2019年07月
2019年07月28日
ユリは7月中旬に終了
6月16日にピンクが初開花し、続いて21日に黄色も咲いた。
植えた球根はピンク、黄色、白の3色。
そして白いユリが咲いたのが7月7日。
3色でカラフルに咲いて欲しかったのだが期待はかなわず。
ベランダの手すりにもたれかかって咲く白ユリ。
今年の梅雨は長くて、つい先日まで日照時間の短い日々が続いた。写真的にも光量不足でイマイチさえない。おかげでこんな写真は撮れたけれど。
花びらに毛が生えているような状態はピンクや黄色では見られなかった特徴。
これは光線の加減ではなく、ひとつだけ花粉の色が違うのが咲いた。
現在はすべて咲き終わってベランダにはグリーンだけが残っている。
今までの経緯をポイントで記録しておくと、
9つ植えた球根のうち8つが発芽。
ただし、そのうちの1つは成長が途中で止まりツボミをつけず。
発芽しなかった&成長が止まったのはピンクのユリ。
だから3色3球づつ植えたけれど、ピンクが育ったのは1株だけ。
ピンクと黄色は商品パッケージとはまったく違う薄い色の花が咲いた。
思った以上に背丈が伸びて、支柱を用意すべきだったかも。
日光を求めてベランダの外側に向いて咲く傾向があるので、
室内からはあまり見栄えがしない。
ベランダに出ると濃厚な香りが楽しめる。
といったところかな。
1株1花のチューリップと違って、1つの株に次々と花が咲くのはよかった。でも色によって開花時期が違うし、咲いたのは合計7株だからボリューム的に物足りなかったかな。もっともユリというと、バイクツーリングで訪れたこういう風景を思い浮かべてしまう私のイメージギャップもある。
来シーズンも植えるかどうかは未定。植えるなら今回の特大球じゃなくて、普通サイズにして色数を増やすと思う。ただチューリップと一緒にやるとなるとベランダのスペース的にもう限界なのが悩みどころ。
植えた球根はピンク、黄色、白の3色。
そして白いユリが咲いたのが7月7日。
3色でカラフルに咲いて欲しかったのだが期待はかなわず。
ベランダの手すりにもたれかかって咲く白ユリ。
今年の梅雨は長くて、つい先日まで日照時間の短い日々が続いた。写真的にも光量不足でイマイチさえない。おかげでこんな写真は撮れたけれど。
花びらに毛が生えているような状態はピンクや黄色では見られなかった特徴。
これは光線の加減ではなく、ひとつだけ花粉の色が違うのが咲いた。
現在はすべて咲き終わってベランダにはグリーンだけが残っている。
今までの経緯をポイントで記録しておくと、
9つ植えた球根のうち8つが発芽。
ただし、そのうちの1つは成長が途中で止まりツボミをつけず。
発芽しなかった&成長が止まったのはピンクのユリ。
だから3色3球づつ植えたけれど、ピンクが育ったのは1株だけ。
ピンクと黄色は商品パッケージとはまったく違う薄い色の花が咲いた。
思った以上に背丈が伸びて、支柱を用意すべきだったかも。
日光を求めてベランダの外側に向いて咲く傾向があるので、
室内からはあまり見栄えがしない。
ベランダに出ると濃厚な香りが楽しめる。
といったところかな。
1株1花のチューリップと違って、1つの株に次々と花が咲くのはよかった。でも色によって開花時期が違うし、咲いたのは合計7株だからボリューム的に物足りなかったかな。もっともユリというと、バイクツーリングで訪れたこういう風景を思い浮かべてしまう私のイメージギャップもある。
来シーズンも植えるかどうかは未定。植えるなら今回の特大球じゃなくて、普通サイズにして色数を増やすと思う。ただチューリップと一緒にやるとなるとベランダのスペース的にもう限界なのが悩みどころ。
2019年07月23日
チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編 その5
5月5日にチューリップをプランターから抜く作業をした時に、
実はまだ青々としている株がいくつかあった。
もちろんそれは抜かずにキープ。
チューリップとは思えないニラみたいな葉である。おそらく原種系チューリップのサーモンジェムかと思われる。
ベランダのスペースを広げたかったのでプランターは積み上げ状態で。
原種系(野生のチューリップに近い品種)を植えたのは今年が初めてだったので、どう育っていくのだろうかと楽しみにしていた。
ところが5月10日からまさかの入院(>_<) 正確にいうと5月11日には退院して、5月15日から5月29日まで別の病院で再入院。
5月18日に一時帰宅した時は、付き添ってくれたSG君に頼んで水やりをしてもらった。でもそこから29日までの12日間は放置状態。
29日に帰宅してベランダに出てみるとご覧の状態。
もっとも水不足で枯れたというより、普通に寿命が来てツボミもつけずに枯れたという気もする。5月5日の時点で株自体が小さく、ここから本当に花が咲くのかな?という気もしていた。
当時はまだお腹にチューブを挿入していた状態。チューリップのことなど構っておられず、とりあえず記録として写真を撮っただけだった。しかしこのブログを書くために先ほど写真を整理していてビックリ。
アブラムシが付いていた(>_<)
5月5日の撤収作業の時にアブラムシは徹底的にチェックした。別の2つの株で数枚の葉に発生していただけだった。そしてこの原種系を除いて、すべてのチューリップをプランターから取り除いた。
ということは2枚目の写真にあるように、6株だけになったスカスカのプランターのチューリップを目指してアブラムシがまたやってきたのだろうか。あるいは株を抜くときに地面に落ちたアブラムシが移動したのか。ナゾ
写真でアブラムシが確認できたのは、完全に枯れているプランターの株だけである。そして他のプランターではまだ葉に緑の部分が残っている。ひょっとしてアブラムシに養分を吸い取られて枯れた?
いずれにしても侮れないアブラムシ。
さて昨シーズンの開花率58%に嫌気がさして、
184球から128球に球根を減らす(スペースに余裕を持たせた方がいいかなと思って)
違う花も育てようとユリに挑戦してみた
というのが今シーズン。しかし結果は開花率48%とまたもや大幅ダウン(/o\) 球根を減らして開花率も下がったので花数的には目も当てられない。アブラムシも3年連続で発生するし、チューリップ・モチベーションは限りなく右肩下がり。
さて来シーズンはどうしようかな。
おしまい
実はまだ青々としている株がいくつかあった。
もちろんそれは抜かずにキープ。
チューリップとは思えないニラみたいな葉である。おそらく原種系チューリップのサーモンジェムかと思われる。
ベランダのスペースを広げたかったのでプランターは積み上げ状態で。
原種系(野生のチューリップに近い品種)を植えたのは今年が初めてだったので、どう育っていくのだろうかと楽しみにしていた。
ところが5月10日からまさかの入院(>_<) 正確にいうと5月11日には退院して、5月15日から5月29日まで別の病院で再入院。
5月18日に一時帰宅した時は、付き添ってくれたSG君に頼んで水やりをしてもらった。でもそこから29日までの12日間は放置状態。
29日に帰宅してベランダに出てみるとご覧の状態。
もっとも水不足で枯れたというより、普通に寿命が来てツボミもつけずに枯れたという気もする。5月5日の時点で株自体が小さく、ここから本当に花が咲くのかな?という気もしていた。
当時はまだお腹にチューブを挿入していた状態。チューリップのことなど構っておられず、とりあえず記録として写真を撮っただけだった。しかしこのブログを書くために先ほど写真を整理していてビックリ。
アブラムシが付いていた(>_<)
5月5日の撤収作業の時にアブラムシは徹底的にチェックした。別の2つの株で数枚の葉に発生していただけだった。そしてこの原種系を除いて、すべてのチューリップをプランターから取り除いた。
ということは2枚目の写真にあるように、6株だけになったスカスカのプランターのチューリップを目指してアブラムシがまたやってきたのだろうか。あるいは株を抜くときに地面に落ちたアブラムシが移動したのか。ナゾ
写真でアブラムシが確認できたのは、完全に枯れているプランターの株だけである。そして他のプランターではまだ葉に緑の部分が残っている。ひょっとしてアブラムシに養分を吸い取られて枯れた?
いずれにしても侮れないアブラムシ。
さて昨シーズンの開花率58%に嫌気がさして、
184球から128球に球根を減らす(スペースに余裕を持たせた方がいいかなと思って)
違う花も育てようとユリに挑戦してみた
というのが今シーズン。しかし結果は開花率48%とまたもや大幅ダウン(/o\) 球根を減らして開花率も下がったので花数的には目も当てられない。アブラムシも3年連続で発生するし、チューリップ・モチベーションは限りなく右肩下がり。
さて来シーズンはどうしようかな。
おしまい
2019年07月22日
チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編 その4
それでは総集編名物の朽ちてゆくチューリップ。チューリップのブログはあまたあれど、こんな写真を毎年たくさん載せているのは唯一の存在だと自負している(何の自慢?)
他の花の終わりの頃に、弱々しいツボミを出すのが毎年いる。
こいつらはいつもツボミのまま枯れていく。
こんな姿になぜか心惹かれるものがある。
いい形に枯れているのは一瞬で、しばらくすると醜くなってしまう。
あまり早すぎてもツマラナイ。
そんな違いがわかって、
さらに雄しべ雌しべも愛おしく思えたら、あなたもめでたくヘンタイ仲間(^^ゞ
実にくだらない写真ではあるが、
こんな小さいものにピントを合わせるのはけっこう難しいんだゼ。
たまに周りの花びらの色が被ってカラフルになる。
最後に少しキレイめなのも。
ーーー続く
他の花の終わりの頃に、弱々しいツボミを出すのが毎年いる。
こいつらはいつもツボミのまま枯れていく。
こんな姿になぜか心惹かれるものがある。
いい形に枯れているのは一瞬で、しばらくすると醜くなってしまう。
あまり早すぎてもツマラナイ。
そんな違いがわかって、
さらに雄しべ雌しべも愛おしく思えたら、あなたもめでたくヘンタイ仲間(^^ゞ
実にくだらない写真ではあるが、
こんな小さいものにピントを合わせるのはけっこう難しいんだゼ。
たまに周りの花びらの色が被ってカラフルになる。
最後に少しキレイめなのも。
ーーー続く
2019年07月21日
チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編 その3
今シーズンの新兵器。
ペットボトルにアルミ箔をかぶせたもの。
目的はアブラムシ対策。ネットのどこかでアブラムシは眩しさに弱いので、日光を反射するアルミ箔が効果的という記事を読んだ。対象となっていたのはチューリップではなく、また畑に直接アルミ箔を敷き詰めるような対策だったが、それをアレンジしてみた。
ベランダには賞味期限がとっくに切れたミネラルウォーターのペットボトルが置いてある。飲み忘れたものを、震災で断水した時に手を洗ったりトイレを流したりするのに役立つかと思って。それを使ってアブラムシ対策器を作ることを思いつく。
ちなみにベランダには7〜8年置いてあるペットボトルもある。目で見たかぎり水が濁ったりの変質はない。いざとなれば飲めるんじゃないかと思うくらい。またペットボトルに巻かれているラベルはボロボロになって風で散りほとんど残っていないが、ペットボトル容器そのものは今も新品と同じ強度を保っている。プラスチックゴミによる海洋汚染がよく報じられているが、さもありなんである。
さてアブラムシ。
ガーデニング歴30年にして初めて目にしたのは2017年。この時は8つのプランターで育てているチューリップの2/3くらいにアブラムシが付くという大発生。翌年つまり昨年は1本の茎だけ。もっともこれはノーマークだった2017年と違い、常に警戒していたので早期に発見して駆除したから1本だけだったともいえる。
ただしどちらの年もチューリップの盛りが過ぎて枯れ始めようかという時期に発生している。だから実害はほとんどない。(チューリップに発生するアブラムシはそういうものなのか、ウチのベランダだけの現象なのかは調べていない)
だからアブラムシ対策といっても、ほとんど好奇心で始めたようなものだけれど、
ちょっと作りすぎたかな。
それで効果はというと5月5日、枯れたチューリップをプランターから抜く作業をしているときにアブラムシを発見。数は少ないが、これも毎週観察していて早期発見したからだと思う。
結論としてアルミ箔ペットボトルに効果はなかったかな(^^ゞ
ーーー続く
ペットボトルにアルミ箔をかぶせたもの。
目的はアブラムシ対策。ネットのどこかでアブラムシは眩しさに弱いので、日光を反射するアルミ箔が効果的という記事を読んだ。対象となっていたのはチューリップではなく、また畑に直接アルミ箔を敷き詰めるような対策だったが、それをアレンジしてみた。
ベランダには賞味期限がとっくに切れたミネラルウォーターのペットボトルが置いてある。飲み忘れたものを、震災で断水した時に手を洗ったりトイレを流したりするのに役立つかと思って。それを使ってアブラムシ対策器を作ることを思いつく。
ちなみにベランダには7〜8年置いてあるペットボトルもある。目で見たかぎり水が濁ったりの変質はない。いざとなれば飲めるんじゃないかと思うくらい。またペットボトルに巻かれているラベルはボロボロになって風で散りほとんど残っていないが、ペットボトル容器そのものは今も新品と同じ強度を保っている。プラスチックゴミによる海洋汚染がよく報じられているが、さもありなんである。
さてアブラムシ。
ガーデニング歴30年にして初めて目にしたのは2017年。この時は8つのプランターで育てているチューリップの2/3くらいにアブラムシが付くという大発生。翌年つまり昨年は1本の茎だけ。もっともこれはノーマークだった2017年と違い、常に警戒していたので早期に発見して駆除したから1本だけだったともいえる。
ただしどちらの年もチューリップの盛りが過ぎて枯れ始めようかという時期に発生している。だから実害はほとんどない。(チューリップに発生するアブラムシはそういうものなのか、ウチのベランダだけの現象なのかは調べていない)
だからアブラムシ対策といっても、ほとんど好奇心で始めたようなものだけれど、
ちょっと作りすぎたかな。
それで効果はというと5月5日、枯れたチューリップをプランターから抜く作業をしているときにアブラムシを発見。数は少ないが、これも毎週観察していて早期発見したからだと思う。
結論としてアルミ箔ペットボトルに効果はなかったかな(^^ゞ
ーーー続く
2019年07月20日
チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編 その2
前回の書いたように、今シーズンは一度も賑やかにはならなかったので集合的写真はない。それで、どんな色や形のチューリップが咲いたのかの紹介。
この赤チューリップは八重咲きの「フラッシュポイント」という品種。紫は普通品種セットに入っていた紫か、ちょっと高級な品種セットに入っていた「パープルプリシス」という品種か見分けがつかず。今シーズンに植えた球根についてはこちらで。
黄色も普通品種セットと高級品種セットの「ストロングゴールド」の区別が難しい。普通品種はこんなに背が高くならないから、これが「ストロングゴールド」かと思う。ストロングと名前がついている割に茎が長いのですぐ倒れてしまう。
背が高いと他のチューリップとバランスが悪い。
でも写真的にはおもしろいかな。
背の低い黄色チューリップ。先ほどの仮説が正しければこちらが普通品種。
黄色と白のツーショット。白チューリップが普通品種なことは間違いないから、やはり背の低い黄色が普通品種かな。
フリンジ咲き(花びらにギザギザがある)のファンシーフリルス。
これはすぐ色が薄くなってしまう。
普通品種の赤チューリップ。
太陽に透かされたチューリップを見るのが好き。
カメラを買い換えてから白い被写体にもピントが合うようになってうれしい。この白チューリップはマウントタコマという八重咲きの品種。
ダイナスティという品種。
思っていたより(国華園のホームページの写真より)色が薄い。
こちらは太陽に透かされていたのと同じ普通品種のピンクチューリップ。
球根を買ったときのブログで調べてみると、次の3品種がまったく咲いていないと判明。
普通品種の紫か、同じく紫のパープルプリシスのどちらか
ルーブルオレンジ
サーモンジェム
許さん!
キチンと水やりしていたのに。
でも懲らしめる方法がない(^^ゞ
ーーー続く
この赤チューリップは八重咲きの「フラッシュポイント」という品種。紫は普通品種セットに入っていた紫か、ちょっと高級な品種セットに入っていた「パープルプリシス」という品種か見分けがつかず。今シーズンに植えた球根についてはこちらで。
黄色も普通品種セットと高級品種セットの「ストロングゴールド」の区別が難しい。普通品種はこんなに背が高くならないから、これが「ストロングゴールド」かと思う。ストロングと名前がついている割に茎が長いのですぐ倒れてしまう。
背が高いと他のチューリップとバランスが悪い。
でも写真的にはおもしろいかな。
背の低い黄色チューリップ。先ほどの仮説が正しければこちらが普通品種。
黄色と白のツーショット。白チューリップが普通品種なことは間違いないから、やはり背の低い黄色が普通品種かな。
フリンジ咲き(花びらにギザギザがある)のファンシーフリルス。
これはすぐ色が薄くなってしまう。
普通品種の赤チューリップ。
太陽に透かされたチューリップを見るのが好き。
カメラを買い換えてから白い被写体にもピントが合うようになってうれしい。この白チューリップはマウントタコマという八重咲きの品種。
ダイナスティという品種。
思っていたより(国華園のホームページの写真より)色が薄い。
こちらは太陽に透かされていたのと同じ普通品種のピンクチューリップ。
球根を買ったときのブログで調べてみると、次の3品種がまったく咲いていないと判明。
普通品種の紫か、同じく紫のパープルプリシスのどちらか
ルーブルオレンジ
サーモンジェム
許さん!
キチンと水やりしていたのに。
でも懲らしめる方法がない(^^ゞ
ーーー続く
2019年07月19日
チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編
今シーズンのチューリップ日記は、3月22日に黄色チューリップが初開花したことが「最後」になった。開花そのものが少なく、しかも開花時期がバラバラだったため、一度も賑やかな状態になることなく終わった。だからブログを書く気も起きず。
例年なら6月になって葉も茎も枯れ果ててから、チューリップをプランターから抜く作業をする。それは球根を来シーズンに使えるように太らせているのではなく、キレイに咲いて楽しませてくれたチューリップを最期まで見届けてあげようという気持ちから。単にグズグズしているという噂もあるが(^^ゞ
しかし今シーズンのチューリップにそんな気持ちは起こらず、ユリも植えてベランダが手狭だったので5月5日に撤収作業。
恒例の雌しべでの開花本数チェック。
ひと山で10本なので今年の開花は62本。
植えた球根は128球だから開花率は48%(/o\)
過去の開花率を並べてみると
2014年 80%
2015年 25%
2016年 57%
2017年 79%
2018年 58%
2019年 48%
悲惨だった2015年に次いで低い結果である。
しかも例年なら1つのプランターに8球・7球・8球の3列で23球を植えるところを、今シーズンは8球・8球の16球にした。8プランターの総数で184球から128球に減らしたことになる。だから仮に62本を184球で割れば34%ということになる。感覚的にもそれくらいの咲きっぷりだったかな。まあとにかく今シーズンのチューリップはショボかった。
約1週間おきの定点観測。
3月24日
3月30日
4月6日
4月13日
4月21日
4月27日
5月5日
今シーズンでもっとも数多く咲いていたのは4月13日前後だったということになる。
過去の1番咲いていた時期の写真で較べても、やはり今シーズンは悲惨だった2015年とドッコイドッコイだったことがわかる。
別のアングルで見てみると一目瞭然。
2016年
2017年
2018年
そして今シーズン
私の落胆ぶりを想像して哀れんでちょうだいな(/o\)
ーーー続く
例年なら6月になって葉も茎も枯れ果ててから、チューリップをプランターから抜く作業をする。それは球根を来シーズンに使えるように太らせているのではなく、キレイに咲いて楽しませてくれたチューリップを最期まで見届けてあげようという気持ちから。単にグズグズしているという噂もあるが(^^ゞ
しかし今シーズンのチューリップにそんな気持ちは起こらず、ユリも植えてベランダが手狭だったので5月5日に撤収作業。
恒例の雌しべでの開花本数チェック。
ひと山で10本なので今年の開花は62本。
植えた球根は128球だから開花率は48%(/o\)
過去の開花率を並べてみると
2014年 80%
2015年 25%
2016年 57%
2017年 79%
2018年 58%
2019年 48%
悲惨だった2015年に次いで低い結果である。
しかも例年なら1つのプランターに8球・7球・8球の3列で23球を植えるところを、今シーズンは8球・8球の16球にした。8プランターの総数で184球から128球に減らしたことになる。だから仮に62本を184球で割れば34%ということになる。感覚的にもそれくらいの咲きっぷりだったかな。まあとにかく今シーズンのチューリップはショボかった。
約1週間おきの定点観測。
3月24日
3月30日
4月6日
4月13日
4月21日
4月27日
5月5日
今シーズンでもっとも数多く咲いていたのは4月13日前後だったということになる。
過去の1番咲いていた時期の写真で較べても、やはり今シーズンは悲惨だった2015年とドッコイドッコイだったことがわかる。
別のアングルで見てみると一目瞭然。
2016年
2017年
2018年
そして今シーズン
私の落胆ぶりを想像して哀れんでちょうだいな(/o\)
ーーー続く
2019年07月18日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その5
クリムトというと女性を描いた絵のイメージが強いが、作品の1/4は風景画とのこと。ただし風景画を描いたのは次の1898年の作品が最初。
「雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)」 1898年
「アッター湖畔のカンマー城 III」 1909〜1910年
「丘の見える庭の風景」 1916年頃
あえてカテゴリー分けするとしたら印象派に近い作風かな。クリムトの風景画といわれても、あまりピンとこなかったのが正直なところ。ところで「雨後」以降の風景画はすべて正方形のキャンバスに描かれているそうだ。21世紀のインスタ時代を先取りしていたりして。
1900年から1910年くらいがクリムトに1番脂がのっていた時期だと思う。世紀末的な表現、あるいは金箔を使った女性画もその頃に描かれた。この展覧会で、そういうザ・クリムト的な作品は
「ユディト 1」 1901年
「ベートーヴェン・フリーズ」 1902年
「女の三世代」 1905年
の3点しかなかったのが残念なところ。「ベートーヴェン・フリーズ」が規格外の超大作だから満腹感はあったものの、メインディッシュの品揃えとしてはもの足らない。
ところでこの展覧会は年代別の展示ではなく、けっこう複雑なテーマ設定で細かく作品を分類している。
クリムトとその家族
修業時代と劇場装飾
私生活
ウィーンと日本 1900
ウィーン分離派
風景画
肖像画
生命の円環
ブログでは一部の作品しか紹介しないので年代順に並べてみたが、ひょっとしたらこの構成はメインディッシュが少ないのをカモフラージュする苦肉の策だったのかもしれない。だとしたらよくできている。
晩年の作品をいくつか。
何か実験的な画風のようにも思える。
「オイゲニア・プリマフェージの肖像」 1913〜14年
「赤子(ゆりかご)」 1917年
「白い服の女」 1917〜1918年 ※未完成作品
クリムトの知名度はかなりのものだと思うが、意外にも日本での展覧会は過去に3回だけらしい。しかも東京で開かれたのは1981年だから約40年ぶりになる。貴重な体験だったと思うし、クリムトのいろいろな面を知ることができてよかった。
ところで展覧会サブタイトルの「ウィーンと日本 1900」の「1900」は19世紀の終わり=世紀末が1900年だからなんだろうが、わかりにくい表現である。そして「ウィーンと日本」については、別に2つの国の作品を対比していたわけではないので(参考出品的にいくつか日本のものがあっただけ)、展覧会の内容をまったく表していない。まとめていえば「ウィーンと日本 1900」はまったくもっておかしなタイトルである。展覧会の構成をアーダコーダと考えるうちに、タイトルまで煮詰まったのかな?
おしまい
「雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)」 1898年
「アッター湖畔のカンマー城 III」 1909〜1910年
「丘の見える庭の風景」 1916年頃
あえてカテゴリー分けするとしたら印象派に近い作風かな。クリムトの風景画といわれても、あまりピンとこなかったのが正直なところ。ところで「雨後」以降の風景画はすべて正方形のキャンバスに描かれているそうだ。21世紀のインスタ時代を先取りしていたりして。
1900年から1910年くらいがクリムトに1番脂がのっていた時期だと思う。世紀末的な表現、あるいは金箔を使った女性画もその頃に描かれた。この展覧会で、そういうザ・クリムト的な作品は
「ユディト 1」 1901年
「ベートーヴェン・フリーズ」 1902年
「女の三世代」 1905年
の3点しかなかったのが残念なところ。「ベートーヴェン・フリーズ」が規格外の超大作だから満腹感はあったものの、メインディッシュの品揃えとしてはもの足らない。
ところでこの展覧会は年代別の展示ではなく、けっこう複雑なテーマ設定で細かく作品を分類している。
クリムトとその家族
修業時代と劇場装飾
私生活
ウィーンと日本 1900
ウィーン分離派
風景画
肖像画
生命の円環
ブログでは一部の作品しか紹介しないので年代順に並べてみたが、ひょっとしたらこの構成はメインディッシュが少ないのをカモフラージュする苦肉の策だったのかもしれない。だとしたらよくできている。
晩年の作品をいくつか。
何か実験的な画風のようにも思える。
「オイゲニア・プリマフェージの肖像」 1913〜14年
「赤子(ゆりかご)」 1917年
「白い服の女」 1917〜1918年 ※未完成作品
クリムトの知名度はかなりのものだと思うが、意外にも日本での展覧会は過去に3回だけらしい。しかも東京で開かれたのは1981年だから約40年ぶりになる。貴重な体験だったと思うし、クリムトのいろいろな面を知ることができてよかった。
ところで展覧会サブタイトルの「ウィーンと日本 1900」の「1900」は19世紀の終わり=世紀末が1900年だからなんだろうが、わかりにくい表現である。そして「ウィーンと日本」については、別に2つの国の作品を対比していたわけではないので(参考出品的にいくつか日本のものがあっただけ)、展覧会の内容をまったく表していない。まとめていえば「ウィーンと日本 1900」はまったくもっておかしなタイトルである。展覧会の構成をアーダコーダと考えるうちに、タイトルまで煮詰まったのかな?
おしまい
2019年07月16日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その4
ウィーン分離派は1902年4月に、後にベートーヴェン展と呼ばれる第14回の展覧会を開く。5万8000人の入場者を記録し、ウィーン分離派の展覧会史上で最大の成功を収めた。
この展覧会の特徴はまず総合芸術を志向したこと。もっともカバーした分野は絵画、彫像、装飾品、家具なので、今日の感覚だとそれほど「総合」じゃない。もう一つの特徴はテーマの統一。出展する芸術家には展覧会のテーマに沿った作品の制作を依頼した。個々の作品の展示ではなく、展覧会そのものをひとつのアートにする試み。
そのテーマに選ばれたのが作曲家のベートーヴェン。そしてクリムトが描いたのはベートーヴェンの交響曲第9番をモチーフにした巨大な壁画。日本じゃ年末によく聴くその第4楽章の独唱・合唱はシラーの詩がベースとなっている。ひょっとしたら音楽と文学も総合芸術としてカバーしたかったのかもしれない。
クリムトの壁画はベートーヴェン・フリーズとのタイトル。お願いベートーヴェンのプリーズじゃなくてフリーズ。スペルはfriezeで初めて見る単語。調べてみると建築用語で、こういう古典的な建築の浮き彫り部分のこと。
また転じて室内では天井近くの壁の装飾もフリーズという。クリムトのフリーズはそちらの意味だろう。和訳は帯状装飾、装飾帯など。
ベートーヴェン展の終了後に壁画は取り壊されるはずだったがコレクターに買い取られた。壁画といっても展覧会用の間仕切りの壁だったため分解できたみたい。現在は修復されて再びセセッション館に展示されている。今回の展覧会にやってきたのは1984年に制作された原寸大の複製。サイズは縦が2メートルで全長は34メートル。
ベートーヴェン・フリーズの全体像。部屋の3面を壁画が取り囲んでいるが、正面以外は空白部分が多いので、全体を俯瞰すると間延びして迫力に欠ける印象は否めない。
写真は https://www.cinra.net/report/201904-klimt から引用。
壁画は左、正面、右の順にストーリー立てられている。
左壁は「幸福への憧れ」というサブタイトル。
正面は「敵対する勢力」。
正面左側と、さらにその一部をアップで。
右壁は「歓喜の歌」。空飛ぶ天女?が続いた後に合唱シーン。
メインの部分をアップで。
超簡単にストーリーを書いておくと
左壁:弱いものに助けを求められ騎士が立ち上がる。
正面:ゴリラみたいなのはギリシャ神話に出てくる悪の化身テュフォン。
右側に伸びる翼や蛇の胴体のようなもののもテュフォンの身体である。
テュフォンの周りにいるのはあれこれ誘惑してくるダークサイドの女神たち。
テュフォンをどう打ち破ったのかが省略されているのだがーーー
右壁:ハッピーエンドの歓喜シーン。
弱いものを人類と置き換えると、いわゆる「救済」のようなことがテーマなんだと思う。ただ右壁で裸になって女性と抱き合っているのが左壁の騎士らしいので、弱いものはどこへ行った?という気もするが。
絵としては楽しめた。空白部分に物足りなさはあっても、なんたって全長は34メートルもある。テュフォンや歓喜のシーンの前に立てば大画面で絵が迫ってくる。もう少しエロく描いて欲しかった気はするけれど(^^ゞ
ただ、これがベートーヴェンの第九をモチーフにしたといわれると、何とも感想を述べづらい。少なくとも私の耳にはもっと別の音楽が聞こえてくる。
「ユディト 1」もそうだがクリムトにとってモチーフは、創作のスイッチを入れてくれるきっかけに過ぎず、いったんスイッチが入った後は自分の感性を発露することが大事で、モチーフ自体は別にどうでもいい存在のようにも思える。あるいは、あるモチーフに対して人と同じようには絶対に描かないぞとの気持ちがあったのか。
それはよくわからないとして、とりあえずクリムトのヘンチクリンな画風が大好きな私は、三方を彼の絵に取り囲まれて満足な気持ちだった。
ただし当時の評判はというと
コケた(/o\)
ただコケたどころじゃなくオオゴケの大炎上。クリムトの世紀末的表現が不道徳なものにうつったようだ。(男女の性器や精子と卵子も描かれているらしいが、それがどこなのかよくわからず) それにベートーヴェンはドイツ人でも、ウィーンで活躍していたのでオーストリアの国民的英雄でもある。それをこんな風に茶化しやがってと反発されたのかもしれない。
参考までに、こちらが好評だったメイン展示であるマックス・クリンガーのベートーヴェン像。当時の市民はこういうものを望んでいたのだ。クリムトが描いた方向性が嫌われたのもさることながら、抽象化という表現方法もまだ理解されなかったのだと思う。
ベートーヴェン・フリーズでクリムトは世間から非難されただけではなく、ウイーン分離派内部からも批判する声が上がり、それが数年後にクリムトとその一派が脱退して分裂する事態を招く。
それをきっかけにクリムトは画壇を率いるなんて政治的な活動から身を引き、画家として「女」や「エロス」といったテーマにのめり込んでいくことになる。本人にとって分裂は不本意だったとしても、それが「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」や「接吻」といった名作につながったのだとしたら、まさに塞翁が馬である。
ーーー続く
この展覧会の特徴はまず総合芸術を志向したこと。もっともカバーした分野は絵画、彫像、装飾品、家具なので、今日の感覚だとそれほど「総合」じゃない。もう一つの特徴はテーマの統一。出展する芸術家には展覧会のテーマに沿った作品の制作を依頼した。個々の作品の展示ではなく、展覧会そのものをひとつのアートにする試み。
そのテーマに選ばれたのが作曲家のベートーヴェン。そしてクリムトが描いたのはベートーヴェンの交響曲第9番をモチーフにした巨大な壁画。日本じゃ年末によく聴くその第4楽章の独唱・合唱はシラーの詩がベースとなっている。ひょっとしたら音楽と文学も総合芸術としてカバーしたかったのかもしれない。
クリムトの壁画はベートーヴェン・フリーズとのタイトル。お願いベートーヴェンのプリーズじゃなくてフリーズ。スペルはfriezeで初めて見る単語。調べてみると建築用語で、こういう古典的な建築の浮き彫り部分のこと。
また転じて室内では天井近くの壁の装飾もフリーズという。クリムトのフリーズはそちらの意味だろう。和訳は帯状装飾、装飾帯など。
ベートーヴェン展の終了後に壁画は取り壊されるはずだったがコレクターに買い取られた。壁画といっても展覧会用の間仕切りの壁だったため分解できたみたい。現在は修復されて再びセセッション館に展示されている。今回の展覧会にやってきたのは1984年に制作された原寸大の複製。サイズは縦が2メートルで全長は34メートル。
ベートーヴェン・フリーズの全体像。部屋の3面を壁画が取り囲んでいるが、正面以外は空白部分が多いので、全体を俯瞰すると間延びして迫力に欠ける印象は否めない。
写真は https://www.cinra.net/report/201904-klimt から引用。
壁画は左、正面、右の順にストーリー立てられている。
左壁は「幸福への憧れ」というサブタイトル。
正面は「敵対する勢力」。
正面左側と、さらにその一部をアップで。
右壁は「歓喜の歌」。空飛ぶ天女?が続いた後に合唱シーン。
メインの部分をアップで。
超簡単にストーリーを書いておくと
左壁:弱いものに助けを求められ騎士が立ち上がる。
正面:ゴリラみたいなのはギリシャ神話に出てくる悪の化身テュフォン。
右側に伸びる翼や蛇の胴体のようなもののもテュフォンの身体である。
テュフォンの周りにいるのはあれこれ誘惑してくるダークサイドの女神たち。
テュフォンをどう打ち破ったのかが省略されているのだがーーー
右壁:ハッピーエンドの歓喜シーン。
弱いものを人類と置き換えると、いわゆる「救済」のようなことがテーマなんだと思う。ただ右壁で裸になって女性と抱き合っているのが左壁の騎士らしいので、弱いものはどこへ行った?という気もするが。
絵としては楽しめた。空白部分に物足りなさはあっても、なんたって全長は34メートルもある。テュフォンや歓喜のシーンの前に立てば大画面で絵が迫ってくる。もう少しエロく描いて欲しかった気はするけれど(^^ゞ
ただ、これがベートーヴェンの第九をモチーフにしたといわれると、何とも感想を述べづらい。少なくとも私の耳にはもっと別の音楽が聞こえてくる。
「ユディト 1」もそうだがクリムトにとってモチーフは、創作のスイッチを入れてくれるきっかけに過ぎず、いったんスイッチが入った後は自分の感性を発露することが大事で、モチーフ自体は別にどうでもいい存在のようにも思える。あるいは、あるモチーフに対して人と同じようには絶対に描かないぞとの気持ちがあったのか。
それはよくわからないとして、とりあえずクリムトのヘンチクリンな画風が大好きな私は、三方を彼の絵に取り囲まれて満足な気持ちだった。
ただし当時の評判はというと
コケた(/o\)
ただコケたどころじゃなくオオゴケの大炎上。クリムトの世紀末的表現が不道徳なものにうつったようだ。(男女の性器や精子と卵子も描かれているらしいが、それがどこなのかよくわからず) それにベートーヴェンはドイツ人でも、ウィーンで活躍していたのでオーストリアの国民的英雄でもある。それをこんな風に茶化しやがってと反発されたのかもしれない。
参考までに、こちらが好評だったメイン展示であるマックス・クリンガーのベートーヴェン像。当時の市民はこういうものを望んでいたのだ。クリムトが描いた方向性が嫌われたのもさることながら、抽象化という表現方法もまだ理解されなかったのだと思う。
ベートーヴェン・フリーズでクリムトは世間から非難されただけではなく、ウイーン分離派内部からも批判する声が上がり、それが数年後にクリムトとその一派が脱退して分裂する事態を招く。
それをきっかけにクリムトは画壇を率いるなんて政治的な活動から身を引き、画家として「女」や「エロス」といったテーマにのめり込んでいくことになる。本人にとって分裂は不本意だったとしても、それが「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」や「接吻」といった名作につながったのだとしたら、まさに塞翁が馬である。
ーーー続く
2019年07月15日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その3
この頃のヨーロッパではフランスの印象派やアールヌーボー、イギリスではラファエル前派などの新しいムーブメントが起きていた時期。でもオーストリアではウィーン造形芸術家協会という保守的な団体が牛耳っていて、そういうものを認めていなかった。
1897年4月にクリムトを中心とした若手芸術家が反旗を翻しウィーン分離派を結成する。正式名称はオーストリア造形芸術家協会で、ウィーンより大きな名前をつけているところが面白い。当時のクリムトは34歳。ウィーン分離派の初代会長を務めた。
まあ若手が反発するなんてよくある話。でもオーストリアでちょっと事情が違うのは、ウィーン造形芸術家協会がキュンストラーハウスという自前の展示場を持っていたこと。ウィーンで絵の展覧会を開く場所などいくらでもあると思うが、どうもこれが問題だったみたい。つまりウィーン造形芸術家協会から脱退したウィーン分離派は、同時に展覧会会場から閉め出されてしまう。
しかしこの問題は1898年にウィーン分離派が、富豪でオーストリア近代産業の父とも称されるカール・ウィトゲンシュタインの援助を得て、セセッション館(分離派会館)を建設することであっさり解決する。たまたまトントン拍子で話が進んだのか、事前に根回しをしてからウィーン分離派を立ち上げたのかは興味あるところ。ただウィーン分離派の第1回展覧会には皇帝フランツ・ヨーゼフも訪れているから、他の新興アートムーブメントと違って最初からかなりの力を持った団体だったのは確かかと思う。
これがキュンストラーハウス。日本語ではクンストラーハウスとも。またウィーン造形芸術家協会をキュンストラーハウスと言い換えることが多い。政治のことを永田町と呼ぶのと同じ。そこから代名詞的存在になるくらいこの建物に存在感があったとわかる
セセッション館。屋上にあるのは「月桂樹のドーム」だが市民からは「金のキャベツ」と呼ばれているらしい。東京では浅草に「金のウ〇コ」が屋根に乗ったビルがあるけど(^^ゞ
「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」 1899年
ウィーン分離派は1898年から1905年の7年間に23回の展覧会を開催している。建設が間に合わなかった初回を除いて場所はもちろんセセッション館。この作品は第4回に出展された。絵の上部に書かれている文字はドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」からの引用で
おのれの振る舞いや作品を、皆が気に入ることがあるか?
わかってくれる人は一握りでいい。
大勢に好かれるようではだめだ。
ほんの少数の人にだけ喜びを与えよ。
多くの人の意に叶うものは劣悪である。
というような内容が書かれている。ウィーン分離派を立ち上げたクリムトの心意気が現れているに違いない。ついでに言うと、このブログもそんなつもりで書いている(^^ゞ
しかし、そんな力強いメッセージを込めているのにヌードだし、顔の周りにはお花が散りばめてあるところが愛すべきクリムトかな。 足下に描かれているのはヘビ?ウナギ? しかし考えてみれば、こんなヌードの女性にああいうことを言われるからこそ、問い詰められたような気分になるのかもしれない。
ちなみに彼女が手に持っているのは、私には小型のスポットライトにしか見えなかったのだが、もちろんそんなものはこの時代に存在しない。調べてみると手鏡だった。ということは自分の顔を見ながら問い詰められるわけで、それを知るとこの絵に凄味のようなものも感じてくる。
※パソコンで細長い絵は小さく表示されてしまうので、クリックして拡大をお勧めする。
「ユディト 1」 1901年
ユディトとは旧約聖書に登場する女性。敵の将軍を誘惑し泥酔させ、その首を切り落としたいうユダヤ人にとっての英雄。その伝説はいろんな画家がテーマにしている。そういうシーンだから絵もショッキングなものにならざるを得ない。なのにクリムトのユディトはひたすら官能的。ちょっと歳食っているけど(^^ゞ ネットや雑誌でチラッとこの絵を見ただけなら、右下にある生首に気がつかない人も多いんじゃないかな。それに部分的にしか描かれていないから、ユディトのことを知らなければ生首に見えないかもしれない。
敵の将軍を誘惑してから殺害したのだから、こんなエロい表情をしてもおかしくないが(描かれているのが首を取った後なのは別として)ユディトをこのように仕上げるのは、例えば富士山のタイトルで、あの山の形ではなく登山道だけを描くようなものである。変わり者と創造性は紙一重ということなんだろう。
この絵には金箔が使われている。日本の琳派の影響を受けたともされているが、首回りの立体感がなくなるなどお構いなしにベタッと貼り付けているのも独創的。金箔を使ったクリムトの作品は「黄金様式」とか「黄金時代」などと呼ばれる。「ユディト 1」はその最初の作品となる。残念なのはこの展覧会では日本で過去最多となる25点のクリムトの油彩画を揃えたのにもかかわらず、黄金様式はこの「ユディト 1」だけだった。もう何点かは見たかったな。
「人生は戦いなり(黄金の騎士)」 1903年
正確に言うとこれも黄金様式の作品。でも使われているには下辺の部分だけだし、女性が描かれていないし。馬上で硬直したようになっている騎士はクリムト自身で、保守勢力とのイザコザにたち向かう姿だとの解釈もある。しかしなんとなく元気がなさそうに思えるのは馬の描き方のせいだろうか。尻尾のあたりも何かヘン。
「女の三世代」 1905年
タイトル通り子供と母親と婆さんの三世代の女性が描かれた作品。ロダンの彫刻「老いた娼婦」にインスパイアされたといわれている。手前の母娘と老婆の対比がなんとなく残酷。
言いたいことは一目でわかるから、絵の細かな表現であれこれ論じるのはヤボというもの。それでこのヘビーなテーマにもかかわらず、甘美なクリムトワールドが演出されているところがお見事。そしてしばらく眺めていると、醜く描かれた老婆の身体も美しく見えてくるから不思議。そういうところがクリムトマジック。
参考までにこれがロダンの「老いた娼婦」。
「女ともだち 1(姉妹たち)」 1907年
こういう縦長のキャンバス、かつ女性が振り返っているポーズだと、日本人はつい「浮世絵の影響」なんて言いがち。
「家族」 1907年
これも死と向き合った作品といわれている。黒い毛布?が画面のほとんどを占めているのが異様に感じられても、よほど解説されないと絵からそういうメッセージとを読み解くのは難しい。
箸休めに同時期の他の画家の作品を。
前回も書いたようにオーストリアの絵にはなじみが薄く、クリムトとエゴン・シーレくらいしか知らなかったが、意外と私好みの絵が多くてうれしい。
「ミラ・バウアー」 マックス・クルツヴァイル 1907年
「エルザ・ガラフレ」 オットー・フリードリヒ 1908年
「ガブリエル・ガリア」 オットー・フリードリヒ 1910年頃
ーーー続く
1897年4月にクリムトを中心とした若手芸術家が反旗を翻しウィーン分離派を結成する。正式名称はオーストリア造形芸術家協会で、ウィーンより大きな名前をつけているところが面白い。当時のクリムトは34歳。ウィーン分離派の初代会長を務めた。
まあ若手が反発するなんてよくある話。でもオーストリアでちょっと事情が違うのは、ウィーン造形芸術家協会がキュンストラーハウスという自前の展示場を持っていたこと。ウィーンで絵の展覧会を開く場所などいくらでもあると思うが、どうもこれが問題だったみたい。つまりウィーン造形芸術家協会から脱退したウィーン分離派は、同時に展覧会会場から閉め出されてしまう。
しかしこの問題は1898年にウィーン分離派が、富豪でオーストリア近代産業の父とも称されるカール・ウィトゲンシュタインの援助を得て、セセッション館(分離派会館)を建設することであっさり解決する。たまたまトントン拍子で話が進んだのか、事前に根回しをしてからウィーン分離派を立ち上げたのかは興味あるところ。ただウィーン分離派の第1回展覧会には皇帝フランツ・ヨーゼフも訪れているから、他の新興アートムーブメントと違って最初からかなりの力を持った団体だったのは確かかと思う。
これがキュンストラーハウス。日本語ではクンストラーハウスとも。またウィーン造形芸術家協会をキュンストラーハウスと言い換えることが多い。政治のことを永田町と呼ぶのと同じ。そこから代名詞的存在になるくらいこの建物に存在感があったとわかる
セセッション館。屋上にあるのは「月桂樹のドーム」だが市民からは「金のキャベツ」と呼ばれているらしい。東京では浅草に「金のウ〇コ」が屋根に乗ったビルがあるけど(^^ゞ
「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」 1899年
ウィーン分離派は1898年から1905年の7年間に23回の展覧会を開催している。建設が間に合わなかった初回を除いて場所はもちろんセセッション館。この作品は第4回に出展された。絵の上部に書かれている文字はドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」からの引用で
おのれの振る舞いや作品を、皆が気に入ることがあるか?
わかってくれる人は一握りでいい。
大勢に好かれるようではだめだ。
ほんの少数の人にだけ喜びを与えよ。
多くの人の意に叶うものは劣悪である。
というような内容が書かれている。ウィーン分離派を立ち上げたクリムトの心意気が現れているに違いない。ついでに言うと、このブログもそんなつもりで書いている(^^ゞ
しかし、そんな力強いメッセージを込めているのにヌードだし、顔の周りにはお花が散りばめてあるところが愛すべきクリムトかな。 足下に描かれているのはヘビ?ウナギ? しかし考えてみれば、こんなヌードの女性にああいうことを言われるからこそ、問い詰められたような気分になるのかもしれない。
ちなみに彼女が手に持っているのは、私には小型のスポットライトにしか見えなかったのだが、もちろんそんなものはこの時代に存在しない。調べてみると手鏡だった。ということは自分の顔を見ながら問い詰められるわけで、それを知るとこの絵に凄味のようなものも感じてくる。
※パソコンで細長い絵は小さく表示されてしまうので、クリックして拡大をお勧めする。
「ユディト 1」 1901年
ユディトとは旧約聖書に登場する女性。敵の将軍を誘惑し泥酔させ、その首を切り落としたいうユダヤ人にとっての英雄。その伝説はいろんな画家がテーマにしている。そういうシーンだから絵もショッキングなものにならざるを得ない。なのにクリムトのユディトはひたすら官能的。ちょっと歳食っているけど(^^ゞ ネットや雑誌でチラッとこの絵を見ただけなら、右下にある生首に気がつかない人も多いんじゃないかな。それに部分的にしか描かれていないから、ユディトのことを知らなければ生首に見えないかもしれない。
敵の将軍を誘惑してから殺害したのだから、こんなエロい表情をしてもおかしくないが(描かれているのが首を取った後なのは別として)ユディトをこのように仕上げるのは、例えば富士山のタイトルで、あの山の形ではなく登山道だけを描くようなものである。変わり者と創造性は紙一重ということなんだろう。
この絵には金箔が使われている。日本の琳派の影響を受けたともされているが、首回りの立体感がなくなるなどお構いなしにベタッと貼り付けているのも独創的。金箔を使ったクリムトの作品は「黄金様式」とか「黄金時代」などと呼ばれる。「ユディト 1」はその最初の作品となる。残念なのはこの展覧会では日本で過去最多となる25点のクリムトの油彩画を揃えたのにもかかわらず、黄金様式はこの「ユディト 1」だけだった。もう何点かは見たかったな。
「人生は戦いなり(黄金の騎士)」 1903年
正確に言うとこれも黄金様式の作品。でも使われているには下辺の部分だけだし、女性が描かれていないし。馬上で硬直したようになっている騎士はクリムト自身で、保守勢力とのイザコザにたち向かう姿だとの解釈もある。しかしなんとなく元気がなさそうに思えるのは馬の描き方のせいだろうか。尻尾のあたりも何かヘン。
「女の三世代」 1905年
タイトル通り子供と母親と婆さんの三世代の女性が描かれた作品。ロダンの彫刻「老いた娼婦」にインスパイアされたといわれている。手前の母娘と老婆の対比がなんとなく残酷。
言いたいことは一目でわかるから、絵の細かな表現であれこれ論じるのはヤボというもの。それでこのヘビーなテーマにもかかわらず、甘美なクリムトワールドが演出されているところがお見事。そしてしばらく眺めていると、醜く描かれた老婆の身体も美しく見えてくるから不思議。そういうところがクリムトマジック。
参考までにこれがロダンの「老いた娼婦」。
「女ともだち 1(姉妹たち)」 1907年
こういう縦長のキャンバス、かつ女性が振り返っているポーズだと、日本人はつい「浮世絵の影響」なんて言いがち。
「家族」 1907年
これも死と向き合った作品といわれている。黒い毛布?が画面のほとんどを占めているのが異様に感じられても、よほど解説されないと絵からそういうメッセージとを読み解くのは難しい。
箸休めに同時期の他の画家の作品を。
前回も書いたようにオーストリアの絵にはなじみが薄く、クリムトとエゴン・シーレくらいしか知らなかったが、意外と私好みの絵が多くてうれしい。
「ミラ・バウアー」 マックス・クルツヴァイル 1907年
「エルザ・ガラフレ」 オットー・フリードリヒ 1908年
「ガブリエル・ガリア」 オットー・フリードリヒ 1910年頃
ーーー続く
2019年07月13日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その2
展覧会の構成は少々複雑だったので、このブログではできるだけクリムトの作品を年代順に追ってみることにした。
「男性裸体像」 1883年
いきなりの男性ヌードでビックリした? 会場では同じような作品が3点展示されていて私もビックリした。もっとも男性ヌードにも駆け出しの頃のクリムトの作品にも興味はない。だからチラッと見るだけにしようと思った。しかし考えてみると男性ヌードを見る機会はあまりない。それでこれも勉強と列に並んでじっくり見ることに。
ところでクリムトの展覧会には若い女性客が多い。行列で彼女らに挟まれて3本のチンチンを見るのは妙な気分。下半身というくらいでアレは下についているイメージがあるが、考えてみれば身体のほぼ中央にある。つまり絵だと画面センターに位置するから、接近するとドーンと目に飛び込んでくる(^^ゞ とりあえず構図の勉強にはなったかも。
クリムトは劇場装飾の仕事でアーチストとしてのキャリアをスタートさせた。次の2つはその頃の作品。天井画や緞帳(どんちょう)のための下絵だからラフな仕上がり。でも制作の舞台裏をのぞいているようで楽しめた。
「音楽の寓意のための下絵(オルガン奏者)」 1885年
「カールスバート市立劇場の緞帳のためのデザイン」 1884〜85年
今まで模写とは画家が修業のためにするものと思っていたが、この展覧会で仕事としての模写もあると知った。絵が傷んできたとか、複製でもいいから名画を飾りたいなどがそのニーズ。展示されていたのはクリムトが城の室内装飾の一環として引き受けたティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」を模写した作品。
イザベラ・デステはルネサンス期の有名な女性で、ダ・ビンチやルーベンスも肖像画を描いている。ティツィアーノの本物を見たことはないけれど、クリムトの模写はわずかに顔がふっくらしているかな。
ところでクリムトの模写の画像はいいのがなかったので、ここに貼っているのは本家ティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」。精巧な模写だからブログの小さなサイズじゃ変わりないって。
「イザベラ・デステの肖像」 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1536年
クリムトが模写したのは1884年
ちなみにティツィアーノが描いた時、イザベラ・デステは60歳過ぎ。しかし彼女は40歳若く描くように依頼したという。なんとご無体な(^^ゞ
当時の他の画家の作品を何点か。
ウィーンは音楽の都で絵のイメージはあまり持っていなかったものの、なかなかイイ感じ。
「装飾的な花束」 ハンス・マカルト 1884年
「アトリエ」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「室内にいる日本の女」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「アトリエ」は日本&中国的な雰囲気で「室内にいる日本の女」はもちろんはっきりと日本をテーマにしている。描かれている女性はヨーロッパ各地で公演をしていた劇団の踊り子らしい。芸者と説明している資料もある。それにしても明治の初めにもうヨーロッパ公演をしている人達がいたんだ。
この頃のヨーロッパはジャポニスムがブーム。有名なのは印象派の画家たちだがクリムトもかなりの影響を受けたとされる。
次の絵はクリムトと日本文化の関わりを示す最も初期の作品といわれている。絵を見てどこが?と思うでしょ。もっとじっくり絵を見てーーーもわかりません。なぜならその理由は額縁に日本的な植物が描かれているから。ちょっと反則やわ(^^ゞ 描かれているのは前回に紹介したクリムトのパートナーであるエミーリエ・フレーゲ。
「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」 1891年
こちらは姪のヘレーネを描いた作品。この頃には既によく知る「クリムトの画風」の作品も描いている。しかしエミーリエやヘレーネの肖像画を見ると、あの画風に到達しなくてもクリムトは後世に名を残す画家になっていただろうと思う。
「ヘレーネ・クリムトの肖像」 1898年
クリムトは1894年にウィーン大学から「医学」「法学」「哲学」をテーマとした3つの天井画の依頼を受ける。今ではそれらはクリムトの代表作と見なされているものの、大学のアカデミックな期待と違って、世紀末的なクリムトワールド全開だったため当時は非難ごうごうに。最終的には取り外され、クリムトは報酬も返却した。その後に作品は個人に売却され、第二次世界大戦でナチスに没収され、ナチス撤退の際の火災で焼失。
展示されていたのは「医学」のために制作された下絵。これが何ともいえず惹きつけられる魅力があって、不気味な絵は苦手なのにしばらく見入ってしまった。
「医学のための習作」 1897〜98年
三部作で現存しているのは白黒の写真のみ。
実に残念な文化遺産の消失である。
「医学」 1899〜1907年
「法学」 1899〜1907年
「哲学」 1899〜1907年
(この写真は展覧会の展示作品ではない)
ーーー続く
「男性裸体像」 1883年
いきなりの男性ヌードでビックリした? 会場では同じような作品が3点展示されていて私もビックリした。もっとも男性ヌードにも駆け出しの頃のクリムトの作品にも興味はない。だからチラッと見るだけにしようと思った。しかし考えてみると男性ヌードを見る機会はあまりない。それでこれも勉強と列に並んでじっくり見ることに。
ところでクリムトの展覧会には若い女性客が多い。行列で彼女らに挟まれて3本のチンチンを見るのは妙な気分。下半身というくらいでアレは下についているイメージがあるが、考えてみれば身体のほぼ中央にある。つまり絵だと画面センターに位置するから、接近するとドーンと目に飛び込んでくる(^^ゞ とりあえず構図の勉強にはなったかも。
クリムトは劇場装飾の仕事でアーチストとしてのキャリアをスタートさせた。次の2つはその頃の作品。天井画や緞帳(どんちょう)のための下絵だからラフな仕上がり。でも制作の舞台裏をのぞいているようで楽しめた。
「音楽の寓意のための下絵(オルガン奏者)」 1885年
「カールスバート市立劇場の緞帳のためのデザイン」 1884〜85年
今まで模写とは画家が修業のためにするものと思っていたが、この展覧会で仕事としての模写もあると知った。絵が傷んできたとか、複製でもいいから名画を飾りたいなどがそのニーズ。展示されていたのはクリムトが城の室内装飾の一環として引き受けたティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」を模写した作品。
イザベラ・デステはルネサンス期の有名な女性で、ダ・ビンチやルーベンスも肖像画を描いている。ティツィアーノの本物を見たことはないけれど、クリムトの模写はわずかに顔がふっくらしているかな。
ところでクリムトの模写の画像はいいのがなかったので、ここに貼っているのは本家ティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」。精巧な模写だからブログの小さなサイズじゃ変わりないって。
「イザベラ・デステの肖像」 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1536年
クリムトが模写したのは1884年
ちなみにティツィアーノが描いた時、イザベラ・デステは60歳過ぎ。しかし彼女は40歳若く描くように依頼したという。なんとご無体な(^^ゞ
当時の他の画家の作品を何点か。
ウィーンは音楽の都で絵のイメージはあまり持っていなかったものの、なかなかイイ感じ。
「装飾的な花束」 ハンス・マカルト 1884年
「アトリエ」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「室内にいる日本の女」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「アトリエ」は日本&中国的な雰囲気で「室内にいる日本の女」はもちろんはっきりと日本をテーマにしている。描かれている女性はヨーロッパ各地で公演をしていた劇団の踊り子らしい。芸者と説明している資料もある。それにしても明治の初めにもうヨーロッパ公演をしている人達がいたんだ。
この頃のヨーロッパはジャポニスムがブーム。有名なのは印象派の画家たちだがクリムトもかなりの影響を受けたとされる。
次の絵はクリムトと日本文化の関わりを示す最も初期の作品といわれている。絵を見てどこが?と思うでしょ。もっとじっくり絵を見てーーーもわかりません。なぜならその理由は額縁に日本的な植物が描かれているから。ちょっと反則やわ(^^ゞ 描かれているのは前回に紹介したクリムトのパートナーであるエミーリエ・フレーゲ。
「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」 1891年
こちらは姪のヘレーネを描いた作品。この頃には既によく知る「クリムトの画風」の作品も描いている。しかしエミーリエやヘレーネの肖像画を見ると、あの画風に到達しなくてもクリムトは後世に名を残す画家になっていただろうと思う。
「ヘレーネ・クリムトの肖像」 1898年
クリムトは1894年にウィーン大学から「医学」「法学」「哲学」をテーマとした3つの天井画の依頼を受ける。今ではそれらはクリムトの代表作と見なされているものの、大学のアカデミックな期待と違って、世紀末的なクリムトワールド全開だったため当時は非難ごうごうに。最終的には取り外され、クリムトは報酬も返却した。その後に作品は個人に売却され、第二次世界大戦でナチスに没収され、ナチス撤退の際の火災で焼失。
展示されていたのは「医学」のために制作された下絵。これが何ともいえず惹きつけられる魅力があって、不気味な絵は苦手なのにしばらく見入ってしまった。
「医学のための習作」 1897〜98年
三部作で現存しているのは白黒の写真のみ。
実に残念な文化遺産の消失である。
「医学」 1899〜1907年
「法学」 1899〜1907年
「哲学」 1899〜1907年
(この写真は展覧会の展示作品ではない)
ーーー続く
2019年07月07日
クリムト展 ウィーンと日本 1900
先日に見てきたクリムトの展覧会。
上野公園のさくら通りでアジサイを眺めて、ついでに上野公園には桜が53品種もあることを知ってビックリした後に東京都美術館。窓に大きなポスターのある定番の撮影ポイント。
敷地内に入ると20分待ちの表示。
平日の午後3時前なのに。クリムトは人気あるんだ。
この美術館の入り口には大きな金属球があって(最初の写真にも写っている)、初めて来た人は必ず写真を撮るくらいの人気アートになっている。しかしもう撮り飽きたので、今回はすぐそばにあるこちらを。
金属球は井上武吉の「my sky hole 85-2 光と影」で、こちらは堀内正和の「三本の直方体 B」。周囲を1分ほど観察してみたものの、人気者の金属球に対して直方体は写真撮影はおろか目をやる人もいない Ω\ζ゜)チーン
ちなみに私はこういうインスタレーション(大型の置物アート)の良さがわからないというか、今までビビッとくるものに出会ったことがないというか、正直にいうとクダランと毛嫌いしている。そこそこの日本庭園にある庭石より優れたインスタレーションがあるなら、ぜひ見に行きたいとは思っているのだが。
美術館の中に入るとチケット売り場はそれほど混雑しておらず。セブンイレブンで事前に購入してあったが、あれは操作に結構時間がかかるので、ここで買った方がよかったかも。
「ラファエル前派の軌跡」の展覧会で書き忘れた話を。
あの時もセブンイレブンでチケットを買っていた。しかし受付で「このチケットでは入場できないのでチケット売り場で当館発行のものと交換してください」と言われた。つまりチケットを持っていてもチケット売り場で並ばなくてはならず、まったく事前に買った意味がない。あの展覧会では企画内容にさんざんケチをつけたが、そういうところもおかしいゾ三菱一号美術館。
とりあえず行列に並ぶ。
行列の途中にトイレがあるからか、ここでいったん行列が分断される。先に進めた人たちは左側に曲がっていく。ただし行列を止めた係員は、ずっとここにいるわけではないので、この行列を右から追い越して素知らぬ顔で左方向に行くことは可能。何人かそういう人もいたように思う。もちろん私は並んだよ。
左に曲がるとドッと混んでいた。
それでもほぼ案内通り20分弱で会場に入れた。
さてクリムト。
一番有名なのはこの「接吻」かな。(今回の展示作品じゃない)
どこか退廃的でちょっとエロい作風が私の好みである(^^ゞ そして印象の強い絵だから、なんとなくよく知っているつもりだったけれど、改めて考えてみるとそうでもない。それほど多くの作品を覚えているわけでもない。彼についてはほとんど知識がない。
調べてみると、
グスタフ・クリムトは1862年生まれのオーストリア人。
参考までに明治維新が1868年、第1回の印象派展覧会が1874年ね。
工芸学校で伝統的な教育を受け、卒業後は劇場装飾の仕事でキャリアを重ね成功する。
途中いろいろとあったが、1897年に保守的な美術家組合を嫌ってウィーン分離派を
結成し、その初代会長を務める。
またいろいろあって1905年にウィーン分離派を脱退。その前後がクリムトというと
連想する金箔を使った世紀末的な作風の時期。上の「接吻」は1908年の制作。
1918年、55歳でスペイン風邪をこじらせて亡くなる。
クリムトでよく紹介されるのが50歳くらいの頃の写真。
ハゲ散らかしたウダツの上がらないオッサンにしか見えないが。
このクリムトが着ている服は彼自身がデザインした作業着で、その下はスッポンポンだったといわれている。まあ、それくらいはヘンタイじゃないとあの官能的な絵は描けないか。
かっこよく撮れている写真も載せておこう。
ところでクリムトはエミーリエ・フレーゲという女性をパートナーとしていた。出会ったのは20歳代の後半で、亡くなるときも彼女に看取られている。しかし2人の関係はプラトニック。結婚もしていない。そしてクリムトにはたくさんの愛人がおり、産ませた子供がなんと14〜15人もいたらしい。 並のヘンタイじゃなかったクリムト!←尊敬の念
エミーリエとクリムトのツーショット。「接吻」は彼女がモデルで、描かれている男性もクリムト自身だと言われている。絵には髪の毛あるけど?
ーーー続く
上野公園のさくら通りでアジサイを眺めて、ついでに上野公園には桜が53品種もあることを知ってビックリした後に東京都美術館。窓に大きなポスターのある定番の撮影ポイント。
敷地内に入ると20分待ちの表示。
平日の午後3時前なのに。クリムトは人気あるんだ。
この美術館の入り口には大きな金属球があって(最初の写真にも写っている)、初めて来た人は必ず写真を撮るくらいの人気アートになっている。しかしもう撮り飽きたので、今回はすぐそばにあるこちらを。
金属球は井上武吉の「my sky hole 85-2 光と影」で、こちらは堀内正和の「三本の直方体 B」。周囲を1分ほど観察してみたものの、人気者の金属球に対して直方体は写真撮影はおろか目をやる人もいない Ω\ζ゜)チーン
ちなみに私はこういうインスタレーション(大型の置物アート)の良さがわからないというか、今までビビッとくるものに出会ったことがないというか、正直にいうとクダランと毛嫌いしている。そこそこの日本庭園にある庭石より優れたインスタレーションがあるなら、ぜひ見に行きたいとは思っているのだが。
美術館の中に入るとチケット売り場はそれほど混雑しておらず。セブンイレブンで事前に購入してあったが、あれは操作に結構時間がかかるので、ここで買った方がよかったかも。
「ラファエル前派の軌跡」の展覧会で書き忘れた話を。
あの時もセブンイレブンでチケットを買っていた。しかし受付で「このチケットでは入場できないのでチケット売り場で当館発行のものと交換してください」と言われた。つまりチケットを持っていてもチケット売り場で並ばなくてはならず、まったく事前に買った意味がない。あの展覧会では企画内容にさんざんケチをつけたが、そういうところもおかしいゾ三菱一号美術館。
とりあえず行列に並ぶ。
行列の途中にトイレがあるからか、ここでいったん行列が分断される。先に進めた人たちは左側に曲がっていく。ただし行列を止めた係員は、ずっとここにいるわけではないので、この行列を右から追い越して素知らぬ顔で左方向に行くことは可能。何人かそういう人もいたように思う。もちろん私は並んだよ。
左に曲がるとドッと混んでいた。
それでもほぼ案内通り20分弱で会場に入れた。
さてクリムト。
一番有名なのはこの「接吻」かな。(今回の展示作品じゃない)
どこか退廃的でちょっとエロい作風が私の好みである(^^ゞ そして印象の強い絵だから、なんとなくよく知っているつもりだったけれど、改めて考えてみるとそうでもない。それほど多くの作品を覚えているわけでもない。彼についてはほとんど知識がない。
調べてみると、
グスタフ・クリムトは1862年生まれのオーストリア人。
参考までに明治維新が1868年、第1回の印象派展覧会が1874年ね。
工芸学校で伝統的な教育を受け、卒業後は劇場装飾の仕事でキャリアを重ね成功する。
途中いろいろとあったが、1897年に保守的な美術家組合を嫌ってウィーン分離派を
結成し、その初代会長を務める。
またいろいろあって1905年にウィーン分離派を脱退。その前後がクリムトというと
連想する金箔を使った世紀末的な作風の時期。上の「接吻」は1908年の制作。
1918年、55歳でスペイン風邪をこじらせて亡くなる。
クリムトでよく紹介されるのが50歳くらいの頃の写真。
ハゲ散らかしたウダツの上がらないオッサンにしか見えないが。
このクリムトが着ている服は彼自身がデザインした作業着で、その下はスッポンポンだったといわれている。まあ、それくらいはヘンタイじゃないとあの官能的な絵は描けないか。
かっこよく撮れている写真も載せておこう。
ところでクリムトはエミーリエ・フレーゲという女性をパートナーとしていた。出会ったのは20歳代の後半で、亡くなるときも彼女に看取られている。しかし2人の関係はプラトニック。結婚もしていない。そしてクリムトにはたくさんの愛人がおり、産ませた子供がなんと14〜15人もいたらしい。 並のヘンタイじゃなかったクリムト!←尊敬の念
エミーリエとクリムトのツーショット。「接吻」は彼女がモデルで、描かれている男性もクリムト自身だと言われている。絵には髪の毛あるけど?
ーーー続く
2019年07月03日
初めての入院 その14 大腸がん検診を受けることに
前回から2週間たった昨日、退院してから4回目の通院。
課題だった血液検査は無事クリア\(^o^)/
ただしまだ終了とはならず、FZ医師の強い勧めもあって大腸がん検診を受けることになった。大腸がんが今回の症状を引き起こした疑いもなくはないというのと、年齢的に受けておくべきというのが主な理由。
何歳から大腸を検診すべきなのかよく知らないが、そういえば私の友人にも年に1回の定期検診を受けているという人は何名かいる。がんが見つかったら見つかったで困るが、ここは覚悟を決めてというところ。
大腸がん検診というのは肛門から内視鏡を挿入して行う(>_<) それは知っていたのだが、ビックリしたのは検査前に飲む下剤の量。考えてみれば当たり前で、ウンチがあったら大腸の様子を見られない。
まず検査前日の寝る前にヒマシ油というものを30ml飲む。なかなか強い下剤らしく寝ている間に数回催す可能性があるとのこと。
そして当日は自宅を出る前の4時間前から2時間前の2時間をかけて、ニフレックスという最強の下剤をなんと2リットルも飲む。これで腸の中のウンチを全部出し切るということ。最後は黄色い液体にならなければいけないらしい。自宅を出る2時間前までに服用を終了するのは下痢ピッピの状態では外出できないから(^^ゞ
私の検査は午前11時からで自宅を出るのは午前10時。ということは午前6時からニフレックスを飲み始める。前の晩にヒマシ油も飲むから、夜から朝までずっと下痢ピッピということになる。耐えられるかなあ。
課題だった血液検査は無事クリア\(^o^)/
ただしまだ終了とはならず、FZ医師の強い勧めもあって大腸がん検診を受けることになった。大腸がんが今回の症状を引き起こした疑いもなくはないというのと、年齢的に受けておくべきというのが主な理由。
何歳から大腸を検診すべきなのかよく知らないが、そういえば私の友人にも年に1回の定期検診を受けているという人は何名かいる。がんが見つかったら見つかったで困るが、ここは覚悟を決めてというところ。
大腸がん検診というのは肛門から内視鏡を挿入して行う(>_<) それは知っていたのだが、ビックリしたのは検査前に飲む下剤の量。考えてみれば当たり前で、ウンチがあったら大腸の様子を見られない。
まず検査前日の寝る前にヒマシ油というものを30ml飲む。なかなか強い下剤らしく寝ている間に数回催す可能性があるとのこと。
そして当日は自宅を出る前の4時間前から2時間前の2時間をかけて、ニフレックスという最強の下剤をなんと2リットルも飲む。これで腸の中のウンチを全部出し切るということ。最後は黄色い液体にならなければいけないらしい。自宅を出る2時間前までに服用を終了するのは下痢ピッピの状態では外出できないから(^^ゞ
私の検査は午前11時からで自宅を出るのは午前10時。ということは午前6時からニフレックスを飲み始める。前の晩にヒマシ油も飲むから、夜から朝までずっと下痢ピッピということになる。耐えられるかなあ。
2019年07月01日
黄色しか咲かないユリ
6月16日にピンクが初開花し21日には黄色も咲いたユリ。
さて、これからカラフルに楽しめるかと思っていたのだが、
ピンクは2つ咲いただけで、現在は黄色しか咲いていない。
それも黄色か白かはっきりしない色(/o\)
ちょっと期待外れ。
でもベランダに出るとユリの甘い香りがしていい気分になる。
ユリを育てるのは初めて。それで新しい発見があった。
開花したばかりのユリの雄しべは、こんな形で花粉もほとんどない。
まるでプラスチック製のように見えて固そう、触ったら指が切れそうにも思えるが、実際は草花的に柔らかい。
2日くらいで見慣れた雄しべの形になり花粉の量も増える。
形的に閉じて増えるのが不思議。
そして花粉が増えてしばらくたつと、雌しべから蜜のようなものが垂れてくる。受粉のために虫を誘っているのか、あるいは写真のように雄しべがくっつきやすくするためなのだろうか。
その蜜を指で取ってみるとイメージ通りかなりネバネバしている。
甘い香りが漂っているのだからと舐めてみると、まったく味はしなかった。
何事も試さずにはいられない性格(^^ゞ
ところで最初の写真でわかるようにユリはかなり背が高い。ベランダのフェンスの1m20cmを超える。それで茎が傾いてしまう。ユリが大きなことはわかっていたが、ユリ園で見たユリはまっすぐ立っていたので傾くとは思っていなかった。
ネットで調べると支柱を添えろと書かれているものもあったが、もはや手遅れ。それにそんなに長い支柱も持っていない。というわけで何本かの茎はベランダから伸ばした紐で引っ張っている。
しかしフェンスに頭を突っ込んだり、
もたれかかって楽をしようとするヤツがいたり。
またユリ園で見ていたのと違って下向きに花が咲くのも想定外。
ユリ栽培初体験なので何かと悪戦苦闘中である。
さて、これからカラフルに楽しめるかと思っていたのだが、
ピンクは2つ咲いただけで、現在は黄色しか咲いていない。
それも黄色か白かはっきりしない色(/o\)
ちょっと期待外れ。
でもベランダに出るとユリの甘い香りがしていい気分になる。
ユリを育てるのは初めて。それで新しい発見があった。
開花したばかりのユリの雄しべは、こんな形で花粉もほとんどない。
まるでプラスチック製のように見えて固そう、触ったら指が切れそうにも思えるが、実際は草花的に柔らかい。
2日くらいで見慣れた雄しべの形になり花粉の量も増える。
形的に閉じて増えるのが不思議。
そして花粉が増えてしばらくたつと、雌しべから蜜のようなものが垂れてくる。受粉のために虫を誘っているのか、あるいは写真のように雄しべがくっつきやすくするためなのだろうか。
その蜜を指で取ってみるとイメージ通りかなりネバネバしている。
甘い香りが漂っているのだからと舐めてみると、まったく味はしなかった。
何事も試さずにはいられない性格(^^ゞ
ところで最初の写真でわかるようにユリはかなり背が高い。ベランダのフェンスの1m20cmを超える。それで茎が傾いてしまう。ユリが大きなことはわかっていたが、ユリ園で見たユリはまっすぐ立っていたので傾くとは思っていなかった。
ネットで調べると支柱を添えろと書かれているものもあったが、もはや手遅れ。それにそんなに長い支柱も持っていない。というわけで何本かの茎はベランダから伸ばした紐で引っ張っている。
しかしフェンスに頭を突っ込んだり、
もたれかかって楽をしようとするヤツがいたり。
またユリ園で見ていたのと違って下向きに花が咲くのも想定外。
ユリ栽培初体験なので何かと悪戦苦闘中である。