2023年10月
2023年10月31日
芝浦中央公園で秋バラ
先週、新橋まで出たついでに山手線で4つ先の品川まで。
駅から7〜8分ほどのところにある芝浦中央公園で秋バラを眺めてきた。
品川駅の港南口。
山手線の外側、東京湾方向の出入り口である。
駅から真っ直ぐ延びる位置にある飲食店街。
昔は港南口の賑わいと言えばこれくらいしかなく、
少し離れると港湾エリア独特のちょっと危ない雰囲気も感じられたものだが、
今ではすっかりオフィス街。
下の写真で正面にあるのが品川シーズンテラスというビル。
芝浦中央公園は成り立ちが他の公園とは少し違う。
航空写真でブルーの破線で囲ったのが東京都の芝浦水再生センター。東京都は水再生センターの呼称を使うけれど一般的な表現なら下水処理場。
その浄化槽の上にコンクリートで人工地盤を造成し、そこに公園を設けたもの。
公園はAからDの区画に分かれ、それぞれの開園時期は
A区画:1980年(昭和55年)
B区画:1980年(昭和55年)
C区画:1988年(昭和63年)
D区画:2015年(平成27年)
あれ? 以前に横浜のアメリカ山公園を訪れたときに「立体都市公園」の話を書いた。公園はその地下に施設を作ったり(例えば駐車場)、あるいは建物や人工地盤の上に設置するのは禁止されていた。それが2004年の都市公園法改正で可能となり、そうして造られたのが立体都市公園。アメリカ山公園以外には渋谷の宮下公園、首都高速大橋ジャンクション上の目黒天空庭園などがある。
しかし芝浦中央公園はD区画を除けば2004年より以前に造られているじゃないか。都市公園法の対象外なのか。いやこの公園は港区立で、自治体が整備する公園はすべて都市公園に含まれるはず。条例で対応した? 法律に反する条例なんて作れない。少し調べてみたもののどうしてこの公園が設置可能になったのかは分からなかった。名称はともかく、ひょっとしたら日本初の立体都市公園なのかも知れない。
ところで航空写真はGoogleマップの引用。撮影時期が少し古いようで2020年3月に開業したキラキラネームが眩しい高輪(たかなわ)ゲートウェイ駅がまだ工事中。駅の周りで更地になっているのは、JRの車両センター(駐車場&整備工場みたいなもの)があった場所。面積は約13ヘクタール(参考までに六本木ヒルズ全体が11.6ヘクタール)。
ここを高層ビル4棟その他で再開発を行い、そのエリアの便を図るために、山手線では49年ぶりの新駅として設けられたのが高輪ゲートウェイ駅。エリア全体は2025年くらいに完成するらしい。
それにしても品川駅と高輪ゲートウェイ駅がすぐ近くに見える。両駅の距離は900m。もっとも山手線の駅間距離の平均は1150mだからビックリするほどでもない。山手線には30駅あって、駅間距離が900mより短い区間は7つもある。最短は日暮里駅〜西日暮里駅間の500m。逆に最長は大崎駅〜品川駅間の2000m。実は高輪ゲートウェイ駅ができるまでは、その両隣にある品川駅〜田町駅間が2200mで最長だった。
さて先ほど紹介した品川シーズンテラスの横に回ると、芝浦中央公園につながる階段が現れる。道路側からの写真は撮り忘れたが、この公園は「立体都市公園」なので道路を歩いていても、そこに公園があるとは気付きにくい。看板も地味で目立たない。
ここが出入り口。
中に入って回れ左をするとこのような風景。
遠くに東京タワーも見える。
左側を見上げると高輪ゲートウェイエリアの再開発工事。
奥に進むにつれて、
先ほどより明るくなっているのが分かる?
それは空が晴れてきたからではなく、
背後にある品川シーズンテラスが作る影から抜けたから(^^ゞ 左がタワー棟で右がアネックス棟。このビルも浄化槽を覆って造られた人口地盤の上に建っている。
奥の左側にバラが見えてきた。
春バラと較べて秋バラは花数が少ない。
だから規模の小さなバラ園だとスカスカでガッカリすることも多い。
でもここはまずまずのボリューム。
残念ながらアーチはほとんど葉っぱだった。
これで全景の3/5くらい。
写真奥を左に曲がったところにも続いている。2つ前の写真がそれ。
これだけ引いて撮るとポツンポツンな感じになるのは仕方ないね。
ピンクのバラが多かった。
今回はピンクばかりをアップで。
バラの形と香りの種類の解説。
できるだけ密集感を出したいのに、
望遠レンズの倍率が低いから上手く撮れないと、機材のせいにする(^^ゞ
芝浦中央公園の総面積は約4.6ヘクタール。ただし航空写真で離れた場所にあるのはテニスコートやフットサルなどのグラウンドで約1.5ヘクターを占める。それを差し引いても約3ヘクタールあるからソコソコの広さ。ただしバラが植えられているのはそのごく一画に過ぎない。
だからあまり期待していなかったのだけれど、どうしてなかなかの咲きっぷり。駅近の区立公園レベルとしては充分に見応えはあったし、これなら花数の多い春バラは相当に期待できる。
ーーー続く
駅から7〜8分ほどのところにある芝浦中央公園で秋バラを眺めてきた。
品川駅の港南口。
山手線の外側、東京湾方向の出入り口である。
駅から真っ直ぐ延びる位置にある飲食店街。
昔は港南口の賑わいと言えばこれくらいしかなく、
少し離れると港湾エリア独特のちょっと危ない雰囲気も感じられたものだが、
今ではすっかりオフィス街。
下の写真で正面にあるのが品川シーズンテラスというビル。
芝浦中央公園は成り立ちが他の公園とは少し違う。
航空写真でブルーの破線で囲ったのが東京都の芝浦水再生センター。東京都は水再生センターの呼称を使うけれど一般的な表現なら下水処理場。
その浄化槽の上にコンクリートで人工地盤を造成し、そこに公園を設けたもの。
公園はAからDの区画に分かれ、それぞれの開園時期は
A区画:1980年(昭和55年)
B区画:1980年(昭和55年)
C区画:1988年(昭和63年)
D区画:2015年(平成27年)
あれ? 以前に横浜のアメリカ山公園を訪れたときに「立体都市公園」の話を書いた。公園はその地下に施設を作ったり(例えば駐車場)、あるいは建物や人工地盤の上に設置するのは禁止されていた。それが2004年の都市公園法改正で可能となり、そうして造られたのが立体都市公園。アメリカ山公園以外には渋谷の宮下公園、首都高速大橋ジャンクション上の目黒天空庭園などがある。
しかし芝浦中央公園はD区画を除けば2004年より以前に造られているじゃないか。都市公園法の対象外なのか。いやこの公園は港区立で、自治体が整備する公園はすべて都市公園に含まれるはず。条例で対応した? 法律に反する条例なんて作れない。少し調べてみたもののどうしてこの公園が設置可能になったのかは分からなかった。名称はともかく、ひょっとしたら日本初の立体都市公園なのかも知れない。
ところで航空写真はGoogleマップの引用。撮影時期が少し古いようで2020年3月に開業したキラキラネームが眩しい高輪(たかなわ)ゲートウェイ駅がまだ工事中。駅の周りで更地になっているのは、JRの車両センター(駐車場&整備工場みたいなもの)があった場所。面積は約13ヘクタール(参考までに六本木ヒルズ全体が11.6ヘクタール)。
ここを高層ビル4棟その他で再開発を行い、そのエリアの便を図るために、山手線では49年ぶりの新駅として設けられたのが高輪ゲートウェイ駅。エリア全体は2025年くらいに完成するらしい。
それにしても品川駅と高輪ゲートウェイ駅がすぐ近くに見える。両駅の距離は900m。もっとも山手線の駅間距離の平均は1150mだからビックリするほどでもない。山手線には30駅あって、駅間距離が900mより短い区間は7つもある。最短は日暮里駅〜西日暮里駅間の500m。逆に最長は大崎駅〜品川駅間の2000m。実は高輪ゲートウェイ駅ができるまでは、その両隣にある品川駅〜田町駅間が2200mで最長だった。
さて先ほど紹介した品川シーズンテラスの横に回ると、芝浦中央公園につながる階段が現れる。道路側からの写真は撮り忘れたが、この公園は「立体都市公園」なので道路を歩いていても、そこに公園があるとは気付きにくい。看板も地味で目立たない。
ここが出入り口。
中に入って回れ左をするとこのような風景。
遠くに東京タワーも見える。
左側を見上げると高輪ゲートウェイエリアの再開発工事。
奥に進むにつれて、
先ほどより明るくなっているのが分かる?
それは空が晴れてきたからではなく、
背後にある品川シーズンテラスが作る影から抜けたから(^^ゞ 左がタワー棟で右がアネックス棟。このビルも浄化槽を覆って造られた人口地盤の上に建っている。
奥の左側にバラが見えてきた。
春バラと較べて秋バラは花数が少ない。
だから規模の小さなバラ園だとスカスカでガッカリすることも多い。
でもここはまずまずのボリューム。
残念ながらアーチはほとんど葉っぱだった。
これで全景の3/5くらい。
写真奥を左に曲がったところにも続いている。2つ前の写真がそれ。
これだけ引いて撮るとポツンポツンな感じになるのは仕方ないね。
ピンクのバラが多かった。
今回はピンクばかりをアップで。
バラの形と香りの種類の解説。
できるだけ密集感を出したいのに、
望遠レンズの倍率が低いから上手く撮れないと、機材のせいにする(^^ゞ
芝浦中央公園の総面積は約4.6ヘクタール。ただし航空写真で離れた場所にあるのはテニスコートやフットサルなどのグラウンドで約1.5ヘクターを占める。それを差し引いても約3ヘクタールあるからソコソコの広さ。ただしバラが植えられているのはそのごく一画に過ぎない。
だからあまり期待していなかったのだけれど、どうしてなかなかの咲きっぷり。駅近の区立公園レベルとしては充分に見応えはあったし、これなら花数の多い春バラは相当に期待できる。
ーーー続く
2023年10月29日
玉川上水緑道のキンモクセイ並木
10月21日に代々木公園〜渋谷はるのおがわプレーパークと巡った話の最終回。
いよいよメインディッシュの玉川上水緑道へ。
緑道(りょくどう)とは
市街地を中心に設けられた歩行路あるいは自転車路。
ただし法律的には道路ではなく公園扱い。
だから緑の道。
小さな河川沿い、あるいはそれににフタをして地下水路にした暗渠(あんきょ)、
鉄道の廃線跡または高架化や地下化で生じたスペース、
高圧電線の下
などに作られていることが多い。
これは私の住んでいるエリアでは断トツに美しく整備されている目黒川緑道。
桜で有名な目黒川の上流部分。
ほとんど普通の路地と変わらない緑道も多いけれど散歩道としてはよく利用する。クルマが通らないから静かだし、ボーッと歩いていても轢かれる心配がない(^^ゞ
そして玉川上水とは、江戸時代に多摩川の水を江戸の中心部まで引き込んだ水路。最初は飲料水用=上水道だったので上水。多摩川ではなく玉川なのは、江戸時代までは玉川と書かれることも多かったから。
どうも当時は玉=美しいものとのイメージがあって好まれたようだ。現在も二子玉川などの地名は残っているし、東急田園都市線も2000年まではその一部区間は新玉川線の名称だった(さらに遡れば路面電車の玉川電鉄)。今なら「玉川と多摩川」では多摩川のほうが字面的にイケてる感じ。時代によって何事も捉え方は変わってくるもの。
なおこの水路工事を請け負ったのは玉川庄右衛門&清右衛門の玉川兄弟で銅像も建っている。ただし彼らの名前を取っての玉川上水ではない。この兄弟は農民あるいは町民だったようで、上水道引き込みを完成させた功績で玉川姓を与えられた。
多摩川の源流は奥多摩湖から北西に20キロほど離れた笠取山。それが東に流れて奥多摩湖に注ぐ。その奥多摩湖から流れ出す川が多摩川と呼ばれる。
この地図はGoogleマップにあった誰かが作成公開してくれた(感謝)玉川上水の経路図に、私が多摩川の経路その他を書き加えたもの。玉川上水は羽村というところに堰(せき)を設けて取水し、現在の新宿区四谷にあった「水番所」まで引き込んだ。全長約43キロ。完成は1653年(江戸時代は1603年から)。工事期間は8ヶ月と意外と短い。
関係ないけれど多摩川の全長は138キロ。地図に線を引いてみると玉川上水の3倍以上も長いようには見えないのだがーーー
羽村から四谷までは露天掘りで、水番所から先は木樋や石樋を用いた地下水道で江戸市中に分水したとされる。ところで玉川上水は言ってみれば川の水。江戸時代の人はそれをどうやって飲んでいたのだろう。しばらく瓶(かめ)にでも溜めて砂やゴミを沈殿させてから、上澄みを沸騰消毒でもしたのかな? そのうち調べましょう。
現在でも玉川上水を流れる水の一部は、パイプで東村山浄水場(東村山市)に送水され、羽村より上流の多摩川で取水された水も含めて、東京の上水道の2割弱をまかなっている。
さて渋谷はるのおがわプレーパークを出てキンモクセイ並木に向かう。
踏切は小田急線。
位置関係はこんな感じ。直線的にも移動できるが、玉川上水緑道は初めてなので初台まで行って緑道を歩くことにした。距離は2〜3キロ程度。
適当に代々木の住宅街を歩く。
右の急な坂は代々木八幡宮に通じている。着物姿の女の子が降りてきたのは七五三かな。本来の七五三参りは11月15日前後とされるものの、その時期は神社が混むので「秋のうちに」となってきていると聞く。
ここを歩いているときに嗅覚のキンモクセイセンサーが反応した!
なかなか見事な植え込みじゃないか。
さすが高級住宅街。
満開状態だった。
どうして代々木公園や渋谷はるのおがわプレーパークでは終わっていたのだろう。
山手通りに出た。
前方の道路案内標識があるところが初台の交差点。
交差点の手前50メートルほどのところに玉川上水緑道の入口。
特に何の変哲もない緑道。ただ両サイドも含めて道幅は広い。
玉川上水は羽村から分岐して立川市〜小金井市〜三鷹市の区間は開渠(暗渠の反対語)として地表を流れ、杉並区久我山から暗渠になる。ただし現在、立川市の途中から流れているのは多摩川の水ではなく浄化処理された下水。東京の緑道を流れている水のほとんどはそんな下水のようだ。
初台駅前の商店街を横切る。
緑道を進むと両サイドにキンモクセイ。
だんだんと期待が高まる。
少し先は児童公園のようになっていた。
そこにあったトンネル遊びをする遊具。
写真では分かりにくいが光が透過している。形も曲がりくねっているから材質は樹脂に間違いない。でも手触りがまるで石みたいだった。
画像検索していくつかの公園に似たものが設置されているのを見つけたものの、この遊具の名前、製造メーカーは分からず。当然ながら材質が何かも不明。ちょっと気になっている。
もうすぐ目的地。
到着!
これが玉川上水緑道のキンモクセイ並木\(^o^)/
長さは70〜80mといったところ。
ちょっと散りかけ気味。
そしてほとんど片側しか咲いていない。
キンモクセイの花は小さいし、見た目も特に興味を引かない。
つまりバエない。
あくまで香りを楽しむのがキンモクセイ。
既に開花後期で香りや弱くなっていたとはいえ、
80mの並木と数が多いのでキンモクセイの香りを満喫できた。
所在地を端的に書くと甲州街道の本町一丁目交差点あたり。
この付近で玉川上水緑道は甲州街道と隣接して平行に走っている。
甲州街道とは国道20号線。東京と山梨を経由して長野を結ぶ幹線道路。
なのでこのキンモクセイ並木はクルマの騒音がうるさいのが難点(/o\)
少し離れた場所からの写真。
できたら次は開花真っ盛りで、両側のキンモクセイが咲いているときに来たいもの。
もう少し玉川上水緑道を散歩。
10月下旬なのに何とアジサイが咲いていた!
秋色アジサイといってアジサイの花が散らずに退色してドライフラワーのようになったものがある。しかしこれはフレッシュに咲いているアジサイ。秋に咲く品種なのか、今年の夏が長く暑かったので勘違いしてまた咲いたのか? ナゾ
これは白いモクセイ=ギンモクセイ。あまり見かけない気がする。というよりキンモクセイのように香らないので気がつかないのかも。鼻を近づけるとキンモクセイに似た香りがかすかにする。
さらに進んで、幡ヶ谷駅前の商店街を横切る。
この後も散歩を続けた。
でも緑道の風景はずっと同じなので写真は撮らず。
代々木公園と渋谷はるのおがわプレーパークではダメだったものの、
最初に書いた
「さて今年もキンモクセイの香りを楽しんだ。でもそれはどこからとなく
漂ってくる香り。もっとダイレクトに、そしてたくさんのキンモクセイの
ある場所でクンクンしたくなる」
との目的は果たせたので満足の1日。
おしまい
いよいよメインディッシュの玉川上水緑道へ。
緑道(りょくどう)とは
市街地を中心に設けられた歩行路あるいは自転車路。
ただし法律的には道路ではなく公園扱い。
だから緑の道。
小さな河川沿い、あるいはそれににフタをして地下水路にした暗渠(あんきょ)、
鉄道の廃線跡または高架化や地下化で生じたスペース、
高圧電線の下
などに作られていることが多い。
これは私の住んでいるエリアでは断トツに美しく整備されている目黒川緑道。
桜で有名な目黒川の上流部分。
ほとんど普通の路地と変わらない緑道も多いけれど散歩道としてはよく利用する。クルマが通らないから静かだし、ボーッと歩いていても轢かれる心配がない(^^ゞ
そして玉川上水とは、江戸時代に多摩川の水を江戸の中心部まで引き込んだ水路。最初は飲料水用=上水道だったので上水。多摩川ではなく玉川なのは、江戸時代までは玉川と書かれることも多かったから。
どうも当時は玉=美しいものとのイメージがあって好まれたようだ。現在も二子玉川などの地名は残っているし、東急田園都市線も2000年まではその一部区間は新玉川線の名称だった(さらに遡れば路面電車の玉川電鉄)。今なら「玉川と多摩川」では多摩川のほうが字面的にイケてる感じ。時代によって何事も捉え方は変わってくるもの。
なおこの水路工事を請け負ったのは玉川庄右衛門&清右衛門の玉川兄弟で銅像も建っている。ただし彼らの名前を取っての玉川上水ではない。この兄弟は農民あるいは町民だったようで、上水道引き込みを完成させた功績で玉川姓を与えられた。
多摩川の源流は奥多摩湖から北西に20キロほど離れた笠取山。それが東に流れて奥多摩湖に注ぐ。その奥多摩湖から流れ出す川が多摩川と呼ばれる。
この地図はGoogleマップにあった誰かが作成公開してくれた(感謝)玉川上水の経路図に、私が多摩川の経路その他を書き加えたもの。玉川上水は羽村というところに堰(せき)を設けて取水し、現在の新宿区四谷にあった「水番所」まで引き込んだ。全長約43キロ。完成は1653年(江戸時代は1603年から)。工事期間は8ヶ月と意外と短い。
関係ないけれど多摩川の全長は138キロ。地図に線を引いてみると玉川上水の3倍以上も長いようには見えないのだがーーー
羽村から四谷までは露天掘りで、水番所から先は木樋や石樋を用いた地下水道で江戸市中に分水したとされる。ところで玉川上水は言ってみれば川の水。江戸時代の人はそれをどうやって飲んでいたのだろう。しばらく瓶(かめ)にでも溜めて砂やゴミを沈殿させてから、上澄みを沸騰消毒でもしたのかな? そのうち調べましょう。
現在でも玉川上水を流れる水の一部は、パイプで東村山浄水場(東村山市)に送水され、羽村より上流の多摩川で取水された水も含めて、東京の上水道の2割弱をまかなっている。
さて渋谷はるのおがわプレーパークを出てキンモクセイ並木に向かう。
踏切は小田急線。
位置関係はこんな感じ。直線的にも移動できるが、玉川上水緑道は初めてなので初台まで行って緑道を歩くことにした。距離は2〜3キロ程度。
適当に代々木の住宅街を歩く。
右の急な坂は代々木八幡宮に通じている。着物姿の女の子が降りてきたのは七五三かな。本来の七五三参りは11月15日前後とされるものの、その時期は神社が混むので「秋のうちに」となってきていると聞く。
ここを歩いているときに嗅覚のキンモクセイセンサーが反応した!
なかなか見事な植え込みじゃないか。
さすが高級住宅街。
満開状態だった。
どうして代々木公園や渋谷はるのおがわプレーパークでは終わっていたのだろう。
山手通りに出た。
前方の道路案内標識があるところが初台の交差点。
交差点の手前50メートルほどのところに玉川上水緑道の入口。
特に何の変哲もない緑道。ただ両サイドも含めて道幅は広い。
玉川上水は羽村から分岐して立川市〜小金井市〜三鷹市の区間は開渠(暗渠の反対語)として地表を流れ、杉並区久我山から暗渠になる。ただし現在、立川市の途中から流れているのは多摩川の水ではなく浄化処理された下水。東京の緑道を流れている水のほとんどはそんな下水のようだ。
初台駅前の商店街を横切る。
緑道を進むと両サイドにキンモクセイ。
だんだんと期待が高まる。
少し先は児童公園のようになっていた。
そこにあったトンネル遊びをする遊具。
写真では分かりにくいが光が透過している。形も曲がりくねっているから材質は樹脂に間違いない。でも手触りがまるで石みたいだった。
画像検索していくつかの公園に似たものが設置されているのを見つけたものの、この遊具の名前、製造メーカーは分からず。当然ながら材質が何かも不明。ちょっと気になっている。
もうすぐ目的地。
到着!
これが玉川上水緑道のキンモクセイ並木\(^o^)/
長さは70〜80mといったところ。
ちょっと散りかけ気味。
そしてほとんど片側しか咲いていない。
キンモクセイの花は小さいし、見た目も特に興味を引かない。
つまりバエない。
あくまで香りを楽しむのがキンモクセイ。
既に開花後期で香りや弱くなっていたとはいえ、
80mの並木と数が多いのでキンモクセイの香りを満喫できた。
所在地を端的に書くと甲州街道の本町一丁目交差点あたり。
この付近で玉川上水緑道は甲州街道と隣接して平行に走っている。
甲州街道とは国道20号線。東京と山梨を経由して長野を結ぶ幹線道路。
なのでこのキンモクセイ並木はクルマの騒音がうるさいのが難点(/o\)
少し離れた場所からの写真。
できたら次は開花真っ盛りで、両側のキンモクセイが咲いているときに来たいもの。
もう少し玉川上水緑道を散歩。
10月下旬なのに何とアジサイが咲いていた!
秋色アジサイといってアジサイの花が散らずに退色してドライフラワーのようになったものがある。しかしこれはフレッシュに咲いているアジサイ。秋に咲く品種なのか、今年の夏が長く暑かったので勘違いしてまた咲いたのか? ナゾ
これは白いモクセイ=ギンモクセイ。あまり見かけない気がする。というよりキンモクセイのように香らないので気がつかないのかも。鼻を近づけるとキンモクセイに似た香りがかすかにする。
さらに進んで、幡ヶ谷駅前の商店街を横切る。
この後も散歩を続けた。
でも緑道の風景はずっと同じなので写真は撮らず。
代々木公園と渋谷はるのおがわプレーパークではダメだったものの、
最初に書いた
「さて今年もキンモクセイの香りを楽しんだ。でもそれはどこからとなく
漂ってくる香り。もっとダイレクトに、そしてたくさんのキンモクセイの
ある場所でクンクンしたくなる」
との目的は果たせたので満足の1日。
おしまい
2023年10月27日
渋谷はるのおがわプレーパーク
前2回に引き続き、
10月21日にキンモクセイを思い切りクンクンしたかった話の中盤編。
代々木公園でちょっとショボかった秋バラ→不思議な人々→噴水→日本航空發始之地の石碑と見て、ブルーシートテント村のそばを通った後は西門から退出。この日は原宿門から入って園内を半周ほどした計算。
代々木公園の西隣には代々木深町小公園と、渋谷はるのおがわプレーパークと呼ばれる小さな公園がある。参考までに面積は
代々木公園:54ヘクタール
代々木深町小公園:隣接のグランドを含めて0.52ヘクタール
単独だとその半分の0.25ヘクタールくらいと思う。
渋谷はるのおがわプレーパーク:隣接のグランドを含めて0.49ヘクタール。
単独だとその半分の0.25ヘクタールくらいと思う。
どうして広大な代々木公園から道路を隔てただけの隣に、2つを足してもその1/100に満たない面積の公園が必要なのかよく分からないが、
代々木公園は東京都立で、2つの公園は渋谷区立。
代々木公園は広すぎて日常的な利用には不便。
(出入り口から芝生広場までだけで、それぞれの公園を端から端まで
歩く以上の距離がある)
代々木公園は児童公園でないのでブランコなど子供向けの遊具がない。
などが理由だろうか。
なお代々木深町小公園と、渋谷はるのおがわプレーパークの前身となる旧代々木小公園の開園は1977年(昭和52年)と同じ。これは1967年(昭和42年)開園の代々木公園の10年後である。ところで、代々木小公園は代々木公園と区別するために「小」が必要だったとして、代々木深町にも「小公園」と名付けたのは代々木公園の広さに引け目を感じたから?
ついでに書くと代々木深町小公園と、渋谷はるのおがわプレーパークは50mほどしか離れていない。代々木公園の存在は抜きにしても、どうして区立公園を同じ場所に2つ作るのかも不思議。渋谷区のホームページを見ると、どうやらその50mの間に境界線があるようで、同じ渋谷区でも代々木深町小公園は「上原地区」、渋谷はるのおがわプレーパークは「初台地区」に分類されている。何となく役所の論理が匂ってくるようなーーー
まっ、それはともかく西門を出て道路を渡って公園を目指す。右が代々木公園、左前方の木々が渋谷はるのおがわプレーパーク。
イチョウがまるで新緑のようなキミドリ色できれい。
あっという間に到着。
西門から渋谷はるのおがわプレーパーク入口まで100メートルほど。
この日(10月21日)は
たくさんのキンモクセイをクンクンしたい。
でも既に微妙な時期。
10月19日に日比谷公園でキンモクセイが見頃との情報!
今年の9月は暑かったから、まだ大丈夫なのかと考える。
日比谷公園ではなく、以前に聞いていた渋谷はるのおがわプレーパークと、
玉川上水緑道の初台あたりのキンモクセイを嗅ぎに行くことにする。
渋谷はるのおがわプレーパークは代々木公園の隣だから、代々木公園をまず散策。
広い公園だからキンモクセイもあるはず(咲いているとの意味)。
しかし代々木公園ではキンモクセイを見つけられず←今ココ!
後で調べたら代々木公園では10月10日頃に終わっていたと知る。
という流れ。実は代々木公園でキンモクセイが咲いていなかった時点で、すぐ隣の渋谷はるのおがわプレーパークについても諦めていた。ほとんど地理的・気象的な条件は一緒だから。
案の定、渋谷はるのおがわプレーパークに
キンモクセイのキの字もなし(/o\)
いや、本日のメインはこの後に訪れる玉川上水緑道だからと自分を励ます(^^ゞ
さて園内に入り、一番南から北を眺めたところ。
ここに写っている範囲でほぼ全体。
土曜の午後だからか子供より大人のほうが多かった。
管理小屋のようなもの。
プレーパークはこういう手作り風なものが多い。
なおプレーパークって何?については後日別途に書く予定。
注意書き。
ハチはともかくタケノホソクロバなる毛虫は、ここにいるなら代々木公園にもいるだろう。こんな注意書きはなかったけれど。
園内の一番北から南を。
プレーパークはドロンコ遊びができるようにしてあるところが多い。
ここの水源は水道みたい(^^ゞ
こういうのを子供と一緒に作ったりするのもプレーパークの特徴。
意味もなく木を見上げる。
視線を地面に落としたらドングリがあった。
色づき始めた葉っぱがキレイだなと眺めていたら、
ピンクの花が咲いているのを見つける。
場所とタイトルを変えてーーー続く
10月21日にキンモクセイを思い切りクンクンしたかった話の中盤編。
代々木公園でちょっとショボかった秋バラ→不思議な人々→噴水→日本航空發始之地の石碑と見て、ブルーシートテント村のそばを通った後は西門から退出。この日は原宿門から入って園内を半周ほどした計算。
代々木公園の西隣には代々木深町小公園と、渋谷はるのおがわプレーパークと呼ばれる小さな公園がある。参考までに面積は
代々木公園:54ヘクタール
代々木深町小公園:隣接のグランドを含めて0.52ヘクタール
単独だとその半分の0.25ヘクタールくらいと思う。
渋谷はるのおがわプレーパーク:隣接のグランドを含めて0.49ヘクタール。
単独だとその半分の0.25ヘクタールくらいと思う。
どうして広大な代々木公園から道路を隔てただけの隣に、2つを足してもその1/100に満たない面積の公園が必要なのかよく分からないが、
代々木公園は東京都立で、2つの公園は渋谷区立。
代々木公園は広すぎて日常的な利用には不便。
(出入り口から芝生広場までだけで、それぞれの公園を端から端まで
歩く以上の距離がある)
代々木公園は児童公園でないのでブランコなど子供向けの遊具がない。
などが理由だろうか。
なお代々木深町小公園と、渋谷はるのおがわプレーパークの前身となる旧代々木小公園の開園は1977年(昭和52年)と同じ。これは1967年(昭和42年)開園の代々木公園の10年後である。ところで、代々木小公園は代々木公園と区別するために「小」が必要だったとして、代々木深町にも「小公園」と名付けたのは代々木公園の広さに引け目を感じたから?
ついでに書くと代々木深町小公園と、渋谷はるのおがわプレーパークは50mほどしか離れていない。代々木公園の存在は抜きにしても、どうして区立公園を同じ場所に2つ作るのかも不思議。渋谷区のホームページを見ると、どうやらその50mの間に境界線があるようで、同じ渋谷区でも代々木深町小公園は「上原地区」、渋谷はるのおがわプレーパークは「初台地区」に分類されている。何となく役所の論理が匂ってくるようなーーー
まっ、それはともかく西門を出て道路を渡って公園を目指す。右が代々木公園、左前方の木々が渋谷はるのおがわプレーパーク。
イチョウがまるで新緑のようなキミドリ色できれい。
あっという間に到着。
西門から渋谷はるのおがわプレーパーク入口まで100メートルほど。
この日(10月21日)は
たくさんのキンモクセイをクンクンしたい。
でも既に微妙な時期。
10月19日に日比谷公園でキンモクセイが見頃との情報!
今年の9月は暑かったから、まだ大丈夫なのかと考える。
日比谷公園ではなく、以前に聞いていた渋谷はるのおがわプレーパークと、
玉川上水緑道の初台あたりのキンモクセイを嗅ぎに行くことにする。
渋谷はるのおがわプレーパークは代々木公園の隣だから、代々木公園をまず散策。
広い公園だからキンモクセイもあるはず(咲いているとの意味)。
しかし代々木公園ではキンモクセイを見つけられず←今ココ!
後で調べたら代々木公園では10月10日頃に終わっていたと知る。
という流れ。実は代々木公園でキンモクセイが咲いていなかった時点で、すぐ隣の渋谷はるのおがわプレーパークについても諦めていた。ほとんど地理的・気象的な条件は一緒だから。
案の定、渋谷はるのおがわプレーパークに
キンモクセイのキの字もなし(/o\)
いや、本日のメインはこの後に訪れる玉川上水緑道だからと自分を励ます(^^ゞ
さて園内に入り、一番南から北を眺めたところ。
ここに写っている範囲でほぼ全体。
土曜の午後だからか子供より大人のほうが多かった。
管理小屋のようなもの。
プレーパークはこういう手作り風なものが多い。
なおプレーパークって何?については後日別途に書く予定。
注意書き。
ハチはともかくタケノホソクロバなる毛虫は、ここにいるなら代々木公園にもいるだろう。こんな注意書きはなかったけれど。
園内の一番北から南を。
プレーパークはドロンコ遊びができるようにしてあるところが多い。
ここの水源は水道みたい(^^ゞ
こういうのを子供と一緒に作ったりするのもプレーパークの特徴。
意味もなく木を見上げる。
視線を地面に落としたらドングリがあった。
色づき始めた葉っぱがキレイだなと眺めていたら、
ピンクの花が咲いているのを見つける。
場所とタイトルを変えてーーー続く
2023年10月23日
ついでに秋バラが少しだけ咲いていた代々木公園 その2
前回に載せた全体写真はあまりに殺風景だったので、秘密の第2バラ園?であるフラワーランドで少しは賑やかだった場所も紹介しておく。見応えがないのに変わりはないが。
周りのバラ以外の花。まずは紫系統。
品種表示はされていたかどうか忘れた。いずれにしても見ていない。
とても小さな花でピント合わせに手こずった。
いかにもハーブな植物。肉眼では微妙に色が違っていてキレイだった。
パンパスグラス。
手っ取り早く表現するなら西洋ススキ。ただしススキはイネ科ススキ属なのに対して、パンパスグラスは同じイネ科でもシロガネヨシ属なので、かなり遠い親戚みたいなもの。和名はシロガネヨシ。南米原産でパンパス pampas は大草原や平原の意味。グラス grass は草。紙おむつのパンパースは pamper =甘やかす、満足させるからの造語だから関係ないよ。
フラワーランドから離れて芝生広場(名称は中央広場)の中を歩く。
代々木公園が素晴らしいのはこの芝生の圧倒的な広さ。自宅近くの駒沢公園も代々木公園の54ヘクタール(都内6位)に対して、41ヘクタール(都内8位)とはいえ相当に広いけれど、芝生広場がないのが残念。
ところで公園の総面積は簡単に調べられるのに、広場の面積についての情報がない。誰か調べてネットに載せて欲しいもの。
芝生広場では人々が思いのままに過ごしている。中にはラクロスでのキャッチボールなんて普段はあまり見ないものや、まったく初めて見るスポーツをしている人もいる。ところでラクロスは1990年前後(だったと思う)にブームがあって、当時はラクロスのラケットを抱えた女子大生が街中にたくさんいた。最近は滅多に見ないね。考えてみたらラクロスの試合を観たこともないし、どんなルールなのかもよく知らない。
中には、この人達は何者?と思う集団も芝生広場にはいる。
生ギター1本の演奏を前に、中年のオッサン・オバハン100名くらいがノリノリで頭の上で手を叩いたりしていた。念のため写真にはモザイク。
こちらは何かの訓練なのだろうか。人が作ったアーチの下をほふく前進でくぐるのを繰り返している。それにしてもどうしてリュックを付けたままで? 服装の色も似通っていて、リュックに付けた黄色の蛍光反射テープがお揃い。
芝生広場の一角にある噴水池。
補修中なのか池の周りがオレンジのネットで囲まれていてヘンな雰囲気。
噴水があれば必ず高速シャッタースピードでの撮影がお約束。池の中にある噴水まで距離があってズームレンズの望遠側一杯で撮ったので、あまり静止したようにはならなかった。
池にいたカモ。
もう1本の噴水を黄色い花越しに。
これは噴水池の先、芝生広場を出たところにある噴水ベンチ通り。
噴水といっても水がチョロチョロ出ているだけ。これでマックスかどうかは分からないが、あまり吹き出したら周りのベンチに水しぶきがかかるから、噴水というよりはちょっとした水のアクセント。
噴水ベンチ通りは前回に紹介したメインのバラエリアに続いている。
再び周回路に戻り、出口となる西門を目指す。
何やら石碑が見えたので、
周回路からそれて近づいてみると「日本航空發始之地」の文字。
ここはJAL創業の地ではなく、陸軍の練兵場だった時代に日本で初めて(有人で動力付きの)飛行機が飛び立った場所。發始は今の漢字に直せば発始で「はっし」と読むようだが辞書には載っていない単語。意味的には 発祥と同じと考えられるが、実は「航空発祥の地」と名乗る場所は別にある(埼玉県所沢市)。
いわば本家と元祖争いのようなもの。しかし
代々木:初飛行1910年(明治43年):記念碑設置:1974年(昭和49年)
所沢:初飛行1911年(明治44年):記念碑設置:2000年(平成12年)
と代々木のほうが初飛行は早いし、記念碑の設置は26年も前である。所沢に先に「発祥の地」記念碑を設置されたらまだ分かるとして、なぜ発始という造語なのかがナゾ。記念碑はなくても所沢が先に「発祥の地」とPRしたのかな。
石碑に彫られている鳥の顔をアップで(^^ゞ
解説プレート。ライト兄弟が人類初の飛行に成功したのが1903年なので、そのわずか7年後に日本でも飛行機が飛んだことになる。
解説にあるアンリ・フォルマン式複葉機。
こちらがグラーデ式単葉機。
初飛行に成功したお二人。
右が徳川好敏(よしとし)で、左が日野熊蔵。
なぜか徳川好敏は飛行服姿で、日野熊蔵はスーツにネクタイ。徳川好敏はその名が示すように徳川家の血筋。しかも御三家に次ぐ格式である御三卿・清水徳川家の当主。本当は解説プレートにある12月19日の4日前に日野熊蔵が日本初の飛行に成功したとの説もある。しかしソンタクがあったのかどうか19日の飛行会で先に飛んだ徳川好敏が「日本初飛行」とされている。最終的に陸軍中将まで昇進。初飛行当時は23歳。
日野熊蔵は熊本出身。日野式自動拳銃を開発したり、失敗に終わったもののヘリコプター、ジャット戦闘機、ロケットの開発に携わるなど発明家やエンジニアとしての顔を持つ。最終階級は陸軍歩兵中佐。初飛行当時は32歳。
操縦席に収まった写真。並びは銅像と同じ。
なお所沢で「初飛行」したのもこのコンビ。
初期の飛行機ってこんなのだったんだね。
彼らにトップガンの映画を見せてあげたい(^^ゞ
記念碑を離れて西門に向かう。
これは周回路の外側の細い通路で道が二手に分かれていた。
その場所にあったなかなかのマツ。
マツが常緑樹だとよく分かる写真。
そして二手に分かれた左側を進むと現れる光景。
白いテントを最初は園芸用の資材置き場か何かかと思ったが、
どうやらこのあたりはホームレスのテント村のようだ。
通路から見える範囲で30近く。奥に入ればもっとあるかも知れない。
これだけの規模のものを見たのは初めてなのでけっこうビックリした。2020年の東京オリンピックが近づいた頃、公園のホームレスを占め出しなどのニュースがあったのは覚えている。しかし結局2021年の開催時に外国人観戦客はコロナで来なかったわけで、そういう措置も執られなかったのかな。あるいは再び集まってきたか。
なお人の気配はまったくなかった。時間は土曜日の午後1時過ぎ。このあたりは人通りも少なく、たまにランニングの人が走ってくる程度。
ところで以前、隅田川でホームレスが今風のアウトドア用品を使っているのを見たけれど、代々木公園は今でもトラディショナルなブルーシートなのだと、どうでもいい発見。
西門から代々木公園を退出。
キンモクセイはクンクンできずバラも見頃前だったものの、広い芝生空間を楽しめたし、いろいろ珍しい光景も眺められて面白かった。
場所とタイトルを変えてーーー続く
周りのバラ以外の花。まずは紫系統。
品種表示はされていたかどうか忘れた。いずれにしても見ていない。
とても小さな花でピント合わせに手こずった。
いかにもハーブな植物。肉眼では微妙に色が違っていてキレイだった。
パンパスグラス。
手っ取り早く表現するなら西洋ススキ。ただしススキはイネ科ススキ属なのに対して、パンパスグラスは同じイネ科でもシロガネヨシ属なので、かなり遠い親戚みたいなもの。和名はシロガネヨシ。南米原産でパンパス pampas は大草原や平原の意味。グラス grass は草。紙おむつのパンパースは pamper =甘やかす、満足させるからの造語だから関係ないよ。
フラワーランドから離れて芝生広場(名称は中央広場)の中を歩く。
代々木公園が素晴らしいのはこの芝生の圧倒的な広さ。自宅近くの駒沢公園も代々木公園の54ヘクタール(都内6位)に対して、41ヘクタール(都内8位)とはいえ相当に広いけれど、芝生広場がないのが残念。
ところで公園の総面積は簡単に調べられるのに、広場の面積についての情報がない。誰か調べてネットに載せて欲しいもの。
芝生広場では人々が思いのままに過ごしている。中にはラクロスでのキャッチボールなんて普段はあまり見ないものや、まったく初めて見るスポーツをしている人もいる。ところでラクロスは1990年前後(だったと思う)にブームがあって、当時はラクロスのラケットを抱えた女子大生が街中にたくさんいた。最近は滅多に見ないね。考えてみたらラクロスの試合を観たこともないし、どんなルールなのかもよく知らない。
中には、この人達は何者?と思う集団も芝生広場にはいる。
生ギター1本の演奏を前に、中年のオッサン・オバハン100名くらいがノリノリで頭の上で手を叩いたりしていた。念のため写真にはモザイク。
こちらは何かの訓練なのだろうか。人が作ったアーチの下をほふく前進でくぐるのを繰り返している。それにしてもどうしてリュックを付けたままで? 服装の色も似通っていて、リュックに付けた黄色の蛍光反射テープがお揃い。
芝生広場の一角にある噴水池。
補修中なのか池の周りがオレンジのネットで囲まれていてヘンな雰囲気。
噴水があれば必ず高速シャッタースピードでの撮影がお約束。池の中にある噴水まで距離があってズームレンズの望遠側一杯で撮ったので、あまり静止したようにはならなかった。
池にいたカモ。
もう1本の噴水を黄色い花越しに。
これは噴水池の先、芝生広場を出たところにある噴水ベンチ通り。
噴水といっても水がチョロチョロ出ているだけ。これでマックスかどうかは分からないが、あまり吹き出したら周りのベンチに水しぶきがかかるから、噴水というよりはちょっとした水のアクセント。
噴水ベンチ通りは前回に紹介したメインのバラエリアに続いている。
再び周回路に戻り、出口となる西門を目指す。
何やら石碑が見えたので、
周回路からそれて近づいてみると「日本航空發始之地」の文字。
ここはJAL創業の地ではなく、陸軍の練兵場だった時代に日本で初めて(有人で動力付きの)飛行機が飛び立った場所。發始は今の漢字に直せば発始で「はっし」と読むようだが辞書には載っていない単語。意味的には 発祥と同じと考えられるが、実は「航空発祥の地」と名乗る場所は別にある(埼玉県所沢市)。
いわば本家と元祖争いのようなもの。しかし
代々木:初飛行1910年(明治43年):記念碑設置:1974年(昭和49年)
所沢:初飛行1911年(明治44年):記念碑設置:2000年(平成12年)
と代々木のほうが初飛行は早いし、記念碑の設置は26年も前である。所沢に先に「発祥の地」記念碑を設置されたらまだ分かるとして、なぜ発始という造語なのかがナゾ。記念碑はなくても所沢が先に「発祥の地」とPRしたのかな。
石碑に彫られている鳥の顔をアップで(^^ゞ
解説プレート。ライト兄弟が人類初の飛行に成功したのが1903年なので、そのわずか7年後に日本でも飛行機が飛んだことになる。
解説にあるアンリ・フォルマン式複葉機。
こちらがグラーデ式単葉機。
初飛行に成功したお二人。
右が徳川好敏(よしとし)で、左が日野熊蔵。
なぜか徳川好敏は飛行服姿で、日野熊蔵はスーツにネクタイ。徳川好敏はその名が示すように徳川家の血筋。しかも御三家に次ぐ格式である御三卿・清水徳川家の当主。本当は解説プレートにある12月19日の4日前に日野熊蔵が日本初の飛行に成功したとの説もある。しかしソンタクがあったのかどうか19日の飛行会で先に飛んだ徳川好敏が「日本初飛行」とされている。最終的に陸軍中将まで昇進。初飛行当時は23歳。
日野熊蔵は熊本出身。日野式自動拳銃を開発したり、失敗に終わったもののヘリコプター、ジャット戦闘機、ロケットの開発に携わるなど発明家やエンジニアとしての顔を持つ。最終階級は陸軍歩兵中佐。初飛行当時は32歳。
操縦席に収まった写真。並びは銅像と同じ。
なお所沢で「初飛行」したのもこのコンビ。
初期の飛行機ってこんなのだったんだね。
彼らにトップガンの映画を見せてあげたい(^^ゞ
記念碑を離れて西門に向かう。
これは周回路の外側の細い通路で道が二手に分かれていた。
その場所にあったなかなかのマツ。
マツが常緑樹だとよく分かる写真。
そして二手に分かれた左側を進むと現れる光景。
白いテントを最初は園芸用の資材置き場か何かかと思ったが、
どうやらこのあたりはホームレスのテント村のようだ。
通路から見える範囲で30近く。奥に入ればもっとあるかも知れない。
これだけの規模のものを見たのは初めてなのでけっこうビックリした。2020年の東京オリンピックが近づいた頃、公園のホームレスを占め出しなどのニュースがあったのは覚えている。しかし結局2021年の開催時に外国人観戦客はコロナで来なかったわけで、そういう措置も執られなかったのかな。あるいは再び集まってきたか。
なお人の気配はまったくなかった。時間は土曜日の午後1時過ぎ。このあたりは人通りも少なく、たまにランニングの人が走ってくる程度。
ところで以前、隅田川でホームレスが今風のアウトドア用品を使っているのを見たけれど、代々木公園は今でもトラディショナルなブルーシートなのだと、どうでもいい発見。
西門から代々木公園を退出。
キンモクセイはクンクンできずバラも見頃前だったものの、広い芝生空間を楽しめたし、いろいろ珍しい光景も眺められて面白かった。
場所とタイトルを変えてーーー続く
2023年10月22日
ついでに秋バラが少しだけ咲いていた代々木公園
歩いていてキンモクセイのいい香りがするとうれしいし、また秋を感じる。ほとんどの人が好きな香りかと思う。例年なら9月の中頃くらいからだが、今年の9月はまだ真夏だったので、咲き始めたのは10月になってから。
ちなみに日本の四大香木とされるのは
春:ジンチョウゲ
夏:クチナシ
秋:キンモクセイ
冬:ロウバイ
キンモクセイはそこら中にある。またロウバイはあちこちの名所を訪れた。しかしジンチョウゲとクチナシはあまり馴染みがないなあ。来年の春と夏は意識して出かけましょう。
さて今年もキンモクセイの香りを楽しんだ。でもそれはどこからとなく漂ってくる香り。もっとダイレクトに、そしてたくさんのキンモクセイのある場所でクンクンしたくなる。時期的には微妙に出遅れたものの、たまたま10月19日に日比谷公園でキンモクセイが見頃との情報に接し、まだ間に合うかと。
日比谷公園でもよかったのだが、以前に渋谷はるのおがわプレーパークと、玉川上水緑道の初台あたりにキンモクセイがたくさん植えられている場所があると聞いたので、そちらに行ってみた。メインは玉川上水緑道。
渋谷はるのおがわプレーパークは代々木公園の隣にある。だったら代々木公園を少し散策してから渋谷はるのおがわプレーパーク、そして初台まで散歩がてらに代々木を抜けて歩くとのプラン。代々木公園にもキンモクセイはあるだろうし、そろそろ秋バラのシーズンでもある。出かけたのは昨日。
結論から書くと代々木公園にキンモクセイは咲いていなかったし、
秋バラはまだ見頃前だった(/o\)
原宿駅周辺は大勢の人だかり。
明治神宮の前を通り過ぎる。
振り返って原宿・表参道方向。
絶好の秋晴れ。
代々木公園到着。
とは言っても原宿駅から代々木公園までは300mほど。
都立公園開園150周年の横断幕。
都市公園制度が整備されたのが明治6年(1873年)。同年に開園したのが上野公園と芝公園。代々木公園は大名屋敷→陸軍練兵場→米軍宿舎→1964年に日本に返還され東京オリンピック(1964年)の選手村を経て1967年(昭和42年)の開園。だから規模が大きく有名な割りには比較的最近にできた公園といえる。
原宿門を入ったところ。
緑の木と紅葉しかけている木。
バラエリアのアーチが見えてきた。
こんな風に撮るとけっこう咲いているように見えるが、
アーチに咲いていたのは1つだけだし、
全体的にもかなり寂しい雰囲気。
「秋のバラフェスタ」開催は翌週の10月28日から。それでもここから1週間で賑やかになるとは思えない。もともと秋バラは春バラと較べて花数が少なく花も小さいとはいえ。
文句を言わずに、誰かが育てて咲かせてくれたバラを眺めましょう。
周回路に戻る。
どこかにキンモクセイはないかと嗅覚感度を最大にし、周回路から外れてこんなところも歩いてみたが、まったく見当たらず。後で調べたら、どうやら代々木公園のキンモクセイは10月10日頃に終わったみたい。
さらに周回路。
一番西側まで来たあたりでキンモクセイ探しは諦めて、東に進んで芝生広場に向かう。
カメラにはとても収まらない大きな広場。
これに写っている範囲の数倍はある。
こちらに来たのは代々木公園に春バラを見に来たとき、公園の案内図には説明がないのに、この広場の一角にあるフラワーランドと名付けられたところにもバラ園を見つけたから。
フラワーランド到着。
まっメインのバラ園に負けず劣らず寂しい雰囲気だったけれど(^^ゞ
春バラの時もそうだったように、
なぜかこちらのほうがメインのバラ園よりも状態のいい花が多い。
キンモクセイはなかったものの、
バラの香りをクンクンできてとりあえず満足。
ーーー続く
ちなみに日本の四大香木とされるのは
春:ジンチョウゲ
夏:クチナシ
秋:キンモクセイ
冬:ロウバイ
キンモクセイはそこら中にある。またロウバイはあちこちの名所を訪れた。しかしジンチョウゲとクチナシはあまり馴染みがないなあ。来年の春と夏は意識して出かけましょう。
さて今年もキンモクセイの香りを楽しんだ。でもそれはどこからとなく漂ってくる香り。もっとダイレクトに、そしてたくさんのキンモクセイのある場所でクンクンしたくなる。時期的には微妙に出遅れたものの、たまたま10月19日に日比谷公園でキンモクセイが見頃との情報に接し、まだ間に合うかと。
日比谷公園でもよかったのだが、以前に渋谷はるのおがわプレーパークと、玉川上水緑道の初台あたりにキンモクセイがたくさん植えられている場所があると聞いたので、そちらに行ってみた。メインは玉川上水緑道。
渋谷はるのおがわプレーパークは代々木公園の隣にある。だったら代々木公園を少し散策してから渋谷はるのおがわプレーパーク、そして初台まで散歩がてらに代々木を抜けて歩くとのプラン。代々木公園にもキンモクセイはあるだろうし、そろそろ秋バラのシーズンでもある。出かけたのは昨日。
結論から書くと代々木公園にキンモクセイは咲いていなかったし、
秋バラはまだ見頃前だった(/o\)
原宿駅周辺は大勢の人だかり。
明治神宮の前を通り過ぎる。
振り返って原宿・表参道方向。
絶好の秋晴れ。
代々木公園到着。
とは言っても原宿駅から代々木公園までは300mほど。
都立公園開園150周年の横断幕。
都市公園制度が整備されたのが明治6年(1873年)。同年に開園したのが上野公園と芝公園。代々木公園は大名屋敷→陸軍練兵場→米軍宿舎→1964年に日本に返還され東京オリンピック(1964年)の選手村を経て1967年(昭和42年)の開園。だから規模が大きく有名な割りには比較的最近にできた公園といえる。
原宿門を入ったところ。
緑の木と紅葉しかけている木。
バラエリアのアーチが見えてきた。
こんな風に撮るとけっこう咲いているように見えるが、
アーチに咲いていたのは1つだけだし、
全体的にもかなり寂しい雰囲気。
「秋のバラフェスタ」開催は翌週の10月28日から。それでもここから1週間で賑やかになるとは思えない。もともと秋バラは春バラと較べて花数が少なく花も小さいとはいえ。
文句を言わずに、誰かが育てて咲かせてくれたバラを眺めましょう。
周回路に戻る。
どこかにキンモクセイはないかと嗅覚感度を最大にし、周回路から外れてこんなところも歩いてみたが、まったく見当たらず。後で調べたら、どうやら代々木公園のキンモクセイは10月10日頃に終わったみたい。
さらに周回路。
一番西側まで来たあたりでキンモクセイ探しは諦めて、東に進んで芝生広場に向かう。
カメラにはとても収まらない大きな広場。
これに写っている範囲の数倍はある。
こちらに来たのは代々木公園に春バラを見に来たとき、公園の案内図には説明がないのに、この広場の一角にあるフラワーランドと名付けられたところにもバラ園を見つけたから。
フラワーランド到着。
まっメインのバラ園に負けず劣らず寂しい雰囲気だったけれど(^^ゞ
春バラの時もそうだったように、
なぜかこちらのほうがメインのバラ園よりも状態のいい花が多い。
キンモクセイはなかったものの、
バラの香りをクンクンできてとりあえず満足。
ーーー続く
2023年10月20日
羽田空港の新飛行ルート
原宿で東郷神社の前を通りかかって、そういえば今まで訪れたことがなかったと境内に入る。訪れていたのはわずか20分ほどなのに、東郷平八郎やバルチック艦隊との海戦の話など、あれやこれやで「その6」まで続いたのが前々回までのブログ。前回はそのスピンオフ編で、そして今回はスピンオフ第2弾。
スピンオフまで2回もあるんかい!といわれそうだけれど、
神社にも東郷平八郎にもまったく関係はないのでご安心を?
東郷神社の社殿に入ろうとしたとき、
空を見上げると飛行機。
肉眼でもはっきりと輪郭が見える。
国土交通省のデータと照らし合わせると高度約800m。旅客機が水平飛行しているときの高度は約1万m。だからこれは着陸態勢。それが今回のテーマ。
東京以外に住んでいる方々には関係ないし話題にもなっていないと思われるが、羽田空港を離着陸する飛行機のルートが2020年3月29日から変更になった。
ところで羽田空港は知っていても、それがどこにあるのかをキチンと把握している人は意外と少ない。モノレールだと浜松町から乗るものだから、品川沖の東京湾のどこかと勘違いしている人が多い。正しくは
東京都と神奈川県の境界を流れている多摩川
その多摩川の河口の東京側
にある。
ほとんどが埋め立て地で面積は1522ヘクタール。実は成田空港の1137ヘクタールより広い。これは羽田空港のある大田区の25%に相当する。ひとつの施設が自治体面積の1/4を占めるのは珍しいのでは。大田区はよく町工場の街といわれるけれど間違いなく空港の街である。
ちなみに伊丹空港が伊丹市に占める面積割合は12.5%で、成田空港は成田市の5.3%。(2つの空港は伊丹市・成田市以外の自治体にもまたがっているが、値は空港総面積を伊丹市・成田市の面積で割ったもの)ついでに琵琶湖の面積は滋賀県の17%(^^ゞ
さて羽田空港には4本の滑走路がある。飛行機の離着陸は風向きの影響を受けるので滑走路を使い分けるため。同じ理由で羽田空港の離着陸ルートには北風ルートと南風ルートがある。
そして大きく変わったのが南風ルート。
ラインは青が離陸。赤が好天時の着陸ルートでオレンジが悪天候時。
とりあえず赤のラインを見て欲しい。
従来は東京湾を東から降下してきたが、
新ルートでは東京の都心を北から南に横切るルートになっている。
これが具体的にどこを通るかというと、
首都圏以外の人でも名前くらいは知っている地名が並ぶ。
いわゆるおしゃれな街であり高級住宅街である。
それが飛行機の騒音がうるさい街になってしまった(/o\)
騒音は飛行機が高度を下げるほど大きくなる。原宿あたりではそうでもないものの、そこから南に下って青山や広尾あたりだとけっこうキツい。さらに南側となる白金や高輪だと「騒音問題」との単語が脳裏をよぎる。
参考までに6月に国交省が測定した調査結果の一部を紹介すると騒音レベルは
渋谷区立広尾中学校 飛行機高度約600m 65.8デシベル
港区立高輪台小学校 飛行機高度約450〜600m 72.5デシベル
この表によると騒音が70デシベルを超えると「会話をするために大声を出さなければならない」とされている。図はhttps://www.hankoku.co.jp/data/noiselevel/から引用
もっとも南風運用は年間の4割で、その中で新しい南風ルートを使うのは
15時から19時まで4時間のうち切替時間を含むため実質3時間程度だけ
それ以外の時間は従来の南風ルートを使う
となっている。
なんだ3時間だけじゃないかと思われるかも知れない。しかしこの3時間の内に着陸する飛行機は約45機。180分÷45機=4分に1回と引っ切りなしと言えるレベル。
飛行ルートを変更したのは便数を増やすため。変更の前後でどれだけ増便されたのか詳細な資料が見つからなかったが、対象となるのは国際便で1日あたり80便から130便へと50便の増加のようだ。率にすれば6割増し。
でもこれはいずれさらに増便されるだろう。反発を抑えるために最初は小出しにして、徐々にエスカレートさせるのは政治・行政のいつもの手口。
1999年に成立した「国旗及び国歌に関する法律」は日の丸と君が代を法律的に位置づけただけで、掲揚時の起立や国家斉唱は義務ではないとされたのに、教育現場などでは強制され、従わない場合には教育委員会が懲戒処分を課している。「あれば何かと便利ですよ」だったはずのマイナンバーカードも保険証や免許証が廃止され実質義務化されようとしている。
まあビジネスでも「これは後々膨らみそうだ」と思った場合は見積もりを抑えて仕事を取り、その後の追加発注でガッポリ儲ける作戦はよくやるけれど(^^ゞ
こちらは国土交通省が作成したルート変更前の事前説明資料。「1日約50便増加へ」の下にコッソリ「さらにアメリカ24便増加・中国8便増加」と書かれている。この32便が実施されれば従来から倍増である。
今のところ飛行機の騒音による不動産価格への影響はないみたい。ただしそれは現在の不動産価格が高騰している状況が打ち消している可能性もある。広尾や白金台といったブランド地名に憧れて、現地に行ったらビックリというのは少なからずあるはず。不動産屋は案内するのに飛行機が飛ばない時間帯を選んでいたりして(^^ゞ
ところで飛行ルートが変更されたのは3年以上前の2020年3月29日なのに、何を今さらそんな話を書いているのかと思われたかも知れない。それは日付を見ればわかるように、当時はコロナで飛行機の便数が大幅に減少しあまり実感できなかったから。だから飛行機を見ると「お、飛んでる飛んでる」と喜んでいたくらい。便数がコロナ前の水準に戻ったのは昨年の6月頃で、そこからうるさいなと思うようになった。それでも1年以上遅れた話題には違いないがm(_ _)m
念のために書いておくと、この新しい飛行ルートに住民として反対しているわけじゃない。飛行機はどこかを通過しなければいけないわけで、それが私の馴染みのエリアにあたり、騒音でうるさくなって残念と思っているだけ。自宅の窓からも低く飛んでいる飛行機は見えるものの、幸い飛行ルートからは少し離れているので遠くに音が聞こえるくらい。テレビを付けていたら気付かないレベル。もちろんもっと他にルートなかったのかとか、滑走路の向きを変えろやとかは思っている(^^ゞ
とりあえず東京のこのあたりに来て、やたら飛行機が多いなあと思ったら、このブログのことを思い出してちょうだい。
スピンオフまで2回もあるんかい!といわれそうだけれど、
神社にも東郷平八郎にもまったく関係はないのでご安心を?
東郷神社の社殿に入ろうとしたとき、
空を見上げると飛行機。
肉眼でもはっきりと輪郭が見える。
国土交通省のデータと照らし合わせると高度約800m。旅客機が水平飛行しているときの高度は約1万m。だからこれは着陸態勢。それが今回のテーマ。
東京以外に住んでいる方々には関係ないし話題にもなっていないと思われるが、羽田空港を離着陸する飛行機のルートが2020年3月29日から変更になった。
ところで羽田空港は知っていても、それがどこにあるのかをキチンと把握している人は意外と少ない。モノレールだと浜松町から乗るものだから、品川沖の東京湾のどこかと勘違いしている人が多い。正しくは
東京都と神奈川県の境界を流れている多摩川
その多摩川の河口の東京側
にある。
ほとんどが埋め立て地で面積は1522ヘクタール。実は成田空港の1137ヘクタールより広い。これは羽田空港のある大田区の25%に相当する。ひとつの施設が自治体面積の1/4を占めるのは珍しいのでは。大田区はよく町工場の街といわれるけれど間違いなく空港の街である。
ちなみに伊丹空港が伊丹市に占める面積割合は12.5%で、成田空港は成田市の5.3%。(2つの空港は伊丹市・成田市以外の自治体にもまたがっているが、値は空港総面積を伊丹市・成田市の面積で割ったもの)ついでに琵琶湖の面積は滋賀県の17%(^^ゞ
さて羽田空港には4本の滑走路がある。飛行機の離着陸は風向きの影響を受けるので滑走路を使い分けるため。同じ理由で羽田空港の離着陸ルートには北風ルートと南風ルートがある。
そして大きく変わったのが南風ルート。
ラインは青が離陸。赤が好天時の着陸ルートでオレンジが悪天候時。
とりあえず赤のラインを見て欲しい。
従来は東京湾を東から降下してきたが、
新ルートでは東京の都心を北から南に横切るルートになっている。
これが具体的にどこを通るかというと、
首都圏以外の人でも名前くらいは知っている地名が並ぶ。
いわゆるおしゃれな街であり高級住宅街である。
それが飛行機の騒音がうるさい街になってしまった(/o\)
騒音は飛行機が高度を下げるほど大きくなる。原宿あたりではそうでもないものの、そこから南に下って青山や広尾あたりだとけっこうキツい。さらに南側となる白金や高輪だと「騒音問題」との単語が脳裏をよぎる。
参考までに6月に国交省が測定した調査結果の一部を紹介すると騒音レベルは
渋谷区立広尾中学校 飛行機高度約600m 65.8デシベル
港区立高輪台小学校 飛行機高度約450〜600m 72.5デシベル
この表によると騒音が70デシベルを超えると「会話をするために大声を出さなければならない」とされている。図はhttps://www.hankoku.co.jp/data/noiselevel/から引用
もっとも南風運用は年間の4割で、その中で新しい南風ルートを使うのは
15時から19時まで4時間のうち切替時間を含むため実質3時間程度だけ
それ以外の時間は従来の南風ルートを使う
となっている。
なんだ3時間だけじゃないかと思われるかも知れない。しかしこの3時間の内に着陸する飛行機は約45機。180分÷45機=4分に1回と引っ切りなしと言えるレベル。
飛行ルートを変更したのは便数を増やすため。変更の前後でどれだけ増便されたのか詳細な資料が見つからなかったが、対象となるのは国際便で1日あたり80便から130便へと50便の増加のようだ。率にすれば6割増し。
でもこれはいずれさらに増便されるだろう。反発を抑えるために最初は小出しにして、徐々にエスカレートさせるのは政治・行政のいつもの手口。
1999年に成立した「国旗及び国歌に関する法律」は日の丸と君が代を法律的に位置づけただけで、掲揚時の起立や国家斉唱は義務ではないとされたのに、教育現場などでは強制され、従わない場合には教育委員会が懲戒処分を課している。「あれば何かと便利ですよ」だったはずのマイナンバーカードも保険証や免許証が廃止され実質義務化されようとしている。
まあビジネスでも「これは後々膨らみそうだ」と思った場合は見積もりを抑えて仕事を取り、その後の追加発注でガッポリ儲ける作戦はよくやるけれど(^^ゞ
こちらは国土交通省が作成したルート変更前の事前説明資料。「1日約50便増加へ」の下にコッソリ「さらにアメリカ24便増加・中国8便増加」と書かれている。この32便が実施されれば従来から倍増である。
今のところ飛行機の騒音による不動産価格への影響はないみたい。ただしそれは現在の不動産価格が高騰している状況が打ち消している可能性もある。広尾や白金台といったブランド地名に憧れて、現地に行ったらビックリというのは少なからずあるはず。不動産屋は案内するのに飛行機が飛ばない時間帯を選んでいたりして(^^ゞ
ところで飛行ルートが変更されたのは3年以上前の2020年3月29日なのに、何を今さらそんな話を書いているのかと思われたかも知れない。それは日付を見ればわかるように、当時はコロナで飛行機の便数が大幅に減少しあまり実感できなかったから。だから飛行機を見ると「お、飛んでる飛んでる」と喜んでいたくらい。便数がコロナ前の水準に戻ったのは昨年の6月頃で、そこからうるさいなと思うようになった。それでも1年以上遅れた話題には違いないがm(_ _)m
念のために書いておくと、この新しい飛行ルートに住民として反対しているわけじゃない。飛行機はどこかを通過しなければいけないわけで、それが私の馴染みのエリアにあたり、騒音でうるさくなって残念と思っているだけ。自宅の窓からも低く飛んでいる飛行機は見えるものの、幸い飛行ルートからは少し離れているので遠くに音が聞こえるくらい。テレビを付けていたら気付かないレベル。もちろんもっと他にルートなかったのかとか、滑走路の向きを変えろやとかは思っている(^^ゞ
とりあえず東京のこのあたりに来て、やたら飛行機が多いなあと思ったら、このブログのことを思い出してちょうだい。
2023年10月17日
戦隊ヒーローの語源?
原宿で東郷神社の前を通りかかって、そういえば今まで訪れたことがなかったと境内に入る。訪れていたのはわずか20分ほどなのに、東郷平八郎やバルチック艦隊との海戦の話など、あれやこれやで「その6」まで続いたのが前回までのブログ。そして今回はそのスピンオフ編。
まだ、あるんかい!といわれそうだけれど、
神社にも東郷平八郎にもまったく関係はないのでご安心を?
さて話は変わって戦隊ヒーロー。
その初代は1975年(昭和50年)から2年間放送された「秘密戦隊ゴレンジャー」。
その頃にはこういう番組を見る年代は過ぎていて、でも親戚の子供がファンだったのでアカレンジャー!とかキレンジャー!とか適当に話を合わせていた記憶があるくらい。
だからまったく詳しくないのでウィキペディアで調べてみると、戦隊ヒーローではなくスーパー戦隊というらしい。そして次のような記述があった。
スーパー戦隊シリーズは、日本の特撮テレビドラマシリーズ。
ウルトラシリーズ・仮面ライダーシリーズとともに、およそ48年にわたって
放映されている長寿シリーズである。
ゴレンジャーしか名前は知らなくても、今でも何となく似たようなものがあるとはウスウス気づいていた。しかしシリーズとして、つまりウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマンタロウーーーのように続編として制作されていたとはまったく知らなかった。
ところで記述にある「特撮テレビドラマ」。特撮という言葉を知ったのはウルトラマンで、だからアレは間違いなく特撮だとして、仮面ライダーが特撮といわれるとどうもピンとこない。戦隊モノは見たことはないが仮面ライダーと同じジャンルとの認識。その違いは
ウルトラマンや怪獣は巨大
仮面ライダーや戦隊ヒーローは人間と同じサイズ
だからウルトラマンや怪獣が登場するときは風景がミニチュアで作ったセット。飛行機やロケットなんかもミニチュア。そんなのが特撮のイメージ。おそらく世代によって特撮と聞いて思い浮かべるイメージは違うのだろう。
さてゴレンジャーから20年後の
1995年(平成7年)から放送されたのが「超力戦隊オーレンジャー」。
そして現在放送されている「王様戦隊キングオージャー」はこれで第47代目となる戦隊ヒーロー。色違いのスーツを着てマスクを付けての基本パターンは変わらず。
またテレビドラマだけじゃなく「ご当地戦隊ヒーロー」が各地で町おこしに一役買っているとのニュースもたまに見る。
西船橋の平和を守るニコふな戦隊 「ニコレンジャー」。画像はhttps://myfuna.net/archives/myfunanews/myfuna20141101151554から引用
こちらは江戸川区の「エドレンジャー」でけっこう本格的。画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/18456から引用
ご当地戦隊ヒーローが集まるイベントがあったり、画像はhttps://otakei.otakuma.net/archives/2016091602.htmlから引用
戦隊ヒーローになれるコスプレも売られている(^^ゞ
ちなみに5体分で1万7700円。画像はhttps://item.rakuten.co.jp/p-kaneko/se5001--4347abqm/から引用
ーーーと戦隊ヒーローはすっかり日本の文化に根付いた存在。
ところで戦隊って何? 考えたことある?
もちろん私も戦隊の意味を今まで疑問に思ったりはしなかった。
ここで話は「東郷神社を初訪問 その3 バルチック艦隊と連合艦隊」のブログに戻る。この回では日露戦争で戦ったバルチック艦隊が正式な所属としてはロシアの太平洋艦隊であったとか、旧日本軍でよく耳にする連合艦隊とは、実質的にオール日本海軍と同じ意味などの話を書いている。
その時にいろいろ調べていて
艦隊とは海軍の部隊単位で一番大きなもの
との定義。それは何となくそう認識していたものの、その次に艦隊を構成する単位として「戦隊」があったと初めて知った。表は太平洋戦争開戦時の旧日本海軍第1艦隊の編成。
戦隊の細かな定義や陸軍・空軍での違いとかは長くなるので省略。とにかく「戦隊」が軍事用語からの転用だったのが意外。
ところが「戦隊ヒーローの戦隊とは」「戦隊ヒーローの戦隊の語源」などネット検索してもヒットせず、戦隊ヒーローの解説として次のように辞書サイトで掲載されているのみ。
weblio辞書:特撮番組で、数人で構成される戦隊を組み〜
見事に戦隊そのものの説明はスルー。
まあ誰も気にしていないとよく分かった。
もっとも初代ゴレンジャーの作者が、軍事用語としての戦隊からネーミングを引っ張ってきたかは不明。戦うヒーローの集まり=部隊だからとの発想だった可能性もある。厳密には部隊も軍事用語だけれど一般名詞化しているし。
子供向け番組に軍事用語を使うのはケシカランと批判するつもりはまったくない。いろんなところに軍事用語からの転用は多く見られる。おそらく100くらいは知らずに使っているはず。ビジネスでもよく使われる「戦略」が元は軍事用語だとは多くの人が知っているだろう。実はターゲットやインパクトやキャンペーンもそうである。「地雷を踏む」なんて新しく考え出された比喩もある。
というわけで戦隊ヒーローの語源は軍事用語だったかも知れないと、
だったら、それがどうしたなお話 m(_ _)m
まだ、あるんかい!といわれそうだけれど、
神社にも東郷平八郎にもまったく関係はないのでご安心を?
さて話は変わって戦隊ヒーロー。
その初代は1975年(昭和50年)から2年間放送された「秘密戦隊ゴレンジャー」。
その頃にはこういう番組を見る年代は過ぎていて、でも親戚の子供がファンだったのでアカレンジャー!とかキレンジャー!とか適当に話を合わせていた記憶があるくらい。
だからまったく詳しくないのでウィキペディアで調べてみると、戦隊ヒーローではなくスーパー戦隊というらしい。そして次のような記述があった。
スーパー戦隊シリーズは、日本の特撮テレビドラマシリーズ。
ウルトラシリーズ・仮面ライダーシリーズとともに、およそ48年にわたって
放映されている長寿シリーズである。
ゴレンジャーしか名前は知らなくても、今でも何となく似たようなものがあるとはウスウス気づいていた。しかしシリーズとして、つまりウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマンタロウーーーのように続編として制作されていたとはまったく知らなかった。
ところで記述にある「特撮テレビドラマ」。特撮という言葉を知ったのはウルトラマンで、だからアレは間違いなく特撮だとして、仮面ライダーが特撮といわれるとどうもピンとこない。戦隊モノは見たことはないが仮面ライダーと同じジャンルとの認識。その違いは
ウルトラマンや怪獣は巨大
仮面ライダーや戦隊ヒーローは人間と同じサイズ
だからウルトラマンや怪獣が登場するときは風景がミニチュアで作ったセット。飛行機やロケットなんかもミニチュア。そんなのが特撮のイメージ。おそらく世代によって特撮と聞いて思い浮かべるイメージは違うのだろう。
さてゴレンジャーから20年後の
1995年(平成7年)から放送されたのが「超力戦隊オーレンジャー」。
そして現在放送されている「王様戦隊キングオージャー」はこれで第47代目となる戦隊ヒーロー。色違いのスーツを着てマスクを付けての基本パターンは変わらず。
またテレビドラマだけじゃなく「ご当地戦隊ヒーロー」が各地で町おこしに一役買っているとのニュースもたまに見る。
西船橋の平和を守るニコふな戦隊 「ニコレンジャー」。画像はhttps://myfuna.net/archives/myfunanews/myfuna20141101151554から引用
こちらは江戸川区の「エドレンジャー」でけっこう本格的。画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/18456から引用
ご当地戦隊ヒーローが集まるイベントがあったり、画像はhttps://otakei.otakuma.net/archives/2016091602.htmlから引用
戦隊ヒーローになれるコスプレも売られている(^^ゞ
ちなみに5体分で1万7700円。画像はhttps://item.rakuten.co.jp/p-kaneko/se5001--4347abqm/から引用
ーーーと戦隊ヒーローはすっかり日本の文化に根付いた存在。
ところで戦隊って何? 考えたことある?
もちろん私も戦隊の意味を今まで疑問に思ったりはしなかった。
ここで話は「東郷神社を初訪問 その3 バルチック艦隊と連合艦隊」のブログに戻る。この回では日露戦争で戦ったバルチック艦隊が正式な所属としてはロシアの太平洋艦隊であったとか、旧日本軍でよく耳にする連合艦隊とは、実質的にオール日本海軍と同じ意味などの話を書いている。
その時にいろいろ調べていて
艦隊とは海軍の部隊単位で一番大きなもの
との定義。それは何となくそう認識していたものの、その次に艦隊を構成する単位として「戦隊」があったと初めて知った。表は太平洋戦争開戦時の旧日本海軍第1艦隊の編成。
戦隊の細かな定義や陸軍・空軍での違いとかは長くなるので省略。とにかく「戦隊」が軍事用語からの転用だったのが意外。
ところが「戦隊ヒーローの戦隊とは」「戦隊ヒーローの戦隊の語源」などネット検索してもヒットせず、戦隊ヒーローの解説として次のように辞書サイトで掲載されているのみ。
weblio辞書:特撮番組で、数人で構成される戦隊を組み〜
見事に戦隊そのものの説明はスルー。
まあ誰も気にしていないとよく分かった。
もっとも初代ゴレンジャーの作者が、軍事用語としての戦隊からネーミングを引っ張ってきたかは不明。戦うヒーローの集まり=部隊だからとの発想だった可能性もある。厳密には部隊も軍事用語だけれど一般名詞化しているし。
子供向け番組に軍事用語を使うのはケシカランと批判するつもりはまったくない。いろんなところに軍事用語からの転用は多く見られる。おそらく100くらいは知らずに使っているはず。ビジネスでもよく使われる「戦略」が元は軍事用語だとは多くの人が知っているだろう。実はターゲットやインパクトやキャンペーンもそうである。「地雷を踏む」なんて新しく考え出された比喩もある。
というわけで戦隊ヒーローの語源は軍事用語だったかも知れないと、
だったら、それがどうしたなお話 m(_ _)m
2023年10月11日
東郷神社を初訪問 その6 イケメン
「その4」に書いたように、東郷平八郎が指揮した日本海海戦は圧倒的な勝利に終わった。連合艦隊出撃108隻で沈められたのは主力でない小型艦艇わずか3隻。一方のバルチック艦隊は38隻のうち自沈を含めて21隻が沈んでいる。沈没率を計算すると3%対55%。戦闘は2日間にわたって繰り広げられたが、実際には開戦後30分であらかたの決着がつき、それ以降は「落ち武者狩り」のような状況だったとされる。
また陸戦でも相当な損害を出したもののロシア軍が立てこもっていた旅順を陥落させ、続く奉天の会戦でもロシア軍は撤退。なお時系列的には旅順→奉天→日本海の順。最終的にアメリカの仲介を受けて1905年(明治38年)9月5日に講和が成り立つ。授業で習った記憶のあるポーツマス条約。これで約1年と7ヶ月続いた日露戦争が終結。
日本は戦争での国力消耗がほぼ限界で、またロシアは革命が起きて国内が混乱するなど、双方にとってちょうどいい潮時のタイミングだったのかも知れない。講和=手打ちになっただけで、太平洋戦争での日本のようにロシアが降伏したわけではないのだが、全世界的にこの戦争は日本の勝利と認識された。
そして日露戦争で日本が勝ったニュースは各国に衝撃を与える。
それは
小国日本が大国ロシアに勝った(面積の話じゃなく国力の差)
黄色人種が白人に勝った
から。
その受け止め方は各国の状況に応じて様々。
イギリス:ロシアと対立していたので「ロシアざまあ」な反応。
日英同盟を結んでいたイギリスは、バルチック艦隊の補給を
妨害するなど陰に日向に日本を支援していて、
その協力がなければ日本海海戦の勝利もなかったとされる。
ただし日本が勝つとは思っておらず、最後は自らが仲介に乗り出して
漁夫の利で中国の利権を拡大しようと考えていたので、ちょっと
ガッカリしたとも。
フランス:ロシアとつながりが深かったので悲観ムード。
アメリカ:日本の海軍力に警戒感を強める。
そして欧米列強の支配を受けていたアジアの国々では大絶賛! また後年に数多くの政治指導者が「日露戦争での日本の勝利が励ましになった」との言葉を残している。一例を挙げるとネルー(インド初代首相)、孫文(中国革命の父)、バー・モウ(ビルマの独立指導者)、ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの独立指導者)など。ただしやがて日本が東南アジアを支配するようになってガッカリさせてしまうのだが。
最も熱狂的に日露戦争勝利を喜んだのはトルコ(この頃はオスマン帝国)。それは当時トルコがロシアの属領になっていたから。上は皇帝から下は庶民まで日本を応援したといわれる。そして子供の名前にトーゴーと付ける人まで多くいたとか。でも東郷は苗字だから、名付けるならヘイハチローなんだけどな(^^ゞ
話はそれるが東郷=TOGOは分解するとto go。toは発音がtwoに似ている。それでイギリス留学時代に寄宿舎で one go, two go, three goとからかわれていたとの記録を読んだ。面白そうなエピソードなのに、何と訳していいのか分からない(/o\)
なおto goはハンバーガーなどのお持ち帰りでも使う。テイクアウトはまったくの和製英語。それにしてもいかにも英語っぽい和製英語を誰が考えたのだろう。
ついでにプーチンはPutinでput inに分解できる。put inは中に入れる、挿入するとの意味があり、英語圏ではput in Putinと罵っているとかいないとか。日本語訳は書かないけれどジャニー喜多川さんがやってらっしゃった行為です(^^ゞ
さて
その日露戦争後も東郷平八郎の名声・人気は衰えることなく、米国タイム誌の表紙に日本人として初めて選ばれる。日露戦争終戦から25年後の1926年(昭和元年)の発行。
ちなみにタイム誌で過去に日本人が表紙を飾ったのは41回。ただし昭和天皇の6回など重複を除外し、さらに不特定多数の人物として取り上げられた例を除くと「カバーパーソン」となった日本人は31名。タイム誌は週刊誌で創刊は1923年3月3日。単純計算では今までに5249号を発行しているから日本人の存在感は超希薄。41回で計算しても登場率わずかに0.8%である。だからニュース雑誌タイムの表紙になると日本ではそれがニュースになる。なお31名には含まれていないがポケモンの号もあった。
また今年の5月にタイム誌の表紙を飾ったと話題になった岸田総理であるが、彼が掲載されたのは本国のタイム誌ではなくアジア版。過去3回掲載された安倍元総理も同じ。アジア版の表紙になった日本人は25名。
アジア版の創刊がいつなのかなぜかネットで調べてもヒットしなかった。ChatGPTに尋ねても同様だったが、英語で質問すると1993年と回答。ChatGPTしかソースがないのは不安だけれど、とりあえず1993年として、日付は中間を採って7月1日で計算すると現在までに1579号。アジア版でもダメダメな日本人(>_<)
ところで写真で見る東郷平八郎は次のようなものが多いかな。
左の写真は元帥と書かれているから65歳以上で撮られたもの。それ以前の写真に但し書きを入れた可能性もあるが。詳しい人なら勲章などで判断できるはず。それはともかく実にカッコイイし威厳がある。右側は同時期の撮影と思われるが、撮り方の影響なのか姿勢にやや年齢を感じる。カメラマンの腕前は大事だね。そして足元のマットはなくていいと思うゾ。
こちらはもっと若い頃。といっても制服の袖にラインが5本あるから大将の階級になってからのもの。そういう軍事オタク的知識はないものの、上の写真もラインが5本で、日本の元帥は階級としては大将だからとの判断。だとすると東郷平八郎が大将になったのは1904年で57歳だから、それ以降の撮影。明治時代の人にしては歳を取っても老け込んでいない印象。
めちゃイケメンなのに驚く。
そしてこの写真に着色したものを見つけた。
少し前の映画スターで、
これ以上にカッコよかった人はいた?レベル。画像はhttps://twitter.com/DigitalMixComp/status/1232291326714007552から引用
白黒でも顔は同じなのに、
カラーになるとリアルになってインパクトを増すものだと改めて感心したしだい。
お待たせしました!(誰も待っていないか)
よ〜〜〜やく東郷神社に話が戻るm(_ _)m
社殿エリアを離れて入口に戻る。東郷記念館コッチの案内があった。
これは資料館じゃなくレストランや結婚式場の施設なのでスルー。
鳥居まで向かう途中に庭園エリアがあるので、そちらに。
写真を拡大すると狛犬がやたらカクカクしているのが分かる。
これは狛犬ではなく獅子らしい。
獅子(しし)とはライオンがベースの架空の生物。実は狛犬(コマイヌ)も犬ベースの架空の生物。そして狛犬のルーツは獅子なのでまあ似たようなもの。
庭園には大きな池がある。
写真に写っている7名の内、浴衣を着ている女性を含めて4名は白人。他にもチラホラ見かけた。東郷神社は外国人に人気があるみたい。
池の後ろにあるのが東郷記念館。
周りを高いビルに囲まれてはいても、
明治通り・竹下通りの喧噪を忘れ去れる都会のオアシス的な場所。
喧噪から静寂へのワープ感覚という点では、すぐ近くの明治神宮にもちろん適わない。しかし明治神宮は広すぎて時間が掛かるから、原宿にいて手っ取り早く静寂に浸りたいなら東郷神社がオススメ。
<おまけ>
別に東郷平八郎ファンでも何でもないのだが、
彼ゆかりの場所には今まで他に2箇所訪れている。
まず2011年、バイクツーリングで立ち寄った三笠公園。
ここには日本海海戦で東郷が乗艦した戦艦三笠が保存されている。
記念艦として保存されたのは大正14年(1925年)。その後いろいろあって戦後はダンスホールや水族館などの施設になり、大砲や船の上部構造などは取り除かれている。
それが復元されたのは1961年(昭和36年)。外観はハリボテ感を隠せないところが見られるものの、船の内部も見学できるのでソコソコは楽しめる。
当時のブログページには ↓ から。
三笠公園について書いているのはページ後半。
「ブラブラと横浜・横須賀〜三崎」
次は2021年に、しだれ桜を見に出かけた調布市にある東郷寺。
東郷平八郎の別荘地跡に建てられたお寺で、彼とは直接の関係はない。
ここのしだれ桜はとても素晴らしい。
この景色が東京とは思えないでしょ。
当時のブログページには ↓ から。
「東郷寺でしだれ桜」
「東郷寺でしだれ桜 その2」
「東郷寺でしだれ桜 その3」
おしまい
また陸戦でも相当な損害を出したもののロシア軍が立てこもっていた旅順を陥落させ、続く奉天の会戦でもロシア軍は撤退。なお時系列的には旅順→奉天→日本海の順。最終的にアメリカの仲介を受けて1905年(明治38年)9月5日に講和が成り立つ。授業で習った記憶のあるポーツマス条約。これで約1年と7ヶ月続いた日露戦争が終結。
日本は戦争での国力消耗がほぼ限界で、またロシアは革命が起きて国内が混乱するなど、双方にとってちょうどいい潮時のタイミングだったのかも知れない。講和=手打ちになっただけで、太平洋戦争での日本のようにロシアが降伏したわけではないのだが、全世界的にこの戦争は日本の勝利と認識された。
そして日露戦争で日本が勝ったニュースは各国に衝撃を与える。
それは
小国日本が大国ロシアに勝った(面積の話じゃなく国力の差)
黄色人種が白人に勝った
から。
その受け止め方は各国の状況に応じて様々。
イギリス:ロシアと対立していたので「ロシアざまあ」な反応。
日英同盟を結んでいたイギリスは、バルチック艦隊の補給を
妨害するなど陰に日向に日本を支援していて、
その協力がなければ日本海海戦の勝利もなかったとされる。
ただし日本が勝つとは思っておらず、最後は自らが仲介に乗り出して
漁夫の利で中国の利権を拡大しようと考えていたので、ちょっと
ガッカリしたとも。
フランス:ロシアとつながりが深かったので悲観ムード。
アメリカ:日本の海軍力に警戒感を強める。
そして欧米列強の支配を受けていたアジアの国々では大絶賛! また後年に数多くの政治指導者が「日露戦争での日本の勝利が励ましになった」との言葉を残している。一例を挙げるとネルー(インド初代首相)、孫文(中国革命の父)、バー・モウ(ビルマの独立指導者)、ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの独立指導者)など。ただしやがて日本が東南アジアを支配するようになってガッカリさせてしまうのだが。
最も熱狂的に日露戦争勝利を喜んだのはトルコ(この頃はオスマン帝国)。それは当時トルコがロシアの属領になっていたから。上は皇帝から下は庶民まで日本を応援したといわれる。そして子供の名前にトーゴーと付ける人まで多くいたとか。でも東郷は苗字だから、名付けるならヘイハチローなんだけどな(^^ゞ
話はそれるが東郷=TOGOは分解するとto go。toは発音がtwoに似ている。それでイギリス留学時代に寄宿舎で one go, two go, three goとからかわれていたとの記録を読んだ。面白そうなエピソードなのに、何と訳していいのか分からない(/o\)
なおto goはハンバーガーなどのお持ち帰りでも使う。テイクアウトはまったくの和製英語。それにしてもいかにも英語っぽい和製英語を誰が考えたのだろう。
ついでにプーチンはPutinでput inに分解できる。put inは中に入れる、挿入するとの意味があり、英語圏ではput in Putinと罵っているとかいないとか。日本語訳は書かないけれどジャニー喜多川さんがやってらっしゃった行為です(^^ゞ
さて
その日露戦争後も東郷平八郎の名声・人気は衰えることなく、米国タイム誌の表紙に日本人として初めて選ばれる。日露戦争終戦から25年後の1926年(昭和元年)の発行。
ちなみにタイム誌で過去に日本人が表紙を飾ったのは41回。ただし昭和天皇の6回など重複を除外し、さらに不特定多数の人物として取り上げられた例を除くと「カバーパーソン」となった日本人は31名。タイム誌は週刊誌で創刊は1923年3月3日。単純計算では今までに5249号を発行しているから日本人の存在感は超希薄。41回で計算しても登場率わずかに0.8%である。だからニュース雑誌タイムの表紙になると日本ではそれがニュースになる。なお31名には含まれていないがポケモンの号もあった。
また今年の5月にタイム誌の表紙を飾ったと話題になった岸田総理であるが、彼が掲載されたのは本国のタイム誌ではなくアジア版。過去3回掲載された安倍元総理も同じ。アジア版の表紙になった日本人は25名。
アジア版の創刊がいつなのかなぜかネットで調べてもヒットしなかった。ChatGPTに尋ねても同様だったが、英語で質問すると1993年と回答。ChatGPTしかソースがないのは不安だけれど、とりあえず1993年として、日付は中間を採って7月1日で計算すると現在までに1579号。アジア版でもダメダメな日本人(>_<)
ところで写真で見る東郷平八郎は次のようなものが多いかな。
左の写真は元帥と書かれているから65歳以上で撮られたもの。それ以前の写真に但し書きを入れた可能性もあるが。詳しい人なら勲章などで判断できるはず。それはともかく実にカッコイイし威厳がある。右側は同時期の撮影と思われるが、撮り方の影響なのか姿勢にやや年齢を感じる。カメラマンの腕前は大事だね。そして足元のマットはなくていいと思うゾ。
こちらはもっと若い頃。といっても制服の袖にラインが5本あるから大将の階級になってからのもの。そういう軍事オタク的知識はないものの、上の写真もラインが5本で、日本の元帥は階級としては大将だからとの判断。だとすると東郷平八郎が大将になったのは1904年で57歳だから、それ以降の撮影。明治時代の人にしては歳を取っても老け込んでいない印象。
めちゃイケメンなのに驚く。
そしてこの写真に着色したものを見つけた。
少し前の映画スターで、
これ以上にカッコよかった人はいた?レベル。画像はhttps://twitter.com/DigitalMixComp/status/1232291326714007552から引用
白黒でも顔は同じなのに、
カラーになるとリアルになってインパクトを増すものだと改めて感心したしだい。
お待たせしました!(誰も待っていないか)
よ〜〜〜やく東郷神社に話が戻るm(_ _)m
社殿エリアを離れて入口に戻る。東郷記念館コッチの案内があった。
これは資料館じゃなくレストランや結婚式場の施設なのでスルー。
鳥居まで向かう途中に庭園エリアがあるので、そちらに。
写真を拡大すると狛犬がやたらカクカクしているのが分かる。
これは狛犬ではなく獅子らしい。
獅子(しし)とはライオンがベースの架空の生物。実は狛犬(コマイヌ)も犬ベースの架空の生物。そして狛犬のルーツは獅子なのでまあ似たようなもの。
庭園には大きな池がある。
写真に写っている7名の内、浴衣を着ている女性を含めて4名は白人。他にもチラホラ見かけた。東郷神社は外国人に人気があるみたい。
池の後ろにあるのが東郷記念館。
周りを高いビルに囲まれてはいても、
明治通り・竹下通りの喧噪を忘れ去れる都会のオアシス的な場所。
喧噪から静寂へのワープ感覚という点では、すぐ近くの明治神宮にもちろん適わない。しかし明治神宮は広すぎて時間が掛かるから、原宿にいて手っ取り早く静寂に浸りたいなら東郷神社がオススメ。
<おまけ>
別に東郷平八郎ファンでも何でもないのだが、
彼ゆかりの場所には今まで他に2箇所訪れている。
まず2011年、バイクツーリングで立ち寄った三笠公園。
ここには日本海海戦で東郷が乗艦した戦艦三笠が保存されている。
記念艦として保存されたのは大正14年(1925年)。その後いろいろあって戦後はダンスホールや水族館などの施設になり、大砲や船の上部構造などは取り除かれている。
それが復元されたのは1961年(昭和36年)。外観はハリボテ感を隠せないところが見られるものの、船の内部も見学できるのでソコソコは楽しめる。
当時のブログページには ↓ から。
三笠公園について書いているのはページ後半。
「ブラブラと横浜・横須賀〜三崎」
次は2021年に、しだれ桜を見に出かけた調布市にある東郷寺。
東郷平八郎の別荘地跡に建てられたお寺で、彼とは直接の関係はない。
ここのしだれ桜はとても素晴らしい。
この景色が東京とは思えないでしょ。
当時のブログページには ↓ から。
「東郷寺でしだれ桜」
「東郷寺でしだれ桜 その2」
「東郷寺でしだれ桜 その3」
おしまい
2023年10月09日
東郷神社を初訪問 その5 プロフィールと国葬
さて無駄にあれこれ書いてきたここまでのブログ。
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。
生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。
その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。
イギリス留学時代の東郷平八郎。
1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。
日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。
トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。
陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。
さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。
彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。
ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。
それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)
国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。
ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では
天皇・皇后 6名
韓国皇帝 2名
旧藩主 3名
政治家 8名
皇族軍人 6名
元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)
純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。
ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?
戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
「国葬」が位置づけられていた。
参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。
戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
だから国葬じゃなく国葬儀。
しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。
なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。
ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。
生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。
その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。
イギリス留学時代の東郷平八郎。
1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。
日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。
トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。
陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。
さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。
彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。
ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。
それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)
国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。
ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では
天皇・皇后 6名
韓国皇帝 2名
旧藩主 3名
政治家 8名
皇族軍人 6名
元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)
純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。
ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?
戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
「国葬」が位置づけられていた。
参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。
戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
だから国葬じゃなく国葬儀。
しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。
なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。
ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m
2023年10月06日
東郷神社を初訪問 その4 東郷ターン
前回のブログ内容が東郷神社から離れてしまったのは、日露戦争や日本とはまったく関係のないアメリカの戦争アクション系映画を観て、現在でも米海軍の研修で東郷平八郎が日本海海戦で用いた「東郷ターン」が取り上げられていると知った話を書いたから。
それでしつこくその続き(^^ゞ
昔の大規模な艦隊同士の海戦では、それぞれが縦1列の陣形の場合(単縦陣という)に、主に3つの交戦パターンがあった。
同航戦:同じ方向に進みながら大砲を撃つ 平航戦とも言う
反航戦:反対方向にすれ違いながら大砲を撃つ
T字戦:敵の進路を塞ぐような位置を取って大砲を撃つ
同航戦は敵艦との速度が同じなら普通に狙って撃てばいいので命中率は高い。もちろん敵から命中される率も高くなる。反航戦は離れながら撃つ=大砲が届くときの敵艦の位置を推測して撃たなければいけないので命中率は下がる。そしてT字戦については次のように説明される。
ここれは日本海海戦で旗艦(司令官の乗る船)だった戦艦三笠のプラモデル。本物の全長は132メートル。画像はhttp://www.hasegawa-model.co.jp/product/z21/から引用
前と後ろの甲板に主砲、船のサイドに副砲が並んでいる。資料によれば副砲は片側に大小併せて15門が装備されている。そして主砲は左右に回転する。どれくらいの角度まで回転するのかよく知らないのだが、とりあえず90度回転つまり真横までは向けられるとする。
するとT字戦で横側になった艦隊(上の図では赤)は、船の反対側の副砲を除いて全砲門を使えるのに対し、縦側の艦隊(図では青)は前部の主砲しか使えないから不利となる。この説明にはいろいろと分からないところや疑問に思うところもあるものの、それを書き出すと長くなるので、とりあえず横側になれば有利としておこう。
ただT字戦は高度な操船、艦隊の統率が要求されるのは素人でも分かる。それはドンピシャのタイミングでT字を作らなければならないから。タイミングが早すぎるとすり抜けられるし、タイミングが遅いと逆に自分が縦に突っ込む位置取りになってしまう。
さてバルチック艦隊の太平洋艦隊(前回ブログ参照)は、
次のような航路で遠路はるばる日本海までやって来た。
1904年(明治37年)10月15日 第2艦隊がバルト海を出航。
本隊はアフリカ大陸を回ってマダガスカルを目指す(青いライン)。
地図では分かりにくいがオレンジのラインの支隊は地中海からスエズ運河を抜けて
マダガスカルへ。途中で黒海からの船とも合流する。
本隊が遠回りしたのは船が大きくてスエズ運河を通れなかったから。
マダガスカル到着は支隊が12月30日、本隊が翌年1905年1月9日
1905年2月15日 第3艦隊がバルト海を出航(赤いライン)。
3月16日 第2艦隊がマダガスカルを出航
4月14日 第2艦隊がベトナムに到着
5月9日 第3艦隊がベトナムに到着して第2艦隊と合流する
5月14日 両艦隊でベトナムを出航
そして5月27日から28日に掛けて対馬沖で日本海海戦となる。
日本海海戦はバルチック艦隊が7ヶ月も航海を続け、日本海に入ったときはヘロヘロだったから連合艦隊は勝てたと書かれているものもある。しかし第2艦隊はマダガスカルで3ヶ月、ベトナムで1ヶ月も停泊している。後発の第3艦隊にしてもベトナムで5日間ほどの休息期間があった。もちろん5日でリフレッシュできたかとの疑問は残るが。
それよりも航海途中に燃料や食糧は補給できても砲弾は手に入らないだろうから、ほとんど訓練をしていなかったんじゃないかな。バルト海を出航して日本海海戦を戦うまでに第2艦隊は7ヶ月、第3艦隊は3ヶ月がたっている。ゴルフでも何ヶ月もクラブを握らずいきなりコースに出たらそりゃ厳しい。
さてウラジオストックには行かせまいと、対馬沖で待ち構えていた東郷平八郎率いる連合艦隊は、事前に陣形について次の作戦を決定していた。
バルチック艦隊が単縦陣で来たならT字戦法 当時は丁(てい)字
そうでなければZ字戦法 当時は乙(おつ)字
Z字戦法についてよく理解していない。ただしZとはジグザクを意味しているようで、要はそれぞれバラバラで臨機応変に対処という戦法だろうか。
T字戦法はおそらくはある程度離れたところで旋回して、
バルチック艦隊の前に出るつもりだったと思われる。
ところがバルチック艦隊を発見したときは、すでにかなり接近した状態になっていた。この時代はレーダーや飛行機はまだない。偵察の船を何隻か前方に展開して、その目撃情報を元に進路を予想していたが(モールス信号による無線連絡は実用化されていた)、どうやら不正確な情報だったらしい。
このまま進めば反航戦になる。反航戦は命中率が低いからバルチック艦隊に逃げられる可能性が高い。彼らの目的は前回に書いたように、まずウラジオストックへの入港で、この時点で連合艦隊を叩くことじゃない。逆に連合艦隊にとってここで取り逃がせば、それは引き分けではなく負けに等しい。
それで東郷平八郎は艦隊を急旋回させて、強引にT字戦法にもっていった。この旋回が「東郷ターン」。東郷ターンはTOGO Turnとして海外で広まったネーミングで、当時は敵前大回頭と呼んでいた。
これは日本海海戦の航跡をすべて示したロシア側の記録。
素人には判別できないので、
こちらが開戦直後の概略図。画像はhttps://www.jiji.com/jc/v4?id=20101224battle_of_tsushima0009より引用
そのまま左旋回するとバルチック艦隊の右側に出てしまうため、距離を取るため一旦右旋回してからUターンするように左旋回してT字ポジションを作ろうとしている。相当にトリッキーな動き。東郷ターンとは一般に2度目の左旋回を指す。しかしまるでフェイントのような最初の右旋回も含めてそう呼ぶべきな気がする。ただしあくまで素人見解。
そして東郷はバルチック艦隊との距離8000mで左旋回の指示を出した。8000mは大砲の射程距離内である。旋回中は大砲を撃てないらしく(理由は知らない)航行速度も落ちるから格好の標的になる。実際かなりの砲撃を受けたようだ。
しかし相手の意表を突く作戦を、鍛え上げた艦隊の操艦練度をもって実行し、そして何より成功させた。だからこそ東郷ターンが世界の海戦史上の奇跡と評価され、その名が海外でも語り継がれたのだと思われる。
ただしバルチック艦隊だってむざむざT字戦法に引っ掛かるほどバカじゃないから、それを回避するために右方向に進路を転換している。だからT字戦法はなかった、その形になったとしても数分のことじゃないか、ほとんどは同航戦だろとの批評は多くある。東郷ターンも単なるバクチと見なされたり。
またこの日本海海戦の9ヶ月ほど前、日露戦争の開始からは6ヶ月後の1904年(明治37年)8月に、連合艦隊とロシアの太平洋艦隊(旅順艦隊)が相まみえた黄海海戦があった。そこでもT字戦法を仕掛けたのだが見事にかわされて失敗する。しかも2回も(/o\) この時の司令長官も東郷平八郎。
その黄海海戦での「失敗に終わったT字戦法」は海軍が作成した戦史に記載されている。なのに日本海海戦で「大成功したT字戦法」は載っていないらしい。ネットで得られた情報だから真偽は確認していないが、そんなところも日本海海戦でT字戦法は使われていないと疑われている理由になっているようだ。
前々回に東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると書いた。おそらく東郷ターンもそうだろう。話を盛るのはプロパガンダではありがちだけれど、日露戦争は講和条約で賠償金も取れずに国民の不満が爆発した。いわゆる戦争で勝って外交で負けた展開。それで国民の気をそらすため血湧き肉躍る武勇伝とヒーローが必要だったのかも知れない。なんたってZ旗とT字である。アルファベットなんて明治の人にはとてもインパクトがあったと思う。
参考までに日本海海戦に参加したのは
連合艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):4隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):24隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)21隻
小計49隻
その他59隻 合計108隻
バルチック艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):8隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):12隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)9隻
小計29隻
その他9隻 合計38隻
何だ、日本が数で圧倒しているじゃないか、東郷ターンなどなくても普通に戦って勝てたのではと思われるだろう。私もそう思ったが当時は戦艦の数で勝敗が決まると言われていたらしく、数の上では劣勢な戦いとされた。
そして、その結果は
連合艦隊
その他59隻に分類した小型艦艇3隻が撃沈
戦死117名、戦傷583名
バルチック艦隊
全38隻中16隻が撃沈、捕獲を避けるための自沈5隻(沈没合計21隻)
連合艦隊に拿捕されたのが6隻
中立国に逃げ込んだのが6隻(清やアメリカ領フィリピンなど)
本国へ帰還したのが2隻
ウラジオストックまで到達できたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻の3隻のみ
戦死4830名、捕虜6106名
東郷ターンよるものかどうかは別として、まさに歴史的大勝利。ただし日露戦争トータルでの戦没者数は日本が8万8429名、ロシアが8万1210名とほぼ同じ。合掌
実は東郷神社にいたのはたった20分ほどなのだけれど、
ブログはまだ続く(^^ゞ
次回は東郷平八郎の話題に戻る予定。
それでしつこくその続き(^^ゞ
昔の大規模な艦隊同士の海戦では、それぞれが縦1列の陣形の場合(単縦陣という)に、主に3つの交戦パターンがあった。
同航戦:同じ方向に進みながら大砲を撃つ 平航戦とも言う
反航戦:反対方向にすれ違いながら大砲を撃つ
T字戦:敵の進路を塞ぐような位置を取って大砲を撃つ
同航戦は敵艦との速度が同じなら普通に狙って撃てばいいので命中率は高い。もちろん敵から命中される率も高くなる。反航戦は離れながら撃つ=大砲が届くときの敵艦の位置を推測して撃たなければいけないので命中率は下がる。そしてT字戦については次のように説明される。
ここれは日本海海戦で旗艦(司令官の乗る船)だった戦艦三笠のプラモデル。本物の全長は132メートル。画像はhttp://www.hasegawa-model.co.jp/product/z21/から引用
前と後ろの甲板に主砲、船のサイドに副砲が並んでいる。資料によれば副砲は片側に大小併せて15門が装備されている。そして主砲は左右に回転する。どれくらいの角度まで回転するのかよく知らないのだが、とりあえず90度回転つまり真横までは向けられるとする。
するとT字戦で横側になった艦隊(上の図では赤)は、船の反対側の副砲を除いて全砲門を使えるのに対し、縦側の艦隊(図では青)は前部の主砲しか使えないから不利となる。この説明にはいろいろと分からないところや疑問に思うところもあるものの、それを書き出すと長くなるので、とりあえず横側になれば有利としておこう。
ただT字戦は高度な操船、艦隊の統率が要求されるのは素人でも分かる。それはドンピシャのタイミングでT字を作らなければならないから。タイミングが早すぎるとすり抜けられるし、タイミングが遅いと逆に自分が縦に突っ込む位置取りになってしまう。
さてバルチック艦隊の太平洋艦隊(前回ブログ参照)は、
次のような航路で遠路はるばる日本海までやって来た。
1904年(明治37年)10月15日 第2艦隊がバルト海を出航。
本隊はアフリカ大陸を回ってマダガスカルを目指す(青いライン)。
地図では分かりにくいがオレンジのラインの支隊は地中海からスエズ運河を抜けて
マダガスカルへ。途中で黒海からの船とも合流する。
本隊が遠回りしたのは船が大きくてスエズ運河を通れなかったから。
マダガスカル到着は支隊が12月30日、本隊が翌年1905年1月9日
1905年2月15日 第3艦隊がバルト海を出航(赤いライン)。
3月16日 第2艦隊がマダガスカルを出航
4月14日 第2艦隊がベトナムに到着
5月9日 第3艦隊がベトナムに到着して第2艦隊と合流する
5月14日 両艦隊でベトナムを出航
そして5月27日から28日に掛けて対馬沖で日本海海戦となる。
日本海海戦はバルチック艦隊が7ヶ月も航海を続け、日本海に入ったときはヘロヘロだったから連合艦隊は勝てたと書かれているものもある。しかし第2艦隊はマダガスカルで3ヶ月、ベトナムで1ヶ月も停泊している。後発の第3艦隊にしてもベトナムで5日間ほどの休息期間があった。もちろん5日でリフレッシュできたかとの疑問は残るが。
それよりも航海途中に燃料や食糧は補給できても砲弾は手に入らないだろうから、ほとんど訓練をしていなかったんじゃないかな。バルト海を出航して日本海海戦を戦うまでに第2艦隊は7ヶ月、第3艦隊は3ヶ月がたっている。ゴルフでも何ヶ月もクラブを握らずいきなりコースに出たらそりゃ厳しい。
さてウラジオストックには行かせまいと、対馬沖で待ち構えていた東郷平八郎率いる連合艦隊は、事前に陣形について次の作戦を決定していた。
バルチック艦隊が単縦陣で来たならT字戦法 当時は丁(てい)字
そうでなければZ字戦法 当時は乙(おつ)字
Z字戦法についてよく理解していない。ただしZとはジグザクを意味しているようで、要はそれぞれバラバラで臨機応変に対処という戦法だろうか。
T字戦法はおそらくはある程度離れたところで旋回して、
バルチック艦隊の前に出るつもりだったと思われる。
ところがバルチック艦隊を発見したときは、すでにかなり接近した状態になっていた。この時代はレーダーや飛行機はまだない。偵察の船を何隻か前方に展開して、その目撃情報を元に進路を予想していたが(モールス信号による無線連絡は実用化されていた)、どうやら不正確な情報だったらしい。
このまま進めば反航戦になる。反航戦は命中率が低いからバルチック艦隊に逃げられる可能性が高い。彼らの目的は前回に書いたように、まずウラジオストックへの入港で、この時点で連合艦隊を叩くことじゃない。逆に連合艦隊にとってここで取り逃がせば、それは引き分けではなく負けに等しい。
それで東郷平八郎は艦隊を急旋回させて、強引にT字戦法にもっていった。この旋回が「東郷ターン」。東郷ターンはTOGO Turnとして海外で広まったネーミングで、当時は敵前大回頭と呼んでいた。
これは日本海海戦の航跡をすべて示したロシア側の記録。
素人には判別できないので、
こちらが開戦直後の概略図。画像はhttps://www.jiji.com/jc/v4?id=20101224battle_of_tsushima0009より引用
そのまま左旋回するとバルチック艦隊の右側に出てしまうため、距離を取るため一旦右旋回してからUターンするように左旋回してT字ポジションを作ろうとしている。相当にトリッキーな動き。東郷ターンとは一般に2度目の左旋回を指す。しかしまるでフェイントのような最初の右旋回も含めてそう呼ぶべきな気がする。ただしあくまで素人見解。
そして東郷はバルチック艦隊との距離8000mで左旋回の指示を出した。8000mは大砲の射程距離内である。旋回中は大砲を撃てないらしく(理由は知らない)航行速度も落ちるから格好の標的になる。実際かなりの砲撃を受けたようだ。
しかし相手の意表を突く作戦を、鍛え上げた艦隊の操艦練度をもって実行し、そして何より成功させた。だからこそ東郷ターンが世界の海戦史上の奇跡と評価され、その名が海外でも語り継がれたのだと思われる。
ただしバルチック艦隊だってむざむざT字戦法に引っ掛かるほどバカじゃないから、それを回避するために右方向に進路を転換している。だからT字戦法はなかった、その形になったとしても数分のことじゃないか、ほとんどは同航戦だろとの批評は多くある。東郷ターンも単なるバクチと見なされたり。
またこの日本海海戦の9ヶ月ほど前、日露戦争の開始からは6ヶ月後の1904年(明治37年)8月に、連合艦隊とロシアの太平洋艦隊(旅順艦隊)が相まみえた黄海海戦があった。そこでもT字戦法を仕掛けたのだが見事にかわされて失敗する。しかも2回も(/o\) この時の司令長官も東郷平八郎。
その黄海海戦での「失敗に終わったT字戦法」は海軍が作成した戦史に記載されている。なのに日本海海戦で「大成功したT字戦法」は載っていないらしい。ネットで得られた情報だから真偽は確認していないが、そんなところも日本海海戦でT字戦法は使われていないと疑われている理由になっているようだ。
前々回に東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると書いた。おそらく東郷ターンもそうだろう。話を盛るのはプロパガンダではありがちだけれど、日露戦争は講和条約で賠償金も取れずに国民の不満が爆発した。いわゆる戦争で勝って外交で負けた展開。それで国民の気をそらすため血湧き肉躍る武勇伝とヒーローが必要だったのかも知れない。なんたってZ旗とT字である。アルファベットなんて明治の人にはとてもインパクトがあったと思う。
参考までに日本海海戦に参加したのは
連合艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):4隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):24隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)21隻
小計49隻
その他59隻 合計108隻
バルチック艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):8隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):12隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)9隻
小計29隻
その他9隻 合計38隻
何だ、日本が数で圧倒しているじゃないか、東郷ターンなどなくても普通に戦って勝てたのではと思われるだろう。私もそう思ったが当時は戦艦の数で勝敗が決まると言われていたらしく、数の上では劣勢な戦いとされた。
そして、その結果は
連合艦隊
その他59隻に分類した小型艦艇3隻が撃沈
戦死117名、戦傷583名
バルチック艦隊
全38隻中16隻が撃沈、捕獲を避けるための自沈5隻(沈没合計21隻)
連合艦隊に拿捕されたのが6隻
中立国に逃げ込んだのが6隻(清やアメリカ領フィリピンなど)
本国へ帰還したのが2隻
ウラジオストックまで到達できたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻の3隻のみ
戦死4830名、捕虜6106名
東郷ターンよるものかどうかは別として、まさに歴史的大勝利。ただし日露戦争トータルでの戦没者数は日本が8万8429名、ロシアが8万1210名とほぼ同じ。合掌
実は東郷神社にいたのはたった20分ほどなのだけれど、
ブログはまだ続く(^^ゞ
次回は東郷平八郎の話題に戻る予定。
2023年10月04日
東郷神社を初訪問 その3 バルチック艦隊と連合艦隊
Z旗の描かれたノボリがある階段の近くから、
レリーフのあった門の方向。
9月終盤のこの日も最高気温は30度を超えていたものの、
空にはしっかり秋のうろこ雲。上空はもう涼しいみたい。
そしてビルの窓に映る雲がなかなかイイ感じ。
大きな神社だと神様を祀ってある本殿と、お参りをするための拝殿が分かれている場合が多い。東郷神社は外から見る限りひとつの建物のようだ。その場合は何と呼べばいいの?
とりあえず社殿と呼ぶか。そこにも前回で紹介したZ旗が掲げられている。しかもけっこう大きななサイズで。もし何も由緒を知らなくてこの神社を訪れて、そしてそれが船舶関係者だったら「どうしてタグボートが必要なのだ?」と思うのかな(^^ゞ
この神社に祀られているのは何度も書いてきた東郷平八郎。授業で日露戦争は習うので、彼の名前は乃木希典(まれすけ)とセットで中学生の頃から知っている。でも特に興味を持っていたわけじゃない。単なる教科書に載っていた人扱い。
しかしいつだったか覚えていないものの、海外の戦争アクション系映画を観てたときのこと。アメリカ海軍(たぶん)で新入り将校が研修を受けているようなシーンがあった。そこでは敵味方の軍艦の動きが図で示されていて「そしてこれがかの有名な東郷ターンだ」と教官が説明していた。
東郷ターンについてはその時まで知らなかった。しかし、そういえば教科書には書かれていなかったけれど、先生が日本はすごい作戦で日本海海戦に勝利したとか熱心に話してくれたのを思い出した。
その映画の時代設定は現在で、また日本はまったく登場しないストーリー。だから明治時代の日露戦争でとった戦法が、今でも教材となっているのにちょっとビックリした。日本人が思っている以上に、東郷平八郎とバルチック艦隊との戦いは世界の海軍では語り継がれているみたい。外国軍隊の教科書に名前が載っている日本軍人は彼くらいかも知れない。
ところで今の若者には日本がアメリカと戦争したのを知らない者もいると、報道ではなくマスコミの小ネタ扱いで掲載されることがたまにある。もちろん現在でも義務教育の授業で教えているはず。授業をサボったり、習ったのを忘れていたり、単にアホで理解できなかったりする連中はいつの時代でも一定数いるとしても、それが若者の学力平均値だとは思っていない。
でも日清・日露の戦争まで遡ると、その名前を覚えている程度で、どんな戦争だったかを理解していない人のほうが多いだろう。以前に1人だけ、なんと日露戦争で日本がモスクワに攻め込んだと勘違いしている人に出会った経験もある(/o\) もっとも太平洋戦争が起きた背景だってキチンと説明できる人は少ないが。
そこで東郷平八郎ついでに、
超オオザッパに歴史のおさらいを。
【日清戦争 1894年(明治27年)〜1895年)】
明治維新から四半世紀がたって、国力を増してきた日本が朝鮮半島に縄張りを広げようとしたら「そこのシマは代々ウチの組のものやけん」と頭にきた清(しん:現在の中国)とドンパチになる。
主な戦場は朝鮮半島と、その隣の遼東半島など。
首都である北京までは攻めていないよ。
結果は日本のほぼ完勝。朝鮮半島から清を追い出し、また清から遼東半島、台湾などを譲り受け、さらに巨額の賠償金も獲得した。
ついこの間までちょんまげを結っていた日本なのに、衰えつつあるとはいえ大国の清に勝ったのをきっかけに日本の国際的地位が向上する。見方を変えれば警戒されるようになる。
【日露戦争 1904年(明治37年)〜1905年】
日清戦争で獲得した遼東半島であるが、その翌年、自らも清に縄張りを広げようと計画していたフランス、ドイツ、ロシアに「日本の他国への進出はその地域の平和を脅かす」と難癖を付けられて清に返還となる。いわゆる三国干渉。
遼東半島は満州に属する。満州の名前は知っていても、場所はどこだったっけ?人のために地図を載せておく。いわゆる中国の東北部。面積は約120万平方キロで、日本は約38万平方キロだから3倍以上の広さ。
そこを目指してロシアがチャッカリと南下。満州の隣は朝鮮半島だから見過ごすわけにはいかず勃発したのが日露戦争。だからこの時は日露両国ともアウェイでの戦い。清にしてみれば自国領土で勝手に他国が戦争している状況。しかも原因は自国領土の奪い合い。両方ともクタバレと思っていたに違いない。
朝鮮半島でもドンパチはあったものの、メインは満州南部の奉天や遼東半島。激戦地となったのが遼東半島の最西端にある旅順。映画やドラマのタイトルにもなってよく名前を聞く203高地は、旅順から2kmほど離れた海抜203メートルの丘陵地。高地と呼ぶには大げさに思えるが。海抜203メートルが名前の由来で、そのあたりに高地がたくさんあって、その203番目じゃないよ。
極東でロシア海軍の本拠地はウラジオストック。しかし日本との開戦が予想より早かったので規模が不十分。また日本海軍との戦いで弱体化し、日本海と黄海の制海権は日本が握っていた。そこでロシア本国(本国という表現はおかしいが、まあ首都からは遠く離れているので)から勢力拡大のために派遣されてきたのがバルチック艦隊。
だから彼らはまずウラジオストックに入るのが第1の目的。元からいる艦船と体制を立て直して日本海軍を牽制すれば、旅順で戦っているロシア陸軍の側面支援にもなるとの戦略。
ところでバルチック艦隊の名前は知っていても、その意味まで把握している人は少ない。バルチックとはバルト海のこと。英語で書くとBaltic Sea。日本語でバルチック海なんて言わないからバルト艦隊でよさそうなものだが、なぜかバルチック艦隊と呼ぶ。
そのバルト海があるのがこちら。
こんな遠いところからご苦労様である。
正確にいうとバルト海に展開しているがバルチック艦隊で、極東にいたロシア艦隊は太平洋艦隊である。しかし日露戦争の応援のためにバルチック艦隊から艦船を引き抜いて第2太平洋艦隊を編成し派遣すると決まる。またその第2太平洋艦隊が日本に向かう途中に旅順が陥落したので、さらにバルチック艦隊から引き抜いて編成したのが第3太平洋艦隊。この2つの艦隊の所属はもはやバルチック艦隊ではないが、日本ではこれをバルチック艦隊と呼ぶ習わし。
だからロシア人に「日露戦争でバルチック艦隊をイワシたった」とマウント取っても「バルチック艦隊は日本になんか行っていないも〜ん」と反論されるかも知れない(^^ゞ
実は艦隊の呼び方でもっと不思議なものがある。それは日本の連合艦隊。日露戦争での東郷平八郎の肩書きは連合艦隊司令長官。太平洋戦争を戦った山本五十六も連合艦隊司令長官である。後に総理大臣になった鈴木貫太郎や米内光政も連合艦隊司令長官を務めた。それで連合艦隊って何の連合?
言葉の定義としては、まず艦隊とは
軍艦2隻以上、もしくは航空隊2個以上によって編成された部隊
(航空隊とは空母を意味すると思われるが深く調べず)
驚いたことにたった2隻で艦隊は成立する。でもこれは辞書的な定義で、実際は大小様々な戦闘艦をセットにしたのが艦隊。日本海海戦で東郷平八郎が率いた艦隊の1つである第1艦隊には約30隻が所属していた。
そして連合艦隊とは2つ以上の艦隊で編成した艦隊と定義される。
それはいいとしてーーー
日露戦争開戦当時、日本には3つの艦隊があった。そして連合艦隊に所属したのはその3つすべて。太平洋戦争開戦当時は10の艦隊で連合艦隊が編成されている。ではその時、日本に全部でいくつの艦隊があったのか=連合艦隊に所属していない艦隊数は?が気になるところ。でもそれについて明確に記載されている資料が見つからなかった。
しかしどうやら連合艦隊に所属していないのは、老朽化して予備役的だったり、小規模な艦船で港湾や沿岸警備中心の艦隊がほとんどだったようだ。つまり外国との戦争には参加しない艦隊。
ということは、連合と名前はついていても連合艦隊とは、日本海軍そのものと実質的に同じ意味である。また海軍自身が連合艦隊の英訳としてGeneral Fleetを使用しており、これは「すべての」「艦隊」の意味だから、その解釈でおそらく間違いないだろう。なのにどうしてわざわざ連合艦隊と呼ぶのか不思議。
ところでヤクザの山口組は、山口組の下に多くの組が集まった組織。でも山口組と言えばその全体を指す。連合艦隊も似ていたりして(^^ゞ
それはさておき、毎年8月15日が近づくと太平洋戦争関連の番組が放送される。その中で連合艦隊や連合艦隊司令長官なんて言葉がシレっと使われている。でも、その意味を理解している人は1%もいないと思うゾ。
東郷神社からどんどん内容が離れていくけれどm(_ _)m
あと2回くらい続く予定。
レリーフのあった門の方向。
9月終盤のこの日も最高気温は30度を超えていたものの、
空にはしっかり秋のうろこ雲。上空はもう涼しいみたい。
そしてビルの窓に映る雲がなかなかイイ感じ。
大きな神社だと神様を祀ってある本殿と、お参りをするための拝殿が分かれている場合が多い。東郷神社は外から見る限りひとつの建物のようだ。その場合は何と呼べばいいの?
とりあえず社殿と呼ぶか。そこにも前回で紹介したZ旗が掲げられている。しかもけっこう大きななサイズで。もし何も由緒を知らなくてこの神社を訪れて、そしてそれが船舶関係者だったら「どうしてタグボートが必要なのだ?」と思うのかな(^^ゞ
この神社に祀られているのは何度も書いてきた東郷平八郎。授業で日露戦争は習うので、彼の名前は乃木希典(まれすけ)とセットで中学生の頃から知っている。でも特に興味を持っていたわけじゃない。単なる教科書に載っていた人扱い。
しかしいつだったか覚えていないものの、海外の戦争アクション系映画を観てたときのこと。アメリカ海軍(たぶん)で新入り将校が研修を受けているようなシーンがあった。そこでは敵味方の軍艦の動きが図で示されていて「そしてこれがかの有名な東郷ターンだ」と教官が説明していた。
東郷ターンについてはその時まで知らなかった。しかし、そういえば教科書には書かれていなかったけれど、先生が日本はすごい作戦で日本海海戦に勝利したとか熱心に話してくれたのを思い出した。
その映画の時代設定は現在で、また日本はまったく登場しないストーリー。だから明治時代の日露戦争でとった戦法が、今でも教材となっているのにちょっとビックリした。日本人が思っている以上に、東郷平八郎とバルチック艦隊との戦いは世界の海軍では語り継がれているみたい。外国軍隊の教科書に名前が載っている日本軍人は彼くらいかも知れない。
ところで今の若者には日本がアメリカと戦争したのを知らない者もいると、報道ではなくマスコミの小ネタ扱いで掲載されることがたまにある。もちろん現在でも義務教育の授業で教えているはず。授業をサボったり、習ったのを忘れていたり、単にアホで理解できなかったりする連中はいつの時代でも一定数いるとしても、それが若者の学力平均値だとは思っていない。
でも日清・日露の戦争まで遡ると、その名前を覚えている程度で、どんな戦争だったかを理解していない人のほうが多いだろう。以前に1人だけ、なんと日露戦争で日本がモスクワに攻め込んだと勘違いしている人に出会った経験もある(/o\) もっとも太平洋戦争が起きた背景だってキチンと説明できる人は少ないが。
そこで東郷平八郎ついでに、
超オオザッパに歴史のおさらいを。
【日清戦争 1894年(明治27年)〜1895年)】
明治維新から四半世紀がたって、国力を増してきた日本が朝鮮半島に縄張りを広げようとしたら「そこのシマは代々ウチの組のものやけん」と頭にきた清(しん:現在の中国)とドンパチになる。
主な戦場は朝鮮半島と、その隣の遼東半島など。
首都である北京までは攻めていないよ。
結果は日本のほぼ完勝。朝鮮半島から清を追い出し、また清から遼東半島、台湾などを譲り受け、さらに巨額の賠償金も獲得した。
ついこの間までちょんまげを結っていた日本なのに、衰えつつあるとはいえ大国の清に勝ったのをきっかけに日本の国際的地位が向上する。見方を変えれば警戒されるようになる。
【日露戦争 1904年(明治37年)〜1905年】
日清戦争で獲得した遼東半島であるが、その翌年、自らも清に縄張りを広げようと計画していたフランス、ドイツ、ロシアに「日本の他国への進出はその地域の平和を脅かす」と難癖を付けられて清に返還となる。いわゆる三国干渉。
遼東半島は満州に属する。満州の名前は知っていても、場所はどこだったっけ?人のために地図を載せておく。いわゆる中国の東北部。面積は約120万平方キロで、日本は約38万平方キロだから3倍以上の広さ。
そこを目指してロシアがチャッカリと南下。満州の隣は朝鮮半島だから見過ごすわけにはいかず勃発したのが日露戦争。だからこの時は日露両国ともアウェイでの戦い。清にしてみれば自国領土で勝手に他国が戦争している状況。しかも原因は自国領土の奪い合い。両方ともクタバレと思っていたに違いない。
朝鮮半島でもドンパチはあったものの、メインは満州南部の奉天や遼東半島。激戦地となったのが遼東半島の最西端にある旅順。映画やドラマのタイトルにもなってよく名前を聞く203高地は、旅順から2kmほど離れた海抜203メートルの丘陵地。高地と呼ぶには大げさに思えるが。海抜203メートルが名前の由来で、そのあたりに高地がたくさんあって、その203番目じゃないよ。
極東でロシア海軍の本拠地はウラジオストック。しかし日本との開戦が予想より早かったので規模が不十分。また日本海軍との戦いで弱体化し、日本海と黄海の制海権は日本が握っていた。そこでロシア本国(本国という表現はおかしいが、まあ首都からは遠く離れているので)から勢力拡大のために派遣されてきたのがバルチック艦隊。
だから彼らはまずウラジオストックに入るのが第1の目的。元からいる艦船と体制を立て直して日本海軍を牽制すれば、旅順で戦っているロシア陸軍の側面支援にもなるとの戦略。
ところでバルチック艦隊の名前は知っていても、その意味まで把握している人は少ない。バルチックとはバルト海のこと。英語で書くとBaltic Sea。日本語でバルチック海なんて言わないからバルト艦隊でよさそうなものだが、なぜかバルチック艦隊と呼ぶ。
そのバルト海があるのがこちら。
こんな遠いところからご苦労様である。
正確にいうとバルト海に展開しているがバルチック艦隊で、極東にいたロシア艦隊は太平洋艦隊である。しかし日露戦争の応援のためにバルチック艦隊から艦船を引き抜いて第2太平洋艦隊を編成し派遣すると決まる。またその第2太平洋艦隊が日本に向かう途中に旅順が陥落したので、さらにバルチック艦隊から引き抜いて編成したのが第3太平洋艦隊。この2つの艦隊の所属はもはやバルチック艦隊ではないが、日本ではこれをバルチック艦隊と呼ぶ習わし。
だからロシア人に「日露戦争でバルチック艦隊をイワシたった」とマウント取っても「バルチック艦隊は日本になんか行っていないも〜ん」と反論されるかも知れない(^^ゞ
実は艦隊の呼び方でもっと不思議なものがある。それは日本の連合艦隊。日露戦争での東郷平八郎の肩書きは連合艦隊司令長官。太平洋戦争を戦った山本五十六も連合艦隊司令長官である。後に総理大臣になった鈴木貫太郎や米内光政も連合艦隊司令長官を務めた。それで連合艦隊って何の連合?
言葉の定義としては、まず艦隊とは
軍艦2隻以上、もしくは航空隊2個以上によって編成された部隊
(航空隊とは空母を意味すると思われるが深く調べず)
驚いたことにたった2隻で艦隊は成立する。でもこれは辞書的な定義で、実際は大小様々な戦闘艦をセットにしたのが艦隊。日本海海戦で東郷平八郎が率いた艦隊の1つである第1艦隊には約30隻が所属していた。
そして連合艦隊とは2つ以上の艦隊で編成した艦隊と定義される。
それはいいとしてーーー
日露戦争開戦当時、日本には3つの艦隊があった。そして連合艦隊に所属したのはその3つすべて。太平洋戦争開戦当時は10の艦隊で連合艦隊が編成されている。ではその時、日本に全部でいくつの艦隊があったのか=連合艦隊に所属していない艦隊数は?が気になるところ。でもそれについて明確に記載されている資料が見つからなかった。
しかしどうやら連合艦隊に所属していないのは、老朽化して予備役的だったり、小規模な艦船で港湾や沿岸警備中心の艦隊がほとんどだったようだ。つまり外国との戦争には参加しない艦隊。
ということは、連合と名前はついていても連合艦隊とは、日本海軍そのものと実質的に同じ意味である。また海軍自身が連合艦隊の英訳としてGeneral Fleetを使用しており、これは「すべての」「艦隊」の意味だから、その解釈でおそらく間違いないだろう。なのにどうしてわざわざ連合艦隊と呼ぶのか不思議。
ところでヤクザの山口組は、山口組の下に多くの組が集まった組織。でも山口組と言えばその全体を指す。連合艦隊も似ていたりして(^^ゞ
それはさておき、毎年8月15日が近づくと太平洋戦争関連の番組が放送される。その中で連合艦隊や連合艦隊司令長官なんて言葉がシレっと使われている。でも、その意味を理解している人は1%もいないと思うゾ。
東郷神社からどんどん内容が離れていくけれどm(_ _)m
あと2回くらい続く予定。
2023年10月01日
東郷神社を初訪問 その2 Z旗
前回に書いた、
菊の御紋と蔦の葉の家紋がミックスされたレリーフのある門をくぐって左側の光景。
上の写真にある小さな門の外側には幟(のぼり)が並んでいる。
幟の上に描かれているカラフルな模様はZ旗。
Z旗は船同士で使う信号旗の1つ。正式名称は国際信号旗でA〜Zを示す文字旗、0〜9を示す数字旗とその他4種類、合計40枚で構成される。
国際信号旗はその文字旗を並べて単語にするのではなく、1文字ごとに意味する内容が定められており、さらに2文字あるいは3文字を同時に並べるとまた別の意味になる。
例えば
A旗:本船で潜水夫が活動中。徐速して通過せよ
B旗:危険物の運搬、積み降ろし中
で、そういうメッセージをマストに掲げて周りの船舶に伝える仕組み。
そして、この海上保安庁の巡視艇は上がU、下がYの旗。
それぞれの意味は
U旗:あなたは危険に向かっている
Y旗:本船は走錨中である
※走錨(そうびょう)とはイカリを下ろしているのに船が流されている状況
であるが、そうではなくてUとYをつなげると「本船は演習中なので避けて下さい」の意味になる。無線がなかった時代に考案されたコミュニケーション手法だけれど、ある大きさ以上の船舶や航行条件によっては、今でも使用が義務づけられている(詳しく調べていない)。
なおこうやってたくさんの信号旗を掲げるのは、祝日や式典などで祝意を表すためのもので軍艦なら満艦飾、一般の船なら満船飾と呼ばれる。海上保安庁の船も軍艦じゃないから満船飾と表現する。
ところで昔は祝意の表現として万国旗を掲げていたらしい。しかしどの国とどの国を隣に並べるか〜マストの上に並ぶ国と下に並ぶ国ができるーーーなどの面倒くさい問題を避けるために、国際信号旗が使われるようになったとされるのが面白い。
また以前は派手に飾り付けること、例えばクリスマスツリーにたくさんの飾りを付けるのを満艦飾にすると表現した。また洗濯物をたくさん干す様子も旗になぞらえて満艦飾といったりも。しかしそういう使い方はもう死語で、最後に使われたのは70年代後半に、ボディを電飾だらけにして走る「トラック野郎」という映画がヒットした頃かな。満船飾のほうはそういう比喩表現には用いられなかったし、満艦飾と較べて聞いた記憶がある人は少ないだろう。
さて話をZ旗に戻すと、国際信号旗での意味は
Z旗:本船にタグボートを求む
(タグボートとは大型船を引いたり押したりして接岸を助ける船)
だけれどZはアルファベットの最後だから「もう後はない」→「絶対に負けられない」との意気込みを示す目的でも使われた。そのきっかけは日露戦争でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ際に、司令長官の東郷平八郎が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との意味を込めてZ旗を掲げたのに由来する。1905年(明治38年)の出来事。
これは彼のエピソードの中で最も有名なもの。それで東郷平八郎といえばZ旗という図式が出来上がる。だから東郷神社ではZ旗のついた御守りはもちろん、なんとZ旗そのものまで売られている!(念のために書いておくと、この日本海海戦と呼ばれる戦いでは日本が圧倒的な勝利を収めた)
その後は勝利のシンボルとして応援の際にZ旗を振ったり、また「必死でがんばる」ことを「Z旗を掲げる」などと表現したようだが、かなり昔に廃れてしまったと思う。なお日産のフェアレディZのネーミングはZ旗に由来するといわれている。
ただこの東郷平八郎のZ旗エピソード。
よく調べてみるとちょっと微妙なのだ。
彼が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とメッセージを発したのは、日本海海戦の100年前の1805年、トラファルガーの海戦でイギリスがフランス(ナポレオンの時代)と戦った際に、イギリスのネルソン提督が「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」と檄を飛ばした故事に習ったもの。
その文章を英語にすると
England expects that every man will do his duty
それを当時のイギリス式信号旗の組み合わせで表現するとこうなる。
dutyは信号旗の組み合わせになかったみたい。uとtとyを表現するのにどうして旗が2つ必要なのか分からないが、とにかく3枚の組み合わせから1枚だけのものまで、合計12セットの信号旗がネルソンの文章には必要。それを順番にマストに掲げては降ろしを繰り返して周りに知らせ、そこから伝言ゲームのように信号旗を使って全艦に伝達したとされる。
けっこうたいへんな作業で信号担当員は大忙し。文法的にはthatを省略してもいいはずで、そうすれば11回で済んだのにと思うものの、まあどうでもいいか。
さて東郷平八郎のZ旗。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と長い文章なのに、どうして旗がたった1枚で済んだのか?
それはZ旗を掲げたら「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と各艦は全乗組員に伝えるようにと、あらかじめ文面を渡してあったから。ちょっとドラマティック感にかけるなあ平ハッチャン(^^ゞ
一説によるとネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との檄文を戦闘開始の直前に送ったので、そのてんやわんやの緊迫した状況で作戦とは何の関係もない指示に各艦の艦長は戸惑ったとされる。また水兵からは「言われんでもわかってるわ、敵はもう目の前やぞ!」と不評だったらしい。
ひょっとしたら、それを踏まえて事前に文章を配布しておいたのかも知れない。しかしそれでも「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との言葉に「ウォーッ」となったとしても、それがこのZ旗だ!と言われたら「ハア?」だったに違いない(^^ゞ あるいはZ旗は単に伝達のタイミングを知らせる合図であって「皇国の興廃〜」を象徴する意味合いはなかった可能性も。
だから東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると思う。もっともネルソンのエピソードだって時が経ってからは、その言葉で皆が奮い立ったことになっているから、まあ故事とはそんなもの。
なおこの言葉は東郷平八郎ではなく、その下で作戦担当参謀を務めていた秋山真之(さねゆき)が考えたもの。彼は同じく日本海海戦あるいは日本海軍史上での名文とされる電文「本日天気晴朗なれども波高し」でも知られる。
Z旗につられて今回も話が脱線 m(_ _)m
ーーー続く
菊の御紋と蔦の葉の家紋がミックスされたレリーフのある門をくぐって左側の光景。
上の写真にある小さな門の外側には幟(のぼり)が並んでいる。
幟の上に描かれているカラフルな模様はZ旗。
Z旗は船同士で使う信号旗の1つ。正式名称は国際信号旗でA〜Zを示す文字旗、0〜9を示す数字旗とその他4種類、合計40枚で構成される。
国際信号旗はその文字旗を並べて単語にするのではなく、1文字ごとに意味する内容が定められており、さらに2文字あるいは3文字を同時に並べるとまた別の意味になる。
例えば
A旗:本船で潜水夫が活動中。徐速して通過せよ
B旗:危険物の運搬、積み降ろし中
で、そういうメッセージをマストに掲げて周りの船舶に伝える仕組み。
そして、この海上保安庁の巡視艇は上がU、下がYの旗。
それぞれの意味は
U旗:あなたは危険に向かっている
Y旗:本船は走錨中である
※走錨(そうびょう)とはイカリを下ろしているのに船が流されている状況
であるが、そうではなくてUとYをつなげると「本船は演習中なので避けて下さい」の意味になる。無線がなかった時代に考案されたコミュニケーション手法だけれど、ある大きさ以上の船舶や航行条件によっては、今でも使用が義務づけられている(詳しく調べていない)。
なおこうやってたくさんの信号旗を掲げるのは、祝日や式典などで祝意を表すためのもので軍艦なら満艦飾、一般の船なら満船飾と呼ばれる。海上保安庁の船も軍艦じゃないから満船飾と表現する。
ところで昔は祝意の表現として万国旗を掲げていたらしい。しかしどの国とどの国を隣に並べるか〜マストの上に並ぶ国と下に並ぶ国ができるーーーなどの面倒くさい問題を避けるために、国際信号旗が使われるようになったとされるのが面白い。
また以前は派手に飾り付けること、例えばクリスマスツリーにたくさんの飾りを付けるのを満艦飾にすると表現した。また洗濯物をたくさん干す様子も旗になぞらえて満艦飾といったりも。しかしそういう使い方はもう死語で、最後に使われたのは70年代後半に、ボディを電飾だらけにして走る「トラック野郎」という映画がヒットした頃かな。満船飾のほうはそういう比喩表現には用いられなかったし、満艦飾と較べて聞いた記憶がある人は少ないだろう。
さて話をZ旗に戻すと、国際信号旗での意味は
Z旗:本船にタグボートを求む
(タグボートとは大型船を引いたり押したりして接岸を助ける船)
だけれどZはアルファベットの最後だから「もう後はない」→「絶対に負けられない」との意気込みを示す目的でも使われた。そのきっかけは日露戦争でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ際に、司令長官の東郷平八郎が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との意味を込めてZ旗を掲げたのに由来する。1905年(明治38年)の出来事。
これは彼のエピソードの中で最も有名なもの。それで東郷平八郎といえばZ旗という図式が出来上がる。だから東郷神社ではZ旗のついた御守りはもちろん、なんとZ旗そのものまで売られている!(念のために書いておくと、この日本海海戦と呼ばれる戦いでは日本が圧倒的な勝利を収めた)
その後は勝利のシンボルとして応援の際にZ旗を振ったり、また「必死でがんばる」ことを「Z旗を掲げる」などと表現したようだが、かなり昔に廃れてしまったと思う。なお日産のフェアレディZのネーミングはZ旗に由来するといわれている。
ただこの東郷平八郎のZ旗エピソード。
よく調べてみるとちょっと微妙なのだ。
彼が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とメッセージを発したのは、日本海海戦の100年前の1805年、トラファルガーの海戦でイギリスがフランス(ナポレオンの時代)と戦った際に、イギリスのネルソン提督が「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」と檄を飛ばした故事に習ったもの。
その文章を英語にすると
England expects that every man will do his duty
それを当時のイギリス式信号旗の組み合わせで表現するとこうなる。
dutyは信号旗の組み合わせになかったみたい。uとtとyを表現するのにどうして旗が2つ必要なのか分からないが、とにかく3枚の組み合わせから1枚だけのものまで、合計12セットの信号旗がネルソンの文章には必要。それを順番にマストに掲げては降ろしを繰り返して周りに知らせ、そこから伝言ゲームのように信号旗を使って全艦に伝達したとされる。
けっこうたいへんな作業で信号担当員は大忙し。文法的にはthatを省略してもいいはずで、そうすれば11回で済んだのにと思うものの、まあどうでもいいか。
さて東郷平八郎のZ旗。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と長い文章なのに、どうして旗がたった1枚で済んだのか?
それはZ旗を掲げたら「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と各艦は全乗組員に伝えるようにと、あらかじめ文面を渡してあったから。ちょっとドラマティック感にかけるなあ平ハッチャン(^^ゞ
一説によるとネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との檄文を戦闘開始の直前に送ったので、そのてんやわんやの緊迫した状況で作戦とは何の関係もない指示に各艦の艦長は戸惑ったとされる。また水兵からは「言われんでもわかってるわ、敵はもう目の前やぞ!」と不評だったらしい。
ひょっとしたら、それを踏まえて事前に文章を配布しておいたのかも知れない。しかしそれでも「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との言葉に「ウォーッ」となったとしても、それがこのZ旗だ!と言われたら「ハア?」だったに違いない(^^ゞ あるいはZ旗は単に伝達のタイミングを知らせる合図であって「皇国の興廃〜」を象徴する意味合いはなかった可能性も。
だから東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると思う。もっともネルソンのエピソードだって時が経ってからは、その言葉で皆が奮い立ったことになっているから、まあ故事とはそんなもの。
なおこの言葉は東郷平八郎ではなく、その下で作戦担当参謀を務めていた秋山真之(さねゆき)が考えたもの。彼は同じく日本海海戦あるいは日本海軍史上での名文とされる電文「本日天気晴朗なれども波高し」でも知られる。
Z旗につられて今回も話が脱線 m(_ _)m
ーーー続く