭は好きなんだけれど、お祝いにはとりあえず白い胡蝶蘭を送っておけな風潮が嫌い。ましてや美術関係者ならもうちょっと気を利かして欲しい。
受付は2階。
でもこの表示はわかりにくい。
そしてこのエレベーターがなかなか来ずにイライラ。
2階が受付とミュージアムショップ。
3〜5階が展示会場でその雰囲気を。
狭いのは仕方ないとして天井が低いのが美術館としては残念。
ここは美術館として建てられたのではなく普通の小規模なオフィスビル。
なお会場では一部の作品を除いて写真撮影可。
ーーー続く
いきなり話が脱線して恐縮だが、NHKは放送で企業名や商品名を使わないのが原則。公共放送として特定の企業や商品の宣伝にならないようするのがその理由。
子供の頃にNHKのドラマでビール瓶が出てくるシーンでは、ブランドがわからないようラベル部分が黒い紙で覆われていたのを覚えている。かぐや姫が1973年に200万枚を売り上げたヒット曲「神田川」には「♪24色のクレパス買って」との歌詞があり、NHKがクレパスは商品名だからクレヨンに変更を求めたところ、かぐや姫がそれを拒否して紅白の出演を辞退するなんて騒動もあった。
なお1978年の山口百恵の代表曲「プレイバックPart2」には「♪緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ」という歌詞があり、それを紅白では「真紅なクルマ」と歌わされたーーーとよく言われるがそれは間違い。NHKの他の番組で「真紅なクルマ」に置き換えられた事実はあるものの、紅白ではポルシェと歌っている。それは当時の一番人気であったピンクレディがその年の紅白を辞退して裏番組に出演する状況となり、山口百恵にまでヘソを曲げられたら(しかも紅組のトリ)ーーーなんて大人の事情があったみたい。
私感を述べれば「真紅なポルシェ」と「真紅なクルマ」では歌詞の持つ意味や世界観が変わるけれど、「クレパス」と「クレヨン」はどちらでも同じに思える。クレパスが商品名との意識もほとんどない。あの頃は紅白に出場する流行歌歌手と、それ以外のフォークシンガーなどの区別があって、後者は紅白に出るなんてダサいなんて風潮もあったから、出場依頼を断る理由にクレパスを利用したのかも知れない。
ビールはその後に架空の商品のラベルが貼られるようになったし、商品名の扱いも緩やかになった。クレパス問題から19年後の1992年紅白に南こうせつはソロで出場し、神田川をクレパスのオリジナル歌詞で歌っている。2020年の紅白では「ドルチェ&ガッバーナのその香水のせい」と、そのものズバリな商品名の歌詞もOKとなっている。
それでも根底にあるのは次のルール。
放送法第83条
1 協会(NHKを意味する)は、他人の営業に関する広告の放送をしてはならない。
2 前項の規定は、放送番組編集上必要であつて、かつ、他人の営業に関する広告のためにするものでないと認められる場合において、著作者又は営業者の氏名又は名称等を放送することを妨げるものではない。
日本放送協会番組基準(国内)第12項
1 営業広告または売名的宣伝を目的とする放送は、いっさい行わない。
2 放送中に、特定の団体名または個人名あるいは職業、商号および商品名が含まれる場合は、それが、その放送の本質的要素であるかどうか、または演出上やむをえないものかどうかを公正に判断して、その取り扱いを決定する。
ちなみに放送法は196条あって、そのうち15条〜87条までの73条分が、つまり条の数でいえば 73 ÷ 196 = 全体の1/3 以上がNHKに対する規定。それだけNHKは法律でがんじがらめに縛れているともいえる。
まあとにかくNHKでは広告宣伝をしないのが基本。
でも「アートシーン」は展覧会の宣伝以外の何物でもない。開催されている美術館名はもちろん、ご丁寧にもその期間まで教えてくれる。これが例えばアイドルやJ-POPのライブの紹介ならNHKはそんな番組は作らないはず。どこが違うのかな?どういう基準なんだろう?
「アートシーン」は展覧会内容の簡単なレポート番組で、それが宣伝目的の放送ではないとの根拠なのかも知れない。ただしそれらのレポートがすべて終わって、エンドの番組タイトルも出した後に、さらに別の展覧会の告知を挿入する放送日もある。これはレポートもなく告知のみで宣伝そのもの。以前に気になってそれらの展覧会をチェックしたらNHKが協賛している展覧会がほとんどだった。放送法が禁じているのは「他人の営業に関する広告の放送」だからこれは許されるのか。でも展覧会の主催者=展覧会の収益を得るのは「他人」な訳で何となく腑に落ちない。
もちろんアートシーンの番組をケシカランといっているわけではない。あの番組で展覧会を知って訪れたことは今まで多くある。今回の展覧会も番組で紹介されなければ見逃していたはず。そんな宣伝効果抜群(^^ゞ の番組がこれからも続きますように。できれば現在15分の枠を拡大して、もっとマイナーな展覧会も紹介して欲しいくらい。
さて今回の展覧会。場所は新宿区大京町の佐藤美術館。今までここで展覧会を見た経験はなく名前を聞くのも初めて。バブルの頃に飛ぶ鳥を落とす勢いで、ニューヨークのティファニー本社ビルを買収して有名になった第一不動産の創業者が1990年に設立した美術館。第一不動は2007年に倒産したとはいえ、こういう遺産を残せてよかったね。
最寄り駅は徒歩5分のJRの千駄ヶ谷駅か地下鉄大江戸線の国立競技場駅。でも乗り換えるのが面倒だったので地下鉄副都心線の北参道駅で下車。そこからでも15分ほどの距離。
千駄ヶ谷駅の先で高架をくぐってしばらく線路と平行に。
電車と国立競技場のツーショットが撮れた。
左側の木々は新宿御苑。
この道路に出て、
信号を渡りFOR RENTと書かれている左側の路地に入る。
児童公園で行き止まりかと一瞬あせったが、
奥の階段で公園を出ると、
この道路に出る。
このちょっと趣のある建物は四谷第六小学校と幼稚園。
公立で幼少一貫校は珍しいのでは。
その四谷第六のほぼ向かいに佐藤美術館のビル。
例によって思いつくままに書いているので、展覧会の内容にまでなかなか話が進まないが、今回は超写実絵画やスーパーリアリズムと呼ばれるジャンルの展覧会。
このエレベータのサイズでわかるように小さなビル。
エレベーターホールの脇に胡蝶蘭。胡蝶蘭は好きなんだけれど、お祝いにはとりあえず白い胡蝶蘭を送っておけな風潮が嫌い。ましてや美術関係者ならもうちょっと気を利かして欲しい。
受付は2階。
でもこの表示はわかりにくい。
そしてこのエレベーターがなかなか来ずにイライラ。
2階が受付とミュージアムショップ。
3〜5階が展示会場でその雰囲気を。
狭いのは仕方ないとして天井が低いのが美術館としては残念。
ここは美術館として建てられたのではなく普通の小規模なオフィスビル。
なお会場では一部の作品を除いて写真撮影可。
ーーー続く
2026年02月08日
雪だるま探し散歩
昨日は昼過ぎに雪が舞いだしたけれど、午後4時くらいにはやんだので「夜にかけて積もるようなことにはならないはず」とブログに書いた。その予測は見事に外れて、
本日の東京は見事に2026年初雪景色!
これは昼前の写真。それにしてもいつ頃から降り始めたのだろう。昨日の午後8時くらいに外を見たときはそんな気配はまったくなかったのに。
しかし2時半頃に外にで見ると道路に雪はなく、積もっているのは生け垣の上だけ。おそらく夜のうちにごく薄く路面を覆った程度で、日が昇ったら溶けてしまったようだ。ちょっと残念。
クルマの上でこれくらい。
風流?
これは冬の寒さ対策で植物を藁(ワラ)で覆った藁ボッチ。庭園でよく見る雪吊りと同じく東京の気候では必要ない。言ってみれば冬らしさを演出するアイテム。でも雪を被ってサマになってよかったね。
林試の森公園に到着。
公園ならもう少し雪が残っているかと思ったのに期待はずれ。
2014年の2月8日から9日にかけて、東京では積雪26センチを記録した40年ぶりという大雪が降った。9日は日曜日だったので雪景色の中をこの公園に来てみると、たくさんの雪だるまが作られていた。その数なんと48個。あんなにたくさんの雪だるまを見たのは今のところあれが最初で最後である。それは雪が降る度に今でも思い出すくらい楽しい体験だった。
そのときのブログ「YKD48」はこちら↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53026443.html
偶然にも本日は同じ2月8日。
それにしてもあれから12年も経つのか。
歳を取るわけだわ(/o\)
なお2014年は再び2月14日に8日を超える27センチの大雪が降った。この場合も40年ぶりなのか、それとも6日ぶりの大雪なのか?ナゾ
さて本日と2014年では積雪量がまったく違い、雪だるまを作る人がいるのかどうかもわからないが、1つでも見られたらと思ってここにやって来たしだい。
ダメダ!
2014年は雪だるま製造工場と化していたこの広場に雪がまったくない。
奥のグラウンドでは子供たちが雪合戦ではなく普通に野球の練習をしている(>_<)
仕方ないので公園内を散歩しながら雪景色ぽい光景を撮る。
これだけを眺めると大雪気分が味わえるでしょ。
池と雪は似合うね。
ついでに河津桜の開花状況を偵察をする。
実は数日前に偵察に来たばかり。
ここは芝生がないのに芝生広場と呼ばれている場所。そして写真右隅に注目!
雪だるま発見!
少ない雪をかき集めたのだろう、かなり落ち葉がついている。
その努力に拍手。
河津桜の様子。
写真は花がたくさん咲いている部分を撮っている。
全体としてはまだ1分咲きといったところ。
雪を被ったサクラなんて滅多に見られないから、
これもいい体験である。
芝生広場を離れてしばらく歩いていたら2つ目の雪だるまがいた。
こちらのほうが雪の状態はいい。
だから鼻高々?
隣にもう一体作りかけて、でも雪が足らなくて断念した形跡が。
公園を出て歩いていると3つ目に出会う。
地面はアスファルトなので泥や葉は混じっていない。
なかなか可愛い。
頭にハンカチを乗せてもらっている。
餌をあげたら喜びそうな雰囲気。
お店の前にも雪だるまがあった。
マンションのエントランスに赤い目のウサギ雪だるま。
というわけで本日の雪だるま遭遇は5体。いつも思うけれど、人は雪が降ると雪だるまを作らずにはいられない生き物なのだ(^^ゞ
山手通りまで出た。幹線道路に雪は痕跡すらなし。
それにしても寒いなとスマホで天気サイトをチェックしたら0.3度。
この数字を見たら余計に寒くなってきた。
でも雪だるまをいくつも見られてよき1日。
本日の東京は見事に2026年初雪景色!
これは昼前の写真。それにしてもいつ頃から降り始めたのだろう。昨日の午後8時くらいに外を見たときはそんな気配はまったくなかったのに。
しかし2時半頃に外にで見ると道路に雪はなく、積もっているのは生け垣の上だけ。おそらく夜のうちにごく薄く路面を覆った程度で、日が昇ったら溶けてしまったようだ。ちょっと残念。
クルマの上でこれくらい。
風流?
これは冬の寒さ対策で植物を藁(ワラ)で覆った藁ボッチ。庭園でよく見る雪吊りと同じく東京の気候では必要ない。言ってみれば冬らしさを演出するアイテム。でも雪を被ってサマになってよかったね。
林試の森公園に到着。
公園ならもう少し雪が残っているかと思ったのに期待はずれ。
2014年の2月8日から9日にかけて、東京では積雪26センチを記録した40年ぶりという大雪が降った。9日は日曜日だったので雪景色の中をこの公園に来てみると、たくさんの雪だるまが作られていた。その数なんと48個。あんなにたくさんの雪だるまを見たのは今のところあれが最初で最後である。それは雪が降る度に今でも思い出すくらい楽しい体験だった。
そのときのブログ「YKD48」はこちら↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53026443.html
偶然にも本日は同じ2月8日。
それにしてもあれから12年も経つのか。
歳を取るわけだわ(/o\)
なお2014年は再び2月14日に8日を超える27センチの大雪が降った。この場合も40年ぶりなのか、それとも6日ぶりの大雪なのか?ナゾ
さて本日と2014年では積雪量がまったく違い、雪だるまを作る人がいるのかどうかもわからないが、1つでも見られたらと思ってここにやって来たしだい。
ダメダ!
2014年は雪だるま製造工場と化していたこの広場に雪がまったくない。
奥のグラウンドでは子供たちが雪合戦ではなく普通に野球の練習をしている(>_<)
仕方ないので公園内を散歩しながら雪景色ぽい光景を撮る。
これだけを眺めると大雪気分が味わえるでしょ。
池と雪は似合うね。
ついでに河津桜の開花状況を偵察をする。
実は数日前に偵察に来たばかり。
ここは芝生がないのに芝生広場と呼ばれている場所。そして写真右隅に注目!
雪だるま発見!
少ない雪をかき集めたのだろう、かなり落ち葉がついている。
その努力に拍手。
河津桜の様子。
写真は花がたくさん咲いている部分を撮っている。
全体としてはまだ1分咲きといったところ。
雪を被ったサクラなんて滅多に見られないから、
これもいい体験である。
芝生広場を離れてしばらく歩いていたら2つ目の雪だるまがいた。
こちらのほうが雪の状態はいい。
だから鼻高々?
隣にもう一体作りかけて、でも雪が足らなくて断念した形跡が。
公園を出て歩いていると3つ目に出会う。
地面はアスファルトなので泥や葉は混じっていない。
なかなか可愛い。
頭にハンカチを乗せてもらっている。
餌をあげたら喜びそうな雰囲気。
お店の前にも雪だるまがあった。
マンションのエントランスに赤い目のウサギ雪だるま。
というわけで本日の雪だるま遭遇は5体。いつも思うけれど、人は雪が降ると雪だるまを作らずにはいられない生き物なのだ(^^ゞ
山手通りまで出た。幹線道路に雪は痕跡すらなし。
それにしても寒いなとスマホで天気サイトをチェックしたら0.3度。
この数字を見たら余計に寒くなってきた。
でも雪だるまをいくつも見られてよき1日。
2026年02月07日
うめ祭り開催前の羽根木公園でウメととロウバイ その2
前回に紹介した階段のある通路が梅林のメインストリート。そこを中心として左右にいくつかの小径が延びている。そこを巡りながら、よく咲いているウメを探しながら観梅を楽しむ。
ぬかるみに備えて傾斜が急なところは地面にゴザが敷かれている。
単色よりも2色のウメが入るように撮ったほうがキレイかな。
ちょっと密集感を狙って。
他の木の緑を背景にするのも悪くない。
この木はケヤキ? ひょっとしてイチョウ?
冬だと手がかりとなる葉がないので見分けが難しい。
まるでその木にウメが咲いているように撮れた(^^ゞ
こちらは背後に迫る感じで。
この木は、
こんなものがついていたからユリノキ。
枯れた花に思えるがこれは種の集合体。花びらのように見える1つ1つが種で風で運ばれていく。写真は一番外側の種だけが残った状態。
ウメに話を戻してお約束の逆光写真。
おぼろげな感じになってよし。
ところでよく撮る青空を背景にしたアングル。
白いウメだと真っ青な空になるのに、
ピンクだと空の色がくすんでしまう。
いつもこうなる。
両者の日差しの当たり方に差はない。
もちろんこれはウメに限った現象ではなく、どんな花でもピンクの色が濃い、あるいは赤や朱色に近くなるほど空がくすむ傾向が強い。
ひょっとしてピンク色が目に影響しての錯覚かと思い、青空の部分を抜き出して並べてみたが、やはり錯覚ではない。明らかに色が違う。考えてみれば肉眼で空の色は同じだから当たり前。
背景にする青空は鮮やかに撮りたいのにどうしてなんだろう。ただし白いウメの青空が鮮やかすぎるともいえる。実際の空はあんな真っ青な色をしていない。こういうのはデジカメの特性なのか?そのうち調べるつもり。
とりあえずそれは忘れて、
可憐なウメの花の微妙な違いを愛でましょう。
羽根木公園名物の「今まで一度も見えたことのない富士見場所」(^^ゞ
でもネットにはここから見えた富士山の写真が多数アップされている。いつか私にも富士山を眺められる日は来るだろうか。
梅林の斜面を西側に降りたところ。
そこにもロウバイが咲いていた。
その隣に5〜6本が育成中。スペースは充分にあるのだから50本くらい植えて、ここをロウバイの森にして欲しい。
梅林中央の階段横にあったロウバイより状態がよく香りも強かった。たぶんこれが今年に見る最後のロウバイだと思ってクンクンしまくる。
ロウバイの代表的品種は和ロウバイ(単にロウバイともいう)、マンゲツ(満月)ロウバイ、ソシン(素心)ロウバイ、フクジュ(福寿)ロウバイの4つ。このうち和ロウバイは花の中心部が赤紫で、満月も赤紫の細い輪のような模様が花びらにあって見分けやすい。
問題は素心と福寿。色はどちらも黄色一色。
その違いは
素心:花びらがやや尖っている、透明感のある黄色
福寿:花びらは丸い、黄色の色がやや濃い、花がやや大きい
とされる。とはいっても「やや尖っている」「やや濃い」「やや大きい」は微妙な違い。並べて見較べないとよくわからないし、今までにそんな機会はなし。
それでこのロウバイは色が濃いともサイズが大きいとも思えないけれど、花びらは丸い形なので暫定的にフクジュロウバイに認定しておきましょう。公園管理者には求む品種表示。
さて羽根木公園を訪れたのはうめ祭り開催の3日前。それでも3割くらいのウメは楽しめた。そして本日からうめ祭りがスタート。しかし昨日の東京は最高気温が16.1度もあったのに、本日朝の予報は雪だるまだらけ!
実際に昼過ぎにはパラパラと雪が舞いだした。現在午後4時過ぎ時点では降っていない。夜にかけて積もるようなことにはならないはず。とはいえただいまの気温は2.8度。ちなみに午前5時の気温は5.4度あって朝より昼のほうが寒い。
でもウメが咲けば春遠からじ!
おしまい
ぬかるみに備えて傾斜が急なところは地面にゴザが敷かれている。
単色よりも2色のウメが入るように撮ったほうがキレイかな。
ちょっと密集感を狙って。
他の木の緑を背景にするのも悪くない。
この木はケヤキ? ひょっとしてイチョウ?
冬だと手がかりとなる葉がないので見分けが難しい。
まるでその木にウメが咲いているように撮れた(^^ゞ
こちらは背後に迫る感じで。
この木は、
こんなものがついていたからユリノキ。
枯れた花に思えるがこれは種の集合体。花びらのように見える1つ1つが種で風で運ばれていく。写真は一番外側の種だけが残った状態。
ウメに話を戻してお約束の逆光写真。
おぼろげな感じになってよし。
ところでよく撮る青空を背景にしたアングル。
白いウメだと真っ青な空になるのに、
ピンクだと空の色がくすんでしまう。
いつもこうなる。
両者の日差しの当たり方に差はない。
もちろんこれはウメに限った現象ではなく、どんな花でもピンクの色が濃い、あるいは赤や朱色に近くなるほど空がくすむ傾向が強い。
ひょっとしてピンク色が目に影響しての錯覚かと思い、青空の部分を抜き出して並べてみたが、やはり錯覚ではない。明らかに色が違う。考えてみれば肉眼で空の色は同じだから当たり前。
背景にする青空は鮮やかに撮りたいのにどうしてなんだろう。ただし白いウメの青空が鮮やかすぎるともいえる。実際の空はあんな真っ青な色をしていない。こういうのはデジカメの特性なのか?そのうち調べるつもり。
とりあえずそれは忘れて、
可憐なウメの花の微妙な違いを愛でましょう。
羽根木公園名物の「今まで一度も見えたことのない富士見場所」(^^ゞ
でもネットにはここから見えた富士山の写真が多数アップされている。いつか私にも富士山を眺められる日は来るだろうか。
梅林の斜面を西側に降りたところ。
そこにもロウバイが咲いていた。
その隣に5〜6本が育成中。スペースは充分にあるのだから50本くらい植えて、ここをロウバイの森にして欲しい。
梅林中央の階段横にあったロウバイより状態がよく香りも強かった。たぶんこれが今年に見る最後のロウバイだと思ってクンクンしまくる。
ロウバイの代表的品種は和ロウバイ(単にロウバイともいう)、マンゲツ(満月)ロウバイ、ソシン(素心)ロウバイ、フクジュ(福寿)ロウバイの4つ。このうち和ロウバイは花の中心部が赤紫で、満月も赤紫の細い輪のような模様が花びらにあって見分けやすい。
問題は素心と福寿。色はどちらも黄色一色。
その違いは
素心:花びらがやや尖っている、透明感のある黄色
福寿:花びらは丸い、黄色の色がやや濃い、花がやや大きい
とされる。とはいっても「やや尖っている」「やや濃い」「やや大きい」は微妙な違い。並べて見較べないとよくわからないし、今までにそんな機会はなし。
それでこのロウバイは色が濃いともサイズが大きいとも思えないけれど、花びらは丸い形なので暫定的にフクジュロウバイに認定しておきましょう。公園管理者には求む品種表示。
さて羽根木公園を訪れたのはうめ祭り開催の3日前。それでも3割くらいのウメは楽しめた。そして本日からうめ祭りがスタート。しかし昨日の東京は最高気温が16.1度もあったのに、本日朝の予報は雪だるまだらけ!
実際に昼過ぎにはパラパラと雪が舞いだした。現在午後4時過ぎ時点では降っていない。夜にかけて積もるようなことにはならないはず。とはいえただいまの気温は2.8度。ちなみに午前5時の気温は5.4度あって朝より昼のほうが寒い。
でもウメが咲けば春遠からじ!
おしまい
2026年02月05日
うめ祭り開催前の羽根木公園でウメととロウバイ
羽根木公園のウメは3〜4回ほど見に来ている。
そのうち2021年と2024年はブログにも書いた。
2021年 羽根木公園でウメを見る
2024年 羽根木公園までウメ散歩
できるだけ同じところに同じものは見に行かないようにしているが、ここは自宅から比較的近いので例外扱いにしている場所。この公園で開かれる「せたがや梅まつり」は2月7日からだけれど、今年はウメの開花が早いようなので、もうそこそこ咲いているでしょうと2月4日に訪れた。
地図で白く抜けているのが世田谷区。
小田急線の梅ヶ丘駅寄りの公園入り口。
公園の由来を書いた看板。
ところでこちらは2021年に撮影した同じ看板。ウメの数が700本と書かれており、でも世田谷区のホームページだと650本となっていると、そのときののブログでも指摘した。
さらにこれは2023年に撮った看板でウメの数は同じく700本。
現在の看板(一番上の写真)は650本に修正されている。ところが文末の日付は2004年2月で2023年の看板も同じ日付が記されている。つまり本数のところだけをコソッと修正したと思われる。 お暇な人がいれば世田谷区に問い合わせを(^^ゞ
3日後のうめ祭り開催の準備。
ピンク部分が梅園。羽根木公園全体が8.1ヘクタールなので梅園部分は1ヘクタール弱くらい。梅園部分とその左右=公園の南側は斜面になっている。
梅園の斜面を上がる最初の階段。
このあたりはまだ咲きそろっていなかったものの、
2つ目の階段ではご覧の通り。
3つ目の階段でヨッシャー!とほくそ笑む。
斜面の下も上も南向きで日当たりは同じように見える。それでも開花状況が異なるのは微妙な日当たりの差なのか、あるいは早咲き遅咲きの品種の違いなのだろうか。
この階段横にはロウバイがあった。今までに羽根木公園に来たのは2月後半なので、ここでロウバイを見るのは初めてでロウバイが植えられているとも知らなかった。
花数はそこそこ。
そして今年ロウバイを見た観泉寺や品川中央公園と違って、鼻を近づけなくてもあたりに濃厚な香りが漂っていた。
ロウバイに限らず花の香り成分は揮発性の有機化合物なので、開花した後は時間と共に香りが薄くなる。ここのは最近に開花したのかな。以前から同じ東京でも場所によってロウバイはかなり開花時期が異なる印象を持っている。
羽根木公園は品種の表示が充実している。でもそのときに名前を確認してもどうせすぐ忘れるので、白・ピンク・濃いピンクと楽しむのが私の流儀。
それとこの写真ではわかりづらいが枝がグリーンのウメがある。ほとんどが白梅で、中には枝の色が反射して花びらが薄く緑がかった白の場合もある。このグリーンウメ(園芸的には青軸と呼ぶ)がフレッシュな感じがして好き。
梅園の斜面を登り切ったところ。
これはうめ祭りのための飲食店屋台のプレハブ小屋。
東に延びる通路。
この方向にウメはないが、ここには鉢植えなど物販の屋台が並ぶ。
このエリアには柵に囲われたウメがある。
珍しい品種などではなく何周年かごとの記念植樹の木らしい。
キレイなら何でもよし。
樹形が素敵なしだれ梅。
ロウバイも1本だけ柵の中にあった。
園内にある梅ヶ丘図書館。
あれっ、こんなところに図書館があったっけ?
調べてみると梅ヶ丘図書館は1968年の竣工で、世田谷区立最古の図書館として羽根木公園の一角を占めてきた(それ以前に世田谷に図書館がなかったとは驚きだが)。ただし老朽化のため2023年に取り壊して、新たに完成したこの図書館がうめ祭り開催翌日の2月8日に稼働を始めるとわかった。
そしてこちらの世田谷区の資料を見ると、以前は羽根木公園の中から図書館の3階にアクセスできる通路はなかったようだ(先ほどの航空写真で梅園の右側で工事中になっている部分が図書館)。それで今回初めて図書館の存在に気がついたというわけ。
ところで旧館を取り壊して新しい図書館に建て替えたのに、世田谷区の関連ホームページではすべて「改築」「リニューアルオープン」の言葉が使われている。またそれを引用したネット情報も多い。どうも違和感があったので確認すると、
建物を取り壊して新しく建てるのは一般的には「建て替え」だが、建築基準法的には「建築物の一部もしくは全部を取り壊し、従来と同様の用途・構造・規模のものに建て替える」のが「改築」と定義されている。なお一般用語としての「改築」は建物の一部の造り替えだと思う。そしてリニューアルに法律の規定はないものの基本的に「改装」であって「建て替え」は含まないのが私の理解。
古い図書館を「改築」によって全面的に建て替え、図書館の中身は新しい建物にあわせて「改装」したと解釈すれば用語定義として間違ってはいない。でもまっさらな図書館ができたのに「改築」「リニューアルオープン」とはやはりしっくりこない。ひょっとしてSDGsに配慮したためらいがそう言わせているのだろうか。それは勘ぐりすぎで単に役所言葉をそのまま使った文章センスのなさなのかも知れないが。これもお暇な人がいれば世田谷区に問い合わせを。
ーーー続く
そのうち2021年と2024年はブログにも書いた。
2021年 羽根木公園でウメを見る
2024年 羽根木公園までウメ散歩
できるだけ同じところに同じものは見に行かないようにしているが、ここは自宅から比較的近いので例外扱いにしている場所。この公園で開かれる「せたがや梅まつり」は2月7日からだけれど、今年はウメの開花が早いようなので、もうそこそこ咲いているでしょうと2月4日に訪れた。
地図で白く抜けているのが世田谷区。
小田急線の梅ヶ丘駅寄りの公園入り口。
公園の由来を書いた看板。
ところでこちらは2021年に撮影した同じ看板。ウメの数が700本と書かれており、でも世田谷区のホームページだと650本となっていると、そのときののブログでも指摘した。
さらにこれは2023年に撮った看板でウメの数は同じく700本。
現在の看板(一番上の写真)は650本に修正されている。ところが文末の日付は2004年2月で2023年の看板も同じ日付が記されている。つまり本数のところだけをコソッと修正したと思われる。 お暇な人がいれば世田谷区に問い合わせを(^^ゞ
3日後のうめ祭り開催の準備。
ピンク部分が梅園。羽根木公園全体が8.1ヘクタールなので梅園部分は1ヘクタール弱くらい。梅園部分とその左右=公園の南側は斜面になっている。
梅園の斜面を上がる最初の階段。
このあたりはまだ咲きそろっていなかったものの、
2つ目の階段ではご覧の通り。
3つ目の階段でヨッシャー!とほくそ笑む。
斜面の下も上も南向きで日当たりは同じように見える。それでも開花状況が異なるのは微妙な日当たりの差なのか、あるいは早咲き遅咲きの品種の違いなのだろうか。
この階段横にはロウバイがあった。今までに羽根木公園に来たのは2月後半なので、ここでロウバイを見るのは初めてでロウバイが植えられているとも知らなかった。
花数はそこそこ。
そして今年ロウバイを見た観泉寺や品川中央公園と違って、鼻を近づけなくてもあたりに濃厚な香りが漂っていた。
ロウバイに限らず花の香り成分は揮発性の有機化合物なので、開花した後は時間と共に香りが薄くなる。ここのは最近に開花したのかな。以前から同じ東京でも場所によってロウバイはかなり開花時期が異なる印象を持っている。
羽根木公園は品種の表示が充実している。でもそのときに名前を確認してもどうせすぐ忘れるので、白・ピンク・濃いピンクと楽しむのが私の流儀。
それとこの写真ではわかりづらいが枝がグリーンのウメがある。ほとんどが白梅で、中には枝の色が反射して花びらが薄く緑がかった白の場合もある。このグリーンウメ(園芸的には青軸と呼ぶ)がフレッシュな感じがして好き。
梅園の斜面を登り切ったところ。
これはうめ祭りのための飲食店屋台のプレハブ小屋。
東に延びる通路。
この方向にウメはないが、ここには鉢植えなど物販の屋台が並ぶ。
このエリアには柵に囲われたウメがある。
珍しい品種などではなく何周年かごとの記念植樹の木らしい。
キレイなら何でもよし。
樹形が素敵なしだれ梅。
ロウバイも1本だけ柵の中にあった。
園内にある梅ヶ丘図書館。
あれっ、こんなところに図書館があったっけ?
調べてみると梅ヶ丘図書館は1968年の竣工で、世田谷区立最古の図書館として羽根木公園の一角を占めてきた(それ以前に世田谷に図書館がなかったとは驚きだが)。ただし老朽化のため2023年に取り壊して、新たに完成したこの図書館がうめ祭り開催翌日の2月8日に稼働を始めるとわかった。
そしてこちらの世田谷区の資料を見ると、以前は羽根木公園の中から図書館の3階にアクセスできる通路はなかったようだ(先ほどの航空写真で梅園の右側で工事中になっている部分が図書館)。それで今回初めて図書館の存在に気がついたというわけ。
ところで旧館を取り壊して新しい図書館に建て替えたのに、世田谷区の関連ホームページではすべて「改築」「リニューアルオープン」の言葉が使われている。またそれを引用したネット情報も多い。どうも違和感があったので確認すると、
建物を取り壊して新しく建てるのは一般的には「建て替え」だが、建築基準法的には「建築物の一部もしくは全部を取り壊し、従来と同様の用途・構造・規模のものに建て替える」のが「改築」と定義されている。なお一般用語としての「改築」は建物の一部の造り替えだと思う。そしてリニューアルに法律の規定はないものの基本的に「改装」であって「建て替え」は含まないのが私の理解。
古い図書館を「改築」によって全面的に建て替え、図書館の中身は新しい建物にあわせて「改装」したと解釈すれば用語定義として間違ってはいない。でもまっさらな図書館ができたのに「改築」「リニューアルオープン」とはやはりしっくりこない。ひょっとしてSDGsに配慮したためらいがそう言わせているのだろうか。それは勘ぐりすぎで単に役所言葉をそのまま使った文章センスのなさなのかも知れないが。これもお暇な人がいれば世田谷区に問い合わせを。
ーーー続く
2026年02月02日
品川中央公園のロウバイ
1月30日に大井町で所用を済ませた後に散歩がてら自宅まで歩いて帰ってきた。どこかへ電車で出かけて帰りを歩きにするのはよくやるパターン。途中に品川中央公園、戸越公園、文庫の森と3つの公園がある。訪れたことがなかった品川中央公園に立ち寄ってみたらロウバイが咲いていた。
地図で色が抜けて白くなっているのが品川区。中央公園は名前の通りまさに品川区のど真ん中にある。大井町駅からは10分くらい。ちなみに品川駅は品川区ではなく隣の港区にある。その代わりに?目黒駅が位置しているのは目黒区ではなく品川区。山手線で駅名に区の名前がついているのに別の区に建っているのはこの2つ以外に、新宿駅も新宿区と渋谷区にまたがっているとどうでもいい知識。
これは公園の航空写真。左から災害用のヘリポートを兼ねた広場、品川区立中小企業センターのビル、グラウンド、前庭部分で構成されており「緑の多い都会のオアシス的」な公園とは趣が異なる。
なお公園の正式名称は平仮名で「しながわ中央公園」。名所に平仮名を使うのは文章の位置によって「 」でくくらないと読みづらくなるので嫌い。
ロウバイが咲いていたのはグラウンド前の道路に沿ったところ。
花数もそこそこ。先日に見に出かけた観泉寺は終了間近の状態で欲求不満がたまったが、その胸のつかえが下りた感じ。
黄色く丸々コロコロとしていて可愛い。
花の中まで黄色く、そして花びらが丸いからフクジュロウバイ(福寿)かも知れない。
これは開花から時期が経って花びらがかなり開いている。
少し先にもう2本あった。
こちらの方が先に咲いていたようだ。
花の中まで黄色く、でも花びらが尖っているからソシンロウバイ(素心)だろうか。
フクジュとソシンの見分け方は自信がない。
ウメも咲いていた。
道路より少し奥まったところにあり、
また花が咲いている位置も高いのでiPhoneのカメラでアップは無理。
ウメの木の下に植えられていたきれいな花も撮っておきましょう。
公園の前庭というか入り口部分。
向かいは品川区役所。
黄色が鮮やかな木があった。
上の写真の木は近くまで寄れなかったので、こちらは別の場所の同じ木。直射日光を浴びていないと黄色の鮮やかさがまったく違う。
画像検索してみるとこれはフィリフェラオーレアと舌をかみそうな名前。和名ではオウゴンヒヨクヒバ(黄金比翼桧葉)。ヒノキ科ヒノキ属サワラの園芸品種。魚のサワラは食べたことがあっても木のサワラは初めて知った。
結局、公園に接している道路からロウバイとウメを眺めた後に、前庭部分を通っただけで公園内部にはほとんど立ち入らず。どちらかというと運動公園的で特に見るものもない気配がしたから。それでもロウバイは予想していなかったのでラッキー!ただし香りがとても薄かったのが残念。
地図で色が抜けて白くなっているのが品川区。中央公園は名前の通りまさに品川区のど真ん中にある。大井町駅からは10分くらい。ちなみに品川駅は品川区ではなく隣の港区にある。その代わりに?目黒駅が位置しているのは目黒区ではなく品川区。山手線で駅名に区の名前がついているのに別の区に建っているのはこの2つ以外に、新宿駅も新宿区と渋谷区にまたがっているとどうでもいい知識。
これは公園の航空写真。左から災害用のヘリポートを兼ねた広場、品川区立中小企業センターのビル、グラウンド、前庭部分で構成されており「緑の多い都会のオアシス的」な公園とは趣が異なる。
なお公園の正式名称は平仮名で「しながわ中央公園」。名所に平仮名を使うのは文章の位置によって「 」でくくらないと読みづらくなるので嫌い。
ロウバイが咲いていたのはグラウンド前の道路に沿ったところ。
花数もそこそこ。先日に見に出かけた観泉寺は終了間近の状態で欲求不満がたまったが、その胸のつかえが下りた感じ。
黄色く丸々コロコロとしていて可愛い。
花の中まで黄色く、そして花びらが丸いからフクジュロウバイ(福寿)かも知れない。
これは開花から時期が経って花びらがかなり開いている。
少し先にもう2本あった。
こちらの方が先に咲いていたようだ。
花の中まで黄色く、でも花びらが尖っているからソシンロウバイ(素心)だろうか。
フクジュとソシンの見分け方は自信がない。
ウメも咲いていた。
道路より少し奥まったところにあり、
また花が咲いている位置も高いのでiPhoneのカメラでアップは無理。
ウメの木の下に植えられていたきれいな花も撮っておきましょう。
公園の前庭というか入り口部分。
向かいは品川区役所。
黄色が鮮やかな木があった。
上の写真の木は近くまで寄れなかったので、こちらは別の場所の同じ木。直射日光を浴びていないと黄色の鮮やかさがまったく違う。
画像検索してみるとこれはフィリフェラオーレアと舌をかみそうな名前。和名ではオウゴンヒヨクヒバ(黄金比翼桧葉)。ヒノキ科ヒノキ属サワラの園芸品種。魚のサワラは食べたことがあっても木のサワラは初めて知った。
結局、公園に接している道路からロウバイとウメを眺めた後に、前庭部分を通っただけで公園内部にはほとんど立ち入らず。どちらかというと運動公園的で特に見るものもない気配がしたから。それでもロウバイは予想していなかったのでラッキー!ただし香りがとても薄かったのが残念。
2026年01月31日
やっぱりカビが生えてきたコーヒー豆粉腐葉土
昨年の11月に書いたコーヒー豆粉を腐葉土にする試みはこちらから
↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53517597.html
抽出した後のコーヒー豆粉カスを乾燥させただけのもの、乾燥の後にフライパン炒ったのに分けて、それぞれに腐葉土とミックスしてヨーグルト容器に入れたのだけれど、
作業を終えた後にいろいろと調べていたら
1)コーヒー豆粉が3、腐葉土が7位の割合
2)発酵するには水分が必要
3)毎日かき混ぜて酸素を行き渡らせる
とわかったので、容器をビニール袋にして腐葉土を追加し、少量の水を加えた。それをしたのは11月の終わりくらいだったと思う。最初の1週間くらいは袋を揉んでかき混ぜていたものの、その後はすっかり忘れてしまい(^^ゞ
というわけで約2ヶ月ぶりに状態チェック。
特に変化なし。
しかしこちらは全体がカビに覆われていた(>_<)
やっぱりな、
だから水分を足すのはイヤだったのよ。
不思議にもカビが生えたのはコーヒー豆粉を乾燥の後に炒ったほうだった。前回に書いたカビが発生したりキノコが生えてくるのがコーヒー豆粉の持っている菌などが原因とすれば、炒ることでそれをなくしたつもりだったのに。なお11月の終わりに加えた水は100ccほど。
そしてカビが生えていないほうも、予想通りコーヒー豆粉が腐葉土になったのかどうかはまったく判別できず。落ち葉を腐葉土にすれば形が崩れ色も土色に変化する。でもこれは粉だし最初から茶色。腐葉土に変化する際には熱を持つらしいが、最初の1週間ほど揉んでいたときも現在もそんな兆候はなし。
とりあえず再度100ccほどの水を加え充分にかき混ぜて、
またベランダに放置。
特に意図や期待はなく何となくそうしただけ。
↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53517597.html
抽出した後のコーヒー豆粉カスを乾燥させただけのもの、乾燥の後にフライパン炒ったのに分けて、それぞれに腐葉土とミックスしてヨーグルト容器に入れたのだけれど、
作業を終えた後にいろいろと調べていたら
1)コーヒー豆粉が3、腐葉土が7位の割合
2)発酵するには水分が必要
3)毎日かき混ぜて酸素を行き渡らせる
とわかったので、容器をビニール袋にして腐葉土を追加し、少量の水を加えた。それをしたのは11月の終わりくらいだったと思う。最初の1週間くらいは袋を揉んでかき混ぜていたものの、その後はすっかり忘れてしまい(^^ゞ
というわけで約2ヶ月ぶりに状態チェック。
特に変化なし。
しかしこちらは全体がカビに覆われていた(>_<)
やっぱりな、
だから水分を足すのはイヤだったのよ。
不思議にもカビが生えたのはコーヒー豆粉を乾燥の後に炒ったほうだった。前回に書いたカビが発生したりキノコが生えてくるのがコーヒー豆粉の持っている菌などが原因とすれば、炒ることでそれをなくしたつもりだったのに。なお11月の終わりに加えた水は100ccほど。
そしてカビが生えていないほうも、予想通りコーヒー豆粉が腐葉土になったのかどうかはまったく判別できず。落ち葉を腐葉土にすれば形が崩れ色も土色に変化する。でもこれは粉だし最初から茶色。腐葉土に変化する際には熱を持つらしいが、最初の1週間ほど揉んでいたときも現在もそんな兆候はなし。
とりあえず再度100ccほどの水を加え充分にかき混ぜて、
またベランダに放置。
特に意図や期待はなく何となくそうしただけ。
2026年01月27日
観泉寺でロウバイ その3
ロウバイの花だけではなく、
ロウバイのある風景を撮ろうと試みるも花数が少ないので冴えない。
諦めてきれいに整えられたマキでも撮りましょう。
境内には竹林もある。
まるで京都にでも来たような思いになるものの、
竹林が続いているのはコーナーを曲がった先までと短いよ(^^ゞ
竹林は鐘楼の裏手に。
その手前のウメが咲きそろえばバエる眺めになるはず。
さて初回に書いたこのあたりは江戸時代に今川氏の領地で、この観泉寺もその菩提寺というお話。石標に記されていた「今川氏累代墓」は東京都の指定旧跡になっている。
それが墓地エリアにあるこの一画。
ところろで今川氏累代といわれても、今川氏なんて信長に敗れた今川義元しか知らないし、その後も続いていたの?という人は多いと思う。私もそうだったので少し調べてみた。
義元(よしもと)は今川氏の11代目。その頃には東海地方において圧倒的な勢力を誇っていた。家康が8歳から今川家に人質として差し出されていたのは有名な話。
尾張に進軍してきた今川軍2万5000人に対して、2000人の兵力で織田軍が迎え撃った桶狭間の戦いが1560年。義元は討ち取られたとはいえ、これは義元の本陣だけを奇襲したゲリラ攻撃のようなもので、軍事勢力的に今川軍は決定的なダメージは負っていない。
義元の後を継いだのは嫡男(ちゃくなん:正妻の産んだ長男)の氏真(うじざね)。当時23歳。オトウチャンの義元は武田や北条とも同盟を結び、今川家の領地を最大限にまで拡大し「海道一の弓取り」と称された人物。海道とは東海道であり、現在のイメージと違って茨城から三重までの太平洋沿岸エリアを指す。また弓取りとは戦国大名の意。
そんな大物の息子がヘタレなのはよくある話で、あれよあれよという間に配下の武将に離反され、隣国の武田や徳川にも攻め込まれる。ヨメの実家の北条氏に援軍を求めたりしたものの、最終的には1569年にかつては人質として預かっていた家康の配下に入る。これをもって今川家は滅亡した。桶狭間からわずかに9年。
ところで歴史には滅亡との言葉がよく出てくる。辞書を引くと「ほろびる、絶えてなくなる」などと書いてある。全滅とイメージが重なるので何もかも消えてしまった響きがあるが、これは基本的に統治者ではなくなったとの意味。平家の滅亡のように主要メンバーがほとんど死亡するのは例外。今回だって別に氏真(うじざね)やその一族が皆殺しにされたわけじゃない。
家康配下の氏真(うじざね)は信長・家康連合軍と武田勝頼の軍勢が衝突した1575年の長篠の戦いなどには(後方支援部隊として)参加しているが、50歳過ぎの1590年頃に京都に移住して隠居生活に入り、和歌や蹴鞠(けまり)など文化人として過ごす。
その当時に家康より与えられていた石高は500石。かつての今川家40万石と較べれば800分の1。もっとも石高(領地の米生産量)のうち大名の取り分は約4割で、さらにその半分は家来の給料などに当てる必要があり、実質的な収入は石高の2割=40万石×0.2=8万石。それでも8万石÷500石=160分の1だから気絶しそうなくらいの年俸ダウンには違いないが。1石が今の貨幣価値でいくらかは諸説あり、その中間的な値を採って10万円とすると8万石は80億円、500石は5000万円。その計算が妥当だとすれば隠居暮らしには十分な年収だったかも。
晩年は江戸に移り、家康から品川に屋敷を与えられている。1614年に77歳で死去(大坂冬の陣のあった年)。同じく武田信玄という偉大な父親を持つ勝頼と較べれば、氏真(うじざね)は没落したとはいえそれなりに幸せな人生だったようにも思える。
そして氏真(うじざね)の孫、義元のひ孫が 直房(なおふさ)。彼が14歳のときに父親の範以(のりもち)が亡くなり母親は公家と再婚したので、それ以降は祖父である氏真に育てられる。生まれ育ったのも京都であり、そこで文化人としての教養も受け継いだと思われ、家光の時代に高家(こうけ)に登用される。高家とは幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職である。
ところで高家と聞いて思い浮かぶのは忠臣蔵で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた吉良上野介(きら・こうずけのすけ)。朝廷からの勅使接待の現場を任されたのが浅野で、その指導監督にあたったのが高家である上野介。田舎大名の浅野をバカにした上野介のイジメにぶち切れて斬りつけたのが忠臣蔵事件の始まり。
上野介以外の高家なんて今まで聞いたこともなかったが、
なんと今川家と吉良家は親戚だった!
そのルーツを探ると、
鎌倉前期の武将であり幕府有力御家人の足利宗家3代目当主:足利義氏(よしうじ)の庶長子(しょちょうし:正妻以外から生まれた長男)が足利長子(ながうじ)。ちなみに室町幕府を起こした足利尊氏は足利宗家8代目になる。
長子(ながうじ)は後に領地の三河国(愛知県東部)吉良荘の名前を取って吉良長氏と名乗り彼が吉良家の始祖となる。その次男の国氏(くにうじ)が三河国幡豆郡今川庄を領して今川姓を名乗ったのが今川家の始まり。つまり吉良家は足利家の傍流であり、今川家は吉良家の分家。
どちらも足利一門において名門とされ「将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と評されたほど。言ってみれば江戸幕府の尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のようなポジション。
イヤ〜それにしても、忠臣蔵の吉良上野介と桶狭間の今川義元の血縁がつながっていたとはビックリだわ。歴史ははおもしろいというか世の中は狭いね。
さて高家となった直房(なおふさ)は様々な職務をこなし一番の活躍は東照宮関連。ご存じのように家康を祀る神社であるが、当初に朝廷から示された名前は一段格下の東照「社」。これを「宮」にしたかったのが家光。本来「宮」は皇族男子を祀った神社に与えられる名前なので、これはかなり強引な要求。しかし直房は氏真以来培ってきた朝廷とのコネクションを生かして交渉し見事に宮号の宣下を得る。
この功績により直房は観泉寺周辺の3つの村を領地として与えられる。その石高は500石。氏真(うじざね)が家康から与えられていた500石も相続していて合計1000石。先ほどの計算に当てはめればめでたく「億り人」となり今川家中興の祖として賞賛されるようになった。
墓地にある説明看板。
ここに書かれている「義元から三代目となる直房」とはちょっと説明不足。三代目というと孫だけれど直房は義元のひ孫である。これには義元が今川家11代目、その子の氏真(うじざね)が12代目で、氏真の子=直房の父の範以(のりもち)が38歳と若くして亡くなったのでまだ家督を継いでおらず、その子の直房が13代目となった背景がある。それで今川家当主の順で数えると「義元から三代目」との表現になる。
この説明書きによると子孫やその妻など20名の墓がある。
直房の墓は一番右にある丸い石柱。
中興の祖の割にはあっさりしている。
右から4番目が氏真で最も大きい。その隣が氏真の妻で同じ造り。さらに隣が範以(のりもち)で次にその妻が続く。それぞれ夫婦で墓石デザインを揃えているようだ。直房の妻の墓は一番左でこの写真には写っていない。
なお江戸時代に今川家は幕末まで11代続いたものの、23代当主の範叙(のりのぶ)の子供は18歳で夭折したため後継者がおらず、彼の代で今川宗家の系統は断絶した。範叙が亡くなったのは明治20年(1887年)。桶狭間の戦いから数えれば327年後。誰だ、桶狭間で今川氏は終わったなんて言ったのは(^^ゞ
歴史のお勉強はこれくらいにして、
観泉寺を退出。
初回に書いた山門を出た先の、
観泉寺の敷地と思われる場所に立ち寄ってみる。
まずは塀(へい)に囲まれた左側。
ウメがきれいに咲いていたので園内もと期待したのに、
門をくぐった先にお地蔵さんなどの石像があっただけで、
ここ以外は入れないようになっていた。
右側の敷地は広場になっていて、同じくお地蔵さんその他の石柱や石仏が多数並ぶ。こちらは屋根付き。観泉寺の公式ホームページにこのエリアの記載はなし。
左側も含めてすべての石柱石仏の前にはペットボトルのお茶が供えられていたのに、このお地蔵さんにはなし。ナンデ?
いずれにせよどれもかなり古いもので200〜300年くらいは経っていそう。おそらく周辺各地にあった石柱石仏を、道路拡張工事など何らかの理由により移転したのだと思われる。
話をロウバイに戻すと、今回は訪れた時期が遅く咲きっぷりはイマイチだったが、それは別としても境内にロウバイは3本あるだけ(1本は植え込みの奥にあって近づけなかったのでブログには書いていない)。だからロウバイ目当てなら遠くから見に来るほどの場所ではない。しかしこの寺の静謐で凜とした美しさは特筆もの。一度は訪れておいて損はしない。私もまた別の季節に訪れるつもり。
ところでこんな雰囲気の寺は他にもあるのかな。
調べたいのだけれど、どうやって調べれば検索すればいいのか思案中。
おしまい
ロウバイのある風景を撮ろうと試みるも花数が少ないので冴えない。
諦めてきれいに整えられたマキでも撮りましょう。
境内には竹林もある。
まるで京都にでも来たような思いになるものの、
竹林が続いているのはコーナーを曲がった先までと短いよ(^^ゞ
竹林は鐘楼の裏手に。
その手前のウメが咲きそろえばバエる眺めになるはず。
さて初回に書いたこのあたりは江戸時代に今川氏の領地で、この観泉寺もその菩提寺というお話。石標に記されていた「今川氏累代墓」は東京都の指定旧跡になっている。
それが墓地エリアにあるこの一画。
ところろで今川氏累代といわれても、今川氏なんて信長に敗れた今川義元しか知らないし、その後も続いていたの?という人は多いと思う。私もそうだったので少し調べてみた。
義元(よしもと)は今川氏の11代目。その頃には東海地方において圧倒的な勢力を誇っていた。家康が8歳から今川家に人質として差し出されていたのは有名な話。
尾張に進軍してきた今川軍2万5000人に対して、2000人の兵力で織田軍が迎え撃った桶狭間の戦いが1560年。義元は討ち取られたとはいえ、これは義元の本陣だけを奇襲したゲリラ攻撃のようなもので、軍事勢力的に今川軍は決定的なダメージは負っていない。
義元の後を継いだのは嫡男(ちゃくなん:正妻の産んだ長男)の氏真(うじざね)。当時23歳。オトウチャンの義元は武田や北条とも同盟を結び、今川家の領地を最大限にまで拡大し「海道一の弓取り」と称された人物。海道とは東海道であり、現在のイメージと違って茨城から三重までの太平洋沿岸エリアを指す。また弓取りとは戦国大名の意。
そんな大物の息子がヘタレなのはよくある話で、あれよあれよという間に配下の武将に離反され、隣国の武田や徳川にも攻め込まれる。ヨメの実家の北条氏に援軍を求めたりしたものの、最終的には1569年にかつては人質として預かっていた家康の配下に入る。これをもって今川家は滅亡した。桶狭間からわずかに9年。
ところで歴史には滅亡との言葉がよく出てくる。辞書を引くと「ほろびる、絶えてなくなる」などと書いてある。全滅とイメージが重なるので何もかも消えてしまった響きがあるが、これは基本的に統治者ではなくなったとの意味。平家の滅亡のように主要メンバーがほとんど死亡するのは例外。今回だって別に氏真(うじざね)やその一族が皆殺しにされたわけじゃない。
家康配下の氏真(うじざね)は信長・家康連合軍と武田勝頼の軍勢が衝突した1575年の長篠の戦いなどには(後方支援部隊として)参加しているが、50歳過ぎの1590年頃に京都に移住して隠居生活に入り、和歌や蹴鞠(けまり)など文化人として過ごす。
その当時に家康より与えられていた石高は500石。かつての今川家40万石と較べれば800分の1。もっとも石高(領地の米生産量)のうち大名の取り分は約4割で、さらにその半分は家来の給料などに当てる必要があり、実質的な収入は石高の2割=40万石×0.2=8万石。それでも8万石÷500石=160分の1だから気絶しそうなくらいの年俸ダウンには違いないが。1石が今の貨幣価値でいくらかは諸説あり、その中間的な値を採って10万円とすると8万石は80億円、500石は5000万円。その計算が妥当だとすれば隠居暮らしには十分な年収だったかも。
晩年は江戸に移り、家康から品川に屋敷を与えられている。1614年に77歳で死去(大坂冬の陣のあった年)。同じく武田信玄という偉大な父親を持つ勝頼と較べれば、氏真(うじざね)は没落したとはいえそれなりに幸せな人生だったようにも思える。
そして氏真(うじざね)の孫、義元のひ孫が 直房(なおふさ)。彼が14歳のときに父親の範以(のりもち)が亡くなり母親は公家と再婚したので、それ以降は祖父である氏真に育てられる。生まれ育ったのも京都であり、そこで文化人としての教養も受け継いだと思われ、家光の時代に高家(こうけ)に登用される。高家とは幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職である。
ところで高家と聞いて思い浮かぶのは忠臣蔵で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた吉良上野介(きら・こうずけのすけ)。朝廷からの勅使接待の現場を任されたのが浅野で、その指導監督にあたったのが高家である上野介。田舎大名の浅野をバカにした上野介のイジメにぶち切れて斬りつけたのが忠臣蔵事件の始まり。
上野介以外の高家なんて今まで聞いたこともなかったが、
なんと今川家と吉良家は親戚だった!
そのルーツを探ると、
鎌倉前期の武将であり幕府有力御家人の足利宗家3代目当主:足利義氏(よしうじ)の庶長子(しょちょうし:正妻以外から生まれた長男)が足利長子(ながうじ)。ちなみに室町幕府を起こした足利尊氏は足利宗家8代目になる。
長子(ながうじ)は後に領地の三河国(愛知県東部)吉良荘の名前を取って吉良長氏と名乗り彼が吉良家の始祖となる。その次男の国氏(くにうじ)が三河国幡豆郡今川庄を領して今川姓を名乗ったのが今川家の始まり。つまり吉良家は足利家の傍流であり、今川家は吉良家の分家。
どちらも足利一門において名門とされ「将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と評されたほど。言ってみれば江戸幕府の尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のようなポジション。
イヤ〜それにしても、忠臣蔵の吉良上野介と桶狭間の今川義元の血縁がつながっていたとはビックリだわ。歴史ははおもしろいというか世の中は狭いね。
さて高家となった直房(なおふさ)は様々な職務をこなし一番の活躍は東照宮関連。ご存じのように家康を祀る神社であるが、当初に朝廷から示された名前は一段格下の東照「社」。これを「宮」にしたかったのが家光。本来「宮」は皇族男子を祀った神社に与えられる名前なので、これはかなり強引な要求。しかし直房は氏真以来培ってきた朝廷とのコネクションを生かして交渉し見事に宮号の宣下を得る。
この功績により直房は観泉寺周辺の3つの村を領地として与えられる。その石高は500石。氏真(うじざね)が家康から与えられていた500石も相続していて合計1000石。先ほどの計算に当てはめればめでたく「億り人」となり今川家中興の祖として賞賛されるようになった。
墓地にある説明看板。
ここに書かれている「義元から三代目となる直房」とはちょっと説明不足。三代目というと孫だけれど直房は義元のひ孫である。これには義元が今川家11代目、その子の氏真(うじざね)が12代目で、氏真の子=直房の父の範以(のりもち)が38歳と若くして亡くなったのでまだ家督を継いでおらず、その子の直房が13代目となった背景がある。それで今川家当主の順で数えると「義元から三代目」との表現になる。
この説明書きによると子孫やその妻など20名の墓がある。
直房の墓は一番右にある丸い石柱。
中興の祖の割にはあっさりしている。
右から4番目が氏真で最も大きい。その隣が氏真の妻で同じ造り。さらに隣が範以(のりもち)で次にその妻が続く。それぞれ夫婦で墓石デザインを揃えているようだ。直房の妻の墓は一番左でこの写真には写っていない。
なお江戸時代に今川家は幕末まで11代続いたものの、23代当主の範叙(のりのぶ)の子供は18歳で夭折したため後継者がおらず、彼の代で今川宗家の系統は断絶した。範叙が亡くなったのは明治20年(1887年)。桶狭間の戦いから数えれば327年後。誰だ、桶狭間で今川氏は終わったなんて言ったのは(^^ゞ
歴史のお勉強はこれくらいにして、
観泉寺を退出。
初回に書いた山門を出た先の、
観泉寺の敷地と思われる場所に立ち寄ってみる。
まずは塀(へい)に囲まれた左側。
ウメがきれいに咲いていたので園内もと期待したのに、
門をくぐった先にお地蔵さんなどの石像があっただけで、
ここ以外は入れないようになっていた。
右側の敷地は広場になっていて、同じくお地蔵さんその他の石柱や石仏が多数並ぶ。こちらは屋根付き。観泉寺の公式ホームページにこのエリアの記載はなし。
左側も含めてすべての石柱石仏の前にはペットボトルのお茶が供えられていたのに、このお地蔵さんにはなし。ナンデ?
いずれにせよどれもかなり古いもので200〜300年くらいは経っていそう。おそらく周辺各地にあった石柱石仏を、道路拡張工事など何らかの理由により移転したのだと思われる。
話をロウバイに戻すと、今回は訪れた時期が遅く咲きっぷりはイマイチだったが、それは別としても境内にロウバイは3本あるだけ(1本は植え込みの奥にあって近づけなかったのでブログには書いていない)。だからロウバイ目当てなら遠くから見に来るほどの場所ではない。しかしこの寺の静謐で凜とした美しさは特筆もの。一度は訪れておいて損はしない。私もまた別の季節に訪れるつもり。
ところでこんな雰囲気の寺は他にもあるのかな。
調べたいのだけれど、どうやって調べれば検索すればいいのか思案中。
おしまい
2026年01月26日
観泉寺でロウバイ その2
観泉寺を知ったヤフーニュースの記事によれば、
ロウバイは本堂手前のこの一画にあるはず。
しかし遠目で見てもわかるとおり、
アカン!終わりかけてる(>_<)
やはり1月6日の記事を参考に24日に来るのは遅かったか。
比較的きれいに残っている部分でもこの程度。
香りもほとんどしない。
せっかく電車を3本も乗り継いでやって来たのにガッカリ。
でも離れて眺めればそれなりに黄色を楽しめるとか、
お寺の建物と一緒なら少し枯れた感じも似合っているなどと、
自分を慰める(/o\)
それでも仏様のありがたいお導き。
周りの風景を背景にした面白い撮影ポイントはないかロウバイのある一画を回っていると、そこから数メートル離れたところに別のロウバイを発見。こちらは少し状態が良さそうだ。
ただしロウバイの実がたくさんなっている。これが黒くて醜い。また花数も少なかった。背丈も低いからまだ若い木なのだろう。
それにしても
最初のロウバイ:早咲き:実はほとんどなかった
こちらのロウバイ:遅咲き:なのに実が多い
どうにもよくわからないロウバイの生態である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
この木はロウバイの濃密に甘くてでも爽やかな香りが充分に楽しめた。
クンクンしながらアップで撮影。
花が多少は密集したところは実も写ってしまうので撮れなかったのが残念。
咲いていたのは花全体が黄色いからソシンロウバイ(素心)だと思う。最初のは花の内側が赤紫だったのでワロウバイ(和)かマンゲツロウバイ(満月)だろうけれど、もしかしたら萎れていて変色しているだけかも知れない。また全体が黄色いのはほかにフクジュロウバイ(福寿)がある。それぞれわずかな違いで花も小さくてロウバイの種類を見分けるのはなかなか難しい。
ロウバイは黄色くて小さな花なので、背景が地面だと色が同化して写真としては見栄えがしない。青空バックが基本で、私は空が曇っていたらロウバイを見に行かないほど。これは以前に撮った同じロウバイの背景による違い。まったく別物でしょ。
でも青空ばかりじゃ芸がないのでなんとか背景をごまかして。
この木はまだツボミも多かった。
ツボミと実が共存している不思議な光景。
ーーー続く
ロウバイは本堂手前のこの一画にあるはず。
しかし遠目で見てもわかるとおり、
アカン!終わりかけてる(>_<)
やはり1月6日の記事を参考に24日に来るのは遅かったか。
比較的きれいに残っている部分でもこの程度。
香りもほとんどしない。
せっかく電車を3本も乗り継いでやって来たのにガッカリ。
でも離れて眺めればそれなりに黄色を楽しめるとか、
お寺の建物と一緒なら少し枯れた感じも似合っているなどと、
自分を慰める(/o\)
それでも仏様のありがたいお導き。
周りの風景を背景にした面白い撮影ポイントはないかロウバイのある一画を回っていると、そこから数メートル離れたところに別のロウバイを発見。こちらは少し状態が良さそうだ。
ただしロウバイの実がたくさんなっている。これが黒くて醜い。また花数も少なかった。背丈も低いからまだ若い木なのだろう。
それにしても
最初のロウバイ:早咲き:実はほとんどなかった
こちらのロウバイ:遅咲き:なのに実が多い
どうにもよくわからないロウバイの生態である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
この木はロウバイの濃密に甘くてでも爽やかな香りが充分に楽しめた。
クンクンしながらアップで撮影。
花が多少は密集したところは実も写ってしまうので撮れなかったのが残念。
咲いていたのは花全体が黄色いからソシンロウバイ(素心)だと思う。最初のは花の内側が赤紫だったのでワロウバイ(和)かマンゲツロウバイ(満月)だろうけれど、もしかしたら萎れていて変色しているだけかも知れない。また全体が黄色いのはほかにフクジュロウバイ(福寿)がある。それぞれわずかな違いで花も小さくてロウバイの種類を見分けるのはなかなか難しい。
ロウバイは黄色くて小さな花なので、背景が地面だと色が同化して写真としては見栄えがしない。青空バックが基本で、私は空が曇っていたらロウバイを見に行かないほど。これは以前に撮った同じロウバイの背景による違い。まったく別物でしょ。
でも青空ばかりじゃ芸がないのでなんとか背景をごまかして。
この木はまだツボミも多かった。
ツボミと実が共存している不思議な光景。
ーーー続く
2026年01月24日
観泉寺でロウバイ
冬になるとその甘い香りが脳内に再生され、あちこちに出かけてはクンクンしているロウバイ。今までどれくらい訪れただろうかとブログを調べてみると、
2015年 葛西公園
2016年 神奈川県松田町 寄(やどりぎ)
2019年 新宿御苑
2020年 浜離宮
2020年 上野 東照宮
2020年 府中市 郷土の森博物館
2022年 池上梅園
2022年 京王百草園
2024年 港北ニュータウン 早渕公園
2024年 杉並区 梅里中央公園
2025年 町田市 忠生公園
2025年 新宿御苑
2025年 港北ニュータウン 中川八幡山公園
2025年 横浜市港北区 西方寺
この中にはウメなどを見に行ったらロウバイも咲いていたところもいくつか含まれるが、それにしてもたくさん見てきたものだと我ながら呆れる。 (文末の「ロウバイ」と書かれた薄い青文字のタグをクリックすると、これらがまとめて表示される)
しかしそんな愛してやまないロウバイなのに植えられている場所はごくわずかしかない。それに世間ではロウバイなんて聞いたこともないという人のほうが多数。ちなみに次の単語でのGoogle検索ヒット数は
サクラ 6190万件
ウメ 258万件
ロウバイ 82万件
何とサクラの75分の1。どうしてこんなにマイナーな存在なのか不思議。ロウバイ(蝋梅)の名前の通り、見た目はロウ細工のような不思議な光沢があり、香りは甘くて濃厚なのに爽やかだから、まだロウバイを知らない人は今すぐ探して見に嗅ぎに出かけましょう!
さて先週、そろそろロウバイを見に行くか〜どこか今までに訪れていないところはないかとネットで探して、杉並区にある観泉寺というお寺を見つけた。ヤフーニュースで1月6日の記事。写真では満開になっており、既におそらく取材時より3週間が経っているものの、たぶんまだ大丈夫でしょうと本日にお出かけ。
地図で白く抜けているのが杉並区。
山手線を高田馬場で西武新宿線に乗り換えて上井草駅で下車。
西武新宿線に乗ったのは初めてのような気がする。
写真を撮ったのは初の西武新宿線記念ではなくホームドアがなかったから。普段利用する東急や地下鉄ではすべてホームドアがあるのでびっくりした。
少なくとも23区内ならもう当たり前の設備と思っていたホームドアだが、調べてみると全国での設置率は13%にとどまっている。詳しいデータは見つからなかったものの、国交省が優先整備を求める1日の利用者10万人以上の駅でもまだ50%程度らしい。
またこの電車はドアの塗装がなくステンレスのまま。こういうのは珍しいのかな。鉄チャンではないのでよくわからない。
上井草駅の正面。
その脇にガンダムのブロンズ像。
2021年のデータでアニメ制作会社は全国811社のうち杉並区に149社があり、杉並区はアニメの街を標榜している。特に上井草周辺に集中しており、ガンダムの制作会社もかつてこの近くにあったのがこのブロンズ像の由来。電車の発車メロディもガンダムの主題歌とのこと。
へえ〜、でもガンダム世代じゃないから特に感激もないんだよな(/o\)
アトムか鉄人28号だったらよかったのにと言うと歳がバレる(^^ゞ
駅前商店街の様子。
そんなに賑やかなイメージはなし。
上の写真でセブンイレブンのところを右折して、
この道路を南下していく。
信号の写真を撮ったのは標識に杉並区と書かれていたのが理由。
こんなところに自治体の名前なんてあったっけ?
でも次の信号に杉並区の表記はなし。
ローマ字の振り方も chome のあるなしが違う。
管轄が違うのか?
そのうち調べましょう。
少し進んでこのあたりの地名は今川。
なぜ今川なのかは後ほど。
これは観泉寺の塀(へい)。
進行方向は南向きでこれは敷地西側にある塀が南北に延びている。寺の正門は基本的に南面にある。つまりこのまま進んで左折すればよい。しかしこの塀があまりにも長かったので、
少し戻りひとつ手間を左折して裏口はないかと。
これは寺の北側を東西に延びる塀。
そうするとたまたま写真に写っている女性が、
塀の切れ目から出てきて裏門が使えるのを発見。
ウメがきれいに咲いているのに見とれる。
でもちょっと胸騒ぎが。
なぜならロウバイはウメの前に咲く。
もちろん多少は時期的に重なるがーーー
少しだけ開いていた北側の裏門。
話が東西南北とややこしかったので、
航空写真でルートを示すとこうなる。
裏門から入ると墓地になっていた。
永眠中の皆様ゴメンアソアバセ。
墓地の中にあったこちらのウメはまだ開花前。
だからまだロウバイは大丈夫なはずと自分に言い聞かせる。
墓地を過ぎ本堂の横を進む。
左側に少し写っている壁が本堂。
通り抜けたところは庭園風の造りになっている。
それほど広くないとはいえ、
池もあって、
素敵な雰囲気なのに、
中に入って見て回れないのが残念。
庭に沿って歩くと南側の山門(正門)近くまで来たので、いったん山門から外に出る。道路で塀を見たときは延々と続いているように思えたがそれほどの距離ではなかった。
山門を出て道路を隔てた先の左右も観泉寺の敷地のようだ。
特に左側はウメも咲いていて美しい。
後で立ち寄りましょう。
振り返って山門。
その脇にあったのがこの石標。
このあたりはかつて今川氏の領地で、その名残で現在の地名も今川。そして観泉寺は今川氏の菩提寺でもある。えっ、今川氏って織田信長に急襲されて首を取られた今川義元しか知らないけれど、彼は駿府(静岡)の戦国大名じゃなかったって? そのあたりの話はまた後ほど。
改めて山門をくぐって境内に。
宝珠山が観泉寺の山号。「寶」は「宝」の旧字。

山号の説明はここをクリック→https://x.gd/uEJ3I
また寺の正門を山門と呼ぶのも同じいきさつ。
正面に見える本堂。
左側が先ほどの庭園。
なかなか美しい佇まいで凜とした趣がある。
参道右側には鐘楼。
鐘のサイズはまあ敷地相当といったところ。ここ数年は除夜の鐘を聴きに行っているけれど、さすがにここまで来ることはないだろうな。
ーーー続く
2015年 葛西公園
2016年 神奈川県松田町 寄(やどりぎ)
2019年 新宿御苑
2020年 浜離宮
2020年 上野 東照宮
2020年 府中市 郷土の森博物館
2022年 池上梅園
2022年 京王百草園
2024年 港北ニュータウン 早渕公園
2024年 杉並区 梅里中央公園
2025年 町田市 忠生公園
2025年 新宿御苑
2025年 港北ニュータウン 中川八幡山公園
2025年 横浜市港北区 西方寺
この中にはウメなどを見に行ったらロウバイも咲いていたところもいくつか含まれるが、それにしてもたくさん見てきたものだと我ながら呆れる。 (文末の「ロウバイ」と書かれた薄い青文字のタグをクリックすると、これらがまとめて表示される)
しかしそんな愛してやまないロウバイなのに植えられている場所はごくわずかしかない。それに世間ではロウバイなんて聞いたこともないという人のほうが多数。ちなみに次の単語でのGoogle検索ヒット数は
サクラ 6190万件
ウメ 258万件
ロウバイ 82万件
何とサクラの75分の1。どうしてこんなにマイナーな存在なのか不思議。ロウバイ(蝋梅)の名前の通り、見た目はロウ細工のような不思議な光沢があり、香りは甘くて濃厚なのに爽やかだから、まだロウバイを知らない人は今すぐ探して見に嗅ぎに出かけましょう!
さて先週、そろそろロウバイを見に行くか〜どこか今までに訪れていないところはないかとネットで探して、杉並区にある観泉寺というお寺を見つけた。ヤフーニュースで1月6日の記事。写真では満開になっており、既におそらく取材時より3週間が経っているものの、たぶんまだ大丈夫でしょうと本日にお出かけ。
地図で白く抜けているのが杉並区。
山手線を高田馬場で西武新宿線に乗り換えて上井草駅で下車。
西武新宿線に乗ったのは初めてのような気がする。
写真を撮ったのは初の西武新宿線記念ではなくホームドアがなかったから。普段利用する東急や地下鉄ではすべてホームドアがあるのでびっくりした。
少なくとも23区内ならもう当たり前の設備と思っていたホームドアだが、調べてみると全国での設置率は13%にとどまっている。詳しいデータは見つからなかったものの、国交省が優先整備を求める1日の利用者10万人以上の駅でもまだ50%程度らしい。
またこの電車はドアの塗装がなくステンレスのまま。こういうのは珍しいのかな。鉄チャンではないのでよくわからない。
上井草駅の正面。
その脇にガンダムのブロンズ像。
2021年のデータでアニメ制作会社は全国811社のうち杉並区に149社があり、杉並区はアニメの街を標榜している。特に上井草周辺に集中しており、ガンダムの制作会社もかつてこの近くにあったのがこのブロンズ像の由来。電車の発車メロディもガンダムの主題歌とのこと。
へえ〜、でもガンダム世代じゃないから特に感激もないんだよな(/o\)
アトムか鉄人28号だったらよかったのにと言うと歳がバレる(^^ゞ
駅前商店街の様子。
そんなに賑やかなイメージはなし。
上の写真でセブンイレブンのところを右折して、
この道路を南下していく。
信号の写真を撮ったのは標識に杉並区と書かれていたのが理由。
こんなところに自治体の名前なんてあったっけ?
でも次の信号に杉並区の表記はなし。
ローマ字の振り方も chome のあるなしが違う。
管轄が違うのか?
そのうち調べましょう。
少し進んでこのあたりの地名は今川。
なぜ今川なのかは後ほど。
これは観泉寺の塀(へい)。
進行方向は南向きでこれは敷地西側にある塀が南北に延びている。寺の正門は基本的に南面にある。つまりこのまま進んで左折すればよい。しかしこの塀があまりにも長かったので、
少し戻りひとつ手間を左折して裏口はないかと。
これは寺の北側を東西に延びる塀。
そうするとたまたま写真に写っている女性が、
塀の切れ目から出てきて裏門が使えるのを発見。
ウメがきれいに咲いているのに見とれる。
でもちょっと胸騒ぎが。
なぜならロウバイはウメの前に咲く。
もちろん多少は時期的に重なるがーーー
少しだけ開いていた北側の裏門。
話が東西南北とややこしかったので、
航空写真でルートを示すとこうなる。
裏門から入ると墓地になっていた。
永眠中の皆様ゴメンアソアバセ。
墓地の中にあったこちらのウメはまだ開花前。
だからまだロウバイは大丈夫なはずと自分に言い聞かせる。
墓地を過ぎ本堂の横を進む。
左側に少し写っている壁が本堂。
通り抜けたところは庭園風の造りになっている。
それほど広くないとはいえ、
池もあって、
素敵な雰囲気なのに、
中に入って見て回れないのが残念。
庭に沿って歩くと南側の山門(正門)近くまで来たので、いったん山門から外に出る。道路で塀を見たときは延々と続いているように思えたがそれほどの距離ではなかった。
山門を出て道路を隔てた先の左右も観泉寺の敷地のようだ。
特に左側はウメも咲いていて美しい。
後で立ち寄りましょう。
振り返って山門。
その脇にあったのがこの石標。
このあたりはかつて今川氏の領地で、その名残で現在の地名も今川。そして観泉寺は今川氏の菩提寺でもある。えっ、今川氏って織田信長に急襲されて首を取られた今川義元しか知らないけれど、彼は駿府(静岡)の戦国大名じゃなかったって? そのあたりの話はまた後ほど。
改めて山門をくぐって境内に。
宝珠山が観泉寺の山号。「寶」は「宝」の旧字。

山号の説明はここをクリック→https://x.gd/uEJ3I
また寺の正門を山門と呼ぶのも同じいきさつ。
正面に見える本堂。
左側が先ほどの庭園。
なかなか美しい佇まいで凜とした趣がある。
参道右側には鐘楼。
鐘のサイズはまあ敷地相当といったところ。ここ数年は除夜の鐘を聴きに行っているけれど、さすがにここまで来ることはないだろうな。
ーーー続く
2026年01月15日
クリスマス・カクタスは短日処理の甲斐なく
2008年に買ってきた鉢から挿し芽をして増やし、現在は4代目と5代目を育てているクリスマス・カクタス。年々花付きが悪くなってきたので今シーズンは初めて短日処理なるものをした。その内容はこちらで→ https://wassho.livedoor.blog/archives/53518662.html
今あるのは2008年の子孫だけれど、この植物との付き合いは古くクリスマス・カクタス歴は40年近くある。それで短日処理などしなくてもたくさん花を付けるときは付ける。だからその効果はあまり期待していなかった。
そうしたら案の定ーーー
短日処理を始めたのは11月15日で終了したのは12月の20日あたり。
その時点で花芽はわずかしかなく(/o\)
これは年が明けて1月2日の撮影。クリスマスの頃に咲くからクリスマス・カクタスなのにまだ開花せず大きく膨らんだツボミがいくつかだけ。
1月4日にそのひとつが初開花。
それから約2週間が経った現在の様子も実に寂しい限り。
写真は左から
2021年に状態のよい株だけを選別して植え替えた:4代目その1
2022年春に挿し芽した:5代目その1
2023年春に挿し芽した:5代目その2
お約束のベランダ手すりに乗せて。
少しでも賑やかに見えるよう2鉢だけで寄ってみても効果なし。
数少ない花のアップを。
2025年春に挿し芽した:5代目その3
プランター全面に植えたのに半分に減ってしまった。こちらは短日処理もしていないし部屋の中にも取り込んでいない。ツボミはそこそこ膨らんでいるものの、開花するまで育つのに最低でも3シーズンかかる。つまり咲くのは2027年の冬から。
とりあえず「チェ、つまんねえの」な今シーズンのクリスマス・カクタス。短日処理のカバーの掛け外しを毎日してあげたのにやるせないゼ。春になったら4代目その1と5代目その1の土を入れ替えてみようか。でも植え替えをすると今年の冬は咲かないし。まあ春になったら悩みましょう。
今あるのは2008年の子孫だけれど、この植物との付き合いは古くクリスマス・カクタス歴は40年近くある。それで短日処理などしなくてもたくさん花を付けるときは付ける。だからその効果はあまり期待していなかった。
そうしたら案の定ーーー
短日処理を始めたのは11月15日で終了したのは12月の20日あたり。
その時点で花芽はわずかしかなく(/o\)
これは年が明けて1月2日の撮影。クリスマスの頃に咲くからクリスマス・カクタスなのにまだ開花せず大きく膨らんだツボミがいくつかだけ。
1月4日にそのひとつが初開花。
それから約2週間が経った現在の様子も実に寂しい限り。
写真は左から
2021年に状態のよい株だけを選別して植え替えた:4代目その1
2022年春に挿し芽した:5代目その1
2023年春に挿し芽した:5代目その2
お約束のベランダ手すりに乗せて。
少しでも賑やかに見えるよう2鉢だけで寄ってみても効果なし。
数少ない花のアップを。
2025年春に挿し芽した:5代目その3
プランター全面に植えたのに半分に減ってしまった。こちらは短日処理もしていないし部屋の中にも取り込んでいない。ツボミはそこそこ膨らんでいるものの、開花するまで育つのに最低でも3シーズンかかる。つまり咲くのは2027年の冬から。
とりあえず「チェ、つまんねえの」な今シーズンのクリスマス・カクタス。短日処理のカバーの掛け外しを毎日してあげたのにやるせないゼ。春になったら4代目その1と5代目その1の土を入れ替えてみようか。でも植え替えをすると今年の冬は咲かないし。まあ春になったら悩みましょう。
2026年01月08日
イメージと違いつまらなかった青海波 その2
文様の青海波のネーミングともなった舞楽の青海波。平安時代によく舞われていたようだが、その名声を一気に高めたのは源氏物語。第7帖の紅葉賀(もみじのが)で光源氏が舞う姿を紫式部はこう綴っている。(以下はかなり意訳で順番もオリジナルとは違う)
「冒頭で節を付けて読み上げた漢詩は極楽浄土の鳥の声のように聞こえた。それがあまりに感動的で帝は涙を拭い、周りにいた貴族たちも皆涙を流した」
「それが終わると音楽が一斉に鳴り響き、ただでさえ美しい源氏の君がより輝いて見える」
「髪飾りに仕立てたモミジも、光源氏の美しさに圧倒されて散ってしまったので菊に差し替えられた。その菊さえ光源氏の素晴らしい舞に色を変えた」
「少し雨が降ってきて、それは天にいる神までが感動の涙を流しているかのようであった」
「クライマックスに差し掛かると、光源氏の足運びや表情などはこの世のものとも思われないほどだった」
「特に最後のアンコールは息を呑む出来映えで寒気を感じるほどゾクゾクした」
「舞を理解していない下働きの人々も、こっそり木や岩に隠れて光源氏を見つめ、また涙を流す者さえもいた」
「あまりに神々しく美しい舞だったゆえに、帝は光源氏が神隠しにあうのではないかと心配になり、寺々に命じて魔除けの念仏を唱えさせたくらいであった」
ーーーなどなど。
ここぞとばかりに青海波の素晴らしさが強調される。もっともこのとき、帝の妃の1人である藤壺が妊娠しており、それが不義密通した光源氏の子であって、なのに帝と藤壺が臨席している前で舞うというスリリングな場面ではある。
それはさておき、この青海波の舞は光源氏の青春の輝きを代表する出来事として描かれ(このときの光源氏は数えで18歳)、その後も多くの場面で回想・言及されるほどのハイライトシーン。
源氏物語を通読したことは何度かあるが(もちろん現代語訳で)、それとは別に解説などで、この青海波の美しさに触れた文章を読み、あるいは映画かアニメかで見たのか、いつしか私の頭の中で青海波=「この世のものとは思えない美しい舞」のイメージが固まっていた。モーソー的には天女が舞っているような姿。
その青海波が元旦早朝にNHKで放送されていたので録画しておいた。正月から「この世のものとは思えない美しい舞」の映像でトリップしようと思って。
見た。
見たけどーーー
想像とはまったく違った(>_<)
まっ、こんな感じ(画像はテレビ画面より)
画像で舞っている映像を想像するのは難しいだろうが、実は映像で見ても画像とあまり変わらない。それほど緩く単調な動きが繰り返されるだけ。これなら私でも半日練習すれば演じられそうなレベル。豪華なコスチュームに身を包んでいるからなんとか様になっているものの、もしこれがジャージ姿なら幼稚園のお遊戯のほうが見応えがある。
最初はこれはイントロで、これから盛り上がっていくはずと期待していたのに、ずっとこの調子で15分ほどで終了。青海波って短かったのね。
そして長年にわたって妄想を膨らませてきた「この世のものとは思えない美しい舞」との思いは、あっさり裏切られ木っ端みじんに吹き飛んだのである(/o\)
ところで青海波を「源氏物語にも登場する美しい舞」と書いている人は多い。
お前ら、青海波を見たことないヤロ!
もっとも紫式部は光源氏が舞う青海波が素晴らしいと書いただけで、青海波そのものを褒め称えているわけではない。「一緒に舞う相方の左大臣家の頭中将も容姿端麗で舞の技量も人並み以上とはいえ、光源氏と較べては山奥の木のようだ」とも表現している。山奥の木とは「美しい花と雑草」のような比喩。
つまり舞い手しだい。
それでもいくら光源氏が絶世のイケメンで超人的な舞の名手であったとしても、腕を広げたり閉じたり、足を前に出したり戻したりーーー程度の動きしかない青海波で、息を呑む神々しい舞になったとはどうしても思えない。
ひょっとして紫式部も青海波を見たことないんチャウカ?(^^ゞ
源氏物語はフィクションだけれど当時の社会に与えた影響は絶大で、この後に青海波はますます演じられるようになる。紅葉賀での青海波は、帝が上皇の50歳を祝う行事として催したとの設定。それを意識したのか1176年に後白河法皇の同じく50歳の祝賀会でも青海波が舞われる。
舞ったのは平維盛(これもり)。年齢も同じ18歳。清盛の孫である彼もまた光源氏の再来と称されたイケメンだったらしい。この史実は後に平家物語に収録されている。とはいっても青海波で人々が真っ先に連想するのは源氏物語。日本で一番高い山を富士山と知っていても二番目は知らないのと同じ。ちなみにGoogleでの次の単語での検索ヒット数は
「源氏物語 青海波」 2万8600件
「平家物語 青海波」 6510件
と大差がつく。
ひょっとしたら源氏物語で取り上げられなければ、青海波は今日まで伝わらなかったかも知れない。現在に伝承されている雅楽(舞を伴う舞楽を含む音楽全体)は400曲程度。これは平安時代のレパートリーの1/3程度との研究もある。
それはさておき、
何事も経験がモットーであるけれど今回はそれが裏目に。
青海波の実演なんて見なきゃよかったと後悔。
でも幻想が砕けたおかげで源氏物語の影響力を再認識できたからよしとするか。
おしまい
「冒頭で節を付けて読み上げた漢詩は極楽浄土の鳥の声のように聞こえた。それがあまりに感動的で帝は涙を拭い、周りにいた貴族たちも皆涙を流した」
「それが終わると音楽が一斉に鳴り響き、ただでさえ美しい源氏の君がより輝いて見える」
「髪飾りに仕立てたモミジも、光源氏の美しさに圧倒されて散ってしまったので菊に差し替えられた。その菊さえ光源氏の素晴らしい舞に色を変えた」
「少し雨が降ってきて、それは天にいる神までが感動の涙を流しているかのようであった」
「クライマックスに差し掛かると、光源氏の足運びや表情などはこの世のものとも思われないほどだった」
「特に最後のアンコールは息を呑む出来映えで寒気を感じるほどゾクゾクした」
「舞を理解していない下働きの人々も、こっそり木や岩に隠れて光源氏を見つめ、また涙を流す者さえもいた」
「あまりに神々しく美しい舞だったゆえに、帝は光源氏が神隠しにあうのではないかと心配になり、寺々に命じて魔除けの念仏を唱えさせたくらいであった」
ーーーなどなど。
ここぞとばかりに青海波の素晴らしさが強調される。もっともこのとき、帝の妃の1人である藤壺が妊娠しており、それが不義密通した光源氏の子であって、なのに帝と藤壺が臨席している前で舞うというスリリングな場面ではある。
それはさておき、この青海波の舞は光源氏の青春の輝きを代表する出来事として描かれ(このときの光源氏は数えで18歳)、その後も多くの場面で回想・言及されるほどのハイライトシーン。
源氏物語を通読したことは何度かあるが(もちろん現代語訳で)、それとは別に解説などで、この青海波の美しさに触れた文章を読み、あるいは映画かアニメかで見たのか、いつしか私の頭の中で青海波=「この世のものとは思えない美しい舞」のイメージが固まっていた。モーソー的には天女が舞っているような姿。
その青海波が元旦早朝にNHKで放送されていたので録画しておいた。正月から「この世のものとは思えない美しい舞」の映像でトリップしようと思って。
見た。
見たけどーーー
想像とはまったく違った(>_<)
まっ、こんな感じ(画像はテレビ画面より)
画像で舞っている映像を想像するのは難しいだろうが、実は映像で見ても画像とあまり変わらない。それほど緩く単調な動きが繰り返されるだけ。これなら私でも半日練習すれば演じられそうなレベル。豪華なコスチュームに身を包んでいるからなんとか様になっているものの、もしこれがジャージ姿なら幼稚園のお遊戯のほうが見応えがある。
最初はこれはイントロで、これから盛り上がっていくはずと期待していたのに、ずっとこの調子で15分ほどで終了。青海波って短かったのね。
そして長年にわたって妄想を膨らませてきた「この世のものとは思えない美しい舞」との思いは、あっさり裏切られ木っ端みじんに吹き飛んだのである(/o\)
ところで青海波を「源氏物語にも登場する美しい舞」と書いている人は多い。
お前ら、青海波を見たことないヤロ!
もっとも紫式部は光源氏が舞う青海波が素晴らしいと書いただけで、青海波そのものを褒め称えているわけではない。「一緒に舞う相方の左大臣家の頭中将も容姿端麗で舞の技量も人並み以上とはいえ、光源氏と較べては山奥の木のようだ」とも表現している。山奥の木とは「美しい花と雑草」のような比喩。
つまり舞い手しだい。
それでもいくら光源氏が絶世のイケメンで超人的な舞の名手であったとしても、腕を広げたり閉じたり、足を前に出したり戻したりーーー程度の動きしかない青海波で、息を呑む神々しい舞になったとはどうしても思えない。
ひょっとして紫式部も青海波を見たことないんチャウカ?(^^ゞ
源氏物語はフィクションだけれど当時の社会に与えた影響は絶大で、この後に青海波はますます演じられるようになる。紅葉賀での青海波は、帝が上皇の50歳を祝う行事として催したとの設定。それを意識したのか1176年に後白河法皇の同じく50歳の祝賀会でも青海波が舞われる。
舞ったのは平維盛(これもり)。年齢も同じ18歳。清盛の孫である彼もまた光源氏の再来と称されたイケメンだったらしい。この史実は後に平家物語に収録されている。とはいっても青海波で人々が真っ先に連想するのは源氏物語。日本で一番高い山を富士山と知っていても二番目は知らないのと同じ。ちなみにGoogleでの次の単語での検索ヒット数は
「源氏物語 青海波」 2万8600件
「平家物語 青海波」 6510件
と大差がつく。
ひょっとしたら源氏物語で取り上げられなければ、青海波は今日まで伝わらなかったかも知れない。現在に伝承されている雅楽(舞を伴う舞楽を含む音楽全体)は400曲程度。これは平安時代のレパートリーの1/3程度との研究もある。
それはさておき、
何事も経験がモットーであるけれど今回はそれが裏目に。
青海波の実演なんて見なきゃよかったと後悔。
でも幻想が砕けたおかげで源氏物語の影響力を再認識できたからよしとするか。
おしまい
2026年01月05日
イメージと違いつまらなかった青海波
青海波(せいがいは)とは、
古典的な幾何学文様の一種でありまた舞楽の演目のひとつ。
文様の青海波はその名前を知らなくても、
誰もが目にしたことがあるはず。
穏やかな「春の海ひねもすのたりのたりかな」のイメージだろうか。
あるいは水面に光が反射している様子にも思える。
もっとも青海波のネーミングがなければウロコを連想したかも知れない(^^ゞ
青海波は日本の伝統文様のように扱われるものの、その発祥は古代のササン朝ペルシャ(226年〜651年)。それがシルクロードを経て古墳時代の終わり頃に日本に伝来。古墳時代は250年あたりから600年代だからほぼ同時期に伝わったことになる。
当時の日本人はこのペルシャの最新モードが気に入ったらしく、この「盛装女子」と何となく今っぽい名前が付けられた埴輪にも青海波の文様が見られる。
現在でも着物など和風系を中心に青海波のデザインは使われている。
画像はhttps://x.gd/U4idT、https://x.gd/MC30f、https://x.gd/y2Ngr、https://x.gd/cDJbM、https://x.gd/dYjbG、https://x.gd/7G3jR、https://x.gd/iplzV、https://x.gd/nuVpr、https://x.gd/pVyD9(短縮URL使用))から引用編集
また青海波には、波のように見える同心円を扇状に重ねた連続模様以外にも様々なバリエーションがある。
花青海波:青海波の形を菊や梅などの花にアレンジ。
破れ青海波:波の一部が途切れていたり、欠けているデザイン。
松竹梅青海波:松、竹、梅といった縁起の良い植物と組み合わせ。
牡丹青海波:紅葉と牡丹の組み合わせ。
紅葉青海波:紅葉と青海波の組み合わせ。
画像中央上段の帯は菊にアレンジした花青海波だけれど、多少の知識がないとこれが青海波とは思えないね。まあ菊にも見えないが。 帯の画像はhttps://x.gd/J9YSn、茶碗はhttps://x.gd/GZWqp(短縮URL使用)から引用
青海波は縁起のよい吉祥文様とされている。円を扇状に重ねている=扇=末広がりがその理由で、またたくさんの扇形が連続している=未来永劫や子孫繁栄との解釈もある。そうすると破れ青海波は縁起が悪くなってしまうけど。
また青海波のネーミングによって波や海をイメージするが、意外にも水に関する文様として扱われるのは鎌倉時代以降らしい。
その青海波のネーミングは舞楽のタイトルである青海波から取られている。舞楽の青海波は平安時代に始まり、寄せる波・引く波を表現する舞で、装束には波模様と千鳥を配するしきたりになっていた。その波つながりでこの文様が青海波と呼ばれるようになったようだ。
ただし現在の装束は青海波文様が使われているものの、
平安時代の装束の波模様が青海波文様だったかどうかは不明。
青海波文様がいつ頃から青海波と呼ばれるようになったかも不明。
ではある。
例によって前書きが長くなった(^^ゞ
青海波には文様と舞楽があって本題は舞楽についてである。
ーーー続く
古典的な幾何学文様の一種でありまた舞楽の演目のひとつ。
文様の青海波はその名前を知らなくても、
誰もが目にしたことがあるはず。
穏やかな「春の海ひねもすのたりのたりかな」のイメージだろうか。
あるいは水面に光が反射している様子にも思える。
もっとも青海波のネーミングがなければウロコを連想したかも知れない(^^ゞ
青海波は日本の伝統文様のように扱われるものの、その発祥は古代のササン朝ペルシャ(226年〜651年)。それがシルクロードを経て古墳時代の終わり頃に日本に伝来。古墳時代は250年あたりから600年代だからほぼ同時期に伝わったことになる。
当時の日本人はこのペルシャの最新モードが気に入ったらしく、この「盛装女子」と何となく今っぽい名前が付けられた埴輪にも青海波の文様が見られる。
現在でも着物など和風系を中心に青海波のデザインは使われている。
画像はhttps://x.gd/U4idT、https://x.gd/MC30f、https://x.gd/y2Ngr、https://x.gd/cDJbM、https://x.gd/dYjbG、https://x.gd/7G3jR、https://x.gd/iplzV、https://x.gd/nuVpr、https://x.gd/pVyD9(短縮URL使用))から引用編集
また青海波には、波のように見える同心円を扇状に重ねた連続模様以外にも様々なバリエーションがある。
花青海波:青海波の形を菊や梅などの花にアレンジ。
破れ青海波:波の一部が途切れていたり、欠けているデザイン。
松竹梅青海波:松、竹、梅といった縁起の良い植物と組み合わせ。
牡丹青海波:紅葉と牡丹の組み合わせ。
紅葉青海波:紅葉と青海波の組み合わせ。
画像中央上段の帯は菊にアレンジした花青海波だけれど、多少の知識がないとこれが青海波とは思えないね。まあ菊にも見えないが。 帯の画像はhttps://x.gd/J9YSn、茶碗はhttps://x.gd/GZWqp(短縮URL使用)から引用
青海波は縁起のよい吉祥文様とされている。円を扇状に重ねている=扇=末広がりがその理由で、またたくさんの扇形が連続している=未来永劫や子孫繁栄との解釈もある。そうすると破れ青海波は縁起が悪くなってしまうけど。
また青海波のネーミングによって波や海をイメージするが、意外にも水に関する文様として扱われるのは鎌倉時代以降らしい。
その青海波のネーミングは舞楽のタイトルである青海波から取られている。舞楽の青海波は平安時代に始まり、寄せる波・引く波を表現する舞で、装束には波模様と千鳥を配するしきたりになっていた。その波つながりでこの文様が青海波と呼ばれるようになったようだ。
ただし現在の装束は青海波文様が使われているものの、
平安時代の装束の波模様が青海波文様だったかどうかは不明。
青海波文様がいつ頃から青海波と呼ばれるようになったかも不明。
ではある。
例によって前書きが長くなった(^^ゞ
青海波には文様と舞楽があって本題は舞楽についてである。
ーーー続く
2026年01月03日
目黒不動で除夜の鐘&初詣
初詣より除夜の鐘のほうが面白いかなと、2022年の大晦日に自宅近くの円融寺で「ナマ除夜の鐘」を初体験。今までテレビで見ていた大寺院のそれと較べると、鐘のサイズが小さいので音色もゴーンよりはカーンに近い。それでもその風情が気に入ったのか、あるいは煩悩多き身を仏が導いたのか翌2023年も自宅から少し離れた祐天寺へ。
ところが円融寺は開始時刻が午後10時だったのに祐天寺は午後11時45分。当然108回を突き終わるのは日付をまたいで元旦になってしまう。それまで除夜の鐘とは大晦日に鐘を突いて、それにより煩悩を落として正月を迎えるものだと思っていた。しかし
深夜0時を挟む時間帯に突く
107回は12月31日に、残り1回を1月1日に突く
1月1日になった午前0時から突き始める
など多くは大晦日から元旦に掛けて行う行事だと知る。
それなら除夜の鐘を聞いて、日付が変わったらそのまま初詣ができて一石二鳥。ただし祐天寺には「元朝(がんちょう)祈願」といって、新年を迎えた午前0時から参拝する習わしがあり、それが境内の外にまで延びる長蛇の列でお参りは諦めたが。
歩いて片道30分以内で除夜の鐘を突いているお寺が円融寺と祐天寺しかなかく、同じ寺に行くのも芸がないので2024年は除夜の鐘を聞きに出かけなかった。1万歩以上を週に3回散歩するのをノルマにしており、体力的にはもっと遠くの寺でもまったく平気なのだが、それは昼間の話で真冬の深夜にそれはちょっとツライ。
しかし昨年の秋頃に目黒不動でも除夜の鐘を突いていると知る。目黒不動は祐天寺とほぼ同じ距離。2022年に近所のお寺を調べた際に見落としていたようだ。また目黒不動には本堂以外にもお参りするところがたくさんあり、本堂が混雑していても祐天寺のように初詣をし損なう心配もない。
大晦日午後11時25分に自宅を出発。iPhoneのカメラがナイトモードになっているのでずいぶんと明るく写っている。実際の空はもちろん真っ黒である。
目黒不動は散歩のときによく前を通っている。
最短ルートで行くにはこんな路地もすり抜け。
住宅地の細い道を歩き、
カーブミラーの先に目黒不動の裏口がある。
ここまで来ると鐘の音が聞こえだした。
裏口に到着。
どうして裏口かというと、目黒不動は傾斜地に建っており敷地は上部と下部に分かれている。そして本堂や鐘楼(しょうろう)は上部敷地にあり、この裏口もそこに通じている。下部敷地にある正面の仁王門からだと階段を上がってこなければならない。
裏口をくぐるとすぐ本堂の裏手。
そして本堂の後ろに鎮座しているのが大日如来。
仏にもヒエラルキーがあって如来→菩薩→明王→天部の順番。目黒不動の本尊はもちろんその名の通り不動明王で本堂に祀られている。なのに仏のランク最高位の大日如来は寒風吹きすさぶ屋外。格差社会の仏界での下克上?(^^ゞ
傾斜地ゆえに急勾配な階段を降りる。
本堂の表側に出てビックリ。
午前零時よりの初詣待ちの列がズラーッと。
只今の時刻は11時53分。
本堂の下から。
先頭の人は何時から並んで待っているのだろう。
目黒不動は寺なのに鳥居がある。これは古代に神道と仏教がクロスオーバーした神仏習合思想の名残。さらにここは天台宗なので、天台宗総本山の比叡山延暦寺の守り神が日吉大社(滋賀県大津市)であるのも関係している。上部が三角形になっているのは山王鳥居と呼ばれ日吉神社と日枝神社(両者は同じ系統)に独特のスタイル。
本堂に上ってくる階段。安全のため階段途中では立ち止まれないようになっていて、階段の下に人がたくさん並んでいる。日付が変わった直後の初詣は人気があるんだね。
鐘楼は本堂の並びにある。
普段は立ち入り禁止のエリアだったように思う。
お堂形式になっており鐘やそれを突いている姿はほとんど見えない。お堂の下部が下に広がっているのは袴腰(はかまごし)と呼び格式が高い様式らしい。
並んでいるのは事前に申し込んで鐘を突く順番を待っている人。
円融寺と祐天寺は無料なのに目黒不動は1名につき3000円。
しかも事前振込制でキャンセルでも返金なし(>_<)
鐘楼(しょうろう)の正面。
鐘は2階にあって入り口奥に階段が見える。
鐘の音はやはりゴーンよりカーンの高音寄り。円融寺で初めてナマ除夜の鐘を聞いたときはそれがとても気になったものの、もう慣れたのか特に違和感なし。それにしても壁のほとんどは網目になっているとはいえ、一般的な壁のない鐘楼と較べたら内部は相当に大音響じゃないかな。
それとやはり鐘を突いている姿を見られないのはツマラナイ。円融寺と祐天寺も鐘突きを見物している人がいたが、ここでは見かけなかった。
何発か鐘の音を聞いた後に新年のカウントダウンが始まった。
これはその直後の本堂の様子。
お参りできるのは午前2時まで。
12月31日=大晦日=除夜なんだけれど、除夜を「除夜の鐘」以外で使われているのを見たのは初めてかも知れない。
子供の頃、賢くなると言われて煙を必死で頭になすりつけたやつ。
効果なかった(^^ゞ
深夜に絶賛営業中。
本堂は長蛇の列なのでお参りは諦めて大日如来で初詣。
なんたってこちらのほうが仏としての位は高いし。
この大日如来像は江戸時代初期の1683年に作られた銅製の仏像。
そんなに古いものには見えないね。
座っている蓮華部分も含めて高さ3.85m。
ちょっとあおり気味で。
実際はもっと暗く屋根の上の木々の部分が宇宙の星雲のように思えた。
賽銭箱は金属製だった。賽銭箱の上部にはスリットがあるが、それが2段か3段に重なっているのか、お賽銭を投げ入れるとカラカラカラーンととても澄んだ音が長く響く。その音で心が洗われた気分になり気持ちよく初詣のお参り。こいつは春から縁起がいい?
ところが円融寺は開始時刻が午後10時だったのに祐天寺は午後11時45分。当然108回を突き終わるのは日付をまたいで元旦になってしまう。それまで除夜の鐘とは大晦日に鐘を突いて、それにより煩悩を落として正月を迎えるものだと思っていた。しかし
深夜0時を挟む時間帯に突く
107回は12月31日に、残り1回を1月1日に突く
1月1日になった午前0時から突き始める
など多くは大晦日から元旦に掛けて行う行事だと知る。
それなら除夜の鐘を聞いて、日付が変わったらそのまま初詣ができて一石二鳥。ただし祐天寺には「元朝(がんちょう)祈願」といって、新年を迎えた午前0時から参拝する習わしがあり、それが境内の外にまで延びる長蛇の列でお参りは諦めたが。
歩いて片道30分以内で除夜の鐘を突いているお寺が円融寺と祐天寺しかなかく、同じ寺に行くのも芸がないので2024年は除夜の鐘を聞きに出かけなかった。1万歩以上を週に3回散歩するのをノルマにしており、体力的にはもっと遠くの寺でもまったく平気なのだが、それは昼間の話で真冬の深夜にそれはちょっとツライ。
しかし昨年の秋頃に目黒不動でも除夜の鐘を突いていると知る。目黒不動は祐天寺とほぼ同じ距離。2022年に近所のお寺を調べた際に見落としていたようだ。また目黒不動には本堂以外にもお参りするところがたくさんあり、本堂が混雑していても祐天寺のように初詣をし損なう心配もない。
大晦日午後11時25分に自宅を出発。iPhoneのカメラがナイトモードになっているのでずいぶんと明るく写っている。実際の空はもちろん真っ黒である。
目黒不動は散歩のときによく前を通っている。
最短ルートで行くにはこんな路地もすり抜け。
住宅地の細い道を歩き、
カーブミラーの先に目黒不動の裏口がある。
ここまで来ると鐘の音が聞こえだした。
裏口に到着。
どうして裏口かというと、目黒不動は傾斜地に建っており敷地は上部と下部に分かれている。そして本堂や鐘楼(しょうろう)は上部敷地にあり、この裏口もそこに通じている。下部敷地にある正面の仁王門からだと階段を上がってこなければならない。
裏口をくぐるとすぐ本堂の裏手。
そして本堂の後ろに鎮座しているのが大日如来。
仏にもヒエラルキーがあって如来→菩薩→明王→天部の順番。目黒不動の本尊はもちろんその名の通り不動明王で本堂に祀られている。なのに仏のランク最高位の大日如来は寒風吹きすさぶ屋外。格差社会の仏界での下克上?(^^ゞ
傾斜地ゆえに急勾配な階段を降りる。
本堂の表側に出てビックリ。
午前零時よりの初詣待ちの列がズラーッと。
只今の時刻は11時53分。
本堂の下から。
先頭の人は何時から並んで待っているのだろう。
目黒不動は寺なのに鳥居がある。これは古代に神道と仏教がクロスオーバーした神仏習合思想の名残。さらにここは天台宗なので、天台宗総本山の比叡山延暦寺の守り神が日吉大社(滋賀県大津市)であるのも関係している。上部が三角形になっているのは山王鳥居と呼ばれ日吉神社と日枝神社(両者は同じ系統)に独特のスタイル。
本堂に上ってくる階段。安全のため階段途中では立ち止まれないようになっていて、階段の下に人がたくさん並んでいる。日付が変わった直後の初詣は人気があるんだね。
鐘楼は本堂の並びにある。
普段は立ち入り禁止のエリアだったように思う。
お堂形式になっており鐘やそれを突いている姿はほとんど見えない。お堂の下部が下に広がっているのは袴腰(はかまごし)と呼び格式が高い様式らしい。
並んでいるのは事前に申し込んで鐘を突く順番を待っている人。
円融寺と祐天寺は無料なのに目黒不動は1名につき3000円。
しかも事前振込制でキャンセルでも返金なし(>_<)
鐘楼(しょうろう)の正面。
鐘は2階にあって入り口奥に階段が見える。
鐘の音はやはりゴーンよりカーンの高音寄り。円融寺で初めてナマ除夜の鐘を聞いたときはそれがとても気になったものの、もう慣れたのか特に違和感なし。それにしても壁のほとんどは網目になっているとはいえ、一般的な壁のない鐘楼と較べたら内部は相当に大音響じゃないかな。
それとやはり鐘を突いている姿を見られないのはツマラナイ。円融寺と祐天寺も鐘突きを見物している人がいたが、ここでは見かけなかった。
何発か鐘の音を聞いた後に新年のカウントダウンが始まった。
これはその直後の本堂の様子。
お参りできるのは午前2時まで。
12月31日=大晦日=除夜なんだけれど、除夜を「除夜の鐘」以外で使われているのを見たのは初めてかも知れない。
子供の頃、賢くなると言われて煙を必死で頭になすりつけたやつ。
効果なかった(^^ゞ
深夜に絶賛営業中。
本堂は長蛇の列なのでお参りは諦めて大日如来で初詣。
なんたってこちらのほうが仏としての位は高いし。
この大日如来像は江戸時代初期の1683年に作られた銅製の仏像。
そんなに古いものには見えないね。
座っている蓮華部分も含めて高さ3.85m。
ちょっとあおり気味で。
実際はもっと暗く屋根の上の木々の部分が宇宙の星雲のように思えた。
賽銭箱は金属製だった。賽銭箱の上部にはスリットがあるが、それが2段か3段に重なっているのか、お賽銭を投げ入れるとカラカラカラーンととても澄んだ音が長く響く。その音で心が洗われた気分になり気持ちよく初詣のお参り。こいつは春から縁起がいい?
2026年01月01日
今年で何年目?
めでたく年が明けて2026年。
2000年代になってから1/4世紀が過ぎて、
令和も8年となり年月の流れるのは早いものである。
昨年は昭和100年の年であったが、
それと同じように今年で何年になるかを計算してみると
1989年から始まり30年間続いた平成は38年。
1926年から始まり64年間続いた昭和は101年。
1912年から始まり15年間続いた大正は115年。
1868年から始まり45年間続いた明治は159年。
平成で38年か。
平成の初期に生まれた人はもう中年なんだね(/o\)
逆の計算をすると
昭和最後の64年(1989年)に生まれた人は今年で37歳
大正最後の15年(1926年)に生まれた人は今年で100歳
明治最後の45年(1912年)に生まれた人は今年で114歳
昨年8月時点で男性の最高齢者は111歳なので、既に明治生まれは存命していない。女性の最高齢者は明治43年生まれで今年で116歳になる。明治44年〜45年生まれがどれくらいいるのかはわからなかったものの、もうすぐ明治生まれの人がいなくなると思うと少し寂しい。
なお先ほど書いたように今年は平成38年にあたるが、平成元年(または昭和最終年)生まれの人は今年の誕生日で37歳になる。これが日数計算のややこしいところ。
ある年はある年の何年前かは単純に引き算すればいい。2025年は2026−2025=1で2026年の1年前である。これが2026年は2025年から数えて何年目かだと2026−2025+1=2年目となる。さらに今年に会社を起こしたら設立1年目で、今年に生まれた子供は0歳と数える。だから昨年にできた会社は今年で設立2年目になり、昨年に生まれた子供は今年に1歳である。
日数や年数の計算をするときに、いつもこのあたりを混同しかけてちょっとイラッとする。ちなみにもっとイラッとするのは年数と世紀の数字が一致しないこと。つまり645年の大化の改新は7世紀であり、1467年に始まった応仁の乱は15世紀。年数と世紀が混在して記載されている歴史の解説を読むと「どちらかに統一して書け!」と言いたくなる。
これはもちろん西暦の1年〜100年を1世紀、101年〜200年を2世紀と数えるから。最初を0世紀としたら年数と一致したのに。また世紀とは100年単位で区切るの数え方。しかし1年〜100年、101年〜200年ではなく、99年単位の1〜99年、100年〜199年にして欲しかった。2000年になったとき「えっ、まだ20世紀? 21世紀は2001年から?」と感じた人は少なくないと思うゾ。1600年に起きた関ヶ原の戦いも16世紀。
さて続きを計算しますか。
以降も2026年−当該年数+1の「今年はあれから何年目」で計算している。
1603年に江戸時代が始まって今年は423年目
1598年に秀吉が没して今年は429年目
1582年に信長が没して今年は445年目
1336年に室町幕府が始まって今年で691年目
1192年に鎌倉幕府が始まって今年で835年目
794年に平安時代が始まって今年で1233年目
710年に奈良時代が始まって今年で1317年目
593年に飛鳥時代が始まって今年で1434年目
最近は鎌倉時代の始まりを1185年と学校で教えているのは知っている。イイクニツクロウの1192年は征夷大将軍に任命された年。それより前の1185年に壇ノ浦で平家が滅亡し、同時に頼朝が諸国に守護・地頭を設置する権限を朝廷から得て、実質的に統治機能を握ったとするのがイイハコの1185年説。
その理屈はわかるのだけれど、室町幕府と江戸幕府も征夷大将軍任命基準だし。逆に家康が任命されたのは1603年でも大坂冬の陣で豊臣が滅亡したのは1615年と12年も後。どうして鎌倉時代だけ実質本位で考えるのかよくわからない。まあイイクニツクロウの語呂合わせが気に入っているからそう思うのかも知れないが。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
さて今年が各時代から何年目かなんて、ちょっと思いついて計算してみただけで「だからどうした」な話である。今年もそんなポリシーでブログを書いていくので(^^ゞ ヒマがあったらのぞいてみてください。
謹賀新年 元旦
2025年12月30日
カーブミラーの光輪
冬になると太陽高度が低くなるので、カーブミラーに日光が反射して道路に光輪を描くことがある。私がコッソリ楽しみにしている冬の風物詩。
太陽の方位と高さ、それとカーブミラーの向きが関係するので、どこにでも光輪が現れるわけではない。周囲にあまり高い建物がなく西向きにミラーのあるところで、午後2時から3時過ぎにかけて見る機会が多いかな。
最初に太陽高度と書いたが、これが紛らわしい言葉である。
高度と言えば「当機はただいま高度3万3000フィート、約1万メートルを順調に飛行中です」なんて飛行機の機内アナウンスを思い出す。これは地上(正確には海抜面)から1万メートル上空という距離を示している。だから単位はフィートやメートル。
ちなみに飛行機の高度単位はフィートを使うのが一般的。これは航空機産業がアメリカから発展したのと、飛行機がすれ違う際に1000フィート(300メートル)の高度差を保つのがちょうどよく単位として使い勝手がいいとの理由もあるらしい。
ただし中国や北朝鮮それとロシアはメートルを使っている。フィートだと管制官は高度を3万フィート、3万1000フィート、3万2000フィートに保てと切りのいい数字で指示するところを、メートルの場合は8,900m、9,500m、10,100mなどとややこしい数字になる。
さて飛行機の高度が高さの距離なのに対して太陽高度はそれとまったく異なる。太陽高度とは水平方向に対して太陽をどれだけ見上げるかの仰角を示している。従って単位は「度」である。太陽は真南にあるときに最も高度が高くなるが、東京の場合は夏至で78度、冬至だと31度で46度も差がある。
それにしても距離と角度を同じ高度の言葉で表すなんてちょっと乱暴。この言葉がもたらされた当時の翻訳が悪かったのかとも思ったけれど、英語でも
飛行高度:flight altitude
太陽高度:solar altitude
と、どちらも高度を意味する altitude を使っている。つまり高度には上空までの距離と見上げる仰角の2つの意味があって、角度のほうは普段の馴染みがないから奇異に感じるというわけ。
なお角度の高度は太陽だけでなく天体全般で使われる。そういえばこんな分度器を使って観測している昔の絵をたまに見るな。これの正しい名前は四分儀(しぶんぎ)または象限儀(しょうげんぎ)。
話は変わるが、子供の頃に買ってもらった理科教材キットの外箱に「太陽高度の測定」と書いてあって「わっ太陽までの距離がわかるのか、これはスゲェー!」と思ったのに、紙で作られた分度器のようなものが入っていただけでガッカリした。
冬になってカーブミラーが光輪を描いているのを見つける度に、太陽高度の連想からその理科教材キットを思い出す。もう半世紀以上も昔のことなのに。子供心によほどガッカリしたのに違いない(^^ゞ
そんな与太話を書いているうちに、
♪♪もうふたつ寝るとお正月
それではよいお年をお迎えください。
太陽の方位と高さ、それとカーブミラーの向きが関係するので、どこにでも光輪が現れるわけではない。周囲にあまり高い建物がなく西向きにミラーのあるところで、午後2時から3時過ぎにかけて見る機会が多いかな。
最初に太陽高度と書いたが、これが紛らわしい言葉である。
高度と言えば「当機はただいま高度3万3000フィート、約1万メートルを順調に飛行中です」なんて飛行機の機内アナウンスを思い出す。これは地上(正確には海抜面)から1万メートル上空という距離を示している。だから単位はフィートやメートル。
ちなみに飛行機の高度単位はフィートを使うのが一般的。これは航空機産業がアメリカから発展したのと、飛行機がすれ違う際に1000フィート(300メートル)の高度差を保つのがちょうどよく単位として使い勝手がいいとの理由もあるらしい。
ただし中国や北朝鮮それとロシアはメートルを使っている。フィートだと管制官は高度を3万フィート、3万1000フィート、3万2000フィートに保てと切りのいい数字で指示するところを、メートルの場合は8,900m、9,500m、10,100mなどとややこしい数字になる。
さて飛行機の高度が高さの距離なのに対して太陽高度はそれとまったく異なる。太陽高度とは水平方向に対して太陽をどれだけ見上げるかの仰角を示している。従って単位は「度」である。太陽は真南にあるときに最も高度が高くなるが、東京の場合は夏至で78度、冬至だと31度で46度も差がある。
それにしても距離と角度を同じ高度の言葉で表すなんてちょっと乱暴。この言葉がもたらされた当時の翻訳が悪かったのかとも思ったけれど、英語でも
飛行高度:flight altitude
太陽高度:solar altitude
と、どちらも高度を意味する altitude を使っている。つまり高度には上空までの距離と見上げる仰角の2つの意味があって、角度のほうは普段の馴染みがないから奇異に感じるというわけ。
なお角度の高度は太陽だけでなく天体全般で使われる。そういえばこんな分度器を使って観測している昔の絵をたまに見るな。これの正しい名前は四分儀(しぶんぎ)または象限儀(しょうげんぎ)。
話は変わるが、子供の頃に買ってもらった理科教材キットの外箱に「太陽高度の測定」と書いてあって「わっ太陽までの距離がわかるのか、これはスゲェー!」と思ったのに、紙で作られた分度器のようなものが入っていただけでガッカリした。
冬になってカーブミラーが光輪を描いているのを見つける度に、太陽高度の連想からその理科教材キットを思い出す。もう半世紀以上も昔のことなのに。子供心によほどガッカリしたのに違いない(^^ゞ
そんな与太話を書いているうちに、
♪♪もうふたつ寝るとお正月
それではよいお年をお迎えください。




















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































