2023年08月
2023年08月30日
サンダルとスリッパのよもやま話
先日、無印良品の「ルームサンダル・鼻緒」という商品を買って
裸足だと足の脂でフローリングがベタつくときもあるが、
それを防げて、
かつ足の半分近くを覆うスリッパと違って暑くない
と紹介した。
たいへん重宝しているし、いい買い物をしたと思っているのだが、お店で見つけたときから頭の片隅で「?」となっていたのが「ルームサンダル」と付けられたネーミング。そして、そもそもサンダルとスリッパの違いって何だ?が今回のテーマ。
もっとも自然発生的にできたカテゴリーなので厳密な定義はないし、その定義も時代によって変わる。まあそれを承知で夏休みの自由研究的に調べてみた。ただし例によって興味の趣くままに脱線だらけなのでご了承をm(_ _)m
まずはサンダル。
ネットにはいろいろな情報が紹介されているものの、おそらく人類が最初に発明した履き物がサンダルなのだろう。その観点で考えると、サンダルの対義語になるのはスリッパではなく靴である。
靴を超簡潔に定義すると
「ある程度の固さを持った靴底」があり、
それに「足全体を覆うパーツ」を組み合わせた履き物
になる。対してサンダルは足全体を覆わず、紐やベルトなどで靴底が足から離れない工夫をした履き物。つまりシンプルな構造のサンダルから、より安定性や足の保護機能を求めて履き物は靴に進化していったと考えられる。
これは米国オレゴン州のフォートロック洞窟で発見された紀元前7000年頃のサンダル(紀元後の2023年を足すと約9000年前ね)。現在までに発見されたすべての履き物の中で、今のところ最も古いとされる。材質はセージブラシというヨモギの一種。画像はhttps://www.linkedin.com/pulse/oldest-pair-scandals-world-letha-oelzから引用。
こちらはスペインで発見された紀元前6000年〜5000年頃のサンダル。日本のワラジに近い作りに見える。世界各地の古代文明で同じようなものが作られたに違いない。
靴よりも構造がシンプルなサンダルが先に発明されたのは当然としても、「ある程度の固さを持った靴底」ではなく、いわば足を包む袋のような構造のものなら紀元前3500年頃のものがアルメニアで見つかっている。(靴底に「ある程度の固さを持つ」と説明していたのは、このタイプの履き物があったから。ネイティブ・インディアンが履いていたモカシンも似たような作り)
それで「ある程度の固さを持った靴底」を備えた「靴」が、いつ頃作られたのかについてははっきり分かっていないようだ。中世のヨーロッパでと解説しているものが多いけれど、中世といっても年代が広いから解説になっていない。参考までに西洋史では、一般的に西ローマ帝国滅亡(476年:日本は古墳時代)から東ローマ帝国滅亡(1453年:日本は戦国時代直前)まであたりが中世とされる。
ご存じのように日本では靴が生まれなかった。日常で履かれていたのは草履(ゾウリ)と下駄(ゲタ)。ゾウリがフォーマル、ゲタがカジュアルとの位置づけ。ゾウリをカジュアルにした雪駄(セッタ)という派生バージョンもある。
ゾウリもゲタも「足全体を覆わず、紐やベルトなどで靴底が足から離れない工夫をした履き物」との定義に照らせばサンダルの一種である。日本でそこから靴に発展しなかったのは、やはり室内で履き物を脱ぐ風習が大きかったと思われる。
そして長距離移動や激しい動きをするときに履かれていたのが草鞋(ワラジ)。いわば江戸時代まで日本で最もヘビーデューティーな履き物がこのワラジ。
それにしてもこんな質素な、9000年前や8000年前のものとして発掘されたサンダルとあまり変わらないものが、つい150年ほど前まで使われていたのが、不思議であり正直ちょっと情けない気持ちでもある(^^ゞ 激しい動きとは戦(いくさ)も含まれる。こんなものを履いて刀で斬り合い槍で突き合っていたなんて想像するのも難しい。日本人はあまり履き物に関心を持たなかった民族なのかな?
ちなみにワラジは耐久性も低く、長距離を歩けば1日持つか持たないかのレベル。江戸時代に流行ったお伊勢参りは江戸からだと往復30日の徒歩旅行。40足のワラジを履きつぶしたとして、ワラジは蕎麦一杯程度の値段だったとされるので500円とすれば、500円 × 40足 = 2万円だからけっこうな出費。
またワラジを見ると鼻緒の付け根が先端にあるものが多い。だから上の写真のように足の指がはみ出る。歩きにくいし指を怪我しそうに思えるが、何か理由があるのだろうか。
話はそれるけれど忍者はマキビシを撒いて逃げたとされる。それもワラジを履いた相手だったから効果があったと推測できる。なおマキビシと聞くと鉄製をイメージするものの、漢字で書くと撒菱であり、菱という植物の実が固くて尖っていたのでそれを利用したらしい。
ところで、
中世ヨーロッパで作られ始めた「ある程度の固さを持った靴底」「足全体を覆うパーツ」を組み合わせた靴とは革靴である。革を何枚も貼り合わせて固さと柔軟性を備えた靴底が作れるのを発見したのだろう(ゴムが利用されるのは19世紀になってから)。先ほど日本でゾウリやゲタなどのサンダルから靴に発展しなかったのは、室内で履き物を脱ぐ風習があるからと書いた。実はそれ以外に日本では革製品が発達しなかったからと以前から思っていた。
革製品が発達しなかったのは、仏教の影響で四つ足の動物を食べなかったからで、つまり革となる皮の供給がなかったから。しかし問題はゾウリのカジュアルバージョンであるセッタ。名前くらいしか知らなかったのだが、調べてみるとセッタとは
竹の編み物でできたゾウリの靴底に
革を張り防水性を高めた
ものとある。雪の日にゾウリを履いていると底から雪がしみてくる、ゲタだとゲタの歯と歯の間に雪がくっついて歩きにくいから考案されたといわれ、一説には千利休の発明ともされる。
この革とは牛革である。江戸時代になってからセッタは大流行したらしいが、どこから入手したのだろうか。もちろん農耕や運搬用に牛は古くから使われてきたものの、庶民のセッタ需要をまかなえるほど革があったかは疑問。ネットで調べてもそんなニッチな情報は見つけられないからナゾ。またセッタの靴底に革を張ったのなら、なぜそこから発展して丈夫な革の靴底、そして革靴に至らなかったのか〜いつまでも原始時代のようなワラジを使い続けたのかも大いにナゾ。
もっとも何でもネットですぐに答えが見つかっちゃつまらないがーーー
話をサンダルとスリッパに戻すと、
足全体を覆うパーツがあるものが靴、
紐やベルトで足を部分的に固定するのがサンダル
である。
それでスリッパはこのような形。
足の前部が広く覆われているから「部分的に固定している」と見なすのは少し強引かも知れない。しかしポイントを「足全体を覆っている」かどうかだと考えれば、スリッパはサンダルの一種になる。集合記号で表現すればサンダル ⊃ スリッパ。
ただしこのスリッパ、調べると意外にビックリすることが多い。
ーーー続く
裸足だと足の脂でフローリングがベタつくときもあるが、
それを防げて、
かつ足の半分近くを覆うスリッパと違って暑くない
と紹介した。
たいへん重宝しているし、いい買い物をしたと思っているのだが、お店で見つけたときから頭の片隅で「?」となっていたのが「ルームサンダル」と付けられたネーミング。そして、そもそもサンダルとスリッパの違いって何だ?が今回のテーマ。
もっとも自然発生的にできたカテゴリーなので厳密な定義はないし、その定義も時代によって変わる。まあそれを承知で夏休みの自由研究的に調べてみた。ただし例によって興味の趣くままに脱線だらけなのでご了承をm(_ _)m
まずはサンダル。
ネットにはいろいろな情報が紹介されているものの、おそらく人類が最初に発明した履き物がサンダルなのだろう。その観点で考えると、サンダルの対義語になるのはスリッパではなく靴である。
靴を超簡潔に定義すると
「ある程度の固さを持った靴底」があり、
それに「足全体を覆うパーツ」を組み合わせた履き物
になる。対してサンダルは足全体を覆わず、紐やベルトなどで靴底が足から離れない工夫をした履き物。つまりシンプルな構造のサンダルから、より安定性や足の保護機能を求めて履き物は靴に進化していったと考えられる。
これは米国オレゴン州のフォートロック洞窟で発見された紀元前7000年頃のサンダル(紀元後の2023年を足すと約9000年前ね)。現在までに発見されたすべての履き物の中で、今のところ最も古いとされる。材質はセージブラシというヨモギの一種。画像はhttps://www.linkedin.com/pulse/oldest-pair-scandals-world-letha-oelzから引用。
こちらはスペインで発見された紀元前6000年〜5000年頃のサンダル。日本のワラジに近い作りに見える。世界各地の古代文明で同じようなものが作られたに違いない。
靴よりも構造がシンプルなサンダルが先に発明されたのは当然としても、「ある程度の固さを持った靴底」ではなく、いわば足を包む袋のような構造のものなら紀元前3500年頃のものがアルメニアで見つかっている。(靴底に「ある程度の固さを持つ」と説明していたのは、このタイプの履き物があったから。ネイティブ・インディアンが履いていたモカシンも似たような作り)
それで「ある程度の固さを持った靴底」を備えた「靴」が、いつ頃作られたのかについてははっきり分かっていないようだ。中世のヨーロッパでと解説しているものが多いけれど、中世といっても年代が広いから解説になっていない。参考までに西洋史では、一般的に西ローマ帝国滅亡(476年:日本は古墳時代)から東ローマ帝国滅亡(1453年:日本は戦国時代直前)まであたりが中世とされる。
ご存じのように日本では靴が生まれなかった。日常で履かれていたのは草履(ゾウリ)と下駄(ゲタ)。ゾウリがフォーマル、ゲタがカジュアルとの位置づけ。ゾウリをカジュアルにした雪駄(セッタ)という派生バージョンもある。
ゾウリもゲタも「足全体を覆わず、紐やベルトなどで靴底が足から離れない工夫をした履き物」との定義に照らせばサンダルの一種である。日本でそこから靴に発展しなかったのは、やはり室内で履き物を脱ぐ風習が大きかったと思われる。
そして長距離移動や激しい動きをするときに履かれていたのが草鞋(ワラジ)。いわば江戸時代まで日本で最もヘビーデューティーな履き物がこのワラジ。
それにしてもこんな質素な、9000年前や8000年前のものとして発掘されたサンダルとあまり変わらないものが、つい150年ほど前まで使われていたのが、不思議であり正直ちょっと情けない気持ちでもある(^^ゞ 激しい動きとは戦(いくさ)も含まれる。こんなものを履いて刀で斬り合い槍で突き合っていたなんて想像するのも難しい。日本人はあまり履き物に関心を持たなかった民族なのかな?
ちなみにワラジは耐久性も低く、長距離を歩けば1日持つか持たないかのレベル。江戸時代に流行ったお伊勢参りは江戸からだと往復30日の徒歩旅行。40足のワラジを履きつぶしたとして、ワラジは蕎麦一杯程度の値段だったとされるので500円とすれば、500円 × 40足 = 2万円だからけっこうな出費。
またワラジを見ると鼻緒の付け根が先端にあるものが多い。だから上の写真のように足の指がはみ出る。歩きにくいし指を怪我しそうに思えるが、何か理由があるのだろうか。
話はそれるけれど忍者はマキビシを撒いて逃げたとされる。それもワラジを履いた相手だったから効果があったと推測できる。なおマキビシと聞くと鉄製をイメージするものの、漢字で書くと撒菱であり、菱という植物の実が固くて尖っていたのでそれを利用したらしい。
ところで、
中世ヨーロッパで作られ始めた「ある程度の固さを持った靴底」「足全体を覆うパーツ」を組み合わせた靴とは革靴である。革を何枚も貼り合わせて固さと柔軟性を備えた靴底が作れるのを発見したのだろう(ゴムが利用されるのは19世紀になってから)。先ほど日本でゾウリやゲタなどのサンダルから靴に発展しなかったのは、室内で履き物を脱ぐ風習があるからと書いた。実はそれ以外に日本では革製品が発達しなかったからと以前から思っていた。
革製品が発達しなかったのは、仏教の影響で四つ足の動物を食べなかったからで、つまり革となる皮の供給がなかったから。しかし問題はゾウリのカジュアルバージョンであるセッタ。名前くらいしか知らなかったのだが、調べてみるとセッタとは
竹の編み物でできたゾウリの靴底に
革を張り防水性を高めた
ものとある。雪の日にゾウリを履いていると底から雪がしみてくる、ゲタだとゲタの歯と歯の間に雪がくっついて歩きにくいから考案されたといわれ、一説には千利休の発明ともされる。
この革とは牛革である。江戸時代になってからセッタは大流行したらしいが、どこから入手したのだろうか。もちろん農耕や運搬用に牛は古くから使われてきたものの、庶民のセッタ需要をまかなえるほど革があったかは疑問。ネットで調べてもそんなニッチな情報は見つけられないからナゾ。またセッタの靴底に革を張ったのなら、なぜそこから発展して丈夫な革の靴底、そして革靴に至らなかったのか〜いつまでも原始時代のようなワラジを使い続けたのかも大いにナゾ。
もっとも何でもネットですぐに答えが見つかっちゃつまらないがーーー
話をサンダルとスリッパに戻すと、
足全体を覆うパーツがあるものが靴、
紐やベルトで足を部分的に固定するのがサンダル
である。
それでスリッパはこのような形。
足の前部が広く覆われているから「部分的に固定している」と見なすのは少し強引かも知れない。しかしポイントを「足全体を覆っている」かどうかだと考えれば、スリッパはサンダルの一種になる。集合記号で表現すればサンダル ⊃ スリッパ。
ただしこのスリッパ、調べると意外にビックリすることが多い。
ーーー続く
2023年08月27日
夏緑に目覚めた?
高校の同級生Y君が東京に来ていて「25日の昼から時間が空いているので付き合ってくれ」と誘いを受ける。どこに行きたいかを尋ねると明治神宮との返事。午後7時から目黒で会合があるらしいので、明治神宮の後は竹下通り〜裏原(裏原宿)〜渋谷とオノボリさん向け観光コース(^^ゞ を組み立てて案内してきた。
原宿駅で落ち合って南参道から明治神宮に入る。原宿駅前の喧噪から3分で神宮の森に包まれるワープ感にY君は感激した様子。何度来ても別世界と思う場所なのだから、初めてならまさに異空間に感じられるはず。ただし参道はJRの線路沿いなので電車の音が聞こえるけれど。(これは今年の5月に撮った写真)
原宿駅からだと2番目の鳥居となる大鳥居。デジカメは持っていったが、今回はY君を撮るカメラマンに徹したのでブログで紹介できるものは少ない。
実は私は新緑が大好き。どれくらい好きかというと、春になって新緑が芽吹くと首を伸ばしてムシャムシャ食べたい衝動に駆られるくらい。たぶん前世はキリンだったに違いないと思っている(^^ゞ 新緑が黄緑色に美しいのはゴールデンウィーク頃。偶然だが今年は新緑を愛でに明治神宮に来ていた。
新緑が好きということは、新緑の季節を過ぎて緑が濃くなるとあまり魅力を感じなくなることでもある。緑の多い光景はいつだって好きだとしても、論理的に順位を付ければそうなってしまう。
しかし明治神宮の本殿エリアに入り、有名な大きなクスノキが目に入るとちょっと考えが変わった。真夏の緑もとても素敵じゃないか。もしパソコンで読んでいるならクリックで拡大して見て欲しい。
こちらは今年の新緑の頃に同じ場所で撮ったもの。
↑上の写真は太陽に雲が薄くかかった状態なので、
右側の木にたっぷりと日が当たっているときの写真がこちら。
この黄緑色の若々しさがタマラン!のだけれど、
同じ木を25日に眺めて新緑と甲乙付けがたい印象をいだいた。
おそらく光がたっぷりと当たっている、夏の濃い青空とのクッキリしたコントラスト、葉の枚数が増えてボリューム感がある、それにこのクスノキが名木であるのも影響していると思う。そんな理屈はともかくとして、とにかくただただ感動的に美しかった。これから夏の楽しみがひとつ増えてちょっとウレシイ。
本殿を参拝した後は、ほとんどの人が訪れない境内北側の芝生広場を案内し、次にやって来たのが明治神宮御苑(ぎょえん)。明治神宮の敷地は元大名屋敷。その大名屋敷の庭園だった部分が明治神宮御苑となっている。
明治になって大名屋敷を買い上げ皇室御料地となる
↓
大名屋敷の庭だった部分を整備して明治天皇が別宅とする
当時は代々木御苑との名前
↓
明治天皇が亡くなった後、
大正9年(1920年)に御料地を境内として明治神宮が創建される
だいたいそんなような関係。
なので明治天皇にゆかりがあったのはこの御苑。
ただし元は大名屋敷の庭とはいえ、現在の明治神宮御苑は日本庭園として特に美しく整備されているわけではない。多少は庭の雰囲気がある程度。
池にはスイレンが咲いていたがあまり見応えなし。
ここのハナショウブは有名。
もちろん現在はオフシーズンで茎だけの状態。
かやぶき屋根越しに「日本の夏」的な風景を楽しむ。
ハナショウブ畑の先にあるのが、
戦国武将の加藤清正が堀ったと伝えられる「清正井(きよまさのいど)」。
先ほど大名屋敷と書いたが、熊本藩加藤家は江戸上屋敷を国会議事堂の近く、下屋敷をこの地に構えていた。ただし加藤家は清正の息子の代で断絶するので、その後はどちらの屋敷も彦根藩井伊家が引き継いでいる。
もっと水がコンコンと湧いていると思っていたのに、まったく静かな井戸だった。もちろんこんな地表近くに水面があるのだから湧き水には違いない。手を入れると少し冷たかった。
訳がわからないのが井戸のそばにあった看板。水質が飲料に適さず飲用禁止なら理解できるが「都合により」って何だ? いったいどんな都合?
ところで明治神宮はとても広い。つまり参拝したり境内を巡るには長い距離を歩く必要がある。当然ながらこの季節には熱中症に気をつけなければいけない。ちなみにこの日の最高気温は34.4度だった。
しかしここは森の中に神社があるようなもの。だから本殿エリアや芝生広場を除けば、参道とそれ以外の通路も木陰だらけで直射日光を浴びることもなくとても涼しく感じられた。また森の地面のおかげで、ヒートアイランド現象も抑えられていて気温自体も周りより少し低いと思う。
とりあえず真夏の昼間でも明治神宮なら、歩き回って大丈夫という東京観光の豆知識をお伝えしておきましょう。ただし境内に飲料の自販機はないので水は持参すべき。
さて夏の緑の美しさに目覚めたので、もっと各地でそれを楽しみたいものの、明治神宮ほどうっそうとして木陰だらけの場所はそうザラにないのが難点ーーー
原宿駅で落ち合って南参道から明治神宮に入る。原宿駅前の喧噪から3分で神宮の森に包まれるワープ感にY君は感激した様子。何度来ても別世界と思う場所なのだから、初めてならまさに異空間に感じられるはず。ただし参道はJRの線路沿いなので電車の音が聞こえるけれど。(これは今年の5月に撮った写真)
原宿駅からだと2番目の鳥居となる大鳥居。デジカメは持っていったが、今回はY君を撮るカメラマンに徹したのでブログで紹介できるものは少ない。
実は私は新緑が大好き。どれくらい好きかというと、春になって新緑が芽吹くと首を伸ばしてムシャムシャ食べたい衝動に駆られるくらい。たぶん前世はキリンだったに違いないと思っている(^^ゞ 新緑が黄緑色に美しいのはゴールデンウィーク頃。偶然だが今年は新緑を愛でに明治神宮に来ていた。
新緑が好きということは、新緑の季節を過ぎて緑が濃くなるとあまり魅力を感じなくなることでもある。緑の多い光景はいつだって好きだとしても、論理的に順位を付ければそうなってしまう。
しかし明治神宮の本殿エリアに入り、有名な大きなクスノキが目に入るとちょっと考えが変わった。真夏の緑もとても素敵じゃないか。もしパソコンで読んでいるならクリックで拡大して見て欲しい。
こちらは今年の新緑の頃に同じ場所で撮ったもの。
↑上の写真は太陽に雲が薄くかかった状態なので、
右側の木にたっぷりと日が当たっているときの写真がこちら。
この黄緑色の若々しさがタマラン!のだけれど、
同じ木を25日に眺めて新緑と甲乙付けがたい印象をいだいた。
おそらく光がたっぷりと当たっている、夏の濃い青空とのクッキリしたコントラスト、葉の枚数が増えてボリューム感がある、それにこのクスノキが名木であるのも影響していると思う。そんな理屈はともかくとして、とにかくただただ感動的に美しかった。これから夏の楽しみがひとつ増えてちょっとウレシイ。
本殿を参拝した後は、ほとんどの人が訪れない境内北側の芝生広場を案内し、次にやって来たのが明治神宮御苑(ぎょえん)。明治神宮の敷地は元大名屋敷。その大名屋敷の庭園だった部分が明治神宮御苑となっている。
明治になって大名屋敷を買い上げ皇室御料地となる
↓
大名屋敷の庭だった部分を整備して明治天皇が別宅とする
当時は代々木御苑との名前
↓
明治天皇が亡くなった後、
大正9年(1920年)に御料地を境内として明治神宮が創建される
だいたいそんなような関係。
なので明治天皇にゆかりがあったのはこの御苑。
ただし元は大名屋敷の庭とはいえ、現在の明治神宮御苑は日本庭園として特に美しく整備されているわけではない。多少は庭の雰囲気がある程度。
池にはスイレンが咲いていたがあまり見応えなし。
ここのハナショウブは有名。
もちろん現在はオフシーズンで茎だけの状態。
かやぶき屋根越しに「日本の夏」的な風景を楽しむ。
ハナショウブ畑の先にあるのが、
戦国武将の加藤清正が堀ったと伝えられる「清正井(きよまさのいど)」。
先ほど大名屋敷と書いたが、熊本藩加藤家は江戸上屋敷を国会議事堂の近く、下屋敷をこの地に構えていた。ただし加藤家は清正の息子の代で断絶するので、その後はどちらの屋敷も彦根藩井伊家が引き継いでいる。
もっと水がコンコンと湧いていると思っていたのに、まったく静かな井戸だった。もちろんこんな地表近くに水面があるのだから湧き水には違いない。手を入れると少し冷たかった。
訳がわからないのが井戸のそばにあった看板。水質が飲料に適さず飲用禁止なら理解できるが「都合により」って何だ? いったいどんな都合?
ところで明治神宮はとても広い。つまり参拝したり境内を巡るには長い距離を歩く必要がある。当然ながらこの季節には熱中症に気をつけなければいけない。ちなみにこの日の最高気温は34.4度だった。
しかしここは森の中に神社があるようなもの。だから本殿エリアや芝生広場を除けば、参道とそれ以外の通路も木陰だらけで直射日光を浴びることもなくとても涼しく感じられた。また森の地面のおかげで、ヒートアイランド現象も抑えられていて気温自体も周りより少し低いと思う。
とりあえず真夏の昼間でも明治神宮なら、歩き回って大丈夫という東京観光の豆知識をお伝えしておきましょう。ただし境内に飲料の自販機はないので水は持参すべき。
さて夏の緑の美しさに目覚めたので、もっと各地でそれを楽しみたいものの、明治神宮ほどうっそうとして木陰だらけの場所はそうザラにないのが難点ーーー
2023年08月19日
自宅でビーチサンダル気分
7月になった頃、外出先での時間調整のつもりでふらりと入った無印良品。そこで見つけて室内履きなのに鼻緒があるなんて面白いと、つい買ってしまったのがこれ。商品名は「ルームサンダル・鼻緒」。税込み590円とお値段も手頃。
自宅はほとんどがフローリングで夏になればスリッパも靴下もはかずに裸足。その方が涼しいし気持ちいいからなんだけれど、足の脂がベタつくと感じる時もあって、それが何となく意識の片隅にあった。でもこれならそれを解消し、かつスリッパと違って暑くないだろうとの目論見も。
ただし鼻緒のあるサンダルは慣れるまで、足の親指と人差し指の間が擦れて痛いのが難点。私は特にそれが苦手で、昔は我慢してビーチサンダルも履いていたが、たぶん35年ほど前だと思うのだが、写真のようなスポーツサンダルと呼ばれるものが出てからはずっとそれ。つまり現在、足指の鼻緒耐性はゼロと思われる(/o\)
それだけがちょっと心配だったものの、考えてみれば自宅室内で歩く距離なんてごく僅か。まったくの杞憂に終わった(^^ゞ
履き心地は見た目の通り。敢えて表現すれば硬めのバスマットやキッチンマットのような足触り。裏側も含めて布製なので、歩くときにカカトから離れてもペタペタと音はしない。
裸足と変わらず涼しいしフローリングもベタつかず満足している。そしてウレシイのは自分の足元が目に入ると、まるでビーサンを履いているようで夏気分、海気分を味わえること。先ほど書いたようにビーサンなんて35年以上は履いていないから、とても懐かしい感覚でもある。
一ヶ月半ほど使って少々汚れてきた。洗濯機で洗えるようだが590円だから使い捨てでもいいや。カラバリもそこそこある。もうすぐ夏も終わりだし、まだ売っているかは知らないものの、フローリングで裸足で過ごす人にはオススメ。
自宅はほとんどがフローリングで夏になればスリッパも靴下もはかずに裸足。その方が涼しいし気持ちいいからなんだけれど、足の脂がベタつくと感じる時もあって、それが何となく意識の片隅にあった。でもこれならそれを解消し、かつスリッパと違って暑くないだろうとの目論見も。
ただし鼻緒のあるサンダルは慣れるまで、足の親指と人差し指の間が擦れて痛いのが難点。私は特にそれが苦手で、昔は我慢してビーチサンダルも履いていたが、たぶん35年ほど前だと思うのだが、写真のようなスポーツサンダルと呼ばれるものが出てからはずっとそれ。つまり現在、足指の鼻緒耐性はゼロと思われる(/o\)
それだけがちょっと心配だったものの、考えてみれば自宅室内で歩く距離なんてごく僅か。まったくの杞憂に終わった(^^ゞ
履き心地は見た目の通り。敢えて表現すれば硬めのバスマットやキッチンマットのような足触り。裏側も含めて布製なので、歩くときにカカトから離れてもペタペタと音はしない。
裸足と変わらず涼しいしフローリングもベタつかず満足している。そしてウレシイのは自分の足元が目に入ると、まるでビーサンを履いているようで夏気分、海気分を味わえること。先ほど書いたようにビーサンなんて35年以上は履いていないから、とても懐かしい感覚でもある。
一ヶ月半ほど使って少々汚れてきた。洗濯機で洗えるようだが590円だから使い捨てでもいいや。カラバリもそこそこある。もうすぐ夏も終わりだし、まだ売っているかは知らないものの、フローリングで裸足で過ごす人にはオススメ。
2023年08月18日
ウクライナ侵攻で少し変化した戦争観 その2
前回に写真で紹介した日本とウクライナの被害程度の差は、おそらく攻撃する方法・武器ひいては戦争の戦い方の違いによるものだと考えている。
日本に襲来したのはB-29という爆撃機。
爆撃機とは空から地上攻撃をするのが任務の軍用機。全長は約30m。参考までに中型旅客機であるボーイング737と同じくらい。なおB-29もボーイング社製。ただし頭についている「B」はボーイングの略ではなくてBomber(ボマー=爆撃機)の意味。飛行機を撃ち落とす役割の戦闘機にはFighter(ファイター)の「F」がよく使われる。
それがこうやって爆弾をバラ撒いた(>_<)
なぜかアメリカ軍機なのにロシアと同じZマークが!?→実は単なる所属部隊名表示
東京を例に取ると106回の空襲を受けており、特に1945年(昭和20年)3月から5月にかけての5回が大規模だったとされる。
襲来したB-29 投下爆弾量
3月10日 325機 1665トン (これが東京大空襲と呼ばれる)
4月13日 327機 2119トン
4月15日 194機 1110トン
5月24日 558機 3645トン
5月25日 498機 3262トン
5回を合計するとB-29襲来は延べ1902機で投下された総爆弾量は1万1801トン。1機あたり平均だと6.2トンの計算。ちなみにB-29の爆弾最大積載量は4.5トンから9トンといわれている(機種によって違う)から、まあ目一杯積んできたのだろう。
なお広島と長崎に落とされた原爆は爆薬に換算すると
広島1万5000トン相当
長崎2万1000トン相当
なので1902機での空襲以上の破壊をたった1機の攻撃で実行した計算になる。いかに核兵器の威力が凄まじいかが分かる。
軍事知識はないから正確ではないかも知れないが、とりあえず1万トン以上の爆撃を受けると、前回に載せた写真のように都市は焼け野原の更地になってしまう。
さてウクライナ侵攻では、爆撃機による空爆はほとんど行われておらず都市部への攻撃はミサイルによるもの。防衛省の資料によると2023年2月23日時点で5000発以上が打ち込まれたという。ニュースで名前を聞くロシアのミサイルは、航空機から発射する「キンジャル」「コディアック」艦船から発射する「カリブル」そして地上発射型の弾道ミサイル「イスカンデル」あたり。
これはイスカンデル。
その名前を聞くと ♪宇宙戦艦ヤ〜マ〜トのメロディーを思い出してしまう(^^ゞ
それぞれの搭載爆薬量は
キンジャル 500kg
コディアック 400kg
カリブル 500kg
イスカンデル 490kg
念のために書いておくと500kgとは0.5トンである。つまりミサイルの破壊力は爆撃機B-29だと6.2トン搭載できた爆弾量の8%ほどと極めて小さい。5000発 × 500kg としても2500トンに過ぎない。さらに報道によればロシアのミサイルは飛来途中で撃墜されているものも多い。これが日本は空襲で焼け野原の更地になったのと較べて、ウクライナの街が「思ったより傷んでいない」と感じる原因だろうと考えている。
また前回に載せた写真以外に、
ウクライナからはこのような惨状が届く一方で、
ごく普通の市民生活も伝えられて、その違いにいささか混乱してしまうが、(写真が撮られたのは2022年6月と2023年6月で、https://www.asahi.com/articles/photo/AS20220705002218.htmlとhttps://ieei.or.jp/2023/06/special201704042/から引用)
(参考までに空襲された銀座付近の様子)
それもひとつの都市に1万トン以上の爆弾、あるいはそれ以上の破壊力を持つ原爆を落とされた日本と、全土(日本の1.6倍広い)で2500トンのミサイル攻撃を受けたウクライナの違いだと分かれば理解ができる。
なお多い日には1日に数万発が発射される砲弾も計算に入れるべきだが、残念ながらそこまでは情報収集に手が回らない。ロシアが主力としている152mm砲弾(直径15.2cmとの意味)の爆薬量は6kgほど。ただし1発の威力は小さくても使用量は桁違い。この戦争の兵士を含む死傷者の80%は砲弾によるものとの解説もあった。射程距離は25kmほどだから主に前線で使用されていると思われる。
正確な情報にはまったく基づいていないが、とりあえず仮定の計算をしておくと
6kg × 1日1万発 × 侵攻から1年半(548日)=3万2880トン
ウクライナ軍も同じくらい撃ち返しているから2倍して6万5760トンと凄まじい量になる。ただし都市部での撃ち合いは少ないので、前回に載せた写真のように「思ったより街は傷んでいないな」との印象になる。逆にこのページの破壊された村の写真は砲弾によるものだろう。(ただしよく見れば建物はそれほど崩壊していない)
参考までに沖縄戦で撃ち込まれた砲弾は3ヶ月間でなんと約20万トン。広島の原爆13倍の爆薬量。それにより島の一部の地形が変わったといわれる(>_<)
さてロシアがなぜ空爆(ミサイルではなく爆弾を落とすトラディショナルな攻撃)をしないのかは知らない。制空権を握っていないから爆撃機による空爆はリスクが高いと考えているのか、あるいはすべてを破壊する必要はなく要所要所の攻撃で充分と考えているのか。ひょっとしたら第2次世界大戦のような無差別な空爆はもはや許されないと、さすがのプーチンでもわきまえている?
その理由はともかく、同じ戦争でも太平洋戦争で日本が体験した(と私がイメージしている)ものとはずいぶんと違う攻撃だと、戦争だって時代と共に変化するとーーー実に当たり前なことに今さらながら気がついた。そういえば侵攻が始まった頃、民間人を避難させる「人道回廊」なる一時的休戦協定が報道されて、近頃の戦争はそんな仕組みがあるんだと驚いたのも思い出す。
それはおそらく戦争に特に関心を持っているわけではないから、歴史の授業で習ったり、終戦の日前後にマスコミが太平洋戦争について特集する内容をそのまま受け入れて、ステレオタイプ的な戦争観を持っていたからだと思う。だからヘンな表現になるものの、ウクライナ侵攻を通じて少し視野が広がったような気持ちになっている。民間人を巻き込む無差別大規模空襲をしなくなっただけでも、第2次世界大戦から80年近くたって、多少は人類が進歩したのかと思ったり。
もっともそれは兵士の確保も含めて戦争のコストが上昇し、もはやどの国も何百機もの爆撃機を保有しなくなったせいかも知れない。またもし使用すれば、現在の核兵器は小型のものでも広島・長崎に投下された原爆の5倍から10倍の威力を持っているから、戦争が破滅的大惨事の入口であるのに変わりはない。だから「昔と違って戦争は皆殺しを目的としてない」からといって、戦争をひとつの問題解決手段として肯定する気持ちはまったくない。そのあたりは誤解なきようお読み願いたい。
(余談になるが東京への空襲の資料を調べていて、1902機も爆撃機を飛ばすとそのうちのある程度は撃墜もされるのだから、たった1回の攻撃で同じ効果を得られる核兵器は、軍司令官サイドの視点に立てば魅力的なんだろうなと思った)
オチのない話でゴメンm(_ _)m
太平洋戦争の歴史を通じて戦争の悲惨さを胸に刻むのは当然であると同時に、原爆まで落とされたあの戦争を唯一のスタンダードとして、現代史の戦争を見るのもちょっと違うかなと思ったりした終戦の日。
ウクライナでの戦争が早く終わりますように
おしまい
日本に襲来したのはB-29という爆撃機。
爆撃機とは空から地上攻撃をするのが任務の軍用機。全長は約30m。参考までに中型旅客機であるボーイング737と同じくらい。なおB-29もボーイング社製。ただし頭についている「B」はボーイングの略ではなくてBomber(ボマー=爆撃機)の意味。飛行機を撃ち落とす役割の戦闘機にはFighter(ファイター)の「F」がよく使われる。
それがこうやって爆弾をバラ撒いた(>_<)
なぜかアメリカ軍機なのにロシアと同じZマークが!?→実は単なる所属部隊名表示
東京を例に取ると106回の空襲を受けており、特に1945年(昭和20年)3月から5月にかけての5回が大規模だったとされる。
襲来したB-29 投下爆弾量
3月10日 325機 1665トン (これが東京大空襲と呼ばれる)
4月13日 327機 2119トン
4月15日 194機 1110トン
5月24日 558機 3645トン
5月25日 498機 3262トン
5回を合計するとB-29襲来は延べ1902機で投下された総爆弾量は1万1801トン。1機あたり平均だと6.2トンの計算。ちなみにB-29の爆弾最大積載量は4.5トンから9トンといわれている(機種によって違う)から、まあ目一杯積んできたのだろう。
なお広島と長崎に落とされた原爆は爆薬に換算すると
広島1万5000トン相当
長崎2万1000トン相当
なので1902機での空襲以上の破壊をたった1機の攻撃で実行した計算になる。いかに核兵器の威力が凄まじいかが分かる。
軍事知識はないから正確ではないかも知れないが、とりあえず1万トン以上の爆撃を受けると、前回に載せた写真のように都市は焼け野原の更地になってしまう。
さてウクライナ侵攻では、爆撃機による空爆はほとんど行われておらず都市部への攻撃はミサイルによるもの。防衛省の資料によると2023年2月23日時点で5000発以上が打ち込まれたという。ニュースで名前を聞くロシアのミサイルは、航空機から発射する「キンジャル」「コディアック」艦船から発射する「カリブル」そして地上発射型の弾道ミサイル「イスカンデル」あたり。
これはイスカンデル。
その名前を聞くと ♪宇宙戦艦ヤ〜マ〜トのメロディーを思い出してしまう(^^ゞ
それぞれの搭載爆薬量は
キンジャル 500kg
コディアック 400kg
カリブル 500kg
イスカンデル 490kg
念のために書いておくと500kgとは0.5トンである。つまりミサイルの破壊力は爆撃機B-29だと6.2トン搭載できた爆弾量の8%ほどと極めて小さい。5000発 × 500kg としても2500トンに過ぎない。さらに報道によればロシアのミサイルは飛来途中で撃墜されているものも多い。これが日本は空襲で焼け野原の更地になったのと較べて、ウクライナの街が「思ったより傷んでいない」と感じる原因だろうと考えている。
また前回に載せた写真以外に、
ウクライナからはこのような惨状が届く一方で、
ごく普通の市民生活も伝えられて、その違いにいささか混乱してしまうが、(写真が撮られたのは2022年6月と2023年6月で、https://www.asahi.com/articles/photo/AS20220705002218.htmlとhttps://ieei.or.jp/2023/06/special201704042/から引用)
(参考までに空襲された銀座付近の様子)
それもひとつの都市に1万トン以上の爆弾、あるいはそれ以上の破壊力を持つ原爆を落とされた日本と、全土(日本の1.6倍広い)で2500トンのミサイル攻撃を受けたウクライナの違いだと分かれば理解ができる。
なお多い日には1日に数万発が発射される砲弾も計算に入れるべきだが、残念ながらそこまでは情報収集に手が回らない。ロシアが主力としている152mm砲弾(直径15.2cmとの意味)の爆薬量は6kgほど。ただし1発の威力は小さくても使用量は桁違い。この戦争の兵士を含む死傷者の80%は砲弾によるものとの解説もあった。射程距離は25kmほどだから主に前線で使用されていると思われる。
正確な情報にはまったく基づいていないが、とりあえず仮定の計算をしておくと
6kg × 1日1万発 × 侵攻から1年半(548日)=3万2880トン
ウクライナ軍も同じくらい撃ち返しているから2倍して6万5760トンと凄まじい量になる。ただし都市部での撃ち合いは少ないので、前回に載せた写真のように「思ったより街は傷んでいないな」との印象になる。逆にこのページの破壊された村の写真は砲弾によるものだろう。(ただしよく見れば建物はそれほど崩壊していない)
参考までに沖縄戦で撃ち込まれた砲弾は3ヶ月間でなんと約20万トン。広島の原爆13倍の爆薬量。それにより島の一部の地形が変わったといわれる(>_<)
さてロシアがなぜ空爆(ミサイルではなく爆弾を落とすトラディショナルな攻撃)をしないのかは知らない。制空権を握っていないから爆撃機による空爆はリスクが高いと考えているのか、あるいはすべてを破壊する必要はなく要所要所の攻撃で充分と考えているのか。ひょっとしたら第2次世界大戦のような無差別な空爆はもはや許されないと、さすがのプーチンでもわきまえている?
その理由はともかく、同じ戦争でも太平洋戦争で日本が体験した(と私がイメージしている)ものとはずいぶんと違う攻撃だと、戦争だって時代と共に変化するとーーー実に当たり前なことに今さらながら気がついた。そういえば侵攻が始まった頃、民間人を避難させる「人道回廊」なる一時的休戦協定が報道されて、近頃の戦争はそんな仕組みがあるんだと驚いたのも思い出す。
それはおそらく戦争に特に関心を持っているわけではないから、歴史の授業で習ったり、終戦の日前後にマスコミが太平洋戦争について特集する内容をそのまま受け入れて、ステレオタイプ的な戦争観を持っていたからだと思う。だからヘンな表現になるものの、ウクライナ侵攻を通じて少し視野が広がったような気持ちになっている。民間人を巻き込む無差別大規模空襲をしなくなっただけでも、第2次世界大戦から80年近くたって、多少は人類が進歩したのかと思ったり。
もっともそれは兵士の確保も含めて戦争のコストが上昇し、もはやどの国も何百機もの爆撃機を保有しなくなったせいかも知れない。またもし使用すれば、現在の核兵器は小型のものでも広島・長崎に投下された原爆の5倍から10倍の威力を持っているから、戦争が破滅的大惨事の入口であるのに変わりはない。だから「昔と違って戦争は皆殺しを目的としてない」からといって、戦争をひとつの問題解決手段として肯定する気持ちはまったくない。そのあたりは誤解なきようお読み願いたい。
(余談になるが東京への空襲の資料を調べていて、1902機も爆撃機を飛ばすとそのうちのある程度は撃墜もされるのだから、たった1回の攻撃で同じ効果を得られる核兵器は、軍司令官サイドの視点に立てば魅力的なんだろうなと思った)
オチのない話でゴメンm(_ _)m
太平洋戦争の歴史を通じて戦争の悲惨さを胸に刻むのは当然であると同時に、原爆まで落とされたあの戦争を唯一のスタンダードとして、現代史の戦争を見るのもちょっと違うかなと思ったりした終戦の日。
ウクライナでの戦争が早く終わりますように
おしまい
2023年08月15日
ウクライナ侵攻で少し変化した戦争観
前回に引き続き終戦の日にちなんだテーマで。
昨年は同じ時期に憲法9条の話を中心に書いた。
要点を抜き出すと、
自衛権は憲法以前のいわば国家の自然権的に存在するとして、
憲法9条はそれによって日本を守るのものではなく、
「戦争ダメ絶対」を宣言して他国を攻める権利を制限する規定である。
それはやがて敗戦から立ち直ったときに、また戦争を仕掛けないよう
これを徹底的に潰し将来の芽も摘んでしまおうとするもの。
終戦時点で400万人ほどの残存兵力を有し、
追い詰められれば「特攻」までする狂信的な国家・軍隊だから、
その考え方には合理性があった。
そう考え、憲法9条を支持してきたものの、
失われた何十年とやらで国力はどんどん低下し、
少子高齢化でジジ・ババばかりとなり、
兵士となる若者は数も少ない上に草食系男子。
もはやこの国に戦争を仕掛ける力はないんじゃないか?
ならば憲法9条は役割を終えて必要ないかも
ーーーと気づいてビミョーに寂しさも感じるとの内容だった。
興味があれば、次のリンクから読んでみてちょうだい。
終戦の日に憲法9条の話
終戦の日に憲法9条の話 その2
振り返れば、憲法9条について「長年の考えが揺らいだ」のがブログを書くきっかけになったわけで、今年も似たように揺らいだお話。
さて現在、戦争と言えばウクライナ侵攻である。ロシアが特別軍事作戦と称してウクライナ各地への攻撃を開始したのは、2022年の2月24日だから約1年6ヶ月前。2014年にウクライナ情勢の不安定化に乗じてクリミア半島を併合した際には、「国籍不明を装った軍隊を秘密裏に送り込む」なんて映画でも思いつかない離れ業をやってのけたプーチン。今回も短期間で片がつくだろうと思っていたものの、意外にもウクライナが強いというかロシアが弱いというか、あるいは西側諸国が結束したからというかで戦争は継続中。逆に今は年内にこの戦争が終結すると予想している人はいないんじゃないかな。
話を日本に戻すと、戦争と言えば本日に終戦記念日を迎えた太平洋戦争である。それがどれだけ悲惨なものであったかは、空襲により大都市が焼け野原となったこんな写真とともに日本人の記憶となっている。
「広島」
「長崎」
「東京」
米軍による空襲は石川県を除く46都道府県に及び、死者は民間人だけで41万人を超えるとされる。原爆を投下された広島は14万人、長崎では7万4000人。
少し計算をすると
広島 + 長崎 = 21.4万人
41万人 − 21.4万人 = 19.6万人
広島と長崎で原爆により多くの人が亡くなったのは誰でも知っている。しかしそれ以外の地域でも焼夷弾を始めとする爆弾、軍事用語を使うなら通常兵器でほぼ同じ人数が犠牲になっているのも忘れちゃいけない。
それにしても空襲の写真を見ると、その時代に生まれていないのに途方に暮れそうになるくらい、本当に破壊し尽くされたと分かる。そしてこの光景が、日本人が戦争をイメージする際の根底のひとつにあると思う。
しかしそんな焼け野原を見慣れた目でウクライナが攻撃された報道を見ると、不謹慎な表現なのを承知で書かせてもらえば、これだけ国際的に大騒ぎになっているのに、軍事大国ロシアが本気で攻め込んでいるのに「思ったより街は傷んでいないな」との印象を、実は開戦後しばらくしてから持っていた。
ただしウクライナで核兵器は使用されていないし、また
燃えやすい木造中心だった当時の日本家屋に対して、
ウクライナの建物はコンクリートや石造り。
日本を降伏させるのが目的だったアメリカと、
ウクライナを自国領に組み入れようとしているロシア。
(あまりボロボロにしたら後で困る)
などの違いもあると思う。もちろん写真にあるビルやマンションはもう使えないだろうし、今までに民間人1万人以上が亡くなっており、これが「たいした被害じゃない」と言うつもりはまったく微塵もない。あくまでほとんど更地状態となった空襲後の日本との比較である。
ーーー続く
昨年は同じ時期に憲法9条の話を中心に書いた。
要点を抜き出すと、
自衛権は憲法以前のいわば国家の自然権的に存在するとして、
憲法9条はそれによって日本を守るのものではなく、
「戦争ダメ絶対」を宣言して他国を攻める権利を制限する規定である。
それはやがて敗戦から立ち直ったときに、また戦争を仕掛けないよう
これを徹底的に潰し将来の芽も摘んでしまおうとするもの。
終戦時点で400万人ほどの残存兵力を有し、
追い詰められれば「特攻」までする狂信的な国家・軍隊だから、
その考え方には合理性があった。
そう考え、憲法9条を支持してきたものの、
失われた何十年とやらで国力はどんどん低下し、
少子高齢化でジジ・ババばかりとなり、
兵士となる若者は数も少ない上に草食系男子。
もはやこの国に戦争を仕掛ける力はないんじゃないか?
ならば憲法9条は役割を終えて必要ないかも
ーーーと気づいてビミョーに寂しさも感じるとの内容だった。
興味があれば、次のリンクから読んでみてちょうだい。
終戦の日に憲法9条の話
終戦の日に憲法9条の話 その2
振り返れば、憲法9条について「長年の考えが揺らいだ」のがブログを書くきっかけになったわけで、今年も似たように揺らいだお話。
さて現在、戦争と言えばウクライナ侵攻である。ロシアが特別軍事作戦と称してウクライナ各地への攻撃を開始したのは、2022年の2月24日だから約1年6ヶ月前。2014年にウクライナ情勢の不安定化に乗じてクリミア半島を併合した際には、「国籍不明を装った軍隊を秘密裏に送り込む」なんて映画でも思いつかない離れ業をやってのけたプーチン。今回も短期間で片がつくだろうと思っていたものの、意外にもウクライナが強いというかロシアが弱いというか、あるいは西側諸国が結束したからというかで戦争は継続中。逆に今は年内にこの戦争が終結すると予想している人はいないんじゃないかな。
話を日本に戻すと、戦争と言えば本日に終戦記念日を迎えた太平洋戦争である。それがどれだけ悲惨なものであったかは、空襲により大都市が焼け野原となったこんな写真とともに日本人の記憶となっている。
「広島」
「長崎」
「東京」
米軍による空襲は石川県を除く46都道府県に及び、死者は民間人だけで41万人を超えるとされる。原爆を投下された広島は14万人、長崎では7万4000人。
少し計算をすると
広島 + 長崎 = 21.4万人
41万人 − 21.4万人 = 19.6万人
広島と長崎で原爆により多くの人が亡くなったのは誰でも知っている。しかしそれ以外の地域でも焼夷弾を始めとする爆弾、軍事用語を使うなら通常兵器でほぼ同じ人数が犠牲になっているのも忘れちゃいけない。
それにしても空襲の写真を見ると、その時代に生まれていないのに途方に暮れそうになるくらい、本当に破壊し尽くされたと分かる。そしてこの光景が、日本人が戦争をイメージする際の根底のひとつにあると思う。
しかしそんな焼け野原を見慣れた目でウクライナが攻撃された報道を見ると、不謹慎な表現なのを承知で書かせてもらえば、これだけ国際的に大騒ぎになっているのに、軍事大国ロシアが本気で攻め込んでいるのに「思ったより街は傷んでいないな」との印象を、実は開戦後しばらくしてから持っていた。
ただしウクライナで核兵器は使用されていないし、また
燃えやすい木造中心だった当時の日本家屋に対して、
ウクライナの建物はコンクリートや石造り。
日本を降伏させるのが目的だったアメリカと、
ウクライナを自国領に組み入れようとしているロシア。
(あまりボロボロにしたら後で困る)
などの違いもあると思う。もちろん写真にあるビルやマンションはもう使えないだろうし、今までに民間人1万人以上が亡くなっており、これが「たいした被害じゃない」と言うつもりはまったく微塵もない。あくまでほとんど更地状態となった空襲後の日本との比較である。
ーーー続く
2023年08月14日
突然、民主主義とか言い出した先生の意見も聞いてみたかった
明日は終戦記念日である。昔はその日が近づくにつれて戦争関連の特番が多く放送されたものだが、今はNHKが多少やる程度かな。
ところで終戦の日をいつと見なすかは国によって違う。日本では8月15日となっているものの、グローバル的には日本が連合国と降伏文書を交わした9月2日がスタンダード。
それはさておき終戦は1945年(昭和20年)の出来事である。
その年に生まれた人は今年で78歳。
その年に10歳だった人は今年で88歳。
その年に20歳だった人は今年で98歳。
その年に30歳だった人は今年で108歳。
2022年10月1日時点での日本の総人口は1億2494万7000人。そのうち78歳以上は1515万1000人だから戦争体験者の占める割合は12%。あまり子供じゃ記憶もないだろうから当時5歳児だった83歳以上で数えると851万8000人で7%しかいない。社会として戦争の記憶も薄れてしまう=戦争特番のニーズが減るのもある程度仕方がないか。戦争の記憶が遠のくと戦争が近づくなんて言われるけれど、そんなことになりませんように。
さて現在の6・3・3・4の学制が取り入れられたのは戦後の1947年(昭和22年)。戦前の学制はちょっと複雑なのだが、代表的なコースは
小学校6年
中学校5年(男子)・高等女学校5年(女子)
高等学校3年(男子)
大学3年
内容的には中学校と高等女学校が現在の中学高校をあわせたようなもの。高等学校が現在の大学で、大学は現在の大学院に近い。なお高等女学校を卒業した女子は高等学校には進めず、代わりに女子高等師範学校などの高等教育機関(すべてに高等がつくから混乱する)が設けられていた。しかし進学率は1%未満で、実質的に高等女学校が最終教育機関だったようだ。ところで中学校相当の女学校になぜ高等の名前を付けたのかが不思議。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
とりあえず小学1年生を7歳とすると6年生は12歳で、中学5年生は17歳になる。終戦の年に12歳と17歳になる児童・生徒がいつ生まれたかを逆算すると1933年(昭和8年)と1928年(昭和3年)。もう少し幅を広げて昭和1桁世代といってもいい。言い換えれば彼らは終戦時に少年少女だった世代。そして少年少女は多感である。
さてここからが本題。
その昭和1桁世代は存命なら今年で89歳から97歳になる。
世代像をイメージするために文化人関連で有名な人をあげると(年数は生まれた年)、
手塚 治虫 1928年(昭和3年) 伊丹 十三 1933年(昭和8年)
前田 武彦 1929年(昭和4年) 永 六輔 1933年(昭和8年)
向田 邦子 1929年(昭和4年) 黒柳 徹子 1933年(昭和8年)
野坂 昭如 1930年(昭和5年) 藤本 義一 1933年(昭和8年)
小松 左京 1931年(昭和6年) 愛川 欽也 1934年(昭和9年)
山田 洋次 1931年(昭和6年) 井上ひさし 1934年(昭和9年)
五木 寛之 1932年(昭和7年) 大橋 巨泉 1934年(昭和9年)
青島 幸男 1932年(昭和7年) 田原総一朗 1934年(昭和9年)
石原慎太郎 1932年(昭和7年)
大島 渚 1932年(昭和7年)
この終戦時に多感な少年少女だった世代が終戦について語るとき、印象的だった出来事として次のような話をする人が多い。
それまで学校で校長先生、担任の先生は
「日本は神の国」「将来は国のため天皇陛下のために名誉の戦死をしなさい」
「この戦争は欧米に植民地にされているアジアの国々を独立させるための正義の
戦争」「鬼畜米英」「降伏なんてもってのほか、米軍が上陸してきたら切腹しろ」
と言っていたのに、戦争に負けた途端
「あの戦争は間違いで、やってはならない戦争だった」「正しいのは米英」
「民主主義は素晴らしい」「また戦争が起きそうになったら命がけで阻止すべし」
などと話す内容が180度変わった。
また新聞などマスコミの論調も同様だった。
それで大人の言うことは信用できない、国家は信用できないと反発を覚えたと。中にはその反発が後の人生を切り開く原動力となったと述べる作家やジャーナリストもいる。
今は昭和1桁世代も減ってしまったから、あまりそういった話に触れる機会もないが、ある程度の年齢以上なら見聞きした経験はあるだろう。先に上げた人物の中では野坂昭如、石原慎太郎、大島渚、田原総一朗がそう話していたのは覚えている。文化人に限らず政治家、経済人、芸能人など多くの人が昔は語っていたと思う。
この話を最初に知ったのがいつかは覚えていない。まだ中学校くらいだったような気もする。ひょっとしたら先生から自身の体験談として聞いたのかも。でもまあ「そうだったんだあ」と思ったくらいで「自分とは関係ない昔の出来事」との認識だった。その後、何度か同じ話を聞いて「ひどい時代だ」と思いはしたものの、同時に「もうその話は聞き飽きたわ」と思ったり(^^ゞ
たぶん今から30年くらい前、だから戦後50年前後、また誰かが同じ話をしているのを聞いたか読んだかした。ただしその時は今までと違って、終戦時にそういうことがあったのは事実と思われ、それに反感を覚えたのも当然ーーーだとしても、先生だって「大人の事情があって」そのような行動を取ったのだろうから、それが理解できなかった少年少女時代はともかく、もうすっかりいい歳になっているのに「大人は信用できない」ばかりを強調されてもなあ〜と、別の視点での感想をいだく。
そして当時に先生だった人は、どんな気持ちあるいは考えを持って、終戦直後に今までとはまったく反対の話をしたのかと興味を持った。なぜなら先生の発言に反発した話は多く聞いてきたものの、当の先生サイドからの説明はないのに気づいたから。これはよろしくない。生徒と先生、当事者双方の言い分を聞いてこそ正しい歴史の認識ができるというものである。
ただし興味を持ったといっても、そんな考えが頭に浮かんだだけで別に何か調べたわけでもなし。というより興味を持った次の瞬間にはもう忘れてしまった。なのになぜかその興味を数日前に思い出した。しかし既に時遅し。昭和1桁世代を教えていた、当時の先生が仮に30歳だとしても現在は108歳。存命の方はもうほとんどいないはず。
改めて戦後も、
ずいぶんと年月が流れたものだと実感する終戦の日の1日前。
ところで終戦の日をいつと見なすかは国によって違う。日本では8月15日となっているものの、グローバル的には日本が連合国と降伏文書を交わした9月2日がスタンダード。
それはさておき終戦は1945年(昭和20年)の出来事である。
その年に生まれた人は今年で78歳。
その年に10歳だった人は今年で88歳。
その年に20歳だった人は今年で98歳。
その年に30歳だった人は今年で108歳。
2022年10月1日時点での日本の総人口は1億2494万7000人。そのうち78歳以上は1515万1000人だから戦争体験者の占める割合は12%。あまり子供じゃ記憶もないだろうから当時5歳児だった83歳以上で数えると851万8000人で7%しかいない。社会として戦争の記憶も薄れてしまう=戦争特番のニーズが減るのもある程度仕方がないか。戦争の記憶が遠のくと戦争が近づくなんて言われるけれど、そんなことになりませんように。
さて現在の6・3・3・4の学制が取り入れられたのは戦後の1947年(昭和22年)。戦前の学制はちょっと複雑なのだが、代表的なコースは
小学校6年
中学校5年(男子)・高等女学校5年(女子)
高等学校3年(男子)
大学3年
内容的には中学校と高等女学校が現在の中学高校をあわせたようなもの。高等学校が現在の大学で、大学は現在の大学院に近い。なお高等女学校を卒業した女子は高等学校には進めず、代わりに女子高等師範学校などの高等教育機関(すべてに高等がつくから混乱する)が設けられていた。しかし進学率は1%未満で、実質的に高等女学校が最終教育機関だったようだ。ところで中学校相当の女学校になぜ高等の名前を付けたのかが不思議。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
とりあえず小学1年生を7歳とすると6年生は12歳で、中学5年生は17歳になる。終戦の年に12歳と17歳になる児童・生徒がいつ生まれたかを逆算すると1933年(昭和8年)と1928年(昭和3年)。もう少し幅を広げて昭和1桁世代といってもいい。言い換えれば彼らは終戦時に少年少女だった世代。そして少年少女は多感である。
さてここからが本題。
その昭和1桁世代は存命なら今年で89歳から97歳になる。
世代像をイメージするために文化人関連で有名な人をあげると(年数は生まれた年)、
手塚 治虫 1928年(昭和3年) 伊丹 十三 1933年(昭和8年)
前田 武彦 1929年(昭和4年) 永 六輔 1933年(昭和8年)
向田 邦子 1929年(昭和4年) 黒柳 徹子 1933年(昭和8年)
野坂 昭如 1930年(昭和5年) 藤本 義一 1933年(昭和8年)
小松 左京 1931年(昭和6年) 愛川 欽也 1934年(昭和9年)
山田 洋次 1931年(昭和6年) 井上ひさし 1934年(昭和9年)
五木 寛之 1932年(昭和7年) 大橋 巨泉 1934年(昭和9年)
青島 幸男 1932年(昭和7年) 田原総一朗 1934年(昭和9年)
石原慎太郎 1932年(昭和7年)
大島 渚 1932年(昭和7年)
この終戦時に多感な少年少女だった世代が終戦について語るとき、印象的だった出来事として次のような話をする人が多い。
それまで学校で校長先生、担任の先生は
「日本は神の国」「将来は国のため天皇陛下のために名誉の戦死をしなさい」
「この戦争は欧米に植民地にされているアジアの国々を独立させるための正義の
戦争」「鬼畜米英」「降伏なんてもってのほか、米軍が上陸してきたら切腹しろ」
と言っていたのに、戦争に負けた途端
「あの戦争は間違いで、やってはならない戦争だった」「正しいのは米英」
「民主主義は素晴らしい」「また戦争が起きそうになったら命がけで阻止すべし」
などと話す内容が180度変わった。
また新聞などマスコミの論調も同様だった。
それで大人の言うことは信用できない、国家は信用できないと反発を覚えたと。中にはその反発が後の人生を切り開く原動力となったと述べる作家やジャーナリストもいる。
今は昭和1桁世代も減ってしまったから、あまりそういった話に触れる機会もないが、ある程度の年齢以上なら見聞きした経験はあるだろう。先に上げた人物の中では野坂昭如、石原慎太郎、大島渚、田原総一朗がそう話していたのは覚えている。文化人に限らず政治家、経済人、芸能人など多くの人が昔は語っていたと思う。
この話を最初に知ったのがいつかは覚えていない。まだ中学校くらいだったような気もする。ひょっとしたら先生から自身の体験談として聞いたのかも。でもまあ「そうだったんだあ」と思ったくらいで「自分とは関係ない昔の出来事」との認識だった。その後、何度か同じ話を聞いて「ひどい時代だ」と思いはしたものの、同時に「もうその話は聞き飽きたわ」と思ったり(^^ゞ
たぶん今から30年くらい前、だから戦後50年前後、また誰かが同じ話をしているのを聞いたか読んだかした。ただしその時は今までと違って、終戦時にそういうことがあったのは事実と思われ、それに反感を覚えたのも当然ーーーだとしても、先生だって「大人の事情があって」そのような行動を取ったのだろうから、それが理解できなかった少年少女時代はともかく、もうすっかりいい歳になっているのに「大人は信用できない」ばかりを強調されてもなあ〜と、別の視点での感想をいだく。
そして当時に先生だった人は、どんな気持ちあるいは考えを持って、終戦直後に今までとはまったく反対の話をしたのかと興味を持った。なぜなら先生の発言に反発した話は多く聞いてきたものの、当の先生サイドからの説明はないのに気づいたから。これはよろしくない。生徒と先生、当事者双方の言い分を聞いてこそ正しい歴史の認識ができるというものである。
ただし興味を持ったといっても、そんな考えが頭に浮かんだだけで別に何か調べたわけでもなし。というより興味を持った次の瞬間にはもう忘れてしまった。なのになぜかその興味を数日前に思い出した。しかし既に時遅し。昭和1桁世代を教えていた、当時の先生が仮に30歳だとしても現在は108歳。存命の方はもうほとんどいないはず。
改めて戦後も、
ずいぶんと年月が流れたものだと実感する終戦の日の1日前。
2023年08月12日
ラムネ菓子を食べた その2
この商品を知るきっかけとなったテレビ番組「これがわが社の黒歴史」で
紹介されていた内容を紹介するとーーー
長年に渡り増えも減りもせずに安定した販売を続けていた森永のラムネ菓子。
しかし2014年頃から突然に売り上げが伸び始める。
これがオリジナルの商品パッケージ。
調べてみると「ブドウ糖のおかげで二日酔いに効く」との口コミが広がり、
SNSでもバズっていると判明。
そこで2015年にウコン配合の「ラムネのチカラ」を発売。
パッケージもネーミングも「ウコンの力」のまんまパクリやないか(^^ゞ
しかし主力販売先となるコンビニ(本部)に営業をかけるも反応は今ひとつ。お菓子の棚にウコンは置きにくいし、栄養ドリンクの棚にラムネを置くのもーーーというような理由だったらしい。したがって店頭にほとんど並ぶことなく、つまり人知れず派手にコケていたわけ。
懲りずに2016年、なぜか今度は女性をターゲットにした新商品を開発。商品名は「スパークリングラムネ」でパッケージもそれっぽい。
こちらが売れなかった理由は番組ではっきりとは述べられなかったが、正反対の食感を持ち女性に人気のグミにはかなわなかったとのことだろうか。あるいは(ウコン版もそうだが)駄菓子のラムネとあまりにイメージがかけ離れていて、消費者がピンとこなかったのかも知れない。
またスパークリングのネーミングにもかかわらず「たいしてシュワシュワしていない」との評価が帰ってきたと番組で担当者が述べていた。おそらくスパークリングはネーミング演出だけで発泡感は従来のラムネと変わらなかったのでは? 消費者をなめたらしっぺ返しをくらうもの。そしてこれで大コケ2連発(/o\)
やがて責任者の異動が決まり(左遷?)最後の商品開発会議。ろくなアイデアは出なかったものの会議は延々と続く。その時に誰かがラムネをかじり、そして
やっぱりラムネはおいしいなあ〜
子供の頃はこれをいっぱい食べるのが夢だったなあ〜
とつぶやいて、それで閃いたのが大粒化というような番組ストーリーだった。大粒ラムネの発売は2018年で、当初の年間販売計画数量を発売後1カ月足らずで売り切るスマッシュヒットとなる。
ラムネをいっぱい食べたいなんてニーズがそんなにあったと思えないから、成功の秘訣は袋入りにしたことにより、瓶入りより店頭で目立ったからじゃないかなあ。いろいろとアピールポイントを書き込めるし。それに瓶入りのパッケージは大人が買うにはちょっと恥ずかしいかも。
また大粒といってもそれほど大きいわけではない。パッケージには当社体積比約1.5倍とある。オリジナルのラムネは食べていないけれど、これくらいの大きさのほうが大人には食べやすい気がする。
なお森永のホームページではこれより大きい「超大粒(体積比3.9倍)」というラインナップも載っている。しかしそちらは何件かお店を見て回ったがどこにも置いていなかった。調子コイてはいけません(^^ゞ
元は二日酔いに効くとの口コミから始まった大人向けのラムネ・マーケティングだが、薬じゃないからそんな効能を謳うのは薬事法で禁じられている。それはハウスの「ウコンの力」も同じで、パッケージはもちろんホームページのどこにも二日酔いの「ふ」の字もない。同社のメッセージは開き直って「飲んどきゃ、いいことあるかもよ」である。それでも熱中症対策に塩分とブドウ糖が含まれたラムネがあれば買いたい気がする。もちろんその程度のアイデアは検討済みだろうけど。
さて次は炭酸飲料のラムネを飲みたいな。
ビー玉で栓をされたヤツ。
通販で取り寄せられるが20本セットのような売られ方が多い。
多くて3本で充分だから、そのうちネットで近くで売っているお店を探しましょう。
見つかるかな?
写真はhttps://otokonokakurega.com/learn/secret-base/11333/から引用
おしまい
紹介されていた内容を紹介するとーーー
長年に渡り増えも減りもせずに安定した販売を続けていた森永のラムネ菓子。
しかし2014年頃から突然に売り上げが伸び始める。
これがオリジナルの商品パッケージ。
調べてみると「ブドウ糖のおかげで二日酔いに効く」との口コミが広がり、
SNSでもバズっていると判明。
そこで2015年にウコン配合の「ラムネのチカラ」を発売。
パッケージもネーミングも「ウコンの力」のまんまパクリやないか(^^ゞ
しかし主力販売先となるコンビニ(本部)に営業をかけるも反応は今ひとつ。お菓子の棚にウコンは置きにくいし、栄養ドリンクの棚にラムネを置くのもーーーというような理由だったらしい。したがって店頭にほとんど並ぶことなく、つまり人知れず派手にコケていたわけ。
懲りずに2016年、なぜか今度は女性をターゲットにした新商品を開発。商品名は「スパークリングラムネ」でパッケージもそれっぽい。
こちらが売れなかった理由は番組ではっきりとは述べられなかったが、正反対の食感を持ち女性に人気のグミにはかなわなかったとのことだろうか。あるいは(ウコン版もそうだが)駄菓子のラムネとあまりにイメージがかけ離れていて、消費者がピンとこなかったのかも知れない。
またスパークリングのネーミングにもかかわらず「たいしてシュワシュワしていない」との評価が帰ってきたと番組で担当者が述べていた。おそらくスパークリングはネーミング演出だけで発泡感は従来のラムネと変わらなかったのでは? 消費者をなめたらしっぺ返しをくらうもの。そしてこれで大コケ2連発(/o\)
やがて責任者の異動が決まり(左遷?)最後の商品開発会議。ろくなアイデアは出なかったものの会議は延々と続く。その時に誰かがラムネをかじり、そして
やっぱりラムネはおいしいなあ〜
子供の頃はこれをいっぱい食べるのが夢だったなあ〜
とつぶやいて、それで閃いたのが大粒化というような番組ストーリーだった。大粒ラムネの発売は2018年で、当初の年間販売計画数量を発売後1カ月足らずで売り切るスマッシュヒットとなる。
ラムネをいっぱい食べたいなんてニーズがそんなにあったと思えないから、成功の秘訣は袋入りにしたことにより、瓶入りより店頭で目立ったからじゃないかなあ。いろいろとアピールポイントを書き込めるし。それに瓶入りのパッケージは大人が買うにはちょっと恥ずかしいかも。
また大粒といってもそれほど大きいわけではない。パッケージには当社体積比約1.5倍とある。オリジナルのラムネは食べていないけれど、これくらいの大きさのほうが大人には食べやすい気がする。
なお森永のホームページではこれより大きい「超大粒(体積比3.9倍)」というラインナップも載っている。しかしそちらは何件かお店を見て回ったがどこにも置いていなかった。調子コイてはいけません(^^ゞ
元は二日酔いに効くとの口コミから始まった大人向けのラムネ・マーケティングだが、薬じゃないからそんな効能を謳うのは薬事法で禁じられている。それはハウスの「ウコンの力」も同じで、パッケージはもちろんホームページのどこにも二日酔いの「ふ」の字もない。同社のメッセージは開き直って「飲んどきゃ、いいことあるかもよ」である。それでも熱中症対策に塩分とブドウ糖が含まれたラムネがあれば買いたい気がする。もちろんその程度のアイデアは検討済みだろうけど。
さて次は炭酸飲料のラムネを飲みたいな。
ビー玉で栓をされたヤツ。
通販で取り寄せられるが20本セットのような売られ方が多い。
多くて3本で充分だから、そのうちネットで近くで売っているお店を探しましょう。
見つかるかな?
写真はhttps://otokonokakurega.com/learn/secret-base/11333/から引用
おしまい
2023年08月11日
ラムネ菓子を食べた
7月25日に書いたのは、ひょっとしたら小学生以来かも知れない白無地のソックスを履いたことについて。今回も超を10個くらい並べたくなる久々なお話。
「これがわが社の黒歴史」という企業の失敗談を紹介するテレビ番組がある。先日、森永製菓でラムネ菓子の新商品開発に次々と失敗したケースを放送していた。ラストチャンスで原点に返って開発して成功を収めたのが写真の商品。商品名は「大粒ラムネ」。
森永がラムネを作っているなんてまったく知らなかった。何となくラムネは駄菓子的で、名も知らない零細企業が作っているイメージ。それよりも番組を見ながらラムネがどんな味だったかがまったく思い出せない。もっというなら炭酸飲料のラムネ水は意識にあっても、ラムネ菓子はそんなお菓子があることすら、番組を見るまでまったく忘れていた。
もちろん食べていた記憶はある。でもおそらく幼稚園か小学1〜2年生の頃までだったような気がする。番組の途中で「ラムネのシュワシュワ感」との表現があって、少し思い出したものの、口の中に味がよみがえってこない。
それで買ってきたのが写真の商品。
まんまと番組のワナに引っ掛かったかな(^^ゞ
なお2つのサイズが違って見えるのは撮り方のせい。
舌の上にのせると少し酸味があって、噛むとシュワッと発泡感がある。甘さはあまり感じない。当時に食べていたのが森永のラムネかどうか分からないが間違いなく懐かしい味。爽快感もあっておいしいのに、どうして食べなくなったのだろう? 食べ応えはないから、育ち盛りになってもっと甘みのあるお菓子に移行していったのかな。
とりあえず軽くリフレッシュしたいときにラムネはお勧め。
原材料の90%がブドウ糖らしいから疲れたときにいいかも。
<ところでラムネとは?その1>
ビー玉の入った瓶の炭酸飲料のラムネ水に似せて作ったのがラムネ菓子と思っていたが、それも諸説あるうちのひとつで、はっきりした由来は不明とされる。
歴史的にはイギリス発祥のラムネ水が日本で最初に製造されたのが1872年(明治5年)で、ラムネ菓子の製造が始まったのは戦後の1948年(昭和23年)から。ラムネ菓子は和菓子の落雁(らくがん)の製法を参考にしたともいわれる。
<ところでラムネとは?その2>
ラムネの語源は何と英語のレモネードが訛ったもの!
いくら何でも訛りすぎやろ(^^ゞ
ーーーと思ったものの、ネットの英語辞書で発音を確かめるとレモネードの発音記号は leməneɪd であっても「ラムネー(ド)」と聞こえる。昔の人のヒアリング能力は高かったというか、なまじローマ字読みの発音癖がついていないから正確に聞き取れたのかも知れない。
クリックするとレモネードの発音
クリックするとレモンの発音
ーーー続く
「これがわが社の黒歴史」という企業の失敗談を紹介するテレビ番組がある。先日、森永製菓でラムネ菓子の新商品開発に次々と失敗したケースを放送していた。ラストチャンスで原点に返って開発して成功を収めたのが写真の商品。商品名は「大粒ラムネ」。
森永がラムネを作っているなんてまったく知らなかった。何となくラムネは駄菓子的で、名も知らない零細企業が作っているイメージ。それよりも番組を見ながらラムネがどんな味だったかがまったく思い出せない。もっというなら炭酸飲料のラムネ水は意識にあっても、ラムネ菓子はそんなお菓子があることすら、番組を見るまでまったく忘れていた。
もちろん食べていた記憶はある。でもおそらく幼稚園か小学1〜2年生の頃までだったような気がする。番組の途中で「ラムネのシュワシュワ感」との表現があって、少し思い出したものの、口の中に味がよみがえってこない。
それで買ってきたのが写真の商品。
まんまと番組のワナに引っ掛かったかな(^^ゞ
なお2つのサイズが違って見えるのは撮り方のせい。
舌の上にのせると少し酸味があって、噛むとシュワッと発泡感がある。甘さはあまり感じない。当時に食べていたのが森永のラムネかどうか分からないが間違いなく懐かしい味。爽快感もあっておいしいのに、どうして食べなくなったのだろう? 食べ応えはないから、育ち盛りになってもっと甘みのあるお菓子に移行していったのかな。
とりあえず軽くリフレッシュしたいときにラムネはお勧め。
原材料の90%がブドウ糖らしいから疲れたときにいいかも。
<ところでラムネとは?その1>
ビー玉の入った瓶の炭酸飲料のラムネ水に似せて作ったのがラムネ菓子と思っていたが、それも諸説あるうちのひとつで、はっきりした由来は不明とされる。
歴史的にはイギリス発祥のラムネ水が日本で最初に製造されたのが1872年(明治5年)で、ラムネ菓子の製造が始まったのは戦後の1948年(昭和23年)から。ラムネ菓子は和菓子の落雁(らくがん)の製法を参考にしたともいわれる。
<ところでラムネとは?その2>
ラムネの語源は何と英語のレモネードが訛ったもの!
いくら何でも訛りすぎやろ(^^ゞ
ーーーと思ったものの、ネットの英語辞書で発音を確かめるとレモネードの発音記号は leməneɪd であっても「ラムネー(ド)」と聞こえる。昔の人のヒアリング能力は高かったというか、なまじローマ字読みの発音癖がついていないから正確に聞き取れたのかも知れない。
クリックするとレモネードの発音
クリックするとレモンの発音
ーーー続く
2023年08月08日
昭和時代と呼ばれるのはいつから?
先日とある飲み会で
昔はそういうこともありましたよねえ〜との話題から、
いつのまにか
昭和の頃は
昭和の時代は
などの単語が飛び交うようになった。
私よりは若いメンバーだったので「昭和のこれ知ってるか選手権」では負ける気がしなかったけれど、そこは彼・彼女たちのちょっぴり自慢も入った思い出話をニコニコしながら聞いてあげるのが年長者のたしなみというヤツである(^^ゞ
ところで昭和が終わったのは1989年(昭和64年)の1月7日。今から34年と約7ヶ月前の出来事。もうけっこうな年月が流れたと思うが、明治時代、大正時代というのに、未だに昭和時代とはいわずに昭和の時代と「の」が間に入るのが一般的かと思う。
大正時代が「大正の時代」と呼ばれていたのは昭和のいつ頃までだったのだろう? 私が明治・大正・昭和なんて時代区分があると知ったのは、おそらく昭和40年代の中頃で、その頃には既に大正時代だった。その例に従えば、あと10年ほどで「の」が取れて昭和時代になる。しかし確かな記憶はないものの、昭和のもっと早い頃から「の」抜きで大正時代と呼ばれていたような気もする。
ネットで調べてみても、そんなニッチな情報にはたどり着けず。
そもそもどんなキーワードで検索していいのかもよく分からずに断念。
まあ心配しなくてもいずれ昭和時代、そして平成時代と呼ばれる日もやってくる。
気長に待っていよう。
昔はそういうこともありましたよねえ〜との話題から、
いつのまにか
昭和の頃は
昭和の時代は
などの単語が飛び交うようになった。
私よりは若いメンバーだったので「昭和のこれ知ってるか選手権」では負ける気がしなかったけれど、そこは彼・彼女たちのちょっぴり自慢も入った思い出話をニコニコしながら聞いてあげるのが年長者のたしなみというヤツである(^^ゞ
ところで昭和が終わったのは1989年(昭和64年)の1月7日。今から34年と約7ヶ月前の出来事。もうけっこうな年月が流れたと思うが、明治時代、大正時代というのに、未だに昭和時代とはいわずに昭和の時代と「の」が間に入るのが一般的かと思う。
大正時代が「大正の時代」と呼ばれていたのは昭和のいつ頃までだったのだろう? 私が明治・大正・昭和なんて時代区分があると知ったのは、おそらく昭和40年代の中頃で、その頃には既に大正時代だった。その例に従えば、あと10年ほどで「の」が取れて昭和時代になる。しかし確かな記憶はないものの、昭和のもっと早い頃から「の」抜きで大正時代と呼ばれていたような気もする。
ネットで調べてみても、そんなニッチな情報にはたどり着けず。
そもそもどんなキーワードで検索していいのかもよく分からずに断念。
まあ心配しなくてもいずれ昭和時代、そして平成時代と呼ばれる日もやってくる。
気長に待っていよう。
2023年08月07日
防犯カメラと監視されない権利 その2
日本の500万台に対して、中国では2021年時点で5億7000万台の防犯・監視カメラがあるとされる。中国の人口は日本の12倍、また面積は日本の26倍なのにカメラの数は何と114倍。そして、そのうちのどれだけの台数が接続されているかは分からないが、中国政府は天網(てんもう)あるいはスカイネットと呼ばれる社会監視システムを構築している。
簡単に言うとカメラが捉えた画像を顔認証システムで解析し、いろいろなデータベースと照合して人物を特定する仕組み。その速度は1秒で写っている人物が誰なのかを中国国民14億人から識別できるらしい。要は常に誰がどこにいるかを把握するシステム。当然、誰と一緒にいるかも分かる。おそらく中国に入国した外国人も対象。(中国では入国時に顔写真と指紋をとられる)
もちろんこの天網スカイネットも防犯のために使われているーーーことになっている。でもまあ政府にたてついたメディア関係者やジャーナリストが突然に姿を消す国である。活動家の不当逮捕、ウイグルやチベットなどでの少数民族の弾圧に利用されているとの批判もある。ちなみに中国は軍事大国であるが、治安維持費はなんと軍事予算を上回っている。
画像は天網スカイネットとは直接関係なくイメージとして https://jcvisa.info/facial-recognition-helps-with-catching-suspect-in-crowd-of-concertgoers/とhttps://jp.wsj.com/articles/SB11588421679375374726504583234572468806316から引用
ところで日本には治安維持費と名前のつく予算項目はない。警察の予算がそれに相当するとしたら2021年度では国家支出である警察庁予算が2794億円、各自治体が支出する各都道府県の警察本部への予算が3兆3739億円。合計すれば3兆6533億円。そして同年度の防衛予算は5兆1235億円なので、警察予算は防衛予算の71%に相当する。
警察=治安維持(言葉の定義も難しいが)だけではないとしても、想像よりはるかに警察の予算は大きかった。各都道府県の予算に占める警察支出は平均で4.7%にもなる。中国人は治安維持で締め付けられて可哀想、それに較べて日本は〜と自慢しようと思ったのに、調べたらヤブヘビになってしまった(^^ゞ 警察予算の92%は各都道府県負担なので防衛費と違って国会で議論もされないのは問題かも。なお中国の治安維持費(公共安全費と呼ばれる)にも普通の警察活動費用が含まれている。
さて前回の投稿で書いた日本の警察の街頭防犯カメラシステムは、中国の天網スカイネットと較べると圧倒的に数も少ないし、画像解析や各種データベースとの連携もなく、24時間警官が目視で対応している模様。
しかし中国の技術レベルには追いつけないかも知れないが(もはやこう書かなければいけない状況なのが残念)、やがてAIなどを駆使した識別システムになるだろう。そして民間の防犯・監視カメラともつながり、将来的にはドライブレコーダーも統合した大規模な監視システムが出来上がる。固定カメラやクルマでカバーできない場所は監視ドローンが巡回している、パソコンやスマホに搭載されているカメラも秘密裏にーーーなんてSF的な未来も想像できる。まさにディストピア(ユートピアの反対語)。
そんな監視社会はイヤじゃあ(/o\) (/o\)(/o\)
これは監視カメラが防犯に役立つのとはまた別の次元の話。デスクの横であなたの上司がずっといて監視していたら、できる仕事もできないでしょ。
「誰からも監視されない権利」は憲法13条の
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする
に含まれていると考える。
ただクセモノは「公共の福祉に反しない限り」との文言。この「公共の福祉」は13条を含めて4つの条文で使われている憲法のキーワード。ここでの福祉は老人介護や弱者救済といった福祉と聞いて一般にイメージするものではなく、社会共通の利益のような概念。国語辞書には載っておらず法律独特の用語である。
だから監視されない権利はあるけれど、
防犯のためならその権利も制限されるとの解釈になる。
実際に「防犯」カメラをもっと増やすのには過半数以上が賛成し、プライバシーの侵害などを危惧する声は少ない。また中国国内でも天網スカイネットに大きな反発はなく受け入れられているとも聞く。また監視社会に異を唱えると、犯罪を犯すつもりがなければ関係ないはずと底の浅い反論がかえってきがち。
しかし国家権力は国民を締め上げて、隙あれば懲らしめるようにできている。それは人間の性(さが)が生み出した特性。私だって権力を握ったらガンガンやるでえ(^^ゞ そして全国民の居場所を特定し、誰と誰がつるんでいるのも把握できるなんて、昔なら夢物語だったものがテクノロジーの進歩によって可能になり、また防犯のためとの大義名分も立つのだから、そんな超監視システムは必ず導入される。そして必ず悪用され、また必ず情報が漏洩するのも歴史が証明するところ(/o\)
ついでに最新のテクノロジーを紹介すると、監視カメラで口元の動きを解析して、マイクで音声を拾えなくても会話の内容が分かるソフトウエアも開発されている。
さらに歩容認証という歩き方(歩く見た目だから容姿の「容」)を解析する技術は昔からあるものの、現在では対象者の3Dモデルを作り、全身すべての特徴を元に識別するようになっている。身長や歩幅は当然として、何とオシリの揺れかたまで捉える。これを使うと背中を向けていても腹ばいになっていても人物を特定できるらしい。
つまり顔を隠したって監視カメラの目から逃れるのは不可能。
着ぐるみを着たら余計に目立つし(^^ゞ
また昔からエシュロンという全世界的な電話やメールの盗聴システムがあると噂されていたが、2013年にエドワード・スノーデンが実際はプリズムと呼ばれるもっと凄い監視システムが実在することを告発した。もちろんプリズムを運営するNSA(アメリカ国家安全保障局)はテロ対策のためと「公共の福祉」を主張している。こういったものも監視カメラネットワークと連動して国民に目を光らす。
居場所、行動、考え、交友関係、生活実態ーーー
あらゆることがお上に筒抜けになる時代が、
そう遠くないうちにやってくる。
暑い夏には怪談もいいけれど、こういうのもゾッとして涼しくなるでしょ(^^ゞ
おしまい
簡単に言うとカメラが捉えた画像を顔認証システムで解析し、いろいろなデータベースと照合して人物を特定する仕組み。その速度は1秒で写っている人物が誰なのかを中国国民14億人から識別できるらしい。要は常に誰がどこにいるかを把握するシステム。当然、誰と一緒にいるかも分かる。おそらく中国に入国した外国人も対象。(中国では入国時に顔写真と指紋をとられる)
もちろんこの天網スカイネットも防犯のために使われているーーーことになっている。でもまあ政府にたてついたメディア関係者やジャーナリストが突然に姿を消す国である。活動家の不当逮捕、ウイグルやチベットなどでの少数民族の弾圧に利用されているとの批判もある。ちなみに中国は軍事大国であるが、治安維持費はなんと軍事予算を上回っている。
画像は天網スカイネットとは直接関係なくイメージとして https://jcvisa.info/facial-recognition-helps-with-catching-suspect-in-crowd-of-concertgoers/とhttps://jp.wsj.com/articles/SB11588421679375374726504583234572468806316から引用
ところで日本には治安維持費と名前のつく予算項目はない。警察の予算がそれに相当するとしたら2021年度では国家支出である警察庁予算が2794億円、各自治体が支出する各都道府県の警察本部への予算が3兆3739億円。合計すれば3兆6533億円。そして同年度の防衛予算は5兆1235億円なので、警察予算は防衛予算の71%に相当する。
警察=治安維持(言葉の定義も難しいが)だけではないとしても、想像よりはるかに警察の予算は大きかった。各都道府県の予算に占める警察支出は平均で4.7%にもなる。中国人は治安維持で締め付けられて可哀想、それに較べて日本は〜と自慢しようと思ったのに、調べたらヤブヘビになってしまった(^^ゞ 警察予算の92%は各都道府県負担なので防衛費と違って国会で議論もされないのは問題かも。なお中国の治安維持費(公共安全費と呼ばれる)にも普通の警察活動費用が含まれている。
さて前回の投稿で書いた日本の警察の街頭防犯カメラシステムは、中国の天網スカイネットと較べると圧倒的に数も少ないし、画像解析や各種データベースとの連携もなく、24時間警官が目視で対応している模様。
しかし中国の技術レベルには追いつけないかも知れないが(もはやこう書かなければいけない状況なのが残念)、やがてAIなどを駆使した識別システムになるだろう。そして民間の防犯・監視カメラともつながり、将来的にはドライブレコーダーも統合した大規模な監視システムが出来上がる。固定カメラやクルマでカバーできない場所は監視ドローンが巡回している、パソコンやスマホに搭載されているカメラも秘密裏にーーーなんてSF的な未来も想像できる。まさにディストピア(ユートピアの反対語)。
そんな監視社会はイヤじゃあ(/o\) (/o\)(/o\)
これは監視カメラが防犯に役立つのとはまた別の次元の話。デスクの横であなたの上司がずっといて監視していたら、できる仕事もできないでしょ。
「誰からも監視されない権利」は憲法13条の
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする
に含まれていると考える。
ただクセモノは「公共の福祉に反しない限り」との文言。この「公共の福祉」は13条を含めて4つの条文で使われている憲法のキーワード。ここでの福祉は老人介護や弱者救済といった福祉と聞いて一般にイメージするものではなく、社会共通の利益のような概念。国語辞書には載っておらず法律独特の用語である。
だから監視されない権利はあるけれど、
防犯のためならその権利も制限されるとの解釈になる。
実際に「防犯」カメラをもっと増やすのには過半数以上が賛成し、プライバシーの侵害などを危惧する声は少ない。また中国国内でも天網スカイネットに大きな反発はなく受け入れられているとも聞く。また監視社会に異を唱えると、犯罪を犯すつもりがなければ関係ないはずと底の浅い反論がかえってきがち。
しかし国家権力は国民を締め上げて、隙あれば懲らしめるようにできている。それは人間の性(さが)が生み出した特性。私だって権力を握ったらガンガンやるでえ(^^ゞ そして全国民の居場所を特定し、誰と誰がつるんでいるのも把握できるなんて、昔なら夢物語だったものがテクノロジーの進歩によって可能になり、また防犯のためとの大義名分も立つのだから、そんな超監視システムは必ず導入される。そして必ず悪用され、また必ず情報が漏洩するのも歴史が証明するところ(/o\)
ついでに最新のテクノロジーを紹介すると、監視カメラで口元の動きを解析して、マイクで音声を拾えなくても会話の内容が分かるソフトウエアも開発されている。
さらに歩容認証という歩き方(歩く見た目だから容姿の「容」)を解析する技術は昔からあるものの、現在では対象者の3Dモデルを作り、全身すべての特徴を元に識別するようになっている。身長や歩幅は当然として、何とオシリの揺れかたまで捉える。これを使うと背中を向けていても腹ばいになっていても人物を特定できるらしい。
つまり顔を隠したって監視カメラの目から逃れるのは不可能。
着ぐるみを着たら余計に目立つし(^^ゞ
また昔からエシュロンという全世界的な電話やメールの盗聴システムがあると噂されていたが、2013年にエドワード・スノーデンが実際はプリズムと呼ばれるもっと凄い監視システムが実在することを告発した。もちろんプリズムを運営するNSA(アメリカ国家安全保障局)はテロ対策のためと「公共の福祉」を主張している。こういったものも監視カメラネットワークと連動して国民に目を光らす。
居場所、行動、考え、交友関係、生活実態ーーー
あらゆることがお上に筒抜けになる時代が、
そう遠くないうちにやってくる。
暑い夏には怪談もいいけれど、こういうのもゾッとして涼しくなるでしょ(^^ゞ
おしまい
2023年08月06日
防犯カメラと監視されない権利
もはやどこにでもある防犯カメラ。そこそこの都会なら、防犯カメラにまったく写らずに外出するのは不可能な時代になっている。
警察が容疑者を特定するきっかけになった情報源は2019年時点で
職務質問 16.5%
防犯カメラ画像 10.2% (ドライブレコーダー画像を含む)
参考人取り調べ 6.8%
の順位なので犯人検挙にも役立っているのは確か。
しかしニュースでこんな台詞を耳にするたびに?と思う。
「警察は防犯カメラの映像を元に犯人の行方を追っています」
ここにカメラがあるよ、悪いことをしても録画しているから捕まるよとアピールして犯罪を思いとどまらせるからこそ防犯カメラ。犯人が写っている=犯罪が行われているのでは、防犯の役目を果たせていないじゃん(^^ゞ
また警察が「防犯カメラの映像を元に」といわれる場合は、犯行現場だけではなくて街中にある防犯カメラの映像を調べているのだろう。その場合、その機能は防犯カメラではなく監視カメラである。
売春が援助交際やパパ活と変わったように、耳触りのいい言葉で置き換えて本質を曖昧にするのは日本の伝統文化。もちろん国家もそれを利用する。太平洋戦争で大本営は敗走を転進と伝えた。最近の傑作は国民管理番号をマイナンバーと緩いネーミングに仕立てたことかな。「マイナ」なんて今風の省略形も組み合わせているから、この担当者はなかなかの手練れ。
その防犯カメラ・監視カメラは2018年度時点で、企業や個人すなわち民間で500万台ほど設置されている(もっと最近のデータを探したが見つからなかった)。500万台といわれてもピンとこないが、信号機の数が全国で229万機なのでとにかくカメラだらけなのは間違いない。
実はもっと凄いのがドライブレコーダー。その普及率は2019年の国交省アンケートで46%、2022年の損害保険会社アンケートでは49%となっている。データ原本には当たっていないものの、これは乗用車対象の数字と思われる。日本の自家用・乗用車登録台数は約6200万台だから、普及率50%計算で3100万台のドライブレコーダーが搭載されている。さらにトラック・バス・タクシー等が1500万台ほど登録されており、これらのドライブレコーダー搭載率は6〜7割といわれている。ちょっとビックリするほどの数字。
もう人目ならぬカメラ目を避けて出歩くのは無理だね。
もっともドライブレコーダーはもちろん、防犯・監視カメラも映画やドラマのようにオンラインで集中的につながって警察その他が随時監視しているわけではない。基本的には録画しているのみで、事件や事故があったときに見られるだけ。もちろんノゾキ見趣味のヘンタイはいるだろうが。
例外は警察が設置してる防犯・監視カメラ。名称は「街頭防犯カメラ」で2018年度で1912台あり、過去10年間で4倍に増えたとされる。東京すなわち警視庁管内で設置されたのは2002年に新宿歌舞伎町が最初。現在は同エリアで55台が稼働している画像はhttps://dot.asahi.com/articles/-/32775?page=1から引用
街頭防犯カメラの画像は警察でモニターされており、歌舞伎町では街中でヤクザが揉め事を起こしたら、仲間の組員が応援に来るより先に警官が駆けつけるといわれているほど。
それはけっこうな話ではあるのだが、
あまりエスカレートしないで欲しい気持ちもある。
ーーー続く
警察が容疑者を特定するきっかけになった情報源は2019年時点で
職務質問 16.5%
防犯カメラ画像 10.2% (ドライブレコーダー画像を含む)
参考人取り調べ 6.8%
の順位なので犯人検挙にも役立っているのは確か。
しかしニュースでこんな台詞を耳にするたびに?と思う。
「警察は防犯カメラの映像を元に犯人の行方を追っています」
ここにカメラがあるよ、悪いことをしても録画しているから捕まるよとアピールして犯罪を思いとどまらせるからこそ防犯カメラ。犯人が写っている=犯罪が行われているのでは、防犯の役目を果たせていないじゃん(^^ゞ
また警察が「防犯カメラの映像を元に」といわれる場合は、犯行現場だけではなくて街中にある防犯カメラの映像を調べているのだろう。その場合、その機能は防犯カメラではなく監視カメラである。
売春が援助交際やパパ活と変わったように、耳触りのいい言葉で置き換えて本質を曖昧にするのは日本の伝統文化。もちろん国家もそれを利用する。太平洋戦争で大本営は敗走を転進と伝えた。最近の傑作は国民管理番号をマイナンバーと緩いネーミングに仕立てたことかな。「マイナ」なんて今風の省略形も組み合わせているから、この担当者はなかなかの手練れ。
その防犯カメラ・監視カメラは2018年度時点で、企業や個人すなわち民間で500万台ほど設置されている(もっと最近のデータを探したが見つからなかった)。500万台といわれてもピンとこないが、信号機の数が全国で229万機なのでとにかくカメラだらけなのは間違いない。
実はもっと凄いのがドライブレコーダー。その普及率は2019年の国交省アンケートで46%、2022年の損害保険会社アンケートでは49%となっている。データ原本には当たっていないものの、これは乗用車対象の数字と思われる。日本の自家用・乗用車登録台数は約6200万台だから、普及率50%計算で3100万台のドライブレコーダーが搭載されている。さらにトラック・バス・タクシー等が1500万台ほど登録されており、これらのドライブレコーダー搭載率は6〜7割といわれている。ちょっとビックリするほどの数字。
もう人目ならぬカメラ目を避けて出歩くのは無理だね。
もっともドライブレコーダーはもちろん、防犯・監視カメラも映画やドラマのようにオンラインで集中的につながって警察その他が随時監視しているわけではない。基本的には録画しているのみで、事件や事故があったときに見られるだけ。もちろんノゾキ見趣味のヘンタイはいるだろうが。
例外は警察が設置してる防犯・監視カメラ。名称は「街頭防犯カメラ」で2018年度で1912台あり、過去10年間で4倍に増えたとされる。東京すなわち警視庁管内で設置されたのは2002年に新宿歌舞伎町が最初。現在は同エリアで55台が稼働している画像はhttps://dot.asahi.com/articles/-/32775?page=1から引用
街頭防犯カメラの画像は警察でモニターされており、歌舞伎町では街中でヤクザが揉め事を起こしたら、仲間の組員が応援に来るより先に警官が駆けつけるといわれているほど。
それはけっこうな話ではあるのだが、
あまりエスカレートしないで欲しい気持ちもある。
ーーー続く
2023年08月01日
本能寺の変 新説?
「レジェンド&バタフライ」はいわゆる“ 織田信長モノ”の映画。主演は木村拓哉と綾瀬はるか。公開は今年の1月27日。少し前にAmazonプライムビデオで観た。
映画としての面白さはゴクフツー。時代劇なのでそれなりに重厚感は出ているものの、あくまでキムタクありきの作品。合戦シーンは省略が多く予算が足りなかったのかと思わせる。なお「バタフライ」は綾瀬はるかが演じる信長の正妻「濃姫(のうひめ)」が、帰蝶(きちょう)や胡蝶(こちょう)の名前だったともされるので、そこから取ったネーミングだろう。
さて誰もが知っているように信長の最後は、明智光秀がクーデターを起こした本能寺の変である。信長の最側近だった彼が、なぜそんな行動を起こしたのかについては日本史最大のミステリーといわれたりもする。
怨恨説
野望説
黒幕存在説
四国問題説
義憤説
などがよく知られ、細かなものを含めると50以上の説があるらしい。まあ謎が解けないから歴史は面白い。
それでこのレジェンド&バタフライで描かれているのは、
まったく新しい視点での光秀の動機である。
それは
魔王と恐れられた信長のカリスマ性と行動力に心酔していた光秀だったが、
この頃になると信長がボケて衰えてきたので、
こんなヤツに天下統一は無理と見切りを付けてクーデターを起こした!
との設定。
これはまったく斬新な発想。今までの歴史的見解では信長は死ぬまで絶対的な強者の存在であったから。おそらくそちらが事実だとしても、フィクションって面白いと思わせてくれたストーリーだった。
また「怨恨説」の根拠のひとつに饗応役解任事件と呼ばれるものがある。これは信長の同盟相手である家康が安土城を訪れる際に、光秀が饗応役(接待担当)を任されたものの、料理のために用意した魚が腐っていたのに信長が腹を立てたというもの。光秀は饗応役を解任され、中国地方で毛利と戦っていた秀吉の援軍として出陣を命じらる。それにより自尊心を傷つけられた彼が向かったのは秀吉の元ではなく本能寺ーーー
秀吉の援軍として出陣を命じられたのは史実だとして、魚が腐っていたから饗応役を解任されたかどうかは分かっていない。援軍を出さなければいけない事態のほうが家康を接待するより優先順位が高いと、優秀な軍事司令官だった光秀を起用した可能性もある。
というわけで家康を接待する場に解任された光秀はいないはずなのに、映画やドラマでは家康を招いた宴席で、信長が魚が腐っていると激怒して光秀をボコボコにする場面が好んで使われる。
それがこの映画では
ボケて衰えてきた信長を見くびって、会議の場で居眠りをする家臣がいる。
そんな緩んだ雰囲気を家康に悟られたら、
織田家は弱体化していると攻められるかも知れない。
そこで光秀は家康の前で失態を演じると信長に前もって打ち明ける。
つまり家康の目前で光秀をシバキ倒したのは、激怒した信長の恐ろしさを家康に見せつけるために光秀が仕組んで信長に演じさせた芝居!
いやあフィクションって素晴らしいと感心したわ。
このフィクションで難点があるとすれば信長が亡くなったのは47歳であること。
ボケ始めるにはちょっと早い。(なお年齢は数え年ではなく実年齢。以下、上杉謙信、武田信玄も同様)
ところで信長が好んで舞ったとされる能の一種の「敦盛」は
人間五十年
下天の内をくらぶれば、
夢幻のごとくなり。
との唄で始まる。
それを知ったかぶりして「当時の寿命は50歳くらい」なんていうと、
これは「人間の寿命が50年しなかい」ではなく、仏教で6階層ある天上界の
最も低いレベル(下天)でも寿命が920万年あるので、それと較べれば人間界の
50年なんてあっという間=夢幻のごとくなりとの意味。
と指摘されるからご注意を。
それでも920万年を100年でも1000年でもなく、50年と較べたのにはそれなりに意味があるはず。そして上杉謙信は48歳、武田信玄も51歳で亡くなっているから、50歳はひとつの区切りであって、信長もピークは過ぎていたのは確かだろう。もちろんボケていたかどうかは別問題。またボケるのは肉体的ピークは過ぎたのに、食糧事情や医療のおかげでやたら長生きする現代だからとの気もする。
それはさておき、47歳の信長を討ち取った光秀。彼の生涯の前半は記録がなく=生年月日も不明だから、その時に何歳だったかはよく分かっていない。通説としては信長より年上で55歳前後、あるいは65歳前後から70歳とされている。
後者だと当時としてかなりの高齢者だったことになる。
ということで、本能寺の変の新説その2は
「光秀がボケてクーデターを起こした」なんてのはどう?(^^ゞ
映画としての面白さはゴクフツー。時代劇なのでそれなりに重厚感は出ているものの、あくまでキムタクありきの作品。合戦シーンは省略が多く予算が足りなかったのかと思わせる。なお「バタフライ」は綾瀬はるかが演じる信長の正妻「濃姫(のうひめ)」が、帰蝶(きちょう)や胡蝶(こちょう)の名前だったともされるので、そこから取ったネーミングだろう。
さて誰もが知っているように信長の最後は、明智光秀がクーデターを起こした本能寺の変である。信長の最側近だった彼が、なぜそんな行動を起こしたのかについては日本史最大のミステリーといわれたりもする。
怨恨説
野望説
黒幕存在説
四国問題説
義憤説
などがよく知られ、細かなものを含めると50以上の説があるらしい。まあ謎が解けないから歴史は面白い。
それでこのレジェンド&バタフライで描かれているのは、
まったく新しい視点での光秀の動機である。
それは
魔王と恐れられた信長のカリスマ性と行動力に心酔していた光秀だったが、
この頃になると信長がボケて衰えてきたので、
こんなヤツに天下統一は無理と見切りを付けてクーデターを起こした!
との設定。
これはまったく斬新な発想。今までの歴史的見解では信長は死ぬまで絶対的な強者の存在であったから。おそらくそちらが事実だとしても、フィクションって面白いと思わせてくれたストーリーだった。
また「怨恨説」の根拠のひとつに饗応役解任事件と呼ばれるものがある。これは信長の同盟相手である家康が安土城を訪れる際に、光秀が饗応役(接待担当)を任されたものの、料理のために用意した魚が腐っていたのに信長が腹を立てたというもの。光秀は饗応役を解任され、中国地方で毛利と戦っていた秀吉の援軍として出陣を命じらる。それにより自尊心を傷つけられた彼が向かったのは秀吉の元ではなく本能寺ーーー
秀吉の援軍として出陣を命じられたのは史実だとして、魚が腐っていたから饗応役を解任されたかどうかは分かっていない。援軍を出さなければいけない事態のほうが家康を接待するより優先順位が高いと、優秀な軍事司令官だった光秀を起用した可能性もある。
というわけで家康を接待する場に解任された光秀はいないはずなのに、映画やドラマでは家康を招いた宴席で、信長が魚が腐っていると激怒して光秀をボコボコにする場面が好んで使われる。
それがこの映画では
ボケて衰えてきた信長を見くびって、会議の場で居眠りをする家臣がいる。
そんな緩んだ雰囲気を家康に悟られたら、
織田家は弱体化していると攻められるかも知れない。
そこで光秀は家康の前で失態を演じると信長に前もって打ち明ける。
つまり家康の目前で光秀をシバキ倒したのは、激怒した信長の恐ろしさを家康に見せつけるために光秀が仕組んで信長に演じさせた芝居!
いやあフィクションって素晴らしいと感心したわ。
このフィクションで難点があるとすれば信長が亡くなったのは47歳であること。
ボケ始めるにはちょっと早い。(なお年齢は数え年ではなく実年齢。以下、上杉謙信、武田信玄も同様)
ところで信長が好んで舞ったとされる能の一種の「敦盛」は
人間五十年
下天の内をくらぶれば、
夢幻のごとくなり。
との唄で始まる。
それを知ったかぶりして「当時の寿命は50歳くらい」なんていうと、
これは「人間の寿命が50年しなかい」ではなく、仏教で6階層ある天上界の
最も低いレベル(下天)でも寿命が920万年あるので、それと較べれば人間界の
50年なんてあっという間=夢幻のごとくなりとの意味。
と指摘されるからご注意を。
それでも920万年を100年でも1000年でもなく、50年と較べたのにはそれなりに意味があるはず。そして上杉謙信は48歳、武田信玄も51歳で亡くなっているから、50歳はひとつの区切りであって、信長もピークは過ぎていたのは確かだろう。もちろんボケていたかどうかは別問題。またボケるのは肉体的ピークは過ぎたのに、食糧事情や医療のおかげでやたら長生きする現代だからとの気もする。
それはさておき、47歳の信長を討ち取った光秀。彼の生涯の前半は記録がなく=生年月日も不明だから、その時に何歳だったかはよく分かっていない。通説としては信長より年上で55歳前後、あるいは65歳前後から70歳とされている。
後者だと当時としてかなりの高齢者だったことになる。
ということで、本能寺の変の新説その2は
「光秀がボケてクーデターを起こした」なんてのはどう?(^^ゞ