2014年10月
2014年10月29日
オルセー美術館展 印象派の誕生 描くことの自由 その2
展示会の構成は
1:マネ、新しい絵画
2:レアリスムの諸相
3:歴史画
4:裸体
5:印象派の風景
6:静物
7:肖像
8:近代生活
9:円熟期のマネ
と細かく分かれている。マネで前後を挟んで印象派、アカデミスム、レアリスムと当時の流派の作品をまんべんなく見せる企画。印象派の作品が登場するのは第5コーナーから。
「かささぎ」 モネ
雪景色を描いた絵だから画面はほとんど白で埋められている。こういうのはパソコンの画面で見るのと、実際に目にする違いは大きい。この絵は光りに満ちあふれていた。大雪が降った後やスキー場などでピーカン晴れの時、冬でもまるで夏のように明るい日差しの時があるが、それと同じような雰囲気を感じる。
これは1868〜69年に描かれたモネがメジャーデビューした頃の作品。印象派が始まったとされる第1回印象派展が1874年。後に光りの画家と呼ばれるモネは、そのキャリアの早い時期から光りの描き分けにセンスがあったことがわかる。ちなみに明治維新が1868年ね。
タイトルの「かささぎ」とは鳥の名前。左側の橋に黒い鳥が留まっている。
「トルーヴィルの海岸」 ウジューヌ・ブーダン
どこか見覚えのある絵だと思ったら、ポーラ美術館のモネ展で見たのと同じ画家の同じテーマの絵だった。タッチはこちらの方がラフで印象派的。
改めて調べてみると、ウジューヌ・ブーダンは海の絵を多く描いている。海の風景を描いたものを海景画というらしい。彼は海景画のスペシャリストといってもいいと思うが、海よりも空が画面の多くを占めているのが特徴。その空の描き方にファンが多く「空の王者」とも呼ばれているらしい。海と空の二冠達成?
「アルジャントゥイユのレガッタ」 モネ
水面に映り混んでいる帆や家が途切れ途切れに描かれているのが、この絵のハイライト。現実の姿を観察的に写し取るのではなく、自分が感じた印象をキャンバスに再構成するのが印象派の印象派たるゆえん。感じたままに描くということだからデフォルメや強調あるいは省略が不可欠のテクニックとなる。この絵はたぶん、水面に映っている帆や家が水面で「揺れている」ということを表現したかったんじゃないかな。そのための途切れ途切れな描写だと思う。
レガッタというのはオールで漕ぐボートのことだと思っていたから、ついでに調べてみた。通常は漕ぐボートを指すが帆船やヨットも含まれるとのこと。また原動機なしの船が原則だが、そうでない場合もレガッタと呼ばれる場合もあるらしい。ナンデモエエンカイ! しかしレガッタはそれらの船を使った競技のことである。この絵を見て競技のスピード感を感じることは難しい。どう見たってのどかな風景だしヨットは停泊中に見える。モネに「はい、描き直し」といってみたいなあ。
「家族の集い」 フレデリック・バジール
「テーブルの片隅」 アンリ・ファンタン=ラトゥール
どちらも大勢の人物が描かれた集合写真のような肖像画。両方の絵で合計19名が描かれているが、そろいも揃って全員無表情である。この頃はそういう流儀だったのかな。少しぐらい微笑んでもよさそうなものなのに。絵というか場面としてどこか不気味である。
1人だけが描かれている普通の肖像画なら無表情でもまったく気にならない。集合肖像画だと不気味に感じるのは、やはり人間関係には笑顔が必要ということなのかも。皆さん、笑顔を心掛けましょう。口角(口の端っこ)を上げるようにすると感じのいい微笑みになるといわれている。しかし口角を上げると鼻の穴が膨らむんだよなあ(^^ゞ
「手袋の婦人」 カロリュス=デュラン
右手の手袋が床に落ちているのをのぞけば、時に凝ったところもないごくごく普通の肖像画。もっとも印象派的なデフォルメをするなら別だが、写実的な肖像画ならあまり変わったことはできない。それでもいいなと思える肖像画と、そうでない肖像画に好みが分かれるのが絵のおもしろいところ。この絵は心軽やかでで楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
印象派が誕生した19世紀中頃、フランスでは肖像画の需要がものすごく高かったらしい。サロン(国が開く大規模なコンクール)に出品される作品の1/4位が肖像画で占められていた。台頭してきたブルジョア階級がその発注主とされる。このブルジョアというのも知っているようでよく理解していない言葉。今風にいうなら富裕層とかセレブというような意味かな。フランスの場合、18世紀後半にフランス革命によって貴族から市民が主役になった。それからいろいろあったけれど、50〜60年経って市民に金持ち層が増えてきたということだろう。産業革命もほぼ同時期に進行した出来事である。
「死の床のカミーユ」 モネ
これが肖像画に分類されるのかどうかはわからない。モネの妻であり、しばしば絵のモデルとしても描かれていたカミーユの亡骸。いわゆる産後の肥立ちの悪さが原因で次男を生んだ半年後に他界。享年32才。
妻の遺体をモデルにするなんて反則技とも思うが、モネは彼女の死を看取った後、反射的に筆をとり絵を描き始めたと後に述懐している。愛する人の最後の姿を絵に残しておきたいというのは画家としての本能というか画家バカというか。しかも普段とは違う顔色の変化(死んでいるからね)を懸命に追っていたともいっているからなおさらである。
カミーユを失った哀しみがあらわれているのか、あるいはモネの筆が確かなのか、ラフなタッチで描かれているのにこの絵は結構リアルである。死んだ人の顔を見た経験があるなら、タイトルを読まなくても何が描かれているかは瞬時にわかる。心に何かが突き刺さるような感覚を覚える、ある意味、絵というものの凄さを教えてくれる作品でもある。
「草上の昼食」 モネ
おかしな形になっているのは傷んだ部分が切り落とされているから。これを描き上げた当時、モネは家賃が払えなくて絵を大家さんに差し出したか差し押さえられたかした。20年近く経って買い戻したが、保管状態がかなり悪かったらしい。切り落としたのは仕方ないとして2分割しなくてもよかったとも思うが。オリジナルのサイズは縦4メートル横6メートルと巨大な作品。
この絵は1つ前のエントリーで紹介したマネの「笛を吹く少年」とともに、この展示会の目玉作品ツートップである。ほとんどフランス国外に貸し出されたことがなく、またモネにとっても記念碑的な作品らしい。
でも私の目はおかしいのかなあ?
「笛を吹く少年」もそうだったが、いい絵と思わなかったのは趣味の問題として、この絵のどこがそんなにすごいのかさっぱりわからなかった。日差しが明るくて気持ちよさそうと思った程度。人物も風景も描き方が中途半端。写実的でもなく印象派的な省略形でもなく、漫画っぽいというか挿絵みたいというか。まっ、世間と意見が合わないのは珍しいことじゃないけど。
「サン=ラザール駅」 モネ
タイトル通り駅の風景を描いた絵。サン=ラザール駅はパリの主要駅のひとつ。ヨーロッパの昔の駅は線路より高くなったプラットフォームがないところが多い。この駅は1837年開業。モネやマネ、セザンヌ、ルノワールといった印象派の画家達と同世代。駅や列車が絵に描かれていると、それほど遠い昔の絵じゃないとわかる。
蒸気機関車の煙突から出る煙や、車輪のあたりから吹き出される蒸気が駅舎の中に漂っていて、それがモヤーッと視界を遮っていい雰囲気。まさに絵になる光景。パッと見ではモネらしい光りの描き分けは感じないが、よく見れば煙や蒸気に反射させたりしている。もう普通に光りを描くだけじゃ飽き足らなくなったのかも。後にモネはモヤばかりで何を描いているのかわからないような絵を描き出す時期がある。それらは名作とされているが例によって私には理解不能。モネはシリーズものの多い画家でこの駅をテーマに12作品を描いている。サン=ラザール駅が最初のシリーズものらしいが、12枚もモヤモヤを描いているうちにモヤに取り憑かれたのかもしれない。
「婦人と団扇」 マネ
寝そべって頬杖をすると顔がちょっと歪む。そこはそんなに写実的に描かなくてもいいのにとか、後頭部を支えるようにポーズをさせればいいのにとか思うが、目のあたりが少しムギュとなってしまったところがこの絵のアイキャッチでもある。
後ろの壁に見えるのは屏風(びょうぶ)で鶴が描かれている。その屏風には貼り付けられた団扇(うちわ)が何枚か。笠をかぶった江戸時代っぽい女性が描かれた団扇もある。どこかの女性大臣の辞任の原因となったウチワとはずいぶん違う(^^ゞ
日本風のインテリアなのは、当時のフランスではジャポニスムが流行っていたから。直訳すれば日本主義とか日本趣味というような意味。あるいは日本かぶれ。ペリーの黒船来港が1853年。その頃から徐々に日本の美術品、工芸品はては着物や日用品までがヨーロッパにも知られるようになった。フランスでは印象派の画家達が台頭してきた時代で、特に浮世絵は彼らの画風に影響を与えたといわれている。もっともアカデミスムやレアリスムの画家達は浮世絵を気に入ったとしても、西洋画とはまったく違う様式の絵だから、自分たちの絵に取り入れることはできなかっただろうけど。
ジャポニスムが美術界だけの現象だったのが、もう少し世間一般にも広まっていたのかはよく知らない。浮世絵が印象派に影響を与えたとはよくいわれるが、単に物珍しかった、東洋的なものにエキゾチズムを感じただけかも知れない。文明開化の日本人が「ハイカラ」なものを好んだのと同じ。浮世絵が印象派に影響を与えた=日本は優れていたと、ことさらに自慢する論法を私は好まない。でも印象派の巨匠達の多くの作品に日本的なものが描かれていたり、浮世絵に似たような部分を見つけるのは素直にうれしいものである。
モデルになっているのはサロンを主催していた女性。ここでいうサロンはコンクールの展示会ではなく、画家や詩人などの文化人の交流の場のこと。彼女の家に集まって議論したりバカ騒ぎしていたんだろう。彼女はくたびれた感じはするが、人がよさそうである。もっと昔、サロンは貴族や上流階級の社交界を意味した。こんなオバチャンがサロンの女主人というのも時代が近代になったということである。
最初のエントリーに書いたように今の私は印象派敬遠期。セザンヌやルノワールもたくさん展示されていたが、あまり気が乗らず。特にセザンヌがいけない。風景画や肖像画は手抜きのやっつけ仕事にしか見えなかった。ただし彼の静物画はやはりおもしろい。1周回って、またそのうちファンになるだろう。マネをまとめてみたのはたぶん初めて。まあ普通かな。展示会ではどうしてもガツンとくる絵に目がいってしまう。マネは毎日眺めている分には意外といいかもしれない。買えないけど(^^ゞ
国立新美術館内部の様子。
ガラスの壁を内側から撮ると夜みたいになってしまった。
おしまい。
1:マネ、新しい絵画
2:レアリスムの諸相
3:歴史画
4:裸体
5:印象派の風景
6:静物
7:肖像
8:近代生活
9:円熟期のマネ
と細かく分かれている。マネで前後を挟んで印象派、アカデミスム、レアリスムと当時の流派の作品をまんべんなく見せる企画。印象派の作品が登場するのは第5コーナーから。
「かささぎ」 モネ
雪景色を描いた絵だから画面はほとんど白で埋められている。こういうのはパソコンの画面で見るのと、実際に目にする違いは大きい。この絵は光りに満ちあふれていた。大雪が降った後やスキー場などでピーカン晴れの時、冬でもまるで夏のように明るい日差しの時があるが、それと同じような雰囲気を感じる。
これは1868〜69年に描かれたモネがメジャーデビューした頃の作品。印象派が始まったとされる第1回印象派展が1874年。後に光りの画家と呼ばれるモネは、そのキャリアの早い時期から光りの描き分けにセンスがあったことがわかる。ちなみに明治維新が1868年ね。
タイトルの「かささぎ」とは鳥の名前。左側の橋に黒い鳥が留まっている。
「トルーヴィルの海岸」 ウジューヌ・ブーダン
どこか見覚えのある絵だと思ったら、ポーラ美術館のモネ展で見たのと同じ画家の同じテーマの絵だった。タッチはこちらの方がラフで印象派的。
改めて調べてみると、ウジューヌ・ブーダンは海の絵を多く描いている。海の風景を描いたものを海景画というらしい。彼は海景画のスペシャリストといってもいいと思うが、海よりも空が画面の多くを占めているのが特徴。その空の描き方にファンが多く「空の王者」とも呼ばれているらしい。海と空の二冠達成?
「アルジャントゥイユのレガッタ」 モネ
水面に映り混んでいる帆や家が途切れ途切れに描かれているのが、この絵のハイライト。現実の姿を観察的に写し取るのではなく、自分が感じた印象をキャンバスに再構成するのが印象派の印象派たるゆえん。感じたままに描くということだからデフォルメや強調あるいは省略が不可欠のテクニックとなる。この絵はたぶん、水面に映っている帆や家が水面で「揺れている」ということを表現したかったんじゃないかな。そのための途切れ途切れな描写だと思う。
レガッタというのはオールで漕ぐボートのことだと思っていたから、ついでに調べてみた。通常は漕ぐボートを指すが帆船やヨットも含まれるとのこと。また原動機なしの船が原則だが、そうでない場合もレガッタと呼ばれる場合もあるらしい。ナンデモエエンカイ! しかしレガッタはそれらの船を使った競技のことである。この絵を見て競技のスピード感を感じることは難しい。どう見たってのどかな風景だしヨットは停泊中に見える。モネに「はい、描き直し」といってみたいなあ。
「家族の集い」 フレデリック・バジール
「テーブルの片隅」 アンリ・ファンタン=ラトゥール
どちらも大勢の人物が描かれた集合写真のような肖像画。両方の絵で合計19名が描かれているが、そろいも揃って全員無表情である。この頃はそういう流儀だったのかな。少しぐらい微笑んでもよさそうなものなのに。絵というか場面としてどこか不気味である。
1人だけが描かれている普通の肖像画なら無表情でもまったく気にならない。集合肖像画だと不気味に感じるのは、やはり人間関係には笑顔が必要ということなのかも。皆さん、笑顔を心掛けましょう。口角(口の端っこ)を上げるようにすると感じのいい微笑みになるといわれている。しかし口角を上げると鼻の穴が膨らむんだよなあ(^^ゞ
「手袋の婦人」 カロリュス=デュラン
右手の手袋が床に落ちているのをのぞけば、時に凝ったところもないごくごく普通の肖像画。もっとも印象派的なデフォルメをするなら別だが、写実的な肖像画ならあまり変わったことはできない。それでもいいなと思える肖像画と、そうでない肖像画に好みが分かれるのが絵のおもしろいところ。この絵は心軽やかでで楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
印象派が誕生した19世紀中頃、フランスでは肖像画の需要がものすごく高かったらしい。サロン(国が開く大規模なコンクール)に出品される作品の1/4位が肖像画で占められていた。台頭してきたブルジョア階級がその発注主とされる。このブルジョアというのも知っているようでよく理解していない言葉。今風にいうなら富裕層とかセレブというような意味かな。フランスの場合、18世紀後半にフランス革命によって貴族から市民が主役になった。それからいろいろあったけれど、50〜60年経って市民に金持ち層が増えてきたということだろう。産業革命もほぼ同時期に進行した出来事である。
「死の床のカミーユ」 モネ
これが肖像画に分類されるのかどうかはわからない。モネの妻であり、しばしば絵のモデルとしても描かれていたカミーユの亡骸。いわゆる産後の肥立ちの悪さが原因で次男を生んだ半年後に他界。享年32才。
妻の遺体をモデルにするなんて反則技とも思うが、モネは彼女の死を看取った後、反射的に筆をとり絵を描き始めたと後に述懐している。愛する人の最後の姿を絵に残しておきたいというのは画家としての本能というか画家バカというか。しかも普段とは違う顔色の変化(死んでいるからね)を懸命に追っていたともいっているからなおさらである。
カミーユを失った哀しみがあらわれているのか、あるいはモネの筆が確かなのか、ラフなタッチで描かれているのにこの絵は結構リアルである。死んだ人の顔を見た経験があるなら、タイトルを読まなくても何が描かれているかは瞬時にわかる。心に何かが突き刺さるような感覚を覚える、ある意味、絵というものの凄さを教えてくれる作品でもある。
「草上の昼食」 モネ
おかしな形になっているのは傷んだ部分が切り落とされているから。これを描き上げた当時、モネは家賃が払えなくて絵を大家さんに差し出したか差し押さえられたかした。20年近く経って買い戻したが、保管状態がかなり悪かったらしい。切り落としたのは仕方ないとして2分割しなくてもよかったとも思うが。オリジナルのサイズは縦4メートル横6メートルと巨大な作品。
この絵は1つ前のエントリーで紹介したマネの「笛を吹く少年」とともに、この展示会の目玉作品ツートップである。ほとんどフランス国外に貸し出されたことがなく、またモネにとっても記念碑的な作品らしい。
でも私の目はおかしいのかなあ?
「笛を吹く少年」もそうだったが、いい絵と思わなかったのは趣味の問題として、この絵のどこがそんなにすごいのかさっぱりわからなかった。日差しが明るくて気持ちよさそうと思った程度。人物も風景も描き方が中途半端。写実的でもなく印象派的な省略形でもなく、漫画っぽいというか挿絵みたいというか。まっ、世間と意見が合わないのは珍しいことじゃないけど。
「サン=ラザール駅」 モネ
タイトル通り駅の風景を描いた絵。サン=ラザール駅はパリの主要駅のひとつ。ヨーロッパの昔の駅は線路より高くなったプラットフォームがないところが多い。この駅は1837年開業。モネやマネ、セザンヌ、ルノワールといった印象派の画家達と同世代。駅や列車が絵に描かれていると、それほど遠い昔の絵じゃないとわかる。
蒸気機関車の煙突から出る煙や、車輪のあたりから吹き出される蒸気が駅舎の中に漂っていて、それがモヤーッと視界を遮っていい雰囲気。まさに絵になる光景。パッと見ではモネらしい光りの描き分けは感じないが、よく見れば煙や蒸気に反射させたりしている。もう普通に光りを描くだけじゃ飽き足らなくなったのかも。後にモネはモヤばかりで何を描いているのかわからないような絵を描き出す時期がある。それらは名作とされているが例によって私には理解不能。モネはシリーズものの多い画家でこの駅をテーマに12作品を描いている。サン=ラザール駅が最初のシリーズものらしいが、12枚もモヤモヤを描いているうちにモヤに取り憑かれたのかもしれない。
「婦人と団扇」 マネ
寝そべって頬杖をすると顔がちょっと歪む。そこはそんなに写実的に描かなくてもいいのにとか、後頭部を支えるようにポーズをさせればいいのにとか思うが、目のあたりが少しムギュとなってしまったところがこの絵のアイキャッチでもある。
後ろの壁に見えるのは屏風(びょうぶ)で鶴が描かれている。その屏風には貼り付けられた団扇(うちわ)が何枚か。笠をかぶった江戸時代っぽい女性が描かれた団扇もある。どこかの女性大臣の辞任の原因となったウチワとはずいぶん違う(^^ゞ
日本風のインテリアなのは、当時のフランスではジャポニスムが流行っていたから。直訳すれば日本主義とか日本趣味というような意味。あるいは日本かぶれ。ペリーの黒船来港が1853年。その頃から徐々に日本の美術品、工芸品はては着物や日用品までがヨーロッパにも知られるようになった。フランスでは印象派の画家達が台頭してきた時代で、特に浮世絵は彼らの画風に影響を与えたといわれている。もっともアカデミスムやレアリスムの画家達は浮世絵を気に入ったとしても、西洋画とはまったく違う様式の絵だから、自分たちの絵に取り入れることはできなかっただろうけど。
ジャポニスムが美術界だけの現象だったのが、もう少し世間一般にも広まっていたのかはよく知らない。浮世絵が印象派に影響を与えたとはよくいわれるが、単に物珍しかった、東洋的なものにエキゾチズムを感じただけかも知れない。文明開化の日本人が「ハイカラ」なものを好んだのと同じ。浮世絵が印象派に影響を与えた=日本は優れていたと、ことさらに自慢する論法を私は好まない。でも印象派の巨匠達の多くの作品に日本的なものが描かれていたり、浮世絵に似たような部分を見つけるのは素直にうれしいものである。
モデルになっているのはサロンを主催していた女性。ここでいうサロンはコンクールの展示会ではなく、画家や詩人などの文化人の交流の場のこと。彼女の家に集まって議論したりバカ騒ぎしていたんだろう。彼女はくたびれた感じはするが、人がよさそうである。もっと昔、サロンは貴族や上流階級の社交界を意味した。こんなオバチャンがサロンの女主人というのも時代が近代になったということである。
最初のエントリーに書いたように今の私は印象派敬遠期。セザンヌやルノワールもたくさん展示されていたが、あまり気が乗らず。特にセザンヌがいけない。風景画や肖像画は手抜きのやっつけ仕事にしか見えなかった。ただし彼の静物画はやはりおもしろい。1周回って、またそのうちファンになるだろう。マネをまとめてみたのはたぶん初めて。まあ普通かな。展示会ではどうしてもガツンとくる絵に目がいってしまう。マネは毎日眺めている分には意外といいかもしれない。買えないけど(^^ゞ
国立新美術館内部の様子。
ガラスの壁を内側から撮ると夜みたいになってしまった。
おしまい。
2014年10月26日
オルセー美術館展 印象派の誕生 描くことの自由
こういう角度だと正体不明だが、
六本木にある国立新美術館。
訪れたのは2週間ほど前。その時はオルセー美術館展とチューリヒ美術館展が同時開催中。両方まとめて見る時間はなく、チューリヒ展は12月までやっているのでオルセー展に。
オルセー美術館といえば印象派の作品で有名。印象派を集めているというより、この美術館は19世紀中頃から20世紀中頃までが守備範囲なので結果的に印象派が多いらしい。
絵に興味を持つきっかけとなったのはルノワールだった(ような気がする)から、印象派の絵はなじみ深い。でも最近はあまり印象派が好きじゃない。クラシック音楽にも似たような傾向があって、例えばモーツアルトなら「こんなに美しくて楽しい音楽はない」と心酔している時期と「ワンパターンでお約束だらけの音楽」と敬遠する時期がある。今の印象派は後者の時期。しかし自由にCDを掛け替えられる音楽と違って、絵の場合は開催されている展示会から選ぶしかない。でもまあ敬遠気味の印象派でも見れば見たで楽しいのである。
この展示会のセールポイントは2つ。
マネの作品が多いこととモネの大作があること。
それにしてもマネとモネ
どちらも印象派だし実にややこしい(>_<)
モネはいろいろな絵を描いているが睡蓮のシリーズが有名。だから私は睡蓮がモネ、そうでないほうがマネと覚えている。なぜかモネはクロード・モネとフルネームを言えるが、マネがエドゥアール・マネであることはすぐに忘れるのが不思議。
「笛を吹く少年」 エドゥアール・マネ
ポスターにも使用されているし、今回の目玉作品であることは間違いない。誰もがどこかで目にしたことがある絵。
でも本物を前にしても特に何も感じない絵だった。この絵が発表された時、背景を何も描かず塗りつぶしていあるからトランプの絵と批判されたらしい。それは従来の伝統との対立した観点からの意見で、私にそんなことは関係ない。ビジュアル的には少年がポッと浮いているようでインパクトがある。しかし、それだけという感じがする。ある意味、不思議な絵だった。
「晩鐘」 ミレー
ミレーといえば「落ち穂拾い」。でもヨーロッパではこの「晩鐘」の方が評価が高いらしい。晩鐘は夕方に鳴らされる教会の鐘で、農作業の手を止めてお祈りしているところ。ミレーは印象派ではなくバルビゾン派に属する。バルビゾンという村に住み農民画や風景画を描いたグループ。
どこから見てもミレーの絵。素朴さ、勤勉さ、人間らしさが溢れている。何か忘れてしまったようなものばかりで心を打たれる(^^ゞ
話は変わるが、先日の三浦半島にツーリングして畑の中で写真を撮った時のこと。バイクを停めた近くには農家の人もいた。その人達が写り混まないように撮ったのだけれど、どこを撮ろうかとアングルを考えている時、逆光で黒いシルエットになった人たちが中腰で農作業している姿は、まるでミレーの絵みたいだった。こちらの都合のいい構図にならなかったので写真は撮らなかったが、そのうちそういう写真にも挑戦してみようかと思う。
「干し草」 ジュール・バスティアン=ルパージュ
これもミレーと同じく写実主義的な作品。絵が気に入ったというより、描かれている女性が日本人というか縄文人みたいな顔なのがやたら印象に残ったので紹介。
「ローマのペスト」 エリー・ドローネ
羽根をはやしているのはもちろん天使。ナゼか黒い服を着た悪魔を連れており、天使が命令して悪魔が杖で扉を叩くと、叩いた数だけその家から死人が出るというよく理解できないシチュエーションが描かれている。
ダイナミックな構図で絵としても興味深い。それよりも展示会でこの絵を見たほとんどの人がエボラ熱のことを連想したんじゃないかな。いずれ日本にも入ってくることは避けられないと思うが、こんな光景にならないことを願う。
「フランス遠征、1814年」 エルネスト・メッソニエ
説明なしでも先頭の人物はナポレオンとわかる。しかしナポレオンはフランス人なのにフランス遠征とは?である。ナポレオンの時代はフランスvsその他の国々という対決構図。この絵の背景を超簡単に書くと、ロシアに攻め込んで帰る途中に他国がフランスに侵攻。それでフランスが戦場となるわけだが、なぜか歴史ではそれがナポレオンのフランス遠征と呼ばれている。
いかにも威風堂々とした行進風景。でも、この頃のナポレオンは絶不調の下り坂である。ロシア侵攻で壊滅的に兵力を失ったし、その後に再建した軍団も連敗続き。だからフランス遠征はまさに背水の陣。実際、この年にナポレオンは皇帝を退位させられエルバ島に追放されている。
30才くらいの頃、ナポレオンの3冊ほどにわたる長い伝記を読んだ。残念ながら内容つまり彼の生涯の細かなことはほとんど覚えていない。でも魅力的な人物や行動だったことは印象に残っている。時代も生い立ちも違うが信長に似たワクワク感があった。エルネスト・メッソニエはフランス人の画家だから、ナポレオンに対する贔屓目が絵にでてるように思う。ドラマなどで信長の最後が堂々とした立ち振る舞いになるのと同じ。でも気合いたっぷりなナポレオンの表情に較べて、後ろに続く将軍?達が少し元気なさそうに思えるのは私の気のせいか、あるいはこの後のナポレオンの運命を暗示しているのか。
「ベリュスの婚約者」 アンリ・ポール・モット
裸の女性が神を模したような像の真ん中に置かれ、下にはライオンがいて逃げ出せない。画面右側には引き揚げていく司祭のような謎の集団。生け贄?わーっ残酷!と思ってしまうが、解説によると女性は1日ここにいるだけで次の日には別の女性と交代するシステム。このよくわからない儀式は古代バビロニア(今のイラクあたり)の風習らしい。そんな伝説にヒントを得て目立つ絵を描いてやろうと思ったのがこの作品だろう。
まんまと罠にはまってしまった(^^ゞ
「ダンテとウェルギリウス」 ウイリアム・ブグロー
何が描かれているかは一目瞭然。小さな子供が見たらトラウマになりそうな絵である。これはダンテの神曲の一節を絵にしたもの。
ダンテの神曲ーーー名前はよく聞くが中身はまったく知らない。調べてみると1265年生まれのイタリアの詩人ダンテの代表作であり、イタリアで不動の地位を占める古典。日本の源氏物語みたいな位置づけか。もっともラブストーリーの源氏物語と違って、神曲は地獄、煉獄、天国を旅するというもの。ウェルギリウスは紀元前70年の古代ローマの詩人。神曲ではウェルギリウスがダンテを地獄と煉獄に案内するという筋立てになっている。ちなみに煉獄(れんごく)とは天国と地獄の中間だが厳しいところらしい。
この絵はタイトルがおかしい。争っているのはダンテとウェルギリウスではなく地獄に堕ちている罪人同士。その後ろにいて背中を見せているのがウェルギリウスでその隣がダンテである。罪人は噛みついているのがスキッキで劣勢なのがカポッキオという名前。この戦いの背景までは調べていないが、タイトルは絵の中心である「スキッキとカポッキオ」であるべきでしょ。
これは作者のウイリアム・ブグローが人間の身体を正確に、つまり解剖学的に正しいデッサンができる能力があることを示すために描いたらしい。目的に対して実に適切な課題の選び方である。ブグローをプレゼンテーション・テクニックの元祖と呼ぶことにしよう。「スキッキとカポッキオ」ではなく「ダンテとウェルギリウス」をタイトルにしたのは展覧会の書類審査に通るためだったりして。
「ヴィーナスの誕生」 アレクサンドル・カバネル
怖い怖い絵の後は打って変わって天上界の美しさ。印象派とは対極にある古典的な作品はアカデミスムと総称される。当時のフランスで主流だったアカデミスムに対抗したのが印象派でありレアリスム(写実主義)である。
いろんな主義主張があって対立したんだろうけれど、その切磋琢磨があってたくさんの名作が生まれたことは喜ばしい限り。やはり進歩の源泉は競争かな。
アカデミスムを旧守派として批判したのが印象派。印象派が成功したからアカデミスムは古くさい絵という位置づけになっている。でもアカデミスムに限らず、こういう古典的な絵はけっこう好き。それはたぶん印象派な絵は日本人でも描けるが、アカデミスムは西洋的な価値観や歴史を反映しているから。つまり日本人である私にとっては見ていて非日常的な感覚を味わえる。そしてこの絵もそうだが極上に美しいものが多い。
ところで、ご存じヴィーナスは愛と美の女神。でも彼女は母親の命令によって息子が切り落として海に投げ捨てた父親(この家族は全員神様ね)のオチンチンから生まれたって知ってた? だからヴィーナスは海にいたり貝殻の上に立っている絵が多い。
「真理」 ジュール・ルフェーブル
シンプルな絵ではある、ズシンと響いてくるようなインパクトがあった。「ヴィーナスの誕生」が空想的に美しいとすれば、こちらは生身の美しさ。高く掲げているのは鏡かな。単に抜群のプロポーションに目を奪われたのではなく、美の真理を感じとったと信じたい(^^ゞ
ーーー続く
六本木にある国立新美術館。
訪れたのは2週間ほど前。その時はオルセー美術館展とチューリヒ美術館展が同時開催中。両方まとめて見る時間はなく、チューリヒ展は12月までやっているのでオルセー展に。
オルセー美術館といえば印象派の作品で有名。印象派を集めているというより、この美術館は19世紀中頃から20世紀中頃までが守備範囲なので結果的に印象派が多いらしい。
絵に興味を持つきっかけとなったのはルノワールだった(ような気がする)から、印象派の絵はなじみ深い。でも最近はあまり印象派が好きじゃない。クラシック音楽にも似たような傾向があって、例えばモーツアルトなら「こんなに美しくて楽しい音楽はない」と心酔している時期と「ワンパターンでお約束だらけの音楽」と敬遠する時期がある。今の印象派は後者の時期。しかし自由にCDを掛け替えられる音楽と違って、絵の場合は開催されている展示会から選ぶしかない。でもまあ敬遠気味の印象派でも見れば見たで楽しいのである。
この展示会のセールポイントは2つ。
マネの作品が多いこととモネの大作があること。
それにしてもマネとモネ
どちらも印象派だし実にややこしい(>_<)
モネはいろいろな絵を描いているが睡蓮のシリーズが有名。だから私は睡蓮がモネ、そうでないほうがマネと覚えている。なぜかモネはクロード・モネとフルネームを言えるが、マネがエドゥアール・マネであることはすぐに忘れるのが不思議。
「笛を吹く少年」 エドゥアール・マネ
ポスターにも使用されているし、今回の目玉作品であることは間違いない。誰もがどこかで目にしたことがある絵。
でも本物を前にしても特に何も感じない絵だった。この絵が発表された時、背景を何も描かず塗りつぶしていあるからトランプの絵と批判されたらしい。それは従来の伝統との対立した観点からの意見で、私にそんなことは関係ない。ビジュアル的には少年がポッと浮いているようでインパクトがある。しかし、それだけという感じがする。ある意味、不思議な絵だった。
「晩鐘」 ミレー
ミレーといえば「落ち穂拾い」。でもヨーロッパではこの「晩鐘」の方が評価が高いらしい。晩鐘は夕方に鳴らされる教会の鐘で、農作業の手を止めてお祈りしているところ。ミレーは印象派ではなくバルビゾン派に属する。バルビゾンという村に住み農民画や風景画を描いたグループ。
どこから見てもミレーの絵。素朴さ、勤勉さ、人間らしさが溢れている。何か忘れてしまったようなものばかりで心を打たれる(^^ゞ
話は変わるが、先日の三浦半島にツーリングして畑の中で写真を撮った時のこと。バイクを停めた近くには農家の人もいた。その人達が写り混まないように撮ったのだけれど、どこを撮ろうかとアングルを考えている時、逆光で黒いシルエットになった人たちが中腰で農作業している姿は、まるでミレーの絵みたいだった。こちらの都合のいい構図にならなかったので写真は撮らなかったが、そのうちそういう写真にも挑戦してみようかと思う。
「干し草」 ジュール・バスティアン=ルパージュ
これもミレーと同じく写実主義的な作品。絵が気に入ったというより、描かれている女性が日本人というか縄文人みたいな顔なのがやたら印象に残ったので紹介。
「ローマのペスト」 エリー・ドローネ
羽根をはやしているのはもちろん天使。ナゼか黒い服を着た悪魔を連れており、天使が命令して悪魔が杖で扉を叩くと、叩いた数だけその家から死人が出るというよく理解できないシチュエーションが描かれている。
ダイナミックな構図で絵としても興味深い。それよりも展示会でこの絵を見たほとんどの人がエボラ熱のことを連想したんじゃないかな。いずれ日本にも入ってくることは避けられないと思うが、こんな光景にならないことを願う。
「フランス遠征、1814年」 エルネスト・メッソニエ
説明なしでも先頭の人物はナポレオンとわかる。しかしナポレオンはフランス人なのにフランス遠征とは?である。ナポレオンの時代はフランスvsその他の国々という対決構図。この絵の背景を超簡単に書くと、ロシアに攻め込んで帰る途中に他国がフランスに侵攻。それでフランスが戦場となるわけだが、なぜか歴史ではそれがナポレオンのフランス遠征と呼ばれている。
いかにも威風堂々とした行進風景。でも、この頃のナポレオンは絶不調の下り坂である。ロシア侵攻で壊滅的に兵力を失ったし、その後に再建した軍団も連敗続き。だからフランス遠征はまさに背水の陣。実際、この年にナポレオンは皇帝を退位させられエルバ島に追放されている。
30才くらいの頃、ナポレオンの3冊ほどにわたる長い伝記を読んだ。残念ながら内容つまり彼の生涯の細かなことはほとんど覚えていない。でも魅力的な人物や行動だったことは印象に残っている。時代も生い立ちも違うが信長に似たワクワク感があった。エルネスト・メッソニエはフランス人の画家だから、ナポレオンに対する贔屓目が絵にでてるように思う。ドラマなどで信長の最後が堂々とした立ち振る舞いになるのと同じ。でも気合いたっぷりなナポレオンの表情に較べて、後ろに続く将軍?達が少し元気なさそうに思えるのは私の気のせいか、あるいはこの後のナポレオンの運命を暗示しているのか。
「ベリュスの婚約者」 アンリ・ポール・モット
裸の女性が神を模したような像の真ん中に置かれ、下にはライオンがいて逃げ出せない。画面右側には引き揚げていく司祭のような謎の集団。生け贄?わーっ残酷!と思ってしまうが、解説によると女性は1日ここにいるだけで次の日には別の女性と交代するシステム。このよくわからない儀式は古代バビロニア(今のイラクあたり)の風習らしい。そんな伝説にヒントを得て目立つ絵を描いてやろうと思ったのがこの作品だろう。
まんまと罠にはまってしまった(^^ゞ
「ダンテとウェルギリウス」 ウイリアム・ブグロー
何が描かれているかは一目瞭然。小さな子供が見たらトラウマになりそうな絵である。これはダンテの神曲の一節を絵にしたもの。
ダンテの神曲ーーー名前はよく聞くが中身はまったく知らない。調べてみると1265年生まれのイタリアの詩人ダンテの代表作であり、イタリアで不動の地位を占める古典。日本の源氏物語みたいな位置づけか。もっともラブストーリーの源氏物語と違って、神曲は地獄、煉獄、天国を旅するというもの。ウェルギリウスは紀元前70年の古代ローマの詩人。神曲ではウェルギリウスがダンテを地獄と煉獄に案内するという筋立てになっている。ちなみに煉獄(れんごく)とは天国と地獄の中間だが厳しいところらしい。
この絵はタイトルがおかしい。争っているのはダンテとウェルギリウスではなく地獄に堕ちている罪人同士。その後ろにいて背中を見せているのがウェルギリウスでその隣がダンテである。罪人は噛みついているのがスキッキで劣勢なのがカポッキオという名前。この戦いの背景までは調べていないが、タイトルは絵の中心である「スキッキとカポッキオ」であるべきでしょ。
これは作者のウイリアム・ブグローが人間の身体を正確に、つまり解剖学的に正しいデッサンができる能力があることを示すために描いたらしい。目的に対して実に適切な課題の選び方である。ブグローをプレゼンテーション・テクニックの元祖と呼ぶことにしよう。「スキッキとカポッキオ」ではなく「ダンテとウェルギリウス」をタイトルにしたのは展覧会の書類審査に通るためだったりして。
「ヴィーナスの誕生」 アレクサンドル・カバネル
怖い怖い絵の後は打って変わって天上界の美しさ。印象派とは対極にある古典的な作品はアカデミスムと総称される。当時のフランスで主流だったアカデミスムに対抗したのが印象派でありレアリスム(写実主義)である。
いろんな主義主張があって対立したんだろうけれど、その切磋琢磨があってたくさんの名作が生まれたことは喜ばしい限り。やはり進歩の源泉は競争かな。
アカデミスムを旧守派として批判したのが印象派。印象派が成功したからアカデミスムは古くさい絵という位置づけになっている。でもアカデミスムに限らず、こういう古典的な絵はけっこう好き。それはたぶん印象派な絵は日本人でも描けるが、アカデミスムは西洋的な価値観や歴史を反映しているから。つまり日本人である私にとっては見ていて非日常的な感覚を味わえる。そしてこの絵もそうだが極上に美しいものが多い。
ところで、ご存じヴィーナスは愛と美の女神。でも彼女は母親の命令によって息子が切り落として海に投げ捨てた父親(この家族は全員神様ね)のオチンチンから生まれたって知ってた? だからヴィーナスは海にいたり貝殻の上に立っている絵が多い。
「真理」 ジュール・ルフェーブル
シンプルな絵ではある、ズシンと響いてくるようなインパクトがあった。「ヴィーナスの誕生」が空想的に美しいとすれば、こちらは生身の美しさ。高く掲げているのは鏡かな。単に抜群のプロポーションに目を奪われたのではなく、美の真理を感じとったと信じたい(^^ゞ
ーーー続く
2014年10月24日
三戸海岸
毎回タイトルを変えているが、10月19日に出かけた三浦半島のマイナースポット巡りの4エントリー目。いつも地図には訪れたところは赤文字、訪れていなくても何か書いたところは青文字で地名を記すことにしている。
さいわいなことに大浦海岸の駐車場では誰からも咎められることなく、気持ちよく立ち去ることができた(^^ゞ
再び畑の中の道を通って三浦半島を東に向かう。適度なクネクネとアップダウンがあっていい道。でも路面に土がのっているところも多く、またカーブを曲がりきったところに農作業の軽トラが駐まっていたりするので油断できない。もっとも前回のエントリーに載せたような、おおらかな畑の風景だから飛ばしたいという気持ちも起こらない。
畑道路を過ぎると県道26号から国道134号に入る。この道は三崎のマグロ観光客でいつも混んでいる。片側1車線の地方道路に大型観光バスも多いからすり抜けも中断しがち。三戸海岸には京急の三崎口駅を過ぎてから海側に降りていく。134号線を外れるとまた畑の光景である。
三戸海岸もナビで検索できるが最後はこれくらい細い道になる。
駐車場は見あたらなかった。大浦海岸に較べれば海岸は広いから、もう少し探せばあったかも知れない。この先はもう浜なのでクルマが通ることはないだろうと、こんなところににバイクを駐める。
ここを抜けて海岸に降りる。
これが三戸海岸。三戸浜海岸とも言う。
西向きの海岸で午後3時くらいなので、真正面は逆光で写真が撮りにくい。
南側の風景。
少し霞んでいる奥の岬は油壺。
北側。突き出している岬の先端は以前に訪れた「黒崎の鼻」。
こじゃれた建物はビーチバムというレストラン&マリンスポーツ基地。そんな施設があって何がマイナースポットだと指摘されそうな気もするが、ここのホームページにも「何もない三戸浜」と書いてある(^^ゞ
南国ムード演出。
営業妨害をする気はないが浜全体は漁村ムードが漂う(^^ゞ
ビーチをブラブラしていたらウインドサーファーが戻ってきた。
そんな光景を眺めていると、突然ビーチにショベルカーが出現!
何やら岸に向かってまっすぐ進んでくるボート。
釣り人が乗ったボートを青い服を着たオッサンが引き寄せて、
台座に固定する。浮力があるとはいえかなりの怪力。
作業を終えるとショベルカーがバックで砂浜を上がり、
あっという間にビーチからボートを撤収。
こういう風にやるんだと感心して眺めていた。
ボートが揚げられたところは格納庫になってる。
三戸海岸の一番北側近く。
小さなベンチがあったので再びコーヒーブレーク。
三浦半島の東側と西側で違うのは、東側は対岸の房総半島が見えること。やっぱり海は広い水平線だけのほうがいい。
目の前を横切る小型のヨット。このクラスは操縦したことがある。小学5年か6年生の頃のYMCAサマーキャンプでの話だから何年前か数えるのも怖い。手軽な体験講習会のようなものがあれば、また乗ってみたいな。
ボケーっとして充分に脳みそを溶かして三戸海岸を後にする。ここはプライベートビーチ感覚というより、他人のプライベートビーチに紛れ込んだような気分。ビーチバムの利用客以外は漁師をのぞくと私しかいなかった。しかし、ほとんど人のいない海もいいけれど、ヨットやボートを眺めているのもまた楽しかった。
ビーチバムの横を通り抜けていく。
プールもあってリッチな雰囲気。
玄関側。
駐まっているクルマを見ると、あまりリッチじゃないかも(^^ゞ
衣笠インターから横浜横須賀道路に乗って、そこからは往きと同じルート。午後5時半頃帰宅。走行170キロ。今回の最大の収穫はいうまでもなく燈明崎。先ほど対岸の見えない水平線がいいと書いたのと矛盾するが、燈明崎の場合はきれいな砂浜と浦賀湾越しに見える建物との対比が美しかった。スイカに塩じゃないが人工物があることで自然が引き立つのだろう。
今後もボチボチとマイナースポット巡りを続けていこうと思う。
おしまい
さいわいなことに大浦海岸の駐車場では誰からも咎められることなく、気持ちよく立ち去ることができた(^^ゞ
再び畑の中の道を通って三浦半島を東に向かう。適度なクネクネとアップダウンがあっていい道。でも路面に土がのっているところも多く、またカーブを曲がりきったところに農作業の軽トラが駐まっていたりするので油断できない。もっとも前回のエントリーに載せたような、おおらかな畑の風景だから飛ばしたいという気持ちも起こらない。
畑道路を過ぎると県道26号から国道134号に入る。この道は三崎のマグロ観光客でいつも混んでいる。片側1車線の地方道路に大型観光バスも多いからすり抜けも中断しがち。三戸海岸には京急の三崎口駅を過ぎてから海側に降りていく。134号線を外れるとまた畑の光景である。
三戸海岸もナビで検索できるが最後はこれくらい細い道になる。
駐車場は見あたらなかった。大浦海岸に較べれば海岸は広いから、もう少し探せばあったかも知れない。この先はもう浜なのでクルマが通ることはないだろうと、こんなところににバイクを駐める。
ここを抜けて海岸に降りる。
これが三戸海岸。三戸浜海岸とも言う。
西向きの海岸で午後3時くらいなので、真正面は逆光で写真が撮りにくい。
南側の風景。
少し霞んでいる奥の岬は油壺。
北側。突き出している岬の先端は以前に訪れた「黒崎の鼻」。
こじゃれた建物はビーチバムというレストラン&マリンスポーツ基地。そんな施設があって何がマイナースポットだと指摘されそうな気もするが、ここのホームページにも「何もない三戸浜」と書いてある(^^ゞ
南国ムード演出。
営業妨害をする気はないが浜全体は漁村ムードが漂う(^^ゞ
ビーチをブラブラしていたらウインドサーファーが戻ってきた。
そんな光景を眺めていると、突然ビーチにショベルカーが出現!
何やら岸に向かってまっすぐ進んでくるボート。
釣り人が乗ったボートを青い服を着たオッサンが引き寄せて、
台座に固定する。浮力があるとはいえかなりの怪力。
作業を終えるとショベルカーがバックで砂浜を上がり、
あっという間にビーチからボートを撤収。
こういう風にやるんだと感心して眺めていた。
ボートが揚げられたところは格納庫になってる。
三戸海岸の一番北側近く。
小さなベンチがあったので再びコーヒーブレーク。
三浦半島の東側と西側で違うのは、東側は対岸の房総半島が見えること。やっぱり海は広い水平線だけのほうがいい。
目の前を横切る小型のヨット。このクラスは操縦したことがある。小学5年か6年生の頃のYMCAサマーキャンプでの話だから何年前か数えるのも怖い。手軽な体験講習会のようなものがあれば、また乗ってみたいな。
ボケーっとして充分に脳みそを溶かして三戸海岸を後にする。ここはプライベートビーチ感覚というより、他人のプライベートビーチに紛れ込んだような気分。ビーチバムの利用客以外は漁師をのぞくと私しかいなかった。しかし、ほとんど人のいない海もいいけれど、ヨットやボートを眺めているのもまた楽しかった。
ビーチバムの横を通り抜けていく。
プールもあってリッチな雰囲気。
玄関側。
駐まっているクルマを見ると、あまりリッチじゃないかも(^^ゞ
衣笠インターから横浜横須賀道路に乗って、そこからは往きと同じルート。午後5時半頃帰宅。走行170キロ。今回の最大の収穫はいうまでもなく燈明崎。先ほど対岸の見えない水平線がいいと書いたのと矛盾するが、燈明崎の場合はきれいな砂浜と浦賀湾越しに見える建物との対比が美しかった。スイカに塩じゃないが人工物があることで自然が引き立つのだろう。
今後もボチボチとマイナースポット巡りを続けていこうと思う。
おしまい
2014年10月23日
大浦海岸
おそらくこれから何度も来ることになるであろう燈明崎を後にして、マイナースポット第2弾に向かう。
ずっと海岸沿いに走った方が早いように思うのだが、ナビは久里浜の海岸の途中で内陸側に曲がるように指示し、久里浜の街の中心部から野比(のび:地名です)を経由させられる。野比にある京急の駅はYRP野比という変わった名前。これは近くに横須賀リサーチパークというNTTを中心としてIT関連の研究所が集まっているエリアがあるから。YRPは横須賀リサーチパークの略語。元々は野比駅だったがリサーチパークができた時にYRPが駅名に付け足された。JRと私鉄の駅がほぼ同じ場所にある時、例えばJR難波駅(何もつかない難波駅は南海電鉄の駅)のようにJRが駅名につく場合はあるけれど、YRP野比駅のようなアルファベット名は珍しいんじゃないかな。「次は〜ワイアールピ〜のび〜」の車内アナウンスを1度聞いてみたい。
内陸部を走っていた国道134号線もやがて三浦海岸に出る。三浦海岸は約10キロほどの長い海岸。海水浴場的には津久井浜、三浦海岸、菊名浜の3つに分かれる。サーフィンができる波は入らないがウインドサーフィンは盛ん。この日は津久井浜にたくさんのボードが出ていた。しかしほとんどのセール(帆)が同じデザイン。皆がレンタルボードのはずがないし不思議な光景だった。イベントでもやっていたのかな。バイクで通り過ぎただけなので細かなことはわからず。
三浦海岸沿いの134号線はほとんどフラットな直線道路。その先の海岸沿いを走る県道は215号線は多少のコーナーやアップダウンもあって少しだけ楽しい。しばらくすると道路は海岸からそれて内陸の丘の上に登る。第2スポットの大浦海岸は途中で215号を離れて畑の中の道を走っていく。
畑の向こうに海が見える景色抜群の畑。
これは第2スポットから第3スポットへ向かう途中に撮ったもの。三浦半島の丘の上の畑はだいたいこんな感じ。海のイメージが強い三浦半島だが、海岸から少し離れると畑だらけである。
春夏はキャベツ、これからの季節は大根が植えられる。太くて大きい三浦大根というのが有名であるが、実際に作っている大根のほとんどは普通の大根らしい。
大浦海岸は海水浴場だからナビに載っている。しかし、とても細い道を通り抜けていく。最後に海岸に出る道は一段と細くて、道案内の看板が出ていても本当にここを曲がるのかというようなところ。
バイクを駐められるようなスペースは、この奥にある有料駐車場以外にない。この季節も金を取っているのかどうかわからないが、とりあえず入り口に駐めて海岸に降りることにする。金がいると言われれば素直に払うか、駐車場の中には駐めていなとゴネるかは、言われた時に考えよう。
この細い路地を歩いて、
こんな坂を下って
大浦海岸に出た。南北に延びる東向きの海岸である。
北の端は岩場になっている。
落石注意の看板。
少しだけ先に進んでみる。
写真をクリックして拡大すると,遠くに釣り人が写っている。
彼はたぶん隣の浜から岩場にでたと思う。この大浦海岸の北隣の浜から雨崎というところまでいくつかビーチがあって、かなりディープなエリアらしい。マイナースポット巡りを卒業したら探検してみよう。
落石注意ではあるが、とりあえず真下から気をつけながら撮ってみる。
浜を横切って一番南側から。
こんな景色を眺めながら、
岩に腰を下ろしてコーヒーブレイク。
カモメが飛んできた。
沖のほう(海面近く)にはたくさんカモメがいるのに、こちらにはあまり来てくれない。
トンビも飛んできた。ピーヒョロロと鳴き声が大きい。
燈明崎ほど砂は白くない。三浦海岸など三浦半島東側の平均的なところ。それでも半島西側の湘南エリアに較べれば白い。
私以外には釣りをしている3人の家族連れがいただけ。ここでもプライベートビーチ気分を味わうことができて満足。
ーーーマイナースポット第3弾へ続く
ずっと海岸沿いに走った方が早いように思うのだが、ナビは久里浜の海岸の途中で内陸側に曲がるように指示し、久里浜の街の中心部から野比(のび:地名です)を経由させられる。野比にある京急の駅はYRP野比という変わった名前。これは近くに横須賀リサーチパークというNTTを中心としてIT関連の研究所が集まっているエリアがあるから。YRPは横須賀リサーチパークの略語。元々は野比駅だったがリサーチパークができた時にYRPが駅名に付け足された。JRと私鉄の駅がほぼ同じ場所にある時、例えばJR難波駅(何もつかない難波駅は南海電鉄の駅)のようにJRが駅名につく場合はあるけれど、YRP野比駅のようなアルファベット名は珍しいんじゃないかな。「次は〜ワイアールピ〜のび〜」の車内アナウンスを1度聞いてみたい。
内陸部を走っていた国道134号線もやがて三浦海岸に出る。三浦海岸は約10キロほどの長い海岸。海水浴場的には津久井浜、三浦海岸、菊名浜の3つに分かれる。サーフィンができる波は入らないがウインドサーフィンは盛ん。この日は津久井浜にたくさんのボードが出ていた。しかしほとんどのセール(帆)が同じデザイン。皆がレンタルボードのはずがないし不思議な光景だった。イベントでもやっていたのかな。バイクで通り過ぎただけなので細かなことはわからず。
三浦海岸沿いの134号線はほとんどフラットな直線道路。その先の海岸沿いを走る県道は215号線は多少のコーナーやアップダウンもあって少しだけ楽しい。しばらくすると道路は海岸からそれて内陸の丘の上に登る。第2スポットの大浦海岸は途中で215号を離れて畑の中の道を走っていく。
畑の向こうに海が見える景色抜群の畑。
これは第2スポットから第3スポットへ向かう途中に撮ったもの。三浦半島の丘の上の畑はだいたいこんな感じ。海のイメージが強い三浦半島だが、海岸から少し離れると畑だらけである。
春夏はキャベツ、これからの季節は大根が植えられる。太くて大きい三浦大根というのが有名であるが、実際に作っている大根のほとんどは普通の大根らしい。
大浦海岸は海水浴場だからナビに載っている。しかし、とても細い道を通り抜けていく。最後に海岸に出る道は一段と細くて、道案内の看板が出ていても本当にここを曲がるのかというようなところ。
バイクを駐められるようなスペースは、この奥にある有料駐車場以外にない。この季節も金を取っているのかどうかわからないが、とりあえず入り口に駐めて海岸に降りることにする。金がいると言われれば素直に払うか、駐車場の中には駐めていなとゴネるかは、言われた時に考えよう。
この細い路地を歩いて、
こんな坂を下って
大浦海岸に出た。南北に延びる東向きの海岸である。
北の端は岩場になっている。
落石注意の看板。
少しだけ先に進んでみる。
写真をクリックして拡大すると,遠くに釣り人が写っている。
彼はたぶん隣の浜から岩場にでたと思う。この大浦海岸の北隣の浜から雨崎というところまでいくつかビーチがあって、かなりディープなエリアらしい。マイナースポット巡りを卒業したら探検してみよう。
落石注意ではあるが、とりあえず真下から気をつけながら撮ってみる。
浜を横切って一番南側から。
こんな景色を眺めながら、
岩に腰を下ろしてコーヒーブレイク。
カモメが飛んできた。
沖のほう(海面近く)にはたくさんカモメがいるのに、こちらにはあまり来てくれない。
トンビも飛んできた。ピーヒョロロと鳴き声が大きい。
燈明崎ほど砂は白くない。三浦海岸など三浦半島東側の平均的なところ。それでも半島西側の湘南エリアに較べれば白い。
私以外には釣りをしている3人の家族連れがいただけ。ここでもプライベートビーチ気分を味わうことができて満足。
ーーーマイナースポット第3弾へ続く
2014年10月22日
燈明崎
前回のエントリーで書いたように、燈明崎に来たのは燈明堂の和式灯台を見るためではなく、その海岸がとても素晴らしいと聞いたから。
スペインあたりのリゾートに行ってきたといってもバレないかも知れない。
海は旅行のパンフレットに使えそうなくらいキレイ。
砂浜も白い。
お約束のローアングルも撮り甲斐があるというもの。
ヨットも絵になる。
改めて書いておくが、ここはどこか南国の風光明媚な名所ではなく神奈川県横須賀市西浦賀6丁目。自宅からバイクで1時間ほどの場所に、こんな光景があったとは信じがたい。
あまりに感激したので、同じようなテーマの写真をもう1回。
燈明崎は東へ突き出した小さな岬。
今までの写真は岬に沿った、この北側の海岸から撮ったもの。海岸の長さは50メートルくらいと短い。何組かの家族連れがいたが、まさにプライベートビーチ感覚。
岬の先端、つまり東側の風景。
こちらは半島の付け根から南側に延びる海岸。
東対岸の房総半島に面しているから景色は普通だけれど、
砂自体がキレイしゴミもほとんど落ちていない。
こちらの砂浜は200メートルくらいある。
写真中央に燈明堂が写っている。
その海岸の一番南側は隆起した岩肌。
崖下は平らだったので奥まで歩いてみる。
岩場の向こう側に砂浜がもうひとつあった。
広さは手前の砂浜の半分程度。後で調べたら奥にある岬は千代ヶ崎という名前。岬の内陸側には明治時代に造られた砲台の跡地があって、横須賀市はそこを文化遺産として保存する=観光名所にするらしい。砲台は自衛隊の施設内にあって今は見られないが、その施設が廃止か移転になるとのこと。悪い話じゃないと思うが、そうなるとこのあたりにも人がたくさん来るようになるのかな。できたらマイナースポットのままであって欲しい気もする。
千代ヶ崎側の砂浜へ行くには、この獣道を通り抜ければいいようである。
手前の海岸とそう変わらないから今回は行かなかった。
まあとにかくいい海岸だった。
燈明堂は三浦半島八景に選ばれている。なんとか八景はというのはよく聞くが、中国由来の考え方で八つの景色のテーマが決められているとは知らなかった。
クルマがが20台くらい駐められる駐車場。ゴールデンウイークと海水浴シーズンと一部期間の土日祝日は1000円。バイクの料金の表示はなかった。
看板には有料期間は民間の会社で、無料期間は横須賀市の生涯学習課が管理者だと表示してある。役所が面倒見るのはいいとして、なにゆえ生涯学習課?
今は無料期間だが、海を背景に写真を撮りたくて路上駐車。
リゾートっぽい北側海岸を背景に写せなくて残念。
ススキと海の取り合わせというのが珍しい気がしてもう1枚。
ーーーマイナースポット巡りはまだ続く。
スペインあたりのリゾートに行ってきたといってもバレないかも知れない。
海は旅行のパンフレットに使えそうなくらいキレイ。
砂浜も白い。
お約束のローアングルも撮り甲斐があるというもの。
ヨットも絵になる。
改めて書いておくが、ここはどこか南国の風光明媚な名所ではなく神奈川県横須賀市西浦賀6丁目。自宅からバイクで1時間ほどの場所に、こんな光景があったとは信じがたい。
あまりに感激したので、同じようなテーマの写真をもう1回。
燈明崎は東へ突き出した小さな岬。
今までの写真は岬に沿った、この北側の海岸から撮ったもの。海岸の長さは50メートルくらいと短い。何組かの家族連れがいたが、まさにプライベートビーチ感覚。
岬の先端、つまり東側の風景。
こちらは半島の付け根から南側に延びる海岸。
東対岸の房総半島に面しているから景色は普通だけれど、
砂自体がキレイしゴミもほとんど落ちていない。
こちらの砂浜は200メートルくらいある。
写真中央に燈明堂が写っている。
その海岸の一番南側は隆起した岩肌。
崖下は平らだったので奥まで歩いてみる。
岩場の向こう側に砂浜がもうひとつあった。
広さは手前の砂浜の半分程度。後で調べたら奥にある岬は千代ヶ崎という名前。岬の内陸側には明治時代に造られた砲台の跡地があって、横須賀市はそこを文化遺産として保存する=観光名所にするらしい。砲台は自衛隊の施設内にあって今は見られないが、その施設が廃止か移転になるとのこと。悪い話じゃないと思うが、そうなるとこのあたりにも人がたくさん来るようになるのかな。できたらマイナースポットのままであって欲しい気もする。
千代ヶ崎側の砂浜へ行くには、この獣道を通り抜ければいいようである。
手前の海岸とそう変わらないから今回は行かなかった。
まあとにかくいい海岸だった。
燈明堂は三浦半島八景に選ばれている。なんとか八景はというのはよく聞くが、中国由来の考え方で八つの景色のテーマが決められているとは知らなかった。
クルマがが20台くらい駐められる駐車場。ゴールデンウイークと海水浴シーズンと一部期間の土日祝日は1000円。バイクの料金の表示はなかった。
看板には有料期間は民間の会社で、無料期間は横須賀市の生涯学習課が管理者だと表示してある。役所が面倒見るのはいいとして、なにゆえ生涯学習課?
今は無料期間だが、海を背景に写真を撮りたくて路上駐車。
リゾートっぽい北側海岸を背景に写せなくて残念。
ススキと海の取り合わせというのが珍しい気がしてもう1枚。
ーーーマイナースポット巡りはまだ続く。
2014年10月19日
三浦半島のマイナースポット巡り
きっかけは富士山初冠雪のニュース。雪化粧を始めた富士山を見にツーリングするのも悪くない。富士五湖まで行けばよいのだが、この日は何となく遠出をする気になれず。そこで以前に訪れた、三浦半島の東側なのに東京湾越しに富士山が見えるという不思議な場所である破崎(やぶれざき)に行くことにした。
でもまあ、もっと冬にならないと破崎から富士山が見える確率は高くない。他の目的地も考えておかないと、破崎到着の1分後に帰路につくハメになりかねない。すぐそばには横須賀美術館と観音崎がある。残念ながら今やっている展覧会は私の好みじゃなかった。また観音崎はお気に入りの場所のひとつとはいえ、そこだけで帰るとほとんど高速道路しか走らないツーリングになってしまう。
実は三浦半島にはあまり知られていないマイナーなスポットがたくさんある。それで今回はマイナースポット巡りに決定。本当のディープなマイナースポットは内陸側にあるらしいが、マイナースポット初心者としてはプライベートビーチのような海岸といわれているところをいくつか回ることにした。破崎もマイナースポットに入れてもいいと思う。
午前10時前出発。気温は18度からたまに20度を示している。高速道路だと少しヒンヤリする。第三京浜〜横浜新道〜横浜横須賀道路の終点の馬堀までと走り慣れたルート。ところで横浜横須賀道路を走っている時に大きな虫がヘルメットのシールド(顔の前を覆っている透明な部分)を直撃。一瞬、顔が45度ほど横を向くほどの衝撃だった。シールドのないヘルメットなら怪我をしたんじゃないかと思う。シールドには虫の残骸はなかったが茶色い体液みたいなものが直径3センチくらいに広がる。途中のパーキングエリアでシールドを洗ったが、ネバネバしていてなかなか落とせなかった(>_<)
破崎到着。
前に来た時は気付かなかったが、ここは破崎緑地という名前。
富士山頂に夕日が沈むことをダイヤモンド冨士というらしい。
ダイヤモンドのように美しいという意味かな。
このウッドデッキから馬堀(まほり)海岸方向を眺めると、
はい、きれいな海だけが見えました(^^ゞ
写真中央のやや左側にかすかに白くて三角形なものが写っているが、あれは雲。ここからの富士山は写真の右側に見える。
富士山の代わりにススキでも撮ってみる。
確率は1割以下だと考えていたので、落胆することなく観音崎へ向かう。
ここからは2〜3分の距離。
いつもの光景。
毎回写真を撮る謎の構造物には「危険 立ち入り禁止」の文字が書かれていた。
バーベキューを楽しむ人。
何かを採ろうとしている人。サザエでもいるのか。
奥へ進む。
観音崎は整備された公園ではあるが、海岸線は手つかずの自然が残っている。
前回のツーリングで「右カーブ曲がれない病」を発症中と書いたが、何と今回は「ボケ」を発症してしまった(/o\)
公園を少し奥まで進んで戻ってくるつもりの途中で「何度も観音崎に来ているが、まだ灯台に登っていなかったから今日は灯台に行こう」と思いつく。破崎のリンク先である3月16日のエントリーを読んでくれた人ならわかるように、その日に灯台に登っているのだが、そんな記憶はまったくなかった(>_<)
灯台の道案内。
3月16日にも同じ写真を撮ってブログに載せていたのが情けない。
前にも同じ階段を上ったのにまったく気付かず。
このチェーンはとても太いので見覚えがあった。しかし観音崎の坂の手すりは、どこもこんなチェーンを使っているんだろうと気にも留めず。
観音崎灯台。
灯台に着いて初めて「あれ?来たことあるかも」と思う。灯台の形を覚えていたというより、灯台とその横にある建物の配置と建物の屋根の色が記憶を呼び起こしたみたい。しかし人間の心理は不思議なもので、脳の記憶は確かにこの場所に来たと告げているのに「灯台に来たことがないから今日は登ってきたわけで、だから過去に来たはずがない」という自己正当化の気持ちが葛藤する。自分可愛さに何となく記憶違いだっだような気もしてくる。
真実を知る方法は1つしかない。
灯台の真下でiPhoneを使って「晴れ時々マーケティング 観音崎灯台」と検索して自分のブログを確かめた!
しかしヤバいなあ〜。
本当に灯台に登っていたことを100%忘れていた。
トボトボと登ってきた道を下る。
ボケ始めたのかという恐怖を海の景色が癒やしてくれる(^^ゞ
きれいな花を見たら凹んだ気持ちも和らぐゼ。
まっ、ボケではなく、突発性の記憶喪失ということにしておこう。
さていよいよマイナースポット巡り。
第1弾は観音崎から15分ほど走ったところにある燈明崎(とうみょうざき)。
燈明堂という日本で最初の和式灯台が、江戸幕府によって設置されていたから燈明崎という地名。建設されたのは1648年と366年も昔。ちなみに江戸幕府が始まったのが1603年。明治5年(1872年)に廃止されるまで224年も東京湾を照らしていたことになる。廃止されたのは日本最初の洋式灯台である観音崎灯台が完成したから。
同時にここは浦賀奉行所の処刑場=首切り場でもあったとされ、供養塔のようなものが建てられている。ただし浦賀奉行所は死刑執行の権限があるレベルの奉行所ではなく、海で遭難した人を供養していたのが、いつのまにか首切り場と呼ばれるようになったという説もある。
石柱の表には「南無妙法蓮華経」。
少し離れてお地蔵さん。
裏は「衆罪如霜露 惠日能消除」。
これは「多くの罪は霜や露のようなものであり、あたかも太陽の光が万物を均等に照らし、霜や露を消し去るように(仏の知恵は すべてにわたって、広く一切の生物の上に行きわたり、その生物 が犯した全ての罪を消滅する)」という意味らしい。ヨカッタと思ってしまうのはナゼ?
小さな岬の先に歩いて行く。
これが燈明堂。
1989年(平成元年)に復元されたもの。もちろん244年間の間に何度も建て替えられているが、オリジナル最後の燈明堂は明治28年頃に壊れてなくなったとのこと。ただし台座の石垣のほとんどは江戸時代に造られたもののままらしい。石垣の技術があったのに、火を使う施設も日本はやはり木造だったのね。
燈明とはお皿に油を入れて、そこに浸した芯に火をつけるもの。それの巨大なものが燈明堂内部に設置されていた。ちなみに液体の油だとこぼれたりするので、固形に改良したのがロウソク。
燈明堂はそれほど大きくない。4.5メートル四方で高さは7メートルくらい。つまり10畳ほどの広さの2階建ての建造物。その規模で菜種油を燃やした燈明の光で、つまりはタイマツ程度の明るさで灯台の役目を果たせたのかという疑問が湧く。しかし当時は照明というものがない時代。つまり夜は真っ暗。燈明堂の光りは対岸の房総半島からも見えたらしいから驚く。
この燈明堂は昔の灯台の姿を知るには興味深い。
しかしここには、これを目的に来たわけではないのである。
ーーー続く
でもまあ、もっと冬にならないと破崎から富士山が見える確率は高くない。他の目的地も考えておかないと、破崎到着の1分後に帰路につくハメになりかねない。すぐそばには横須賀美術館と観音崎がある。残念ながら今やっている展覧会は私の好みじゃなかった。また観音崎はお気に入りの場所のひとつとはいえ、そこだけで帰るとほとんど高速道路しか走らないツーリングになってしまう。
実は三浦半島にはあまり知られていないマイナーなスポットがたくさんある。それで今回はマイナースポット巡りに決定。本当のディープなマイナースポットは内陸側にあるらしいが、マイナースポット初心者としてはプライベートビーチのような海岸といわれているところをいくつか回ることにした。破崎もマイナースポットに入れてもいいと思う。
午前10時前出発。気温は18度からたまに20度を示している。高速道路だと少しヒンヤリする。第三京浜〜横浜新道〜横浜横須賀道路の終点の馬堀までと走り慣れたルート。ところで横浜横須賀道路を走っている時に大きな虫がヘルメットのシールド(顔の前を覆っている透明な部分)を直撃。一瞬、顔が45度ほど横を向くほどの衝撃だった。シールドのないヘルメットなら怪我をしたんじゃないかと思う。シールドには虫の残骸はなかったが茶色い体液みたいなものが直径3センチくらいに広がる。途中のパーキングエリアでシールドを洗ったが、ネバネバしていてなかなか落とせなかった(>_<)
破崎到着。
前に来た時は気付かなかったが、ここは破崎緑地という名前。
富士山頂に夕日が沈むことをダイヤモンド冨士というらしい。
ダイヤモンドのように美しいという意味かな。
このウッドデッキから馬堀(まほり)海岸方向を眺めると、
はい、きれいな海だけが見えました(^^ゞ
写真中央のやや左側にかすかに白くて三角形なものが写っているが、あれは雲。ここからの富士山は写真の右側に見える。
富士山の代わりにススキでも撮ってみる。
確率は1割以下だと考えていたので、落胆することなく観音崎へ向かう。
ここからは2〜3分の距離。
いつもの光景。
毎回写真を撮る謎の構造物には「危険 立ち入り禁止」の文字が書かれていた。
バーベキューを楽しむ人。
何かを採ろうとしている人。サザエでもいるのか。
奥へ進む。
観音崎は整備された公園ではあるが、海岸線は手つかずの自然が残っている。
前回のツーリングで「右カーブ曲がれない病」を発症中と書いたが、何と今回は「ボケ」を発症してしまった(/o\)
公園を少し奥まで進んで戻ってくるつもりの途中で「何度も観音崎に来ているが、まだ灯台に登っていなかったから今日は灯台に行こう」と思いつく。破崎のリンク先である3月16日のエントリーを読んでくれた人ならわかるように、その日に灯台に登っているのだが、そんな記憶はまったくなかった(>_<)
灯台の道案内。
3月16日にも同じ写真を撮ってブログに載せていたのが情けない。
前にも同じ階段を上ったのにまったく気付かず。
このチェーンはとても太いので見覚えがあった。しかし観音崎の坂の手すりは、どこもこんなチェーンを使っているんだろうと気にも留めず。
観音崎灯台。
灯台に着いて初めて「あれ?来たことあるかも」と思う。灯台の形を覚えていたというより、灯台とその横にある建物の配置と建物の屋根の色が記憶を呼び起こしたみたい。しかし人間の心理は不思議なもので、脳の記憶は確かにこの場所に来たと告げているのに「灯台に来たことがないから今日は登ってきたわけで、だから過去に来たはずがない」という自己正当化の気持ちが葛藤する。自分可愛さに何となく記憶違いだっだような気もしてくる。
真実を知る方法は1つしかない。
灯台の真下でiPhoneを使って「晴れ時々マーケティング 観音崎灯台」と検索して自分のブログを確かめた!
しかしヤバいなあ〜。
本当に灯台に登っていたことを100%忘れていた。
トボトボと登ってきた道を下る。
ボケ始めたのかという恐怖を海の景色が癒やしてくれる(^^ゞ
きれいな花を見たら凹んだ気持ちも和らぐゼ。
まっ、ボケではなく、突発性の記憶喪失ということにしておこう。
さていよいよマイナースポット巡り。
第1弾は観音崎から15分ほど走ったところにある燈明崎(とうみょうざき)。
燈明堂という日本で最初の和式灯台が、江戸幕府によって設置されていたから燈明崎という地名。建設されたのは1648年と366年も昔。ちなみに江戸幕府が始まったのが1603年。明治5年(1872年)に廃止されるまで224年も東京湾を照らしていたことになる。廃止されたのは日本最初の洋式灯台である観音崎灯台が完成したから。
同時にここは浦賀奉行所の処刑場=首切り場でもあったとされ、供養塔のようなものが建てられている。ただし浦賀奉行所は死刑執行の権限があるレベルの奉行所ではなく、海で遭難した人を供養していたのが、いつのまにか首切り場と呼ばれるようになったという説もある。
石柱の表には「南無妙法蓮華経」。
少し離れてお地蔵さん。
裏は「衆罪如霜露 惠日能消除」。
これは「多くの罪は霜や露のようなものであり、あたかも太陽の光が万物を均等に照らし、霜や露を消し去るように(仏の知恵は すべてにわたって、広く一切の生物の上に行きわたり、その生物 が犯した全ての罪を消滅する)」という意味らしい。ヨカッタと思ってしまうのはナゼ?
小さな岬の先に歩いて行く。
これが燈明堂。
1989年(平成元年)に復元されたもの。もちろん244年間の間に何度も建て替えられているが、オリジナル最後の燈明堂は明治28年頃に壊れてなくなったとのこと。ただし台座の石垣のほとんどは江戸時代に造られたもののままらしい。石垣の技術があったのに、火を使う施設も日本はやはり木造だったのね。
燈明とはお皿に油を入れて、そこに浸した芯に火をつけるもの。それの巨大なものが燈明堂内部に設置されていた。ちなみに液体の油だとこぼれたりするので、固形に改良したのがロウソク。
燈明堂はそれほど大きくない。4.5メートル四方で高さは7メートルくらい。つまり10畳ほどの広さの2階建ての建造物。その規模で菜種油を燃やした燈明の光で、つまりはタイマツ程度の明るさで灯台の役目を果たせたのかという疑問が湧く。しかし当時は照明というものがない時代。つまり夜は真っ暗。燈明堂の光りは対岸の房総半島からも見えたらしいから驚く。
この燈明堂は昔の灯台の姿を知るには興味深い。
しかしここには、これを目的に来たわけではないのである。
ーーー続く
2014年10月16日
南足柄広域農道
10月12日(日)のツーリング4エントリー目。
やまゆりラインと南足柄広域農道の2本を走って
小田原をブラブラするツーリングもいよいよ帰り道。
やまゆりラインの中にある足柄乳業と違って、小田原フラワーガーデンは南足柄広域農道の近くというだけだから、そこをナビにセットしても入り口にたどり着けない。フラワーガーデンの駐車場でiPhoneを取り出しグーグルマップを拡大して再度道順をチェック。ここに来た道をそのまま進んで左折して右折して右折。最後に正しい場所で右折するのが肝心。実際には、最初のエントリーに書いたように「足柄街道こっち」の標識がでていたから迷うことなく右折できた。
やまゆりラインと較べて南足柄広域農道は少し狭くてクネクネもやや厳しい。それとやまゆりラインは丘陵コースという感じだったが、こちらは山の中の道路の雰囲気で日当たりのよくないとことろも多かった。路面も荒れ気味で建設はかなり古いと思われる。道路から見える作物がミカンなのはどちらも共通。
話は変わるが「右カーブ曲がれない病」発症中である。3年ほど前にバイクを買った時は左カーブが苦手で右カーブは自然な感じに曲がれた。私は左利きで右脚が軸足だから、それは理にかなっているらしい。左カーブの苦手意識を克服するために、あれやこれやと工夫していたら、それには成功したけれど今度は右カーブが苦手に(>_<) いつのまにか治っていたはずが最近また苦手になってきた。
バイクはよほど低速な時をのぞいてハンドルは切らずに(全然切れていないわけじゃないが)体重移動でバイクを傾かせて曲がる。自転車でもそこそこスピードに乗っている時はハンドルは意識せずに曲がっているはずで、それと同じ。自転車の場合、体重移動はごくわずかに必要なだけで意識しなくても誰でも本能的にできる。初めて自転車に乗る時にバランスで苦労しても曲がることができなかった人はまずいない。バイクの場合は重いしスピードも速いから、もう少し能動的に体重移動をする必要がある。
バイクのライディングテクニックはいろいろ解説されている。しかし別に速く走りたいと思っていないのであまり興味を持っていない。だから多少の知識はあるとしても私のライディングはいわば我流。しかし、それが間違っている可能性は高いとしても、間違っているなりに右と左は同じように身体を動かしているのに右コーナーだけが曲がりにくいのが不思議。
もちろん、まったく曲がれないわけじゃないので(曲がれなかったら家に帰れない)だましだまし走る。南足柄広域農道はところどころ眺望が開けているところも多く、山の上から眼下の街並みを見渡せて楽しい。
途中で枝道が何本も分かれているが基本的に道なりに走っていけばコースを外れることはない。しかし一箇所だけ県道723号線に出てL字クランクのように曲がって広域農道に戻らなければいけない箇所がある。
その場所のことは事前にわかっていた。しかし723号線に入ると、その視線の先にうっそうとした杉並木が見えたので、そのまま直進してみることに。
たどり着いたのはこんな場所。お寺の入り口のようで、この手前に土産物屋も何軒かあった。この先に駐車場があるみたいだが、とりあえずこの日はここで写真を撮っただけ。
後で調べたら大雄山最乗寺というお寺。寺の名前が最乗寺で、大雄山というのは山号とよばれるものらしい。そういえば延暦寺なども比叡山延暦寺と山の名前とセットで呼ぶこともある。600年の歴史があるそうだが、寺の古さで600年というのがどのレベルなのかはあまりピンとこない。かなり広い敷地の寺らしく、また階段がいくつもあって200段や300段と長いことで有名らしい。中に入らなくてよかった(^^ゞ
最乗寺の入り口でUターンして帰り道に撮った杉並木。
横には歩道も整備されている。
ふもとにある大雄山駅から寺までは3キロくらいだけれど、それなりの上り勾配。
ちなみに723号線は大雄山駅から箱根までをつなぐはずの道路なのに、開通しているのは駅から最乗寺までの区間と、箱根の強羅周辺の区間だけ。つまり両サイド以外はほとんど完成していない。
723号線を走ったのはごくわずかな距離でも、南足柄広域農道とはまったく違う景色なので、別のところへツーリングに出かけたようで得した気分。
再び南足柄広域農道に戻る。途中で同じく足柄街道と名前がついている県道78号線をまたぐ。78号線を右折したほうが大井松田のインターチェンジに近いが、今回は初めてなので終点まで走ることにした。南足柄広域農道は全長21キロ。やまゆりラインは11キロで少し物足りなかったが、こちらは走り応えがあった。
ここはほぼ終点近く。
BMW F800Rの後ろにあるのは、
まだ青々としたミカン。
その後は国道246まで出て大井松田から東名で午後4時半に帰宅。走行220キロ。広域農道2本、史跡、サーフポイント、バラや梅の木、杉並木となかなか盛りだくさんのツーリングとなった。これからツーリングに出かける時は広域農道が近くにないか調べることにしよう。
おしまい
やまゆりラインと南足柄広域農道の2本を走って
小田原をブラブラするツーリングもいよいよ帰り道。
やまゆりラインの中にある足柄乳業と違って、小田原フラワーガーデンは南足柄広域農道の近くというだけだから、そこをナビにセットしても入り口にたどり着けない。フラワーガーデンの駐車場でiPhoneを取り出しグーグルマップを拡大して再度道順をチェック。ここに来た道をそのまま進んで左折して右折して右折。最後に正しい場所で右折するのが肝心。実際には、最初のエントリーに書いたように「足柄街道こっち」の標識がでていたから迷うことなく右折できた。
やまゆりラインと較べて南足柄広域農道は少し狭くてクネクネもやや厳しい。それとやまゆりラインは丘陵コースという感じだったが、こちらは山の中の道路の雰囲気で日当たりのよくないとことろも多かった。路面も荒れ気味で建設はかなり古いと思われる。道路から見える作物がミカンなのはどちらも共通。
話は変わるが「右カーブ曲がれない病」発症中である。3年ほど前にバイクを買った時は左カーブが苦手で右カーブは自然な感じに曲がれた。私は左利きで右脚が軸足だから、それは理にかなっているらしい。左カーブの苦手意識を克服するために、あれやこれやと工夫していたら、それには成功したけれど今度は右カーブが苦手に(>_<) いつのまにか治っていたはずが最近また苦手になってきた。
バイクはよほど低速な時をのぞいてハンドルは切らずに(全然切れていないわけじゃないが)体重移動でバイクを傾かせて曲がる。自転車でもそこそこスピードに乗っている時はハンドルは意識せずに曲がっているはずで、それと同じ。自転車の場合、体重移動はごくわずかに必要なだけで意識しなくても誰でも本能的にできる。初めて自転車に乗る時にバランスで苦労しても曲がることができなかった人はまずいない。バイクの場合は重いしスピードも速いから、もう少し能動的に体重移動をする必要がある。
バイクのライディングテクニックはいろいろ解説されている。しかし別に速く走りたいと思っていないのであまり興味を持っていない。だから多少の知識はあるとしても私のライディングはいわば我流。しかし、それが間違っている可能性は高いとしても、間違っているなりに右と左は同じように身体を動かしているのに右コーナーだけが曲がりにくいのが不思議。
もちろん、まったく曲がれないわけじゃないので(曲がれなかったら家に帰れない)だましだまし走る。南足柄広域農道はところどころ眺望が開けているところも多く、山の上から眼下の街並みを見渡せて楽しい。
途中で枝道が何本も分かれているが基本的に道なりに走っていけばコースを外れることはない。しかし一箇所だけ県道723号線に出てL字クランクのように曲がって広域農道に戻らなければいけない箇所がある。
その場所のことは事前にわかっていた。しかし723号線に入ると、その視線の先にうっそうとした杉並木が見えたので、そのまま直進してみることに。
たどり着いたのはこんな場所。お寺の入り口のようで、この手前に土産物屋も何軒かあった。この先に駐車場があるみたいだが、とりあえずこの日はここで写真を撮っただけ。
後で調べたら大雄山最乗寺というお寺。寺の名前が最乗寺で、大雄山というのは山号とよばれるものらしい。そういえば延暦寺なども比叡山延暦寺と山の名前とセットで呼ぶこともある。600年の歴史があるそうだが、寺の古さで600年というのがどのレベルなのかはあまりピンとこない。かなり広い敷地の寺らしく、また階段がいくつもあって200段や300段と長いことで有名らしい。中に入らなくてよかった(^^ゞ
最乗寺の入り口でUターンして帰り道に撮った杉並木。
横には歩道も整備されている。
ふもとにある大雄山駅から寺までは3キロくらいだけれど、それなりの上り勾配。
ちなみに723号線は大雄山駅から箱根までをつなぐはずの道路なのに、開通しているのは駅から最乗寺までの区間と、箱根の強羅周辺の区間だけ。つまり両サイド以外はほとんど完成していない。
723号線を走ったのはごくわずかな距離でも、南足柄広域農道とはまったく違う景色なので、別のところへツーリングに出かけたようで得した気分。
再び南足柄広域農道に戻る。途中で同じく足柄街道と名前がついている県道78号線をまたぐ。78号線を右折したほうが大井松田のインターチェンジに近いが、今回は初めてなので終点まで走ることにした。南足柄広域農道は全長21キロ。やまゆりラインは11キロで少し物足りなかったが、こちらは走り応えがあった。
ここはほぼ終点近く。
BMW F800Rの後ろにあるのは、
まだ青々としたミカン。
その後は国道246まで出て大井松田から東名で午後4時半に帰宅。走行220キロ。広域農道2本、史跡、サーフポイント、バラや梅の木、杉並木となかなか盛りだくさんのツーリングとなった。これからツーリングに出かける時は広域農道が近くにないか調べることにしよう。
おしまい
2014年10月14日
小田原フラワーガーデン
小田原といえば小田原城であるが、この日は訪れず。酒匂川で穏やかな海を見た後は、帰路の南足柄広域農道を楽しむことにした。
広域農道は入り口がわかりにくいと、このツーリングの最初のエントリーに書いた。大きな国道や県道と接続しているわけではないから、入り口まで土地勘のないところを走らなければ行けない。往路のやまゆりラインでは入り口近くの足柄乳業をナビにセットした。帰路も何か目印になるものはないかと地図を見てみると、小田原フラワーパークというのが入り口に近い。小田原市営の公園で入場料も無料なので、ついでに立ち寄ってみる。
エントランス付近の様子はほとんど園芸店。
おさるぽりん=お猿の形をしたトランポリン。いわゆるエアードームで中に入って遊ぶ。1度は体験したいが大人も入れるのは見たことがない。残念
そこそこ広い駐車場があるのだが、バイクを駐めるところがなかったので。
奥に進むと階段状の広場。
黄色とオレンジはマリーゴールドという花。
わりとよく見る花だが、マリーゴールドが害虫を寄せ付けないコンパニオン・プランツというのは言葉も含めて初めて知った。
小さい花はポーチュラカ。
これは初めて見たかも知れない。
説明看板によれば
夏花壇の代表種→もう10月だけど?
曇りや雨の日には咲きません→台風接近の影響で雲がとても厚いんだけれど?
まっ、きれいな花だからいいか(^^ゞ
階段広場の上はローズガーデン。
秋バラは春バラより香りが強いというが、まだ全体として2分咲き程度なので香りは漂っていない。そこで、漂わぬなら鼻を近づけようホトトギス。ほとんど鼻を突っ込むようにして香りを楽しんできた。
花数が少なくて見応えがあったとは言い難いが、いち早く秋バラを見られて満足。
バラだけでは絵にならないからテーブルセットと一緒に撮ってみるが、
やっぱり花がもっと咲いていないと絵にならない。
秋バラの見頃は11月に入る頃。またどこかのバラ園に行こうかな。
ローズガーデンから先は梅林になっている。小田原は梅の産地でもあり曽我梅林というのが有名。このフラワーガーデンはいろんな品種の梅が植えられているので楽しそうである。
やたらたくさんネームプレートのあるところを発見。
リコリスのネームプレートだった。
リコリスは彼岸花の英語。しかし日本では彼岸花を園芸用に品種改良したものを、彼岸花と区別するためにリコリスと呼ぶ場合が多い。しかしこんなに密集してネームプレートがあるということは、多くの種類を少しずつ植えたのかな。夏期が8月と書いてあるから普通の彼岸花より咲くのが早いようだ。
園内は小川が流れていたり、池があったり、そこに鯉が泳いでいたりといい感じ。全体的によく手入れされている。梅の花が咲いている時はさぞ美しいに違いない。15分もあればグルッと回れる程度の広さ。狭いというよりコンパクトによくまとまっているという印象。
紅葉はこれから。
案内図。
季節によってはサクラ、アジサイ、ショウブ、クロッカスなどにも力を入れているみたい。なお入場は無料。ただしトロピカルドーム温室は別途料金がかかる。といっても200円だがこの日は見学せず。
最初に書いたように小田原フラワーガーデンは南足柄広域農道の入口を捜していた時にたまたま見つけた。あまり下調べもせずに、無料だからつまらなければトイレ休憩だけするつもりで訪れた場所。しかし、なかなかいい施設だった。近くにこんなところがある小田原市民がうらやましい。また隣接して神奈川県立諏訪の原公園があり、こちらはアスレティック遊具やグランドがあるなどアクティブなリクレーションがコンセプトのよう。将来的に諏訪の原公園が小田原フラワーガーデンを取り囲むように拡大されるらしい。いいなあ、土地が余っているところは。
ーーー続く
広域農道は入り口がわかりにくいと、このツーリングの最初のエントリーに書いた。大きな国道や県道と接続しているわけではないから、入り口まで土地勘のないところを走らなければ行けない。往路のやまゆりラインでは入り口近くの足柄乳業をナビにセットした。帰路も何か目印になるものはないかと地図を見てみると、小田原フラワーパークというのが入り口に近い。小田原市営の公園で入場料も無料なので、ついでに立ち寄ってみる。
エントランス付近の様子はほとんど園芸店。
おさるぽりん=お猿の形をしたトランポリン。いわゆるエアードームで中に入って遊ぶ。1度は体験したいが大人も入れるのは見たことがない。残念
そこそこ広い駐車場があるのだが、バイクを駐めるところがなかったので。
奥に進むと階段状の広場。
黄色とオレンジはマリーゴールドという花。
わりとよく見る花だが、マリーゴールドが害虫を寄せ付けないコンパニオン・プランツというのは言葉も含めて初めて知った。
小さい花はポーチュラカ。
これは初めて見たかも知れない。
説明看板によれば
夏花壇の代表種→もう10月だけど?
曇りや雨の日には咲きません→台風接近の影響で雲がとても厚いんだけれど?
まっ、きれいな花だからいいか(^^ゞ
階段広場の上はローズガーデン。
秋バラは春バラより香りが強いというが、まだ全体として2分咲き程度なので香りは漂っていない。そこで、漂わぬなら鼻を近づけようホトトギス。ほとんど鼻を突っ込むようにして香りを楽しんできた。
花数が少なくて見応えがあったとは言い難いが、いち早く秋バラを見られて満足。
バラだけでは絵にならないからテーブルセットと一緒に撮ってみるが、
やっぱり花がもっと咲いていないと絵にならない。
秋バラの見頃は11月に入る頃。またどこかのバラ園に行こうかな。
ローズガーデンから先は梅林になっている。小田原は梅の産地でもあり曽我梅林というのが有名。このフラワーガーデンはいろんな品種の梅が植えられているので楽しそうである。
やたらたくさんネームプレートのあるところを発見。
リコリスのネームプレートだった。
リコリスは彼岸花の英語。しかし日本では彼岸花を園芸用に品種改良したものを、彼岸花と区別するためにリコリスと呼ぶ場合が多い。しかしこんなに密集してネームプレートがあるということは、多くの種類を少しずつ植えたのかな。夏期が8月と書いてあるから普通の彼岸花より咲くのが早いようだ。
園内は小川が流れていたり、池があったり、そこに鯉が泳いでいたりといい感じ。全体的によく手入れされている。梅の花が咲いている時はさぞ美しいに違いない。15分もあればグルッと回れる程度の広さ。狭いというよりコンパクトによくまとまっているという印象。
紅葉はこれから。
案内図。
季節によってはサクラ、アジサイ、ショウブ、クロッカスなどにも力を入れているみたい。なお入場は無料。ただしトロピカルドーム温室は別途料金がかかる。といっても200円だがこの日は見学せず。
最初に書いたように小田原フラワーガーデンは南足柄広域農道の入口を捜していた時にたまたま見つけた。あまり下調べもせずに、無料だからつまらなければトイレ休憩だけするつもりで訪れた場所。しかし、なかなかいい施設だった。近くにこんなところがある小田原市民がうらやましい。また隣接して神奈川県立諏訪の原公園があり、こちらはアスレティック遊具やグランドがあるなどアクティブなリクレーションがコンセプトのよう。将来的に諏訪の原公園が小田原フラワーガーデンを取り囲むように拡大されるらしい。いいなあ、土地が余っているところは。
ーーー続く
2014年10月13日
大磯メイン & 酒匂川
新島襄終焉の地碑のある交差点を曲がれば大磯漁港。せっかくなので海も見ていくとする。漁港の西側は5月に訪れた照ヶ崎海岸。東側はなぜか北浜海岸と呼ばれている。こちらはサーフィンのポイントとしても有名。
台風のうねりを期待して、そこそこの人数のサーファーがいた。
サーフィンでは波の高さを膝・腹・胸・肩など身体の部位を使って表現する。頭の場合だけはなぜかヘッドと英語で言われる場合もある。頭より大きなものはオーバーヘッド。頭以上とはいわないが、頭半という言い方があって、それは頭プラス身長の半分を足した高さ。もちろん身長によって高さは異なるから、あくまでイメージ的な表現。まったく波がない時はくるぶしとかいったりする。
この日は胸から胸〜肩ぐらいの大きさ。
この頃に台風19号は奄美大島あたりだと思うが、かなり西側から北上するコースなので、日本列島の中心部にあたる相模湾に大きな波を運んでくるパワーはなかったのかも知れない。ちなみに台風が北緯20度を超えると日本の太平洋岸に台風のうねりが入るといわれる。北緯20度はフィリピンの北あたり。鹿児島が31度で東京は35度、札幌が45度。
ここは地名としては北浜海岸。ただし全国各地のサーフポイントにはそれぞれポイント名がついてる。大磯の場合はとても細かく分かれていて、最初の写真に堤防の手前に大きな岩が写っているが、堤防からその岩までを源二(げんじ)と呼ぶ。幅は100メートルくらいしかない。そこより東側が大磯、あるいは大磯メイン。源二と大磯メインを区別する意味がよくわからないものの、そういうことになっている。写真を撮ったのは大磯メイン。ここからさらに東に300メートルほど行ったところが磯高(大磯高校)前と呼ばれる。
海岸沿いに西湘バイパスが通っているので、北浜海岸沿いのポイントにクルマでは行けない。だからサーファーは漁港の駐車場にクルマを止めてポイントまで歩いていくことになる。寒い時はツライだろうなあ。
バイクなので大磯メイン前の路肩に駐車。
後ろにあるサーフショップはかなりの老舗っぽい。
1号線を戻って南足柄広域農道に向かう途中で酒匂川を渡る。ここの河口は普段は波がないが、台風の時だけ大きな波が来ると何かで読んだ気がする。もっとも読んだのは30年前のサーフィン現役時代だから記憶も曖昧なのだが、どうせ通り道なので立ち寄ってみた。
「さかわがわ」と読む。
河口に架かる橋は西湘バイパス。よくこんな海岸ギリギリに高速道路を造ったものだと思う。遠くに見えるのは箱根につながる山々。
波はなし(>_<)
サーファーもいなかった。
石ころでも撮ってみる。
駐車場にはクルマがたくさんいたが、
これは釣り人や海岸でバーベキューをする人たちのもの。
ーーー続く
台風のうねりを期待して、そこそこの人数のサーファーがいた。
サーフィンでは波の高さを膝・腹・胸・肩など身体の部位を使って表現する。頭の場合だけはなぜかヘッドと英語で言われる場合もある。頭より大きなものはオーバーヘッド。頭以上とはいわないが、頭半という言い方があって、それは頭プラス身長の半分を足した高さ。もちろん身長によって高さは異なるから、あくまでイメージ的な表現。まったく波がない時はくるぶしとかいったりする。
この日は胸から胸〜肩ぐらいの大きさ。
この頃に台風19号は奄美大島あたりだと思うが、かなり西側から北上するコースなので、日本列島の中心部にあたる相模湾に大きな波を運んでくるパワーはなかったのかも知れない。ちなみに台風が北緯20度を超えると日本の太平洋岸に台風のうねりが入るといわれる。北緯20度はフィリピンの北あたり。鹿児島が31度で東京は35度、札幌が45度。
ここは地名としては北浜海岸。ただし全国各地のサーフポイントにはそれぞれポイント名がついてる。大磯の場合はとても細かく分かれていて、最初の写真に堤防の手前に大きな岩が写っているが、堤防からその岩までを源二(げんじ)と呼ぶ。幅は100メートルくらいしかない。そこより東側が大磯、あるいは大磯メイン。源二と大磯メインを区別する意味がよくわからないものの、そういうことになっている。写真を撮ったのは大磯メイン。ここからさらに東に300メートルほど行ったところが磯高(大磯高校)前と呼ばれる。
海岸沿いに西湘バイパスが通っているので、北浜海岸沿いのポイントにクルマでは行けない。だからサーファーは漁港の駐車場にクルマを止めてポイントまで歩いていくことになる。寒い時はツライだろうなあ。
バイクなので大磯メイン前の路肩に駐車。
後ろにあるサーフショップはかなりの老舗っぽい。
1号線を戻って南足柄広域農道に向かう途中で酒匂川を渡る。ここの河口は普段は波がないが、台風の時だけ大きな波が来ると何かで読んだ気がする。もっとも読んだのは30年前のサーフィン現役時代だから記憶も曖昧なのだが、どうせ通り道なので立ち寄ってみた。
「さかわがわ」と読む。
河口に架かる橋は西湘バイパス。よくこんな海岸ギリギリに高速道路を造ったものだと思う。遠くに見えるのは箱根につながる山々。
波はなし(>_<)
サーファーもいなかった。
石ころでも撮ってみる。
駐車場にはクルマがたくさんいたが、
これは釣り人や海岸でバーベキューをする人たちのもの。
ーーー続く
2014年10月12日
やまゆりライン 〜 南足柄広域農道
台風はまだ影響ないようなのでバイクでツーリング。
先日、安房(あわ)グリーンラインという広域農道を走って楽しかったので、どこか他にもないかと探すと、足柄平野(小田原のある平野)の東西の丘陵に内陸部と海側をつないでいる広域農道が2本あったので、それを走ってくることにした。その他に小田原周辺でブラブラと。(図はウィキペディア)
今回のルートは同じ道路を往復したところがあるので番号を振ってある。
最初の広域農道は足柄平野東側丘陵にある「やまゆりライン」。正式名称は「広域農道:小田原ー中井線」。ほとんどミカン畑を縫って走るルートで、なぜ「やまゆり」という愛称がついているのか不思議。「やまゆりライン」で画像検索してみたがヤマユリの写真はヒットしなかった。
帰りに通ったのが西側丘陵の「南足柄広域農道」。こちらは愛称はないが地図を見ると「足柄街道」と記載されているし、農道入り口の標識も「足柄街道こっち」だった。何度か走っている神奈川県道78号線や、そこから枝分かれしている県道365号も足柄街道の表記がある。歴史のある地域なのでいろいろ事情があるんだろうが、違う道路に同じ名前をつけられるとややこしい。「旧足柄街道」「本家足柄街道」「元祖足柄街道」とか区別してくれないかな。
午前9時出発で気温19度。今回から革ジャンの下はTシャツだけじゃなくトレーナーも着用。スウェットシャツといわないと歳がばれるかな。それでも高速道路ではちょっと寒かった。
東名高速の秦野中井(はだのなかい)インターを降りて71号線を少し南下してから右側に進んでいくのだが、県道にはやまゆりラインを示す標識はない。農道は地域の農家のためのものだから標識は必要ないのか、あるいは道路の所管が農林省と国交省に分かれているから連携が悪いのか。ともかく農道ツーリングで面倒なのは入り口探しである。グーグルマップでも道路にやまゆりラインの表記はない。やまゆりラインを北から南に下る場合は、農道に入ってすぐのところに「あしかが乳業」の本社があるので、それをナビにセットするといい。
やまゆりラインの入り口からわずかに進んだところ。。この標識はやまゆりラインと接続する道路側にないので、標識というよりただのネームプレートである。
この写真を撮っている時にイギリス製の古いスポーツカーが通り過ぎていった。やはりクルマやバイク好きには有名なルートみたい。走ってみると適度なクネクネでいい感じ。アップダウンもかなりある。坂を登って、その頂点の手前で道路の先が見えなくなる瞬間はけっこう好き。
例によって途中の写真はないが、ネットで全ルートを撮影したものを見つけたのでリンクを張っておく。作者のws9氏に感謝。
https://www.youtube.com/watch?v=44R_kXBEqrc
最後に丘陵から平野部分に下っていくところは小田原の街を見下ろせてなかなかいい感じ。この日は曇りで空と海の色がはっきりしなかったが、晴れていたら海も見えていたと思う。途中のどこかに展望台があるはずなのだが見落としてしまった。
やまゆりラインは県道72号線と接続して終了。全長は約11キロ。72号線をそのまま海岸まで南下すると国府津(こうづ)というところ。大磯から西に10キロ程度の場所である。大磯には5月に訪れそこねた「新島襄終焉の地碑」がある。今度は場所をしっかり頭にたたき込んできた。
このあたりの国道1号線は片側1車線。道路沿いの建物も低くてのどかな感じ。国道1号線=日本を代表する幹線道路というイメージとはほど遠い。ただしノロノロと混んでいる。交通量もそれなりにあるが、このあたりの人たちの運転はおっとりしているような気もする。
新島襄終焉の地碑は1号線の照ヶ崎海岸入口交差点に面している。
東京方向を向いて右側=下り車線側。
三角地のような形。
歩道沿いにこんな解説板がある。しかし道路をクルマやバイクで走っていてわかる標識はない。京都なら交差点名になるかもしれないが、ここ大磯はホームじゃないから仕方ないか。
徳富蘇峰の筆による地碑。
永眠50周年に際し門下生が建立(こんりゅう)。
昭和15年10月。徳富蘇峰が文字を書く。
この石は新島先生の故郷である碓氷のものを半田善四郎が寄贈。
ーーーと書いてある。
新島襄は安中藩士の息子。彼が生まれたのは神田にあった江戸屋敷だが、安中藩は現在の群馬県安中市(あんなかし)。安中と軽井沢の境にあるのが碓氷峠で、そこで産出した石を持ってきたということ。碓氷峠は先日に走ってきたばかりで、やっぱり新島襄と縁があるのかな。石を寄贈した半田善四郎も安中の人で、軽井沢ではじめて別荘地分譲を始めた実業家とされる。
ところで雰囲気はお墓っぽいけれど、お墓じゃないから拝むのはおかしい。だいたい新島襄はキリスト教徒である。というわけで黙祷しておいた。1月23日の命日には同志社関係者が集まって式典があり、その時には賛美歌が唱われるそうだ。でも、このデザインにはそぐわないような(^^ゞ
ちなみに彼が亡くなったのは静養していた百足屋という旅館の別館の愛松園。ここは愛松園ではなく本館にあたる百足屋の跡地。国道1号線を通す時に取り壊したとのこと。広い敷地で道路ができても一部は残ったということなのだろうか。また愛松園はここから200メートルほど離れた愛宕神社のそばにあったらしい。没後50年も経っているから愛松園の土地は手に入らなかったのだろう。
新島先生の地碑(敷地)を背景にBMW F800R。
これは国道1号線の裏側
ーーー続く。
先日、安房(あわ)グリーンラインという広域農道を走って楽しかったので、どこか他にもないかと探すと、足柄平野(小田原のある平野)の東西の丘陵に内陸部と海側をつないでいる広域農道が2本あったので、それを走ってくることにした。その他に小田原周辺でブラブラと。(図はウィキペディア)
今回のルートは同じ道路を往復したところがあるので番号を振ってある。
最初の広域農道は足柄平野東側丘陵にある「やまゆりライン」。正式名称は「広域農道:小田原ー中井線」。ほとんどミカン畑を縫って走るルートで、なぜ「やまゆり」という愛称がついているのか不思議。「やまゆりライン」で画像検索してみたがヤマユリの写真はヒットしなかった。
帰りに通ったのが西側丘陵の「南足柄広域農道」。こちらは愛称はないが地図を見ると「足柄街道」と記載されているし、農道入り口の標識も「足柄街道こっち」だった。何度か走っている神奈川県道78号線や、そこから枝分かれしている県道365号も足柄街道の表記がある。歴史のある地域なのでいろいろ事情があるんだろうが、違う道路に同じ名前をつけられるとややこしい。「旧足柄街道」「本家足柄街道」「元祖足柄街道」とか区別してくれないかな。
午前9時出発で気温19度。今回から革ジャンの下はTシャツだけじゃなくトレーナーも着用。スウェットシャツといわないと歳がばれるかな。それでも高速道路ではちょっと寒かった。
東名高速の秦野中井(はだのなかい)インターを降りて71号線を少し南下してから右側に進んでいくのだが、県道にはやまゆりラインを示す標識はない。農道は地域の農家のためのものだから標識は必要ないのか、あるいは道路の所管が農林省と国交省に分かれているから連携が悪いのか。ともかく農道ツーリングで面倒なのは入り口探しである。グーグルマップでも道路にやまゆりラインの表記はない。やまゆりラインを北から南に下る場合は、農道に入ってすぐのところに「あしかが乳業」の本社があるので、それをナビにセットするといい。
やまゆりラインの入り口からわずかに進んだところ。。この標識はやまゆりラインと接続する道路側にないので、標識というよりただのネームプレートである。
この写真を撮っている時にイギリス製の古いスポーツカーが通り過ぎていった。やはりクルマやバイク好きには有名なルートみたい。走ってみると適度なクネクネでいい感じ。アップダウンもかなりある。坂を登って、その頂点の手前で道路の先が見えなくなる瞬間はけっこう好き。
例によって途中の写真はないが、ネットで全ルートを撮影したものを見つけたのでリンクを張っておく。作者のws9氏に感謝。
https://www.youtube.com/watch?v=44R_kXBEqrc
最後に丘陵から平野部分に下っていくところは小田原の街を見下ろせてなかなかいい感じ。この日は曇りで空と海の色がはっきりしなかったが、晴れていたら海も見えていたと思う。途中のどこかに展望台があるはずなのだが見落としてしまった。
やまゆりラインは県道72号線と接続して終了。全長は約11キロ。72号線をそのまま海岸まで南下すると国府津(こうづ)というところ。大磯から西に10キロ程度の場所である。大磯には5月に訪れそこねた「新島襄終焉の地碑」がある。今度は場所をしっかり頭にたたき込んできた。
このあたりの国道1号線は片側1車線。道路沿いの建物も低くてのどかな感じ。国道1号線=日本を代表する幹線道路というイメージとはほど遠い。ただしノロノロと混んでいる。交通量もそれなりにあるが、このあたりの人たちの運転はおっとりしているような気もする。
新島襄終焉の地碑は1号線の照ヶ崎海岸入口交差点に面している。
東京方向を向いて右側=下り車線側。
三角地のような形。
歩道沿いにこんな解説板がある。しかし道路をクルマやバイクで走っていてわかる標識はない。京都なら交差点名になるかもしれないが、ここ大磯はホームじゃないから仕方ないか。
徳富蘇峰の筆による地碑。
永眠50周年に際し門下生が建立(こんりゅう)。
昭和15年10月。徳富蘇峰が文字を書く。
この石は新島先生の故郷である碓氷のものを半田善四郎が寄贈。
ーーーと書いてある。
新島襄は安中藩士の息子。彼が生まれたのは神田にあった江戸屋敷だが、安中藩は現在の群馬県安中市(あんなかし)。安中と軽井沢の境にあるのが碓氷峠で、そこで産出した石を持ってきたということ。碓氷峠は先日に走ってきたばかりで、やっぱり新島襄と縁があるのかな。石を寄贈した半田善四郎も安中の人で、軽井沢ではじめて別荘地分譲を始めた実業家とされる。
ところで雰囲気はお墓っぽいけれど、お墓じゃないから拝むのはおかしい。だいたい新島襄はキリスト教徒である。というわけで黙祷しておいた。1月23日の命日には同志社関係者が集まって式典があり、その時には賛美歌が唱われるそうだ。でも、このデザインにはそぐわないような(^^ゞ
ちなみに彼が亡くなったのは静養していた百足屋という旅館の別館の愛松園。ここは愛松園ではなく本館にあたる百足屋の跡地。国道1号線を通す時に取り壊したとのこと。広い敷地で道路ができても一部は残ったということなのだろうか。また愛松園はここから200メートルほど離れた愛宕神社のそばにあったらしい。没後50年も経っているから愛松園の土地は手に入らなかったのだろう。
新島先生の地碑(敷地)を背景にBMW F800R。
これは国道1号線の裏側
ーーー続く。
2014年10月10日
心肺停止の違和感と危惧 続き
3つ前のエントリーの続き。
マスコミが心肺停止の表現を使うようになったのは、死んでいるという客観的事実があっても、医者が死亡を認定するまでは法律上は死亡と見なさないとの法律手続き的な基準を、どんな事情があったかはわからないがマスコミも自分たちの基準とし始めたからである。
普通の事故や事件では医者の認定までにそれほど時間がかからない。しかし今回の噴火では救助隊が死亡している登山者を発見しても、噴火がひどくて運び出せなかった。その結果、医者の認定が取れず、何日もの間「心肺停止者何名」の報道を続けるという矛盾が露呈してしまったとは前回に書いたとおり。
心肺停止という報道に違和感を覚える理由はいくつかある。
まずは事実と違うからである。医者が認定するまで法律的には死亡ではないが、認定されていなければ死亡と表現してはいけないという法律はない。そのあたりをマスコミは勘違いしているのではないかと思う。御嶽山では10月8日にも心肺停止の登山者を1名発見したとニュースがあった。9月27日の噴火から11日もたって発見されているのに未だに心肺停止扱いである。こうなると自分たちの表現基準にこだわって、死者を冒涜しているのではないかとさえ思えてくる。
次には誤解を生む表現だからである。よくある「心肺停止の状態で発見され病院で死亡が確認されました」というニュースでも、まだ生きている可能性があって病院に運ばれたと誤解している人がいると思う。それが今回のように「死者何名、心肺停止何名」と並列して表現されると、マスコミ業界用語知識なしで読めば、心肺停止は死んでいない人と解釈してしまっても仕方がないだろう。
さらに誤解による弊害が生まれる。心肺停止と表現された登山者は救助隊によって死亡が確認された人たちである。しかし医者による認定ではないからマスコミは心肺停止と呼んだ。多くは噴火が激しく運び出せなかったが、何名かは現場から搬送されて医者による死亡の認定を受けたので、結果として「死者何名、心肺停止何名」と並べて伝えるニュースになった。その表現だと心肺停止はまだ生きている遭難者に聞こえるとは先ほど書いた。そうなると当然「一刻も早い救出を」という話になる。
実際、激しい噴火の中で危険を冒して「救出活動」は行われた。現場に生きて取り残されている人がいるなら、それも致し方ないが、実際の活動は遺体の探索と収容である。もう少し二次被害のリスクを勘案して状況をしばらく見極めるべきだったと思う。遺体収容も早いに越したことはないとしても、そのために救助隊に犠牲者を出したのではまったく意味がない。自衛隊は大きな再噴火があった場合に備えて、飛んでくる岩石の盾にするために戦車まで投入する準備をしたらしい。しかし遺体収容はそんな危険を冒してまでやるべきことではないはず。もちろん救助隊は警察・消防・自衛隊とプロフェッショナルだから二次被害が出ない状況だと判断しての行動だと信じたい。しかし繰り返される「一刻も早い救助が願われます」とのニュースがプレッシャーとなって判断を誤る可能性はあるし、どこかの勘違い議員が「決死隊を出せ」などと口を挟んでこないとも限らない。今回は大きな犠牲が出ずに活動が進んで幸運だったと思う。
また今はようやく捜索という言葉が使われるようになったが、当初は最初の救助隊が投入されて、現場に生存者がいないと確認された後も救助とか救出の表現が使われた。遺体の探索と収容を日本語では救助や救出とは呼ばない。心肺停止と建前の表現を使っていたからそれとの整合性を取ったのか、あるいは「救出に行く」と「遺体の収容に行く」ではニュースバリューが違うと計算が働いたのか。私も「救助活動が再開されました」というニュースを見て「ああ、よかった」と思ったから言葉の力は恐ろしい。
ここからは話が飛躍する。
日本は曖昧に表現したり婉曲にものをいう文化がある。それは美徳だとも思うが、近年は過度に物事を直視しない、断定を避ける、面と向かってものをいわない傾向があると感じる。その根底にあるのはリスクを恐れる心理の強まりではないだろうか。よく使われる例えだが
「お荷物をお預かりします」
ではなく
「お荷物のほうお預かりします」
と、なんでも「ほう」をつける。これは断定を避ける心理かな。
「注文はコーヒーでよろしいですか」
ではなく
「注文はコーヒーでよろしかったですか」
というやり取り。これは相手に責任を転嫁して心理的に楽になるための方便。よろしいですかと尋ねると、自分が聞き取れたどうかの問題だが、よろしかったですかと尋ねれば相手がそういったかどうかの問題になる。電話がかかってきて「wasshoさんのお電話でよろしかったですか?」と切り出されるのにも慣れたけど(^^ゞ
私が一番嫌いな表現は「〜〜〜はいかがなものかと思う」という言い回し。悪いとかよくないと自分の意見をはっきりいうのではなく、きわめて曖昧な第三者的立場を装った態度表明。これはもちろん対立を避けたい心理からだろう。「ほう」とか「よろしかったですか」と違って「いかがなものか」の表現は大昔からある。ただし「私は反対です」の代わりにやたら使われるようになったのは20数年前から。
もう1段、話を飛躍させると、これらの表現の根底にあるリスクを恐れる心理には、日本人の軟弱化があるような気がする。気がするだけで、その説に確信を持っているわけではない。(あっ、断定するリスク避けた!) それは日本が豊かになった結果だとも思うが、これからもそれでやっていけるかはちょっと心配。
話を心肺停止に戻すと、このおかしな表現が使われ、それなりに受け入れられているのもリスクを避けたい心理にマッチしているからだと思う。今回の報道で心肺停止って何?と疑問を持っても「医者が認定するまでは」という説明に納得する人のほうが多数派である。ちなみに海外メディアは、この心肺停止と表現する日本語の翻訳に苦労しているみたいだ。
名は体をあらわすとの言葉がある。おかしな表現を使っていると世の中もおかしくなるのでは、というのが私の危惧するところ。
最後になってしまったが今回の犠牲者の方々のご冥福を祈りたい。
マスコミが心肺停止の表現を使うようになったのは、死んでいるという客観的事実があっても、医者が死亡を認定するまでは法律上は死亡と見なさないとの法律手続き的な基準を、どんな事情があったかはわからないがマスコミも自分たちの基準とし始めたからである。
普通の事故や事件では医者の認定までにそれほど時間がかからない。しかし今回の噴火では救助隊が死亡している登山者を発見しても、噴火がひどくて運び出せなかった。その結果、医者の認定が取れず、何日もの間「心肺停止者何名」の報道を続けるという矛盾が露呈してしまったとは前回に書いたとおり。
心肺停止という報道に違和感を覚える理由はいくつかある。
まずは事実と違うからである。医者が認定するまで法律的には死亡ではないが、認定されていなければ死亡と表現してはいけないという法律はない。そのあたりをマスコミは勘違いしているのではないかと思う。御嶽山では10月8日にも心肺停止の登山者を1名発見したとニュースがあった。9月27日の噴火から11日もたって発見されているのに未だに心肺停止扱いである。こうなると自分たちの表現基準にこだわって、死者を冒涜しているのではないかとさえ思えてくる。
次には誤解を生む表現だからである。よくある「心肺停止の状態で発見され病院で死亡が確認されました」というニュースでも、まだ生きている可能性があって病院に運ばれたと誤解している人がいると思う。それが今回のように「死者何名、心肺停止何名」と並列して表現されると、マスコミ業界用語知識なしで読めば、心肺停止は死んでいない人と解釈してしまっても仕方がないだろう。
さらに誤解による弊害が生まれる。心肺停止と表現された登山者は救助隊によって死亡が確認された人たちである。しかし医者による認定ではないからマスコミは心肺停止と呼んだ。多くは噴火が激しく運び出せなかったが、何名かは現場から搬送されて医者による死亡の認定を受けたので、結果として「死者何名、心肺停止何名」と並べて伝えるニュースになった。その表現だと心肺停止はまだ生きている遭難者に聞こえるとは先ほど書いた。そうなると当然「一刻も早い救出を」という話になる。
実際、激しい噴火の中で危険を冒して「救出活動」は行われた。現場に生きて取り残されている人がいるなら、それも致し方ないが、実際の活動は遺体の探索と収容である。もう少し二次被害のリスクを勘案して状況をしばらく見極めるべきだったと思う。遺体収容も早いに越したことはないとしても、そのために救助隊に犠牲者を出したのではまったく意味がない。自衛隊は大きな再噴火があった場合に備えて、飛んでくる岩石の盾にするために戦車まで投入する準備をしたらしい。しかし遺体収容はそんな危険を冒してまでやるべきことではないはず。もちろん救助隊は警察・消防・自衛隊とプロフェッショナルだから二次被害が出ない状況だと判断しての行動だと信じたい。しかし繰り返される「一刻も早い救助が願われます」とのニュースがプレッシャーとなって判断を誤る可能性はあるし、どこかの勘違い議員が「決死隊を出せ」などと口を挟んでこないとも限らない。今回は大きな犠牲が出ずに活動が進んで幸運だったと思う。
また今はようやく捜索という言葉が使われるようになったが、当初は最初の救助隊が投入されて、現場に生存者がいないと確認された後も救助とか救出の表現が使われた。遺体の探索と収容を日本語では救助や救出とは呼ばない。心肺停止と建前の表現を使っていたからそれとの整合性を取ったのか、あるいは「救出に行く」と「遺体の収容に行く」ではニュースバリューが違うと計算が働いたのか。私も「救助活動が再開されました」というニュースを見て「ああ、よかった」と思ったから言葉の力は恐ろしい。
ここからは話が飛躍する。
日本は曖昧に表現したり婉曲にものをいう文化がある。それは美徳だとも思うが、近年は過度に物事を直視しない、断定を避ける、面と向かってものをいわない傾向があると感じる。その根底にあるのはリスクを恐れる心理の強まりではないだろうか。よく使われる例えだが
「お荷物をお預かりします」
ではなく
「お荷物のほうお預かりします」
と、なんでも「ほう」をつける。これは断定を避ける心理かな。
「注文はコーヒーでよろしいですか」
ではなく
「注文はコーヒーでよろしかったですか」
というやり取り。これは相手に責任を転嫁して心理的に楽になるための方便。よろしいですかと尋ねると、自分が聞き取れたどうかの問題だが、よろしかったですかと尋ねれば相手がそういったかどうかの問題になる。電話がかかってきて「wasshoさんのお電話でよろしかったですか?」と切り出されるのにも慣れたけど(^^ゞ
私が一番嫌いな表現は「〜〜〜はいかがなものかと思う」という言い回し。悪いとかよくないと自分の意見をはっきりいうのではなく、きわめて曖昧な第三者的立場を装った態度表明。これはもちろん対立を避けたい心理からだろう。「ほう」とか「よろしかったですか」と違って「いかがなものか」の表現は大昔からある。ただし「私は反対です」の代わりにやたら使われるようになったのは20数年前から。
もう1段、話を飛躍させると、これらの表現の根底にあるリスクを恐れる心理には、日本人の軟弱化があるような気がする。気がするだけで、その説に確信を持っているわけではない。(あっ、断定するリスク避けた!) それは日本が豊かになった結果だとも思うが、これからもそれでやっていけるかはちょっと心配。
話を心肺停止に戻すと、このおかしな表現が使われ、それなりに受け入れられているのもリスクを避けたい心理にマッチしているからだと思う。今回の報道で心肺停止って何?と疑問を持っても「医者が認定するまでは」という説明に納得する人のほうが多数派である。ちなみに海外メディアは、この心肺停止と表現する日本語の翻訳に苦労しているみたいだ。
名は体をあらわすとの言葉がある。おかしな表現を使っていると世の中もおかしくなるのでは、というのが私の危惧するところ。
最後になってしまったが今回の犠牲者の方々のご冥福を祈りたい。
2014年10月07日
両神山麓花の郷 ダリア園 その2
はるばる秩父までやってきたダリア園はたいへん見応えがあった。
小学校の夏休みに朝顔を育てるのは宿題みたいなもの。ダリアもそれに近い身近な存在だったような気がする。校庭にも咲いていたはず。でも大人になるにつれてなぜかダリアを見かけなくなり、いつの間にか名前だけは知っている存在に。去年、神代植物園でダリアを見たのは本当に久しぶりの体験。いろいろな種類のダリアがあって楽しかった。しかし、そのほとんどは初めて見る花の形だった。
子供の頃に見ていたダリアはこんな花だったかなあ?あまりよく覚えていない。何となく黄色やオレンジ色で少し派手な花だったイメージが記憶に残っている。
この両神山麓花の郷のダリア園にも、神代植物園以上にたくさんの種類のダリアが咲いている。私が子供の頃にも,こんなにたくさんの種類があったのだろうか。
後でアップの写真もいろいろ載せるが、とてもバリエーションに富んでいるので、ダリアの花というのはこういう形と一言で説明することは難しい。でも私にとって去年からダリアのイメージは「カッコいい花」。普通は花を表現するのはキレイとかカワイイという言葉だが、とにかくダリアはカッコいいのである。
なぜかアンデスとかマヤ文明という言葉を思い出すのは、
何に似ているのだろう?
岡本太郎を連想させる。
これはピンぼけだけれど写真がカッコ良く撮れた。
つぼみが開ききっていない花もカッコいい。
裏から見てもカッコいいのがダリア。
またダリアは眺めていると何となく元気が出てくる花である。元気な花の代表はもちろんヒマワリ。しかし真夏にヒマワリ畑に行くと直射日光を遮るものが何もないので、30分もいると暑さに元気を吸い取られてしまうのが難点。
ダリア園の一番上から。
頂上部分は、何とお墓!
眼下にたくさんのダリアが咲いていて、さぞ眠り心地がいいに違いない。
しかし、ここはもともと何に使われていた土地なのだろう?
お墓にはつきものの彼岸花も少しだがまだ咲いていた。
道路を挟んで下側のダリア園。広さは下の方が広い。係員の人と少し話をしたら、最初に上のダリア園をつくって評判がよかったので下にも拡張したそうだ。
ダリアが植えられているそれぞれの畝(うね)には品種の表示があってわかりやすい。
ところどころにこんな注意書き。
これと勘違いしている人がいたが、
こちらは成長の途中でダリアが倒れないためのネット。
電気柵は敷地を取り囲むように張られている。(写真の中央奥) 勘違いする人が多いのは注意書きが電気柵とは関係なくダリアのそばにあるから。ちょっと不親切かな。
ダリアのアップあれこれ。
写真に撮ったのはごく一部。なんてったって300種類もあるのだから全部を撮りきれない。実を言うと途中から撮り飽きてきて写真はやめてしまった。
というわけでお腹満腹。2〜3年はダリアを見に行かなくてもいい気がする(^^ゞ
3時間ほどダリア園にいたが、すべてをじっくり見るならもう3時間は必要と思う。
ダリア園出発は午後4時前。到着した時は25度くらいだったが、山あいなので日が傾くと気温は19.5度まで下がっていた。来た道を秩父市の中心部まで引き返す。帰りの方向だと武甲山がよく見える。秩父を代表する山のひとつらしいが、石灰石(セメントの材料)の産地でもあり削られた山肌が異様な光景。
国道299号で飯能市まで降りて,そこから圏央道〜関越が帰りのルート。299号も緩やかなカーブが続くいい道だが、交通量が多いのでまったりペース。平地に降りてからインターまではひどい渋滞で閉口。午後7時半ガレージ着。
走行は265キロで、ダリア園に3時間もいたせいもあるが距離の割に時間のかかったツーリングだった。また次の台風19号が接近しているらしいが、今度の三連休もツーリングに行けるといいな。
おしまい
小学校の夏休みに朝顔を育てるのは宿題みたいなもの。ダリアもそれに近い身近な存在だったような気がする。校庭にも咲いていたはず。でも大人になるにつれてなぜかダリアを見かけなくなり、いつの間にか名前だけは知っている存在に。去年、神代植物園でダリアを見たのは本当に久しぶりの体験。いろいろな種類のダリアがあって楽しかった。しかし、そのほとんどは初めて見る花の形だった。
子供の頃に見ていたダリアはこんな花だったかなあ?あまりよく覚えていない。何となく黄色やオレンジ色で少し派手な花だったイメージが記憶に残っている。
この両神山麓花の郷のダリア園にも、神代植物園以上にたくさんの種類のダリアが咲いている。私が子供の頃にも,こんなにたくさんの種類があったのだろうか。
後でアップの写真もいろいろ載せるが、とてもバリエーションに富んでいるので、ダリアの花というのはこういう形と一言で説明することは難しい。でも私にとって去年からダリアのイメージは「カッコいい花」。普通は花を表現するのはキレイとかカワイイという言葉だが、とにかくダリアはカッコいいのである。
なぜかアンデスとかマヤ文明という言葉を思い出すのは、
何に似ているのだろう?
岡本太郎を連想させる。
これはピンぼけだけれど写真がカッコ良く撮れた。
つぼみが開ききっていない花もカッコいい。
裏から見てもカッコいいのがダリア。
またダリアは眺めていると何となく元気が出てくる花である。元気な花の代表はもちろんヒマワリ。しかし真夏にヒマワリ畑に行くと直射日光を遮るものが何もないので、30分もいると暑さに元気を吸い取られてしまうのが難点。
ダリア園の一番上から。
頂上部分は、何とお墓!
眼下にたくさんのダリアが咲いていて、さぞ眠り心地がいいに違いない。
しかし、ここはもともと何に使われていた土地なのだろう?
お墓にはつきものの彼岸花も少しだがまだ咲いていた。
道路を挟んで下側のダリア園。広さは下の方が広い。係員の人と少し話をしたら、最初に上のダリア園をつくって評判がよかったので下にも拡張したそうだ。
ダリアが植えられているそれぞれの畝(うね)には品種の表示があってわかりやすい。
ところどころにこんな注意書き。
これと勘違いしている人がいたが、
こちらは成長の途中でダリアが倒れないためのネット。
電気柵は敷地を取り囲むように張られている。(写真の中央奥) 勘違いする人が多いのは注意書きが電気柵とは関係なくダリアのそばにあるから。ちょっと不親切かな。
ダリアのアップあれこれ。
写真に撮ったのはごく一部。なんてったって300種類もあるのだから全部を撮りきれない。実を言うと途中から撮り飽きてきて写真はやめてしまった。
というわけでお腹満腹。2〜3年はダリアを見に行かなくてもいい気がする(^^ゞ
3時間ほどダリア園にいたが、すべてをじっくり見るならもう3時間は必要と思う。
ダリア園出発は午後4時前。到着した時は25度くらいだったが、山あいなので日が傾くと気温は19.5度まで下がっていた。来た道を秩父市の中心部まで引き返す。帰りの方向だと武甲山がよく見える。秩父を代表する山のひとつらしいが、石灰石(セメントの材料)の産地でもあり削られた山肌が異様な光景。
国道299号で飯能市まで降りて,そこから圏央道〜関越が帰りのルート。299号も緩やかなカーブが続くいい道だが、交通量が多いのでまったりペース。平地に降りてからインターまではひどい渋滞で閉口。午後7時半ガレージ着。
走行は265キロで、ダリア園に3時間もいたせいもあるが距離の割に時間のかかったツーリングだった。また次の台風19号が接近しているらしいが、今度の三連休もツーリングに行けるといいな。
おしまい
2014年10月04日
両神山麓花の郷 ダリア園(秩父:小鹿野町)
久々のお花見ツーリング。
今回は秩父の小鹿野町にダリアを見に行ってきた。去年、神代植物園へ秋バラを見に行った時にたまたま見かけたダリアだが、あれ以来お気に入りの花になっている。ネットで調べたところ、関東では小鹿野(おがの)のダリア園が一番規模が大きいようだ。敷地は1ヘクタール(坪でいうなら約3000坪)で300品種5000株のダリアが咲いているとある。
秩父は埼玉の一番西側に位置する。北を群馬県、西に長野県、南は山梨県と東京都に接している県境のエリアである。何か突出したものがあるわけでもなく、ごく普通の地方都市であるが、なぜか秩父は知名度が高い気がする。もっとも場所までわかっている人は少なく、私も秩父と聞くとなんとなく群馬県を思い浮かべてしまう。山のイメージがかぶるのかな。
東京から高速道路を使って秩父へ行くルートは2通り。最寄りのインターは関越道の花園か圏央道の狭山日高。どちらのインターからも秩父中心部まで40キロほどの距離がある。つまりちょっと遠い。でもツーリングということを考えると楽しい距離である。今回は圏央道から秩父へアクセスした。
地図は下側のルートが往きの時計回り。中央自動車道を八王子ジャンクションで圏央道(けんおうどう)に乗り換え青梅(おうめ)インターで降りる。一番ポピュラーなのは帰りに通った国道299号だが、同じ道路を往復してもつまらないから往路は県道44号線:岩藏街道〜28号線:小曽木街道〜53号線:成木街道をつないで走った。
出発は午前9時頃。気温は25度で暑くもなく寒くもなく。ただし天候は曇りで雲が厚い。明日は台風の影響で雨の予報。早めに天候が崩れないかが気掛かり。中央道はところどころ渋滞していたが圏央道に入ると快適そのもの。東名からつながったのはいいけれど採算採れているのか心配になってくる。
青梅インターから先の県道ルートは選んで正解だった。道幅もそこそこあって緩やかなカーブが続くツーリング向きの道路。道路脇に沢が流れているところも多くていい景色。進むにつれてだんだんと山里っぽくなり、ところどころにある製材所の前を通り過ぎる時は木のいい香りがする。ただし53号線では途中でヘアピンが連続する箇所と超クネクネ箇所がある。ヘアピンのところの名前はわからないがクネクネは山伏峠。山伏峠を過ぎると正丸峠こっちの標識があらわれる。正丸峠は県道53号と国道299号を結んでいる旧道で、かつては走り屋達の聖地のひとつだったらしい。
正丸峠の分岐を過ぎてしばらくすると国道299号に合流する。2〜3キロ走ると道の駅があったので休憩。ここまでで自宅からちょうど100キロだった。
「果樹公園あしがくぼ」
後で調べたらこのあたりは多くの農園があって、イチゴ狩り、ブドウ狩り、キノコ狩りその他を季節に応じて楽しめるらしい。
山伏峠や正丸峠があるからかバイクが多かった。写真の左側に,ここに写っている3倍くらいのバイクが駐まっている。そっちを撮っておくべきだったな。
道の駅を出ると秩父の市街地に入る。あちこちに「何番札所」の標識が目につく。巡礼・お遍路さんというと四国が思い浮かぶが、西国三十三所(近畿地方)、坂東三十三箇所(関東地方)、秩父三十四箇所をあわせて日本百観音というらしい。ちなみに四国は八十八箇所ある。地名を見てわかるように秩父の巡礼はエリアがコンパクトなことが特徴。秩父市内を走っている時に1人だけ白装束の巡礼スタイルのおばあさんを見かけた。宗教的なことはともかく、老人になったら暇つぶし&出歩くことによる健康という意味で巡礼はいい趣味かもしれない。
秩父駅前の通りは木造の古い商家風のお店もあってところどころいい感じ。秩父までたどり着くと何となく安心するが、ダリア園はここからまだ25キロも先にある。駅前を抜けてしばらくすると趣のある橋があった。後で調べたら秩父橋で、国道299号が通っている現在の3代目の橋の隣に2代目の橋も遊歩道として残っている。趣のあるのは2代目の橋。通り過ぎてしまったが写真に撮ればよかったと後悔。
やがて小鹿野町(秩父は秩父市と5つの町がある)に入ると、曲がり角ごとに「ダリア園こっち」の立て看板があるので道はわかりやすい。しかし延々と山の中を走っていく。秩父には土地はいくらでもあるのに、何でこんな山奥にダリア園を造ったんだろう。
12時45分ようやくダリア園到着。
無料の駐車場があるが、ダリア園のかなり手前から路上駐車しているクルマ多数。
ちなみにダリア園は県道279号線沿いにある。
駐車場に誘導する係員。
ここまでがんばって誘導するほど混雑していなかったけれど(^^ゞ
何となく駐車禁止の白線ぽいが、ここに駐めてくれと入り口でいわれたので。
ダリア園は道路を挟んで上下に分かれている。
この写真を見て「狭っ!」と思わなかった?
私も最初はこれで本当に関東最大のダリア園?とガッカリした。でもダリアは細長い畝ごとに植えられている。それをつづら折り式に見て歩くから(端から端までを何十往復もすることになるから)、実はとても広いというか全部見るにはかなりの時間がかかるのである。
入り口の様子。
きわめてのどかな雰囲気。
入場料は400円。この入り口は下側の園地にある。上の園地に入る時に検札はないし、私は上を先に見て下に降りてきたが、下の園地に入る時に入場券を見せてくれともいわれなかった。まあのどかなのである。
なお入場料は正確には協力金という名目。そうすれば寄付金扱いなので消費税は非課税で売り上げはすべて運営者のものとなる。そういうところはチャッカリしている。ちなみにこのダリア園は小鹿野町の町営のようである。
ーーー続く
今回は秩父の小鹿野町にダリアを見に行ってきた。去年、神代植物園へ秋バラを見に行った時にたまたま見かけたダリアだが、あれ以来お気に入りの花になっている。ネットで調べたところ、関東では小鹿野(おがの)のダリア園が一番規模が大きいようだ。敷地は1ヘクタール(坪でいうなら約3000坪)で300品種5000株のダリアが咲いているとある。
秩父は埼玉の一番西側に位置する。北を群馬県、西に長野県、南は山梨県と東京都に接している県境のエリアである。何か突出したものがあるわけでもなく、ごく普通の地方都市であるが、なぜか秩父は知名度が高い気がする。もっとも場所までわかっている人は少なく、私も秩父と聞くとなんとなく群馬県を思い浮かべてしまう。山のイメージがかぶるのかな。
東京から高速道路を使って秩父へ行くルートは2通り。最寄りのインターは関越道の花園か圏央道の狭山日高。どちらのインターからも秩父中心部まで40キロほどの距離がある。つまりちょっと遠い。でもツーリングということを考えると楽しい距離である。今回は圏央道から秩父へアクセスした。
地図は下側のルートが往きの時計回り。中央自動車道を八王子ジャンクションで圏央道(けんおうどう)に乗り換え青梅(おうめ)インターで降りる。一番ポピュラーなのは帰りに通った国道299号だが、同じ道路を往復してもつまらないから往路は県道44号線:岩藏街道〜28号線:小曽木街道〜53号線:成木街道をつないで走った。
出発は午前9時頃。気温は25度で暑くもなく寒くもなく。ただし天候は曇りで雲が厚い。明日は台風の影響で雨の予報。早めに天候が崩れないかが気掛かり。中央道はところどころ渋滞していたが圏央道に入ると快適そのもの。東名からつながったのはいいけれど採算採れているのか心配になってくる。
青梅インターから先の県道ルートは選んで正解だった。道幅もそこそこあって緩やかなカーブが続くツーリング向きの道路。道路脇に沢が流れているところも多くていい景色。進むにつれてだんだんと山里っぽくなり、ところどころにある製材所の前を通り過ぎる時は木のいい香りがする。ただし53号線では途中でヘアピンが連続する箇所と超クネクネ箇所がある。ヘアピンのところの名前はわからないがクネクネは山伏峠。山伏峠を過ぎると正丸峠こっちの標識があらわれる。正丸峠は県道53号と国道299号を結んでいる旧道で、かつては走り屋達の聖地のひとつだったらしい。
正丸峠の分岐を過ぎてしばらくすると国道299号に合流する。2〜3キロ走ると道の駅があったので休憩。ここまでで自宅からちょうど100キロだった。
「果樹公園あしがくぼ」
後で調べたらこのあたりは多くの農園があって、イチゴ狩り、ブドウ狩り、キノコ狩りその他を季節に応じて楽しめるらしい。
山伏峠や正丸峠があるからかバイクが多かった。写真の左側に,ここに写っている3倍くらいのバイクが駐まっている。そっちを撮っておくべきだったな。
道の駅を出ると秩父の市街地に入る。あちこちに「何番札所」の標識が目につく。巡礼・お遍路さんというと四国が思い浮かぶが、西国三十三所(近畿地方)、坂東三十三箇所(関東地方)、秩父三十四箇所をあわせて日本百観音というらしい。ちなみに四国は八十八箇所ある。地名を見てわかるように秩父の巡礼はエリアがコンパクトなことが特徴。秩父市内を走っている時に1人だけ白装束の巡礼スタイルのおばあさんを見かけた。宗教的なことはともかく、老人になったら暇つぶし&出歩くことによる健康という意味で巡礼はいい趣味かもしれない。
秩父駅前の通りは木造の古い商家風のお店もあってところどころいい感じ。秩父までたどり着くと何となく安心するが、ダリア園はここからまだ25キロも先にある。駅前を抜けてしばらくすると趣のある橋があった。後で調べたら秩父橋で、国道299号が通っている現在の3代目の橋の隣に2代目の橋も遊歩道として残っている。趣のあるのは2代目の橋。通り過ぎてしまったが写真に撮ればよかったと後悔。
やがて小鹿野町(秩父は秩父市と5つの町がある)に入ると、曲がり角ごとに「ダリア園こっち」の立て看板があるので道はわかりやすい。しかし延々と山の中を走っていく。秩父には土地はいくらでもあるのに、何でこんな山奥にダリア園を造ったんだろう。
12時45分ようやくダリア園到着。
無料の駐車場があるが、ダリア園のかなり手前から路上駐車しているクルマ多数。
ちなみにダリア園は県道279号線沿いにある。
駐車場に誘導する係員。
ここまでがんばって誘導するほど混雑していなかったけれど(^^ゞ
何となく駐車禁止の白線ぽいが、ここに駐めてくれと入り口でいわれたので。
ダリア園は道路を挟んで上下に分かれている。
この写真を見て「狭っ!」と思わなかった?
私も最初はこれで本当に関東最大のダリア園?とガッカリした。でもダリアは細長い畝ごとに植えられている。それをつづら折り式に見て歩くから(端から端までを何十往復もすることになるから)、実はとても広いというか全部見るにはかなりの時間がかかるのである。
入り口の様子。
きわめてのどかな雰囲気。
入場料は400円。この入り口は下側の園地にある。上の園地に入る時に検札はないし、私は上を先に見て下に降りてきたが、下の園地に入る時に入場券を見せてくれともいわれなかった。まあのどかなのである。
なお入場料は正確には協力金という名目。そうすれば寄付金扱いなので消費税は非課税で売り上げはすべて運営者のものとなる。そういうところはチャッカリしている。ちなみにこのダリア園は小鹿野町の町営のようである。
ーーー続く
2014年10月03日
心肺停止の違和感と危惧
御嶽山噴火の被害にあった登山者については「死亡何名、心肺停止何名」との報道が長く続いた。そのことに???と思った人も多かったようで、ネットでは解説なども多く見られる。
簡単に説明しておくと、人が死んだと認定できるのは法律的に医者だけなので、報道では認定されていない死体を便宜的に心肺停止の状態と表現している。心肺停止=「心臓の音がしない、息をしていない」以外に「脈拍がない、瞳孔が開いている」も死亡を示す特徴だが、仮にそれを現場で(医者でないものが)確認していたとしても、言葉として長くなるので心肺停止と呼ばれる。ちなみに爆発事故で身体がバラバラとか火災で黒こげになった等のように、客観的に死亡が明らかな場合は医者の認定は必要ないとされる。どの辺に線引き基準があるかはザッと調べた程度ではわからなかった。
もちろん心肺が停止しても人工呼吸や心臓マッサージで助かる可能性はある。でもそれは心肺停止直後から十数分後程度までに蘇生措置を始めた場合の話。今回の噴火現場には当てはまらない。
要するに死亡しているかどうかの事実にかかわらず、マスコミは法律的に死亡が確定したものを死亡、(もう一度書くが)法律的に確定していないものを心肺停止と表現しているということ。意外と知られていないが、この意味で使う心肺停止は医学用語でも法律用語でもなくマスコミ用語である。医学的に心肺停止とは単にその事実を指すし、心肺停止して何時間も経過した死体を心肺停止の状態とはいわない。関係ないけどよく聞く容疑者もマスコミ用語。法律的には少数の例外を除いて被疑者という。正反対の意味である被疑者と被害者が言葉的に似ているから、間違わないようにと報道では容疑者と言い換えたのが始まりらしい。
この心肺停止なる表現が使われるようになってから日はまだ浅い気がする。例えば東日本大震災の時は普通に死者何名との報道だったと思う(津波で流されて見つからない人は行方不明者)。最近は何か事故や事件があった場合「心肺停止の状態で発見され病院で死亡が確認されました」とニュースで伝えられる。まだ生きている可能性があって病院に運ばれたように思っている人もいるだろう。
普通はすぐ病院に運ばれ医者が認定するのでニュースの結論としては死亡となる。しかし今回の御嶽山では噴火が激しく、その心肺停止の人たちの多くをすぐ運び出せなかったから、医者による認定ができず、結果として何日もの間「死亡何名、心肺停止何名」とニュースが続いた。何日も続いたことで多くの人が疑問を感じたのだと思う。
なぜ心肺停止の表現を使うようになったかは知らない。しかし死者が出たのか死者は何名なのかといった、事件や事故で最も重要な情報を法律の規定を杓子定規に用いて、心肺停止などと生きているのか死んでいるのかわからないややこしい表現を使うことにはとても違和感を感じる。医者の認定がなければ死亡と見なされないというのは、法律上の手続きの話であって死んだかどうかの事実には関係ない。
なぜ心肺停止の表現を使うようになったかを想像してみた。
事実をいち早く伝えるより法律の手続きが大事と官僚的発想で考えるようになった。
法律の手続きが済むまでは死亡ではないと考える勘違いクレーマーの指摘にびびった。
もしそうなら、どちらにしても報道機関としてのレベルの低下としかいいようがない。
何かの拍子に心肺停止の表現が使われ、その言葉のイメージに自らも縛られ、
ひょっとしたら蘇生するかもと危惧し、その場合に死亡と報道していたら誤報と
なるから、そうならないための保身意識が働いている。
そんな言霊(こただま)に左右されるほどレベルが低下しているとは思いたくないが。
よく考えると噴火後の現場にマスコミは入っていない。犠牲者を発見したのは消防や
警察であり、その発表が心肺停止だったのかも知れない。
消防や警察の役所なら心肺停止といういい加減な表現をしていいかどうかは、ここでは触れない。しかし、それをそのまま垂れ流すだけなら問題だ。
ーーー続く
※続きは
http://blog.livedoor.jp/wassho/archives/53076740.html
簡単に説明しておくと、人が死んだと認定できるのは法律的に医者だけなので、報道では認定されていない死体を便宜的に心肺停止の状態と表現している。心肺停止=「心臓の音がしない、息をしていない」以外に「脈拍がない、瞳孔が開いている」も死亡を示す特徴だが、仮にそれを現場で(医者でないものが)確認していたとしても、言葉として長くなるので心肺停止と呼ばれる。ちなみに爆発事故で身体がバラバラとか火災で黒こげになった等のように、客観的に死亡が明らかな場合は医者の認定は必要ないとされる。どの辺に線引き基準があるかはザッと調べた程度ではわからなかった。
もちろん心肺が停止しても人工呼吸や心臓マッサージで助かる可能性はある。でもそれは心肺停止直後から十数分後程度までに蘇生措置を始めた場合の話。今回の噴火現場には当てはまらない。
要するに死亡しているかどうかの事実にかかわらず、マスコミは法律的に死亡が確定したものを死亡、(もう一度書くが)法律的に確定していないものを心肺停止と表現しているということ。意外と知られていないが、この意味で使う心肺停止は医学用語でも法律用語でもなくマスコミ用語である。医学的に心肺停止とは単にその事実を指すし、心肺停止して何時間も経過した死体を心肺停止の状態とはいわない。関係ないけどよく聞く容疑者もマスコミ用語。法律的には少数の例外を除いて被疑者という。正反対の意味である被疑者と被害者が言葉的に似ているから、間違わないようにと報道では容疑者と言い換えたのが始まりらしい。
この心肺停止なる表現が使われるようになってから日はまだ浅い気がする。例えば東日本大震災の時は普通に死者何名との報道だったと思う(津波で流されて見つからない人は行方不明者)。最近は何か事故や事件があった場合「心肺停止の状態で発見され病院で死亡が確認されました」とニュースで伝えられる。まだ生きている可能性があって病院に運ばれたように思っている人もいるだろう。
普通はすぐ病院に運ばれ医者が認定するのでニュースの結論としては死亡となる。しかし今回の御嶽山では噴火が激しく、その心肺停止の人たちの多くをすぐ運び出せなかったから、医者による認定ができず、結果として何日もの間「死亡何名、心肺停止何名」とニュースが続いた。何日も続いたことで多くの人が疑問を感じたのだと思う。
なぜ心肺停止の表現を使うようになったかは知らない。しかし死者が出たのか死者は何名なのかといった、事件や事故で最も重要な情報を法律の規定を杓子定規に用いて、心肺停止などと生きているのか死んでいるのかわからないややこしい表現を使うことにはとても違和感を感じる。医者の認定がなければ死亡と見なされないというのは、法律上の手続きの話であって死んだかどうかの事実には関係ない。
なぜ心肺停止の表現を使うようになったかを想像してみた。
事実をいち早く伝えるより法律の手続きが大事と官僚的発想で考えるようになった。
法律の手続きが済むまでは死亡ではないと考える勘違いクレーマーの指摘にびびった。
もしそうなら、どちらにしても報道機関としてのレベルの低下としかいいようがない。
何かの拍子に心肺停止の表現が使われ、その言葉のイメージに自らも縛られ、
ひょっとしたら蘇生するかもと危惧し、その場合に死亡と報道していたら誤報と
なるから、そうならないための保身意識が働いている。
そんな言霊(こただま)に左右されるほどレベルが低下しているとは思いたくないが。
よく考えると噴火後の現場にマスコミは入っていない。犠牲者を発見したのは消防や
警察であり、その発表が心肺停止だったのかも知れない。
消防や警察の役所なら心肺停止といういい加減な表現をしていいかどうかは、ここでは触れない。しかし、それをそのまま垂れ流すだけなら問題だ。
ーーー続く
※続きは
http://blog.livedoor.jp/wassho/archives/53076740.html