2017年02月

2017年02月25日

ラジオ体操を始めました その3

Eテレのラジオ体操放送時間は10分間。2つの体操といくつかの補助的なメニューを併せて、実際に身体を動かすのは9分弱くらい。キッチリやると終わった時には軽く息がはずむ。それとこちらの写真説明でわかるように、体操によっては両脚はカカトを揃えて立つ、あるいはそのポジションのままカカトを上げるというのが正しい動作。それをすると脚の筋肉がストレッチされていることが実感できる。朝礼で体操していた子供の頃はそんなことは知らず常に両足は開いていたし、カカト上げもしていなかったと思う。別に細かな動きの指導もなかったし。


前回に書いた、ラジオ体操をして気がついた身体の不具合というのは2つある。まず私は膝が弱くなっているようだ。膝に負担が掛かる動きをするとちょっと辛い。普段の生活でそんなことはまったく感じていなかったから少しビックリした。膝って鍛え方ってあるのかな? 人生の課題がひとつ増えた。

ところで3つある体操のうち「みんなの体操」は高齢者を意識した運動量の低いもの。最初は手の指を開いたり握ったりすることから始まる。しかし、その6番目の動作はとても膝に負担が掛かり(倒した上体を起こしながら膝を曲げる部分)私にとってはもっとも難易度が高い。リンクした写真の説明よりかなり身体を倒し込んでいるせいもあるけれど、上体を起こす時に堪らず膝を床についてしまう。この体操をしている全国のジイちゃん・バアちゃんたちは、これが普通にできているのかな? もしそうならショックだ(^^ゞ

ちなみに毎日スクワットをやっていることも最初のエントリーで書いたが、スクワットの話をすると「膝を痛めるでしょ?」という反応が返ってくることが多い。それはやり方が間違っているから。スクワットはできるだけ膝を前に出さずに行うのが正しいポーズ。そうすれば膝にはほとんど負担が掛からない。イメージとしてはスキー競技の滑降のフォーム。ご参考までに。



もう1つの不具合はちょっと不安に思っている。みんなの体操で首を左右に傾ける動作がある。また3つの体操以外にショートレッスンのようなものが毎日あって、それにも首を倒したり回したりするものが多い。前からわかっていたことだが、私は首を右には45度ほど傾けられるが左にはその半分くらいしかできない。そして今回、首を傾ける際に右方向だけ小さく「グチュ」という音がしていることを発見した。ごく小さな音ではあるが、とてもイヤな音というか気になる響きの音である。頸椎(けいつい:首の骨)がずれたり変形したりしているのかなあ。首を左に倒せないこととも関係あるのだろうか。場所が場所だけに気になる。今すぐどうこうはないと思うが一度検査を受けるべきだろうか。悩み中。



ラジオ体操はよくできた全身運動で、健康や体調に効果があることは間違いない。問題はそれがどの程度かである。1日に9分程度じゃたいした運動量ではないようにも思えるし、でもゼロと9分の違いはとてつもなく大きいような気もするし。今のところの期待値は10年続けたら老化のスピードが5%遅くなっている、大きな病気にかかるリスクが10%減少するといったところかな。たぶん消費カロリー的にメタボにはほとんど効かないだろう。今後何か効果が出たらまたこのブログで報告する予定。


ところで「ラジオ体操第4」というパロディ動画を見つけた。
とりあえず笑えるからクリックしてみて。

これはリーボックが作成したものらしい。企業名はまったく出てこないので、マーケティング効果がどれだけあったかは疑問だが、こういう遊びも企業活動には大切。スニーカーはニューバランス派だけれど、楽しませてもらったから次はリーボックにしようかな。


ところで、いいオッサンがテレビの前で、しかも真剣に体操しているのは滑稽な光景である。誰も窓から覗いていませんように(^^ゞ


おしまい

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2017年02月23日

ラジオ体操を始めました その2

ラジオ体操というと「夏休みの朝にーーー」という話がよくでる。でも私にはその経験がない。住んでいる町内では実施していなかったと思う。ひょっとしたら眠たいとか面倒とかの理由で参加していなかったのかもしれないが。


それでも小学校の朝礼などでラジオ体操は日課のようなものだったので、三つ子の魂百までじゃないが、その音楽が流れ始めると身体がラジオ体操の動きを覚えていて驚いた。いわゆる完全に刷り込まれている状態。幼少期の教育や体験の影響は大きいと改めて感じる。世の中がおかしくなって、おかしなことを子供に教え出さなければいいけれど。


ただし身体が覚えていたのはラジオ体操の第1のみ。前回に書いたように放送では他にラジオ体操第2と「みんなの体操」というのがある。ラジオ体操に第2なんてあるのは知らなかった。「ラジオ体操第1〜」という号令が掛かるんだから、1以外があって不思議でもないが、そこまで考えていなかったし。


それで調べてみるとラジオ体操のルーツは、1925年にアメリカの生命保険会社が考案したものらしい。保険加入者の健康を促進すれば、保険会社として収益が増えるという周到なマーケティング戦略というより、健康にも貢献するという企業イメージのためのPRだろう。

それを簡易保険を管轄する逓信省(ていしんしょう:旧郵政省の前の官庁)が中心となって真似て日本に導入された。ラジオ体操がNHKで放送されるのも逓信省プロジェクトだった由縁。1928年(昭和3年)に発表された当初の名称は国民保険体操。昭和天皇の即位を祝う事業の一環として実施されたという歴史を持つ。

その国民保険体操は第1から第3まで作られ、それがラジオ体操に引き継がれ1946年と1951〜1952年の2回の改訂を経て今日に至っている。1946年の改訂では体操を難しくしたらしく、しかしそれが不評で1年ほどで放送中止になっている。どんな体操だったのか見てみたい気もするが。そして4年ほどのブランクを経て1951年にラジオ体操第1が、1952年に第2が復活。ただし第3は復活せずにそのまま廃止。もともと難易度の高い体操だったらしい。最近は「幻のラジオ体操第3」としてマニアックな人気を集めているとか。なぜかうつ病に効果があるという記事も。


みんなの体操は比較的新しく制定は1999年。高齢化社会に応じてかラジオ体操と較べると運動量は低め。椅子に座って体操するバージョンも用意され、またこの時にラジオ体操にも同じく椅子バーションが加えられた。


郵便局の簡易保険から「かんぽ生命」に組織は変わったが、今でも同社のホームページにはラジオ体操の情報が充実している。貼り付けた動画もそのホームページから。

ラジオ体操第1



ラジオ体操第2


みんなの体操



どう? ラジオ体操第1の音楽を聴いて身体が動き出した?


前回書いたようにラジオ体操をすると気分爽快になり、それを楽しみに朝起きるようなところがあるのだが、体操をしてみて自分の身体に不具合があることにも気がついた(>_<)


ーーー続く

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2017年02月21日

ラジオ体操を始めました

どう考えても運動不足である。週末に10キロほど走っていたジョギングをやめて10年ちょっとになる。外回りの営業マンじゃないので、普段の生活で歩く距離なんてたかがしれている。バイクで遠出すれば、それなりに体力を消耗するけれど身体の動きはほとんどない。隔週ペースでいいからジョギングか水泳をやらないといけないなあ、あるいはジムにでも通うかという思いはあるのだが、ついズルズルと10年以上怠けてきた。


幸いにも今のところ体力や筋力に衰えはまったく感じてはいない。しかし何となく生体エネルギー(←あくまで感覚的な表現です)のレベルがこの数年で低下してきた気がする。それでとりあえず2週間ほど前から始めたのがラジオ体操。


Eテレ(NHKの教育放送)で毎日やっているので、それを録画しておき、基本的には朝出かける前に。ラジオ体操の第1と第2、それと「みんなの体操」というのがあって、放送は曜日毎にそのうちのどれか2つを組み合わせるという構成。放送時間は10分。


2週間続けてみて、というかたかだか2週間なので、現在までに身体が軽くなったとか痩せたとかというような変化は一切なし。肩こりや腰痛にも効果があるらしいが、もともとそういう症状はないので。ただ前屈で最初は「膝と足の中間くらいまで」しか曲がらなかったのが(^^ゞいちおう床に指が触れる程度にはなった。


それよりもラジオ体操の効果は気分爽快になること。身体全体に血が巡っている感じ。とても気持ちがいい。この効果は30分くらい続く。先ほど何も運動していないと書いたが、実は毎朝、スクワット30回と腕立て80〜100回というのは20年以上続けている。運動強度でいえば体操よりこちらのほうがハードだが、スクワットと腕立てで気分爽快になったことはない。体操は全身のいろんな筋肉を動かすから、それが効いているのかもしれない。


ーーー続く

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2017年02月18日

世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画 その4

最初のエントリーで書いたように、12月12日まで展示のはずの「不忍池図」が、21日に訪れても見られた理由とはーーー

それは不忍池図のレプリカが展示されていたから。印刷されたものらしいが、レプリカといっても原寸大だし質感もよく表現されていて本物そっくり。もっとも本物を見たことはないけど(^^ゞ まあそれくらいよかったというわけ。油絵と違って日本画だから絵の具のタッチとかは関係ないし、もともと舐めるように絵を見るタイプじゃないから、本物を見たという精神的満足度を別にすれば視覚的には充分鑑賞できた。作品入れ替えの後にレプリカを展示してあるなんて初めての経験だったが、他の展示会でも是非取り入れて欲しい。


「不忍池図」 小田野直武
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手前のピンクと白の花はシャクヤクで、背景は上野の不忍池(しのばずのいけ)。まず鉢植えと大きな池という組み合わせにクリエイティブな閃きを感じる。シャクヤクは南蘋派風の細密な描写。鉢は何となくエスニックぽい雰囲気で、マレーシアやマカオあたりから輸入されたものかもしれない。後ろに置かれた白い鉢に植えられた花が色鮮やかなのも非日本画的なアクセントになっている。

背景の不忍池は遠近法的に奥行きを表現。だから南蘋派技法で主題をクローズアップして、背景を西洋的遠近法という秋田蘭画のセオリーを踏襲しているわけだけれど、この絵にはもっと自由というか崩した雰囲気も感じられる。背景で空が占める割合が多いから池を眺めている視点は低い。カメラでいうならしゃがんで撮る感じ。一方でシャクヤクの鉢は土が見えているから少し上から見ていることになる。この地点が水面からどれくらいの高さにもよるが、小田野直武の感性でいろんな見え方を合成・演出したんだろう。考えてみれば不忍池にまったく蓮がないのもおかしい。

またこの絵はタテ98.5センチ、ヨコ132.5センチとかなり大型。それとクローズアップ&遠近法の効果が相まって不思議な空間表現となっている。そして和洋折衷というより和と洋画溶け合ったようなそうでないような独特の雰囲気。一言でいうなら、とにかく新鮮な絵だった。江戸時代中期の日本画に新鮮さを感じるなんて思いもよらなかった。



「唐太宗・花鳥山水図」 小田野直武

秋田蘭画のすべてを投入したような絵で、また不忍池図と同じく重要文化財だが、不忍池図を見た後では、ごく普通の日本画に見えてしまう。それほど不忍池図にはインパクトがあった。
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「富嶽図」 小田野直武

遠近法的には少し整理されていない印象も受ける。それより目を引いたのは人物がとても小顔で八頭身なこと。これも西洋絵画の影響?
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最後に秋田藩藩主の佐竹曙山の作品を2つほど。大変レベルが高く、黙って見せられたら殿様が趣味で描いたものとは思わないだろう。それにハサミが置いてあったり、松が画面を横切っていたりとなかなか大胆な構図。遊び心のある殿様だったのだろうか。彼の後押しがあったから小田野直武が江戸に出て平賀源内に学べたわけで、秋田蘭画の最大の功労者でもある。

「燕子花にハサミ図」 佐竹曙山   ※燕子花=カキツバタ
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「松に椿に文鳥図」 佐竹曙山
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1773年に小田野直武が平賀源内に秋田で出会い、その年には江戸勤務になって彼に弟子入りしたことは最初のエントリーでも書いた。しかし1779年に平賀源内は殺傷事件を起こし投獄。その年の暮れに獄死。小田野直武も(そのとばっちりを受け?)謹慎処分となり秋田に戻ることになる。翌1780年に小田野直武も死亡。死因はよくわかっていないらしい。だいたい小田野直武について書かれた文書というのはほとんど残っていないとのこと。

展覧会のサブタイトル「世界に挑んだ7年」はその期間を意味しているわけだが、でも小田野直武に世界に挑んでいるという感覚はなかったと思う。西洋絵画や南蘋派の技法にインスパイアーされて、それをどん欲に吸収することに夢中だったに違いない。観念的な日本画に較べて、西洋絵画は遠近法にしてみても科学的なアプローチだから、美術としてだけではなく知的な面での刺激も大きかったはず。充実した7年間だっただろう。

ところで、これより約100年後の印象派の画家達は浮世絵に影響を受けた人が多いけれど、秋田蘭画を見せてビックリさせたかったなあ。


おしまい

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2017年02月17日

世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画 その3

解体新書の次のコーナーは「第3章 大陸からのニューウェーヴ〜江戸と秋田の南蘋派」。まずは秋田蘭画の前に南蘋派についての予習をしておこうという趣旨か。(日本画に疎い私にとっては)南蘋派は花の絵のほうがそれまでの日本画との違いがわかりやすい気がするのだが、私が訪れた期間の展示ではそういう絵は少なかった。


「海棠白頭翁図」 黒川亀玉

海棠(かいどう)が木の名前。白頭翁(はくとうおう)は白髪頭の老人のことであるが、頭頂部が白い種類のムクドリも白頭翁と呼ばれる。また堂という単語は父母を意味するらしい(中国語ではそうなのかな。日本だと御尊父様、御母堂様と堂を用いるのは母親だけだから)。それで海棠の棠と堂の語呂合わせと、白頭翁の白髪頭を併せて、両親が年老いても健在である縁起のいいテーマの絵柄ということになっている。

日本画って見て感じるだけじゃなく、背景の文化的知識が要求されるから苦手。もっとも西洋絵画にもキリスト教というか聖書の一節をベースにした題材が多いけれど。
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「鷹図」 宋紫石

作者の宋紫石は中国風の名前だが、日本人画家である楠本幸八郎という人の雅号(ペンネーム)。中国人画家である沈南蘋(しん・なんぴん:沈が名字)の画風を南蘋派として日本に広めたのは彼だとされている。平賀源内ネットワークの一人でもあり、その縁で小田野直武に南蘋派の技法を指導した。
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「弧松図」 松林山人

1年を通じて葉を落とさない松は不老長寿の象徴=めでたい存在。
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「笹鯉図」 佐々木原善

鯉も登竜門=>急流を上りきった鯉が竜になるという言い伝えから立身出世のめでたい存在。南蘋派は題材にこうしためでたい、縁起のいいとされる内容を選ぶのも特徴のひとつ。そういうある種の付加価値のようなものも南蘋派に人気が出た理由だと思われる。
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そしていよいよ「第4章 秋田蘭画の軌跡」に入る。展示前半は風景画が中心。つまり遠近法を取り入れた日本画。最初は円山応挙で予習するようになっている。


「四条河原夕涼」 円山応挙

中央の建物を挟んで、左側の人混みと右側の鴨川の描き方で遠近法の特徴がよくでている。なお、この四条河原夕涼はいくつものバージョンがあり、ここに貼り付けたのは展覧会で見たものと細部が微妙に異なる。また同じタイトルで、かなり内容の異なるものを昨年の円山応挙の展覧会でも見た。彼はこのテーマが気に入っていたのかな。
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「眼鏡絵 (阿蘭陀十景 自沖見湊之図)」

これは第2章で展示されていたもの。眼鏡絵のことはよくわからないが、レンズを通して絵を見て、立体的にというか遠近感を強調して楽しむものだったようだ。現代に置き換えるなら3D映像のような位置づけ。これはオランダから輸入された眼鏡絵のひとつ。こういうものを参考にして江戸時代の画家は遠近法を学んでいたらしい。ちなみにこれはオランダはリスボンの港風景。
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「高輪海景」 小田野直武
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「不忍池図」 小田野直武
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ウ〜ン、こうやって円山応挙と小田野直武を較べてしまうと、格の違いが明らかになってしまったかな(^^ゞ ところで遠近法や陰影法は西洋絵画で生み出された技法で、日本画が後にそれを取り入れたとされている。しかしいつも思うのは、遠近を描き分けたり陰影をつけたりするのは、絵を描いていいればごく当たり前のことというか、そうしない方が不自然。それなのに日本の画家は西洋絵画を見るまでそれに気がつかなかったのだろうか。ナゾ

なおこの不忍池図はタイトルは同じだが、重要文化財の不忍池図とは別物。



「大黒・恵比寿図」  小田野直武

陰影法を駆使して立体感を出した作品。日本画としてはとても見慣れない印象を受けるのは、それだけ普通の日本画が平たく描かれているからということになる。
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次の2枚は秋田蘭画の特徴がよくあらわれているとされる。まず南蘋派の影響で写実的。そしてテーマにめでたい、縁起のいいものを取り入れている。またメインとなるものを極端にクローズアップし、背景をとても小さく描くというメリハリのある遠近法。いずれにしても日本画としてとても新鮮なインパクトを感じた。

「水仙に南天・小禽図」 小田野直武
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「鷺図」 小田野直武
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「牡丹図」 小田野直武

これは極めて精細に描かれた絵。江戸時代の人々にはスーパーリアルに感じられたに違いない。ボタンも縁起がいいとされていて幸福を象徴する花らしい。まあ縁起物なんてたいていこじつけとか語呂合わせだが。
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そして見られなかったはずの「不忍池図」とのご対面となる。


ーーー続く

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2017年02月13日

世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画 その2

展示会は5つのコーナーで構成されている。最初は「第1章 蘭画前夜」。要は小田野直武が平賀源内に出会うまでの作品である。彼は狩野派の絵を手本に学んでいたと解説にあった。



「花下美人図」 小田野直武

これは狩野派とは関係ない。版画じゃなく肉筆画と呼ばれるほうの浮世絵かな。若きナオタケ君はいろいろと勉強していたみたい。タイトルは花の下にいる美人という意味で「花下」は「かか」と読む。
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「相思図」 石川豊信

この石川豊信は調べたところ江戸の浮世絵師で秋田蘭画とは無関係な人物かと思う。小田野直武の花下美人図と雰囲気を合わせるために展示したのだろうか? タイトルの相思は相思相愛の相思。つまり単なる美人画ではなく、左右に描かれている女性が互いを想いやっているという設定。戦国時代の武将にホモが多かったとはよく聞くけれど、江戸時代はLGBTに寛容だった?
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「鍾馗図」 小田野直武

鍾馗は「しょうき」と読む。中国の道教の神様の一人らしい。道教って中身はよく知らないが、儒教・仏教と並んで中国の三大宗教とされている。これは作品というより練習のために描いたものらしい。
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次のコーナーは「第2章 解体新書の時代 未知との遭遇」。テレビでこの展覧会のことを知るまで、小田野直武なんてまったく聞いたこともなかったと前回のエントリーで書いた。でも実は誰でも彼が描いたものを子供の頃に目にしているのである。それは杉田玄白と前野良沢らによって出版された解体新書。オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」の翻訳である。それぞれ何となく聞き覚えのある名前でしょ。

秋田で平賀源内と出会った小田野直武は、藩主である佐竹曙山の意向を受け、江戸で平賀源内に弟子入りすることになる。平賀源内は杉田玄白と親しく、彼から解体新書に載せる解剖図を描ける画家が必要と頼まれて小田野直武を推薦したといういきさつ。小田野直武にとっては、これが江戸での最初の仕事となる。平賀源内がいなければ、この歴史的偉業への参加や、後に生まれる秋田蘭画もなかったわけで、やはり出会いは人生を左右するなと改めて思う。



「解体新書の表紙」 小田野直武
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「解体新書の解剖図」 小田野直武
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解体新書がこの展覧会で展示されていることは事前に知っていた。別に何とも思っていなかったが、実物を目の前にするとなぜか突然に興奮した。うまく表現できないが「歴史に出会った」という感覚。美術品に限らず「歴史的なもの」はいろいろと見てきているが、今までにこんな経験はなく不思議。そういえば小学校(だったと思う)の授業で解体新書のことを習った時、スゲーっと感心したことを思い出したが、そういう記憶と関係あるのかな?

小田野直武が解体新書プロジェクトに参加して、その解剖図が高く評価されたことは事実だが、少し疑問に思うこともある。解体新書のことをおさらいしておくと、杉田玄白らが罪人の腑分け(解剖)に立ち会って、人体の構造がターヘル・アナトミアに書かれている通りだったことに感銘を受け、それを翻訳したのが解体新書である。その翻訳には辞書もなく、オランダ語の先生もおらず大変苦労したらしい。

それはわかるとして、ポイントはこれが翻訳書であること。日本での腑分けをオリジナルに執筆した本ではない。そしてこれは木刷りの印刷である。解剖図を描くのと、それを木版に彫るのは別の人間。つまり解剖図は原書のコピーなわけだから、小田野直武が描かなくても彫刻職人が原書の解剖図を見ながら彫れば済んだことだと思うのだが。そのうち気が向いたら調べてみよう。


解体新書はターヘル・アナトミアだけでなく、複数のオランダの医学書をまとめたといわれている。そして表紙の図案はワエルダという医師が書いた解剖書の表紙を参考にしている。これがワエルダの表紙(展覧会の出品作品ではない)↓
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小田野直武のは参考にしたというよりパクリですな(^^ゞ 唯一の違いは彼が描いた絵は男性がオチンチンを手で隠していること。そこまでのヌードは江戸時代ではまだ無理だったんだろう。

ところでこの表紙に描かれているのはアダムとイブである。つまりキリスト教につながる図案。そしてもちろん当時キリスト教は御法度。杉田玄白は解体新書への翻訳にあたり、キリスト教的な記述は省くという慎重な配慮をしていたとされる。それなのに、なぜ表紙に堂々とアダムとイブが描かれているかは不思議。解体新書は将軍にも献上されているが、もちろんこのことでのお咎めもなし。真相は謎だが、アダムとイブが聖書に書かれている物語だとは、幕府の取り締まり側も含めて関係者一同誰も知らなかったという説が今のところ有力らしい(^^ゞ


ーーー続く

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2017年02月12日

世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画

訪れたのは昨年の12月21日と2ヶ月近くも前。書き忘れていたわけじゃないけれどーーーといういつものパターン。そんな昔なのに日付が正確なのは美術館の入口で日付を記録するためだけに写真を撮ったから。


展覧会を開催していたサントリー美術館は六本木にある東京ミッドタウンの中にある。実は、このビル群の名前をずっと六本木ミッドタウンだと勘違いしていた。普段は「六本木のミッドタウン」あるいは単に「ミッドタウン」としか口にしないからかもしれない。それはともかくサントリー美術館の入口は実にあっさりしている。普通のショップだと思ってこの前を通り過ぎている人もいるんじゃないかな。
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この展覧会はテレビの美術番組で知った。そこで取り上げられていた小田野直武の「不忍池図」という作品が、とても印象的だったので是非とも見てみたいと思った次第。しかし会期が3ヶ月弱しかないのに、4回も作品を入れ替えるという短サイクル展示。放送があったのが12月11日で、それから10日後に訪問と私の美術館巡りとしては素早い行動だったのだが、それでも「不忍池図」の展示は無情にも12日まで(/o\) でもまあ似たような作品が他にもあるかなと期待して。


ところで小田野直武。どこで区切るのかわかりにくい名前である。正解は小田野が名字で、直武が名前のオダノ・ナオタケ。小野田という名字はよくあるけれど小田野は初めて聞く気がする。それでタイトルにもなっている小田野直武と秋田蘭画については今までまったく知らなかった。カスったこともなかったという感じ。しかし知らなくてもそれほど恥はかかない、知る人ぞ知るというジャンルらしい。その概要を調べてみるとーーー



秋田蘭画というのは、江戸時代中頃の18世紀後半に秋田藩で始まった絵画の流派というかムーブメントである。


蘭画の欄とはオランダの欄で、蘭学の蘭と同じ語法。ちなみにオランダは漢字で書くと阿蘭陀または和蘭陀。でも蘭画=オランダ絵画という意味ではなく、鎖国の当時はオランダ=ヨーロッパみたいなものだから、蘭画=西洋画という感覚だったようである。


ネーミングには出てこないが、秋田蘭画は沈南蘋(しん・なんぴん:沈が名字)という中国から来日した画家をルーツとする南蘋派(なんぴんは)という画風も取り入れている。南蘋派を一言でいうと写実的な花鳥画が特徴。当時の日本美術界に大きなインパクトを与え、円山応挙、伊藤若冲、与謝蕪村などにも影響を与えたといわれる。


つまり秋田蘭画は日本画に西洋画と、南蘋派の中国エッセンスを取り入れたクロスカルチャーな絵画ということになる。


しかしなぜ秋田藩でそんなムーブメントが起きたのか?の理由がおもしろい。当時の秋田藩は銅の産地で、その銅山開発の技術指導者として平賀源内が江戸から招聘された。彼は日本のレオナルド・ダ・ヴィンチみたいなマルチな才能を持った人物である。西洋の科学だけではなく芸術にも通じている。そんなきっかけで小田野直武に平賀源内が出会い、彼の才能を見込んで、遠近法や陰影法などの西洋絵画技法を伝授したというのが秋田蘭画が生まれたいきさつ。


その小田野直武は秋田藩士。つまり本職は武士。子供の頃から絵が好きだったらしいが、平賀源内と出会った当時、趣味として絵を描いていたのか、藩のお抱え絵師のような立場になっていたのかは少し調べた程度ではわからなかった。しかし武士とはいえ江戸時代の中頃ともなれば戦いもなくなって、武士=軍人というより武士=役人だから、経理担当の武士がいたように美術担当の武士がいてもおかしくはない。


話はそれるが「藩」は江戸時代に大名が治めるエリアを指していた言葉と思われている。しかし実は「藩」という制度は江戸幕府にはなく、その言葉が一般に使われ出したのは明治になってかららしい。ではなんと呼んでいたかというと伊達とか島津といった大名の家の名前。また藩がなければ藩士という言葉も成り立たない。だから例えば大石内蔵助なら自己紹介の時に「赤穂藩・藩士の大石です」ではなく「浅野家・家臣の大石です」となる。時代劇で「我が藩のーーー」というような表現をよく耳にするが、時代考証をしっかりするなら「当家のーーー」というセリフでなければおかしい。


秋田蘭画に話を戻すと、秋田藩は武士が絵を描く文化があったようである。秋田蘭画のスリートップは小田野直武と、彼が教えた佐竹曙山(しょざん:これはで画家名で本名は義敦)と佐竹義躬(よしみ)の二人。そして佐竹曙山は秋田藩主であり、その弟の佐竹義躬は秋田東部にある角館(かくのだて)の城代。城代とは城の最高責任者。つまり大名と藩の最高幹部が現代でも美術館に人を呼べる絵を描いていたことになる。

そんなに絵にうつつを抜かしていたら没落しそうなものであるが、実は佐竹家は現在まで続くセレブでもある。その子孫は孝明天皇との間に明治天皇を産んでいる。つまり現在の皇室には佐竹家の血筋も流れていることになる。また現職の秋田県知事も佐竹家の末裔。佐竹という名前の人と知り合ったら、とりあえず仲良くしておこう(^^ゞ


残念ながら24歳で平賀源内と出会って秋田蘭画を興した小田野直武は30歳で死去。展覧会サブタイトルの「世界に挑んだ7年」はそういう意味。その5年後には佐竹曙山も亡くなり、その後は秋田蘭画は廃れて歴史に埋もれた存在となる。再び世に知られるようになったのは昭和5年(1930年)に出版された本で評価されたから。





説明が長くなったので絵の紹介は次回に。ところで展覧会に関心を持ったきっかけとなったこの「不忍池図」。12月12日までの展示だったのだが、訪れた21日も「見ることは見られた」のである? それはちょっとしたサプライズだった。
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ーーー続く

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2017年02月08日

小田原フラワーガーデンで観梅 その2

どんな花も青空を背景に撮るとキレイだが、梅はその可憐で穏やかなイメージとは違って、枝がまるで天に伸びていくようで、そこに花をつけるので格別に映える。また下からその姿を見上げるととても力強い生命力を感じる。私が梅を好きなのはそれが理由かもしれない。

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これはしだれ梅。
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圧巻です。
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この日は快晴で、雲がない青空だと画用紙をバックにしたみたいで不自然かも。それとデジカメは晴れていれば空がやたら真っ青に写る傾向がある。草や葉の緑など他の色は強調されず、なぜ青だけがそうなるのかの理由は知らない。濃い青との対比で花の色も写真的にはキレイ。もちろん実際の空の色とは全然違う。もしこんな色の空なら天変地異の前触れでビビる。



小田原フラワーガーデンは200品種480本の梅が植えられている。それぞれの木には品種を説明したプレートが立てられているが、
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中にはこんなプレートも(^^ゞ
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園内の東屋(あずまや)に置いてあった火鉢。火鉢の暖かさを感じたのは幼稚園の頃に祖父母の家で経験して以来かもしれない。意外といいものだ。インテリアとしてもおもしろいしスローライフを気取るならうってつけ。
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話は変わるが日本で薪ストーブはお洒落なアイテムとされている。薪ストーブを設置するにはそれなりの家屋でなければならず、それがあるということはリッチな証拠。しかし最近ニュースで見たが、ロンドンでは石油やガスで暖を取れない貧困層が薪を燃やしており(ヨーロッパではたぶん古いアパートでも暖炉はあるのだろう)しかも貧困層が増えてきたので、それが大気汚染の一因となっているらしい。ところ変わればもののイメージも変わる。




アップの写真。梅の雄しべは長くて本数も多い。咲き始めは雄しべがキレイに広がっているが、だんだんと中央に密集してくる。そうなるとちょっとボーボーに伸びた鼻毛のようにも見えてくる(^^ゞ まあ最近はそんな人も滅多に見かけないが。ちなみにバカボンのパパの鼻の下に描かれているのは鼻毛ではなくヒゲということらしい。
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天気もよくたくさんの種類の梅を見られて幸せな気分に浸る。白、ピンク、紅といった色の違いを除けば各品種の差はわずかなんだけれど、それを見分けるのも観梅の楽しみ。私もけっこうレベルが上がってきたかも。それとここの梅林は2ヘクタールと比較的コンパクトだから疲れないし見飽きないのもいい。



バイクを駐めたところにきれいな黄色のミモザが。到着した時は梅で頭がいっぱいで気がつかなかった。ミモザも春に咲く花。梅と同じように年末年始の暖冬で早く咲いたのだろうか。
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いつもならこのあたりに来た時は小田原か大磯、あるいはさらに足を伸ばして湘南の海岸まで走る。しかしこの日は早く帰る必要があり、小田原フラワーガーデン近くが入口となっている南足柄広域農道経由で北上して東名に。久し振りのクネクネ道はバイクにしばらく乗っていなかったこともあって、やたら肩に力が入って疲れた(/o\)

午後3時半頃帰宅で走行175キロ。梅の開花がが3〜4週間早まったということは、梅より先に咲くロウバイを今年は見逃したということなんだろうな。それがちょっと残念。


おしまい

wassho at 08:46|PermalinkComments(0)   *ツーリング | お花畑探訪

2017年02月04日

小田原フラワーガーデンで観梅

先週の日曜日に城ヶ島へスイセンを見に出かけたので、この週末はバイクに乗るつもりはなかった。しかし金曜日の夜に「梅はそろそろ咲き始めたかな?」と思ってネットで調べると、なんと各地で既に満開との情報。

小田原フラワーガーデンのホームページによると、年末年始が暖かかったので、今年は例年より3〜4週間も開花が早まっているらしい。というわけで急遽、観梅ツーリング決行。小田原フラワーガーデンは何度か訪れているが、梅のシーズンはなかったので、今年の観梅はここと最初から決めていた。それにしても年末年始の気温なんて、とっくに忘れているなあ。


往きはシンプルに東名を厚木インターで小田原厚木道路に乗り換えて、最寄りの荻窪というインターで降りる。グーグルマップだとインターを降りてすぐ高速道路西側の丘陵を駆け上がって小田原フラワーガーデンに着くというルートが示されたのに、バイクのナビに従って走ると、小田原市役所前など市の中心部経由を道案内され少し遠回りだった。その道順なら1つ手前のインターで降りたほうが近かったのにとナビを恨む。帰りは小田原フラワーガーデン近くに入口がある南足柄広域農道を走ってから大井松田インターで東名に。
地図



午前10時過ぎに出発して約2時間で小田原フラワーガーデンに到着。高速道路での気温は10度くらいだが日差しがかなり強く寒さはなし。クルマは駐車場空き待ちが10台くらい並んでいた。バイクはスイスイと横入りできる。ここはバイクや自転車の駐輪場はない。しかし前回来た時にこの入口横のスペースがその代わりになっていることを確認済み。なおクルマは少し離れたところに臨時駐車場も設けられている。
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梅祭り絶賛開催中。
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梅林の入口は駐車場の隣なのだが、
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冬のバラ園はどうなっているか見たくて、いつも通り中央の広場から入る。
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バラは短く剪定されていた。
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いよいよバラ園から梅林に降りる。
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まさに満開。小田原フラワーガーデンは植物園的に多くの種類が植えられているので、様々な梅の表情を楽しめる。
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園内が梅の香りに包まれているというレベルではないが、梅の木によっては近づくといい香りが漂ってくる。何となくピンク系の梅にいい匂いがするものが多かったように思う。また梅の色は大きく白、ピンク、紅に分けられるが、紅系は咲くのが早いのか既に盛りを過ぎたものが多かった。


園内の池。錦鯉は60〜70センチはあるかと思われるジャンボサイズ。
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広場にはカレーとおでんの屋台カーがあって「オレンジミルクとチキンのカレー」というのを食べることにする。30歳代のおとなしそうなニイチャンが切り盛りしているのだが超手際が悪く、客は私だけなのにかなり待たされた。
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屋台に貼ってあった写真とはずいぶん違う(^^ゞ 味はいろいろ工夫して煮込んだカレーということがわかるものの、これよりおいしいレトルトカレーはたくさんある。
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ところで先週に城ヶ島に行った時、歩き回ると身体に汗をかき、それが冷えて寒かった。それで今回は下着シャツに速乾性のものを着込んでみた。夏のツーリング用のピチピチ速乾シャツではなく、普段着るユニクロのエアリズム。この日の小田原は城ヶ島の時と同じく12〜13度くらいで、さらに日差しも強かったが、園内がそれほど広くなく歩く量が少なかったのと、風がけっこう冷たかったので汗はかかなかった。

「冬でもアウトドア活動の時はヒートテックなど発熱シャツではなく速乾シャツを着るべし」とどこかで読んで、その効果を試したかったのに残念。


ーーー続く

wassho at 23:05|PermalinkComments(0)   *ツーリング | お花畑探訪

2017年02月03日

少しは咲いたクリスマス・カクタス

1月10日に室内に取り込んだクリスマス・カクタス。しばらく変化がなかったが、17日から1週間ほど自宅を留守にして戻ってみると開花していた。写真はそれから約1週間後の30日に撮ったもの。
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花数はまあ予想通り。
でも今年は葉っぱが色つやよく元気なのに花が少ないのは、やっぱり残念というか不満。
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室内に取り込まなかった鉢は開花せず。
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これも予想通りだけれど、以前は普通にベランダで咲いていたし、クリスマス・カクタスは日が短くなると花を咲かす短日植物だといっても、自宅のベランダが夜間に照明が当たっているわけでもない。なぜ室内に移さないと咲かなくなったのかは不可解。

とりあえず今年も花を眺められたから良しとするか。

wassho at 20:57|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2017年02月02日

2017年シーズンのチューリップ発芽は1月30日

久し振りにベランダに出てみるとめでたく発芽していた。

寒いので毎日確認していたわけではない。
でもこれは、この日か1日前くらいの発芽と思われる。
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こちらはさらに1日前かも。
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写真を撮った1月30日は1月としては異例な最高気温20度近く。それを記念して?今年の初発芽をこの日と認定することにした。2015年は25%、2016年は57%とここしばらく低調な開花率が続いている。今年はなんとかたくさん咲いて欲しいものだ。


これはチューリップの球根を買った時にオマケとしてついてきたクロッカス。こちらのほうが成長は早く既に10以上の発芽がある。開花時期もチューリップより1ヶ月ほど早い3月らしい。
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クロッカスの名前は知っていても花の形はイメージできない人も多いかもしれない。私もそうだった。ウィキペディアの写真をリンクしておく。なかなかいい感じ。丈はあまり高くない花のようだ。何も調べずチューリップと同じように植え、同じように水やりしているけれど、今のところそれで大丈夫みたいで安心した。

wassho at 20:04|PermalinkComments(0)   *チューリップ |   *チューリップ以外