2016年01月
2016年01月24日
全部のプランターで発芽
今シーズンは少し早めの11月8日に植えたチューリップ。クリスマスに最初の発芽を確認してから1ヶ月が過ぎた。絶対数は少ないものの、現在は8つあるプランターのすべてで発芽が見られる。
とりあえず順調かな。
発芽直後は豆みたい。
なぜか球根の皮を被って発芽するのが毎年いくつかある。
先週までこの皮は芽に密着している感じだったが、今日触ってみたら、あっさり剥がれた。
豆みたいな芽はやがて2つに分かれて、上から見るとクチバシのような形になる。
皮被りは手前の芽と同じ時期に発芽して似たような大きさだが、皮を被っていたせいかまだクチバシにはならず豆のまま。こんなどうでのいいような観察が意外と楽しいものである。
1月10日に南房総に初ツーリングをして、今年は暖冬だからたくさんツーリングできそうと書いたが、なんとその翌日から寒波到来。18日にはこの冬初めての積雪が東京でもあった。都心での降雪量はまったくたいしたことなかったのに電車は麻痺状態に。
2年前の大雪の時に雪で電車のブレーキが利かず、駅で停まっていた先行車両に追突するという事故があった。それを教訓として雪が降った場合の速度や運行本数をかなり制限していたらしく、つまり輸送力が極端に低下して、一部では雪はやんでいるのに電車に乗るまで4〜5時間待ちということにもなった模様。事故も困るがそんな事態もマヌケ過ぎる。国交省や鉄道会社には臨機応変で柔軟な対応というものを身につけてもらいたい。
水曜日くらいから昨日の土曜日も雪ということだったが、当日になって夕方から降るかもしれない〜深夜から日曜に掛けて降るかもしれない〜と徐々に予報は後退し、今のところ振る気配なし。でも本日の東京は最低がマイナス0.4度で最高が9.2度という気温。午後8時過ぎの今現在で1度ちょっとほど。暖冬はどこに行ったかと思う寒さ。全国各地では記録的な低温だったり大雪が降っているとのこと。
ところで気象庁予報部発表の週間天気予報。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
最高気温・最低気温ともに、北海道地方では、平年並か平年より低いです
が、期間の前半は平年より高い日があるでしょう。東北地方から沖縄・奄美
にかけては、期間のはじめは平年並か平年より低く、平年よりかなり低い所
もありますが、その後は平年より高い日が多く、平年よりかなり高い日もあ
る見込みです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
どっちやねん?(^^ゞ
とりあえず順調かな。
発芽直後は豆みたい。
なぜか球根の皮を被って発芽するのが毎年いくつかある。
先週までこの皮は芽に密着している感じだったが、今日触ってみたら、あっさり剥がれた。
豆みたいな芽はやがて2つに分かれて、上から見るとクチバシのような形になる。
皮被りは手前の芽と同じ時期に発芽して似たような大きさだが、皮を被っていたせいかまだクチバシにはならず豆のまま。こんなどうでのいいような観察が意外と楽しいものである。
1月10日に南房総に初ツーリングをして、今年は暖冬だからたくさんツーリングできそうと書いたが、なんとその翌日から寒波到来。18日にはこの冬初めての積雪が東京でもあった。都心での降雪量はまったくたいしたことなかったのに電車は麻痺状態に。
2年前の大雪の時に雪で電車のブレーキが利かず、駅で停まっていた先行車両に追突するという事故があった。それを教訓として雪が降った場合の速度や運行本数をかなり制限していたらしく、つまり輸送力が極端に低下して、一部では雪はやんでいるのに電車に乗るまで4〜5時間待ちということにもなった模様。事故も困るがそんな事態もマヌケ過ぎる。国交省や鉄道会社には臨機応変で柔軟な対応というものを身につけてもらいたい。
水曜日くらいから昨日の土曜日も雪ということだったが、当日になって夕方から降るかもしれない〜深夜から日曜に掛けて降るかもしれない〜と徐々に予報は後退し、今のところ振る気配なし。でも本日の東京は最低がマイナス0.4度で最高が9.2度という気温。午後8時過ぎの今現在で1度ちょっとほど。暖冬はどこに行ったかと思う寒さ。全国各地では記録的な低温だったり大雪が降っているとのこと。
ところで気象庁予報部発表の週間天気予報。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
最高気温・最低気温ともに、北海道地方では、平年並か平年より低いです
が、期間の前半は平年より高い日があるでしょう。東北地方から沖縄・奄美
にかけては、期間のはじめは平年並か平年より低く、平年よりかなり低い所
もありますが、その後は平年より高い日が多く、平年よりかなり高い日もあ
る見込みです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
どっちやねん?(^^ゞ
2016年01月21日
納期60ヶ月待ち!
テレビを買い換えてからNHKのEテレ中心に見ていることは、昨年の末のブログに書いた。録画が増えるばかりで見ることがまったく追いついていないが、まあそれなりに楽しんでいる。
先日「イッピン」という番組を見ていたら、福井県の越前打刃物(うちはもの)のステーキナイフを紹介していた。イッピンはNHKのGテレ(一般放送)で、おもに地場産業の名品を紹介するような番組。
やたら切れ味鋭いステーキナイフが人気を博していることはどこかで聞いたことがあった。これがそのステーキナイフかと思い、いくら位するんだろうと番組を見ながらタブレットで検索してみた。
1本 2万4440円(税込み)!
ペアとなるフォークは1万4040円。
セットだと3万8480円。家族4人分を揃えたら15万3920円。タカっ!
その価格にもビックリしたが、
さらに驚いたのはホームページに掲載されていた次のお知らせ。
なんと5年待ち!
ステーキ冷めるわ(^^ゞ
こちらがメーカーである龍泉刃物のホームページ。ところでこんな高価なステーキナイフを買う人は、その切れ味が必要な固い肉を食べないような気がするけど。
別の日にEテレの「美の壺」を見た。これも「和の美しさ」をテーマにしたような番組。その時は南部鉄器を紹介していた。南部鉄器とは旧南部藩である岩手県で製造される伝統的な鉄の鋳物製品。いろんな種類があるが、この時は鉄瓶(てつびん:鉄のヤカン)を中心とした内容だった。
鉄瓶で湧かしたお湯はまろやかで珈琲やお茶を淹れるとおいしいらしい。それでまた番組を見ながらタブレットで検索してみると、
まず、このお店は全部品切れ。
このお店は新規注文を受け付けていない。
ここも全部完売。
ここは納期1年から2年。たくさん注文すると、さらに待たされる。
ここも約1年待ち。
ーーーと、ことごとく手に入れることができない。先ほどのステーキナイフは1社だけが生産しているものだが、鉄瓶は南部鉄器の産地全体での状況。鉄瓶がそんなに引っ張りだことは知らなかった。(状況は本日2016年1月21日現在)
それにしても納期5年や2年とかで客を待たして商売ができるなんて、ほとんどの企業にしてみれば夢のまた夢みたいな話だろう。生産量とかゴーストオーダーとか、マーケティングに携わるものとしての興味や確かめたいことはもちろんあるけれど、とりあえずブッタマゲタのでまずは報告まで。
先日「イッピン」という番組を見ていたら、福井県の越前打刃物(うちはもの)のステーキナイフを紹介していた。イッピンはNHKのGテレ(一般放送)で、おもに地場産業の名品を紹介するような番組。
やたら切れ味鋭いステーキナイフが人気を博していることはどこかで聞いたことがあった。これがそのステーキナイフかと思い、いくら位するんだろうと番組を見ながらタブレットで検索してみた。
1本 2万4440円(税込み)!
ペアとなるフォークは1万4040円。
セットだと3万8480円。家族4人分を揃えたら15万3920円。タカっ!
その価格にもビックリしたが、
さらに驚いたのはホームページに掲載されていた次のお知らせ。
なんと5年待ち!
ステーキ冷めるわ(^^ゞ
こちらがメーカーである龍泉刃物のホームページ。ところでこんな高価なステーキナイフを買う人は、その切れ味が必要な固い肉を食べないような気がするけど。
別の日にEテレの「美の壺」を見た。これも「和の美しさ」をテーマにしたような番組。その時は南部鉄器を紹介していた。南部鉄器とは旧南部藩である岩手県で製造される伝統的な鉄の鋳物製品。いろんな種類があるが、この時は鉄瓶(てつびん:鉄のヤカン)を中心とした内容だった。
鉄瓶で湧かしたお湯はまろやかで珈琲やお茶を淹れるとおいしいらしい。それでまた番組を見ながらタブレットで検索してみると、
まず、このお店は全部品切れ。
このお店は新規注文を受け付けていない。
ここも全部完売。
ここは納期1年から2年。たくさん注文すると、さらに待たされる。
ここも約1年待ち。
ーーーと、ことごとく手に入れることができない。先ほどのステーキナイフは1社だけが生産しているものだが、鉄瓶は南部鉄器の産地全体での状況。鉄瓶がそんなに引っ張りだことは知らなかった。(状況は本日2016年1月21日現在)
それにしても納期5年や2年とかで客を待たして商売ができるなんて、ほとんどの企業にしてみれば夢のまた夢みたいな話だろう。生産量とかゴーストオーダーとか、マーケティングに携わるものとしての興味や確かめたいことはもちろんあるけれど、とりあえずブッタマゲタのでまずは報告まで。
2016年01月19日
英国の夢 ラファエル前派展 その2
「ペラジアとフィラモン」
アーサー・ハッカー
フード付きのマントをまとった男が怪しげ。横たわっている女性の頭に天使の輪がなければ、ヘンタイ的なシーンを連想したかも知れない。
当時の小説から題材を取った作品で、宗教的な罪をあがなうために荒野に向かった妹のベラジアを、修道士である兄のフィラモンが見つけ出した時は死にかけていたという設定。キリスト教では臨終の前から祈りを捧げるからそういうシーンかと思う。フィラモンの横にあるお盆は葬式セットで、杯には赤ワインが入っておりその横の小さなものはパンだろう。ワインは仏教でいう「死に水を取る」というのと同じことをする。ところで死に水は最後に水を飲ませてあげることなのに「取る」と表現するのが不思議。
描かれているシーンに反して「死や哀しみ」のイメージは希薄だし「聖なる」印象もあまりない。ペラジアはほぼ裸だけれど「官能的」でもない。たぶんベースとなった小説の内容を知らないと、この情景描写を理解できない気がする。それでもわからないなりに、あるいはわからないからこそ、この静かな静かな光景に目を奪われてしまう不思議な作品。なかなか奥が深いラファエル前派である。
「十字架下のマグダラのマリア」
ジョージ・フレデリック・ワッツ
マグダラのマリアはキリスト教をテーマにした絵画でよく登場する女性。「十字架下の〜」というタイトルがなくても、柱の下で彼女が悲しみに暮れていたら、それはイエスが磔にされた十字架ということになる。聖書を読んだことはないが、いろんな絵を見ることでそういうことを何となく覚えた。
この絵も「ペラジアとフィラモン」と同じく静かな絵である。静かで深い悲しみ。それは良く表現されていると思うが、西洋人ではないのでイエスが磔にされた哀しみというものが今ひとつ共有できない。だから心にグッと来るまでには至らない。そんなカルチャーギャップはいかんともしがたい。
「楽園追放」
ジョン・ロダム・スペンサー・スタナップ
アダムとイブがエデンの園で、禁断の林檎を食べて追放される有名なシーン。アダムは顔を手で覆ってお先真っ暗な感じなのに対して、イブは困惑しながらも次の一手を思案しているように見えるのがおもしろい。やはり人類創世の時代から女性のほうが逆境に強いのかもしれない(^^ゞ
良くいえばメルヘンチック、悪くいえば幼稚な作風ではある。でも肩の力を抜いてみられるこんな絵も嫌いじゃない。ヨーロッパのリンゴは日本と較べると小振りなものが多いが、それにしても絵に描かれているリンゴが小さいね。
「デカメロン」
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
リンゴの次はメロンーーーではない。デカメロンとは大きなメロンではなく、イタリアの古典文学。14世紀のフィレンツェでペストの流行を避けて郊外に疎開した男女10人が、それぞれ10話づつ合計100のお話をするという物語。ギリシャ語で10日を意味するdeka hemeraiに由来したタイトル。読んだことはないし映画化されたものを見てもいないが、なんとなく言葉に聞き覚えがあるのは「デカいメロン」を連想させてインパクトがあるからだろう。
屈託のない絵である。ミレイの「春(林檎の花咲く頃)」のような謎めいたメッセージもなし。中世イタリアの若者はこんなファッションで「すべらない話」をしていたのかなどと想像するのが楽しい。
2014年の展覧会の時に、ラファエル前派はビートルズみたいだと書いた。彼らの出身はイギリスのリバプール。それで今回の展覧会はリバプール国立美術館所蔵の作品で構成されている。出身地まで共通点があったのか?とびっくりしたが、どうもそうではなさそう。
ラファエル前派が結成されたのは1848年、つまり産業革命のその頃にリバプールは繊維産業と貿易で栄えていて、ロンドンについでイギリス第2の都市だった。それで裕福だったので当時の絵画のコレクションを増やし、それが今に残っているといういきさつ。ラファエル前派が活躍したのはロンドンで、リバプールがその舞台だったわけじゃない。ちなみに両者は直線距離で320キロほど離れている。(東京から琵琶湖くらいの距離)
リバプールは20世紀中頃からは衰退してスラムも多かったらしいが、今は観光都市となっている模様。衰退→観光都市というパターンは北海道の小樽に似ているのかも知れない。リバプールについてもう少し調べようと思ったが、検索するとサッカーチームのリバプールFC関連ばかりヒットするので面倒になってやめた。
展覧会が始まってから半月少々の土曜日の昼過ぎに訪れたのに、会場はガラガラだった。やっぱりラファエル前派は人気がないのかなあ? キレイだし楽しめるし画家のテクニックも確かなのに。空いていると見やすくて助かるが、集客が見込めないと次の展覧会が来ないんじゃないかと気掛かり。
東京では3月6日までやっているので、ブリティッシュ・ビューティーに浸りたければ是非。
おしまい
アーサー・ハッカー
フード付きのマントをまとった男が怪しげ。横たわっている女性の頭に天使の輪がなければ、ヘンタイ的なシーンを連想したかも知れない。
当時の小説から題材を取った作品で、宗教的な罪をあがなうために荒野に向かった妹のベラジアを、修道士である兄のフィラモンが見つけ出した時は死にかけていたという設定。キリスト教では臨終の前から祈りを捧げるからそういうシーンかと思う。フィラモンの横にあるお盆は葬式セットで、杯には赤ワインが入っておりその横の小さなものはパンだろう。ワインは仏教でいう「死に水を取る」というのと同じことをする。ところで死に水は最後に水を飲ませてあげることなのに「取る」と表現するのが不思議。
描かれているシーンに反して「死や哀しみ」のイメージは希薄だし「聖なる」印象もあまりない。ペラジアはほぼ裸だけれど「官能的」でもない。たぶんベースとなった小説の内容を知らないと、この情景描写を理解できない気がする。それでもわからないなりに、あるいはわからないからこそ、この静かな静かな光景に目を奪われてしまう不思議な作品。なかなか奥が深いラファエル前派である。
「十字架下のマグダラのマリア」
ジョージ・フレデリック・ワッツ
マグダラのマリアはキリスト教をテーマにした絵画でよく登場する女性。「十字架下の〜」というタイトルがなくても、柱の下で彼女が悲しみに暮れていたら、それはイエスが磔にされた十字架ということになる。聖書を読んだことはないが、いろんな絵を見ることでそういうことを何となく覚えた。
この絵も「ペラジアとフィラモン」と同じく静かな絵である。静かで深い悲しみ。それは良く表現されていると思うが、西洋人ではないのでイエスが磔にされた哀しみというものが今ひとつ共有できない。だから心にグッと来るまでには至らない。そんなカルチャーギャップはいかんともしがたい。
「楽園追放」
ジョン・ロダム・スペンサー・スタナップ
アダムとイブがエデンの園で、禁断の林檎を食べて追放される有名なシーン。アダムは顔を手で覆ってお先真っ暗な感じなのに対して、イブは困惑しながらも次の一手を思案しているように見えるのがおもしろい。やはり人類創世の時代から女性のほうが逆境に強いのかもしれない(^^ゞ
良くいえばメルヘンチック、悪くいえば幼稚な作風ではある。でも肩の力を抜いてみられるこんな絵も嫌いじゃない。ヨーロッパのリンゴは日本と較べると小振りなものが多いが、それにしても絵に描かれているリンゴが小さいね。
「デカメロン」
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
リンゴの次はメロンーーーではない。デカメロンとは大きなメロンではなく、イタリアの古典文学。14世紀のフィレンツェでペストの流行を避けて郊外に疎開した男女10人が、それぞれ10話づつ合計100のお話をするという物語。ギリシャ語で10日を意味するdeka hemeraiに由来したタイトル。読んだことはないし映画化されたものを見てもいないが、なんとなく言葉に聞き覚えがあるのは「デカいメロン」を連想させてインパクトがあるからだろう。
屈託のない絵である。ミレイの「春(林檎の花咲く頃)」のような謎めいたメッセージもなし。中世イタリアの若者はこんなファッションで「すべらない話」をしていたのかなどと想像するのが楽しい。
2014年の展覧会の時に、ラファエル前派はビートルズみたいだと書いた。彼らの出身はイギリスのリバプール。それで今回の展覧会はリバプール国立美術館所蔵の作品で構成されている。出身地まで共通点があったのか?とびっくりしたが、どうもそうではなさそう。
ラファエル前派が結成されたのは1848年、つまり産業革命のその頃にリバプールは繊維産業と貿易で栄えていて、ロンドンについでイギリス第2の都市だった。それで裕福だったので当時の絵画のコレクションを増やし、それが今に残っているといういきさつ。ラファエル前派が活躍したのはロンドンで、リバプールがその舞台だったわけじゃない。ちなみに両者は直線距離で320キロほど離れている。(東京から琵琶湖くらいの距離)
リバプールは20世紀中頃からは衰退してスラムも多かったらしいが、今は観光都市となっている模様。衰退→観光都市というパターンは北海道の小樽に似ているのかも知れない。リバプールについてもう少し調べようと思ったが、検索するとサッカーチームのリバプールFC関連ばかりヒットするので面倒になってやめた。
展覧会が始まってから半月少々の土曜日の昼過ぎに訪れたのに、会場はガラガラだった。やっぱりラファエル前派は人気がないのかなあ? キレイだし楽しめるし画家のテクニックも確かなのに。空いていると見やすくて助かるが、集客が見込めないと次の展覧会が来ないんじゃないかと気掛かり。
東京では3月6日までやっているので、ブリティッシュ・ビューティーに浸りたければ是非。
おしまい
2016年01月16日
英国の夢 ラファエル前派展
2014年3月に展覧会が開かれた時は、ラファエロじゃなくてラファエルって何?というレベルで、まったく存在すら知らなかったラファエル前派。しかし絵を見終えた時には、その濃密な描写に圧倒されたことを今でもよく覚えている。
すっかり気に入ってラファエル前派の作品をもっと見たいと思った。しかし、たぶんマイナーな分野だろう。森アーツセンターギャラリーでの展覧会もガラガラだったし、まとまって作品を見る機会はそうそうないだろうと諦めていた。しかし予想に反して2年弱で新たな展覧会の開催。私にしては珍しく会期の早い段階、しかも休日に見に行ってきた。
ラファエル前派についてはあれこれと前回に書いたから、
興味があればそちらを参照して欲しい。
前回の展覧会その1
前回の展覧会その2
前回の展覧会その3
開催されているのは渋谷にある東急Bunkamura。渋谷駅から徒歩10分ほど離れたところにある東急百貨店の本店隣りに併設された文化施設。展覧会会場だけでなく音楽ホールや劇場、映画館などが入っている。
2本の巨大な柱に挟まれたのが東急Bunkamura。右隣は東急百貨店本店。道路に面している部分は狭いが内部で広がっている構造。
展覧会入り口で記念撮影。
「春(林檎の花咲く頃)」
ジョン・エヴァレット・ミレイ
ラファエル前派らしい細密な描写を堪能できる。パッと見は若い女性がピクニックを楽しんでいる風景。しかし右下の黄色いドレスを着て横たわっている女性の上には大きな鎌が描かれている。それが何を意味しているのかは不明だが、いったんそれに気がつくと絵の右下が気になって仕方がなくなる。まあそういう心理効果を狙ったのかな。この女性だけ服の色が他の人とかけ離れているし、目線もこっちをにらんでいる。ひょっとして地縛霊とか?
「ブラック・ブランズウィッカーズの兵士」
ジョン・エヴァレット・ミレイ
タイトルは兵士になっていても、これは女性が着ているドレスの光沢と質感をひらすら楽しむべき作品。ドレスはたぶんシルク・サテンの生地。でもアルミ箔のようにも見える(本物はこの写真よりもっとアルミ箔に見える)。ある意味ちょっとやり過ぎともいえる。しかし、このテクニックを見たら、そんな批評は忘れて脱帽せざるを得ない。ミレイのドヤ顔が目に浮かぶような作品。
「シビラ・パルミフェラ」
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
ロセッティといえば前回の展覧会その3で紹介した「プロセルピナ」が強烈な印象として残っている。あの目ヂカラ女性はジェイン・モリスという彼の不倫相手。この作品は彼女の優しい顔バージョンかと思ったらアレクサ・ワイデルリングという別のモデルらしい。私には同じ女性にしか見えないんだけれど、ロセッティは意外と芸風が狭い?
シビラとは巫女でパルミフェラは勝利を意味する椰子の葉。画面左側には目隠しされたキューピッドとバラ、右側にはドクロとポピーの花が描かれている。それぞれ愛と死を象徴しているらしい。蝶々も舞っている。西洋文化に詳しければ、それらを見ただけで意味することがわかり、もっとこの絵のテーマを理解できるのかも知れない(たとえば義経と弁慶が戦っていれば、それは彼らが最初に出会った時だとわかるように)。残念ながら、そういう知識はないので単純にビジュアルで楽しむだけ。それでも柔和な女性像というだけでなく、何となくいわくありげな雰囲気は伝わってくる。
「祈りの後のマデライン」
ダニエル・マクリース
僅かに差し込む光で陰影を描き分けた作品。それはよくあるテクニックでも、ラファエル前派だから暗い部分を黒塗りにせずに、これでもかというくらい描き込んでいる。
「ドルチェ・ファール・ニエンテ(甘美なる無為)」
チャールズ・エドワード・ベルジーニ
甘美なる無為=何もしないけれど甘美ということだから、この絵はテーマや主張があるのではなく、ただただ美しい情景を追い求めた作品。そういう耽美主義的な作品を私は好きみたい。少し大げさだが、この絵の前で魂を抜かれたような感覚を覚えた。
写真に近いような綿密な描写である。でもやっぱりこの佇まいと雰囲気は絵画でないと表せないと思う。単にシャッターを切っただけでなく、時間をかけて描き込んだ美への執念のようなものが伝わってくる。
「シャクヤクの花」
チャールズ・エドワード・ベルジーニ
魂を抜かれた次はヨダレを垂らしていたかも知れない。モデルもシャクヤクもいうことなし。ラファエル前派の流儀に従って、ドレスの布地は触った感触がわかるくらいの細密さ。ラファエル前派を好きなのはこのリアリティ、情報量の多さによってわかりやすいからかも知れない。この絵は何を意味しているんだろうかと迷うことがない。
「夏の夜」
アルバート・ジョゼフ・ムーア
そして腰が抜けた(^^ゞ 描かれている女性はちょっとギリシャ風。モデルが4人いるのではなく、連続写真のように1名のいろいろなポーズを描いたという説もある作品。
幻想的そのものの女性に対して、背景の海はかなり写実的に描かれている。突き出している半島はなんとなく油壺の風景に似ているし、左側水平線に街の明かりがあるのが妙にリアル。女性を見て次に海を見ると、想像と現実の世界を行き来するようで、心地よいクラクラ感を味わえる。
ーーー続く
すっかり気に入ってラファエル前派の作品をもっと見たいと思った。しかし、たぶんマイナーな分野だろう。森アーツセンターギャラリーでの展覧会もガラガラだったし、まとまって作品を見る機会はそうそうないだろうと諦めていた。しかし予想に反して2年弱で新たな展覧会の開催。私にしては珍しく会期の早い段階、しかも休日に見に行ってきた。
ラファエル前派についてはあれこれと前回に書いたから、
興味があればそちらを参照して欲しい。
前回の展覧会その1
前回の展覧会その2
前回の展覧会その3
開催されているのは渋谷にある東急Bunkamura。渋谷駅から徒歩10分ほど離れたところにある東急百貨店の本店隣りに併設された文化施設。展覧会会場だけでなく音楽ホールや劇場、映画館などが入っている。
2本の巨大な柱に挟まれたのが東急Bunkamura。右隣は東急百貨店本店。道路に面している部分は狭いが内部で広がっている構造。
展覧会入り口で記念撮影。
「春(林檎の花咲く頃)」
ジョン・エヴァレット・ミレイ
ラファエル前派らしい細密な描写を堪能できる。パッと見は若い女性がピクニックを楽しんでいる風景。しかし右下の黄色いドレスを着て横たわっている女性の上には大きな鎌が描かれている。それが何を意味しているのかは不明だが、いったんそれに気がつくと絵の右下が気になって仕方がなくなる。まあそういう心理効果を狙ったのかな。この女性だけ服の色が他の人とかけ離れているし、目線もこっちをにらんでいる。ひょっとして地縛霊とか?
「ブラック・ブランズウィッカーズの兵士」
ジョン・エヴァレット・ミレイ
タイトルは兵士になっていても、これは女性が着ているドレスの光沢と質感をひらすら楽しむべき作品。ドレスはたぶんシルク・サテンの生地。でもアルミ箔のようにも見える(本物はこの写真よりもっとアルミ箔に見える)。ある意味ちょっとやり過ぎともいえる。しかし、このテクニックを見たら、そんな批評は忘れて脱帽せざるを得ない。ミレイのドヤ顔が目に浮かぶような作品。
「シビラ・パルミフェラ」
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
ロセッティといえば前回の展覧会その3で紹介した「プロセルピナ」が強烈な印象として残っている。あの目ヂカラ女性はジェイン・モリスという彼の不倫相手。この作品は彼女の優しい顔バージョンかと思ったらアレクサ・ワイデルリングという別のモデルらしい。私には同じ女性にしか見えないんだけれど、ロセッティは意外と芸風が狭い?
シビラとは巫女でパルミフェラは勝利を意味する椰子の葉。画面左側には目隠しされたキューピッドとバラ、右側にはドクロとポピーの花が描かれている。それぞれ愛と死を象徴しているらしい。蝶々も舞っている。西洋文化に詳しければ、それらを見ただけで意味することがわかり、もっとこの絵のテーマを理解できるのかも知れない(たとえば義経と弁慶が戦っていれば、それは彼らが最初に出会った時だとわかるように)。残念ながら、そういう知識はないので単純にビジュアルで楽しむだけ。それでも柔和な女性像というだけでなく、何となくいわくありげな雰囲気は伝わってくる。
「祈りの後のマデライン」
ダニエル・マクリース
僅かに差し込む光で陰影を描き分けた作品。それはよくあるテクニックでも、ラファエル前派だから暗い部分を黒塗りにせずに、これでもかというくらい描き込んでいる。
「ドルチェ・ファール・ニエンテ(甘美なる無為)」
チャールズ・エドワード・ベルジーニ
甘美なる無為=何もしないけれど甘美ということだから、この絵はテーマや主張があるのではなく、ただただ美しい情景を追い求めた作品。そういう耽美主義的な作品を私は好きみたい。少し大げさだが、この絵の前で魂を抜かれたような感覚を覚えた。
写真に近いような綿密な描写である。でもやっぱりこの佇まいと雰囲気は絵画でないと表せないと思う。単にシャッターを切っただけでなく、時間をかけて描き込んだ美への執念のようなものが伝わってくる。
「シャクヤクの花」
チャールズ・エドワード・ベルジーニ
魂を抜かれた次はヨダレを垂らしていたかも知れない。モデルもシャクヤクもいうことなし。ラファエル前派の流儀に従って、ドレスの布地は触った感触がわかるくらいの細密さ。ラファエル前派を好きなのはこのリアリティ、情報量の多さによってわかりやすいからかも知れない。この絵は何を意味しているんだろうかと迷うことがない。
「夏の夜」
アルバート・ジョゼフ・ムーア
そして腰が抜けた(^^ゞ 描かれている女性はちょっとギリシャ風。モデルが4人いるのではなく、連続写真のように1名のいろいろなポーズを描いたという説もある作品。
幻想的そのものの女性に対して、背景の海はかなり写実的に描かれている。突き出している半島はなんとなく油壺の風景に似ているし、左側水平線に街の明かりがあるのが妙にリアル。女性を見て次に海を見ると、想像と現実の世界を行き来するようで、心地よいクラクラ感を味わえる。
ーーー続く
2016年01月10日
今年の初乗りは南房総へ
11月の終わりからバイクに乗っていないので、そこそこの距離を走るルートで考えてみた。メインディッシュは2つ。まず館山にある北条海岸から富士山を眺めること。以前に行った時は曇り空で見えなかったが、本日の天気予報は快晴ということで期待。2つめは菜の花が咲いたフラワーラインを走ること。南房総では何本かの道路がフラワーラインと名付けられている。そのうち 平砂浦(へいさうら)の海岸沿いでは道路両サイドに菜の花が植えられている。そこを走ったことは何度かあるが菜の花シーズンには訪れていなかった。今年は暖冬なので既に咲いているとの情報。
ところで暖冬といえば今冬は富士山に雪が少ないらしい。山頂付近でも山肌が見えている状態。1月9日に撮られたと思われる写真を見つけたのでリンクを張っておく。冬の富士といえばこんなイメージしかないので現在の姿はショックですらある。やっぱり異常気象?
ルートは走ったことがあるものばかり。アクアラインで東京湾を渡り、往きは館山自動車道で南下する(地図でグリーンのルート)。終点の富浦インターで降りて少し走ると館山市に入る。海岸沿いの内房なぎさラインを通って北条海岸までは15分くらい。その後は東へ進んで安房グリーンラインという広域農道で南下(地図で紫のルート)。グリーンラインを抜けたら、房総半島の海沿いをなぞるように走るフラワーラインで反時計回りに進み、平砂浦(へいさうら)で菜の花を見て、そのまま海沿いに北条海岸まで戻る。帰りは一般道を使って君津から高速道路。君津までこの東京湾沿いの道路も内房なぎさラインという名前。アクアライン〜なぎさライン〜グリーンライン〜フラワーラインと、ラインづくしのツーリング。
午前11時半頃出発。気温12度。日差しがあるので寒さはまったく感じない。アクアラインのトンネルに入って「さあ暑くなるぞ」と身構えていたら25.5度までしか上がらなかった。換気を改善したのか? やればできるのなら首都高の山手トンネルも見習って欲しい。
1時半に北条海岸到着。
富士山はいずこに(/o\)
またも空振り。北条海岸とは相性が悪いみたい。天気はよいのだが何となく遠くは霞がかかっている感じ。暖冬で海面から上がる水蒸気の量が多いのかなあ。
仕方ないので流木やボートを見て海岸をウロウロする。
しかし2本目の流木はどうして焦げているんだろう?
富士山は見られなかったけれど海はきれいだった。ポットに入れてきた珈琲を飲みながらしばらくボーッとする。これがなかなか至福の時間。
北条海岸から県道128号線で東へ進む。この県道は外房黒潮ラインという名前。本日のラインづくしに1本追加。「稲交差点」と交差点という名前の付いた交差点を右折して踏切を渡れば安房グリーンライン。ここはいわゆる広域農道。前回来た時は南から北上したが、今回は逆方向に南下する。ほとんど貸し切り状態だったが、何台か超ハイスピードで走っているバイク集団あり。彼らはグリーンラインを行ったり来たりして走っているみたいだった。私は暴走する気はないし暴走するテクニックもない。
グリーンラインの南側終点近くの駐車場。ここは暴走練習している皆さんのUターン場所でもある。広域農道なのに観光道路のような駐車場があるのは、
向かいにこんなものがあるから。
ちなみに道路の赤線はコーナーでスピードを出さないようにデコボコをつけるためのもの。
これが海底地すべり地層。
ウ〜ン、わざわざバイク駐めて見るほどのものではなかったな。
いつもならこういう案内看板を熱心に読むのだが、今回は記念に撮っただけ。
安房グリーンラインから国道410号線に出る。この房総半島南端の410号線は海のすぐそばにあって緩いカーブが連続する。まさにシーサイドツーリングの醍醐味を味わえる道。
野島崎灯台を過ぎた先に駐車場があったのでバイクを駐める。
久し振りの太平洋。湘南の相模湾も太平洋なんだけれど、どうもそういう気がしない。なぜか外房の海を見ると太平洋!という感じがする。
砂の色は割と明るめ。大きな石多し。
砂の模様を楽しむ。
何かが立っている謎の構造物。肉眼でも海面に光が反射してよく見えなかった。
東京湾内の北条海岸と較べると、やはり海の動きがダイナミック。
小さく野島崎灯台が見えている。
海沿いのいい道。
しかし砂に注意(/o\)
国道410号線から県道257号線に入ると平砂浦(へいさうら)のフラワーライン。
菜の花が始まったところでBMW F800Rと記念撮影。
この後、数キロにわたって延々と道路の両サイドに菜の花が咲いていて、走っているととても楽しい気分になる。しかしまだ3分咲き程度だし、細長く植えられていて面としてのボリュームもないので写真に撮ってみると意外とショボかった。満開になるのは2月になってからかな。
その後も257号線で海岸沿いに進む。最西端である洲崎を回り北上すると本日最初の目的地だった北条海岸を通る。
なぜまたバイクを降りたかというと、
シルエットだけだが富士山が見えたから。
クリックで写真を拡大したらセンター部分に薄く写っているのがわかるはず。肉眼ではもう少しはっきり見えていた。富士山の大きさはだいたい写真のサイズ感通り。東京湾と相模湾をまたいだ先にあるのにかなり大きく見える。
北条海岸にいたのは午後3時過ぎあたり。帰りはまた富浦インターから館山自動車道に乗ってもよかったが、日の明るいうちは房総半島西海岸沿いの国道127号線で北上することにした。のんびりと久し振りのバイクツーリングを味わう。
やがて暗くなってきたので君津インターから館山自動車道に乗りアクアライン。アクアラインで東京湾の上を走っていると夕日に照らされた富士山がキレイに見えた。127号線がところどころ渋滞しており北条海岸をでてからかなり長くバイクに乗っていたのもあって、東京湾のど真ん中にある海ほたるで小休止。
フードコーナーや土産物屋をひやかして、
一番上の展望デッキに出ると、
夕日でシルエットになった富士山がクッキリと。時刻は5時半頃。もう新年気分はないが、走り始めのツーリングで富士山を見るのはやはり気分がいい。
午後7時前に帰宅で走行240キロ。去年は天候に恵まれずあまりバイクに乗れなかった。今年は暖冬だから冬でもツーリングできればいいなと思っている。
ところで暖冬といえば今冬は富士山に雪が少ないらしい。山頂付近でも山肌が見えている状態。1月9日に撮られたと思われる写真を見つけたのでリンクを張っておく。冬の富士といえばこんなイメージしかないので現在の姿はショックですらある。やっぱり異常気象?
ルートは走ったことがあるものばかり。アクアラインで東京湾を渡り、往きは館山自動車道で南下する(地図でグリーンのルート)。終点の富浦インターで降りて少し走ると館山市に入る。海岸沿いの内房なぎさラインを通って北条海岸までは15分くらい。その後は東へ進んで安房グリーンラインという広域農道で南下(地図で紫のルート)。グリーンラインを抜けたら、房総半島の海沿いをなぞるように走るフラワーラインで反時計回りに進み、平砂浦(へいさうら)で菜の花を見て、そのまま海沿いに北条海岸まで戻る。帰りは一般道を使って君津から高速道路。君津までこの東京湾沿いの道路も内房なぎさラインという名前。アクアライン〜なぎさライン〜グリーンライン〜フラワーラインと、ラインづくしのツーリング。
午前11時半頃出発。気温12度。日差しがあるので寒さはまったく感じない。アクアラインのトンネルに入って「さあ暑くなるぞ」と身構えていたら25.5度までしか上がらなかった。換気を改善したのか? やればできるのなら首都高の山手トンネルも見習って欲しい。
1時半に北条海岸到着。
富士山はいずこに(/o\)
またも空振り。北条海岸とは相性が悪いみたい。天気はよいのだが何となく遠くは霞がかかっている感じ。暖冬で海面から上がる水蒸気の量が多いのかなあ。
仕方ないので流木やボートを見て海岸をウロウロする。
しかし2本目の流木はどうして焦げているんだろう?
富士山は見られなかったけれど海はきれいだった。ポットに入れてきた珈琲を飲みながらしばらくボーッとする。これがなかなか至福の時間。
北条海岸から県道128号線で東へ進む。この県道は外房黒潮ラインという名前。本日のラインづくしに1本追加。「稲交差点」と交差点という名前の付いた交差点を右折して踏切を渡れば安房グリーンライン。ここはいわゆる広域農道。前回来た時は南から北上したが、今回は逆方向に南下する。ほとんど貸し切り状態だったが、何台か超ハイスピードで走っているバイク集団あり。彼らはグリーンラインを行ったり来たりして走っているみたいだった。私は暴走する気はないし暴走するテクニックもない。
グリーンラインの南側終点近くの駐車場。ここは暴走練習している皆さんのUターン場所でもある。広域農道なのに観光道路のような駐車場があるのは、
向かいにこんなものがあるから。
ちなみに道路の赤線はコーナーでスピードを出さないようにデコボコをつけるためのもの。
これが海底地すべり地層。
ウ〜ン、わざわざバイク駐めて見るほどのものではなかったな。
いつもならこういう案内看板を熱心に読むのだが、今回は記念に撮っただけ。
安房グリーンラインから国道410号線に出る。この房総半島南端の410号線は海のすぐそばにあって緩いカーブが連続する。まさにシーサイドツーリングの醍醐味を味わえる道。
野島崎灯台を過ぎた先に駐車場があったのでバイクを駐める。
久し振りの太平洋。湘南の相模湾も太平洋なんだけれど、どうもそういう気がしない。なぜか外房の海を見ると太平洋!という感じがする。
砂の色は割と明るめ。大きな石多し。
砂の模様を楽しむ。
何かが立っている謎の構造物。肉眼でも海面に光が反射してよく見えなかった。
東京湾内の北条海岸と較べると、やはり海の動きがダイナミック。
小さく野島崎灯台が見えている。
海沿いのいい道。
しかし砂に注意(/o\)
国道410号線から県道257号線に入ると平砂浦(へいさうら)のフラワーライン。
菜の花が始まったところでBMW F800Rと記念撮影。
この後、数キロにわたって延々と道路の両サイドに菜の花が咲いていて、走っているととても楽しい気分になる。しかしまだ3分咲き程度だし、細長く植えられていて面としてのボリュームもないので写真に撮ってみると意外とショボかった。満開になるのは2月になってからかな。
その後も257号線で海岸沿いに進む。最西端である洲崎を回り北上すると本日最初の目的地だった北条海岸を通る。
なぜまたバイクを降りたかというと、
シルエットだけだが富士山が見えたから。
クリックで写真を拡大したらセンター部分に薄く写っているのがわかるはず。肉眼ではもう少しはっきり見えていた。富士山の大きさはだいたい写真のサイズ感通り。東京湾と相模湾をまたいだ先にあるのにかなり大きく見える。
北条海岸にいたのは午後3時過ぎあたり。帰りはまた富浦インターから館山自動車道に乗ってもよかったが、日の明るいうちは房総半島西海岸沿いの国道127号線で北上することにした。のんびりと久し振りのバイクツーリングを味わう。
やがて暗くなってきたので君津インターから館山自動車道に乗りアクアライン。アクアラインで東京湾の上を走っていると夕日に照らされた富士山がキレイに見えた。127号線がところどころ渋滞しており北条海岸をでてからかなり長くバイクに乗っていたのもあって、東京湾のど真ん中にある海ほたるで小休止。
フードコーナーや土産物屋をひやかして、
一番上の展望デッキに出ると、
夕日でシルエットになった富士山がクッキリと。時刻は5時半頃。もう新年気分はないが、走り始めのツーリングで富士山を見るのはやはり気分がいい。
午後7時前に帰宅で走行240キロ。去年は天候に恵まれずあまりバイクに乗れなかった。今年は暖冬だから冬でもツーリングできればいいなと思っている。
2016年01月09日
a は不要らしい
A HAPPY NEW YEARという表現を習ったか知ったのは中学生の頃だったと思う。数えられる名詞が単数の時に a という不定冠詞をつける文法は既に知っていたが、明けましておめでとうという挨拶に a をつけることには強烈な違和感があったのを覚えている。
でもこのA HAPPY NEW YEARのAは「明けましておめでとう」と声に出して挨拶したり年賀状に書く分には不要らしい。というか、そういう場合にAをつけるのは英語を母国語とする人にとっては違和感がある日本風な英語とのこと。
復習しておくと、日本語と違って英語は数えられる名詞か、数えられない名詞かの区分が厳格で、数えられる可算名詞で単数の場合は例えば、
a book どの本か特定しない1冊の本
the book その本と特定した1冊の本
と定冠詞(the)や不定冠詞(a)で、その本の属性を表現する。もちろんmy bookとかthis bookなど冠詞を使わないこともあるが、その説明は省略。
A HAPPY NEW YEARの a はyearにかかっている。yearは1年〜2年と数えられるので a がつく。丸覚えしていて、そんなこと考えたことがない人のほうが多いんじゃないかな。
なぜか英語での仕事が多くなってしまったが、私の英語は相当メチャクチャで「英語ができるのですか?」と尋ねられたら「英語に似たような言葉ができます」と答えるようにしている(^^ゞ 5年くらい前に英文科の女子大生がバイトでいた時、大事なメールを出す前に英語の添削をしてもらっていて、よく a や the が抜けていると指摘された。ある時「そんなものなくても意味は通じるから、もっと大事なところで間違えていないか確認してちょうだい」というと、彼女に「a や the がないと読んでいて気持ちが悪いんです」と言われた。英語ができる人の感覚とはそんなものかと知り、それからは気をつけるようにしている。
しかし冠詞というのはかなり難しいのである。英語教育では俗に「前置詞3年、冠詞8年」といわれるくらい。前置詞より難しいのだからマスターは絶望的。例えば使い方によっては a 50%〜とパーセントの数字にも a をつけるのだから意味ワカラン(/o\)
A HAPPY NEW YEARの a に話を戻すと、Merry Christmasに a をつけないのと同じ理由。これは
I wish you a merry Christmas という文章が
Merry Christmas に短縮されたもの。
A Merry Christmasという表現は聞いたことがないはず。Merry Christmasという掛け声的な挨拶言葉の場合には a が省略されるというルールに英語はなっているらしい。それと同じように
I wish you a happy new year
Happy new year
になるという理屈。日本語で言うなら「新年のお慶びを申し上げます」なら a が必要だが「明けましておめでとう」ならいらないというような感覚。
ついでに書くと wish は願うとか祈るとか、そうなって欲しいという意味。merry は楽しい。最大の疑問は a をつけるクリスマスは「数えられるのか」ということだが、実は数えられない不可算名詞。しかし形容詞を伴う場合は a が必要となる。やっぱり前置詞3年、冠詞8年は本当である。
今年に来た年賀状を調べてみると英文が書いてあったうち、a happy new yearが2割で a のないhappy new yearが8割だった。年賀状に書く場合は挨拶というよりデザインだろうが、それでも昔はhappy new yearとすると、a が必要といわれた気がする。知らないうちに日本の英語レベルも向上していたか。でもある企業の2つの事業部から年賀状をもらったけれど、1つは a happy new year で1つは happy new year だったから、まあ適当なものである。ちなみにその企業は外資系なのが笑える。
もう今年が9日も過ぎてしまった。あ〜あ
でもこのA HAPPY NEW YEARのAは「明けましておめでとう」と声に出して挨拶したり年賀状に書く分には不要らしい。というか、そういう場合にAをつけるのは英語を母国語とする人にとっては違和感がある日本風な英語とのこと。
復習しておくと、日本語と違って英語は数えられる名詞か、数えられない名詞かの区分が厳格で、数えられる可算名詞で単数の場合は例えば、
a book どの本か特定しない1冊の本
the book その本と特定した1冊の本
と定冠詞(the)や不定冠詞(a)で、その本の属性を表現する。もちろんmy bookとかthis bookなど冠詞を使わないこともあるが、その説明は省略。
A HAPPY NEW YEARの a はyearにかかっている。yearは1年〜2年と数えられるので a がつく。丸覚えしていて、そんなこと考えたことがない人のほうが多いんじゃないかな。
なぜか英語での仕事が多くなってしまったが、私の英語は相当メチャクチャで「英語ができるのですか?」と尋ねられたら「英語に似たような言葉ができます」と答えるようにしている(^^ゞ 5年くらい前に英文科の女子大生がバイトでいた時、大事なメールを出す前に英語の添削をしてもらっていて、よく a や the が抜けていると指摘された。ある時「そんなものなくても意味は通じるから、もっと大事なところで間違えていないか確認してちょうだい」というと、彼女に「a や the がないと読んでいて気持ちが悪いんです」と言われた。英語ができる人の感覚とはそんなものかと知り、それからは気をつけるようにしている。
しかし冠詞というのはかなり難しいのである。英語教育では俗に「前置詞3年、冠詞8年」といわれるくらい。前置詞より難しいのだからマスターは絶望的。例えば使い方によっては a 50%〜とパーセントの数字にも a をつけるのだから意味ワカラン(/o\)
A HAPPY NEW YEARの a に話を戻すと、Merry Christmasに a をつけないのと同じ理由。これは
I wish you a merry Christmas という文章が
Merry Christmas に短縮されたもの。
A Merry Christmasという表現は聞いたことがないはず。Merry Christmasという掛け声的な挨拶言葉の場合には a が省略されるというルールに英語はなっているらしい。それと同じように
I wish you a happy new year
Happy new year
になるという理屈。日本語で言うなら「新年のお慶びを申し上げます」なら a が必要だが「明けましておめでとう」ならいらないというような感覚。
ついでに書くと wish は願うとか祈るとか、そうなって欲しいという意味。merry は楽しい。最大の疑問は a をつけるクリスマスは「数えられるのか」ということだが、実は数えられない不可算名詞。しかし形容詞を伴う場合は a が必要となる。やっぱり前置詞3年、冠詞8年は本当である。
今年に来た年賀状を調べてみると英文が書いてあったうち、a happy new yearが2割で a のないhappy new yearが8割だった。年賀状に書く場合は挨拶というよりデザインだろうが、それでも昔はhappy new yearとすると、a が必要といわれた気がする。知らないうちに日本の英語レベルも向上していたか。でもある企業の2つの事業部から年賀状をもらったけれど、1つは a happy new year で1つは happy new year だったから、まあ適当なものである。ちなみにその企業は外資系なのが笑える。
もう今年が9日も過ぎてしまった。あ〜あ
2016年01月06日
背中に猿を背負うな
テニスの錦織圭が座右の銘にしている言葉とのこと。
正月に放送された「天才アスリート・勝利の言葉」という番組で知った。酔っぱらってうたた寝しながら見ていたので、あまり番組内容は覚えていない。しかし背中に猿を背負うなとは「何それっ?」と思う表現であるし、また今年は申年(さるどし)なのでこの言葉は印象に残った。
錦織圭によると意味しているのはシンプルで、試合で余計なことを考えたり、必要以上のプレッシャーを感じるなとの言葉のよう。ジュニア時代のコーチに言われたとかで、別に猿じゃなくてゴリラでも何でもいいらしい。つまり猿に深い意味はなく、余計なことを背負うと、それが重荷になって実力が出せないというようなニュアンスで番組は伝えていた。あくまでキモは猿ではなく背負うの部分。しかし猿知恵=浅はかを意味する表現もあるから、雑念や無駄なプレッシャーを猿レベルの役に立たない思考として、それに惑わされるなと諭しているような気もする。
テニスに限らず他のスポーツでもビジネスでも人生でも、猿に惑わされたら正確な状況認識ができない。それについて反論する人はいないだろう。ただし状況認識とは手段であって、その目的は正確な状況認識に基づいて合理的な判断をすることにあるはず。
しかし難しいんだなあ、これが。
感情という非合理的なものが判断に影響する。ありとあらゆる固定観念や慣習から逃れられない。合理的とはいえない規範や規律に取り囲まれている。合理性を超えた「事情」が常に存在する(^^ゞ
というわけで合理的でない判断を積み重ねて、積み重ねて「今日」がある。もうこうなると非合理の固まりである。合理的な判断を自分自身が受け入れられないことも多い。合理的な判断は(相手や周りに)通用しないからと諦める場合もある。
猿を背負っているとはあまり思っていないけれど、その先がサルだったら同じかと正月早々から反省(/o\) 今年は申年だから「頭に猿をのせるな」をテーマにしてみようかと考えている。
遅ればせながらHappy New Year!
正月に放送された「天才アスリート・勝利の言葉」という番組で知った。酔っぱらってうたた寝しながら見ていたので、あまり番組内容は覚えていない。しかし背中に猿を背負うなとは「何それっ?」と思う表現であるし、また今年は申年(さるどし)なのでこの言葉は印象に残った。
錦織圭によると意味しているのはシンプルで、試合で余計なことを考えたり、必要以上のプレッシャーを感じるなとの言葉のよう。ジュニア時代のコーチに言われたとかで、別に猿じゃなくてゴリラでも何でもいいらしい。つまり猿に深い意味はなく、余計なことを背負うと、それが重荷になって実力が出せないというようなニュアンスで番組は伝えていた。あくまでキモは猿ではなく背負うの部分。しかし猿知恵=浅はかを意味する表現もあるから、雑念や無駄なプレッシャーを猿レベルの役に立たない思考として、それに惑わされるなと諭しているような気もする。
テニスに限らず他のスポーツでもビジネスでも人生でも、猿に惑わされたら正確な状況認識ができない。それについて反論する人はいないだろう。ただし状況認識とは手段であって、その目的は正確な状況認識に基づいて合理的な判断をすることにあるはず。
しかし難しいんだなあ、これが。
感情という非合理的なものが判断に影響する。ありとあらゆる固定観念や慣習から逃れられない。合理的とはいえない規範や規律に取り囲まれている。合理性を超えた「事情」が常に存在する(^^ゞ
というわけで合理的でない判断を積み重ねて、積み重ねて「今日」がある。もうこうなると非合理の固まりである。合理的な判断を自分自身が受け入れられないことも多い。合理的な判断は(相手や周りに)通用しないからと諦める場合もある。
猿を背負っているとはあまり思っていないけれど、その先がサルだったら同じかと正月早々から反省(/o\) 今年は申年だから「頭に猿をのせるな」をテーマにしてみようかと考えている。
遅ればせながらHappy New Year!