2022年08月
2022年08月31日
南山の部長たちと明智光秀
Amazonプライムビデオで「KCIA 南山の部長たち」という韓国映画を見た。
2020年に公開され韓国では興行収入トップとなった作品。主演はイ・ビョンホン。
内容は1979年に起きた、韓国の朴正煕大統領が、側近のKCIA部長である金載圭部長によって射殺された事件をベースにしている。
KCIAとはアメリカのCIAになぞらえてそう呼ばれた韓国版の諜報組織。ただCIAと違って国内の治安維持も担当する。治安維持とは反体制派の弾圧であるから、戦前日本の特高(特別高等警察)的な役割も果たしていた。CIAと特高を兼ねているのだからまさに「泣く子も黙る」的な存在である。1973年に日本滞在中の金大中を拉致したのもKCIA。その2年前には金大中のクルマに大型トラックを突っ込ませる暗殺工作もしている(同乗していた3名が死亡)。
南山とはKCIA本部があった地名。日本でも永田町や霞ヶ関と呼ぶみたいな感覚。韓国語ではナムサンと発音する。また部長というと中間管理職のようだが、KCIAトップの肩書きは部長で、当時は大統領に次ぐ権力を持っていたとされる。なお映画のタイトルが「部長たち」となっているのは元部長も登場するから。
この朴大統領が射殺された事件や、それがKCIAトップの犯行だとはもちろん知っていた。ただしそれ以上の知識はこの映画を見るまで特になし。当時はもちろん大きなニュースになり、いろいろと情報を得たと思うけれど、もうすっかり忘れてしまった。
興味があれば映画を見る、あるいはストーリーを調べてもらうとして、この南山部長は朴大統領が1961年に軍事クーデターを起こして政権を握ったときの部下。それ以来、忠実に大統領に仕えてきたものの、
(1)長く政権に居座ったことにより大統領が独裁・金権腐敗体質に
(2)他の大統領側近との権力争い
(3)側近同士を争わせようとする大統領の工作
(4)その他あれやこれや降りかかる難題
が重なって射殺に至る。
これって(1)は微妙だとしても、明智光秀が織田信長を襲撃したときと同じような状況である。まさか1979年(昭和54年)に本能寺の変が隣の国で起きていたとはビックリ。まさに歴史は繰り返すの言葉通り。
そして明智光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかは、日本史における最大のミステリーとされる。それと同じく南山部長もその動機をあまり語ることなく処刑された。韓国内では精神錯乱、自己保身、民主化を守ろうとした愛国者と様々な評価があるようだ。
この映画は実話をベースにしているとはいえフィクションであるが、南山部長は朴大統領に追い詰められてかなりの恐怖を感じていたようだ。それが犯行に至った理由の少なくない部分を占めているように思えた。 彼自身が朴大統領の意向を受けて、というか忖度して元部長の暗殺を計画する。いつか自分に標的にされる順番が回ってくると考えたとしても不思議ではない。
それで思い出したのは、
明智光秀が本能寺の変を起こした理由として
怨恨説
野望説
黒幕存在説
四国問題説
義憤説
などが議論されている。しかし意外と「このままでは信長にやられる」といった恐怖説は少ないように思う。恐怖におびえた者が最後に牙をむくのは一番ありがちなパターンなのだから、もっと検討されてもいいと思うのだが。しかしそれじゃ当たり前すぎて、歴史考察的につまらないからスルーされるのかな(^^ゞ とりあえず歴史研究家の皆さんは、この映画も参考に見ておきましょう。
最後にこの映画の、
どうでもいい見所(言葉がおかしいが)を2つ。
その1
ヒットマンが依頼主から受け取ったアタッシュケースを開くと、そこにはピストルと共に札束も収まっている。おそらく報酬なんだろう。舞台はパリ。しかしなぜかそれが日本の千円札。時代をあわせて伊藤博文の図柄。
ひと束が100枚としたら4束あるから40万円。下にもう4束あるなら80万円。さらにもう1列くらい入っていれば120万円。当時のこの手の仕事の相場は知らないが、なにゆえ1万円札ではなく千円札? かさばるやろ? そもそもどうしてパリで日本円を使うのかもナゾ。なおヒットマンが日本人との設定ではなかったように思う。
その2
朴大統領には彼専用の秘密料亭のような施設があって、事件はそこで起こる。そして、その宴席の場がタタミ敷きになっている。おそらくこれは史実なのだろう。
タタミは日本独自の文化で韓国や中国にはない。それでも戦前は日本が韓国を併合していたし、朴大統領は日本陸軍の士官学校に留学もしているから、タタミに馴染みがあったのかも知れない。千円札ほどではないものの意外な印象を受けた。
密度が濃くていい映画だと思う。役者の演技もよかった。ひとつ難点をいえば、ふたつの勢力が元部長を暗殺しようと同時に動くのだが、誰がどちらの勢力かこんがらがってわかりにくい。映画あるあるなことだけれど、もうちょっと工夫が欲しかった。それを差し引いてもスパイ・サスペンスものが好きならお勧めの1本。
2020年に公開され韓国では興行収入トップとなった作品。主演はイ・ビョンホン。
内容は1979年に起きた、韓国の朴正煕大統領が、側近のKCIA部長である金載圭部長によって射殺された事件をベースにしている。
KCIAとはアメリカのCIAになぞらえてそう呼ばれた韓国版の諜報組織。ただCIAと違って国内の治安維持も担当する。治安維持とは反体制派の弾圧であるから、戦前日本の特高(特別高等警察)的な役割も果たしていた。CIAと特高を兼ねているのだからまさに「泣く子も黙る」的な存在である。1973年に日本滞在中の金大中を拉致したのもKCIA。その2年前には金大中のクルマに大型トラックを突っ込ませる暗殺工作もしている(同乗していた3名が死亡)。
南山とはKCIA本部があった地名。日本でも永田町や霞ヶ関と呼ぶみたいな感覚。韓国語ではナムサンと発音する。また部長というと中間管理職のようだが、KCIAトップの肩書きは部長で、当時は大統領に次ぐ権力を持っていたとされる。なお映画のタイトルが「部長たち」となっているのは元部長も登場するから。
この朴大統領が射殺された事件や、それがKCIAトップの犯行だとはもちろん知っていた。ただしそれ以上の知識はこの映画を見るまで特になし。当時はもちろん大きなニュースになり、いろいろと情報を得たと思うけれど、もうすっかり忘れてしまった。
興味があれば映画を見る、あるいはストーリーを調べてもらうとして、この南山部長は朴大統領が1961年に軍事クーデターを起こして政権を握ったときの部下。それ以来、忠実に大統領に仕えてきたものの、
(1)長く政権に居座ったことにより大統領が独裁・金権腐敗体質に
(2)他の大統領側近との権力争い
(3)側近同士を争わせようとする大統領の工作
(4)その他あれやこれや降りかかる難題
が重なって射殺に至る。
これって(1)は微妙だとしても、明智光秀が織田信長を襲撃したときと同じような状況である。まさか1979年(昭和54年)に本能寺の変が隣の国で起きていたとはビックリ。まさに歴史は繰り返すの言葉通り。
そして明智光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかは、日本史における最大のミステリーとされる。それと同じく南山部長もその動機をあまり語ることなく処刑された。韓国内では精神錯乱、自己保身、民主化を守ろうとした愛国者と様々な評価があるようだ。
この映画は実話をベースにしているとはいえフィクションであるが、南山部長は朴大統領に追い詰められてかなりの恐怖を感じていたようだ。それが犯行に至った理由の少なくない部分を占めているように思えた。 彼自身が朴大統領の意向を受けて、というか忖度して元部長の暗殺を計画する。いつか自分に標的にされる順番が回ってくると考えたとしても不思議ではない。
それで思い出したのは、
明智光秀が本能寺の変を起こした理由として
怨恨説
野望説
黒幕存在説
四国問題説
義憤説
などが議論されている。しかし意外と「このままでは信長にやられる」といった恐怖説は少ないように思う。恐怖におびえた者が最後に牙をむくのは一番ありがちなパターンなのだから、もっと検討されてもいいと思うのだが。しかしそれじゃ当たり前すぎて、歴史考察的につまらないからスルーされるのかな(^^ゞ とりあえず歴史研究家の皆さんは、この映画も参考に見ておきましょう。
最後にこの映画の、
どうでもいい見所(言葉がおかしいが)を2つ。
その1
ヒットマンが依頼主から受け取ったアタッシュケースを開くと、そこにはピストルと共に札束も収まっている。おそらく報酬なんだろう。舞台はパリ。しかしなぜかそれが日本の千円札。時代をあわせて伊藤博文の図柄。
ひと束が100枚としたら4束あるから40万円。下にもう4束あるなら80万円。さらにもう1列くらい入っていれば120万円。当時のこの手の仕事の相場は知らないが、なにゆえ1万円札ではなく千円札? かさばるやろ? そもそもどうしてパリで日本円を使うのかもナゾ。なおヒットマンが日本人との設定ではなかったように思う。
その2
朴大統領には彼専用の秘密料亭のような施設があって、事件はそこで起こる。そして、その宴席の場がタタミ敷きになっている。おそらくこれは史実なのだろう。
タタミは日本独自の文化で韓国や中国にはない。それでも戦前は日本が韓国を併合していたし、朴大統領は日本陸軍の士官学校に留学もしているから、タタミに馴染みがあったのかも知れない。千円札ほどではないものの意外な印象を受けた。
密度が濃くていい映画だと思う。役者の演技もよかった。ひとつ難点をいえば、ふたつの勢力が元部長を暗殺しようと同時に動くのだが、誰がどちらの勢力かこんがらがってわかりにくい。映画あるあるなことだけれど、もうちょっと工夫が欲しかった。それを差し引いてもスパイ・サスペンスものが好きならお勧めの1本。
2022年08月29日
めずらしい天気予報
これは現在発生している台風11号。
ほとんどの台風は地図の左下からやってくるから、このように日本列島沖を東から西へ進む
進路予想図はあまり見ない。どれくらいの頻度でこういう進路をとるのだろう。
この進路予想図を見て、そういえば以前にとてもめずらしい天気予報があったので、記念に画像を残したのを思い出した。それがこちら。
暴風雨とはよく聞くが、暴風雪なんて言葉はこの時に初めて知った。
それと天気は、晴れ←→曇り←→雨の順番だから「晴れ時々曇り」や「曇り時々雨」はあっても「晴れ時々雨」は滅多にない。それがこの時は「晴れ時々雪」だったのだから、これはもう見ることはないかも知れないと思って保存したしだい。太陽と雪だるまが並んでいるアイコンもかわいいね。
え〜本日は、
この2014年にとったスクリーンショットを見ていただくだけのブログですm(_ _)m
ちなみにこの2014年2月8日は、東京都心で26センチの積雪となり40年ぶりと騒がれた。しかし2月14日に今度は27センチも積もってさらに記録更新。この場合、40年ぶりの大雪が2週続いたとすべきか、最初が40年ぶりで次は先週並では?、いやそれではインパクトないやろーーーと文章表現が難しい(^^ゞ ほどたくさん雪が降った。
その2014年2月では10本書いたブログのうち6本が大雪関連の内容になっている。
https://wassho.livedoor.blog/archives/2014-02.html
その中で一番のお勧めはYKD48という雪だるまレポート。
https://wassho.livedoor.blog/archives/53026443.html
ほとんどの台風は地図の左下からやってくるから、このように日本列島沖を東から西へ進む
進路予想図はあまり見ない。どれくらいの頻度でこういう進路をとるのだろう。
この進路予想図を見て、そういえば以前にとてもめずらしい天気予報があったので、記念に画像を残したのを思い出した。それがこちら。
暴風雨とはよく聞くが、暴風雪なんて言葉はこの時に初めて知った。
それと天気は、晴れ←→曇り←→雨の順番だから「晴れ時々曇り」や「曇り時々雨」はあっても「晴れ時々雨」は滅多にない。それがこの時は「晴れ時々雪」だったのだから、これはもう見ることはないかも知れないと思って保存したしだい。太陽と雪だるまが並んでいるアイコンもかわいいね。
え〜本日は、
この2014年にとったスクリーンショットを見ていただくだけのブログですm(_ _)m
ちなみにこの2014年2月8日は、東京都心で26センチの積雪となり40年ぶりと騒がれた。しかし2月14日に今度は27センチも積もってさらに記録更新。この場合、40年ぶりの大雪が2週続いたとすべきか、最初が40年ぶりで次は先週並では?、いやそれではインパクトないやろーーーと文章表現が難しい(^^ゞ ほどたくさん雪が降った。
その2014年2月では10本書いたブログのうち6本が大雪関連の内容になっている。
https://wassho.livedoor.blog/archives/2014-02.html
その中で一番のお勧めはYKD48という雪だるまレポート。
https://wassho.livedoor.blog/archives/53026443.html
2022年08月28日
ただ遊ぶのは子供の特権?
8月も残すところ数日となった。
今頃、子供たちは夏休みの宿題と格闘しているのかな。
子供の頃は大人が、とても「大人」に思えたのに、いざ自分が大人になってみると、まったく「大人」になった感じがしない。これは多くの人がいだいている感覚のはず。中には自分が精神的に成長していないのではないかと考える人もいる。でもそんなことはなくて子供と大人に本質的な違いなんてないのだ。
それを自覚したのは30歳の時。その年に父親が亡くなった。通夜と葬式には彼の親友たちも来てくれた。当時60歳前後。小学校までは家族ぐるみでよく旅行にも一緒に出かけていた皆さんである。
お通夜のお経が終わり、やがて宴会状態になって私は彼らの席に着いた。思い出話、四方山話に花が咲いていた。そして、その内容とか会話のノリなどが、30歳ほど年齢の開きがあるにもかかわらず、私が自分の友達としているソレとほとんど同じだった。歳を取っても、あるいは歳が違っても、人って変わらないものなんだなと確信。
それを明確に表現した言葉がある。
「大人とは、子どもの想像の産物」
これはリリー・フランキーが2010年にビールのCMで語っていたもの。彼本人の言葉かどうかは知らないものの、まさにその通りだと思う。だからいくつになっても、大人になった感覚など生まれないのだ。
話はそれるが、日本人は「プロとは?」の問いが好きなように思う。これも大人と同じく「プロとは、素人の想像の産物」だと思っている。NHKに「プロフェッショナル 仕事の流儀」という、各界一流人物の仕事ぶりを追ったドキュメンタリー番組がある。もちろんスゴいことをやってのける人たちであるが、別に彼・彼女たちは仕事の鬼じゃなくて普通の人間だと分かる番組でもある。
番組の最後に「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と出演者(つまりその道のプロ)に質問が投げかけられる。いつもたいした答えが返ってこない(^^ゞ プロとは特別な意識を持っているモンスターだとは素人の空想で、本人達はごく当たり前に仕事に取り組んでいるに過ぎない。もちろん結果においてレベルの差は大きいけれどね。
さて話を子供に戻すと、何かを得て大人に生まれ変わるわけじゃない。しかし逆に失ったものはあると感じている。そのひとつは遊びについて。
公園では幼い子供たちがキャッキャッと遊んでいる。よく見ると別に鬼ごっことか楽しいことをしているわけでもない。会話すらしていない場合もある。それでも跳んだり跳ねたりはしゃいでいるし、お互いの身体にぶつかったり触れあって笑い合っている。
今、私が同じようにしたら
「wasshoさんは変わったボケかたしてるなあ」と言われるに違いない(^^ゞ
小学校の中頃あたりまでは隣近所の友達としょっちゅう一緒にいた。たまにはビー玉やかくれんぼもやったけれど、特に何をするでもなく数名で一緒にいるだけで楽しかった。今、用もないのに人の家を訪ねたら、3回目には居留守を使われるはず。
何かをして遊んでいたのではなく、ただ遊んでいたのだと思う。やがて遊びには「遊ぶ内容」が必要となり、人と集まるのにも目的が求められる。言い換えれば、何もなくても何もしなくても遊べるのは子供だけの特権かも知れない。
現在の東京は気温22度とやたら涼しい。
過ぎ去る夏を惜しんで、心にうつりゆくよしなしごとを徒然と。
それにしても大人にはなれないのに、特権だけを失って損した気分(^^ゞ
今頃、子供たちは夏休みの宿題と格闘しているのかな。
子供の頃は大人が、とても「大人」に思えたのに、いざ自分が大人になってみると、まったく「大人」になった感じがしない。これは多くの人がいだいている感覚のはず。中には自分が精神的に成長していないのではないかと考える人もいる。でもそんなことはなくて子供と大人に本質的な違いなんてないのだ。
それを自覚したのは30歳の時。その年に父親が亡くなった。通夜と葬式には彼の親友たちも来てくれた。当時60歳前後。小学校までは家族ぐるみでよく旅行にも一緒に出かけていた皆さんである。
お通夜のお経が終わり、やがて宴会状態になって私は彼らの席に着いた。思い出話、四方山話に花が咲いていた。そして、その内容とか会話のノリなどが、30歳ほど年齢の開きがあるにもかかわらず、私が自分の友達としているソレとほとんど同じだった。歳を取っても、あるいは歳が違っても、人って変わらないものなんだなと確信。
それを明確に表現した言葉がある。
「大人とは、子どもの想像の産物」
これはリリー・フランキーが2010年にビールのCMで語っていたもの。彼本人の言葉かどうかは知らないものの、まさにその通りだと思う。だからいくつになっても、大人になった感覚など生まれないのだ。
話はそれるが、日本人は「プロとは?」の問いが好きなように思う。これも大人と同じく「プロとは、素人の想像の産物」だと思っている。NHKに「プロフェッショナル 仕事の流儀」という、各界一流人物の仕事ぶりを追ったドキュメンタリー番組がある。もちろんスゴいことをやってのける人たちであるが、別に彼・彼女たちは仕事の鬼じゃなくて普通の人間だと分かる番組でもある。
番組の最後に「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と出演者(つまりその道のプロ)に質問が投げかけられる。いつもたいした答えが返ってこない(^^ゞ プロとは特別な意識を持っているモンスターだとは素人の空想で、本人達はごく当たり前に仕事に取り組んでいるに過ぎない。もちろん結果においてレベルの差は大きいけれどね。
さて話を子供に戻すと、何かを得て大人に生まれ変わるわけじゃない。しかし逆に失ったものはあると感じている。そのひとつは遊びについて。
公園では幼い子供たちがキャッキャッと遊んでいる。よく見ると別に鬼ごっことか楽しいことをしているわけでもない。会話すらしていない場合もある。それでも跳んだり跳ねたりはしゃいでいるし、お互いの身体にぶつかったり触れあって笑い合っている。
今、私が同じようにしたら
「wasshoさんは変わったボケかたしてるなあ」と言われるに違いない(^^ゞ
小学校の中頃あたりまでは隣近所の友達としょっちゅう一緒にいた。たまにはビー玉やかくれんぼもやったけれど、特に何をするでもなく数名で一緒にいるだけで楽しかった。今、用もないのに人の家を訪ねたら、3回目には居留守を使われるはず。
何かをして遊んでいたのではなく、ただ遊んでいたのだと思う。やがて遊びには「遊ぶ内容」が必要となり、人と集まるのにも目的が求められる。言い換えれば、何もなくても何もしなくても遊べるのは子供だけの特権かも知れない。
現在の東京は気温22度とやたら涼しい。
過ぎ去る夏を惜しんで、心にうつりゆくよしなしごとを徒然と。
それにしても大人にはなれないのに、特権だけを失って損した気分(^^ゞ
2022年08月23日
納豆嫌いの同志諸君へ その2
発酵食品には納豆の他にも醤油、味噌、酢といった調味料、サラミソーセージや生ハム、チーズやヨーグルト、ぬか漬けやキムチなど多岐にわたる。日本酒、ワイン、ビールなど醸造酒もそうだし、パンも生地を発酵させる。意外なところではチョコレートやタバスコも発酵食品。ただし紅茶やウーロン茶などは茶葉を発酵させて作るといわれるが、厳密には酸化らしい。
さて多くの人は発酵と腐敗は多少似ているところがあるとしても、両者は別物だと何となく思っている。腐るのは経験的に理解していても、発酵については曖昧な認識しかない。しかしどちらも食品のタンパク質や糖類などが、細菌・酵母・カビなどの微生物によって分解され、別の物質に変化することをいう。そこに発酵と腐敗の区別はない。
では両者の違いはというと、その同じ変化を
人間にとって有益なら発酵
人間にとって無益・有害なら腐敗
と呼んでいるに過ぎない。
すなわち人間の価値観によって言葉を使い分けている。
ただし食品に対する価値観=判断基準は民族によって違う。クサヤ(魚の内蔵の発酵液に浸けた干物)を焼けば外国人は悪臭としか思わないだろう(ほとんどの日本人もだが)。スウェーデンには世界で一番臭い食品といわれている「シュールストレミング」がある。これはニシンを缶詰の中で発酵させたもの。なんと、もし気圧の影響で缶が開いたら取り返しがつかないと、航空機の機内荷物としての持ち込みはおろか、貨物室を使った空輸すら禁止されている。まさに毒ガス級の発酵食品! しかしそれを好んで食べる人もいるのだ。
そしてもちろん食品に対する価値観=判断基準は民族だけでなく個人でも違う。有害は別としても、有益・無益すなわち発酵と腐敗を決めるのは個人の感覚である。
だから納豆嫌いの同志諸君よ、
もし「納豆は発酵食品だから」とお節介を焼かれたら、
それは「大豆が腐って臭い匂いになっただけ」と言い返してやろうゼ!
おしまい
2022年08月22日
納豆嫌いの同志諸君へ
関西出身なので納豆には馴染みがなかった。
昔は今と違って、一般のスーパーや食品店では売られていなかったと思う。
もちろん実家の食卓には出されなかった。
それでも納豆がネバネバしている、
そして臭い匂いがすることは知っていて、
どうしてそんなものを、わざわざ食べるのか子供心に不思議だった。
大学は京都だったが、全国から学生が集まるからか、
学生食堂には納豆がメニューにあった。
実物の納豆を見たのはその時が初めて。
わざわざ臭いものを食べたいとは思わなかったものの、
百聞は一見にしかずだからと注文した。
たしか入学してすぐの頃だったと思う。
納豆をかき混ぜ、テレビドラマか何かで覚えたように、
お箸を空中で回して糸を切る。
それだけは面白かった。
しかしその段階から臭かった(/o\)
これをご飯と一緒に食べるのか?
でもお金払ったしーーー
食べた。
強烈に臭かったし、当然マズかった。
関東人はこんな「足の臭いオッサンの靴下みたいな匂い」がするものが好きなのか!
もちろん、そんな靴下を鼻に近づけて嗅いだ経験はないのだが(^^ゞ
直感的にそういう匂いに思えた。
そして2度と納豆は口にしないと誓った。
20歳代半ばで東京に住むようになる。
納豆は嫌いだというと白い目で見られた。
足の臭いオッサンの靴下の匂いを好む方がどうかしているのに。
中にはお節介な人もいて、
納豆は健康にいいからとか言う。
納豆を食べる・食べないで健康や寿命に差が出ているデータがあるのか?
もしそんなデータがあったら、納豆を食べないで明日死んでやる!
いい納豆を食べたことがないからじゃ?と言う人もいる。
イヤイヤ、あんたが今、
私の目の前で食べている、その納豆の匂いに我慢できないのだ!
そして納豆が健康にいい理由に「納豆は発酵食品だから」と付け加える人もいた。その根拠を示されたわけでなくても、何となく発酵食品は身体にいいとの刷り込みがあるので、そう言われると反論の勢いが鈍ってしまう。
しかしである。
ーーー続く
昔は今と違って、一般のスーパーや食品店では売られていなかったと思う。
もちろん実家の食卓には出されなかった。
それでも納豆がネバネバしている、
そして臭い匂いがすることは知っていて、
どうしてそんなものを、わざわざ食べるのか子供心に不思議だった。
大学は京都だったが、全国から学生が集まるからか、
学生食堂には納豆がメニューにあった。
実物の納豆を見たのはその時が初めて。
わざわざ臭いものを食べたいとは思わなかったものの、
百聞は一見にしかずだからと注文した。
たしか入学してすぐの頃だったと思う。
納豆をかき混ぜ、テレビドラマか何かで覚えたように、
お箸を空中で回して糸を切る。
それだけは面白かった。
しかしその段階から臭かった(/o\)
これをご飯と一緒に食べるのか?
でもお金払ったしーーー
食べた。
強烈に臭かったし、当然マズかった。
関東人はこんな「足の臭いオッサンの靴下みたいな匂い」がするものが好きなのか!
もちろん、そんな靴下を鼻に近づけて嗅いだ経験はないのだが(^^ゞ
直感的にそういう匂いに思えた。
そして2度と納豆は口にしないと誓った。
20歳代半ばで東京に住むようになる。
納豆は嫌いだというと白い目で見られた。
足の臭いオッサンの靴下の匂いを好む方がどうかしているのに。
中にはお節介な人もいて、
納豆は健康にいいからとか言う。
納豆を食べる・食べないで健康や寿命に差が出ているデータがあるのか?
もしそんなデータがあったら、納豆を食べないで明日死んでやる!
いい納豆を食べたことがないからじゃ?と言う人もいる。
イヤイヤ、あんたが今、
私の目の前で食べている、その納豆の匂いに我慢できないのだ!
そして納豆が健康にいい理由に「納豆は発酵食品だから」と付け加える人もいた。その根拠を示されたわけでなくても、何となく発酵食品は身体にいいとの刷り込みがあるので、そう言われると反論の勢いが鈍ってしまう。
しかしである。
ーーー続く
2022年08月20日
コロナになったというのは間違い その2
タイトルの「コロナになったというのは間違い」とは、まったく関係ない話が続くが、
これはそんなブログだと思ってお付き合いのほどをm(_ _)m
さて前回、
SARSもコロナと同様にコロナウイルスが原因だと書いた。
SARSのウイルス: SARS-CoV サーズ・コロナ・ウイルス
コロナのウイルス:SARS-CoV-2 サーズ・コロナ・ウイルス・2
ではサーズ・コロナ・ウイルスの「コロナ」とは?
それはウイルスの形に由来する。
これはウイルスの電子顕微鏡写真。
上がSARS-CoV、下がSARS-CoV-2。
こちらはニュースなどでよく目にしたSARS-CoV-2をイラスト化したもの。いかにも毒々しいが、本当にこんな色かどうかは知らない。電子顕微鏡は白黒でしか写らないから、上のSARS-CoV-2の写真も見やすいように着色したもの。
そして、コロナと呼ばれる理由は、
ウイルスの姿が、太陽に薄い雲がかかったときに現れる光環(こうかん:
英語ではコロナ Corona)に似ている→だからコロナ
あるいは、
ウイルス表面の突起状の部分が王冠(おうかん:英語ではクラウン Crown)を
連想させる。そしてクラウンはギリシャ語でコロナ→だからコロナ
※医学は古代ギリシャから始まったので、医学用語にはギリシャ語が多い。
との2つの説がある。もっともCoronaにも「冠(かんむり)」の意味はあるし、おそらくCrownと語源は同じだろうから、どちらの説でも似たようなもの。
しかしである。
突起があるのはコロナウイルスだけではない。というかウイルスとして割とありふれた形なのだ。どうしてコロナだけ突起に着目してコロナウイルスとネーミングしたのか、それがナゾ。その理由が分かる情報は見つからなかった。
写真はhttp://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/kansen/
byogen/v/virus6l.htmから引用
話は変わるが、トヨタは以前にコロナという車種があった(2001年にラインナップから外れる)。小型セダン:カローラ、中型セダン:コロナ、大型セダン:クラウンが昭和中期に確立したヒエラルキー。
私の記憶にあるのはこの3代目コロナからかな。近所のオバちゃんが颯爽と運転していてカッコよかった。そして、このコロナのネーミングは光環のCoronaに由来している。
余談だが、かつてトヨタはカローラ、セリカ、カムリなど車種名にCから始まるネーミングが多かった。理由はよく分からずトヨタにも記録はないようだ。最初に固有名詞を車種名としたクラウン(1955年〜)がヒットしたので(それまでの車種名はアルファベット記号)、験(げん)を担いでCが多用された説が有力。
そして現在もトヨタの代表車種であるクラウン。こちらのネーミングは王冠のCrownを意味している。フロントグリルのエンブレムも王冠のデザイン。
さてクラウンは先日、かなり大胆なモデルチェンジを発表した。クラウンの名前こそ継承しているが、従来のクラウンとは何もかもがまったく違って、クルマ界隈ではちょっとした話題になっている。トヨタも本腰を入れてクラウンをてこ入れするのだろう(先代のクラウンは最盛期の1/10しか売れていない)。
しかしクラウンをギリシャ語読みすればコロナである。誰かトヨタに「このご時世にコロナつながりの名前ってドウヨ?」と伝えてくれないかな(^^ゞ
おしまい
これはそんなブログだと思ってお付き合いのほどをm(_ _)m
さて前回、
SARSもコロナと同様にコロナウイルスが原因だと書いた。
SARSのウイルス: SARS-CoV サーズ・コロナ・ウイルス
コロナのウイルス:SARS-CoV-2 サーズ・コロナ・ウイルス・2
ではサーズ・コロナ・ウイルスの「コロナ」とは?
それはウイルスの形に由来する。
これはウイルスの電子顕微鏡写真。
上がSARS-CoV、下がSARS-CoV-2。
こちらはニュースなどでよく目にしたSARS-CoV-2をイラスト化したもの。いかにも毒々しいが、本当にこんな色かどうかは知らない。電子顕微鏡は白黒でしか写らないから、上のSARS-CoV-2の写真も見やすいように着色したもの。
そして、コロナと呼ばれる理由は、
ウイルスの姿が、太陽に薄い雲がかかったときに現れる光環(こうかん:
英語ではコロナ Corona)に似ている→だからコロナ
あるいは、
ウイルス表面の突起状の部分が王冠(おうかん:英語ではクラウン Crown)を
連想させる。そしてクラウンはギリシャ語でコロナ→だからコロナ
※医学は古代ギリシャから始まったので、医学用語にはギリシャ語が多い。
との2つの説がある。もっともCoronaにも「冠(かんむり)」の意味はあるし、おそらくCrownと語源は同じだろうから、どちらの説でも似たようなもの。
しかしである。
突起があるのはコロナウイルスだけではない。というかウイルスとして割とありふれた形なのだ。どうしてコロナだけ突起に着目してコロナウイルスとネーミングしたのか、それがナゾ。その理由が分かる情報は見つからなかった。
写真はhttp://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/kansen/
byogen/v/virus6l.htmから引用
話は変わるが、トヨタは以前にコロナという車種があった(2001年にラインナップから外れる)。小型セダン:カローラ、中型セダン:コロナ、大型セダン:クラウンが昭和中期に確立したヒエラルキー。
私の記憶にあるのはこの3代目コロナからかな。近所のオバちゃんが颯爽と運転していてカッコよかった。そして、このコロナのネーミングは光環のCoronaに由来している。
余談だが、かつてトヨタはカローラ、セリカ、カムリなど車種名にCから始まるネーミングが多かった。理由はよく分からずトヨタにも記録はないようだ。最初に固有名詞を車種名としたクラウン(1955年〜)がヒットしたので(それまでの車種名はアルファベット記号)、験(げん)を担いでCが多用された説が有力。
そして現在もトヨタの代表車種であるクラウン。こちらのネーミングは王冠のCrownを意味している。フロントグリルのエンブレムも王冠のデザイン。
さてクラウンは先日、かなり大胆なモデルチェンジを発表した。クラウンの名前こそ継承しているが、従来のクラウンとは何もかもがまったく違って、クルマ界隈ではちょっとした話題になっている。トヨタも本腰を入れてクラウンをてこ入れするのだろう(先代のクラウンは最盛期の1/10しか売れていない)。
しかしクラウンをギリシャ語読みすればコロナである。誰かトヨタに「このご時世にコロナつながりの名前ってドウヨ?」と伝えてくれないかな(^^ゞ
おしまい
2022年08月19日
コロナになったというのは間違い
なかなか収まらないコロナ。
日本では、患者の乗ったダイヤモンドプリンセス号が横浜港にやってきて大騒ぎとなり、店頭からマスクが消えたのが2020年2月。既に2年と6ヶ月が経ったことになる。皆さん、お疲れ様ですm(_ _)m
コロナがコロナウイルスによって引き起こされるのは誰でも知っている。そしてたまにCOVID-19という単語が出てきて、多くの人はそれをコロナウイルスの学術名か何かと思っているが、実はコロナによって引き起こされる病気の名前がCOVID-19。
CO はコロナ(Corona)
VI はウイルス(Virus)
D は疾患(Disease) ←ここがポイント
19 は2019年の19
だから「コロナになった」じゃなくて「COVID-19になった」と言わなくちゃならない。もちろん19は「じゅうく」じゃなくて「ナインティーン」。長いし言いにくいわ! もっともCOVID-19を元の単語に戻して訳せば「2019年版コロナウイルス病」だから、それを略してコロナとしても、まったくの間違いとまでは言い切れないが。
さてコロナウイルスの正式名称はというとSARS-CoV-2である。
これを一般のニュースで目にする機会はほとんどないかな。
SARSとは2002年から2003年に主に中国と東南アジアで流行したサーズ。日本で感染者は発生しなかったが、それまでの新型インフルエンザ、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどとは違う語感だったので記憶している人は多いだろう。
そのSARSは次の言葉の頭文字をとったもので重症急性呼吸器症候群と訳される。
Severe:重症
Acute:急性
Respiratory:呼吸器
Syndrome:症候群
そしてCoVはコロナ(Corona)ウイルス(Virus)を略して1つにまとめたもの。そうするとコロナウイルスのSARS-CoV-2は、SARSの病気にコロナの病気が合体したのか? だからこんなに大変なのか?と思ってしまう。実はSARSもコロナなのである。
SARSのウイルス: SARS-CoV
コロナのウイルス:SARS-CoV-2
つまりSARSウイルスのバージョン2がコロナウイルス。これが今までコロナなんて聞いたこともなかったのに、報道などで「コロナウイルス」ではなく「新型コロナウイルス」と表現される理由。SARSのウイルスは本来「SARSコロナウイルス」なのだけれど、省略して「SARSウイルス」と呼んだからネーミングに一貫性がなくなった。現在のコロナのウイルスを正確に言い表すならば「新型SARSコロナウイルス」となる。
ーーー続く
日本では、患者の乗ったダイヤモンドプリンセス号が横浜港にやってきて大騒ぎとなり、店頭からマスクが消えたのが2020年2月。既に2年と6ヶ月が経ったことになる。皆さん、お疲れ様ですm(_ _)m
コロナがコロナウイルスによって引き起こされるのは誰でも知っている。そしてたまにCOVID-19という単語が出てきて、多くの人はそれをコロナウイルスの学術名か何かと思っているが、実はコロナによって引き起こされる病気の名前がCOVID-19。
CO はコロナ(Corona)
VI はウイルス(Virus)
D は疾患(Disease) ←ここがポイント
19 は2019年の19
だから「コロナになった」じゃなくて「COVID-19になった」と言わなくちゃならない。もちろん19は「じゅうく」じゃなくて「ナインティーン」。長いし言いにくいわ! もっともCOVID-19を元の単語に戻して訳せば「2019年版コロナウイルス病」だから、それを略してコロナとしても、まったくの間違いとまでは言い切れないが。
さてコロナウイルスの正式名称はというとSARS-CoV-2である。
これを一般のニュースで目にする機会はほとんどないかな。
SARSとは2002年から2003年に主に中国と東南アジアで流行したサーズ。日本で感染者は発生しなかったが、それまでの新型インフルエンザ、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどとは違う語感だったので記憶している人は多いだろう。
そのSARSは次の言葉の頭文字をとったもので重症急性呼吸器症候群と訳される。
Severe:重症
Acute:急性
Respiratory:呼吸器
Syndrome:症候群
そしてCoVはコロナ(Corona)ウイルス(Virus)を略して1つにまとめたもの。そうするとコロナウイルスのSARS-CoV-2は、SARSの病気にコロナの病気が合体したのか? だからこんなに大変なのか?と思ってしまう。実はSARSもコロナなのである。
SARSのウイルス: SARS-CoV
コロナのウイルス:SARS-CoV-2
つまりSARSウイルスのバージョン2がコロナウイルス。これが今までコロナなんて聞いたこともなかったのに、報道などで「コロナウイルス」ではなく「新型コロナウイルス」と表現される理由。SARSのウイルスは本来「SARSコロナウイルス」なのだけれど、省略して「SARSウイルス」と呼んだからネーミングに一貫性がなくなった。現在のコロナのウイルスを正確に言い表すならば「新型SARSコロナウイルス」となる。
ーーー続く
2022年08月17日
挫折してバクテリアとプランクトン
コロナによってウイルスという言葉を聞かない日はないが、似たようなものに細菌もある。これらはどう違うのだったっけ? 知っているような知らないような言葉は多いもの。それで曖昧にしか理解していない小さな生物関連の単語を調べて、夏休みの自由研究パート2にしようと思いついたのだがーーー
対象としたのは(対義語で小さくないものも含まれている)
微生物
単細胞生物 多細胞生物
原核生物 真核生物 原生生物
細菌 真正細菌 古細菌
ウイルス ウイロイド バクテリア プリオン
菌類 カビ 地衣類
プランクトン アメーバー
など。
これがなかなか難しいのだわ。
ボヤーッと情報量は増えたものの、簡潔にまとめてブログにするにはほど遠く。つまりは頭の中に入ったとはいえないレベル。というわけで自由研究の発表は潔く断念(^^ゞ
その代わりに、エッ!そうだったのかと驚いた話を2つ。
知っている人は少ないと思うのだけれど、違っていたら恥ずかしいな。
1)細菌とバクテリアは同じ意味!
細菌を英語にしたら bacteria。どちらの言葉も馴染みがあるとはいえ、あまり内容を深く意識していなかったな。乳酸菌など有益なものも多いが、どちらかといえば、ばい菌イメージが先に浮かぶ。それにしても、まさか同じ意味だったとはーーー不覚(/o\)
なおbacteriaは複数形でbacterium(バクテリウム)が単数形。しかしなぜかbacteriaを単数・複数にも使う。理由はよく分からない。また語源はギリシャ語のようだ。
2)プランクトンは水中・水面に漂っている生物という分類!
プランクトンには植物プランクトン、動物プランクトンがある。植物と動物の両方があるなんて、こいつらはどこか怪しいと子供の頃から思っていた(^^ゞ
これは生物の種類や構造で分けたものではなく、生活行動での分類になる。分類の仕方にも色々あるのね。ちなみに泳ぐ生物はネクトン(nekton)と呼ぶ。
プランクトンといえば微生物的なイメージがあるが、漂っていればプランクトンなのでクラゲもプランクトンに分類されると知ってビックリ。
水中・水面に漂っているとは、水流に逆らって泳ぐ能力がないとの意味である。ただし能力ゼロかというと、多少は泳げる生物も含まれていて基準は曖昧。クジラのエサとなるオキアミ(写真)はプランクトンとされるが、これは海老の仲間なので足を使って少しは泳げる。それでネクトンほどじゃない意味だと思うが、マイクロ・ネクトン(micronekton)と分類される場合もある。サクラエビも同じく。(だからたまにプランクトンを食べていることになる)
ついでに微生物とは、これも生物の種類や構造ではなく、読んで字のごとく単に小さいというサイズによる生物の区分。それは以前から何となく理解していた。そして今回、微生物とされる基準は「顕微鏡を使わないと見えない大きさ」だと知る(例外はある)。しかし生物学と顕微鏡は、直接的には何の関係ないから客観性のある基準とは思えないが?
調べてみると顕微鏡が発明されたのが西暦1600年前後。それを使うと今まで見たこともない(見ることができなかった)生物がたくさん発見できた。そこで顕微鏡を使わないと見えない生物が、新たなジャンルとして微生物と呼ばれるようになったらしい。
アントーニ・ファン・レーウェンフックというオランダ人が、1674年に初めて微生物を発見したとされる。この人は画家フェルメールの遺産管財人でもあったのが、個人的には興味深い。フェルメールも顕微鏡をのぞいたのかな?
ちなみに望遠鏡も同じ頃に発明され、それで星を観察した先駆者の1人がガリレオ(1564〜1642年)。当時の顕微鏡や望遠鏡は研究者による自作。研究する前に道具も作らなければいけないのは大変だが、未知の分野でいろいろ発見できて楽しかっただろうな。
挫折ブログになってしまってまったく情けない。でも細菌とバクテリアが同じで、クラゲがプランクトンと分かっただけでも、2つ賢くなったからまあいいか。
ところで生物には植物と動物、哺乳類と昆虫などたくさんの分類があるが、究極的には
「細菌」「古細菌」「真核生物」
の3つに分けられる。
言い換えればすべての生物は、この3つのいずれかに属す。
興味が湧いた? 是非お調べを。
そして一緒に挫折を味わいましょう(^^ゞ
対象としたのは(対義語で小さくないものも含まれている)
微生物
単細胞生物 多細胞生物
原核生物 真核生物 原生生物
細菌 真正細菌 古細菌
ウイルス ウイロイド バクテリア プリオン
菌類 カビ 地衣類
プランクトン アメーバー
など。
これがなかなか難しいのだわ。
ボヤーッと情報量は増えたものの、簡潔にまとめてブログにするにはほど遠く。つまりは頭の中に入ったとはいえないレベル。というわけで自由研究の発表は潔く断念(^^ゞ
その代わりに、エッ!そうだったのかと驚いた話を2つ。
知っている人は少ないと思うのだけれど、違っていたら恥ずかしいな。
1)細菌とバクテリアは同じ意味!
細菌を英語にしたら bacteria。どちらの言葉も馴染みがあるとはいえ、あまり内容を深く意識していなかったな。乳酸菌など有益なものも多いが、どちらかといえば、ばい菌イメージが先に浮かぶ。それにしても、まさか同じ意味だったとはーーー不覚(/o\)
なおbacteriaは複数形でbacterium(バクテリウム)が単数形。しかしなぜかbacteriaを単数・複数にも使う。理由はよく分からない。また語源はギリシャ語のようだ。
2)プランクトンは水中・水面に漂っている生物という分類!
プランクトンには植物プランクトン、動物プランクトンがある。植物と動物の両方があるなんて、こいつらはどこか怪しいと子供の頃から思っていた(^^ゞ
これは生物の種類や構造で分けたものではなく、生活行動での分類になる。分類の仕方にも色々あるのね。ちなみに泳ぐ生物はネクトン(nekton)と呼ぶ。
プランクトンといえば微生物的なイメージがあるが、漂っていればプランクトンなのでクラゲもプランクトンに分類されると知ってビックリ。
水中・水面に漂っているとは、水流に逆らって泳ぐ能力がないとの意味である。ただし能力ゼロかというと、多少は泳げる生物も含まれていて基準は曖昧。クジラのエサとなるオキアミ(写真)はプランクトンとされるが、これは海老の仲間なので足を使って少しは泳げる。それでネクトンほどじゃない意味だと思うが、マイクロ・ネクトン(micronekton)と分類される場合もある。サクラエビも同じく。(だからたまにプランクトンを食べていることになる)
ついでに微生物とは、これも生物の種類や構造ではなく、読んで字のごとく単に小さいというサイズによる生物の区分。それは以前から何となく理解していた。そして今回、微生物とされる基準は「顕微鏡を使わないと見えない大きさ」だと知る(例外はある)。しかし生物学と顕微鏡は、直接的には何の関係ないから客観性のある基準とは思えないが?
調べてみると顕微鏡が発明されたのが西暦1600年前後。それを使うと今まで見たこともない(見ることができなかった)生物がたくさん発見できた。そこで顕微鏡を使わないと見えない生物が、新たなジャンルとして微生物と呼ばれるようになったらしい。
アントーニ・ファン・レーウェンフックというオランダ人が、1674年に初めて微生物を発見したとされる。この人は画家フェルメールの遺産管財人でもあったのが、個人的には興味深い。フェルメールも顕微鏡をのぞいたのかな?
ちなみに望遠鏡も同じ頃に発明され、それで星を観察した先駆者の1人がガリレオ(1564〜1642年)。当時の顕微鏡や望遠鏡は研究者による自作。研究する前に道具も作らなければいけないのは大変だが、未知の分野でいろいろ発見できて楽しかっただろうな。
挫折ブログになってしまってまったく情けない。でも細菌とバクテリアが同じで、クラゲがプランクトンと分かっただけでも、2つ賢くなったからまあいいか。
ところで生物には植物と動物、哺乳類と昆虫などたくさんの分類があるが、究極的には
「細菌」「古細菌」「真核生物」
の3つに分けられる。
言い換えればすべての生物は、この3つのいずれかに属す。
興味が湧いた? 是非お調べを。
そして一緒に挫折を味わいましょう(^^ゞ
2022年08月15日
終戦の日に憲法9条の話 その2
私は憲法9条を(自衛権の解釈込みで)肯定的に捉えている。特に戦争と武力による威嚇又は行使について【国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する】というくだりが素晴らしい。要は戦争反対なわけであるが、いわゆる人道的な平和主義とは少し視点が違う。
それは戦争なんてものは、負ければ当然であるが、よほどの弱小国相手なら別として、勝ったとしても多大な犠牲が伴う。つまり損得勘定が合わないと考えるから。まじめに平和運動に取り組んでいる人からはナンジャコイツと思われるかも知れないが、そう考える人が多くなるほど戦争は起きないと確信している。
損得勘定の話をもうひとつすると、自衛のためであっても防衛費は巨額である。2022年度で5.4兆円。これは国家予算全体の約5%を占める。最近よく耳にするNATO加盟国の予算目標と同じGDP比2%の水準まで引き揚げるとすれば、11.3兆円とさらに跳ね上がる。日本の防衛費は現在世界9位の規模であるが、11.3兆円だと3位(これは前回に書いた戦力のランキングとは別)。
一方で外務省の予算は6900億円。無償資金協力などが多くを占め、一般的な政策経費としては2400億円ほどしかない。「戦争は外交の延長」などといわれるように両者は表裏一体である。そこで思うのは、日本の安全を守るには軍備増強だけでなく外交にもっと力を入れるべきではないか、その方がコスパがいいのではないか、両者の予算的バランスはどれくらいが適切かということ。
2010年に「防衛問題 1000億円の外交努力」のタイトルでブログを書いた。イージス艦や戦闘機を増やすばかりが能じゃなくて、もっと外交に金を掛けたら?という内容。
その時に
外交努力=基本的に交渉に、どうやって1000億円かけるの?
何に金を使うの?という質問はご遠慮ください(^^ゞ
とも書いたが、自分で質問に答えよう。
戦争なんてものは大義名分がどうあろうと、どんな手段を選ぼうが勝てば官軍である。それを自衛に置き換えれば攻められなかったら勝ち。信長を始め優秀な戦国武将ほど調略(敵を寝返りさせる)が上手くて戦わずして勝った。そこで防衛費をベラボーに増やすのではなく、
習近平とプーチンに、
毎年1兆円ずつワイロをつかませたらどうや?
それだけ貰って転ばないヤツはいてヘンやろ。
2兆円で国が守れるなら安いもんや。
何ならワイが運び屋やったろか?
あっ、手数料として3%は貰うで!
ナゾに関西弁になってしまったが(^^ゞ もちろん本気で書いてはいない。しかし視野を広く手段を柔軟に、そして冷静に損得勘定を考えればいろいろな選択肢がある(かもしれない)ということ。
話を憲法9条に戻す。
自衛権解釈のことはいったん横に置くとして、憲法9条は「戦争ダメ絶対」を宣言した条文である。憲法には様々な役割があるが、これは立憲主義(主義という用語がおかしい気もするが)といって国家権力を制限する規定。
この憲法9条の戦争・戦力の放棄には連合国側の意向が強く働いていたと思う。終戦時点で日本軍には400万人ほどの兵力が残っていた。既にボロボロの状態だったとはいえ、この数字は脅威だったはず。何たって追い詰められれば「特攻」までしてくる狂信的な軍隊なのだから。やがて日本が敗戦から立ち直ったときに、また戦争を仕掛けないようこれを徹底的に潰して、将来の芽も摘んでしまおうと考えたはず。
またコロコロと話は変わるが、自爆テロといえばイスラム過激派のイメージがある。しかしそのルーツは1972年に日本赤軍がテルアビブの空港で起こした乱射事件だと最近知った。実行犯3名のうち1人が手榴弾で自爆。それがアラブ社会で英雄的行為と賞賛され、後にいろんなテロ組織に広まったらしい。特攻とテロを同列に扱えないとしても、日本人ってそういうところがあるのかな。
敵を倒せではなく、国のために死んでこいと兵士を送り出した国である。広島・長崎で約14万人の犠牲を出して(当日のみの死者数)日本は敗北を受け入れた。もしあの時代に原爆が完成しておらず、いわゆる本土決戦になっていたら、いったいどれくらいの玉砕を強いられたのかと、毎年この時期になると思ってしまう。ちなみに沖縄では沖縄出身軍人と民間人の併せて約12万人が死亡し、これは島民の約25%に相当する(さらに他府県出身の軍人が約6万5000人)。原爆によって早期に戦争が終結して、結果的に犠牲者が減った説もあるから余計に複雑な気持ちである。
さて憲法9条によって、日本の国家権力は戦争・戦力の放棄の縛りを掛けられた。言い換えれば終戦時にはそうするだけの合理性や根拠があった。最初に書いたように戦争なんて勝っても負けても損得勘定に合わないと考えているので、戦争や武力を【国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する】ことには大賛成。いってみれば私は憲法9条賛成派というより、憲法9条のコンセプト絶賛派である。それが守られるなら、改憲して自衛権や自衛隊のことを盛り込むかどうかは別にどうでもいい。
と、ずっと考えていたのだけれどーーー
もう一度書くが、憲法以前のこととして認められる自衛権は守る権利だから、憲法9条で禁じられているのは攻める権利である。当時は終戦から立ち直った日本が、また戦争を仕掛ける国になる可能性はなしとはいえなかった。
しかし現在はどうか?
2010年に中国にGDPで追い抜かれ世界第2位から3位に陥落。それから12年が経って中国に4倍以上の差をつけられている。最近は日本の「安い人件費」を求めて中国企業が進出してくるありさま。また4位のドイツとの差は1990年には2倍以上の開きがあっのに、既に17%ほどに詰め寄られている。国民1人当たりのGDPにいたっては2000年には2位だったものが、現在は28位と♪まっさかさまに堕ちてdesire(>_<)
そして少子高齢化でジジ・ババばかりとなり、
兵士となる若者は数も少ない上に草食系男子(/o\)
この日本に戦争を仕掛ける力はもうないんじゃないか?
ということは憲法9条は役割を終えて必要ないかも。
アメリカ、ロシア、中国のすべてと一戦を交えた国だったが、
それも今は昔。
いかなる理由でも戦争には反対で、
だから憲法9条を支持していたのに。
そんなことに気づいてしまって、
護憲・改憲を通り越して憲法9条不要論に思い至るとはーーー
ビミョーに寂しさも感じてしまう終戦記念日の夏。
おしまい
付録:それにしてもこんな広いエリアに日本軍が勢力を広げていたとは
今さらながら驚く。いろんな意味で
仮に今日から超軍国主義の国になって、
挙国一致・滅私奉公でガムシャラにがんばったとして、
これをまた実行するのに何年くらい掛かる?
というか可能性ある? いや無理ヤロ
ついでに、大東亜共栄圏って名前は知っていても具体的には
イメージしていないことが多いが、これとほぼ同じ範囲ね。
2022年08月13日
終戦の日に憲法9条の話
ここしばらくは8月15日前後に、お盆に関連しているような・していないような話を書くことが多かった。今年は趣向を変えて終戦の日にちなんで憲法9条をテーマに。
いきなり話がそれるが日本では8月15日が終戦記念日。しかし、それが世界で少数派なのはあまり知られていない。終戦についての歴史の流れを追うと
1945年(昭和20年)
8月10日 御前会議で降伏を決定し、閣議でそれを承認
連合国側にその旨を通知
8月14日 天皇による詔書作成(これで国内の正式手続きを終えた)
8月15日 玉音放送によって国民と軍に降伏を表明
8月30日 連合国総司令官マッカーサーが日本に到着
9月2日 日本と連合国との間で降伏文書が交わされる
1951年(昭和26年)
9月8日 サンフランシスコ講和条約締結
各国が終戦をいつとしているか Wikipedia によると
8月15日 日本、イギリス、韓国、北朝鮮
9月2日 アメリカ、カナダ、フランス、ロシア
9月3日 中国、台湾
となっている。
日本が声明を出しただけの8月15日より、降伏文書に調印した9月2日とするのは合理性があると思うが、中国や台湾が9月3日なのは、その日から3日間をお祝いで休日にしたのに由来するらしい。日本より先に降伏したイタリアやドイツが第2次世界大戦の終了をいつと捉えているかは資料が見つからなかった。実は第2次世界大戦は戦闘に参加していない国も含めて80カ国ほどが、連合国・枢軸国いずれかの陣営に名前を連ねている。おそらく世界史的に終戦のグルーバルスタンダードは9月2日だろう。
なお9月2日の降伏文書は休戦協定なので、名実ともに終戦となったのは6年後のサンフランシスコ講和条約が締結されたときとなる。
さて終戦〜戦争つながりということで憲法9条。
改憲するかしないかで常に議論の中心となる条文である。
まずは書き出しておくと、
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
(2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
ちなみに憲法は前文と11章で構成され、その11章に103の条文が書かれている。2章は9条のためだけの章立てで、それだけ9条には重きを置いているのだろう。「日本国民は、正義と」〜「これを放棄する」までを第1項、「(2)前項の目的を」からを第2項という。
2つの項があるなら第1項にも(1)と数字を振った方がわかりやすいと思うが、法律は複数の項がある場合、なぜか第2項から数字を振ることになっている。どうして読みにくくするのか理由は知らない。ただし項の下に号を設ける場合は最初から数字を振る。
さて憲法で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定められているのに自衛隊が存在するのは矛盾する。どう測るのか知らないが、その戦力は世界ランキング6位とされている。参考までに1位〜10位はアメリカ・ロシア・中国・インド・フランス・日本・韓国・イギリス・トルコ・ドイツの順。
つまりどう考えても自衛隊は保持しないはずの戦力である。
ではいかなる根拠で自衛隊は存在するのか?
これについては自衛隊発足以来から議論されているテーマであり、もちろんそのすべてを知っているわけではない。私が理解しているところは
9条によって戦争を放棄し、軍隊は持てないのだが、
そもそも憲法以前の話として、人類の歴史において、国家には他国に攻められたら
守る・反撃する当然の権利が認められている。それがいわゆる自衛権。
自衛隊は自衛権のためのものであって、
だから憲法とは関係ないから矛盾もしないというかムニュムニューーー
といったところ。
屁理屈というか詭弁的解釈ではある。しかし殺人は罰せられるけれど正当防衛は認められ、また法律に基づいて死刑もおこなわれる。法律とはそういうものであって、いろいろと矛盾したことを取り繕っていくのが人間の英知というもの。憲法より上位の不文律のような「そもそも論」を持ち出すのはチョー強引とは思うものの、現実社会を考えれば、上記の解釈はなかなか見事なアルテ(技巧)じゃないかと考えている。
さて自衛隊が合憲かどうかとセットで持ち出されるのが、
憲法9条で国を守れる・守れないの議論である。
ほとんど神学論争のようなもので、双方の言い分にそれぞれ一理はある。ただし基本的に議論そのものがズレている。なぜなら憲法9条は「戦争ダメ絶対」との規定であって、国を守れるかどうかは守備範囲でないと思うから。
ーーー続く
「終戦の日に憲法9条の話」というタイトルなのに、本日はまだその日ではないが、お読みになったように8月10日からが「終戦の始まり」なのでヨシとしましょう。
いきなり話がそれるが日本では8月15日が終戦記念日。しかし、それが世界で少数派なのはあまり知られていない。終戦についての歴史の流れを追うと
1945年(昭和20年)
8月10日 御前会議で降伏を決定し、閣議でそれを承認
連合国側にその旨を通知
8月14日 天皇による詔書作成(これで国内の正式手続きを終えた)
8月15日 玉音放送によって国民と軍に降伏を表明
8月30日 連合国総司令官マッカーサーが日本に到着
9月2日 日本と連合国との間で降伏文書が交わされる
1951年(昭和26年)
9月8日 サンフランシスコ講和条約締結
各国が終戦をいつとしているか Wikipedia によると
8月15日 日本、イギリス、韓国、北朝鮮
9月2日 アメリカ、カナダ、フランス、ロシア
9月3日 中国、台湾
となっている。
日本が声明を出しただけの8月15日より、降伏文書に調印した9月2日とするのは合理性があると思うが、中国や台湾が9月3日なのは、その日から3日間をお祝いで休日にしたのに由来するらしい。日本より先に降伏したイタリアやドイツが第2次世界大戦の終了をいつと捉えているかは資料が見つからなかった。実は第2次世界大戦は戦闘に参加していない国も含めて80カ国ほどが、連合国・枢軸国いずれかの陣営に名前を連ねている。おそらく世界史的に終戦のグルーバルスタンダードは9月2日だろう。
なお9月2日の降伏文書は休戦協定なので、名実ともに終戦となったのは6年後のサンフランシスコ講和条約が締結されたときとなる。
さて終戦〜戦争つながりということで憲法9条。
改憲するかしないかで常に議論の中心となる条文である。
まずは書き出しておくと、
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
(2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
ちなみに憲法は前文と11章で構成され、その11章に103の条文が書かれている。2章は9条のためだけの章立てで、それだけ9条には重きを置いているのだろう。「日本国民は、正義と」〜「これを放棄する」までを第1項、「(2)前項の目的を」からを第2項という。
2つの項があるなら第1項にも(1)と数字を振った方がわかりやすいと思うが、法律は複数の項がある場合、なぜか第2項から数字を振ることになっている。どうして読みにくくするのか理由は知らない。ただし項の下に号を設ける場合は最初から数字を振る。
さて憲法で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定められているのに自衛隊が存在するのは矛盾する。どう測るのか知らないが、その戦力は世界ランキング6位とされている。参考までに1位〜10位はアメリカ・ロシア・中国・インド・フランス・日本・韓国・イギリス・トルコ・ドイツの順。
つまりどう考えても自衛隊は保持しないはずの戦力である。
ではいかなる根拠で自衛隊は存在するのか?
これについては自衛隊発足以来から議論されているテーマであり、もちろんそのすべてを知っているわけではない。私が理解しているところは
9条によって戦争を放棄し、軍隊は持てないのだが、
そもそも憲法以前の話として、人類の歴史において、国家には他国に攻められたら
守る・反撃する当然の権利が認められている。それがいわゆる自衛権。
自衛隊は自衛権のためのものであって、
だから憲法とは関係ないから矛盾もしないというかムニュムニューーー
といったところ。
屁理屈というか詭弁的解釈ではある。しかし殺人は罰せられるけれど正当防衛は認められ、また法律に基づいて死刑もおこなわれる。法律とはそういうものであって、いろいろと矛盾したことを取り繕っていくのが人間の英知というもの。憲法より上位の不文律のような「そもそも論」を持ち出すのはチョー強引とは思うものの、現実社会を考えれば、上記の解釈はなかなか見事なアルテ(技巧)じゃないかと考えている。
さて自衛隊が合憲かどうかとセットで持ち出されるのが、
憲法9条で国を守れる・守れないの議論である。
ほとんど神学論争のようなもので、双方の言い分にそれぞれ一理はある。ただし基本的に議論そのものがズレている。なぜなら憲法9条は「戦争ダメ絶対」との規定であって、国を守れるかどうかは守備範囲でないと思うから。
ーーー続く
「終戦の日に憲法9条の話」というタイトルなのに、本日はまだその日ではないが、お読みになったように8月10日からが「終戦の始まり」なのでヨシとしましょう。
2022年08月12日
シルクの残酷とビックリ
群馬県にある富岡製糸場が世界遺産に登録されたのが2014年。当時は大きなニュースとなり、関連して蚕の繭から絹糸を作る作業などの紹介もニュースで何度か見た。実はその時に思い浮かんだ疑問が。ただしそれほど興味を持っていたわけでもなく今までスルーしていた。たまたま思い出したので少し調べてみたしだい。
絹・シルクについて知っていることといえば、
蚕(かいこ)という虫が、サナギになるときに糸を吐いて繭(まゆ)を作る。
その糸が絹。つまり絹糸は繭をほどいたもの。
蚕は桑の葉を食べて育つ。
と一般常識的なレベル。ただ養蚕(ようさん)農家が蚕を「おカイコ様」と呼んで、とても大切に育てているのは何となく昔から知っていた。それで生計を立て得ているのだから大切にして不思議はない。しかし畜産農家が牛や豚に「お」や「様」を付けたりはしないから、よほど愛情を注いでいるのかなと。
桑の葉を食べている蚕の幼虫。
たくさん集まっていると、ちょっとグロい(/o\)
これが蚕の繭。
繭140個でネクタイ1本分とのこと。着物だと5000〜1万個が必要。
さて問題はここから。
これは手作業で繭から糸を引き出している様子。
釜から湯気が立っている。つまりこれはどう見てもかなりの温度のお湯である。そんなことをしたら蚕が死んでしまうじゃないか、「おカイコ様」じゃなかったのか?というのが当時いだいた疑問。
結論からいうと蚕は殺されていた(>_<)
繭からすぐに糸を引き出す場合は、この釜ゆでで殺すこともあるらしいが(釜ゆでそのものは糸をほぐすための措置)、多くはそれ以前に乾繭(かんけん)といって、サナギから成虫になると繭を破って出てくる=糸が分断されてしまうので熱風で殺し、かつ保管時にカビなどが生えないように乾燥処理を施される。「おカイコ様」じゃなかったのか!!(涙目)
ところで仏教は殺生を禁じている。精進料理なんてものもある。しかし僧侶の着ている法衣や袈裟は着物の一種なので多くはシルク製品である。だから5000〜1万頭(前述)が殺生されたものをお召しである。どこかで見かけたら「この仏道から外れた罰当たりもの!喝!」と叱って差し上げましょう(^^ゞ
さて蚕の幼虫は見るからにイモムシなので成虫は蝶か蛾である。調べてみると学術的には蚕蛾(カイコガ)で蛾の仲間。蝶と蛾の違いは長くなるので割愛。
これが成虫。
モフモフで、まるでおとぎの国にいるような姿をしている。(画像を拡大してみて)
実は蚕はそのかわいさが人気で、幼虫・成虫ともぬいぐるみが売られている。
さて驚くのはこの蚕、自然界には存在しない虫なのである。
どういうことかというと、養蚕は5000年ほど前からおこなわれており、つまり家畜としての歴史が長いので、野生回帰能力を完全に失ってしまったらしい。日本には弥生時代に伝わったとされる。虫も家畜と呼ぶとは初めて知ったが、蜜蜂も品種改良されたものは家畜に分類されるみたいだ。ちなみに蚕は家畜なので一頭、二頭と数える。ただし蜜蜂は一匹、二匹のようだ。
幼虫の蚕は移動せず人がエサを与え世話をしないと生きていけない。脚力がなく水平にした桑の葉の上に置いてやらないと落ちてしまう。だから野生の桑の葉に掴まることもできない。そして眠らずに昼も夜も食べ続ける。
成虫に羽根はあるが筋力がないので飛べない。そして口は退化していて餌を食べず水も飲まない。子孫を残すためだけに成虫になるようなもの。羽化直後から交尾を始め、オスは交尾後の数日で死に、メスは交尾の数時間後から3日間かけて産卵し、その4〜5日後に死ぬ。卵からふ化しての寿命は約2ヶ月。
まさに蚕は人間に絹糸を提供するためだけに生まれ死んでいく。言い換えれば完璧な家畜。そうなるよう品種改良してきた結果であるが、遺伝子操作なんて技術がない時代からなので驚嘆する。5000年の養蚕歴史による「継続は力なり」の見本。
蚕は人間が絹をとるために殺される。かといって養蚕をやめれば=飼育しなければ種として絶滅してしまう。人類が生み出したモンスターともいえるわけで、せめて「おカイコ様」とでも呼んであげなければかわいそうというもの。
以上、夏休みの自由研究でした。
絹・シルクについて知っていることといえば、
蚕(かいこ)という虫が、サナギになるときに糸を吐いて繭(まゆ)を作る。
その糸が絹。つまり絹糸は繭をほどいたもの。
蚕は桑の葉を食べて育つ。
と一般常識的なレベル。ただ養蚕(ようさん)農家が蚕を「おカイコ様」と呼んで、とても大切に育てているのは何となく昔から知っていた。それで生計を立て得ているのだから大切にして不思議はない。しかし畜産農家が牛や豚に「お」や「様」を付けたりはしないから、よほど愛情を注いでいるのかなと。
桑の葉を食べている蚕の幼虫。
たくさん集まっていると、ちょっとグロい(/o\)
これが蚕の繭。
繭140個でネクタイ1本分とのこと。着物だと5000〜1万個が必要。
さて問題はここから。
これは手作業で繭から糸を引き出している様子。
釜から湯気が立っている。つまりこれはどう見てもかなりの温度のお湯である。そんなことをしたら蚕が死んでしまうじゃないか、「おカイコ様」じゃなかったのか?というのが当時いだいた疑問。
結論からいうと蚕は殺されていた(>_<)
繭からすぐに糸を引き出す場合は、この釜ゆでで殺すこともあるらしいが(釜ゆでそのものは糸をほぐすための措置)、多くはそれ以前に乾繭(かんけん)といって、サナギから成虫になると繭を破って出てくる=糸が分断されてしまうので熱風で殺し、かつ保管時にカビなどが生えないように乾燥処理を施される。「おカイコ様」じゃなかったのか!!(涙目)
ところで仏教は殺生を禁じている。精進料理なんてものもある。しかし僧侶の着ている法衣や袈裟は着物の一種なので多くはシルク製品である。だから5000〜1万頭(前述)が殺生されたものをお召しである。どこかで見かけたら「この仏道から外れた罰当たりもの!喝!」と叱って差し上げましょう(^^ゞ
さて蚕の幼虫は見るからにイモムシなので成虫は蝶か蛾である。調べてみると学術的には蚕蛾(カイコガ)で蛾の仲間。蝶と蛾の違いは長くなるので割愛。
これが成虫。
モフモフで、まるでおとぎの国にいるような姿をしている。(画像を拡大してみて)
実は蚕はそのかわいさが人気で、幼虫・成虫ともぬいぐるみが売られている。
さて驚くのはこの蚕、自然界には存在しない虫なのである。
どういうことかというと、養蚕は5000年ほど前からおこなわれており、つまり家畜としての歴史が長いので、野生回帰能力を完全に失ってしまったらしい。日本には弥生時代に伝わったとされる。虫も家畜と呼ぶとは初めて知ったが、蜜蜂も品種改良されたものは家畜に分類されるみたいだ。ちなみに蚕は家畜なので一頭、二頭と数える。ただし蜜蜂は一匹、二匹のようだ。
幼虫の蚕は移動せず人がエサを与え世話をしないと生きていけない。脚力がなく水平にした桑の葉の上に置いてやらないと落ちてしまう。だから野生の桑の葉に掴まることもできない。そして眠らずに昼も夜も食べ続ける。
成虫に羽根はあるが筋力がないので飛べない。そして口は退化していて餌を食べず水も飲まない。子孫を残すためだけに成虫になるようなもの。羽化直後から交尾を始め、オスは交尾後の数日で死に、メスは交尾の数時間後から3日間かけて産卵し、その4〜5日後に死ぬ。卵からふ化しての寿命は約2ヶ月。
まさに蚕は人間に絹糸を提供するためだけに生まれ死んでいく。言い換えれば完璧な家畜。そうなるよう品種改良してきた結果であるが、遺伝子操作なんて技術がない時代からなので驚嘆する。5000年の養蚕歴史による「継続は力なり」の見本。
蚕は人間が絹をとるために殺される。かといって養蚕をやめれば=飼育しなければ種として絶滅してしまう。人類が生み出したモンスターともいえるわけで、せめて「おカイコ様」とでも呼んであげなければかわいそうというもの。
以上、夏休みの自由研究でした。
2022年08月10日
慎重の対義語は軽率
いきなりナニ?なタイトルだが、
ひとつ前の投稿で報道の表現を書いていたとき思い出した話。
事件が報道されるとき、最後に「警察は慎重に捜査を進めています」と付け加えられることがある。この表現の歴史は古く、たぶん私が子供の頃からある。
初めて聞いたとき「ナンジャ?この慎重って?」「だったら他の捜査は大雑把にとかテキトーにやっているのか?」と思った。そしてウン十年も経ってようやく辞書で調べてみたら慎重の対義語は軽率だったというわけ。軽率な捜査って言葉的になぜか面白い。
ネットではマスコミあるいは警察関連での資料は見つからず、あるのは素人が解説したものばかり。この言葉が警察が使う表現なのか、マスコミ独自の言い回しなのかも分からなかった。
対義語が軽率なのだから慎重に捜査という表現はおかしいと思う。しかしもうすっかり定着しているし、「より慎重に」の意味なら目くじらを立てるほどではないかな。ただ「慎重に捜査」と表現する場合の基準はあるのか、担当者の感覚なのかは興味あるところ。
ついでに目くじらは目尻がつり上がる意味で、目尻を「目くじり」とも言ったことから由来する表現。海にいるクジラとは関係ないよ。
ところで、
もし情報収集能力に自信がある人がいたらお願いしたいのだが、
慎重に捜査を進めていると言われた事件
そう言われなかった事件
について、
事件の解決率や、解決に要した期間に差があるかどうか調べてくれないかな。
警察の捜査は経験がないものの、一般の仕事で「慎重に進めています」という場合は、単に仕事がはかどっていないことの言い訳だったりするから(^^ゞ
ひとつ前の投稿で報道の表現を書いていたとき思い出した話。
事件が報道されるとき、最後に「警察は慎重に捜査を進めています」と付け加えられることがある。この表現の歴史は古く、たぶん私が子供の頃からある。
初めて聞いたとき「ナンジャ?この慎重って?」「だったら他の捜査は大雑把にとかテキトーにやっているのか?」と思った。そしてウン十年も経ってようやく辞書で調べてみたら慎重の対義語は軽率だったというわけ。軽率な捜査って言葉的になぜか面白い。
ネットではマスコミあるいは警察関連での資料は見つからず、あるのは素人が解説したものばかり。この言葉が警察が使う表現なのか、マスコミ独自の言い回しなのかも分からなかった。
対義語が軽率なのだから慎重に捜査という表現はおかしいと思う。しかしもうすっかり定着しているし、「より慎重に」の意味なら目くじらを立てるほどではないかな。ただ「慎重に捜査」と表現する場合の基準はあるのか、担当者の感覚なのかは興味あるところ。
ついでに目くじらは目尻がつり上がる意味で、目尻を「目くじり」とも言ったことから由来する表現。海にいるクジラとは関係ないよ。
ところで、
もし情報収集能力に自信がある人がいたらお願いしたいのだが、
慎重に捜査を進めていると言われた事件
そう言われなかった事件
について、
事件の解決率や、解決に要した期間に差があるかどうか調べてくれないかな。
警察の捜査は経験がないものの、一般の仕事で「慎重に進めています」という場合は、単に仕事がはかどっていないことの言い訳だったりするから(^^ゞ
2022年08月09日
報道における思考停止のマジックワード「コメントは差し控える」
昨今はマスゴミと揶揄されることもあるマスコミ。ワイドショーの類いは見ないから、それほどヒドいと感じてはいないものの、それでも報道に?と思うことが増えた
その背景には人材レベルの低下があるかも知れない。マスコミや報道機関もひとつの産業であって「おごる平家は久しからず」じゃないけれど、どんな産業もやがて衰退時期を迎える。かつては花形産業で今はそうでなくなった企業の人から「最近の新入社員は知らない名前の大学ばかり」という嘆きをたまに聞く。出身大学ですべてを判断できないとしても、これは確率の問題であって、マクロで見ればひとつの目安になる。
いい人材が入らない→企業・産業のクオリティが下がる〜衰退する→さらにいい人材が入らないの悪循環から抜け出すのは至難の技。私が学生の頃、マスコミは超難関の就職先で相当に優秀でないと入れなかった。今はどうなんだろう。まあ優秀な人材が集まっていない最たるところは政治産業だが(^^ゞ
さて今に始まったわけではないが、最近やたら増えて気になっている報道の表現がある。それは不祥事などが起きたとき、取材に対して当事者が「コメントは差し控える」「回答は差し控える」と答えること。政治家や官僚も都合が悪くなってきたら実によく使う。安部・菅両首相のころから特にひどくなったかな。
もちろんそう答えるのは自由だ。しかしそれをそのまま発言通りに「コメント・回答は差し控える」と報道するのはおかしいと思っている。そういう場合は「コメント・回答を拒否した」と報じるべきではないのか。
別にもっとキツく書け、イジワルに報道しろといっているのではない(そうやってプレッシャーを掛けるのはありだが)。危惧するのは事実や真相に一歩も近づけていないのに、「コメント・回答は差し控える」と報道するだけで何かひと段落ついた感じになっていること。
似たようなことを12年前にも書いている。
法務大臣のコメント
https://wassho.livedoor.blog/archives/52597147.html
一部を引用すると
何かで、誰か、あるいはどこかの会社が訴えられたとする。
マスコミが取材に押しかける。
そこで出るお約束のコメントは
「まだ訴状が届いていないのでコメントできない」
訴状が届いた頃に、もういちど取材に出かけてコメントを取ったニュースを、
未だかつて私は見たことがない。
訴状が届いていなければコメントできないのは当然だろう。理解できないのはマスコミが、このお約束コメントを取っただけで「じゃあ仕方がないか、ひと仕事済んだ」と次の動きを止めること。まさに思考停止のマジックワードである。そしてマスコミは訴状がいつ届くかくらいは分かっているから、自ら思考を停止するために取材に出かけているようなものだ。
当事者の発言通りに「コメント・回答は差し控える」と報道することは、これに通じるものがある。訴状ならやがて届き裁判も始まるから、また掘り下げる機会が訪れる。しかし「差し控える」でハイそうですかと引き下がれば、次の糸口を見つけるのは難しい。やがて「差し控える」で終了するのが習い性になる。
それは単なる当てずっぽうで言っているわけではない。「コメント・回答は差し控える」には上級バージョンがあって、その場合は実際にそうなっている。「法務大臣のコメント」でも少し書いたが、それは
「個別の事案についてはお答えを差し控えます」
「捜査中につきお答えを差し控えます」
「裁判に影響を与えるのでお答えを差し控えます」
など。
この上級バージョンを発すれば質問者の追求は確実に止まるし、不思議なことに世間も何となく納得してしまう。しかし個別の事案・捜査・裁判などに「差し控え」を正当化する根拠は何もないのだ。単なる目眩ましに過ぎない。どうして「個別の事案なら答えられないとする理由は何か?」を尋ねないのか不思議で、だから思考停止のマジックワードと考えるしかない。
マスコミが「コメント・回答は差し控える」でやり過ごしてしまうと、世の中にそういうものかとの空気が生まれる。そうなると、ただでさえ説明責任という義務意識が希薄なこの国では言い訳すらしなくて済んでしまう。そして悪事がはびこる。もちろん悪事ならコメントできないからーーーという社会の悪循環が、マスコミの表現ひとつから始まると心配するのは大げさかな。
現場での苦労はいろいろあるのだろうけれど、マスコミが衰退産業にならないように奮起してほしいものである。願わくばさらに上級バージョンである
「個人情報なので回答できない」
「守秘義務があるので回答できない」
「外交に関わることなので回答できない」
なども打ち破るべくプロフェッショナリティーに磨きを。
その背景には人材レベルの低下があるかも知れない。マスコミや報道機関もひとつの産業であって「おごる平家は久しからず」じゃないけれど、どんな産業もやがて衰退時期を迎える。かつては花形産業で今はそうでなくなった企業の人から「最近の新入社員は知らない名前の大学ばかり」という嘆きをたまに聞く。出身大学ですべてを判断できないとしても、これは確率の問題であって、マクロで見ればひとつの目安になる。
いい人材が入らない→企業・産業のクオリティが下がる〜衰退する→さらにいい人材が入らないの悪循環から抜け出すのは至難の技。私が学生の頃、マスコミは超難関の就職先で相当に優秀でないと入れなかった。今はどうなんだろう。まあ優秀な人材が集まっていない最たるところは政治産業だが(^^ゞ
さて今に始まったわけではないが、最近やたら増えて気になっている報道の表現がある。それは不祥事などが起きたとき、取材に対して当事者が「コメントは差し控える」「回答は差し控える」と答えること。政治家や官僚も都合が悪くなってきたら実によく使う。安部・菅両首相のころから特にひどくなったかな。
もちろんそう答えるのは自由だ。しかしそれをそのまま発言通りに「コメント・回答は差し控える」と報道するのはおかしいと思っている。そういう場合は「コメント・回答を拒否した」と報じるべきではないのか。
別にもっとキツく書け、イジワルに報道しろといっているのではない(そうやってプレッシャーを掛けるのはありだが)。危惧するのは事実や真相に一歩も近づけていないのに、「コメント・回答は差し控える」と報道するだけで何かひと段落ついた感じになっていること。
似たようなことを12年前にも書いている。
法務大臣のコメント
https://wassho.livedoor.blog/archives/52597147.html
一部を引用すると
何かで、誰か、あるいはどこかの会社が訴えられたとする。
マスコミが取材に押しかける。
そこで出るお約束のコメントは
「まだ訴状が届いていないのでコメントできない」
訴状が届いた頃に、もういちど取材に出かけてコメントを取ったニュースを、
未だかつて私は見たことがない。
訴状が届いていなければコメントできないのは当然だろう。理解できないのはマスコミが、このお約束コメントを取っただけで「じゃあ仕方がないか、ひと仕事済んだ」と次の動きを止めること。まさに思考停止のマジックワードである。そしてマスコミは訴状がいつ届くかくらいは分かっているから、自ら思考を停止するために取材に出かけているようなものだ。
当事者の発言通りに「コメント・回答は差し控える」と報道することは、これに通じるものがある。訴状ならやがて届き裁判も始まるから、また掘り下げる機会が訪れる。しかし「差し控える」でハイそうですかと引き下がれば、次の糸口を見つけるのは難しい。やがて「差し控える」で終了するのが習い性になる。
それは単なる当てずっぽうで言っているわけではない。「コメント・回答は差し控える」には上級バージョンがあって、その場合は実際にそうなっている。「法務大臣のコメント」でも少し書いたが、それは
「個別の事案についてはお答えを差し控えます」
「捜査中につきお答えを差し控えます」
「裁判に影響を与えるのでお答えを差し控えます」
など。
この上級バージョンを発すれば質問者の追求は確実に止まるし、不思議なことに世間も何となく納得してしまう。しかし個別の事案・捜査・裁判などに「差し控え」を正当化する根拠は何もないのだ。単なる目眩ましに過ぎない。どうして「個別の事案なら答えられないとする理由は何か?」を尋ねないのか不思議で、だから思考停止のマジックワードと考えるしかない。
マスコミが「コメント・回答は差し控える」でやり過ごしてしまうと、世の中にそういうものかとの空気が生まれる。そうなると、ただでさえ説明責任という義務意識が希薄なこの国では言い訳すらしなくて済んでしまう。そして悪事がはびこる。もちろん悪事ならコメントできないからーーーという社会の悪循環が、マスコミの表現ひとつから始まると心配するのは大げさかな。
現場での苦労はいろいろあるのだろうけれど、マスコミが衰退産業にならないように奮起してほしいものである。願わくばさらに上級バージョンである
「個人情報なので回答できない」
「守秘義務があるので回答できない」
「外交に関わることなので回答できない」
なども打ち破るべくプロフェッショナリティーに磨きを。
2022年08月06日
何が何でもブルーシート
遺体の搬出や容疑者の移送などの際に、なんとかそれを見せまいと大勢の関係者がブルーシートで取り囲むことにとても違和感を感じていて、このブログでも過去に2回書いた。1回目は主にその理由の推察。2回目はそんな行為がもう当たり前になっていて、ブルーシートに代わる目隠し専用道具までが発売されていることへの驚き。
興味があればこのリンクからお読みいただきたい。
「ブルーシートの違和感と危惧」
「ブルーシートに代わる専用の目隠し道具まで登場」
このテーマに関してそれらの投稿以降に、さらに深く考えたわけではない。しかしここ数ヶ月に「ここまでやるか?」と思った事例があったので記録しておくことにした。
まず最初は4月23日に北海道で起きた知床観光船の沈没事故。
これは5月26日に観光船が海底から引き上げられ、作業船に横付けされたところ。
そして数時間後、
作業船の上に載せられたときにはブルーシートでラッピング!
このニュースを見たときは、ブルーシートへの違和感をはるかに通り越して、笑ってしまったというか、古い表現を使えば「鼻から牛乳噴いた」ね。
このブルーシートに何の意味がある? ご存じのように船内に犠牲となった乗員乗客は見つかっていない。仮にいたとして、それをそのまま船内に放置して運ぶなんてあり得ない。
今後の捜査や裁判の支障にならないように損傷箇所を隠した? 引き揚げるまで数時間に渡ってマスコミの目にさらされていたから意味ないでしょ。だいたい裁判は提出された証拠によってのみ審理されるので、船体が人目に触れても影響はない。もちろんこの事故は「犯人しか知り得ない事実がある事件」でもない。
ではもしかして、これ以上に船体が損傷するのを防ぐためのもの? ブルーシートにそんな強度はないと思うけどーーー
特に理由を説明した報道は見つからなかった。逆にいえばブルーシートを疑問に思っている人もいないわけで、とりあえず何でも覆う・隠すのが習い性になっているとしかいいようがない。
次はあまり笑えない事例。
それはまだ記憶に新しい7月8日に起きた安倍元首相への銃撃事件。
銃撃後、安倍元首相は救急車で近くの公園に運ばれ、そこからドクターヘリで病院に向かった。信じられないことにニュース画像を見ると、救急車からヘリに移し替える際に、わざわざブルーシートでストレッチャー(車輪付きの担架)を覆い隠している。
ブルーシートを展開するのにも時間が掛かるし、当然ながら何人かで持ち上げているブルーシートの移動にあわせれば、ストレッチャーを押すのもゆっくりになる。まさに一刻を争う状況だったはずなのに。
次は病院の屋上にヘリで到着したときの画像。
こちらではブルーシートは使われていない。安倍元首相の身体を見ると、出血している部分を隠すためなのか、他に救急処置的な理由があるのか分からないが、毛布のようなものが掛けられている。私にはこれで不足があるとは思えないが。
ところでヘリに載せ替えるときに使われたブルーシートは、どこから持ってきたのか。断定はしないが、救急車に備え付けられているのじゃないか。もしそうならば、それだけ普段からブルーシートを使う機会が多いのだろう。
とりあえず「ここまでやるか」「そこでもやるか」と驚いたのが正直な気持ち。そう思うのは少数派なんだろうけれど。絶対にブルーシートを使うべきではないとまでは思っていないが、何となく日本社会の「異常な気遣い」に息苦しさを感じる。
最後になったが、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りする。
※画像は上から順に下記のサイトから引用した。
https://www.asahi.com/articles/ASQ5W2BYRQ5WIIPE001.html
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220527-OYT1T50252/
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220715/k10013718861000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220726/k10013731781000.html
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220708-OYT1T50277/
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/photonews/photonews_nsInc_202207080000725-2.html
なおこの2つの事例だけで「息苦しさを感じる」とは過剰に感じられるかも知れないので、
できれば「ブルーシートの違和感と危惧」の投稿も併せて読んで欲しい。
興味があればこのリンクからお読みいただきたい。
「ブルーシートの違和感と危惧」
「ブルーシートに代わる専用の目隠し道具まで登場」
このテーマに関してそれらの投稿以降に、さらに深く考えたわけではない。しかしここ数ヶ月に「ここまでやるか?」と思った事例があったので記録しておくことにした。
まず最初は4月23日に北海道で起きた知床観光船の沈没事故。
これは5月26日に観光船が海底から引き上げられ、作業船に横付けされたところ。
そして数時間後、
作業船の上に載せられたときにはブルーシートでラッピング!
このニュースを見たときは、ブルーシートへの違和感をはるかに通り越して、笑ってしまったというか、古い表現を使えば「鼻から牛乳噴いた」ね。
このブルーシートに何の意味がある? ご存じのように船内に犠牲となった乗員乗客は見つかっていない。仮にいたとして、それをそのまま船内に放置して運ぶなんてあり得ない。
今後の捜査や裁判の支障にならないように損傷箇所を隠した? 引き揚げるまで数時間に渡ってマスコミの目にさらされていたから意味ないでしょ。だいたい裁判は提出された証拠によってのみ審理されるので、船体が人目に触れても影響はない。もちろんこの事故は「犯人しか知り得ない事実がある事件」でもない。
ではもしかして、これ以上に船体が損傷するのを防ぐためのもの? ブルーシートにそんな強度はないと思うけどーーー
特に理由を説明した報道は見つからなかった。逆にいえばブルーシートを疑問に思っている人もいないわけで、とりあえず何でも覆う・隠すのが習い性になっているとしかいいようがない。
次はあまり笑えない事例。
それはまだ記憶に新しい7月8日に起きた安倍元首相への銃撃事件。
銃撃後、安倍元首相は救急車で近くの公園に運ばれ、そこからドクターヘリで病院に向かった。信じられないことにニュース画像を見ると、救急車からヘリに移し替える際に、わざわざブルーシートでストレッチャー(車輪付きの担架)を覆い隠している。
ブルーシートを展開するのにも時間が掛かるし、当然ながら何人かで持ち上げているブルーシートの移動にあわせれば、ストレッチャーを押すのもゆっくりになる。まさに一刻を争う状況だったはずなのに。
次は病院の屋上にヘリで到着したときの画像。
こちらではブルーシートは使われていない。安倍元首相の身体を見ると、出血している部分を隠すためなのか、他に救急処置的な理由があるのか分からないが、毛布のようなものが掛けられている。私にはこれで不足があるとは思えないが。
ところでヘリに載せ替えるときに使われたブルーシートは、どこから持ってきたのか。断定はしないが、救急車に備え付けられているのじゃないか。もしそうならば、それだけ普段からブルーシートを使う機会が多いのだろう。
とりあえず「ここまでやるか」「そこでもやるか」と驚いたのが正直な気持ち。そう思うのは少数派なんだろうけれど。絶対にブルーシートを使うべきではないとまでは思っていないが、何となく日本社会の「異常な気遣い」に息苦しさを感じる。
最後になったが、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りする。
※画像は上から順に下記のサイトから引用した。
https://www.asahi.com/articles/ASQ5W2BYRQ5WIIPE001.html
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220527-OYT1T50252/
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220715/k10013718861000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220726/k10013731781000.html
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220708-OYT1T50277/
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/photonews/photonews_nsInc_202207080000725-2.html
なおこの2つの事例だけで「息苦しさを感じる」とは過剰に感じられるかも知れないので、
できれば「ブルーシートの違和感と危惧」の投稿も併せて読んで欲しい。
2022年08月03日
見上げる恐怖症
約1年ぶりとなる「これって私だけの特異体質?」シリーズの第3弾。
もし興味があれば過去2回はこちらから。
「夜になると我慢できない体質?」
「6時間後にマーライオン」
さて今回は見上げる恐怖症。
端的に言うとこれは高所恐怖症の反対あるいは派生バーションみたいな症状。
だったら何?という話ではあるが、まあ暇つぶしにでも読んで欲しい。
高所恐怖症は文字通りに恐怖心が起きる〜足がすくむ感じがする〜など程度は様々だろうが、基本は高いところが苦手ということ。そして高いところから低いところを見たときに起きる症状だと理解している。
私の場合は、逆に低いところから高いものを見るのがダメなのである。ただし単に空を見上げるだけでは何も起こらない。次の2つのシチュエーションに限って症状が現れる。
その1
屋上で空を見上げた場合
屋上そのものは、どんなに高いビルでも、例えば超高層ビルの屋外展望台のような場所だとしてもまったく平気である。しかし逆に2階建て3階建てであっても、その屋上に出て頭の真上の空を見上げると身体がヒューッと浮いているような、足が地面についていない感覚におそわれる。
その2
ある程度高いビルの「壁際近く」からビルの屋上方向を見上げた場合
症状は屋上から空を眺めるのとまったく同じ。
だいたい7〜8階建て以上がダメかな。建物が高いほど症状は強くでる。
また超高層ビルだと少し壁際から離れていても症状があらわれるから、
見上げる角度=頭の傾きも影響しているようにも思う。
これは私にとって地獄の光景(^^ゞ
タイトルを高所恐怖症になぞらえて「見上げる恐怖症」としたが別に恐怖は感じない。先に書いたように身体がヒューッと浮いているような、足が地面についていない感覚。試したことはないものの30秒以上その状態を続ければ、脚がふらついて身体がよろめくような気がする。60秒以上だと軽く失神するかも知れない。
ただし、そんなことをしなければいいのであって実害はほとんどない。実際は屋上や高いビルの壁際近くに行く機会があれば、チラッと真上を見て「あっ、クラッと来た来た」と楽しんでいるくらい(^^ゞ
だからもちろん医者に相談したこともない。真上を向いたときに症状が出るから平衡感覚を司る三半規管の異常のような気もするが、それだと道路は大丈夫で屋上だけがダメな理由が説明できない。ちなみに高所恐怖症は精神障害に分類される。こちらはわりとポピュラーな症状であるのに、ネットで調べた限りは具体的に解説している情報が少ないのが意外。
いつ頃からこの見上げる恐怖症を発症?したのかは、はっきりとした記憶がない。子供の頃にこんなことはなかったはずだが、先ほど書いた2つの条件に遭遇することが少なかっただけのようにも思える。何となく意識するようになったのは30歳を超えてから。
補足すると一般的な高所恐怖症に関してはまったく無縁だった。言葉としては理解していても、具体的にどんな感じなのか理解できなかったくらい。逆に考えると、見上げる恐怖症の人はほとんどいないだろうから、私が感じる「身体がヒューッと浮いているような、足が地面についていない感覚」も、多少なりとも高所恐怖症である人にしか理解してもらえないかも知れない。
なお「まったく無縁だった」と書いたのは、実は7〜8年前から、ごく軽く高所恐怖症の傾向が現れ始めたから。日常生活で経験することはないが、いわゆる「高所恐怖症の人には絶対に無理」というような映像や画像を見ると、ちょっと気持ちが落ち着かず足が浮くような感覚を覚える。以前はそんなものを見ても、もし実際にその場にいたとしてもまったく平気だったのに。これも加齢による変化のひとつなのかな?
この見上げる恐怖症、しかも限定条件付きの人ってどれくらい存在しているのだろう。他人に話したことはほとんどないし、一般的な話として今までに聞いたこともない。生活する上で何の支障もないから、どうでもいい恐怖症なんだけれど、もしこれが世の中で私たった1人だったら、ちょっと淋しいな(^^ゞ
ところでこの症状が現れるのは
屋上で空を見上げる
壁際近くからビルの屋上方向を見上げる
のいずれかの場合であるが、
ごく稀にその2つを兼ね備えた場所に遭遇することがある(>_<)
もちろん真上を見なければ何も起こらないのだが、
怖いもの見たさで、つい見上げてしまう(^^ゞ
もし興味があれば過去2回はこちらから。
「夜になると我慢できない体質?」
「6時間後にマーライオン」
さて今回は見上げる恐怖症。
端的に言うとこれは高所恐怖症の反対あるいは派生バーションみたいな症状。
だったら何?という話ではあるが、まあ暇つぶしにでも読んで欲しい。
高所恐怖症は文字通りに恐怖心が起きる〜足がすくむ感じがする〜など程度は様々だろうが、基本は高いところが苦手ということ。そして高いところから低いところを見たときに起きる症状だと理解している。
私の場合は、逆に低いところから高いものを見るのがダメなのである。ただし単に空を見上げるだけでは何も起こらない。次の2つのシチュエーションに限って症状が現れる。
その1
屋上で空を見上げた場合
屋上そのものは、どんなに高いビルでも、例えば超高層ビルの屋外展望台のような場所だとしてもまったく平気である。しかし逆に2階建て3階建てであっても、その屋上に出て頭の真上の空を見上げると身体がヒューッと浮いているような、足が地面についていない感覚におそわれる。
その2
ある程度高いビルの「壁際近く」からビルの屋上方向を見上げた場合
症状は屋上から空を眺めるのとまったく同じ。
だいたい7〜8階建て以上がダメかな。建物が高いほど症状は強くでる。
また超高層ビルだと少し壁際から離れていても症状があらわれるから、
見上げる角度=頭の傾きも影響しているようにも思う。
これは私にとって地獄の光景(^^ゞ
タイトルを高所恐怖症になぞらえて「見上げる恐怖症」としたが別に恐怖は感じない。先に書いたように身体がヒューッと浮いているような、足が地面についていない感覚。試したことはないものの30秒以上その状態を続ければ、脚がふらついて身体がよろめくような気がする。60秒以上だと軽く失神するかも知れない。
ただし、そんなことをしなければいいのであって実害はほとんどない。実際は屋上や高いビルの壁際近くに行く機会があれば、チラッと真上を見て「あっ、クラッと来た来た」と楽しんでいるくらい(^^ゞ
だからもちろん医者に相談したこともない。真上を向いたときに症状が出るから平衡感覚を司る三半規管の異常のような気もするが、それだと道路は大丈夫で屋上だけがダメな理由が説明できない。ちなみに高所恐怖症は精神障害に分類される。こちらはわりとポピュラーな症状であるのに、ネットで調べた限りは具体的に解説している情報が少ないのが意外。
いつ頃からこの見上げる恐怖症を発症?したのかは、はっきりとした記憶がない。子供の頃にこんなことはなかったはずだが、先ほど書いた2つの条件に遭遇することが少なかっただけのようにも思える。何となく意識するようになったのは30歳を超えてから。
補足すると一般的な高所恐怖症に関してはまったく無縁だった。言葉としては理解していても、具体的にどんな感じなのか理解できなかったくらい。逆に考えると、見上げる恐怖症の人はほとんどいないだろうから、私が感じる「身体がヒューッと浮いているような、足が地面についていない感覚」も、多少なりとも高所恐怖症である人にしか理解してもらえないかも知れない。
なお「まったく無縁だった」と書いたのは、実は7〜8年前から、ごく軽く高所恐怖症の傾向が現れ始めたから。日常生活で経験することはないが、いわゆる「高所恐怖症の人には絶対に無理」というような映像や画像を見ると、ちょっと気持ちが落ち着かず足が浮くような感覚を覚える。以前はそんなものを見ても、もし実際にその場にいたとしてもまったく平気だったのに。これも加齢による変化のひとつなのかな?
この見上げる恐怖症、しかも限定条件付きの人ってどれくらい存在しているのだろう。他人に話したことはほとんどないし、一般的な話として今までに聞いたこともない。生活する上で何の支障もないから、どうでもいい恐怖症なんだけれど、もしこれが世の中で私たった1人だったら、ちょっと淋しいな(^^ゞ
ところでこの症状が現れるのは
屋上で空を見上げる
壁際近くからビルの屋上方向を見上げる
のいずれかの場合であるが、
ごく稀にその2つを兼ね備えた場所に遭遇することがある(>_<)
もちろん真上を見なければ何も起こらないのだが、
怖いもの見たさで、つい見上げてしまう(^^ゞ
2022年08月01日
まっすぐに前を見つめよう
何となくタイトルが説教くさいが、
人生の心構えとかではまったくないのでご安心を(^^ゞ
さてコロナが社会を変えたことは多岐にわたるが、そのひとつにリモートワークがある。それに伴ってリモート会議と呼ばれるものも普及した。そういうことに縁がなくても、ニュース番組などで話を聞く相手がスタジオに来ないで、リモートで参加している場面は見たことがあるだろう。
その時に気になることがある。それは多くの場合、やや下から見上げるように顔が写っていること。つまりカメラ位置が低い。おそらく出演者はノートパソコンを使ってリモート参加しており、当然ながらそれは顔と同じ高さに置かれていないからである。
話している人をテレビカメラで撮影する場合、通常は顔の正面かやや上から撮る。おそらく現在は人類史上でもっとも人の顔を下から眺めているんじゃないか?(オオゲサ)
そして下から顔を撮るとどうなるか。
やたら鼻の穴が気になる(^^ゞ
テレビ局は出演者にパソコン=カメラの位置を高くするようにアドバイスしてあげればいいのに。話している間はパソコン操作の必要もないから、小さな段ボール箱の上にでもノートパソコンを置けばいい。
もちろんノートパソコンを持ち上げるスタンドもいろいろと売られている。これなんてわずか999円。リモート出演なら交通費を払う必要もないし、その出費で映像クオリティが上がるならテレビ局にとって安いものだと思うゾ。
また何となく出演者の年齢が上がるほど鼻の穴を見せられる傾向がある気がする。若い人はノートパソコンではなくスマホを使っているからかな。YouTubeなどに自撮りも含めた動画を上げている人には、こんなスタンドもけっこう普及している。白くて丸いのは顔を照らすためのLEDライトね。
話は少し変わるが、
パソコンはノートタイプのものを何台かに渡って使ってきた。先ほど書いたようにそれをデスクに置くと、ディスプレイを見下ろして操作することになる。(カメラの話とは関係なく)それが姿勢・健康に悪いことは昔から言われ続けている。しかしけっこう長くパソコンの前にいる方だけれど、それで疲れたり肩が凝ることもなかったから、あまり気にしていなかった。考えてみれば紙とペンの時代だって下を向いていたわけだし。
そして何年か前にiMacに買い換えた。
これはディスプレイとパソコン本体が一体になっている。
当然ながらディスプレイの位置はノートパソコンと較べてかなり高くなる。気にはしていなかったものの、それでも多少は身体への負担軽減を期待した。しかし感覚的に特に楽になったとは感じず。やはり私にあまり関係なかったか。しかし使い始めてしばらく経ったとき、iMacでもディスプレイを見る視線は下を向いていることに気がついた。たまたま適当な板状のものがあったので、それをiMacのスタンドの下に挟んでみた。厚さは約4.5センチ。
劇的に楽になった!
視線がまっすぐになることがこんなに効果があると思わなかった。
今までパソコンの前にいた時間を返して欲しいくらい(^^ゞ
視線の角度、つまり首の傾きはわずかに戻すくらいでは効果がなく、顔が前を向く程度まで修正しないと身体の負担軽減にはならないようである。デスクトップ型のパソコンを使っている人は、ディスプレイの下にとりあえず何か挟んで試してみて欲しい。
本当はディスプレイを支えるスタンドが、角度だけじゃなくて高さも調節できるといいのだが(ディスプレイ単体商品なら調節できるものもある)。
ノートパソコンの場合は?
何かを台にしてノートパソコンを高い位置に置いたり、下のような専用のもので持ち上げたら、キーボードは外付けのものが別途に必要となる。それでも、そうするだけの価値はあると思うけれど。
最初に紹介したタイプは、このようにキーボードを打つことを想定しているようだが、けっこう無理があるようなーーー。使ったことがないので確かなことはいえないが。
今もノートパソコンは持っているが、モバイル専用で外出先で使用する時間も限られている。だから創意工夫するモチベーションが起こらず。中途半端な投稿になってゴメン(^^ゞ
そういえば昔はこんな組み合わせでパソコンを使っていたから、
まっすぐに前を見つめていたんだね。
人生の心構えとかではまったくないのでご安心を(^^ゞ
さてコロナが社会を変えたことは多岐にわたるが、そのひとつにリモートワークがある。それに伴ってリモート会議と呼ばれるものも普及した。そういうことに縁がなくても、ニュース番組などで話を聞く相手がスタジオに来ないで、リモートで参加している場面は見たことがあるだろう。
その時に気になることがある。それは多くの場合、やや下から見上げるように顔が写っていること。つまりカメラ位置が低い。おそらく出演者はノートパソコンを使ってリモート参加しており、当然ながらそれは顔と同じ高さに置かれていないからである。
話している人をテレビカメラで撮影する場合、通常は顔の正面かやや上から撮る。おそらく現在は人類史上でもっとも人の顔を下から眺めているんじゃないか?(オオゲサ)
そして下から顔を撮るとどうなるか。
やたら鼻の穴が気になる(^^ゞ
テレビ局は出演者にパソコン=カメラの位置を高くするようにアドバイスしてあげればいいのに。話している間はパソコン操作の必要もないから、小さな段ボール箱の上にでもノートパソコンを置けばいい。
もちろんノートパソコンを持ち上げるスタンドもいろいろと売られている。これなんてわずか999円。リモート出演なら交通費を払う必要もないし、その出費で映像クオリティが上がるならテレビ局にとって安いものだと思うゾ。
また何となく出演者の年齢が上がるほど鼻の穴を見せられる傾向がある気がする。若い人はノートパソコンではなくスマホを使っているからかな。YouTubeなどに自撮りも含めた動画を上げている人には、こんなスタンドもけっこう普及している。白くて丸いのは顔を照らすためのLEDライトね。
話は少し変わるが、
パソコンはノートタイプのものを何台かに渡って使ってきた。先ほど書いたようにそれをデスクに置くと、ディスプレイを見下ろして操作することになる。(カメラの話とは関係なく)それが姿勢・健康に悪いことは昔から言われ続けている。しかしけっこう長くパソコンの前にいる方だけれど、それで疲れたり肩が凝ることもなかったから、あまり気にしていなかった。考えてみれば紙とペンの時代だって下を向いていたわけだし。
そして何年か前にiMacに買い換えた。
これはディスプレイとパソコン本体が一体になっている。
当然ながらディスプレイの位置はノートパソコンと較べてかなり高くなる。気にはしていなかったものの、それでも多少は身体への負担軽減を期待した。しかし感覚的に特に楽になったとは感じず。やはり私にあまり関係なかったか。しかし使い始めてしばらく経ったとき、iMacでもディスプレイを見る視線は下を向いていることに気がついた。たまたま適当な板状のものがあったので、それをiMacのスタンドの下に挟んでみた。厚さは約4.5センチ。
劇的に楽になった!
視線がまっすぐになることがこんなに効果があると思わなかった。
今までパソコンの前にいた時間を返して欲しいくらい(^^ゞ
視線の角度、つまり首の傾きはわずかに戻すくらいでは効果がなく、顔が前を向く程度まで修正しないと身体の負担軽減にはならないようである。デスクトップ型のパソコンを使っている人は、ディスプレイの下にとりあえず何か挟んで試してみて欲しい。
本当はディスプレイを支えるスタンドが、角度だけじゃなくて高さも調節できるといいのだが(ディスプレイ単体商品なら調節できるものもある)。
ノートパソコンの場合は?
何かを台にしてノートパソコンを高い位置に置いたり、下のような専用のもので持ち上げたら、キーボードは外付けのものが別途に必要となる。それでも、そうするだけの価値はあると思うけれど。
最初に紹介したタイプは、このようにキーボードを打つことを想定しているようだが、けっこう無理があるようなーーー。使ったことがないので確かなことはいえないが。
今もノートパソコンは持っているが、モバイル専用で外出先で使用する時間も限られている。だから創意工夫するモチベーションが起こらず。中途半端な投稿になってゴメン(^^ゞ
そういえば昔はこんな組み合わせでパソコンを使っていたから、
まっすぐに前を見つめていたんだね。