2014年01月
2014年01月28日
イルカのツイッター
なごり雪を見て、センチメンタルな曲の思い出に浸るにはまだちょっと季節が早い。というか東京では初雪がまだ。もちろん本日のイルカは海で泳ぐほうのイルカである。
「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています。」とキャロライン・ケネディ駐日米国大使がツイートしたのは正月気分も抜けた1月18日。すぐに大きなニュースになった。
(ツイート=ツイッターでつぶやくこと。ツイッターのことを知らなければ自分で調べてね)
ニュースを知った時の私の感想は
その話、ツイッターでする?
去年、飲食店で悪ふざけするバイトのバカッター騒ぎがあり、ツイッターは馬鹿発見器とも揶揄された。蕎麦屋とかローソンとか、バイトじゃなく客のツイッターだが「しまむら」の土下座とか、その他数え切れないくらい。バカッターとケネディ大使を同一視するつもりはまったくない。でもアホもしくは犯罪なことに使う、逆に重要すぎてデリケートなことに使うと、使い方は正反対だけどツイッターの使い方としては?な点では共通しているような気もする。
調べてみるとケネディ大使の着任が昨年の11月15日。本日までで74日間。彼女のツイッターを見ると11月19日に最初のツイートが始まって本日までに49ツイート。ほとんどのツイートが英語と日本語で別々にアップされているから、実質的には25ツイートくらい。74日を25ツイートで割るとだいたい三日に一回くらいの更新頻度。そのほとんどは誰それとあったとか、ドコソコへいったとかのたわいのない話し。イルカの話だけが突出してヘビーなメッセージなのである。ちなみに翌19日のツイートは九重部屋を訪問したというツイート。陣幕親方=元千代の富士と一緒にあぐらをかいて座っている写真付き。
ツイートの後、政府はすぐに反論のコメントを出した。そしてあれから10日ほど。ケネディ大使から再反論があったとか、日本政府と議論したとかのニュースはないように思う。それで私の推論は
つい軽〜い気持ちでツイートしちゃった
貴殿の軽率な言動で、大統領が草葉の陰で泣いておられますと
本国から叱られた。
まっ、そんなところかどうかはわからないけれど。
イルカはセンシティブな問題だから、例え彼女がツイートしたような意見を強く持っていたとしても、今回の意見表明の方法が駐日大使として賢明・最善だったとは思えない。バカッターの振りして政府や日本人の反応を探る高等戦術も考えられなくないが、どうもそんな匂いはしない。
ところで安倍総理が靖国神社を訪問したのは12月26日。そのことについての彼女のツイートはなし。さすがにこの問題は、ツイッターで軽々しくつぶやくべきではないという判断はあるだろう。だから逆にいえば、イルカの話はそんなにセンシティブな話題だと認識していなかったとも考えられる=でも黙っちゃいられないから、とりあえずツイートしておこうかと。
駐日大使がイルカについて意見を表明することが悪いとは思わない。議論はいつでもウエルカムであるべき。ただ今回はキャロラインちゃん、やり方をミスったかな?
本日の格言?
「バカとツイッターは使いよう」
イルカネタは今後も続く予定。
私のブログだから、世間とは視点がずいぶん違うものになると思うけど。
ところで、わんぱくフリッパー、また観たいなあ〜
「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています。」とキャロライン・ケネディ駐日米国大使がツイートしたのは正月気分も抜けた1月18日。すぐに大きなニュースになった。
(ツイート=ツイッターでつぶやくこと。ツイッターのことを知らなければ自分で調べてね)
ニュースを知った時の私の感想は
その話、ツイッターでする?
去年、飲食店で悪ふざけするバイトのバカッター騒ぎがあり、ツイッターは馬鹿発見器とも揶揄された。蕎麦屋とかローソンとか、バイトじゃなく客のツイッターだが「しまむら」の土下座とか、その他数え切れないくらい。バカッターとケネディ大使を同一視するつもりはまったくない。でもアホもしくは犯罪なことに使う、逆に重要すぎてデリケートなことに使うと、使い方は正反対だけどツイッターの使い方としては?な点では共通しているような気もする。
調べてみるとケネディ大使の着任が昨年の11月15日。本日までで74日間。彼女のツイッターを見ると11月19日に最初のツイートが始まって本日までに49ツイート。ほとんどのツイートが英語と日本語で別々にアップされているから、実質的には25ツイートくらい。74日を25ツイートで割るとだいたい三日に一回くらいの更新頻度。そのほとんどは誰それとあったとか、ドコソコへいったとかのたわいのない話し。イルカの話だけが突出してヘビーなメッセージなのである。ちなみに翌19日のツイートは九重部屋を訪問したというツイート。陣幕親方=元千代の富士と一緒にあぐらをかいて座っている写真付き。
ツイートの後、政府はすぐに反論のコメントを出した。そしてあれから10日ほど。ケネディ大使から再反論があったとか、日本政府と議論したとかのニュースはないように思う。それで私の推論は
つい軽〜い気持ちでツイートしちゃった
貴殿の軽率な言動で、大統領が草葉の陰で泣いておられますと
本国から叱られた。
まっ、そんなところかどうかはわからないけれど。
イルカはセンシティブな問題だから、例え彼女がツイートしたような意見を強く持っていたとしても、今回の意見表明の方法が駐日大使として賢明・最善だったとは思えない。バカッターの振りして政府や日本人の反応を探る高等戦術も考えられなくないが、どうもそんな匂いはしない。
ところで安倍総理が靖国神社を訪問したのは12月26日。そのことについての彼女のツイートはなし。さすがにこの問題は、ツイッターで軽々しくつぶやくべきではないという判断はあるだろう。だから逆にいえば、イルカの話はそんなにセンシティブな話題だと認識していなかったとも考えられる=でも黙っちゃいられないから、とりあえずツイートしておこうかと。
駐日大使がイルカについて意見を表明することが悪いとは思わない。議論はいつでもウエルカムであるべき。ただ今回はキャロラインちゃん、やり方をミスったかな?
本日の格言?
「バカとツイッターは使いよう」
イルカネタは今後も続く予定。
私のブログだから、世間とは視点がずいぶん違うものになると思うけど。
ところで、わんぱくフリッパー、また観たいなあ〜
2014年01月25日
ライブカメラ
前日の天気予報では本日の日中は快晴、最高気温は16度で三月下旬並ということだった。それで元旦以来久しぶりに、バイクで三浦半島でもブラブラしようと考える。
午前8時起床。目覚まし代わりに使っているラジオから「現在の東京の気温は5度です」という放送が流れる。
寒いヤンケ!
でも、まだ8時だし。出発は少し日が高くなって暖かくなる10時頃のつもりだった。ベッドから出てカーテンを開く。
めっちゃ曇ってるヤンケ!
見渡す限りの白く厚い雲。雨が降りそうな気配はないが、空に青い部分はまったくなし。天気予報をネットで確認すると晴れ時々曇り、最高気温15度に変わっていた。もう少しすれば晴れてくるかなと期待しつつ出かける準備をする。
午前9時過ぎ頃になっても雲に覆われた空模様は変わらない。ネットで三浦半島のピンポイント天気予報を見ると快晴ということになっている。しかし東京がこの曇り空で三浦半島が快晴とは思えなかった。ちなみに自宅から三浦半島の先端までは直線距離で50キロほどである。雨でなければバイクツーリングはOKなのだが、何となく本日は青空の海岸沿いを走りたいという気持ちが強かった。
というわけで段々と気持ちが萎えてくる。
でも中止の判断もしづらい。
その時ふとライブカメラのことを思い出した。ライブカメラとはあちこちに設置されている街頭カメラで、ネットでその映像を見ることができる。ライブカメラが登場した頃に何度か見たことがあるが、その後はすっかり忘れていた。
ネットでライブカメラを検索してみる。
全国のあちこちにある。観光情報のひとつとして設置されているものが多いようだ。福島第一原発とか北方領土の今現在の映像も自宅から見ることができた。ライブカメラのURL(ホームページのアドレス)を集めたリンク集のようなものもある。ただしリンク先が切れているものも多い。それとMacからだと映像が見られないライブカメラもあった。映像はずっと撮影しているいわゆるビデオ映像ものものあれば、1分とか10分間隔の写真映像のもあった。
ライブカメラは目的別にたくさんあるけれど、とりあえず現地の空模様を確認するには、ウエザーニュースという気象サイトが提供しているライブカメラが全国各地を網羅していて便利かな。
三浦半島には二箇所のライブカメラがあった。自宅と変わらないくらい厚い雲に覆われていることが確認できた。問題は今から2時間後くらいに晴れるかどうかであるが、それはもちろんライブカメラではわからない。そこで天気は西から変わるから、静岡あたりのライブカメラもチェックする。ここもすぐには晴れそうにない厚い雲。
というわけで心置きなく本日のツーリングは中止。
久しぶりに午前中からワインを飲んで、その後にウトウト昼寝。
これはこれで幸せな休日。
2014年01月22日
ここが足りないよ日本の気配り
日本人はいろいろと細かいところに気がつく、あるいは気になる国民である。世界気配りオリンピックがあれば、おそらく国別金メダル獲得数1位になれるような気がする。
例えば、これはティッシュの取り出し口。
もともとミシン目がついているのに、さらにそのミシン目がついたフタを切り取りやすくする穴を開けるためのミシン目までついている。ほとんど病気。
ティッシュのフタなんて穴があろうがなかろうが簡単に切り取れるが、毎回イライラするのがこれである。そう、調味料やスパイスのシール。
写真に撮ったものは、めくりやすくするために一応シールに余分な部分があって、そこから引きはがすようになっている。しかし私は今までにこのシールをペロンときれいに剥がせたことは一度もない。引っ張ったら、この余分な部分だけがちぎれてしまうこともままある。
また商品によっては、写真のような余分な部分がなく、爪楊枝などでシールを突き刺して剥がせと書いてあるふざけた商品もある。そういうものに限ってシールが厚みのある素材でできており、爪楊枝程度の鋭さでは刺さりもしないのである。これがティッシュを開けるために二段階のミシン目をつけてしまうのと同じ国民が作った商品とは到底思えない。
話は変わるが、
ずっと昔にサプリの類は飲まないと書いた記憶がある。しかし、その後に気が変わって実は数年前からサプリ愛好家である。いろんな種類のものを、あれこれ試しながら飲んでいる。目に見える効果が出ることはないが、健康管理・体調維持にはそれなりに貢献していると思っている。サプリの話はいずれ別の機会に。
私が購入しているのはすべてアメリカ製である。国産のものはバカみたいに高いので買う気がしない。すべて海外の通販会社から購入。いわゆる個人輸入という方法。そんな話しもいずれそのうち。
それでアメリカ製のサプリのボトルについているシールは、ほとんどのメーカーで次のような工夫がしてある。
一目瞭然だが、真ん中の部分を起こして引っ張れば、楽にシールはきれいに剥がれる。1〜2ミリしかないシールの余分な部分を苦労してツメでつまんだり、ましてや千枚通しを取り出して突き刺してこじ開ける必要はない。ハウスやヱスビーがこの仕組みを知らないとは思えない。この方式でコストが跳ね上がるとも考えづらい。どうして採用しないかな。
ちなみにシールを1〜2ミリ余分に被せるという、まったく役に立たない気配りはメーカーのホームページによれば、あれでも改良型だそうである。ホームページでは「お客様の声を生かして」改良したことになっている。おそらく改良した(とメーカーが信じている)結果の評価は尋ねていないのに違いない。
アメリカ人が作った商品のほうが細かい気配りがあるなんて、ちょっと意外。でも実際にアメリカ式のほうが100倍はがしやすい。日本式は、特に視力が落ちて手先もうまく動かせなくなった高齢者には拷問だろう。誰かハウスかヱスビーに知り合いがいたら伝えといて。
例えば、これはティッシュの取り出し口。
もともとミシン目がついているのに、さらにそのミシン目がついたフタを切り取りやすくする穴を開けるためのミシン目までついている。ほとんど病気。
ティッシュのフタなんて穴があろうがなかろうが簡単に切り取れるが、毎回イライラするのがこれである。そう、調味料やスパイスのシール。
写真に撮ったものは、めくりやすくするために一応シールに余分な部分があって、そこから引きはがすようになっている。しかし私は今までにこのシールをペロンときれいに剥がせたことは一度もない。引っ張ったら、この余分な部分だけがちぎれてしまうこともままある。
また商品によっては、写真のような余分な部分がなく、爪楊枝などでシールを突き刺して剥がせと書いてあるふざけた商品もある。そういうものに限ってシールが厚みのある素材でできており、爪楊枝程度の鋭さでは刺さりもしないのである。これがティッシュを開けるために二段階のミシン目をつけてしまうのと同じ国民が作った商品とは到底思えない。
話は変わるが、
ずっと昔にサプリの類は飲まないと書いた記憶がある。しかし、その後に気が変わって実は数年前からサプリ愛好家である。いろんな種類のものを、あれこれ試しながら飲んでいる。目に見える効果が出ることはないが、健康管理・体調維持にはそれなりに貢献していると思っている。サプリの話はいずれ別の機会に。
私が購入しているのはすべてアメリカ製である。国産のものはバカみたいに高いので買う気がしない。すべて海外の通販会社から購入。いわゆる個人輸入という方法。そんな話しもいずれそのうち。
それでアメリカ製のサプリのボトルについているシールは、ほとんどのメーカーで次のような工夫がしてある。
一目瞭然だが、真ん中の部分を起こして引っ張れば、楽にシールはきれいに剥がれる。1〜2ミリしかないシールの余分な部分を苦労してツメでつまんだり、ましてや千枚通しを取り出して突き刺してこじ開ける必要はない。ハウスやヱスビーがこの仕組みを知らないとは思えない。この方式でコストが跳ね上がるとも考えづらい。どうして採用しないかな。
ちなみにシールを1〜2ミリ余分に被せるという、まったく役に立たない気配りはメーカーのホームページによれば、あれでも改良型だそうである。ホームページでは「お客様の声を生かして」改良したことになっている。おそらく改良した(とメーカーが信じている)結果の評価は尋ねていないのに違いない。
アメリカ人が作った商品のほうが細かい気配りがあるなんて、ちょっと意外。でも実際にアメリカ式のほうが100倍はがしやすい。日本式は、特に視力が落ちて手先もうまく動かせなくなった高齢者には拷問だろう。誰かハウスかヱスビーに知り合いがいたら伝えといて。
2014年01月16日
コートをダウンでパワーアップ
今年一番の寒気が襲来とのことで、昨日の東京は最低気温2度、最高気温4度。日差しのあるなしと風の強さによっても違うけれど、まあ5度を下回るとやっぱり寒いね。今日からは少し寒さがゆるむらしいが。
話はそれるが、以前から気象庁並びに気象関連業界に「気温だけではなく、日照、風、湿度などを総合した体感気温の予報を出すべし」と主張している。海外では普通にやっているのになぜ日本はないのか不思議。特に夏は雲と風のあるなしで暑さはまったく違ってくる。まあ主張しているといっても、このブログで何回か書いた程度だから効果ないか。
さて、今年の冬は寒い。
が、私は家でも外でもけっこう平気なのである。
家の中で平気なのは、もちろん先日書いたダウンパンツを買ったから。暖房を付けている時間はごくわずかで済んでいる。ダウンパンツ生活はまたいずれ書くとして、本日は外でも平気な話し。
この冬は寒くなるのが早かった。11月の中頃にコートを着て、こんなに早くコートを着たのは初めてかもしれないと思ったことを覚えている。その時に着たコートは、以前に失敗談を書いた「胴体しかインナーがなく腕が寒いコート」である。まだ冬の寒さではなかったので、防寒性の低いそのコートがちょうどよかった。
ところが現在も、主にそのコートを着ている。そのコートは薄いウールのインナーがついているだけなのに、この寒さでも平気なのはなぜか。
インナーが暖かくないなら
暖かいものに換えてしまえホトトギス
ユニクロの極薄ダウンジャケットの話を以前に書いたが、現在はそのコート版も売っている。それをインナーとして使うことにした。
写真で見るとかなり大きくてモコモコした印象だが、実際にはかなり薄いダウンでインナーに最適。だいたいユニクロに限らずの極薄ダウン(ユニクロの正式名はウルトラ・ライトダウン)は生地が薄くてダウンも少ないからアウター向けの商品じゃない。防寒の基本は一番外側に風を通さないものを着て、その下に空気を蓄える=自分の体温でその空気を暖めるダウンとかセーターを着るのが基本。だからダウンコートの上に、まともな生地のコートを重ね着するのは極めて理にかなっているのだ。
それでこの極薄ダウンコート+寒かった普通のコートの組み合わせ結果は?
暖かくて思わず笑みがこぼれる
早く氷点下の日が来ないかと思うくらい(^^ゞ
重さはまったく感じない。とても薄いダウンだからシルエットへの影響もなし。
ただし難点が3つ。
1)
取り外しのできないフードがついている。
女性用はフードなしのタイプもあるのに男性用はすべてフード付き。私はフードをコートのエリで隠すように着ている。自分では見えないが背中あたりがそれで膨らむことはない(と思う)。上に着るコートのデザインによってはフードを外に垂らすのもアリかもしれない。
2)
インナーのダウンコートのジッパーを上げて、上に着るコートのボタンを留めるという二度手間が必要である。
これは慣れたら全然気にならなくなる。少し暑い時はジッパーを閉めないで温度調節をすることもできる。
3)
インナーのダウンコートとアウターのコートがつながっていない。
たぶん一番疑問に思うのはこの点だろう。一緒に着たり脱いだりできるのかと。答えはイエスでもありノーでもある。少し丁寧に脱げば意外と2つのコートはバラバラにならない。それにかかる余分な時間はたぶん3秒とか5秒だから別に気にならない。でもたまにうまく脱げない時もある。ふたつ合わせて上手に脱げた状態なら着るほうはまったく問題ない。
「胴体しかインナーがなく腕が寒いコート」のエントリーでも書いたが、カジュアルなショートコートで、ダウンのインナーがついているものはいくらでもある。しかし、もう少し丈が長くてオーソドックスなコートで、暖かいインナーのものってほとんどないのである。ビジネスでオーソドックスなコートを着る人だってオフにはダウンジャケットも着る。つまり、あの暖かさと軽さを知っている。ウールのコートをいくら分厚くしたってダウンの暖かさにはならない。それに仮にカシミアを使ったってそんなコートじゃ重すぎる。アパレル業界はオーソドックスなコートは、オーソドックスな造りで寒くて当たり前とでも思っているのかな?
とりあえずこの冬はダウンコートをインナーにして使い倒すつもり。しばらく着ていなかったトレンチコートも復活させようと思っている。
話はそれるが、以前から気象庁並びに気象関連業界に「気温だけではなく、日照、風、湿度などを総合した体感気温の予報を出すべし」と主張している。海外では普通にやっているのになぜ日本はないのか不思議。特に夏は雲と風のあるなしで暑さはまったく違ってくる。まあ主張しているといっても、このブログで何回か書いた程度だから効果ないか。
さて、今年の冬は寒い。
が、私は家でも外でもけっこう平気なのである。
家の中で平気なのは、もちろん先日書いたダウンパンツを買ったから。暖房を付けている時間はごくわずかで済んでいる。ダウンパンツ生活はまたいずれ書くとして、本日は外でも平気な話し。
この冬は寒くなるのが早かった。11月の中頃にコートを着て、こんなに早くコートを着たのは初めてかもしれないと思ったことを覚えている。その時に着たコートは、以前に失敗談を書いた「胴体しかインナーがなく腕が寒いコート」である。まだ冬の寒さではなかったので、防寒性の低いそのコートがちょうどよかった。
ところが現在も、主にそのコートを着ている。そのコートは薄いウールのインナーがついているだけなのに、この寒さでも平気なのはなぜか。
インナーが暖かくないなら
暖かいものに換えてしまえホトトギス
ユニクロの極薄ダウンジャケットの話を以前に書いたが、現在はそのコート版も売っている。それをインナーとして使うことにした。
写真で見るとかなり大きくてモコモコした印象だが、実際にはかなり薄いダウンでインナーに最適。だいたいユニクロに限らずの極薄ダウン(ユニクロの正式名はウルトラ・ライトダウン)は生地が薄くてダウンも少ないからアウター向けの商品じゃない。防寒の基本は一番外側に風を通さないものを着て、その下に空気を蓄える=自分の体温でその空気を暖めるダウンとかセーターを着るのが基本。だからダウンコートの上に、まともな生地のコートを重ね着するのは極めて理にかなっているのだ。
それでこの極薄ダウンコート+寒かった普通のコートの組み合わせ結果は?
暖かくて思わず笑みがこぼれる
早く氷点下の日が来ないかと思うくらい(^^ゞ
重さはまったく感じない。とても薄いダウンだからシルエットへの影響もなし。
ただし難点が3つ。
1)
取り外しのできないフードがついている。
女性用はフードなしのタイプもあるのに男性用はすべてフード付き。私はフードをコートのエリで隠すように着ている。自分では見えないが背中あたりがそれで膨らむことはない(と思う)。上に着るコートのデザインによってはフードを外に垂らすのもアリかもしれない。
2)
インナーのダウンコートのジッパーを上げて、上に着るコートのボタンを留めるという二度手間が必要である。
これは慣れたら全然気にならなくなる。少し暑い時はジッパーを閉めないで温度調節をすることもできる。
3)
インナーのダウンコートとアウターのコートがつながっていない。
たぶん一番疑問に思うのはこの点だろう。一緒に着たり脱いだりできるのかと。答えはイエスでもありノーでもある。少し丁寧に脱げば意外と2つのコートはバラバラにならない。それにかかる余分な時間はたぶん3秒とか5秒だから別に気にならない。でもたまにうまく脱げない時もある。ふたつ合わせて上手に脱げた状態なら着るほうはまったく問題ない。
「胴体しかインナーがなく腕が寒いコート」のエントリーでも書いたが、カジュアルなショートコートで、ダウンのインナーがついているものはいくらでもある。しかし、もう少し丈が長くてオーソドックスなコートで、暖かいインナーのものってほとんどないのである。ビジネスでオーソドックスなコートを着る人だってオフにはダウンジャケットも着る。つまり、あの暖かさと軽さを知っている。ウールのコートをいくら分厚くしたってダウンの暖かさにはならない。それに仮にカシミアを使ったってそんなコートじゃ重すぎる。アパレル業界はオーソドックスなコートは、オーソドックスな造りで寒くて当たり前とでも思っているのかな?
とりあえずこの冬はダウンコートをインナーにして使い倒すつもり。しばらく着ていなかったトレンチコートも復活させようと思っている。
2014年01月14日
2014年シーズン チューリップ発芽
昨日、チューリップに水やりをするときに発芽していることに気がついた。だいたい土曜か日曜に水やりすることにしているので、前回は1月4日か5日だったはず。その時に芽は出ていなかった。いくつかは発芽して何日か経っている様子。前回と今回の水やりの中間を取って、1月8日を今シーズンの発芽日と認定。
一番小さい芽。
たぶん13日に発芽したか、あるいは水やりで表面の土が少し削れて露出したと思われる。
一番大きい芽。約2センチ。
4つ並んで発芽しているプランターも。発芽は全部で17芽。球根は130個植えたから、現在の発芽率は13%となる。
予想より発芽が早かった。
ちなみに発芽までの過去の記録。
植えた日 〜発芽日 所要日数
2014シーズン 13年12月01日〜14年01月08日 38日間
2013シーズン 12年11月25日〜13年01月26日 62日間
2012シーズン 11年12月03日〜12年02月19日 78日間
2011シーズン 10年11月21日〜10年12月19日 28日間
2012シーズンはなかなか芽が出なくて全滅かと心配したことをよく覚えている。今年と去年ではかなり日数が違うが、植えている球根の種類も違うし早いか遅いか何ともいえないところ。2011シーズンは明らかに早すぎる。この時は球根が土で隠れる程度の深さに植えていたのも影響してると思う。
ついでに開花日をブログでたどってみると、
発芽日 〜開花日 所要日数
2014シーズン 14年01月08日〜14年??月??日 ??日間
2013シーズン 13年01月26日〜13年03月20日 53日間
2012シーズン 12年02月19日〜12年04月05日 77日間
2011シーズン 10年12月19日〜11年04月02日 104日間
2011シーズンの発芽日を異常値として除外すれば、発芽日までの期間が短ければ開花も早くなると予想できるかもしれない。しかし過去2年だけのデータでは断定は無理。だいたい品種の違いを無視してデータを見ても意味がない。でも期待を込めて最初のチューリップが咲くのは、今から50日後の3月5日と予想しておこう。
とりあえず発芽して芽デタシ!
一番小さい芽。
たぶん13日に発芽したか、あるいは水やりで表面の土が少し削れて露出したと思われる。
一番大きい芽。約2センチ。
4つ並んで発芽しているプランターも。発芽は全部で17芽。球根は130個植えたから、現在の発芽率は13%となる。
予想より発芽が早かった。
ちなみに発芽までの過去の記録。
植えた日 〜発芽日 所要日数
2014シーズン 13年12月01日〜14年01月08日 38日間
2013シーズン 12年11月25日〜13年01月26日 62日間
2012シーズン 11年12月03日〜12年02月19日 78日間
2011シーズン 10年11月21日〜10年12月19日 28日間
2012シーズンはなかなか芽が出なくて全滅かと心配したことをよく覚えている。今年と去年ではかなり日数が違うが、植えている球根の種類も違うし早いか遅いか何ともいえないところ。2011シーズンは明らかに早すぎる。この時は球根が土で隠れる程度の深さに植えていたのも影響してると思う。
ついでに開花日をブログでたどってみると、
発芽日 〜開花日 所要日数
2014シーズン 14年01月08日〜14年??月??日 ??日間
2013シーズン 13年01月26日〜13年03月20日 53日間
2012シーズン 12年02月19日〜12年04月05日 77日間
2011シーズン 10年12月19日〜11年04月02日 104日間
2011シーズンの発芽日を異常値として除外すれば、発芽日までの期間が短ければ開花も早くなると予想できるかもしれない。しかし過去2年だけのデータでは断定は無理。だいたい品種の違いを無視してデータを見ても意味がない。でも期待を込めて最初のチューリップが咲くのは、今から50日後の3月5日と予想しておこう。
とりあえず発芽して芽デタシ!
2014年01月13日
浅草 正月見物
いや〜1月3日の話を引っ張って引っ張って、このエントリーでなんと8回目。これが最後で何とか松の内には収まった。
ところで松の内とは正月飾りをしておく、あるいはしておいてよい期間で、門松が飾りの代表だから松の内という。もっとも松の内がいつまでかは諸説あって、1月3日、1月7日、1月15日、1月20日と地方によっても違う。一般的にはだんだんと短くなる傾向で1月7日くらいが今は平均値かもしれない。でも成人の日(昔は1月15日だった)もあるし、なんとなくその日くらいまでは正月気分でいたいのが私の感覚。そういえば子供の頃、松の内を「幕の内!」といって正月に集まった親戚一同の前で恥をかいたっけ(^^ゞ
正月3日の浅草のメインストリート雷門通り。
5月の三社祭の時と同じく大勢の人出。
商店街も奥の方までぎっしり。
どら焼きの有名店があるらしい。
これは電気ブランというカクテルで有名な神谷バー。
創業は明治13年(1880年)で、住所は浅草1丁目1番地1号と浅草の生き字引みたいなお店。創業当時の電気ブランはアルコール度数45度とキツイお酒で、口の中がしびれたから電気ブランらしい。ブランはブランデーベースのカクテルだから。そのうち話のネタにいってみましょう。
DJポリス発見!
何をしているかというと浅草寺(なぜかアサクサデラではなくセンソウジと呼ぶ)に向かう初詣客の整理。雷門通りは東西に延びている。浅草寺に向かうには、雷門通りから仲見世という参道代わりの商店街を北に上がっていく。つまり雷門通りとは直角に交差している。浅草寺に参拝する人は多いので仲見世に入りきらない。そこで雷門通りより南側に初詣客を並ばせて、時々雷門通りの東西の往来を止めて、順番に南側に並んだ人々を仲見世に入れるという仕組み。言葉じゃわかりづらいかな? 来年初詣に来てみて(^^ゞ
雷門通りの南側には数百メートル人が並んでいた。そして仲見世に入った列もまったく進んでいない。仲見世は250メートルの長さがある。というわけで浅草寺に行くのはいったん取りやめ。
話は変わるが浅草の名物である人力車。
吾妻橋のたもとが乗り場のようになっているが、雷門通りにもたくさん人力車の客引きが出張っていて、けっこうウザイ。
別に意味はないけど、ここから写真をモノクロにしてみた。
道端であれこれ売っている。
浅草寺の西側はわりとディープな浅草エリアなので、そちらのほうに行ってみる。それと浅草寺の入り口は何カ所もあるので、仲見世を通る必要がある正面以外からも入ることができる。
浅草公会堂。
たくさんあるノボリは
浅草歌舞伎のノボリ。
浅草歌舞伎って普通の歌舞伎とは違うのか? 歌舞伎についてはほとんど何も知らない。よく考えれば普通の歌舞伎というものもわかっていない。
浅草公会堂の前には芸能人の手形があった。写真中央は美空ひばりの手形。現在296名分あって、毎年5名ほど新たに増えているらしい。
これだけはカラーじゃないと伝わらないので。
前から正月になると気になっていたこの飾りを調べてみると、餅花(もちばな)と呼ばれるものだった。昔は餅や団子で造っていたらしい。私は門松よりこの餅花が正月の華やいだイメージがあって好き。
東洋館。
昔の浅草芸人の話に必ず出てくるフランス座の現在が東洋館である。以前はストリップ劇場と演芸ホールの2つが入っていた。渥美清、コント55号、ビートたけしなどがフランス座出身として有名。2000年にストリップ劇場を閉鎖し、現在は演芸ホールだけの営業。
ロック座。
有名なストリップ劇場。ストリップ業界で最大手とのこと。創業は1947年(昭和22年)だから、終戦2年後に開業したことになる。それは驚かないが名前のロックって音楽のロック? それとも単に岩? 昭和22年にロックという音楽は生まれていなかったし、ストリップに岩じゃおかしいし。と思って調べてみたら、当時このあたりは浅草六区という地名だったらしい。隣はパチンコ店でロック座の入り口は以外と小さかった。入ってないよ(^^ゞ
ジャグリング。
いわば西洋風お手玉。ボールじゃなくて、このボーリングのピンみたいなものはクラブと呼ばれる。この2人はあまり上手じゃなかった。
このあたりは軒先を伸ばしてビニールシートを垂らした飲み屋がたくさんある。家賃ゼロで客席を増やすアイデア。道路の不法占拠だと思うけどなあ。
浅草のあちこちの通りには名前がついている。とはいうものの浅草の地理に詳しいわけでもなく、現在位置がどこかもわからずブラブラ歩き回っていただけ。
花やしき通り。
これは知っている。花やしきというのは浅草の小さな遊園地で、浅草寺の隣にある。だから、この通りを行けば浅草寺につくはず。
遊園地入り口と書いてあるけれど、
入ってみると土産物屋?
土産物屋の奥に入場ゲートがあった。珍しい造りだと思う
土産物屋を出て再び花やしき通りを歩くと昭和な遊戯屋さん。
お姐さん、表情に年期入ってます(^^ゞ
少し先に遊園地の普通の入り口があった。
このバラック小屋(作り物)の隙間をジェットコースターがすり抜ける。
モノクロ写真も飽きたので普通に戻す。
もっとも撮影は全部普通にカラーで、画像ソフトで色を抜いただけ。
花やしき通りをまっすぐ行くと浅草寺に西側から入れる。こちらは入るのに並ぶことはない。本堂の西裏手にある影向堂(ようごうどう)。
おみくじを買う人々。
私は占いの類にはまったく興味がない。でも仏教とも神道ともなんの関係もない占いを、神仏に関連づけて売りさばくマーケティング手法はうやまっている(^^ゞ
初詣というのは何となく神社に出かけるイメージがある。でも宗教的に特にそういう決まりはないらしい。初詣の人出ベストテンに成田山新勝寺と浅草寺はいつも名前を連ねている。逆にいえば残り8箇所は神社だから、やっぱり神社に行く人のほうが多いと思われる。
ところで正月三が日の初詣人出ランキングでは明治神宮が300万人、伏見稲荷が250万人などと言われるが、あの数字はまったくデタラメ。実際にはその1〜3割程度と思われる。例えば1日100万人も明治神宮に入らないし、100万人をあの場所に輸送することも不可能。データを見ると日本で一番乗降者数が多い新宿駅でも1日に74万人、明治神宮最寄りの原宿駅は7万人である。
初詣の人出は2009年度までは警察庁が人数を発表して、それがランキングとして報道されていたが、それ以降は取りやめになった。あれは警察が人数を調べていたのではなく、警察が各寺社に問い合わせて、それをとりまとめていたもの。もちろん各寺社はよそに負けじと適当に人数をでっち上げていただけ。警察発表として最後となった2009年で、すべての寺社の初詣客人数を合計すると9939万人!。さすがに警察もそんな数字を発表するわけにもいかなくなったんだろう。ちなみ今年は靖国神社の初詣客が例年の8倍になったというデマがネットで流れている。
これは本堂の東側面。ここと西側面は出口専用。
どういうことかというと本堂の横から正面の途中にはフェンスがあって回り込めない。つまり仲見世から辛抱強く並んだ人のみが本堂に南側から上がって、東西から降りる仕組み。もっともこれは雷門通りで並ぶのを諦めた時点で想定していた。そうじゃなければ並ぶ意味がないから。
本堂の裏手あたり。
私はお参りじゃなく、こういう風景を見たかった。
こんなに人が一杯いるのに晴れ着を着た女性は3名しか見かけなかったのが残念。京都あたりだったらもっといるのかな。
浅草寺の東側から出て雷門通り=駅の方向に向かう。この日はトータルで5〜6キロは歩いたと思う。いい運動になったが疲れた。
長かった1月3日物語もようやくオシマイ。
8回のエントリーすべてを読んでくれた人は、
今年きっといいことがあるよ(^^ゞ
ところで松の内とは正月飾りをしておく、あるいはしておいてよい期間で、門松が飾りの代表だから松の内という。もっとも松の内がいつまでかは諸説あって、1月3日、1月7日、1月15日、1月20日と地方によっても違う。一般的にはだんだんと短くなる傾向で1月7日くらいが今は平均値かもしれない。でも成人の日(昔は1月15日だった)もあるし、なんとなくその日くらいまでは正月気分でいたいのが私の感覚。そういえば子供の頃、松の内を「幕の内!」といって正月に集まった親戚一同の前で恥をかいたっけ(^^ゞ
正月3日の浅草のメインストリート雷門通り。
5月の三社祭の時と同じく大勢の人出。
商店街も奥の方までぎっしり。
どら焼きの有名店があるらしい。
これは電気ブランというカクテルで有名な神谷バー。
創業は明治13年(1880年)で、住所は浅草1丁目1番地1号と浅草の生き字引みたいなお店。創業当時の電気ブランはアルコール度数45度とキツイお酒で、口の中がしびれたから電気ブランらしい。ブランはブランデーベースのカクテルだから。そのうち話のネタにいってみましょう。
DJポリス発見!
何をしているかというと浅草寺(なぜかアサクサデラではなくセンソウジと呼ぶ)に向かう初詣客の整理。雷門通りは東西に延びている。浅草寺に向かうには、雷門通りから仲見世という参道代わりの商店街を北に上がっていく。つまり雷門通りとは直角に交差している。浅草寺に参拝する人は多いので仲見世に入りきらない。そこで雷門通りより南側に初詣客を並ばせて、時々雷門通りの東西の往来を止めて、順番に南側に並んだ人々を仲見世に入れるという仕組み。言葉じゃわかりづらいかな? 来年初詣に来てみて(^^ゞ
雷門通りの南側には数百メートル人が並んでいた。そして仲見世に入った列もまったく進んでいない。仲見世は250メートルの長さがある。というわけで浅草寺に行くのはいったん取りやめ。
話は変わるが浅草の名物である人力車。
吾妻橋のたもとが乗り場のようになっているが、雷門通りにもたくさん人力車の客引きが出張っていて、けっこうウザイ。
別に意味はないけど、ここから写真をモノクロにしてみた。
道端であれこれ売っている。
浅草寺の西側はわりとディープな浅草エリアなので、そちらのほうに行ってみる。それと浅草寺の入り口は何カ所もあるので、仲見世を通る必要がある正面以外からも入ることができる。
浅草公会堂。
たくさんあるノボリは
浅草歌舞伎のノボリ。
浅草歌舞伎って普通の歌舞伎とは違うのか? 歌舞伎についてはほとんど何も知らない。よく考えれば普通の歌舞伎というものもわかっていない。
浅草公会堂の前には芸能人の手形があった。写真中央は美空ひばりの手形。現在296名分あって、毎年5名ほど新たに増えているらしい。
これだけはカラーじゃないと伝わらないので。
前から正月になると気になっていたこの飾りを調べてみると、餅花(もちばな)と呼ばれるものだった。昔は餅や団子で造っていたらしい。私は門松よりこの餅花が正月の華やいだイメージがあって好き。
東洋館。
昔の浅草芸人の話に必ず出てくるフランス座の現在が東洋館である。以前はストリップ劇場と演芸ホールの2つが入っていた。渥美清、コント55号、ビートたけしなどがフランス座出身として有名。2000年にストリップ劇場を閉鎖し、現在は演芸ホールだけの営業。
ロック座。
有名なストリップ劇場。ストリップ業界で最大手とのこと。創業は1947年(昭和22年)だから、終戦2年後に開業したことになる。それは驚かないが名前のロックって音楽のロック? それとも単に岩? 昭和22年にロックという音楽は生まれていなかったし、ストリップに岩じゃおかしいし。と思って調べてみたら、当時このあたりは浅草六区という地名だったらしい。隣はパチンコ店でロック座の入り口は以外と小さかった。入ってないよ(^^ゞ
ジャグリング。
いわば西洋風お手玉。ボールじゃなくて、このボーリングのピンみたいなものはクラブと呼ばれる。この2人はあまり上手じゃなかった。
このあたりは軒先を伸ばしてビニールシートを垂らした飲み屋がたくさんある。家賃ゼロで客席を増やすアイデア。道路の不法占拠だと思うけどなあ。
浅草のあちこちの通りには名前がついている。とはいうものの浅草の地理に詳しいわけでもなく、現在位置がどこかもわからずブラブラ歩き回っていただけ。
花やしき通り。
これは知っている。花やしきというのは浅草の小さな遊園地で、浅草寺の隣にある。だから、この通りを行けば浅草寺につくはず。
遊園地入り口と書いてあるけれど、
入ってみると土産物屋?
土産物屋の奥に入場ゲートがあった。珍しい造りだと思う
土産物屋を出て再び花やしき通りを歩くと昭和な遊戯屋さん。
お姐さん、表情に年期入ってます(^^ゞ
少し先に遊園地の普通の入り口があった。
このバラック小屋(作り物)の隙間をジェットコースターがすり抜ける。
モノクロ写真も飽きたので普通に戻す。
もっとも撮影は全部普通にカラーで、画像ソフトで色を抜いただけ。
花やしき通りをまっすぐ行くと浅草寺に西側から入れる。こちらは入るのに並ぶことはない。本堂の西裏手にある影向堂(ようごうどう)。
おみくじを買う人々。
私は占いの類にはまったく興味がない。でも仏教とも神道ともなんの関係もない占いを、神仏に関連づけて売りさばくマーケティング手法はうやまっている(^^ゞ
初詣というのは何となく神社に出かけるイメージがある。でも宗教的に特にそういう決まりはないらしい。初詣の人出ベストテンに成田山新勝寺と浅草寺はいつも名前を連ねている。逆にいえば残り8箇所は神社だから、やっぱり神社に行く人のほうが多いと思われる。
ところで正月三が日の初詣人出ランキングでは明治神宮が300万人、伏見稲荷が250万人などと言われるが、あの数字はまったくデタラメ。実際にはその1〜3割程度と思われる。例えば1日100万人も明治神宮に入らないし、100万人をあの場所に輸送することも不可能。データを見ると日本で一番乗降者数が多い新宿駅でも1日に74万人、明治神宮最寄りの原宿駅は7万人である。
初詣の人出は2009年度までは警察庁が人数を発表して、それがランキングとして報道されていたが、それ以降は取りやめになった。あれは警察が人数を調べていたのではなく、警察が各寺社に問い合わせて、それをとりまとめていたもの。もちろん各寺社はよそに負けじと適当に人数をでっち上げていただけ。警察発表として最後となった2009年で、すべての寺社の初詣客人数を合計すると9939万人!。さすがに警察もそんな数字を発表するわけにもいかなくなったんだろう。ちなみ今年は靖国神社の初詣客が例年の8倍になったというデマがネットで流れている。
これは本堂の東側面。ここと西側面は出口専用。
どういうことかというと本堂の横から正面の途中にはフェンスがあって回り込めない。つまり仲見世から辛抱強く並んだ人のみが本堂に南側から上がって、東西から降りる仕組み。もっともこれは雷門通りで並ぶのを諦めた時点で想定していた。そうじゃなければ並ぶ意味がないから。
本堂の裏手あたり。
私はお参りじゃなく、こういう風景を見たかった。
こんなに人が一杯いるのに晴れ着を着た女性は3名しか見かけなかったのが残念。京都あたりだったらもっといるのかな。
浅草寺の東側から出て雷門通り=駅の方向に向かう。この日はトータルで5〜6キロは歩いたと思う。いい運動になったが疲れた。
長かった1月3日物語もようやくオシマイ。
8回のエントリーすべてを読んでくれた人は、
今年きっといいことがあるよ(^^ゞ
2014年01月12日
旧安田庭園〜隅田川〜浅草へ
江戸東京博物館で大浮世絵展と予定にはなかった常設展示を見た後は、隅田川沿いを歩いて浅草まで行った。浅草のお正月はどんな感じか興味があったのと、博物館のある両国から浅草までは3キロほど離れていて散歩にはちょうどよい距離。
両国駅のロータリーにあった看板。
3600円で「家族みんな」で観戦できそうに読めるがそうではない。実は上の行と下の行が独立しているまぎらわしい表現。料金表を調べてみると3600円というのは一番安い指定席の料金(大人1人分。自由席なら2100円)。4人家族分の席は15000円。あるいは3600円の席を子供も使えば14400円。私も最初は3600円で家族で見られるのなら安いと思った。どう考えても誤解を招く看板である。誰かJAROに通報して。
国技館を正面から。この日は休みだったので門の柵にカメラのレンズを突っ込んで撮影。だからアップでもなければ全景でもない中途半端な構図。ちなみに国技館は両国駅の北側に隣接している。
国技館の隣に人が出入りしている門があった。寺かと思ったら旧安田庭園の看板。無料だったので入ってみる。
いわゆる江戸時代に大名が造った大名庭園とよばれるもの。後楽園とか水戸の偕楽園なども大名庭園である。明治になって安田財閥に買い取られた。安田財閥とは今のみずほグループや東京海上などの前身。社名で安田が残っているのは明治安田生命くらいかな。この庭園の歴史に興味があったら写真をクリックで読んでください。
敷地の半分くらいは池が占めている印象。
小さな太鼓橋の上から。
橋の欄干でよく見かけるこのタマネギみたいなものは擬宝珠(ぎぼし)。擬宝珠がついている橋は格が高いとされる。庭や寺の中にあるような橋を除いて、江戸時代に擬宝珠がついていた橋は、江戸城の堀を渡る橋以外には日本橋、京橋、新橋の3つしかなかった。
ユリカモメが泳いでいる。
カモメって、こんな風に羽を広げて飛んでいるイメージが強いが
ふっくらとした姿で意外と可愛い鳥である。
ユリカモメは普通のカモメより少し小さい。子供の頃と成鳥になってからは違うらしいが、基本的に形や羽根の色は同じで
カモメ:くちばしと足が黄色
ユリカモメ:くちばしと足が赤
東京の沿岸部で見るのはほとんどユリカモメ。でも地方の海岸だとカモメとユリカモメが一緒に群れになっていることも多い。
鴨もいた。
池や川で鴨を見かけることはわりと多い。その度に「これは食えるのか?」と思ってしまうのはおかしい?
ところで鴨肉として売られているものの99%は実はアヒルの肉である。マガモを家畜化したものがアヒル。そしてなぜかマガモとアヒルを再び掛け合わせて、それがアイガモ。アヒルもアイガモも、もとはマガモなのでこれは食品偽装ではないらしい。でも食品偽装でビビッている阪急ホテルのレストランで鴨ローストでも注文して「これは本物の鴨か? アヒルではないのか」とごねたらタダになるカモよ(^^ゞ
去年、金沢でたくさん見た雪吊り。
ただし都内で必要なのか? なぜこの3本だけ?という疑問も湧く。
まっ、日本庭園的冬イメージの演出かな。
公園に面して建っていたレトロな建物。
その建物と雪吊りとスカイツリーのスリーショット。
旧安田庭園は広さ約1.5ヘクタール。坪でいうなら4500坪。それほど広くないし、造園的なレベルも高くない。遠くからわざわざ見に来る価値はないけれど、自宅近くにこんな無料庭園があることは両国の人がうらやましい。この庭園は安田財閥から寄贈されて現在は墨田区の所有。
旧安田庭園を離れて浅草に向かう。
あのレトロな建物は両国公会堂だった。大正15年(1926年)の竣工で現在は老朽化のため閉鎖されている。これも安田財閥が建てて東京都に寄付したらしい。暴力団に自動車ローンを組んでいるみずほ銀行とは大違い(^^ゞ
隅田川の堤防の内側に入る。
国技館も、その並びの旧安田庭園も隅田川に面している。
水上バスが係留されていた。
隅田川では水上バスがひっきりなしに行き来している。
壁に描かれた浮世絵。
ついさっきまで本物の浮世絵を見てきたばかりだけれど。
隅田川は東京の川の代名詞のようにいわれているが、東京都北区で荒川から分岐して東京湾に注ぐ全長25キロほどの短い川である。およそ1キロ毎に電車や高速道路も含めて何らかの橋が架かっており橋が多い川で有名。そのうち人が歩ける橋は18橋で隅田川橋梁群と呼ばれている。
蔵前橋。
工事中じゃなくて、もともとこんな色に塗られている、
橋の下も黄色。
欄干に透かし彫り的な模様。
堤防沿いの欄干にも模様があるのだが、デザインはこの船と相撲の2種類のみ。この組み合わせが延々続く。もう少しバリエーションを増やせばいいのに。
ブルーシートハウス群。
10個(宅?)位あった。中にはアウトドア用のテントをそのまま使っている人も。人がいるかどうかは確かめなかった。
あっぱれな創意工夫!
潮位の記録。
伊勢湾台風とは犠牲者5000名以上と史上最大の人的被害をもたらした台風。伊勢湾からかなり離れている隅田川でもすごかったのね。
屋形船が係留されていた。
後ろに見えるのは厩橋(うまやばし)。
残念ながら今まで屋形船には乗ったことがない。ランチコースというのもあるみたい。夜の部は飲み放題で10500円と13650円。もっと高いものだと思っていた。
堤防の内側は自転車禁止。この日は正月三日なのでジョギングしている人も数名しか見かけなかった。
駒形橋を過ぎて
吾妻橋(あずまばし)が見えてきた。
橋を左方向へ渡ったら浅草のメインストリートの雷門通り。
吾妻橋の手前で堤防の内側から道路に出る。
アサヒビールのウンコが目の前に。
正式名称はスーパードライホール。一般にはウンコビルとしか呼ばれない(^^ゞ 設計はフィリップ・スタルクというフランス人。友人S君の奥さんは昔、日本側でこのデザインに関わっており、まさかこのデザインが採用されるとは思ってもみなかったそうだ。
吾妻橋の上。
橋を東側に渡っていく人も多い。スカイツリーに行くのかな。
未来的な形の水上バス。
橋の上から歩いてきた方向を眺める。
橋のたもとからはスカイツリーがよく見える。
スカイツリーとウンコビルに挟まれているのはアサヒビールタワー。上部はビールの泡をイメージしたデザイン。
この後に浅草見物。
ーーー続く
両国駅のロータリーにあった看板。
3600円で「家族みんな」で観戦できそうに読めるがそうではない。実は上の行と下の行が独立しているまぎらわしい表現。料金表を調べてみると3600円というのは一番安い指定席の料金(大人1人分。自由席なら2100円)。4人家族分の席は15000円。あるいは3600円の席を子供も使えば14400円。私も最初は3600円で家族で見られるのなら安いと思った。どう考えても誤解を招く看板である。誰かJAROに通報して。
国技館を正面から。この日は休みだったので門の柵にカメラのレンズを突っ込んで撮影。だからアップでもなければ全景でもない中途半端な構図。ちなみに国技館は両国駅の北側に隣接している。
国技館の隣に人が出入りしている門があった。寺かと思ったら旧安田庭園の看板。無料だったので入ってみる。
いわゆる江戸時代に大名が造った大名庭園とよばれるもの。後楽園とか水戸の偕楽園なども大名庭園である。明治になって安田財閥に買い取られた。安田財閥とは今のみずほグループや東京海上などの前身。社名で安田が残っているのは明治安田生命くらいかな。この庭園の歴史に興味があったら写真をクリックで読んでください。
敷地の半分くらいは池が占めている印象。
小さな太鼓橋の上から。
橋の欄干でよく見かけるこのタマネギみたいなものは擬宝珠(ぎぼし)。擬宝珠がついている橋は格が高いとされる。庭や寺の中にあるような橋を除いて、江戸時代に擬宝珠がついていた橋は、江戸城の堀を渡る橋以外には日本橋、京橋、新橋の3つしかなかった。
ユリカモメが泳いでいる。
カモメって、こんな風に羽を広げて飛んでいるイメージが強いが
ふっくらとした姿で意外と可愛い鳥である。
ユリカモメは普通のカモメより少し小さい。子供の頃と成鳥になってからは違うらしいが、基本的に形や羽根の色は同じで
カモメ:くちばしと足が黄色
ユリカモメ:くちばしと足が赤
東京の沿岸部で見るのはほとんどユリカモメ。でも地方の海岸だとカモメとユリカモメが一緒に群れになっていることも多い。
鴨もいた。
池や川で鴨を見かけることはわりと多い。その度に「これは食えるのか?」と思ってしまうのはおかしい?
ところで鴨肉として売られているものの99%は実はアヒルの肉である。マガモを家畜化したものがアヒル。そしてなぜかマガモとアヒルを再び掛け合わせて、それがアイガモ。アヒルもアイガモも、もとはマガモなのでこれは食品偽装ではないらしい。でも食品偽装でビビッている阪急ホテルのレストランで鴨ローストでも注文して「これは本物の鴨か? アヒルではないのか」とごねたらタダになるカモよ(^^ゞ
去年、金沢でたくさん見た雪吊り。
ただし都内で必要なのか? なぜこの3本だけ?という疑問も湧く。
まっ、日本庭園的冬イメージの演出かな。
公園に面して建っていたレトロな建物。
その建物と雪吊りとスカイツリーのスリーショット。
旧安田庭園は広さ約1.5ヘクタール。坪でいうなら4500坪。それほど広くないし、造園的なレベルも高くない。遠くからわざわざ見に来る価値はないけれど、自宅近くにこんな無料庭園があることは両国の人がうらやましい。この庭園は安田財閥から寄贈されて現在は墨田区の所有。
旧安田庭園を離れて浅草に向かう。
あのレトロな建物は両国公会堂だった。大正15年(1926年)の竣工で現在は老朽化のため閉鎖されている。これも安田財閥が建てて東京都に寄付したらしい。暴力団に自動車ローンを組んでいるみずほ銀行とは大違い(^^ゞ
隅田川の堤防の内側に入る。
国技館も、その並びの旧安田庭園も隅田川に面している。
水上バスが係留されていた。
隅田川では水上バスがひっきりなしに行き来している。
壁に描かれた浮世絵。
ついさっきまで本物の浮世絵を見てきたばかりだけれど。
隅田川は東京の川の代名詞のようにいわれているが、東京都北区で荒川から分岐して東京湾に注ぐ全長25キロほどの短い川である。およそ1キロ毎に電車や高速道路も含めて何らかの橋が架かっており橋が多い川で有名。そのうち人が歩ける橋は18橋で隅田川橋梁群と呼ばれている。
蔵前橋。
工事中じゃなくて、もともとこんな色に塗られている、
橋の下も黄色。
欄干に透かし彫り的な模様。
堤防沿いの欄干にも模様があるのだが、デザインはこの船と相撲の2種類のみ。この組み合わせが延々続く。もう少しバリエーションを増やせばいいのに。
ブルーシートハウス群。
10個(宅?)位あった。中にはアウトドア用のテントをそのまま使っている人も。人がいるかどうかは確かめなかった。
あっぱれな創意工夫!
潮位の記録。
伊勢湾台風とは犠牲者5000名以上と史上最大の人的被害をもたらした台風。伊勢湾からかなり離れている隅田川でもすごかったのね。
屋形船が係留されていた。
後ろに見えるのは厩橋(うまやばし)。
残念ながら今まで屋形船には乗ったことがない。ランチコースというのもあるみたい。夜の部は飲み放題で10500円と13650円。もっと高いものだと思っていた。
堤防の内側は自転車禁止。この日は正月三日なのでジョギングしている人も数名しか見かけなかった。
駒形橋を過ぎて
吾妻橋(あずまばし)が見えてきた。
橋を左方向へ渡ったら浅草のメインストリートの雷門通り。
吾妻橋の手前で堤防の内側から道路に出る。
アサヒビールのウンコが目の前に。
正式名称はスーパードライホール。一般にはウンコビルとしか呼ばれない(^^ゞ 設計はフィリップ・スタルクというフランス人。友人S君の奥さんは昔、日本側でこのデザインに関わっており、まさかこのデザインが採用されるとは思ってもみなかったそうだ。
吾妻橋の上。
橋を東側に渡っていく人も多い。スカイツリーに行くのかな。
未来的な形の水上バス。
橋の上から歩いてきた方向を眺める。
橋のたもとからはスカイツリーがよく見える。
スカイツリーとウンコビルに挟まれているのはアサヒビールタワー。上部はビールの泡をイメージしたデザイン。
この後に浅草見物。
ーーー続く
2014年01月10日
江戸東京博物館 常設展示
前回書いた、ちょっと得したというのはーーーこの日(1月3日)は普段なら600円の常設展示が無料開放されていたこと。というわけで1階で大浮世絵展を見た後は6階の展示会場に上がる。
会場に入ってすぐのところにあった日本橋。
幅は江戸時代と同じで、長さは半分だけ復元されている。
日本橋は今でも東京と大阪の両方にある。しかし東京にあるのは「にほんばし」で、大阪は「にっぽんばし」となぜか呼び方が違う。その大阪では浪速区日本橋と中央区日本橋があって、この2つの地区はつながっている。つまり隣接する区で同じ町の名前を使っている。大阪で橋が架かっているのは中央区だけど、エリアとしてメジャーなのは浪速区のほうかな。東京の秋葉原みたいなところ。
日本橋の上から人々が眺めているのは、
からくり人形の実演。
江戸の町のジオラマがあった。スケールは1/30。
ジオラマとはフランス語で、訳すなら風景模型といったところ。
建物の模型はフ〜ンといった印象であったが、
人々はものすごく細かに作り込まれていた。
商店の裏側にかなり広い庭を持っていたようだ。俗に言う「ウナギの寝床」というのは京都の町屋(まちや)の造りだと習った気がするが、江戸でもそうだったみたい。
江戸の品々あれこれ。
参勤交代の時に大名が乗った駕籠(かご)
ちなみに庶民のはこんな感じだったみたい。
地図
屏風
巻物
家康
日本刀
当時の新聞のようなものを掛け軸にしたものか?
大名家の婚礼の時に使われたらしい豪華な駕籠。まさに贅を尽くしたという表現がふさわしい。駕籠内部にも蒔絵が施されている。後ろに写っているのは江戸城のシャチホコ。
観光地にあるようなものは別として駕籠を見たのは初めてだと思う。時代劇で見慣れているとはいえ、やはり本物を見ると実感が違う。写真は撮らなかったが、その他にも興味深いものが多数。
常設展示場は日本橋が造ってあるあたりが吹き抜けで、その他ではフロアが上下に分かれている。上のフロアが江戸時代で、下のフロアが明治以降。
新聞社の建物を模したか再現したもの。
写真だとジオラマのように見えるが写っているのは本物の人です。
初めて実物を見たダルマ自転車。
どんな乗り心地なのか一度漕いでみたい。
ジオラマで明治時代の銀座。
こちらは人はもちろん建物もおもしろかった。江戸時代の建物がつまらなかったのはジオラマのせいじゃなく、建物自体が地味だったせいかもしれない。
凌雲閣(りょううんかく)。
浅草にあった12階建ての観光用タワー。当時は度肝を抜くような高さだったに違いない。スゲーッという感覚は今のスカイツリーの比じゃなかったはず。竣工は1890年(明治23年)で、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊した。
電気館とは映画館のこと。
日本最初の公衆電話ボックスらしい。
子供と一緒に列に並ぶのは恥ずかしかったので、電話機には触れられず。
円タク。
大正末期から昭和初期に、東京市内(今の23区)を1円均一料金で乗れたタクシー。当時の1円は今の貨幣価値で2000〜3000円程度。車種はA型フォード。世界初の量産車種として有名なT型フォードの次のモデルにあたる。
当時の信号機らしい。
柱の途中にあるレバーで表示を切り替えるみたい。
これは戦後の街頭テレビ。
放送されているのはもちろんプロレス!
常設展示はなかなかおもしろかった。江戸時代から終戦後あたりまでの歴史を改めて知ることができる。なんといってもジオラマも含めて現物で見られるのはインパクトがある。この日は無料だったが600円なら払う価値は充分にあるといえる。写真で紹介したのは全体のごくわずか。正月だし無料だからかなり混雑していた。いずれ閑そうな頃を狙ってまた訪れてみたいと思っている。
常設展示が無料だったのは当日に着いてから初めて知った。それで得した気分なのであるが、実は同時に損もしたのである。帰ってきてから気付いたのは、なんと江戸東京博物館では現在、3つ前のエントリーで紹介した歌川広重の東海道五十三次の展示会も開催してたのだ。しかも、それは常設展示とセット料金。つまりこの日はタダで見られたのに、そちらに行かなかったのである。
なぜ行かなかったかというと、知らなかったから。
確かに館内の何カ所かで東海道五十三次の展示会の案内は見かけた。でも、でも、まさか大浮世絵展と同じ時期に歌川広重の展示会をやっているとは夢にも思わず「ふ〜ん、大浮世絵展の次は歌川広重の単独展なんだ」と思い込んでしまったのである(/o\)
同時開催中と目立つ字で書いておいてくれればいいのに。
アーッ損した!
ーーー1月3日の話はまだ続く
会場に入ってすぐのところにあった日本橋。
幅は江戸時代と同じで、長さは半分だけ復元されている。
日本橋は今でも東京と大阪の両方にある。しかし東京にあるのは「にほんばし」で、大阪は「にっぽんばし」となぜか呼び方が違う。その大阪では浪速区日本橋と中央区日本橋があって、この2つの地区はつながっている。つまり隣接する区で同じ町の名前を使っている。大阪で橋が架かっているのは中央区だけど、エリアとしてメジャーなのは浪速区のほうかな。東京の秋葉原みたいなところ。
日本橋の上から人々が眺めているのは、
からくり人形の実演。
江戸の町のジオラマがあった。スケールは1/30。
ジオラマとはフランス語で、訳すなら風景模型といったところ。
建物の模型はフ〜ンといった印象であったが、
人々はものすごく細かに作り込まれていた。
商店の裏側にかなり広い庭を持っていたようだ。俗に言う「ウナギの寝床」というのは京都の町屋(まちや)の造りだと習った気がするが、江戸でもそうだったみたい。
江戸の品々あれこれ。
参勤交代の時に大名が乗った駕籠(かご)
ちなみに庶民のはこんな感じだったみたい。
地図
屏風
巻物
家康
日本刀
当時の新聞のようなものを掛け軸にしたものか?
大名家の婚礼の時に使われたらしい豪華な駕籠。まさに贅を尽くしたという表現がふさわしい。駕籠内部にも蒔絵が施されている。後ろに写っているのは江戸城のシャチホコ。
観光地にあるようなものは別として駕籠を見たのは初めてだと思う。時代劇で見慣れているとはいえ、やはり本物を見ると実感が違う。写真は撮らなかったが、その他にも興味深いものが多数。
常設展示場は日本橋が造ってあるあたりが吹き抜けで、その他ではフロアが上下に分かれている。上のフロアが江戸時代で、下のフロアが明治以降。
新聞社の建物を模したか再現したもの。
写真だとジオラマのように見えるが写っているのは本物の人です。
初めて実物を見たダルマ自転車。
どんな乗り心地なのか一度漕いでみたい。
ジオラマで明治時代の銀座。
こちらは人はもちろん建物もおもしろかった。江戸時代の建物がつまらなかったのはジオラマのせいじゃなく、建物自体が地味だったせいかもしれない。
凌雲閣(りょううんかく)。
浅草にあった12階建ての観光用タワー。当時は度肝を抜くような高さだったに違いない。スゲーッという感覚は今のスカイツリーの比じゃなかったはず。竣工は1890年(明治23年)で、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊した。
電気館とは映画館のこと。
日本最初の公衆電話ボックスらしい。
子供と一緒に列に並ぶのは恥ずかしかったので、電話機には触れられず。
円タク。
大正末期から昭和初期に、東京市内(今の23区)を1円均一料金で乗れたタクシー。当時の1円は今の貨幣価値で2000〜3000円程度。車種はA型フォード。世界初の量産車種として有名なT型フォードの次のモデルにあたる。
当時の信号機らしい。
柱の途中にあるレバーで表示を切り替えるみたい。
これは戦後の街頭テレビ。
放送されているのはもちろんプロレス!
常設展示はなかなかおもしろかった。江戸時代から終戦後あたりまでの歴史を改めて知ることができる。なんといってもジオラマも含めて現物で見られるのはインパクトがある。この日は無料だったが600円なら払う価値は充分にあるといえる。写真で紹介したのは全体のごくわずか。正月だし無料だからかなり混雑していた。いずれ閑そうな頃を狙ってまた訪れてみたいと思っている。
常設展示が無料だったのは当日に着いてから初めて知った。それで得した気分なのであるが、実は同時に損もしたのである。帰ってきてから気付いたのは、なんと江戸東京博物館では現在、3つ前のエントリーで紹介した歌川広重の東海道五十三次の展示会も開催してたのだ。しかも、それは常設展示とセット料金。つまりこの日はタダで見られたのに、そちらに行かなかったのである。
なぜ行かなかったかというと、知らなかったから。
確かに館内の何カ所かで東海道五十三次の展示会の案内は見かけた。でも、でも、まさか大浮世絵展と同じ時期に歌川広重の展示会をやっているとは夢にも思わず「ふ〜ん、大浮世絵展の次は歌川広重の単独展なんだ」と思い込んでしまったのである(/o\)
同時開催中と目立つ字で書いておいてくれればいいのに。
アーッ損した!
ーーー1月3日の話はまだ続く
2014年01月08日
大浮世絵展 番外編
江戸東京博物館の大浮世絵展はいろんなタイプの浮世絵を見られるから、教科書以外で浮世絵なんか見たことがないという人にも勧められる。ただし3つ前のエントリーで書いたように運営方法には文句もある。
<その1>
この大浮世絵展は三都市で開催される。
東京 : 1月2日〜3月2日
名古屋 : 3月11日〜5月6日
山口 : 5月16日〜7月13日
それぞれだいたい2ヶ月間の開催期間。繰り返すが、それぞれだいたい2ヶ月間の開催期間。なのにである。東京ではその2ヶ月間を1週間毎に8分割にも区切って展示作品をあれこれ入れ替える運営。
だから3つ前のエントリーで書いたように、写楽の「市川鰕蔵の竹村定之進」はこの日に見られたのに、
ビードロ(喜多川歌麿)
月に雁(歌川広重)
見返り美人(菱川師宣)
は展示されていなかったのである。それぞれ微妙に展示期間が異なり、この記念切手で有名な4つの浮世絵を全部一緒に見られる日はない。
展示会のホームページによれば「430点の作品をご覧いただく」とある。しかし私が訪れた1月3日に展示されていたのは145作品である。総作品数の3割強の作品しか私は見られなかったことになる。誇大広告も甚だしい!
もっと長い期間開催している展示会なら、作品のいくつかを入れ替えることはたまにある。それでもせいぜい前期と後期に別けて1割程度の作品が入れ替わるるくらい。2ヶ月を8分割するなんてやり過ぎである。浮世絵を貸し出す側の都合があることはわかる。しかしそれをきっちり調整するのが展示会を主催する者の仕事である。
なお名古屋と山口では入れ替えがない。名古屋の出展作品数は341点。東京の1月3日の2.4倍である。料金はどちらも1300円。カネ半分返せぇ!
※1週間毎に展示作品がすべて入れ替わるという意味ではない。詳しく知りた
い人はここからどうぞ。
※入れ替えがないのに、名古屋の出展数が430点でないのは名古屋で出展され
ない作品があるから。
※ひょっとしたら名古屋と山口でも会期が分割されるのかもしれないが、とり
あえず東京会場向けの出展リスト(上でリンクしたものと同じ)では両地域の
会期分割のことは書いていない。
<その2>
一番最初のエントリーに書いたように私が江戸東京博物館についた時、チケット売り場では10人ほどしか並んでいなかった。しかし館内に入ると、どこからやってきたの?と思うほどの人出。展示会場もかなり混んでいた。まあお正月だからね。
普通の展示会では作品に近づかないよう、作品から1メートルくらいのところにロープなどが張ってある。でもこの大浮世絵展ではそういう規制はなし。するとどうなるか。ほとんどの人は思いっきり作品に近づいて見ようとする。舌を出せば浮世絵を舐められるんじゃないというくらいカブリツキの人もいる。するとどうなるか。私のように列に並ばない者にとってはとても見にくい。ほとんどの浮世絵はサイズも小さい(B4サイズくらい)からなおさらである。決して強引な割り込みはしないものの、列が途切れたところを狙って作品に接近するのに普段よりかなり手間がかかった。
そういえば初めて浮世絵の展示会を見た山種美術館でも同じような展示方法だった。浮世絵ではそういうやり方が普通なのかな? でも展示会トータルで鑑賞の効率は悪くなる、つまり余計に混雑する。それにあまりにカブリツキだと不測の事故も起きる可能性が高まる。私は作品への接近に対する規制はあったほうがいいと思うのだが。
浮世絵は素晴らしかったものの江戸東京博物館の運営はイマイチであった。でも、このあとちょっと得したことがあったから今回は大目に見てあげよう。
ーーーそれは次回に。
<その1>
この大浮世絵展は三都市で開催される。
東京 : 1月2日〜3月2日
名古屋 : 3月11日〜5月6日
山口 : 5月16日〜7月13日
それぞれだいたい2ヶ月間の開催期間。繰り返すが、それぞれだいたい2ヶ月間の開催期間。なのにである。東京ではその2ヶ月間を1週間毎に8分割にも区切って展示作品をあれこれ入れ替える運営。
だから3つ前のエントリーで書いたように、写楽の「市川鰕蔵の竹村定之進」はこの日に見られたのに、
ビードロ(喜多川歌麿)
月に雁(歌川広重)
見返り美人(菱川師宣)
は展示されていなかったのである。それぞれ微妙に展示期間が異なり、この記念切手で有名な4つの浮世絵を全部一緒に見られる日はない。
展示会のホームページによれば「430点の作品をご覧いただく」とある。しかし私が訪れた1月3日に展示されていたのは145作品である。総作品数の3割強の作品しか私は見られなかったことになる。誇大広告も甚だしい!
もっと長い期間開催している展示会なら、作品のいくつかを入れ替えることはたまにある。それでもせいぜい前期と後期に別けて1割程度の作品が入れ替わるるくらい。2ヶ月を8分割するなんてやり過ぎである。浮世絵を貸し出す側の都合があることはわかる。しかしそれをきっちり調整するのが展示会を主催する者の仕事である。
なお名古屋と山口では入れ替えがない。名古屋の出展作品数は341点。東京の1月3日の2.4倍である。料金はどちらも1300円。カネ半分返せぇ!
※1週間毎に展示作品がすべて入れ替わるという意味ではない。詳しく知りた
い人はここからどうぞ。
※入れ替えがないのに、名古屋の出展数が430点でないのは名古屋で出展され
ない作品があるから。
※ひょっとしたら名古屋と山口でも会期が分割されるのかもしれないが、とり
あえず東京会場向けの出展リスト(上でリンクしたものと同じ)では両地域の
会期分割のことは書いていない。
<その2>
一番最初のエントリーに書いたように私が江戸東京博物館についた時、チケット売り場では10人ほどしか並んでいなかった。しかし館内に入ると、どこからやってきたの?と思うほどの人出。展示会場もかなり混んでいた。まあお正月だからね。
普通の展示会では作品に近づかないよう、作品から1メートルくらいのところにロープなどが張ってある。でもこの大浮世絵展ではそういう規制はなし。するとどうなるか。ほとんどの人は思いっきり作品に近づいて見ようとする。舌を出せば浮世絵を舐められるんじゃないというくらいカブリツキの人もいる。するとどうなるか。私のように列に並ばない者にとってはとても見にくい。ほとんどの浮世絵はサイズも小さい(B4サイズくらい)からなおさらである。決して強引な割り込みはしないものの、列が途切れたところを狙って作品に接近するのに普段よりかなり手間がかかった。
そういえば初めて浮世絵の展示会を見た山種美術館でも同じような展示方法だった。浮世絵ではそういうやり方が普通なのかな? でも展示会トータルで鑑賞の効率は悪くなる、つまり余計に混雑する。それにあまりにカブリツキだと不測の事故も起きる可能性が高まる。私は作品への接近に対する規制はあったほうがいいと思うのだが。
浮世絵は素晴らしかったものの江戸東京博物館の運営はイマイチであった。でも、このあとちょっと得したことがあったから今回は大目に見てあげよう。
ーーーそれは次回に。
2014年01月06日
大浮世絵展 本編その3
浮世絵の話をいつまで引っ張るつもりかといわれそうだが、今回を含めてあと4回くらい続く予定。人に説明するのが自分の頭を整理する一番いい方法なので、そこのところよろしく。ただし浮世絵の話自体は今回で終わり。残りはその日のその他のあれこれ。
さて、浮世絵師で歴史をおさらいしておくと
江戸幕府始まる 1603年
菱川師宣 1618年〜1694年 浮世絵の祖・見返り美人の作者
8代将軍吉宗就任 1716年 (ここからが江戸中期)
鈴木春信 1725年〜1770年
鳥居清長 1752年〜1815年
喜多川歌麿 1753年〜1806年
葛飾北斎 1760年〜1849年
東洲斎写楽 1763年〜1820年 ※写楽=斎藤十郎兵衛説によれば
11代将軍家斉就任 1787年 (ここからが江戸後期)
歌川広重 1797年〜1858年
歌川国芳 1798年〜1861年
ペリー黒船来港 1853年 (ここからが江戸末期)
大政奉還 1867年 明治元年1868年
浮世絵という様式を確立させたといわれるのが菱川師宣(もろのぶ)だから、浮世絵は江戸時代とほぼ同時に成立したといっていいだろう。六大浮世絵師といわれるメンバーが出てくるのが江戸中期以降。私が別格だと思う北斎と広重が活躍したのは江戸後期に入ってからということになる。
ところで広重や国芳は黒船を見たんだろうか? ザッと調べたところでは黒船の浮世絵を残していないようで残念。彼らだけでなく「浮世絵 黒船」で画像検索しても、ほんの数点しかそれらしい画像が上がってこない。江戸湾で起きたこんなビッグニュースが浮世絵にあまりなっていないということは、幕末の頃に浮世絵はかなり衰退していたのかもしれない。
展示会では明治以降の浮世絵も数は少ないものの展示されていた。実はこれがなかなかおもしろかったのである。それも今回の発見というか収穫のひとつ。
月岡芳年 「 東亰名勝高輪 蒸氣車鉄道之全図」明治4年
どう見てもオモチャの国の蒸気機関車にしか見えない。と思ったら日本で新橋〜横浜間に最初の鉄道が開通したのは明治5年。どうやらこれは想像で描いたらしい。文明開化の香りがするというか、よく見れば(絵をクリックで拡大する)丘の上にいる10名くらいを除いて描かれている人物はすべて西洋人。外人モデルを起用すればとりあえずサマになるという感覚はこの頃から始まったのかな。
楊洲周延(ようしゅうちかのぶ) 「欧洲管弦楽合奏之図」明治22年
これこそ正真正銘の文明開化イメージ。描かれている人物は洋装の盛装で、バックには桜と月が配されてまさに和魂洋才。ドレスを着ているのに女性の顔は江戸時代の美人画の影響から抜け切れていない。明治になって世の中が大きく変わっても、時代というのはつながっているんだなあと感じる。
ジャジャーン!今回の展示会で気に入った第3位の発表。それは
橋口五葉 「化粧の女」 大正7年
しっとりとした情感に惹きつけられる。繊細なタッチはなんとなく歌麿に通じるものも感じる。樋口五葉はまさか100年後の日本で、女性が電車の中で化粧をするようになるとは思ってもみなかっただろうな(^^ゞ
実はこの絵をよく見るとおかしい。
女性は首の周りにも化粧している。ということは芸者? あるいは浮世絵の伝統にのっとって遊女? それとも当時は普通の女性でも首の周りまで化粧をしたのか。まあそれは別にどうでもいい。問題は顔も首も胸の周りも肌の色が同じこと。一般人なら芸者のように真っ白な化粧はしなかったかもしれないが、それでも化粧をしていて肌の色がどこもすべて同じというのは不自然。
もちろん、そんな観察が野暮というのは百も承知。何となく気付いてしまったから書いてみただけ。ついでにもうひとつ野暮を書くと、この絵は確かに女性の美しさを描き出している。化粧という秘めた行為をテーマにすることで、そのなまめかしさを高めているとも思う。でも何となくすべてが男性の妄想っぽい。女性は今も昔ももっとたくましいものだよ。
そして、この作品を見て発見したことがある。私が江戸時代の美人画に今ひとつ興味が湧かないのは、やはりあの独特な顔の描き方にあるみたい。もちろん江戸時代の女性があんな顔だったわけではない。平安時代は小野小町に見られるよう極端に下ぶくれな顔に描いたし、アニメでは目をあり得ないくらい大きくする。つまりはそれぞれの時代の美意識の反映。アニメのキャラクターはカワイイが、実際にあの目の大きさの人がいれば宇宙人にしか見えない。もちろん江戸時代に歌麿美人がもしいたら妖怪だと恐れられたはずだ。
橋口五葉の絵は美人画の文法を引き継いでいるものの、デフォルメは最小限でナチュラル。これなら人の顔として見ることができる。現在どの程度浮世絵が制作されているか知らないが、浮世絵師の皆さんにお願いしたいのは「美人は普通に美人に描いてください」ということ。
最後にもう1枚。
伊東深水 「対鏡」 大正5年
見た瞬間に大正ロマンという言葉が思い浮かんだ。ただし、着物を着て日本髪を結って背景が何も描かれていない、この作品のどこに大正ロマンを感じたのか自分でもよくわからない。だいたい大正ロマンがどういうものかもあまり認識していない。だから自分の感覚がとても不思議なんだけれど、この絵もちょっとミステリアスな雰囲気を出しているから、まあよしとしておこう。ちなみに朝丘雪路は伊東深水の娘。
展示品を順番に眺めるだけで浮世絵の歴史が一通りわかるからいい展示会だと思う。日本的なものに触れる機会はどんどん少なくなっているから、たまには浮世絵でも眺めるのも悪くない。
ーーーしばらく続きます。
さて、浮世絵師で歴史をおさらいしておくと
江戸幕府始まる 1603年
菱川師宣 1618年〜1694年 浮世絵の祖・見返り美人の作者
8代将軍吉宗就任 1716年 (ここからが江戸中期)
鈴木春信 1725年〜1770年
鳥居清長 1752年〜1815年
喜多川歌麿 1753年〜1806年
葛飾北斎 1760年〜1849年
東洲斎写楽 1763年〜1820年 ※写楽=斎藤十郎兵衛説によれば
11代将軍家斉就任 1787年 (ここからが江戸後期)
歌川広重 1797年〜1858年
歌川国芳 1798年〜1861年
ペリー黒船来港 1853年 (ここからが江戸末期)
大政奉還 1867年 明治元年1868年
浮世絵という様式を確立させたといわれるのが菱川師宣(もろのぶ)だから、浮世絵は江戸時代とほぼ同時に成立したといっていいだろう。六大浮世絵師といわれるメンバーが出てくるのが江戸中期以降。私が別格だと思う北斎と広重が活躍したのは江戸後期に入ってからということになる。
ところで広重や国芳は黒船を見たんだろうか? ザッと調べたところでは黒船の浮世絵を残していないようで残念。彼らだけでなく「浮世絵 黒船」で画像検索しても、ほんの数点しかそれらしい画像が上がってこない。江戸湾で起きたこんなビッグニュースが浮世絵にあまりなっていないということは、幕末の頃に浮世絵はかなり衰退していたのかもしれない。
展示会では明治以降の浮世絵も数は少ないものの展示されていた。実はこれがなかなかおもしろかったのである。それも今回の発見というか収穫のひとつ。
月岡芳年 「 東亰名勝高輪 蒸氣車鉄道之全図」明治4年
どう見てもオモチャの国の蒸気機関車にしか見えない。と思ったら日本で新橋〜横浜間に最初の鉄道が開通したのは明治5年。どうやらこれは想像で描いたらしい。文明開化の香りがするというか、よく見れば(絵をクリックで拡大する)丘の上にいる10名くらいを除いて描かれている人物はすべて西洋人。外人モデルを起用すればとりあえずサマになるという感覚はこの頃から始まったのかな。
楊洲周延(ようしゅうちかのぶ) 「欧洲管弦楽合奏之図」明治22年
これこそ正真正銘の文明開化イメージ。描かれている人物は洋装の盛装で、バックには桜と月が配されてまさに和魂洋才。ドレスを着ているのに女性の顔は江戸時代の美人画の影響から抜け切れていない。明治になって世の中が大きく変わっても、時代というのはつながっているんだなあと感じる。
ジャジャーン!今回の展示会で気に入った第3位の発表。それは
橋口五葉 「化粧の女」 大正7年
しっとりとした情感に惹きつけられる。繊細なタッチはなんとなく歌麿に通じるものも感じる。樋口五葉はまさか100年後の日本で、女性が電車の中で化粧をするようになるとは思ってもみなかっただろうな(^^ゞ
実はこの絵をよく見るとおかしい。
女性は首の周りにも化粧している。ということは芸者? あるいは浮世絵の伝統にのっとって遊女? それとも当時は普通の女性でも首の周りまで化粧をしたのか。まあそれは別にどうでもいい。問題は顔も首も胸の周りも肌の色が同じこと。一般人なら芸者のように真っ白な化粧はしなかったかもしれないが、それでも化粧をしていて肌の色がどこもすべて同じというのは不自然。
もちろん、そんな観察が野暮というのは百も承知。何となく気付いてしまったから書いてみただけ。ついでにもうひとつ野暮を書くと、この絵は確かに女性の美しさを描き出している。化粧という秘めた行為をテーマにすることで、そのなまめかしさを高めているとも思う。でも何となくすべてが男性の妄想っぽい。女性は今も昔ももっとたくましいものだよ。
そして、この作品を見て発見したことがある。私が江戸時代の美人画に今ひとつ興味が湧かないのは、やはりあの独特な顔の描き方にあるみたい。もちろん江戸時代の女性があんな顔だったわけではない。平安時代は小野小町に見られるよう極端に下ぶくれな顔に描いたし、アニメでは目をあり得ないくらい大きくする。つまりはそれぞれの時代の美意識の反映。アニメのキャラクターはカワイイが、実際にあの目の大きさの人がいれば宇宙人にしか見えない。もちろん江戸時代に歌麿美人がもしいたら妖怪だと恐れられたはずだ。
橋口五葉の絵は美人画の文法を引き継いでいるものの、デフォルメは最小限でナチュラル。これなら人の顔として見ることができる。現在どの程度浮世絵が制作されているか知らないが、浮世絵師の皆さんにお願いしたいのは「美人は普通に美人に描いてください」ということ。
最後にもう1枚。
伊東深水 「対鏡」 大正5年
見た瞬間に大正ロマンという言葉が思い浮かんだ。ただし、着物を着て日本髪を結って背景が何も描かれていない、この作品のどこに大正ロマンを感じたのか自分でもよくわからない。だいたい大正ロマンがどういうものかもあまり認識していない。だから自分の感覚がとても不思議なんだけれど、この絵もちょっとミステリアスな雰囲気を出しているから、まあよしとしておこう。ちなみに朝丘雪路は伊東深水の娘。
展示品を順番に眺めるだけで浮世絵の歴史が一通りわかるからいい展示会だと思う。日本的なものに触れる機会はどんどん少なくなっているから、たまには浮世絵でも眺めるのも悪くない。
ーーーしばらく続きます。
2014年01月05日
大浮世絵展 本編その2
渓斎英泉(けいさいえいせん) 「仮宅の遊女」
これは藍摺(あいずり)と呼ばれる技法の浮世絵。見ての通りブルーな浮世絵。ただし使っているのは日本で藍染めに使う植物ではなく、ヨーロッパから輸入され始めた鉱物性の染料とのこと。
火事と喧嘩は江戸の華だったからかどうかはわからないが、吉原は江戸時代に23回も全焼している。吉原を再建している期間に、遊女が吉原以外で営業した場所が仮宅(かりたく)と呼ばれる。なんか昨日から遊女のことばかり書いている気もする。でも遊女がモデルの浮世絵が多いのだから仕方がないよ。
葛飾北斎 「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」
葛飾北斎 「富嶽三十六景 凱風快晴(がいふうかいせい)」
葛飾北斎 「富嶽三十六景 尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)」
富嶽(ふがく)とは富士山の別名。でも何となく響きが書き言葉っぽい。今日は富士山がよく見えるという代わりに、富嶽がよく見えるとは江戸時代でもいわなかったような気がする。ちなみに芙蓉(ふよう)というのも富士山の別名。みずほグループは以前は芙蓉グループといった。それは中核企業が富士銀行だったから。もっとも富嶽が富士山以外の意味がないのに対し、芙蓉は植物の名前でもあるし、芙蓉蟹(ふようはい)なら中華料理の蟹玉とバリエーションは広い(^^ゞ
つい話がそれたが、富岳三十六景は絵のどこかに富士山が描かれているシリーズである。もっとも「凱風快晴」のように富士山がメインのものは少なく「尾州不二見原」のように、いわれてみないと富士山があると気がつかないものも多い。また先ほど藍摺のことを書いたが、富岳三十六景にも藍色の染料は多用されておりブルーのイメージの強い作品が多い。それまでは染料がなく青い色は出せなかったから新鮮だった=マーケットで受けたのだろうと思う。なお富嶽三十六景という名前ではあるものの、大ヒットしたので追加制作され全部で46バリエーションある。映画でヒットしたらPART2が制作されるのと同じ。
歌川広重 「東海道五十三次 日本橋 朝之景」
歌川広重 「東海道五十三次 庄野 白雨」
歌川広重 「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」
子供の頃の教科書では安藤広重だったのに、いつのまにか歌川広重と呼ばれるようになった浮世絵師。葛飾北斎の富嶽三十六景がヒットしたのをみて東海道五十三次を企画したといわれている。いずれにせよこの二人の活躍によって、美人画や役者絵といった人物像が中心だった浮世絵に、名所画という新ジャンルが切り開かれたことになる。
どちらも名所画つまり風景を描いて、またブルーを多用していることも共通だが絵の構成はかなり違う。北斎の富嶽三十六景はタイトル通り富士山のある風景がテーマであって、人間は風景の一部のような印象を受ける。人間が描かれていないものも46点中7点ある。一方の広重の東海道五十三次は紀行(旅日記)がコンセプトだから、描かれている人間も重要な役割を与えられてる(ような気がする)。言い換えれば広重の浮世絵は、登場人物によって絵の背景にあるストーリーが想像できるような作風である。
さて、葛飾北斎と歌川広重の力量は他の浮世絵師と較べて群を抜いていると思う。それは今回の展示会で発見したことのひとつ。もっとも力量を見抜くほどの眼力はないし、なぜそう思うのか自分でもわからない。しかし、この二人以前の他の浮世絵は、たとえ歌麿でもチラッと見れば充分な気がするのに対し、彼らの作品はじっくり眺めたいという気持ちになる。それまでの浮世絵は美人画や役者絵が中心で、この二人は風景画と描いているものは違う。でもその違い以上のレベルの差があると思う。私のアートに対する基準は「酔える」かどうか。彼らの浮世絵には酔える。写楽の浮世絵はおもしろいねと思うだけ。(アートじゃなきゃ価値がないと考えているのではない。念のため)
違う意味での新発見は歌川国芳(くによし)。いろいろエラソーに書いてきたが別に浮世絵に詳しいわけじゃない。こんなタイプの浮世絵があるとは知らなかった。歌川国芳には浮世絵=古くさいというイメージは微塵もない。発想は斬新で、それ以上に絵を見て楽しんで欲しいというエンターテイメント性やサービス精神に満ちあふれている。それだけじゃなくて画家としての腕前も確かだと思う。とにかく彼の浮世絵を見ると江戸時代にいってみたくなる!
歌川国芳 「八犬伝之内 芳流閣」
歌川国芳 「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」
歌川国芳 「猫の当字 うなぎ」 ※字が猫で書いてある
ジャジャーン!
今回の展示会で気に入った第1位と2位を発表。ただし北斎や広重など昔から知っていて好きだった作品は除く。この日に初めて知った浮世絵から選出。
第1位 歌川国貞 「五節句ノ内 文月」
顔は普通の美人画風。しかし、こんな動きのある浮世絵は初めて見た。楽しそうなリズムが聞こえてきそうである。眺めているだけで元気が出てくる。
第2位 葛飾応為 「夜桜図」
ここに貼ったものより本物はもっと光の陰影が幻想的。浮世絵だけでなく日本画にも疎いが、こんな風に光を描き別けた作品は記憶にない。既に北斎や広重の時代に遠近法はヨーロッパから伝わっている。だから明暗を対比する技法も知られていたんだろうか。でも葛飾応為以外にこんな作品はないから、彼女が独自に編み出したような気もする。ちなみに応為は葛飾北斎の娘。なおこの作品は版画ではなく肉筆画。
ーーーまだまだ続く。
これは藍摺(あいずり)と呼ばれる技法の浮世絵。見ての通りブルーな浮世絵。ただし使っているのは日本で藍染めに使う植物ではなく、ヨーロッパから輸入され始めた鉱物性の染料とのこと。
火事と喧嘩は江戸の華だったからかどうかはわからないが、吉原は江戸時代に23回も全焼している。吉原を再建している期間に、遊女が吉原以外で営業した場所が仮宅(かりたく)と呼ばれる。なんか昨日から遊女のことばかり書いている気もする。でも遊女がモデルの浮世絵が多いのだから仕方がないよ。
葛飾北斎 「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」
葛飾北斎 「富嶽三十六景 凱風快晴(がいふうかいせい)」
葛飾北斎 「富嶽三十六景 尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)」
富嶽(ふがく)とは富士山の別名。でも何となく響きが書き言葉っぽい。今日は富士山がよく見えるという代わりに、富嶽がよく見えるとは江戸時代でもいわなかったような気がする。ちなみに芙蓉(ふよう)というのも富士山の別名。みずほグループは以前は芙蓉グループといった。それは中核企業が富士銀行だったから。もっとも富嶽が富士山以外の意味がないのに対し、芙蓉は植物の名前でもあるし、芙蓉蟹(ふようはい)なら中華料理の蟹玉とバリエーションは広い(^^ゞ
つい話がそれたが、富岳三十六景は絵のどこかに富士山が描かれているシリーズである。もっとも「凱風快晴」のように富士山がメインのものは少なく「尾州不二見原」のように、いわれてみないと富士山があると気がつかないものも多い。また先ほど藍摺のことを書いたが、富岳三十六景にも藍色の染料は多用されておりブルーのイメージの強い作品が多い。それまでは染料がなく青い色は出せなかったから新鮮だった=マーケットで受けたのだろうと思う。なお富嶽三十六景という名前ではあるものの、大ヒットしたので追加制作され全部で46バリエーションある。映画でヒットしたらPART2が制作されるのと同じ。
歌川広重 「東海道五十三次 日本橋 朝之景」
歌川広重 「東海道五十三次 庄野 白雨」
歌川広重 「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」
子供の頃の教科書では安藤広重だったのに、いつのまにか歌川広重と呼ばれるようになった浮世絵師。葛飾北斎の富嶽三十六景がヒットしたのをみて東海道五十三次を企画したといわれている。いずれにせよこの二人の活躍によって、美人画や役者絵といった人物像が中心だった浮世絵に、名所画という新ジャンルが切り開かれたことになる。
どちらも名所画つまり風景を描いて、またブルーを多用していることも共通だが絵の構成はかなり違う。北斎の富嶽三十六景はタイトル通り富士山のある風景がテーマであって、人間は風景の一部のような印象を受ける。人間が描かれていないものも46点中7点ある。一方の広重の東海道五十三次は紀行(旅日記)がコンセプトだから、描かれている人間も重要な役割を与えられてる(ような気がする)。言い換えれば広重の浮世絵は、登場人物によって絵の背景にあるストーリーが想像できるような作風である。
さて、葛飾北斎と歌川広重の力量は他の浮世絵師と較べて群を抜いていると思う。それは今回の展示会で発見したことのひとつ。もっとも力量を見抜くほどの眼力はないし、なぜそう思うのか自分でもわからない。しかし、この二人以前の他の浮世絵は、たとえ歌麿でもチラッと見れば充分な気がするのに対し、彼らの作品はじっくり眺めたいという気持ちになる。それまでの浮世絵は美人画や役者絵が中心で、この二人は風景画と描いているものは違う。でもその違い以上のレベルの差があると思う。私のアートに対する基準は「酔える」かどうか。彼らの浮世絵には酔える。写楽の浮世絵はおもしろいねと思うだけ。(アートじゃなきゃ価値がないと考えているのではない。念のため)
違う意味での新発見は歌川国芳(くによし)。いろいろエラソーに書いてきたが別に浮世絵に詳しいわけじゃない。こんなタイプの浮世絵があるとは知らなかった。歌川国芳には浮世絵=古くさいというイメージは微塵もない。発想は斬新で、それ以上に絵を見て楽しんで欲しいというエンターテイメント性やサービス精神に満ちあふれている。それだけじゃなくて画家としての腕前も確かだと思う。とにかく彼の浮世絵を見ると江戸時代にいってみたくなる!
歌川国芳 「八犬伝之内 芳流閣」
歌川国芳 「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」
歌川国芳 「猫の当字 うなぎ」 ※字が猫で書いてある
ジャジャーン!
今回の展示会で気に入った第1位と2位を発表。ただし北斎や広重など昔から知っていて好きだった作品は除く。この日に初めて知った浮世絵から選出。
第1位 歌川国貞 「五節句ノ内 文月」
顔は普通の美人画風。しかし、こんな動きのある浮世絵は初めて見た。楽しそうなリズムが聞こえてきそうである。眺めているだけで元気が出てくる。
第2位 葛飾応為 「夜桜図」
ここに貼ったものより本物はもっと光の陰影が幻想的。浮世絵だけでなく日本画にも疎いが、こんな風に光を描き別けた作品は記憶にない。既に北斎や広重の時代に遠近法はヨーロッパから伝わっている。だから明暗を対比する技法も知られていたんだろうか。でも葛飾応為以外にこんな作品はないから、彼女が独自に編み出したような気もする。ちなみに応為は葛飾北斎の娘。なおこの作品は版画ではなく肉筆画。
ーーーまだまだ続く。
2014年01月04日
大浮世絵展 本編
まとまった数の浮世絵を見るのは今回が2回目。前回はボストン美術館収蔵作品の展示会だった。普段あまり浮世絵と接することもないが、今回も基本的な印象はその時とあまり変わらない。
1)
見慣れた西洋絵画とはまったく違う色彩が新鮮で魅力的。それに繊細で華奢な感覚は浮世絵独特の世界。
2)
ただし画風が作者を問わずワンパターンなので、たくさん見ているうちに飽きてくる。
3)
浮世絵は版画。同じ浮世絵師が描いた日本画を肉筆画と呼ぶ。版画と肉筆画を較べると、やはり圧倒的に情報量が違う。しょせん版画はプリントかと感じてしまう。
ーーーといったところ。
なんか浮世絵をけなしているようだが、もともと浮世絵は挿絵やポスターなどに相当するカジュアルなアート。たくさん並べて、じっくり鑑賞する方が間違っている。ヤルーとかウヒョーとかいって楽しめばいいのだ。だいたい江戸時代に浮世絵はそんなに大事なものでもなかった。価格は今の貨幣価値で100円から2000円くらいだったらしい。印象派の画家達は浮世絵から大きな影響を受けたとされているが、海外で浮世絵が知られるきっかけとなったのは、明治時代になって日本の輸出品だった陶器の包み紙として古くなった浮世絵を再利用していたから。つまり古新聞扱い。
とはいうものの今回あらためて感じたこともあった。それは追々書いていくことにする。
展示会では年代順に6つのコーナーに別けられていた。浮世絵は今でももちろん作られているが、だいたい17世紀半ばの江戸時代が始まってしばらくの頃から明治時代までのもの。全盛期はもちろん江戸時代。
鳥居清倍(きよます) 「出陣髪すき」
勝川春章(しゅんしょう) 「中村富十郎の饅頭売日向屋実は日向姥ケ嶽の雌狐と9代目市村羽左衛門の酒売り伊勢屋実は源九郎狐」
一般的にイメージする浮世絵は錦絵といっていわゆる多色刷り。時代が下るにつれてよりカラフルになってくる。上の鳥居清倍は浮世絵初期の頃の制作で丹絵と呼ばれる技法。丹絵(たんえ)とは丹色(にいろ=朱色)をメインに数色で構成される。勝川春章のは錦絵らしいが使っている色数が少ないから丹絵とあまり変わらない印象。
これは、どちらも歌舞伎芝居のポスターである。勝川春章の作品名は芝居のタイトルだと思われる。それにしても長すぎ!
だんだんと一般的にイメージする浮世絵に近くなってくる。
鳥居清長 「風俗東之錦 萩の庭」
鳥居清長 「美南見十二候 六月」
鳥居清長 「大川端夕涼」
鳥居清長 「吾妻橋下の涼船」
鳥居清長は美人画中心の作品で、後に六大浮世絵師に数えられる。他のメンバーは鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重。この6名の中では鳥居さんと鈴木さんの知名度が低いかな。歌川広重は安藤広重と呼ばれていた時代もあったので、安藤の名前のほうが馴染みがあるかもしれない。
鳥居清長の作品名にある美南見(みなみ)というのは品川のことで、当時はそこに遊郭があった。同じく遊郭のある吉原が江戸城の北側だったので品川を美南見と呼んだらしい。だから描かれているのはムフフなお姐様方。顔が同じでわかりづらいが黒い羽織を着ているのがメンズ。浮世絵には遊女をモデルにしたものがとても多い。遊女を今の言葉に置き換えれば売春婦となるが、それだとどうもイメージがつながらない。江戸時代の日本で遊女というのがどのような社会的なポジションやイメージだったのかはなかなか興味深い。
喜多川歌麿 「四季遊花之色香 上下」
喜多川歌麿 「当時三美人 富本豊ひな、難波屋きた、高しまひさ」
喜多川歌麿 「北国五色墨 てっぽう」
喜多川歌麿 「錦織歌麿形新模様 白打掛」
喜多川歌麿 「青楼十二時 続 子の刻」
喜多川歌麿は美人画の大家で海外でも有名。全身ではなくバストアップ(胸から上)で美人画を描いたのは彼が最初といわれる。まあそれにしても皆同じ顔に見える。しかし「当時三美人」では端正な顔、気の強うそうな顔、うぶな娘風と3人が描き別けられているらしい。誰がどの顔かわかる?
ところでタイトルにある北国(ほっこく)とは吉原の遊郭の別名。また青楼(せいろう)も遊郭のこと。そんなこんなで歌麿の作品の3割は遊女がテーマだといわれている。よほどお好きだったようで。
「青楼十二時」という作品名は今風に書き換えるなら「密着!遊女の生活24時間」といったところ。当時は十二時辰(じしん)といって1日を12の時間帯に別けていた。それに「ネ、ウシ、トラーーー」と十二支を当てはめる。したがって1時間帯は2時間。それを30分単位で4つにも別ける。怪談話でよくでてくる「うしみつどき」とは午前3時のこと。
子(ね)が午前0時から午前2時まで(正確に言うなら1時59分)
丑(うし)が午前2時から午前4時
午前2時が丑1つ
午前2時半が丑2つ
午前3時が丑3つ
午前3時半が丑4つ
ちょっと話がそれたが「青楼十二時」という作品は2時間毎の遊女の生活を描いたシリーズ作品。上に貼った「子の刻」では正装の着物である打ち掛けを脱いで、夜用の着物に着替えているところ。着物を畳んでいるのは遊女のアシスタント。つまりこの後のベッドインの準備中♡ これに続く「丑の刻」版はベッドインの最中ではなく、それが終わってトイレに行くシーンとなっている。2時間後ならそうなるか(^^ゞ とにかく歌麿は遊女の姿形だけじゃなくて、生活までとことん描きたかったみたいである。
東洲斎写楽 「4代目岩井半四郎の乳人重の井」
東洲斎写楽 「市川鰕蔵の竹村定之進」
浮世絵には描かれているものによって「美人画」「役者絵」「名所画」「花鳥画」などのジャンルがある。写楽はもちろん役者絵のスーパースター。もっとも写楽は浮世絵界に突如として現れ、10ヶ月ほど後に姿を消した謎の浮世絵師でもある。その正体はいろいろ学説があるものの、いまだにハッキリとわかっていない。ブログに貼ったバストアップ構図(浮世絵では大首絵という)の役者絵が有名だが、それは最初の28作品で、これはデビュー時に同時一斉に売り出された。その後は同じ役者絵ながらいろんな構図やタイプの浮世絵を作るがあまり売れず。というわけで10ヶ月後に引退というか活動中止。写楽は元祖一発屋かな。
ところで私の子供の頃には記念切手を集めるのがブームになったことがある。「市川鰕蔵の竹村定之進」は切手になっていて、通称「写楽」として人気があった。だから写楽というのは、ここに描かれている人物のことだと当時は思っていた。あれから半世紀近く経つけれど、本物の「写楽」を見ることができてうれしい。さて当時人気のあった記念切手は、この写楽の他に
ビードロ(喜多川歌麿)
月に雁(歌川広重)
見返り美人(菱川師宣)
の3つ。それでこの3作品も、この大浮世絵展に出展されているはずなのに、当日は見ることができなかったのである。それがとってもムカツク。その話は後ほど。
ーーー続く
1)
見慣れた西洋絵画とはまったく違う色彩が新鮮で魅力的。それに繊細で華奢な感覚は浮世絵独特の世界。
2)
ただし画風が作者を問わずワンパターンなので、たくさん見ているうちに飽きてくる。
3)
浮世絵は版画。同じ浮世絵師が描いた日本画を肉筆画と呼ぶ。版画と肉筆画を較べると、やはり圧倒的に情報量が違う。しょせん版画はプリントかと感じてしまう。
ーーーといったところ。
なんか浮世絵をけなしているようだが、もともと浮世絵は挿絵やポスターなどに相当するカジュアルなアート。たくさん並べて、じっくり鑑賞する方が間違っている。ヤルーとかウヒョーとかいって楽しめばいいのだ。だいたい江戸時代に浮世絵はそんなに大事なものでもなかった。価格は今の貨幣価値で100円から2000円くらいだったらしい。印象派の画家達は浮世絵から大きな影響を受けたとされているが、海外で浮世絵が知られるきっかけとなったのは、明治時代になって日本の輸出品だった陶器の包み紙として古くなった浮世絵を再利用していたから。つまり古新聞扱い。
とはいうものの今回あらためて感じたこともあった。それは追々書いていくことにする。
展示会では年代順に6つのコーナーに別けられていた。浮世絵は今でももちろん作られているが、だいたい17世紀半ばの江戸時代が始まってしばらくの頃から明治時代までのもの。全盛期はもちろん江戸時代。
鳥居清倍(きよます) 「出陣髪すき」
勝川春章(しゅんしょう) 「中村富十郎の饅頭売日向屋実は日向姥ケ嶽の雌狐と9代目市村羽左衛門の酒売り伊勢屋実は源九郎狐」
一般的にイメージする浮世絵は錦絵といっていわゆる多色刷り。時代が下るにつれてよりカラフルになってくる。上の鳥居清倍は浮世絵初期の頃の制作で丹絵と呼ばれる技法。丹絵(たんえ)とは丹色(にいろ=朱色)をメインに数色で構成される。勝川春章のは錦絵らしいが使っている色数が少ないから丹絵とあまり変わらない印象。
これは、どちらも歌舞伎芝居のポスターである。勝川春章の作品名は芝居のタイトルだと思われる。それにしても長すぎ!
だんだんと一般的にイメージする浮世絵に近くなってくる。
鳥居清長 「風俗東之錦 萩の庭」
鳥居清長 「美南見十二候 六月」
鳥居清長 「大川端夕涼」
鳥居清長 「吾妻橋下の涼船」
鳥居清長は美人画中心の作品で、後に六大浮世絵師に数えられる。他のメンバーは鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重。この6名の中では鳥居さんと鈴木さんの知名度が低いかな。歌川広重は安藤広重と呼ばれていた時代もあったので、安藤の名前のほうが馴染みがあるかもしれない。
鳥居清長の作品名にある美南見(みなみ)というのは品川のことで、当時はそこに遊郭があった。同じく遊郭のある吉原が江戸城の北側だったので品川を美南見と呼んだらしい。だから描かれているのはムフフなお姐様方。顔が同じでわかりづらいが黒い羽織を着ているのがメンズ。浮世絵には遊女をモデルにしたものがとても多い。遊女を今の言葉に置き換えれば売春婦となるが、それだとどうもイメージがつながらない。江戸時代の日本で遊女というのがどのような社会的なポジションやイメージだったのかはなかなか興味深い。
喜多川歌麿 「四季遊花之色香 上下」
喜多川歌麿 「当時三美人 富本豊ひな、難波屋きた、高しまひさ」
喜多川歌麿 「北国五色墨 てっぽう」
喜多川歌麿 「錦織歌麿形新模様 白打掛」
喜多川歌麿 「青楼十二時 続 子の刻」
喜多川歌麿は美人画の大家で海外でも有名。全身ではなくバストアップ(胸から上)で美人画を描いたのは彼が最初といわれる。まあそれにしても皆同じ顔に見える。しかし「当時三美人」では端正な顔、気の強うそうな顔、うぶな娘風と3人が描き別けられているらしい。誰がどの顔かわかる?
ところでタイトルにある北国(ほっこく)とは吉原の遊郭の別名。また青楼(せいろう)も遊郭のこと。そんなこんなで歌麿の作品の3割は遊女がテーマだといわれている。よほどお好きだったようで。
「青楼十二時」という作品名は今風に書き換えるなら「密着!遊女の生活24時間」といったところ。当時は十二時辰(じしん)といって1日を12の時間帯に別けていた。それに「ネ、ウシ、トラーーー」と十二支を当てはめる。したがって1時間帯は2時間。それを30分単位で4つにも別ける。怪談話でよくでてくる「うしみつどき」とは午前3時のこと。
子(ね)が午前0時から午前2時まで(正確に言うなら1時59分)
丑(うし)が午前2時から午前4時
午前2時が丑1つ
午前2時半が丑2つ
午前3時が丑3つ
午前3時半が丑4つ
ちょっと話がそれたが「青楼十二時」という作品は2時間毎の遊女の生活を描いたシリーズ作品。上に貼った「子の刻」では正装の着物である打ち掛けを脱いで、夜用の着物に着替えているところ。着物を畳んでいるのは遊女のアシスタント。つまりこの後のベッドインの準備中♡ これに続く「丑の刻」版はベッドインの最中ではなく、それが終わってトイレに行くシーンとなっている。2時間後ならそうなるか(^^ゞ とにかく歌麿は遊女の姿形だけじゃなくて、生活までとことん描きたかったみたいである。
東洲斎写楽 「4代目岩井半四郎の乳人重の井」
東洲斎写楽 「市川鰕蔵の竹村定之進」
浮世絵には描かれているものによって「美人画」「役者絵」「名所画」「花鳥画」などのジャンルがある。写楽はもちろん役者絵のスーパースター。もっとも写楽は浮世絵界に突如として現れ、10ヶ月ほど後に姿を消した謎の浮世絵師でもある。その正体はいろいろ学説があるものの、いまだにハッキリとわかっていない。ブログに貼ったバストアップ構図(浮世絵では大首絵という)の役者絵が有名だが、それは最初の28作品で、これはデビュー時に同時一斉に売り出された。その後は同じ役者絵ながらいろんな構図やタイプの浮世絵を作るがあまり売れず。というわけで10ヶ月後に引退というか活動中止。写楽は元祖一発屋かな。
ところで私の子供の頃には記念切手を集めるのがブームになったことがある。「市川鰕蔵の竹村定之進」は切手になっていて、通称「写楽」として人気があった。だから写楽というのは、ここに描かれている人物のことだと当時は思っていた。あれから半世紀近く経つけれど、本物の「写楽」を見ることができてうれしい。さて当時人気のあった記念切手は、この写楽の他に
ビードロ(喜多川歌麿)
月に雁(歌川広重)
見返り美人(菱川師宣)
の3つ。それでこの3作品も、この大浮世絵展に出展されているはずなのに、当日は見ることができなかったのである。それがとってもムカツク。その話は後ほど。
ーーー続く
2014年01月03日
大浮世絵展
正月だから日本情緒を味わいましょうということで、浮世絵の展示会に行ってきた。場所は両国の国技館隣にある江戸東京博物館。東京都立の博物館である。自宅からは電車を乗り継いで1時間ほど。有楽町駅前の火災で新幹線や山手線がストップしていたが、秋葉原から乗る総武線は影響なし。ちなみに総武線とは東京と千葉を結んでいるJRの路線。
両国駅は東口と西口の改札口がある。プラットフォームから見える博物館は駅より東側にあるのに、案内看板では西口から降りるように書いてある。通路がないのか?
駅の外には見逃すことのない大きな看板があって、
西口から出て東方向へ歩いて行く。
エスカレーターかと思いきや、
階段形ではなく、いわゆる動く歩道だった。
高床式の構造を模した?
でも高床式って江戸じゃなくって縄文時代の建築様式だと思うけど。
床下部分。
振り返ると国技館の屋根が見える。
チケット売り場。
それほど混雑はしていないと安心したが。
石碑じゃないし、こういうものはなんと呼ぶのだったっけ? 鈴木知事の字は読みやすいけど字のバランスが悪いかも。ちなみに都知事は猪瀬←石原←青島←鈴木←美濃部の順。ところで猪瀬知事の5000万円騒動ってなんだったんだろうね。改革嫌いの連中が千載一遇のチャンスとばかりに、よってたかって揚げ足取りをしたような印象。
これは6階の常設展示場に行くエレベーターで、
企画展がある1階にはこのエレベーターで降りていく。
ということはこの広場は何階?
1階の様子。
チケット売り場のイメージとは違いかなり人が多い。
巨大な熊手の飾り物。
手の部分は見えないが。
ここから展示会場に入る。
ーーー続く。
両国駅は東口と西口の改札口がある。プラットフォームから見える博物館は駅より東側にあるのに、案内看板では西口から降りるように書いてある。通路がないのか?
駅の外には見逃すことのない大きな看板があって、
西口から出て東方向へ歩いて行く。
エスカレーターかと思いきや、
階段形ではなく、いわゆる動く歩道だった。
高床式の構造を模した?
でも高床式って江戸じゃなくって縄文時代の建築様式だと思うけど。
床下部分。
振り返ると国技館の屋根が見える。
チケット売り場。
それほど混雑はしていないと安心したが。
石碑じゃないし、こういうものはなんと呼ぶのだったっけ? 鈴木知事の字は読みやすいけど字のバランスが悪いかも。ちなみに都知事は猪瀬←石原←青島←鈴木←美濃部の順。ところで猪瀬知事の5000万円騒動ってなんだったんだろうね。改革嫌いの連中が千載一遇のチャンスとばかりに、よってたかって揚げ足取りをしたような印象。
これは6階の常設展示場に行くエレベーターで、
企画展がある1階にはこのエレベーターで降りていく。
ということはこの広場は何階?
1階の様子。
チケット売り場のイメージとは違いかなり人が多い。
巨大な熊手の飾り物。
手の部分は見えないが。
ここから展示会場に入る。
ーーー続く。
2014年01月01日
今年も元旦に葉山
小さい子供がいれば「いくちゅ?」と尋ねるのが「初めまして」に代わる挨拶のようなもの。それで幼い頃の記憶をたどると、ジイさんやバアさん達は満年齢よりも数え歳で年齢を表すことを好んでいたように思える。数え歳は今では滅多に使わないので念のために書いておくと、生まれた時が1歳で、誕生日ではなく1月1日ごとに年齢が1歳上がるというもの。だから大晦日に生まれた赤ちゃんは次の日に2歳となる。1日違いで1月1日に生まれた赤ちゃんは1歳だから、ずいぶんおおざっぱな年齢計算となるが、家族親戚一同全員が元旦に誕生日を迎えるようなものだから、昔のお正月は今よりもっとめでたいものだったのかもしれない。それはともかく謹賀新年あけましておめでとうございます。
東京はやたら暖かい元旦。というわけで昨日にバイクの走り納めをしたばかりなのに、本日は初乗りツーリング。 去年と同じくぶらっと湘南まで。正月風景をあちこちから中継するテレビの情報で、今日は湘南の海岸から富士山が見られないことはわかっていたものの、何となく年の初めに広い海を眺めてすがすがしい気分になろうかと。
去年の元旦は立石公園だったから今年は葉山の海岸に行くことにした。横浜横須賀道路を横須賀インターで降りて、少し走ってから県道27号線で西に向かえば葉山だが、曲がるところを間違え佐島のほうにでてしまった。地図では横須賀市の文字にかかっているルート。今年は迷い多き1年になるかな(^^ゞ ナビは走っている道路が何号線かを教えてくれるが、ここを走っている時は「道路走行中」としか表示しなかったからかなりローカルな道路。でも別に細くもないし、クネクネして楽しいルートだった。
本日はかなり風が強く高速道路上でも怖かった。それで海岸沿いの国道134号線に出てみると、海は大荒れで沖のほうまで白波。今年は迷いに加えて波乱のある1年になる予感?
葉山公園到着。
写真に風がうつらなくて残念。海岸の風の強さは道路の比じゃない。バイクで走っている時以上の風を感じる。どれくらい風が強いかというと、ポットに入れたコーヒーを持って出かけたが、それをコップに注ごうとしたらコーヒーが風に飛ばされてしまった!
海はこんな状態。
葉山公園より南の立石や長者ヶ崎のほうが、もっと波が大きかった。昨日と同じく何となく霞んだような天気。江ノ島もボンヤリとしか見えない。
荒れたところを少しアップで。
いつもなら波打ち際ギリギリでローアングルで撮る。でも本日はちょっとビビってやめておいた。正月から波にさらわれたらシャレにならないし。悔しいので砂をローアングルで撮ってみる。
初乗りサーファー。
公園は砂浜より一段高いところにある。そこでもコーヒーが飛ばされたが、砂浜に降りてみると風はさらに強い。砂が舞って顔に当たるので痛かった。
以前にも紹介したこの橋を渡ると葉山御用邸の前の海岸に出る。
バッシャーンと波が砕け散る。
防波堤が途切れたところに波待ちサーファー。
風で海が荒れているだけだから、乗れるような波は入っていなかった。
気合いの入った釣り人。
こんな荒れた海でも釣れるの?
少し海に突き出した場所がある。
以前に訪れた時は潮が引いていて、もっと先まで行けたが。
とにかく強風で、たまによろける位だった。しかし、そんな強風の中をブラブラ歩くというのも滅多にできない体験で、強風に身を任せるというのが意外におもしろい。写真の岬のようなところで風と戯れてしばらく遊ぶ。いい歳して正月早々何をやっている私! 駐車場に戻ってミラーで見ると、髪の毛がサリーちゃんのパパになっていた(^^ゞ
12時半出発で午後4時帰宅。走行120キロ。
新年らしさは微塵もなかったが楽しいお正月ツーリング。
今年は風まかせでいってみようか。