2021年10月
2021年10月31日
さよならタワレコ
音楽業界ではCD不況が叫ばれて久しい。アメリカでは何とレコードの売り上げがCDを上回ったと1年ほど前にニュースになった。世界的に見て日本はCDがよく売れている国だが、それでもピーク時の1998年に5879億円あったCDの売り上げが昨年は1269億円である。つまり22年で22%にまで減少。なぜかゾロ目の数字(^^ゞ
その原因は音楽離れとCD以外の音楽メディアの台頭。音楽離れについては推測に推測を重ねたような話になるので横に置いておく。若者の音楽離れなんて話も聞くけれど、高齢化社会が進んだことも大きいんじゃないかな。さてCD以外で有料の音楽メディアといえば、具体的にはダウンロード販売やストリーミング(ネット配信)ということになる。
日本レコード協会の統計では項目の定義にわからないところがあるが、とりあえず数字を拾っておくと2020年の実績は以下の通り。ダウンロードとストリーミングを足すと684億円だから、CDの約半分の市場規模にまで育っている。
CD 1269億円
ダウンロード 177億円
ストリーミング 507億円
前置きが長くなったが、とりあえず人々はCDを買わなくなったということ。でも私はけっこうCDを買ってきた。だいたい年間で10万円くらい。もっとも5〜6年前からはCDの中にあるファイルをパソコンに取り込んで、そこからDAC(デジタル・アナログ・コンバーター)という装置を介してオーディオにつなぐスタイル。同時に携帯音楽プレーヤーにもファイルを移してある。CDプレーヤーを使うのは購入直後でまだパソコンに取り込んでない時くらい。
それならばCDに取り込む手間なんかかけずに、ダウンロード販売で買えばと思われるかも知れない。しかし私が主に買うクラシックの分野では品揃えが充実していないのである。直近となる5月に購入した7枚について確認してみると、e-onkyoというメジャーなサイトで販売されていたのは、そのうちの1枚しかなかった。それとe-onkyoで扱っているのはハイレゾというCDより高音質のファイルで、だからCDと較べて価格が数割ほど高い。なのに私の耳と持っているオーディオ機器ではほとんど違いが分からず(^^ゞ だったらCDでいいかという考えだった。
一方のストリーミングはというと、昨年の4月にDoCoMoのキャンペーンでAmazonプライムが1年間無料になり、遅ればせながらその特典に含まれるAmazonミュージックを利用していた。若かりし頃によく聴いていた音楽と、夜に流す女性ジャズヴォーカルが中心。最近はJ-POPのカバーアルバムにちょっとハマった。
Amazonミュージックはファミリー割引や学割を除いてPRIME、UNLIMITED、HDの3コースに分かれており、曲数と音質では以下の違いがある。
PRIMEが200万曲なのに対して、UNLIMITEDとHDは7500万曲
PRIMEとUNLIMITEDがCDより低い音質なのに対して、HDはCDと同等かそれ以上の音質
DoCoMoのキャンペーンで利用できたのはPRIMEコース。
つまりCDより音質的には低いストリーミングで聴いていた。
もっとも、それはAppleミュージックやSpotifyなどのメジャーどころと同等の音質で、いわばストリーミングでの標準的な音質。CDと聞き較べてもほとんど聞き分けられないし、それだけを聴いていたら音質に不満を感じる人はほとんどいないはず。だいたい私は古いロックやポップスを聴くのに、当時のカーステやラジカセの雰囲気に近い低音質で楽しむために、オーディオではなくパソコンのスピーカーで鳴らしていたくらいで。
ちなみにAmazonミュージックでクラシックはほとんど聴いていない。PRIMEコースではラインナップが貧弱だったので、クラシックはCDそれ以外をストリーミングという使い分けに自然となった。
そして1年が経って今年の4月に無料キャンペーン期間が終了したわけだが、まんまとキャンペーンでの体験に取り込まれて有料会員になってしまった(^^ゞ ただしそれは音楽のためというよりAmazonプライムビデオで観られる映画が主な理由。
なので当然ながら音楽はPRIMEコースを選択(というよりAmazonのプライム会員になるとAmazonミュージックのPRIMEコースが無料で付いてくる)。PRIMEコースで音楽を聴いていると、しょっちゅうUNLIMITEDにアップグレードしませんか?という表示が出る。でもPRIMEコースでも古いロックやポップスあるいは女性ジャズヴォーカルでまだ聴いていないアルバムがたくさんあったので、それらを聴き尽くすまではいいかなと思っていた。
しかし6月にストリーミグ業界に大きな変化が起こる。
ーーー続く
その原因は音楽離れとCD以外の音楽メディアの台頭。音楽離れについては推測に推測を重ねたような話になるので横に置いておく。若者の音楽離れなんて話も聞くけれど、高齢化社会が進んだことも大きいんじゃないかな。さてCD以外で有料の音楽メディアといえば、具体的にはダウンロード販売やストリーミング(ネット配信)ということになる。
日本レコード協会の統計では項目の定義にわからないところがあるが、とりあえず数字を拾っておくと2020年の実績は以下の通り。ダウンロードとストリーミングを足すと684億円だから、CDの約半分の市場規模にまで育っている。
CD 1269億円
ダウンロード 177億円
ストリーミング 507億円
前置きが長くなったが、とりあえず人々はCDを買わなくなったということ。でも私はけっこうCDを買ってきた。だいたい年間で10万円くらい。もっとも5〜6年前からはCDの中にあるファイルをパソコンに取り込んで、そこからDAC(デジタル・アナログ・コンバーター)という装置を介してオーディオにつなぐスタイル。同時に携帯音楽プレーヤーにもファイルを移してある。CDプレーヤーを使うのは購入直後でまだパソコンに取り込んでない時くらい。
それならばCDに取り込む手間なんかかけずに、ダウンロード販売で買えばと思われるかも知れない。しかし私が主に買うクラシックの分野では品揃えが充実していないのである。直近となる5月に購入した7枚について確認してみると、e-onkyoというメジャーなサイトで販売されていたのは、そのうちの1枚しかなかった。それとe-onkyoで扱っているのはハイレゾというCDより高音質のファイルで、だからCDと較べて価格が数割ほど高い。なのに私の耳と持っているオーディオ機器ではほとんど違いが分からず(^^ゞ だったらCDでいいかという考えだった。
一方のストリーミングはというと、昨年の4月にDoCoMoのキャンペーンでAmazonプライムが1年間無料になり、遅ればせながらその特典に含まれるAmazonミュージックを利用していた。若かりし頃によく聴いていた音楽と、夜に流す女性ジャズヴォーカルが中心。最近はJ-POPのカバーアルバムにちょっとハマった。
Amazonミュージックはファミリー割引や学割を除いてPRIME、UNLIMITED、HDの3コースに分かれており、曲数と音質では以下の違いがある。
PRIMEが200万曲なのに対して、UNLIMITEDとHDは7500万曲
PRIMEとUNLIMITEDがCDより低い音質なのに対して、HDはCDと同等かそれ以上の音質
DoCoMoのキャンペーンで利用できたのはPRIMEコース。
つまりCDより音質的には低いストリーミングで聴いていた。
もっとも、それはAppleミュージックやSpotifyなどのメジャーどころと同等の音質で、いわばストリーミングでの標準的な音質。CDと聞き較べてもほとんど聞き分けられないし、それだけを聴いていたら音質に不満を感じる人はほとんどいないはず。だいたい私は古いロックやポップスを聴くのに、当時のカーステやラジカセの雰囲気に近い低音質で楽しむために、オーディオではなくパソコンのスピーカーで鳴らしていたくらいで。
ちなみにAmazonミュージックでクラシックはほとんど聴いていない。PRIMEコースではラインナップが貧弱だったので、クラシックはCDそれ以外をストリーミングという使い分けに自然となった。
そして1年が経って今年の4月に無料キャンペーン期間が終了したわけだが、まんまとキャンペーンでの体験に取り込まれて有料会員になってしまった(^^ゞ ただしそれは音楽のためというよりAmazonプライムビデオで観られる映画が主な理由。
なので当然ながら音楽はPRIMEコースを選択(というよりAmazonのプライム会員になるとAmazonミュージックのPRIMEコースが無料で付いてくる)。PRIMEコースで音楽を聴いていると、しょっちゅうUNLIMITEDにアップグレードしませんか?という表示が出る。でもPRIMEコースでも古いロックやポップスあるいは女性ジャズヴォーカルでまだ聴いていないアルバムがたくさんあったので、それらを聴き尽くすまではいいかなと思っていた。
しかし6月にストリーミグ業界に大きな変化が起こる。
ーーー続く
2021年10月22日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その7
1年と3ヶ月ほど続いたアルル時代の次は「その4」に記したようにサン=レミ時代、そしてオーヴェル=シュル=オワーズ時代へと続く。そのサン=レミとはアルルから20キロ北東にある街の名前。ゴッホはこの地にある修道院付属の精神病院に入院した。
きっかけは有名な「耳切り事件」。
アルルで画家の共同体を目論んだゴッホだったが参加したのはゴーギャンのみ。その彼とも1ヶ月ほどで仲違いが始まり、それが原因かどうかはよく知らないが、1888年の年末にゴッホは自らカミソリで左耳を切り落とす行為に出る。とにかくゴッホはイッチャッタわけ。もっとも突然に発狂したわけではなく、もともとゴッホはちょっとおかしかった。伝道師をしていた頃にも父親に精神病院に入れられそうになっている。
アルルの市立病院に4ヶ月ほど入院した後、ゴッホはサン=レミへ移る。だからシャバにいたのは9ヶ月ということになる。ただし入院中も絵は描いていてけっこう名作を残している。
サン=レミの病院は資料によっては療養所あるいは精神療養院と書かれている場合もあり、普通の精神病院よりは緩い?施設だったようである。またその病院は現在も運営されており、ゴッホの入院していた病室は観光客に公開されているようだ。
中庭が美しくてラベンダーも咲き誇っているし、
こんなところなら私も入院してみたい(^^ゞ
ゴッホの絵を見ていつも思うのは気が狂う・気が触れるって何だろうということ。彼がアルルに来た頃には、耳を切り落とす前でも既に相当コジらせていたように思う。でも「ヒマワリ」をはじめとした数々の傑作を描くわけである。ちょっとおかしかったから、あんな絵が描けたのか、あるいはおかしくなかったら、もっと凄かったのか。それは永遠の謎かも。
ちなみに切り落とした耳は「僕を忘れないでね」と言って、
馴染みの売春婦に渡したらしい。そんなのもらったら怖すぎるヤロ(>_<)
ではサン=レミ時代の作品を。
「サン=レミの療養院の庭」 1889年5月
上の写真でも分かるようにサン=レミの病院は周辺環境がよかったので、意外と筆がはかどったようである。何度も書くが、こんなまともな絵を描く人が狂っているなんてどうにも想像しづらい。
「麦束のある月の出の風景」 1889年7月
「夕暮れの松の木」 1889年12月
「草地の木の幹」 1890年4月
「善きサマリア人(ドラクロワによる)」 1990年5月
これはドラクロアの模写。
この展覧会出品ではないが、参考までに模写したのはこんな作品。
なおドラクロアで一番有名なのはこの作品ね。
ゴッホの模写は模写というより、主題だけを借りてゴッホ流に描き直したようなものも多い。でもこれはドラクロアのオリジナルと、ゴッホのアレンジがイイ感じに混じり合っていると思う。
「悲しむ老人(永遠の門にて)」 1990年5月
「夜のプロヴァンスの田舎道」 1990年5月
この展覧会の目玉作品。ヒマワリがアルル時代の代表的モチーフだとしたら、サン=レミ時代のそれが糸杉。ちなみにスギとヒノキは親戚みたいなもので、糸杉は杉という名前が付いていてもヒノキに近いらしい。またスギやヒノキと違って、日本に自生の糸杉はない。
ところで2012年の展覧会で見た「二本の糸杉」は糸杉が圧倒的な存在感だった。最近よく使われる言葉で表すなら「圧を感じた」。
しかし、こちらの糸杉はそうでもなかったかな。絵に渦のようなものを描くのはサン=レミ時代からのゴッホの特徴だが、それが強かったせいもある。空にある月と星?のグルグルに目を取られてしまったというか。まあでも私はヒマワリより糸杉のほうが好きなので、その代表作を眺められて満足。
サン = レミに来てからも何度か発作を起こしたりしたものの、なんとか体調は回復し、入院から1年後の1890年の5月中頃に退院。南仏を離れて次はパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住む。ゴッホがなぜここを選んだのかよく分からないが、セザンヌやピサロなど多くの画家も滞在しているから画家が好む場所なのだろう。
オーヴェル=シュル=オワーズ時代の作品で展示されていたのは1点のみ。
展覧会のトリなのに、ちょっとつまらない作品だったのが残念。
「花咲くマロニエの木」 1890年5月
そしてオーヴェル=シュル=オワーズ時代はわずか2ヶ月で終焉を迎える。7月末にゴッホが自殺を図ったからである(自殺ではなかったという説もある)。享年37歳。
ここまでゴッホの各時代を紹介してきたが、
Wikipediaによると、その期間に制作された作品数は ※油絵のみで素描などは含まず
オランダ時代 221点
ベルギー時代 7点 (展覧会になかったのでブログでは記さず)
パリ時代 225点
アルル時代 189点
サン=レミ時代 125点
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 81点
で合計848点。
これをそれぞれの滞在期間で割ると
オランダ時代 約55ヶ月 1ヶ月あたり約4枚
ベルギー時代 約04ヶ月 1ヶ月あたり約1.75枚
パリ時代 約24ヶ月 1ヶ月あたり約9.4枚
アルル時代 約14ヶ月 1ヶ月あたり約13.5枚
サン=レミ時代 約13ヶ月 1ヶ月あたり約9.6枚
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 約02ヶ月 1ヶ月あたり約40枚
となる。
どの時代も驚異的な数値。特にオーヴェル=シュル=オワーズ時代の1ヶ月あたり約40枚は人間業とは思えない。誤記かとも疑ったが、こちらのページで77点までは画像付きで確認できたから間違いではなさそう。いったいゴッホはどんな生活を送っていた?
今回の展覧会でゴッホの油絵は32点が展示されていた。超大作はなかったものの、それなりに粒は揃っていたと思う。しかし、そのうち2010年と2012年のゴッホ展と重複していた作品が8点ある。10年ほど前のことだから再会の楽しみはあるとしても、1/4も被っているのはちょっとキツい。「その2」でも書いたがゴッホ作品はオランダ国立ゴッホ美術館と、今回のクレラー・ミュラー美術館にまとまったコレクションがある。必然的にそこから作品を借りることが多くなるのは理解できるとしても、もうちょっと考えて欲しかった。
また「その1」で書いたように、私がゴッホで一番見たいのは「夜のカフェテラス」という作品。ところでそれはどこにあるのだと調べたら、何とクレラー・ミュラー美術館じゃないか。どうしてそれを貸してくれなかったのだ(涙)
安定した集客が見込めるのか、この20年間に9回も開催されているゴッホ展。次も「またゴッホかあ」とか言いながら、どうせ見に行くんだろうな(^^ゞ
おしまい
きっかけは有名な「耳切り事件」。
アルルで画家の共同体を目論んだゴッホだったが参加したのはゴーギャンのみ。その彼とも1ヶ月ほどで仲違いが始まり、それが原因かどうかはよく知らないが、1888年の年末にゴッホは自らカミソリで左耳を切り落とす行為に出る。とにかくゴッホはイッチャッタわけ。もっとも突然に発狂したわけではなく、もともとゴッホはちょっとおかしかった。伝道師をしていた頃にも父親に精神病院に入れられそうになっている。
アルルの市立病院に4ヶ月ほど入院した後、ゴッホはサン=レミへ移る。だからシャバにいたのは9ヶ月ということになる。ただし入院中も絵は描いていてけっこう名作を残している。
サン=レミの病院は資料によっては療養所あるいは精神療養院と書かれている場合もあり、普通の精神病院よりは緩い?施設だったようである。またその病院は現在も運営されており、ゴッホの入院していた病室は観光客に公開されているようだ。
中庭が美しくてラベンダーも咲き誇っているし、
こんなところなら私も入院してみたい(^^ゞ
ゴッホの絵を見ていつも思うのは気が狂う・気が触れるって何だろうということ。彼がアルルに来た頃には、耳を切り落とす前でも既に相当コジらせていたように思う。でも「ヒマワリ」をはじめとした数々の傑作を描くわけである。ちょっとおかしかったから、あんな絵が描けたのか、あるいはおかしくなかったら、もっと凄かったのか。それは永遠の謎かも。
ちなみに切り落とした耳は「僕を忘れないでね」と言って、
馴染みの売春婦に渡したらしい。そんなのもらったら怖すぎるヤロ(>_<)
ではサン=レミ時代の作品を。
「サン=レミの療養院の庭」 1889年5月
上の写真でも分かるようにサン=レミの病院は周辺環境がよかったので、意外と筆がはかどったようである。何度も書くが、こんなまともな絵を描く人が狂っているなんてどうにも想像しづらい。
「麦束のある月の出の風景」 1889年7月
「夕暮れの松の木」 1889年12月
「草地の木の幹」 1890年4月
「善きサマリア人(ドラクロワによる)」 1990年5月
これはドラクロアの模写。
この展覧会出品ではないが、参考までに模写したのはこんな作品。
なおドラクロアで一番有名なのはこの作品ね。
ゴッホの模写は模写というより、主題だけを借りてゴッホ流に描き直したようなものも多い。でもこれはドラクロアのオリジナルと、ゴッホのアレンジがイイ感じに混じり合っていると思う。
「悲しむ老人(永遠の門にて)」 1990年5月
「夜のプロヴァンスの田舎道」 1990年5月
この展覧会の目玉作品。ヒマワリがアルル時代の代表的モチーフだとしたら、サン=レミ時代のそれが糸杉。ちなみにスギとヒノキは親戚みたいなもので、糸杉は杉という名前が付いていてもヒノキに近いらしい。またスギやヒノキと違って、日本に自生の糸杉はない。
ところで2012年の展覧会で見た「二本の糸杉」は糸杉が圧倒的な存在感だった。最近よく使われる言葉で表すなら「圧を感じた」。
しかし、こちらの糸杉はそうでもなかったかな。絵に渦のようなものを描くのはサン=レミ時代からのゴッホの特徴だが、それが強かったせいもある。空にある月と星?のグルグルに目を取られてしまったというか。まあでも私はヒマワリより糸杉のほうが好きなので、その代表作を眺められて満足。
サン = レミに来てからも何度か発作を起こしたりしたものの、なんとか体調は回復し、入院から1年後の1890年の5月中頃に退院。南仏を離れて次はパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住む。ゴッホがなぜここを選んだのかよく分からないが、セザンヌやピサロなど多くの画家も滞在しているから画家が好む場所なのだろう。
オーヴェル=シュル=オワーズ時代の作品で展示されていたのは1点のみ。
展覧会のトリなのに、ちょっとつまらない作品だったのが残念。
「花咲くマロニエの木」 1890年5月
そしてオーヴェル=シュル=オワーズ時代はわずか2ヶ月で終焉を迎える。7月末にゴッホが自殺を図ったからである(自殺ではなかったという説もある)。享年37歳。
ここまでゴッホの各時代を紹介してきたが、
Wikipediaによると、その期間に制作された作品数は ※油絵のみで素描などは含まず
オランダ時代 221点
ベルギー時代 7点 (展覧会になかったのでブログでは記さず)
パリ時代 225点
アルル時代 189点
サン=レミ時代 125点
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 81点
で合計848点。
これをそれぞれの滞在期間で割ると
オランダ時代 約55ヶ月 1ヶ月あたり約4枚
ベルギー時代 約04ヶ月 1ヶ月あたり約1.75枚
パリ時代 約24ヶ月 1ヶ月あたり約9.4枚
アルル時代 約14ヶ月 1ヶ月あたり約13.5枚
サン=レミ時代 約13ヶ月 1ヶ月あたり約9.6枚
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 約02ヶ月 1ヶ月あたり約40枚
となる。
どの時代も驚異的な数値。特にオーヴェル=シュル=オワーズ時代の1ヶ月あたり約40枚は人間業とは思えない。誤記かとも疑ったが、こちらのページで77点までは画像付きで確認できたから間違いではなさそう。いったいゴッホはどんな生活を送っていた?
今回の展覧会でゴッホの油絵は32点が展示されていた。超大作はなかったものの、それなりに粒は揃っていたと思う。しかし、そのうち2010年と2012年のゴッホ展と重複していた作品が8点ある。10年ほど前のことだから再会の楽しみはあるとしても、1/4も被っているのはちょっとキツい。「その2」でも書いたがゴッホ作品はオランダ国立ゴッホ美術館と、今回のクレラー・ミュラー美術館にまとまったコレクションがある。必然的にそこから作品を借りることが多くなるのは理解できるとしても、もうちょっと考えて欲しかった。
また「その1」で書いたように、私がゴッホで一番見たいのは「夜のカフェテラス」という作品。ところでそれはどこにあるのだと調べたら、何とクレラー・ミュラー美術館じゃないか。どうしてそれを貸してくれなかったのだ(涙)
安定した集客が見込めるのか、この20年間に9回も開催されているゴッホ展。次も「またゴッホかあ」とか言いながら、どうせ見に行くんだろうな(^^ゞ
おしまい
2021年10月21日
鮭とサーモン
ゴッホ展の話は1回お休み。
タマネギの食べるところ(丸い部分)が植物学的に葉であることにビックリしたら、その葉は球根だというドンデン返しがあったと少し前に書いた。今回も似たような話。 つい最近に高校生向けの番組で知った。
それは鮭(サケ)とサーモンは、日本語と英語の違いではなく
サカナとして別物ということ。
もちろん鮭は英語でサーモンであり語学的に両者は同じサカナ。しかし日本の食品業界においては鮭とサーモンの意味・定義を使い分けているということらしい。
1番のポイントは
鮭=天然物=加熱しないと食べられない
サーモン=養殖物=生で食べられる、というか生で食べるために養殖
という区別。
天然の鮭で生食が不可なのはアニサキスという寄生虫を避けるため。サバやアジの刺身を食べてアニサキスによる食中毒になった話はたまに聞くから、生食不可とされる鮭には寄生している確率がよほど高いのだろう。
そのアニサキスは天然の場合、エサとしているオキアミに寄生しているという食物連鎖で鮭の体内に入る。だからアニサキスを含まないエサを与えた養殖のサーモンは生で食べられるという理屈。
話はそれるが、アニサキスにアタると激痛が走りのたうち回るらしい。しかしアニサキスに寄生されているサカナが痛がったり弱ったりするという話は聞かない。なんとなく共存しているイメージ。クジラなんてオキアミを超大量に飲み込むのに。どうして人間だけ?
鮭とサーモンの違いに話を戻すと、天然と養殖だけでなく、実はサカナとしても微妙に違う。鮭は川で産卵するものの基本的には海で生息している海水魚。対して(日本食品業界でいう)サーモンは川に生息する淡水魚いわゆる川魚。一般的に言うなら鱒(マス)の仲間。鱒なら英語でトラウトになる。
なんだけど鮭と鱒は生物学の分類上で、はっきりとした区別がないから話がややこしい。例を挙げると焼き魚にして食べることの多い白鮭と、川で釣れるニジマスを較べると
サケ目:サケ科:タイヘイヨウサケ属のシロザケという種
サケ目:サケ科:タイヘイヨウサケ属のニジマスという種
といった具合。品種改良したサーモントラウトという種類まであるらしい。つまりサーモンは鮭じゃなくて鱒なんだけれど、鮭と鱒は似たようなものだから、英語的に表記するのにトラウトじゃなくてサーモンでも間違いじゃないということみたい。ついてこれる? まあ鮭はシャケとも読んで元から名前がややこしいサカナ。
この(日本食品業界でいう)サーモンは1986年(昭和61年)に、その養殖が盛んだったノルウェーから輸入されたのが日本で広まったきっかけ。マーケティング戦略としてマグロが独占している高価格帯の生魚マーケットを狙い、切り身マーケットの鮭との差別化を図るために「サーモン」という呼び名を用いたとされる。とはいえマグロより価格は安いから、当時ブームを迎えつつあった回転寿司をターゲットとして販路を広げていったという。
たぶんその頃だったと思うが「日本と違って外国の水産業は進んでいる。ノルウェーの輸出業者なんて商談の際に色見本(いわゆるカラーチップ)を見せて、エサの配合で客の希望する色にサーモンを仕上げてくる」とか聞いて驚いた記憶がある。
それから約35年。マルハニチロが今年3月に発表した調査結果によると、回転寿司でよく食べるネタのランキングでサーモンは10年連続で1位を獲得している。刺身としても定着し人気も高い。お見事なマーケティングだったといえる。
だけれども私、焼き鮭や鮭フライは大好きなのに、生のサーモンはあまり好きじゃない。何となくヌルーとした感じが苦手。お刺身盛り合わせにはたいていサーモンが入っているのを、いつもケシカランと思っている(^^ゞ
タマネギの食べるところ(丸い部分)が植物学的に葉であることにビックリしたら、その葉は球根だというドンデン返しがあったと少し前に書いた。今回も似たような話。 つい最近に高校生向けの番組で知った。
それは鮭(サケ)とサーモンは、日本語と英語の違いではなく
サカナとして別物ということ。
もちろん鮭は英語でサーモンであり語学的に両者は同じサカナ。しかし日本の食品業界においては鮭とサーモンの意味・定義を使い分けているということらしい。
1番のポイントは
鮭=天然物=加熱しないと食べられない
サーモン=養殖物=生で食べられる、というか生で食べるために養殖
という区別。
天然の鮭で生食が不可なのはアニサキスという寄生虫を避けるため。サバやアジの刺身を食べてアニサキスによる食中毒になった話はたまに聞くから、生食不可とされる鮭には寄生している確率がよほど高いのだろう。
そのアニサキスは天然の場合、エサとしているオキアミに寄生しているという食物連鎖で鮭の体内に入る。だからアニサキスを含まないエサを与えた養殖のサーモンは生で食べられるという理屈。
話はそれるが、アニサキスにアタると激痛が走りのたうち回るらしい。しかしアニサキスに寄生されているサカナが痛がったり弱ったりするという話は聞かない。なんとなく共存しているイメージ。クジラなんてオキアミを超大量に飲み込むのに。どうして人間だけ?
鮭とサーモンの違いに話を戻すと、天然と養殖だけでなく、実はサカナとしても微妙に違う。鮭は川で産卵するものの基本的には海で生息している海水魚。対して(日本食品業界でいう)サーモンは川に生息する淡水魚いわゆる川魚。一般的に言うなら鱒(マス)の仲間。鱒なら英語でトラウトになる。
なんだけど鮭と鱒は生物学の分類上で、はっきりとした区別がないから話がややこしい。例を挙げると焼き魚にして食べることの多い白鮭と、川で釣れるニジマスを較べると
サケ目:サケ科:タイヘイヨウサケ属のシロザケという種
サケ目:サケ科:タイヘイヨウサケ属のニジマスという種
といった具合。品種改良したサーモントラウトという種類まであるらしい。つまりサーモンは鮭じゃなくて鱒なんだけれど、鮭と鱒は似たようなものだから、英語的に表記するのにトラウトじゃなくてサーモンでも間違いじゃないということみたい。ついてこれる? まあ鮭はシャケとも読んで元から名前がややこしいサカナ。
この(日本食品業界でいう)サーモンは1986年(昭和61年)に、その養殖が盛んだったノルウェーから輸入されたのが日本で広まったきっかけ。マーケティング戦略としてマグロが独占している高価格帯の生魚マーケットを狙い、切り身マーケットの鮭との差別化を図るために「サーモン」という呼び名を用いたとされる。とはいえマグロより価格は安いから、当時ブームを迎えつつあった回転寿司をターゲットとして販路を広げていったという。
たぶんその頃だったと思うが「日本と違って外国の水産業は進んでいる。ノルウェーの輸出業者なんて商談の際に色見本(いわゆるカラーチップ)を見せて、エサの配合で客の希望する色にサーモンを仕上げてくる」とか聞いて驚いた記憶がある。
それから約35年。マルハニチロが今年3月に発表した調査結果によると、回転寿司でよく食べるネタのランキングでサーモンは10年連続で1位を獲得している。刺身としても定着し人気も高い。お見事なマーケティングだったといえる。
だけれども私、焼き鮭や鮭フライは大好きなのに、生のサーモンはあまり好きじゃない。何となくヌルーとした感じが苦手。お刺身盛り合わせにはたいていサーモンが入っているのを、いつもケシカランと思っている(^^ゞ
2021年10月17日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その6
眺めているだけで気が滅入りそうなシンドイ作品が並んだオランダ時代を経て、1886年の2月からゴッホのパリ時代が始まる。この時点で32歳。彼に仕送りを続けていた弟のテオを頼って経済的理由でやってきたのは確かだとしても、花の都パリで心機一転という気持ちもあったに違いない。
当時のパリは印象派のムーブメントが一段落して、あれこれ分派し始めた頃。ちなみにゴッホはルノアールやモネといった印象派の中心メンバーとは10歳ちょっと、日本語的に表現するなら一回りほど若い。
セーヌ川のほとりで、同じく画家のベルナールと話しているゴッホの後ろ姿とされる写真。1886年は明治19年。パリも少し中心を離れれば、まだ何もなかったことがわかる。
それにしても取って付けたようなテーブルと椅子の配置。写真が切れている左側に店でもあったのか? 奥にVINSというレストランが写っているが、そこのものでもなさそうだし。あるいは「バエ」を狙った仕込み?
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1886年10月
多くの画家が描いているモンマルトルにあったダンスホール。この時代のパリのアイコンともいうべき存在。ゴッホの絵は、まだちょっとオランダ時代の暗さを引きずっている。
しかし翌年の作品からは明るく色数も豊富になり
「そうだゴッホ、もっとイケ!」と声をかけたくなる。
「草地」 1887年4〜6月
「青い花瓶の花」 1887年6月
「レストランの内部」 1887年夏
これは印象派の流れを強く感じる作品。2年間をパリで過ごした後、アルルに移ってゴッホは自分の画風を確立する。しかし、もう少し長くパリにいて、もっと印象派系の技法を取り込んでも面白い展開になったはずとモーソー。
パリに来て2年後の1888年の2月に、
ゴッホはアルルに移る。
地図に赤い印があるのがアルル。矢印が少し内陸になっているが海沿いまで街が広がり、港町マルセイユの西約40キロといった位置関係。ゴッホによって有名になった街といえるが、ローマ時代の遺跡も多い古都である。RONINという映画では円形闘技場がロケ地になった。RONINはロバート・デ・ニーロやジャン・レノが出演しているのにマイナーな映画。でも痛快アクション物好きならきっと気に入るはず。
話がそれた。
ゴッホが次の拠点として、なぜ過去に訪れたこともないアルルを選んだのかは諸説あってはっきりしない。ただ浮世絵などで日本オタクだったゴッホは「ここはまるで日本のように美しい」と大いに気に入ったようである。来たことないくせに(^^ゞ そして私も南仏を訪れたことはないが、その明るい日差しが彼の絵に多大な影響を与えたことは想像が付く。
参考までに地図の上のラインは、北海道の北端である稚内からヨーロッパに向けて引いたもの。ほとんどのヨーロッパ諸国はその緯度からさらに北側である。下のラインはアルルから北海道に向けて引いた。南仏といえども札幌あたりである。ゴッホにはイタリアかスペインを南下して欲しかったな。
ところでゴッホはアルルで、画家の相互扶助組合のような組織を作る構想を持っていたようだ。もちろん何も実現していない。まあ社会に順応できない奴ほど、そういう理想の共同体を追い求めがちなもの。
それはさておき、いよいよアルル時代からが「私たちのゴッホ」なことがわかる。
次の作品は夕暮れにも柳にも見えないけれど、どこから見てもゴッホ!
「夕暮れの刈り込まれた柳」 188年3月
「糸杉に囲まれた果樹園」 1888年4月
ゴッホといえばヒマワリと糸杉に取り憑かれた画家。しかしこれはまだ背景としての描かれ方。パリから来てまだ2ヶ月だからか、何となく印象派的な匂いも残っている。
しかしその1ヶ月後には早くもヒマワリに通ずる雰囲気が出てきた。
「レモンの籠と瓶」 1888年5月
「種まく人」 1888年6月
これはミレーの「種まく人」へのオマージュ。ゴッホはドラクロア、レンブラントなど多くの画家の模写をしたが(中には歌川広重もある)ミレー作品の模写が一番多い。ミレーといえば最も有名なのは「落穂拾い」で、もちろんその模写も描いている。
それだけゴッホはミレーをリスペクトしていたのだろう。「私たちのゴッホ」からはミレーとの共通点を見いだせないとしても、前回に紹介したオランダ時代の農民や労働者を描いた絵を思い出せば、農民画を得意としたミレーとは社会を見る目に似たものがあったのかも知れない。ちなみにミレーはゴッホより40年ほど前の人。
「サント=マリー=ド=ラ=メールの海景」 1888年6月
やたら長いSaintes-Maries-de-la-Merとはアルルにある海沿いの町の名前。キリストが処刑された後に、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベなど彼にゆかりのあるマリアと名の付く女性がこの地に逃れてきた故事に由来するらしい。Saintes-Mariesは聖マリアの複数形。de-la-Merは「海の」という意味だから直訳すれば「海の聖マリアたち」。それにしてもどうしてマリアさんばかりやって来た?
それはともかくゴッホが海を描いた絵は珍しいのじゃないかな。少なくとも私は初めて見たような気がする。それでかなり長く眺めていたのだが、よく見れば、どうってことのない絵だと気がついた(^^ゞ
「黄色い家(通り)」 1888年9月
最初の投稿に書いたように本当に見たいのは「夜のカフェテラス」だけれど、まあそれの昼間版がこの「黄色い家」だと思い込むことにしてやって来たのがこの展覧会。
おそらく実際の風景はこんなに黄色くなかったはず。いくら黄色フェチのゴッホでも、昼間の街並みでこれ以上に黄色を鮮やかにすると破綻するから、ギリギリのところで押さえたんだろうなあと思いながら鑑賞。
ところでテラスと車道(人が歩いているが)の間にあるモッコリしたものは何だろう。これが緑色なら背の低い街路種・生け垣だろうが、土色なので正体不明である。ガードレール的な盛り土かな。しかしそんなものは他で見たことがないし。ナゾ
さてこの作品を目当てに訪れたのだから、相当にじっくりと眺めた。そうすると全体に対して建物群のバランスが小さい、奥に引っ込みすぎているような気がしてきた。パソコンやスマホの画面から少し目を離して確認してもらいたい。建物と道路の面積がほぼ同じである。だからタイトルを「黄色い家」ではなく「黄色い家(通り)」にしたのだろう。
英題ではThe Yellow House (The Street)。しかし最初から建物と道路の風景を描くはずならThe Yellow House & The Street になるはず。描いてる途中でバランスの悪さに気づいたて (The Street) を付け加えたんじゃないか?
それならばと、家がメインになるようにトリミングしてみた(^^ゞ
この「黄色い家・改」のほうが収まりいいでしょ。
「緑のブドウ園」 1888年10月
あまりゴッホ・ゴッホしていないのに、充分にゴッホを楽しめる作品。ゴッホの絵は見ているものに緊張を強いるものも多いが、これは肩の力が抜けているというか。この展覧会で一番気に入った。ほとんど雲ばかりなのに抜けるような高さを感じる秋空が不思議。
ーーー続く
当時のパリは印象派のムーブメントが一段落して、あれこれ分派し始めた頃。ちなみにゴッホはルノアールやモネといった印象派の中心メンバーとは10歳ちょっと、日本語的に表現するなら一回りほど若い。
セーヌ川のほとりで、同じく画家のベルナールと話しているゴッホの後ろ姿とされる写真。1886年は明治19年。パリも少し中心を離れれば、まだ何もなかったことがわかる。
それにしても取って付けたようなテーブルと椅子の配置。写真が切れている左側に店でもあったのか? 奥にVINSというレストランが写っているが、そこのものでもなさそうだし。あるいは「バエ」を狙った仕込み?
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1886年10月
多くの画家が描いているモンマルトルにあったダンスホール。この時代のパリのアイコンともいうべき存在。ゴッホの絵は、まだちょっとオランダ時代の暗さを引きずっている。
しかし翌年の作品からは明るく色数も豊富になり
「そうだゴッホ、もっとイケ!」と声をかけたくなる。
「草地」 1887年4〜6月
「青い花瓶の花」 1887年6月
「レストランの内部」 1887年夏
これは印象派の流れを強く感じる作品。2年間をパリで過ごした後、アルルに移ってゴッホは自分の画風を確立する。しかし、もう少し長くパリにいて、もっと印象派系の技法を取り込んでも面白い展開になったはずとモーソー。
パリに来て2年後の1888年の2月に、
ゴッホはアルルに移る。
地図に赤い印があるのがアルル。矢印が少し内陸になっているが海沿いまで街が広がり、港町マルセイユの西約40キロといった位置関係。ゴッホによって有名になった街といえるが、ローマ時代の遺跡も多い古都である。RONINという映画では円形闘技場がロケ地になった。RONINはロバート・デ・ニーロやジャン・レノが出演しているのにマイナーな映画。でも痛快アクション物好きならきっと気に入るはず。
話がそれた。
ゴッホが次の拠点として、なぜ過去に訪れたこともないアルルを選んだのかは諸説あってはっきりしない。ただ浮世絵などで日本オタクだったゴッホは「ここはまるで日本のように美しい」と大いに気に入ったようである。来たことないくせに(^^ゞ そして私も南仏を訪れたことはないが、その明るい日差しが彼の絵に多大な影響を与えたことは想像が付く。
参考までに地図の上のラインは、北海道の北端である稚内からヨーロッパに向けて引いたもの。ほとんどのヨーロッパ諸国はその緯度からさらに北側である。下のラインはアルルから北海道に向けて引いた。南仏といえども札幌あたりである。ゴッホにはイタリアかスペインを南下して欲しかったな。
ところでゴッホはアルルで、画家の相互扶助組合のような組織を作る構想を持っていたようだ。もちろん何も実現していない。まあ社会に順応できない奴ほど、そういう理想の共同体を追い求めがちなもの。
それはさておき、いよいよアルル時代からが「私たちのゴッホ」なことがわかる。
次の作品は夕暮れにも柳にも見えないけれど、どこから見てもゴッホ!
「夕暮れの刈り込まれた柳」 188年3月
「糸杉に囲まれた果樹園」 1888年4月
ゴッホといえばヒマワリと糸杉に取り憑かれた画家。しかしこれはまだ背景としての描かれ方。パリから来てまだ2ヶ月だからか、何となく印象派的な匂いも残っている。
しかしその1ヶ月後には早くもヒマワリに通ずる雰囲気が出てきた。
「レモンの籠と瓶」 1888年5月
「種まく人」 1888年6月
これはミレーの「種まく人」へのオマージュ。ゴッホはドラクロア、レンブラントなど多くの画家の模写をしたが(中には歌川広重もある)ミレー作品の模写が一番多い。ミレーといえば最も有名なのは「落穂拾い」で、もちろんその模写も描いている。
それだけゴッホはミレーをリスペクトしていたのだろう。「私たちのゴッホ」からはミレーとの共通点を見いだせないとしても、前回に紹介したオランダ時代の農民や労働者を描いた絵を思い出せば、農民画を得意としたミレーとは社会を見る目に似たものがあったのかも知れない。ちなみにミレーはゴッホより40年ほど前の人。
「サント=マリー=ド=ラ=メールの海景」 1888年6月
やたら長いSaintes-Maries-de-la-Merとはアルルにある海沿いの町の名前。キリストが処刑された後に、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベなど彼にゆかりのあるマリアと名の付く女性がこの地に逃れてきた故事に由来するらしい。Saintes-Mariesは聖マリアの複数形。de-la-Merは「海の」という意味だから直訳すれば「海の聖マリアたち」。それにしてもどうしてマリアさんばかりやって来た?
それはともかくゴッホが海を描いた絵は珍しいのじゃないかな。少なくとも私は初めて見たような気がする。それでかなり長く眺めていたのだが、よく見れば、どうってことのない絵だと気がついた(^^ゞ
「黄色い家(通り)」 1888年9月
最初の投稿に書いたように本当に見たいのは「夜のカフェテラス」だけれど、まあそれの昼間版がこの「黄色い家」だと思い込むことにしてやって来たのがこの展覧会。
おそらく実際の風景はこんなに黄色くなかったはず。いくら黄色フェチのゴッホでも、昼間の街並みでこれ以上に黄色を鮮やかにすると破綻するから、ギリギリのところで押さえたんだろうなあと思いながら鑑賞。
ところでテラスと車道(人が歩いているが)の間にあるモッコリしたものは何だろう。これが緑色なら背の低い街路種・生け垣だろうが、土色なので正体不明である。ガードレール的な盛り土かな。しかしそんなものは他で見たことがないし。ナゾ
さてこの作品を目当てに訪れたのだから、相当にじっくりと眺めた。そうすると全体に対して建物群のバランスが小さい、奥に引っ込みすぎているような気がしてきた。パソコンやスマホの画面から少し目を離して確認してもらいたい。建物と道路の面積がほぼ同じである。だからタイトルを「黄色い家」ではなく「黄色い家(通り)」にしたのだろう。
英題ではThe Yellow House (The Street)。しかし最初から建物と道路の風景を描くはずならThe Yellow House & The Street になるはず。描いてる途中でバランスの悪さに気づいたて (The Street) を付け加えたんじゃないか?
それならばと、家がメインになるようにトリミングしてみた(^^ゞ
この「黄色い家・改」のほうが収まりいいでしょ。
「緑のブドウ園」 1888年10月
あまりゴッホ・ゴッホしていないのに、充分にゴッホを楽しめる作品。ゴッホの絵は見ているものに緊張を強いるものも多いが、これは肩の力が抜けているというか。この展覧会で一番気に入った。ほとんど雲ばかりなのに抜けるような高さを感じる秋空が不思議。
ーーー続く
2021年10月15日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その5
さていよいよオランダ時代のゴッホ。展覧会では素描と油絵にコーナーが分けられていた。画家になったとはいえ、この時代のゴッホはまだ駆け出しで修行中みたいなものだから、素描が数多く残っているのだろう。
ところで1人の画家に焦点を当てる展覧会はたいてい回顧展になる。つまりその人のキャリアの初期から末期までの作品を順に並べるような構成。作品というか画風の移り変わりを眺める楽しみはあるが、誰だって最初はレベルが低いわけで、初期の作品に資料的価値はあっても美術的価値(金銭的価値とは別ね)があるとは限らない。画家は練習で描いたものを(たいていは死んだ後に)人目にさらされてどんな気持ちになるのだろう。私なら終活で処分しておきたい(^^ゞ
「刈り込んだ柳のある道」 1881年
「砂地の木の根」 1882年
「スヘーフェニンゲンの魚干し小屋」 1882年
ほらね、ゴッホだと言われなきゃ見る気にもならないでしょ(^^ゞ
ちなみにこのコーナーのタイトルは「素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代」となっている。素描(デッサン)と写生(スケッチ)の定義は、わかったようでわからない違いなのだが、何となく風景をデッサンというのには違和感があるかな。
モデルを雇うお金がなかったので、
素人にお小遣い程度を渡して描いたものもたくさん残っている。
「コーヒーを飲む老人」 1882年
「祈り」 1882年〜1883年
「鍋を洗う農婦」 1885年
そしてオランダ時代の末期1885年に、ゴッホは初の本格的作品とされる「ジャガイモを食べる人々」を描く。ゴッホの歴史をたどる時には必ず登場する有名な作品。
今回の展示作品ではないが、これがそれ。
この作品によほど自信があったのか、多くの人に見てもらえるようにゴッホはそのリトグラフ(版画)バージョンを制作する。それが展示されていたこちら。素描とはいえないが、モノクロだからこちらのコーナーなのか。
「ジャガイモを食べる人々」 1885年
微妙に人物の描き方が違っているのはいいとしても、画面の左右が反転している。これは版画の刷り上がりは左右反転するのに、ゴッホが油絵と同じ人物配置で描いたから。ワザとなのか、刷り終わってから「やってもうた!」と思ったのかどちらだろう。
次はオランダ時代の油絵コーナー。
タイトルは「画家ファン・ゴッホ、オランダ時代」。
「麦わら帽子のある静物」 1881年
「森のはずれ」 1883年
「織機と織工」 1884年
「女の顔」 1884年〜1885年
「白い帽子を被った女の顔」 1884年〜1885年
「テーブルに着く女」 1885年
「リンゴとカボチャのある静物」 1885年
ひたすらゴッホの陰キャな性格が伝わってくる作品が並ぶ。
ゴッホらしい線の太さは感じられるものの、これがあの色彩が爆発するような絵を描いた画家だと思うのは難しい。またこの時期があったからこそ、後の有名な作品の数々が生まれたという気もしない。
結論としてはヨウワカラン(^^ゞ
ーーー続く
ところで1人の画家に焦点を当てる展覧会はたいてい回顧展になる。つまりその人のキャリアの初期から末期までの作品を順に並べるような構成。作品というか画風の移り変わりを眺める楽しみはあるが、誰だって最初はレベルが低いわけで、初期の作品に資料的価値はあっても美術的価値(金銭的価値とは別ね)があるとは限らない。画家は練習で描いたものを(たいていは死んだ後に)人目にさらされてどんな気持ちになるのだろう。私なら終活で処分しておきたい(^^ゞ
「刈り込んだ柳のある道」 1881年
「砂地の木の根」 1882年
「スヘーフェニンゲンの魚干し小屋」 1882年
ほらね、ゴッホだと言われなきゃ見る気にもならないでしょ(^^ゞ
ちなみにこのコーナーのタイトルは「素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代」となっている。素描(デッサン)と写生(スケッチ)の定義は、わかったようでわからない違いなのだが、何となく風景をデッサンというのには違和感があるかな。
モデルを雇うお金がなかったので、
素人にお小遣い程度を渡して描いたものもたくさん残っている。
「コーヒーを飲む老人」 1882年
「祈り」 1882年〜1883年
「鍋を洗う農婦」 1885年
そしてオランダ時代の末期1885年に、ゴッホは初の本格的作品とされる「ジャガイモを食べる人々」を描く。ゴッホの歴史をたどる時には必ず登場する有名な作品。
今回の展示作品ではないが、これがそれ。
この作品によほど自信があったのか、多くの人に見てもらえるようにゴッホはそのリトグラフ(版画)バージョンを制作する。それが展示されていたこちら。素描とはいえないが、モノクロだからこちらのコーナーなのか。
「ジャガイモを食べる人々」 1885年
微妙に人物の描き方が違っているのはいいとしても、画面の左右が反転している。これは版画の刷り上がりは左右反転するのに、ゴッホが油絵と同じ人物配置で描いたから。ワザとなのか、刷り終わってから「やってもうた!」と思ったのかどちらだろう。
次はオランダ時代の油絵コーナー。
タイトルは「画家ファン・ゴッホ、オランダ時代」。
「麦わら帽子のある静物」 1881年
「森のはずれ」 1883年
「織機と織工」 1884年
「女の顔」 1884年〜1885年
「白い帽子を被った女の顔」 1884年〜1885年
「テーブルに着く女」 1885年
「リンゴとカボチャのある静物」 1885年
ひたすらゴッホの陰キャな性格が伝わってくる作品が並ぶ。
ゴッホらしい線の太さは感じられるものの、これがあの色彩が爆発するような絵を描いた画家だと思うのは難しい。またこの時期があったからこそ、後の有名な作品の数々が生まれたという気もしない。
結論としてはヨウワカラン(^^ゞ
ーーー続く
2021年10月13日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その4
ゴッホの画業は10年ほどだと「その2」でも述べたが、
もう少しその前からの経歴を書いておくと
彼は1853年3月30日にオランダ南部で生まれる。(明治維新が1868年)
父親は牧師。5人の叔父がいて、そのうちの3人は画商になっている。
そういうDNAが彼にも引き継がれていたのかも知れない。
画商の叔父の口添えで、パリに本社のある大手画廊に16歳から23歳まで勤務する。最初はオランダのハーグ支店に約4年。次にロンドン支店へ2年間移り、最後にパリ本店で約1年。こう書くとなかなかの国際ビジネスマンのようであるが、ハーグでの素行不良を理由にロンドンに飛ばされ、ロンドンでも同じようなことをして、パリでクビになったといういきさつ。ゴッホ的には金儲け主義の会社に対する反発もあったらしい。
ちなみにオランダの首都はアムステルダムだと習ったはずだが、国会議事堂、王宮、官庁、各国の大使館などはハーグにあり、事実上の首都はハーグという変わった体制になってる。
これはゴッホが18歳の時の写真。
なお「その2」に載せたのは33歳頃のもの。
画廊をクビになってからはイギリスで教師をした後、オランダに戻って書店の店員になる。これが23歳から24歳になった頃まで。
そのあたりから聖職者になりたいという希望を持ち始め、24歳で大学の神学部を目指す。しかし受験勉強について行けずに挫折。言ってみれば落ちこぼれ。ただしめげずに25歳の時にベルギーで伝道師養成学校に入る。これはキリスト教業界を目指す者の専門学校みたいなところだろうか? 約3ヶ月で仮免許を取得する。
それにしてもこの時代(日本では明治の初め)なのによく各国を渡り歩くものだ。あるいはこの時代のヨーロッパでは国境の感覚が薄いのかな。
25歳の中頃から、ベルギーの炭鉱地帯のボリナージュというところで伝道師としての活動を始める。しかし地元住民との折り合いが悪化し、さらに教会とも揉めて約1年ほどで伝道師の仮免許を剥奪される(/o\) ゴッホは何をさせてもアカン奴だったみたい。
ただしオランダへは戻らず、同地の伝道師や炭鉱夫の家に泊まり込んでプー生活を始めた。26歳なのに親からの仕送りに頼っていたようだからますますアカン奴。そしてこの時期から絵を描き始めたようだ。ただしまだスケッチやデッサンの類いだけ。27歳の中頃には画家になる決心を周りに語っている。
そしてブリュッセルに移り住んでスケッチやデッサンに精を出す。ボリナージュは絵の修行をするには田舎過ぎたのかも知れない。こちらでは美術学校の短期コースなども受講していたようである。
ただしブリュッセルでは金が続かずに、28歳になると実家のあるオランダのエッテンに帰ってくる。後世ではここからのゴッホが画家と見なされオランダ時代と称される。期間は1881年4月から1885年11月(28歳から32歳)。この間にエッテン、ハーグ、ニューネンと拠点を変えている。
その後にごく短期間をベルギーで過ごすが、
美術史的にそこは省略してオランダ時代の次を
パリ時代 :1886年2月〜1888年初頭 :32歳〜34歳
アルル時代 :1888年2月〜1889年5月 :34歳〜36歳
サン=レミ時代:1889年5月〜1890年5月 :36〜37歳
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 :1890年5月〜1890年7月 :37歳で没
に区分するのが一般的。
それでゴッホの絵が多くの人がイメージするゴッホの画風になるのはアルル時代からである。つまりゴッホの画業は10年で短いと言われるが(オランダ時代から数えると正確には9年と3ヶ月ほど)、アルル以降に限れば2年と半年にすぎない。どれだけ密度の濃い2年半を過ごしたのだろうか。私の過去2年半なんてゴッホの3日分くらいじゃないかと思ったり。いや、2年半であれだけのことができるのだから、まだまだ私にも可能性は山ほど残っていると前向きに解釈しよう(^^ゞ
チャッチャと経歴を書くだけのつもりが、
思ったより長くなってしまったので
ーーー続く
もう少しその前からの経歴を書いておくと
彼は1853年3月30日にオランダ南部で生まれる。(明治維新が1868年)
父親は牧師。5人の叔父がいて、そのうちの3人は画商になっている。
そういうDNAが彼にも引き継がれていたのかも知れない。
画商の叔父の口添えで、パリに本社のある大手画廊に16歳から23歳まで勤務する。最初はオランダのハーグ支店に約4年。次にロンドン支店へ2年間移り、最後にパリ本店で約1年。こう書くとなかなかの国際ビジネスマンのようであるが、ハーグでの素行不良を理由にロンドンに飛ばされ、ロンドンでも同じようなことをして、パリでクビになったといういきさつ。ゴッホ的には金儲け主義の会社に対する反発もあったらしい。
ちなみにオランダの首都はアムステルダムだと習ったはずだが、国会議事堂、王宮、官庁、各国の大使館などはハーグにあり、事実上の首都はハーグという変わった体制になってる。
これはゴッホが18歳の時の写真。
なお「その2」に載せたのは33歳頃のもの。
画廊をクビになってからはイギリスで教師をした後、オランダに戻って書店の店員になる。これが23歳から24歳になった頃まで。
そのあたりから聖職者になりたいという希望を持ち始め、24歳で大学の神学部を目指す。しかし受験勉強について行けずに挫折。言ってみれば落ちこぼれ。ただしめげずに25歳の時にベルギーで伝道師養成学校に入る。これはキリスト教業界を目指す者の専門学校みたいなところだろうか? 約3ヶ月で仮免許を取得する。
それにしてもこの時代(日本では明治の初め)なのによく各国を渡り歩くものだ。あるいはこの時代のヨーロッパでは国境の感覚が薄いのかな。
25歳の中頃から、ベルギーの炭鉱地帯のボリナージュというところで伝道師としての活動を始める。しかし地元住民との折り合いが悪化し、さらに教会とも揉めて約1年ほどで伝道師の仮免許を剥奪される(/o\) ゴッホは何をさせてもアカン奴だったみたい。
ただしオランダへは戻らず、同地の伝道師や炭鉱夫の家に泊まり込んでプー生活を始めた。26歳なのに親からの仕送りに頼っていたようだからますますアカン奴。そしてこの時期から絵を描き始めたようだ。ただしまだスケッチやデッサンの類いだけ。27歳の中頃には画家になる決心を周りに語っている。
そしてブリュッセルに移り住んでスケッチやデッサンに精を出す。ボリナージュは絵の修行をするには田舎過ぎたのかも知れない。こちらでは美術学校の短期コースなども受講していたようである。
ただしブリュッセルでは金が続かずに、28歳になると実家のあるオランダのエッテンに帰ってくる。後世ではここからのゴッホが画家と見なされオランダ時代と称される。期間は1881年4月から1885年11月(28歳から32歳)。この間にエッテン、ハーグ、ニューネンと拠点を変えている。
その後にごく短期間をベルギーで過ごすが、
美術史的にそこは省略してオランダ時代の次を
パリ時代 :1886年2月〜1888年初頭 :32歳〜34歳
アルル時代 :1888年2月〜1889年5月 :34歳〜36歳
サン=レミ時代:1889年5月〜1890年5月 :36〜37歳
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 :1890年5月〜1890年7月 :37歳で没
に区分するのが一般的。
それでゴッホの絵が多くの人がイメージするゴッホの画風になるのはアルル時代からである。つまりゴッホの画業は10年で短いと言われるが(オランダ時代から数えると正確には9年と3ヶ月ほど)、アルル以降に限れば2年と半年にすぎない。どれだけ密度の濃い2年半を過ごしたのだろうか。私の過去2年半なんてゴッホの3日分くらいじゃないかと思ったり。いや、2年半であれだけのことができるのだから、まだまだ私にも可能性は山ほど残っていると前向きに解釈しよう(^^ゞ
チャッチャと経歴を書くだけのつもりが、
思ったより長くなってしまったので
ーーー続く
2021年10月11日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その3
展覧会の構成は
・ヘレーネ関連
・ゴッホ以外の作品
(以下はすべてゴッホで)
・オランダ時代の素描
・オランダ時代の油絵
・パリ時代
・アルル時代
・サン・レミとオーヴェール・シュル・オワーズ時代
となっている。これらはクレラー・ミュラー美術館のコレクションである。それ以外にオランダ国立ゴッホ美術館からのゴッホ作品4点が、特別出品ということで別途コーナを設けて展示されていた。このブログではそれらも上記の年代順構成の中で紹介したい。
ヘレーネ関連については前回にそこそこ書いたので割愛。次のゴッホ以外のコーナには「ヘレーネの愛した芸術家たち:写実主義からキュビスムまで」というタイトルが付けられていた。展覧会のメニュー的には前菜のようなもので、時に期待もしていなかったのであるが、これがなかなかの粒ぞろい。
「それは遠くからやって来る」
パウル・ヨセフ・コンスタンティン・ハブリエル 1887年
この長い名前はオランダ人の画家。これはヘレーネが最初に買った絵の1つらしい。寒々とした色調だし周りには何もない。そして走っているのは蒸気機関車だから、とても寂寥(せきりょう)とした印象を受ける。しかし、それにしてはタイトルが詩的だ。
考えてみればこの時代は(1887年は明治20年)少し郊外に出ればこんな風景が当たり前だったろう。それに蒸気機関車が登場してしばらく経ってはいるが、現在のように路線が張り巡らされているわけではないから、それを目にすることはまだ新鮮だった気もする。今ならリニアモーターカーが走っているみたいなもので、ひょっとしたら「すごい時代になりましたなあ」というメッセージが込められているのかも知れない。
ところで色々な展覧会を見てきて不満に思っていることがある。あまり新しい画家の展覧会に行かないせいもあるのだが「現代的なもの」が、絵画にはあまり描かれていないのだ。
印象派でたまに蒸気機関車が登場するものの、それ以降のものはほとんど見た記憶がない。クルマ、飛行機、電車、都会の風景、電化製品その他あれこれ。いわゆるモダンアートではなくて、どちらかといえばオーソドックスな画風で「スマホを眺める女」みたいな作品を描いている画家はいないのかな。
「静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ)」
アンリ・ファンタン = ラトゥール 1866年
こういうタイプの静物画はあまり好みじゃない。子供の頃は教科書でこんな絵を見て「他にいくらでも面白いものあるのに、何でわざわざ果物なの?」と思ったものだ。三つ子の魂百までじゃないが、そんな感覚を未だに引きずっているような気もする。
でもこの絵はとても気に入った。そういう首尾一貫しないフレキシブルなところは私の長所に違いない(^^ゞ 何がよかったかを表現するのは難しいが、あえていえばまさに静物で静まりかえっているところかな。
ところでこの絵はクレラー・ミュラー美術館からの借り入れで、2010年のゴッホ展でも展示されていた。前回に書いた理由で、ゴッホ展を開催すれば同館か国立ゴッホ美術館から借りる作品が多くを占めることになる。だとしても今回は過去に見た作品との重複がかなり多かったのが残念なところ。その話はまた後ほど。
「カフェにて」 ルノワール 1877年
見間違える心配のないイッカにもルノワールの作風。私の好きな「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の一部を切り取ったような雰囲気がある。でもタイトルが「カフェにて」で、ムーラン・ド・ラ・ギャレットはダンスホールやキャバレーに属する店だから違う場所だろうな。ちなみにこの頃のカフェは居酒屋のことを指す。
ところで左端のシルクハットの男性。
私の若い頃にこっそり似ている(^^ゞ
次の3つは点描の作品。ピサロのは半点描というべきか。点描って画家が考えているほど効果的な手法だと思わないのだけれど、たまに見ると面白いかな。
「2月、日の出、バザンクール」 ピサロ 1893年
「ポール =アン = ベッサンの日曜日」 スーラ 1888年
「ポルトリューの灯台、作品183」 シニャック 1888年
「花嫁」 ヨハン・トルン・プリッケル 1892〜1893年 ※一般的にはプリッカー
アール・ヌーヴォー的な雰囲気の絵。花嫁の後ろ姿と十字架のキリストが象徴的に描かれている。よく眺めるとかなり神秘的でもある。ヨハン・トルン・プリッケルは知らない画家だったが、画像検索するとステンドグラス作品が多くヒットする。色使いは別として、この作品にもそれに通ずるところがある感じ。
「キュクロプス」 ルドン 1914年
私はルドンを「グラン・ブーケ」という美しい絵で初めて知ったので、彼がそれとは正反対の薄気味悪い絵をたくさん描いていることが、未だに心の中で整理できていない。キュクロプスとはギリシャ神話に出てくる野蛮で人を食う単眼の巨人。
いかにも恐ろしい光景であるが、この絵を見た瞬間に子供の頃のトラウマ?がよみがえってきた。それは初代ウルトラマンの「まぼろしの雪山」に登場した伝説怪獣「ウー」。
今見ると笑える映像だが、私もまだ子供だったし、それにこの作品はいつものウルトラマンと違って悲しい物語で、それがより恐怖心を書き立てた。主人公の女の子が叫ぶ「ウ〜、ウ〜よ〜」という悲痛な声は未だに耳に残っている。これを見た数年後にスキーに連れて行ってもらって、生まれて初めての雪山を見た時、ウーが出てきそうな気がして半分マジでビビってしまったことは内緒である(^^ゞ
さてキュクロプスの目玉に視線を奪われしまうが、よく見ると山肌に裸体の女性が横たわっている。彼女はニンフ(妖精とか精霊とか、それが擬人化された女神みたいなもの)で、キュクロプスは彼女に恋をして眺めているらしい。そのストーリーを知った上で絵を眺めると、キュクロプスはけっこう愛嬌のある顔をしているし表情も優しい
よかった、これでウーの夢を見てうなされずに済む(^^ゞ
中高年限定の話題でゴメン。
次の3つはキュビスムの作品。
苦手なジャンルではあるが、あまり過激な作品じゃないので私でもついて行けた。
ちなみにサイフォン瓶とはコーヒーを淹れるサイフォンではなく、炭酸飲料などを入れておく容器のようだ。検索すると地ビールが多くヒットする。
「トランプ札とサイフォン瓶」 フアン・グリス 1916年
「菱形の中の静物」 ジョルジュ・ブラック 1917年
「ギターのある静物」 ジーノ・セヴェリーニ 1919年
このモンドリアンの作品はブログに貼り付けた画像では、どこが面白いの?という印象だと思う。だいたいモンドリアンといえば原色をイメージするし。でもこの色合いに微妙にソソられるものがあって、それがモンドリアンというのがまた意外で、けっこう長く眺めていた。もっともこんな絵だからパッと見から印象は変化しないのだが。
「グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のコンポジション」
モンドリアン 1919年
ここに紹介したのは12点、会場には全部で20展が展示されていた。ヘレーネのコレクションが素晴らしいのか、あるいはこれらの作品を選んだキュレーター(学芸員)のセンスが私の好みとマッチしていたのか、とにかく「捨て絵」はほとんどなく、最初に書いたように前菜ではなくメインディッシュの一部として見応えがあった。全部持ち帰って家に飾りたいくらい。そんなに広くてたくさんの壁面はないのが残念(^^ゞ
ーーー続く
・ヘレーネ関連
・ゴッホ以外の作品
(以下はすべてゴッホで)
・オランダ時代の素描
・オランダ時代の油絵
・パリ時代
・アルル時代
・サン・レミとオーヴェール・シュル・オワーズ時代
となっている。これらはクレラー・ミュラー美術館のコレクションである。それ以外にオランダ国立ゴッホ美術館からのゴッホ作品4点が、特別出品ということで別途コーナを設けて展示されていた。このブログではそれらも上記の年代順構成の中で紹介したい。
ヘレーネ関連については前回にそこそこ書いたので割愛。次のゴッホ以外のコーナには「ヘレーネの愛した芸術家たち:写実主義からキュビスムまで」というタイトルが付けられていた。展覧会のメニュー的には前菜のようなもので、時に期待もしていなかったのであるが、これがなかなかの粒ぞろい。
「それは遠くからやって来る」
パウル・ヨセフ・コンスタンティン・ハブリエル 1887年
この長い名前はオランダ人の画家。これはヘレーネが最初に買った絵の1つらしい。寒々とした色調だし周りには何もない。そして走っているのは蒸気機関車だから、とても寂寥(せきりょう)とした印象を受ける。しかし、それにしてはタイトルが詩的だ。
考えてみればこの時代は(1887年は明治20年)少し郊外に出ればこんな風景が当たり前だったろう。それに蒸気機関車が登場してしばらく経ってはいるが、現在のように路線が張り巡らされているわけではないから、それを目にすることはまだ新鮮だった気もする。今ならリニアモーターカーが走っているみたいなもので、ひょっとしたら「すごい時代になりましたなあ」というメッセージが込められているのかも知れない。
ところで色々な展覧会を見てきて不満に思っていることがある。あまり新しい画家の展覧会に行かないせいもあるのだが「現代的なもの」が、絵画にはあまり描かれていないのだ。
印象派でたまに蒸気機関車が登場するものの、それ以降のものはほとんど見た記憶がない。クルマ、飛行機、電車、都会の風景、電化製品その他あれこれ。いわゆるモダンアートではなくて、どちらかといえばオーソドックスな画風で「スマホを眺める女」みたいな作品を描いている画家はいないのかな。
「静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ)」
アンリ・ファンタン = ラトゥール 1866年
こういうタイプの静物画はあまり好みじゃない。子供の頃は教科書でこんな絵を見て「他にいくらでも面白いものあるのに、何でわざわざ果物なの?」と思ったものだ。三つ子の魂百までじゃないが、そんな感覚を未だに引きずっているような気もする。
でもこの絵はとても気に入った。そういう首尾一貫しないフレキシブルなところは私の長所に違いない(^^ゞ 何がよかったかを表現するのは難しいが、あえていえばまさに静物で静まりかえっているところかな。
ところでこの絵はクレラー・ミュラー美術館からの借り入れで、2010年のゴッホ展でも展示されていた。前回に書いた理由で、ゴッホ展を開催すれば同館か国立ゴッホ美術館から借りる作品が多くを占めることになる。だとしても今回は過去に見た作品との重複がかなり多かったのが残念なところ。その話はまた後ほど。
「カフェにて」 ルノワール 1877年
見間違える心配のないイッカにもルノワールの作風。私の好きな「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の一部を切り取ったような雰囲気がある。でもタイトルが「カフェにて」で、ムーラン・ド・ラ・ギャレットはダンスホールやキャバレーに属する店だから違う場所だろうな。ちなみにこの頃のカフェは居酒屋のことを指す。
ところで左端のシルクハットの男性。
私の若い頃にこっそり似ている(^^ゞ
次の3つは点描の作品。ピサロのは半点描というべきか。点描って画家が考えているほど効果的な手法だと思わないのだけれど、たまに見ると面白いかな。
「2月、日の出、バザンクール」 ピサロ 1893年
「ポール =アン = ベッサンの日曜日」 スーラ 1888年
「ポルトリューの灯台、作品183」 シニャック 1888年
「花嫁」 ヨハン・トルン・プリッケル 1892〜1893年 ※一般的にはプリッカー
アール・ヌーヴォー的な雰囲気の絵。花嫁の後ろ姿と十字架のキリストが象徴的に描かれている。よく眺めるとかなり神秘的でもある。ヨハン・トルン・プリッケルは知らない画家だったが、画像検索するとステンドグラス作品が多くヒットする。色使いは別として、この作品にもそれに通ずるところがある感じ。
「キュクロプス」 ルドン 1914年
私はルドンを「グラン・ブーケ」という美しい絵で初めて知ったので、彼がそれとは正反対の薄気味悪い絵をたくさん描いていることが、未だに心の中で整理できていない。キュクロプスとはギリシャ神話に出てくる野蛮で人を食う単眼の巨人。
いかにも恐ろしい光景であるが、この絵を見た瞬間に子供の頃のトラウマ?がよみがえってきた。それは初代ウルトラマンの「まぼろしの雪山」に登場した伝説怪獣「ウー」。
今見ると笑える映像だが、私もまだ子供だったし、それにこの作品はいつものウルトラマンと違って悲しい物語で、それがより恐怖心を書き立てた。主人公の女の子が叫ぶ「ウ〜、ウ〜よ〜」という悲痛な声は未だに耳に残っている。これを見た数年後にスキーに連れて行ってもらって、生まれて初めての雪山を見た時、ウーが出てきそうな気がして半分マジでビビってしまったことは内緒である(^^ゞ
さてキュクロプスの目玉に視線を奪われしまうが、よく見ると山肌に裸体の女性が横たわっている。彼女はニンフ(妖精とか精霊とか、それが擬人化された女神みたいなもの)で、キュクロプスは彼女に恋をして眺めているらしい。そのストーリーを知った上で絵を眺めると、キュクロプスはけっこう愛嬌のある顔をしているし表情も優しい
よかった、これでウーの夢を見てうなされずに済む(^^ゞ
中高年限定の話題でゴメン。
次の3つはキュビスムの作品。
苦手なジャンルではあるが、あまり過激な作品じゃないので私でもついて行けた。
ちなみにサイフォン瓶とはコーヒーを淹れるサイフォンではなく、炭酸飲料などを入れておく容器のようだ。検索すると地ビールが多くヒットする。
「トランプ札とサイフォン瓶」 フアン・グリス 1916年
「菱形の中の静物」 ジョルジュ・ブラック 1917年
「ギターのある静物」 ジーノ・セヴェリーニ 1919年
このモンドリアンの作品はブログに貼り付けた画像では、どこが面白いの?という印象だと思う。だいたいモンドリアンといえば原色をイメージするし。でもこの色合いに微妙にソソられるものがあって、それがモンドリアンというのがまた意外で、けっこう長く眺めていた。もっともこんな絵だからパッと見から印象は変化しないのだが。
「グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のコンポジション」
モンドリアン 1919年
ここに紹介したのは12点、会場には全部で20展が展示されていた。ヘレーネのコレクションが素晴らしいのか、あるいはこれらの作品を選んだキュレーター(学芸員)のセンスが私の好みとマッチしていたのか、とにかく「捨て絵」はほとんどなく、最初に書いたように前菜ではなくメインディッシュの一部として見応えがあった。全部持ち帰って家に飾りたいくらい。そんなに広くてたくさんの壁面はないのが残念(^^ゞ
ーーー続く
2021年10月09日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その2
展覧会のサブタイトルにあるフィンセントとはゴッホの名前である。
日本的にいうなら「下の名前」。
原語で書くと Vincent van Gogh 。
何となくヴィンセント・ヴァン・ゴッホのほうが馴染みがあるけれど、それは英語読みでの発音。一般に最近は母国語の発音表記にする傾向がある。彼はオランダ人で、オランダ語読みだとVの発音がfになるらしくフィンセント・ファン・ゴッホとなる。
この母国語の発音で表記することには正統性があるようにも思えるが、今まで英語読みで馴染んできた経緯のある言葉では違和感を感じることも多い。昨年のハマスホイ展は彼の母国であるデンマーク語に忠実に表記する原理主義で貫かれていた。ハマスホイのことは知らなかったから、従来の英語読みのハンマースホイじゃなくても気にならなかったが、、
Laurits Andersen Ring
という画家がラウリツ・アナスン・レングと表記されているのにはちょっと無理があると感じた。中央のスペルを見て欲しい。アナスンとはアンデルセンのデンマーク語読みなのである。やっぱりアンデルセンはアンデルセンじゃないと。
実はフィンセント・ファン・ゴッホというのはオランダ語読みと英語読みのチャンポンである。Goghのオランダ語読みはカタカナにするならホッホとなる。さすがにこれじゃ日本で通用しないからゴッホが用いられている。だったらどうしてフィンセントにする?と何かと外国語の表記は難しいもの。
ついでにいうと van Gogh のvan はミドルネームではなく苗字の一部とのこと。だから省略はできなくてオランダでは van Gogh と呼ばれる(どうして van が小文字なんだろう?)。日本的にゴッホとだけ呼ぶのは長谷川さんを谷川さんと呼ぶみたいなもので別人になってしまうのかな。
というわけでゴッホはオランダ語読みするならファンホッホとなる。しかしファンでホッホなんて愉快なオッサンみたいみたいで、ゴッホのイメージと違っちゃうなあ(^^ゞ
なおゴッホは1853年生まれで1890年没。
明治維新が1868年だから、その頃の人ね。
ヘレーネとはヘレーネ・クレラー・ミュラーという女性のこと。(ヘレーネの英語読みがヘレン)1869年生まれで1939年没。
彼女は夫のアントン・クレラー・ミュラーと供にクレラー・ミュラー美術館を創設。実業家のアントンも財をなした人物だったが、彼女の実家はさらに「太かった」ようだ。
ちなみに夫婦別姓問題が話題となっている日本であるが、この夫婦はアントン・クレラーさんとヘレーネ・ミュラーさんが結婚したもの。オランダでは苗字をつなげてクレラー・ミュラーとなるのか。その子供が結婚したらさらに苗字を足していくのだろうか。
このクレラー・ミュラー美術館は首都アムステルダムから100キロほど離れた国立公園の中にある。その国立公園も元々はクレラー・ミュラー夫妻の私有地だったというから、どれくらいの金持ちだったかがわかるというもの。
だからヘレーネ奥様は白馬にだって乗っちゃいます!
なぜか横座りだけど。
ところでゴッホの作品は生前に1枚か数枚売れただけだといわれている。油絵だけで約860点を描いたとされるから、つまりほとんど売れなかったことになる。美しいメロディーのポップスが流行っている頃に、ヘヴィメタのロックみたいな絵を描いていたのがゴッホである。だから世間に受け入れられなかった。
もっともゴッホが絵を描いていたのは10年間ほどであり、その程度のキャリアでは知名度不足で売れないのは当然で、ゴッホの絵が売れ始めた時期は他の画家と較べても早いという学説もある。だいたい死後10年目くらいかららしい。
ヘレーネは1908年からゴッホの作品をコレクションし始め、1929年までに油彩90点、素描180点あまりを集めた。いってみればまだ「ぽっと出」のゴッホの価値をいち早く見抜いたのだから、その目は確かである。彼女がゴッホの作品を買うことで、ゴッホの人気も上がっていったとのこと。
そして1938年に美術館を創設。ただしこの頃にはクレラー・ミュラー家は没落しかけていて、美術館を建てることを条件にコレクションと土地を政府に寄付したのだが(/o\) このことから既にその当時、政府が美術館を建てる価値を認めるくらいにゴッホの評価が高まっていたことがわかる。
このクレラー・ミュラー美術館のゴッホ・コレクションは、ゴッホの遺族が相続した作品を元にした現在のオランダ国立ゴッホ美術館(油絵約200点を所有)と並んで双璧で、2大ゴッホ美術館と呼ばれている。
というわけでゴッホ展を開催する場合は、必然的にこの両美術館から作品を借りることが多くなる。だから内容的に「クレラー・ミュラー美術館収蔵ゴッホ展」は今までも開かれてきたが、今回は創設者のヘレーネにもスポットを当てた企画となっている。
それで会場にヘレーネの写真や略歴などの資料も展示されていた。しかしはっきり言ってゴッホの作品自体とは無関係な話。つまりは今回を含めてこの20年間に9回も開かれているゴッホ展である。マンネリ化する企画コンセプトに困って、ヘレーネを持ち出してきた感がなきにしもあらず。
それにしても、こんな大富豪で目利きのヨメをもらって、
アート三昧な人生を送りたかったゼ(^^ゞ
なかなか話が作品までたどり着かないがm(_ _)m ーーー続く
2021年10月08日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント
6月に鳥獣戯画展を見た。でもあれは漫画みたいなものだから、しっかりとした絵を見たのは1月の田中一村展が最後である。そろそろ心が渇いてきたので美術展情報をチェック。
しかしコロナのせいで美術展も不作気味。大型の美術展は準備に2〜3年はかけるらしいから、現在開催されているものはコロナ流行前に企画されていてコロナとは関係ないはず。でもコロナの影響で準備が途中で中止になったものもあるだろうから、それが影響しているのかな。
それで選んだのがゴッホ展。訪れたのは10月5日。またゴッホかよという気がしなくもないが、それでも出かけたのは「黄色い家」という作品が展示されているから。
私が死ぬまでに見ておきたい絵の1つに、ゴッホの「夜のカフェテラス」という作品がある。
これは黄色フェチのゴッホが描いたあり得ない夜の光景。2005年のゴッホ展に展示されたが、その頃は今のように美術館通いをしていなかった。そして、その前に来たのは何と1955年で私が生まれるよりも前! 単純計算すれば50年に1度のペースな訳で、日本で待っていたら見られない可能性が高い。
「黄色い家」はゴッホがアルルで住んでいた家。「夜のカフェテラス」とは違う建物なのだが、まあご近所だったらしいし、「黄色い家」にもテラスが描かれていて「夜のカフェテラス」の昼間版みたいなものだと勝手に決めつけて見に行くことにした。
さてコロナ以降、ほとんどの展覧会は予約制になった。入場時刻が30分単位で指定され、スマホ決済して、送られてきたQRコードなどを入口で提示する方式。音楽会などと違って気が向いた時にふらっと出向けるのが美術展の魅力だったのに、手間が掛かるようになって残念。コロナめ!
それで予約時刻より早く着いてしまい、まずはリニューアルされた上野駅公園口の駅ナカをブラブラ。以前の姿をあまり覚えていないが、こんなに広々した感じはなかったと思う。
左手は今や貴重な本屋さん。右手にはユニクロ。
このあたりは食品関連。
改札口へ向かう。
鳥獣戯画展の時に書いたように、以前は公園に入るのに道路を渡らなければいけなかったが、リニューアルで改札口と公園が直結になった。
改札口をでたところ。
雲が秋の形をしている。イワシ雲だったかな。
西洋美術館はまだ改装工事中。
昨年に冬ボタンを見に来た東照宮ぼたん苑は、秋にダリアを咲かせているらしい。知っていたら、こちらも見られるスケジュールで来たのに。いつもながら事前準備が甘い(/o\)
公園の中央まで進んで博物館方向。
噴水池。
置かれているのはインパチェンスだと思う。
最近はスマホで写真を撮って調べられる植物図鑑アプリが充実してきたので便利になった。ただし今回は3つのアプリを使って2つがニチニチソウ、1つがインパチェンスの判定だった。後で調べて葉にギザギザがあるからインパチェンスと判明。
噴水池を横から。
広い空間で心も軽やかになるね。
横道にそれて美術館へ向かう。
奥に見えるのは国立博物館に移築された黒門。
どこかの大名屋敷の正門で、東大の赤門(加賀前田家)と並ぶ価値があるらしい。
その黒門があり、かつレンガ造りの美術館の横を通るこの道は
上野公園でもお気に入りの場所。
毎度お馴染みの東京都美術館。
入口にこんな文字があるなんて、今まで気がついていなかった。
いちおう当日券もあるらしいが、買えるかどうかは運次第。
予約時刻になっていたが受付開始直後は混雑するので、しばらくミュージアムショップを冷やかす。ちなみに指定された30分間に入場する必要はあるが、鑑賞時間に制限はない。
ゴッホグッズがたくさん売られている。
あまり似ていないゴッホ人形(>_<)
靴下はゴッホの顔をしていた。
いよいよ会場へ。
ーーー続く。
しかしコロナのせいで美術展も不作気味。大型の美術展は準備に2〜3年はかけるらしいから、現在開催されているものはコロナ流行前に企画されていてコロナとは関係ないはず。でもコロナの影響で準備が途中で中止になったものもあるだろうから、それが影響しているのかな。
それで選んだのがゴッホ展。訪れたのは10月5日。またゴッホかよという気がしなくもないが、それでも出かけたのは「黄色い家」という作品が展示されているから。
私が死ぬまでに見ておきたい絵の1つに、ゴッホの「夜のカフェテラス」という作品がある。
これは黄色フェチのゴッホが描いたあり得ない夜の光景。2005年のゴッホ展に展示されたが、その頃は今のように美術館通いをしていなかった。そして、その前に来たのは何と1955年で私が生まれるよりも前! 単純計算すれば50年に1度のペースな訳で、日本で待っていたら見られない可能性が高い。
「黄色い家」はゴッホがアルルで住んでいた家。「夜のカフェテラス」とは違う建物なのだが、まあご近所だったらしいし、「黄色い家」にもテラスが描かれていて「夜のカフェテラス」の昼間版みたいなものだと勝手に決めつけて見に行くことにした。
さてコロナ以降、ほとんどの展覧会は予約制になった。入場時刻が30分単位で指定され、スマホ決済して、送られてきたQRコードなどを入口で提示する方式。音楽会などと違って気が向いた時にふらっと出向けるのが美術展の魅力だったのに、手間が掛かるようになって残念。コロナめ!
それで予約時刻より早く着いてしまい、まずはリニューアルされた上野駅公園口の駅ナカをブラブラ。以前の姿をあまり覚えていないが、こんなに広々した感じはなかったと思う。
左手は今や貴重な本屋さん。右手にはユニクロ。
このあたりは食品関連。
改札口へ向かう。
鳥獣戯画展の時に書いたように、以前は公園に入るのに道路を渡らなければいけなかったが、リニューアルで改札口と公園が直結になった。
改札口をでたところ。
雲が秋の形をしている。イワシ雲だったかな。
西洋美術館はまだ改装工事中。
昨年に冬ボタンを見に来た東照宮ぼたん苑は、秋にダリアを咲かせているらしい。知っていたら、こちらも見られるスケジュールで来たのに。いつもながら事前準備が甘い(/o\)
公園の中央まで進んで博物館方向。
噴水池。
置かれているのはインパチェンスだと思う。
最近はスマホで写真を撮って調べられる植物図鑑アプリが充実してきたので便利になった。ただし今回は3つのアプリを使って2つがニチニチソウ、1つがインパチェンスの判定だった。後で調べて葉にギザギザがあるからインパチェンスと判明。
噴水池を横から。
広い空間で心も軽やかになるね。
横道にそれて美術館へ向かう。
奥に見えるのは国立博物館に移築された黒門。
どこかの大名屋敷の正門で、東大の赤門(加賀前田家)と並ぶ価値があるらしい。
その黒門があり、かつレンガ造りの美術館の横を通るこの道は
上野公園でもお気に入りの場所。
毎度お馴染みの東京都美術館。
入口にこんな文字があるなんて、今まで気がついていなかった。
いちおう当日券もあるらしいが、買えるかどうかは運次第。
予約時刻になっていたが受付開始直後は混雑するので、しばらくミュージアムショップを冷やかす。ちなみに指定された30分間に入場する必要はあるが、鑑賞時間に制限はない。
ゴッホグッズがたくさん売られている。
あまり似ていないゴッホ人形(>_<)
靴下はゴッホの顔をしていた。
いよいよ会場へ。
ーーー続く。
2021年10月06日
タマネギは葉を食べていた!? その2
タマネギは球根だと思っていたら、
植物学的には葉に当たる部分を食べていたという話の続き。
前回に書いたように、タマネギの丸くなった状態を表す鱗茎(りんけい)という言葉をネットで調べた際に、他の野菜についても知ることになった。
その中で最も意外だったのがこの2つ。
「イモはイモやろ」という認識しかなかったが、
なんと正解は、
サツマイモ=根
ジャガイモ=茎 (正確には地下にある茎)
とのこと。
根や茎というのもヘェ〜という感じだが、味は違っても同じイモで「物質的には」似たようなものなのに、両者が異なる部位が大きくなったものとは思わなかった。
イラストは https://watami-organic.jp/blog/organic_news/227 から引用
参考までにどこを食べているかの例をいくつか列挙すると
茎を食べている:アスパラガス、タケノコなど
根を食べている:サツマイモ、ゴボウ、ダイコン、ニンジン、山芋など
地下の茎を食べている:ジャガイモ、里芋、しょうが、レンコンなど
他にもブロッコリーやカリフラワーは花のツボミで、畑でそのままにしておくと花が咲くなど、普段は食べる以外にほとんど気にしたことがない野菜について、あれこれと発見があって面白かった。興味があったら「野菜 食べる部分」などのキーワードで検索を。
参考サイトとして1つだけ紹介しておく。
https://vegetable.alic.go.jp/yasainohimitu/bubun/bubun.htm
さてタマネギは球根だと思っていたわけであるが、
じゃ球根って何?と調べてみるとビックリ!!!!!
ビックリマークを5つ並べるほどのビックリ。
Wikipediaによると、球根とは次の6種類の総称。
鱗茎(りんけい)=葉が変形・肥大したもの。例:タマネギ
球茎(きゅうけい)=茎が変形・肥大したもの。例:里芋
塊茎(かいけい)=短縮した地下茎が変形・肥大したもの。例:ジャガイモ
根茎(こんけい)=水平方向に伸びた地下茎が変形・肥大したもの。例:レンコン
塊根(かいこん)=根が変形・肥大したもの。例:サツマイモ
担根体(たんこんたい)=根でも茎でもないヤマノイモ属に特有の器官。例:山芋
つまりタマネギは球根で間違っていなかったし、ジャガイモやサツマイモも球根。それにゴボウにダイコンやニンジンなどなど多くの野菜が球根ということになる。タマネギは葉を食べているより、ニンジンは球根を食べているほうが事実としては衝撃的かも。
また同じくWikipediaによると、球根とは「園芸や農学分野で用いられる用語」とある。これは植物学としての用語ではないという意味なのかな?
とりあえず
健康のために球根をバランスよく摂りましょう。
おしまい
植物学的には葉に当たる部分を食べていたという話の続き。
前回に書いたように、タマネギの丸くなった状態を表す鱗茎(りんけい)という言葉をネットで調べた際に、他の野菜についても知ることになった。
その中で最も意外だったのがこの2つ。
「イモはイモやろ」という認識しかなかったが、
なんと正解は、
サツマイモ=根
ジャガイモ=茎 (正確には地下にある茎)
とのこと。
根や茎というのもヘェ〜という感じだが、味は違っても同じイモで「物質的には」似たようなものなのに、両者が異なる部位が大きくなったものとは思わなかった。
イラストは https://watami-organic.jp/blog/organic_news/227 から引用
参考までにどこを食べているかの例をいくつか列挙すると
茎を食べている:アスパラガス、タケノコなど
根を食べている:サツマイモ、ゴボウ、ダイコン、ニンジン、山芋など
地下の茎を食べている:ジャガイモ、里芋、しょうが、レンコンなど
他にもブロッコリーやカリフラワーは花のツボミで、畑でそのままにしておくと花が咲くなど、普段は食べる以外にほとんど気にしたことがない野菜について、あれこれと発見があって面白かった。興味があったら「野菜 食べる部分」などのキーワードで検索を。
参考サイトとして1つだけ紹介しておく。
https://vegetable.alic.go.jp/yasainohimitu/bubun/bubun.htm
さてタマネギは球根だと思っていたわけであるが、
じゃ球根って何?と調べてみるとビックリ!!!!!
ビックリマークを5つ並べるほどのビックリ。
Wikipediaによると、球根とは次の6種類の総称。
鱗茎(りんけい)=葉が変形・肥大したもの。例:タマネギ
球茎(きゅうけい)=茎が変形・肥大したもの。例:里芋
塊茎(かいけい)=短縮した地下茎が変形・肥大したもの。例:ジャガイモ
根茎(こんけい)=水平方向に伸びた地下茎が変形・肥大したもの。例:レンコン
塊根(かいこん)=根が変形・肥大したもの。例:サツマイモ
担根体(たんこんたい)=根でも茎でもないヤマノイモ属に特有の器官。例:山芋
つまりタマネギは球根で間違っていなかったし、ジャガイモやサツマイモも球根。それにゴボウにダイコンやニンジンなどなど多くの野菜が球根ということになる。タマネギは葉を食べているより、ニンジンは球根を食べているほうが事実としては衝撃的かも。
また同じくWikipediaによると、球根とは「園芸や農学分野で用いられる用語」とある。これは植物学としての用語ではないという意味なのかな?
とりあえず
健康のために球根をバランスよく摂りましょう。
おしまい
wassho at 22:54|Permalink│Comments(0)│
2021年10月05日
タマネギは葉を食べていた!?
テレビの番組で「タマネギは実、葉、根のどこを食べているのでしょうか?」というクイズがあり「球根じゃないのか?」と思ったら正解は葉だった。
これが葉だとは信じ難いが、
そういえば畑でタマネギがこういうふうに生っている(なっている)のを
見たことがあるから、
ネギの白い部分が肥大化したと考えれば葉という説明にも納得がいく。
タケノコは皮で覆われている。これは芽を守るために葉が変形したもの。鱗(ウロコ)のように重なり合っていることから、これを鱗葉(りんよう)あるいは鱗片葉(りんぺんよう)と呼ぶ。
その鱗葉(りんよう)の集合体が鱗茎(りんけい)で、タマネギ(の食べる部分)は鱗茎でできている。ネギの白い部分も同じ。茎という字が使われているが葉である。(なおウロコ状のわかりやすい事例としてタケノコを取り上げただけで、タマネギの鱗葉・鱗茎とは同じ成り立ちではない)
まあ別にどこを食べていても、美味しければいいのだけれど(^^ゞ
ところでテレビでも鱗茎と説明していたのだが、聞き慣れない言葉だし難しい漢字だから、放送が終わったらすっかり忘れてしまった。それで何だったっけ?とネットで調べると野菜に関する新たな事実を発見! さらに調べるにつれて思いがけないドンデン返しが!
ーーーというわけで続く。
なお断っておくが、タマネギは葉を食べていたレベルのお話です。
これが葉だとは信じ難いが、
そういえば畑でタマネギがこういうふうに生っている(なっている)のを
見たことがあるから、
ネギの白い部分が肥大化したと考えれば葉という説明にも納得がいく。
タケノコは皮で覆われている。これは芽を守るために葉が変形したもの。鱗(ウロコ)のように重なり合っていることから、これを鱗葉(りんよう)あるいは鱗片葉(りんぺんよう)と呼ぶ。
その鱗葉(りんよう)の集合体が鱗茎(りんけい)で、タマネギ(の食べる部分)は鱗茎でできている。ネギの白い部分も同じ。茎という字が使われているが葉である。(なおウロコ状のわかりやすい事例としてタケノコを取り上げただけで、タマネギの鱗葉・鱗茎とは同じ成り立ちではない)
まあ別にどこを食べていても、美味しければいいのだけれど(^^ゞ
ところでテレビでも鱗茎と説明していたのだが、聞き慣れない言葉だし難しい漢字だから、放送が終わったらすっかり忘れてしまった。それで何だったっけ?とネットで調べると野菜に関する新たな事実を発見! さらに調べるにつれて思いがけないドンデン返しが!
ーーーというわけで続く。
なお断っておくが、タマネギは葉を食べていたレベルのお話です。
2021年10月03日
ベランダでかじられてる?
緋牡丹の台木だった三角柱を6月に植え直したら、
そのまま大きくはならず枝分かれを始めて、
どんどん大きくなってきたという話を8月23日に書いた。
その後も成長は止まらず、
現在はカメラをかなり引いて撮らないと全体を写せないくらい。
ただし9月の中頃から、このようにまるで何かにかじられたかのような状態になっている。
もうじき折れそう(>_<)
こういう場合、普通は虫に食われたと疑うもの。
しかし目を凝らしても虫はいないし、フンなどの形跡も見つからない。
だからといって自然にこうなったとは考えにくい。
虫ではなく病気なのかな?
ネットで調べても有益な情報にはヒットせず。
今のところナゾ
そして気がかりなのがサンセベリア。
葉にこんな穴がいくつも開いたり、白骨化?したりしたので、
2020年の6月に痛んだ葉を徹底的に取り除いて植え直した。
それから約1年と3ヶ月が経ち、ずっと順調だったのに、
先月から、こんな傷というか部分枯れのような症状が出始めている。
よくは覚えていないが、以前もこの症状の次に穴が開きだしたように思う。
こちらも虫などは目視できず、またネットにもあまり情報がない。
画像検索して「これと同じだ!」とクリックしたら、このブログだったりする(^^ゞ
三角柱もサンセベリアも生命力の強い植物だから、見た目は多少悪くなっても枯れたりはしないと思うが、気がかりなのはどちらも9月中頃からこの症状が始まったこと。
やはり虫なのかな?
とりあえず虫眼鏡を買ってきて、もっと細かく観察しようかと思う。
そのまま大きくはならず枝分かれを始めて、
どんどん大きくなってきたという話を8月23日に書いた。
その後も成長は止まらず、
現在はカメラをかなり引いて撮らないと全体を写せないくらい。
ただし9月の中頃から、このようにまるで何かにかじられたかのような状態になっている。
もうじき折れそう(>_<)
こういう場合、普通は虫に食われたと疑うもの。
しかし目を凝らしても虫はいないし、フンなどの形跡も見つからない。
だからといって自然にこうなったとは考えにくい。
虫ではなく病気なのかな?
ネットで調べても有益な情報にはヒットせず。
今のところナゾ
そして気がかりなのがサンセベリア。
葉にこんな穴がいくつも開いたり、白骨化?したりしたので、
2020年の6月に痛んだ葉を徹底的に取り除いて植え直した。
それから約1年と3ヶ月が経ち、ずっと順調だったのに、
先月から、こんな傷というか部分枯れのような症状が出始めている。
よくは覚えていないが、以前もこの症状の次に穴が開きだしたように思う。
こちらも虫などは目視できず、またネットにもあまり情報がない。
画像検索して「これと同じだ!」とクリックしたら、このブログだったりする(^^ゞ
三角柱もサンセベリアも生命力の強い植物だから、見た目は多少悪くなっても枯れたりはしないと思うが、気がかりなのはどちらも9月中頃からこの症状が始まったこと。
やはり虫なのかな?
とりあえず虫眼鏡を買ってきて、もっと細かく観察しようかと思う。