2021年08月
2021年08月31日
8月31日のサルスベリ 百日紅
写真は向かいのマンションに咲いているサルスベリ。
毎年7月の中頃からピンクの花を咲かせて借景を楽しませてくれる。
サルスベリの名前の由来は樹皮がツルツルしてサルでも滑り落ちるから。
本当に滑り落ちるかどうかは知らないけれど。
こちらは以前に神代植物園で撮った、まるで磨いたかのようなツルッツルッの幹。
サルスベリは百日紅と書いてサルスベリとも読むのだが、普通に読めばヒャク・ジツ・コウである。これは花の咲いている期間が100日間と長いことに由来する。もっともそんなには長く咲かない。それと台風が来れば、けっこう一気に散ってしまう。
さて本日は8月31日。
子供の頃なら夏休みが終わってしまうと絶望に暮れる日(^^ゞ
暑い日はまだあるにしても、2度目となるコロナの夏がそろそろ終わろうとしている。
昨年の暑中見舞いブログでは「コロナのせいで、今までの人生で一番おとなしく夏を過ごしております」と書いたが、今年の夏も似たようなもの。オリンピックで気が紛れたような、オリンピックの賑わいを感じられなくて、かえって落ち込んだような複雑な気分。今年は過ぎ去る夏を惜しむというより、夏が来た実感があまりしない(/o\)
そのコロナについては正直なところもう関心があまりないというか、冷めたというか、あれこれ・いちいち気にするのに疲れたというか。それでもネットやテレビを使う限り、コロナのことは否応なしに目や耳にするわけで。
様々な意見や議論があるが、ベースとなるのは
感染症としての医学的認識
(すごく脅威なのか、他の病気と較べてそうでもないのか)
対応として、封じ込め最優先か経済活動との両立を図るべきか
の掛け算のはず。それなら客観的事実を踏まえれば論理的に方向性が見えてきそうなものであるが、実際には
政権・政策に対する支持・不支持
の掛け算も加わるから、話が非論理的に複雑化して見えなくなる。
さらには、
オリンピック、パラリンピック
ワクチン
医療体制
などの要素が絡み、その上に「世間の空気」がフィードバックされて、収拾不能な状態になっている。混沌は増大し続けるというエントロピーの法則と呼ばれるものがあるが、その壮大な社会実験を体験しているようなもの。
それで幸いにも、私は首相でも政権幹部でもないので「もう諦めて、収まる時が来るまでおとなしくしてるわ」ということになる。選挙ならたった1票でも参加することに価値はあるが、コロナの議論は別にいいでしょう。
話は変わるが、ワクチンに対する信頼性を熟考したかったのだが、その判断材料も専門知識もなく、結局は悩むのが面倒くさくなって(^^ゞ 2週間ほど前にワクチンを打った。しかし
発熱
腕の痛み
倦怠感
といったいずれの副反応もまったくなし!
こうなると逆に心配になってくる。ワクチンを希釈する生理食塩水だけを間違って打ったというニュースもたまにあるし。もうすぐ2回目の接種になるが「今度こそ副反応が出ますように」と願うなんておかしなもの。
もうひとつ話は変わって、先日にたまたま見た刑事物のテレビドラマ。事件も解決してメデタシのエンディングは、刑事達5〜6名が行きつけの居酒屋のようなところで「お疲れえっス!」と生ビールのジョッキで乾杯。
それが、たまらなくうらやましかった。
普段なら気にもとめないシーンなのにーーー
コロナになんか特に影響を受けていないつもりだけれど、
ひょっとしてメンタルやられてる?などと思う夏の終わり。
さて9月になればどんな風が吹くかな。
毎年7月の中頃からピンクの花を咲かせて借景を楽しませてくれる。
サルスベリの名前の由来は樹皮がツルツルしてサルでも滑り落ちるから。
本当に滑り落ちるかどうかは知らないけれど。
こちらは以前に神代植物園で撮った、まるで磨いたかのようなツルッツルッの幹。
サルスベリは百日紅と書いてサルスベリとも読むのだが、普通に読めばヒャク・ジツ・コウである。これは花の咲いている期間が100日間と長いことに由来する。もっともそんなには長く咲かない。それと台風が来れば、けっこう一気に散ってしまう。
さて本日は8月31日。
子供の頃なら夏休みが終わってしまうと絶望に暮れる日(^^ゞ
暑い日はまだあるにしても、2度目となるコロナの夏がそろそろ終わろうとしている。
昨年の暑中見舞いブログでは「コロナのせいで、今までの人生で一番おとなしく夏を過ごしております」と書いたが、今年の夏も似たようなもの。オリンピックで気が紛れたような、オリンピックの賑わいを感じられなくて、かえって落ち込んだような複雑な気分。今年は過ぎ去る夏を惜しむというより、夏が来た実感があまりしない(/o\)
そのコロナについては正直なところもう関心があまりないというか、冷めたというか、あれこれ・いちいち気にするのに疲れたというか。それでもネットやテレビを使う限り、コロナのことは否応なしに目や耳にするわけで。
様々な意見や議論があるが、ベースとなるのは
感染症としての医学的認識
(すごく脅威なのか、他の病気と較べてそうでもないのか)
対応として、封じ込め最優先か経済活動との両立を図るべきか
の掛け算のはず。それなら客観的事実を踏まえれば論理的に方向性が見えてきそうなものであるが、実際には
政権・政策に対する支持・不支持
の掛け算も加わるから、話が非論理的に複雑化して見えなくなる。
さらには、
オリンピック、パラリンピック
ワクチン
医療体制
などの要素が絡み、その上に「世間の空気」がフィードバックされて、収拾不能な状態になっている。混沌は増大し続けるというエントロピーの法則と呼ばれるものがあるが、その壮大な社会実験を体験しているようなもの。
それで幸いにも、私は首相でも政権幹部でもないので「もう諦めて、収まる時が来るまでおとなしくしてるわ」ということになる。選挙ならたった1票でも参加することに価値はあるが、コロナの議論は別にいいでしょう。
話は変わるが、ワクチンに対する信頼性を熟考したかったのだが、その判断材料も専門知識もなく、結局は悩むのが面倒くさくなって(^^ゞ 2週間ほど前にワクチンを打った。しかし
発熱
腕の痛み
倦怠感
といったいずれの副反応もまったくなし!
こうなると逆に心配になってくる。ワクチンを希釈する生理食塩水だけを間違って打ったというニュースもたまにあるし。もうすぐ2回目の接種になるが「今度こそ副反応が出ますように」と願うなんておかしなもの。
もうひとつ話は変わって、先日にたまたま見た刑事物のテレビドラマ。事件も解決してメデタシのエンディングは、刑事達5〜6名が行きつけの居酒屋のようなところで「お疲れえっス!」と生ビールのジョッキで乾杯。
それが、たまらなくうらやましかった。
普段なら気にもとめないシーンなのにーーー
コロナになんか特に影響を受けていないつもりだけれど、
ひょっとしてメンタルやられてる?などと思う夏の終わり。
さて9月になればどんな風が吹くかな。
2021年08月30日
冷やしカップヌードル はじめました
何年か前に防災関連の情報として、もし電気やガスが止まってお湯が沸かせなくても、カップ麺などは時間をかければ水でも食べられるようになるということを知った。
その時は、おおそうなのか φ(.. )メモシテオコウ と思っただけだったが、
ひょっとしたらそれは暑い夏にもってこいの食べ物なのではとーーー
カップヌードルで試してみた。
メチャ美味しい\(^o^)/
とりあえず実験というか試食結果を報告しておくと、
1)
戻し時間は45分から60分くらいが適当。
30分ではまだ少し麺が固い。
2)
お湯での3分と較べて、麺がかなりスープを吸うので、カップからこぼれるギリギリくらいまで水を入れたほうがいい。あるいは食べる前に少し水を足す。
そうすると少し味は薄くなるが、カップヌードルの味はもともとかなり濃いので、私にはそれでちょうどいいくらい。
3)
15分ほど冷蔵庫に入れて少し冷たくしたほうが美味しい。
興味があったら試してみて。
また、おそらくこれは真夏のアウトドアでの食べ物としても最強なはず。
難点は調理時間?が1時間ほど掛かってしまうことだけれど、
まあ即席麺でスローライフもオツなものかと(^^ゞ
またカップヌードルだけでなく、ラーメンのカップ麺、どん兵衛などのうどんやそば、さらにはカップ焼きそばも水で作れるらしい。中身は同じだから袋麺でもOKなはず。でもスープ少なめのカップヌードルが「冷やし」には似合っている気がする。
ちなみに今年はカップヌードルの発売50周年に当たるとのこと。「冷やし」での食べ方を50年間知らなかったのは、ちょっと損した気分かも(^^ゞ
その時は、おおそうなのか φ(.. )メモシテオコウ と思っただけだったが、
ひょっとしたらそれは暑い夏にもってこいの食べ物なのではとーーー
カップヌードルで試してみた。
メチャ美味しい\(^o^)/
とりあえず実験というか試食結果を報告しておくと、
1)
戻し時間は45分から60分くらいが適当。
30分ではまだ少し麺が固い。
2)
お湯での3分と較べて、麺がかなりスープを吸うので、カップからこぼれるギリギリくらいまで水を入れたほうがいい。あるいは食べる前に少し水を足す。
そうすると少し味は薄くなるが、カップヌードルの味はもともとかなり濃いので、私にはそれでちょうどいいくらい。
3)
15分ほど冷蔵庫に入れて少し冷たくしたほうが美味しい。
興味があったら試してみて。
また、おそらくこれは真夏のアウトドアでの食べ物としても最強なはず。
難点は調理時間?が1時間ほど掛かってしまうことだけれど、
まあ即席麺でスローライフもオツなものかと(^^ゞ
またカップヌードルだけでなく、ラーメンのカップ麺、どん兵衛などのうどんやそば、さらにはカップ焼きそばも水で作れるらしい。中身は同じだから袋麺でもOKなはず。でもスープ少なめのカップヌードルが「冷やし」には似合っている気がする。
ちなみに今年はカップヌードルの発売50周年に当たるとのこと。「冷やし」での食べ方を50年間知らなかったのは、ちょっと損した気分かも(^^ゞ
2021年08月27日
冬のソナタと恋のフーガ その2
「どんな意味かを調べようと思ったが、ずっとほったらかしになっていたもの」のひとつであった「恋のフーガ」を、バッハの平均律クラヴィーアを聴いたことをきっかけに調べたのが前回の話。
ついでに音楽用語を使ったもので気になっていた「冬のソナタ」も調べてみた。
冬のソナタはご存じ韓流ブームの火付け役となった大ヒットドラマ。韓国人の名前は言葉ではなく音のように聞こえて覚えるのが苦手な私でも、ペ・ヨンジュンとチェ・ジウはすっかり耳に馴染んでスラスラ言える。ドラマそのものは一度も見たことがないのだが(^^ゞ
それにしても冬のソナタが日本で放送されたのが2003年で、あれからそろそろ20年も経つのかあ。まさに光陰矢のごとし、歳月人を待たずである。参考までにサッカーの日韓ワールドカップ共同開催は2002年だった。
さてソナタという音楽用語は、フーガと較べたら目や耳にする機会は多いと思うが、その意味を明確に答えられる人はクラシック音楽好きでも少ないかも知れない。もっとも意味を知らなくても特に困らない言葉ではある。
語源はイタリア語で「楽器によって演奏された曲」という意味らしい。なんじゃそりゃと思ってしまうが、対義語は歌が入った曲のカンカータ。昔(中世ヨーロッパ)は音楽といえばカンカータで、歌がなくて楽器だけの曲は少なかったので区別する必要があったようだ。
そしてソナタの意味合いは時代によって変化していく。面倒なのでそれは省略して、
現在の使われ方は主に2つ。
<その1>
楽器の独奏または二重奏という意味。
これが他の分野では見られない曖昧な言葉の使い方なのである。まずピアノソナタという場合はビアノの独奏を指す。しかしピアノ以外の楽器、例えばヴァイオリンソナタやチェロソナタでは独奏ではなくピアノの伴奏が付く。独奏と二重奏をソナタというひとつの単語にまとめるなよと思うが、なぜか音楽界ではそういうことになっている。
ちなみに少数だがピアノの伴奏が付かないものもあって、その場合は「無伴奏バイオリンソナタ」などと表記して区別される。ただしピアノは他の楽器を伴わないのに、そのことを無伴奏ピアノソナタとはいわない。
なおピアノの伴奏と書いたが、ピアノはメインの楽器とほぼ同格に扱われている場合が多く、そういう点からは二重奏といったほうがしっくりくる。作曲家によっては例えばヴァイオリンソナタのことを「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」などと表記することもある。
〇〇〇ソナタというタイトルの付いている曲はピアノソナタが断トツに多くて、次いでヴァイオリンソナタ、チェロソナタの順。他にはヴィオラ、フルート、クラリネットなど。ただし上位の3楽器と較べると数はかなり少ない。またトランペットやコントラバスのソナタもあるらしいが、まだ聴いたことがない。
<その2>
作曲の形式のひとつ。
定義的には「ソナタ形式を含む組曲がソナタ」と文章が二重になってややこしい。
このうちのソナタ形式とは曲の構成が提示部、展開部、再現部の3パートに分かれた形式。内容は異なるが文章でいうところの起承転結みたいなもの。これによって音楽にストーリー性を持たせることができる。そして組曲とは曲が第1楽章、第2楽章ーーーといくつかに分かれていること。
ということでどこかの楽章がソナタ形式で書かれていれば、
その曲はソナタということになる。
なのだけれど、〇〇〇ソナタのタイトルが付いている曲はもちろんとして、交響曲も協奏曲もその他多くのクラシック曲はこの定義に当てはまる。つまりほとんどがソナタであって、逆にいえばソナタという言葉は特に使う意味を持たないともいえる。
さて例によって前置きが長くなったが本題の冬のソナタ。
恋のフーガは作曲手法のフーガとは関係がなく、いわば言葉遊びのように付けられたタイトルだったが、こちらのソナタの意図は?
結論から書くと恋のフーガ以上に、
音楽用語のソナタとの関係がまったくなかったw(゚o゚)w
こんなことを気にするヤツはあまりいないようで、あまり資料が見つからなかったが、とりあえずウィキペディアによれば、冬のソナタの韓国語原題を直訳すると「冬の恋歌」となる。中国語圏では「冬季戀歌」とそのまま翻訳されたタイトルが使われている。
しかし「恋歌」という単語は日本語ではあまり使わないし、響きとして古くさい印象もある。それで意訳するなら「冬のラブソング」となるが、それだとドラマのイメージやストーリーと合わないということでソナタという言葉が採用されたらしい。
つまりソナタにはまったく意味がないというか、タイトルの意味を曖昧にするために選ばれた飾り言葉のようである。カタカナで音楽用語で、何となくおしゃれな感じになることを狙っただけだろう。ソナタとはカンカータの対義語で歌を伴わない器楽曲、つまり「恋歌」とは相容れないなんて知識あるいは配慮はもちろんなかったと思われる。
というわけで調べて損したレベルの結論(^^ゞ
おしまい
ついでに音楽用語を使ったもので気になっていた「冬のソナタ」も調べてみた。
冬のソナタはご存じ韓流ブームの火付け役となった大ヒットドラマ。韓国人の名前は言葉ではなく音のように聞こえて覚えるのが苦手な私でも、ペ・ヨンジュンとチェ・ジウはすっかり耳に馴染んでスラスラ言える。ドラマそのものは一度も見たことがないのだが(^^ゞ
それにしても冬のソナタが日本で放送されたのが2003年で、あれからそろそろ20年も経つのかあ。まさに光陰矢のごとし、歳月人を待たずである。参考までにサッカーの日韓ワールドカップ共同開催は2002年だった。
さてソナタという音楽用語は、フーガと較べたら目や耳にする機会は多いと思うが、その意味を明確に答えられる人はクラシック音楽好きでも少ないかも知れない。もっとも意味を知らなくても特に困らない言葉ではある。
語源はイタリア語で「楽器によって演奏された曲」という意味らしい。なんじゃそりゃと思ってしまうが、対義語は歌が入った曲のカンカータ。昔(中世ヨーロッパ)は音楽といえばカンカータで、歌がなくて楽器だけの曲は少なかったので区別する必要があったようだ。
そしてソナタの意味合いは時代によって変化していく。面倒なのでそれは省略して、
現在の使われ方は主に2つ。
<その1>
楽器の独奏または二重奏という意味。
これが他の分野では見られない曖昧な言葉の使い方なのである。まずピアノソナタという場合はビアノの独奏を指す。しかしピアノ以外の楽器、例えばヴァイオリンソナタやチェロソナタでは独奏ではなくピアノの伴奏が付く。独奏と二重奏をソナタというひとつの単語にまとめるなよと思うが、なぜか音楽界ではそういうことになっている。
ちなみに少数だがピアノの伴奏が付かないものもあって、その場合は「無伴奏バイオリンソナタ」などと表記して区別される。ただしピアノは他の楽器を伴わないのに、そのことを無伴奏ピアノソナタとはいわない。
なおピアノの伴奏と書いたが、ピアノはメインの楽器とほぼ同格に扱われている場合が多く、そういう点からは二重奏といったほうがしっくりくる。作曲家によっては例えばヴァイオリンソナタのことを「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」などと表記することもある。
〇〇〇ソナタというタイトルの付いている曲はピアノソナタが断トツに多くて、次いでヴァイオリンソナタ、チェロソナタの順。他にはヴィオラ、フルート、クラリネットなど。ただし上位の3楽器と較べると数はかなり少ない。またトランペットやコントラバスのソナタもあるらしいが、まだ聴いたことがない。
<その2>
作曲の形式のひとつ。
定義的には「ソナタ形式を含む組曲がソナタ」と文章が二重になってややこしい。
このうちのソナタ形式とは曲の構成が提示部、展開部、再現部の3パートに分かれた形式。内容は異なるが文章でいうところの起承転結みたいなもの。これによって音楽にストーリー性を持たせることができる。そして組曲とは曲が第1楽章、第2楽章ーーーといくつかに分かれていること。
ということでどこかの楽章がソナタ形式で書かれていれば、
その曲はソナタということになる。
なのだけれど、〇〇〇ソナタのタイトルが付いている曲はもちろんとして、交響曲も協奏曲もその他多くのクラシック曲はこの定義に当てはまる。つまりほとんどがソナタであって、逆にいえばソナタという言葉は特に使う意味を持たないともいえる。
さて例によって前置きが長くなったが本題の冬のソナタ。
恋のフーガは作曲手法のフーガとは関係がなく、いわば言葉遊びのように付けられたタイトルだったが、こちらのソナタの意図は?
結論から書くと恋のフーガ以上に、
音楽用語のソナタとの関係がまったくなかったw(゚o゚)w
こんなことを気にするヤツはあまりいないようで、あまり資料が見つからなかったが、とりあえずウィキペディアによれば、冬のソナタの韓国語原題を直訳すると「冬の恋歌」となる。中国語圏では「冬季戀歌」とそのまま翻訳されたタイトルが使われている。
しかし「恋歌」という単語は日本語ではあまり使わないし、響きとして古くさい印象もある。それで意訳するなら「冬のラブソング」となるが、それだとドラマのイメージやストーリーと合わないということでソナタという言葉が採用されたらしい。
つまりソナタにはまったく意味がないというか、タイトルの意味を曖昧にするために選ばれた飾り言葉のようである。カタカナで音楽用語で、何となくおしゃれな感じになることを狙っただけだろう。ソナタとはカンカータの対義語で歌を伴わない器楽曲、つまり「恋歌」とは相容れないなんて知識あるいは配慮はもちろんなかったと思われる。
というわけで調べて損したレベルの結論(^^ゞ
おしまい
2021年08月26日
冬のソナタと恋のフーガ
先日のこと、Amazonミュージックで何気なく選んだエレーヌ・グリモー(ピアニストの名前)の「バッハ・トランスクライブド」というアルバムを聴いた。平均律クラヴィーア曲集の間にチェンバロ協奏曲やピアノ版のシャコンヌなどを挟むという少し変わった構成。これがなかなかよかった。演奏もさることながら曲順も含めた選曲の妙が素晴らしい。バッハなのに最後まで退屈しないと書けばクラシック通からはバカにされるかな(^^ゞ
この平均律クラヴィーア曲集というのは、プレリュードとフーガがセットになった曲から成り立っている。プレリュードは日本語にすると前奏曲で、だいたい漢字通りの意味。フーガは遁走曲や追走曲と訳される。遁走(とんそう)は逃げることで逃走の古い言い方。対して追走は走って追うことである。逃げると追いかけるでは意味が正反対だが、同じ行為を違う立場から表現したといえる。
そのフーガ=遁走曲・追走曲とは主題が様々に形を変えて反復される作曲の手法。同じメロディが繰り返されて逃げている、あるいは追いかけられているような印象になるからそうネーミングされたようだ。なおフーガ(fugere)の単語自体はラテン語で「逃げる」を意味している。
話は変わるが、ネットの時代になってから調べる・検索することが簡単になり、たいていの疑問はすぐに片がつくようになった。なんだけれど「これはどういうこと?そのうちに調べよう」と思って、ずっとほったらかしになっていることも多いもの。
私にとって、そのひとつが「恋のフーガ」。
これはザ・ピーナッツという双子姉妹の歌手が1967年(昭和42年)に発表した歌謡曲。その頃に小学生以上の年代ならたいていの人は知っているヒット曲となった。
どんな曲だったかなあという人でも、
冒頭のティンパニーを聴くだけで瞬時に思い出せるはず。
小柳ゆきが2003年にカバーしている。
こちらは一人二役で双子姉妹を演じるというアイデア演出。
おそらく最初は、高校生になってクラシック音楽におけるフーガの意味を知り、その時に「そういえば子供の頃に流行った、ザ・ピーナッツの恋のフーガってどういう意味だったの?」と気になったように記憶している。もちろんその頃はそう簡単に調べる手段はなかったとはいえ、それにしてもずいぶんと長く放置していたものだな(^^ゞ
エレーヌ・グリモーのバッハを聴いて、
久しぶりに恋のフーガのことを思い出したので調べてみるとーーー
恋のフーガは、フーガの手法を用いて作曲されていない。(それは
聴けばわかるが)
その歌詞が「追いかけて追いかけて」で始まるので、作詞家のなかにし礼が
追いかける、だから相手は逃げている→遁走曲・追走曲→フーガと連想して
タイトルを付けたらしい。
なお編曲を担当した宮川泰は当初フーガの要素を曲のアレンジに取り入れようと
試みたが、上手くできず途中で諦めたとのこと。
というわけで私としてはすっきりしたけれど、
世間一般的には実にどうでもいい話だろうな(^^ゞ
ーーー続く
この平均律クラヴィーア曲集というのは、プレリュードとフーガがセットになった曲から成り立っている。プレリュードは日本語にすると前奏曲で、だいたい漢字通りの意味。フーガは遁走曲や追走曲と訳される。遁走(とんそう)は逃げることで逃走の古い言い方。対して追走は走って追うことである。逃げると追いかけるでは意味が正反対だが、同じ行為を違う立場から表現したといえる。
そのフーガ=遁走曲・追走曲とは主題が様々に形を変えて反復される作曲の手法。同じメロディが繰り返されて逃げている、あるいは追いかけられているような印象になるからそうネーミングされたようだ。なおフーガ(fugere)の単語自体はラテン語で「逃げる」を意味している。
話は変わるが、ネットの時代になってから調べる・検索することが簡単になり、たいていの疑問はすぐに片がつくようになった。なんだけれど「これはどういうこと?そのうちに調べよう」と思って、ずっとほったらかしになっていることも多いもの。
私にとって、そのひとつが「恋のフーガ」。
これはザ・ピーナッツという双子姉妹の歌手が1967年(昭和42年)に発表した歌謡曲。その頃に小学生以上の年代ならたいていの人は知っているヒット曲となった。
どんな曲だったかなあという人でも、
冒頭のティンパニーを聴くだけで瞬時に思い出せるはず。
小柳ゆきが2003年にカバーしている。
こちらは一人二役で双子姉妹を演じるというアイデア演出。
おそらく最初は、高校生になってクラシック音楽におけるフーガの意味を知り、その時に「そういえば子供の頃に流行った、ザ・ピーナッツの恋のフーガってどういう意味だったの?」と気になったように記憶している。もちろんその頃はそう簡単に調べる手段はなかったとはいえ、それにしてもずいぶんと長く放置していたものだな(^^ゞ
エレーヌ・グリモーのバッハを聴いて、
久しぶりに恋のフーガのことを思い出したので調べてみるとーーー
恋のフーガは、フーガの手法を用いて作曲されていない。(それは
聴けばわかるが)
その歌詞が「追いかけて追いかけて」で始まるので、作詞家のなかにし礼が
追いかける、だから相手は逃げている→遁走曲・追走曲→フーガと連想して
タイトルを付けたらしい。
なお編曲を担当した宮川泰は当初フーガの要素を曲のアレンジに取り入れようと
試みたが、上手くできず途中で諦めたとのこと。
というわけで私としてはすっきりしたけれど、
世間一般的には実にどうでもいい話だろうな(^^ゞ
ーーー続く
2021年08月23日
ベランダ8月の盛と衰
6月6日に少し大きいプランターに植え替えた金盛丸というサボテン。
その時には子株が3つほどだったのに、
2ヶ月半ほど経ってかなり増えた。
手前の3つが6月からあった子株。
現在10ほどの子株がある。
以前に株分けした子株にも孫株ができている。
何となく無限に増えそうな雰囲気。今は小さくて可愛い子株でも、やがて親株の大きさになるわけで、そんなものが何十個とあっても困る。まあそうなるまではまだ時間がかかるから、その時に考えましょう。
同じく6月6日に、
全滅した緋牡丹の台木で1つだけ生き残った三角柱という名前のサボテンを、
カットして植えたら、
そのまま大きくなるのではなくて、
また枝分かれし始めたということを7月の中頃に書いた。
それから1ヶ月後の現在、その枝分かれ部分がますます大きくなっている。
このまま大きくなるのか? しかし枝分かれしている根本部分はとても細いから、あまり大きくなると折れそうな気がする。そんな自分の首を絞めるような成長の仕方はしないと思うけれど、今後どうなるかは興味深い。
金盛丸と三角柱のサボテンが元気いっぱいなのに対して、
不調なのがベンジャミン。
この写真ではわかりづらいが、
例年の今頃の時期と較べて葉の分量が2/3くらいしかない。
こういうふうに黄色くなって落ちてしまう葉が多数。
下にある枯れてしまった葉は乾燥して小さくなっているが、そうなっていない状態で、春からここまでで洗面器に山盛り3杯分くらいの葉が落ちた(/o\)
春に部屋からベランダに出して、しばらくしたら葉に茶色の斑点や、カビのような黒い斑点が付くようになり、あっという間にそれが全体に広がって。ネットで調べるとカイガラムシのフンとか、それがカビになるスス病というものらしいのだが、肝心のカイガラムシ自体が見当たらなかった。
それでもカイガラムシ用の殺虫剤を吹き付けたり、またスプレーで水を吹き付けながら指でこすって葉を1枚ずつ洗ってみたり(メチャ手間がかかる)したが、あまり効果はなく落葉が進みーーー。しかし8月になってからはあまり落ちなくなったかな。それと同時に斑点も減少した。
それにしてもこのベンジャミンを育て始めたのは30年近く前から。今までこんなことは一度も無かったのに。ひょっとして老化で弱り始めているのだろうか。ちょっと心配。とにかく部屋に取り込む11月の終わりまでに、新しい葉をたくさん付けてくれますように。
その時には子株が3つほどだったのに、
2ヶ月半ほど経ってかなり増えた。
手前の3つが6月からあった子株。
現在10ほどの子株がある。
以前に株分けした子株にも孫株ができている。
何となく無限に増えそうな雰囲気。今は小さくて可愛い子株でも、やがて親株の大きさになるわけで、そんなものが何十個とあっても困る。まあそうなるまではまだ時間がかかるから、その時に考えましょう。
同じく6月6日に、
全滅した緋牡丹の台木で1つだけ生き残った三角柱という名前のサボテンを、
カットして植えたら、
そのまま大きくなるのではなくて、
また枝分かれし始めたということを7月の中頃に書いた。
それから1ヶ月後の現在、その枝分かれ部分がますます大きくなっている。
このまま大きくなるのか? しかし枝分かれしている根本部分はとても細いから、あまり大きくなると折れそうな気がする。そんな自分の首を絞めるような成長の仕方はしないと思うけれど、今後どうなるかは興味深い。
金盛丸と三角柱のサボテンが元気いっぱいなのに対して、
不調なのがベンジャミン。
この写真ではわかりづらいが、
例年の今頃の時期と較べて葉の分量が2/3くらいしかない。
こういうふうに黄色くなって落ちてしまう葉が多数。
下にある枯れてしまった葉は乾燥して小さくなっているが、そうなっていない状態で、春からここまでで洗面器に山盛り3杯分くらいの葉が落ちた(/o\)
春に部屋からベランダに出して、しばらくしたら葉に茶色の斑点や、カビのような黒い斑点が付くようになり、あっという間にそれが全体に広がって。ネットで調べるとカイガラムシのフンとか、それがカビになるスス病というものらしいのだが、肝心のカイガラムシ自体が見当たらなかった。
それでもカイガラムシ用の殺虫剤を吹き付けたり、またスプレーで水を吹き付けながら指でこすって葉を1枚ずつ洗ってみたり(メチャ手間がかかる)したが、あまり効果はなく落葉が進みーーー。しかし8月になってからはあまり落ちなくなったかな。それと同時に斑点も減少した。
それにしてもこのベンジャミンを育て始めたのは30年近く前から。今までこんなことは一度も無かったのに。ひょっとして老化で弱り始めているのだろうか。ちょっと心配。とにかく部屋に取り込む11月の終わりまでに、新しい葉をたくさん付けてくれますように。
2021年08月20日
実はほとんどのご先祖様と血がつながっていない
タイトルを少し変更したが、お盆特別企画:ご先祖様のナゾ3部作の最終回。
先祖と血がつながっていないとはどういうことだ、そんなのはあり得ないじゃないかと思われるかも知れないが、まずは血がつながっているって何?という話から。
血縁、血統、血筋、血を分けた、血を引く、血は水よりも濃いーーー共通の先祖を持つ関係は血の文字を使って表現されるのが一般的。ただしこの血は体内を流れている血液ではなく概念としての血である。もちろん生物的に父親と母親の血液を使って子供が生まれてくるわけでもない。
では何を使って子供が生まれるかというと精子と卵子。そして親から子供に受け継がれるのは血液ではなく遺伝子であるのはいうまでもない。
さて人間の身体は細胞でできていて、細胞の中の核と呼ばれる部分に染色体というものが入っている。染色体には二重らせん構造を持つヒモのようなDNAが巻き付いており、そのDNAの一部が遺伝子になっている。遺伝子とは身体の設計図みたいなもの。
遺伝子はDNAの1.5%ほどの割合を占めているだけなのだが、一般的な表現としてはDNA=遺伝子のような使われ方をすることが多い。また今回は染色体がテーマで、染色体=DNAともいえるので、三段論法で染色体=遺伝子として話を進める。
写真は人の染色体。23対あって46本で構成されている。
これはDNAが46分割されていることを意味している。
その46本の染色体は父親と母親から23本ずつ受け継いだもの。23本の染色体を持つ精子と、同じく23本の染色体を持つ卵子が結合するのが受精。
そしてあなたが子供を作る時も同様に、46本ある染色体から23本を精子または卵子に送り込む。言い換えれば両親から受け継いだ染色体合計46本のうち半分しか自分の子供に伝えないのだ(←ここがポイント)。どちらの親から受け継いだ染色体をいくつ渡すのかよく知らないのだが、あまり極端な比率にはならずに、父親から受け継いだ23本から12本、母親からは11本とかそんな感じらしい。そしてあなたの子供も同様に、あなたから受け継いだ染色体の半分だけを子供に渡す。あなたから見れば、自分の染色体の1/4が孫に伝わることになる。
これを逆にして各世代の先祖から、あなたに受け継がれた染色体を数えると
1世代前:2人の親からは 23本ずつ
2世代前:2組4人の祖父母からは 11〜12本ずつ
3世代前:4組8人の曾祖父母からは 5〜6本ずつ
4世代前:8組16人の高祖父母からは 2〜3本ずつ
5世代前:16組32人からは 1〜2本ずつ
となる。
問題はここから。
n代前の先祖の人数は2のn乗なので6世代前は64人いる。しかし染色体は46本しかない。つまり64人−46本=18人からは染色体=遺伝子を受け継げない。すなわち血のつながりがないということになる。
そして2のn乗で先祖の数は倍々で増える。前回に書いたように血統の崩壊という現象が起こるのでその計算通りには増えてはいかないものの、とりあえず10世代前を2の10乗で1024人とすると、1024人−46本=978人からは遺伝子を受け継いでいない。978人÷1024人=95%だから、10世代前の先祖の95%はアカの他人!という衝撃的な結論となる。
これが20世代前になると先祖は104万8576人。血のつながっている46人は、46人÷104万8576人だと0.004%の割合でしかない。これはもう誤差みたいな値だから、20世代前に血を分けてくれた先祖は存在しないといえるレベル。
こうなると先祖って何だろうと思えてくる。人間が生まれるには男女2人のペアが必要で、それが綿々と生命のリレーを繰り返して自分に至っている。もし記録があるならば、過去に遡るにつれて何系統にも分かれた膨大な家系図が描けるはず。一般的にはそれが「血がつながっている」ということ。どの世代の誰か1人欠けても私は存在しない。
しかしそこに書き込まれた遠い先祖のほとんどとは、家系図という文化ではつながっていても、生物的に自分と連続性のない無関係な存在なのである。それがとても不思議で、頭で理解できても何となく腑に落ちてこない。この感覚はビッグバン以前は物質も空間も時間もなかったという話を知った時と似ているかも知れない。
え〜っと今回の話にオチはないよ。とりあえずタイムマシンが発明されて、大昔のご先祖様を訪ねる時にでも思い出してちょうだい(^^ゞ
おしまい
<補足>
実際には染色体で組み替えという現象が起きて、先祖から受け継げるDNAは46本より多くなる。だから血のつながっていない先祖が出現する割合はもう少し緩やかになるものの、ここで述べた話の趣旨が変わるほどではない。
先祖と血がつながっていないとはどういうことだ、そんなのはあり得ないじゃないかと思われるかも知れないが、まずは血がつながっているって何?という話から。
血縁、血統、血筋、血を分けた、血を引く、血は水よりも濃いーーー共通の先祖を持つ関係は血の文字を使って表現されるのが一般的。ただしこの血は体内を流れている血液ではなく概念としての血である。もちろん生物的に父親と母親の血液を使って子供が生まれてくるわけでもない。
では何を使って子供が生まれるかというと精子と卵子。そして親から子供に受け継がれるのは血液ではなく遺伝子であるのはいうまでもない。
さて人間の身体は細胞でできていて、細胞の中の核と呼ばれる部分に染色体というものが入っている。染色体には二重らせん構造を持つヒモのようなDNAが巻き付いており、そのDNAの一部が遺伝子になっている。遺伝子とは身体の設計図みたいなもの。
遺伝子はDNAの1.5%ほどの割合を占めているだけなのだが、一般的な表現としてはDNA=遺伝子のような使われ方をすることが多い。また今回は染色体がテーマで、染色体=DNAともいえるので、三段論法で染色体=遺伝子として話を進める。
写真は人の染色体。23対あって46本で構成されている。
これはDNAが46分割されていることを意味している。
その46本の染色体は父親と母親から23本ずつ受け継いだもの。23本の染色体を持つ精子と、同じく23本の染色体を持つ卵子が結合するのが受精。
そしてあなたが子供を作る時も同様に、46本ある染色体から23本を精子または卵子に送り込む。言い換えれば両親から受け継いだ染色体合計46本のうち半分しか自分の子供に伝えないのだ(←ここがポイント)。どちらの親から受け継いだ染色体をいくつ渡すのかよく知らないのだが、あまり極端な比率にはならずに、父親から受け継いだ23本から12本、母親からは11本とかそんな感じらしい。そしてあなたの子供も同様に、あなたから受け継いだ染色体の半分だけを子供に渡す。あなたから見れば、自分の染色体の1/4が孫に伝わることになる。
これを逆にして各世代の先祖から、あなたに受け継がれた染色体を数えると
1世代前:2人の親からは 23本ずつ
2世代前:2組4人の祖父母からは 11〜12本ずつ
3世代前:4組8人の曾祖父母からは 5〜6本ずつ
4世代前:8組16人の高祖父母からは 2〜3本ずつ
5世代前:16組32人からは 1〜2本ずつ
となる。
問題はここから。
n代前の先祖の人数は2のn乗なので6世代前は64人いる。しかし染色体は46本しかない。つまり64人−46本=18人からは染色体=遺伝子を受け継げない。すなわち血のつながりがないということになる。
そして2のn乗で先祖の数は倍々で増える。前回に書いたように血統の崩壊という現象が起こるのでその計算通りには増えてはいかないものの、とりあえず10世代前を2の10乗で1024人とすると、1024人−46本=978人からは遺伝子を受け継いでいない。978人÷1024人=95%だから、10世代前の先祖の95%はアカの他人!という衝撃的な結論となる。
これが20世代前になると先祖は104万8576人。血のつながっている46人は、46人÷104万8576人だと0.004%の割合でしかない。これはもう誤差みたいな値だから、20世代前に血を分けてくれた先祖は存在しないといえるレベル。
こうなると先祖って何だろうと思えてくる。人間が生まれるには男女2人のペアが必要で、それが綿々と生命のリレーを繰り返して自分に至っている。もし記録があるならば、過去に遡るにつれて何系統にも分かれた膨大な家系図が描けるはず。一般的にはそれが「血がつながっている」ということ。どの世代の誰か1人欠けても私は存在しない。
しかしそこに書き込まれた遠い先祖のほとんどとは、家系図という文化ではつながっていても、生物的に自分と連続性のない無関係な存在なのである。それがとても不思議で、頭で理解できても何となく腑に落ちてこない。この感覚はビッグバン以前は物質も空間も時間もなかったという話を知った時と似ているかも知れない。
え〜っと今回の話にオチはないよ。とりあえずタイムマシンが発明されて、大昔のご先祖様を訪ねる時にでも思い出してちょうだい(^^ゞ
おしまい
<補足>
実際には染色体で組み替えという現象が起きて、先祖から受け継げるDNAは46本より多くなる。だから血のつながっていない先祖が出現する割合はもう少し緩やかになるものの、ここで述べた話の趣旨が変わるほどではない。
2021年08月18日
ご先祖様のナゾ その2
人間が生まれるには男女1組の両親が必要で、もちろんその両親にもそれぞれの親がいる。だから1世代さかのぼるごとに先祖は倍々で増えていく。
親は2人
祖父母は2組4人
曾祖父母(ひいジイチャン、バアチャン)は4組8人
高祖父母(ひいひいジイチャン、バアチャン)は8組16人
ここまでで30人。誰1人欠けても私は生まれておらず、それだけの生命のリレーがあって自分が存在しているのかと思うと、ご先祖様に感謝するとともに、もっとしっかりしなければと反省しきり(^^ゞ
図は絵本『いのちのまつり』より引用
なお世代をnとしてn代前の先祖の人数は2のn乗となる。
またn代前までの先祖の合計人数を求める計算式は(2のn乗−1)×2 。
しかしである。
前回に書いたように、人間が2人の親から生まれてくることは確かなものの、2のn乗を当てはめると30世代前の先祖は10億人を超え、40世代前なら1兆人を突破してしまう。
ちなみに人類は3世代くらいが共存するから、
39世代前 5000億人
40世代前 1兆人
41世代前 2兆人
を合計すれば3兆5000億人となる。また昔なので5人くらい兄弟姉妹がいるとしたら、人口はその5倍で17兆5000億人! 酸素足らんのちゃうか(^^ゞ 参考までに40世代前というのは1世代を20年として800年前だから鎌倉時代の初期。
というわけで2のn乗が数学的には正しくても、
何とか先祖の人数を減らす方法?を考えなくてはならない。
その1「ヤリチン・ヤリマン説」
男性が複数の女性に子供を産ませる、あるいは女性が複数の男性の子供を産む。それならば子供にとって親は2人いても、他の子供と重複になるので全体の人数は少なくて済む。
しかし先祖の人数を減らすには、どれだけヤリまくらなければならないのだろう(^^ゞ こうなると「不倫は文化だ」どころじゃなくて「不倫は人類の生存戦略だ」になってくるかも。
その2「血統の崩壊説」
ヤリチン・ヤリマン説は私の思いつきであるが、こちらは系譜学という家系や血統を調べる学問で使われている考え。血統の喪失ともいう。
これは血縁者同士の親から子供が生まれれば先祖の数は少なくなることを指す。例えば3世代前の曾祖父母(ひいジイチャン、バアチャン)は、2の3乗で上で書いたように4組8人だが、もし親がいとこ同士なら3組6人となる。
図を書かないと説明しづらいが、自分のいとこならその系統(父方または母方)の祖父母は自分と共通。両親がいとこ同士なら1世代上がって曾祖父母が共通となり、4組から1組減って3組の6名となるということ。わからなければ図を書いてちょうだい。
話はそれるが、これが意味している内容と血統の崩壊あるいは喪失というネーミングは意味が違うように思える。英語でもpedigree collapseだから翻訳は間違っていないというかほとんど直訳。
話は戻って、日本ではいとこ同士の結婚は法律で認められているし昔は多かったとも聞く。だからそれもあるだろうけれど、おそらくは遠い親戚というか親戚とは知らない者同士から子供が生まれることで、この血統の崩壊が広く起きるのだと思う。
例えば4世代前の高祖父母(ひいひいジイチャン、バアチャン)は8組16人いるが、仮に高祖父母のことを先祖としてお祀りしている家庭でも、それは8組のうちの1組おそらくは父親の男系の1系統だけで、残り7組とはもう縁が切れているだろう。ましてやその子孫となれば赤の他人も同然。それが10世代、20世代と遡ればということ。まあ民族というのはそうやってごく薄い血縁者同士が子孫を残してきた集合体ともいえる。
先祖の人数が2のn乗で指数関数的に増えないのは、もちろんヤリチン・ヤリマン説よりも血統の崩壊が説くメカニズムによるところが大きいのだと思う。しかし30世代前は2の30乗で約10億人という計算になるが、戦国時代の初めとなるその頃の人口は1000万人ほどと推定されている。つまり1%なわけであまりにもその差が大きい。しかも10億人は私の先祖だけの人数。
全体に対してどれくらいの割合で、どの程度に血縁が近いあるいは離れた者同士が子供を産めば10億人が1000万人になるのか、数学的にわかりやすいシミュレーションが知りたいところ。かなり調べでみたが、そんな暇なことをやっている数学者や遺伝学者はいないみたい。誰かわかりやすく解説してくれないかな。できればヤリチン・ヤリマン説でも(^^ゞ
ところで2のn乗が素直に当てはまらなくて、30世代前に10億人も先祖がいないことは当然だとしても、20世代前なら約100万人という計算になり、それなら血統の崩壊があるとしても数十万人あるいは数万人はいるのかも知れない。
しかし過去をたどれば確かに存在するそれらのご先祖様のほとんどとは、
実は血がつながっていないのである(/o\)
ーーー数学編から生物学編へと続く
親は2人
祖父母は2組4人
曾祖父母(ひいジイチャン、バアチャン)は4組8人
高祖父母(ひいひいジイチャン、バアチャン)は8組16人
ここまでで30人。誰1人欠けても私は生まれておらず、それだけの生命のリレーがあって自分が存在しているのかと思うと、ご先祖様に感謝するとともに、もっとしっかりしなければと反省しきり(^^ゞ
図は絵本『いのちのまつり』より引用
なお世代をnとしてn代前の先祖の人数は2のn乗となる。
またn代前までの先祖の合計人数を求める計算式は(2のn乗−1)×2 。
しかしである。
前回に書いたように、人間が2人の親から生まれてくることは確かなものの、2のn乗を当てはめると30世代前の先祖は10億人を超え、40世代前なら1兆人を突破してしまう。
ちなみに人類は3世代くらいが共存するから、
39世代前 5000億人
40世代前 1兆人
41世代前 2兆人
を合計すれば3兆5000億人となる。また昔なので5人くらい兄弟姉妹がいるとしたら、人口はその5倍で17兆5000億人! 酸素足らんのちゃうか(^^ゞ 参考までに40世代前というのは1世代を20年として800年前だから鎌倉時代の初期。
というわけで2のn乗が数学的には正しくても、
何とか先祖の人数を減らす方法?を考えなくてはならない。
その1「ヤリチン・ヤリマン説」
男性が複数の女性に子供を産ませる、あるいは女性が複数の男性の子供を産む。それならば子供にとって親は2人いても、他の子供と重複になるので全体の人数は少なくて済む。
しかし先祖の人数を減らすには、どれだけヤリまくらなければならないのだろう(^^ゞ こうなると「不倫は文化だ」どころじゃなくて「不倫は人類の生存戦略だ」になってくるかも。
その2「血統の崩壊説」
ヤリチン・ヤリマン説は私の思いつきであるが、こちらは系譜学という家系や血統を調べる学問で使われている考え。血統の喪失ともいう。
これは血縁者同士の親から子供が生まれれば先祖の数は少なくなることを指す。例えば3世代前の曾祖父母(ひいジイチャン、バアチャン)は、2の3乗で上で書いたように4組8人だが、もし親がいとこ同士なら3組6人となる。
図を書かないと説明しづらいが、自分のいとこならその系統(父方または母方)の祖父母は自分と共通。両親がいとこ同士なら1世代上がって曾祖父母が共通となり、4組から1組減って3組の6名となるということ。わからなければ図を書いてちょうだい。
話はそれるが、これが意味している内容と血統の崩壊あるいは喪失というネーミングは意味が違うように思える。英語でもpedigree collapseだから翻訳は間違っていないというかほとんど直訳。
話は戻って、日本ではいとこ同士の結婚は法律で認められているし昔は多かったとも聞く。だからそれもあるだろうけれど、おそらくは遠い親戚というか親戚とは知らない者同士から子供が生まれることで、この血統の崩壊が広く起きるのだと思う。
例えば4世代前の高祖父母(ひいひいジイチャン、バアチャン)は8組16人いるが、仮に高祖父母のことを先祖としてお祀りしている家庭でも、それは8組のうちの1組おそらくは父親の男系の1系統だけで、残り7組とはもう縁が切れているだろう。ましてやその子孫となれば赤の他人も同然。それが10世代、20世代と遡ればということ。まあ民族というのはそうやってごく薄い血縁者同士が子孫を残してきた集合体ともいえる。
先祖の人数が2のn乗で指数関数的に増えないのは、もちろんヤリチン・ヤリマン説よりも血統の崩壊が説くメカニズムによるところが大きいのだと思う。しかし30世代前は2の30乗で約10億人という計算になるが、戦国時代の初めとなるその頃の人口は1000万人ほどと推定されている。つまり1%なわけであまりにもその差が大きい。しかも10億人は私の先祖だけの人数。
全体に対してどれくらいの割合で、どの程度に血縁が近いあるいは離れた者同士が子供を産めば10億人が1000万人になるのか、数学的にわかりやすいシミュレーションが知りたいところ。かなり調べでみたが、そんな暇なことをやっている数学者や遺伝学者はいないみたい。誰かわかりやすく解説してくれないかな。できればヤリチン・ヤリマン説でも(^^ゞ
ところで2のn乗が素直に当てはまらなくて、30世代前に10億人も先祖がいないことは当然だとしても、20世代前なら約100万人という計算になり、それなら血統の崩壊があるとしても数十万人あるいは数万人はいるのかも知れない。
しかし過去をたどれば確かに存在するそれらのご先祖様のほとんどとは、
実は血がつながっていないのである(/o\)
ーーー数学編から生物学編へと続く
2021年08月16日
ご先祖様のナゾ
お盆になるとご先祖様がキュウリで作った馬に乗ってあの世から帰ってきて、茄子で作った牛に乗ってまた戻っていくことになっている。ただしどちらも名前は「精霊馬(しょうりょううま)」。その戻る時に焚くのが送り火。有名なのは京都の大文字焼き、正式には五山の送り火。オリンピックの閉会式は聖火を消すけれど、お盆では来年も帰ってきてねと盛大に燃やしてお見送りするという感じかな。
京都では本日が大文字である。しかしコロナ対策ということで昨年に引き続き規模を縮小とのこと。それは仕方ないねとも思うが、その方法というのがちょっと変わってる。大文字は焚き火で文字を作るのだが、その焚き火の数を減らすというのである。
つまり「大の字」ではなく6つの点(通常は75箇所に点火)。大文字はまだ連想というか今までの残像効果で大に見えるが、焚き火が1つか2つしかない他の場所は(/o\)
それにしても送り火は離れたところから見るものなので(火の周りは立ち入り禁止になっている)、焚き火の数を減らしたところで、いわゆる密とは関係ないはず。火を付ける作業員のためのコロナ対策なのかな? それならもっとやりようがあるとも思うが。
さてお盆の主役であるご先祖様。いわゆる血がつながっているということでは単純明快な間柄であるが、実は数学的?に矛盾に満ちた存在なのである。
誰もが両親から生まれてくる。親は2人。
両方の親にもそれぞれ親がいる。祖父・祖母は合計4人。
祖父祖母にも親がいるので曾祖父母(ひいジイチャン、バアチャン)は合計8人。
その1世代前になる高祖父母(ひいひいジイチャン、バアチャン)は合計16人。
誰1人欠けても私は存在しない。だから会ったこともなければどんな人かも知らない曾祖父母や高祖父母に、お盆の日くらい思いをはせるのは子孫の務めかも知れない。
それはそれとして、
ただしこれだと計算が行き詰まるのである。
上に書いた人数を見ればわかるように、人が生まれるには父親・母親の2人必要だから世代が上がるごとに先祖の人数は倍々で増えていく。世代をnで表せば2のn乗ということ。例えば高祖父母なら4世代前だから2の4乗(2×2×2×2)で16人になる。
この倍々というのが破壊力抜群。例えば10世代前なら先祖は1024人で、そんなものかと思ってしまう。しかし15世代前で3万2768人、20世代前なら104万8576人となる。そして30世代前で10億人を超え40世代前なら1兆人を突破! 念のために書いておくと(^^ゞ 現在の日本の人口は約1億3千万人。全世界で約77億人である。
今の平均初産年齢は約31歳であるが、昔はもっと早かったので20歳で計算すると10世代で200年。30世代前は600年前だから戦国時代が始まった頃。当時の人口は1000万人ほどとされる。
戦国時代の人口を持ち出すまでもなく30世代前で10億人を超え、40世代前なら1兆人を突破する人数の先祖がいるというのはあり得ない。
しかし人間は2人の親から生まれてくるのである。
計算としては絶対に間違っていない。
ーーー続く
2021年08月12日
メダルランキング3位の考察
7月28日に投稿したのは「メダル大国を目指すための国家戦略」という話。その時点で日本のメダルランキングはまだトップで「できれば過去最高となる3位または4位で踏みとどまって欲しいな」と願望を書いたら、なんと最終結果は3位と大健闘でメデタシ!
過去に3位(金メダルの数でカウント)となったのは、1964年の前回東京大会と1968年のメキシコ大会。あの頃の日本は高度成長時代で勢いがあったのだろう。メダルの枚数はメダルを競う種目の数が変化するから比較しても意味は無いが、とりあえず金メダルも金銀銅の総数も過去最高を記録。
金メダル:16枚(1964年東京、2004年アテネ)→今回は27枚
総数: 41枚(2016年リオデジャネイロ)→今回は58枚
新たに採用された競技のうち野球&ソフトボール、空手のメダル獲得は固かったが、スケボー、スポーツクライミング、サーフィンでもメダルを獲れたのが大きかったと思う。この5競技で獲得した金メダルは6枚で全体の1/4近くを占める。特にスケボーで金メダル3枚は予想外の成果だったのではないか。
仮にこの5競技が採用されていなかったら、日本の金メダルは21枚となり22枚のイギリスに3位の座を奪われていた(イギリスはこの5競技での金メダルはない)。そういう意味ではいろいろと不祥事・不手際が目立った大会関係者の唯一の功績が、この5競技をブッ込んだことといえばシバかれるかな(^^ゞ
もっとも3位に入れた最大の要因はロシアが振るわなかったことに助けられた面も大きい。今回はドーピング問題でROCという訳のわからない形での参加であるが、有力選手で出場できなかった人もいるのだろうか。
また7月28日に書いたようにアメリカ、ロシア、中国が強いのは別格として、イギリス、ドイツ、オーストラリア、フランス、イタリアの5カ国も過去20年で一度もベスト10入りを逃していない。そして今大会でもキッチリとベスト10にランクイン。つまりオリンピックは3超大国プラス5強の構図である。
メダルランキングの上位に入る=幅広い競技で強い選手を育成しなくてはならないから、それは国力の反映みたいなもの。国力って何だ?というと漠然としてしまうが、オリンピックのメダルランキングでトップ10に入るのは強国を推定するひとつの目安とも思える。そう考えるとオーストラリアは意外とポテンシャル高いのかも。日本は今回を含めた過去6大会で4回のトップ10入りで、いってみればトップ10の常連国。そのポジションをキープし、願わくば6強にのし上がらんことを。
ところで開催国が強いのはいわゆる(ホームとアウェーの)ホーム効果だと思っていた。今回のように無観客でもホームは有利なのだろうか? それとも海外まで遠征しなくていいのが体力や気分的に楽なのか。まあ通訳がいても言葉が通じないと思うだけで肩が凝るもんな。
過去に3位(金メダルの数でカウント)となったのは、1964年の前回東京大会と1968年のメキシコ大会。あの頃の日本は高度成長時代で勢いがあったのだろう。メダルの枚数はメダルを競う種目の数が変化するから比較しても意味は無いが、とりあえず金メダルも金銀銅の総数も過去最高を記録。
金メダル:16枚(1964年東京、2004年アテネ)→今回は27枚
総数: 41枚(2016年リオデジャネイロ)→今回は58枚
新たに採用された競技のうち野球&ソフトボール、空手のメダル獲得は固かったが、スケボー、スポーツクライミング、サーフィンでもメダルを獲れたのが大きかったと思う。この5競技で獲得した金メダルは6枚で全体の1/4近くを占める。特にスケボーで金メダル3枚は予想外の成果だったのではないか。
仮にこの5競技が採用されていなかったら、日本の金メダルは21枚となり22枚のイギリスに3位の座を奪われていた(イギリスはこの5競技での金メダルはない)。そういう意味ではいろいろと不祥事・不手際が目立った大会関係者の唯一の功績が、この5競技をブッ込んだことといえばシバかれるかな(^^ゞ
もっとも3位に入れた最大の要因はロシアが振るわなかったことに助けられた面も大きい。今回はドーピング問題でROCという訳のわからない形での参加であるが、有力選手で出場できなかった人もいるのだろうか。
また7月28日に書いたようにアメリカ、ロシア、中国が強いのは別格として、イギリス、ドイツ、オーストラリア、フランス、イタリアの5カ国も過去20年で一度もベスト10入りを逃していない。そして今大会でもキッチリとベスト10にランクイン。つまりオリンピックは3超大国プラス5強の構図である。
メダルランキングの上位に入る=幅広い競技で強い選手を育成しなくてはならないから、それは国力の反映みたいなもの。国力って何だ?というと漠然としてしまうが、オリンピックのメダルランキングでトップ10に入るのは強国を推定するひとつの目安とも思える。そう考えるとオーストラリアは意外とポテンシャル高いのかも。日本は今回を含めた過去6大会で4回のトップ10入りで、いってみればトップ10の常連国。そのポジションをキープし、願わくば6強にのし上がらんことを。
ところで開催国が強いのはいわゆる(ホームとアウェーの)ホーム効果だと思っていた。今回のように無観客でもホームは有利なのだろうか? それとも海外まで遠征しなくていいのが体力や気分的に楽なのか。まあ通訳がいても言葉が通じないと思うだけで肩が凝るもんな。
2021年08月09日
8位入賞だとは
昨日で閉会した東京オリンピック。
試合を観戦するのはもちろん、オリンピックが開かれる街の雰囲気を肌で感じて、
冥途の土産話にするつもりだったのに(^^ゞ
コロナのせいでそれらがかなわずに残念。
テレビでしか見られないのだから、どこで開催されているか関係ないようなものだが、それでもコロナで家にいる時間が長いし、もちろん時差もないから、今まででは最も長い時間オリンピックを見たかな。ついでに言うとテレビより gorin.jp でライブや録画動画を見ることのほうが多かった。
そうすると今まで気づかなかったことがあれこれ出てくる。
恥を忍んで書くが
8位までが入賞になるとは知らなかった(/o\)
以前は6位までが入賞だったはず。
いつから変わったのだ?と調べてみたら、何と1984年のロサンゼルス大会から!
世間知らずにもほどがあるゼ w(゚o゚)w
もう37年も続いていることに今さら文句を言っても仕方ないが、何となくこの8位までが入賞というのに違和感がある。それは陸上の短距離や水泳では決勝に8人または8組しか出場しないから。つまり決勝に出た時点で(失格しなければ)入賞は確定している。だから決勝でビリでも入賞であり、それってドウヨと思ってしまう。逆にマラソンなんてたくさんの選手が走るのだから15位くらいまで入賞にしてあげればいいのに。
オリンピックで入賞が6位から8位に変更されたのは1984年であるが、おそらくその頃にいろいろな大会でもそうなったのだと思う。ただし入賞枠が2つ増えた理由はネットで探しても見当たらなかった。
それとオリンピックなど国際レベルの大会が開かれる陸上競技場は9レーン、プールは10レーンあるのが標準。なのにどうして決勝に8人または8組しか出場させないのかもナゾ
一説によると陸上では準決勝で同タイムで8位が2人になった場合に備え、9名出場できるように1レーン空けてあるらしい。しかしタイムは1000分の1秒単位で計測するのに(記録として残すのは100分の1秒まで)、そんな配慮が必要なほど同着ってよく起きるのかな。さらに短距離以外のレースでは皆が最も内側のレーンを走るので、そのレーンの摩耗が進んでおり不公平を避けるために使わないという説も。
水泳の場合はプールサイドに近いレーンは波の影響を受けるから、両端のレーンは使わないともいわれる。しかし今のプールは波の反射も計算して設計されているはず。いずれにせよ陸上短距離、水泳ともに決勝に8人または8組しか出場させない明確な理由はわからず。
さらに恥を忍ぶとブログではレーンと書いているが、心の中ではついコースと呼んでしまう昭和な人間である。これもどこかで名称に関する規約の変更があったのだろう。またゼッケンはナンバーカード、ゴールはフィニッシュというのが現在のスタンダードらしい。
いくつになっても勉強できてうれしいな(^^ゞ
試合を観戦するのはもちろん、オリンピックが開かれる街の雰囲気を肌で感じて、
冥途の土産話にするつもりだったのに(^^ゞ
コロナのせいでそれらがかなわずに残念。
テレビでしか見られないのだから、どこで開催されているか関係ないようなものだが、それでもコロナで家にいる時間が長いし、もちろん時差もないから、今まででは最も長い時間オリンピックを見たかな。ついでに言うとテレビより gorin.jp でライブや録画動画を見ることのほうが多かった。
そうすると今まで気づかなかったことがあれこれ出てくる。
恥を忍んで書くが
8位までが入賞になるとは知らなかった(/o\)
以前は6位までが入賞だったはず。
いつから変わったのだ?と調べてみたら、何と1984年のロサンゼルス大会から!
世間知らずにもほどがあるゼ w(゚o゚)w
もう37年も続いていることに今さら文句を言っても仕方ないが、何となくこの8位までが入賞というのに違和感がある。それは陸上の短距離や水泳では決勝に8人または8組しか出場しないから。つまり決勝に出た時点で(失格しなければ)入賞は確定している。だから決勝でビリでも入賞であり、それってドウヨと思ってしまう。逆にマラソンなんてたくさんの選手が走るのだから15位くらいまで入賞にしてあげればいいのに。
オリンピックで入賞が6位から8位に変更されたのは1984年であるが、おそらくその頃にいろいろな大会でもそうなったのだと思う。ただし入賞枠が2つ増えた理由はネットで探しても見当たらなかった。
それとオリンピックなど国際レベルの大会が開かれる陸上競技場は9レーン、プールは10レーンあるのが標準。なのにどうして決勝に8人または8組しか出場させないのかもナゾ
一説によると陸上では準決勝で同タイムで8位が2人になった場合に備え、9名出場できるように1レーン空けてあるらしい。しかしタイムは1000分の1秒単位で計測するのに(記録として残すのは100分の1秒まで)、そんな配慮が必要なほど同着ってよく起きるのかな。さらに短距離以外のレースでは皆が最も内側のレーンを走るので、そのレーンの摩耗が進んでおり不公平を避けるために使わないという説も。
水泳の場合はプールサイドに近いレーンは波の影響を受けるから、両端のレーンは使わないともいわれる。しかし今のプールは波の反射も計算して設計されているはず。いずれにせよ陸上短距離、水泳ともに決勝に8人または8組しか出場させない明確な理由はわからず。
さらに恥を忍ぶとブログではレーンと書いているが、心の中ではついコースと呼んでしまう昭和な人間である。これもどこかで名称に関する規約の変更があったのだろう。またゼッケンはナンバーカード、ゴールはフィニッシュというのが現在のスタンダードらしい。
いくつになっても勉強できてうれしいな(^^ゞ
2021年08月05日
求む 肌色のベビーパウダー
洗面台に白い粉が散乱して、警察やマトリ(厚労省の麻薬取締官)に踏み込まれたらヤバい雰囲気になっている。その白い粉は鼻から吸い込んだり注射器で打ったりせず、身体のべたつく部分に刷り込むようにして使う。名前はベビーパウダー(^^ゞ
冗談はさておき夏にベビーパウダー使い始めてからもう長い。2005年にも「300円で夏を快適に暮らす方法」としてブログで紹介している。赤ちゃんのあせも防止などが本来の使い方ではあるが、身体がべたつき始める中年以上になったら再び必需品にすべき商品だと思っている。
ただし肌をさらさらにしてくれるベビーパウダーであるが、その欠点は白いこと。だから外出の際には服で隠れる部分にしか使えない。具体的にいうと肘の内側、首回り、耳の裏あたりは諦めるしかない。何気なく首に手をやった時にサラッとしていると気持ちいいのに。
それで数日前に閃いたのはーーー
目立つなら
目立たなくしてしまえ
ホトトギス
つまり、白くて目立つのであれば
ベビーパウダーを肌色にすればいいじゃないかということ。
技術的なことはわからないが、色を付けるくらいそんなに難題でもないでしょう。着色料を使うことになるから赤ちゃん用にはふさわしくないかも知れないが、大人用なら問題ないのでは? だからといって中高年パウダーなんてネーミングにしないでね(^^ゞ
もちろん肌の色は人によって違う。しかし私の期待値は刷り込んでいることがまったくわからないのではなく、白いベビーパウダーほど目立たなければOKという程度。だからメーカーの皆さん、なにとぞ来年の夏までに商品開発をよろしく。
ちなみにもし価格が現行品の10倍や20倍になったとしても買うよ。だって、それで夏に身体がべたつく不快感から解放されるなら安いもの。それに服に隠れる部分は従来の白いベビーパウダーを使えばいいから、肌色パウダーひとつでで3シーズンは使えるはず。とにかく来年の夏までに商品開発をよろしくm(_ _)m
なお追伸的に書いておくと
1)
以前に起きたベビーパウダーの原料であるタルク鉱石にアスベストが混入しているという問題は既に解決されているが、現在はタルクそのものに発がん性の可能性が指摘されている。
大手メーカーのジョンソン・エンド・ジョンソンは「製品は安全」だとしながらも「訴訟が起きたことによる需要の減少」などを理由に、北米とカナダでタルクを使用したベビーパウダーの販売を2020年から中止している。
※ベビーパウダーにはタルク以外の原料のものもある。
そういう理由なので、
訴訟も需要減少も起きていない日本では販売が継続されている。
何とも微妙な状況で、本当に安全かどうか心配ではあるがーーー
米国でがんを発症した人の裁判事例を読んでみると、(大人の)女性が女性器に使用して卵巣や子宮のガンになっているケースがほとんど。つまりヤバいのは粘膜からの吸収なのだと思う。
というわけで私の場合はタマブクロ裏側には使っても、カメさんには使わない(^^ゞ から大丈夫じゃないかと判断している。しかも夏だけだし(裁判を起こしている人は毎日、何十年と使い続けている)。
もちろんこれは私の独断と偏見なので、心配な人はタルクを使っていないベビーパウダーをどうぞ。(私はジョンソン・エンド・ジョンソンの香りも懐かしくて好きなのよ)
2)
2000年前後から「肌色」という表現は差別用語(日本語としての肌色じゃない肌の色の人もいるという理屈)だとして、色鉛筆やクレヨンでは「うすだいだい」「ペールオレンジ」などの表記に変えられている。
冗談はさておき夏にベビーパウダー使い始めてからもう長い。2005年にも「300円で夏を快適に暮らす方法」としてブログで紹介している。赤ちゃんのあせも防止などが本来の使い方ではあるが、身体がべたつき始める中年以上になったら再び必需品にすべき商品だと思っている。
ただし肌をさらさらにしてくれるベビーパウダーであるが、その欠点は白いこと。だから外出の際には服で隠れる部分にしか使えない。具体的にいうと肘の内側、首回り、耳の裏あたりは諦めるしかない。何気なく首に手をやった時にサラッとしていると気持ちいいのに。
それで数日前に閃いたのはーーー
目立つなら
目立たなくしてしまえ
ホトトギス
つまり、白くて目立つのであれば
ベビーパウダーを肌色にすればいいじゃないかということ。
技術的なことはわからないが、色を付けるくらいそんなに難題でもないでしょう。着色料を使うことになるから赤ちゃん用にはふさわしくないかも知れないが、大人用なら問題ないのでは? だからといって中高年パウダーなんてネーミングにしないでね(^^ゞ
もちろん肌の色は人によって違う。しかし私の期待値は刷り込んでいることがまったくわからないのではなく、白いベビーパウダーほど目立たなければOKという程度。だからメーカーの皆さん、なにとぞ来年の夏までに商品開発をよろしく。
ちなみにもし価格が現行品の10倍や20倍になったとしても買うよ。だって、それで夏に身体がべたつく不快感から解放されるなら安いもの。それに服に隠れる部分は従来の白いベビーパウダーを使えばいいから、肌色パウダーひとつでで3シーズンは使えるはず。とにかく来年の夏までに商品開発をよろしくm(_ _)m
なお追伸的に書いておくと
1)
以前に起きたベビーパウダーの原料であるタルク鉱石にアスベストが混入しているという問題は既に解決されているが、現在はタルクそのものに発がん性の可能性が指摘されている。
大手メーカーのジョンソン・エンド・ジョンソンは「製品は安全」だとしながらも「訴訟が起きたことによる需要の減少」などを理由に、北米とカナダでタルクを使用したベビーパウダーの販売を2020年から中止している。
※ベビーパウダーにはタルク以外の原料のものもある。
そういう理由なので、
訴訟も需要減少も起きていない日本では販売が継続されている。
何とも微妙な状況で、本当に安全かどうか心配ではあるがーーー
米国でがんを発症した人の裁判事例を読んでみると、(大人の)女性が女性器に使用して卵巣や子宮のガンになっているケースがほとんど。つまりヤバいのは粘膜からの吸収なのだと思う。
というわけで私の場合はタマブクロ裏側には使っても、カメさんには使わない(^^ゞ から大丈夫じゃないかと判断している。しかも夏だけだし(裁判を起こしている人は毎日、何十年と使い続けている)。
もちろんこれは私の独断と偏見なので、心配な人はタルクを使っていないベビーパウダーをどうぞ。(私はジョンソン・エンド・ジョンソンの香りも懐かしくて好きなのよ)
2)
2000年前後から「肌色」という表現は差別用語(日本語としての肌色じゃない肌の色の人もいるという理屈)だとして、色鉛筆やクレヨンでは「うすだいだい」「ペールオレンジ」などの表記に変えられている。
2021年08月04日
夜になると我慢できない体質?
毎日暑い日が続いている。
オリンピックではその暑さにクレームを寄せている選手団もあるらしい。
しかし今年は東京で35度を超える猛暑日をまだ観測していないから、
本当の東京の夏はコンナモノじゃないよと教えてあげたいな。
10年単位で猛暑日の日数を記したグラフがあったので https://www.teguchi.info/weather/summer/extremely-hot-day/ から引用しておく。
あくまで猛暑日だけのカウントなので気温全体の変化を表したものではないが、それでも2010年以降の数値には驚く。ただし逆に1970年代が2010年代と較べて79対15の割合で涼しかったかというと、そんなことはないのが気象データの読み込みの難しいところ。
私自身が感じた近年で酷暑だった夏は2010年と2018年。2018年にはこんなブログを書いている。2010年はブログにはしていないが、生まれて初めて夏バテしたのでよく覚えている。ちなみにこの2010年の8月に記録した月間平均気温29.6度は、現在でも東京の観測史上で最も高温である。
さていつの頃からか熱中症というのが夏のキーワードとなり、その危険性は室内にいても同じだからエアコンを付けて健康を守りましょうということになっている。ときどき熱中症の死亡例で、電気代を危惧してエアコンを付けていなかったのが原因なんてニュースが流れたりもする。
なのだけれどーーー
なぜか私の身体は日中にエアコンを欲しない。暑いのは暑いのだが何となくエアコンを付けたいと思わないのである。扇風機代わりに使っているサーキュレーターの風だけで過ごせてしまう。もちろんこれは1日中自宅にいて、特に身体を動かすことをしない場合に限った話である。
なのだけれどーーー
なぜか日も落ちて昼間よりは多少は涼しくなってきてから猛烈に暑くなってくる。身体が火照ってくる感じ。こうなるとエアコンなしでは我慢できない。どうして気温が下がってから暑く感じるのかが不思議。
これって特異体質なのかなあ? はっきりとは覚えていないが30歳代中頃からこうなったような気がする。火照る=更年期障害を連想するが、年齢的に早すぎたし更年期障害とされる他の症状もないから違うと思っている。
とりあえずエアコンの電気代が半分で済むからヨシとしよう(^^ゞ
ところで「これって私だけの特異体質?」と思っていることがもう2つある。
それらもいずれそのうち。
オリンピックではその暑さにクレームを寄せている選手団もあるらしい。
しかし今年は東京で35度を超える猛暑日をまだ観測していないから、
本当の東京の夏はコンナモノじゃないよと教えてあげたいな。
10年単位で猛暑日の日数を記したグラフがあったので https://www.teguchi.info/weather/summer/extremely-hot-day/ から引用しておく。
あくまで猛暑日だけのカウントなので気温全体の変化を表したものではないが、それでも2010年以降の数値には驚く。ただし逆に1970年代が2010年代と較べて79対15の割合で涼しかったかというと、そんなことはないのが気象データの読み込みの難しいところ。
私自身が感じた近年で酷暑だった夏は2010年と2018年。2018年にはこんなブログを書いている。2010年はブログにはしていないが、生まれて初めて夏バテしたのでよく覚えている。ちなみにこの2010年の8月に記録した月間平均気温29.6度は、現在でも東京の観測史上で最も高温である。
さていつの頃からか熱中症というのが夏のキーワードとなり、その危険性は室内にいても同じだからエアコンを付けて健康を守りましょうということになっている。ときどき熱中症の死亡例で、電気代を危惧してエアコンを付けていなかったのが原因なんてニュースが流れたりもする。
なのだけれどーーー
なぜか私の身体は日中にエアコンを欲しない。暑いのは暑いのだが何となくエアコンを付けたいと思わないのである。扇風機代わりに使っているサーキュレーターの風だけで過ごせてしまう。もちろんこれは1日中自宅にいて、特に身体を動かすことをしない場合に限った話である。
なのだけれどーーー
なぜか日も落ちて昼間よりは多少は涼しくなってきてから猛烈に暑くなってくる。身体が火照ってくる感じ。こうなるとエアコンなしでは我慢できない。どうして気温が下がってから暑く感じるのかが不思議。
これって特異体質なのかなあ? はっきりとは覚えていないが30歳代中頃からこうなったような気がする。火照る=更年期障害を連想するが、年齢的に早すぎたし更年期障害とされる他の症状もないから違うと思っている。
とりあえずエアコンの電気代が半分で済むからヨシとしよう(^^ゞ
ところで「これって私だけの特異体質?」と思っていることがもう2つある。
それらもいずれそのうち。