2017年07月
2017年07月30日
リアル(写実)のゆくえ その3
そして楽しみにしていたスーパーリアリズムのコーナー。
上田薫の作品は何度か見たことがある。生卵シリーズ以外にコップに入った水とかスプーンやフォークなどの食器などを描いたものなど。まるでCG(コンピューター・グラフィック)のようだが、もちろん筆で描かれている。ただし対象をカメラで撮影して、プロジェクターでキャンバスに投影したものをなぞって描くらしい。だから上田薫の絵は彩色のスーパーリアリズム。
それと卵などの小さなものを描いた作品が多いが、たいていキャンバスのサイズが大きいのも特徴。この展覧会の「なま玉子C」も縦1.3メートル横1.62メート。つまり超リアルな生卵を現実離れしたサイズで見ることになる。この相反する感覚が病みつきになる。
ところでCGのように見えるから若い画家と思ってしまうが、上田薫は1928年(昭和3年)生まれの御年88歳。なぜかウィキペディアでは2001年4月1日に亡くなったことになっているが、今年の3月に開かれた展示会の紹介記事で88歳と書かれているからご存命かと。ちなみに薫という名前だが男性。
上田薫 「なま玉子C」 1976年
三浦明範(あきのり) 「鮭図-2001」 2001年
リアリズム志向の画家はやはり鮭が好きなのかと思ってしまった作品(^^ゞ
この展覧会を紹介していたテレビ番組で知って、どうしても見たかったのが犬塚勉の作品。超・超・超がつくほど細密な絵なのに、描かれているのは実に実に実にありきたりな光景である。あちこちにバイクでツーリングしてよく写真を撮るが、こんな場所でシャッターはたぶん切らない。それになぜか心惹かれた。理由は今もってよくわからない。
この目で見るのとブログに張った画像で印象に差はない。よほど接近しなければ写真にしか見えない。あえていえばツマラナイ写真である。でもずーっと見続けてしまう。それがとても不思議。
犬塚勉 「林の方へ」 1985年
犬塚勉 「梅雨の晴れ間」 1986年
もうひとつ見たかったのが水野暁(あきら)の作品。彼は浅間山近くの別荘のようなところから、三年間かけてこの作品を完成させたとテレビで紹介されていた。当然ながら季節によって景色は変化する。それを季節をまたいで写生するとどうなるか。彼は冬に仕上げた雪山を、春になって雪が減っていくのにあわせて地面に塗り替えていった。夏には土色の山になり、そしてまた冬になってーーー。制作過程のこの絵は季節に応じて描かれている内容が違っていたのである。この絵を描き上げるにはそういうことが必要だったのだろうか。それにしても画家のやることは普通の人とは違うなというのが正直な感想。
完成作の景色は残雪?積もり初め?それとも画家のイマジネーション? それはよくわからないが、リアルというよりその迫力に圧倒された。上田薫や犬塚勉の絵にはジーッと見入ってしまうところがあるが、これは絵が目に飛び込んでくる。そんな風景画は初めて。
水野暁 「The Volcano−大地と距離について/浅間山」 2012〜2016年
そして会場の入口で「鮭 高橋由一への オマージュ」が展示されていた磯江毅の「深い眠り」。制作は1994〜1995年
最初のエントリーで書いた「超写実的で写真のような絵を眺めると本物以上に本物そっくりだけれど、本物じゃないことを知っていることから来る混乱で頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚えるのである」というのはまさにこういう作品。リアルに描かれているのにひたすら幻想的。右上に薄く見えている月もいいアクセントになっている。
付け加えると、これは美しいものを描いているから素晴らしいのであって、シャケがどんなにスーパーリアルに描かれていてもこんなに感動はしない。
あまりに素晴らしいので部分アップで。ただし、この絵の持つ静けさや浮遊感はブログの画像では感じ取れないと思う。
いろいろな時代のリアルへのこだわりを持った絵を見られて、なかなか面白い企画だった。もちろんそれらは1本の潮流でつながっているわけではないし、「写実を追求した先に何かを得ることができる」というありがちな精神論に傾くこともなかったけれど。
現代のスーパーリアリズムについていうと、例えば上田薫の生卵がCGだったら「そっくりね」の一言で終わってしまう。磯江毅の女性像も、写真で撮影して画像加工すれば同様の表現はできる。でもそれを見て同じような印象や感動は受けないだろう。ということはスーパーリアリズムの作品に見入ってしまうというのは「人間の仕事」に対する驚嘆や尊敬なのかもしれない。それは100メートル走を9秒台で走ることに似ている。アクセルを踏めば誰でももっと早く進めるが、足で走るからこそ賞賛されるのだから。
ところで海岸沿いの134号線で通り過ぎる以外では初めてやってきた平塚。せっかくなのでiPhoneで撮影。まずは駅前。
久し振りに乗るバスに揺られて7〜8分、
降りたのは横浜ゴムの工場の向かい。
停留所から1〜2分で美術館。
上の写真はいい雰囲気であるが、美術館の周りは工場が立ち並んでいる。
美術館正面。
受付。大きな一角獣がいた。
館内はすべて大理石張り。無駄に豪華なハコモノ行政かな。
地方都市の美術館で、こういったレベルの高い展覧会はたくさん開かれているのかもしれない。しかし、それになかなか気付かないのが残念。
おしまい
上田薫の作品は何度か見たことがある。生卵シリーズ以外にコップに入った水とかスプーンやフォークなどの食器などを描いたものなど。まるでCG(コンピューター・グラフィック)のようだが、もちろん筆で描かれている。ただし対象をカメラで撮影して、プロジェクターでキャンバスに投影したものをなぞって描くらしい。だから上田薫の絵は彩色のスーパーリアリズム。
それと卵などの小さなものを描いた作品が多いが、たいていキャンバスのサイズが大きいのも特徴。この展覧会の「なま玉子C」も縦1.3メートル横1.62メート。つまり超リアルな生卵を現実離れしたサイズで見ることになる。この相反する感覚が病みつきになる。
ところでCGのように見えるから若い画家と思ってしまうが、上田薫は1928年(昭和3年)生まれの御年88歳。なぜかウィキペディアでは2001年4月1日に亡くなったことになっているが、今年の3月に開かれた展示会の紹介記事で88歳と書かれているからご存命かと。ちなみに薫という名前だが男性。
上田薫 「なま玉子C」 1976年
三浦明範(あきのり) 「鮭図-2001」 2001年
リアリズム志向の画家はやはり鮭が好きなのかと思ってしまった作品(^^ゞ
この展覧会を紹介していたテレビ番組で知って、どうしても見たかったのが犬塚勉の作品。超・超・超がつくほど細密な絵なのに、描かれているのは実に実に実にありきたりな光景である。あちこちにバイクでツーリングしてよく写真を撮るが、こんな場所でシャッターはたぶん切らない。それになぜか心惹かれた。理由は今もってよくわからない。
この目で見るのとブログに張った画像で印象に差はない。よほど接近しなければ写真にしか見えない。あえていえばツマラナイ写真である。でもずーっと見続けてしまう。それがとても不思議。
犬塚勉 「林の方へ」 1985年
犬塚勉 「梅雨の晴れ間」 1986年
もうひとつ見たかったのが水野暁(あきら)の作品。彼は浅間山近くの別荘のようなところから、三年間かけてこの作品を完成させたとテレビで紹介されていた。当然ながら季節によって景色は変化する。それを季節をまたいで写生するとどうなるか。彼は冬に仕上げた雪山を、春になって雪が減っていくのにあわせて地面に塗り替えていった。夏には土色の山になり、そしてまた冬になってーーー。制作過程のこの絵は季節に応じて描かれている内容が違っていたのである。この絵を描き上げるにはそういうことが必要だったのだろうか。それにしても画家のやることは普通の人とは違うなというのが正直な感想。
完成作の景色は残雪?積もり初め?それとも画家のイマジネーション? それはよくわからないが、リアルというよりその迫力に圧倒された。上田薫や犬塚勉の絵にはジーッと見入ってしまうところがあるが、これは絵が目に飛び込んでくる。そんな風景画は初めて。
水野暁 「The Volcano−大地と距離について/浅間山」 2012〜2016年
そして会場の入口で「鮭 高橋由一への オマージュ」が展示されていた磯江毅の「深い眠り」。制作は1994〜1995年
最初のエントリーで書いた「超写実的で写真のような絵を眺めると本物以上に本物そっくりだけれど、本物じゃないことを知っていることから来る混乱で頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚えるのである」というのはまさにこういう作品。リアルに描かれているのにひたすら幻想的。右上に薄く見えている月もいいアクセントになっている。
付け加えると、これは美しいものを描いているから素晴らしいのであって、シャケがどんなにスーパーリアルに描かれていてもこんなに感動はしない。
あまりに素晴らしいので部分アップで。ただし、この絵の持つ静けさや浮遊感はブログの画像では感じ取れないと思う。
いろいろな時代のリアルへのこだわりを持った絵を見られて、なかなか面白い企画だった。もちろんそれらは1本の潮流でつながっているわけではないし、「写実を追求した先に何かを得ることができる」というありがちな精神論に傾くこともなかったけれど。
現代のスーパーリアリズムについていうと、例えば上田薫の生卵がCGだったら「そっくりね」の一言で終わってしまう。磯江毅の女性像も、写真で撮影して画像加工すれば同様の表現はできる。でもそれを見て同じような印象や感動は受けないだろう。ということはスーパーリアリズムの作品に見入ってしまうというのは「人間の仕事」に対する驚嘆や尊敬なのかもしれない。それは100メートル走を9秒台で走ることに似ている。アクセルを踏めば誰でももっと早く進めるが、足で走るからこそ賞賛されるのだから。
ところで海岸沿いの134号線で通り過ぎる以外では初めてやってきた平塚。せっかくなのでiPhoneで撮影。まずは駅前。
久し振りに乗るバスに揺られて7〜8分、
降りたのは横浜ゴムの工場の向かい。
停留所から1〜2分で美術館。
上の写真はいい雰囲気であるが、美術館の周りは工場が立ち並んでいる。
美術館正面。
受付。大きな一角獣がいた。
館内はすべて大理石張り。無駄に豪華なハコモノ行政かな。
地方都市の美術館で、こういったレベルの高い展覧会はたくさん開かれているのかもしれない。しかし、それになかなか気付かないのが残念。
おしまい
2017年07月27日
リアル(写実)のゆくえ その2
入口手前にあった高橋由一と磯江毅のサーモン対決を別として、展示は全部で5つに分かれていた。二番目の展示は明治中期と後期。最初の明治初期と較べると色彩がだんだんと豊かになって、描かれている内容は和風なんだけれど西洋画のテクニックも板についてきたように思える。
本多錦吉郎(きんきちろう) 「羽衣天女」 1890年
天女は羽衣をまとえば空を飛べるのに、なぜか天使のように羽根まで生えている。
渡辺幽香(ゆうこう) 「幼児図」 1893年
貼り付けた画像より実物の方が赤ちゃんは可愛いしリアルさも感じられる。描かれているのは、この子がトンボを捕まえたシーン。なぜか目線は合ってないが。ところで、よく見ると赤ちゃんは重い石臼のようなものに紐で結びつけられている。明治時代は赤ちゃんが動き回らないようにこういう育て方をしたのか? 今なら虐待で非難されるだろう。
渡辺幽香は前回に書いた五姓田義松(ごせだ・よしまつ)の妹。本名は勇子で漢字を変えて幽香。渡辺姓なのは結婚したから。渡辺幽香と五姓田義松の父親は五姓田芳柳(ほうりゅう)という人物。
五姓田芳柳は歌川国芳の流れを汲む浮世絵師で、後に西洋画を始め、また横浜で外国人相手に肖像画を描いたり錦絵(浮世絵の明治時代版)を売ったりしていた。つまり五姓田一家は画家ファミリー。また親子だけじゃなく五姓田芳柳は弟子をたくさん取っていたので五姓田派といえる存在。渡辺幽香の夫の渡辺文三郎もその一人。他に有名どころでは黒田清輝とつながりが深かった山本芳翠(ほうすい)など。また次女の夫を婿養子として二世五姓田芳柳を襲名させている。
なお五姓田という名前は芳柳が幼い頃には両親が亡くなって、その後はいろんな事情で4回の養子縁組を繰り返して5回も姓を変えたことから、最後に五姓田を名乗ったとされる。画名ではないようなので明治時代は自由に姓を変更できたんだろうか?
櫻井忠剛(さくらい ただたか) 「銅器の花と布袋の置物」 明治中期
この人は初代尼崎市長でもある。
原田直次郎 「神父」 1885年
満谷国四郎(みつたに くにしろう) 「戦の話」 1906年
もうこんな光線の描き分けをしていたとは。やるね明治の西洋画!
寺松国太郎 「サロメ」 1918年
寺松国太郎 「化粧部屋」 1918年 1911年
三番目の展示は大正時代が中心。この時代のスターといえば岸田劉生(りゅうせい)。そして岸田劉生といえば愛娘を描き続けた「麗子」。この展覧会の出品作品ではないけれど、誰しも子供の頃に教科書で、この重要文化財に指定されている「麗子微笑」を見て、夜はトイレに行くのが怖くなったはず(^^ゞ
岸田劉生なんて知らなくても、この絵に見覚えのない人は少ないんじゃないかな。今見ると、どこか愛くるしいし日本のモナリザと呼ばれるのがわからなくもない。でも数ある麗子(デッサンまで含めると50点以上あるらしい)の中で、これはもっとも不気味ではない部類に入る。この展覧会では2点の麗子が展示されていた。
「麗子肖像(麗子五歳之像)」 1918年
麗子のほとんどが赤い着物でオカッパ頭だから、この作品は異色。描かれている表情は硬いが、これなら笑えば可愛い女の子と想像できなくもない。
なおタイトルにあるように、これは麗子が5歳の時のもの。岸田劉生は麗子が生まれた直後からから描いているはずだが、これより幼い麗子は調べても見あたらなかった。ちなみに上の「麗子微笑」は1921年作。
「野童女」 1922年
出た! !!!!おそらく麗子シリーズの中でもっとも不気味な作品。こんなバケモノが突然に現れたら、死んだふりをして心の中で南無阿弥陀仏を唱える(^^ゞ
子供の頃に教科書で麗子を見て、しばらく後に、それは画家の父親が娘への愛情表現として描いたものだということを知った。だから「どんなにブサイクな娘でも、父親にとっては可愛いものなんだろうな」というような解釈をしてきた。
でも調べてみると麗子は、こんな妖怪のような容姿じゃなかったのである!
子供の頃の写真。メッチャ可愛いということはないが、まあ普通の女の子である。オカッパ頭というのは当時は最先端のヘアスタイルだったらしい。
17歳から18歳頃とされる写真。麗子も画家になったが48歳で亡くなっている。ちなみに岸田劉生も38歳と若死にした。
それにしても岸田劉生はなぜ麗子をあんなに不細工・不気味に描いたんだろう。画家の目や感じ方って、やはり少し違うのか。麗子は父親が描いた自分を見てなんと思ったのかなあ。いろいろと不思議。
麗子以外の岸田劉生の作品。さすがに確かな腕前。だからますます麗子作品がナゾ
「壺」 1916年
「静物(赤き林檎二個とビンと茶碗と湯呑)」 1917年
「冬枯れの道路(原宿附近の写生)」 1916年
四番目の展示は戦前・戦後の昭和というタイトル。明治の頃から順番に作品を眺めてくると、やっぱり現代という感じがする。また牧野邦夫という画家はほとんど知らなかったが、調べてみるとなかなか面白そうだった。今後に展覧会があったら是非行きたい。
高島野十郎 「壺とりんご」 1923年
高島野十郎 「蝋燭」 大正期
長谷川潾二郎 「猫」 1966年
牧野邦夫 「食卓にいる姉の肖像」 1964年
そしていよいよスーパーリアリズムへ。
ーーー続く
本多錦吉郎(きんきちろう) 「羽衣天女」 1890年
天女は羽衣をまとえば空を飛べるのに、なぜか天使のように羽根まで生えている。
渡辺幽香(ゆうこう) 「幼児図」 1893年
貼り付けた画像より実物の方が赤ちゃんは可愛いしリアルさも感じられる。描かれているのは、この子がトンボを捕まえたシーン。なぜか目線は合ってないが。ところで、よく見ると赤ちゃんは重い石臼のようなものに紐で結びつけられている。明治時代は赤ちゃんが動き回らないようにこういう育て方をしたのか? 今なら虐待で非難されるだろう。
渡辺幽香は前回に書いた五姓田義松(ごせだ・よしまつ)の妹。本名は勇子で漢字を変えて幽香。渡辺姓なのは結婚したから。渡辺幽香と五姓田義松の父親は五姓田芳柳(ほうりゅう)という人物。
五姓田芳柳は歌川国芳の流れを汲む浮世絵師で、後に西洋画を始め、また横浜で外国人相手に肖像画を描いたり錦絵(浮世絵の明治時代版)を売ったりしていた。つまり五姓田一家は画家ファミリー。また親子だけじゃなく五姓田芳柳は弟子をたくさん取っていたので五姓田派といえる存在。渡辺幽香の夫の渡辺文三郎もその一人。他に有名どころでは黒田清輝とつながりが深かった山本芳翠(ほうすい)など。また次女の夫を婿養子として二世五姓田芳柳を襲名させている。
なお五姓田という名前は芳柳が幼い頃には両親が亡くなって、その後はいろんな事情で4回の養子縁組を繰り返して5回も姓を変えたことから、最後に五姓田を名乗ったとされる。画名ではないようなので明治時代は自由に姓を変更できたんだろうか?
櫻井忠剛(さくらい ただたか) 「銅器の花と布袋の置物」 明治中期
この人は初代尼崎市長でもある。
原田直次郎 「神父」 1885年
満谷国四郎(みつたに くにしろう) 「戦の話」 1906年
もうこんな光線の描き分けをしていたとは。やるね明治の西洋画!
寺松国太郎 「サロメ」 1918年
寺松国太郎 「化粧部屋」 1918年 1911年
三番目の展示は大正時代が中心。この時代のスターといえば岸田劉生(りゅうせい)。そして岸田劉生といえば愛娘を描き続けた「麗子」。この展覧会の出品作品ではないけれど、誰しも子供の頃に教科書で、この重要文化財に指定されている「麗子微笑」を見て、夜はトイレに行くのが怖くなったはず(^^ゞ
岸田劉生なんて知らなくても、この絵に見覚えのない人は少ないんじゃないかな。今見ると、どこか愛くるしいし日本のモナリザと呼ばれるのがわからなくもない。でも数ある麗子(デッサンまで含めると50点以上あるらしい)の中で、これはもっとも不気味ではない部類に入る。この展覧会では2点の麗子が展示されていた。
「麗子肖像(麗子五歳之像)」 1918年
麗子のほとんどが赤い着物でオカッパ頭だから、この作品は異色。描かれている表情は硬いが、これなら笑えば可愛い女の子と想像できなくもない。
なおタイトルにあるように、これは麗子が5歳の時のもの。岸田劉生は麗子が生まれた直後からから描いているはずだが、これより幼い麗子は調べても見あたらなかった。ちなみに上の「麗子微笑」は1921年作。
「野童女」 1922年
出た! !!!!おそらく麗子シリーズの中でもっとも不気味な作品。こんなバケモノが突然に現れたら、死んだふりをして心の中で南無阿弥陀仏を唱える(^^ゞ
子供の頃に教科書で麗子を見て、しばらく後に、それは画家の父親が娘への愛情表現として描いたものだということを知った。だから「どんなにブサイクな娘でも、父親にとっては可愛いものなんだろうな」というような解釈をしてきた。
でも調べてみると麗子は、こんな妖怪のような容姿じゃなかったのである!
子供の頃の写真。メッチャ可愛いということはないが、まあ普通の女の子である。オカッパ頭というのは当時は最先端のヘアスタイルだったらしい。
17歳から18歳頃とされる写真。麗子も画家になったが48歳で亡くなっている。ちなみに岸田劉生も38歳と若死にした。
それにしても岸田劉生はなぜ麗子をあんなに不細工・不気味に描いたんだろう。画家の目や感じ方って、やはり少し違うのか。麗子は父親が描いた自分を見てなんと思ったのかなあ。いろいろと不思議。
麗子以外の岸田劉生の作品。さすがに確かな腕前。だからますます麗子作品がナゾ
「壺」 1916年
「静物(赤き林檎二個とビンと茶碗と湯呑)」 1917年
「冬枯れの道路(原宿附近の写生)」 1916年
四番目の展示は戦前・戦後の昭和というタイトル。明治の頃から順番に作品を眺めてくると、やっぱり現代という感じがする。また牧野邦夫という画家はほとんど知らなかったが、調べてみるとなかなか面白そうだった。今後に展覧会があったら是非行きたい。
高島野十郎 「壺とりんご」 1923年
高島野十郎 「蝋燭」 大正期
長谷川潾二郎 「猫」 1966年
牧野邦夫 「食卓にいる姉の肖像」 1964年
そしていよいよスーパーリアリズムへ。
ーーー続く
2017年07月26日
リアル(写実)のゆくえ 高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの
平塚市立美術館で開催されていた展覧会。訪れたのは6月の初めと少し前の話になる。平塚は湘南の西の方にある街。東から海岸沿いの地名を上げると葉山、逗子、鎌倉、江ノ島、鵠沼(くげぬま)、辻堂、茅ヶ崎、平塚、大磯そして小田原。関東に住んでいなければ平塚の地名は馴染みがないかもしれない。
テレビの美術番組でこの展覧会のことを知った。紹介されていたのはスーパーリアリズムというか、まるで写真のような絵画。そして番組を見て遠い記憶がよみがえった。
それは高校生の時の話。美術の課外授業である展覧会を見に行った。たぶん高校の美術部や美大生の作品展だったと思う。だからいろんなタイプの作品が展示されていたが、その一角に超写実的で超細密な絵がいくつかあった。そういうものを見たのは初めてだったので、まるで写真のような仕上がりに息が詰まるほど驚いた。
その中で私が一番すごいと思った絵の作者は高校1年生か2年生。私も高校1年生か2年生だったので(細かな記憶は曖昧)、同い年でこんな絵を描ける天才のような奴が世の中にいることに、強烈な印象を受けたのを今でもはっきり覚えている。もっともひねくれ者の私は「写真のようにすごかったけれど、だったら写真でいいじゃないか」と課外授業のレポートに書いたのだが(^^ゞ
観たことがある人はわかると思うが、超写実的で写真のような絵を眺めると、本物以上に本物そっくりなのに、本物じゃないことを知っていることから来る混乱で頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚えるのである。あれ以来何度かそういう絵は見たことはあるが、久々にその快感を味わうべく平塚までやって来たしだい。
もっともこの展覧会はスーパーリアリズム展ではなく「明治になって初めて西洋画を見た画家達がその写実性に驚き、それを追い求め、やがて日本独自の進化や変遷を遂げた写実画となる」という歴史を俯瞰する企画。
一番最初、展示室に入る手前にあるのが高橋由一の「鮭」。
高橋由一の生まれは1828年(明治維新が1868年)で、藩士でありながら狩野派を学んだ絵師。しかし江戸時代終わり頃に西洋画を見て、その写実性に衝撃を受け西洋画に転向。よって日本で最初の洋画家といわれるカリスマの一人。彼のテーマは日本画にはないリアリズムの追求といったところ。
もっとも写実的な絵ということは、(ブログには載せていないが)人物にしろ風景にしろ江戸から明治にかけての「今から見ればとても古い日本」が描かれた絵なわけで、よくいわれる近代洋画の開拓者というのは何となくピンとこないところもある。洋画と日本画の違いは油絵の具を使うか岩絵の具を使うかで絵の内容に関係ないが、高橋由一は「和の油絵」という表現が適切かな。
高橋由一が描いた鮭は10点以上あるといわれる。一番有名なのが重要文化財に指定されているこの鮭。ほとんどの人は教科書で見たことがあるはず。制作は1877年頃とされている。この展覧会の鮭の制作年は不明。それにしてもずいぶんと縦長の絵である。一説によると床の間に掛け軸のように飾るように考えて描いたらしい。
高橋由一の鮭と並べて展示されていたのが磯江毅(いそえ つよし)の「鮭 高橋由一への オマージュ」。2003年の作品。冒頭に張った展覧会のパンフレットとは違い、こちらの鮭が右側だった。
明治の人は高橋由一の鮭のリアルさに度肝を抜かれたかもしれないが、今の目で見ればそれほどビックリはしない。それに対してが磯江毅の鮭は超がつくほどのスーパーリアリズム。そしてそのテクニックを誇示するかのようなトリックもある。鮭が板に麻紐のようなものでくくりつけられたように描かれているが、板の端では本物の麻紐が絵に貼り付けられている。それでいて本物の紐と描かれた紐の区別がまったく見分けられない。絵を横や斜めからのぞき込んで初めてわかるほど。画家のドヤ顔が目に浮かぶ(^^ゞ
ちなみにオマージュとはある作品に影響を受けて似たような作品を作ること。ポイントは元の作品への尊敬、敬意、今風にいうならリスペクトがあるかどうか。そういうものがなければ単なるパクリとなる。
高橋由一と磯江毅の鮭を見較べてから最初の展示室に入る。展示は時代別でこちらは明治初期の作品。私が観たかったものとは方向性が違うのだが、150年ほど昔の風俗というか息吹が感じられて意外と楽しめた。なおマイナーな画家も多いのでネットで画像をあまり拾えない。だからブログは少々偏った構成になっている。
高橋由一 「鴨図」 1878年
高橋由一 「墨水桜花輝耀の景(ぼくすい・おうか・きようのけい)」 1878年
輝耀とは中国語で光るとか輝くといった意味。ちなみに童話のかぐや姫は中国語で輝耀姬物語。
堀和平 「母子像」 制作年不詳
五姓田義松 「五姓田一家之図」 1872年
五姓田義松 「井田磐楠像」 1882年
五姓田義松(ごせだ・よしまつ)は1855年生まれで、1828年生まれの高橋由一より二回り年下だが、横浜居留地にいた英国人画家ワーグマンに1865年10歳で師事している。高橋由一の師匠も同じくワーグマンで入門は翌1866年で37歳の時。高橋由一が「和の油絵」だったのに対して、五姓田義松には西洋風の作品も多い。そして五姓田義松は1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会で高橋由一を押さえて優勝。1881年にはパリサロンで日本人初となる入選を果たす。明治天皇や明治政府要人から多くの肖像画制作依頼を受け、その時点においての評価は高橋由一より格上だったようだ。
しかし写真が普及してきて絵画に写実性以外のものが求められる時代になると(例えば印象派)、古典的な写実にこだわった彼の作品は時代遅れと評され、やがて忘れられた存在になってしまう。まるでカラヴァッジョみたいだ(/o\) もっとも近年は再評価が進んでいる模様。2年ほど前の大回顧展を見に行けなかったのが残念。
ーーー続く
テレビの美術番組でこの展覧会のことを知った。紹介されていたのはスーパーリアリズムというか、まるで写真のような絵画。そして番組を見て遠い記憶がよみがえった。
それは高校生の時の話。美術の課外授業である展覧会を見に行った。たぶん高校の美術部や美大生の作品展だったと思う。だからいろんなタイプの作品が展示されていたが、その一角に超写実的で超細密な絵がいくつかあった。そういうものを見たのは初めてだったので、まるで写真のような仕上がりに息が詰まるほど驚いた。
その中で私が一番すごいと思った絵の作者は高校1年生か2年生。私も高校1年生か2年生だったので(細かな記憶は曖昧)、同い年でこんな絵を描ける天才のような奴が世の中にいることに、強烈な印象を受けたのを今でもはっきり覚えている。もっともひねくれ者の私は「写真のようにすごかったけれど、だったら写真でいいじゃないか」と課外授業のレポートに書いたのだが(^^ゞ
観たことがある人はわかると思うが、超写実的で写真のような絵を眺めると、本物以上に本物そっくりなのに、本物じゃないことを知っていることから来る混乱で頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚えるのである。あれ以来何度かそういう絵は見たことはあるが、久々にその快感を味わうべく平塚までやって来たしだい。
もっともこの展覧会はスーパーリアリズム展ではなく「明治になって初めて西洋画を見た画家達がその写実性に驚き、それを追い求め、やがて日本独自の進化や変遷を遂げた写実画となる」という歴史を俯瞰する企画。
一番最初、展示室に入る手前にあるのが高橋由一の「鮭」。
高橋由一の生まれは1828年(明治維新が1868年)で、藩士でありながら狩野派を学んだ絵師。しかし江戸時代終わり頃に西洋画を見て、その写実性に衝撃を受け西洋画に転向。よって日本で最初の洋画家といわれるカリスマの一人。彼のテーマは日本画にはないリアリズムの追求といったところ。
もっとも写実的な絵ということは、(ブログには載せていないが)人物にしろ風景にしろ江戸から明治にかけての「今から見ればとても古い日本」が描かれた絵なわけで、よくいわれる近代洋画の開拓者というのは何となくピンとこないところもある。洋画と日本画の違いは油絵の具を使うか岩絵の具を使うかで絵の内容に関係ないが、高橋由一は「和の油絵」という表現が適切かな。
高橋由一が描いた鮭は10点以上あるといわれる。一番有名なのが重要文化財に指定されているこの鮭。ほとんどの人は教科書で見たことがあるはず。制作は1877年頃とされている。この展覧会の鮭の制作年は不明。それにしてもずいぶんと縦長の絵である。一説によると床の間に掛け軸のように飾るように考えて描いたらしい。
高橋由一の鮭と並べて展示されていたのが磯江毅(いそえ つよし)の「鮭 高橋由一への オマージュ」。2003年の作品。冒頭に張った展覧会のパンフレットとは違い、こちらの鮭が右側だった。
明治の人は高橋由一の鮭のリアルさに度肝を抜かれたかもしれないが、今の目で見ればそれほどビックリはしない。それに対してが磯江毅の鮭は超がつくほどのスーパーリアリズム。そしてそのテクニックを誇示するかのようなトリックもある。鮭が板に麻紐のようなものでくくりつけられたように描かれているが、板の端では本物の麻紐が絵に貼り付けられている。それでいて本物の紐と描かれた紐の区別がまったく見分けられない。絵を横や斜めからのぞき込んで初めてわかるほど。画家のドヤ顔が目に浮かぶ(^^ゞ
ちなみにオマージュとはある作品に影響を受けて似たような作品を作ること。ポイントは元の作品への尊敬、敬意、今風にいうならリスペクトがあるかどうか。そういうものがなければ単なるパクリとなる。
高橋由一と磯江毅の鮭を見較べてから最初の展示室に入る。展示は時代別でこちらは明治初期の作品。私が観たかったものとは方向性が違うのだが、150年ほど昔の風俗というか息吹が感じられて意外と楽しめた。なおマイナーな画家も多いのでネットで画像をあまり拾えない。だからブログは少々偏った構成になっている。
高橋由一 「鴨図」 1878年
高橋由一 「墨水桜花輝耀の景(ぼくすい・おうか・きようのけい)」 1878年
輝耀とは中国語で光るとか輝くといった意味。ちなみに童話のかぐや姫は中国語で輝耀姬物語。
堀和平 「母子像」 制作年不詳
五姓田義松 「五姓田一家之図」 1872年
五姓田義松 「井田磐楠像」 1882年
五姓田義松(ごせだ・よしまつ)は1855年生まれで、1828年生まれの高橋由一より二回り年下だが、横浜居留地にいた英国人画家ワーグマンに1865年10歳で師事している。高橋由一の師匠も同じくワーグマンで入門は翌1866年で37歳の時。高橋由一が「和の油絵」だったのに対して、五姓田義松には西洋風の作品も多い。そして五姓田義松は1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会で高橋由一を押さえて優勝。1881年にはパリサロンで日本人初となる入選を果たす。明治天皇や明治政府要人から多くの肖像画制作依頼を受け、その時点においての評価は高橋由一より格上だったようだ。
しかし写真が普及してきて絵画に写実性以外のものが求められる時代になると(例えば印象派)、古典的な写実にこだわった彼の作品は時代遅れと評され、やがて忘れられた存在になってしまう。まるでカラヴァッジョみたいだ(/o\) もっとも近年は再評価が進んでいる模様。2年ほど前の大回顧展を見に行けなかったのが残念。
ーーー続く
2017年07月24日
かき氷のシロップ
人は何かに関心を持ったり体験したりすると、どこかのスイッチが入って、そのことの情報に敏感になる。逆にいえば関心のないことの情報に接しても、脳は巧みにその情報を遮断している。だから毎日溢れんばかりの情報に接していても、頭がいっぱいになることはない。
こういうのはマーケティングで、現にニーズを持っている人をターゲットにするのか、あるいはニーズを広く掘り起こして商品を広めたいのかを考える時に大切になってくるテーマ。
そんなややこしい話はさておき、先日ハスを見に行って、あまりの暑さにひょっとしたら30年振りかもしれないかき氷を食べた話を書いた。
つまりかき氷とは無縁の生活が長かったので、かき氷情報に接してもそれに目が向くことはなかったんだけれど、あの日に食べたことでスイッチが入ったみたい。
というわけでかき氷のシロップの話。
レモン、イチゴ、メロンあたりが代表的かと思う。それらのシロップをかけて食べるとそれっぽい味がする。でも実はかき氷のシロップは色と香料が異なっているだけで、味はすべて同じというビックリ事実。どれも単に甘いだけ。高級店ならそんなことはないというのは別として、普通の店や屋台で食べるレモン、イチゴ、メロンはすべて同じ味。色と香りでレモンやイチゴの味に感じたりするらしい。つまり脳の錯覚。
そういえば理科系のテレビ番組で、目をつむって鼻を指でふさいで飲めば、赤ワインと白ワインの区別がつかないという実験があった。にわかには信じがたいが、それだけ視覚や嗅覚が脳の判断に与える影響は大きいみたい。
ああ、またかき氷を食べたくなってきた(^^ゞ
こういうのはマーケティングで、現にニーズを持っている人をターゲットにするのか、あるいはニーズを広く掘り起こして商品を広めたいのかを考える時に大切になってくるテーマ。
そんなややこしい話はさておき、先日ハスを見に行って、あまりの暑さにひょっとしたら30年振りかもしれないかき氷を食べた話を書いた。
つまりかき氷とは無縁の生活が長かったので、かき氷情報に接してもそれに目が向くことはなかったんだけれど、あの日に食べたことでスイッチが入ったみたい。
というわけでかき氷のシロップの話。
レモン、イチゴ、メロンあたりが代表的かと思う。それらのシロップをかけて食べるとそれっぽい味がする。でも実はかき氷のシロップは色と香料が異なっているだけで、味はすべて同じというビックリ事実。どれも単に甘いだけ。高級店ならそんなことはないというのは別として、普通の店や屋台で食べるレモン、イチゴ、メロンはすべて同じ味。色と香りでレモンやイチゴの味に感じたりするらしい。つまり脳の錯覚。
そういえば理科系のテレビ番組で、目をつむって鼻を指でふさいで飲めば、赤ワインと白ワインの区別がつかないという実験があった。にわかには信じがたいが、それだけ視覚や嗅覚が脳の判断に与える影響は大きいみたい。
ああ、またかき氷を食べたくなってきた(^^ゞ
2017年07月23日
チューリップ2017シーズン総集編(3)
今回はツボミその他の記録。
派手な花姿のパロット咲きとフリンジ咲き。それはツボミの頃からそうで、自分たちは普通のチューリップとは違うんだと主張しているみたい。特に今まであまり植えたことがなかったパロット咲きは、このツボミがどんな花になるんだろうかと想像する楽しみがあった。
改めて写真を整理してみると、ツボミが小さい段階から色がついているチューリップと、そろそろ開こうかとなってから色がつき出すものに分かれている。
4月9日に見つけた1本の茎から2つのツボミをつけた一卵性双生児のようなチューリップ。この先どうなるのかと見守っていたら、あっさりと両方とも花を咲かせた。
チューリップを育ていての悩みトップ3に入るのが、こういう風にガバーッと花びらが開いてしまうことである。
以前、単色の普通のチューリップがメインだった頃、白が一番ガバーッと開き、色が濃くなるほどそうならないという法則を発見した。でも今シーズンに植えた豪華系のチューリップにそれは当てはまらないようである。
ガバーッと開いたチューリップは夜になるとすぼんで普通の形に戻る。ただし次の日にそのままの形でいるのは明け方すぐの時間帯だけで、1時間もすれば全開に(/o\) それを繰り返しているうちに締まりが悪くなるのか、やがて一日中開きっぱなしになる。
それにしても太陽光線を全部食い尽くそうかといわんばかりの開きっぷりである。でも日光を求めているのかどうかはよくわからない。なぜなら日差しを取り込むなら、より開く必要のあるはずの曇りの日にあまり開かないから。受粉のために昆虫へのアピールなのかな? まあとにかくチューリップ栽培関係者には、ガバーッと開かない品種改良をお願いしたい。
今シーズンは普通の形とは違う派手なチューリップが多かったので、見る角度によってはトロピカルな雰囲気にもなった。
なんとなくアジアンなトロピカルイメージかな。
これはなかなか楽しかったので、来シーズンはトロピカル狙いで形や色の配置を考えて植えてみようかなとも思っている。
ーーー不定期に続く
派手な花姿のパロット咲きとフリンジ咲き。それはツボミの頃からそうで、自分たちは普通のチューリップとは違うんだと主張しているみたい。特に今まであまり植えたことがなかったパロット咲きは、このツボミがどんな花になるんだろうかと想像する楽しみがあった。
改めて写真を整理してみると、ツボミが小さい段階から色がついているチューリップと、そろそろ開こうかとなってから色がつき出すものに分かれている。
4月9日に見つけた1本の茎から2つのツボミをつけた一卵性双生児のようなチューリップ。この先どうなるのかと見守っていたら、あっさりと両方とも花を咲かせた。
チューリップを育ていての悩みトップ3に入るのが、こういう風にガバーッと花びらが開いてしまうことである。
以前、単色の普通のチューリップがメインだった頃、白が一番ガバーッと開き、色が濃くなるほどそうならないという法則を発見した。でも今シーズンに植えた豪華系のチューリップにそれは当てはまらないようである。
ガバーッと開いたチューリップは夜になるとすぼんで普通の形に戻る。ただし次の日にそのままの形でいるのは明け方すぐの時間帯だけで、1時間もすれば全開に(/o\) それを繰り返しているうちに締まりが悪くなるのか、やがて一日中開きっぱなしになる。
それにしても太陽光線を全部食い尽くそうかといわんばかりの開きっぷりである。でも日光を求めているのかどうかはよくわからない。なぜなら日差しを取り込むなら、より開く必要のあるはずの曇りの日にあまり開かないから。受粉のために昆虫へのアピールなのかな? まあとにかくチューリップ栽培関係者には、ガバーッと開かない品種改良をお願いしたい。
今シーズンは普通の形とは違う派手なチューリップが多かったので、見る角度によってはトロピカルな雰囲気にもなった。
なんとなくアジアンなトロピカルイメージかな。
これはなかなか楽しかったので、来シーズンはトロピカル狙いで形や色の配置を考えて植えてみようかなとも思っている。
ーーー不定期に続く
2017年07月22日
革は汗に弱いという教訓
2週間ほど前のこと。とあるところに用事があって出かけた。休みの日なので服装はTシャツにジーパン。ジャケットなしの場合、身の回りのモノの持ち方に困る。小さなワンショルダーのカバンを使うことが多いが、この日はなぜかカバンなしで出かけた。だからジーパンの前後左右4つのポケットにすべて収めることになる。
電車で行くつもりだったのに、自宅を出た後で炎天下を歩くのも運動になっていいかと考えたのが運の尽き。目的地までは徒歩なら45分くらい。当然汗をかくのは覚悟していたが、想定していた以上に汗だくになってしまった。
それでハンカチは汗を絞れるくらいに。実際、何度か絞った。
そして、その濡れたハンカチはずっと財布と一緒に尻ポケットに入れていた。
次の日、出かける時に財布を持つと革がカサカサになっていることに気がついた。??と思ったが、すぐには原因が思い当たらなかった。しばらく考えての結論は汗でビショビショになったハンカチ。100%の確証はないが、財布に関して普段と違うことといえば、それしか考えられない。
ネットで調べると革がカサカサになったという事例は見つけられなかったが、汗で塩をふいた時の対策などが載っていた。「ぬるま湯にしばらく浸して塩抜きをし、乾かした後に革用の保湿クリームを塗り込め」などと書いてあるものが多かった。
そこまでは面倒だったので、その日の夜にとりあえずラナパーを塗ってみた。ラナパーは蜜蝋を成分とした革ケア製品。たいへん気に入っていて、私は革靴や革ジャンなどにはラナパーしか使っていない。
そして翌朝!
変化なし(/o\)
やはり塩が抜けていないとダメなのかと考え、ぬるま湯浸けを試みる。普段は財布をじっくり見ることなんてないが、改めて眺めてみるとあちこち汚れている。ラナパーを落とす必要もあったので食器洗剤で洗ってみた。でももう染みついた汚れなのか、ほとんどきれいにはならなかったけれど。
乾くのに3〜4日かかった。乾いた財布は少し硬くなりカサカサも悪化。でもこれは油が抜けたような状態だからかなと考える。ラナパーを塗り込む。
そして翌朝!
変化なし(/o\)(/o\)
乾いた直後よりはマシになったが、ぬるま湯に浸す前よりカサカサの範囲が広がったような気もする。食器洗剤で洗ったのがよくなかったのか。最後のあがきとして下駄箱からミンクオイルを探し出しダメ元で塗ってみる。
そして翌朝!
変化なし(/o\)(/o\)(/o\)
仕方がないので財布は買い換えることにした(^^ゞ
とりあえず汗でビショビショになったハンカチなどを革製品に密着させるとカサカサになるようだし、そうなった場合は素人の手入れでは元に戻せないという教訓。
電車で行くつもりだったのに、自宅を出た後で炎天下を歩くのも運動になっていいかと考えたのが運の尽き。目的地までは徒歩なら45分くらい。当然汗をかくのは覚悟していたが、想定していた以上に汗だくになってしまった。
それでハンカチは汗を絞れるくらいに。実際、何度か絞った。
そして、その濡れたハンカチはずっと財布と一緒に尻ポケットに入れていた。
次の日、出かける時に財布を持つと革がカサカサになっていることに気がついた。??と思ったが、すぐには原因が思い当たらなかった。しばらく考えての結論は汗でビショビショになったハンカチ。100%の確証はないが、財布に関して普段と違うことといえば、それしか考えられない。
ネットで調べると革がカサカサになったという事例は見つけられなかったが、汗で塩をふいた時の対策などが載っていた。「ぬるま湯にしばらく浸して塩抜きをし、乾かした後に革用の保湿クリームを塗り込め」などと書いてあるものが多かった。
そこまでは面倒だったので、その日の夜にとりあえずラナパーを塗ってみた。ラナパーは蜜蝋を成分とした革ケア製品。たいへん気に入っていて、私は革靴や革ジャンなどにはラナパーしか使っていない。
そして翌朝!
変化なし(/o\)
やはり塩が抜けていないとダメなのかと考え、ぬるま湯浸けを試みる。普段は財布をじっくり見ることなんてないが、改めて眺めてみるとあちこち汚れている。ラナパーを落とす必要もあったので食器洗剤で洗ってみた。でももう染みついた汚れなのか、ほとんどきれいにはならなかったけれど。
乾くのに3〜4日かかった。乾いた財布は少し硬くなりカサカサも悪化。でもこれは油が抜けたような状態だからかなと考える。ラナパーを塗り込む。
そして翌朝!
変化なし(/o\)(/o\)
乾いた直後よりはマシになったが、ぬるま湯に浸す前よりカサカサの範囲が広がったような気もする。食器洗剤で洗ったのがよくなかったのか。最後のあがきとして下駄箱からミンクオイルを探し出しダメ元で塗ってみる。
そして翌朝!
変化なし(/o\)(/o\)(/o\)
仕方がないので財布は買い換えることにした(^^ゞ
とりあえず汗でビショビショになったハンカチなどを革製品に密着させるとカサカサになるようだし、そうなった場合は素人の手入れでは元に戻せないという教訓。
2017年07月20日
チューリップ2017シーズン総集編(2)商品検証
今回はどんなチューリップが咲いたかの記録。何を植えたかはこちらにも書いてあるが、球根のパッケージ写真と実際に咲いたものを見較べようという趣旨。
「パロット咲チューリップ福袋(4〜5品種見計らい・名称付) 40球以上」1717円
パロットとはオウムのことだが、チューリップでのパロット品種は花びらがフリルのような姿になる。チューリップのイメージとはかなり離れた花ではあるが、ゴージャスというかインパクトがあってなかなかよかった。
とりあえず5種類咲いた。
ただし白は花が重いのかすべて茎が曲がってしまい上を向いて咲いたものはなし。
また赤紫は2〜3本しか咲かなかったように思う。
黄色と赤のマーブル模様は、咲いてから時間が経つと黄色の色が抜けて白くなる。
これはこれできれいだった。
「フラワーバルブ・オブ・イヤー福袋(4〜5品種見計らい・名称付) 40球以上」1717円
パロット咲きの黄色と赤のマーブルが、このパッケージにも含まれているので、それを数えれば4種類咲いたことになる。でもそのマーブルと、オレンジだけでこのパッケージで咲いた花の8割を占める。バラエティーに富んだ構成をイメージしていたのに完全に期待はずれ。
「フリンジ咲チューリップ福袋(4〜5品種見計らい・名称付) 40球以上」1501円
これも5種類が咲いた。ただし赤紫や深紅で咲いたのは数本のみ。フリンジ(花びらのギザギザ)は見ていて楽しい。でもカメラのピントは合いにくい。
レンブラント咲チューリップ福袋(3〜4品種見計らい・名称付) 30球以上」1285円
3種類しか咲かず。しかも白と紫のマーブル模様はなぜかすべて大きく育たず。
レンブラント咲きというのはマーブル模様のことで、これは元々ウィルスによる突然変異で17世紀頃に生まれたらしい。オランダなどで人気があったのだが、その生まれた経緯から病弱でしばらくして全滅。それでその姿はチューリップを描いた絵の中でしか見られなくなったので、オランダ絵画の巨匠であるレンブラントの名前がその品種につけられたとのこと。でもレンブラントは人物画しか描いていないと思うけど。
「八重咲チューリップ福袋 40球以上(4〜5品種見計らい・名称付)」1609円
これは白しか咲かなかった。詐欺じゃあ金返せ〜!
というわけで17種類のチューリップが咲いたことになる。とはいっても咲いた本数にかなり偏りがあるので感覚的には10種類少々といったところ。それが残念だったがパロットやフリンジなど派手な品種が多かったので、賑やかさはそれなりに楽しめた今シーズンだった。
ーーー不定期に続く
「パロット咲チューリップ福袋(4〜5品種見計らい・名称付) 40球以上」1717円
パロットとはオウムのことだが、チューリップでのパロット品種は花びらがフリルのような姿になる。チューリップのイメージとはかなり離れた花ではあるが、ゴージャスというかインパクトがあってなかなかよかった。
とりあえず5種類咲いた。
ただし白は花が重いのかすべて茎が曲がってしまい上を向いて咲いたものはなし。
また赤紫は2〜3本しか咲かなかったように思う。
黄色と赤のマーブル模様は、咲いてから時間が経つと黄色の色が抜けて白くなる。
これはこれできれいだった。
「フラワーバルブ・オブ・イヤー福袋(4〜5品種見計らい・名称付) 40球以上」1717円
パロット咲きの黄色と赤のマーブルが、このパッケージにも含まれているので、それを数えれば4種類咲いたことになる。でもそのマーブルと、オレンジだけでこのパッケージで咲いた花の8割を占める。バラエティーに富んだ構成をイメージしていたのに完全に期待はずれ。
「フリンジ咲チューリップ福袋(4〜5品種見計らい・名称付) 40球以上」1501円
これも5種類が咲いた。ただし赤紫や深紅で咲いたのは数本のみ。フリンジ(花びらのギザギザ)は見ていて楽しい。でもカメラのピントは合いにくい。
レンブラント咲チューリップ福袋(3〜4品種見計らい・名称付) 30球以上」1285円
3種類しか咲かず。しかも白と紫のマーブル模様はなぜかすべて大きく育たず。
レンブラント咲きというのはマーブル模様のことで、これは元々ウィルスによる突然変異で17世紀頃に生まれたらしい。オランダなどで人気があったのだが、その生まれた経緯から病弱でしばらくして全滅。それでその姿はチューリップを描いた絵の中でしか見られなくなったので、オランダ絵画の巨匠であるレンブラントの名前がその品種につけられたとのこと。でもレンブラントは人物画しか描いていないと思うけど。
「八重咲チューリップ福袋 40球以上(4〜5品種見計らい・名称付)」1609円
これは白しか咲かなかった。詐欺じゃあ金返せ〜!
というわけで17種類のチューリップが咲いたことになる。とはいっても咲いた本数にかなり偏りがあるので感覚的には10種類少々といったところ。それが残念だったがパロットやフリンジなど派手な品種が多かったので、賑やかさはそれなりに楽しめた今シーズンだった。
ーーー不定期に続く
2017年07月19日
ポップコーンはポップコーンでできている
少し前に知って「へえ〜」と思った話。
ポップコーンとは
トウモロコシを炒って膨らませて、
塩やバターなどで味付けしたもの。
ということはたいていの人は知っていると思う。
つまりトウモロコシの加工食品。
私もアルミホイルのフライパンがセットになったもので何回か作ったことがある。
でもポップコーンがトウモロコシの加工食品という定義だと半分しか正しくない。
実はポップコーンを炒って膨らませて味付けしたのがポップコーンなのである。
わざと紛らわしい書き方をしたが、ポップコーンに使うトウモロコシはポップコーンという品種。茹でたり焼いたりして食べるトウモロコシの品種はスイートコーン。スイートコーンを炒っても膨らまないらしい。漢字で書くと
ポップコーン :爆裂種
スイートコーン:甘味種
英語だとポップコーンはPOP CORN。このPOPは流行しているとか大衆的というPOPじゃなくて(音楽のポップスはポピュラーミュージックの略)、ポンという音が出るという意味。ついでにCORNはトウモロコシの他に粒とか穀物という意味もある。ややこしいのは塩漬けもCORNで、だからコーンビーフは塩漬け肉。でもコーンビーフと聞くとトウモロコシの粒が混じっている気がするのは私だけかな。
まあとにかくポップコーンはポップコーンでできているという、
知っていてもたいして役に立たないお話m(_ _)m
ポップコーンとは
トウモロコシを炒って膨らませて、
塩やバターなどで味付けしたもの。
ということはたいていの人は知っていると思う。
つまりトウモロコシの加工食品。
私もアルミホイルのフライパンがセットになったもので何回か作ったことがある。
でもポップコーンがトウモロコシの加工食品という定義だと半分しか正しくない。
実はポップコーンを炒って膨らませて味付けしたのがポップコーンなのである。
わざと紛らわしい書き方をしたが、ポップコーンに使うトウモロコシはポップコーンという品種。茹でたり焼いたりして食べるトウモロコシの品種はスイートコーン。スイートコーンを炒っても膨らまないらしい。漢字で書くと
ポップコーン :爆裂種
スイートコーン:甘味種
英語だとポップコーンはPOP CORN。このPOPは流行しているとか大衆的というPOPじゃなくて(音楽のポップスはポピュラーミュージックの略)、ポンという音が出るという意味。ついでにCORNはトウモロコシの他に粒とか穀物という意味もある。ややこしいのは塩漬けもCORNで、だからコーンビーフは塩漬け肉。でもコーンビーフと聞くとトウモロコシの粒が混じっている気がするのは私だけかな。
まあとにかくポップコーンはポップコーンでできているという、
知っていてもたいして役に立たないお話m(_ _)m
2017年07月17日
古代蓮の里 その2
ほとんどハスの咲いていなかった古代蓮池と水生植物園の隣にあるのがオニバスの池。
葉や茎にトゲがあるのでオニバス(鬼蓮)と呼ばれているが、これはハスではなくスイレンの仲間。ハスとスイレンは花の形がとてもよく似ているし、漢字だと蓮と睡蓮で字がかぶっている。しかし植物学ではまったくの別系統に分類されいわゆる親戚でもない。
ハスとスイレンの見分け方は
● 雌しべが花托の形かどうか(前回のエントリー参照)
● ハスは水面から茎が伸びて高い位置で花が咲く
スイレンは水面で咲く
写真中央にあるのがオニバスの花。スイレン系統だから水面で咲いている。
水面から姿を見せているのは10センチくらい。花はその一部だからとても小さい。
こんな可愛い花なのに名前がオニなんて。
オニバスは葉の形が面白い。最初は丸くなった状態で水に浮かんでくるらしい。これは葉がある程度が伸びた状態でとてもデコボコしている。
伸びた葉を下から突き破ってツボミが出てくるみたい。
オニバスを見たのは初めてなので満足度高し。
ちなみに絶滅危惧種に指定されている貴重な植物。
ハスがメインの公園ではあるが水生植物園野池の一画にはスイレンもあった。
ハスとスイレン甲乙つけ難し。
養生中と書かれていた一画。枠の中にあるのはホテイアオイ。その周りの赤い部分は土ではなく赤いものが浮いている水。まるで赤潮みたいな光景。この赤いのは何なんだろう?
古代蓮の里ではところどころにボランティアっぽい係員がいて「一番奥の水鳥の池でたくさんハスが咲いています」と案内していた。
これが水鳥の池。まあ古代蓮池と水生植物園よりは咲いているものの、やはり見頃とっくに過ぎの感は否めない。
ハスより公園の外に広がる水田のほうが見応えがあったりして。
お約束の下から写真も曇り空なのでーーー。
とりあえず池の周りをグルッと一周して退散。
このタワーは古代蓮会館。下の階にハス関連の展示があって上部は展望室になっている。ハスの咲いていない池を上から眺めても仕方ないのでパス。本当はこんな光景を期待していたのに。
このタワーからは公園の隣にある「田んぼアート」も見ることができる。でもまだちょっと時期が早い。
公園の入口付近に戻る。それにしても暑かった。まだ午前中の早い時間帯で気温はおそらく30度を少し超えた程度。それに天候も曇りだから直射日光もあまりなかったが、湿度がとても高い。それと風がまったくなかったのがきつかった。ハンカチは汗を絞れる状態に(>_<)
堪らずかき氷。
抹茶シロップに練乳がけ。
かき氷を食べるのは実に実に久し振り。最後に食べたのはあまりに昔でいつのことかまったく覚えていない。少なくともこの10年に食べていないことは確か。ひょっとしたら30年振りくらいかも。頭にキーンと来ないか心配したが問題なし。ストローの先を潰したような小さなスプーンで少しずつしか食べられなかったのがよかったのかも。あるいは単に頭の働きが鈍っているだけだったりして(^^ゞ
それでまだ午前9時40分!
iPhoneで地図を開いてどこか面白そうなところはないかと探すと、渡良瀬遊水池と秩父の長瀞がそれぞれ約1時間の距離。少し考えたが暑さに体力を奪われたのと、ハスの花があまり咲いていなくてテンションが下がってしまったので、この日は腹三分目で帰ることに。
ところで最寄りの東北自動車道のインターは羽生である。でも来る時にナビは1つ手前の加須・栗橋インターを指示した。それを無視して羽生で降りたが、駐車場で目的地を自宅にセットするとナビは往きに来た道路と反対方向に曲がる指示を出す。たぶん加須・栗橋インターに向かわせるのだろうと考え、それもいいかと走りだす。
しかし、しばらく走ると国道17号線に出た。アレッと思ったがこのあたりの土地勘もないし、道路は空いていて快走だったのでそのまま走る。ひょっとして関越自動車道に誘導する気か?などと考えているうちに、どんどんと走り続けるもナビからは何の誘導もなし。首都高大宮線の最初の入口である与野まで来て、やっと初めてそれに入るようにとの指示。
結局、無意味に約30キロほど一般道を走る羽目に。久し振りにBMW純正ナビの欠陥プログラムの被害を受けた。こいつは湘南の逗子あたりでもいつもおかしな道案内をする。ユーザーの皆さんはご注意を。
悲劇はまだ続く。
首都高の大宮線はそのまま池袋線となり、それをまっすぐ進むと中央環状線に入る。つまり高温殺人トンネルの山手トンネルである。高速道路上は既に36度に達していたので、暑さで頭が回らなくて気がついた時はトンネル入口に来てしまっていた(>_<)
往きの午前6時半過ぎで気温29.5度の時にトンネル内が36.5度である。その温度上昇の計算を当てはめると43度になる。しかも少し渋滞している。次の出口で地上に上がることを覚悟してトンネル突入。
しかしである。
トンネル内は38度までしか気温が上がらなかった。とんでもなく暑いことに変わりはないが、トンネルに入る前が既に36度で高温に身体が慣れていたせいか、意外と我慢できた。これにはかなりビックリ。それでも富ヶ谷の出口で地上に出た時は「ここは軽井沢か」と思うくらい涼しく感じたけれど。
走行156キロで正午少し前に帰宅。ナビがアホじゃなければもう30分早く戻って来られたかも。それでもツーリングで最も早い時刻の帰宅記録達成。さて今年の夏は暑さにめげずに何回ツーリングできるかな。
おしまい
葉や茎にトゲがあるのでオニバス(鬼蓮)と呼ばれているが、これはハスではなくスイレンの仲間。ハスとスイレンは花の形がとてもよく似ているし、漢字だと蓮と睡蓮で字がかぶっている。しかし植物学ではまったくの別系統に分類されいわゆる親戚でもない。
ハスとスイレンの見分け方は
● 雌しべが花托の形かどうか(前回のエントリー参照)
● ハスは水面から茎が伸びて高い位置で花が咲く
スイレンは水面で咲く
写真中央にあるのがオニバスの花。スイレン系統だから水面で咲いている。
水面から姿を見せているのは10センチくらい。花はその一部だからとても小さい。
こんな可愛い花なのに名前がオニなんて。
オニバスは葉の形が面白い。最初は丸くなった状態で水に浮かんでくるらしい。これは葉がある程度が伸びた状態でとてもデコボコしている。
伸びた葉を下から突き破ってツボミが出てくるみたい。
オニバスを見たのは初めてなので満足度高し。
ちなみに絶滅危惧種に指定されている貴重な植物。
ハスがメインの公園ではあるが水生植物園野池の一画にはスイレンもあった。
ハスとスイレン甲乙つけ難し。
養生中と書かれていた一画。枠の中にあるのはホテイアオイ。その周りの赤い部分は土ではなく赤いものが浮いている水。まるで赤潮みたいな光景。この赤いのは何なんだろう?
古代蓮の里ではところどころにボランティアっぽい係員がいて「一番奥の水鳥の池でたくさんハスが咲いています」と案内していた。
これが水鳥の池。まあ古代蓮池と水生植物園よりは咲いているものの、やはり見頃とっくに過ぎの感は否めない。
ハスより公園の外に広がる水田のほうが見応えがあったりして。
お約束の下から写真も曇り空なのでーーー。
とりあえず池の周りをグルッと一周して退散。
このタワーは古代蓮会館。下の階にハス関連の展示があって上部は展望室になっている。ハスの咲いていない池を上から眺めても仕方ないのでパス。本当はこんな光景を期待していたのに。
このタワーからは公園の隣にある「田んぼアート」も見ることができる。でもまだちょっと時期が早い。
公園の入口付近に戻る。それにしても暑かった。まだ午前中の早い時間帯で気温はおそらく30度を少し超えた程度。それに天候も曇りだから直射日光もあまりなかったが、湿度がとても高い。それと風がまったくなかったのがきつかった。ハンカチは汗を絞れる状態に(>_<)
堪らずかき氷。
抹茶シロップに練乳がけ。
かき氷を食べるのは実に実に久し振り。最後に食べたのはあまりに昔でいつのことかまったく覚えていない。少なくともこの10年に食べていないことは確か。ひょっとしたら30年振りくらいかも。頭にキーンと来ないか心配したが問題なし。ストローの先を潰したような小さなスプーンで少しずつしか食べられなかったのがよかったのかも。あるいは単に頭の働きが鈍っているだけだったりして(^^ゞ
それでまだ午前9時40分!
iPhoneで地図を開いてどこか面白そうなところはないかと探すと、渡良瀬遊水池と秩父の長瀞がそれぞれ約1時間の距離。少し考えたが暑さに体力を奪われたのと、ハスの花があまり咲いていなくてテンションが下がってしまったので、この日は腹三分目で帰ることに。
ところで最寄りの東北自動車道のインターは羽生である。でも来る時にナビは1つ手前の加須・栗橋インターを指示した。それを無視して羽生で降りたが、駐車場で目的地を自宅にセットするとナビは往きに来た道路と反対方向に曲がる指示を出す。たぶん加須・栗橋インターに向かわせるのだろうと考え、それもいいかと走りだす。
しかし、しばらく走ると国道17号線に出た。アレッと思ったがこのあたりの土地勘もないし、道路は空いていて快走だったのでそのまま走る。ひょっとして関越自動車道に誘導する気か?などと考えているうちに、どんどんと走り続けるもナビからは何の誘導もなし。首都高大宮線の最初の入口である与野まで来て、やっと初めてそれに入るようにとの指示。
結局、無意味に約30キロほど一般道を走る羽目に。久し振りにBMW純正ナビの欠陥プログラムの被害を受けた。こいつは湘南の逗子あたりでもいつもおかしな道案内をする。ユーザーの皆さんはご注意を。
悲劇はまだ続く。
首都高の大宮線はそのまま池袋線となり、それをまっすぐ進むと中央環状線に入る。つまり高温殺人トンネルの山手トンネルである。高速道路上は既に36度に達していたので、暑さで頭が回らなくて気がついた時はトンネル入口に来てしまっていた(>_<)
往きの午前6時半過ぎで気温29.5度の時にトンネル内が36.5度である。その温度上昇の計算を当てはめると43度になる。しかも少し渋滞している。次の出口で地上に上がることを覚悟してトンネル突入。
しかしである。
トンネル内は38度までしか気温が上がらなかった。とんでもなく暑いことに変わりはないが、トンネルに入る前が既に36度で高温に身体が慣れていたせいか、意外と我慢できた。これにはかなりビックリ。それでも富ヶ谷の出口で地上に出た時は「ここは軽井沢か」と思うくらい涼しく感じたけれど。
走行156キロで正午少し前に帰宅。ナビがアホじゃなければもう30分早く戻って来られたかも。それでもツーリングで最も早い時刻の帰宅記録達成。さて今年の夏は暑さにめげずに何回ツーリングできるかな。
おしまい
2017年07月16日
古代蓮の里
ゲンナリするほど暑いけれど、こういう時こそ精神修行と思って1ヶ月ぶりのバイク・ツーリング。前回は山梨でスイレンを見たので今回はハス。似たような花を続けてみるのもいいかなと。
スイレンと違ってハスの名所は数多い。今回ほどよい距離ということで選んだ古代蓮の里は埼玉県北部の行田市にある。1973年(昭和48年)に工事現場で、地中に埋もれていた1400年から3000年ほど前のハスの実を偶然に掘り起こし、その後に発芽・開花したのが行田蓮。それが自生したところを公園として整備したのが古代蓮の里。
出発は午前6時半。埼玉と群馬の県境まで行くにしてはずいぶんと早いが、これはハスが午前中しか咲かないから。ベストな時間帯は午前7時から10時頃までとされる。酷暑に備えメッシュ革ジャンの下は、スポーツ用の超ピチピチ速乾Tシャツにドライクールベストの組み合わせ。今年初めて革パンもメッシュ。
ガレージを出た時のバイク気温計は29.5度。まだ午前6時半なのに(/o\) 首都高の山の手トンネルに入ると36.5度まで上昇。相変わらずの殺人トンネル。この時間帯だから渋滞はなかったが。東北自動車道の途中で事故渋滞が少しあった程度で順調に走行。羽生インターを降りると水田が広がる風景で、もっと遠くまで来たような気分。
午前8時過ぎ古代蓮の里に到着。かなり広い駐車場なのに既にほぼ満車状態。駐車場は午前5時から開いている。
クルマの駐車は有料だがバイクは無料。なお公園も無料で入れる。
駐車場の隣にあるのが世界の蓮園と名付けられた池。ポツンポツンとハスが咲いている。それでもこれだけのハスを見るのは十何年も前の上野公園以来かもしれない。
このピンクのハスは人の頭くらいの大きさでデカイ!
ハスの花の中央には花托(かたく)と呼ばれる独特の形をした雌しべがある。これが蜂の巣に似ているからハチス→ハスと呼ばれるようになったとか。ハスの地下茎がレンコンだが、雌しべと茎が同じ形なのは、どういう理由でそう進化したんだろう?
いずれにしても花托は変わった形なので、上の写真のようにそれが見える見えないで花の印象は少し違ってくる。
でも花托がハスの特徴なのだからオッピロゲで。花托の下のヒゲが雄しべ。
いろいろなハス。といっても色と大きさくらいしか違いがわからない。
花托は花びらが散ると果托に呼び名が変わる。ちなみにハスは4日で散る。
しばらくすると果托の中に実が現れる。
ハスはレンコンだけじゃなく実も食べられるらしい。未だ経験なし。
ところでハスの実を見たらなぜか昔懐かしいETの宇宙人を思い出した。私の記憶の何がヒットしたんだろう? シワシワとツブツブ? でもETの目玉は2つだから不思議。
古代蓮の里のメインは公園中央にある古代蓮池と水生植物園。そこに行田蓮がある。
なんだけどーーー池に近づいても目に入るのはグリーンのみ。
池のあちこちを回ってもほとんど咲いていない(/o\)
何となく10日ほど来るのが遅かった雰囲気。
とりあえず、これが行田蓮。普通のハスとどこが違うのかは見分けられず。大きさは手を一杯に広げたぐらい。
シャワーヘッドみたいな果托。
だんだんと変色していくみたい。
ーーー続く
スイレンと違ってハスの名所は数多い。今回ほどよい距離ということで選んだ古代蓮の里は埼玉県北部の行田市にある。1973年(昭和48年)に工事現場で、地中に埋もれていた1400年から3000年ほど前のハスの実を偶然に掘り起こし、その後に発芽・開花したのが行田蓮。それが自生したところを公園として整備したのが古代蓮の里。
出発は午前6時半。埼玉と群馬の県境まで行くにしてはずいぶんと早いが、これはハスが午前中しか咲かないから。ベストな時間帯は午前7時から10時頃までとされる。酷暑に備えメッシュ革ジャンの下は、スポーツ用の超ピチピチ速乾Tシャツにドライクールベストの組み合わせ。今年初めて革パンもメッシュ。
ガレージを出た時のバイク気温計は29.5度。まだ午前6時半なのに(/o\) 首都高の山の手トンネルに入ると36.5度まで上昇。相変わらずの殺人トンネル。この時間帯だから渋滞はなかったが。東北自動車道の途中で事故渋滞が少しあった程度で順調に走行。羽生インターを降りると水田が広がる風景で、もっと遠くまで来たような気分。
午前8時過ぎ古代蓮の里に到着。かなり広い駐車場なのに既にほぼ満車状態。駐車場は午前5時から開いている。
クルマの駐車は有料だがバイクは無料。なお公園も無料で入れる。
駐車場の隣にあるのが世界の蓮園と名付けられた池。ポツンポツンとハスが咲いている。それでもこれだけのハスを見るのは十何年も前の上野公園以来かもしれない。
このピンクのハスは人の頭くらいの大きさでデカイ!
ハスの花の中央には花托(かたく)と呼ばれる独特の形をした雌しべがある。これが蜂の巣に似ているからハチス→ハスと呼ばれるようになったとか。ハスの地下茎がレンコンだが、雌しべと茎が同じ形なのは、どういう理由でそう進化したんだろう?
いずれにしても花托は変わった形なので、上の写真のようにそれが見える見えないで花の印象は少し違ってくる。
でも花托がハスの特徴なのだからオッピロゲで。花托の下のヒゲが雄しべ。
いろいろなハス。といっても色と大きさくらいしか違いがわからない。
花托は花びらが散ると果托に呼び名が変わる。ちなみにハスは4日で散る。
しばらくすると果托の中に実が現れる。
ハスはレンコンだけじゃなく実も食べられるらしい。未だ経験なし。
ところでハスの実を見たらなぜか昔懐かしいETの宇宙人を思い出した。私の記憶の何がヒットしたんだろう? シワシワとツブツブ? でもETの目玉は2つだから不思議。
古代蓮の里のメインは公園中央にある古代蓮池と水生植物園。そこに行田蓮がある。
なんだけどーーー池に近づいても目に入るのはグリーンのみ。
池のあちこちを回ってもほとんど咲いていない(/o\)
何となく10日ほど来るのが遅かった雰囲気。
とりあえず、これが行田蓮。普通のハスとどこが違うのかは見分けられず。大きさは手を一杯に広げたぐらい。
シャワーヘッドみたいな果托。
だんだんと変色していくみたい。
ーーー続く
2017年07月13日
チューリップ2017シーズン総集編(1)
今シーズンのチューリップは春になってから寒い日が続いたので、例年より2週間ほど遅い4月7日に初開花。そして4月中頃過ぎからベランダが賑やかになってきた。しかし開花時期がずれてバイクツーリングの頻度が上がる時期と重なってしまったため、満開になってからのチューリップをあまりブログに書けなかった。
今までと違ってベーシックな球根は買わずに派手な品種ばかりを植えた今シーズン。結果として、あまりチューリップが咲いているという気がしなかったかな(^^ゞ やはり半分くらいはベーシックなチューリップで揃えたほうがいいかもしれない。また品種がバラバラ=開花時期も揃わないので長く楽しめた反面、密集して一斉に咲く盛り上がりに欠けたのは痛し痒しなところ。
全体的な傾向としてはオレンジから咲き始め、その次に赤いチューリップが多くなった。
4月16日:ほぼオレンジに占められたベランダ
4月19日:オレンジと赤が拮抗状態
4月22日:今度は赤が優勢に
最後にほとんどの花が咲き終わった頃から紫のチューリップ咲き始めた。
5月3日
総集編の第1回は賑やかに咲いている雰囲気の写真を。
チューリップが咲いている間は、ほぼ毎日ベランダに出てついでに写真を撮っている。しかし狭いベランダだから撮影する方向や位置も限られる。だから枚数は多くても似たような写真ばかり。総集編に今までと同じ写真が載っていても見て見ぬ振りをされたし(^^ゞ
ーーー不定期に続く
今までと違ってベーシックな球根は買わずに派手な品種ばかりを植えた今シーズン。結果として、あまりチューリップが咲いているという気がしなかったかな(^^ゞ やはり半分くらいはベーシックなチューリップで揃えたほうがいいかもしれない。また品種がバラバラ=開花時期も揃わないので長く楽しめた反面、密集して一斉に咲く盛り上がりに欠けたのは痛し痒しなところ。
全体的な傾向としてはオレンジから咲き始め、その次に赤いチューリップが多くなった。
4月16日:ほぼオレンジに占められたベランダ
4月19日:オレンジと赤が拮抗状態
4月22日:今度は赤が優勢に
最後にほとんどの花が咲き終わった頃から紫のチューリップ咲き始めた。
5月3日
総集編の第1回は賑やかに咲いている雰囲気の写真を。
チューリップが咲いている間は、ほぼ毎日ベランダに出てついでに写真を撮っている。しかし狭いベランダだから撮影する方向や位置も限られる。だから枚数は多くても似たような写真ばかり。総集編に今までと同じ写真が載っていても見て見ぬ振りをされたし(^^ゞ
ーーー不定期に続く
2017年07月12日
前屈で手のひらが床につく\(^o^)/
身体が硬いか柔らかいかとといわれれば、間違いなく硬い方だ。
でも現在、ラジオ体操の前屈で手のひらが床につくレベルになっている。ベタッと手のひら全部が床につくわけじゃないが、ちょっと反動をつけて前屈すればそれも可能。でもそれはラジオ体操で身体が柔らかくなったからじゃない。ラジオ体操の効果は長年の運動不足で超絶に硬くなっていた身体を普通の硬さに戻してくれたこと。ラジオ体操を始めた頃、前屈で手は膝と足首の中間までしか届かなかった。
身体の硬い人間が前屈で手のひらが床につくのかと思われるかもしれない。でもそれは可能。実は前屈運動にはちょっとしたコツがあるのだ。
【コツその1】
これはずいぶん昔に自分で思いついたもの。この方法で普通の硬さに戻った私で、前屈すると指の第1関節まで床につく。それは
腰骨と背骨の付け根のところを曲げて前屈するのではなく、
腰骨と大腿骨の付け根=股関節のところから前屈する意識を持つ
というやり方。
つまり上半身だけじゃなく腰骨も一緒に曲げてトータルの前屈量を稼ぐということ。
【コツその2】
これは1ヶ月ほど前にラジオ体操の放送でアドバイスしていたもの。
前屈する時に上半身の力を抜く
実はがんばって前屈しようとすほど、力が入るから上半身はガチガチになっている。その力を抜いただけで手のひらが床についてしまう。まさに目からウロコのアドバイス。
もし身体が硬いなら是非これらの方法で、手のひらが床につく快感を味わって欲しい。
でも最初から無理をすると身体を痛めるからご注意を。
2017年07月11日
ラジオ体操で肉離れ(/o\)
2月の最初くらいから始めたラジオ体操。
今のところ挫折せずに続いている。とはいっても平均して週に4日くらいかな。毎日はなかなかできない。特に気温が上がってからペースが落ちた。始めた頃はラジオ体操をするとちょうどいいくらいに身体が温まったが、春になり室内の気温が25度を超え出すと少し汗ばむ。体操だけならそれほどではないのだが、その後のスクワットと腕立て伏せでかなり汗が出る。スクワットと腕立て伏せしかやっていなかった頃は、真夏でも汗をかくことはなかったから、それだけ体操で身体が活性化しているのだと思う。それはいいことなんだけれどーーー。
現在の室内気温30度湿度62%
このブログを書き終えてから、めげずにラジオ体操できるかな(^^ゞ
さてラジオ体操を始めて1ヶ月少し経った3月中頃の話。いつものように録画したテレビを観ながら体操を始め、ラジオ体操第1の9番目「身体を斜め前に前屈」させる運動で、左側に前屈したところ、左ふくらはぎに強烈な痛みが走った。
いわゆる肉離れ。念のために書いておくと肉離れは「肉が離れる」んじゃなくて、筋肉繊維の一部が断裂すること。
今回は医者に診断してもらったわけじゃないが、以前にも一度肉離れをしたことがあるので間違いないと思う。ただ軽度の肉離れのようで、前回のようにほとんど歩けないとか内出血するということはなかった。それでも1ヶ月近く痛みは残った。
それにしてもである。何かスポーツをする前に肉離れなど起こさないようにするのが準備体操である。そんなラジオ体操で肉離れを起こすとは(/o\) ヤッパリ身体がポンコツ化しているのかなあ。
でもラジオ体操で身体の柔軟性はかなり向上したのも事実。
その話は次回に。
今のところ挫折せずに続いている。とはいっても平均して週に4日くらいかな。毎日はなかなかできない。特に気温が上がってからペースが落ちた。始めた頃はラジオ体操をするとちょうどいいくらいに身体が温まったが、春になり室内の気温が25度を超え出すと少し汗ばむ。体操だけならそれほどではないのだが、その後のスクワットと腕立て伏せでかなり汗が出る。スクワットと腕立て伏せしかやっていなかった頃は、真夏でも汗をかくことはなかったから、それだけ体操で身体が活性化しているのだと思う。それはいいことなんだけれどーーー。
現在の室内気温30度湿度62%
このブログを書き終えてから、めげずにラジオ体操できるかな(^^ゞ
さてラジオ体操を始めて1ヶ月少し経った3月中頃の話。いつものように録画したテレビを観ながら体操を始め、ラジオ体操第1の9番目「身体を斜め前に前屈」させる運動で、左側に前屈したところ、左ふくらはぎに強烈な痛みが走った。
いわゆる肉離れ。念のために書いておくと肉離れは「肉が離れる」んじゃなくて、筋肉繊維の一部が断裂すること。
今回は医者に診断してもらったわけじゃないが、以前にも一度肉離れをしたことがあるので間違いないと思う。ただ軽度の肉離れのようで、前回のようにほとんど歩けないとか内出血するということはなかった。それでも1ヶ月近く痛みは残った。
それにしてもである。何かスポーツをする前に肉離れなど起こさないようにするのが準備体操である。そんなラジオ体操で肉離れを起こすとは(/o\) ヤッパリ身体がポンコツ化しているのかなあ。
でもラジオ体操で身体の柔軟性はかなり向上したのも事実。
その話は次回に。
2017年07月08日
ピカソとシャガール 愛と平和の賛歌 その3
シャガールの絵はどこか幻想的。また大人向けメルヘン・ストーリーのワンシーンかと思わせるようなものが多い。独特の浮遊感があり、というかいろいろなものが宙に浮かんで描かれている。ドーンと迫ってくるようなものはないが、絵の周りの空間を和ませる不思議なオーラを放っている。
ぶっちゃけていうと対峙するように鑑賞する絵ではない。その雰囲気に浸って楽しむべき絵。若い頃はお気に入りの画家で、自宅にシャガールのポスターを貼ったりしていた。似たような絵が多いので、いつのまにか飽きたけど。
というわけで私はシャガールを軽い気持ちでに楽しみたいので、ブログでの紹介もいつもと少し違うスタイルで。展示順、年代順は無視して似たような絵のグループ分けをしてみた。
まずは【黙って見せられたらシャガールとはわからない】作品。どんな画家も最初の頃は全盛期、つまりその画家の代表的なイメージとは違う絵を描いているもの。しかしシャガールは先ほど書いた幻想的な作風を確立して、それを描き続けている時期にも違うタイプの絵を描いている。特に「毛皮襟の女」は意外感たっぷり。
「ランプのある静物」 1910〜1911年
「山羊を抱く男」 1924〜1925年
「二つの花束」「花と風景(静物)」 1925年
「毛皮襟の女」 1934年
次は展示順を参考にして【これがシャガールのキュビスムと分類されていました
】というグループ。シャガールにとってのキュビスムとは立体主義とはまったく関係なくて、絵は見た目どおりの構成で描かなくてもいいんだとヒントをもらった程度の関わりかと思う。それで空も飛ぶわけだが、そんな空想的な描き方は宗教画なら昔からあったわけで、それをキュビスムと結びつけるという企画構成はちょっと強引かなとも思う。
「町の上で、ヴィテブスク」 1915年
「世界の外でどこへも」 1915〜1919年
切り離された頭部に目がいくが、建物が画面左に縦に描かれているのがちょっと面白い。
「誕生日」 1923年
3番目は【少しダークで摩訶不思議なシャガールワールド】。何かメッセージが込められているのかもしれないが、解説でもしてもらわないと絵から読み取るのは不可能。不気味な絵ともいえるが、こういうのはハマると抜け出せなくなる。
「私と村」 1923〜1924年
「青い顔の婚約者」 1932年(1960年改訂)
そして【シャガールといえば浮遊感でしょ】なグループ。肩の力が抜けていく心地よさを感じたら、あなたもシャガールを買いましょう(^^ゞ
「女曲芸師」 1961年
「サン=ポールの上の恋人たち」 1970〜1971年
シャガールの絵はカップルや結婚をテーマにしたものがよく描かれるので「愛の画家」と呼ばれることもある。というわけで次のグループは特にヒネリもなく【愛の画家】。モデルとなっているのはシャガール自身と奥さんのベラ。モデルといっても似せて描かれているわけじゃないから設定というべきか。
「婚約者達」 1930年
「恋人達とマーガレットの花」 1949〜1950年
「画家と妻」 1969年
ついでにシャガール家族の写真。これは1916年の撮影とされているのでシャガールは29歳、ベラが21歳頃。娘はイーダという名前。
最後の2枚の絵に共通性はなくて【展覧会で私がもっとも気に入った作品】。
「横たわる女、または緑色のスカートの女」 1930年
具体的に気に入った理由は特にない。あえていえばシャガールの幻想的、空想的な要素がないところかな。ストレートに楽しくて美しい絵。
「赤い背景の花」 1970年
画像で見ると良さが伝わらないかもしれないが、背景の赤がまさに燃えるような迫力で力強かった。脱力系が多いシャガールの中では少し異質。サイズも縦124.5センチ横113センチと大きく、私が気に入ったせいもあるけれど会場でひときわ存在感があった。
ところでこの展覧会はピカソとシャガールの組み合わせ。2つ前のエントリーではパンフレットに載っていた二人が仲良く写っている写真を紹介した。その写真をベースにこんなイラストが起こされて、美術館のショップで売られているマグカップやTシャツに使われている。
それだけを見ると二人は親友同士のようだが、それはあの写真が撮られた1951年まで。オマケでもう1枚。この撮影も同じく1951年。どう見てもとっても仲良し(^^ゞ
しかしその年に美術雑誌編集者の昼食会に招かれた二人は、売り言葉に買い言葉のようなことになり、以後は絶交状態になる。詳しくは調べていないが「ピカソのジョークをシャガールが真に受けた」と「ピカソは本気でシャガールを非難した」という説があるみたい。いずれにせよシャガールがブチ切れて二人の関係は終わった。その因縁はまだ続いているようで、ポーラ美術館がシャガールの子孫にこの展覧会への協力を依頼したところ、最初は断られたという。
ところでシャガールは「愛の画家」だから、おおらかな人物をイメージしていたのだが、実は毒舌家として有名だったらしい。人は見かけによらないだけでなく、人は画風によらないなんだろうか。
展示されている作品のうちポーラ美術館自前のコレクションは、ピカソとシャガールとも7割以上にのぼる。それ自体はすごいことであるが、何度かここに来たことのある人にとって目新しい作品は少ないのが残念。でもピカソとシャガールを見較べながら観られるから(それに意味があるかについては疑問な点もあるが)意外と楽しめる。箱根に涼みに来るついでに訪れて損はない。
おしまい
ぶっちゃけていうと対峙するように鑑賞する絵ではない。その雰囲気に浸って楽しむべき絵。若い頃はお気に入りの画家で、自宅にシャガールのポスターを貼ったりしていた。似たような絵が多いので、いつのまにか飽きたけど。
というわけで私はシャガールを軽い気持ちでに楽しみたいので、ブログでの紹介もいつもと少し違うスタイルで。展示順、年代順は無視して似たような絵のグループ分けをしてみた。
まずは【黙って見せられたらシャガールとはわからない】作品。どんな画家も最初の頃は全盛期、つまりその画家の代表的なイメージとは違う絵を描いているもの。しかしシャガールは先ほど書いた幻想的な作風を確立して、それを描き続けている時期にも違うタイプの絵を描いている。特に「毛皮襟の女」は意外感たっぷり。
「ランプのある静物」 1910〜1911年
「山羊を抱く男」 1924〜1925年
「二つの花束」「花と風景(静物)」 1925年
「毛皮襟の女」 1934年
次は展示順を参考にして【これがシャガールのキュビスムと分類されていました
】というグループ。シャガールにとってのキュビスムとは立体主義とはまったく関係なくて、絵は見た目どおりの構成で描かなくてもいいんだとヒントをもらった程度の関わりかと思う。それで空も飛ぶわけだが、そんな空想的な描き方は宗教画なら昔からあったわけで、それをキュビスムと結びつけるという企画構成はちょっと強引かなとも思う。
「町の上で、ヴィテブスク」 1915年
「世界の外でどこへも」 1915〜1919年
切り離された頭部に目がいくが、建物が画面左に縦に描かれているのがちょっと面白い。
「誕生日」 1923年
3番目は【少しダークで摩訶不思議なシャガールワールド】。何かメッセージが込められているのかもしれないが、解説でもしてもらわないと絵から読み取るのは不可能。不気味な絵ともいえるが、こういうのはハマると抜け出せなくなる。
「私と村」 1923〜1924年
「青い顔の婚約者」 1932年(1960年改訂)
そして【シャガールといえば浮遊感でしょ】なグループ。肩の力が抜けていく心地よさを感じたら、あなたもシャガールを買いましょう(^^ゞ
「女曲芸師」 1961年
「サン=ポールの上の恋人たち」 1970〜1971年
シャガールの絵はカップルや結婚をテーマにしたものがよく描かれるので「愛の画家」と呼ばれることもある。というわけで次のグループは特にヒネリもなく【愛の画家】。モデルとなっているのはシャガール自身と奥さんのベラ。モデルといっても似せて描かれているわけじゃないから設定というべきか。
「婚約者達」 1930年
「恋人達とマーガレットの花」 1949〜1950年
「画家と妻」 1969年
ついでにシャガール家族の写真。これは1916年の撮影とされているのでシャガールは29歳、ベラが21歳頃。娘はイーダという名前。
最後の2枚の絵に共通性はなくて【展覧会で私がもっとも気に入った作品】。
「横たわる女、または緑色のスカートの女」 1930年
具体的に気に入った理由は特にない。あえていえばシャガールの幻想的、空想的な要素がないところかな。ストレートに楽しくて美しい絵。
「赤い背景の花」 1970年
画像で見ると良さが伝わらないかもしれないが、背景の赤がまさに燃えるような迫力で力強かった。脱力系が多いシャガールの中では少し異質。サイズも縦124.5センチ横113センチと大きく、私が気に入ったせいもあるけれど会場でひときわ存在感があった。
ところでこの展覧会はピカソとシャガールの組み合わせ。2つ前のエントリーではパンフレットに載っていた二人が仲良く写っている写真を紹介した。その写真をベースにこんなイラストが起こされて、美術館のショップで売られているマグカップやTシャツに使われている。
それだけを見ると二人は親友同士のようだが、それはあの写真が撮られた1951年まで。オマケでもう1枚。この撮影も同じく1951年。どう見てもとっても仲良し(^^ゞ
しかしその年に美術雑誌編集者の昼食会に招かれた二人は、売り言葉に買い言葉のようなことになり、以後は絶交状態になる。詳しくは調べていないが「ピカソのジョークをシャガールが真に受けた」と「ピカソは本気でシャガールを非難した」という説があるみたい。いずれにせよシャガールがブチ切れて二人の関係は終わった。その因縁はまだ続いているようで、ポーラ美術館がシャガールの子孫にこの展覧会への協力を依頼したところ、最初は断られたという。
ところでシャガールは「愛の画家」だから、おおらかな人物をイメージしていたのだが、実は毒舌家として有名だったらしい。人は見かけによらないだけでなく、人は画風によらないなんだろうか。
展示されている作品のうちポーラ美術館自前のコレクションは、ピカソとシャガールとも7割以上にのぼる。それ自体はすごいことであるが、何度かここに来たことのある人にとって目新しい作品は少ないのが残念。でもピカソとシャガールを見較べながら観られるから(それに意味があるかについては疑問な点もあるが)意外と楽しめる。箱根に涼みに来るついでに訪れて損はない。
おしまい
2017年07月07日
ピカソとシャガール 愛と平和の賛歌 その2
展示はいくつかのコーナーに分かれ、それぞれのテーマに沿ったピカソとシャガールの作品がまとめられている。でも二人の比較や関連性にはあまり興味がないので、今回はピカソについて。
ピカソといえば反射的に思い浮かぶのは「泣く女」のようなバケモノ顔を描いた作品。しかし彼はしばしば作風が激変する画家で、プロとして活躍した20歳代初めから亡くなる91歳までのうちバケモノ顔を描いていたのは10年間ほど。全体では10種類前後の作風に分かれるとされ、それぞれ「青の時代」や「ばら色の時代」などナニナニの時代と名前がつけられている。
1901年から1904年までは「青の時代」。親友の画家が自殺したショックを引きづり、沈んだ青を基調に貧しい人たち、乞食や売春婦など社会的弱者を描いている。なぜ青なのかピカソは理由を語ることはなかったそうだが、黒じゃなくて青なところにピカソのセンスと、悲痛ではあっても前向きな気持ちが表れていると私は感じている。
「青い肩かけの女」 1902年
「海辺の母子像」 1902年
「青の時代」の後、立ち直った?ピカソは一転して明るい色調になり「バラ色の時代」と呼ばれる。残念ながら「バラ色の時代」の作品は展示されていなかった。ピカソ=バケモノ顔しか思い浮かばない人は、ネットでこの時代の作品を検索したらピカソのイメージが変わると思う。
その後「アフリカ彫刻の時代」を経て「キュビスムの時代」の時代へ。キュビスムは直訳すれば立体主義。その説明は難しいがモノをいろんな角度から見て、それを合成して絵という平面に落とし込んだもの。技法の探求としての意義は認めるが、だからドウヨというのが正直な気持ち。よってほとんど関心もなし。なお「キュビスムの時代」も年代によって3つか4つに細分化されている。
「裸婦」 1909年
「男の胸像」 1909年
「葡萄の帽子の女」 1913年
キュビスムを10年ほど続けた後、ピカソは正反対とも言える「新古典主義の時代」に入る。やたらふくよかに描くのが特徴。
「母子像」 1921年
「坐る女」 1921年
次の2枚は年代的には「新古典主義の時代」に属するが、とてもモダンなイラストのような作品。ナニナニの時代というのは後から研究者が区切ったものだから、どこにも属さない作品もあって当然といえる。
「新聞とグラスとタバコの箱」 1921年
「魚、瓶、コンポート皿(小さなキッチン)」 1922年
そしていよいよバケモノ顔の「シュルレアリスムの時代」。シュルレアリスムとは超現実主義。シュルレアリスムについてダリ展をブログにした時に少し書いた。でもダリとピカソのシュルレアリスムはまったく違う。ダリの絵も奇想天外だが、何となくその絵を描いた気持ちみたいなものはわかる。でもピカソは無理(^^ゞ
ひとつにはキュビスム的な形の破壊が頭を混乱させるから。もうひとつは上手く表現できないが、ピカソが絵に込めた尋常ならざるパワー。それが私のキャパシティーを超えてしまって受け止められない。
でもしかしである。ピカソのバケモノ顔を初めて見たのはたぶん小学生の頃。その時はキチ○イという言葉しか思い浮かばなかった。それから気が遠くなるような年月が流れて、そして見慣れた。だから最初は拒絶反応だったピカソの絵も、いつの頃からかたまには見たくなるように。今風の言葉で表現するなら「キモ可愛い」。20世紀最大の芸術家といわれるピカソの絵が理解できないことに引け目を感じたこともあったが、今は妙な形で折り合いがついている。それにピカソはこんなふうに言っている。「人は鳥の声や花を素直に愛せるのに、なぜか芸術に限って理解したがる」。少々時間はかかったが、ピカソに追いつけてよかった。
ところでピカソが20世紀最大とか天才とか革命的などと評される理由はいろいろあるが、キュビスムの初期に描かれた「アビニヨンの娘たち」という作品がよく引き合いに出される。まるでヘタウマ絵。この作品は西洋絵画が築き上げてきた遠近法や陰影法をまったく無視している。それが革命的だったということらしい。エ〜ッ!それだったら遠近法なんてなかった日本には天才がゴロゴロしているんですけど(^^ゞ それはさておき、印象派の画家に浮世絵ファンが多いのもそういう理由なのかなと想像している。またこの遠近感を無視したキュビスムが後に抽象画に発展したともいわれる。ピカソが生まれたのは1881年(明治14年)。それまで世の中に抽象画というものがなかったと、初めて知った時はビックリした。
「黄色い背景の女」 1937年
「花売り」 1937年
「帽子の女」 1962年 ※年代的には「シュルレアリスムの時代」の作品では
ないが内容的にここに並べた
「シュルレアリスムの時代」の次が前回に書いた「ゲルニカの時代」。その後はいろんなタイプの絵を描くようになるので「晩年の時代」とひとくくりにされている。
「ろうそくのある静物」 1944年
「草上の昼食」 1959年
「母と子」 1960年
「すいかを食べる男と山羊」 1967年
ピカソは1万3500点の絵、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻や陶器、合計約15万点を残している。15歳から91歳の76年間で割ると年に1974点。365日で割ると1日あたり5.4作品。版画は原画の枚数が不明だから差し引いて、5万点で計算しても1日あたり1.8作品!!!
結婚したのは2回だが合計9人ともいわれる夫人、愛人と次々に暮らしたピカソ(26人という説もあり)。含む29歳年下&40歳年下&52歳年下。しかも生涯で振られたのはたった1回!!!
残した遺産は7500億円!!!
ピカソの絵をキモ可愛いなんて言っていないで、これからは毎日拝もう(^^ゞ
ーーー続く
2017年07月04日
ピカソとシャガール 愛と平和の賛歌
5月20日に箱根の山のホテルでツツジとシャクナゲを見た後に立ち寄った展覧会。バイクに乗るのと絵を鑑賞するのはまったく違う行為だが、その組み合わせが気に入って箱根に行く時はポーラ美術館でどんな展覧会が開かれているかを確認することが多い。擬音で例えればヴォーンと走ってシーンと眺めるといった感じ。
ところでこの展覧会、何ゆえピカソとシャガールの組み合わせ? 同世代の画家ではあるが共通点も、あるいは逆に対比すべきところもないように思う。ポーラ美術館の開館15周年記念展だから手持ちの作品を適当に組み合わせたレベルの企画ではないにしても、その意図は見終わった後でも理解できなかった。でも「天丼と蕎麦」のセット定食のように2つ楽しめたからよかった(^^ゞ
ピカソは1881年(明治14年)生まれで1973年没のスペイン人。1900年(明治33年)頃からパリで活躍する。シャガールは1887年(明治20年)生まれで1985年没のユダヤ系ロシア人。パリにやってきたのは1911年とされる。
展覧会のパンフレットには二人が仲良さそうにしている写真が使われている。
左がピカソで右がシャガール。これは1951年の撮影だからかなり晩年の頃。シャガールがパリにやってきた1911年に、ピカソはもう帝王的な地位を築いていたので、最初はシャガールにとって雲の上の存在だったんじゃないかな。ピカソは91歳、シャガールは97歳まで生きてどちらも長命の画家。
いつものようにエレベータを降りて展示室に向かう。
開館15周年を示すディスプレイ。
展示されている作品は約80点とやや少なめなものの充分に見応えはあった。それにポーラ美術館は都心の美術館と較べれば貸し切り状態といっていいほど空いている。つまりじっくり絵を眺められるから、これくらいでちょうどよかった気もする。
この展覧会の目玉、あるいは他の展覧会と違っているのはタペストリーの作品が展示されていること。タペストリーとは壁に掛ける絨毯みたいなもの。ゴブラン織りとも呼ばれる。インテリアとしてのタペストリーは馴染みがあるが、ピカソやシャガールといった巨匠クラスにタペストリーがあるとは知らなかった。解説によれば第2次世界大戦後のフランスではタペストリーの見直しが盛んになったとされる。
もちろんタペストリーは画家が織るのではなく専門の職人が制作する。この当時、一流レベルの職人は芸術家として扱われていたようだ。いってみればタペストリーは画家とタペストリー作家のコラボ作品。またタペストリーのための原画はカルトンと呼ばれる。そういえばゴヤの展覧会でカルトンを何点か見た。ゴヤはピカソ達より130年ほど前の画家。宮廷というものがあった時代はタペストリーが盛んで、それに回帰しようとしたのかもしれない。
「ミノタウロマキア」 1982年
原画:ピカソ
タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
画像で載せるとタペストリーなのか絵なのかはわからないね。絵の右側に描かれている牛の頭をした人間がギリシャ神話に登場するミノタウロス。海の神ポセイドンの呪いによって生まれた暴力と性欲の怪物。ピカソはミノタウロスをテーマとした作品を70点ほど残している。ミノタウロスに彼自身を投影していたともいわれる。ちなみにピカソは自他共に認める「肉食系画家」である(^^ゞ
タペストリーは1982年に制作されたが、原画は1935年に刷られた版画。それでこのミノタウロスはピカソ自身ではなく、迫り来る第2次世界大戦(1939年〜1945年)を象徴しているらしい。それはよくわからないとしても、何せ縦3.15メートル横4.5メートルのサイズなので、ミノタウロスの姿と相まって大迫力の作品である。だからといって何かビンビン感じるものはなかったのだがーーー
この展覧会の本当の目玉作品はあの有名な「ゲルニカ」のタペストリー。ただし「ゲルニカ」と「ミノタウロマキア」は入れ替え展示で、私が訪れた時はもう「ミノタウロマキア」になっていた。
話は変わるが私はゲルニカを見たことがあるーーーと思っていた時期がある。1980年代後半にニューヨーク近代美術館に行った時に確かにゲルニカを見た。それは強烈なインパクトで、その時の訪問で今でも明確に覚えているのはゲルニカとこの作品くらいである。しかしゲルニカがニューヨーク近代美術館のコレクションだったのは1939年から1981年までなのを後で知った。スペインに戻ったゲルニカは、それ以降どこにも貸し出されていない。私が見たのはレプリカあるいは写真展示だったのかなあ。我がアートライフ最大のナゾ
ニューヨーク近代美術館で「見た」ゲルニカに強烈なインパクトを受けたと書いた。しかしそれは素晴らしい作品と思ったり感動したのとはまったく違う。ひたすらひたすらナンジャコレ〜とビックリしただけ。ゲルニカのことはまったく知らなかったし、見てすぐわかったがピカソの作品だとも知らなかった。たまたま日本人の客がいて「スペイン内戦でゲルニカという街が爆撃を受けて廃墟となった情景」などと説明していたので描かれている内容は理解できた。しかし、そんなこととはまったく関係なくナンジャコレ〜だった。
ピカソはいろいろと画風が変遷するけれど、やはり彼をピカソたらしめているのはキュービスムやシュルレアリスム。特にバケモノ女のような絵。その美術史的な価値は理解できても、それのどこがいいのか未だちっともわからない。それでも展覧会に来るのは、たまには変わったものを見たいから。いわば目の気分転換。ゲルニカもその延長戦上にある。しかし世の中の人はゲルニカを見て、そこにピカソの愛や哀しみを感じ取って感動するらしい。考え過ぎじゃない?
展覧会では見なかったが参考までに画像を。ついでに原画のほうも。
タペストリーの「ゲルニカ」 1983年
タペストリー制作はジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバック
オリジナルの「ゲルニカ」 1937年
シャガールのタペストリーも展示されていた。
「平和」 2001年
原画:シャガール
タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
こちらのオリジナルはシャガールが1964年に国連の講堂のために制作したステンドグラス。その時の下絵をベースに彼の死後にタペストリーにされたもの。縦4.1メートル横6.2メートルとかなり大きかった。きれいだったし、まさにシャガールの世界ではあったが、ステンドグラスだったらもっとよかったかも。シャガールはヨーロッパ各地の教会でステンドグラスを残しているしエルサレムでも制作している。いつかどこかで見てみたい。
ーーー続く
ところでこの展覧会、何ゆえピカソとシャガールの組み合わせ? 同世代の画家ではあるが共通点も、あるいは逆に対比すべきところもないように思う。ポーラ美術館の開館15周年記念展だから手持ちの作品を適当に組み合わせたレベルの企画ではないにしても、その意図は見終わった後でも理解できなかった。でも「天丼と蕎麦」のセット定食のように2つ楽しめたからよかった(^^ゞ
ピカソは1881年(明治14年)生まれで1973年没のスペイン人。1900年(明治33年)頃からパリで活躍する。シャガールは1887年(明治20年)生まれで1985年没のユダヤ系ロシア人。パリにやってきたのは1911年とされる。
展覧会のパンフレットには二人が仲良さそうにしている写真が使われている。
左がピカソで右がシャガール。これは1951年の撮影だからかなり晩年の頃。シャガールがパリにやってきた1911年に、ピカソはもう帝王的な地位を築いていたので、最初はシャガールにとって雲の上の存在だったんじゃないかな。ピカソは91歳、シャガールは97歳まで生きてどちらも長命の画家。
いつものようにエレベータを降りて展示室に向かう。
開館15周年を示すディスプレイ。
展示されている作品は約80点とやや少なめなものの充分に見応えはあった。それにポーラ美術館は都心の美術館と較べれば貸し切り状態といっていいほど空いている。つまりじっくり絵を眺められるから、これくらいでちょうどよかった気もする。
この展覧会の目玉、あるいは他の展覧会と違っているのはタペストリーの作品が展示されていること。タペストリーとは壁に掛ける絨毯みたいなもの。ゴブラン織りとも呼ばれる。インテリアとしてのタペストリーは馴染みがあるが、ピカソやシャガールといった巨匠クラスにタペストリーがあるとは知らなかった。解説によれば第2次世界大戦後のフランスではタペストリーの見直しが盛んになったとされる。
もちろんタペストリーは画家が織るのではなく専門の職人が制作する。この当時、一流レベルの職人は芸術家として扱われていたようだ。いってみればタペストリーは画家とタペストリー作家のコラボ作品。またタペストリーのための原画はカルトンと呼ばれる。そういえばゴヤの展覧会でカルトンを何点か見た。ゴヤはピカソ達より130年ほど前の画家。宮廷というものがあった時代はタペストリーが盛んで、それに回帰しようとしたのかもしれない。
「ミノタウロマキア」 1982年
原画:ピカソ
タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
画像で載せるとタペストリーなのか絵なのかはわからないね。絵の右側に描かれている牛の頭をした人間がギリシャ神話に登場するミノタウロス。海の神ポセイドンの呪いによって生まれた暴力と性欲の怪物。ピカソはミノタウロスをテーマとした作品を70点ほど残している。ミノタウロスに彼自身を投影していたともいわれる。ちなみにピカソは自他共に認める「肉食系画家」である(^^ゞ
タペストリーは1982年に制作されたが、原画は1935年に刷られた版画。それでこのミノタウロスはピカソ自身ではなく、迫り来る第2次世界大戦(1939年〜1945年)を象徴しているらしい。それはよくわからないとしても、何せ縦3.15メートル横4.5メートルのサイズなので、ミノタウロスの姿と相まって大迫力の作品である。だからといって何かビンビン感じるものはなかったのだがーーー
この展覧会の本当の目玉作品はあの有名な「ゲルニカ」のタペストリー。ただし「ゲルニカ」と「ミノタウロマキア」は入れ替え展示で、私が訪れた時はもう「ミノタウロマキア」になっていた。
話は変わるが私はゲルニカを見たことがあるーーーと思っていた時期がある。1980年代後半にニューヨーク近代美術館に行った時に確かにゲルニカを見た。それは強烈なインパクトで、その時の訪問で今でも明確に覚えているのはゲルニカとこの作品くらいである。しかしゲルニカがニューヨーク近代美術館のコレクションだったのは1939年から1981年までなのを後で知った。スペインに戻ったゲルニカは、それ以降どこにも貸し出されていない。私が見たのはレプリカあるいは写真展示だったのかなあ。我がアートライフ最大のナゾ
ニューヨーク近代美術館で「見た」ゲルニカに強烈なインパクトを受けたと書いた。しかしそれは素晴らしい作品と思ったり感動したのとはまったく違う。ひたすらひたすらナンジャコレ〜とビックリしただけ。ゲルニカのことはまったく知らなかったし、見てすぐわかったがピカソの作品だとも知らなかった。たまたま日本人の客がいて「スペイン内戦でゲルニカという街が爆撃を受けて廃墟となった情景」などと説明していたので描かれている内容は理解できた。しかし、そんなこととはまったく関係なくナンジャコレ〜だった。
ピカソはいろいろと画風が変遷するけれど、やはり彼をピカソたらしめているのはキュービスムやシュルレアリスム。特にバケモノ女のような絵。その美術史的な価値は理解できても、それのどこがいいのか未だちっともわからない。それでも展覧会に来るのは、たまには変わったものを見たいから。いわば目の気分転換。ゲルニカもその延長戦上にある。しかし世の中の人はゲルニカを見て、そこにピカソの愛や哀しみを感じ取って感動するらしい。考え過ぎじゃない?
展覧会では見なかったが参考までに画像を。ついでに原画のほうも。
タペストリーの「ゲルニカ」 1983年
タペストリー制作はジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバック
オリジナルの「ゲルニカ」 1937年
シャガールのタペストリーも展示されていた。
「平和」 2001年
原画:シャガール
タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
こちらのオリジナルはシャガールが1964年に国連の講堂のために制作したステンドグラス。その時の下絵をベースに彼の死後にタペストリーにされたもの。縦4.1メートル横6.2メートルとかなり大きかった。きれいだったし、まさにシャガールの世界ではあったが、ステンドグラスだったらもっとよかったかも。シャガールはヨーロッパ各地の教会でステンドグラスを残しているしエルサレムでも制作している。いつかどこかで見てみたい。
ーーー続く
2017年07月01日
世界盆栽大会 その2
会場内はかなりの混雑。チケットは並ぶことなく買えたから、前売り券を買っている人が多いのかも。ゴールデンウィークとなる翌日からは会場に入るのに1〜2時間くらい並んだそうである。またスマホも含めてほとんどの人が写真を撮るので、盆栽を正面から撮影する位置を確保するのに少々手こずる。
それと外国人(白人)もよく見かけた。外国のテレビ取材クルーと思われる人たちもチラホラ。25年ほど前から盆栽はBonsaiとして海外で通用することは知っていたが、改めてその人気を実感。なお盆栽が海外に広く知られるきっかけは1970年の大阪万博だという説もある。
この世界盆栽大会は1989年に日本で最初に開かれ、以降はオリンピックのように4年ごとにアメリカ、韓国、ドイツ、アメリカ、プエルトリコ、中国で開催された。だから日本での大会は28年振りとなる。次回はオーストラリア。それにしてもプエルトリコと盆栽ってまったくイメージが結びつかないなあ。パームツリーとかトロピカルムードの盆栽なんだろうか。そういうのなら是非見てみたい。
なお「大会」という名称ではあるが盆栽の優劣を競うコンテストではない。主催者によるとただ盆栽を並べただけの展覧会ではなく、盆栽作家のプレゼンテーションや盆栽愛好家の交流を重視するというのが大会という意味らしい。普通にネーミングするなら国際盆栽フェスティバルかな。しかし世界盆栽大会という名前は意味的にはドウヨと思うけれど、世界と盆栽の言葉を組み合わせたインパクトはある。前回書いたように私もそれで興味を引かれた。ちなみに英語表記はWorld Bonsai Conventionとなっている。
こちらは水石の展示。水石(すいせき)とは室内観賞用のめずらしい形をした石のこと。反対語は庭石になるのかな。
化石じゃなくて菊の模様があらわれた石。
埴輪みたい。
水石にも産地というものがあるらしい。
ディープにマニアックな世界を垣間見る。
宇宙船?
これが何に見えるかで心理テストができそう。
これらは小品盆栽と書かれていた。棚単位での出品。
調べてみると盆栽はサイズ区分があって、だいたいの基準は以下の通り。
豆盆栽: 樹高10センチ未満
小品盆栽:樹高10センチ〜19センチ
貴風盆栽:樹高20センチ〜34センチ
中品盆栽:樹高35センチ〜40センチ
大物盆栽:樹高40センチ以上
盆栽だけだと見飽きてくるので、こういうディスプレーは新鮮。
ツツジ(サツキかも)がきれいに咲いた盆栽。
アップで撮ったら盆栽かどうかわからないが、いつもの癖で。
さいたま市の小学生が育てた盆栽。
埼玉県は盆栽の主要産地でさいたま市には盆栽町という地名がある。関東大震災で被災した都内の盆栽業者が集団移転してきたのが始まりとされる。現在は盆栽町を含めたもう少し広いエリアを大宮盆栽村と呼称して一種のブランドとなっている。
それで他にどんな産地があるのかと調べたのだが、ネットではめぼしい情報を見つけられず。わかったのは香川県が松の盆栽では国内シェアの80%を占めているということくらい。「うどん県」のPR効果で讃岐うどん=香川県が結びついたのだから、盆栽もアピールすればいいのに。海外からの観光客を呼び込めるかもしれないよ。
盆栽作家による実演。ご覧の通り講師は外国人。盆栽アーティストと呼んだほうがしっくりくるかも。数百名の人が熱心に見ていた。
こちらは盆栽教室の様子。
会場の半分くらいを占めていたのが販売スペース。こちらも大混雑。
3鉢でお値段1億円なり!の盆栽。
でも購入者は慶雲庵とあるから業者間売買の模様。それでこの慶雲庵は最初から2枚目の写真に一般財団法人 京都国際文化振興財団 慶雲庵とある出品者でもある。しかし財団なのに京都国際文化振興財団や慶雲庵のホームページが見あたらない。ナゾの団体。
この盆栽は手の拳くらいの大きさなのに3万円もする。
手のひらサイズになると15万円。
30センチくらいになるとでも50万円は当たり前の世界。
前回のエントリーで紹介したような大物盆栽だと280万円(゜o゜)
金額を見て、膨らみかけた盆栽への興味が一気にしぼむ(^^ゞ しかし世界大会だからか、この会場で売られている盆栽の価格は高め。ネットで調べると豆盆栽や小品盆栽なら1万円以下のものがたくさんある。
https://www.bonsaimyo.com/matsubonsai/
http://shop.greenscape.co.jp/
http://www.yamataya.com/product-list/1
ところでイベントは盛況だったが国内の盆栽マーケットはかなり縮小しているらしい。この10年で半減という話もある。ただし具体的な数字はネットでザッと調べた程度ではわからなかった。輸出は増えているという情報は多いが対照となる国内の市場規模はわからず。また農水省の統計でも盆栽と植木などとの区別はしていないようである。
盆栽はいい趣味だと思うがとても手間が掛かる。例えば水やりは基本的に
春秋は1日1回、夏は1日2回、冬は2日に1回
が目安らしい。だから昔から隠居した老人が愛好家の中心である。これから超高齢化社会だからマーケティング次第では復活も可能かもしれない。もちろん昭和と平成の高齢者は違う。私も今回見たような伝統的な盆栽を欲しいとはそれほど思わないが、寿司でいうならカリフォルニアロールみたいな盆栽ならベランダに置きたいかな。
また盆栽は鉢に植えられてから何百年と経っている物もある。当然人の寿命より長い。それで面白いのは盆栽の価値は盆栽そのもの姿形だけではなく、誰が所有してきたかにもよって決まるということ。元はドコソコ大名家のもので、明治になってナニナニ公爵の手に渡り、戦後はマルマル首相が育て、現在は歌舞伎役者のダレソレが持っているーーーなんていうと価値が高くなるらしい。肩書きで価値を判断するのがいかにも日本的。でもそんな伝統と格式みたいなイメージが盆栽について回るのはマイナスだろう。
ところで実は「世界大会」ということで世界各地の日本のものとは違った盆栽が見られると期待していた。残念ながらそういった盆栽はなかったが、超一級の銘品をたくさん見たからちょっとは目が肥えたかもしれない。これからそれを生かす機会があるかどうかは別問題として。
おしまい