2015年01月

2015年01月30日

パソコンとオーディをつないでみた 4

というわけできわめて簡便な方法ながら、生まれて初めてのPCオーディオ体験。

自宅にあったケーブルの長さが1メートルほどしかなかったので、ノートタイプのパソコンをアンプのところまで持っていって接続。CDからiTuneに取り込んだMP3・256kbpsの音楽データを再生する。同時にCDプレーヤーにはパソコンに取り込んだものと同じCDを入れて再生。そしてアンプの切り替えスイッチを使って交互に聴き較べるという段取り。すべてクラシックだがいろいろと曲のタイプを変えて試してみた。

※iTune:マックに標準でインストールされている音楽管理ソフトみたいなもので
     もちろん再生もできる。アイチューンと読む

1)
音そのものというか楽器の「音色」みたいなものに差は感じなかった。

2)
PC再生でノイズがあるとか音が歪むというようなことはない。


しかしポジティブな評価ができるのはここまで。ネガティブ評価を一言でいうならPC再生は音に元気がない。ほかに個別的な要素を上げれば、

3)
音の広がりがない。CDプレーヤだと左右のスピーカーの外側にも音が広がるイメージだが、PC再生ではスピーカーの内側だけ。左右ほどではないが天井方向への広がりにも差がある。

4)
音が大きくなると(音量ボリュームではなく曲がフォルテになると)、今まで個別に聞こえていた各楽器の音が混ざるというか聴き分けにくくなるというか、とにかく明瞭度が悪くなる。

5)
逆に音が小さくなると(上と同じでピアニシモになると)、CDプレーヤでは聞こえる小さな音が聞こえない。まったく聞こえないわけではないが、音が小さすぎて何かが鳴っている程度で音楽には聞こえないこともある。


聴き較べればCDプレーヤとPC再生の差ははっきりわかる。同じ音なんだけれど鳴り方が違うというのが一番的確な表現だと思う。ただし人間の耳はすぐ慣れてくるので、しばらくPC再生の音を聴いていると、そんなに不満がなくなってくるのも事実。でもCDプレーヤに切り替えると、パッと音楽が立体的に聞こえ音もシャッキとして「やっぱりこっちだよな」と思う。音質によって音楽の感動や楽しさが変わる訳じゃないというのが持論だが、音がいいほうが満足感はある。


ちなみにオーディオセットよりも圧倒的にiPhoneで音楽を聴いている時間が長い。そこでイヤホンで聴くiPhoneとの比較もしてみた。使っているイヤホンはそこそこクラス。しかしイヤホンとスピーカーじゃ聞こえ方がまったく違うので、較べることが間違っているという結論になっただけ。


前回までのエントリーで書いたように、今回の実験でPC再生がCDプレーヤーに劣るのは

    CDをパソコンに取り込む時にファイルサイズを小さくしている→再生している
    音楽データの音質が低い

    パソコン内蔵DACの性能が低い

の2つが原因である。

どちらが影響しているのかは今回の実験条件では特定できない。しかし以前にファイルサイズや形式を変えて聴き較べてまったく違いがわからなかった経験から、内蔵DACのウエイトが大きいと推測している。

単体のDACを貸してくれる人がいれば実験を続けられるが、そんな当てもないので、とりあえずの結論は「CDプレーヤーがご臨終した時に改めて考えよう」となった。でもBGM的にネットラジオを鳴らす分には、今回のようにイヤホンジャックとパソコンをつなぐ程度で充分だと思うので、デスクからアンプまで届く長さのオーディオケーブルは買うつもりである。
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おしまい

wassho at 08:36|PermalinkComments(0) 音楽、オーディオ 

2015年01月28日

パソコンとオーディをつないでみた 3

CDの中に入ってる音楽も、パソコンで扱うあらゆる音もデジタルデータである。これをスピーカーやイヤホンで鳴らすのに必要なのがD/Aコンバーター。何をするものかというとデジタルデータをアナログ信号に変換(コンバート)する回路。ディー・エー・コンバーター、あるいはコンバーターも略語にしてDACと書いてダックと読んだりする。CDプレーヤーとはいってみれば、CDからデータを読み込むターンテーブルとよばれる装置とDACを組み合わせた製品。

パソコンで音楽を扱わなかった時代でも警告音やゲームの効果音などは必要だったから、昔からパソコンにDACは内蔵されている。逆にいえばパソコンのDACはその程度のレベル。DACもピンキリで単体のオーディオ・コンポーネント(懐かしい言葉)として買うなら5000円から500万円まである。パソコンには最も安い、つまり性能の低いDACが使われている(たぶん)。

パソコンをプレーヤーとして音楽を再生することをPCオーディオと呼ぶらしい。それでパソコンのDACの性能は低いから、別のもっとましなDACを用意して

    パソコン→DAC→アンプ→スピーカー

とつなぐのが一般的。
この組み合わせでのDACは3万円から5万円くらいが売れ筋みたいだ。

パソコンからDACへはデジタルデータが流れるからUSBケーブルを使い、DACからアンプへはアナログ信号(要は電流)だからアンプとCDプレーヤーをつなぐようなオーディオケーブルを使う。

PCオーディオで再生する人が増えたから、最近はCDプレーヤーにUSBケーブルを接続してパソコンのデジタルデータを読み込める機能があったり(この場合はCDプレーヤーのDACを使うことになる)、あるいはアンプにDACが内蔵されているものも増えている。

私の持っているオーディオセットは10年前に買ったものだから、そういうものはついていない。もちろん単体のDACも持っていない。その場合どうするかというと、パソコンのヘッドホン用のジャックに流れているのは内蔵DACで変換されたアナログ信号だから、そこからオーディオケーブルでアンプにつなぐ。

前回のエントリーでパソコンとオーディをつないでみた「きっかけ」を3つ書いたが、それらは問題意識みたいなもの。一番の直接的なきっかけは、年末にいろいろ整理をしていた時にヘッドホン・ジャックとアンプをつなぐことができるケーブルを見つけたからという単純なもの。つまり単に実験がしたかった(^^ゞ

こういうタイプのケーブル。
一方がヘッドホン・ジャック用で、もう一方が右側・左側用の端子に別れている。
オーディオケーブル


こんなケーブルがなぜ自宅にあるのか、何に使っていたのかさっぱり思い出せないのだが、とりあえずコスト・ゼロでパソコンとオーディをつなぐことができた。買っても1000円しないが。

パソコンのDACは性能が低いことは先ほど書いたとおり。しかしiPhoneのDACだって同程度のもののはずである(たぶん)。イヤホンは多少高級なものに買い換えているとはいえ、毎日それで音楽を聴いてそれなりに満足しているわけだから、とりあえず試してみる価値はあるでしょうという目論見。


ーーー続く

wassho at 08:51|PermalinkComments(0) 音楽、オーディオ 

2015年01月27日

パソコンとオーディをつないでみた 2

CDの売り上げが落ちている状況を前回のエントリーで書いたが、今回パソコンとオーディをつないだこととは直接の関係はない。まあいきさつはこんな感じ。


きっかけ その1

2005年に購入して、2007年に修理に出して、2010年に同じ症状が再発したCDプレーヤー。SACDというフォーマットのディスクは掛からなくなったけれど、普通のCDは聴けるからそのまま使ってきた。それが2年ほど前からさらに調子が悪くなり、半年ほど前から絶不調である。

まずCDを載せるトレイがOPENのボタンを押しても出てこなくなった。仕方がないからトレイの隙間に指を突っ込むというかとツメを引っかけて無理やり引き出している。しばらくしたら今度はCLOSEのボタンを押してもトレイが戻らなくなった。現在は全手動開閉式のCDプレーヤーとなっている(/o\)

そしてCDを挿入してから再生可能になるまで時間がかかるようになってしまった。CDを入れるとCDプレーヤーはまずTOC(Table Of Contents)というデーターを読み込みに行く。これはCDの目次みたいなもので通常は瞬時に完了となる。私のCDプレーヤーは購入した時から3秒ほどかかって遅い方だったのだが、これはSACDフォーマットかどうかの判別も含まれているのかなと推察していた(それが原因かどうかは調べていない)。しかし現在は早くて30秒、ヘタをすれば1分近くTOCの読み込みにかかる。

音楽の再生が始まれば音質には問題がない。だから絶不調ながらも使い続けているわけであるが、そろそろご臨終が近い予感である。このCDプレーヤーはそこそこの値段の製品である。買い換えるより修理した方が安いと思うが、2005年のものをまだ修理してくれるかなあ。



きっかけ その2

CDはたぶん1000枚近くある。半分ほどは収納ボックスに入れてソファの下にしまってある。実質的に捨ててしまったと同じで取り出して聴くことは滅多にない。それらは昔に買ったもので、ほとんどパソコンにも取り込んでいない。残り半分は部屋に出してある。枚数が多いのでかなり邪魔になってきたし、あのCDが聴きたいと思った時に探すのも一苦労である。長く聴いていないCDのケースにはホコリがたまって見た目も悪い。


きっかけ その3

ジャンルを問わずにあれこれ買い漁っていた頃は、今はなき六本木のWAVEをよく利用していた。ほぼクラシックのCDしか買わなくなってからは銀座の山野楽器がメインのお店に。しかし買った経験がある人ならわかると思うが、クラシックCDはどの棚に入っているのか探すのが面倒な上に、探すのが面倒なくらい大きな店でないと品揃えが充実していないというやっかいな商品特性を持つ。またロックやポップスと違ってジャケ買いということもあまりない。というわけで現在はアマゾンでのネット通販99%の状態が続いている。

数年前からアマゾンでもダウンロード販売が多くなってきた。クラシックではまだ多くはないが、それでも過去25枚のCDを購入履歴で調べると、そのうちの8枚でダウンロード販売も平行しておこなわれていた。価格の違いはそれそれ以下の通り。

    CD     ダウンロード販売
    2808円    1600円
    1810円    1500円
    2477円    1500円
    2274円    1500円
    2094円    1500円
    2094円    1500円
    1965円    1500円
    2756円    2700円
 合計 1万8274円  1万3300円

CDとダウンロード販売で価格がほとんど変わらないものもあるが、トータルではダウンロード販売の方が3割ほど安い。ちなみにCDで安い価格のものが多いのは、できるだけ輸入盤を選んで買っているからである。



iPhoneで聴くためにCD(に入っている音楽データ)をパソコンに取り込んでいることは前回にも書いた。そのまま取り込むこともできるが、ファイルサイズを小さくするために通常はCDに入ってるものとは別のファイル形式に変換して取り込む。その仕組みを説明するととても長くなるから省略するが、変換することによって理論上はオリジナルのCDより少し音質が損なわれる。

私はMP3・256kbpsという設定で取り込んでいる。これはアマゾンを始め多くの音楽ダウンロード販売をしているサイトと同じ設定である。アップルのiTuneストアのダウンロード販売はAAC・256kbpsだが音質的には同じレベル。

つまり私のパソコンに取り込んだCDの音質=ダウンロード販売の音質だから、それをオーディオセットにつないで満足できれば、CDではなくダウンロード販売で音楽を買えばいいことになる。そうすれば何ヶ月後かにCDプレーヤーが壊れても買い換えなくていいし、CDの置き場所に煩わされることもなくなり、またCDより3割安く音楽を買える。

先ほど書いたように理論的にはCDより音質が劣る。しかしそれを聴き分けられるかどうかは別問題。聴き分けられるかというのは耳能力の問題もあるし、私が持っているオーディオセットが音質の微妙な違いを鳴らし別けられるかどうかにも左右される。

というわけで試しにパソコンとオーディオセットをつないでみたのである。


ーーー続く

wassho at 08:02|PermalinkComments(0) 音楽、オーディオ 

2015年01月25日

新球根のチューリップも発芽

12月14日に植えたチューリップ。今年は新たに買った球根と、昨シーズンに咲いた後に土の中から取りだしておいた球根も植えた。昨シーズンからの球根は実験程度のつもりで期待していなかったが、何と年末に想定外の発芽。その時の芽の大きさから最初の発芽日は12月25日あたりと思われる。

そして昨日、水やりをしていたら、新球根を植えたプランターでもめでたく発芽していることを発見。もう暗かったので撮影したのは本日。



発芽後5日くらいの感じ。
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これは昨日はなかった芽。
どの品種の球根かはわからないが、細い芽を出すタイプみたい。
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これらもこの2日以内の発芽と思われる。
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2つ発芽しているプランターもある。
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新球根の最初の発芽を1月25日とすれば、植えてから37日後ということになる。去年が36日だったから、まあ同じようなペース。


昨シーズンの球根もすべてのプランターで発芽し順調に育っている。
花を咲かせるまで大きくなってくれるかな?
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wassho at 18:50|PermalinkComments(0)   *チューリップ 

2015年01月24日

パソコンとオーディをつないでみた

レコードに取って代わったCDだが、そろそろ先行きがあやしくなってきた。

CDが売り出されたのは1984年(昭和59年)。国内の生産額で見ると2年後にはレコードとほぼ肩を並べ、3年後にはレコードが700億円、CDが1400億円とダブルスコアで追い抜いている。ピークは1998年から2000年(平成10年)で5000億円レベル。しかしその後は急降下でCD不況などといわれ今日に至る。2013年の生産額は2000億円と全盛期の40%しかない。

CDやレコードはパッケージメディアと呼ばれる。反対語はまだ定まっていないがど、有料配信とかデジタル配信とかダウンロード販売とかいわれる。要はインターネットで音楽ファイル(データ)を購入してダウンロードするもの。こちらの市場規模も2005年340億円、2009年900億円、2013年410億円と変化が激しい。2009年頃の売り上げが大きいのは着メロ着ウタとかが流行っていたからだろう。

パッケージと配信を併せても、2013年は2400億円で全盛期の半分の市場規模。まあとにかく音楽業界はなかなか厳しい。ちなみに嵐とAKB48だけで全体の1割弱の金額になるというからビックリ。

音楽が売れなくなったのは、よくいわれるように世の中にいろいろ楽しいことが増えて、音楽を聴く楽しみの「大事さ」が相対的に低くなったからだろう。もちろんパソコンが普及してきてCDをコピーすることが簡単になったり、全国津々浦々までレンタルショップが増えたり、プアーな若者が増えたことも影響している。

ところで「CDが売れなくなった」とはたまにニュースでも聞くが、実はそれでも日本はCDがよく売れている国なのである。金額で較べると日本はアメリカの2倍売れていて、CDが売れている国として断トツで1位である。

そのカラクリはパッケージと配信の売上比率の違い。

        パッケージ   配信
   日本     80%    16%
   アメリカ   30%    60%

   ※足して100%にならないのは、他にもライブなどの音楽マーケットがあるから

現在、先進国ではパッケージと配信の売上比率は50%・50%位のところが多い。アメリカはかなりパッケージの比率が低いけれど、5年か10年くらいで日本もこうなるだろうし、そう遠くないうちに、CDも今のレコードのようなマニアックなアイテムとなるのは間違いない。

今のところ私はセッセとCDを買っている。ダウンロード販売で音楽を買ったことはない。しかしほとんどのCDはiPhoneで聞くためにパソコンにも取り込んである。だったら試しにパソコンとオーディオをつないで鳴らしてみるかと思いついたのが今回の試み。

※CDの音楽をiPhoneで聴くには、いったんパソコンにCDの内容をコピーして、さらにパソコンからiPhoneにそれをコピーする作業が必要となる。


ーーー続く

wassho at 23:30|PermalinkComments(0) 音楽、オーディオ 

2015年01月22日

横浜美術館コレクション展 2014年度 第2期

ホイッスラー展のエントリーの最後に常設展について「続く」と書いちゃったが、ブリヂストン美術館のように常設展に世界の名画が並んでいるわけではない。全体的にはあまりテンションは上がらないものの、いくつかの作品は見応えのあるものだった。

なおタイトルが2014年度になっているのは書き間違いではない。一般に常設展というのはその美術館のコレクションを常に展示している展示室のこと。もちろん展示内容は時々入れ替わるが、美術館が開いていれば必ず見ることができる。常設展の反対語が企画展で、テーマに合わせて集めた(よそから借りてきた)作品を中心に期間を定めて展示する。

横浜美術館の場合は変則的で、常設展ではなく自前のコレクションの中から企画を立てて期間限定で展示する方式のようである。だから名前もコレクション展。年に2〜3回のペースで開かれており、私が見てきたのは昨年の12月から今年の3月までの期間で2014年度ということになる。

過去の記録を見ると2014年度の場合(3月から始まっているものもあるが)

   3月1日〜5月25日:企画展
   3月1日〜5月21日:コレクション展
   8月1日〜11月3日:企画展
   12月6日〜2015年3月1日:コレクション展(今回の展示)

という構成。6月と7月は休館していたのかな? どうしてそのような運営になっているのかは知らないが、この美術館に勤めたら休暇はたっぷり取れるかも?


開催されていたコレクション展は3部構成。

最初のコーナーは抽象画だった。そこそこかなと思う作品もあったが、こんなもの買うなんて税金の無駄遣いとしか思えない作品もあった。まあ芸術なんてものは、あまたある作品のほんの一握りだけが価値を持つ。そして芸術は、あまたの無駄なものも一緒に育てないと、その一握りが生まれないというやっかいな性質を持っている。芸術を楽しむとは基本的に道楽で成り立っている行為。無駄遣いした税金が、やがて素晴らしい作品を生むことを期待しましょう。

展示されている抽象画は大きなサイズのものが多かった。中には横幅が数メートルを超えるものも。私は絵は大きければ大きいほどよし、サイズは質の一部だと捉えているところがある。そういう意味では見応えがあった。これで小さければただの落書きだと思う作品もあったが、悪口はこれくらいにしておこう(^^ゞ


次の展示室は光と影がテーマ。
それとは関係ないような作品も多くて、結構強引なテーマ設定だったかな。


「隅田川夜」 小林清親

1881年(明治14年)の作品。去年の正月に浮世絵をたくさん見た。浮世絵の魅力のひとつが日本的な色彩の豊かさだが、こういうモノトーンに挿し色程度のものもなかなか味わい深いと感じる。
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「春少女」 奈良美智

奈良美智(よしとも)は、この少女の顔ばかりを描いている人だったと思う。その顔作品は時々見かける。しかし怒っていたり、意地悪そうな表情をしている作品が多く、こういう無表情なものは初めて見た気がする。私には漫画にしか思えずまったく興味が湧かないけれど、彼の作品は美術オークションで1億円以上の価格になるというから、ありがたく拝んでおいた。
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ちなみに、このページによると先日に訪れたデ・クーニングの作品が、世界で高価な絵ランキング第3位:159億円となっていてビックリ!



「夢想植物園」 北久美子

調べてみると、こういうタイプの絵を専門に描いている画家のよう。先に訪れたホイッスラーが唯美主義なら彼女は唯爽快主義かな。絵を見て爽快な気分になったのは初めてで、貴重な体験をした。
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「幻想的風景」 ダリ

ここに貼り付けた写真じゃこの絵のよさはわからない。
なんてったて3枚合わせて横幅が7メートル以上ある大作。
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当日は知らなかったが、このコレクション展は自由に作品を撮影していいみたい。というわけで作品の大きさがわかるページを探してみた。なおリンク先は今回のコレクション展での展示とは限らない。

リンク1:http://www.nminoru.jp/image/nminoru/2010/0612/PIC074053.JPG
リンク2:http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/28/05/35/src_28053536.jpg
リンク3:http://hoshino.asablo.jp/blog/img/2013/01/28/266675.jpg

     ※それぞれのURLのimgより左側が引用した写真のメインページになる。


もっとも絵の大きさがわかったところで、この絵を実感することは難しいかも知れない。しかし、このヘンテコリンな絵をその大きなサイズで眺めていると、何となく異空間がそこに存在しているような不思議な気分になってくるのである。さいわい展示室はガラガラだったし、ダリの絵の前に椅子があったので、しばらくの間じっくりと眺めることができた。


多くの人がダリの顔と、こんな作品は見たことがあると思う。その印象が強烈なせいか、なんとなくゲテモノ芸術家のイメージがつきまとう。私もそうだったし、今まで展覧会でダリの絵を見る機会もあまりなかった。芸術の価値は酔えるかどうかが持論である。ダリの絵はその持論とは違う意味で、大げさに表現すなら幻覚的に酔えた。ダリってなかなかいいじゃん!

ところで展示室の椅子はダリの大きな絵が見渡せるように、作品からかなり離れた位置に置かれている。そこに座って眺めていたわけだが、たまに入ってくる人が皆、なぜか私に遠慮して作品の前に立たないことに途中から気がついた。よほど恍惚の表情をしたアブナイ人に見えたのかなあ?



絵とは別に写真の展示室があった。横浜は日本の商業写真発祥の地ということで、この美術館も写真展示に力を入れているらしい。商業写真というのは広告やパンフレットで使う写真のことかと普通は思う。でも商業写真発祥の地というのは、日本で写真館が最初にできたのが横浜だったということを意味しているようである。


写真は8割以上が被写体の価値だと私は思っている。だから素晴らしい写真を見たとしても、それは広い意味での情報として素晴らしいのであって、絵を見て素晴らしいと思う時のような気持ちにはならない。だからあまり写真作品には興味がなく、写真展というものも今までに3回くらいしか行ったことがない。


というわけでザッと見ただけ。

ある作品は、横浜のあちこちの商店街の雑然とした風景ばかりを集めてきたような20枚ほどの白黒写真。撮っている時は楽しいだろうが、それを見せられてもねえという印象。私がツーリング先で撮ってブログに載せている写真と同じかな(^^ゞ

別の写真家は阪神大震災をテーマにした写真だった。といっても震災直後の生々しい写真ではなく、10年くらい前に撮られた写真。それが「この川岸は仮設住宅の跡地だ」とか「建て替えられた住宅が並んでいるが、まだ更地のところもある」とか報告書に載せるのならともかく、それで写真展する?というようなものばかりで、なんともその意図が理解不能。

もっとも美術館を訪れたのは1月17日。つまり阪神大震災が起きた日で、ご存じのように今年は震災から20年目。この日に唯美主義のホイッスラーを楽しもうとヘラヘラ訪れた美術館で、阪神大震災をテーマにした写真が偶然にせよ展示されていたことは、ちょっと引っかかるものを感じた。もっとまじめに生きよという啓示か、あるいはそのうちやってくるらしい首都圏地震に備えよという戒めか。


おしまい

wassho at 08:21|PermalinkComments(0) 美術展 

2015年01月17日

ホイッスラー展 ジャポニスムの巨匠、ついに日本へ

バイクでツーリングするには寒いので、年明けにウィレム・デ・クーニング展を見たばかりなのだが、暇つぶしにまた美術館へ行ってきた。


やってきたのは横浜美術館。横浜市立ではなく横浜市の外郭団体が運営しているみたい。海沿いの再開発地区である「みなとみらい21」のほぼ真ん中にあって、自宅から電車だと45分くらいで着く。
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美術館の隣にあるのが有名なランドマークタワー。
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美術館に対面しているのはMARK IS(マークイズ)というショッピングモール。みなとみらいにいろんな施設が出来だしたのは1990年前後からで、このマークイズがオープンしたのは2013年6月と最近。それにしても発音しにくいネーミングである。
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ホイッスラー展の看板。
タイトルの上に横浜美術館開館25周年とある。この美術館は1989年開業でみなとみらいの中ではもっとも初期からあった施設の1つ。
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私にとってホイッスラーという画家は、名前は知っていても、どんな絵を描いていた画家かはすぐに思い出せないレベルの存在。なのに見に行こうと思ったのは、横浜美術館が25周年記念の展覧会に選ぶ画家だから間違いはないだろうという期待が1つ。

それと彼は1834年(明治元年が1868年)生まれで印象派の時代の画家であるが、印象派とは別の路線を歩んでいる。その画風は唯美(ゆいび)主義と呼ばれ「あれこれ理屈をこねたり、今までとは違う絵を描こうとしたり、あるいは何か存在価値や意義を絵に求めたり、または絵にメッセージを込めたりせず、絵は美しければそれでイイじゃん」という考え方(ただし私の解釈)。これは先日見に行ったウィレム・デ・クーニングとは正反対の発想。あの時代の抽象画を描いていた画家は、絵を描くとは何かということを突き詰めて突き詰めて、美しさは二の次に置いた方向性に走った。あの時代に限らず抽象画画家というのはそういうものかも知れない(ただし私の解釈)。

というわけで時代は少し違う画家ではあるが、デ・クーニングの後にホイッスラーを見るのもおもしかろうと考えたしだい。


入り口。
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中の様子。
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この美術館を訪れるのは初めて。エントランスは吹き抜けの空間になっている。それにしても石造りの壁や階段と、プレハブ小屋のような天井が異様にミスマッチ。ちなみに写真の左隅に3名写っているが、これは展覧会を見た後のアンケートに答えている人たち。アンケートを呼びかけるお姉さんもいる。この時で15名くらいとアンケートに応じている人が多いのに驚いたが、回答すると粗品をもらえるらしい。



「灰色と黒のアレンジメント No.2:トーマス・カーライルの肖像」

なかなかいい雰囲気の肖像画。色数は控えめなのに妙に生々しい。しかし、よくわからないのが着ているコートが胸の前で膨らんでいること。貼り付けた写真ではどういう風になっているか判別できないと思うが、ほぼ等身大で描かれているかなり大きなサイズの現物を見ても、この部分は陰影なしで塗りつぶされているだけで、コートがどういう状態になっているのかはわからなかった。椅子に座ってポーズを取る時にコートの前身頃が膨らむことはあるかもしれない。でもそれをそのままにする? その膨らんだところがおもしろいと思ったのかな。
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「黄色 と金色のハーモニー:ゴールド・ガール :コニー・ギルクリスト」

1つ前の作品を見てわかる通り、ホイッスラーは肖像画において確かなテクニックを持った画家である。でも動きのある人物を描くのは苦手だったみたい。この絵からは縄跳びをしている躍動感がまったく感じられないし、脚なんて木でできているみたいだ。だいたい、こんな物憂げな表情で縄跳びはしないだろう。ちょっと??な作品。
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「ライム・リジスの小さなバラ」

これは安心して眺められる可愛い少女の肖像画(早口言葉みたいになってしまった)。絵もよかったがタイトルもおもしろい。まだあどけないが芯の強そうなこの少女をよく言い表している。

ライム・リジスはイギリス南部の街の地名で、化石がたくさんあって世界遺産にも認定されているジュラシック・コーストにある。この少女はライム・リジス市長の娘で当時8歳くらいのロージーちゃん。
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しかし
いい絵なのに手の描き方が不自然で気持ち悪い(>_<)
どうした唯美派!



「オールド・ウェストミンスター・ブリッジの最後」

古くなった橋の取り壊し風景。上手に絵を描くなあと思った絵。細かく描き込まれているから、見るたびに新しい発見がありそうである。
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「ブルターニュの海岸(ひとり潮汐に)」

上の作品とはまったくタッチが違う。それほど精細に描かれていないのに、こちらの方が写真的にリアルに見えるのが不思議。それと狭い範囲の海岸を描いている割に、とても広々とした印象を受けるし、特に描き分けられていないのに、なぜか陽の光もたっぷりに感じる。何かと不思議な作品。
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「白のシンフォニー No.2:小さなホワイト・ガール」
「白のシンフォニー No.3」

この2枚がホイッスラーの唯美主義的作品。そのココロはゴチャゴチャ考えずに美の世界に酔うべし。この2枚は並べて展示されており、そのけだるく美しい雰囲気を味わってきた。
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あまり考えちゃいけないんだが(^^ゞ、1枚目の「白のシンフォニー No.2」は女性の顔が鏡にも映っていて、その表情が手前とは少し異なる。だいたい目線からして向きも違う。鏡に映っている表情はより寂しげで、ひょっとしたら彼女の内面を表しているのかも知れない。そうだとしたら、それはそれでおもしろい表現手法。しかし、あえて言おう。鏡の顔はいらない! 描き直して消してくれ! 何も考えずに美に酔うのに邪魔になるから。

この時代のヨーロッパではジャポニスム(日本趣味)が流行っていて、ホイッスラーはジャポニスムの巨匠ということになっている。「白のシンフォニー No.2」にも団扇(うちわ)、白地に青の磁器の花瓶、朱塗りのお椀などが描かれている。団扇と花瓶は何となく中国っぽい。当時そのあたりはあまり区別できていなかったのかもしれない。



「リンジー・ハウスから見たバターシー・リーチ」

遠景のボヤーッとした雰囲気はターナーの後期を思い出させる。もっとも「オールド・ウェストミンスター・ブリッジの最後」が1862年でこちらが1864年の作品だから、ホイッスラーはかなり画風の変遷が激しい。また理由は不明だが右側3人の女性は1871年に衣装を描き直したらしい。左側の人物のように、もう少しボカして描いた方が幽玄なイメージがでたかな。
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「三人の女性:ピンクと灰色」

クロスカルチャーな絵に見える。どこがといわれると困るけれど右側の女性はギリシャっぽいし、中央の鉢植えは日本または中国的。「白のシンフォニー No.3」とは方向性が違うが唯美な雰囲気がいい感じ。もちろん、どうしてほとんど裸で鉢植えの手入れをしているの?というような疑問を抱いちゃいけない(^^ゞ
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ホイッスラーはあまり回顧展が開かれない作家らしく、今回は日本では27年ぶりで世界的にみても20年ぶりの開催とのこと。名前だけ知っている存在だったホイッスラーがどんな画家なのかよくわかって好奇心が満たされた。

しかし満足できる展覧会だったかというと、あまりそうでもない。最大の理由は絵の少なさ。展示総数は130点あるが、そのうちの7割くらいはエッチングとかリトグラフで制作されたモノトーンの小さな版画。内容的にも習作っぽいのが多い。私は習作を見る趣味はないので、なおさら展示数に不満が残る。ちなみにエッチングというのは、エッチな内容の版画ではなく版画技法のことね。

そして絵の絶対数が少ないうえに、回顧展だからホイッスラーのいろいろな作品をまんべんなく展示しなければならない。当然、私が一番期待していた唯美主義的な作品もごくわずかとなってしまう。「白のシンフォニー No.2」や「白のシンフォニー No.3」のような作品をもっとたくさん堪能したかったというのが正直なところ。

おもしろかったのはホイッスラーは浮世絵にもかなり影響を受けていて、版画が多かったがそんな作品もいくつか展示されていた。そして、その横には彼が影響を受けたとされる歌川(安藤)広重や鳥居清長の浮世絵も一緒に展示されていて、ホイッスラーよりも浮世絵の方が断然よかったこと。習作でモノトーンの作品と浮世絵の代表作を較べるのはフェアじゃない気もするが、改めて浮世絵の素晴らしさを見直した。浮世絵は今見ても新鮮だが、当時のヨーロッパではびっくり仰天のアートだったことは想像に難くない。



展示室は2階にある。ホイッスラー展を見終わって、上からエントランスホールを眺めたところ。この後に常設展を見た。
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ーーー続く

wassho at 19:32|PermalinkComments(0) 美術展 

2015年01月15日

1月もはや半月が過ぎ

1月15日である。
大の月、小の月、28日までしかない2月のことを無視すれば、本日で1年の24分の1が過ぎることになる。何事もなく平穏に過ごしているというか、何も新しいことをせずにダラダラと暮らしているというか。

今年はダイエットのためにバイクを控えてでもジョギングを再開する予定。しかし、さすがにまだ寒い。それでよく聞く「ひと駅余分に歩く」を始めることにした。まずはオフィスから帰宅する時にと思い、銀座駅の次の日比谷駅を目指してみたもののーーー。

今まで気にしたことがなかったが、日比谷駅は銀座駅から見えているくらい近かった(>_<) グーグルマップで測ってみるとオフィスから銀座駅までが500メートル、そこから日比谷駅まで450メートルしかない。距離が倍になるとはいえ、これでは絶対値があまりにも小さい。

日比谷駅から次の霞ヶ関駅までは1キロ。ここまで歩けば今までの500メートルに対して1950メートルになるから多少は効果があるかな。皇居をみて日比谷公園を渡って帰るのも悪くない。まだ試していないけれど。


年末に帰省する時に部屋に取り込んでおいたクリスマス・カクタスは、帰省から戻ると目論見通り満開になっていた。写真は12日に撮ったもの。花数は少ないものの、前シーズンは剪定しすぎてツボミが1つしかできなかったことを思えば見事な復活ぶり。剪定したものを刺して育てた、小さい方のプランターにも初めて花が咲いてメデタシ。私もこいつらに見習って何度でも花を咲かせてやろうと誓う。
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とりあえず1年の24分の1が過ぎた報告あるいは警告でした。

wassho at 08:48|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2015年01月12日

ウィレム・デ・クーニング展 続き

さてウィレム・デ・クーニング。
オランダ語のウィレムは英語に直したらウィリアム。デ・クーニングは意味がわからないものの、デとクーニングのふたつセットで名字のようである。1904年(明治37年)にロッテルダムに生まれ、22歳でアメリカに移り住んでいる。30代半ばまでは看板描きの仕事をしていたらしい。

この展覧会は1960年代の、つまり彼が50歳代半ばから60歳代半ばまでの作品が中心。作品数は35点とそれほど多くない。それでも日本でデ・クーニングの作品がこれだけ揃うことは滅多にないらしい。もっともそれは抽象画のニーズが少ないことの反映でもあるだろう。訪れたのは平日の午後3時だったということもあるが、かなりガラガラ状態。この美術館でこれだけ空いているのは記憶にない。じっくり絵を眺められてよかったが。




「マリリン・モンローの習作」

マリリン・モンローといえば、あのマリリン・モンローしか考えられないが、彼女に何か恨みでもあったのかと思うくらいかけ離れたイメージ。これは1951年に描かれた習作(練習のために描いたもの)。その後、デ・クーニングは1954年にマリリン・モンローを題材にこんな作品を描いている。その絵からもマリリン・モンローを想像することは不可能だが、習作と較べれば絵としての趣があるかな。
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「リーグ」

この絵は板に新聞紙を貼って、その上から絵の具で描かれている。ところどころ下にある新聞が透けて見え、右上の隅のほうにLeagの文字が読み取れる。それを絵のタイトルにしただけで、リーグというタイトルに意味はない。
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この展覧会のことを知ったのは、どこかで見たポスターがきっかけで、それにはこの絵が載っていた。そしてふだんなら抽象画は敬遠するのに、なぜかこの絵には「秩序」を感じて興味を持ったというのは前回書いた通り。

本物を見た感想は

   ようわからんけど嫌いじゃない

音楽でいえばパンクロックとかメタルロックみたいなものだと思うが、うるさいだけの曲もあれば、ちょっといいかなと気に入る曲もある。それと同じようなものか。



「女」

これは1964年の作品。デ・クーニングは60年代に入って女性をテーマにした作品を多く描いている。もっとも、この絵にまったく違うタイトルを付けても誰も疑わないと思うが。ちなみにデ・クーニングは女好きで女にだらしなかったらしい。
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「無題(女の頭部)」

こういう絵は誰にでも描けそうで意外と描けないものではある。しかし、これで稼いでいたのがうらやましいというか、これに金を払った人に話を聞いてみたいというか。
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「サッグ・ハーバー」

サッグ・ハーバーはニューヨーク州はロングアイランド東部にあるリゾート地。そこで遊ぶ「開放的で空っぽな」女性を描いたとインタビューで答えている。きっとそういう女性は大好きだったに違いない(^^ゞ ちなみにこの絵は板をマスキングテープで縁取りして、その中に描かれている(上下のテープは無視されているが)。
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「水の中の女」
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「ふたりの女」
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「風景の中の女」
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「二人の人物」
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「無題」
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ひとつひとつの絵をじっくり眺めるとワケがわからなくなってくるが、デ・クーニングの絵がたくさんある展覧会の空間の中に身を置くと、結構いい感じに思えてくるから不思議。彼がこんなタッチの絵で何を表現したかったのかは知らない。しかし何となく新しい絵を創造したいという情熱みたいなものは伝わってくる。

それとワケがわからないなりに楽しめたのは、色がきれいなことも影響している。こんな絵が暗いトーンで描かれていたら気が滅入るだろう。調べてみると50年代のデ・クーニングは画風がやや暗くて不気味。今回が60年代の作品が中心でよかった。



話は変わるがデ・クーニングの絵を眺めながら、昔ニューヨークやロンドンに行った時、ラジオから流れるロックがとてもイケてたことを思い出していた。日本でもよく聴く知っている曲がほとんどだったが、英語を喋る国でそれらを聴くと、なぜかとても生き生きと聞こえるのである。音楽はシチュエーションに左右されることにその時に気付いた。考えてみれば運動会にバッハを流しても盛り上がらない。

たぶん絵も同じだ。デ・クーニングはパンクロックみたいな絵だが、パンクロックはオーディオセットの前に座って聴く音楽じゃない。だからデ・クーニングも美術館の上品な空間じゃなくて、たとえば地下鉄のホームにでも並べれば、もっと生き生きと見えるような気がする。ロックがガンガン鳴り響いていればなおよし。自宅に飾るならガレージかな。そんなチャンスは永遠に訪れないのが誠に残念。


おしまい

wassho at 23:19|PermalinkComments(0) 美術展 

2015年01月10日

ウィレム・デ・クーニング展

クーニング

ウィレム・デ・クーニングはオランダ生まれのアメリカで活躍した画家。抽象表現主義の創始者の1人であり、戦後のアメリカを代表する画家といわれている。彼のことはまったく知らなかったが、この展示会には是非行きたいと思っていた。それはこの目で確かめたいことがあったから。


絵の趣味や好みはしょっちゅう変わるけれど、ほとんどの抽象画やモダンアートの類は一貫して苦手である。私にとってアートの善し悪しの基準は、その作品に酔えるかどうか。内容や意図を理解できたり、世間や美術史における価値を認められても、酔えなければ私にとってはあまり意味がない。

酔えるかどうかを基準としていることは以前に何度か書いた。実はもうひとつ基準がある。それは、その作品に秩序があるかどうか。アートと秩序って正反対なもののようにも思えるが、意外とそうでもないのである。


哲学者のカントは「芸術とは悟性によって秩序づけられた感性の戯れである」というようなことをいっている。悟性というのは理性と感性の中間のようなものらしい。もっとも理性とか感性って何?と問われても正確に答えられる自信はないが。それとカントが使っていた言葉と、日本語に翻訳された理性・悟性・感性という言葉が持っているニュアンスも違うような気もする。

というわけでカントが何を言いたかったのか正確なところはさっぱりわからない(^^ゞ だいたい感性の戯れって何?という疑問もある。しかし何となく腑に落ちる言葉でもある。


こんなことかなと思っている。
どこかに行ってきれいな花を見つけて写真に撮る。きれいと思うかどうかは感性の領域である。しかし撮った写真で花のきれいさが伝わるかどうかは、カメラの性能や操作テクニックを別とすれば構図しだい。どの位置から、どんな角度で、光りの当たり方はーーーといったことを考える、あるいは直感的に判断できるのが悟性かと思う。証明写真なんて悟性ゼロだから、どんな美人でも魅力的な写真にはならない。

あるいはピアノをただ叩いただけじゃ耳障りな音しかでない。まぐれできれいなメロディや和音が鳴ることはあったとしても、それを単につなぎ合わせただけでは曲にならない。音楽はそれがどんなジャンルのものであっても、音が秩序づけられて並んで成り立っている。



一般的に秩序と自由は違う方向のイメージがある。そして、どちらかを選ぶならアートは自由の領域に属すると思われているはずだ。それが実は秩序の固まりであるという考え方を知った時は、目から鱗が落ちた気分だった。ずいぶん昔の話で、その時にカントにも興味を持って本屋で立ち読みしたが、あまりに難解でーーーいずれカント名言集というような本でも見つけたら買おうと思って今日に至っている。芸術は酔えるかどうかというのも何かの本で読んで知ったものだが、誰の言葉かは忘れてしまった。



話は戻ってウィレム・デ・クーニング。最初にこの展覧会のことを知った時、絵の具をガーッと塗りたくったような絵だから、私には関係ないものだと思った。でもなんとなく、そのガーッの中に秩序を感じたのである。抽象画の展覧会なんて長らく訪れていない。つまり最近は秩序なんてあって当たり前の絵しか見ていない。だから久しぶりに抽象画の中に画家が描いた秩序を眺めるという、ちょっと知的な絵画鑑賞をしてみたかったのである。そしてそんな感性あるいは悟性が、まだ私に残っているかを確かめたかった。



開催しているのはオフィスから歩いて行けるブリヂストン美術館。この美術館は旧ブリヂストン本社ビルに併設されているが、ビルの建て替えのために5月で休館になる。
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歩道に面しているビル1階のショーウインドウ?に展示会のメインとなる作品の複製が飾られている。それを見ただけで充分な気にもなってくるのが困りもの。
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入り口の様子。ブリヂストン美術館の展示会は800円と安いのも魅力。新しいビルになっても同じ料金であって欲しいな。
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ーーー続く。

wassho at 23:40|PermalinkComments(0) 美術展 

2015年01月06日

2015年 始まりました

早いもので21世紀になって15年目である。時々勘違いしそうになるが、西暦は1年から100年が1世紀という単位なので、2000年は20世紀で2001年からが21世紀。人間の場合は0歳からカウントするので15歳の誕生日なら16年目を迎えることになる。新年早々ややこしい話でゴメン。

ところで21世紀になった時のことはよく覚えている。子供の頃、21世紀というのは鉄腕アトムの世界で遠い未来のような気がしていのに、それがとうとうやってきたのかと感慨深かった。そして、あれからそんなにも年月が流れたのかと思うと、少し戸惑うというか焦るというか。あの時「時代の節目を迎えたのだから、これを機に生まれ変わるぞ」と誓ったはずなのに。

とりあえず今年の目標は痩せること。体感的には至って健康なものの、このままだとシャレにならない事態を引き起こしそうである。具体的にはウエストを80センチ台に下げること。それではまだデブなレベルだけれど、私にとっては10数センチダウンのビッグチャレンジなのである。

ウ〜ン新年の抱負がダイエットなんて、ちょっと情けないかな。
いい1年を過ごして、来年はもっとカッコいい目標を立てられるようにしよう。

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wassho at 20:54|PermalinkComments(0) 生活、日常