2015年11月
2015年11月28日
平林寺の紅葉
今年の紅葉ツーリングは埼玉県新座市にある平林寺(へいりんじ)。「紅葉の穴場として有名」なところらしい。表現としては矛盾しているが(^^ゞ
新座市は練馬区の隣にあってかなり近場。バイク的には物足りないが、そろそろ朝早く出発すると寒いし夕方に日は落ちるのも早くなってきたから、この季節には都合よし。ところで秋になって暖かい気候が長く続いたので、今年は関東の紅葉はどこも色づきが悪いらしい。それがちょっと心配だったが、この距離ならハズレでもまあいいかと。
地図は下からスタートして反時計回り。出発は正午頃。渋滞していないのを確認して富ヶ谷インターから首都高の山手トンネルに入る。山手トンネルは換気が悪くて内部の温度がベラボーに高い。この日も15.5度を指していた温度計がトンネルに入ったとたんに35度まで上がった。寒い季節ならありがたいようにも思えるが、寒くなれば暖かい服装でバイクに乗るので、やっぱりバイクには向いていないルート。5号池袋線で北に向かう場合、都心中心部を回る都心環状線経由のほうが距離的には短いのだが、山手トンネルは流れが速いので時間的には短縮できる。
高島平までは順調に走行。そこから8キロ位なのに、下道に降りてからがやたら混んでいてた。ひょっとして紅葉見物渋滞?と不安になる。平林寺近くでもビッシリ渋滞していたが、駐車場に入るクルマは少なく、単なる普通の渋滞だったようだ。
自宅から1時間半ほどで到着。平林寺自体に一般参拝客向けの駐車場はなく、お寺を挟んだ向かい側の駐車場に入れる。バイクは200円。中は空き地のような感じ。ひるねの森とは何か施設があるのかどうか、奥まで進まなかったのでわからず。
総門とよばれる正面玄関。
拝観料は500円。紅葉シーズンだけでいくら稼げるのかな? ちなみにJRや東武線の駅が近くにあるからか、そこからバスで来ている人が多いみたい。
総門をくぐってすぐのところ。
期待が高まる。
案内図はかなりデフォルメして書かれている。
実際の散策コースはかなり左右に広がっている。平林寺は相当に広い寺で敷地面積は13万坪=43ヘクタール。有名どころと比較すると東京ディズニーランドが51ヘクタールでUSJが39ヘクタール。
参道の横の紅葉を眺めながら、
次にあったのは山門。
金剛力士は迫力抑えめ。口をひらいているのが阿形(あぎょう)で、閉じているのが吽形(うんぎょう)ね。
裏から見ると高床式の倉庫みたい。
山門の奥にあるのが仏殿。
格子越しに見る内部の様子は真っ暗でほとんど何も見えない。試しにデジカメで撮ったら小さな仏像が三体写っていた。見えなきゃありがた味もないので、薄くていいから照明をつけてくれたらいいのに。
山門と仏殿の中間にあった高野槙(こうやまき)。樹齢600年といわれる古木。高野山に多く生えているから高野槙というが、一般のマキとは植物学的に別の系統らしい。根本から2つに分かれている形はめずらしいと思う。
山門から仏殿にかけては紅葉した木が多い。
鐘楼(しょうろう)。残念ながら勝手に突くことはことはできなかった。
仏殿の奥のエリアは立ち入り禁止のところが多かった。
こんな古い建物を眺めながら境内を進む。ちょっと京都にでも来た気分。
本堂につながる中門。入り口でもらったパンフレットには本堂も立ち入り禁止エリアになっていたのだが、すんなり入ることができた。
茅葺きの総門・山門・仏殿と較べると本堂は比較的新しい建物。
本堂の前庭はたいしたことなかった。いつも思うが、こういうところが京都の神社仏閣とは造った人の美意識レベルが決定的に違う。
このイチョウのイエローオータムは見事。
本堂に近寄って。
この本堂は明治13年(1880年)の再建とある。再建とは、まるまる建て替えたのか不明だが、雰囲気的にはもう少し古い時代の建物に思える。
平林寺は1375年に現在のさいたま市岩槻区に創建された。参考までに室町幕府が1336年から。そして1663年にこの地に移転。4代将軍徳川家綱の時代。山門と仏殿は移転直後に建てられたものらしい。全国的にそれほど知名度はないと思うが、2009年には天応皇后両陛下も訪れているステイタスの高いお寺。臨済宗の妙心寺派に属する。
仏殿と違って本堂には照明あり。しかし仏像まではかなり距離があるので、またもやありがた味を感じるに至らず。
僧堂門。
禅宗(メジャーなのは臨済宗と曹洞宗)の修行僧が雲水。雲水が修行する場所が僧堂。ここはその僧堂につながる門。この先には厳しい修行が待っているのかも。
片割れ地蔵とパンフレットにあったが意味はよくわからず。
放生池。
放生池(ほうじょうち)とは捕らえた魚などを放すためのもので、殺生を禁じた仏教の教えに沿ったもの。オレンジ色のコイは観賞用に飼っていると思うけど。
このあたりで建物のある区画は終了。
ここからは奥に広がる雑木林を散策することになる。
ーーー続く
新座市は練馬区の隣にあってかなり近場。バイク的には物足りないが、そろそろ朝早く出発すると寒いし夕方に日は落ちるのも早くなってきたから、この季節には都合よし。ところで秋になって暖かい気候が長く続いたので、今年は関東の紅葉はどこも色づきが悪いらしい。それがちょっと心配だったが、この距離ならハズレでもまあいいかと。
地図は下からスタートして反時計回り。出発は正午頃。渋滞していないのを確認して富ヶ谷インターから首都高の山手トンネルに入る。山手トンネルは換気が悪くて内部の温度がベラボーに高い。この日も15.5度を指していた温度計がトンネルに入ったとたんに35度まで上がった。寒い季節ならありがたいようにも思えるが、寒くなれば暖かい服装でバイクに乗るので、やっぱりバイクには向いていないルート。5号池袋線で北に向かう場合、都心中心部を回る都心環状線経由のほうが距離的には短いのだが、山手トンネルは流れが速いので時間的には短縮できる。
高島平までは順調に走行。そこから8キロ位なのに、下道に降りてからがやたら混んでいてた。ひょっとして紅葉見物渋滞?と不安になる。平林寺近くでもビッシリ渋滞していたが、駐車場に入るクルマは少なく、単なる普通の渋滞だったようだ。
自宅から1時間半ほどで到着。平林寺自体に一般参拝客向けの駐車場はなく、お寺を挟んだ向かい側の駐車場に入れる。バイクは200円。中は空き地のような感じ。ひるねの森とは何か施設があるのかどうか、奥まで進まなかったのでわからず。
総門とよばれる正面玄関。
拝観料は500円。紅葉シーズンだけでいくら稼げるのかな? ちなみにJRや東武線の駅が近くにあるからか、そこからバスで来ている人が多いみたい。
総門をくぐってすぐのところ。
期待が高まる。
案内図はかなりデフォルメして書かれている。
実際の散策コースはかなり左右に広がっている。平林寺は相当に広い寺で敷地面積は13万坪=43ヘクタール。有名どころと比較すると東京ディズニーランドが51ヘクタールでUSJが39ヘクタール。
参道の横の紅葉を眺めながら、
次にあったのは山門。
金剛力士は迫力抑えめ。口をひらいているのが阿形(あぎょう)で、閉じているのが吽形(うんぎょう)ね。
裏から見ると高床式の倉庫みたい。
山門の奥にあるのが仏殿。
格子越しに見る内部の様子は真っ暗でほとんど何も見えない。試しにデジカメで撮ったら小さな仏像が三体写っていた。見えなきゃありがた味もないので、薄くていいから照明をつけてくれたらいいのに。
山門と仏殿の中間にあった高野槙(こうやまき)。樹齢600年といわれる古木。高野山に多く生えているから高野槙というが、一般のマキとは植物学的に別の系統らしい。根本から2つに分かれている形はめずらしいと思う。
山門から仏殿にかけては紅葉した木が多い。
鐘楼(しょうろう)。残念ながら勝手に突くことはことはできなかった。
仏殿の奥のエリアは立ち入り禁止のところが多かった。
こんな古い建物を眺めながら境内を進む。ちょっと京都にでも来た気分。
本堂につながる中門。入り口でもらったパンフレットには本堂も立ち入り禁止エリアになっていたのだが、すんなり入ることができた。
茅葺きの総門・山門・仏殿と較べると本堂は比較的新しい建物。
本堂の前庭はたいしたことなかった。いつも思うが、こういうところが京都の神社仏閣とは造った人の美意識レベルが決定的に違う。
このイチョウのイエローオータムは見事。
本堂に近寄って。
この本堂は明治13年(1880年)の再建とある。再建とは、まるまる建て替えたのか不明だが、雰囲気的にはもう少し古い時代の建物に思える。
平林寺は1375年に現在のさいたま市岩槻区に創建された。参考までに室町幕府が1336年から。そして1663年にこの地に移転。4代将軍徳川家綱の時代。山門と仏殿は移転直後に建てられたものらしい。全国的にそれほど知名度はないと思うが、2009年には天応皇后両陛下も訪れているステイタスの高いお寺。臨済宗の妙心寺派に属する。
仏殿と違って本堂には照明あり。しかし仏像まではかなり距離があるので、またもやありがた味を感じるに至らず。
僧堂門。
禅宗(メジャーなのは臨済宗と曹洞宗)の修行僧が雲水。雲水が修行する場所が僧堂。ここはその僧堂につながる門。この先には厳しい修行が待っているのかも。
片割れ地蔵とパンフレットにあったが意味はよくわからず。
放生池。
放生池(ほうじょうち)とは捕らえた魚などを放すためのもので、殺生を禁じた仏教の教えに沿ったもの。オレンジ色のコイは観賞用に飼っていると思うけど。
このあたりで建物のある区画は終了。
ここからは奥に広がる雑木林を散策することになる。
ーーー続く
2015年11月26日
さよならHM
HMは高校の同級生。卒業以来、毎年欠かさず正月に集まっている6名のメンバーの1人。つまり私にとって、もっともつきあいが長くて深い友人といえる。
40歳代中頃から心臓が悪くなり、2007年にはペースメーカーを埋め込む手術をした。とはいっても当時はまだ見た目には健康そのものだった。しかし数年前からかなり「はっきりと弱って」きた。あまり出歩くこともなくなったようなので、気晴らしにでもなればと思い、その頃からたまに電話をするようになった。といっても半年に1回程度。
勤労感謝の日の月曜日にも電話した。自宅にかけると「この電話は使われていない」とのアナウンスが流れた。?と思って携帯に電話した。すると「番号が変わって、新しい番号は〜」とアナウンスが流れた。その時は携帯を乗り換え、あまり使わない固定電話は解約したんだろうと想像した。
その新しい番号にかけた。電話に出たのはHMとは違う声だった。アナウンスされた番号を聞き間違えたかと思い「これはHMさんの電話ですか?」と尋ねた。すると「私はHMの弟で、実は兄は先月の11日に亡くなりました」という答えが返ってきた。HMへの電話はいつも私の「別に用事はないけれど、死んでいないかどうかの確認で電話した〜」で始まる。まさか確認することになるとは夢にも思っていなかった。
誰にも連絡せず、電話があった場合にだけに伝えよという遺言をHMは残していた。葬式もごく肉親だけで済ませたとのこと。人に迷惑をかけたり煩わせたりすることが嫌いなHMらしかった。もっとも年末には新年会の連絡をするから、遅くともその頃に我々のメンバーに伝わることは計算していたと思う。
8月に容体がかなり悪くなったということだった。実は8月にも何度か電話したのだがつながらなかった。もう入院していたのかも知れない。彼に電話がつながらないことはよくあるので別に気にもせず、それっきりになっていた。ちなみにHMは極度のハイテク音痴でメールやLINEは使わない。携帯電話を持ったのもほんの数年前からである。
HMは「剛」な男だった。
まだ番長とかがいた中学時代。よその学校の生徒とのいざこざもたまにあった。N中学に通っていた彼はTという悪友ともに、近隣の喧嘩が強いといわれている中学校をよく巡っていた。HMいわく「トラブルが起きないように話し合いに出かけていた」ということ。しかしバット持参だから、一般的にはそれは殴り込みという行為である(^^ゞ Tは史上最強の男だったらしいが、それにしてもたった二人で「話し合い」に行くのだから、HMもどれだけ気が強いかわかろうというもの。さいわい私が通っていたのはごく普通の中学校だったので、彼に出会ってボコボコにされずに済んだ。
高校では野球部に入りピッチャーだった。とある高校野球の予選大会でのこと、彼の投げた球がデッドボールになった。ふつう高校球児ならデッドボールの時、野球帽を脱いで頭を下げて謝る。しかしHMは「しっかりよけろ、ボケ!」と暴言を吐き退場処分になった(/o\) 一説によると高校野球でそんな退場処分は前代未聞。HMが最初でいまだに最後らしい。まあともかく彼は高校野球の歴史にその名を刻んだようである。
誤解のないように書いておくとHMは別に乱暴者じゃない。ひょうきんだったし人の面倒見もよく、高校ではクラスというか学年全体での人気者だった。何かトラブルが起きた時、彼が仲裁に入ることも多かった。「HMがそういうなら」とうことで、たいていは丸く収まった。
武勇伝を上げればキリのないHMであるが、30代の中頃(だったと思う)にうつ病になった。かなりの重症でしばらく入院もしていた。その知らせを聞いた時は本当にビックリした。HMとうつ病というのは180度正反対のイメージだからである。おそらく高校の同級生の誰に尋ねても同じ答えが返ってくると思う。当時はうつ病になる人が増えてきた時期であったが、うつ病なんて自分には無関係な病気だと考えていた。しかしHMがうつ病になったのなら、私も明日発症しておかしくはないと思ったことを覚えている。
病気が病気だけにお見舞いには行かなかった。しかし退院後に会った彼は拍子抜けするほど以前と変わりなかった。どんな体験をしたか、入院中に出会った他の患者のことなどを面白おかしく語ってくれた。コイツは本当にうつ病だったのかと疑ったくらい。しかし薬は大量に処方されていたし、ずっと飲み続けなければいけないというようなことも言っていた。
残念ながら勤務先では子会社に出向となった。しかし塞翁が馬。後にその会社でリストラがあった時、既に出向となっていた彼はそのリストに載らずに済んだ。さらにリストラで彼の先輩達はほとんど会社を去った。こうなるとHMの天下みたいなものである。仕事は暇だし文句を言う奴もいない。午後5時半には行きつけの神田にある寿司屋で一杯やるのが彼のライフスタイルになった(^^ゞ
10年以上前だがHMとは一度だけ一緒に仕事をしたことがある。ある時2人で飲んでいると、彼がプロ野球絡みでちょっと面白いアイデアを口にした。それを私が企画にまとめ上げて彼の会社のアドバイザー役として同行し、いくつかの球団に売り込みに行った。残念ながらビジネスとしてはほとんど成果はなかったが、彼と出張できたのは楽しかった。球団との間には紹介者を立てたので、その接待名目であれこれ豪勢に飲み食いもした。
その頃からもう心臓は悪かった。見た目も動きもまったく普通であるが、少し長い距離を歩くと、すぐに休憩したがった。別に心臓がハーハーしている風でもないのに、血の巡りが悪くて疲れやすかったのかも知れない。
病状は徐々に進み2007年にペースメーカ埋め込み。そして3年ほど前に病院から「可能な治療はすべて施した。残念ながら症状の改善は見られず、後は心臓移植しかない」と告げられる。心臓移植ってほとんどニュースでは聞かないが、年間に30件くらい行われているらしい。自分に合う心臓を提供してくれる人がいつ現れるかわからず、現実的には望み薄らしいが、とりあえず順番待ちの登録はしていた。
ペースメーカーを埋めた後、担当医は「70歳まではがんばりましょう。我々も70歳まで生きられるよう万全のサポートをします」というのが口癖だったらしい。しかし2013年に東京オリンピック招致が決まった後に病院に行くと、それが「オリンピックまでがんばりましょう」に変わったと彼はよく笑っていた。「適当なことを言う医者とオリンピックのせいで残りの寿命が半分になった」と。
残念ながらHMと一緒に東京オリンピックを観ることはできなくなった。長生きできないのはわかっていたけれど、オリンピックのことが冗談になるくらいだから、こんなに早く逝くとは想像すらしていなかった。
さよならHM。
今は地獄の何丁目あたりかな(^^ゞ
来年の新年会は残った5人で盛大にやるから心配無用。
合掌
40歳代中頃から心臓が悪くなり、2007年にはペースメーカーを埋め込む手術をした。とはいっても当時はまだ見た目には健康そのものだった。しかし数年前からかなり「はっきりと弱って」きた。あまり出歩くこともなくなったようなので、気晴らしにでもなればと思い、その頃からたまに電話をするようになった。といっても半年に1回程度。
勤労感謝の日の月曜日にも電話した。自宅にかけると「この電話は使われていない」とのアナウンスが流れた。?と思って携帯に電話した。すると「番号が変わって、新しい番号は〜」とアナウンスが流れた。その時は携帯を乗り換え、あまり使わない固定電話は解約したんだろうと想像した。
その新しい番号にかけた。電話に出たのはHMとは違う声だった。アナウンスされた番号を聞き間違えたかと思い「これはHMさんの電話ですか?」と尋ねた。すると「私はHMの弟で、実は兄は先月の11日に亡くなりました」という答えが返ってきた。HMへの電話はいつも私の「別に用事はないけれど、死んでいないかどうかの確認で電話した〜」で始まる。まさか確認することになるとは夢にも思っていなかった。
誰にも連絡せず、電話があった場合にだけに伝えよという遺言をHMは残していた。葬式もごく肉親だけで済ませたとのこと。人に迷惑をかけたり煩わせたりすることが嫌いなHMらしかった。もっとも年末には新年会の連絡をするから、遅くともその頃に我々のメンバーに伝わることは計算していたと思う。
8月に容体がかなり悪くなったということだった。実は8月にも何度か電話したのだがつながらなかった。もう入院していたのかも知れない。彼に電話がつながらないことはよくあるので別に気にもせず、それっきりになっていた。ちなみにHMは極度のハイテク音痴でメールやLINEは使わない。携帯電話を持ったのもほんの数年前からである。
HMは「剛」な男だった。
まだ番長とかがいた中学時代。よその学校の生徒とのいざこざもたまにあった。N中学に通っていた彼はTという悪友ともに、近隣の喧嘩が強いといわれている中学校をよく巡っていた。HMいわく「トラブルが起きないように話し合いに出かけていた」ということ。しかしバット持参だから、一般的にはそれは殴り込みという行為である(^^ゞ Tは史上最強の男だったらしいが、それにしてもたった二人で「話し合い」に行くのだから、HMもどれだけ気が強いかわかろうというもの。さいわい私が通っていたのはごく普通の中学校だったので、彼に出会ってボコボコにされずに済んだ。
高校では野球部に入りピッチャーだった。とある高校野球の予選大会でのこと、彼の投げた球がデッドボールになった。ふつう高校球児ならデッドボールの時、野球帽を脱いで頭を下げて謝る。しかしHMは「しっかりよけろ、ボケ!」と暴言を吐き退場処分になった(/o\) 一説によると高校野球でそんな退場処分は前代未聞。HMが最初でいまだに最後らしい。まあともかく彼は高校野球の歴史にその名を刻んだようである。
誤解のないように書いておくとHMは別に乱暴者じゃない。ひょうきんだったし人の面倒見もよく、高校ではクラスというか学年全体での人気者だった。何かトラブルが起きた時、彼が仲裁に入ることも多かった。「HMがそういうなら」とうことで、たいていは丸く収まった。
武勇伝を上げればキリのないHMであるが、30代の中頃(だったと思う)にうつ病になった。かなりの重症でしばらく入院もしていた。その知らせを聞いた時は本当にビックリした。HMとうつ病というのは180度正反対のイメージだからである。おそらく高校の同級生の誰に尋ねても同じ答えが返ってくると思う。当時はうつ病になる人が増えてきた時期であったが、うつ病なんて自分には無関係な病気だと考えていた。しかしHMがうつ病になったのなら、私も明日発症しておかしくはないと思ったことを覚えている。
病気が病気だけにお見舞いには行かなかった。しかし退院後に会った彼は拍子抜けするほど以前と変わりなかった。どんな体験をしたか、入院中に出会った他の患者のことなどを面白おかしく語ってくれた。コイツは本当にうつ病だったのかと疑ったくらい。しかし薬は大量に処方されていたし、ずっと飲み続けなければいけないというようなことも言っていた。
残念ながら勤務先では子会社に出向となった。しかし塞翁が馬。後にその会社でリストラがあった時、既に出向となっていた彼はそのリストに載らずに済んだ。さらにリストラで彼の先輩達はほとんど会社を去った。こうなるとHMの天下みたいなものである。仕事は暇だし文句を言う奴もいない。午後5時半には行きつけの神田にある寿司屋で一杯やるのが彼のライフスタイルになった(^^ゞ
10年以上前だがHMとは一度だけ一緒に仕事をしたことがある。ある時2人で飲んでいると、彼がプロ野球絡みでちょっと面白いアイデアを口にした。それを私が企画にまとめ上げて彼の会社のアドバイザー役として同行し、いくつかの球団に売り込みに行った。残念ながらビジネスとしてはほとんど成果はなかったが、彼と出張できたのは楽しかった。球団との間には紹介者を立てたので、その接待名目であれこれ豪勢に飲み食いもした。
その頃からもう心臓は悪かった。見た目も動きもまったく普通であるが、少し長い距離を歩くと、すぐに休憩したがった。別に心臓がハーハーしている風でもないのに、血の巡りが悪くて疲れやすかったのかも知れない。
病状は徐々に進み2007年にペースメーカ埋め込み。そして3年ほど前に病院から「可能な治療はすべて施した。残念ながら症状の改善は見られず、後は心臓移植しかない」と告げられる。心臓移植ってほとんどニュースでは聞かないが、年間に30件くらい行われているらしい。自分に合う心臓を提供してくれる人がいつ現れるかわからず、現実的には望み薄らしいが、とりあえず順番待ちの登録はしていた。
ペースメーカーを埋めた後、担当医は「70歳まではがんばりましょう。我々も70歳まで生きられるよう万全のサポートをします」というのが口癖だったらしい。しかし2013年に東京オリンピック招致が決まった後に病院に行くと、それが「オリンピックまでがんばりましょう」に変わったと彼はよく笑っていた。「適当なことを言う医者とオリンピックのせいで残りの寿命が半分になった」と。
残念ながらHMと一緒に東京オリンピックを観ることはできなくなった。長生きできないのはわかっていたけれど、オリンピックのことが冗談になるくらいだから、こんなに早く逝くとは想像すらしていなかった。
さよならHM。
今は地獄の何丁目あたりかな(^^ゞ
来年の新年会は残った5人で盛大にやるから心配無用。
合掌
2015年11月24日
御幸の浜
(11月21日ツーリングの続き)
ざる菊を見た後は丘陵部を降りて小田原の海岸部に向かう。大磯もそうであるが西湘バイパスで遮断されているため、海沿いの街であるにも関わらず小田原の海岸を訪れたことはなかった。海岸なんて海を見ている限りどこでも景色に大差はないもの。まあそれでも一度は足を踏み入れたかった。
以前は足柄街道で降りたが、東方向に進めば南下する県道に突き当たって海岸のほうに行くだろうと、ざる菊園の前の道をそのまま適当に走り出す。するとミカン畑の中に入りだんだんと道幅が狭くなってきた。あちこちの林道も走ったけれど、今まで経験した中で最も狭かったかも。道路というより通路(>_<) ひょっとしたら舗装がなくなるのかな〜こんなところじゃUターンもできないとビビリながら進むと、やがて道幅が徐々に広くなり県道720号線に出た。その後は国道255号で小田原の中心部に向かう。
小田原駅近くの255号沿いは見事にシャッター商店街となっていた。小田原ってなんとなく賑やかなイメージを持っていたので意外。そこから国道1号線に合流し、御幸の浜の交差点で曲がって海岸到着。
御幸の浜(みゆきのはま)
位置的には小田原城から真っ直ぐ南下したところ。徒歩でもたぶん10分くらいの距離。案内板には、名前の由来は明治天皇が立ち寄ったからと書かれている。天皇が外出することを行幸(ぎょうこう、みゆき)あるいは御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)というのが古式ゆかしい表現。
左側に海水浴場としての駐車場があるみたいだが、そこへの入り口は閉まっていた。クルマではフラッと来るというわけにはいかないみたい。目の前の陸橋は西湘バイパス。
西湘バイパスをくぐって海岸に出る。
東向き:大磯方向
西向き:伊豆方向
一番左に見えるのは真鶴半島だと思う。
砂利と砂浜が混在した海岸だった。
この付近は遠浅の反対の急深な海だから波は立たずにサーフィンはできない。ウインドサーフィンには向いているように思うが、この日にやっている人はいなかった。駐車場がないからかも。水は湘南エリアよりきれい。でも西湘バイパスがあるからクルマの音がうるさいのが残念。
海岸の西にあった突堤。
ミニサイズの灯台。信号灯というのかな。周りに置いてある荷物は釣り人のもの。
突堤の先端はコンクリートブロック。
ミニ灯台の台座に座って、しばらく日向ぼっこしながら休憩。
空は秋のうろこ雲。海見て空見て幸せな気分。
突堤の上から御幸の浜全景。
西湘バイパスはどうしてこんな海岸ギリギリに造ったのか不思議。一説によると1960年代の建設当時の海岸(砂浜部分)は今の何倍も広かったらしい。つまり浸食によって海岸が削られたから、結果的に今は波打ち際近くを走ることになってしまったというもの。それはともかく、クルマを駐められて西湘バイパスをくぐって海岸に出られるところをもっと増やさないと、せっかくの海なのにもったいない気がする。
御幸の浜を後にして1号線を東に進む。ところどころに昔の商家風の建物があって、そこには見学ツアーと思われる観光客がたくさん集まっていた。先ほど見たシャッター商店街とは大違いなのが印象的。1号線で酒匂川(さかわがわ)を渡り国府津(こうづ)の手前で県道72号線に左折。広域農道である「やまゆりライン」に入るには、新幹線の線路をくぐった先で右折しなければならないが、そのまま直進。
これは道を間違えたわけでなく、その先が有名な曽我梅林のエリアだから。すごく混雑するということで観梅のシーズンに来たことはまだないが、どんな場所なのか下見しておきたかった。72号線の西側が梅林で、すごく広いこと〜どこかに駐車場が設けられるはずだが、かなり歩き回らなければいけない〜梅林の中の農道は狭くて人の多い観梅シーズンはまともに走れそうにないーーーことなどがわかった。
72号線を戻ってやまゆりラインに。ここは大雑把にいうと東向きに走ってから北上するのだが、東向き部分はかなりクルマが多かった。そのまま東に進めば県道709号や71号に当たるから、その抜け道になっているのかも知れない。一方の北上部分はガラガラ。のんびり走って秦野中野のインターから東名高速。まだ時間も早かったので渋滞なしで帰ってこられた。しかし往きは気温19度くらいでも日差しがあって暑かったが、帰りは気温が21度あったのに日差しが弱くなっていたので少し寒く感じた。
走行185キロで午後4時半帰宅。見頃を過ぎた秋バラとざる菊だったが、約1ヶ月ぶりのバイクだったので満足感高し。
おしまい
ざる菊を見た後は丘陵部を降りて小田原の海岸部に向かう。大磯もそうであるが西湘バイパスで遮断されているため、海沿いの街であるにも関わらず小田原の海岸を訪れたことはなかった。海岸なんて海を見ている限りどこでも景色に大差はないもの。まあそれでも一度は足を踏み入れたかった。
以前は足柄街道で降りたが、東方向に進めば南下する県道に突き当たって海岸のほうに行くだろうと、ざる菊園の前の道をそのまま適当に走り出す。するとミカン畑の中に入りだんだんと道幅が狭くなってきた。あちこちの林道も走ったけれど、今まで経験した中で最も狭かったかも。道路というより通路(>_<) ひょっとしたら舗装がなくなるのかな〜こんなところじゃUターンもできないとビビリながら進むと、やがて道幅が徐々に広くなり県道720号線に出た。その後は国道255号で小田原の中心部に向かう。
小田原駅近くの255号沿いは見事にシャッター商店街となっていた。小田原ってなんとなく賑やかなイメージを持っていたので意外。そこから国道1号線に合流し、御幸の浜の交差点で曲がって海岸到着。
御幸の浜(みゆきのはま)
位置的には小田原城から真っ直ぐ南下したところ。徒歩でもたぶん10分くらいの距離。案内板には、名前の由来は明治天皇が立ち寄ったからと書かれている。天皇が外出することを行幸(ぎょうこう、みゆき)あるいは御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)というのが古式ゆかしい表現。
左側に海水浴場としての駐車場があるみたいだが、そこへの入り口は閉まっていた。クルマではフラッと来るというわけにはいかないみたい。目の前の陸橋は西湘バイパス。
西湘バイパスをくぐって海岸に出る。
東向き:大磯方向
西向き:伊豆方向
一番左に見えるのは真鶴半島だと思う。
砂利と砂浜が混在した海岸だった。
この付近は遠浅の反対の急深な海だから波は立たずにサーフィンはできない。ウインドサーフィンには向いているように思うが、この日にやっている人はいなかった。駐車場がないからかも。水は湘南エリアよりきれい。でも西湘バイパスがあるからクルマの音がうるさいのが残念。
海岸の西にあった突堤。
ミニサイズの灯台。信号灯というのかな。周りに置いてある荷物は釣り人のもの。
突堤の先端はコンクリートブロック。
ミニ灯台の台座に座って、しばらく日向ぼっこしながら休憩。
空は秋のうろこ雲。海見て空見て幸せな気分。
突堤の上から御幸の浜全景。
西湘バイパスはどうしてこんな海岸ギリギリに造ったのか不思議。一説によると1960年代の建設当時の海岸(砂浜部分)は今の何倍も広かったらしい。つまり浸食によって海岸が削られたから、結果的に今は波打ち際近くを走ることになってしまったというもの。それはともかく、クルマを駐められて西湘バイパスをくぐって海岸に出られるところをもっと増やさないと、せっかくの海なのにもったいない気がする。
御幸の浜を後にして1号線を東に進む。ところどころに昔の商家風の建物があって、そこには見学ツアーと思われる観光客がたくさん集まっていた。先ほど見たシャッター商店街とは大違いなのが印象的。1号線で酒匂川(さかわがわ)を渡り国府津(こうづ)の手前で県道72号線に左折。広域農道である「やまゆりライン」に入るには、新幹線の線路をくぐった先で右折しなければならないが、そのまま直進。
これは道を間違えたわけでなく、その先が有名な曽我梅林のエリアだから。すごく混雑するということで観梅のシーズンに来たことはまだないが、どんな場所なのか下見しておきたかった。72号線の西側が梅林で、すごく広いこと〜どこかに駐車場が設けられるはずだが、かなり歩き回らなければいけない〜梅林の中の農道は狭くて人の多い観梅シーズンはまともに走れそうにないーーーことなどがわかった。
72号線を戻ってやまゆりラインに。ここは大雑把にいうと東向きに走ってから北上するのだが、東向き部分はかなりクルマが多かった。そのまま東に進めば県道709号や71号に当たるから、その抜け道になっているのかも知れない。一方の北上部分はガラガラ。のんびり走って秦野中野のインターから東名高速。まだ時間も早かったので渋滞なしで帰ってこられた。しかし往きは気温19度くらいでも日差しがあって暑かったが、帰りは気温が21度あったのに日差しが弱くなっていたので少し寒く感じた。
走行185キロで午後4時半帰宅。見頃を過ぎた秋バラとざる菊だったが、約1ヶ月ぶりのバイクだったので満足感高し。
おしまい
2015年11月23日
鈴木さん宅の「ざる菊」
去年、真鶴にツーリングした時も南足柄広域農道を使ってこのあたりを通った。この農道の南側終点は総世寺というお寺の横を抜けて市道に当たったところ。南足柄広域農道もその一部となっている足柄街道自体はまだ先があって、そこを小田原フラワーガーデンと反対方向に右折する。すると少し進んだところに看板が出ていて、人がたくさん集まっている民家があった。その時は?と思っただけでスルーしたが、後で調べてみると「ざる菊」というものを育てて庭を一般開放している鈴木さんというお宅だということがわかった。
今回、ホームページで探してみると「この連休までは何とか見られる」という情報が載っていた。何とか見られるというのは見事はとっくに過ぎたということでもあるが(^^ゞ、ざる菊というのは一度も見たことがないので寄ってみることにした。
賑やかな看板があるので見落とすことはない。
なかなか立派な家である。
ちなみにすぐ近くに広大な専用駐車場まである。この時は私のバイクだけだったが、こんな広さの駐車場が必要なくらい最盛期には人がやってくるということなんだろう。
ご自由にお入りくださいと書いてあるので遠慮なく人の家の庭にズカズカ入る(^^ゞ
花の色はかなり抜けていたが、とにかく広い庭の全部がざる菊。
ざる菊というのは、ざるを逆さまにしたように丸く育てたもの。総世寺にもざる菊園があるみたいなので、このあたりでは栽培が盛んな模様。
花の痛んでいない部分をアップで。色もさまざまだが花の形もいろんな種類がある。1株に4000程の小菊が咲くとのこと。
裏庭に回ると、まだきれいなざる菊が残っていた。近づくと萎れている部分も多いのだが、遠目には充分に楽しめる。
それにしても凄い数のざる菊。全部で1500株ほどあるらしい。
理由はわからないが、すべて鉢植えで育てられている。
忘れちゃいけないが、ここは個人のお宅である!
何となく葬式とか仏壇を連想するところがあって、実は菊はあまり好きじゃない。でもざる菊は小菊なので抵抗感なし。意外とざる菊から菊の苦手意識が薄まるかも。まあそんなことより、とにかく圧倒されたというのが正直なところ。よく「丹精込めて育てる」という表現をするが、そんなものをはるかに超えた情熱や意志の力を感じる光景だった。是非、見頃の頃にまた訪れたい。
ーーー続く
今回、ホームページで探してみると「この連休までは何とか見られる」という情報が載っていた。何とか見られるというのは見事はとっくに過ぎたということでもあるが(^^ゞ、ざる菊というのは一度も見たことがないので寄ってみることにした。
賑やかな看板があるので見落とすことはない。
なかなか立派な家である。
ちなみにすぐ近くに広大な専用駐車場まである。この時は私のバイクだけだったが、こんな広さの駐車場が必要なくらい最盛期には人がやってくるということなんだろう。
ご自由にお入りくださいと書いてあるので遠慮なく人の家の庭にズカズカ入る(^^ゞ
花の色はかなり抜けていたが、とにかく広い庭の全部がざる菊。
ざる菊というのは、ざるを逆さまにしたように丸く育てたもの。総世寺にもざる菊園があるみたいなので、このあたりでは栽培が盛んな模様。
花の痛んでいない部分をアップで。色もさまざまだが花の形もいろんな種類がある。1株に4000程の小菊が咲くとのこと。
裏庭に回ると、まだきれいなざる菊が残っていた。近づくと萎れている部分も多いのだが、遠目には充分に楽しめる。
それにしても凄い数のざる菊。全部で1500株ほどあるらしい。
理由はわからないが、すべて鉢植えで育てられている。
忘れちゃいけないが、ここは個人のお宅である!
何となく葬式とか仏壇を連想するところがあって、実は菊はあまり好きじゃない。でもざる菊は小菊なので抵抗感なし。意外とざる菊から菊の苦手意識が薄まるかも。まあそんなことより、とにかく圧倒されたというのが正直なところ。よく「丹精込めて育てる」という表現をするが、そんなものをはるかに超えた情熱や意志の力を感じる光景だった。是非、見頃の頃にまた訪れたい。
ーーー続く
2015年11月21日
小田原フラワーガーデンの秋バラ
埼玉の与野公園に秋バラを見に行ったのが10月24日。もう一箇所くらい見に行こうと考えていたのに今年の秋は雨多し。この勤労感謝の日の連休もツーリングできそうなのは初日の本日のみ。紅葉にするか迷ったが、少し早めに帰ってこなければならなかったので、それほど遠くない小田原まで秋バラを見に行ってきた。
小田原フラワーガーデンは以前に「やまゆりライン〜大磯〜南足柄広域農道」というツーリングをした際にたまたま立ち寄った場所。その時は10月中旬でまだ秋バラはほとんど咲いていなかったが、ここは遅くまでバラが咲いているところだということを後で知った。それでもピークは過ぎてはいるのだが、往き帰りに農道をのんびり走ってくるのも目的のひとつ。
今回は前回とは逆の道順。まず南足柄広域農道を目指す。この農道は北側入り口が県道78号線と接している。東名の大井松田インターで降りると78号線で長い一本道が続く。そして途中で右折する。でもその右折ポイントを見逃してしまった。すぐに気がついたが、このまま進むと最乗寺という標識が目に入る。最乗寺に向かうのは西に向かう723号線で、南北に延びている南足柄広域農道と交差している。という訳でそのまま直進。
723号線と南足柄広域農道は十字路で交差しているのではなく、北側と南側の接続は少し離れている。723号から北に向かう農道の入り口には標識があるが、南に向かうところにはない。もっと最乗寺に近いところで接続しているという記憶違いもあって、結局最乗寺まで上ってしまった。でも最乗寺近くの723号は参道だからか両サイドに杉の巨木が立ち並んでいるので景色よし。
最乗寺でUターンして723号を下り、今度は南に向かう南足柄広域農道の入口を発見。ところどころクネクネがかなりきついのと舗装がガタガタなので少し緊張する。周りはミカン畑。初めてここを通った時はまだミカンが青い時期だったが、今回は黄色いミカンがたくさんで実りの秋を感じる。バイクを停めて写真は撮らなかったけど。
午前9時半に出発して12時過ぎに小田原フラワーガーデン到着。環八と東名が混んでいたので思っていた以上に時間が掛かった。ここは写真に写っている4倍以上はあるかなり広い駐車場なのにバイクを駐めるところはない。不思議なのは自転車を停める場所もない。ちょっと小高い場所にあるのは確かだけれど、近所の人は自転車では来ないのだろうか。
お店が並べられている場所を通り過ぎると、
広場があって、その奥にバラが植えられている。
遠くから見ても花数は期待できないことがわかる。
花が密集しているところでこの程度なのは、もうすぐ12月なんだから仕方がない。
ここの秋バラが遅くまで咲いているのは、小田原だから暖かくて開花自体が遅いのかと思っていたら、段階的に剪定をして調整しているとのこと。手入れをしている人に感謝。
捨てる神あれば何とやら。この日はきれいな青空でウロコ雲もクッキリ。バラ園の一番手前はスロープになっていて下から見上げるようになっているので、好物の青空入り写真は撮りやすかった。
できるだけ状態のいい花を選んで。
これは初めて見た花の中心が繭(まゆ)のようになったバラ。
繭を触ってみると、結構固く締まっていた。
だんだん広がっていくみたい。
このバラは香りも独特で、とてもいい匂いがした。
小田原フラワーガーデンのバラは350本ほどで規模は大きくない。小田原なのでここのメインは梅園で敷地のほとんどを占める。この日は園内をあまりブラブラせず。
これは少し変わったバラ。その枝が伸びて梅の木に掛かっており、バラでもなければ梅でもない不思議な光景になっていた。
梅の実は緑色ばかりと思っていたら、こんなブルーベリーみたいなものもあるみたい。今頃に実をつけているなら、このシャリンバイ(車輪梅)という梅はいつ咲くのかな。ちなみに梅はバラ目/バラ科/サクラ属に分類されるので、バラと梅の祖先は同じ。
ーーー続く
小田原フラワーガーデンは以前に「やまゆりライン〜大磯〜南足柄広域農道」というツーリングをした際にたまたま立ち寄った場所。その時は10月中旬でまだ秋バラはほとんど咲いていなかったが、ここは遅くまでバラが咲いているところだということを後で知った。それでもピークは過ぎてはいるのだが、往き帰りに農道をのんびり走ってくるのも目的のひとつ。
今回は前回とは逆の道順。まず南足柄広域農道を目指す。この農道は北側入り口が県道78号線と接している。東名の大井松田インターで降りると78号線で長い一本道が続く。そして途中で右折する。でもその右折ポイントを見逃してしまった。すぐに気がついたが、このまま進むと最乗寺という標識が目に入る。最乗寺に向かうのは西に向かう723号線で、南北に延びている南足柄広域農道と交差している。という訳でそのまま直進。
723号線と南足柄広域農道は十字路で交差しているのではなく、北側と南側の接続は少し離れている。723号から北に向かう農道の入り口には標識があるが、南に向かうところにはない。もっと最乗寺に近いところで接続しているという記憶違いもあって、結局最乗寺まで上ってしまった。でも最乗寺近くの723号は参道だからか両サイドに杉の巨木が立ち並んでいるので景色よし。
最乗寺でUターンして723号を下り、今度は南に向かう南足柄広域農道の入口を発見。ところどころクネクネがかなりきついのと舗装がガタガタなので少し緊張する。周りはミカン畑。初めてここを通った時はまだミカンが青い時期だったが、今回は黄色いミカンがたくさんで実りの秋を感じる。バイクを停めて写真は撮らなかったけど。
午前9時半に出発して12時過ぎに小田原フラワーガーデン到着。環八と東名が混んでいたので思っていた以上に時間が掛かった。ここは写真に写っている4倍以上はあるかなり広い駐車場なのにバイクを駐めるところはない。不思議なのは自転車を停める場所もない。ちょっと小高い場所にあるのは確かだけれど、近所の人は自転車では来ないのだろうか。
お店が並べられている場所を通り過ぎると、
広場があって、その奥にバラが植えられている。
遠くから見ても花数は期待できないことがわかる。
花が密集しているところでこの程度なのは、もうすぐ12月なんだから仕方がない。
ここの秋バラが遅くまで咲いているのは、小田原だから暖かくて開花自体が遅いのかと思っていたら、段階的に剪定をして調整しているとのこと。手入れをしている人に感謝。
捨てる神あれば何とやら。この日はきれいな青空でウロコ雲もクッキリ。バラ園の一番手前はスロープになっていて下から見上げるようになっているので、好物の青空入り写真は撮りやすかった。
できるだけ状態のいい花を選んで。
これは初めて見た花の中心が繭(まゆ)のようになったバラ。
繭を触ってみると、結構固く締まっていた。
だんだん広がっていくみたい。
このバラは香りも独特で、とてもいい匂いがした。
小田原フラワーガーデンのバラは350本ほどで規模は大きくない。小田原なのでここのメインは梅園で敷地のほとんどを占める。この日は園内をあまりブラブラせず。
これは少し変わったバラ。その枝が伸びて梅の木に掛かっており、バラでもなければ梅でもない不思議な光景になっていた。
梅の実は緑色ばかりと思っていたら、こんなブルーベリーみたいなものもあるみたい。今頃に実をつけているなら、このシャリンバイ(車輪梅)という梅はいつ咲くのかな。ちなみに梅はバラ目/バラ科/サクラ属に分類されるので、バラと梅の祖先は同じ。
ーーー続く
2015年11月17日
マグカップの誤算(/o\)
10月に富士山五合目までツーリングした時、東名の足柄サービスエリアにエヴァンゲリオンのショップがあったことを書いた。
ところでエヴァンゲリオンって、どの程度の認知度があるのかな? 国民的ヒーローだった初代ウルトラマン放映から約50年。もうそういう時代じゃないから、ディープなファンが多い割には日本全体での認知はそれほどでもないかも知れない。
もしエヴァンゲリオンのことを知らなくても、このエントリーとは直接関係ないからご安心を。実は私もそれほど詳しいわけじゃない。
だから特別エヴァンゲリオンに思い入れもないのだけれど、
つい買うてもうたあ〜(^^ゞ
マグカップに描かれているのはネルフ(NERV)のロゴマーク。ネルフというのはエヴァンゲリオンを運営?している組織。アニメの設定では国連直属の特務機関ということになっている。ウルトラマンなら科学特捜隊、ウルトラセブンなら地球防衛軍みたいなものである。中高年以外にはこの例えのほうがわかりにくいか?
エヴァンゲリオンはちょっとグロいイメージでそれほど好きではない。でもこのネルフのロゴはなんとなく格好いいと思っていた。それがお買い上げ動機。葉っぱはイチジクをモチーフにしているらしい。このマグカップはその時のエントリーで写真に撮ったように4色あった。まとめて大人買いするとバイクにくくりつけてあるバッグに入らないので、購入したのは黒と紫。この写真では光量が足りなくて、どちらも同じ色のように写ってしまった。
もう一度書くけれど、このマグカップを買ったのは単純にロゴマークのデザインが気に入ったからである。エヴァンゲリオングッズが欲しかったわけではない。
悲劇は自宅でコーヒーをこのカップに注いだ時に起きた。私は左利きである。カップの取っ手は左手で持つ。すると買う時は気付かなかったが、ロゴマークはカップの片側にしか描かれていないじゃないか(>_<)
つまり左手で持てるようにカップを並び替えるとこうなる。
左手で持つ限り、珈琲を飲む時にロゴマークが目に入ることはないのである(/o\)
う〜ん、想定外。
ロゴマーク入りのマグカップで皆そうなの?
考えてみれば、模様入りのカップはあまり買ったことがないし、普段はそんなことを気にもしていなかった。サウスポー・ハラスメントじゃあ!
ところでエヴァンゲリオンって、どの程度の認知度があるのかな? 国民的ヒーローだった初代ウルトラマン放映から約50年。もうそういう時代じゃないから、ディープなファンが多い割には日本全体での認知はそれほどでもないかも知れない。
もしエヴァンゲリオンのことを知らなくても、このエントリーとは直接関係ないからご安心を。実は私もそれほど詳しいわけじゃない。
だから特別エヴァンゲリオンに思い入れもないのだけれど、
つい買うてもうたあ〜(^^ゞ
マグカップに描かれているのはネルフ(NERV)のロゴマーク。ネルフというのはエヴァンゲリオンを運営?している組織。アニメの設定では国連直属の特務機関ということになっている。ウルトラマンなら科学特捜隊、ウルトラセブンなら地球防衛軍みたいなものである。中高年以外にはこの例えのほうがわかりにくいか?
エヴァンゲリオンはちょっとグロいイメージでそれほど好きではない。でもこのネルフのロゴはなんとなく格好いいと思っていた。それがお買い上げ動機。葉っぱはイチジクをモチーフにしているらしい。このマグカップはその時のエントリーで写真に撮ったように4色あった。まとめて大人買いするとバイクにくくりつけてあるバッグに入らないので、購入したのは黒と紫。この写真では光量が足りなくて、どちらも同じ色のように写ってしまった。
もう一度書くけれど、このマグカップを買ったのは単純にロゴマークのデザインが気に入ったからである。エヴァンゲリオングッズが欲しかったわけではない。
悲劇は自宅でコーヒーをこのカップに注いだ時に起きた。私は左利きである。カップの取っ手は左手で持つ。すると買う時は気付かなかったが、ロゴマークはカップの片側にしか描かれていないじゃないか(>_<)
つまり左手で持てるようにカップを並び替えるとこうなる。
左手で持つ限り、珈琲を飲む時にロゴマークが目に入ることはないのである(/o\)
う〜ん、想定外。
ロゴマーク入りのマグカップで皆そうなの?
考えてみれば、模様入りのカップはあまり買ったことがないし、普段はそんなことを気にもしていなかった。サウスポー・ハラスメントじゃあ!
2015年11月15日
アメ横で疎外感を感じる?
上野公園を出た後はアメ横に向かった。泡の出るものを飲みたかったのと(^^ゞ、T君が上海蟹(しゃんはいがに)を買いたいと言ったからである。
正月用の買い物をする人々でごった返すのが年末の風物詩となっているアメ横。JR上野駅から隣の御徒町(おかちまち)駅までの高架線路沿い南北500メートルくらいのエリアにぎっしりと商店が並んでいる。正確には線路の西側だけがアメ横らしいが、東側も同じような雰囲気の商店街である。昔はジーンズや革ジャンなどの店が有名だったので、アメリカン横町の略だと思い込んでいた。本当はもっと昔には飴(あめ)を売る商店が多かったので飴屋横町と呼ばれ、それがアメ横となったのが名前の由来。
アメ横の発祥は戦後の闇市だから昭和の雰囲気も残っている。でも現在はかなりインターナショナルなエリアである。カジュアルウエアを売るショップも多いが、なぜかその店員の黒人比率がやたら高い。雰囲気的にアメリカの黒人じゃなくてアフリカから来た人々のような気がする。
看板に書かれていた「焼き小籠包(しょうろんぽう)」に引かれて、屋台風に半分ほど屋根のない点心のお店に入った。雰囲気はこんな感じ。見てわかるように店のイメージはほとんど中国そのもの。もちろん店員は全員が中国人。サービスも中国式で「こちらのお席にどうぞ」なんて案内はもちろんない(^^ゞ するとT君が店員と中国語で「こっちの席に座っていいのか、あっちでもいいのか」と交渉を始めた。料理の内容も彼が中国語で店員に尋ねて私に教えてくれる。
う〜ん
ここは日本で、私は日本人で、T君は中国人の外国人である。
当然、私が主導権をとって彼の面倒をみなければ日本男子の沽券に関わる。
しかしまあ、実質的に中国にいるようなものなのでT君にオンブにダッコ。
店員は日本語もしゃべれるが(たぶん)、彼に任せたほうが話が5倍は早い。
初めて食べた焼き小籠包はとてもおいしかった。最初はどんなものかイメージできなかったが、餃子に「焼き餃子・水餃子・蒸し餃子」とあるように、普段は蒸しで食べる小籠包が焼いてあるというもの。ただし焼き餃子ほど焼き色はつけず、底のほうに軽く焼いた痕跡がある程度。慎重に食べないと皮の中のスープでアチッチとなるのは蒸し小籠包と同じ。T君によると焼き小籠包は上海ではポピュラーな点心とのこと。
その後、上海蟹を買いに行く。彼は何度か買いに来たことがあるようで、とあるビルの地下に入っていった。日本人の私は何もわからずに、ただ後を着いていくだけである(^^ゞ ところで年末に見るアメ横のニュースでは正月用にマグロやカニを買い求めるシーンが多い。でもアメ横に魚屋はそれほど多くない。どうやら年末には他のお店が自分のところを閉めて、店先を魚屋に貸して一気に魚屋が増えるらしい。
そのビルの地下に入ると、まずアジア系の食品店があった。生鮮以外のさまざまな食材を売っていて、いろんなスパイスの匂いが漂っている。お客さんはイスラム圏の人が多い。なぜわかるかというと女性客はみんな頭にスカーフを巻いていたから。とにかくエスニックムード満点。
隣の魚屋の店員は中国人。日本人もいるけれど上海蟹売り場は中国人店員が担当している。そして客も中国人で、やりとりは当然中国語。「すみませ〜ん、上海蟹ありますかあ〜」と割って入れるような雰囲気ではない。T君は中国語で質問したり値引き交渉したりしている。点心のお店と同じく、またもやこちらが外国人気分である。
上海蟹は手のコブシくらいの小さなカニ。一匹1000円から3900円まで4種類くらいのランクがあった。ズワイガニや毛ガニと較べたら1/3から1/4程度のサイズ。それを考えるとかなりの高級食材。しかし何度か食べたことはあるが特別においしいものでもない。食べられるところも少ないし。だから私だったら普通のカニのほうが絶対にいい。でも中国人にとって上海蟹は、特別に縁起物的な食べ物らしい。
結局T君は交渉の末、3匹の値段で4匹を購入。買った後はモネの絵を見ている時よりうれしそうだった。ただ日本では特定外来生物の規制があって、一般消費者は生きた上海蟹を買えないことが不満らしい。売られているのはすべて冷凍もの。あまりよく知らないが許可を受けた飲食店になら生きた上海蟹を売っていいらしい。
アメ横の中に入ったのは20年振りくらいかも知れない。特に買うものもないんだけれど、普通の街ではもうなくなってしまった猥雑な雰囲気の中をブラブラするのは楽しい。どこにでもあるチェーン店もかなり出店しているが、小さな路地に入ると映画でしか見たことのないような昭和な雰囲気の飲み屋が並んでいるところもある。先ほど書いたように店によっては外国気分も味わえる。もっと探検する価値あるかも。
正月用の買い物をする人々でごった返すのが年末の風物詩となっているアメ横。JR上野駅から隣の御徒町(おかちまち)駅までの高架線路沿い南北500メートルくらいのエリアにぎっしりと商店が並んでいる。正確には線路の西側だけがアメ横らしいが、東側も同じような雰囲気の商店街である。昔はジーンズや革ジャンなどの店が有名だったので、アメリカン横町の略だと思い込んでいた。本当はもっと昔には飴(あめ)を売る商店が多かったので飴屋横町と呼ばれ、それがアメ横となったのが名前の由来。
アメ横の発祥は戦後の闇市だから昭和の雰囲気も残っている。でも現在はかなりインターナショナルなエリアである。カジュアルウエアを売るショップも多いが、なぜかその店員の黒人比率がやたら高い。雰囲気的にアメリカの黒人じゃなくてアフリカから来た人々のような気がする。
看板に書かれていた「焼き小籠包(しょうろんぽう)」に引かれて、屋台風に半分ほど屋根のない点心のお店に入った。雰囲気はこんな感じ。見てわかるように店のイメージはほとんど中国そのもの。もちろん店員は全員が中国人。サービスも中国式で「こちらのお席にどうぞ」なんて案内はもちろんない(^^ゞ するとT君が店員と中国語で「こっちの席に座っていいのか、あっちでもいいのか」と交渉を始めた。料理の内容も彼が中国語で店員に尋ねて私に教えてくれる。
う〜ん
ここは日本で、私は日本人で、T君は中国人の外国人である。
当然、私が主導権をとって彼の面倒をみなければ日本男子の沽券に関わる。
しかしまあ、実質的に中国にいるようなものなのでT君にオンブにダッコ。
店員は日本語もしゃべれるが(たぶん)、彼に任せたほうが話が5倍は早い。
初めて食べた焼き小籠包はとてもおいしかった。最初はどんなものかイメージできなかったが、餃子に「焼き餃子・水餃子・蒸し餃子」とあるように、普段は蒸しで食べる小籠包が焼いてあるというもの。ただし焼き餃子ほど焼き色はつけず、底のほうに軽く焼いた痕跡がある程度。慎重に食べないと皮の中のスープでアチッチとなるのは蒸し小籠包と同じ。T君によると焼き小籠包は上海ではポピュラーな点心とのこと。
その後、上海蟹を買いに行く。彼は何度か買いに来たことがあるようで、とあるビルの地下に入っていった。日本人の私は何もわからずに、ただ後を着いていくだけである(^^ゞ ところで年末に見るアメ横のニュースでは正月用にマグロやカニを買い求めるシーンが多い。でもアメ横に魚屋はそれほど多くない。どうやら年末には他のお店が自分のところを閉めて、店先を魚屋に貸して一気に魚屋が増えるらしい。
そのビルの地下に入ると、まずアジア系の食品店があった。生鮮以外のさまざまな食材を売っていて、いろんなスパイスの匂いが漂っている。お客さんはイスラム圏の人が多い。なぜわかるかというと女性客はみんな頭にスカーフを巻いていたから。とにかくエスニックムード満点。
隣の魚屋の店員は中国人。日本人もいるけれど上海蟹売り場は中国人店員が担当している。そして客も中国人で、やりとりは当然中国語。「すみませ〜ん、上海蟹ありますかあ〜」と割って入れるような雰囲気ではない。T君は中国語で質問したり値引き交渉したりしている。点心のお店と同じく、またもやこちらが外国人気分である。
上海蟹は手のコブシくらいの小さなカニ。一匹1000円から3900円まで4種類くらいのランクがあった。ズワイガニや毛ガニと較べたら1/3から1/4程度のサイズ。それを考えるとかなりの高級食材。しかし何度か食べたことはあるが特別においしいものでもない。食べられるところも少ないし。だから私だったら普通のカニのほうが絶対にいい。でも中国人にとって上海蟹は、特別に縁起物的な食べ物らしい。
結局T君は交渉の末、3匹の値段で4匹を購入。買った後はモネの絵を見ている時よりうれしそうだった。ただ日本では特定外来生物の規制があって、一般消費者は生きた上海蟹を買えないことが不満らしい。売られているのはすべて冷凍もの。あまりよく知らないが許可を受けた飲食店になら生きた上海蟹を売っていいらしい。
アメ横の中に入ったのは20年振りくらいかも知れない。特に買うものもないんだけれど、普通の街ではもうなくなってしまった猥雑な雰囲気の中をブラブラするのは楽しい。どこにでもあるチェーン店もかなり出店しているが、小さな路地に入ると映画でしか見たことのないような昭和な雰囲気の飲み屋が並んでいるところもある。先ほど書いたように店によっては外国気分も味わえる。もっと探検する価値あるかも。
2015年11月14日
上野公園のメジャーとマイナー
T君に誘われて東京都立美術館で開催されているモネ展を見に行った時は、西郷隆盛像の前で待ち合わせをした。中国人のT君にその場所を指定されて、そんなところを知っているんだと思ったが、考えてみれば留学生の頃から10年前後は東京に住んでいるのだから別に不思議でもない。
上野公園にはいくつも入り口があって、ここが西郷像に近い南側の入り口。
似顔絵画家などがいるのが上野らしい雰囲気。
階段を登ると、
広い通路がある。西郷像はこの右手側。
ご存じ西郷隆盛像。
実物を見たことはなくても、たいていの人はその姿をイメージできるし上野にあることも知っている。たぶん日本で一番有名な銅像。
ところがT君に「西郷の銅像はなぜ上野にあるのか」と尋ねられた。エッ、上野にあるのが当たり前すぎて、今までそんなこと考えたこともなかったけど。やっぱり外国人は視点が違う。その時は「明治維新後に政府と対立した西郷は、反政府軍となってまず上野で戦い、その後に郷里の鹿児島でーーー」とデタラメなことを言ってしまった。思いも寄らなかった質問で、上野戦争と西南戦争が頭の中でゴッチャになってしまったと言い訳。
本当の理由はこんないきさつ。
明治維新の頃、旧幕府軍と新政府軍が繰り広げた内戦が戊辰戦争。戊辰戦争は関ヶ原の戦いのように一箇所での戦闘ではなく、2年ほど続いた内戦の総称。
発端は兵庫・大阪で、その後に有名な京都での鳥羽・伏見の戦い。敗退した旧幕府軍は江戸に戻る。攻め上ってきた新政府軍によって江戸城は開城。徳川慶喜は上野の寛永寺に移る。そこで慶喜を警護していたのが彰義隊(しょうぎたい)と呼ばれる親衛隊。今風に言うなら江戸の東側エリアを彰義隊が実効支配していた。その彰義隊の本拠地である寛永寺に新政府軍が攻め込んだのが上野戦争で、西郷隆盛は指揮官の1人として活躍する。
明治6年に西郷は政府内での対立から鹿児島に戻る。途中のいきさつは省略するが、その後に反政府軍の大将として西南戦争を戦い敗れる。つまり彼は明治政府の敵として生涯を終える。しかし政府は明治維新の最大功労者の1人である西郷を敵としたまま扱うのは心情的につらかったので、彼の死後10年くらいの時に名誉回復をおこなう。その象徴として彼の銅像を建て、選ばれた場所が彼が東京で軍人として活躍した上野戦争があった上野というのがいきさつ。上野公園は戦場であった寛永寺の敷地跡地に作られた公園。
以上が歴史のおさらいね。
こっちは彰義隊の墓。
実際には墓ではなく、戦死者を荼毘に付した場所だと言われる。
敵将だった西郷の銅像のすぐ近くにあって意外な感じ。
美術館を出た後に公園をブラブラしたが、特に写真も撮らなかったので割愛。ところで大仏と言えば奈良と鎌倉だが、かつては上野にも大仏があること知ってた?
上野大仏は1631年建立と歴史は古い。しかし火事や地震で何度も壊れ、最後は関東大震災で頭も落ちてしまう(/o\) さらに戦争中の金属供出でほとんど溶かされてしまい、現在は顔だけがレリーフとして残っている。「もうこれ以上は落ちない」と受験生には人気があるとか(^^ゞ
本当はアメ横の話を書くつもりだったんだけれど、長くなったので次回に。
上野公園にはいくつも入り口があって、ここが西郷像に近い南側の入り口。
似顔絵画家などがいるのが上野らしい雰囲気。
階段を登ると、
広い通路がある。西郷像はこの右手側。
ご存じ西郷隆盛像。
実物を見たことはなくても、たいていの人はその姿をイメージできるし上野にあることも知っている。たぶん日本で一番有名な銅像。
ところがT君に「西郷の銅像はなぜ上野にあるのか」と尋ねられた。エッ、上野にあるのが当たり前すぎて、今までそんなこと考えたこともなかったけど。やっぱり外国人は視点が違う。その時は「明治維新後に政府と対立した西郷は、反政府軍となってまず上野で戦い、その後に郷里の鹿児島でーーー」とデタラメなことを言ってしまった。思いも寄らなかった質問で、上野戦争と西南戦争が頭の中でゴッチャになってしまったと言い訳。
本当の理由はこんないきさつ。
明治維新の頃、旧幕府軍と新政府軍が繰り広げた内戦が戊辰戦争。戊辰戦争は関ヶ原の戦いのように一箇所での戦闘ではなく、2年ほど続いた内戦の総称。
発端は兵庫・大阪で、その後に有名な京都での鳥羽・伏見の戦い。敗退した旧幕府軍は江戸に戻る。攻め上ってきた新政府軍によって江戸城は開城。徳川慶喜は上野の寛永寺に移る。そこで慶喜を警護していたのが彰義隊(しょうぎたい)と呼ばれる親衛隊。今風に言うなら江戸の東側エリアを彰義隊が実効支配していた。その彰義隊の本拠地である寛永寺に新政府軍が攻め込んだのが上野戦争で、西郷隆盛は指揮官の1人として活躍する。
明治6年に西郷は政府内での対立から鹿児島に戻る。途中のいきさつは省略するが、その後に反政府軍の大将として西南戦争を戦い敗れる。つまり彼は明治政府の敵として生涯を終える。しかし政府は明治維新の最大功労者の1人である西郷を敵としたまま扱うのは心情的につらかったので、彼の死後10年くらいの時に名誉回復をおこなう。その象徴として彼の銅像を建て、選ばれた場所が彼が東京で軍人として活躍した上野戦争があった上野というのがいきさつ。上野公園は戦場であった寛永寺の敷地跡地に作られた公園。
以上が歴史のおさらいね。
こっちは彰義隊の墓。
実際には墓ではなく、戦死者を荼毘に付した場所だと言われる。
敵将だった西郷の銅像のすぐ近くにあって意外な感じ。
美術館を出た後に公園をブラブラしたが、特に写真も撮らなかったので割愛。ところで大仏と言えば奈良と鎌倉だが、かつては上野にも大仏があること知ってた?
上野大仏は1631年建立と歴史は古い。しかし火事や地震で何度も壊れ、最後は関東大震災で頭も落ちてしまう(/o\) さらに戦争中の金属供出でほとんど溶かされてしまい、現在は顔だけがレリーフとして残っている。「もうこれ以上は落ちない」と受験生には人気があるとか(^^ゞ
本当はアメ横の話を書くつもりだったんだけれど、長くなったので次回に。
2015年11月13日
モネ展 「印象、日の出」から「睡蓮」まで その2
前回のエントリーでモネの2回の引っ越しのことを書いた。その後、彼は43歳の時にパリから西に80キロほど離れたジヴェルニーに移り住む。ここには86歳で亡くなるまで住んだのでモネに関連する地名ではジヴェルニーが一番有名。その自宅に庭や池を造り、絵を描いている時以外は庭仕事に精を出していたらしい。だから有名な睡蓮(すいれん)のシリーズも自宅で描いたもの。モネが亡くなって90年ほど経つが、モネ邸は今も残っており観光名所となっている。敷地面積は2ヘクタール(6050坪)とのことでかなりの広さである。
小舟 1887年
ポーラ美術館で見た「バラ色のボート」に似た描き方。懐かしいなあと思って眺めているとT君に「赤いのは何ですか?」と尋ねられる。そういわれても困るが、もっともな疑問である。少し茶色っぽい水草を赤く描いたのかなあ。ちなみにT君は色彩に敏感で作品ごとに「これは色がキレイ」「これはそうでもない」というようなことを口にしていた。
睡蓮 1903年
睡蓮 1916年〜1919年
モネは睡蓮を200点以上描いている。本物と複製も含めていろんな睡蓮を見てきたけれど、何度見ても毎回いいなあと思う。特に1903年の睡蓮は水面に映り込んだ木々との対比が美しい。
睡蓮、柳の反映 1916年〜1919年
あまり柳が反映しているようには見えない。
今まで見た睡蓮とは違って、かなりラフというか幼稚なタッチの睡蓮。
キスゲの花 1914年〜17年
これ描くのに3年掛かる? それはともかく私が抱いていたモネとは少しイメージが違う作風。でもそれは、これから続く衝撃の体験の始まりに過ぎなかった(ちょっと大げさ)。
睡蓮 1917年〜1919年
ナンジャコレ!というのが一目見た時の感想。もし周りに人がいなければ大きな声で叫びたかった。モネがこんな画風の絵を描いていたとはまったく想定外。光や空気感や微妙な色彩の変化という捉えどころのないものを追い求めてきたモネ。それは簡単なことではない。その溜まりに溜まったフラストレーションが一気に爆発したのかな。私にはこの絵は評価不能。横幅3メーターとかなり大きな作品。
東京都立美術館のメイン展示室は3階建てになっている。モネの睡蓮は2階の展示室にあった。最後の睡蓮にはビックリしたけれど、3階に行くとさらに腰を抜かすことになる。
ジヴェルニーの庭 1922年〜1926年
もはや別人である。
すべてこの画風の作品が展示されている。
このフロアに私の知っているモネはいなかった(^^ゞ
しだれ柳 1918年〜1919年
しだれ柳 1918年〜1919年
モネは連作の多いが画家だが、この2つは間違い探しレベルに似通っている。それはともかくタッチは荒いとはいえ、しだれ柳に見えるかどうかは別として、それでも木を描いていることはわかる。
しだれ柳 1921年〜1922年
しかし、ここまで来るとーーー。この絵のタイトルは何だと思いますかというクイズをやったら、いろいろな答えが出て面白そうである。
日本の橋 1918年〜1924年
日本の橋 1918年〜1919年
印象派の画家達は浮世絵を気に入って日本びいきの人が多かった。モネもその最右翼で自宅の池に浮世絵で知ったと思われる太鼓橋を架け、それを日本の橋と呼んでいたようである。でもこのフロアの絵は、タイトルがなければ橋が描かれていると想像するのは難しい。ちなみにモネがモネらしい絵で描いた太鼓橋はこんな作品。
日本の橋 1918年〜1924年
これなどはタイトルが間違っているのではという疑問すら湧く(^^ゞ
睡蓮の池 1918年〜1919年
地獄にある血の池かと思った!
バラの小道 1920年〜1922年
わかりやすい遠近法で、このフロアで唯一立体感を感じた絵。そろそろこの画風にも慣れてきて、この絵にはムンクのあの顔を置いたら似合いそうとか想像したりして。
3階のフロアにあったのは1918年〜1924年と最晩年の作品。(亡くなったのは1926年・昭和元年)モネは1912年に白内障と診断され、この頃はかなり視力が衰えていた。派手な色使いやラフなタッチになってくるのは、その影響だと一般にいわれている。
モネは1923年に白内障の手術を受け少し視力が回復する。おもしろいのは、よく見えるようになった眼でモネは改めてこの時期に描いた自分の作品をチェックして、そのいくつかを捨てたらしい。ひょっとしたら「ヤッテモウタ」と後悔したのかも(^^ゞ
これらの最晩年の作品群は売られることなく遺族に相続される。その遺族が亡くなった1966年に、今回の展覧会の出品元であるマルモッタン・モネ美術館にすべて寄贈される。だから今回のような展覧会があるかマルモッタンに行くかしないとモネの最晩年には出会えない。これからもモネの展覧会は数多く開催されるだろうが、これらの作品をまとめてみる機会はそうないと思う。最初のエントリーで書いたように、だからとってもビックリしたけれど貴重な体験だったというわけである。
東京では12月までやっているし、その後は福岡、京都、新潟にも巡回する。展示数は90作品ほどでやや少なく、モネの優美な世界にどっぷり浸りたいと思って出かけると肩すかしを食らう。しかしモネ最晩年の絵に対する執念を感じてみたいヘンタイな絵画ファンなら見に行く価値はあると思うよ。
おしまい
小舟 1887年
ポーラ美術館で見た「バラ色のボート」に似た描き方。懐かしいなあと思って眺めているとT君に「赤いのは何ですか?」と尋ねられる。そういわれても困るが、もっともな疑問である。少し茶色っぽい水草を赤く描いたのかなあ。ちなみにT君は色彩に敏感で作品ごとに「これは色がキレイ」「これはそうでもない」というようなことを口にしていた。
睡蓮 1903年
睡蓮 1916年〜1919年
モネは睡蓮を200点以上描いている。本物と複製も含めていろんな睡蓮を見てきたけれど、何度見ても毎回いいなあと思う。特に1903年の睡蓮は水面に映り込んだ木々との対比が美しい。
睡蓮、柳の反映 1916年〜1919年
あまり柳が反映しているようには見えない。
今まで見た睡蓮とは違って、かなりラフというか幼稚なタッチの睡蓮。
キスゲの花 1914年〜17年
これ描くのに3年掛かる? それはともかく私が抱いていたモネとは少しイメージが違う作風。でもそれは、これから続く衝撃の体験の始まりに過ぎなかった(ちょっと大げさ)。
睡蓮 1917年〜1919年
ナンジャコレ!というのが一目見た時の感想。もし周りに人がいなければ大きな声で叫びたかった。モネがこんな画風の絵を描いていたとはまったく想定外。光や空気感や微妙な色彩の変化という捉えどころのないものを追い求めてきたモネ。それは簡単なことではない。その溜まりに溜まったフラストレーションが一気に爆発したのかな。私にはこの絵は評価不能。横幅3メーターとかなり大きな作品。
東京都立美術館のメイン展示室は3階建てになっている。モネの睡蓮は2階の展示室にあった。最後の睡蓮にはビックリしたけれど、3階に行くとさらに腰を抜かすことになる。
ジヴェルニーの庭 1922年〜1926年
もはや別人である。
すべてこの画風の作品が展示されている。
このフロアに私の知っているモネはいなかった(^^ゞ
しだれ柳 1918年〜1919年
しだれ柳 1918年〜1919年
モネは連作の多いが画家だが、この2つは間違い探しレベルに似通っている。それはともかくタッチは荒いとはいえ、しだれ柳に見えるかどうかは別として、それでも木を描いていることはわかる。
しだれ柳 1921年〜1922年
しかし、ここまで来るとーーー。この絵のタイトルは何だと思いますかというクイズをやったら、いろいろな答えが出て面白そうである。
日本の橋 1918年〜1924年
日本の橋 1918年〜1919年
印象派の画家達は浮世絵を気に入って日本びいきの人が多かった。モネもその最右翼で自宅の池に浮世絵で知ったと思われる太鼓橋を架け、それを日本の橋と呼んでいたようである。でもこのフロアの絵は、タイトルがなければ橋が描かれていると想像するのは難しい。ちなみにモネがモネらしい絵で描いた太鼓橋はこんな作品。
日本の橋 1918年〜1924年
これなどはタイトルが間違っているのではという疑問すら湧く(^^ゞ
睡蓮の池 1918年〜1919年
地獄にある血の池かと思った!
バラの小道 1920年〜1922年
わかりやすい遠近法で、このフロアで唯一立体感を感じた絵。そろそろこの画風にも慣れてきて、この絵にはムンクのあの顔を置いたら似合いそうとか想像したりして。
3階のフロアにあったのは1918年〜1924年と最晩年の作品。(亡くなったのは1926年・昭和元年)モネは1912年に白内障と診断され、この頃はかなり視力が衰えていた。派手な色使いやラフなタッチになってくるのは、その影響だと一般にいわれている。
モネは1923年に白内障の手術を受け少し視力が回復する。おもしろいのは、よく見えるようになった眼でモネは改めてこの時期に描いた自分の作品をチェックして、そのいくつかを捨てたらしい。ひょっとしたら「ヤッテモウタ」と後悔したのかも(^^ゞ
これらの最晩年の作品群は売られることなく遺族に相続される。その遺族が亡くなった1966年に、今回の展覧会の出品元であるマルモッタン・モネ美術館にすべて寄贈される。だから今回のような展覧会があるかマルモッタンに行くかしないとモネの最晩年には出会えない。これからもモネの展覧会は数多く開催されるだろうが、これらの作品をまとめてみる機会はそうないと思う。最初のエントリーで書いたように、だからとってもビックリしたけれど貴重な体験だったというわけである。
東京では12月までやっているし、その後は福岡、京都、新潟にも巡回する。展示数は90作品ほどでやや少なく、モネの優美な世界にどっぷり浸りたいと思って出かけると肩すかしを食らう。しかしモネ最晩年の絵に対する執念を感じてみたいヘンタイな絵画ファンなら見に行く価値はあると思うよ。
おしまい
2015年11月12日
モネ展 「印象、日の出」から「睡蓮」まで
上野の東京都美術館で開催されているモネ展。去年も一昨年もモネの絵はたくさん見ているので実はスルーしていたが、中国人友人のT君がタダ券を手に入れたと誘ってくれたのでラッキーと出かける。彼は普段あまり絵は見に行かないとのことだが、先日パリ旅行でオランジュリー美術館を訪れたらしい。オランジュリーはモネの大きな睡蓮の作品があることで有名。しかし団体旅行でスケジュールに余裕がなかったのか、あまりゆっくり鑑賞できなかったので東京での展覧会に期待しているとのこと。
彼がモネにどんなイメージを抱いていたのかはわからないが、結論から言うとこの展覧会はモネのいかにもモネらしい「ベタ」な作品はあまり多くない。もちろん睡蓮も展示されているが、全体構成の中でそれほどメインじゃない感じ。
この展示会はパリにあるマルモッタン・モネ美術館所蔵の作品だけで構成されている。モネのコレクション数では世界最大級とのこと.しかし、あちこちで選んで作品を借りてくる通常の展覧会と較べれば、単館のコレクションだけではやはり「網羅的」とはならないのかも知れない。しかしおかげであまり見たことのないタイプのモネの絵を見られたし、おそらくマルモッタンに行かないと見ることのできないボリュームで一風変わったモネの晩年のシリーズを見るという体験も貴重だった。
訪れたのは11月1日の日曜日。凄く混雑していて入場制限が実施されているとの噂を聞いていたけれど、この日はそういうことはなかった。でも入場はスムーズでも展示室内はかなりの人数。
本来、この展示会の目玉はサブタイトルにもなっている「印象、日の出」である。最初に貼ったポスターは、その絵が下敷きになっている。「印象、日の出」は印象派の名前の由来となった作品。もっともこの作品が発表された当時は「内面のない、まさに印象だけの絵だね」という否定的な意味だったのだが。
残念ながら東京での「印象、日の出」展示は10月18日まで。サブタイトルに使うほどのメイン作品が期間の途中でなくなってしまうなんて納得がいかないが、なぜかそういう運営がされている。正直にいうと「印象、日の出」がそれほど素晴らしい作品だとはあまり思っていない。しかし印象派の名前の由来となったという「縁起物」として、一度は見ておきたかったのだ。
ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅 1877年
「印象、日の出」と入れ替わって展示されていたのがこの作品。昨年のオルセー美術館展で、これとは別のサン=ラザール駅を描いた作品を見たが印象はかなり異なる。こちらのほうが構図のバランスがよくてダイナミックな感じ。でもモネの微妙な色彩やホワーッとした感じが好きなので、貰えるならオルセーのほうがいいな。
ジャン・モネの肖像 1880年
ポンポン付き帽子を被ったミシェル・モネの肖像 1880年
クロード・モネの長男ジャンと次男ミシェルの肖像画。モネは基本的に風景画家なので肖像画は珍しいらしい。そういえば今まで見た記憶はない。でも絵としては普通で、あまり印象には残らなかった。
ルノワール
新聞を読むクロード・モネ 1873年
これはルノワールがモネを描いた作品。いわれてみればルノワールらしい肉付きの絵だが、それほどルノワール・オーラはでていないので、作品紹介のプレートがなければモネの絵だと思ったかも。ところで解説によるとこれは自宅でパイプを吹かしながらリラックスして新聞を読んでいるモネらしい。自宅で帽子被ってコート着る?
ドラクロワ
エトルタの断崖、馬の脚 1837年
モネ以外の作品はルノワールの他にもいくつかあった。モネ自身が集めていた他の画家の作品らしい。あっさりした絵が多くて、あまり興味を持てなかったが、逆にあっさりさで目を引いたのがこのドラクロワの作品。ドラクロワはこってり濃密なイメージを持っているから意外だった。タイトルの馬の脚とは、崖の右側がそういう風に見える景色だから。
トルーヴィルの海辺にて 1870年
ポーラ美術館のモネ展でウジューヌ・ブーダン(画家の名前)の「トルーヴィルの浜」を見て以来、なぜか私はトルーヴィルを描いた作品はすぐに見分けられるようになった。このモネの絵を見るのは初めてだが、遠くから眺めてトルーヴィルに違いないと確信を持って絵に近づき、作品名を見てヤッパリと美術館で小さくガッツポーズ。前世はトルーヴィルに住んでいたのかもしれない(^^ゞ
雪の効果、日没 1875年
ポーラ美術館で見た「雪のアルジャントゥイユ」とタッチは違うが景色に共通するところがあるから、これもアルジャントゥイユ(地名)かなと思う。制作年も同じ1875年。
モネには雪の絵が多いらしい。オルセー美術館展で見た「かささぎ」は雪景色の、つまりは白い世界なのに光が描き分けられていてグッときた。それとくらべればアルジャントゥイユでの雪作品はまあ普通。
霧のヴェトゥイユ 1879年
ヴェトゥイユも地名。アルジャントゥイユがパリの北西約10キロで、ヴェトゥイユが約60キロ。パリ生まれのモネは31歳でアルジャントゥイユ、38歳でヴェトゥイユへ移り住んでいる。距離10キロのアルジャントゥイユはパリの隣だが、60キロ離れたヴェトゥイユは東京駅から直線で大磯くらいの距離。
パソコンで見るとはっきりしない絵に見えるが実物も同じである(^^ゞ でも実物は柔らかな色彩がふわーっと舞っているような印象があって何ともいえない味わいがある。
ヨット、夕暮れの効果
はっきり言ってたいしたことない絵だと思った。ひょっとしたら空をこんな色彩で描き分けるのは当時は誰もやっていなかったのかも知れなが、今の時点で評価すれば、ちょっと絵心があれば誰でも描けるというか描きがちな絵。私が「これは絵になる」と思って撮る写真みたいなもの。撮っている時はいい気分でも後でパソコンで見ると素人丸出しの写真が写っている。展示会で凄い作品ばかりだと息苦しくなる時があるが、巨匠でもこんな普通の絵を描くんだあと思うと少しホッとする。
オランダのチューリップ畑 1886年
花のところは絵の具を水平に荒く塗ってあるだけなのに、風車との組み合わせでそれがチューリップ以外に決して見えないのは、わたしがチューリップ好きでそれなりに知識もあるからである。普通の人はこれをパッと見て何の花をイメージするのかな。
オランダは風車が名物なくらいだから風が強いのだろうか。何となくチューリップが風に押し流されている感じがする。不思議なのは雲なのか単に空の描写かわからないが、それが縦の線で描かれている。だから風が吹き上がっているようなイメージ。
ーーー続く
2015年11月08日
2016シーズン チューリップ植え付け
球根を植える深さを考慮して、今シーズンは鉢底石をかなり薄めに入れた。
その後に入れたのは、4種類を次の割合にブレンドした土。
新たに買った腐葉土 :1 (17%)
新たに買った堆肥 :1 (17%)
ふるい分けした大粒の赤玉 :2 (33%)
ふるい分けした以前からの土:2 (33%)
腐葉土は葉っぱなどを発酵させたもの。堆肥(たいひ)はさらに発酵を進めて完全に原料が分解したもの。堆肥の原料は植物以外に牛や鶏の糞(ふん)も使われる。牛や鶏の糞も元はといえば食べて排出された植物や穀物だから、結果的には同じようなものといえる。
どちらも肥料というよりは土壌改良材の位置付け。肥料としては成分のバランスが偏っているらしい。それで腐葉土と堆肥はどう使い分けるのか。よくわからないので両方買ったというしだい。
今回はモノタロウで買った。ここは工具とか部品の通販会社で、収納ボックスなどを買う時に時々利用している。基本的には業者向け通販だが、個人でも職人で登録すれば大丈夫。
秋本天産物 腐葉土 5リットル 499円
秋本天産物というのは製造メーカーの名前。発酵は充分な印象だが、ツルとか小枝が多く混じっていて、あまり品質がよくなかった。
秋本天産物 堆肥 5リットル 499円
こちらは問題なし。匂いはまったくしなかったから牛や鶏の糞は入っていないように思う。腐葉土は買わずに全部こちらでもよかったかも。
「球根の肥料」という肥料をごく少量加えながら4種類を楽しくマゼマゼ。途中で大粒赤玉が足りなくなることはわかっていたので、このブレンドの土が各プランター均等になるように入れていった。大粒赤玉がなくなった後は腐葉土&堆肥&割合を4に増やした以前からの土の3種類ブレンド。ふるい分けは荒い網を使ったので、以前からの土にもかなり赤玉は混じっている。それをプランターの半分まで入れていく。今回はシミュレーションで使った割り箸を利用して正確に深さを測った。
以上が11月3日(文化の日)の作業。
昨日はいよいよ球根の植え付け。
いつも球根を並べていくうちに、どこに何を置いたのかわからなくなるので、今回は配置表を作って植えることにした。
A A A A B B B B
C C C C D D D
E E E E F F F F
こんな感じで色のバランスを考えながら8つのプランターの配置表を作った。しかし似たような色が多いので配置は結構アバウト。それにすべてが一斉に咲くわけでもないし。だから1つのプランターに同じ球根を植えない、たとえばAとFが同じ球根にならないという程度の役割のもの。
並び終えた球根。
それぞれ45度斜めにして葉の出る向きは揃えたつもり。
やっぱり深さが足りない気がする。
3種類ブレンドの余った土を入れ、腐葉土と堆肥がなくなった後は以前からの土オンリーで上部まで埋めていく。
ところで去年から使っていた7つのプランターとベランダに転がっていた小さなプランターに入っていた土と、新たに腐葉土10リッター&堆肥10リッターを混ぜて、今回は8つのプランターに分配したことになる。プランター1つの容量は15リッター位だから、土は足りる計算だったのに、最後に少し足りなくなった。原因はプランターの深さを少しでも稼ぐために鉢底石をかなり少なめに入れたから。ふるい分けた鉢底石は半分くらいが残った。まあ底のほうには大粒赤玉も入っているし水はけは大丈夫だろう。
最後に水やりをして、めでたく植え付け終了。
土が少し足りないところは、後で買ってきて継ぎ足すことにする。
ところで昨日に書いた後の祭りの心配事とは。
苦土石灰を混ぜたら1週間ほど寝かせるのは、土と反応して何らかのガスを発生するかららしい。それが種や球根に悪い影響を与えるし、肥料となる成分にも化学反応的に連鎖して効果を減らすということ。
それは知っていたのだが、その反応を媒介するにはたぶん水分が必要じゃないかってことに水やりをしながら気がついた。堆肥は買ってきて袋から出したばかりのものだから、ある程度の湿り気があった。だから苦土石灰と反応したと思う。しかしふるい分けた土は水分はほとんどなくサラサラである。あの状態で土と一緒にゴミ用ビニール袋の中に入れた苦土石灰が何か化学変化を起こしたとは考えづらい。
ということは苦土石灰は苦土石灰のまま、ふるい分けた土の中に残っており、最後に水やりをした時にガスを発生したり化学反応を起こしてーーーやっぱり気がつかなかったことにしておこう(^^ゞ
その後に入れたのは、4種類を次の割合にブレンドした土。
新たに買った腐葉土 :1 (17%)
新たに買った堆肥 :1 (17%)
ふるい分けした大粒の赤玉 :2 (33%)
ふるい分けした以前からの土:2 (33%)
腐葉土は葉っぱなどを発酵させたもの。堆肥(たいひ)はさらに発酵を進めて完全に原料が分解したもの。堆肥の原料は植物以外に牛や鶏の糞(ふん)も使われる。牛や鶏の糞も元はといえば食べて排出された植物や穀物だから、結果的には同じようなものといえる。
どちらも肥料というよりは土壌改良材の位置付け。肥料としては成分のバランスが偏っているらしい。それで腐葉土と堆肥はどう使い分けるのか。よくわからないので両方買ったというしだい。
今回はモノタロウで買った。ここは工具とか部品の通販会社で、収納ボックスなどを買う時に時々利用している。基本的には業者向け通販だが、個人でも職人で登録すれば大丈夫。
秋本天産物 腐葉土 5リットル 499円
秋本天産物というのは製造メーカーの名前。発酵は充分な印象だが、ツルとか小枝が多く混じっていて、あまり品質がよくなかった。
秋本天産物 堆肥 5リットル 499円
こちらは問題なし。匂いはまったくしなかったから牛や鶏の糞は入っていないように思う。腐葉土は買わずに全部こちらでもよかったかも。
「球根の肥料」という肥料をごく少量加えながら4種類を楽しくマゼマゼ。途中で大粒赤玉が足りなくなることはわかっていたので、このブレンドの土が各プランター均等になるように入れていった。大粒赤玉がなくなった後は腐葉土&堆肥&割合を4に増やした以前からの土の3種類ブレンド。ふるい分けは荒い網を使ったので、以前からの土にもかなり赤玉は混じっている。それをプランターの半分まで入れていく。今回はシミュレーションで使った割り箸を利用して正確に深さを測った。
以上が11月3日(文化の日)の作業。
昨日はいよいよ球根の植え付け。
いつも球根を並べていくうちに、どこに何を置いたのかわからなくなるので、今回は配置表を作って植えることにした。
A A A A B B B B
C C C C D D D
E E E E F F F F
こんな感じで色のバランスを考えながら8つのプランターの配置表を作った。しかし似たような色が多いので配置は結構アバウト。それにすべてが一斉に咲くわけでもないし。だから1つのプランターに同じ球根を植えない、たとえばAとFが同じ球根にならないという程度の役割のもの。
並び終えた球根。
それぞれ45度斜めにして葉の出る向きは揃えたつもり。
やっぱり深さが足りない気がする。
3種類ブレンドの余った土を入れ、腐葉土と堆肥がなくなった後は以前からの土オンリーで上部まで埋めていく。
ところで去年から使っていた7つのプランターとベランダに転がっていた小さなプランターに入っていた土と、新たに腐葉土10リッター&堆肥10リッターを混ぜて、今回は8つのプランターに分配したことになる。プランター1つの容量は15リッター位だから、土は足りる計算だったのに、最後に少し足りなくなった。原因はプランターの深さを少しでも稼ぐために鉢底石をかなり少なめに入れたから。ふるい分けた鉢底石は半分くらいが残った。まあ底のほうには大粒赤玉も入っているし水はけは大丈夫だろう。
最後に水やりをして、めでたく植え付け終了。
土が少し足りないところは、後で買ってきて継ぎ足すことにする。
ところで昨日に書いた後の祭りの心配事とは。
苦土石灰を混ぜたら1週間ほど寝かせるのは、土と反応して何らかのガスを発生するかららしい。それが種や球根に悪い影響を与えるし、肥料となる成分にも化学反応的に連鎖して効果を減らすということ。
それは知っていたのだが、その反応を媒介するにはたぶん水分が必要じゃないかってことに水やりをしながら気がついた。堆肥は買ってきて袋から出したばかりのものだから、ある程度の湿り気があった。だから苦土石灰と反応したと思う。しかしふるい分けた土は水分はほとんどなくサラサラである。あの状態で土と一緒にゴミ用ビニール袋の中に入れた苦土石灰が何か化学変化を起こしたとは考えづらい。
ということは苦土石灰は苦土石灰のまま、ふるい分けた土の中に残っており、最後に水やりをした時にガスを発生したり化学反応を起こしてーーーやっぱり気がつかなかったことにしておこう(^^ゞ
2015年11月07日
苦土石灰(くどせっかい)
バイクに乗りたい気持ちもあったが、いつ降り出してもおかしくないような厚い雲だったので、予定通りチューリップの植え付け。
前回のエントリーで書いた土へのちょっとした工夫というのはpH(ペーハー)調整のこと。いわゆる酸性かアルカリ性かの話。
まだブログには書いていないが、4月にテレビを買い換えてから録画が簡単にできるようになり、それで今はやたらEテレ(NHKの教育テレビのこと)を観ている。その中には園芸番組もいくつかある。それで家庭菜園向けの番組でよく聞くのが「日本は雨が多くて土が酸性になりやすいので、苦土石灰(くどせっかい)を撒いて中和しましょう」というフレーズ。ほぼ毎回そのフレーズが出てくるので、何となく気になっていた。
ベランダで使っている土も酸性になっているのか? 雨が多いとなぜ酸性になるのかは知らないが、ベランダだから雨はあまり掛からない。舐めてみてわかるものでもないし(^^ゞ
pH(ペーハー)を調べる試薬や装置もあるけれど、そこまでやるつもりもない。
そんなことを思っていると、チューリップはアルカリ性を好む植物だということを知った。だったらということで、その苦土石灰というのを入れてみることにした。ベランダで雨は掛からないにしても、長年水やりを続けてきた土だから、水が何か作用するなら酸性になっているかも知れない。
苦土石灰
1kg入りで318円。中身はグレーの細かな粒。苦土は酸化マグネシウムで石灰は炭酸カルシウム。両者を混ぜて焼き固めてつくるらしい。
さて問題は苦土石灰をどれくらい混ぜるか。
pHは0から14までで表され中性が7。7未満が酸性で7より大きければアルカリ性である。ほとんどの植物はpHが6〜7の弱酸性を好むが、チューリップは6〜8と書いてあるところを見つけた。なんだ、酸性でもアルカリ性でもどっちでもいいのかと思ったが、pH値の記載がなくてもチューリップはアルカリ性を好むと書いてあるところは多かったのでpH8位を目指すこと。
苦土石灰のパッケージには1リッターの土のpHを1つ上げる(アルカリ寄りにする)のに必要な量は1〜1.5gと書いてある。ウ〜ン、やっぱり土の元のpHがわからないと苦土石灰をどれだけ混ぜていいのかわからない(^^ゞ
安全策を採ってとりあえずpHを1つ上げようと、キッチンスケールで苦土石灰の分量を測る。ふるい分けした土はゴミ用ビニール袋にいれてあって(容量はふるい分けした時のバケツ分量で推定)、そこに苦土石灰を入れて袋を振って混ぜる。しかしパッケージの説明通りに測った苦土石灰はとても少なく「こんな程度で効くのか?」と疑問になり、結局2倍くらいの量をいれてしまった。
以上はふるい分けした以前から使っていた土の話。それとは別にパワーアップのために腐葉土と堆肥も新しく買ってある。調べてみると腐葉土というのはアルカリ性らしいので苦土石灰投入はなし。そして堆肥は袋にpH6.7に調整済みと書かれていた。これなら苦土石灰を何グラム投入すればいいのか計算できる。でもやっぱり物足りなくて多少余分に入れてしまったが。
苦土石灰というのは土に混ぜて1週間くらい寝かせるものらしい。Eテレの園芸番組でもそういっているが、いつもそういうだけですぐ植え付けの場面になるのが不思議。今回は1ヶ月ほど経っているので充分なはず。ーーーと考えていたが、ちょっと心配なことが。本日にもう球根は植え付けてしまったので後の祭りだが。
前回のエントリーで書いた土へのちょっとした工夫というのはpH(ペーハー)調整のこと。いわゆる酸性かアルカリ性かの話。
まだブログには書いていないが、4月にテレビを買い換えてから録画が簡単にできるようになり、それで今はやたらEテレ(NHKの教育テレビのこと)を観ている。その中には園芸番組もいくつかある。それで家庭菜園向けの番組でよく聞くのが「日本は雨が多くて土が酸性になりやすいので、苦土石灰(くどせっかい)を撒いて中和しましょう」というフレーズ。ほぼ毎回そのフレーズが出てくるので、何となく気になっていた。
ベランダで使っている土も酸性になっているのか? 雨が多いとなぜ酸性になるのかは知らないが、ベランダだから雨はあまり掛からない。舐めてみてわかるものでもないし(^^ゞ
pH(ペーハー)を調べる試薬や装置もあるけれど、そこまでやるつもりもない。
そんなことを思っていると、チューリップはアルカリ性を好む植物だということを知った。だったらということで、その苦土石灰というのを入れてみることにした。ベランダで雨は掛からないにしても、長年水やりを続けてきた土だから、水が何か作用するなら酸性になっているかも知れない。
苦土石灰
1kg入りで318円。中身はグレーの細かな粒。苦土は酸化マグネシウムで石灰は炭酸カルシウム。両者を混ぜて焼き固めてつくるらしい。
さて問題は苦土石灰をどれくらい混ぜるか。
pHは0から14までで表され中性が7。7未満が酸性で7より大きければアルカリ性である。ほとんどの植物はpHが6〜7の弱酸性を好むが、チューリップは6〜8と書いてあるところを見つけた。なんだ、酸性でもアルカリ性でもどっちでもいいのかと思ったが、pH値の記載がなくてもチューリップはアルカリ性を好むと書いてあるところは多かったのでpH8位を目指すこと。
苦土石灰のパッケージには1リッターの土のpHを1つ上げる(アルカリ寄りにする)のに必要な量は1〜1.5gと書いてある。ウ〜ン、やっぱり土の元のpHがわからないと苦土石灰をどれだけ混ぜていいのかわからない(^^ゞ
安全策を採ってとりあえずpHを1つ上げようと、キッチンスケールで苦土石灰の分量を測る。ふるい分けした土はゴミ用ビニール袋にいれてあって(容量はふるい分けした時のバケツ分量で推定)、そこに苦土石灰を入れて袋を振って混ぜる。しかしパッケージの説明通りに測った苦土石灰はとても少なく「こんな程度で効くのか?」と疑問になり、結局2倍くらいの量をいれてしまった。
以上はふるい分けした以前から使っていた土の話。それとは別にパワーアップのために腐葉土と堆肥も新しく買ってある。調べてみると腐葉土というのはアルカリ性らしいので苦土石灰投入はなし。そして堆肥は袋にpH6.7に調整済みと書かれていた。これなら苦土石灰を何グラム投入すればいいのか計算できる。でもやっぱり物足りなくて多少余分に入れてしまったが。
苦土石灰というのは土に混ぜて1週間くらい寝かせるものらしい。Eテレの園芸番組でもそういっているが、いつもそういうだけですぐ植え付けの場面になるのが不思議。今回は1ヶ月ほど経っているので充分なはず。ーーーと考えていたが、ちょっと心配なことが。本日にもう球根は植え付けてしまったので後の祭りだが。
2015年11月03日
プランターの深さが足りない
チューリップの球根を植える時、どの程度の深さに植えるべきなのか。
ネットで調べてみると、土で球根が隠れる程度でいいとか、3センチや5センチとか、球根2つ分あるいは3つ分の深さなど、専門家の言うことも結構まちまちである。浅く植えても咲くのだろうけれど、ある程度の深さは必要だと私は考えている。浅く植えると茎がグラグラして倒れやすいと思うのがその理由。
とはいえプランターに植えるには、そのサイズの制約を受ける。茎だけじゃなくて根が張るスペースも考えなくてはならない。シーズンが終わって球根を掘り起こしてみると、それほど根は伸びていないものの、それでもプランターのほとんど底に植えるのはリスクが高い気がする。
ーーーというようなことは今までも考えてはいた。しかし実際にはプランターの半分程度まで土を入れ、その上に球根を並べて土をかけるやり方を何となく習慣的に続けてきた。
それで、それってどのくらいの深さなんだろうと思って調べてみた。プランターは幅65センチの、いわゆる65型と呼ばれる一般的なタイプ。
割り箸の黒い線がプランターの深さ、ピンクの線がその中間である。
右側の割り箸に黒い線が2本あるのは、スノコなしのプランターは場所によって深さが違うから。でもそんなに差はなかったし、どうせ鉢底石は平らに入れるから(と、後から気づき)中間線は短いほうに合わせてある。というわけでスノコがあろうとなかろうとプランターの深さはほぼ同じ。
鉢底石と球根を並べてのシミュレーションでは、左側の球根は特大球で、右側は普通の大きさの球根を置いてある。スノコやネットのようになっているプランターでは鉢底石は不要との考えもあるみたいだが、まったく入れないのもちょっと不安なので薄く入れるのを前提にしてある。
改めて測ってみると、ベランダにあるプランターはかなり浅いとわかる。プランターにすり切れ一杯に土を入れても、せいぜい球根1.5個分程度の深さ。すり切れ一杯に土を入れると水やりの時に土がこぼれるから、少し少なめに入れるのが園芸のセオリー。でも私は深さ重視で土が少々こぼれてもいいからと目一杯入れているが、それでも球根1.5個分にしかならない。セオリー通りなら1個以下になってしまう。ついでに深さは球根のトータルサイズではなく高さで考えなければいけないことも、考えてみれば当たり前とはいえ改めて理解できた。(特大級も普通球も高さはあまり変わらない)
深さを稼ぐには
1)
薄い板のようなものを土に差し込んで壁にしてプランターの高さを稼ぐ。
↓
それに適した板は持っていないし、
ボール紙では何回か水やりをしたらボロボロになりそうな気がする。
2)
板は使わず、土だけで畝(うね)にして土をかさ上げする。
↓
割とサラッとした土を使っているから、たぶんほとんど盛れないと思う。センター部分だけなら多少は盛れる気もするが、密集してプランターの端のほうまで球根を植えるので、その案も却下。
というわけで深く植えるには、より大きなプランターに植えるしか方法がない。しかし今さらプランター8つを買い換えるのも気が進まない。結論として従来通りプランターの半分まで土を入れ、その上に球根を置いて土を被せる=球根1.5個分の深さに植えるやり方を踏襲することにした。昨シーズンは惨憺たる結果だったけれど、それまではまあキレイに咲いていたんだしーーーそれが根拠というか、単なる問題の先送り(^^ゞ
予定では今週末あたりに植え付けるつもり。本日は鉢底石を敷いてプランターの深さの半分まで土を入れた。先日ふるい分けた大粒赤玉と残りの土に、新しく買った堆肥と腐葉土を加えてパワーアップ。成長に必要な養分を蓄えている球根に、そんな土作りをして意味があるかどうかは疑問であるものの、なんといってもマゼマゼは趣味だから。それと昨シーズンのようになってはイヤなので、他にも土にちょっと工夫をしてみた。それはまた次回に。
ネットで調べてみると、土で球根が隠れる程度でいいとか、3センチや5センチとか、球根2つ分あるいは3つ分の深さなど、専門家の言うことも結構まちまちである。浅く植えても咲くのだろうけれど、ある程度の深さは必要だと私は考えている。浅く植えると茎がグラグラして倒れやすいと思うのがその理由。
とはいえプランターに植えるには、そのサイズの制約を受ける。茎だけじゃなくて根が張るスペースも考えなくてはならない。シーズンが終わって球根を掘り起こしてみると、それほど根は伸びていないものの、それでもプランターのほとんど底に植えるのはリスクが高い気がする。
ーーーというようなことは今までも考えてはいた。しかし実際にはプランターの半分程度まで土を入れ、その上に球根を並べて土をかけるやり方を何となく習慣的に続けてきた。
それで、それってどのくらいの深さなんだろうと思って調べてみた。プランターは幅65センチの、いわゆる65型と呼ばれる一般的なタイプ。
割り箸の黒い線がプランターの深さ、ピンクの線がその中間である。
右側の割り箸に黒い線が2本あるのは、スノコなしのプランターは場所によって深さが違うから。でもそんなに差はなかったし、どうせ鉢底石は平らに入れるから(と、後から気づき)中間線は短いほうに合わせてある。というわけでスノコがあろうとなかろうとプランターの深さはほぼ同じ。
鉢底石と球根を並べてのシミュレーションでは、左側の球根は特大球で、右側は普通の大きさの球根を置いてある。スノコやネットのようになっているプランターでは鉢底石は不要との考えもあるみたいだが、まったく入れないのもちょっと不安なので薄く入れるのを前提にしてある。
改めて測ってみると、ベランダにあるプランターはかなり浅いとわかる。プランターにすり切れ一杯に土を入れても、せいぜい球根1.5個分程度の深さ。すり切れ一杯に土を入れると水やりの時に土がこぼれるから、少し少なめに入れるのが園芸のセオリー。でも私は深さ重視で土が少々こぼれてもいいからと目一杯入れているが、それでも球根1.5個分にしかならない。セオリー通りなら1個以下になってしまう。ついでに深さは球根のトータルサイズではなく高さで考えなければいけないことも、考えてみれば当たり前とはいえ改めて理解できた。(特大級も普通球も高さはあまり変わらない)
深さを稼ぐには
1)
薄い板のようなものを土に差し込んで壁にしてプランターの高さを稼ぐ。
↓
それに適した板は持っていないし、
ボール紙では何回か水やりをしたらボロボロになりそうな気がする。
2)
板は使わず、土だけで畝(うね)にして土をかさ上げする。
↓
割とサラッとした土を使っているから、たぶんほとんど盛れないと思う。センター部分だけなら多少は盛れる気もするが、密集してプランターの端のほうまで球根を植えるので、その案も却下。
というわけで深く植えるには、より大きなプランターに植えるしか方法がない。しかし今さらプランター8つを買い換えるのも気が進まない。結論として従来通りプランターの半分まで土を入れ、その上に球根を置いて土を被せる=球根1.5個分の深さに植えるやり方を踏襲することにした。昨シーズンは惨憺たる結果だったけれど、それまではまあキレイに咲いていたんだしーーーそれが根拠というか、単なる問題の先送り(^^ゞ
予定では今週末あたりに植え付けるつもり。本日は鉢底石を敷いてプランターの深さの半分まで土を入れた。先日ふるい分けた大粒赤玉と残りの土に、新しく買った堆肥と腐葉土を加えてパワーアップ。成長に必要な養分を蓄えている球根に、そんな土作りをして意味があるかどうかは疑問であるものの、なんといってもマゼマゼは趣味だから。それと昨シーズンのようになってはイヤなので、他にも土にちょっと工夫をしてみた。それはまた次回に。