2018年12月
2018年12月31日
2018年12月30日
乳鉢でラベンダー
さて乳鉢である。昔、理科教室なんかで見たことはあると思うが、ウィキペディアによると
乳鉢(にゅうばち、mortar)は、固体を粉砕または混和するために使用する鉢で
ある。乳棒(にゅうぼう、pestle)と共に使用される。世界各地で古代から使われ
ており、食品の加工や調剤・実験器具として用いられる。
とある。
そんなもので何をしているかというとーーー。
実はラベンダーの香りが大好きで、人は見かけによらないとよくいわれる(^^ゞ バイクでもラベンダー目当てに何度かツーリングした。ラベンダーが咲いていると謳っていなくても少しだけ植えてある公園ならたまにある。ちなみにラベンダーが咲いているのに漂っている香りが物足りないと思ったら、ラベンダーを手で握って、その手をクンクンすれば至福の時を過ごせるよ。
ラベンダー畑のある公園では、いろんなラベンダーグッズを売っている。私がよく買うのはラベンダーの匂い袋。花穂(かすい)を乾燥させてポプリになったものを、写真のような薄いネット状の袋に入れたもの。
匂い袋はセロハンのようなものでパッケージして売られている。その封を切った時はいい香りがするのだが、問題はすぐに香りが無くなってしまうこと。詰め替え用のポプリも売っているが、ラベンダーの香りに包まれた生活をするには、大量のポプリを買い込まないといけない。
ある日、香りの無くなったポプリを捨てる時に、少し揉んでみたら香りが復活することを発見。それで適当な容器に入れて100円ライターでゴリゴリして使っていた。もちろん新品の時のような香りの強さはない。でも寝る前にゴリゴリしてベッドサイドに置いておけば、ほのかな香りでいい感じに眠りにつける。
ただ100円ライターではゴリゴリしづらいので、専門器具の乳鉢を買ったというしだい。写真のようにほとんど紫色が抜けたポプリでも、まだ香りが復活する。乳鉢は直径が約九センチでお値段は845円。今年に買ったものの中で一番コスパがよかったかも。
匂い袋としてはもう充分に元は取ったけれど、ゴリゴリしても香りが復活しなくなったら、次はお風呂に浸して見ようかと思っている。
2018年12月26日
上野公園を少しブラブラ
フェルメール展を見終えてから、上野公園を少し散策。
美術館の壁面にある大きな看板。iPhoneのカメラじゃ全部収まりきらなかったし、これじゃ大きさもわからないし、もっと離れて撮影すべきだったと反省。
もうスイセンが咲いていた。いい香り。
バイクを降りてから、あちこちに出かけて景色を楽しむ機会が減ったなあ。
イチョウの落ち葉は乾燥しすぎて色合いがイマイチ。
レッドオータムはほとんどがもう傷んでいて、キレイなのはわずかだけ。
まあもうウインターだし仕方ない。
正面に見えているのは東京国立博物館。そちらのほうには行かず、この近辺をブラブラ。
なぜか上野公園にトーテムポール。トーテムポールは久し振りに見た。子供の頃は割とポピュラーで遊園地とかによくあった。西部劇が流行っていた影響だろうか。トーテムポールはインディアンが立てるシンボルみたいなもの。もう知らない人のほうが多いかも。
イエローオータム発見。
やはり風景写真には青空が必要だ。
昔、上野公園には高さ6メートルの大仏があって、関東大震災で頭部が落下。胴体は戦時中に軍需金属資源として供出されてしまう。ちなみに奈良の大仏は高さ15メートル、鎌倉は11メートル。
残っているのは頭部というか顔面のみ。
もうこれ以上「落ちない」ということで受験生に人気なんだとか(^^ゞ
だから合格祈願の絵馬。ところで絵馬って、買った人が願い事をかいてこういうところにくくりつけるもののはずだが、ここにあったのはなぜか新品の絵馬。
いい雰囲気の料亭があった。
公園の掲示板にあった除夜の鐘のお知らせ。赤線部分に注目。鐘をつくのに3000円取られるんだ。3000円×108回×2箇所で大晦日に64万8000円の売り上げか。それにしても煩悩が108もあるなんて多すぎないか?
連続した鳥居が続く花園神社。途中で引き返したので何本あるかわからず。
後ろにあるのは清水観音堂といって京都の清水寺を模して作られたもの。それはともかく、この日は12月20日。謹賀新年の看板準備、ちょっと早すぎるように思うけど。
フェルメールの余韻に浸りながら、つかのまのお散歩でした。
美術館の壁面にある大きな看板。iPhoneのカメラじゃ全部収まりきらなかったし、これじゃ大きさもわからないし、もっと離れて撮影すべきだったと反省。
もうスイセンが咲いていた。いい香り。
バイクを降りてから、あちこちに出かけて景色を楽しむ機会が減ったなあ。
イチョウの落ち葉は乾燥しすぎて色合いがイマイチ。
レッドオータムはほとんどがもう傷んでいて、キレイなのはわずかだけ。
まあもうウインターだし仕方ない。
正面に見えているのは東京国立博物館。そちらのほうには行かず、この近辺をブラブラ。
なぜか上野公園にトーテムポール。トーテムポールは久し振りに見た。子供の頃は割とポピュラーで遊園地とかによくあった。西部劇が流行っていた影響だろうか。トーテムポールはインディアンが立てるシンボルみたいなもの。もう知らない人のほうが多いかも。
イエローオータム発見。
やはり風景写真には青空が必要だ。
昔、上野公園には高さ6メートルの大仏があって、関東大震災で頭部が落下。胴体は戦時中に軍需金属資源として供出されてしまう。ちなみに奈良の大仏は高さ15メートル、鎌倉は11メートル。
残っているのは頭部というか顔面のみ。
もうこれ以上「落ちない」ということで受験生に人気なんだとか(^^ゞ
だから合格祈願の絵馬。ところで絵馬って、買った人が願い事をかいてこういうところにくくりつけるもののはずだが、ここにあったのはなぜか新品の絵馬。
いい雰囲気の料亭があった。
公園の掲示板にあった除夜の鐘のお知らせ。赤線部分に注目。鐘をつくのに3000円取られるんだ。3000円×108回×2箇所で大晦日に64万8000円の売り上げか。それにしても煩悩が108もあるなんて多すぎないか?
連続した鳥居が続く花園神社。途中で引き返したので何本あるかわからず。
後ろにあるのは清水観音堂といって京都の清水寺を模して作られたもの。それはともかく、この日は12月20日。謹賀新年の看板準備、ちょっと早すぎるように思うけど。
フェルメールの余韻に浸りながら、つかのまのお散歩でした。
2018年12月25日
フェルメール展 その3
フェルメールはずっと好きだったが、実は6年前に念願の「真珠の耳飾りの少女」を観たことで熱が冷めたとはいわないまでも、満足して一区切りついたというのが正直なところ。今回は現存するフェルメールの35作品のうち9作品がやって来るというふれこみだが、2点は入れ替えなので実際に観られるのは8作品。その中の2つは今までに観たことがある。だからそれほど待ちに待ったという気分ではなかった。それでもやはり「牛乳を注ぐ女」は観ておきたかったし観られてよかったと思っている。
熱狂的なフェルメールマニアの中には、フェルメールを所蔵している各国の美術館まで出かける「フェルメール巡礼」をする人もいるようだ。しかし調べた限り1970年以降にフェルメールの作品は25点が来日している。私は今回で「真珠の耳飾りの少女」と「牛乳を注ぐ女」を含む12点を既に観たから、フェルメールが日本に巡礼してくれるのをこれからも気長に待とう(^^ゞ
さてフェルメールの展示室は、展覧会の最後に設けられていて作品8点が一堂に会している。彼の作品すべてが傑作だとは思っていないのだが、やはりこれだけの数のフェルメールが揃っていると圧巻である。思わず息を呑んだとか足が止まったなどと大げさな表現をするつもりはない。ただただ「ええなあ〜」とニヤけて眺めていた。
「マルタとマリアの家のキリスト」 1654〜1655年頃
フェルメールがキリストを描いた唯一の作品。また156センチx142センチとフェルメールにしては例外的に大きなサイズ。(ほとんどの作品はA3より少し大きい程度である)
でも、それだけだったかな …………
「ワイングラス」 1661〜1662年頃
上の作品から6〜7年たってフェルメールも腕を上げたようである。かなり絵に立体感も出てきた(とエラソーにいってみる)。しかし実に不思議な絵でもある。
まず、この時代の服装をまとっているのだろうが、その知識のない私には男性が西部劇に出てくる人物に見えて仕方なかった。それは置いておくにしても、何のシーンを描いているのかさっぱりわからない。男性が注いだと思われるワインを女性だけが座って飲み干している。そして男性は女性の表情を見つめている。
解説によればテーブルに置かれた楽譜や楽器は「愛」を暗示するもの。また窓のステンドグラスには馬の手綱が描かれていて、それは「節制」を意味しているという。それでトータルでは「誘惑されちゃだめよ」ということらしい。
しかしテーブルに男性用のワイングラスは見あたらない。女性にだけお酒を飲ませて自分はそれを見ているだけなんて口説き方があるか? それに女性のポーズのどこからもOKサインが出ていない。エロティックのエの字もなし!
だから私の解釈は
女主人にワインの試飲をしてもらって
その評価をビビりながら待っている
出入り業者の酒屋(^^ゞ
またガラスを透明に描けるようになったのは、この時代のオランダやフランドル絵画からである(たぶん)。私も初めて見た時はビックリした。当時の人はもっとビックリしただろう。案外、透明のワイングラスを描きたかっただけだったりして。
続いては、私が勝手にフェルメールのイエロー三部作と読んでいる作品。フェルメールといえばフェルメールブルーだが、黄色もけっこう重要な役割を果たしているんじゃないかと思っている。
ちなみに彼女たちが着ている上着は同じもので、フェルメールは他にも3作品でモデルにこの服を着せている。つまり35作品中で同じ服装が6つ。よほど気に入っていたのか、他の服を用意する余裕がなかったのか、どっちなんだろう?
「リュートを調弦する女」 1662年〜1663年頃
調弦していたら窓の外で何かがーーーというようなシーン。いわゆる小芝居ですな。壁の地図に意味があるそうだが、あまりそういうことばかり詮索すると絵を楽しめなくなる。
「真珠の首飾りの女」 1662〜1665年頃
「真珠の耳飾りの少女」を都立美術館で見た時、同時期に国立西洋美術館で展示されていたこの絵を見に行けなかったことは心残りだった。しかし待てば海路の日和あり。それにしても作品のタイトルが似ていてややこしい。
フェルメール作品の中で最も愛くるしい絵。それにしてもこのイエロー三部作の女性が「女」なのに「真珠の耳飾り」はどうして「少女」なんだろう。歳は違わないように思えるし、特にこの「真珠の首飾りの女」は幼い感じがする。
ポーズが少し変わっているが、当時のネックレスはフックがなくリボンを結んで、それを首の後ろに回したとのこと。シチュエーションから考えて壁に掛かっている額は鏡。ずいぶんと小さな気もする。当時は大きな鏡はなかったのかな。また鏡のサイズから考えると彼女の位置が離れすぎているように思える。もっともそんな細かなことは気にしないで、このホワーッと柔らかい絵を慈しむべきなのだ。おかしな表現かもしれないが、ずっと眺めていても見疲れしない絵だった。
ただテーブル手前の布はもう少し減らして、いろいろ描き込んで欲しかったかな。なおブログの写真ではわからないと思うが、椅子に打ち付けられている金属の鋲の質感がやたらリアル。
「手紙を書く女」 1665年頃
これと次の「手紙を書く夫人と召使い」は以前にも観た。その時のブログはこちら。
前回はわからなかったが、今回は同じイエロー三部作の「真珠の首飾りの女」と比較して、まるで写真のソフトフォーカスのように描かれているのに気がついた。それはそれでアリな表現だとは思うが、見較べてみると「ちゃんとピント合わしてよ」という気持ちになってくるというか、もっとしっかり観たくて物足りないというか。
それと「リュートを調弦する女」も同じであるが、肌の彩度(色の濃さ)がかなり押さえられているので、ちょっと幽霊のようにも見えなくもない。
「手紙を書く夫人と召使い」 1670〜1671年頃
構図、光の描き方共に完璧。ただ召使いの服がちょっと張りすぎているかな。テーブルの前には書き損じの手紙のようなものが落ちており、そういうのを描き込むのがこの時代の作品の特徴でもある。
以前のブログで「テーブルクロスの上で文字は書きづらくないのか」と書いた。この展覧会でテーブルが出てくる作品は6つあるが、5つにテーブルクロスがかかっている。どれもダイニングテーブルじゃない。そういうものなのか、あるいは当時はそうだったのか? そのうち調べてみよう。
ところで靴を脱いで家に入るのは日本文化の特徴だけれど、テーブルクロスを使わないというのもそうだよね。
「赤い帽子の娘」 1665〜1666年頃
テレビ番組でこの絵と「真珠の耳飾りの少女」のモデルは同じだという説を述べている人がいた。そんなはずはないと思ったが、この目で実物を確かめたかった。
まったく似ていないと思うけれど、女性は化けるからなあ(^^ゞ
「牛乳を注ぐ女」 1658〜1660年頃
ごく当たり前の動作が、どうしてこんな素晴らしい絵になるのかと感嘆せざるを得ない。間違いなくフェルメールの最高傑作。他の作品より群を抜いてレベルが高いし、展示室でも順路の最後にあったから、晩年の作品と思っていたが、意外にもキャリア初期に描かれたもの。(最初の作品が1653年頃、最後の作品が1675年頃)
ちなみにこれは牛乳を鍋に移して、テーブルにある(固くなった)パンをパン粥にする準備をしているらしい。人物だけじゃなくてテーブルに置かれたパンやカゴ、壁にあるバスケットや金属製のバケツ?、さらにいえば壁の描き方など、どこを取っても見応えがある。
しかし前から気になっていたことが。女性の胸や肩のあたりの描き方というか服の質感がおかしい。まるで陶器の服のように固く感じられる。埴輪みたいだ。 実物を見ても印象は同じだった。どうしてこうなったんだろう。他の部分は布らしく描かれているから、テクニックの問題じゃないはず。ナゾ
また「牛乳を注ぐ女」は他のフェルメール作品と較べて、やや粗めのタッチで描かれている。そしてフェルメールの35作品の中でこういう描き方はこの作品だけ。彼自身がもっと滑らかに描きたいと思ったのか、あるいは評判がよくなかったのか。それはわからないが、この雰囲気の作品をもっと残して欲しかったと思う。
たくさんのフェルメールを見られて楽しかった。8作品が展示されてフェルメールのオーラが充満した空間にいられたのが最大の収穫かな。次の望みは「デルフトとの眺望」というフェルメール唯一の風景画を見ること。まだ日本に来たことがない作品なので、次のフェルメール展では是非! 関係者の努力を期待する。
おしまい
熱狂的なフェルメールマニアの中には、フェルメールを所蔵している各国の美術館まで出かける「フェルメール巡礼」をする人もいるようだ。しかし調べた限り1970年以降にフェルメールの作品は25点が来日している。私は今回で「真珠の耳飾りの少女」と「牛乳を注ぐ女」を含む12点を既に観たから、フェルメールが日本に巡礼してくれるのをこれからも気長に待とう(^^ゞ
さてフェルメールの展示室は、展覧会の最後に設けられていて作品8点が一堂に会している。彼の作品すべてが傑作だとは思っていないのだが、やはりこれだけの数のフェルメールが揃っていると圧巻である。思わず息を呑んだとか足が止まったなどと大げさな表現をするつもりはない。ただただ「ええなあ〜」とニヤけて眺めていた。
「マルタとマリアの家のキリスト」 1654〜1655年頃
フェルメールがキリストを描いた唯一の作品。また156センチx142センチとフェルメールにしては例外的に大きなサイズ。(ほとんどの作品はA3より少し大きい程度である)
でも、それだけだったかな …………
「ワイングラス」 1661〜1662年頃
上の作品から6〜7年たってフェルメールも腕を上げたようである。かなり絵に立体感も出てきた(とエラソーにいってみる)。しかし実に不思議な絵でもある。
まず、この時代の服装をまとっているのだろうが、その知識のない私には男性が西部劇に出てくる人物に見えて仕方なかった。それは置いておくにしても、何のシーンを描いているのかさっぱりわからない。男性が注いだと思われるワインを女性だけが座って飲み干している。そして男性は女性の表情を見つめている。
解説によればテーブルに置かれた楽譜や楽器は「愛」を暗示するもの。また窓のステンドグラスには馬の手綱が描かれていて、それは「節制」を意味しているという。それでトータルでは「誘惑されちゃだめよ」ということらしい。
しかしテーブルに男性用のワイングラスは見あたらない。女性にだけお酒を飲ませて自分はそれを見ているだけなんて口説き方があるか? それに女性のポーズのどこからもOKサインが出ていない。エロティックのエの字もなし!
だから私の解釈は
女主人にワインの試飲をしてもらって
その評価をビビりながら待っている
出入り業者の酒屋(^^ゞ
またガラスを透明に描けるようになったのは、この時代のオランダやフランドル絵画からである(たぶん)。私も初めて見た時はビックリした。当時の人はもっとビックリしただろう。案外、透明のワイングラスを描きたかっただけだったりして。
続いては、私が勝手にフェルメールのイエロー三部作と読んでいる作品。フェルメールといえばフェルメールブルーだが、黄色もけっこう重要な役割を果たしているんじゃないかと思っている。
ちなみに彼女たちが着ている上着は同じもので、フェルメールは他にも3作品でモデルにこの服を着せている。つまり35作品中で同じ服装が6つ。よほど気に入っていたのか、他の服を用意する余裕がなかったのか、どっちなんだろう?
「リュートを調弦する女」 1662年〜1663年頃
調弦していたら窓の外で何かがーーーというようなシーン。いわゆる小芝居ですな。壁の地図に意味があるそうだが、あまりそういうことばかり詮索すると絵を楽しめなくなる。
「真珠の首飾りの女」 1662〜1665年頃
「真珠の耳飾りの少女」を都立美術館で見た時、同時期に国立西洋美術館で展示されていたこの絵を見に行けなかったことは心残りだった。しかし待てば海路の日和あり。それにしても作品のタイトルが似ていてややこしい。
フェルメール作品の中で最も愛くるしい絵。それにしてもこのイエロー三部作の女性が「女」なのに「真珠の耳飾り」はどうして「少女」なんだろう。歳は違わないように思えるし、特にこの「真珠の首飾りの女」は幼い感じがする。
ポーズが少し変わっているが、当時のネックレスはフックがなくリボンを結んで、それを首の後ろに回したとのこと。シチュエーションから考えて壁に掛かっている額は鏡。ずいぶんと小さな気もする。当時は大きな鏡はなかったのかな。また鏡のサイズから考えると彼女の位置が離れすぎているように思える。もっともそんな細かなことは気にしないで、このホワーッと柔らかい絵を慈しむべきなのだ。おかしな表現かもしれないが、ずっと眺めていても見疲れしない絵だった。
ただテーブル手前の布はもう少し減らして、いろいろ描き込んで欲しかったかな。なおブログの写真ではわからないと思うが、椅子に打ち付けられている金属の鋲の質感がやたらリアル。
「手紙を書く女」 1665年頃
これと次の「手紙を書く夫人と召使い」は以前にも観た。その時のブログはこちら。
前回はわからなかったが、今回は同じイエロー三部作の「真珠の首飾りの女」と比較して、まるで写真のソフトフォーカスのように描かれているのに気がついた。それはそれでアリな表現だとは思うが、見較べてみると「ちゃんとピント合わしてよ」という気持ちになってくるというか、もっとしっかり観たくて物足りないというか。
それと「リュートを調弦する女」も同じであるが、肌の彩度(色の濃さ)がかなり押さえられているので、ちょっと幽霊のようにも見えなくもない。
「手紙を書く夫人と召使い」 1670〜1671年頃
構図、光の描き方共に完璧。ただ召使いの服がちょっと張りすぎているかな。テーブルの前には書き損じの手紙のようなものが落ちており、そういうのを描き込むのがこの時代の作品の特徴でもある。
以前のブログで「テーブルクロスの上で文字は書きづらくないのか」と書いた。この展覧会でテーブルが出てくる作品は6つあるが、5つにテーブルクロスがかかっている。どれもダイニングテーブルじゃない。そういうものなのか、あるいは当時はそうだったのか? そのうち調べてみよう。
ところで靴を脱いで家に入るのは日本文化の特徴だけれど、テーブルクロスを使わないというのもそうだよね。
「赤い帽子の娘」 1665〜1666年頃
テレビ番組でこの絵と「真珠の耳飾りの少女」のモデルは同じだという説を述べている人がいた。そんなはずはないと思ったが、この目で実物を確かめたかった。
まったく似ていないと思うけれど、女性は化けるからなあ(^^ゞ
「牛乳を注ぐ女」 1658〜1660年頃
ごく当たり前の動作が、どうしてこんな素晴らしい絵になるのかと感嘆せざるを得ない。間違いなくフェルメールの最高傑作。他の作品より群を抜いてレベルが高いし、展示室でも順路の最後にあったから、晩年の作品と思っていたが、意外にもキャリア初期に描かれたもの。(最初の作品が1653年頃、最後の作品が1675年頃)
ちなみにこれは牛乳を鍋に移して、テーブルにある(固くなった)パンをパン粥にする準備をしているらしい。人物だけじゃなくてテーブルに置かれたパンやカゴ、壁にあるバスケットや金属製のバケツ?、さらにいえば壁の描き方など、どこを取っても見応えがある。
しかし前から気になっていたことが。女性の胸や肩のあたりの描き方というか服の質感がおかしい。まるで陶器の服のように固く感じられる。埴輪みたいだ。 実物を見ても印象は同じだった。どうしてこうなったんだろう。他の部分は布らしく描かれているから、テクニックの問題じゃないはず。ナゾ
また「牛乳を注ぐ女」は他のフェルメール作品と較べて、やや粗めのタッチで描かれている。そしてフェルメールの35作品の中でこういう描き方はこの作品だけ。彼自身がもっと滑らかに描きたいと思ったのか、あるいは評判がよくなかったのか。それはわからないが、この雰囲気の作品をもっと残して欲しかったと思う。
たくさんのフェルメールを見られて楽しかった。8作品が展示されてフェルメールのオーラが充満した空間にいられたのが最大の収穫かな。次の望みは「デルフトとの眺望」というフェルメール唯一の風景画を見ること。まだ日本に来たことがない作品なので、次のフェルメール展では是非! 関係者の努力を期待する。
おしまい
2018年12月24日
メリークリスマス
メリークリスマスということでクリスマス・カクタス。世間ではシャコバサボテンあるいはデンマーク・カクタスと呼ばれることのほうが多いが、クリスマスの頃に花が咲くのでクリスマス・カクタスという名前がついている。
撮影は先ほど。例年よりは多く咲いているが、例年通り満開にはならない。それについてはもう諦めの境地。ちなみに今年は10日ほど前から部屋に取り込んでいる。こいつは短日植物といって、日照時間が短くなると花を咲かせる。だからツボミができたら部屋に入れたほうがよく咲く。
もっとも屋外でも冬になれば日照時間は短くなるわけだし、同じ短日植物の菊やコスモスはそんなことをしないから(秋から冬に咲くのはたいてい短日植物)、少し合点がいかない点もある。しかし株が弱ってツボミはできても花が咲かない時期があって、その時に部屋に入れたら咲いたから、とりあえずそうすることにしている。
ところで本日は天皇誕生日の振替休日。皇太子の誕生日は2月23日で天皇に即位するのは5月1日だから、来年は天皇誕生日の休日はなし(/o\) また昭和天皇の誕生日である4月29日は「昭和の日」として祝日になっているが、12月23日は「平成の日」とはならないらしいので残念。もっとも天皇は今上天皇で125代目だから、すべてを記念日にしていたら1年の1/3が祝日になってしまう。ちなみに明治天皇の誕生日である11月3日は「文化の日」だけれど、大正天皇の誕生日の8月31日は平日である。
ついでに先日の世田谷ボロ市で買った緋牡丹も。
こっちのほうがクリスマスぽい雰囲気かな。
撮影は先ほど。例年よりは多く咲いているが、例年通り満開にはならない。それについてはもう諦めの境地。ちなみに今年は10日ほど前から部屋に取り込んでいる。こいつは短日植物といって、日照時間が短くなると花を咲かせる。だからツボミができたら部屋に入れたほうがよく咲く。
もっとも屋外でも冬になれば日照時間は短くなるわけだし、同じ短日植物の菊やコスモスはそんなことをしないから(秋から冬に咲くのはたいてい短日植物)、少し合点がいかない点もある。しかし株が弱ってツボミはできても花が咲かない時期があって、その時に部屋に入れたら咲いたから、とりあえずそうすることにしている。
ところで本日は天皇誕生日の振替休日。皇太子の誕生日は2月23日で天皇に即位するのは5月1日だから、来年は天皇誕生日の休日はなし(/o\) また昭和天皇の誕生日である4月29日は「昭和の日」として祝日になっているが、12月23日は「平成の日」とはならないらしいので残念。もっとも天皇は今上天皇で125代目だから、すべてを記念日にしていたら1年の1/3が祝日になってしまう。ちなみに明治天皇の誕生日である11月3日は「文化の日」だけれど、大正天皇の誕生日の8月31日は平日である。
ついでに先日の世田谷ボロ市で買った緋牡丹も。
こっちのほうがクリスマスぽい雰囲気かな。
2018年12月23日
フェルメール展 その2
会場はフェルメールと同時代のオランダ絵画を観て、最後にフェルメールの展示室という構成になっている。ちなみにフェルメールが生きたのは1632年から1675年。日本では徳川家光の将軍在位が1623年から1651年、次の家綱の在位が1651年から1680年。つまりは江戸時代の初期にあたる。
この時代の各国の画家は
カラヴァッジョ(イタリア) 1571年〜1610年
ルーベンス(フランドル) 1577年〜1640年
ベラスケス(スペイン) 1599年〜1660年
レンブラント(オランダ) 1606年〜1669年
と錚々たる顔ぶれ。※フランドルというのはオランダ南部とベルギーあたりの当時の名前。
それでこの時代の美術様式はバロックということになる。アールヌーボーとアールデコと同じくゴシックとバロックで、どっちがどっちだっけと混乱するあのバロックである。特徴としては
綿密な写実描写
動的、劇場的な画面構成
明暗表現の強調
あたり。一言でいえばけっこう派手。音楽でバロックといえばバッハだが、割と単調なバロック音楽とは異なり、バロック絵画はクラシック音楽でいえばもっと後期のものと共通項が多い。そのあたりがどう重なっているのか西洋文化史についてはあまり知識がない。そのうち勉強しようと思っているが、そう思い始めてから25年ほどたっている(^^ゞ とりあえず大雑把にいうとゴシック→ルネサンス→バロックの順番ね。
ところでオランダと聞いてすぐに思い浮かぶのはチューリップとか風車とか。それは日本でいえばフジヤマ・ゲイシャと同じレベルだろう。まあ現在のオランダはそれほど存在感のある国とはいえない。ちなみにGDPランキングでは世界18位。しかし17世紀のオランダは国際社会において最強国の1つだった。世界最初の株式会社である東インド会社を設立し、また鎖国の江戸時代に唯一日本と貿易をしていたことなどからもそれは伺える。
ついでに言うと、オランダ、スペイン、ポルトガルなど、かつて世界に君臨し、もう今はそうじゃなくても、特に落ちぶれてもいない国というのは、将来の日本の参考になるかもしれないと思うこともある。
話がそれたが、まずは17世紀のオランダ絵画あれこれ。
「ルカス・デ・クレルクの肖像」 フランス・ハルス 1635年頃
「花の画家マリア・フォン・オーステルヴェイクの肖像」 ワルラン・ヴァイヤン 1671年
「本を読む老女」 ヘラルト・ダウ 1631〜1632年頃
「ルカス・デ・クレルクの肖像」はいかにもザ・肖像画という感じ。ルネサンス期の肖像画と較べてかなり細密。またルネサンス期の肖像画はモナリザのように細密に描かれているものでも、どこかバーチャルな雰囲気だが、17世紀のオランダ絵画はリアルで肉感的である。
ルカス・デ・クレルクは裕福な資産家。マリア・フォン・オーステルヴェイクはタイトルにあるように画家。王侯貴族や聖職者から市民にまで肖像画を描いてもらう人が広がったのは、社会全体が裕福になってきたことのあらわれ。対象が広がれば人物はバラエティに富むから絵を観るぶんにも面白い。
「本を読む老女」は肖像画じゃなくて人物画。その中でも胸から上の部分を描いたトローニーと呼ばれるジャンル。肖像画はその人物を描くことが目的で、人物画は表現の手段。それでこの作品の目的はスーパーリアリズムの追求かな。少し離れて眺めればほとんど写真レベル。
「マタイの召命」 ヤン・ファン・ベイレルト 1625〜1630年頃
「ハールレム聖ルカ組合の理事たち」 ヤン・デ・ブライ 1675年
先ほど書いた「綿密な写実描写」「動的、劇場的な画面構成」「明暗表現の強調」といったバロック絵画の特徴をすべて兼ね備えた作品。まるで映画のワンシーンのよう。
「マタイの召命」は水色の服を着て指を指しているのがキリストで、左端の赤い服を着ているのが徴税吏のマタイ。キリストが乗り込んできて税金について文句を言っているように見えるが、そうじゃなくて、これは聖書にあるキリストとマタイの出会いのシーン。突然現れたキリストはマタイに「私に従いなさい」と言い(召命:しょうめい)マタイは使徒になったとされる。使徒と聞くとエヴァンゲリオンの影響で怪物を思い出すけれど、キリストの弟子のことね。それにしてもキリストって超強引(^^ゞ
ところでファッションは流行が過ぎてしまえば「どうしてあんなもの着ていたんだろう」と思うもの。「ハールレム聖ルカ組合の理事たち」のこの黒いスモックに大きな白い襟をつけた服装は何か意味があったのかなあ。もし今、ドアを開けてこんな格好のオッサンがいたら吹き出してしまう。
「市壁の外の凍った運河」 ニコラス・ベルヘム 1647年
「捕鯨をするオランダ船」 アブラハム・ストルク 1670年頃
風景画もリアルだが、当時はあれこれスケッチしたものをベースに再構成するのが主流だったらしい。だからリアルな描写でも内容的にはフィクション。劇場的、ドラマティックなものが求められたバロック絵画だからそうなるのかな。
「捕鯨をするオランダ船」ではクジラが潮を吹いているように見えるが、これはモリを刺されて血が吹き出ている様子らしい。なぜ赤で描かない? それよりビックリしたのは左下にいるシロクマ。最初は人間と一緒にロープを引いているように見え、いくらフィクションとはいえそれはやり過ぎだろうと思ったが、よく見たらこちらもヤリで刺されているシーンだった。(画像はクリックしたら大きくなる)
ところでこの絵を観た12月21日に「日本が商業捕鯨再開のために国際捕鯨委員会(IWC)を脱退する」というニュースが流れたのは何かの因縁か。捕鯨の是非はさておき、鯨肉に今以上の消費者ニーズはないと思うけれどなあ。
「アルクマールの聖ラウレンス教会」 ピーテル・サーレンダム 1635年
教会の絵を描くもの流行ったらしい。それにしてもこれは江戸時代初期の建物を描いた作品である。下の「人の居る裏庭」の家は現代でも住めそう。較べれば当時の日本はレベル低かったんだなあと実感。
肖像画で書いたように庶民の生活を描いた風俗画が多いのもバロック絵画の楽しいところ。バロックだからけっこう「盛って」描いているんだろうが。
「仕立屋の仕事場」 クヴィリング・ファン・ブレーケレンカム 1661年
「人の居る裏庭」 ピーテル・デ・ホーホ 1663〜1665年頃
「家族の情景」 ヤン・ステーン 1660〜1670年頃
さて色々と思うところがあったのがハブリエル・メツーという画家の作品。
「手紙を書く男」 1664〜1666年頃
「手紙を読む女」 1664〜1666年頃
アンサーソングならぬアンサーピクチャーのような2つの作品。ラブレターをモチーフに男女の恋愛を描いている。ところで当時のオランダ絵画は絵の中にメッセージを込めるのが流行っていた。男性の部屋ある絵には山羊が描かれ、額縁には鳩の装飾があるが、どちらも浮気性を象徴しているらしい。また女性の背後でメイドが覆いを引いている絵は荒波を行く船で、この恋愛の将来を暗示している。しかし荒波はともかく山羊や鳩の意味までは想像できないから、オランダ絵画を観る時にメッセージ解読は気にしないようにしているが。日本画で鶴や亀がメデタイように、オランダ人は山羊や鳩でピンと来たのだろうか?
それはさておき、色々と思うところがあったのは、この作品が圧倒的に素晴らしかったから。ハブリエル・メツーはフェルメールに影響を受けた画家といわれている。例えば左側の窓から光が差し込む構図はフェルメール風だし、女性が着ている黄色い上着もフェルメール作品をそっくり真似ている。彼に憧れていたのかもしれない。でも追いつき追い越したんじゃないかな。全体として遜色ないし、あざとく描き分けていないのに光を感じるところ、また布の描き方は確実にハブリエル・メツーのほうが上手い。
フェルメールファンではあるが、実は本当にいい絵だと思っているのは数点だけ。ハブリエル・メツーのこの作品はそれに匹敵する。言い換えれば他のフェルメール作品は、この作品よりレベルが低い。もっともハブリエル・メツーの他の作品を知らないので、それだけで二人の優劣はつけられないが。
ちょっと話がそれかけた。展覧会でこの作品を観て思ったのはフェルメールと同じジャンルの絵で、フェルメールをしのぐ出来映えなのに、なぜフェルメールは誰もが知っている人気画家で、ハブリエル・メツーはよほどのマニア以外には無名の存在なのかということ。
実は展覧会に出かけて、ということは一流画家の作品を観てということだが「これくらい私でも描ける」とか「私は無理でも高校の美術部だったら楽勝」と思うことは多々ある。もちろん私や美術部の高校生が描いても評価されないわけで、その違いはどこにあるのだろうと考える。
結果論を言えばブランド力の違いになるが、そのブランドを形成するに至った差は何かということ。オリジナルの画風を確立することは大きな要素だと思っているが、それだけでもないような気がする。少なくとも描写テクニックは無関係と確信している。また美術館に行ってまで仕事のことは考えたくはないが、それは売れる商品と売れない商品の違いは何かということでもある。
その違いを解明できたら画家になるゾ !!
ーーー続く
この時代の各国の画家は
カラヴァッジョ(イタリア) 1571年〜1610年
ルーベンス(フランドル) 1577年〜1640年
ベラスケス(スペイン) 1599年〜1660年
レンブラント(オランダ) 1606年〜1669年
と錚々たる顔ぶれ。※フランドルというのはオランダ南部とベルギーあたりの当時の名前。
それでこの時代の美術様式はバロックということになる。アールヌーボーとアールデコと同じくゴシックとバロックで、どっちがどっちだっけと混乱するあのバロックである。特徴としては
綿密な写実描写
動的、劇場的な画面構成
明暗表現の強調
あたり。一言でいえばけっこう派手。音楽でバロックといえばバッハだが、割と単調なバロック音楽とは異なり、バロック絵画はクラシック音楽でいえばもっと後期のものと共通項が多い。そのあたりがどう重なっているのか西洋文化史についてはあまり知識がない。そのうち勉強しようと思っているが、そう思い始めてから25年ほどたっている(^^ゞ とりあえず大雑把にいうとゴシック→ルネサンス→バロックの順番ね。
ところでオランダと聞いてすぐに思い浮かぶのはチューリップとか風車とか。それは日本でいえばフジヤマ・ゲイシャと同じレベルだろう。まあ現在のオランダはそれほど存在感のある国とはいえない。ちなみにGDPランキングでは世界18位。しかし17世紀のオランダは国際社会において最強国の1つだった。世界最初の株式会社である東インド会社を設立し、また鎖国の江戸時代に唯一日本と貿易をしていたことなどからもそれは伺える。
ついでに言うと、オランダ、スペイン、ポルトガルなど、かつて世界に君臨し、もう今はそうじゃなくても、特に落ちぶれてもいない国というのは、将来の日本の参考になるかもしれないと思うこともある。
話がそれたが、まずは17世紀のオランダ絵画あれこれ。
「ルカス・デ・クレルクの肖像」 フランス・ハルス 1635年頃
「花の画家マリア・フォン・オーステルヴェイクの肖像」 ワルラン・ヴァイヤン 1671年
「本を読む老女」 ヘラルト・ダウ 1631〜1632年頃
「ルカス・デ・クレルクの肖像」はいかにもザ・肖像画という感じ。ルネサンス期の肖像画と較べてかなり細密。またルネサンス期の肖像画はモナリザのように細密に描かれているものでも、どこかバーチャルな雰囲気だが、17世紀のオランダ絵画はリアルで肉感的である。
ルカス・デ・クレルクは裕福な資産家。マリア・フォン・オーステルヴェイクはタイトルにあるように画家。王侯貴族や聖職者から市民にまで肖像画を描いてもらう人が広がったのは、社会全体が裕福になってきたことのあらわれ。対象が広がれば人物はバラエティに富むから絵を観るぶんにも面白い。
「本を読む老女」は肖像画じゃなくて人物画。その中でも胸から上の部分を描いたトローニーと呼ばれるジャンル。肖像画はその人物を描くことが目的で、人物画は表現の手段。それでこの作品の目的はスーパーリアリズムの追求かな。少し離れて眺めればほとんど写真レベル。
「マタイの召命」 ヤン・ファン・ベイレルト 1625〜1630年頃
「ハールレム聖ルカ組合の理事たち」 ヤン・デ・ブライ 1675年
先ほど書いた「綿密な写実描写」「動的、劇場的な画面構成」「明暗表現の強調」といったバロック絵画の特徴をすべて兼ね備えた作品。まるで映画のワンシーンのよう。
「マタイの召命」は水色の服を着て指を指しているのがキリストで、左端の赤い服を着ているのが徴税吏のマタイ。キリストが乗り込んできて税金について文句を言っているように見えるが、そうじゃなくて、これは聖書にあるキリストとマタイの出会いのシーン。突然現れたキリストはマタイに「私に従いなさい」と言い(召命:しょうめい)マタイは使徒になったとされる。使徒と聞くとエヴァンゲリオンの影響で怪物を思い出すけれど、キリストの弟子のことね。それにしてもキリストって超強引(^^ゞ
ところでファッションは流行が過ぎてしまえば「どうしてあんなもの着ていたんだろう」と思うもの。「ハールレム聖ルカ組合の理事たち」のこの黒いスモックに大きな白い襟をつけた服装は何か意味があったのかなあ。もし今、ドアを開けてこんな格好のオッサンがいたら吹き出してしまう。
「市壁の外の凍った運河」 ニコラス・ベルヘム 1647年
「捕鯨をするオランダ船」 アブラハム・ストルク 1670年頃
風景画もリアルだが、当時はあれこれスケッチしたものをベースに再構成するのが主流だったらしい。だからリアルな描写でも内容的にはフィクション。劇場的、ドラマティックなものが求められたバロック絵画だからそうなるのかな。
「捕鯨をするオランダ船」ではクジラが潮を吹いているように見えるが、これはモリを刺されて血が吹き出ている様子らしい。なぜ赤で描かない? それよりビックリしたのは左下にいるシロクマ。最初は人間と一緒にロープを引いているように見え、いくらフィクションとはいえそれはやり過ぎだろうと思ったが、よく見たらこちらもヤリで刺されているシーンだった。(画像はクリックしたら大きくなる)
ところでこの絵を観た12月21日に「日本が商業捕鯨再開のために国際捕鯨委員会(IWC)を脱退する」というニュースが流れたのは何かの因縁か。捕鯨の是非はさておき、鯨肉に今以上の消費者ニーズはないと思うけれどなあ。
「アルクマールの聖ラウレンス教会」 ピーテル・サーレンダム 1635年
教会の絵を描くもの流行ったらしい。それにしてもこれは江戸時代初期の建物を描いた作品である。下の「人の居る裏庭」の家は現代でも住めそう。較べれば当時の日本はレベル低かったんだなあと実感。
肖像画で書いたように庶民の生活を描いた風俗画が多いのもバロック絵画の楽しいところ。バロックだからけっこう「盛って」描いているんだろうが。
「仕立屋の仕事場」 クヴィリング・ファン・ブレーケレンカム 1661年
「人の居る裏庭」 ピーテル・デ・ホーホ 1663〜1665年頃
「家族の情景」 ヤン・ステーン 1660〜1670年頃
さて色々と思うところがあったのがハブリエル・メツーという画家の作品。
「手紙を書く男」 1664〜1666年頃
「手紙を読む女」 1664〜1666年頃
アンサーソングならぬアンサーピクチャーのような2つの作品。ラブレターをモチーフに男女の恋愛を描いている。ところで当時のオランダ絵画は絵の中にメッセージを込めるのが流行っていた。男性の部屋ある絵には山羊が描かれ、額縁には鳩の装飾があるが、どちらも浮気性を象徴しているらしい。また女性の背後でメイドが覆いを引いている絵は荒波を行く船で、この恋愛の将来を暗示している。しかし荒波はともかく山羊や鳩の意味までは想像できないから、オランダ絵画を観る時にメッセージ解読は気にしないようにしているが。日本画で鶴や亀がメデタイように、オランダ人は山羊や鳩でピンと来たのだろうか?
それはさておき、色々と思うところがあったのは、この作品が圧倒的に素晴らしかったから。ハブリエル・メツーはフェルメールに影響を受けた画家といわれている。例えば左側の窓から光が差し込む構図はフェルメール風だし、女性が着ている黄色い上着もフェルメール作品をそっくり真似ている。彼に憧れていたのかもしれない。でも追いつき追い越したんじゃないかな。全体として遜色ないし、あざとく描き分けていないのに光を感じるところ、また布の描き方は確実にハブリエル・メツーのほうが上手い。
フェルメールファンではあるが、実は本当にいい絵だと思っているのは数点だけ。ハブリエル・メツーのこの作品はそれに匹敵する。言い換えれば他のフェルメール作品は、この作品よりレベルが低い。もっともハブリエル・メツーの他の作品を知らないので、それだけで二人の優劣はつけられないが。
ちょっと話がそれかけた。展覧会でこの作品を観て思ったのはフェルメールと同じジャンルの絵で、フェルメールをしのぐ出来映えなのに、なぜフェルメールは誰もが知っている人気画家で、ハブリエル・メツーはよほどのマニア以外には無名の存在なのかということ。
実は展覧会に出かけて、ということは一流画家の作品を観てということだが「これくらい私でも描ける」とか「私は無理でも高校の美術部だったら楽勝」と思うことは多々ある。もちろん私や美術部の高校生が描いても評価されないわけで、その違いはどこにあるのだろうと考える。
結果論を言えばブランド力の違いになるが、そのブランドを形成するに至った差は何かということ。オリジナルの画風を確立することは大きな要素だと思っているが、それだけでもないような気がする。少なくとも描写テクニックは無関係と確信している。また美術館に行ってまで仕事のことは考えたくはないが、それは売れる商品と売れない商品の違いは何かということでもある。
その違いを解明できたら画家になるゾ !!
ーーー続く
2018年12月21日
フェルメール展
バイクを降りざるを得なくなって、この秋は美術館に行きまくるぞと思ってから6回目の展覧会。気がつけばもう真冬で、今年も残すところあとわずか。
今回は上野の森美術館で開催されているフェルメール展。日本でフェルメールの展覧会をすれば成功は約束されているようなものだけれど、この展覧会はフェルメールの作品数9点、開催期間が東京と大阪合わせて約7ヶ月と気合いが入っている。
ところでフェルメールの現存する作品は約35点と言われている。「約」とついているのは本当に彼の作品かどうかの真贋がはっきりしないものが何点かあるから。その9/35=およそ1/4が7ヶ月間も日本にやってくるとはすごいと思う反面、そんなに長く借りられるとはフェルメールの人気は海外ではそれほどでもないのかな?
それはさておき、この展覧会にはフェルメールの作品数と開催期間以外にも、他の展覧会にはない特徴がある。
1)日時指定入場制
混雑対策として1日を6つの入場時間枠に区切り、入場者数が調整されている。
ただし入れ替え制じゃないので退場時間は自由。また各時間帯の間に30分の余裕が
設けられている。だから少し遅めに入って、次の時間帯が始まるまでに見終えるのが
コツ。私は昨日の2時前に行った。
2)入場料が2500円
激高! 普通は1500円〜1600円くらいである。
3)2500円なのに展示作品は約50点
素描とかも含めてであるが100点以上の作品数が一般的。つまりこの展覧会は
フェルメールの人気を背景に超強気の価格設定。
4)作品紹介の冊子を配布
展示作品の横に解説パネルはなく、入口で小さな冊子を渡される。
写真はメルカリからの引用。300円で出品されていた(^^ゞ
5)音声ガイドのレンタルが無料
たいていの展覧会では音声ガイドがあって、それを聴くための機器(小さな再生装置と
イヤホンのセット)を500〜600円で貸し出している。それがこの展覧会では無料
だった。
日時指定入場制はいいアイデア。しかし冊子なんて要らないし、音声ガイドは借りたい人だけに有料で貸して、入場料を2000円以下にして欲しかったというのが正直なところ。
この日は移動の都合で、上野駅ではなく仲御徒町駅から上野公園に向かう。この1番南の入口から公園に入るのは初めてかな。
振り返って御徒町(おかちまち)の光景。
宝石屋が建ち並んでいる有名なエリアはもう少し先のほう。
階段を上ると西郷さんの銅像。
上野の森美術館は銅像のすぐ近く。
日時指定入場制でも入場開始時刻の直後は長い行列というネット情報だった。でも遅い時間帯に到着したので私の前には10人ほど。チケットは前日にセブンイレブンで買っておいたが、チケット売り場もガラガラだった。
ちなみに展覧会のサブタイトルは
それは、このうえもなく優雅な事件
Making the difference : Vermeer and Dutch Art
の2つ。英文のほうを直訳すると「違いを生む:フェルメールとオランダの芸術」。つまりはフェルメールvs他のオランダ画家という設定。私としては絵の違いというよりも、展覧会に来るといつも思うのだが、一流というか有名あるいは人気画家と、そうでない画家の違いは何なのかということを強く意識した展覧会だった。
ーーー続く
今回は上野の森美術館で開催されているフェルメール展。日本でフェルメールの展覧会をすれば成功は約束されているようなものだけれど、この展覧会はフェルメールの作品数9点、開催期間が東京と大阪合わせて約7ヶ月と気合いが入っている。
ところでフェルメールの現存する作品は約35点と言われている。「約」とついているのは本当に彼の作品かどうかの真贋がはっきりしないものが何点かあるから。その9/35=およそ1/4が7ヶ月間も日本にやってくるとはすごいと思う反面、そんなに長く借りられるとはフェルメールの人気は海外ではそれほどでもないのかな?
それはさておき、この展覧会にはフェルメールの作品数と開催期間以外にも、他の展覧会にはない特徴がある。
1)日時指定入場制
混雑対策として1日を6つの入場時間枠に区切り、入場者数が調整されている。
ただし入れ替え制じゃないので退場時間は自由。また各時間帯の間に30分の余裕が
設けられている。だから少し遅めに入って、次の時間帯が始まるまでに見終えるのが
コツ。私は昨日の2時前に行った。
2)入場料が2500円
激高! 普通は1500円〜1600円くらいである。
3)2500円なのに展示作品は約50点
素描とかも含めてであるが100点以上の作品数が一般的。つまりこの展覧会は
フェルメールの人気を背景に超強気の価格設定。
4)作品紹介の冊子を配布
展示作品の横に解説パネルはなく、入口で小さな冊子を渡される。
写真はメルカリからの引用。300円で出品されていた(^^ゞ
5)音声ガイドのレンタルが無料
たいていの展覧会では音声ガイドがあって、それを聴くための機器(小さな再生装置と
イヤホンのセット)を500〜600円で貸し出している。それがこの展覧会では無料
だった。
日時指定入場制はいいアイデア。しかし冊子なんて要らないし、音声ガイドは借りたい人だけに有料で貸して、入場料を2000円以下にして欲しかったというのが正直なところ。
この日は移動の都合で、上野駅ではなく仲御徒町駅から上野公園に向かう。この1番南の入口から公園に入るのは初めてかな。
振り返って御徒町(おかちまち)の光景。
宝石屋が建ち並んでいる有名なエリアはもう少し先のほう。
階段を上ると西郷さんの銅像。
上野の森美術館は銅像のすぐ近く。
日時指定入場制でも入場開始時刻の直後は長い行列というネット情報だった。でも遅い時間帯に到着したので私の前には10人ほど。チケットは前日にセブンイレブンで買っておいたが、チケット売り場もガラガラだった。
ちなみに展覧会のサブタイトルは
それは、このうえもなく優雅な事件
Making the difference : Vermeer and Dutch Art
の2つ。英文のほうを直訳すると「違いを生む:フェルメールとオランダの芸術」。つまりはフェルメールvs他のオランダ画家という設定。私としては絵の違いというよりも、展覧会に来るといつも思うのだが、一流というか有名あるいは人気画家と、そうでない画家の違いは何なのかということを強く意識した展覧会だった。
ーーー続く
2018年12月18日
ユニクロのボアスウェットパンツは相当暖かい
ルームウエアの暖かさについては一家言(いっかげん)ある私である。なんたって暖パンから始まりダウンパンツになり、上は極薄ダウンジャケット2枚重ねまでエスカレートしたんだから(^^ゞ
それはさておき、しばらく前にユニクロでボアスウェットパンツというものを買った。いわゆるジャージのパンツの裏側にフリースでできたボアがついている製品。写真では首のあたりに見えるが、これはお腹のところを折ってボアを見せたもの。
見た目はふつうのスウェットパンツと同じ。やや厚めかな。これがかなり暖かい。おかげでこの冬はまだダウンパンツを履いていないくらいの暖かさ。ダウンパンツを履いたことがない人なら(ほとんどの人がそうだと思うが)、世の中で最高に暖かいと思うに違いない。
それと表地のジャージもかなり目の詰まった生地なので、屋外でも風が強く吹いていなければ普通の暖パンより暖かいかもしれない。※普通の暖パンは表地&防風フィルム&極薄フリースの組み合わせ。
とりあえず2990円でダウンパンツに後一歩と迫る暖かさに驚いたしだい。
暖房控えめでヌクヌク暮らしたいなら絶対のお勧め。
そしてユニクロには「表地&防風フィルム&ボア」のバージョンも出して欲しいな。
それはさておき、しばらく前にユニクロでボアスウェットパンツというものを買った。いわゆるジャージのパンツの裏側にフリースでできたボアがついている製品。写真では首のあたりに見えるが、これはお腹のところを折ってボアを見せたもの。
見た目はふつうのスウェットパンツと同じ。やや厚めかな。これがかなり暖かい。おかげでこの冬はまだダウンパンツを履いていないくらいの暖かさ。ダウンパンツを履いたことがない人なら(ほとんどの人がそうだと思うが)、世の中で最高に暖かいと思うに違いない。
それと表地のジャージもかなり目の詰まった生地なので、屋外でも風が強く吹いていなければ普通の暖パンより暖かいかもしれない。※普通の暖パンは表地&防風フィルム&極薄フリースの組み合わせ。
とりあえず2990円でダウンパンツに後一歩と迫る暖かさに驚いたしだい。
暖房控えめでヌクヌク暮らしたいなら絶対のお勧め。
そしてユニクロには「表地&防風フィルム&ボア」のバージョンも出して欲しいな。
2018年12月16日
世田谷ボロ市 その2
会場地図のボロ市本部とあるところの横断幕。
440年、441年どっちやねん?
2018年ー1578年=440年。今年は初年度から440年後だけれど、開催されていた年数だと初年度を含めた441年が正しいということになる。
ボロ市には1日に20万人が訪れるビッグイベントである。
それにしては警察の警備本部がビックリするくらいショボイ!
本部の向かいにあった世田谷代官屋敷。元世田谷区民だが、こんなの知らなかったな。かつての世田谷の中心地であるので、ここの住所が東京都世田谷区世田谷1丁目。
1737年、徳川吉宗の時代に建てられ、都内に残る唯一の代官屋敷で国の重要文化財に指定されている。ーーーではあるが、さほど有難味の感じられない建物。
代官屋敷の中には入れないが、敷地を回れるようになっている。右側の建物は世田谷区立郷土資料館。
白州(しらす)跡。敷き詰められていたのは白い石じゃなかった。
代官屋敷裏側。
郷土資料館ではボロ市の歴史展示。
ボロ市に戻ってブラブラしているといい香りのお店が。
このヒノキの輪切りを購入。湯船に入れたり乾かしたりで1年くらいは香りを楽しめるらしい。サイズによって値段が分かれており、とりあえず1600円のを買った。感想はいずれそのうち。
またあれこれ写真を中心にブラ歩きの雰囲気を紹介。
写真ではわかりにくいが、屋台で七味を配合して売っている。
ちょうど七味がなくなりかけていたし、昔このような屋台で買った七味がおいしかったので「中がら 500円」を買ってみた。それにしてもヒノキに七味なんて、買うものが渋すぎるぜ。
お茶詰め放題なんだけれど、詰めるのは客じゃなくて売り手のオッチャン。
世田谷通りに突き当たると、こんな標識が。ちなみに本部前の道路が普段もボロ市通りと呼ばれておりボロ市のメインストリート。
またメインストリートに戻りボロ市本部の横の小径。ここは植物関連のお店が多かった。
サボテンや多肉植物。
ガーデニング用のデコレーション
ミニ盆栽。
これは寒蘭(かんらん)というちょっとマニアックな植物の苗。
小径の突き当たりは広場になっていて園芸売り場に。
お正月の雰囲気。
見るだけにするつもりだったのに、3軒目のお店でつい可愛さに負けて(^^ゞ写真下の赤と黄色のサボテンを購入。緋牡丹(ひぼたん)という品種。1つ500円。
まるで花が咲いているように見えるが、赤や黄色の部分もサボテンの本体。そして緋牡丹はその赤や黄色のところだけで、下の緑は別のサボテン。つまり接ぎ木してある。緋牡丹は葉緑素を持っていないので単体では育てられないらしい。じゃ接ぎ木前の緋牡丹はどうなっているんだと疑問だが、そのあたりはまたいずれ。ただしこの緋牡丹、寿命は短いらしい。
世田谷ボロ市はグルッと回遊できるようにはなっていないので、訪れなかった場所もあるけれど、だいだい4/5くらいは見て回ったかな。お店は全部で700軒ほどあるらしい。お祭りの飲食屋台じゃなくて、こんなにたくさんの物販の出店を見て回ったのは初めてかもしれない。ちょっと懐かしい雰囲気と、気軽に「冷やかし」できるのが、これだけ多くの人が集まる人気の理由かな。毎年行くかはどうかは微妙だが(週末の開催でもないし)思っていた以上に楽しめたボロ市だった。
本日3色目の車両をゲット。世田谷線ウォッチングも面白い。
おしまい
2018年12月15日
世田谷ボロ市
世田谷ボロ市は戦国時代から440年も続く、いわゆる蚤の市・フリーマーケットである。開催日は毎年12月15〜16日と1月15〜16日と決まっている。それで今年の12月は週末の開催となったので出かけてきた。東京で暮らしてもう長いが訪れたのは初めて。何かを買いにじゃなくて、東京の冬の風物詩を味わっておくのもいいかと思って。
開かれているのは世田谷区世田谷。地名が示す通り世田谷が始まった場所であり区役所所在地。しかし現在では世田谷区の中で多くの人が集まるエリアではない。いってみれば旧市街地かな。
路線図には載っていないが、渋谷から田園都市線に乗り三軒茶屋で世田谷線に乗り換える。世田谷線は区間の一部が路面電車となっている路線距離が5キロほどの、いってみれば東京のローカル線。駅は10あるが全区間均一料金なのでお金を払っても切符はもらえない。まあ今はICカードだが。ちなみに始発(終着)駅以外は無人駅。東京のど真ん中にそんな電車が走っているのはあまり知られていないと思う。
世田谷線の三軒茶屋駅。ここだけ見ると普通の駅・電車と変わらないが。しかし電車のドアに「入口」「出口」の表記があるのに注目。始発駅には改札があるが、それ以外は無人駅なのでバスのように入口から乗って車内で料金を払う。
また現在は普通の車両だが、2000年くらいまでは床に木材が張られたレトロな車両だった。それを見るためだけに世田谷線に乗ったことがある。
ところでボロ市は1日に20万人ほどがやってくるらしいので、超ギューギュー詰めを覚悟していたが、まったくそんなことはなく、ちょっと混雑していた程度で拍子抜け。走る出すと線路の両側の建物が普通の電車では考えられないくらい近い。だからスピードもゆっくりで自転車ならついてこれるくらい。
世田谷駅で下車。写真でわかるように世田谷線は2両編成。
人が歩いている幅がプラットホームの幅なので、いかに小さい駅かがわかると思う。
反対側の電車が来た。愛すべきキュートな姿。世田谷線には10台の車両があるが、すべてカラーリングが違うらしい。
駅を降りて人の列についていく。
ボロ市探訪の始まり。
不整脈・狭心症・骨粗しょう症に効くと明示された根昆布。薬事法違反ですな(^^ゞ
ここまで歩いてきたのは会場地図には載っていない非公式エリア。交差点の先からが会場地図で一番右側の通りになる。
あまりの人の多さに会場エリアに入るのをためらう。
まあ入ったけれど(^^ゞ
ここからは基本的に写真だけで。
いろんなものが売られていた。
ボロ市は1578年に北条氏によって世田谷城近くで始められた楽市がルーツ。楽市とは既得権者だけではなく誰もが自由に出店でき、また市場税などを取らない仕組み。織田信長の経済振興政策として有名。北条氏が滅んで楽市はなくなったが、この地の市場としての機能は残った。
そして江戸時代になってワラジを編む時に、ワラと一緒に布を編み込むと丈夫になることが発見される。そのワラジ用のボロ布を売る店がここに多く集まったので、いつからかボロ市と呼ばれるようになったらしい。
ボロ布以外にも農具や日用品が売られていて、古着も多くを占めていた(当時の庶民の服は基本的に古着である)。さすがにもうボロ布は売っていないが、着物の古着のお店が多いのは、その伝統の名残。
この行列はトイレ待ち。20万人が集まるイベントとしてはトイレの数が圧倒的に少ない。どこも長蛇の列。寒いとオシッコも近くなるし。
会場地図の右側通りの終端。端のほうだと商売的には不利に思えるが、中心部はとても混雑していて品定めする余裕もないので、やや人の少ないこのあたりのほうがお店は賑わっていた。
歩いてきた通りを戻って会場地図中央のエリアを目指す。
人が入ってこないように、ピンポンダッシュされないように?
藤田光学って訴求力あるの?
ここを左折して中央の通りに入る。
下段のサボテンは500円だが、上段はこんな小さいものでも3000円する。
ボロ市の名前に反して、そこそこな値段で売られているものが多いが、このまな板は安かった。触ってみると超スベスベだったのが印象的。
ーーー続く
開かれているのは世田谷区世田谷。地名が示す通り世田谷が始まった場所であり区役所所在地。しかし現在では世田谷区の中で多くの人が集まるエリアではない。いってみれば旧市街地かな。
路線図には載っていないが、渋谷から田園都市線に乗り三軒茶屋で世田谷線に乗り換える。世田谷線は区間の一部が路面電車となっている路線距離が5キロほどの、いってみれば東京のローカル線。駅は10あるが全区間均一料金なのでお金を払っても切符はもらえない。まあ今はICカードだが。ちなみに始発(終着)駅以外は無人駅。東京のど真ん中にそんな電車が走っているのはあまり知られていないと思う。
世田谷線の三軒茶屋駅。ここだけ見ると普通の駅・電車と変わらないが。しかし電車のドアに「入口」「出口」の表記があるのに注目。始発駅には改札があるが、それ以外は無人駅なのでバスのように入口から乗って車内で料金を払う。
また現在は普通の車両だが、2000年くらいまでは床に木材が張られたレトロな車両だった。それを見るためだけに世田谷線に乗ったことがある。
ところでボロ市は1日に20万人ほどがやってくるらしいので、超ギューギュー詰めを覚悟していたが、まったくそんなことはなく、ちょっと混雑していた程度で拍子抜け。走る出すと線路の両側の建物が普通の電車では考えられないくらい近い。だからスピードもゆっくりで自転車ならついてこれるくらい。
世田谷駅で下車。写真でわかるように世田谷線は2両編成。
人が歩いている幅がプラットホームの幅なので、いかに小さい駅かがわかると思う。
反対側の電車が来た。愛すべきキュートな姿。世田谷線には10台の車両があるが、すべてカラーリングが違うらしい。
駅を降りて人の列についていく。
ボロ市探訪の始まり。
不整脈・狭心症・骨粗しょう症に効くと明示された根昆布。薬事法違反ですな(^^ゞ
ここまで歩いてきたのは会場地図には載っていない非公式エリア。交差点の先からが会場地図で一番右側の通りになる。
あまりの人の多さに会場エリアに入るのをためらう。
まあ入ったけれど(^^ゞ
ここからは基本的に写真だけで。
いろんなものが売られていた。
ボロ市は1578年に北条氏によって世田谷城近くで始められた楽市がルーツ。楽市とは既得権者だけではなく誰もが自由に出店でき、また市場税などを取らない仕組み。織田信長の経済振興政策として有名。北条氏が滅んで楽市はなくなったが、この地の市場としての機能は残った。
そして江戸時代になってワラジを編む時に、ワラと一緒に布を編み込むと丈夫になることが発見される。そのワラジ用のボロ布を売る店がここに多く集まったので、いつからかボロ市と呼ばれるようになったらしい。
ボロ布以外にも農具や日用品が売られていて、古着も多くを占めていた(当時の庶民の服は基本的に古着である)。さすがにもうボロ布は売っていないが、着物の古着のお店が多いのは、その伝統の名残。
この行列はトイレ待ち。20万人が集まるイベントとしてはトイレの数が圧倒的に少ない。どこも長蛇の列。寒いとオシッコも近くなるし。
会場地図の右側通りの終端。端のほうだと商売的には不利に思えるが、中心部はとても混雑していて品定めする余裕もないので、やや人の少ないこのあたりのほうがお店は賑わっていた。
歩いてきた通りを戻って会場地図中央のエリアを目指す。
人が入ってこないように、ピンポンダッシュされないように?
藤田光学って訴求力あるの?
ここを左折して中央の通りに入る。
下段のサボテンは500円だが、上段はこんな小さいものでも3000円する。
ボロ市の名前に反して、そこそこな値段で売られているものが多いが、このまな板は安かった。触ってみると超スベスベだったのが印象的。
ーーー続く
2018年12月14日
ピエール・ボナール展 番外編
ボナールの魅力を堪能した展覧会。満足度は100%以上だった。
ただし残念なことが。
最初のエントリーに「ボナールは美術界においても準メジャー級、世間一般ではほとんど知られていない画家だと思う」と書いたが、同時開催の東山魁夷展と較べて客の入りは今ひとつどころか雲泥の差。
展示室内は撮影できないのでグッズ売り場の様子を。
東山魁夷展は押すな押すなの大盛況。
ボナール展はというと
テレビだったら「カーッ」とカラスの鳴き声の効果音が入りそう(/o\)
おかげで、ゆったりじっくり鑑賞できてよかったのだが、推しメンならぬ推しガカの人気がないとちょっと淋しい。
来週の月曜日までやっているので、このブログを読んだ人は日本のどこに住んでいようとボナール展に駆けつけましょう!
おしまい
ただし残念なことが。
最初のエントリーに「ボナールは美術界においても準メジャー級、世間一般ではほとんど知られていない画家だと思う」と書いたが、同時開催の東山魁夷展と較べて客の入りは今ひとつどころか雲泥の差。
展示室内は撮影できないのでグッズ売り場の様子を。
東山魁夷展は押すな押すなの大盛況。
ボナール展はというと
テレビだったら「カーッ」とカラスの鳴き声の効果音が入りそう(/o\)
おかげで、ゆったりじっくり鑑賞できてよかったのだが、推しメンならぬ推しガカの人気がないとちょっと淋しい。
来週の月曜日までやっているので、このブログを読んだ人は日本のどこに住んでいようとボナール展に駆けつけましょう!
おしまい
2018年12月13日
ピエール・ボナール展 その4
「水の戯れ あるいは旅」と「歓び」はアート界のパトロンであったミシア・セール女史の自宅ダイニングルームのために制作された作品。サイズも約250cmx300cmと巨大だが、見るからに大作と感じさせるオーラを放っている。このシリーズはもう2枚あって、そんな大きな絵を4枚も飾れるダイニングルームってシュゴイ!
タイトルからだいたいの内容は想像できても、残念ながら具体的にどんなストーリーが表現されているかはよくわからない。それは西洋に関する知識不足からくるもので、例えば日本画で「鶴と亀」が描かれていたらメデタイというような「お約束」に関する知識は多少なりとも必要なのである。
ところでボナールは作曲家のラヴェルと親しく、この絵もラヴェルの「水の戯れ」に発想を得たとされる。その先入観があるせいか、なんとなくフレンチ・クラシックのように「古典的なんだけれど軽妙」な感覚があるように思えてしまう。
「水の戯れ あるいは旅」 1906〜10年
「歓び」 1906〜10年
さて、
ボナールファンなので、どの作品を観ても「あばたもえくぼ」的に素晴らしく思えてしまうが、この「ボート遊び」だけは別である。
「ボート遊び」 1907年
どうして海面を青じゃなくて白っぽい色で描くかなあ(/o\) どう見たって砂の上にボートを置いたようにしか見えない。まるで遊園地の乗り物だ。それとこの絵は沖から岸への目線だが、波打ち際の描き方もおかしい。ボナールはボートに乗ったことがないのか? 何をどのように描こうと画家の自由だし、ボナールは印象派の流れを引いているから写実より自己の感覚が優先。それでもボナールを正座させて小一時間ほど問い詰めたい。
晩年のボナールは風景画が中心となる。見てわかるようにこれらは印象派そのものだ。美術史的にはナビ派に分類されるボナールだが「最後の印象派」ともいわれている。
「ノルマンディー風景」 1925年
「トルーヴィル、港の出口」 1936〜45年
「ル・カネの眺望」 1924年
「南フランスのテラス」 1925年頃
そして絶筆となった作品。ちなみにアーモンドは桜そっくりの花が咲く。
「花咲くアーモンドの木」 1946〜47年
2回目のエントリーの前半で紹介したナビ派らしい少し実験的な絵、後半と前回のエントリーにある日常生活を描いた「親密派・アンティミスト」としての作品、そして最後の印象派の風景画。バラエティに富んで楽しかったし、どの絵も素晴らしかった。「ボート遊び」以外は(^^ゞ 次の展覧会がまた30年以上先でないことを願っている。
ーーー続く
タイトルからだいたいの内容は想像できても、残念ながら具体的にどんなストーリーが表現されているかはよくわからない。それは西洋に関する知識不足からくるもので、例えば日本画で「鶴と亀」が描かれていたらメデタイというような「お約束」に関する知識は多少なりとも必要なのである。
ところでボナールは作曲家のラヴェルと親しく、この絵もラヴェルの「水の戯れ」に発想を得たとされる。その先入観があるせいか、なんとなくフレンチ・クラシックのように「古典的なんだけれど軽妙」な感覚があるように思えてしまう。
「水の戯れ あるいは旅」 1906〜10年
「歓び」 1906〜10年
さて、
ボナールファンなので、どの作品を観ても「あばたもえくぼ」的に素晴らしく思えてしまうが、この「ボート遊び」だけは別である。
「ボート遊び」 1907年
どうして海面を青じゃなくて白っぽい色で描くかなあ(/o\) どう見たって砂の上にボートを置いたようにしか見えない。まるで遊園地の乗り物だ。それとこの絵は沖から岸への目線だが、波打ち際の描き方もおかしい。ボナールはボートに乗ったことがないのか? 何をどのように描こうと画家の自由だし、ボナールは印象派の流れを引いているから写実より自己の感覚が優先。それでもボナールを正座させて小一時間ほど問い詰めたい。
晩年のボナールは風景画が中心となる。見てわかるようにこれらは印象派そのものだ。美術史的にはナビ派に分類されるボナールだが「最後の印象派」ともいわれている。
「ノルマンディー風景」 1925年
「トルーヴィル、港の出口」 1936〜45年
「ル・カネの眺望」 1924年
「南フランスのテラス」 1925年頃
そして絶筆となった作品。ちなみにアーモンドは桜そっくりの花が咲く。
「花咲くアーモンドの木」 1946〜47年
2回目のエントリーの前半で紹介したナビ派らしい少し実験的な絵、後半と前回のエントリーにある日常生活を描いた「親密派・アンティミスト」としての作品、そして最後の印象派の風景画。バラエティに富んで楽しかったし、どの絵も素晴らしかった。「ボート遊び」以外は(^^ゞ 次の展覧会がまた30年以上先でないことを願っている。
ーーー続く
2018年12月11日
ピエール・ボナール展 その3
「近代の水の精たち」というタイトルで展示されていたのは裸婦の絵が9点ほど。ボナールのヌードを生で観るのは初めてのような気がする。一言で表現するなら「いい味出しているなあ」という感想。とても魅力的だった。
いくつか特徴があって
(1)ポーズを取っているのではなく、生活の中での仕草を描いている。
(2)モデルの顔がわからないものが多い。
(3)お風呂のシーンが多い。
(1)と(2)については勉強不足でその理由はよく知らない。ヌードというより裸でいる場面の室内画を描きたかったんじゃないかと思っている。だとしたら顔や表情を見せるとモデルが主役になりすぎるとなって推察のつじつまが合う。(3)の理由はわかっている。お風呂が裸になる場所なのはもちろんだが、伴侶のマルトという女性が無類の入浴好きだったから。
「浴室の裸婦」 1907年
「靴をはく若い女」 1908〜10年頃
「化粧台」 1908年
「化粧室 あるいはバラ色の化粧室」 1914年〜21年
「浴盤にしゃがむ裸婦」 1918年
「バラ色の裸婦、陰になった頭部」 1919年頃
2つ目の作品とタイトルに注目。なぜ素っ裸から最初に靴をはく?その後にパンツ履きづらいやろと思ったが、絵を見ると靴ではなく靴下あるいは靴下とパンツのように見える。フランス語のタイトル「Jeune femme se chaussant」をGoogle翻訳に掛けると「若い女性がフィットしている」。でも「chaussant」には「靴」の意味もがある。フランス語はわからないが何となく誤訳のような気もするなあ。
それはさておき、生活のワンシーンを切り取っている=固定的なポーズではなくモデルに動きがあるから、どの作品もヌードなのにとてもナチュラルな雰囲気。ボナールはいいところを狙ったと思う。
ただし気になる点もある。ブログの画像ではわかりにくいが、肌を描くのにところどころに緑や青や黄色といった色が使われている。身体の凹凸とか陰影の表現のためではなく、なぜそこにその色?といった感じ。ルノアールにもそういう作品が多いから、印象派の名残りもあるこの時代「私には見えた、その色を感じる」となれば、そう描くのかも知れない。しかし、もちろんそういった色は隠し味程度に使われているだけなのだが、いったんそれが目につくとやたら気になってしまう。
モデルとなっているのはボナールと結婚したマルト。ボナールが26歳の時にパリのクリシー広場で16歳のマルトをナンパして付き合いが始まったとされる。彼女は身体が弱かったのと神経症(不安障害)が相まって1日に何度も入浴し、あるいは半日以上入浴していることもあったらしい。それでボナールは当時はまだ贅沢品だったバスルームを自宅に設け、また彼女の療養のために田舎に引っ越してもいる。
そしてボナールは何十年にもわたり、バスルームのマルトを描き続けた。「ボナールはマルトの入浴している姿を見るのが好き。マルトはボナールが絵を描いている姿が好き」だったらしい。またマルトの死後もボナールは入浴中のマルトを描いている。ヌード以外も含めてマルトをモデルにした作品は380点!
これだけを聞くと、入浴しているところを眺めるというのがちょっとヘンタイぽいが(^^ゞとても仲睦まじいラブストーリーである。でもそこは芸術家とそのヨメの夫婦。実は何かと波瀾万丈な人生。ポイントをかいつまむと
ボナールとマルトは結婚せず内縁関係だった。
ボナールがルネ・モンシャティという女性をモデルとして使う。
彼女はマルトの友人である。
ボナールが55歳くらいの時にルネ・モンシャティと愛人関係になる。
ルネ・モンシャティは当時アラフォーくらい。
それを知ったマルトが激怒!
30年以上も内縁関係だったのにマルトがボナールに結婚を迫る。
ボナールが58歳の時に正式にマルトと結婚。
その時にマルトという名前が偽名であること、そして年齢もサバを読んでいて
ボナールとたった2歳違いだったことが発覚!
二人の結婚の1ヶ月後、ルネ・モンシャティが自殺(/o\)
場所はルネの自宅浴室(当てつけ?)、第1発見者はボナール(まだ続いていた?)
出会った時に8歳も年齢をごまかしていたマルト。それにしても38歳が30歳とサバを読むのなら気持ちがわからなくもないが、24歳で16歳というのが大胆というかナンデ?というか。そして名前も偽名でそのまま30年。まあ数年以内に訂正する機会がなければ、そのままになっちゃうかな。それにしても浮気されて嫉妬したとして、30年も内縁を続けてきた相手に50歳代半ばを超えてから結婚を求めるのはどういう心理なんだろう。ボナールがマルトを捨てる心配はなかったのに。
しかしである。
この展覧会とは関係ないが「庭の若い女性たち」という作品がある。中央がルネ・モンシャティで右側にわずかに描かれているのがマルト。そりゃこんな扱いされたら怒るわ(^^ゞ
ーーー続く
いくつか特徴があって
(1)ポーズを取っているのではなく、生活の中での仕草を描いている。
(2)モデルの顔がわからないものが多い。
(3)お風呂のシーンが多い。
(1)と(2)については勉強不足でその理由はよく知らない。ヌードというより裸でいる場面の室内画を描きたかったんじゃないかと思っている。だとしたら顔や表情を見せるとモデルが主役になりすぎるとなって推察のつじつまが合う。(3)の理由はわかっている。お風呂が裸になる場所なのはもちろんだが、伴侶のマルトという女性が無類の入浴好きだったから。
「浴室の裸婦」 1907年
「靴をはく若い女」 1908〜10年頃
「化粧台」 1908年
「化粧室 あるいはバラ色の化粧室」 1914年〜21年
「浴盤にしゃがむ裸婦」 1918年
「バラ色の裸婦、陰になった頭部」 1919年頃
2つ目の作品とタイトルに注目。なぜ素っ裸から最初に靴をはく?その後にパンツ履きづらいやろと思ったが、絵を見ると靴ではなく靴下あるいは靴下とパンツのように見える。フランス語のタイトル「Jeune femme se chaussant」をGoogle翻訳に掛けると「若い女性がフィットしている」。でも「chaussant」には「靴」の意味もがある。フランス語はわからないが何となく誤訳のような気もするなあ。
それはさておき、生活のワンシーンを切り取っている=固定的なポーズではなくモデルに動きがあるから、どの作品もヌードなのにとてもナチュラルな雰囲気。ボナールはいいところを狙ったと思う。
ただし気になる点もある。ブログの画像ではわかりにくいが、肌を描くのにところどころに緑や青や黄色といった色が使われている。身体の凹凸とか陰影の表現のためではなく、なぜそこにその色?といった感じ。ルノアールにもそういう作品が多いから、印象派の名残りもあるこの時代「私には見えた、その色を感じる」となれば、そう描くのかも知れない。しかし、もちろんそういった色は隠し味程度に使われているだけなのだが、いったんそれが目につくとやたら気になってしまう。
モデルとなっているのはボナールと結婚したマルト。ボナールが26歳の時にパリのクリシー広場で16歳のマルトをナンパして付き合いが始まったとされる。彼女は身体が弱かったのと神経症(不安障害)が相まって1日に何度も入浴し、あるいは半日以上入浴していることもあったらしい。それでボナールは当時はまだ贅沢品だったバスルームを自宅に設け、また彼女の療養のために田舎に引っ越してもいる。
そしてボナールは何十年にもわたり、バスルームのマルトを描き続けた。「ボナールはマルトの入浴している姿を見るのが好き。マルトはボナールが絵を描いている姿が好き」だったらしい。またマルトの死後もボナールは入浴中のマルトを描いている。ヌード以外も含めてマルトをモデルにした作品は380点!
これだけを聞くと、入浴しているところを眺めるというのがちょっとヘンタイぽいが(^^ゞとても仲睦まじいラブストーリーである。でもそこは芸術家とそのヨメの夫婦。実は何かと波瀾万丈な人生。ポイントをかいつまむと
ボナールとマルトは結婚せず内縁関係だった。
ボナールがルネ・モンシャティという女性をモデルとして使う。
彼女はマルトの友人である。
ボナールが55歳くらいの時にルネ・モンシャティと愛人関係になる。
ルネ・モンシャティは当時アラフォーくらい。
それを知ったマルトが激怒!
30年以上も内縁関係だったのにマルトがボナールに結婚を迫る。
ボナールが58歳の時に正式にマルトと結婚。
その時にマルトという名前が偽名であること、そして年齢もサバを読んでいて
ボナールとたった2歳違いだったことが発覚!
二人の結婚の1ヶ月後、ルネ・モンシャティが自殺(/o\)
場所はルネの自宅浴室(当てつけ?)、第1発見者はボナール(まだ続いていた?)
出会った時に8歳も年齢をごまかしていたマルト。それにしても38歳が30歳とサバを読むのなら気持ちがわからなくもないが、24歳で16歳というのが大胆というかナンデ?というか。そして名前も偽名でそのまま30年。まあ数年以内に訂正する機会がなければ、そのままになっちゃうかな。それにしても浮気されて嫉妬したとして、30年も内縁を続けてきた相手に50歳代半ばを超えてから結婚を求めるのはどういう心理なんだろう。ボナールがマルトを捨てる心配はなかったのに。
しかしである。
この展覧会とは関係ないが「庭の若い女性たち」という作品がある。中央がルネ・モンシャティで右側にわずかに描かれているのがマルト。そりゃこんな扱いされたら怒るわ(^^ゞ
ーーー続く
2018年12月08日
ピエール・ボナール展 その2
展覧会はおしゃれな感じの作品からスタートする。ナビ派を表現するキーワードには「大胆な色彩」「平面性」「装飾性」「神秘的」「親密さ」などがよく使われる。絵の装飾性っていわれてもピンとこないが、ファッショナブルな雰囲気ということかと思っている。アール・ヌーヴォーが盛り上がり、いろんな分野でデザイン性が重視された時代なので、絵にもそれを取り入れようとナビ派は考えたらしい。当たっているかな?
アール・ヌーヴォーに話が脱線すると長くなるからやめておく。とりあえずアール・ヌーヴォー Art Nouveauは英語だとArt Newね。アール・ヌーヴォーというカタカナを丸呑みしている人がけっこう多いけど。ついでにボジョレー・ヌーヴォーはボジョレー地方のワインの新酒というネーミング。
「アンドレ・ボナール嬢の肖像、画家の妹」 1890年
「庭の女性たち」 1890〜91年
ボナールについて必ず書かれているのは彼が「日本かぶれのナビ」と呼ばれていたこと。印象派の時代からジャポニスム(日本趣味)は大ブームで、特に浮世絵の影響は大きかった。江戸時代の人にとって浮世絵は娯楽だったのに、ヨーロッパに渡って芸術と見なされたのが面白い。それとアール・ヌーヴォーとジャポニスムの時期が重なっていることも。
それはさておきゴッホは浮世絵の模写のようなことをしているし、モネもこんな日本趣味丸出しの絵を描いている。でも日本かぶれの第一人者のようにいわれているボナールの絵からは特に日本的なものを感じることはない。ただし解説によれば、まず上の絵のような縦長のキャンバス自体が従来の西洋絵画にはなく掛け軸の影響らしい。掛け軸のオリジナルは中国なんだけれどな(^^ゞ また遠近感のない「平面的」な描き方、あるいは女性が振り返るようなポーズも浮世絵の影響とされる。平面的な構図はともかく、ポーズまで浮世絵と関連づけるのはちょっとこじつけのような気がするなあ。
いずれにせよボナールが浮世絵などから相当の影響を受けていたとしても、それをストレートに引用したのではなく、彼の感性で再構成して描いていると感じる。だから「日本かぶれ」なんて揶揄するようなあだ名は少しかわいそうだとも思うのである。
なんだけど、次の「砂遊びをする子供」は狙ったのか偶然なのか、日本の画家の作品といわれても疑わないような仕上がりになっている。たぶんワンピースと思われるが着物のように見える服装、それに昔はあんなヘアスタイルの女の子が多くいたからそう感じるのだろう。
「砂遊びをする子供」 1894年頃
ただし驚くのはこの「砂遊びをする子供」が、元々は「田舎のアンサンブル」という3枚との4枚セットで制作されたものだと言うこと。どう見たってこの両者はマッチしない。だから「砂遊びをする子供」を切り離したのだろうが。それにしても何を考えて描いていたのだボナール?
「黄昏(クロッケーの試合)」 はブログの画像ではわからないが、作品を目の前にするとチェック柄の服装の二人が画面から浮いているような違和感を覚える。チェック柄が身体の曲線に沿うことなく、まるでスクリーントーンを貼ったように直線的に描かれているのがその理由。それは「人体の立体感を消し、絵を部分的に平坦するため」にボナールが好んだ手法だとか。その効果は認めるとしても、そんなことをして何になるという気もする。あれこれ実験的な試みを繰り返して芸術は進歩するものではあるが。
「黄昏(クロッケーの試合)」 1892年
「格子柄のブラウス」 1892年
このブラウスのチェックも、ついでに言えば「砂遊びをする子供」や「庭の女性たち」の左端の女性も直線的に描かれている。しかしこちらはボーッと眺めている分にはあまり気づかないというか直線チェック表現が絵に溶け込んでいる。
言われてみれば日本的なのかもと思える作品はここまで。これ以降はグッと西洋絵画的になる。私はボナールの適度にコッテリ・ネットリしたところが何となく好き。
「通りの情景、洗濯女」 1899年
「男と女」 1900年
「冬の日」 1905年
「桟敷席」 1908年
アレッと振り返ってしまいそうなのは少し変わった構図のせい。
「猫と女性 あるいは餌をねだる猫」 1912年頃
「ル・カネの食堂」 1932年
ボナールの言葉に「視神経の冒険」というのがあって、それを彼は「不意に部屋に入ったとき、突然目に飛び込んでくるもの」を描くこととか説明している。ナンノコッチャ? とりあえず気づくのは、やたらテーブルが大きく主役的存在で、そのくせテーブルに置かれているものが雑然としてサマになっていないくらいかな。でも決して前衛的な刺々しさはないし、ふんわりといい感じにまとまっている。日本的趣向も含めて色々と創意工夫に励んだ画家であっても、わざとらしさや頑張っている感がないのがボナールのいいところ。
ボナールはポスターも制作している。というかポスターで評価を得て画家になった。ところでこれを見てロートレックみたいと思ったなら、その連想は正しい。ただしボナールがロートレック風に描いたのではなく、ロートレックがボナールのこのポスターに影響されて、あの画風を確立したのが歴史の順番。やっぱり知名度はマーケティングの基礎ということ。
「フランス=シャンパーニュ」 1891年
扇子を持っているし輪郭線も強調されているからジャポネスクを意識していたのはすぐわかる。しかし解説を読むと、これはシャンパンの広告ポスターであるが、シャンパンの泡の描き方に北斎のあの「波の形」の影響が見られるという。そうだとしても、そこまで分析的に考えたら絵を楽しめないな(^^ゞ
ーーー続く
アール・ヌーヴォーに話が脱線すると長くなるからやめておく。とりあえずアール・ヌーヴォー Art Nouveauは英語だとArt Newね。アール・ヌーヴォーというカタカナを丸呑みしている人がけっこう多いけど。ついでにボジョレー・ヌーヴォーはボジョレー地方のワインの新酒というネーミング。
「アンドレ・ボナール嬢の肖像、画家の妹」 1890年
「庭の女性たち」 1890〜91年
ボナールについて必ず書かれているのは彼が「日本かぶれのナビ」と呼ばれていたこと。印象派の時代からジャポニスム(日本趣味)は大ブームで、特に浮世絵の影響は大きかった。江戸時代の人にとって浮世絵は娯楽だったのに、ヨーロッパに渡って芸術と見なされたのが面白い。それとアール・ヌーヴォーとジャポニスムの時期が重なっていることも。
それはさておきゴッホは浮世絵の模写のようなことをしているし、モネもこんな日本趣味丸出しの絵を描いている。でも日本かぶれの第一人者のようにいわれているボナールの絵からは特に日本的なものを感じることはない。ただし解説によれば、まず上の絵のような縦長のキャンバス自体が従来の西洋絵画にはなく掛け軸の影響らしい。掛け軸のオリジナルは中国なんだけれどな(^^ゞ また遠近感のない「平面的」な描き方、あるいは女性が振り返るようなポーズも浮世絵の影響とされる。平面的な構図はともかく、ポーズまで浮世絵と関連づけるのはちょっとこじつけのような気がするなあ。
いずれにせよボナールが浮世絵などから相当の影響を受けていたとしても、それをストレートに引用したのではなく、彼の感性で再構成して描いていると感じる。だから「日本かぶれ」なんて揶揄するようなあだ名は少しかわいそうだとも思うのである。
なんだけど、次の「砂遊びをする子供」は狙ったのか偶然なのか、日本の画家の作品といわれても疑わないような仕上がりになっている。たぶんワンピースと思われるが着物のように見える服装、それに昔はあんなヘアスタイルの女の子が多くいたからそう感じるのだろう。
「砂遊びをする子供」 1894年頃
ただし驚くのはこの「砂遊びをする子供」が、元々は「田舎のアンサンブル」という3枚との4枚セットで制作されたものだと言うこと。どう見たってこの両者はマッチしない。だから「砂遊びをする子供」を切り離したのだろうが。それにしても何を考えて描いていたのだボナール?
「黄昏(クロッケーの試合)」 はブログの画像ではわからないが、作品を目の前にするとチェック柄の服装の二人が画面から浮いているような違和感を覚える。チェック柄が身体の曲線に沿うことなく、まるでスクリーントーンを貼ったように直線的に描かれているのがその理由。それは「人体の立体感を消し、絵を部分的に平坦するため」にボナールが好んだ手法だとか。その効果は認めるとしても、そんなことをして何になるという気もする。あれこれ実験的な試みを繰り返して芸術は進歩するものではあるが。
「黄昏(クロッケーの試合)」 1892年
「格子柄のブラウス」 1892年
このブラウスのチェックも、ついでに言えば「砂遊びをする子供」や「庭の女性たち」の左端の女性も直線的に描かれている。しかしこちらはボーッと眺めている分にはあまり気づかないというか直線チェック表現が絵に溶け込んでいる。
言われてみれば日本的なのかもと思える作品はここまで。これ以降はグッと西洋絵画的になる。私はボナールの適度にコッテリ・ネットリしたところが何となく好き。
「通りの情景、洗濯女」 1899年
「男と女」 1900年
「冬の日」 1905年
「桟敷席」 1908年
アレッと振り返ってしまいそうなのは少し変わった構図のせい。
「猫と女性 あるいは餌をねだる猫」 1912年頃
「ル・カネの食堂」 1932年
ボナールの言葉に「視神経の冒険」というのがあって、それを彼は「不意に部屋に入ったとき、突然目に飛び込んでくるもの」を描くこととか説明している。ナンノコッチャ? とりあえず気づくのは、やたらテーブルが大きく主役的存在で、そのくせテーブルに置かれているものが雑然としてサマになっていないくらいかな。でも決して前衛的な刺々しさはないし、ふんわりといい感じにまとまっている。日本的趣向も含めて色々と創意工夫に励んだ画家であっても、わざとらしさや頑張っている感がないのがボナールのいいところ。
ボナールはポスターも制作している。というかポスターで評価を得て画家になった。ところでこれを見てロートレックみたいと思ったなら、その連想は正しい。ただしボナールがロートレック風に描いたのではなく、ロートレックがボナールのこのポスターに影響されて、あの画風を確立したのが歴史の順番。やっぱり知名度はマーケティングの基礎ということ。
「フランス=シャンパーニュ」 1891年
扇子を持っているし輪郭線も強調されているからジャポネスクを意識していたのはすぐわかる。しかし解説を読むと、これはシャンパンの広告ポスターであるが、シャンパンの泡の描き方に北斎のあの「波の形」の影響が見られるという。そうだとしても、そこまで分析的に考えたら絵を楽しめないな(^^ゞ
ーーー続く
2018年12月06日
ピエール・ボナール展 オルセー美術館特別企画
東山魁夷を見終えて次は楽しみにしていたボナール展。写真に小さく看板が写っているように国立新美術館では日展も開催されていた。見ておきたかったが、この日は2つの展覧会をハシゴなので時間がなく残念。なんだかんだで毎年行きそびれている。
この美術館に来ると、つい撮ってしまう毎回同じような写真。
ちょっとお茶でも飲んでからと思ったが、カフェは行列になっていたので、そのまま展覧会へ。ちなみに国立新美術館にはポール・ボキューズのブラッスリーもある。レストラン>ビストロ>ブラッスリー>カフェの順番でカジュアルになるしきたりで、ここのポール・ボキューズのランチは2200円と3800円。
東山魁夷のエントリー冒頭でも書いたように、ボナールは美術界においては準メジャー級、世間一般ではほとんど知られていない画家だと思う。それと美術史的にはナビ派に属することになっているが、このナビ派というのが今ひとつわからない存在。というわけで少しおさらい。
ボナールは1867年(明治元年が1868年)生まれで1947年(昭和22年:終戦が1945年)まで生きた。これらの写真がいつ頃に撮られたかは不明だが、歳を取ってからはブサイクになっているなあ。身につまされるゼ(/o\)
ナビ派というのは印象派の後に生まれたグループで、当時の画家を生まれた順番に並べてみると
セザンヌ 1839年〜1906年 (ポスト印象派)
モネ 1840年〜1926年 (印象派)
ルノワール 1841年〜1919年 (印象派)
ゴーギャン 1848年〜1903年 (ポスト印象派)
ゴッホ 1853年〜1890年 (ポスト印象派)
★ボナール 1867年〜1947年 (ナビ派)
ピカソ 1881年〜1973年
モディリアーニ 1884年〜1920年 (エコール・ド・パリ)
パスキン 1885年〜1930年 (エコール・ド・パリ)
藤田嗣治 1886年〜1968年 (エコール・ド・パリ)
世代的には印象派とエコール・ド・パリの画家に挟まれているのがわかる。
ナビ派は1888年にポール・セリュジエという画家がゴーギャンから指導・影響を受け、彼がボナールなどの仲間に呼びかけて生まれたとされる。ゴーギャンはポスト印象派だからナビ派は印象派の3rdジェネレーションというような位置づけともいえる。
作品の内容的な違いの説明は私には無理として、背景的に理解しているのは、それまでの形式的で退屈なクラシックに反抗して生まれたポップスが印象派、さらにはじけてロックになったのがポスト印象派かな。クラシック音楽愛好家としてこういう比喩を書くのは不本意であるが。しかしナビ派はもっと過激にパンクロックになったわけでもない。とりあえずクリエーターは前の世代を乗り越えようとするものである。
ちなみにナビ派のナビは、ナビゲーション(道案内)の語源となったヘブライ語で予言者を意味する。そんなところにも新しい絵画を創造するんだという気持ちが込められているように思う。
ボナールのこの規模での展覧会は37年振りとのこと。130点ほどの作品のうち100点ほどがオルセー美術館からの貸し出し。2015年にオルセー美術館で開催されたボナール展では歴代2位の入場者数を記録したそうだが、普段はあまり多くのボナール作品を展示しているわけではないらしい。だから、これだけまとまった数の作品を観られるのは貴重な体験。もし次がまた37年後ならこれが見納めになる?
ーーー続く
この美術館に来ると、つい撮ってしまう毎回同じような写真。
ちょっとお茶でも飲んでからと思ったが、カフェは行列になっていたので、そのまま展覧会へ。ちなみに国立新美術館にはポール・ボキューズのブラッスリーもある。レストラン>ビストロ>ブラッスリー>カフェの順番でカジュアルになるしきたりで、ここのポール・ボキューズのランチは2200円と3800円。
東山魁夷のエントリー冒頭でも書いたように、ボナールは美術界においては準メジャー級、世間一般ではほとんど知られていない画家だと思う。それと美術史的にはナビ派に属することになっているが、このナビ派というのが今ひとつわからない存在。というわけで少しおさらい。
ボナールは1867年(明治元年が1868年)生まれで1947年(昭和22年:終戦が1945年)まで生きた。これらの写真がいつ頃に撮られたかは不明だが、歳を取ってからはブサイクになっているなあ。身につまされるゼ(/o\)
ナビ派というのは印象派の後に生まれたグループで、当時の画家を生まれた順番に並べてみると
セザンヌ 1839年〜1906年 (ポスト印象派)
モネ 1840年〜1926年 (印象派)
ルノワール 1841年〜1919年 (印象派)
ゴーギャン 1848年〜1903年 (ポスト印象派)
ゴッホ 1853年〜1890年 (ポスト印象派)
★ボナール 1867年〜1947年 (ナビ派)
ピカソ 1881年〜1973年
モディリアーニ 1884年〜1920年 (エコール・ド・パリ)
パスキン 1885年〜1930年 (エコール・ド・パリ)
藤田嗣治 1886年〜1968年 (エコール・ド・パリ)
世代的には印象派とエコール・ド・パリの画家に挟まれているのがわかる。
ナビ派は1888年にポール・セリュジエという画家がゴーギャンから指導・影響を受け、彼がボナールなどの仲間に呼びかけて生まれたとされる。ゴーギャンはポスト印象派だからナビ派は印象派の3rdジェネレーションというような位置づけともいえる。
作品の内容的な違いの説明は私には無理として、背景的に理解しているのは、それまでの形式的で退屈なクラシックに反抗して生まれたポップスが印象派、さらにはじけてロックになったのがポスト印象派かな。クラシック音楽愛好家としてこういう比喩を書くのは不本意であるが。しかしナビ派はもっと過激にパンクロックになったわけでもない。とりあえずクリエーターは前の世代を乗り越えようとするものである。
ちなみにナビ派のナビは、ナビゲーション(道案内)の語源となったヘブライ語で予言者を意味する。そんなところにも新しい絵画を創造するんだという気持ちが込められているように思う。
ボナールのこの規模での展覧会は37年振りとのこと。130点ほどの作品のうち100点ほどがオルセー美術館からの貸し出し。2015年にオルセー美術館で開催されたボナール展では歴代2位の入場者数を記録したそうだが、普段はあまり多くのボナール作品を展示しているわけではないらしい。だから、これだけまとまった数の作品を観られるのは貴重な体験。もし次がまた37年後ならこれが見納めになる?
ーーー続く
2018年12月01日
2019年シーズンのチューリップ植え付け
国華園にチューリップとユリの球根を発注したのが10月21日。今時の通販は迅速な配達が当たり前だが、ここは私の知る限り日本で一番スローペースな会社である。
と思っていたら、10月27日に荷物が届く。アマゾンなど他の通販会社で配達に1週間もかかったらキャンセルものだが、国華園にしてみれば驚異的に早い。どうした?今年から心を入れ替えたのか?と思いつつ荷物を受け取ったが、どう見ても段ボール箱が小さい。それで開けてみると5種類頼んだチューリップのうち1つだけが入っていた。なにゆえ??
まあ仕訳の都合とかがあったのだろう、これが届いたのなら残りもすぐに届くだろうと考える。でもそんな考えは国華園には通用しなかった(^^ゞ そこからはナシのツブテ。もっともこの会社がノロマなことは想定済みで、それを見越して発注している。チューリップというのは10月〜11月が植え付けの適期とされるが、私の感覚では10月ではちょっと早い。11月になって少し寒さを感じてから植えることが多い。また年内ならなんとかなる。特に根拠はないけれど経験則で。
それでノンビリ構えていたが、11月の半ばになっても届かないので少々不安になる。ひょっとしたら何かの手違いで発注が1つだけになっていないかと。それで国華園に電話する。この会社のホームページには「メールでの返信は少々お時間をいただく場合がございます。お急ぎの場合はお電話をご利用ください。」と書かれている。IT化度合いは推して知るべしである。
残りの球根も発注が通っていることを確認。発送が遅れていて申し訳ないという応対だった。いつ頃届くかと尋ねると、あと2週間くらいで11月の末か12月の頭との返事だった。納期をしっかり把握しているというより、クレームがつかないように余裕を見込んで話しているといった雰囲気。
しかし電話をした翌日に発送したというメールがあり、その翌々日に球根が届いた。前にもそんなことがあったように思う。けっして高圧的に電話したわけじゃないよ(^^ゞ ただし届いたのはチューリップだけで、ユリはまだ未発送のまま。
ところでチューリップの植え付け適期が10月〜11月というのは、ほぼどの情報源でも共通の見解。しかし球根に同封されている国華園のパンフレットには適期が10月〜12月と記されている。配達がグズなことをカバーするために勝手に拡大解釈するんじゃない!
本日にチューリップの植え付けをした。今年は夏に土の熱湯消毒はしなかった。またプランターに入っている土をすべてフルイにかけるのも面倒だったので、
1)まず鉢底石手前までの土をプランターから取り除き、
2)新たに購入した培養土を薄く敷き、
3)昨年、土のリサイクルをした時に買った炭化鶏糞を少し播いて、
4)プランターの半分くらいまで培養土を入れる。
という手順が第1ステップ。
培養土も国華園で購入したもので写真よりかなり黒々としたいい感じの土。黒ければいいというものではないと聞いたこともあるが、何となく養分たっぷりに思えてしまう。
ただちょっと水はけが悪そうな気もしたので、赤玉土を少し混ぜようかと考えたが、プランターから取り除いた土がゴミ袋5つ分くらいあり、他の植物もあるのでもうベランダに作業スペースを確保できず断念。
球根を置いていく。以前に書いたが今シーズンは、プランターあたり8球・7球・8球の3列配置23球をやめて、8球・8球の2列配置で16球にした。そして培養土はまだ残っていたがユリにも使うので、昨年リサイクルして残っていた土を入れる。だいたい球根植物は球根内に必要な栄養を蓄えているし、土からも養分を摂るとしてもそれは根の役目だから、球根より上の土は何でもいいだろうという考え。もちろんきちんとリサイクルしたから、別に悪い土でもない。ただそのリサイクルした土だけでは足りなくなったので、最後は先ほどプランターから取り除いたばかりの土も少し使った。
最後に水やりして終了。例によって、土の厚みを少しでも増やすためにプランターにウォータースペースはほとんど設けていない。だから土がこぼれないように水やりにはちょっと時間がかかる。ただし、いつもと同じくらいのペースで水やりできたから、培養土の水はけは悪くなかったようだ。
球根の植え付けなんて、最後は土の入ったプランターになるだけで代わり映えしないからから今年は写真はナシ。ところでこの冬は暖冬というのが気象庁の予測。チューリップ的には冬は寒ければ寒いほどいいとされる。なんとか開花率80%になって欲しいものだ。
と思っていたら、10月27日に荷物が届く。アマゾンなど他の通販会社で配達に1週間もかかったらキャンセルものだが、国華園にしてみれば驚異的に早い。どうした?今年から心を入れ替えたのか?と思いつつ荷物を受け取ったが、どう見ても段ボール箱が小さい。それで開けてみると5種類頼んだチューリップのうち1つだけが入っていた。なにゆえ??
まあ仕訳の都合とかがあったのだろう、これが届いたのなら残りもすぐに届くだろうと考える。でもそんな考えは国華園には通用しなかった(^^ゞ そこからはナシのツブテ。もっともこの会社がノロマなことは想定済みで、それを見越して発注している。チューリップというのは10月〜11月が植え付けの適期とされるが、私の感覚では10月ではちょっと早い。11月になって少し寒さを感じてから植えることが多い。また年内ならなんとかなる。特に根拠はないけれど経験則で。
それでノンビリ構えていたが、11月の半ばになっても届かないので少々不安になる。ひょっとしたら何かの手違いで発注が1つだけになっていないかと。それで国華園に電話する。この会社のホームページには「メールでの返信は少々お時間をいただく場合がございます。お急ぎの場合はお電話をご利用ください。」と書かれている。IT化度合いは推して知るべしである。
残りの球根も発注が通っていることを確認。発送が遅れていて申し訳ないという応対だった。いつ頃届くかと尋ねると、あと2週間くらいで11月の末か12月の頭との返事だった。納期をしっかり把握しているというより、クレームがつかないように余裕を見込んで話しているといった雰囲気。
しかし電話をした翌日に発送したというメールがあり、その翌々日に球根が届いた。前にもそんなことがあったように思う。けっして高圧的に電話したわけじゃないよ(^^ゞ ただし届いたのはチューリップだけで、ユリはまだ未発送のまま。
ところでチューリップの植え付け適期が10月〜11月というのは、ほぼどの情報源でも共通の見解。しかし球根に同封されている国華園のパンフレットには適期が10月〜12月と記されている。配達がグズなことをカバーするために勝手に拡大解釈するんじゃない!
本日にチューリップの植え付けをした。今年は夏に土の熱湯消毒はしなかった。またプランターに入っている土をすべてフルイにかけるのも面倒だったので、
1)まず鉢底石手前までの土をプランターから取り除き、
2)新たに購入した培養土を薄く敷き、
3)昨年、土のリサイクルをした時に買った炭化鶏糞を少し播いて、
4)プランターの半分くらいまで培養土を入れる。
という手順が第1ステップ。
培養土も国華園で購入したもので写真よりかなり黒々としたいい感じの土。黒ければいいというものではないと聞いたこともあるが、何となく養分たっぷりに思えてしまう。
ただちょっと水はけが悪そうな気もしたので、赤玉土を少し混ぜようかと考えたが、プランターから取り除いた土がゴミ袋5つ分くらいあり、他の植物もあるのでもうベランダに作業スペースを確保できず断念。
球根を置いていく。以前に書いたが今シーズンは、プランターあたり8球・7球・8球の3列配置23球をやめて、8球・8球の2列配置で16球にした。そして培養土はまだ残っていたがユリにも使うので、昨年リサイクルして残っていた土を入れる。だいたい球根植物は球根内に必要な栄養を蓄えているし、土からも養分を摂るとしてもそれは根の役目だから、球根より上の土は何でもいいだろうという考え。もちろんきちんとリサイクルしたから、別に悪い土でもない。ただそのリサイクルした土だけでは足りなくなったので、最後は先ほどプランターから取り除いたばかりの土も少し使った。
最後に水やりして終了。例によって、土の厚みを少しでも増やすためにプランターにウォータースペースはほとんど設けていない。だから土がこぼれないように水やりにはちょっと時間がかかる。ただし、いつもと同じくらいのペースで水やりできたから、培養土の水はけは悪くなかったようだ。
球根の植え付けなんて、最後は土の入ったプランターになるだけで代わり映えしないからから今年は写真はナシ。ところでこの冬は暖冬というのが気象庁の予測。チューリップ的には冬は寒ければ寒いほどいいとされる。なんとか開花率80%になって欲しいものだ。