2016年08月
2016年08月28日
人命救助ができません(>_<)
今年はまとまった夏休みが取れなかったのだが、
ブログは長い夏休みとなってしまったm(_ _)m
いわゆるお盆休み期間中にバイクには乗らず。東京〜関東地方の今年の8月はそれほど暑くはないものの、やはり「帰省ラッシュで渋滞50キロ!」とかのニュースを見ると出かける気が失せる。それと今年はかなり天候不順で、休めた日はほとんどが雨だった。
それで何をしていたかというと、もちろんリオデジャネイロ・オリンピック観戦。昨年の4月に遅ればせながら大画面テレビに買い換えて、やはりスポーツは大画面で見ると楽しい。それと6つのチャンネルの放送を、3日分ほどすべて録画できる機能がついているのでブラジルとの時差も問題なし。
ただし誤算は、そういう機能があるのだからニュースでも放送されるメジャーな競技ではなく、マイナーな競技を中心にオリンピック三昧しようと思っていたのに、マイナーな競技の中継があまりなかったこと。衛星放送だと見られるのかもしれないが、今のところケーブルテレビの無料チャンネルしか契約していない。
それでも今回は日本選手の成績がよかったこともあってかなり楽しめた。テニスやバトミントンの試合を初めてフルセット通しで見たのもささやかな今年の夏の思い出。一番うれしかったのは男子400メートルリレーの銀メダルかな。北京の銅メダル以来の感激。次の東京でウサイン・ボルトが抜けるから、ひょっとしたら金メダルいけるんじゃない?と密かに皮算用している。
オリンピック以外は散歩したり、飲み会があったり、買い物に出かけたり。そして久し振りにプールで泳いできた。2011年に駒沢公園のプールが廃止されてしまったが、ある日、何気なくネットでプールを探していたら目黒区立の屋外50メートルプールがあることを発見! どうしてもっと早く探さなかったのだろう。
自宅から歩いて30分ほど。電車を使っても、自宅→駅〜駅→プールで歩く距離はそれほど変わらない。まあ歩くのも準備運動のうち。訪れた日はお盆休みの最中だったが、曇りで後に雨の予報だったせいか、あまり人はいなかった。全9コースのうち3コース分が水泳用に割り振られている。残りはいわゆるプール遊びのためのエリア。
最後に泳いだのがいつかよく覚えていない。オリンピックのある時は触発されて泳ぎたくなる。ロンドン大会は2012年だから駒沢公園のプールはない。すると2008年の北京大会以来か? 体力の衰えは一切感じていないけれど、しっかり泳げるか少し心配になる。ちなみに私は中学時代に水泳部。
1本目クロール:かなり距離をとったつもりなのに、あっという間に前を泳いでいた人に追いつく。2本目平泳ぎ:クロールで前を泳いでいた人に追いつく。3本目背泳:問題なく50メートルを泳ぎ切る。
ヘッヘッヘ、どんなもんだい\(^o^)/
まだまだトビウオ伝説健在だぜ!
しかし喜んでいられたのはこの時だけ。3本泳いでドッと疲れた。平泳ぎは問題ないがクロールや背泳で50メートルを泳ぐのがけっこうきつい。よくクロールをうまく泳げない人が息継ぎの時に「身体を大きく反らせて頭を水面から高く上げようとする」が、ちょっとそれに近い状態になっていることが自分でわかる。そんな不細工なフォームで泳いでいる自分に耐えられない(>_<)
ところでバタ足というのは、脚をまっすぐにしてバタバタするのではなく、水をできるだけ後方に送り込めるように、しなやかに膝や足首を使う必要がある。それを意識して脚を動かしてみたらーーー足がつった(>_<) 足の親指がごく軽くつり始める程度で、そのまま泳げるが、バタ足のキック力が半減してますます泳ぐのが辛くなるという悪循環。実は数年前から足の親指がつりやすいのが悩みの種。ちなみに水泳の場合、ふくらはぎがつっても痛いだけですむが、太ももがつるとなぜか身体が水に沈むからご用心。
そんなわけでフォームは格好悪いし足はつっても、久し振りの水泳はとても楽しかったので、次の日の筋肉痛も気にせず(かなり無理をして)泳ぎ続けた。そして、これで最後にしようかと思った1本。クロールで泳いだのだが、もう体力が限界だったのか25メーターをすぎたところから苦しくて堪らなくなり、とうとう45メーター地点で立ってしまった。
コースの途中で立つ。
元水泳部員としてこんな屈辱はない(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)
理解してもらえないかもしれないが、私にとってはかなりのショックである。とりあえず、これがトラウマになっちゃいけないので、充分な休憩を取った後に、この日最速のスピードでもう1本50メートルを泳ぎ切れたのがせめてもの慰め。
しかしコースの途中で立ってしまったという現実は受け止めなければならない。以前のジョギングのように毎週泳ぐようにすれば、このプールに来ている「ちょっと泳ぎの達者そうな連中」と同程度には泳げるようになるだろう。でも今のところその予定はない。多くて夏に数回水泳を楽しむ位だと思う。つまり今の私の泳力は少し疲れたら45メートルで立ってしまうレベルなのである。
水泳部だったので水泳は得意なつもりだった。そして私は海や川によく出かける。もし溺れている人がいたら、きっと助けられると思ってきた。でももう助けを呼びに行く役目を果たすべきなのかもしれない。
ーーーちょっと切ない。
ブログは長い夏休みとなってしまったm(_ _)m
いわゆるお盆休み期間中にバイクには乗らず。東京〜関東地方の今年の8月はそれほど暑くはないものの、やはり「帰省ラッシュで渋滞50キロ!」とかのニュースを見ると出かける気が失せる。それと今年はかなり天候不順で、休めた日はほとんどが雨だった。
それで何をしていたかというと、もちろんリオデジャネイロ・オリンピック観戦。昨年の4月に遅ればせながら大画面テレビに買い換えて、やはりスポーツは大画面で見ると楽しい。それと6つのチャンネルの放送を、3日分ほどすべて録画できる機能がついているのでブラジルとの時差も問題なし。
ただし誤算は、そういう機能があるのだからニュースでも放送されるメジャーな競技ではなく、マイナーな競技を中心にオリンピック三昧しようと思っていたのに、マイナーな競技の中継があまりなかったこと。衛星放送だと見られるのかもしれないが、今のところケーブルテレビの無料チャンネルしか契約していない。
それでも今回は日本選手の成績がよかったこともあってかなり楽しめた。テニスやバトミントンの試合を初めてフルセット通しで見たのもささやかな今年の夏の思い出。一番うれしかったのは男子400メートルリレーの銀メダルかな。北京の銅メダル以来の感激。次の東京でウサイン・ボルトが抜けるから、ひょっとしたら金メダルいけるんじゃない?と密かに皮算用している。
オリンピック以外は散歩したり、飲み会があったり、買い物に出かけたり。そして久し振りにプールで泳いできた。2011年に駒沢公園のプールが廃止されてしまったが、ある日、何気なくネットでプールを探していたら目黒区立の屋外50メートルプールがあることを発見! どうしてもっと早く探さなかったのだろう。
自宅から歩いて30分ほど。電車を使っても、自宅→駅〜駅→プールで歩く距離はそれほど変わらない。まあ歩くのも準備運動のうち。訪れた日はお盆休みの最中だったが、曇りで後に雨の予報だったせいか、あまり人はいなかった。全9コースのうち3コース分が水泳用に割り振られている。残りはいわゆるプール遊びのためのエリア。
最後に泳いだのがいつかよく覚えていない。オリンピックのある時は触発されて泳ぎたくなる。ロンドン大会は2012年だから駒沢公園のプールはない。すると2008年の北京大会以来か? 体力の衰えは一切感じていないけれど、しっかり泳げるか少し心配になる。ちなみに私は中学時代に水泳部。
1本目クロール:かなり距離をとったつもりなのに、あっという間に前を泳いでいた人に追いつく。2本目平泳ぎ:クロールで前を泳いでいた人に追いつく。3本目背泳:問題なく50メートルを泳ぎ切る。
ヘッヘッヘ、どんなもんだい\(^o^)/
まだまだトビウオ伝説健在だぜ!
しかし喜んでいられたのはこの時だけ。3本泳いでドッと疲れた。平泳ぎは問題ないがクロールや背泳で50メートルを泳ぐのがけっこうきつい。よくクロールをうまく泳げない人が息継ぎの時に「身体を大きく反らせて頭を水面から高く上げようとする」が、ちょっとそれに近い状態になっていることが自分でわかる。そんな不細工なフォームで泳いでいる自分に耐えられない(>_<)
ところでバタ足というのは、脚をまっすぐにしてバタバタするのではなく、水をできるだけ後方に送り込めるように、しなやかに膝や足首を使う必要がある。それを意識して脚を動かしてみたらーーー足がつった(>_<) 足の親指がごく軽くつり始める程度で、そのまま泳げるが、バタ足のキック力が半減してますます泳ぐのが辛くなるという悪循環。実は数年前から足の親指がつりやすいのが悩みの種。ちなみに水泳の場合、ふくらはぎがつっても痛いだけですむが、太ももがつるとなぜか身体が水に沈むからご用心。
そんなわけでフォームは格好悪いし足はつっても、久し振りの水泳はとても楽しかったので、次の日の筋肉痛も気にせず(かなり無理をして)泳ぎ続けた。そして、これで最後にしようかと思った1本。クロールで泳いだのだが、もう体力が限界だったのか25メーターをすぎたところから苦しくて堪らなくなり、とうとう45メーター地点で立ってしまった。
コースの途中で立つ。
元水泳部員としてこんな屈辱はない(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)
理解してもらえないかもしれないが、私にとってはかなりのショックである。とりあえず、これがトラウマになっちゃいけないので、充分な休憩を取った後に、この日最速のスピードでもう1本50メートルを泳ぎ切れたのがせめてもの慰め。
しかしコースの途中で立ってしまったという現実は受け止めなければならない。以前のジョギングのように毎週泳ぐようにすれば、このプールに来ている「ちょっと泳ぎの達者そうな連中」と同程度には泳げるようになるだろう。でも今のところその予定はない。多くて夏に数回水泳を楽しむ位だと思う。つまり今の私の泳力は少し疲れたら45メートルで立ってしまうレベルなのである。
水泳部だったので水泳は得意なつもりだった。そして私は海や川によく出かける。もし溺れている人がいたら、きっと助けられると思ってきた。でももう助けを呼びに行く役目を果たすべきなのかもしれない。
ーーーちょっと切ない。
2016年08月11日
ルノワール展 その4
ルノワールが1880年代に印象派的技法を離れ、輪郭がシャープに変容していくことは前回までのエントリーで書いた。彼の1880年代は「硬い時代」とも呼ばれている。1890年代にはまた柔らかいタッチに戻り「真珠色の時代」となる。ただし以前のように光が溢れるような描き方をしていないのは残念なところ。まあ画家も同じような絵をばかりじゃ飽きてくるんだろう。
「ジュリー・マネ」あるいは「猫を抱く子供」1887年
「硬い時代」と「真珠色の時代」の過渡期の作品なのかな。顔の輪郭は割とシャープだけれど服は柔らかに描かれている。その顔を見ると、なぜか大昔の少女マンガ、あるいは挿絵のようなものを思い起こす。ちなみに彼女はマネの姪っ子。
ところで気持ちよさそうにしている猫がたまらない愛くるしさ。
そこに目をつけて、こんなものも売られていた。
「ガブリエルとジャン」1895年。
ピザをつかんでチーズが延びているようにしか見えず、どうして皿はないのかとか思ってしまう。でもこれは食事シーンではなく遊んでいるところとのこと。女性が持っているのは牛の人形で、それで赤ちゃんをあやしているらしい。いわれてみれば牛の角のようなものは見える。では赤ちゃんは何を持っているのだ? もっとはっきり描いていくれルノワール!
赤ちゃんがジャンでルノワールの次男。ガブリエルは奥さんの従姉妹で、子守としてルノワール一家と暮らしていたようだ。彼女はルノワールの作品にモデルとして多く登場する。
「ジュヌヴィエーヴ・ベルネーム・ド・ヴィレール」1910年
手にしているティーポットはかなり小さいので西洋風ままごと遊びなのかな。後期ルノワール・ワールド全開の作品。いつも思うのは、名を残した画家というのはテクニックや表現力が抜群に優れていたのではなく、画風・芸風を確立した人たちだということ。絵を3年も習えば技術的にこの程度は描けると思うが、この絵に負けないくらいのオリジナリティを作り出せるかは別問題。
愛くるしさに溢れた絵だが、よく眺めると腕や手が異様に太い。ルノワールはふくよかな女性が好みなのは知っていても、子供の絵にもその趣味を反映させるなんて、ちょっとヘンタイが過ぎる気もする。ちなみにタイトルはこの子のフルネーム。ガストン・ベルネームというルノワール作品を多く扱っていた画商の娘をモデルにした作品である。
「ガストン・ベルネーム・ド・ヴィレール夫人」1901年
こちらはそのお母さんの肖像画。ジュヌヴィエーヴと似ているところがあるかもしれない。ただしルノワールは目の描き方がけっこうワンパターンなので、どの肖像画も少し似通った印象を受けるものが多い。
晩年のルノワールは裸婦を多く描いている。展覧会にあったのはどれもほぼ等身大の大作で見応えのあるものばかりだった。しかし、いまいちノレなかったのは彼と私の「オンナの趣味」が違うからかな。ルノワールが好んだのはふくよかな女性。さらに胸が小さくて尻がでかいという条件があったらしい。そこまでなら何とかついていけても、今にも揺れそうな三段腹までは(^^ゞ
「横たわる裸婦(ガブリエル)」1906年
「大きな裸婦」あるいは「クッションにもたれる裸婦」1907年
「浴女たち」1919年
「浴女たち」がルノワールの絶筆。まるで天国のようにも思えるが、タイトルは浴女だから、この光景は空想だとしても、あっちの世界を描いた絵ではない。そしてタプタプのウエスト。三段腹ヌードを生身で見たいとは思わなくても、この絵を眺めていると、のどかで幸せそうだな、こんな世界もいいなあという気になってくるから不思議。まさにルノワール・マジック!
ルノワールは作品数の多い画家で(4000点は下らないといわれている)、今までもたくさん見てきた。でも回顧展スタイルは初めてのような気もする。「硬い時代」の絵はいわれなければルノワールと気付かないかもしれないが、スタイルは違っても根底には同じルノワールの「血」が流れていると感じられたのが大きな発見。そしてムーラン・ド・ラ・ギャレットを見ることができ、印刷や画像とは少し違った見え方だったので、本物と対面した満足感は大きかった。今後はさらに人生修行を重ねて、三段腹を受け止められるようになったら、もっとルノワールが好きになるかも(^^ゞ
おしまい
「ジュリー・マネ」あるいは「猫を抱く子供」1887年
「硬い時代」と「真珠色の時代」の過渡期の作品なのかな。顔の輪郭は割とシャープだけれど服は柔らかに描かれている。その顔を見ると、なぜか大昔の少女マンガ、あるいは挿絵のようなものを思い起こす。ちなみに彼女はマネの姪っ子。
ところで気持ちよさそうにしている猫がたまらない愛くるしさ。
そこに目をつけて、こんなものも売られていた。
「ガブリエルとジャン」1895年。
ピザをつかんでチーズが延びているようにしか見えず、どうして皿はないのかとか思ってしまう。でもこれは食事シーンではなく遊んでいるところとのこと。女性が持っているのは牛の人形で、それで赤ちゃんをあやしているらしい。いわれてみれば牛の角のようなものは見える。では赤ちゃんは何を持っているのだ? もっとはっきり描いていくれルノワール!
赤ちゃんがジャンでルノワールの次男。ガブリエルは奥さんの従姉妹で、子守としてルノワール一家と暮らしていたようだ。彼女はルノワールの作品にモデルとして多く登場する。
「ジュヌヴィエーヴ・ベルネーム・ド・ヴィレール」1910年
手にしているティーポットはかなり小さいので西洋風ままごと遊びなのかな。後期ルノワール・ワールド全開の作品。いつも思うのは、名を残した画家というのはテクニックや表現力が抜群に優れていたのではなく、画風・芸風を確立した人たちだということ。絵を3年も習えば技術的にこの程度は描けると思うが、この絵に負けないくらいのオリジナリティを作り出せるかは別問題。
愛くるしさに溢れた絵だが、よく眺めると腕や手が異様に太い。ルノワールはふくよかな女性が好みなのは知っていても、子供の絵にもその趣味を反映させるなんて、ちょっとヘンタイが過ぎる気もする。ちなみにタイトルはこの子のフルネーム。ガストン・ベルネームというルノワール作品を多く扱っていた画商の娘をモデルにした作品である。
「ガストン・ベルネーム・ド・ヴィレール夫人」1901年
こちらはそのお母さんの肖像画。ジュヌヴィエーヴと似ているところがあるかもしれない。ただしルノワールは目の描き方がけっこうワンパターンなので、どの肖像画も少し似通った印象を受けるものが多い。
晩年のルノワールは裸婦を多く描いている。展覧会にあったのはどれもほぼ等身大の大作で見応えのあるものばかりだった。しかし、いまいちノレなかったのは彼と私の「オンナの趣味」が違うからかな。ルノワールが好んだのはふくよかな女性。さらに胸が小さくて尻がでかいという条件があったらしい。そこまでなら何とかついていけても、今にも揺れそうな三段腹までは(^^ゞ
「横たわる裸婦(ガブリエル)」1906年
「大きな裸婦」あるいは「クッションにもたれる裸婦」1907年
「浴女たち」1919年
「浴女たち」がルノワールの絶筆。まるで天国のようにも思えるが、タイトルは浴女だから、この光景は空想だとしても、あっちの世界を描いた絵ではない。そしてタプタプのウエスト。三段腹ヌードを生身で見たいとは思わなくても、この絵を眺めていると、のどかで幸せそうだな、こんな世界もいいなあという気になってくるから不思議。まさにルノワール・マジック!
ルノワールは作品数の多い画家で(4000点は下らないといわれている)、今までもたくさん見てきた。でも回顧展スタイルは初めてのような気もする。「硬い時代」の絵はいわれなければルノワールと気付かないかもしれないが、スタイルは違っても根底には同じルノワールの「血」が流れていると感じられたのが大きな発見。そしてムーラン・ド・ラ・ギャレットを見ることができ、印刷や画像とは少し違った見え方だったので、本物と対面した満足感は大きかった。今後はさらに人生修行を重ねて、三段腹を受け止められるようになったら、もっとルノワールが好きになるかも(^^ゞ
おしまい
2016年08月10日
ルノワール展 その3
この展覧会の目玉作品は間違いなくムーラン・ド・ラ・ギャレット。その次は好みにもよるが「田舎のダンス」「都会のダンス」の2作品だろう。この両者が日本で揃うのは45年振りらしい。ルノワールにはもうひとつ「ブージヴァルのダンス」という作品もあって、それを併せて「ダンス3部作」という呼び方をする。そしてなんと「ブージヴァルのダンス」も来日中で名古屋ボストン美術館で展覧会が開かれている。
無理を承知で言えば、企画を融通・調整して3部作を一緒に見られる機会を設けて欲しかったなあ。日本に来ないならオルセー美術館まで出かけて見るつもりだったムーラン・ド・ラ・ギャレットと違って、ブージヴァルのダンスにそこまでの思い入れはなく名古屋までは遠いので。
「田舎のダンス」
「都会のダンス」
ダンス3部作はすべて1883年に描かれている(ちなみに明治16年)。これまでのエントリーで紹介してきた、1876年の作品である「陽光のなかの裸婦」や「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の7年後となる。そして1876年の頃とは描き方が違う。まず絵の中に光は溢れていない。そして写実的とまではいえないないが、人物はより細かなところまで描き込まれている。
美術史ではこのダンス3部作の頃からルノワールは、狭義の印象派から脱却して新しい画風を模索し始めたと説明される。アカデミックなことにあまり興味はないが、たとえ画風を少々変えたとしても、これから先のほとんどの作品で、一目見てルノワールとわかるアイデンティティは揺るがない。それは前回のエントリーで書いた彼のポリシーに変化がないからだろう。
モデルの男性は2枚とも共通。都会のダンスの女性は、印象派の作品によく登場するモデルのシュザンヌ・ヴァラドン。日本風に表現するならスザンヌ。彼女は後に画家にもなり、またユトリロの母親でもある。田舎のダンスの女性は、シャンパーニュ地方出身のお針子であるアリーヌ・シャリゴ。ルノワールは後に彼女と結婚している。「ブージヴァルのダンス」のモデルもシュザンヌ・ヴァラドンであり、「田舎のダンス」も、つまり3枚とも彼女の予定だったが、アリーヌ・シャリゴが嫉妬して自分を描かせたらしい(^^ゞ
二人の表情は、楽しそうなアリーヌ・シャリゴ(田舎のダンス)と、悲しそうにも見えるシュザンヌ・ヴァラドン(都会のダンス)で対照的。もちろんルノワールはどちらとも「おつきあい」があった。シュザンヌ・ヴァラドンは、この作品が発表された年に、父親非公表の私生児としてユトリロを出産する。ルノワールは父親と推定される候補の一人。また先ほどの嫉妬のエピソードなどもあり、その表情の違いについていろんな解説がある。そんなゴシップも絵の楽しみのひとつ。
参考までに、こちらが名古屋の展覧会に出品されている「ブージヴァルのダンス」。男性は3部作とも同じ人物。「田舎のダンス」のアリーヌ・シャリゴがふくよかなのでルノワールらしさを一番感じるが、ダンスの動きが感じられるという点ではこちらのほうが好き。
「母性」あるいは「乳飲み子」(ルノワール夫人と息子ピエール)1885年
「田舎のダンス」のモデルのアリーヌ・シャリゴは1885年にルノワールの子供を産む。当時ルノワール44歳、アリーヌ26歳と約20歳違いのカップル。5年後の1890年に結婚する。
何を描いても幸せそうな雰囲気になるルノワールが、母親が赤ちゃんにオッパイをあげるという幸せなシーンを描くのだから、この絵は幸せに満ちあふれている。ところでダンスの絵で、ルノワールは印象派から脱却して新しい画風を模索し始めたと書いたが、そのことはこの絵ではっきりと見て取れる。顔にしろ服にしろ輪郭がとてもシャープにはっきりと描かれている。イタリアに旅行してラファエロの絵を見て影響を受けたといわれている。ルノワールによれば「印象派は光の効果にかまけて、ものの形を描くことをおろそかにしてきた」ということらしい。
「ルノワール夫人」1916年 リシャール・ギノとの競作
アリーヌ・シャリゴはいわゆる良妻賢母タイプ。シュザンヌ・ヴァラドンと天秤にかけた時期もあったらしいが、夫婦仲はよくルノワールは彼女の絵を何枚も残している。しかし彼女は1915年に56歳で亡くなる。とはいってもルノワールが亡くなったのはその4年後の1919年だから、彼女の死は早かったとはいえ、そこそこ添い遂げた結婚生活ともいえるのだが。
これはアリーヌのお墓に供えるために作られたもの。実際に彫刻製作をしたのはリシャール・ギノでルノワールが監修役。二人がコラボレーションした彫刻は他にも展示されていた。「田舎のダンス」でもかなりふくよかに描かれているが、この彫刻でもその体格のよさが偲ばれる。ルノワールはきっと彼女のことを「カアちゃん」と呼んでいたに違いない(^^ゞ
ーーー続く
無理を承知で言えば、企画を融通・調整して3部作を一緒に見られる機会を設けて欲しかったなあ。日本に来ないならオルセー美術館まで出かけて見るつもりだったムーラン・ド・ラ・ギャレットと違って、ブージヴァルのダンスにそこまでの思い入れはなく名古屋までは遠いので。
「田舎のダンス」
「都会のダンス」
ダンス3部作はすべて1883年に描かれている(ちなみに明治16年)。これまでのエントリーで紹介してきた、1876年の作品である「陽光のなかの裸婦」や「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の7年後となる。そして1876年の頃とは描き方が違う。まず絵の中に光は溢れていない。そして写実的とまではいえないないが、人物はより細かなところまで描き込まれている。
美術史ではこのダンス3部作の頃からルノワールは、狭義の印象派から脱却して新しい画風を模索し始めたと説明される。アカデミックなことにあまり興味はないが、たとえ画風を少々変えたとしても、これから先のほとんどの作品で、一目見てルノワールとわかるアイデンティティは揺るがない。それは前回のエントリーで書いた彼のポリシーに変化がないからだろう。
モデルの男性は2枚とも共通。都会のダンスの女性は、印象派の作品によく登場するモデルのシュザンヌ・ヴァラドン。日本風に表現するならスザンヌ。彼女は後に画家にもなり、またユトリロの母親でもある。田舎のダンスの女性は、シャンパーニュ地方出身のお針子であるアリーヌ・シャリゴ。ルノワールは後に彼女と結婚している。「ブージヴァルのダンス」のモデルもシュザンヌ・ヴァラドンであり、「田舎のダンス」も、つまり3枚とも彼女の予定だったが、アリーヌ・シャリゴが嫉妬して自分を描かせたらしい(^^ゞ
二人の表情は、楽しそうなアリーヌ・シャリゴ(田舎のダンス)と、悲しそうにも見えるシュザンヌ・ヴァラドン(都会のダンス)で対照的。もちろんルノワールはどちらとも「おつきあい」があった。シュザンヌ・ヴァラドンは、この作品が発表された年に、父親非公表の私生児としてユトリロを出産する。ルノワールは父親と推定される候補の一人。また先ほどの嫉妬のエピソードなどもあり、その表情の違いについていろんな解説がある。そんなゴシップも絵の楽しみのひとつ。
参考までに、こちらが名古屋の展覧会に出品されている「ブージヴァルのダンス」。男性は3部作とも同じ人物。「田舎のダンス」のアリーヌ・シャリゴがふくよかなのでルノワールらしさを一番感じるが、ダンスの動きが感じられるという点ではこちらのほうが好き。
「母性」あるいは「乳飲み子」(ルノワール夫人と息子ピエール)1885年
「田舎のダンス」のモデルのアリーヌ・シャリゴは1885年にルノワールの子供を産む。当時ルノワール44歳、アリーヌ26歳と約20歳違いのカップル。5年後の1890年に結婚する。
何を描いても幸せそうな雰囲気になるルノワールが、母親が赤ちゃんにオッパイをあげるという幸せなシーンを描くのだから、この絵は幸せに満ちあふれている。ところでダンスの絵で、ルノワールは印象派から脱却して新しい画風を模索し始めたと書いたが、そのことはこの絵ではっきりと見て取れる。顔にしろ服にしろ輪郭がとてもシャープにはっきりと描かれている。イタリアに旅行してラファエロの絵を見て影響を受けたといわれている。ルノワールによれば「印象派は光の効果にかまけて、ものの形を描くことをおろそかにしてきた」ということらしい。
「ルノワール夫人」1916年 リシャール・ギノとの競作
アリーヌ・シャリゴはいわゆる良妻賢母タイプ。シュザンヌ・ヴァラドンと天秤にかけた時期もあったらしいが、夫婦仲はよくルノワールは彼女の絵を何枚も残している。しかし彼女は1915年に56歳で亡くなる。とはいってもルノワールが亡くなったのはその4年後の1919年だから、彼女の死は早かったとはいえ、そこそこ添い遂げた結婚生活ともいえるのだが。
これはアリーヌのお墓に供えるために作られたもの。実際に彫刻製作をしたのはリシャール・ギノでルノワールが監修役。二人がコラボレーションした彫刻は他にも展示されていた。「田舎のダンス」でもかなりふくよかに描かれているが、この彫刻でもその体格のよさが偲ばれる。ルノワールはきっと彼女のことを「カアちゃん」と呼んでいたに違いない(^^ゞ
ーーー続く
2016年08月06日
ルノワール展 その2
「ブランコ」1876年
どうしても人物に目が行くし、現在の我々がイメージするブランコがある場所とはまったく違うので、タイトルを見なければブランコが描かれた絵とは気付かなかったかも知れない。それにしても小さな女の子がいるのに、どうして大人がブランコを独占しているのだ?
ルノワール独特の光の表現が、かなりコントラストを高めに描かれている。写真をクリックして拡大し、画面から少し目を離して眺めると、そのことがよくわかるはず。前回のエントリーで書いた、昔、私が惹かれたルノワールの絵の幸せ感がこの絵にも溢れていると思う。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1876年
前回のエントリーで書いたように、死ぬまでには絶対に見たいと思っていた絵。どうしてそこまで気に入っているかというと、実は特に理由はない。何となく好きなだけ。絵なんてのはそんなものじゃないかな。念願かなって見られたわけだけれど、それで人生が変わったりもしない。それでも、もし日本で見られないなら、この絵が収蔵されているフランスのオルセー美術館に行ってでも見てやると思わせるのが絵の魔力かもしれない。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットというのはパリのモンマルトルにあったダンスホール。描かれているのは屋外だから、これは中庭みたいな所なんだろうか。ルノワール独特の光の表現が見て取れる。一番手前の男性の背中にいくつか丸があって、それで木漏れ日みたいなものを表現しているが、何となく不自然とというかちょっとやり過ぎという印象をずっと持っていた。でも本物を見るとサイズがタテ131.5センチ×ヨコ176.5センチと大きいせいもあって、そういう細かなところは気にならない。とにかく柔らかい光に包まれていることが実感できる絵なのである。大げさではなく最初は絵にスポットライトが当たっているのかと思ったくらいである。(もちろん絵に照明は当てられているが、それが反射して光るということはない)。
ところで美術史に残るほとんどの有名な絵は本や雑誌やネットで見ることができる。以前にも書いた気がするが、その本物を見てもビックリするくらい新たに感動したり、まったく違う印象を受けるものではない。精神的な満足感をのぞいて何が違うかというと、
その1:生々しさ
これは絵にもよるのだが、何百年前の作品でも昨日に描き終えたんじゃないかと感じるものがある。何となく画家の息づかいが感じられるというか。私が展覧会に通う理由のひとつがそれである。
本やネットで見る絵は写真に撮られたものである。そして写真に撮る・印刷する、あるいはディスプレーに表示する段階で絵が持つ情報が欠落するのだと思う。現在のテクノロジーでもすべてを再現できているわけでは決してない。浮世絵を見るといつも思うのだが、いい浮世絵だなあと思っていても、同じ作者の描いた肉筆画が一緒に展示されていると、それを見た後は浮世絵がつまらない。浮世絵=版画=印刷で、しかも原始的な印刷だから情報量は少ない。浮世絵と肉筆画を較べるのは極端かもしれないが、まあ同じような理屈で本やネットでは生々しさに欠けるのだと思っている。
その2:迫力
これは単純にサイズの問題。本やネットで見た絵から受ける感動の質は、本物を見た時とそう変わらないかも知れないが、感動の量はやっぱりサイズに比例する気がする。
主にこの2点が今までの持論だったが、ムーラン・ド・ラ・ギャレットを見て、光の表現も本やネットでは感じ取れていなかったと気付いた。生々しさと同じく情報量の欠落が原因だろう。光の表現といっても、レンブラントやカラヴァッジョのようなコントラストのはっきりしたものは本物との差はない。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは柔らかい光の表現だからそう感じるのかもしれない。このブログに貼った写真も、展覧会で見た印象とはやはり違う。
そういうわけで本物のムーラン・ド・ラ・ギャレットには光が満ちており、その光が絵からこぼれ落ちているように感じられて、それがとても気に入ったのだが意外な落とし穴が。当たり前だけど絵の中に光があるわけじゃない。そう錯覚するようにテクニックを駆使して描かれている。だからしばらく見ていると目が慣れて、絵からこぼれていた光を感じなくなってしまうのである(/o\)
絵に描かれているのは、ちょっとお洒落してやって来たパリの市民という感じで、これまたルノワールらしい幸せそうな絵である。でも実際のムーラン・ド・ラ・ギャレットはもっと場末的というか退廃感が漂うダンスホールだったらしい。モンマルトルも当時は低所得者層が住むエリアだった。「人生は辛いものだから、絵とは楽しく、きれいなものでなければならない」というのがルノワールのポリシー。だから我々が目にしているのはこぼれる陽光も含めてルノワール・マジックといえるのかもしれない。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットは当時のいろんな画家が描いている。画風ではなく、画家の視点というか描きたかったものが、それぞれ違っていておもしろい。※これらの作品は展覧会とは無関係。
ゴッホのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1886年
ロートレックのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1891年
ピカソのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1900年
ユトリロのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1931年
ちなみにムーランは風車、ギャレットは日本ではガレットとも呼ぶ焼き菓子の一種。敷地に風車があって焼き菓子が名物だからムーラン・ド・ラ・ギャレットと呼ばれていたらしい。ムーラン・ルージュというキャバレーの名前もよく耳にするが、ルージュ=赤(転じて口紅)の意味で、そこに赤い風車があったから店名になった。ところで風車というとオランダを思い浮かべる。でも19世紀のパリには粉挽き用の風車がたくさんあったとのこと。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、ダンスホールからレストランになって今でもパリにある。何でもすぐリニューアル=ぶっ壊してしまう日本と違って、歴史ある建物がたくさん残っているパリがうらやましい。
ーーー続く
どうしても人物に目が行くし、現在の我々がイメージするブランコがある場所とはまったく違うので、タイトルを見なければブランコが描かれた絵とは気付かなかったかも知れない。それにしても小さな女の子がいるのに、どうして大人がブランコを独占しているのだ?
ルノワール独特の光の表現が、かなりコントラストを高めに描かれている。写真をクリックして拡大し、画面から少し目を離して眺めると、そのことがよくわかるはず。前回のエントリーで書いた、昔、私が惹かれたルノワールの絵の幸せ感がこの絵にも溢れていると思う。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1876年
前回のエントリーで書いたように、死ぬまでには絶対に見たいと思っていた絵。どうしてそこまで気に入っているかというと、実は特に理由はない。何となく好きなだけ。絵なんてのはそんなものじゃないかな。念願かなって見られたわけだけれど、それで人生が変わったりもしない。それでも、もし日本で見られないなら、この絵が収蔵されているフランスのオルセー美術館に行ってでも見てやると思わせるのが絵の魔力かもしれない。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットというのはパリのモンマルトルにあったダンスホール。描かれているのは屋外だから、これは中庭みたいな所なんだろうか。ルノワール独特の光の表現が見て取れる。一番手前の男性の背中にいくつか丸があって、それで木漏れ日みたいなものを表現しているが、何となく不自然とというかちょっとやり過ぎという印象をずっと持っていた。でも本物を見るとサイズがタテ131.5センチ×ヨコ176.5センチと大きいせいもあって、そういう細かなところは気にならない。とにかく柔らかい光に包まれていることが実感できる絵なのである。大げさではなく最初は絵にスポットライトが当たっているのかと思ったくらいである。(もちろん絵に照明は当てられているが、それが反射して光るということはない)。
ところで美術史に残るほとんどの有名な絵は本や雑誌やネットで見ることができる。以前にも書いた気がするが、その本物を見てもビックリするくらい新たに感動したり、まったく違う印象を受けるものではない。精神的な満足感をのぞいて何が違うかというと、
その1:生々しさ
これは絵にもよるのだが、何百年前の作品でも昨日に描き終えたんじゃないかと感じるものがある。何となく画家の息づかいが感じられるというか。私が展覧会に通う理由のひとつがそれである。
本やネットで見る絵は写真に撮られたものである。そして写真に撮る・印刷する、あるいはディスプレーに表示する段階で絵が持つ情報が欠落するのだと思う。現在のテクノロジーでもすべてを再現できているわけでは決してない。浮世絵を見るといつも思うのだが、いい浮世絵だなあと思っていても、同じ作者の描いた肉筆画が一緒に展示されていると、それを見た後は浮世絵がつまらない。浮世絵=版画=印刷で、しかも原始的な印刷だから情報量は少ない。浮世絵と肉筆画を較べるのは極端かもしれないが、まあ同じような理屈で本やネットでは生々しさに欠けるのだと思っている。
その2:迫力
これは単純にサイズの問題。本やネットで見た絵から受ける感動の質は、本物を見た時とそう変わらないかも知れないが、感動の量はやっぱりサイズに比例する気がする。
主にこの2点が今までの持論だったが、ムーラン・ド・ラ・ギャレットを見て、光の表現も本やネットでは感じ取れていなかったと気付いた。生々しさと同じく情報量の欠落が原因だろう。光の表現といっても、レンブラントやカラヴァッジョのようなコントラストのはっきりしたものは本物との差はない。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは柔らかい光の表現だからそう感じるのかもしれない。このブログに貼った写真も、展覧会で見た印象とはやはり違う。
そういうわけで本物のムーラン・ド・ラ・ギャレットには光が満ちており、その光が絵からこぼれ落ちているように感じられて、それがとても気に入ったのだが意外な落とし穴が。当たり前だけど絵の中に光があるわけじゃない。そう錯覚するようにテクニックを駆使して描かれている。だからしばらく見ていると目が慣れて、絵からこぼれていた光を感じなくなってしまうのである(/o\)
絵に描かれているのは、ちょっとお洒落してやって来たパリの市民という感じで、これまたルノワールらしい幸せそうな絵である。でも実際のムーラン・ド・ラ・ギャレットはもっと場末的というか退廃感が漂うダンスホールだったらしい。モンマルトルも当時は低所得者層が住むエリアだった。「人生は辛いものだから、絵とは楽しく、きれいなものでなければならない」というのがルノワールのポリシー。だから我々が目にしているのはこぼれる陽光も含めてルノワール・マジックといえるのかもしれない。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットは当時のいろんな画家が描いている。画風ではなく、画家の視点というか描きたかったものが、それぞれ違っていておもしろい。※これらの作品は展覧会とは無関係。
ゴッホのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1886年
ロートレックのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1891年
ピカソのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1900年
ユトリロのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1931年
ちなみにムーランは風車、ギャレットは日本ではガレットとも呼ぶ焼き菓子の一種。敷地に風車があって焼き菓子が名物だからムーラン・ド・ラ・ギャレットと呼ばれていたらしい。ムーラン・ルージュというキャバレーの名前もよく耳にするが、ルージュ=赤(転じて口紅)の意味で、そこに赤い風車があったから店名になった。ところで風車というとオランダを思い浮かべる。でも19世紀のパリには粉挽き用の風車がたくさんあったとのこと。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、ダンスホールからレストランになって今でもパリにある。何でもすぐリニューアル=ぶっ壊してしまう日本と違って、歴史ある建物がたくさん残っているパリがうらやましい。
ーーー続く
2016年08月05日
ルノワール展
私が絵を好きになったきっかけはルノワールである。子供の頃から学校の授業でもいろいろ習うから、絵のことは社会常識としてそれなりに知っていても、自分とは縁遠い世界のこととずっと思っていた。それがある時、何かで見たルノワールの絵を「いいな」と思ったのが始まり。それが大学生だったか社会人になっていたか、いつのことかは忘れてしまった。どんな絵を見たのかも覚えていない。ただ、その時にたまたま見たルノワールを「幸せそうな絵だな」と感じたことははっきり覚えている。
美術館によく行くようになったのは、それからずっと後になるが、ルノワールがスタートだから最初は印象派が興味の中心だった。幸い日本では印象派の人気が高いので展覧会はしょっちゅう開かれている。ずいぶんたくさん見てきた。しかし今は印象派にはあまり関心がない。あんなに好きだったセザンヌを見ても退屈に感じてしまう。理由はいろいろあるのだが、感覚的なことで説明は難しい。というか別に確たる絵画哲学を持っているのではなく、単に趣味嗜好が循環しているだけ。
絵の場合は循環サイクルが5年から10年単位だが、音楽の場合はもっと短サイクル。例えば、ある時期はバッハを天上から降ってくる音楽と感激し、モーツアルトをまさに天才にしか作曲できない旋律と心酔するが、しばらく経つとあんな抹香臭い音楽(キリスト教だけど)、あんなワンパターンの音楽とほとんど聴かなくなる。そしてしばらく経つとまたーーー。
そういうわけで今は印象派というだけではあまり惹かれない.しかし、この展覧会には何があっても出かけるつもりだった。それはムーラン・ド・ラ・ギャレットという作品が出展されているから。日本に来たのは今回が初めて。なぜか昔からその絵が好きで(フランスの美術館に出かけても)死ぬまでに絶対に見ると決めていた絵だからである。そういう絵はたくさんあるので、がんばって長生きしなければ(^^ゞ
いつもは空いている平日に美術館を訪れる。土曜日になってしまったのは前々回のエントリーで述べた事情による。日比谷公園を出て六本木の国立新美術館に着いたのは午前10時半頃。チケット売り場に並んでいる人はまったくいなくてラッキーと思っていたのに、展示室内に入るとそれなりの混雑。よそでチケットを買ってくる人が多いのかな?
「陽光のなかの裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)」1876年
見ての通りざっくりしたタッチの絵。今ではそういう描き方に何の違和感がなくても、印象派以前は丁寧に描き込むのが「常識」であるから、当時としては革命的だったらしい。現在は巨匠扱いされている印象派の画家達も、その運動を始めた頃は絵画界で反体制派のパンク野郎の集まり。もっともルノワールには少し遠慮もあったようでタイトルにエチュード(練習曲)とつけているのがおもしろい。ちなみにトルソとは胴体の意味。
この作品は光と影を表現するために裸体に青や緑の色も使われている。それで「腐敗した死体」のようだという批判もあったらしい。私はこの絵が好きだったが「そういわれれば死んでいるとまではいわないが、肘や胸元辺りに青あざがあるようにも見える」とも思っていた。
しかし本物を目の前にすると、青や緑の色は確かに塗られていても、それがまったく気にならず、フワーッとしたまさに「陽光の中」という雰囲気が絵の中から、不思議なことに絵の周りからも漂っているように感じられる。印刷や画像で見るのとはかなり印象が違うのに驚いた。まさに光が溢れ出ている作品である。ちなみに絵が好きになったきっかけの絵はこれではないが、似たような雰囲気だったような気がする。
次のコーナーは肖像画。肖像画は注文主に渡す絵だからあまり自由には描けない。それでも普通の肖像画と較べればややカジュアルな雰囲気があって、その控えめなルノワールらしさが味わい深い作風につながっていると感じる。
「ダラス夫人」1868年
「ポール・ベラール夫人の肖像」1879年
「クロード・モネ」1875年
ルノワールに風景画のイメージはあまりないように思う。でもなかなかいい絵が多いのである。ただし、ここに貼った3つの風景画のうち2つは以前の展覧会でも見たことがある。いい絵は何度も見たいような、出展作品数には限りがあるのだから、やっぱり今まで見たことのない絵を持ってきて欲しかったような複雑な気分。
「イギリス種の梨の木」1873年
イギリスのでも、イギリス産でもなく、なぜかイギリス種のというタイトル。ところどころ、まるでクレヨンで描いて上から擦ってボカしたようなタッチになっている。それがルノワール独自のテクニックなのかどうかは知らないが、他の画家で見た記憶はない。
「草原の坂道」1875年
風景画ではあるが、間違いなく人物が絵の重要な構成要素になっている。人物の部分を指で隠せば案外つまらない景色。
「シャンロゼーのセーヌ川」1876年
人物画のほとんどはパッと見て彼の絵とわかるくらいオリジナリティが確立されているルノワール。しかし風景画はいろんなタイプの絵を描いている。「あのルノワール・ワールド」で描かれた風景というのはあるのかな。存在するなら是非とも見たい。
ーーー続く
美術館によく行くようになったのは、それからずっと後になるが、ルノワールがスタートだから最初は印象派が興味の中心だった。幸い日本では印象派の人気が高いので展覧会はしょっちゅう開かれている。ずいぶんたくさん見てきた。しかし今は印象派にはあまり関心がない。あんなに好きだったセザンヌを見ても退屈に感じてしまう。理由はいろいろあるのだが、感覚的なことで説明は難しい。というか別に確たる絵画哲学を持っているのではなく、単に趣味嗜好が循環しているだけ。
絵の場合は循環サイクルが5年から10年単位だが、音楽の場合はもっと短サイクル。例えば、ある時期はバッハを天上から降ってくる音楽と感激し、モーツアルトをまさに天才にしか作曲できない旋律と心酔するが、しばらく経つとあんな抹香臭い音楽(キリスト教だけど)、あんなワンパターンの音楽とほとんど聴かなくなる。そしてしばらく経つとまたーーー。
そういうわけで今は印象派というだけではあまり惹かれない.しかし、この展覧会には何があっても出かけるつもりだった。それはムーラン・ド・ラ・ギャレットという作品が出展されているから。日本に来たのは今回が初めて。なぜか昔からその絵が好きで(フランスの美術館に出かけても)死ぬまでに絶対に見ると決めていた絵だからである。そういう絵はたくさんあるので、がんばって長生きしなければ(^^ゞ
いつもは空いている平日に美術館を訪れる。土曜日になってしまったのは前々回のエントリーで述べた事情による。日比谷公園を出て六本木の国立新美術館に着いたのは午前10時半頃。チケット売り場に並んでいる人はまったくいなくてラッキーと思っていたのに、展示室内に入るとそれなりの混雑。よそでチケットを買ってくる人が多いのかな?
「陽光のなかの裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)」1876年
見ての通りざっくりしたタッチの絵。今ではそういう描き方に何の違和感がなくても、印象派以前は丁寧に描き込むのが「常識」であるから、当時としては革命的だったらしい。現在は巨匠扱いされている印象派の画家達も、その運動を始めた頃は絵画界で反体制派のパンク野郎の集まり。もっともルノワールには少し遠慮もあったようでタイトルにエチュード(練習曲)とつけているのがおもしろい。ちなみにトルソとは胴体の意味。
この作品は光と影を表現するために裸体に青や緑の色も使われている。それで「腐敗した死体」のようだという批判もあったらしい。私はこの絵が好きだったが「そういわれれば死んでいるとまではいわないが、肘や胸元辺りに青あざがあるようにも見える」とも思っていた。
しかし本物を目の前にすると、青や緑の色は確かに塗られていても、それがまったく気にならず、フワーッとしたまさに「陽光の中」という雰囲気が絵の中から、不思議なことに絵の周りからも漂っているように感じられる。印刷や画像で見るのとはかなり印象が違うのに驚いた。まさに光が溢れ出ている作品である。ちなみに絵が好きになったきっかけの絵はこれではないが、似たような雰囲気だったような気がする。
次のコーナーは肖像画。肖像画は注文主に渡す絵だからあまり自由には描けない。それでも普通の肖像画と較べればややカジュアルな雰囲気があって、その控えめなルノワールらしさが味わい深い作風につながっていると感じる。
「ダラス夫人」1868年
「ポール・ベラール夫人の肖像」1879年
「クロード・モネ」1875年
ルノワールに風景画のイメージはあまりないように思う。でもなかなかいい絵が多いのである。ただし、ここに貼った3つの風景画のうち2つは以前の展覧会でも見たことがある。いい絵は何度も見たいような、出展作品数には限りがあるのだから、やっぱり今まで見たことのない絵を持ってきて欲しかったような複雑な気分。
「イギリス種の梨の木」1873年
イギリスのでも、イギリス産でもなく、なぜかイギリス種のというタイトル。ところどころ、まるでクレヨンで描いて上から擦ってボカしたようなタッチになっている。それがルノワール独自のテクニックなのかどうかは知らないが、他の画家で見た記憶はない。
「草原の坂道」1875年
風景画ではあるが、間違いなく人物が絵の重要な構成要素になっている。人物の部分を指で隠せば案外つまらない景色。
「シャンロゼーのセーヌ川」1876年
人物画のほとんどはパッと見て彼の絵とわかるくらいオリジナリティが確立されているルノワール。しかし風景画はいろんなタイプの絵を描いている。「あのルノワール・ワールド」で描かれた風景というのはあるのかな。存在するなら是非とも見たい。
ーーー続く
2016年08月01日
日比谷公園〜国立新美術館
大輪と変化朝顔を見終わった後は、
日比谷公園をブラブラ。
2〜3回来たことがあるが、じっくり散歩するのは初めて。
このあたりは江戸城の隣で大名屋敷が多くあったエリアで、明治になって軍隊の練兵場となる。その後、西側に隣接するの霞ヶ関は官庁街として都市開発されたものの、日比谷は地盤がよくなかったので公園になったらしい。(今は日比谷も高層ビルが建ち並んでいるが、明治の頃とは土木・建築の技術レベルが違う)
開園は1903年(明治36年)だから今年で114年目。日本で最初の西洋式公園であり、東京のど真ん中にあって日本の近代化を見守ってきた公園でもある。
百年の貫禄のある木?
真上を見上げると、山の中にいるように錯覚する。
日比谷公園では広場のことを花壇と呼ぶみたい。
第1花壇の芝生広場。昨日エントリーとは逆側の北方向を眺めた写真。
花はところどころに植えられている程度。
第1花壇と第2花壇の途中にある音楽堂。
こちらは小型で、有名な日比谷の野音(野外音楽堂)はこれとは別にある。
第2花壇の手前にある噴水。
奥に見えるレンガ造りが日比谷公会堂。
第2花壇では広場の片側にたくさんの花が咲いていてキレイだった。花が植えられているのは細長く伸びたスペースなので、広い範囲を収めるためにカメラを斜めにして対角線上に撮影。
ちなみに第1・第2花壇とも芝生には入れないのが残念。この花壇(広場のこと)に関東大震災の時には被災者のための仮設住宅が建てられ、戦争中はイモ畑になったらしい。
現在位置は日比谷門。
この地図は右が北(皇居方向)になっている。
日比谷門には有名な日比谷花壇がある。この花壇はお店の名前。
門を出ると帝国ホテル。
また公園内に戻り日比谷公会堂の前までやって来た。レトロでいい味を出しているのに、窓枠のアルミサッシが興醒め(/o\)
日比谷公会堂のオープンは1929年(昭和4年)。当時は東京で唯一のコンサートホールで収容人数は約2000人。今年の4月から大規模改修工事のために休館中。再開時期は未定とのことで、この日に見た限りではまだ何も手つかずの状態。
西の方に歩いて行く。
黄色いテントの見えるところが大きい方の野音。中まで入ることはできなかった。
その先にあるのがツルの噴水で有名な雲形池。
松の眺めよし。
東京はこんなに快晴なのに、本当に群馬北部の山沿いは雨が降っているのかとふと疑問に思う。自宅に帰ってから天気情報を確認すると、かなりの雨量の雨雲がその一帯に居座っていた。ツーリング中止は正解だったようだ。
雲形池のほとりにある藤棚。
鶴を正面に眺めてひと休み。
この鶴、戦争中は金属の接収を避けるために隠されていたらしい。
松本楼(ろう)。
公園と同じく1903年(明治36年)創業の超老舗レストラン。
初代の建物は1923年(大正12年)の関東大震災で焼失。2代目の建物も1971年(昭和46年)の沖縄返還協定反対デモで過激派の火炎瓶が当たって焼失。その2年後の1973年9月25日に3代目の建物で営業再開。2代目建物が焼けた後、全国からいろいろ励ましの便りをいただいたということで、毎年9月25日には「10円カレー」が振る舞われ、それがよく報道される。
たくさんの人が行列に並ぶニュースで見て、滅多に手が出せない超高級カレーに違いない思っていたのだが、実は普段は880円のメニューと知ってビックリしたことがある。松本楼は1階のグリルと3階のフレンチレストランに分かれていて、1階ならそれほど高い店じゃない。
暑いので喉が渇いたのに、日比谷公園にはなぜか自動販売機がない。こんなお店は何軒か見かけたが、まだ時間が早いのか営業していなかった(この時点で9時45分くらい)。夏の朝に日比谷公園に出かけるなら飲料水持参がお勧め。
古ぼけた雰囲気だったので白黒にしてみた(^^ゞ
ヒマワリが植えられた一画を発見。満開にはほど遠いものの、朝顔に続いてヒマワリと夏の2大風物詩の花を見られてラッキー。
入ってきた時と同じく有楽町門へ向かう。この石垣は日比谷見付の跡。見付(みつけ)というのは城の外郭に設けられた門のこと。江戸城には外堀・内堀合わせて36箇所の見付があったとされる。
地下鉄に乗って六本木へ。ちなみに六本木は日比谷から3駅目。
六本木駅から地上に上がると東京ミッドタウン。
国立新美術館ができてから、通りにこんな名前がついた。美術館までは5分くらいでも、六本木駅は巨大なので電車を降りて地上に出るまで10分くらいかかる。
国立新美術館到着。
隣は政策研究大学院大学。
国立大学なんだけれど、どんな大学なのかさっぱり不明。
国立新美術館の裏側の土地は低く、背景に何もないので建物の見栄えがする。私はガラスを多用した建築デザインが嫌いであるが、この美術館だけは例外的に好き。
入口のとんがり帽子の所を下から見上げてみる。
毎度おなじみの館内風景。
館内から外はこんな風に見える。
もう1つの展覧会もおもしろそうだが、本日はルノワール展だけを鑑賞。
感想はいずれまた。
見終わったのは正午前くらい。ご飯を食べた後、自宅に戻って昼風呂に入り、その後はノンビリ過ごす。こういう早朝活動型の休日もいいかも。というか、やっぱり灼熱の真夏は無理にツーリングをしないで、こんな風に過ごすべきかとも思ったり。
おしまい
日比谷公園をブラブラ。
2〜3回来たことがあるが、じっくり散歩するのは初めて。
このあたりは江戸城の隣で大名屋敷が多くあったエリアで、明治になって軍隊の練兵場となる。その後、西側に隣接するの霞ヶ関は官庁街として都市開発されたものの、日比谷は地盤がよくなかったので公園になったらしい。(今は日比谷も高層ビルが建ち並んでいるが、明治の頃とは土木・建築の技術レベルが違う)
開園は1903年(明治36年)だから今年で114年目。日本で最初の西洋式公園であり、東京のど真ん中にあって日本の近代化を見守ってきた公園でもある。
百年の貫禄のある木?
真上を見上げると、山の中にいるように錯覚する。
日比谷公園では広場のことを花壇と呼ぶみたい。
第1花壇の芝生広場。昨日エントリーとは逆側の北方向を眺めた写真。
花はところどころに植えられている程度。
第1花壇と第2花壇の途中にある音楽堂。
こちらは小型で、有名な日比谷の野音(野外音楽堂)はこれとは別にある。
第2花壇の手前にある噴水。
奥に見えるレンガ造りが日比谷公会堂。
第2花壇では広場の片側にたくさんの花が咲いていてキレイだった。花が植えられているのは細長く伸びたスペースなので、広い範囲を収めるためにカメラを斜めにして対角線上に撮影。
ちなみに第1・第2花壇とも芝生には入れないのが残念。この花壇(広場のこと)に関東大震災の時には被災者のための仮設住宅が建てられ、戦争中はイモ畑になったらしい。
現在位置は日比谷門。
この地図は右が北(皇居方向)になっている。
日比谷門には有名な日比谷花壇がある。この花壇はお店の名前。
門を出ると帝国ホテル。
また公園内に戻り日比谷公会堂の前までやって来た。レトロでいい味を出しているのに、窓枠のアルミサッシが興醒め(/o\)
日比谷公会堂のオープンは1929年(昭和4年)。当時は東京で唯一のコンサートホールで収容人数は約2000人。今年の4月から大規模改修工事のために休館中。再開時期は未定とのことで、この日に見た限りではまだ何も手つかずの状態。
西の方に歩いて行く。
黄色いテントの見えるところが大きい方の野音。中まで入ることはできなかった。
その先にあるのがツルの噴水で有名な雲形池。
松の眺めよし。
東京はこんなに快晴なのに、本当に群馬北部の山沿いは雨が降っているのかとふと疑問に思う。自宅に帰ってから天気情報を確認すると、かなりの雨量の雨雲がその一帯に居座っていた。ツーリング中止は正解だったようだ。
雲形池のほとりにある藤棚。
鶴を正面に眺めてひと休み。
この鶴、戦争中は金属の接収を避けるために隠されていたらしい。
松本楼(ろう)。
公園と同じく1903年(明治36年)創業の超老舗レストラン。
初代の建物は1923年(大正12年)の関東大震災で焼失。2代目の建物も1971年(昭和46年)の沖縄返還協定反対デモで過激派の火炎瓶が当たって焼失。その2年後の1973年9月25日に3代目の建物で営業再開。2代目建物が焼けた後、全国からいろいろ励ましの便りをいただいたということで、毎年9月25日には「10円カレー」が振る舞われ、それがよく報道される。
たくさんの人が行列に並ぶニュースで見て、滅多に手が出せない超高級カレーに違いない思っていたのだが、実は普段は880円のメニューと知ってビックリしたことがある。松本楼は1階のグリルと3階のフレンチレストランに分かれていて、1階ならそれほど高い店じゃない。
暑いので喉が渇いたのに、日比谷公園にはなぜか自動販売機がない。こんなお店は何軒か見かけたが、まだ時間が早いのか営業していなかった(この時点で9時45分くらい)。夏の朝に日比谷公園に出かけるなら飲料水持参がお勧め。
古ぼけた雰囲気だったので白黒にしてみた(^^ゞ
ヒマワリが植えられた一画を発見。満開にはほど遠いものの、朝顔に続いてヒマワリと夏の2大風物詩の花を見られてラッキー。
入ってきた時と同じく有楽町門へ向かう。この石垣は日比谷見付の跡。見付(みつけ)というのは城の外郭に設けられた門のこと。江戸城には外堀・内堀合わせて36箇所の見付があったとされる。
地下鉄に乗って六本木へ。ちなみに六本木は日比谷から3駅目。
六本木駅から地上に上がると東京ミッドタウン。
国立新美術館ができてから、通りにこんな名前がついた。美術館までは5分くらいでも、六本木駅は巨大なので電車を降りて地上に出るまで10分くらいかかる。
国立新美術館到着。
隣は政策研究大学院大学。
国立大学なんだけれど、どんな大学なのかさっぱり不明。
国立新美術館の裏側の土地は低く、背景に何もないので建物の見栄えがする。私はガラスを多用した建築デザインが嫌いであるが、この美術館だけは例外的に好き。
入口のとんがり帽子の所を下から見上げてみる。
毎度おなじみの館内風景。
館内から外はこんな風に見える。
もう1つの展覧会もおもしろそうだが、本日はルノワール展だけを鑑賞。
感想はいずれまた。
見終わったのは正午前くらい。ご飯を食べた後、自宅に戻って昼風呂に入り、その後はノンビリ過ごす。こういう早朝活動型の休日もいいかも。というか、やっぱり灼熱の真夏は無理にツーリングをしないで、こんな風に過ごすべきかとも思ったり。
おしまい