2016年06月

2016年06月28日

カラヴァッジョ展 日伊国交樹立150周年記念 その2

前回のエントリーで書いた、カラヴァッジョの革命的影響のもう1つが光によるの明暗の描き分け。陰影法や明暗法などと聞くとレンブラントを真っ先に思い浮かべるが、先駆けはカラヴァッジョらしい。(レンブラントはカラヴァッジョの35年後に生まれた) もちろん明暗の描き分けというのは人類が絵を描き出した時から始まっているもので、ここで意味しているのはスポットライトを当てたような演出効果のこと。


「エマオの晩餐」  1606年
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エマオとは地名。キリストの弟子(左右に座っている二人)がエマオの宿屋で、ある男(左から2番目)と一緒に食事をすることになる。実は彼は磔(はりつけ)から復活したキリストなのだが、なぜか弟子は気付いていなかった。それでパンを分ける時になって「あっ、あなたは!」と気付いてビックリしているシーン。次の瞬間にキリストは見えなくなったとのこと。

弟子のくせになぜキリストだと気付かなかったのか、聖書のストーリーには無理がある気がするけれど、それはともかくこのスポットライト的に陰影を描き分けた絵が、例えば前エントリーの肖像画と較べたら何百倍ものインパクトを当時の人々に与えたことは想像がつく。光と影の対比は単に明るさの違いや対象の強調ではなく、3次元的な空間の広がりを感じさせるための表現でもある。そういえば子供の頃、初めて立体シールを見た時はとても驚いたものだ。


「エッケ・ホモ」  1605年
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エッケ・ホモはラテン語で「この人を見よ」という意味。無理やり英語にすればLook at himかな。磔になる前にキリストが民衆の前に連れ出され「こいつがキリストだ」と紹介?されるシーンは多くの宗教画で描かれている。

「エマオの晩餐」のように差し込む光ではないから光線としては意識しないが、明暗の描き方はドラスティック。絵だと本物のスポットライトより自由に光をコントロールできる利点がある。ところでカラヴァッジョは「エマオの晩餐」でもそうであるが、歳を取った人物の表現として額にたくさんのシワを描くのが好きみたい。またキリストを指してエッケ・ホモといっているのは古代ローマ帝国の将軍か提督のはずなのに、服装は中世的な印象を受ける。カラヴァッジョはそんなことは気にしなかったのか、何か狙いがあったのだろうか。



「法悦のマグダラのマリア」  1606年
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模写によって存在はよく知られていたが、カラヴァッジョの死後400年以上も所在が不明だった作品で2014年に発見された。個人が所有しており一般公開されるのはこれが世界で初めて。

マグダラのマリアの説明は省略するが、聖書に登場している中で評価の一定しない人物。多くの画家が描いていて、その画家が彼女に抱く印象によって知的であったり官能的であったり悪女的であったりするのがおもしろい。それだけ想像力をかき立てられる魅力的な存在ということでもある。映画のダヴィンチ・コードではキリストの子を産んで、その子孫が今も存在するという設定で物議を醸した。

見ての通りマリアは完全にイッちゃってる。法悦という日本語のタイトルだが英語ではMary Magdalene in Ecstasy。エクスタシーは悦びで宗教的な法悦も性的なものも含まれるけれど、私が訳すなら「恍惚のマグダラのマリア」にするかな。とにかく強烈なオーラを放っている絵で、じっと見ているとこっちまで頭がボーッとしてくる。マリアを恍惚状態で表現するアイデアは誰でも思いつくかもしれないが、このリアリティがあってかつ幻想的な描写はカラヴァッジョのテクニックがあってこそだと思える。偶然だが白と赤の衣装は巫女と同じ。描かれているのが巫女だと思って眺めると、この絵の狂気や背徳感がいっそう感じれれる。ふすまを開けて、もしこんな巫女がいたらーーーと想像できるのは日本人だけの特権。



全51作品のうち40点がカラヴァッジョ以外の作品と書いたが、それは「カラヴァジェスキ」と呼ばれる彼を信奉していた当時の画家達によるもの。カラヴァジェスキーーー「カラヴァッジョ好き」となぜか日本語的な語感(^^ゞ そしてこのカラヴァジェスキが皆腕達者。いってみれば展覧会全体がカラヴァッジョ・ワールドなわけで、展示作品数は多くはなかったものの、とても密度の濃い鑑賞を楽しめた。


バルトロメオ・マンフレーディ「キリストの捕縛」1613〜15年
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ヘリット・ファン・ホントホルスト 「キリストの降誕」1620年
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オラツィオ・ジェンティレスキ「スピネットを弾く聖チェチリア」1618年
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カラヴァッジョに自画像はなく、これは作者不詳の肖像画。1617年頃の作品だから、これもカラヴァジェスキによるもの。イタリアではユーロではなくリラの時代に、お札のデザインに使われていた時期もあって彼の人気やポジションが伺える。
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しかし17世紀以降の西洋絵画に革命的影響を与えたといわれ、カラヴァッジョがいなければルーベンスやレンブラントも存在しなかったと最大級の名声を得ている彼であるが、実は死後しばらくしてからつい最近まで忘れさられた存在だったというから驚く。亡くなってから350年ほど経った1951年のミラノでの展覧会に作品が出品されて一気に再評価が始まったらしい。世間の評価なんて当てにならないものだと思うと同時に、ひょっとしたら今は忘れられている素晴らしい画家がまだいるのかもしれないと想像してしまう。


ところで私は画家の作風・芸風を楽しむところがある。ラファエロにしてもルノアールにしても一目見て「彼の作品だ」とわかるオリジナリティがある。そのオリジナリティがあるかどうか、またそれが私の趣味に合うかどうかで画家の価値を判断しているような気もする。でもバロック期は写実的な時代なので、そういったわかりやすいオリジナリティはない。私の目が肥えていないといえばそれまでだが、カラヴァッジョの作品の素晴らしさは感じたつもりでも、画家そのもののイメージをつかみにくいというのが困ったところ。それはルーベンスやレンブラントに対しても同じ。ただフェルメールもバロック期であるが、テーマや構図にオリジナリティがあるというかワンパターンだからわかりやすい。

現存するカラヴァッジョの作品は60〜80点ほどといわれる。教会の壁に描かれていて運び出せないものも多く(そんなところに描かれているのに350年も忘れられていたというのも解せないのだが)、展覧会用に移動可能なのは30点ほどらしい。ということはフェルメールの作品数と同じ程度。日本ではフェルメールの作品がひとつあれば「フェルメール展」とネーミングされて大勢の人がやってくるけれど、ヨーロッパでのカラヴァッジョも同じような状況らしい。だから今回、彼の作品を11点もまとめて見られたのは貴重な体験だった。また「法悦のマグダラのマリア」を見たことは一生忘れないような気もする。フェルメール程度の頻度で、これからもカラヴァッジョの作品を見られる機会があることを願いたい。


おしまい

wassho at 07:12|PermalinkComments(0) 美術展 

2016年06月26日

カラヴァッジョ展 日伊国交樹立150周年記念

6月も末になってきたがーーー
5月3日に上野公園に行き、黒田清輝展と共に見てきた展覧会のお話。


カラヴァッジョはミラノ生まれのイタリア人。生まれたのは信長が比叡山を焼き討ちした1571年。フルネームはミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ。あのミケランジェロ(ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ)と同じ名前。ミケランジェロってイタリアじゃポピュラーな名前なのかな? それとあのミケランジェロはなぜ名前(ファーストネーム)で呼ばれるんだろう。

それはともかくミケランジェロがルネサンスの巨匠中の巨匠だとすれば、カラヴァッジョはルネサンスに続くバロックと呼ばれた時代を切り開いた、これまた巨匠中の巨匠だといわれている。美術に詳しい人ほどカラヴァッジョの評価が高く、17世紀以降の西洋絵画に革命的影響を与えた人物だといわれている。でもミケランジェロなら誰でも知っていても、カラヴァッジョの世間一般的な知名度はそんなに高くないだろう。私も何となく知っていた程度。

ただし、この展覧会に合わせてテレ東の「美の巨人たち」、NHKの「日曜美術館」の2大美術テレビ番組でカラヴァッジョが紹介されたし、さらにNHKでは彼の生涯を追ったドキュメント番組も製作された。ちなみにNHKはこの展覧会の主催者に名前を連ねている。放送の私物化ですな(^^ゞ そんなこんなで、それなりの予備知識は持って展覧会を訪れたし、テレビで知った「法悦のマグダラのマリア」を見られることにはとても期待していたのである。



「女占い師」  1597年
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タイトルを知らなければ占いをしているようには見えないし、タイトルを知っても女が占い師には見えない。ヨーロッパの人は彼女の服装で占い師だとわかるのかな。ところでこれはまじめに占いをしているのではなく、占いをする振りをして女が男の指輪を盗もうとしているシーンらしい。説明がないとまったく違うイメージでとらえてしまう絵である。


この絵は一番最初に展示されていた。絵そのものにはそれほど興味を引かれなかったのだが、同じ日に見た黒田清輝とまったく違うことが印象的だった。もちろん両者の優劣ということではなく、何が違うかというと見応え。言い換えると満腹感。例えるなら和食と西洋料理の違い。西洋人画家が描く絵のすべてコッテリというわけではまったくないが、カラヴァッジョはバターやクリームをたっぷり使った濃厚ソースのフランス料理といった感じ。


カラヴァッジョが「17世紀以降の西洋絵画に革命的影響を与えた」といわれる由縁は、その写実的表現と光の明暗を描き分ける手法にあるらしい。次の3枚は写実的表現の一例。人物も描かれているが注目するのは手前の植物や果物のほう。

「トカゲに噛まれた少年」  1596〜97年
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ガラスの花瓶に水が入っているーーーこういう描き方は今では見慣れたものだが、当時は腰を抜かすくらいのリアリティと感じたのかも。


「果物籠を持つ少年」  1593〜94年
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「バッカス」  1597〜98年
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カラヴァッジョより400年ほど後に生きていて、さまざまな絵を知っているからその細密さに驚きはしないが、それでもこれらに描かれた果物は見事。それはそれとして3枚ともモデルが男性だが、何となく同性愛的なイメージにも思える。また日本人としてはバッカスのヘアスタイルが文金高島田みたいでユーモラスな印象を受けてしまう。

ちなみにバッカスは酒の神様でワインを勧めるかのようにグラスを差し出している。ブログに貼り付けた写真では小さくてわからないが、実はワインが揺れてグラスの中で波打っているところまで描かれている芸の細かさ。ところで昔のワイングラスは広口だったのか、波打っているところを描くために広口にしたのかどっちなんだろう。



「ナルキッソス」  1599年
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ナルシストの語源でもあるギリシャ神話のナルキッソス。たぐいまれなる美貌だが傲慢な行いを重ねたので、神様から自分しか愛せないという罰を与えられたというか呪いをかけられる。そんな状況になっていると知らないナルキッソスが泉で水を飲もうとした時、水面に映った自分の姿に恋をしてしまう。そして、その場所から離れなくなって餓死したとか、水面の自分にキスしようとして泉に落ちて溺死したというのが神話のストーリー。

なんだけれどカラヴァッジョのこの絵は、
なぜかナルキッソスがたいしてイケメンじゃない(^^ゞ


「マッフェオ・バルベリーニの肖像」  1596年
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肖像画はカラヴァッジョ以外の画家のほうがよかったかな。

この展覧会は51作品が展示されており、そのうち11点がカラヴァッジョの作品。全部で7つのテーマに分けられており、平均すれば各テーマにカラヴァッジョの絵が1〜2点あり、同時代の他の画家のが6点ほどといった構成。


ーーー続く

wassho at 14:36|PermalinkComments(0) 美術展 

2016年06月18日

湯河原 吉浜〜こごめの湯〜熱海 その2

玄関にある靴ロッカーの鍵は4桁の暗証番号をダイヤルでセットする方式。つまり手に持てる鍵や札はないからロッカーの番号を覚えておかねばならず、ちょっと面倒。バイクブーツ代わりに履いているハイカットの安全靴も横にしたら入れることができた。ちなみにスリッパはなく館内は裸足で歩かされる。


その先のカウンターで1000円の入場料を払う。このページにアクセスしてスマホに割引券を保存しておけば900円になる。保存してあったのに、カメラを落として動揺したのか、そのことをすっかり忘れて1000円を払ってしまった。「割引券をお持ちですか?」くらい尋ねてくれればいいのに。

その代わりに?尋ねられたのはタオルは持っているかどうかということ。1000円にタオルは含まれず有料のレンタルもなく、タオル200円・バスタオル500円の販売のみ。こういうところへ来たのは初めてなので、そういう仕組みや価格が妥当なのかどうかはよくわからない。もっとも事前に調べてあったのでこの日はタオル持参。ハイテク繊維のタオルでかなり薄いのだが、それでもタオルとバスタオルのセットだとかさばる。

バイクには前回のエントリーで書いた白黒のディパックの前方に、黒い大型のウエストバッグもくくりつけてあって普段はカッパが入っている。カッパを抜いてタオルを入れて運んできた。クルマと違ってバイクは荷物運びに苦労する。ちなみにツーリング途中で激しい雨に遭遇したことは何度かあるが、面倒くさいので今までカッパを着たことは一度もない。


お風呂に入る前に、昭和な旅館情緒?漂う食堂で遅めのランチ。
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お腹も空いていたが、駐車場で落としてしまったレンズのダメージを落ち着いて確認したいという気持ちもあった。観察するとレンズのボディはいくつかの筒が連結して構成されている。コンクリート地面と接触して一部がへこんでしまった筒と、隣の筒との接合面に数ミリの隙間ができていることを発見。グッと押し込んだらかなり戻ったが、1ミリ程の隙間がまだ残る。これ以上は凹んだ部分を元に戻さないと無理。この隙間からホコリや水滴がレンズ内部に入る悪影響があるのか、修理に出したらいくらかかるのか、あるいは凹みを自分で直せるのかなどは今後の検討課題。ヤレヤレ(/o\)

ところで担々麺(たんたんめん)は挽肉と辛いスープが特徴のラーメン。湯河原はその担々麺の焼きそば版をご当地名物にしているらしい。あまり聞いたことがないからスベってるぽいが。この食堂では坦々焼きそばよりも、イカソース焼きそばが写真入りでアピールされていたのでそれを頼んだ。出てきたのはイメージしていた「イカソース」の焼きそばではなく、「具にイカも入っているソース焼きそば」だった(^^ゞ まっ、そこそこおいしかったけれど。



いよいよ温泉タイム。脱衣場には脱衣カゴの他にコインロッカーがある。お金を入れて鍵を閉め、鍵を開けたらお金が戻ってくる方式ではなく、きっちり100円取られる。

こごめの湯は内湯と露天風呂が続きになったお風呂が2つある。日によって男湯と女湯を入れ替えているらしい。ホームページでは景色がよく見えて開放感溢れる造りだが、当日の男湯はそちらではなかった。

写真では日が差し込んで撮られているが、実際にはかなり暗い。特に露天風呂は壁に囲まれていてちょっと閉塞感あり。(写真は http://shizuoka.mytabi.net/onsen/hakone/archives/kogomenoyu.php より拝借)
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お湯に浸かった最初の感想は「ぬるい!」。デジタル式の湯温表示があって39度だった。露天風呂には、お湯がチョロチョロと浴槽(という表現はおかしいかもしれないが)に落ちてくるところがあって、そのお湯は触れられないくらい熱い。だからそのお湯が落ちてくるすぐ近くに陣取って、ほとんどを露天風呂で過ごした。昔は熱いお風呂が苦手だったが、今は熱めが好き。皮下脂肪の断熱効果皮下脂肪の断熱効果かもしれない。

お湯はわずかにヌメリ気のあるタイプ。そして柔らかなお湯に感じる。よく「この温泉のお湯は柔らかい」というような言い方をするが(そういえば硬いといわれているのは聞いたことがない)、あれって何が違うのだろう。軟水・硬水は水に溶けているカルシウムとマンガンの濃度で区別される。飲めば柔らかい・硬いの違いはわかるとして、それは味覚的な比喩表現であって物理的に硬さが違うわけじゃない。だから触れても違いは感じないはず。ヌメリ気があれば柔らかく感じる気もするけれど、そもそもヌメリ気の正体は何? まあそのうち気が向いたら調べましょう。

こごめの湯は源泉掛け流しではない。ホームページによればお湯は毎日入れ替えているとのこと。循環方式の温泉で、ひどいところになるとプールの匂い=塩素臭がするところもあるらしいが、そういうことはなく快適。でも硫黄系の匂いとはまた違う独特な匂いがごく僅かに感じられる。私には「生のサザエ」の匂いに似ていると思えた。もちろん風呂場が生臭いわけじゃない。念のため。

泡風呂とか打たせ湯とかを期待していたのに、極めてシンプルな温泉のみだったのは残念。サウナもなかった。入った時は内湯に2名、露天風呂に5名いただけで空いていた。その後に露天風呂は10名くらいまで増えたものの、混雑ということはまったくなく、ノンビリとお湯につかることができたのは幸い。最大の誤算は普段の条件反射で、やたら歯磨きをしたくなったこと。次からは歯磨きセットも持っていこう。

お湯につかっていたのは30分くらい。お湯がぬるいからそんなに長く入っていられたともいえるわけで、ゆったりと温泉を楽しむにはこれくらいの温度がいいのかもしれない。東京の銭湯は460円らしいから1000円なら充分にリーズナブル。



お風呂は地下で休憩室は2階にある。
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まだ身体が火照っているが、この時点でバイク用の革パンツを履いているのが辛いところ。温泉メインのツーリングをするなら、館内用の着替えを持ってくるか、浴衣レンタルのある温泉施設を選んだほうがいいだろう。

初めての日帰り温泉体験はリラックスした気分になれてよかった。ただし好印象の50%位は人が多くなかったことが影響しているかもしれない。でも、これからあちこちの日帰り温泉をツーリング目的地に組み込もうかなとは思っている。


建物を出てバイクのところに戻る。
来た時にカメラを落とすというアクシデントがあったが、またさらなるトラブル発生!
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下り勾配で壁で行き止まりになっている場所に駐めたから、バイクをバックさせないと道路に出られない。それほどの傾斜ではないから大丈夫と思って駐めたのだが、いざ動かしてみるとバイクが重くて、とてもじゃないがバックさせられない。結局、温泉から出てきた人に押すのを手伝ってもらった。隣のバイク(帰る時にはいなかったが)がどうして敷地外の側溝の上に駐めているのか不思議だったが、壁を避けていたのだとこの時に気付く。カメラも落としたし、どうもこの駐車場とは相性が悪い。



当初の予定では湯河原から箱根に抜けるつもりだった。でも、せっかく伊豆半島の入口まで来たのでもう少し海沿いを走りたくなり、熱海まで行くことにした。もっとも有料道路である熱海ビーチラインを使わずに135号線を走ったから、海はあまり見えなかったが。

135号線で少し山側から熱海に入ると熱海サンビーチと呼ばれる砂浜がよく見える。寛一お宮の銅像を横目で見ながら中心部を走り抜け、バイクを駐めたのは漁港の近く。
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このあたりは中心部と較べると古びた感じのするエリア。
こんな大きなパームツリーのあるホテルも建っている。
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熱海からは県道11号線で十国峠に登り、そこから県道20号線で箱根峠に向かう。11号は初めて通ったけれどなかなかいい道だった。20号線は稜線を走るクネクネ道。箱根峠からは芦ノ湖には下りずに箱根新道で小田原に。そこから先は小田原厚木道路で往きと同じルート。
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午後6時半帰宅で走行230キロ。途中で温泉に入ったらツーリングの疲労度が普段と違うかというと、それはほとんど感じなかった。それよりも温泉の後に宴会がないのに違和感を感じた日帰り温泉初体験だった(^^ゞ


おしまい

wassho at 15:58|PermalinkComments(0)   *ツーリング 

2016年06月16日

湯河原 吉浜〜こごめの湯〜熱海

6月11日のツーリングの続き。


山の上にある星ヶ山公園からまっすぐ海岸沿いに降りると、国道135号線の有料区間である真鶴道路と県道740号線の合流地点に出る。そのあたりの海岸が吉浜でサーフィンのポイントであり海水浴場でもある。ここはクルマも含めて何度も通っているが海岸に降りたことがなかった。というのは道路沿いに駐車場がないから。海岸と平行している道路より陸地側に入ったところに何カ所か有料駐車場があるらしい。バイクなら無理やり止められないことはないけれど、それもお行儀悪いし、わざわざ有料駐車場に駐めてまで降りたい海岸でもなかったので。

吉浜を過ぎると海に突き出している埋め立て地?のようなところがあり、パチンコ屋やショッピングモールが並んでいる。そこの駐車場に潜り込めなくもないが、まあいいかと素通りすると、埋め立て地の最後に湯河原海浜公園というものがあった。吉浜からは少し離れてしまったが、とりあえず入ってみることにする。


奥はテニスコートだが、一番広い面積を占めているのは広場というかグランドというか空き地のようなところ。何となく変な公園である。
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その広場の横を抜けて、
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海に出る。この形状からしてやっぱり埋め立て地かな。
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海浜公園の隣は湯河原中学校。だからこの区画は海浜公園〜中学校〜パチンコ屋と並んでいることになる。やっぱり変なところ。
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とりあえず吉浜まで歩いてみることにする。
途中でこんなブルー&オレンジの鳥を発見。
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埋め立て地の端から見た吉浜。
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この日は波がほとんどなく、子供サーファーが水遊びしていた程度。
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海浜公園まで戻るのはけっこう遠い(/o\)
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結局たくさん歩いただけで、またもや吉浜に降りなかった。

その次に向かったのは湯河原の温泉街の中程にある「こごめの湯」という日帰り温泉。星ヶ山公園のサツキが見頃過ぎなのはわかっていたし、帰りは箱根経由で楽しいルートとはいえ、それだけ見て帰ってくるのもつまらないなあと考えているうちに、温泉に立ち寄ることを思いついた。バイクで温泉に行くのも、日帰り温泉という施設に行くのも実は初めてである。



こごめの湯到着は午後2時頃。
思っていたより立派な旅館のような建物。
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クルマは建物の隣の駐車場が1時間100円。150メートルほど離れたところに無料駐車場もある。でもけっこうな坂道。幸いバイクは建物の前に無料で駐められる。
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しかしここでアクシデント発生!!!

バイクの後ろにはディパック(リュックサック)をくくりつけてある。白黒ツートンなのがそれ。ディパックに何が入っているかというとショルダーバッグ(^^ゞ カメラ、水筒、ケータイその他モロモロが入っていて、ツーリングの目的地に着いたらそれを提げてブラブラするのが私のスタイル。

普段カメラはショルダーバッグに入れる。しかし湯河原海浜公園を出発する時に、どうせ温泉に着いたらすぐ建物の写真を撮るだろうからと(公園から温泉までは10分もかからない)、カメラをショルダーバッグに入れずに、ショルダーバッグと一緒にディパックに詰め込んでしまった。それをすっかり忘れて、ディパックからショルダーバッグを引き出すとーーーカメラが地面に落ちた(>_<)

レンズから地面に接触したようで衝撃でレンズがカメラから外れて、隣のバイクのところまで転がっていった(レンズ交換式のカメラです)。幸いにもレンズが外れてむき出しになったカメラのセンサー部分や、レンズのガラス面に傷はつかなかったが、レンズの筒の一部が曲がってしまった。このレンズはカメラ本体の2倍くらいの価格だったのに(涙)。

こごめの湯以降の写真は落としたカメラとレンズで撮っているわけで、今のところ機能面には支障がない模様。しかし写真を撮ろうと凹んだレンズをを見る度に私も凹む。


ーーー続く

wassho at 09:03|PermalinkComments(0)   *ツーリング 

2016年06月15日

湯河原 星ヶ山公園 さつきの郷 その2

根府川駅を後にして湯河原の星ヶ山公園に向かう。
740号線は緩やかにクネクネして、日当たり見晴らしもよく走って楽しい道。

ところで湯河原というと思い浮かぶのは湯河原駅周辺と、駅から奥湯河原方向に延びる県道75線周辺の温泉街・別荘エリア。しかし星ヶ丘公園は最寄り駅が真鶴駅で湯河原の中心部からはかなり離れている。それで調べてみると湯河原は思っていたより広いエリアに渡っている。特に箱根に登るターンパイクの一部も湯河原町に含まれていたのは意外。
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真鶴駅まではクネクネはしているが740号線の一本道。そこからはナビに頼る。星ヶ山公園は地図データにないので手前の湯河原美化センターというゴミ焼却施設をセット。もっとも最初に740号線から離れるポイントさえ間違わなければ道なりに進めばいいし、ところどころに案内板もある。それでこの公園に向かう道路がかなりの急勾配で、一部は林道レベルのクネクネ度合いでヘアピンカーブも多い。そんなハードなルートは想定していなかったのでちょっとビックリ。後で知ったのだが公園は標高約800メートルとかなり高い場所にある。真鶴駅は標高57メートルらしいから一気に駆け上がったことになる。

そして見通しの利かない最後のカーブを回ると、あたり一面のサツキが目の前に広がって感激。もっとも情報通り「見頃過ぎ」で花は少なかったが。


さつきの郷に到着したのは12時半頃。
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バイクの奥に止まっているクルマには「湯河原町」と書かれていた。駐車場がどこかわからなかったので、そこにいた係員風のおじさんに聞くと、この辺に適当に駐めろとの指示。
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BMW F800Rと見頃過ぎのサツキのツーショット。
写真の上の方にごく一部まだ満開のエリアがある。
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まずはその満開エリアに。
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ピンクのサツキのアップ。
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見ている分には他の色のサツキもきれいだったが、アップで写真に撮ってみると傷んでいる部分も微妙に目立つので集合写真だけを載せておく。
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品種の表示はなかったが、上で写真を載せたサツキは街中で見るサツキとは少し種類が違うような気がする。それでこちらが普段よく見るサツキ。このタイプはほとんど萎れていたが、一区画だけまだきれいに花が残っていた。
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この公園はけっこうハチが多い。ツツジを見に行ってハチがいた記憶はあまりないから、サツキの蜜のほうがおいしいのかな。背中の毛が柔らかそうだけれど、触ることができなくて残念(^^ゞ
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情報通りに見事に見頃過ぎだったのは残念。
ちなみに植えられているサツキは5万株とのこと。
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ブログサイズの写真ならそれなりにキレイに見えるかな。
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でも花と海が見えるこの景色には大満足!
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バスツアーできているご老人たちが木陰でお弁当。
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サツキが咲いている間は売店も出るみたい。
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少し離れたところに展望広場の看板。
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階段を上って、
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海を見おろす。
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突き出しているのは真鶴半島
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星ヶ山公園と書かれているのは写真だと看板のように見えるが、実際にはかなり離れた場所にある大きな塔のようなもの。そこで疑問が2つ。

 あの文字はここ「さつきの郷」にいる人に向けて星ヶ山公園をアピールしているのか?

 ここは「星ヶ山公園 さつきの郷」だけれど「さつきの郷」というのは「星ヶ山公園」を
 説明する言葉なのか、あるいは「星ヶ山公園」には「さつきの郷」以外にも別のエリアが
 あるのか?

ちょっと調べたがわからなかった。まあどうでもいいけど。


水平線に霞んで見えるのが伊豆大島で、右側の小さな島が熱海沖にある初島。
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岬に見えるのは川奈辺りだと思う。
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友逢(ゆうあい)の鐘
鳴らす人が多くて、ちょっとうるさかった。
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この角度で見ると星ヶ山公園と書かれている塔までの距離とサイズがイメージできるはず。
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バイクを駐めた場所まで戻り、その少し先まで行くと林道の入口があった。
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軽いオフロードバイクなら、こういう林道も楽しいかもしれない。ただそういうバイクで高速道路を使って林道まで来るのが大変な気もする。


これは片浦林道とはまた別の道。
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1分ほど歩くとゲートがあり、舗装が終わっていた。これも林道なのかな。
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事前にわかってはいたものの、きれいなサツキがごく一部しか残っておらず、やはり花見はタイミングを合わせるのが難しい。しかし星ヶ山公園は海が見渡せるいい景色で気に入った。この日も人はそれほど多くなかったが、湯河原の温泉に来た人がここまで足を運ぶことはまれだろうし、たぶんサツキのシーズンが終わればほとんど人がいないんじゃないかな。そのうちまた訪れてみよう思う。


ーーー続く。

wassho at 08:29|PermalinkComments(0)   *ツーリング | お花畑探訪

2016年06月11日

湯河原 星ヶ山公園 さつきの郷

ツツジとサツキは同じツツジ目〜ツツジ科〜ツツジ属の植物で、学術的には区別しないらしい。もちろん園芸的には別扱いする。大変よく似ていて

・花も葉っぱも形は同じだが
・ツツジの花や葉っぱはサツキの1.5倍くらい大きい
・ツツジが咲くのは4月中旬から5月中旬
・サツキは5月中旬から6月中旬とツツジの後に咲く

というのが一番の違い。両者を掛け合わせたようなものもあるし、個別の品種によっては見分けがつかないこともある。どちらも街中でよく見かけるが、ツツジと違ってサツキはその名所と呼ばれるところに行ったことがなかった。というわけでサツキ園を見るのが本日の第1目的。ちなみにやはり花の大きなツツジのほうが人気があるらしく、ツツジと較べてサツキの名所の数はかなり少ない。

実はこのツーリングは1週間前の6月4日に行く予定だった。星ヶ山公園のある湯河原町のホームページによると6月2日に見頃となったという情報。しかし朝起きて準備を整え、出発前に道路情報をチェックすると、東名高速で玉突き衝突事故とその他2件の事故が起きていてかなりの大渋滞。どうしようか迷っているうちに、だんだんとモチベーションが下がり、気がついたらモーニングビール(^^ゞ この季節だから次の週末の天候はどうなるかわからない。幸いにも本日は晴れという予報だったので1週間遅れで再チャレンジ。ところが金曜日の夜に湯河原町ホームページを見てみると「6月9日 見頃過ぎとなりました」というショッキングな文字が(/o\) ツツジやサツキって2〜3週間は咲いているイメージがあったんだけど。

まあでも多少は花も残っているだろうし、今回はサツキだけが目的のツーリングでもないので、予定通りに湯河原方面へ出かけてきた。ルートは東名で厚木まで行き、そこで小田原厚木道路に乗り換える。伊豆半島に入ってからは国道135号ではなく、その旧道である県道740号で湯河原まで。
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朝、道路情報をチェックするとまたもや東名高速で事故3件の大渋滞。皆さん、安全運転を心掛けましょう。6時過ぎに起きた事故だったので、もうしばらくすれば渋滞は解消するかと様子を見ていると、だんだんと渋滞距離が伸びてくる。事故処理が終わらずにクルマの数が増えれば渋滞はひどくなるということか。今回は中止したくなかったのでツーリング決行。出発は午前9時半頃。

気温は既に30度近くで日差しも強く暑かった。メッシュの革ジャンにしようかとも考えたが、まだ早いかと普通の革ジャン。そのかわりVENTZというベンチレーション補助器具のようなものをつけてみた。夏にはいつも使っているが、実はメッシュでない革ジャンに装着したのは初めて。街中ではほとんど効果はないものの、高速に入って60キロ以上のスピードになると、革ジャンの中を風が通り抜けていくのがメッシュの時よりも明確にわかる。身体を冷やす効果も充分で、高速道路上で31.5度まで気温が上がったが涼しすぎるくらいだった。メッシュなら袖口から取り込んだ風はすぐ抜ける。普通の革ジャンなら革ジャンが風でパンパンに膨れあがるかもと心配したが、そんなことにはならなかった。もっとも渋滞時にはスリヌケしたとしても、そんなにスピードは出ないから暑いけれど。


東名の渋滞を何とか切り抜け小田原厚木道路へ。東名からだとジャンクション形式ではなく、いったん東名を降りて小田原厚木道路に入り直す形になる。それで小田原厚木道路を数キロ進むとまたもや渋滞。この渋滞は出かける前の道路情報にはなかったから直前に起きた事故かもしれないと考える。

しかし、しばらく進んだ先にあったのは事故車両ではなく、道路に置かれて燃え尽きた発煙筒と、まだ炎を出している発煙筒が合わせて10個ほど。つまり事故の処理は終わっているのに、発煙筒を避けるために1車線通行になって渋滞していたというわけ。発煙筒を焚くのは警察か道路会社か知らないが、用が済んだら片付けとけよ(怒)。


ところで小田原厚木道路は好きな道でもあり嫌いな道でもある。好きな理由は全区間の半分弱に当たる厚木から平塚までの平野部では、高速道路なのに高架ではなく地面に造られた道路だから。道路側面に防音壁もなく周りがよく見える。水田が多いので今の季節だと緑豊かな景色が広がって気分よし。地に足が付くの反対で、高架の道路を走るのは精神的に微妙なプレッシャーを受けているような気がする。

嫌いな理由は覆面パトカーがやたら多いこと。私の知る限り関東エリアで覆面パトカー密度は断トツに高い。全長30キロほどなのに、この日も往復それぞれ3台づつが捕まっているのを目撃。それがここでの日常風景。実は小田原厚木道路は高速道路ではなく一般有料道路。制限速度は70キロなので神奈川県警のドル箱路線となっている。とにかくここを走る時は不審な後続車がいないか細心の注意が必要。


東名では31.5度まで上がった気温計も、小田原厚木道路では26度前後まで下がる。早くもヒートアイランド現象かな? そして小田原厚木道路が終わると西湘バイパスを少しだけ通って、伊豆半島の東海岸沿いを走る国道135号線に出る。以前に真鶴に行った時、135号線と平行する県道740号線がとてもいい道だったので、もちろん今回もそちらを選ぶ。前回は根府川駅の手前で135号線から740号線にそれたが、地図を見ると西湘バイパスが終わってすぐに、740号線ではないが、そのまま進むと740号線につながる枝道があったのでトライ。

西湘バイパスが終わって最初に右折できるところに進入する。いかにも地元の生活道路といった雰囲気。135号線は渋滞しているが、こちらは誰もいない。ヤッターと思って数百メートル進んだら135号線に戻った(/o\) そこから10数メートル先にまた右折可能な道が。そちらが正解だったようで、今度はそのまま740号線まで走ることができた。ただ距離にすれば、このルートは1キロもないのでわざわざ選ぶ価値はあまりなかった。



以前にも訪れた根府川駅。海が見渡せるのどかな無人駅である。
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列車は1時間に3〜4本だから、そんなに少ないわけではない。
無人駅とはいえここは東海道本線。
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今回は少しだけ内部も覗いてみる。レトロな雰囲気の廊下と階段。
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こちらは下りの熱海方向。
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駅の前にあったこの案内板によると、江戸時代には根府川に関所があったり、伊豆から鎌倉に向けて挙兵した源頼朝が、ここで敗れていったん箱根に退却したりと、歴史的にいろいろあったエリアのようである。
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案内板の隣にあった「片浦学区6つの心掛け」。私も心掛けよう(^^ゞ
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ーーー続く

wassho at 23:43|PermalinkComments(0)   *ツーリング | お花畑探訪

2016年06月07日

黒田清輝展 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 その3

朝妝  1893年(明治26年)
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タイトルは「ちょうしょう」と読む。朝妝は漢語(の造語?)で「妝」は「粧う」または「装う」という意味。だから朝の身支度といったところ。黒田はこれをフランス留学の最終年に描いた。コンクールに出展して入選し、またその年の優秀裸体画のひとつにも選ばれている。つまりパリでの評価はたいへん高かった。ちなみにパリでのタイトルは起床(もちろんフランス語で)。

黒田は帰国翌年の1894年、明治美術会展にこの朝妝を出展する。さらに続けて1895年の内国勧業博覧会にも出展した。そこで問題発生。いわゆる「裸はケシカラン、風紀を乱す」という理由でゴウゴウたる非難を浴びる。いまでいうなら炎上かな。明治美術会展で問題にならず内国勧業博覧会で騒ぎになったのは、前者の来場客が美術愛好家なのに対して、後者は広く一般向けに開催されるビッグイベントだからだろう。

当時は「裸体画は脚を閉じていること、陰毛を描かないこと」という暗黙の了解あるいは自主規制のようなものがあったらしい。朝妝はどちらにも当てはまらない。しかし黒田は「美術にとって必要なこと」という姿勢を崩さずに出展を続ける。実は彼は内国勧業博覧会の審査員も務めており(当時はフランス帰りの画家ならステイタスは相当高かったと思う)、展示が禁止になるなら審査員を辞めると抵抗したとか。今も続く「芸術か猥褻か」の議論は、この朝妝から始まったのかもしれない。

残念ながら朝妝は、前回のエントリーで紹介した「昔語り」と共に神戸の空襲で焼失した。ブログに貼り付けた朝妝は、作品を撮った写真に着色したものと思われる。展覧会では白黒のものが参考として展示されていた。(カラー写真の普及はもっと先のこと)

この絵のいきさつとか歴史的価値は抜きにして、アンティックな雰囲気でイメージが膨らむ名画だと思う。でもビックリするのは床に頭付きの熊の毛皮が敷かれていること。ハイ、そこの君、気がついていなかったでしょう。裸ばっかり見ていちゃダメだよ(^^ゞ



裸体婦人像  1901年(明治34年)
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1900年から1901年に架けて黒田は再びパリに短期留学する。その時にパリで描かれたのがこの作品。モデルのヘアスタイルが日本髪ぽくて、背景のカーテンのようなものも紅白で何となく和風を感じる。

そして帰国して、この絵を国内の展覧会に出展した時に起きたのが、日本美術史に残る「腰巻き事件」。裸体画はワイセツであるとされ、警察の命令で展示している絵の下半身が布で覆われた。「朝妝」の時もそうだったけれど、こうやって話題になると普段は絵に興味のない人もドッと押し寄せる(^^ゞ 布の隙間からのぞき込む人が絶えず、しばらくしてから板で覆われたらしい。
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明治時代はこの程度のヌードで大騒ぎしたのかと笑うなかれ。実は2011年に東京国立近代美術館で開かれた「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」という展覧会が開かれた。黒田の作品も展示され、広告ポスターには次に紹介している「野辺」が用いられたが、なんと東京メトロがその広告を車内広告として吊すことを拒否。100年程度じゃ世の中の本質はそう変わらないのである。

腰巻き事件にひるまず黒田は新たな裸体画を次々と発表していく。「朝妝」で炎上した後の1896年から東京美術学校で西洋画を教え始めるが、そこでは学生に裸体モデルの写生を必須課題とした。しかしその後も、彼の裸体画は展覧会で入室に手続きが必要な「特別室」に集められるなどして、官憲あるいは世間との軋轢は生涯続く。黒田というと代表作「湖畔」から受ける穏やかな印象があるが、「ヌードはアートだ」という信念を曲げなかった明治時代の篠山紀信みたいな画家なのである。



野辺  1907年(明治40年)
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花野  1907〜15年(明治40〜大正5年)
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この「花野」と上野「野辺」は、前々回で書いたラファエル・コランの「フロレアル」と考え方は同じだと思う。ちなみに「花野」は未完成らしい。



智・感・情  1899年(明治32年)
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3枚ワンセットの作品で、キャンバスは縦180センチあるから描かれているのは等身大以上のサイズ。タイトルの3文字と絵の並び方は左右が逆で、左が「情」、中央が「感」、右が「智」である。

なんといっても圧倒的な存在感を放っているのはセンターの「感」。仏像でこんなポーズはないと思うが、初めてこの絵を見た時にはなぜか仏像が頭に浮かんだ。何となくエネルギーが伝わってくる感じを受けるし、このポーズでなければ、この作品は上手に裸体を描いた絵に終わっていたような気もする。どんなポーズで描くかって大事なんだと認識。

モデルとなっている女性は、とても小顔で足が長いように見える。しかし測ってみると意外にも6.7頭身くらいしかなかった。現在の日本人平均は7頭身弱といわれるから、(明治時代なら日本人離れしていたのかもしれないが)それほどプロポーションがいいわけではない。でもそう見えないのが不思議。

ところで謎めいたタイトルとポーズを持つ絵であるが、黒田はこの作品についてあまり語っていない。だから発表当時から、その意図について議論や憶測を呼んできたらしい。でも語らなかったことは正解だろう。純粋に絵画表現として作品を眺めることができる。よく企業のシンボルマークなどで、なかなかいいデザインと思っても「この青は未来を、赤は情熱を表している」とか説明されると、たいていは興醒めになるから。ちなみにこの「智・感・情」は1900年のパリ万博に出展して銀メダルを取っているが、その時のタイトルは「女性習作」。だから、そんなに深い意味を持って描かれたものではないと思っている。

なおブログに貼り付けたサイズでは、この絵の魅力はほとんど伝わらないのでクリックして少し大きくしてみて欲しい(別ウインドウで開く)。あるいはこちらで




黒田の人物画にはいい作品が多いが、風景画はつまらない。フランス留学時代からかなりの数を描いているが、これはと思えるものはなかった。まあ得手不得手はあって当然だが、不思議なことに肖像画もイマイチ。肖像画はモデルの人物を描くことが目的で、人物画で人物を描くのは作品全体の手段のひとつーーーといったあたりが区別。でもいい肖像画は人が描かれているだけでも何か伝わってくるものがあったり、その人の顔を見ながら想像が膨らんでくる。残念ながらそういう体験は今回できなかった。

花も苦手だったのかな。割と有名な「鉄砲百合」も誰でも描けるような絵にしか私には見えない。「瓶花(へいか)」もキレイだけれど、2つ前のエントリーで紹介した1892年作の「菊花と西洋夫人」からあまり進歩していないようなーーー。  


鉄砲百合  1909年(明治42年)
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瓶花  1912年(明治45年)
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そして前回書いたように1915年あたりから黒田の絵はつまらなくなっている。貴族院議員や森鴎外から引き継いだ帝国美術院・院長の仕事が忙しくなったのか、適当に思いついたままザザッとラフなタッチで描いたような作品ばかりになる。デッサンに下絵と綿密に構想を練り上げていた頃の黒田とは別人である。そういえば晩年はヌードも描いていない。

例えばこんな作品。

小壺にて  1916年(大正5年)
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山つつじ  1921年(大正10年)
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梅林  1924年(大正13年)
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これが黒田の絶筆である。病室から見えた梅の木を描いたらしい。展覧会を順番に見て回り、晩年の作品はつまらないなあと思っていたわけだが、この絵にはちょっとグッとくるものがあった。もっと描きたいようと彼の魂が叫んでいる気がする。もちろんそれは絶筆だと説明されていたことに影響されてはいるが。


絵は好きでよく展覧会に行くが、その歴史背景は表面的にしか知らない。だから黒田が日本美術界に与えた影響は多大なものがあると知っていても、詳しく理解しているわけじゃない。美術界を牛耳ったのでいろんな批判もあると聞く。けれども、チョンマゲの時代に生まれてパリに留学し、あっという間に西洋絵画の神髄を学び取って、ヌードはアートだと信念を曲げず、湖畔や智・感・情といった西洋絵画を日本的に解釈した作品をパリにぶつけてきた黒田清輝は、やはり偉人といって間違いはないだろう。

その偉人に対して晩年はつまらないと何度も書いて申し訳ないが、幼なじみ(前々回エントリー参照)だから許してもらおう。もっとも、そう思っているのは私だけじゃないみたい。展覧会は回顧展だから基本的に年代順に作品が並んでいる。でもそうしたら悪い印象で展覧会が終わってしまうと東京国立博物館も心配したのか、制作時期を無視して最後の展示作品は「智・感・情」になっていた(^^ゞ


おしまい

wassho at 08:47|PermalinkComments(0) 美術展 

2016年06月02日

黒田清輝展 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 その2

フランスから帰国してからの黒田清輝の足跡は以下の通り。子爵であり貴族院議員であり、そして帝国美術院の院長にまでなったのだから、社会的に充分な成功を収めた人生といえる。亡くなった時には、従三位・勲二等旭日重光章が贈られている。


 1893年 27歳で帰国(明治26年)
 1894年〜95年 日清戦争に従軍
 1898年 東京美術学校の教授になる(現在の東京芸大)
 1900年 腰巻き事件起こる→次のエントリーで
 1910年 洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれる
     (現在の日本芸術院会員のようなもの)


 1917年 子爵の身分になる(51歳)
 1920年 貴族院議員に当選
 1922年 帝国美術院の院長になる(現在の日本芸術院)
 1924年 57歳で死去(大正13年)

年表を2段に分けたのは1915年くらいを境に、なぜか彼の絵は「これがあの黒田清輝?」と疑うくらいつまらなくなってくるから。政治家になって忙しく絵に専念できなかったのかな。絵は素人の政治家が趣味で描いているレベルの作品になっているのは驚くと共に残念。画家の画風は年代と共に移り変わるものだし、歳を取れば力量が衰えるのも仕方がない。でも50歳前後で衰えるのは早すぎる。


帰国してからの黒田は前期・中期・後期に分けられると思う。
おもに前期の作品の感想を。

舞妓  1893年(明治26年)
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サイケデリックーーー思わず、そんな死語な表現が思い浮かんだ。理屈的には着物が派手だったら絵も派手になるが、こんなドギツイ柄の着物ってあるのかなあ。タイトルが舞妓だから場所は京都。描かれたのは帰国した年。10年振りに帰国したフランス帰りの黒田には、京都らしいこの情景も、印象派の画家達が日本に対して思い抱いていたようなエキゾチックなものに写ったのかもしれない。トレビアン!と言ったりして(^^ゞ



昼寝  1894年(明治27年)
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黒田がフランスで師事したのは印象派の先生ではないと前回のエントリーで書いた。でも彼はしっかり印象派の極意を学び取ってきたようである。というか並の印象派作品を超えてるんじゃないかな。

ところで1900年のパリ万博に黒田は「智・感・情」「湖畔」ほか3点を出展し、「智・感・情」が銀牌(銀メダル)を得ている。ただ「ほか3点」がどの絵だったのかが調べてもわからなかった。「舞妓」や「昼寝」を出展したらヨーロッパの人には気に入られたと思う。




帰国前期から中期の、つまり全盛期の黒田は綿密に構想を練って作品を描いていたようであり、またその下絵などもよく残っている。スケッチでの下絵はよく見るが、スケッチがあって、それとは別に絵の部分ごとに色を塗った下絵があるのは珍しいと思う。各パーツの下絵は登場人物すべてについて描かれているから実に念入りな準備。何度も実験を重ねて最終作品を仕上げていくのは、ある種の科学的なアプローチにも思える。


それにしても色っぽい(^^ゞ
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昔語り 下絵(構図II)  1896年(明治29年)
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さらに全体の下絵も何枚か描かれている。絵巻のようなものを除くと、こういうストーリーを感じさせる絵は日本にはあまりなかったような気がする。そんな発想も留学体験でつかんできたものかもしれない。残念ながら完成作品は戦災で失われてしまった。



湖畔  1897年(明治30年)
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「舞妓」や「昼寝」のコッテリ感とは打って変わって、まるで水彩画のようにも見える作品。浴衣に団扇、そして水色主体の色使いで「涼」を感じない人はいないだろう。場所は箱根の芦ノ湖。それを知らなくても標高のある避暑地的な雰囲気があらわれていると思う。

前回のエントリーで書いたように子供の頃から馴染みのある絵であるが、ある程度美術に関心を持つまで、これは日本画だと思っていた。もっともその頃は日本的な内容の絵=日本画という認識だったが。湖畔は油絵だから洋画という区別になる。洋画と日本画の区別は作品の内容には関係なく、油絵の具など西洋の絵の具を使っていたら洋画で、岩絵の具など日本伝統の絵の具を使っているものが日本画ということになっている。西洋の絵画が日本に入ってきた明治の頃はともかく、今ではあまり意味のない区別。ただ油絵で岩絵の具や水彩絵の具のように描くことはできるが、その逆は無理(たぶん)。それはともかく、西洋の画材・画法で日本的な情景を描いたということもこの作品の歴史的な価値だと思う。

この絵については子供の頃から名画だと刷り込まれてきたから、どうみても名画にしか見えない(^^ゞ 人物の大きさは、これより1%大きくても小さくてもバランスが崩れる絶妙のプロポーションだと感じる。改めて眺めれば向こう岸の木や山の描き方が中途半端で、もう少し描き込むか逆にもっとボカして欲しかったかなとは思う。

ところで描かれているのは、後に照子と改名し黒田の奥さんとなる芸者の女性。この時、黒田は既にバツイチ。おい清輝!パリの肉屋のネエチャンはどうした(^^ゞ



赤き衣を着たる女  1912年(明治45年)
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私の分類では帰国後中期に入る作品。これもたぶんモデルは奥さんかな。真横から描かれた人物画は珍しいような気がする。日本髪だし着物だから人物は日本そのものだけれど、全体的に漂う雰囲気はどこか西洋っぽい。こういうクロスカルチャーなところも黒田の魅力。


ーーー続く

wassho at 09:35|PermalinkComments(0) 美術展