2019年08月

2019年08月23日

Macとテレビをつないでみたけれど その3

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前回に書いたようにこのような警告が出た。
iTunesストアでレンタルした映画をiMacだけで再生していたときは問題がなかったから、「ディスプレイのうちの1台」がテレビなのは明白である。しかしテレビはHDCPに対応しているはず。

誤作動かも知れないので、とりあえずまずはパソコンの再起動。テレビも電源をいったん抜いてみた。またiMacにはThunderbolt 3のポートが2つ、テレビにはHDMIのポートが3つある。ケーブルを別のポートに挿し変えてその組み合わせも試した。結果は同じ。

不思議なのは最初に警告がでたのは映画を再生して数分後だったのに、2度目からは再生直後に警告が出るようになったこと。どこかに情報が記録されたのか。というかHDCPに引っ掛かったのなら数分間も再生できたことのほうがおかしいが。


ネットで調べると似たようなケースはいろいろ見つかった。ただしパソコンのモニターで見られなくなったというものが多い。パソコン用のモニターはHDCPに対応しているとは限らないからテレビに接続した私のケースとは異なる。

さらに調べた。
結論から書くとiMacとテレビを接続させている「USB Type-CとHDMIの変換ケーブル」がHDCPに対応していない可能性が出てきた。これはちょっと想定外。HDMIの規格はHDCPの規格に準拠しているというか、それを内包しているものだと思っていたから。

推測だが、おそらく普通のHDMIケーブル(両端ともコネクタがHDMI)なら問題ない。その主な用途はDVDやブルーレイなどのプレーヤーをテレビと接続する、つまり著作権保護されたコンテンツを見ることだからHDCPに対応していなければ話にならない。しかし私が購入した「USB Type-CとHDMIの変換ケーブル」はパソコンとパソコン用モニターを接続することを前提とした商品なのだろう。普通にパソコンを使うには著作権保護は関係ないからHDCPの機能を外してコストダウンしているのかも知れない。


再度アマゾンで商品を探す。変換ケーブルはほとんどが1.8mで、その中にはHDCP対応をうたったものもあった。しかし3mのケーブルは商品が少なく対応しているものはナシ。仕方ないのでHDCPに対応したUSB Type-CとHDMIの変換「アダプター」と、単体のHDMIケーブルの組み合わせで購入。これでケーブルに関してHDCPの問題はクリアできるはず。
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しかし気になることがあった。変換アダプターの説明文に「HDCP2.2対応でiTunesの視聴に問題ない」と書かれていること。
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HDCPにもバージョンがあって2.2というのは4Kのコンテンツの保護のための規格。現在販売されている4KテレビはHDCP2.2に対応しているが、自宅のテレビは数年前に購入した2Kのハイビジョンテレビである。時期的に考えても1つ前のHDCP1.1にしか対応していない可能性がある。

iTunesストアの映画はHDCP2.2で保護されているのか? だとしたらケーブルの問題をクリアできても、今度はテレビがネックになって再生できなくなる。iTunesストアとHDCPのバージョンの関係については調べてもよくわからなかった。

まっ、もし再生できなかったら返品できるだろうと発注。


商品が到着。
接続した。
iTunesストアでレンタルした映画は問題なく再生できた。
最初の5分くらいは、また止まるんじゃないかとヒヤヒヤした。


結果オーライで目的は果たせたので、iTunesストアの映画はHDCPのどのバージョンで保護されているのか、また自宅のテレビがHDCP2.2に対応しているのかどうかも調べていない。だから技術的に確かな情報とはいえないけれど、とりあえずパソコンとテレビをつないで映画などを見るなら、HDCPのことも考えましょうというのが、この顛末記の結論。


映画三昧のはずの夏休みが、ケーブルの配達待ちに時間を取られて残念。


おしまい

wassho at 23:37|PermalinkComments(0) 生活、日常 | 映画、ドラマ、文学

2019年08月22日

Macとテレビをつないでみたけれど その2

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iMacにはThunderbolt 3(サンダーボルト スリー)というポート(端子)があって、そこから映像や音声の信号を出力できる。Thunderbolt 3は簡単に説明するのが難しので、とりあえずコネクタの形状はUSB Type-Cと同じということだけを書いておく。

テレビのポートはHDMIである。ということは片側がUSB Type-Cで、反対側がHDMIのコネクタになっている、いわゆる変換ケーブルでiMacとテレビをつなげばいいことになる。

もっともデジタル機器を接続するには「通信方式」「ケーブル」「コネクタ」のそれぞれの規格が関連していてややこしい。コンセントが遠かったら延長コードを足せばいいというようなわけにはいかない。そういうことはいろいろと経験してきたが、パソコンとテレビを接続するなんて、それほど難しい要素はなさそうだったのであまり深く検討しなかった。まあ面倒だったというのが正直なところ。


アマゾンで探してみる。USB Type-CとHDMIの変換ケーブルはほとんどが1.8mの長さだった。主に使用されるのがノートパソコンに外部モニターを接続したり、あるいはスマホとテレビをつなぐ用途だからだろう。私が必要だった3mの変換ケーブルは数種類しかなかった。

とりあえず選んだのがこれ。
MacLabというブランドだがAppleやMacとは関係ない。
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接続した。
何も設定しなくても、あっさりとパソコンの画面がテレビにも表示された。ただし音声はコントロールパネルで出力先を内蔵スピーカーからテレビに切り替える必要がある。

新しくiTunesストアでレンタルした映画を再生する。
問題なし。

やはりiMacとテレビの大画面では迫力が違う。またテレビの音声はDAC(デジタル・アナログ・コンバーター)という機器を介してオーディオで鳴らせるようにしてあるので臨場感も増した。

ーーーと喜んでいたのだが、
数分が経過したところでこんな警告が表示されて再生が止まった。
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警告に書かれているHDCPというのは映像の著作権を保護するための技術規格。平たくいえばコピー作成の防止。デジタルなものはコピーしても劣化しないので、ブルーレイのAACSや地デジのCPRMなど様々なコピー防止規格がある。でも地デジ対応のテレビ、ということは現在ではすべてのテレビはHDCPに対応しているはずなのに。ナゼ?


ーーー続く

wassho at 23:54|PermalinkComments(0) 生活、日常 | 映画、ドラマ、文学

2019年08月21日

Macとテレビをつないでみたけれど

前回に書いたように最寄りのTSUTAYAが閉店していたので、
iTunesでビデオを借りることにした。

iTunes(アイ・チューンズ)というのはAppleが提供する音楽や動画の再生ソフトであり、それらのファイルの管理ソフト。そしてiTunesストアというのと連動していて音楽ファイルの購入、動画ファイルなら購入とレンタルができる。Macには標準でインストールされているがWindows版もある。

購入とはファイルをダウンロードすること。レンタルもダウンロードするのは同じだが、レンタルしてから30日以内が再生可能期間で、かつ一度再生すると48時間後には再生できなくなるという仕組みになっている。ちなみにダウンロードしたファイルは再生48時間後に自動的にパソコンから削除される。

動画(映画)のレンタル料金は新作が500円で旧作が400円。タイトルによっては200円のものもある。TSUTAYAは5枚で1000円だから較べると割高。でも5枚借りてもすべて見ないことも多かった。だから見るものだけを選んで、店に借りに・返しに行かなくていい利便性を考えれば納得できる価格。

ところでiTunesは2001年に誕生し、音楽のダウンロード販売という業態を築いて音楽業界の構造を変えた。CDが売れなくなったのはその影響。しかしダウンロード販売より定額聴き放題サービスが受け入れられるようになって、その栄光も今は昔。近々AppleはiTunesを廃止して別のアプリやサービスに置き換えるらしい。世の中の動きは激しいね。



とりあえず1本レンタルした。
ファイルは3〜4ギガのサイズなのでダウンロードには少し時間がかかるが、ファイルの一部がダウンロードされた段階でiTunesに表示され再生が可能だった。

見た。
自宅で使っているiMacは21インチ。画角というか目に映る画面の広さでいえば、ソファに座って離れて見るテレビより、デスクで間近に見るiMacのほうが大きい。

だから迫力的なことは問題ないかなとも思っていたのだが、実際にはかなり違った。やはり絶対値が大事。考えてみればスマホの画面を顔に近づけても大画面の迫力を味わえるわけではないから当たり前。それにソファと違って椅子ではくつろげない。

ということでiMacとテレビを接続して、テレビの画面で見ようということに。
それが一筋縄ではいかなかったのである。


ーーー続く

wassho at 21:06|PermalinkComments(0) 生活、日常 | 映画、ドラマ、文学

2019年08月20日

TSUTAYAが閉店していた

暑いし、もう元気なつもりだけれど、いちおう病み上がりだし、
今年の夏休みは自宅に引きこもって映画鑑賞三昧で過ごすことにした。
それで駅前の商店街にあるTSUTAYAへ行くとーーー

   なくなってた(/o\)

ネットを使った配信サービスに押されて、CDやDVDのレンタルという業態が時代に合わなくなり、TSUTAYAがかなりのペースで閉店しているのはなんとなく知っていた。でもまさか地元のTSUTAYAが閉店しているとは。かなり規模の大きい商店街なのに。


調べてみると閉店したのは2月。今まで気づかなかったのはTSUTAYAが駅から自宅への反対方向にあって普段はその前を通らないから。それと最近はあまり利用していなかった。

以前は月に1回は何か借りていたかな。しかし4年ほど前に買い換えたテレビは、全チャンネルの1週間分くらいの放送を自動的に録画する機能が付いている。リモコンを操作すると放送された映画がズラッと出てくるので、そちらを見ることが多くなった。それと前にも書いたが、自動録画とは別にEテレの教育番組をかなり録画しているので、それを見るのに忙しくて。

ちなみに今1番おすすめなのは高校講座の生物基礎。昨年に番組が改訂され(今年はその再放送)、教科書解説的なものから研究者が熱く語る内容になった。遺伝子や免疫のことなど、けっこう知的好奇心を刺激される。それにしても高校生だった頃の生物の授業ってまったく思い出せない。


話をTSUTAYAに戻すと隣の駅のお店はまだある。上り下り共に2駅先でも営業中。でも電車に乗ってまでDVDを借りに行く気にもなれず。絶対に見たいタイトルがあったわけでもないので。

それでiTunesの配信でレンタルすることにした。
そしていろいろ発見があったというか、ちょっと無駄遣いしたというか。


ーーー続く


ツタヤ


wassho at 20:19|PermalinkComments(0) 生活、日常 | 映画、ドラマ、文学

2019年08月12日

ウィーン・モダン展 その5

そしてエゴン・シーレ。
なぜかフルネームで呼ばれることが多い画家。

28歳で夭折したエゴン・シーレは1890年生まれで1918年に没。ちなみに彼の師匠的立場だったクリムトは1862年生まれで28歳年上。亡くなったのは同じく1918年。

独自の画風を確立したということではクリムトと双璧。そしてどちらもエロスをテーマに多くの作品を描いた。しかし師匠と弟子で方向性はまったく違う。クリムトがエクスタシーを感じさせる美しさがあるのに対して、エゴン・シーレはひたすら陰キャで閉鎖感のある画風。そしてどこか攻撃的というかトゲトゲしい。

それと関係あるのかどうか、彼の性格はサイコパスというか中二病というかやっかいなタイプ。また女性に対してはまったくのゲス野郎。4歳年下の妹とデキていたし、同棲して内助の功があった恋人を捨てて金持ちの娘と結婚した。しかも恋人には結婚後も定期的に付き合おうと提案。おまけに嫁の姉とも肉体関係が続いた(>_<)


なお、この展覧会では「当たり障りのない」作品が多かったと思う。もっとエゴン・シーレの毒に当たって暗〜い気分になりたかったのに。



「自画像」 1911年
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この展覧会で唯一の「The エゴン・シーレ」的な作品。陰キャ全開で重苦しい。なぜか彼は指を長く直線的に描くことが多い。



師匠はクリムトだったが心酔していたのはゴッホだったようで、次の2つはその影響ありあり。ゴッホのひまわりもどこか暗い影があるが、エゴン・シーレのそれは生命力を否定するレベル。

「ひまわり」 1909-10年
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「ノイレングバッハの画家の部屋」 1911年
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単なる肖像画ではなく目に見えない何かを「強調した」描き方。こういうのを表現主義というらしい。目に見えるものだけを描いた印象主義との対立概念。エゴン・シーレは表現主義の代表的画家。もっとも1画家=1画風ではないので、彼もいろいろな絵を描いている。

ところで目に見えない何が強調されているのかわからないのだけれど(^^ゞ、アルトゥール・レスラーはカッコイイね。

「美術評論家アルトゥール・レスラーの肖像」 1910年
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「イーダ・レスラーの肖像」 1912年
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「オットー・ヴァーグナーの肖像」 1910年
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痛々しく陰鬱なエロティシズムがエゴン・シーレの醍醐味だと思っているので、そういう油絵作品がなかったのが残念。素描でその匂いを少しは感じられるものを2点紹介しておく。

「男性裸像」 1912年
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「模様のある布をまとい背を向けた裸体」 1911年
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エゴン・シーレ濃度の高い作品はなかったけれど、それでもダークな気分になってきたかな。口直しに、彼はポストカード用にこんなファッショナブルな絵も描いている。

「女の肖像 ウィーン工房ポストカードNo.289」 1910年
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最初のエントリーに書いたように、この展覧会は絵画展というより19世紀末を中心としたウィーン文化展。展示数は約400点で一般の展覧会の2倍。とても見応えがあった。ウィーン・ミュージアムが2023年まで閉鎖中にオーストリア系の展覧会が増えるといいな。


おしまい

wassho at 12:31|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月11日

ウィーン・モダン展 その4

先月のクリムト展で、クリムト以外のウィーン画家の絵をいろいろ楽しめた。
今回はハンス・マカルトをよく知ることができたのが最大の収穫。
それ以外で一番目だっていたのはこれかな。


「黄色いドレスの女性(画家の妻)」 マクシミリアン・クルツヴァイル 1899年
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ポーズが斬新というかナゾというか。無表情な顔が印象的で、この絵の前に立つとなんとなく叱られているような気分にもなってくる。それにしてもウエストが細いね。ただし、いい絵なんだけれど実物は肌の色がやたら白くて、とても厚化粧に見えて少し違和感があった。おそらく絵の具も厚く塗られている。

それでもこの絵はインパクトがあって目に焼き付く。それはおそらく黄色いドレスの色が強烈だからーーーと思い、夏休みの自由研究ということでドレスを地味な色にしてみた。
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意外とインパクトは変わらない。
女性の表情やポーズに存在感があるということか。

ところで画像ソフトをいじっていると、普通に絵を眺めているだけでは見過ごすようなことに気づく。それはスカートの形。生地をソファに広げているが、この生地の分量が多すぎない? この広がりはおそらく絵としての創作で、この分量でスカートのデザインは成り立たないと思うのだが。誰か自由研究で裁縫してみて。



そのほかの画家アレコレ。
印象派系統の画風で、どことなく優しい感じがするのが、
この頃のウイーン絵画の特徴かな。


「コーヒー工場にて」 1900年 カール・モル
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「朝食をとる母と子」 1903年 カール・モル
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「画家の子供たち(レシとハンス) 1902年 フランツ・フォン・マッチュ
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「ゾフィーエンザールの特別席」 1903年 ヨーゼフ・エンゲルハルト
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ーーー続く

wassho at 09:21|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月09日

ウィーン・モダン展 その3

さてクリムト。

彼のことは先月の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」でたくさん書いたので、今回はあっさりと。まあ私の好みのクリムト作品がなかったせいもある。

なおヌードを中心に素描が50点近く展示されていた。いつも思うのだが素描を熱心に眺めている人って、よほど絵心があるのかなあ。ごく普通レベルの美術好きの私には、素描を見ても大して楽しくなくチラ見するだけなんだけれど。


次の2つは1883年〜84年の制作だから、まだクリムトが駆け出しの頃。
これらは『アレゴリーとエンブレム』という図案集(書籍)のために描かれたもの。

「寓話 『アレゴリーとエンブレム』のための原画 No.75a」 1883年
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「牧歌 『アレゴリーとエンブレム』のための原画 No.75)」 1884年
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1888年はクリムトが27歳前後。
後のクリムトからは想像できないオーソドックスな画風である。

「旧ブルク劇場の観客席」 1888年
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開演前の雰囲気がよく表現されていて、一目見ただけでクリムトの力量が伝わってくる。こういう作品でハンス・マカルトの後継者ともくされたのだろうか。

ところで、これは取り壊される劇場の記録としてウィーン市議会から依頼されたもの。だから主役は劇場なのであるが、クリムトは観客を肖像画レベルに緻密に描き込んでいる。ほとんどが実在したウィーンの名士の面々で、その数100人以上。中には後にクリムトのパトロンになった人もいたらしいから、営業チャンスとばかりとして精を出したのかも(^^ゞ

一部を拡大して。
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こちらも図案集のための原画。
先の図案集の画風と較べてみると、あれから10年経ってクリムトがオリジナリティを確立したことがわかる。だんだんと世紀末の雰囲気が濃くなってイイ感じ。

「愛 『アレゴリー:新連作』のための原画No.46」 1895年
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「彫刻 『アレゴリー:新連作』のための原画No.58」 1896年
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「悲劇 『アレゴリー:新連作』のための原画No.66」 1897年
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「パラス・アテナ」 1898年
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クリムトは、1897年に保守派のウィーン造形芸術家協会と袂を分かってウィーン分離派を結成。翌1898年に分離派会館が開設。これは分離派会館で開かれた最初の展覧会に出展された作品。彼が1番尖っていた時期かな。

パラス・アテナはギリシャ神話の女神で、知恵、芸術、工芸などを司る。戦争とは関係ないのに、なぜかゼウスの頭頂部から武装して鎧をまとって出現したとされている。

この絵では槍?をもって戦闘意欲が満々。保守的な画壇との対決姿勢を示しているのだろう。でも黄金を多用したからギリシャ神話じゃなくインカ帝国の女神に見える。

ちなみに一般的なパラス・アテナの描き方はこんな感じ



「エミーリエ・フレーゲの肖像」 1902年
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クリムトの代表作のひとつとされ、この展覧会の目玉作品でもある。
でもなぜか私にはあまり響かず。クリムトに期待しているきらびやかさがないからかなあ。

なお、この作品のみ写真撮影が認められていた。
SNSによる拡散〜集客効果は無視できず、美術館は試行錯誤中なのだろう。
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ーーー続く

wassho at 08:53|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月07日

ウィーン・モダン展 その2

まずはモダニズムも世紀末も関係ないクラシックな作品からスタートする。展覧会で最初に出迎えてくれるのは、18世紀中頃に描かれたマリア・テレジアの肖像画。サイズも縦2メーター以上ありその威厳に圧倒される。


「マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)」 1744年 マルティン・ファン・メイテンス
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マリア・テレジアは650年続いた名門ハプスブルグ家の当主であり、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でもあったまさにヨーロッパの女帝。その生涯もドラマチックで、もしヨーロッパに大河ドラマがあれば何度も取り上げられているはずの人物。

参考までに緑色に塗られているのが1574年当時のハプスブルグ家の領土。この頃が最盛期。なおマリア・テレジアは1717年-1780年。フランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットは彼女の娘。
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ちなみに信長(1534年-1582年)は宣教師を通じてヨーロッパの情勢を得ていたといわれる。ハプスブルグ家のことも知っていたのかな。ひょっとしたらこんな地図に触発されて、日本統一の後はアジアへの野望をたぎらせていたりして。

もっともかつてはヨーロッパの半分を支配したハプスブルグ家=オーストリアであるが、今はあまり存在感のある国とはいえない。第1次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)と世界史で習ったが、どうもイメージがわかない。それに現在はG7はもちろんG20のメンバーでさえない。将来、日本がそうならないことを願おう(^^ゞ


あまり馴染みがないので、ついでに調べたオーストリアあれこれ。

  G20のメンバーでさえないと上から目線で書いたが、1人当たりGDPは5万6000ドルで
  世界第10位。3万9000ドルで24位の日本(/o\)より1.4倍も豊かである。

  永世中立国ってスイスだけだと思っていたらオーストリアもだった。ただしEUに
  加盟しているので形骸化しているらしいが。ほかにラオスやトルクメニスタンなどが
  永世中立国。

  同じくチロル地方はスイスをイメージするが、実はオーストリアとイタリアに
  またがる地域。

  人口は約900万人で、面積は北海道とほぼ同じ。

  ウィンナーソーセージはウィーン風のソーセージのこと。日本では農水省の規格で
  ソーセージの直径を基準にウィンナー(20mm未満)、フランクフルト(20-36mm)、
  ボローニャ(36mm以上)とヨーロッパの都市名をつけけて区分している。
  でもオーストリア、ドイツ、イタリアではそんな呼び方はしないから、これって
  けっこう恥ずかしいネーミング。

  コーヒーにホイップクリームを浮かべたウィンナーコーヒーもウィーンにはない。
  似たような飲み物はあるが名前が違う。何にでもウィンナー(ウィーン風という意味)と
  つけるのは、とりあえず京風とつければありがたみが増すのと同じ感覚なのかも
  しれない。

  アーノルド・シュワルツェネッガーはオーストリア人!

  オーストリアとオーストラリアを間違えるのは英語圏の人も同じらしい(^^ゞ


ところでオーストリアの首都ウィーンはモーツァルトやベートーヴェンが活躍した音楽の都である。ウィーンの画家はクリムトとエゴン・シーレしかとっさには思い浮かばないが、作曲家なら適当に名前を挙げればかなりの確率で正解になる。

それでビックリしたのがこの絵。
まさか音楽室に飾ってあったシューベルトの肖像画の本物に出会えるとは。

「作曲家フランツ・シューベルト」 1875年頃 ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー
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こんな絵もあった。私も夜会に参加したい!

「ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)」 
 1897年 ユーリウス・シュミット
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さて今回の展覧会で印象的だったのはクリムト展でも取り上げたハンス・マカルトの作品。

「1879年の祝賀パレードのためのデザイン画ーー菓子製造組合」 
 1879年 ハンス・マカルト
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これは皇帝夫妻の銀婚式祝賀パレードの演出を任されたマカルトが、こういうパレードにすると示したもの。言ってみれば企画書、絵コンテなのに、それがこのレベルなのが凄い。東京オリンピックの開会式演出もマカルトに担当して欲しいね(^^ゞ

しかも任命されたのが1879年1月でパレード実施が4月27日である。この作品は菓子製造組合向けのデザイン画だが、そのわずかな期間に、他のグループ向けにも合計35枚を仕上げたというから、その仕事の早さにもビックリする。

ブログでは小さく細長くしか表示されないから、一部を拡大して。
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少し遠目からは、すごく写実的で細密に見える。その場合、塗り絵的に描き込まれているのが普通。しかし拡大部分を見ればわかるように「タッチがある」というか「絵になっている」というか(うまく表現できないが)、そこにマカルトの技量とセンスを感じてシビれた。


マカルトの画風は私のツボにはまったみたい。次の3枚の肖像画は並べて展示されていたが、その場を立ち去りがたい気分になった。

「ドーラ・フルニエ=ガビロン」 1879-80年頃 
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「メッサリナの役に扮する女優シャーロッ ト・ヴォルター」 1875年
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「ハンナ・クリンコッシュ」 1884年以前
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そして、これはマカルトのアトリエを描いた作品。

「グスハウス通りのハンス・マカルトのアトリエ」 1885年 ルドルフ・フォン・アルト
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マカルトのアトリエはサロンやパーティー会場でもあり、また入場料を払えば見学できる観光名所でもあったらしい。そんなことをしていたオープンな画家は他にもいるのかな。この作品はマカルトの死後、アトリエを閉鎖する際にウィーン市の依頼によって記録として制作されたもの。それだけでマカルトの地位がわかるというもの。右下には上で紹介した「ハンナ・クリンコッシュ」が置かれている。


ハンス・マカルト(1840-1884)は「画家の王」と呼ばれていたらしい。ルーベンス(1577-1640)以降、最高の名声と富を得たともいわれている。その割に知らなかったなあ。クリムト(1862-1918)が影響を受けたとか、クリムトはマカルトの後継者という文脈ではよく見かけるけれど。

そこで美術関係者の皆さんに切なるお願い。
ウィーン・ミュージアムが休館中に是非とも大マカルト展の開催を!


ーーー続く

wassho at 22:04|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月06日

ウィーン・モダン展

訪れたのは8月1日。
美術館入り口の前に見慣れないものがあった。
茶室? 解説の類いは一切なし。

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いかにも「すごいアートだろう」とドヤ顔している作品。でも国立新美術館はガラスの建物としては相当にレベルが高い。それとセットじゃキャラが被り負けしている(^^ゞ 金閣寺の境内にでも展示すればよかったんじゃない?


先月は東京都美術館でクリムト展を見た。めずらしくオーストリアの展覧会が続く。これはウィーン・ミュージアムという大きな美術館が、今年の2月から改修工事で休館になり作品が貸し出されている模様。工事は2023年まで続くので、これから色々あるかも。

さて展覧会の正式なタイトルは

  日本・オーストリア外交樹立150周年記念
  ウィーン・モダン
  クリムト、シーレ 世紀末への道

と、やたら長い。またキャッチコピーが

  ウィーン世紀末の全貌を
  まだ、あなたは知らない。

と意味ありげである。

ところで英語のタイトルだとPath to Modernismと「世紀末」じゃないのだけれど。モダニズムより世紀末のほうがキャッチーだと考えたのか、あるいはクリムトやエゴン・シーレの紹介に世紀末という言葉がお約束になっているのか。
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この展覧会は絵画が基本となっているものの、18世紀中頃から19世紀末そして20世紀初頭のアートというかウィーンの文化のアレコレを紹介しようという意欲的、言い換えれば少々欲張った企画だった。

絵の他に展示されていたのはファッション、家具、食器、アクセサリー、建築関連、ポスターなど様々。興味深く面白かったが、ひと通り理解するには3回くらい訪れる必要があるかなあ。
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もちろん展覧会には1回しか行っていないし、すべてをブログにまとめるのは大変なので絵画を中心に書いていく予定。

絵画でメインになっているのは当然ながらクリムトとエゴン・シーレ。この展覧会には私の好きな金箔キラキラ(でかつ美しい)クリムトの作品は出展されていない。エゴン・シーレはゴツゴツした画風がちょっと苦手。だから当初は行くつもりはなかった。しかしクリムト展で、あまり馴染みのなかったクリムト以外のウィーンの画家の作品がよかったものだから、またそういう出会いがあるかなと期待して。


ーーー続く

wassho at 19:53|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月05日

ベンジャミンの矯正と剪定

2017年の7月に三つ叉になっていたベンジャミンの幹を1本切った。樹形を整えるというより、葉が上部で広がりすぎて、冬になって部屋に入れるときにスペースを取り過ぎるというのがその理由。

でもまだ幅広いし葉が多すぎる。
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幹をもう一本切るのはリスクが高そうな気がする。
それに途中から曲がってブサイクだ。

ベンジャミンは柔らかい木なので、2〜3本の幹をねじって1本に仕立てたものをよく見る。
みき


しかし、25年以上は経っているこの老木では無理。
それで2本の幹をロープで引っ張って間隔を狭くしてみた。これで上部の広がりを抑えるという作戦。それほど無理な力は加えていないが、だいたい半分くらいの間隔になった。
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それから葉っぱをチョキチョキ剪定。
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ちょっと切りすぎたかな。
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本当はこういう風に丸くカットしたかったのだけれど。
丸く

伸びたものを切るのではなく、形を整える剪定をしたのは初めて。
まあ、そのうち上手にカットできるようにになるでしょう。


剪定したのは約1ヶ月前の7月7日。
今のところ葉が枯れたりなどの影響は見られない。
多分問題ないだろう。

wassho at 07:50|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2019年08月04日

六本木で蝉

数日前、六本木の新国立美術館へ
ウィーン・モダン展を見に行った時のこと。

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美術館の敷地で蝉の抜け殻を見つけた。

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セミの抜け殻を見るなんて超絶に久しぶり。
しかも、それが六本木だなんて。
決して住みやすい環境じゃないのに昆虫はたくましいね。


ところで蝉といえば

   閑かさや
   岩にしみ入る
   蝉の声

という松尾芭蕉の俳句を思い出す。
侘び・寂びの極致のような作品である。
古来より蝉の鳴き声は日本人の心を揺さぶってきた。

でも蝉は「セックスしたい」とアピールしているだけなんだよな(^^ゞ

wassho at 08:28|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年08月02日

ポンピング効果

長梅雨の後、この1週間くらいで急に真夏らしくなってきた。本日の東京は最高気温35.1度を記録。37度や38度といった予想気温が連発されていた昨年に較べればまだマシだが、暑いことに変わりはない。


暑くなるといつも「立ち止まると汗が噴き出す」という現象に悩まされている。例えば駅まで歩いているときはそれほど汗をかかないのに、駅のホームで立ち止まった途端に汗が噴き出してくる。運良く電車が来たときにホームに着き、すぐ電車に乗ってその冷房が寒いと思うくらい効いていても同じように汗が吹き出す。

   身体を動かしているときのほうが暑いはずなのにナゼ?

ひょっとして異常体質かもと思っていた。まあ汗をかかないより、汗をかいたほうが健康なのだと自分を納得させていたけれど。


でも先日、この現象は科学的に説明できることを知った。

  服と身体の間には空気の層がある。
  これが体温で温められる(→暑い)
  身体を動かしていると暖められた空気が服の隙間から逃げる(→涼しい)
  身体の動きが止まると空気が逃げない(→暑い)

という理屈。
この身体の動きによって空気が押し出されることをポンピング効果という。

とりあえずは納得。異常体質じゃなくてよかった。冬はじっとしていると寒いとか、普通に歩いている程度でそんなに空気が循環するかといった疑問は残るが。


それで昨日、実験してみた。駅のフォームで両手で服をつまんでパタパタと。かなり激しくやったから挙動不審な人物と思われたかも(^^ゞ

     結果はビミョー

パタパタ効果で若干の涼しさはあったものの、汗の吹き出しは変わらず。これなら片手で扇子を使い、片手にハンカチを持って汗を拭ったほうがいいというのが結論。ザンネン


暑中見舞い代わりにUnsplashで拾ってきた涼しげなカクテルの写真でも。

Unsplash カクテル


wassho at 23:38|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年08月01日

全然と御前会議

言葉は生き物なので時代によってニュアンスや使い方が変わってくる。

例を挙げればきりがないが、例えば「むかつく」。かつては強い怒りを表す単語だったが、いつのまにか随分と軽いニュアンスでも使われるようになった。

使い方で変化したものに「全然」がある。以前は「全然ダメ」「全然違う」というように否定の強調として使われていたのに、今では「全然大丈夫」と肯定でも使われる。はやり言葉、若者言葉の段階を過ぎてアナウンサーでも言うようになったから、今日的用法として定着したと考えていいだろう。


ーーーという認識だったが、昨日に見たテレビ番組で新たな発見。

それは昭和天皇と戦争の関わりをテーマにした内容だった。1941年9月、太平洋戦争開戦の3ヶ月程前に、外交交渉継続か開戦かについての方針を決める御前会議(天皇臨席の会議)が開かれる。通常、御前会議で天皇は発言しないらしいが、この時は天皇から陸軍・海軍の責任者に質問が投げかけられた。

番組での彼らの発言を細かく覚えていないが、ここでそれは重要でない。とにかくまず海軍の責任者が「〜〜ということであります」と答えた。そして驚いたのは、次の陸軍責任者の発言が「海軍の考えと全然同じであります」という表現だったこと。

全然同じ? 全然と肯定系の組み合わせじゃないか。しかし陸軍高官が天皇に対しての発言である。言葉遣いを間違ったとは考えづらい。つまりこれは正しい日本語ということになる。


調べたところ「全然+肯定系」は明治時代には普通に使われていたらしい。夏目漱石の「それから」にも出てくるという指摘もあった。しかし、なぜか戦後になって「全然+否定系」しか使われなくなり、それが最近まで続いていたということ。

ふ〜ん
言葉は生き物ではあるけれど、まさか先祖返りすることもあるとはね。

wassho at 06:40|PermalinkComments(0) ノンジャンル