2024年01月

2024年01月31日

キュビスム展 美の革命 その5

ピカソとブラックがパリで1907年に始め、数年後にサロン・キュビストと呼ばれるフォロワーを生み出したキュビスムは、フランス以外の国にも広まっていく。


シャガールはベラルーシ出身でその頃の区分ではロシア人。キュビスムが当時のロシア画壇でも広まっていたかは知らないが、彼は1910年から5年ほどパリに住んでいるから、その時にキュビスムのハシカを患った。

ただしシャガールは一目見たら彼の作品とわかる独特の世界観を持っている。だからどうしてもシャガールの個性 > キュビスムになってしまう。「キュビスムの風景」はさすがにタイトルのキュビスムが入っているから万華鏡感があるけれど、「ロシアとロバとその他のものに」はキュビスムよりフォービスムを感じるかな。(長くなるのでフォービスムについては割愛)

シャガール 「ロシアとロバとその他のものに」 1911年
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タイトルはロバなのに、赤く大きく描かれているのは角が生えている牛。乳を飲んでいるのがロバなのか。右側は人間のようにも見えるけど。シャガールはユダヤ人で、ユダヤ人にとってロバは宗教的に特別な存在らしい。そのようなことがタイトルに関係しているみたいだが、ざっと調べた程度ではよくわからず。


シャガール 「墓地」 1917年
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シャガール 「キュビスムの風景」 1919〜1920年
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モディリアーニがなぜこの並びに展示されていたかはよくわからない。まあモディリアーニもイタリア人だが。でもそんなことをいったらピカソはスペイン人。

モディリアーニ 「カリアティード」 制作時期不明
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カリアティードは「重荷を支える女」の意味のギリシャ語で、
主に女性像の形をした柱を指す。
カリアティード

それを知らなかったから会場では、水浴びでもしているポーズかと思っていた(^^ゞ おそらくこれは重い水瓶かなんかを支えているポーズで、ロダンも「カリアティード」のタイトルでそういう彫刻を作っている。

それにしても、こんなに白く塗られたモディリアーニは初めて見る。調べるとどうやらこれは絵画作品ではなく、彫刻のための下絵のようなものらしい。モディリアーニは彫刻家志望の時期があった。しかし貧乏暮らしで素材の石を買えない(/o\) & 病弱で石を彫る体力がない(>_<) ので断念した経緯がある。彼にお金と体力があったならと思っているモディリアーニファンは多い。私もそう。

これは未完成作品のようにも思えるーーー
モディリアーニ 「赤い頭部」 1915年
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その他の作品いろいろ。シュルヴァージュ、ラリオーノフ、ゴンチャローワはロシア人。グリスとブランシャールはスペイン人。ただし全員とも多かれ少なかれパリ在住の時期はある。


レオポルド・シュルヴァージュ 「エッティンゲン男爵夫人」 1917年   ロシア
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ミハイル・ラリオーノフ 「散歩:大通りのヴィーナス」 1912〜1913年   ロシア
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ナターリヤ・ゴンチャローワ 「電気ランプ」 1913年   ロシア
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フアン・グリス 「朝の食卓」 1915年   スペイン
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マリア・ブランシャール 「輪を持つ子供」 1917年   スペイン
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ピカソとブラックの「分析的キュビスム」「総合的キュビズム」の時代にキュビスムは、

  多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
  対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える

との明確な方向性を持っていた。しかしサロン・キュビストが登場して、つまりたった二人ではなく多くの画家が様々な考えでキュビスムを手がけるようになって、当然ながらその内容も多様化する。このコーナーもサロン・キュビストと同時期で、キュビスムの方向性を多少は保持していても、作品によってはキュビスム展でなければそうだと気付かないかも知れない。もうキュビスムとはほとんど何でもありの状態になっている。

でも考えてみると、この1900年代の初頭は絵画が何でもありになった時代なのだ。ピカソが1907年に描いた「アヴィニョンの娘たち」でキュビスムが生まれた。そしてその2年前の1905年のサロン・ドートンヌ展覧会で、原色を多用した色彩と激しいタッチの筆使いのフォービスムが始まっている。

印象派がその名前で呼ばれるようになったのはそれより30年ほど前の1874年。それまでの絵画がクラシック音楽だとすれば、そこにロックを持ち込んだのが印象派と以前に書いた。あるいはファッションでならスーツではなくカジュアルウエアの誕生。

その印象派ロックは初期のビートルズのようなロックンロールみたいなものかな。それによって今までの伝統様式の殻を破った絵画はだんだんと過激に何でもありとなる。フォービスムはハードロック、キュビスムはプログレッシブロックといったところだろうか。

やがてロックはグラムロック、パンク、ヘビメタ、グランジなど様々に派生し、よほどのロックマニアでなければ、その違いを体系だって説明するのは不可能。共通点はエレキギターがメインの楽器なことくらい。でも楽しめればそれでよし。

音楽や絵画に限らず芸術や文化は、そうやって新しいムーブメントが次々と生まれてくるもの。ずっと同じ中身を続けているだけなら伝統芸能。キュビスムにはシミュルタネイスム、オルフィスム、イタリアの未来派、クボ=フトゥリズム、デ・ステイル、ヴォーティシズム、ピュリスムなど様々な言葉も出てくるが、別にそれらの分類はどうでもよくて、ビビッとくるかどうかが大事。残念ながら私にはビビッときたのはごく僅かだったけれど(/o\)



ピカソ 「輪を持つ少女」 1919年
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子供の頃はピカソのこんな絵を見て「ナンジャこれ?」と思ったのに、もうすっかり見慣れて先に紹介した絵の後に見ると、安心感さえ覚えるのが不思議。

ピカソはこの少し後から、キュビスムを離れて新古典主義と呼ばれる画風に転換する。それが影響したのかどうかは知らないが、まるで麻疹(はしか)に罹るように当時の画家が次々に影響を受けたキュビスムも下火に。

ピカソとブラックが始めたのが1907年で、それが広まってサロン・キュビストと呼ばれる画家が出てきたのが1910年前後。だからキュビスムに勢いのあった時代は約10年間ほどと短い。ブームとはそういうものともいえるし、また短いからインパクトがないわけでもない。ビートルズだって結成から10年、レコードデビューからだと7年半で解散している。


これはキュビスム以降の、
ピュリスム(純粋主義)作品として展示されていたもの。

ル・コルビュジエ 「静物」 1922年
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ル・コルビュジエ 「水差しとコップ―空間の新しい世界」 1922年
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建築家そして家具デザイナーとしてのコルビュジエは有名なものの、絵も描いていたなんて恥ずかしながら知らなかった。でも彼の建築はシンプルなのに絵は考えすぎな印象。なのに退屈で訴えてくるものもない。建築家になってよかったね(^^ゞ

実はル・コルビュジエとは、彼が発行していた文化雑誌に執筆するときに使っていたペンネーム。いつの間にかそれがビジネスネームになった模様。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリと長い。

ただし名前が長いといえばパブロ・ピカソが圧勝。
そのフルネームは、

  パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・
  シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ

そして微妙に異なる洗礼名もある。

  パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・
  マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシ

まるで落語の寿限無・寿限無みたい。

そんな話題になったところで、
お後がよろしいようで(^^ゞ



おしまい

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wassho at 20:37|PermalinkComments(0) 美術展 

2024年01月30日

キュビスム展 美の革命 その4

1914年に始まった第1次世界大戦にジョルジュ・ブラックが出征してしまい、1907年から続いた彼とピカソのチームワークによるキュビスム開拓は終わってしまった。しかし彼らから影響を受けた画家が、その少し前からいろいろなキュビスム作品を発表し始めている。


キュビスムとは対象を解体・単純化して幾何形態に置き換え、また多角度の視点を平面であるキャンバスに落とし込んで、有史以来人類が実践してきた「見えているとおりに描く」から脱却しようとするもの。言ってみれば最初に方法論ありきである。

どうしてそんなことするの、必要があるの?と一般人なら思ってしまうものの、絵を描く人間にはその世界は抗しがたい魅力があったようで、いわゆるキュビスムに分類されない画家たちまでも、いくつかキュビスム的な作品を残しているのを今までの展覧会で目にしてきた。当時の画家たちが次々と影響を受ける様子は「まるで麻疹(はしか)に罹るようなもの」とも表現されている。



そんな非キュビスム画家の作品も展示して欲しかったな。
展覧会にあるのは当然ながらキュビスムで有名になった画家の作品である。

フェルナン・レジェ 「婚礼」 1911〜1912年
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アルベール・グレーズ 「収穫物の脱穀」 1912年
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ロベール・ドローネー 「都市 no. 2」 1910年
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皆さん、ずいぶんと麻疹をコジらせているようで(^^ゞ

「婚礼」はめでたさやお祝い感がゼロだし、「収穫物の脱穀」には穀物がどこにも見当たらない。おそらくキュビスムとしての絵画表現だけでなく、それぞれの出来事に対する画家なりの解釈やメッセージが込められているのだろう。そういうものが混じると面倒くさい絵になる。

わけのわからない現代アートで「これにはアーティストの〇〇〇とのメッセージが込められている」なんて解説がついている場合がよくある。ほとんどがくだらないのは、そのメッセージの底が浅いから。アーティストは表現を磨いてきたプロであっても、思考を鍛えてきたプロじゃない。そちら方面の刺激が欲しければ哲学者や(一流の)評論家の著作に求めるから、君らは表現に専念してよと、そんな現代アートを見るたびに思う。


久しぶりにもっと現代アートの悪口を書きたいけれど(^^ゞ
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ

なおキュビスムは現代アートのひとつ手前のモダンアートね。
日本語では現代(コンテンポラリー)と近代(モダン)のニュアンスが曖昧なので、
現代アートをモダンアートと呼ぶ場合も多い気がする。
(/_')/ソレモコッチニオイトイテ


ロベール・ドローネー 「パリ市」 1910〜1912年
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この絵は文句なしに素晴らしかった。

描かれているのはギリシア神話に登場する三美神で、それぞれ魅力、美貌、創造力を司っている。西洋絵画の伝統的なモチーフであり、代表例をあげるならルネサス期の巨匠、ボッティチェリの「プリマヴェーラ」。
Botticelli-primavera

その三美神をアンチ伝統様式のキュビスムに持ってきたのがまず冴えている。またパッと見ではわかりにくいが、くすんだ赤色で描かれているのはエッフェル塔。だから舞台は当時=近代のパリ。それを神話の世界と組み合わせているのも面白い。

それよりも何よりもである。
引き込まれたのはキュビスムによって分割された面が生み出す、
まるで万華鏡のような描写。

   そうかキュビスムは万華鏡だったのか!

とまったく勘違いな解釈を思いつき展覧会場で叫びそうになっていた(^^ゞ でも3D万華鏡のようなものがあれば、あながち間違っていない気もする。そして実際に万華鏡をのぞき込んでいるような楽しさがあり、また万華鏡と同じように見飽きなかった。

「パリ市」は幅4m6cm、縦2m67cmの大きな作品。サイズ的な迫力もあったし、ピカソ&ブラックのキュビスムがモノトーンでそろそろ色彩に飢えてきたタイミングもよかったのかも知れない。そして両隣の面倒くさい絵がより一層これを引き立てている?
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私が見上げたのと同じ角度で撮った写真で。とにかくまさかキュビスムの展覧会でこんなに「酔えるアート」に出会えるとは思っていなかったね。ただ三美神の顔をピカソの「アヴィニョンの娘たち」に寄せなくてもよかったのに。
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フランティシェク・クプカ 「色面の構成」 1910〜1911年
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タイトルは難解でも絵はわかりやすい。
そしてイメージがあれこれ膨らむ作品である。
これは連続写真にヒントを得て描いたとされる。
そう言われると、女性の姿に動きを感じるから人間なんて単純なもの。

ちなみに連続写真は1878年(明治11年)、
映画は1895年(明治28年)から実用化が始まっている。


ところで写真の発明は1827年に、フランス人発明家ニセフォール・ニエプスによる。そして1840年頃から普及した。ちょうど産業革命が終わって社会が近代化した頃である。

見たのものを記録するという役割で写真と絵画はバッティングし、絵画の価値は揺らぎ始める。1800年代中頃に入ると肖像画の代わりに肖像写真の依頼が多くなったらしい。また当然ながら記録の正確さでは写真が圧倒的に有利である。

西洋絵画が生み出してきた遠近法や陰影法などは、平面であるキャンバスに奥行き=本物らしさ=記録の正確さをもたらすための技法である。画家たちがキュビスムに走ったのは写真と張り合うのではなく、写真にはできない表現を追求したからともいわれる。

ただし、それは納得できる解説であるとしても、
当時の画家たちが写真について語った言葉をあまり読んだ記憶がない。
どうしてなんだろう。


やがて時代は下り写真の次にCG(コンピューターグラフィック)も生まれた。今まではどちらもセンスと共に機材を操るスキルが必要だった。しかしここに来てAI(人工知能)の時代。CGを描くのに手でマウスや電子ペンを動かす必要はなくなり、対話型となって文章や口頭で命令できる。

センスだってAIが無限にアシストしてくれるから、よほどの表現音痴でない限りあまり問われないかも知れない。モニターで見るだけでなく、プリントアウトも3Dプリンターによって、絵の具の盛りや筆の動かし方まで表現できるようになるはず。もちろん彫刻も制作可能。

いったいAI時代のアートシーンは何が起きるのかな。


<モーソー>
  渋谷のスクランブル交差点の風景をルノアール70%、モネ30%、
  アクセントにところどころゴッホの厚塗りも交えて描いてみようか。
  季節は冬でお願いね。

  時代はバブルの頃で社会の勢いをだそう。
  いや、ここにジュリアナのおネエちゃんはおかしいって(^^ゞ

  通行人はキュビスムで半分はヌードに。
  あっ、ピカソのキュビスムじゃなくダ・ヴィンチが描いた感じで。

  ちょっと雰囲気が暗いから、モーツァルトを15%くらい掛けて幸せ感を。
  それとスターウォーズ的なSF要素も部分的に欲しいな。

  マルキューをダリ風にしてインパクトを狙ってみるか。
  あるいはいっそ葛飾北斎でも面白いかも知れない。
  ねえ、過去にどの画家も描いていない画風も出せる?



さてピカソとブラック以外のキュビスム画家はサロン・キュビストと呼ばれている。ピカソとブラックが画廊で作品を公開したのに対して、彼らはサロン(展覧会・公募展の意味)での発表が中心だったから。多くの人の目に触れた=キュビスムを広めた観点では彼らのほうがその役割が大きかったみたいだ。

フランティシェク・クプカ 「挨拶」 1912年
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フランシス・ピカビア 「赤い木」 1912年頃
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ロベール・ドローネー 「円形、太陽 no.2」 1912〜1913年
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クプカの「挨拶」は「色面の構成」と同じような発想に思えるが、数学と関連している内容なんだって。ホンマカイナ? ドローネーはこのページで紹介した「都市 no. 2」「パリ市」「円形、太陽 no.2」のすべてで画風がまったく違う。そして彼はこの後に抽象画の先駆者となる。

ところで抽象画を昔からあったジャンルと思っている人は多い。しかし写真との関わりで書いたように絵は「見たものの記録」だったので、抽象画が生まれたのは記録から脱却したキュビスムの後になる。つまり絵画の歴史を考えると割と最近の出来事。

いずれにしてもサロン・キュビストの作品は、ピカソとブラックが始めたキュビスムとはずいぶん違う。もう私にはキュビスムとは何か定義ができないレベル。彼らによってキュビスムの理論化もさらに深掘りされたらしいが、特に興味もないので調べていないm(_ _)m



ーーー続く

wassho at 21:42|PermalinkComments(0) 美術展 

2024年01月29日

キュビスム展 美の革命 その3

「大きな裸婦」を描いて、3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくった?ブラックはピカソと意気投合し、お互いのアトリエを行き来しながらキュビスム作品の制作を進めていく。


ピカソ 「裸婦」 1909年
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ピカソ 「肘掛け椅子に座る女性」 1910年
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ピカソ 「ギター奏者」 1910年
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ジョルジュ・ブラック 「レスタックのリオ・ティントの工場」 1910年
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ジョルジュ・ブラック 「円卓」 1911年
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ジョルジュ・ブラック 「ヴァイオリンのある静物」 1913年
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どちらがピカソでどちらがブラックかわからないほど似通っている。
この頃はキュビスムの

  多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
  対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える

の2つの特徴のうち後者が強く表れている。前回にキュビスムとの名前は特徴のひとつにしか焦点が当たっていないから不満と書いた。言葉が生まれたのはブラックが「レスタックの高架橋」を発表した1908年で、それが広まったのはフィガロ誌が記事に使い始めた1909年からとされている。当時はこんな作品が中心だった状況を考えれば立方体主義のキュビスムと呼ばれても仕方ないか。

目に見えているものを解体・単純化して幾何形態に置き換えるとは、言い換えればその裏側あるいは「形」の本質を見極めようとすることなのだろうか? よくわからないけれど、この頃のキュビスムは「分析的キュビスム」と名付けられている。形以外は重要じゃないからか色彩も控えめ。ちなみに前回までに紹介した作品は「セザンヌ的キュビスム」という。

ピカソの3作品を見ると「裸婦」は単にヘンな絵にしか見えなくても、「肘掛け椅子に座る女性」は表現のコツをつかんだ感じでけっこうサマになっている。ただし「ギター奏者」は対象と背景が渾然として、それはそういう狙いかも知れないが見ている側としては訳がわからない。たぶん本人もわかっていないのじゃないか? ブラックの3作品はいかにも暗中模索で過渡期的な印象。

いずれにしてもヘンな「絵」であるのに変わりなく、それは今までいだいていた認識と変わらない。しかし展覧会でこれらがまとまって並んでいるのを眺めると「模様」としては意外と面白く、しゃれた雰囲気もあると感じたのが新たな発見。もしそんな感想をピカソやブラックに言ったらパレットでシバかれるな(^^ゞ



そしてピカソとブラックのキュビスムは、
少しずつ親しみやすい画風に変わっていく。

ジョルジュ・ブラック 「果物皿とトランプ」 1913年
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ジョルジュ・ブラック 「ギターを持つ男性」 1914年
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ピカソ 「ヴァイオリン」 1914年
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親しみやすい画風に変化したのは理由がある。対象を解体・単純化して幾何形態に置き換えるとピカソの「ギター奏者」やブラックの「レスタックのリオ・ティントの工場」のように対象からかけ離れすぎて抽象画のようになってしまう。彼らが目指していたのは対象の新たな表現方法の開発。言い換えればあくまで具象画であって抽象画ではない。

そこで現実から遊離した絵を、再び現実に引き戻す作業がおこなわれる。行ったり来たりご苦労様である(^^ゞ それらの作品は先ほど書いた「分析的キュビスム」に対して「総合的キュビズム」と呼ぶ。総合と言うよりは統合の法がニュアンスが正確かな。

具体的にはコラージュで何か貼り付けたりあるいはコラージュ風に描く、また文字を描いたり、記号的なモチーフを入れたりが試みられた。「果物皿とトランプ」ではブドウとトランプは現実世界を表す記号としてごく普通に形を崩さず描かれているし、「ギターを持つ男性」のギターも同様。「ヴァイオリン」のヴァイオリンはけっこうバラバラに分解されていても、文字を入れることによって観念的になりすぎるのを引き留めている。

ところで BASS は低音でヴァイオリンに似合っていないし JOU は辞書にはなかった。どうでのいいけれど、おそらくヴァイオリンの弦と思われるラインが上側で1本多いのが不思議(ヴァイオリンは4本源の楽器)。


「総合的キュビズム」は確かに絵としてはまとまりを取り戻してはいるものの、「分析的キュビスム」が持っていたある種の凄みが消えて、「肘掛け椅子に座る女性」のようにゾクッとさせてくれないのがつまらない。


さて1907年にピカソが「アヴィニョンの娘たち」ブラックが「大きな裸婦」を描き、お互いに影響を与えながら発展させてきた彼らのキュビスム。しかし1914年に第1次世界大戦が始まりブラックが出征することで、その共同作業とでもいうべき制作は終了する。



ーーー続く
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2024年01月27日

キュビスム展 美の革命 その2

印象派がその名前で呼ばれるようになったのは、ある評論家がモネの「印象・日の出」という作品を、そのタイトルをもじって「印象しか描いていない」と酷評したのがきっかけ。印象しか描いていないとは、構図がおおざっぱだとか、絵が描き込まれていないとか、内面的な深いテーマがないとか、そういう意味だと思う。

それまでの絵画がクラシック音楽だとすれば、そこにいきなりロックを持ち込んだのが印象派。いつの世も新しいことは守旧派からは拒絶されるもの。もっとも世間は印象派の絵と印象派とのレッテルも好意的に受け止めて、そのネーミングが広まっていったのだから面白い。

これがそのモネの「印象・日の出」(この展覧会とは無関係)
制作は1872年で展覧会で酷評されたのが1874年(明治7年)。
モネ印象・日の出



さてキュビスム Cubisme とはフランス語で、英語にすれば Cubism。これは CUBE(キューブ:立方体)と ISM(イズム:主義)が組み合わさった言葉。ほとんど使われないものの和訳として立体主義や立体派が当てられる。ただし正確に訳すなら立体ではなく立方体。ずっと昔は「キュビズム」と英語読みが一般的だったような気がするが、いつのまにかキュビスムとフランス語読みするようになった。パリで始まった絵画様式だからオリジナルが尊重されたのか。

そして実はキュビスムのネーミングも印象派と似たような成り立ちを持っている。
きっかけとなったのはこの作品。

ジョルジュ・ブラック 「レスタックの高架橋」 1908年
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遠くから見ればセザンヌの絵が掛かっているのかと思うほど。それもそのはずブラックはセザンヌLOVEな人で、セザンヌが1870〜80年代に掛けてしばらく住んでいたレスタックに、1906年〜1910年頃に合計で何ヶ月か滞在している。レスタックは南仏マルセイユ近郊で、またセザンヌの生まれ故郷の近く。いわゆるアニメファンの聖地巡礼みたいなもの。

参考までにセザンヌの描いた「レスタックの赤屋根の家」も載せておく(この展覧会とは無関係)。同じ地域の風景なので色合いが似ているとしても、これだけ色数の少ない景色なんてあり得ないから、やはりブラックはセザンヌに相当寄せている。全体的に平板なところや、筆を一定方向に動かす描き方にも影響がありあり。
L'Estaque_aux_toits_rouges,_par_Paul_Cezanne


前回のブログでセザンヌが用いたの多角度の視点について書いた。加えて彼は「自然を円筒、球、円錐によって扱い、すべてを遠近法の中に入れなさい」との言葉も残している。もっともセザンヌ作品を見て円筒、球、円錐が目立っているわけではないし、残念ながら勉強不足でその意味をよく理解していない。しかし文字を追えば丸いものばかりで三角形や四角形は含まれていないのは明確。

しか〜し、
ブラックの「レスタックの高架橋」は見事なまでに三角形と四角形が山盛り。遠近法も完全無視。お前、セザンヌ先生の話を聞いていたのかと突っ込みたくなるレベル(^^ゞ まあ建物は四角いから仕方ないのだけれど。

そして案の定、この絵が発表されたときに「ブラックは形態を軽んじており、景色も人物も家も、全てが幾何学的形状やキューブ(立方体)に還元している」と批判を受ける。そしてこれがキュビスムのネーミングへとつながっていく。モネが「印象しか描いていない」と評されてから34年後の1908年(明治41年)に歴史は繰り返したわけだ。


ただしキュビスムの特徴を因数分解すれば

  多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
  対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える

となる。そしてキュビスム=立方体主義が言い表しているのは後者だけ。どちらかといえば私は多角度の視点のほうがより革新的で重要な要素だと思うので、このキュビスムとしたネーミングには少し不満を持っている。


ところでキュビスムは印象派が終わる頃から始まるわけだけれど、年表で見ると1850年から1950年くらいまでの約100年間は、他にも象徴主義、写実主義、フォーヴィスム、ナビ派など次々と新し絵画のムーブメントが生まれている。この頃に生まれていたら楽しかっただろなと思ったり。図はhttps://tabiparislax.com/western-art/から引用加筆
年表



なかなか展覧会作品に話が進まないが(^^ゞ
ーーー続く

wassho at 09:56|PermalinkComments(0) 美術展 

2024年01月26日

キュビスム展 美の革命

国立西洋美術館で1月28日まで開催されているキュビスム展。
鑑賞してきたのは昨年の11月29日。
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ブログに書くのがずいぶんと遅くなってしまった。
訪れたときに国立西洋美術館がある上野公園のイエローオータムが予想以上に素晴らしくて、それでスイッチが入ってしまい、例年のもみじ狩りが3カ所くらいなのに昨年は13カ所も出かけたのが遅れた理由のひとつ。
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そろそろ思い出しながら書いていきましょう。

ポスター

展覧会の正式タイトルは

   パリ ポンピドゥーセンター 
   キュビスム展 美の革命 
   ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ

とやたら長い。

パリの総合文化施設であるポンピドゥーセンター所蔵の、キュビスム絵画作品の展覧会がアウトライン。そのキュビスムとは美の革命であるとタイトルで強調している。

ただし英文では THE CUBIST REVOLUTION (キュビスム画家の革命)。キュビスムは確かに絵画表現における革命であったとしても、美について革命したわけじゃない。だから英文の「キュビスム画家の革命」のほうがしっくりくる。しかしそれではキャッチーでないとマーケティング担当者は考えたのに違いない。映画のタイトルなどでよくある話。

もっとも「An Officer and a Gentleman」→ これは「Conduct unbecoming an officer and a gentleman」という軍隊用語の略。軍法会議などで使われ、直訳すれば「将校および紳士に相応しくない行為」。その原題に「愛と青春の旅だち」と邦題をつけたレベルに「美の革命」はまったく及んでいないけれど。

名前が挙げられているピカソとブラックはキュビスムの創始者である画家。ドローネーはキュビスムを発展させた画家のひとり。シャガールはキュビスムの影響を受けた画家ではあるとしても、それは彼のメインストリームではないし、一般にキュビスム画家には分類しない。でもキュビスムは超巨匠のピカソを除けばあまりネームバリューが高くない画家が多いから、客寄せパンダ的に引っ張り出されたのかも知れない。



さてキュビスムとは何かについては追々書くとして、実はキュビスムはまったく趣味じゃない。キュビスムでこれは素晴らしい・欲しいと思った作品もないし、難解にこねくり回したようなその画風や世界観は「酔えるものこそがアート」との私の考えにも反する。

ではなぜ展覧会を見に出かけたかといえば半分はお勉強のため。過去の展覧会で藤田嗣治やパスキンなど意外な画家がキュビスム的な作品を残しているのを目にしてきた。だからキュビスムのイロハ程度は知っておいて損はしない、食わず嫌いはよくないぞとの意識が頭のどこかにあったから。

聞けば日本でキュビスムをテーマにした展覧会はおよそ50年ぶりとのこと。そして今回はピカソとブラックを含む主要作家約40人・約140点(うち50点以上が日本初出品)が出展され、いわばキュビスムの回顧展のような内容。だったら行ってみようかと。

そして残り半分はキュビスムが趣味じゃないといっても、そんなにたくさんの作品、特にピカソとブラック以外の作品を見たわけじゃないから。キュビスムといってもいろいろあるだろうし、ひょっとしたら好きな画家や作品が見つかるかもとのスケベ心(^^ゞ



初期のキュビスムはセザンヌの画風が影響した、あるいはそれを発展させたとものとよくいわれる。それで最初に展示されているのがセザンヌの作品。

セザンヌ 「ラム酒の瓶のある静物」 1890年頃
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タケノコみたいに見えるのがラム酒ね。セザンヌの影響とは彼の多角度からの視点なのだけれど、この絵ではわかりにくいので、この展覧会に出展されていない「果物籠のある静物」というもっと端的な作品を紹介しておこう 。
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ごく普通の静物画に思えるものの、よく見ると大きな瓶(かめ)はやや上からの視点で描かれているのに対して、ティーポットは真横から見ている。また果物かごは垂直に置かれているのに、それが置かれているテーブルは手前に傾斜している、つまり斜め上から見ている。このように多角度の視点を1枚の絵に混在させるのがセザンヌの静物画の特徴。それによって独特の空間表現とリズム感が生み出されてハマる人にはハマる。

私にもそんな時期があった。でも多角度の視点なんて気付かずに、セザンヌの静物画は他の画家とはどこか違うなあと思っていただけ。おそらくセザンヌのこのトリックは実際に絵を描く人ならすぐに見抜くものだと思う。そして、そんな手があったのかと取り入れたくなるのだろう。


展示会にあった他のセザンヌ作品。

セザンヌ 「ポントワーズの橋と堰」 1881年頃
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これとキュビスムの関わりはよくわからない。ひょっとしたら解説に書かれていたかも知れないが、基本そういうのは読まないタイプなのでm(_ _)m でもキュビスムの特徴は、西洋絵画の伝統であった遠近法や陰影法による空間表現の否定でもあるから、その参考例なのかと思っている。


セザンヌはキュビスムの関わりでよく取り上げられるが、
この展覧会にはこんな画家の作品もあった。

ゴーギャン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」 1889年
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ルソー 「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」 1910年頃
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マリー・ローランサン 「アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)」 1909年
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「ポントワーズの橋と堰」以上にキュビスムとの関連はよくわからないものの、それぞれいい絵だったので単純に満足。特にこの年代のマリー・ローランサンの、例のパステルカラー的な画風を確立する前の作品は久しぶりに見た感じ。


これらはアフリカの仮面や小像。

制作者不詳 「ダンの競争用の仮面(コートジボワール)」 1850〜1900年頃
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制作者不詳 「バンバラの小像(マリ)」 1850〜1900年頃
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制作者不詳 「ヨンベあるいはウォヨの呪物(コンゴ)」 制作時期不詳
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印象派の時代はその第1回展が開かれた1874年(明治7年)から。当時の画家たちは浮世絵に興味を持ちジャポニスム、いわゆる日本ブームが起きたのはよく知られている。そして1920年(大正9年)頃から始まったエコール・ド・パリ時代の少し前から、今度はアフリカブームが訪れる。

これはモディリアーニの彫刻。
アフリカの匂いはしなくとも明らかに影響が感じられる。

モディリアーニ 「女性の頭部」 1912年
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ところで印象派の画家が浮世絵を取り上げたのをもって「浮世絵は素晴らしい、日本美術が西洋に評価された」とやたら持ち上げる向きもあるが、その後のアフリカブームを考えると、半分は単に物珍しかっただけじゃないかと私は冷めた目で見ている。



それはさておき、
セザンヌの多角度の視点、遠近法や陰影法の否定に影響を受け、そしてアフリカの仮面や小像にインスピレーションを得てピカソが1907年に描いたのが「アヴィニョンの娘たち」。この展覧会の作品ではないが参考までに。どこが多角度の視点がわかりづらいが、右下の女性は背中を向けているのに顔がこちら向きになっている。
Les Demoiselles d'Avignon

これがキュビスムの始まりで、
近代絵画史上で最も重要な作品と評されている。
私がキュビスムはまったく趣味じゃない理由がわかったでしょ(^^ゞ


さてピカソの自信作であったこの絵を見たジョルジュ・ブラックは「3度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われるようなものだ」と酷評。ピカソと共にエコール・ド・パリのツートップと目されていたマティスは、これを一目見るなり激怒。あまりの貶(けな)されように友人たちはピカソが首を吊らないか心配したと伝わっている。

それにしても「3度の食事が麻クズとパラフィン〜」なんて、文句の付け方がお洒落なジョルジュ・ブラック。さすがはフランスのエスプリ。

しかしジョルジュ・ブラックはしばらくして考えを改め、
ピカソの革新性に気がついて、こんな作品を描く。

ジョルジュ・ブラック 「大きな裸婦」 1907〜1908年
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芸術のためなら3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくったみたい(^^ゞ
これ以降ピカソとブラックの間でキュビスムが形作られていく。


他に展示されていたのは「アヴィニョンの娘たち」の習作であったとされる作品。

ピカソ 「女性の胸像」 1907年
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なお館内は多くの作品が撮影可能だったので展示の雰囲気を。
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そして、
ここからがキュビスムのディープな世界の始まり始まり。



ーーー続く

wassho at 21:36|PermalinkComments(0) 美術展 

2024年01月22日

早渕公園のロウバイ その2

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竹林の中に見つけた早渕公園のロウバイ。
それを一目見ただけでどうして「これはあかんやつや(/o\) 」と思ったのか。


まず第一は地形的にも窪地だし、
さらに周りを高い竹や木で取り囲まれているから。

ロウバイは黄色の小さな花である。つまり色味としては土と同じで、普通に眺めても地面と同化してあまり美しくない。だから背景に青空が必要なのである。これは以前に撮った写真を組み合わせた参考例。青空がないと単に写真映えしないだけでなく肉眼で眺めても楽しさは半減する。
参考写真


そして早渕公園のロウバイエリアはこんな状況。
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公園は3.6ヘクタールの広さがあるのに、そして前回のブログで紹介したように日当たりのいい場所もたくさんあるのに、どうしてこんな場所にロウバイを植えたのか。この公園関係者の造園センスを疑うーーーというか最低(怒)


第二はロウバイの葉がまだ落ちていなかったから。
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ロウバイは開花した時点では葉が残っている。それがいつ落ちるのかよく知らないのだが、黄色くなった葉が残っていると、花と同じ色なので花がよく見えない残念な状態になる。これ ↑ にも花がたくさん咲いているのに、写真を拡大しないと葉しか見えない。

この段階では既に葉としての植物的な機能は失っており、枝から生えているというより枝にくっついているだけ。指で触っただけで枝からハラリと離れて落ちていく。今までこんなにたくさんのロウバイの葉を見たことはないから、ロウバイの名所では花が咲いたら木を揺すったりして葉を落とす手入れをしているのかも知れない。


花数は多いのに、
こういうアングルからだとテンションが上がらない。
また青空がないだけでなく光量も不足している。
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グリーンを背景にと考えるも逆に葉が目立ってしまう。
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この背景が青空だったらなあとブツブツーーー
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徐々に近寄って。
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竹林の窪地からグラウンド側に上がる。
この青空がロウバイにも欲しかったゼ。
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早渕公園のロウバイは20〜30本といったところ。ロウバイがあると紹介されている公園などでも数本程度のところも多いからこれはかなりの本数。木のサイズも十分に大きい。ただし品種はソシンロウバイのみ。ロウバイには他にロウバイ(和ロウバイ)、満月ロウバイ、福寿ロウバイなどの品種がある。     

また香りは本数を考えると少し弱かった。かすかに甘い香りがあたりに漂っていたものの、近寄ってクンクンしないと満足できないレベル。これも日当たりの悪いのが影響しているのだろうか?


そんなわけで晴天だったのに青空が望めず、
なんとも残念な気持ちで帰ってきた。
気を取り直して、またどこか違うところにロウバイを見に出かけましょう。



おしまい

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wassho at 19:34|PermalinkComments(0) お花畑探訪 

2024年01月21日

早渕公園のロウバイ

ロウバイはあまり知られていないマイナーな花だと思う。ウメやサクラなら「その便りが届く」との表現があってもロウバイでそんな言い方はしない。だいたい植えられている場所もごく少ない。おそらくロウバイの本数はウメやサクラの1%の1%のそのまた1%以下だろう。だからたまたま目にして知る機会もまれである。

でも一度その濃厚で甘い香りを嗅ぐと、まるでパブロフの犬のようにこの季節になると条件反射的にロウバイが恋しくなる(^^ゞ もっともロウバイは一般にウメより先に咲くものの、場所によって大幅に咲く時期が異なる。例えば2020年に府中市郷土の森博物館で見たのは12月中旬で、2016年の神奈川県松田町の寄(やどりき)ロウバイ園は2月中旬だった。もちろん訪れたのはそれぞれ満開の時期。

さて今年のロウバイ第一弾は1月19日。場所は港北ニュータウンにある早渕公園。横浜に出かけた帰りに、かなり遠回りの寄り道をしてクンクンしてきた。

港北ニュータウンは多摩ニュータウン、千葉ニュータウンと並ぶ首都圏の3大ニュータウン。横浜市(地図で少し白くなっている部分)の北側、東京から見ると、神奈川との県境の多摩川を渡って川崎市を超えた先にある。
港北ニュータウン

参考までに東西の巨大ニュータウンの面積は

  多摩ニュータウン 2884ヘクタール   千里ニュータウン 1160ヘクタール
  港北ニュータウン 2530ヘクタール   泉北ニュータウン 1157ヘクタール
  千葉ニュータウン 1930ヘクタール



東横線の日吉駅から、
通称グリーンラインと呼ばれる横浜市営地下鉄に乗り換えて3つ目の東山田駅で下車。
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東山田は「ひがしやまた」。
隣駅の高田も「たかた」なので、この地域は「田」の発音が濁らないようだ。
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けっこうショボい雰囲気のところを歩いて行く。
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早渕川を渡ると広い道路に出る。
第三京浜(高速道路)と平行している大熊東山田線。
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もう少し先で右折すれば早渕公園だが、
こんな看板があり薄茶色のラインは何だろうと思いここで右折。
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右折して奥に進むと遊歩道のようになっていた。
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遊歩道の先にあった稲波歩道橋を渡ると、
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早渕公園に入る。
ここまで駅から15分弱。
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そのまま奥に。
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道案内のような看板はなし。そういえば入り口にも早渕公園とは書いてなかったから、まだ公園ではなく遊歩道の続きなのかとも思いながら、200メートルほど歩くとグランドが見えてきた。
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グランドの横に小さなロウバイの木が2本。
もちろんこれを見に来たのではない。
事前にネットで見つけた情報では10本近くがまとまって植えられているはず。
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それはどこかとグランドに沿って進むと、
公園の外に出てしまう(>_<)
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その出口手前に丘を登る道があったので、
そちらに向かう。
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竹林の横の階段を上がり、
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さらにけっこうな勾配の坂が現れた。
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この時点で何となく道を間違えている気がしたが、
引き返さず探検を続行。


道が平坦になり、
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この公園でいくつか見た赤い鉄製の構造物が現れる。
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そこからは下り。
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途中で丘の中腹を横切ると、
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最初にグラウンドを見た場所に戻った(^^ゞ
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ロウバイ探しのやり直し。
今度は竹林沿いを見渡して下に降りる階段を発見!
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そしてそこにはロウバイが。
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しかしようやくたどり着いたものの一目見て

  こっ、これはあかんやつや

と気付く(/o\) なぜなら



ーーー続く

wassho at 13:06|PermalinkComments(0) お花畑探訪 

2024年01月20日

二番ウメは芝公園の銀世界で

観梅の季節はもう少し先。でも先週は駒沢公園を歩いていたら、思いもかけず今年の初ウメを見られた。そこで1月17には芝公園近くに出かけたついでに、芝公園の梅園である銀世界でも少しは咲いているかなと立ち寄ってみた。


梅林は1号地と呼ばれる芝公園南側のエリアにある。
マップ


ここが入り口。
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中に入るとまだ花を咲かせていないウメの木がたくさんあった(>_<)
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この梅園が「銀世界」と呼ばれているのは江戸時代の新宿に「梅屋敷銀世界」と呼ばれているところがあって、そこのウメを明治になって芝公園に移設したから。でもまあヘンな名前である。
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白とピンクが少しだけ咲いているのを見つけた。
高い位置に咲いいてデジカメではなくiPhoneだったので、これくらいが精一杯。
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でも展望台の横にそこそこ花をつけているウメがあった。
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まずは下から眺め、
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展望台を上がって真横から。
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見下ろせるのは展望台ならでは。
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そして手を伸ばしてマクロモードで接写。
ウメの花を見ると寒さを忘れるね。
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花は咲いていないけれど、
ウメの木と東京タワーのツーショットも。
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わずかとはいえウメの花が見られてハッピーな気分。ついでに立ち寄っただけとはいえ、まったく咲いていなければ落ち込んじゃうからね(^^ゞ

wassho at 15:19|PermalinkComments(0) お花畑探訪 

2024年01月18日

2023〜2024シーズンのクリスマス・カクタス

昨年の11月19日にクリスマス1ヶ月前の様子をブログにしたクリスマス・カクタス。炭疽病らしき斑点が蔓延していて心配だったものの、


12月6日にめでたく初開花を確認。
2日ほど前から咲いていたかも知れない。
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全体的にはまだこんな感じだった。
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そしてそれから1ヶ月後の1月6日の撮影がこちら。
12月の20日頃から満開になった。
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花数あるいは花数÷茎数の花つき度合いは昨年と変わらず。
一番左のプランターは2022年の挿し芽だからあまり咲いていない。

これは2023年の挿し芽。ツボミはいくつかあるがたぶん咲かない。
たくさん咲くようになるのは3年目から。
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センターと右側だけで満開感をだしましょう。
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なお今シーズンは一度も室内に入れていない。
クリスマス・カクタスは日照時間が短くなったのを感知して花を咲かせる短日植物。なのでツボミがついたら室内に取り入れるべしと園芸ガイドにはよく書いてある。

でもよほど街灯があたる場所でもなければ、そんなことをしなくても咲く。しかし以前にツボミはつけても花が開かずと株に元気のない時期があって、そのときに試しに室内に入れてみたら咲くようになったので、それからは入れるのが習慣になっていた。

でも今シーズンは室内に入れそびれているうちにツボミがドンドン膨らみーーー。たぶん2021年に土を新しくして、状態のよい株だけにした効果がまだ持続しているのだと思う。寒さに弱くて冬には室内に入れなければならないプランターがいくつもあるので、クリスマス・カクタスがベランダで元気に咲いてくれるのは助かる。


アップでいろいろ。
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垂れているのを下から見上げて。
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本当は花びらが開く直前が美しい。
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青空も入れないと気がすまないのが私の花写真(^^ゞ
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撮影から10日ほどたった現在でも、少し勢いはなくなったもののまだたくさん咲いている。おそらく2月の最初までは楽しめそうだ。

wassho at 19:30|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2024年01月15日

シャツはインしないのだから水平カットでいいのでは? その2

カジュアルな服装ではシャツを「イン」しなくなって35年も経つ。だったらその裾は丸いラウンドカットではなくスクエアカットやボックスカットと呼ばれる水平なものでいいんじゃない?というのが前回に書いた内容。画像はhttps://shop.solve-grp.com/contents/wind/detail/54とhttps://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4550512951629から引用
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そしてシャツについていろいろ調べていたら、
カットの形より裾の長さのほうが問題だと気がついた。画像はhttps://fabric-tokyo.com/answer/shirt/about-order-tuck-out-shirtから引用
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較べてみれば一目瞭然で、図でフォーマルシャツと書かれている普通のシャツの長さだとバランス的に長すぎる。(なお最近はロングシャツもトレンドみたいだけれど、あれはいわゆるビッグシルエットを楽しむためのもので、ここでの話とは別)


シャツを「イン」しないで何が困るかといえばジャケットを着たとき。
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左のようにジャケットからはみ出しているのは、それはそれでありだとしても、もうそんな着こなしが似合う年齢ではなくなってしまった(>_<) やはり右側がナチュラルに見える。画像はhttps://wear.jp/bz0178/9633915/?kid=13119&utm_source=magazine-cubki&utm_medium=referral&utm_campaign=spとhttps://voi.0101.co.jp/voi/content/01/sp/topics/column/column_081.html?intid=column060_listから引用

個人的な感覚だとジーンズのような股上の短いパンツならシャツを外に垂らしても気にならないのだが、スラックス的な股上の深いものだと何かおかしく感じる。でも「イン」するのもオッサンくさい。それでどうするかというと「イン」した上にジャケットを着る。

ジャケットを着ているときは基本的に「イン」している。それはジャケットの裾からシャツの裾がはみ出すのを好まないから。でも上の写真でタックアウトシャツと書かれているような長さのものなら、ジャケットのときも、またスラックス単体でも大丈夫かな。そういう短いシャツがあるとは知らなかった。

今度シャツを買うときは探してみよう。わかりやすく長さが表示されているといいのだけれど。ただしスーツで着る場合は「イン」した裾が上がってこないように普通の長さが必要だから、シャツの購入量が増えて困るなあ。

それと例えばネルシャツなんかは確実に「イン」しないから、すべてこの長さでいいと思うのに、従来の長さのものが多いのを改善して欲しいもの。それにしても裾は短くしても、まだどうしてラウンドカットにこだわるのか不思議。ついでに書くとオシャレさん向けには裾のラインが波打っていたりギザギザだったり、もっとバリエーションがあってもいいと思うゾ。襟の形がいろいろあるように。


ところでシャツを「インする」というのに、なぜか「アウトする」とはいわずにタックアウトとの言葉をファッション業界では使うようだ。対義語としてタックインも使われる。タック tuck とは押し込むとの意味。でもタックインもタックアウトもおそらく和製英語。そもそも「イン」するのがタックだし、「イン」しないのはおそらくアンタック untuckを使うはず。ただしあまり自信を持ってそう思っているのではない。

言葉関連でもう一つ。実は股上を「またかみ」だとずっと思っていた。パソコンで「またかみ」と打っても変換してくれないので、調べてみて「またがみ」と知ってビックリ。股下は「またした」と「し」が濁らないのに、どうして股上は濁るのかがナゾ



さて前回の冒頭で書いたように、このテーマのきっかけは小林薫が出演している帯状疱疹のCMである。病気の話にもかかわらずシャツを「イン」しないでラフなスタイルで登場している。

なのにどうしてシャツのボタンを一番上まで留めている?
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画像検索してみたら、どうやら小林薫は一番上まで留めるのが好きらしい。一番上まで留めていない写真もたくさんあったものの、これだけ留めているのが見つかるのは、やはり留めるのが好きと思われる。
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ーーーと、実にどうでもいい話でブログを終えるm(_ _)m

ついでにカジュアルなシャツで一番上のボタンを留めるのは小林薫くらいなのだから、彼にはオードーメイドで誂えてもらうとして、ネルシャツのようなタイプに一番上のボタンは必要ないやろと、これまた実にどうでもいい考えが(^^ゞ



おしまい

wassho at 19:20|PermalinkComments(0) ノンジャンル 

2024年01月14日

シャツはインしないのだから水平カットでいいのでは?

以前に放送されていた帯状疱疹のテレビCMを、
最近また見かけるようになった。

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演じている小林薫はずいぶんとカジュアルなスタイルである。
そしてシャツはパンツの外に出している。
もしこの服装をした彼にどこかで会っても特に何も思わないはず。
でもこのCMを見たときは違和感を覚えた。

どうして病気の話でこのファッション?
親しみやすさを演出したかったのかな。
そして一旦その?モードに入った目でCMを見ると、
外に垂らしたシャツがやたら目につく。


それがきっかけで今回はシャツの話。

いつかは忘れたが、ずいぶんと前からシャツを「イン」するのはダサいとなっている。
これは2015年にドラマで刑事役の松坂桃李がオタクに変装したシーン。画像はhttps://www.cinemacafe.net/article/2015/10/27/35183.htmlから引用
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改めて確認すると電車男と瓜二つ。電車男の映画公開は2005年。また、この頃にオタクファッションのステレオタイプ的なイメージが確立したような気がする。
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ただしシャツを「イン」しなくなったのはさらに昔でもう記憶にない。ネットでは80年代後半の渋カジ、90年代中頃のヒップホップのブームの頃からと2つの説があるみたいだ。中間を取って1990年からだとすると、もう35年近く定着しているファッションセオリーである。


ファッションなんて個人の感覚ではあるものの、今現在、Tシャツやポロシャツを「イン」しているとかなり異様に感じる。シャツの場合はそれ以外のアイテムのテイストや組み合わせにもよるが、例えばジャケット&ネクタイなしでジーンズとかに「イン」だと違和感があると思う。

ただしファッションは時代と共に変化するから、今はダサいとされているシャツの「イン」だって、いずれまたそれがファッショナブルあるいは普通となるときが来る。女性ファッションでは「イン」を仕掛けたい向きもあるようで、こんなのを見つけた。画像はhttps://stripe-club.com/cts1/maedakein.htmlから引用
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左から
  左右の半分だけイン
  前だけイン
  インして引き出してふんわりと

半分とか前だけとか、ちょっと無理があるように思うけどなあ。こんな着こなしの人っているのだろうか。薄着の季節になったら街を歩く女性を注意して観察してみましょう。



ところで
カジュアルなスタイルではシャツを「イン」しないのが多数派なのに、どうしてシャツの裾はこんな形をしているのか前から疑問である。画像はhttps://shop.solve-grp.com/contents/wind/detail/54から引用
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まっすぐにカットすればいいのに。例えばアロハシャツのように「イン」しない前提のものはまっすぐカットされている。シャツを「イン」しないとだらしなく見えるのは、上の写真のような丸くて長い裾が原因。おそらくそれは見えてはいけないものとの潜在意識があるからだろう。画像はhttps://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4550512951629から引用
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ちなみに裾の形が丸いのはラウンドカットで、
まっすぐなのはスクエアカットやボックスカットと呼ばれる。

そして実はラウンドカットはシャツの歴史に由来している。

ヨーロッパでシャツの原型が生まれたのは16〜17世紀。当時は下着として着用されて、もっと裾が長かった。それはラウンドカットの前と後ろを股のところで交差させてパンツやブリーフの役目をさせていたから。そのためのデザインであり、現在のシャツのラウンドカットはその名残り。

想像するとなんかオムツみたい(^^ゞ

そんな面倒なことをせずにどうしてパンツをはかないのかと思ってしまうけれど、ブリーフが誕生したのが1935年(昭和10年)、トランクスが1915年(大正4年)頃とけっこう最近である。それまでシャツ以外の下着としては、ユニオンスーツという上下つなぎの下着を着ていたらしい。そういえば昔を描いた海外映画でたまに見るようにも思う。画像はhttps://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlから引用
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それはさておき、何事も合理性や妥当性があるからこそ物事は始まり、そしてそれがなくなっても形骸化して続くのが世の常。シャツのラウンドカットもその典型例。



ーーー続く

wassho at 20:23|PermalinkComments(0) ノンジャンル 

2024年01月12日

2024年の初ウメは駒沢公園

散歩がてらに駒沢公園を歩いていたらウメが咲いていた。
そんなことはまったく予想していなかったのでラッキー。

ピンクと白。
かなり小ぶりなウメ。
香りもよかった。
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まさに冬来たりなば春遠からじである。

冬来たりなば〜は文字通り季節の移り変わりの意味でも、またつらい時期を乗り越えれば幸せな時期は必ずやってくるとの例えとしても使われる。何となく古文調なので昔からあることわざのように思えてしまうが、実はイギリスの詩人パーシー・ビッシ・シェリーの長詩「西風に寄せる歌」の一節。存命していたのは1792年〜1822年なので江戸時代後期。

原文は

   If Winter comes, can Spring be far behind ?

WinterとSpringが大文字になっているのは擬人化されているかららしい。その意味がよくわからないので、擬人化はとりあえず無視して直訳すると

   冬が来るなら、春がはるかに遠いのはあり得るか?

あたりだろうか。原文は疑問文なのに翻訳では「春遠からじ」と肯定文になっている。誰がいつ翻訳したのかははっきりしない。しかし漢文調だから遅くても昭和の初期だと思う。

そして漢文調であっても平易な文章だし、また漢文調の格式の高さゆえに格言的に捉えられたのもこの一節が広まった理由に違いない。「冬が来たなら春はそう遠くない」じゃシェリーの詩を読んだ人だけにとどまっていたと思う。


さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
iPhoneでマクロ撮影。
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白梅は高い位置に咲いていたので1枚だけ。
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白とピンクのツーショットを狙ったものの、
花が小さいので思ったような写真にならず。
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咲いていたのはピンクと白の2本だけで、
他のウメはまだこんな状態。
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ウメだけだと駒沢公園だとわからないので、
最後にこういうのも載せておきましょう。
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wassho at 23:35|PermalinkComments(0) お花畑探訪 

2024年01月10日

2023年紅葉の締めくくりはいつもの九品仏

2023年に見たイエローとレッドのオータムは

   旧芝離宮庭園
   増上寺
   芝公園17号地&もみじ谷
   清澄公園
   清澄庭園
   御殿山庭園
   池田山公園
   神宮外苑
   有栖川宮公園
   上野公園
   代々木公園
   渋谷ファイヤー通り

とかなり多い。過去のブログを遡ると2022年:2カ所、2021年:3カ所、2020年:5カ所、2019年3カ所だった。国立西洋美術館に展覧会を見に行って、上野公園のイエローオータムが予期せずよかったのがスイッチの入った原因のように思う。

ただしこの中で紅葉の名所と呼ばれるのは神宮外苑と芝公園のもみじ谷程度。そのほかのところは当たり外れがあったわけで、特に最後の旧芝離宮庭園は大ハズレ(>_<) これでシーズンを〆るのはあまりにも忍びないと12月13日に出かけたのが、私の定番レッドオータムスポットである自由が丘近くの九品仏(くほんぶつ)というお寺。


九品仏の紅葉を眺めるのは今年で5シーズン目。
どうしてそんなに来ているかは ↓ 昨年に書いた文章で。

   バイクでツーリングしていた頃、河口湖で真っ赤な紅葉に出会い、
   今まで見て喜んでいた紅葉はなんだったのだとの気分になる。
   それから赤純度の高い紅葉を探してあちこち出かけれど見つからず。
   それが2019年、近くにあるというだけでいわば「ついでに」訪れた九品仏で、
   まさかの探していた色の紅葉に出会った。
   チルチルミチルの青い鳥とはまさにこのこと。
   そして、このあたりに住んでいる限り、ここへは毎年来ると決めてーーー

との理由。
だから旧芝離宮庭園の当たり外れに関係なく来ていたかも知れない。


これは東門。
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門をくぐった先の光景は京都にでも来たみたいと毎年ながら感激する。
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ところで2023年の紅葉は平年より遅いとされていたものの、九品仏に限っていえば遅くはなかったようで例年より色づきが濃い。またこの位置 ↑ から見えるはずのイチョウの大木のイエローオータムがすべて落ちている。参考までに過去の写真を ↓

 2022年12月8日
11-2022

 2021年12月5日
11-2021



右側の木が九品仏で一番赤いモミジ。
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まさに折り紙の赤色。
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これは正門をくぐったところの光景。様々な色のグラデーションが見られる場所なのに、ちょっと見頃過ぎになっていて残念。
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なので2021年の写真を。
いつもならこんな極楽浄土に来た気分を味わえる。
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それにしても逆光テクニックを使っていないのに、
この赤の濃さはどうよ! なおこの日はデジカメは持参せずiPhoneで撮影。
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オレンジ掛かったのもディープな色彩。
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山門より先のエリアはちょっと地味になる。
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東京都の天然記念物に指定されている大イチョウ。
この木は葉を落とすのが早く、今までイエローオータムになっているのを見たことがない。
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他のイエローオータムとレッドオータムのミックスを楽しむ。
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九品仏は9体の阿弥陀如来像があるから九品仏。

  まず上品(じょうぼん)、中品、下品の3区分があり、
  それぞれに上生(じょうしょう)、中生、下生の3つの下位区分があって
  3×3で合計9つの等級に分かれている。

つまり成仏して極楽浄土に行けたとしても格差社会は存在する!


これは下品のお堂。
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「げひん」じゃなくて「げぼん」ね。
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センターにいるはずの仏像は現在修復中。
左右は修復前と後の姿。
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9体の阿弥陀如来と本尊を合わせた10体をひとつにつき2年、
トータル20年かけて修復する大計画。
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なおこのパネルには「中品下生仏がご遷座中」と書かれているが、ここは下品のお堂だし、上の写真には「下品上生佛像御遷座中」とあるので、これは間違い。


こちらは中品のお堂。
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上品のお堂。
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上品は3体とも修復が完了している模様。でも左右の仏像は金箔がはげている部分もある。どうしてピカピカにしないのだろう。アンティーク感を出すためじゃないよね?



境内ブラブラ。
毎年同じような写真になるのは仕方ない。
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お地蔵さんにご挨拶して、
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最後は正門から退出。
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レッドオータムが目にしみた。
来年もまた訪れましょう、あっ、もう今年か。

wassho at 20:17|PermalinkComments(0) お花畑探訪 

2024年01月09日

首相の作業服姿

1月1日に能登半島で大地震が起きてから、
岸田首相は作業服姿で会見に臨んでいる。
以下、個別の注釈を記していない画像は首相官邸ホームページ、政府広報オンラインまたはWikipediaからの引用
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非常災害対策本部会議での様子。
これら作業服を政府は防災服と称している。
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手前の自見大臣などは首相と違うものを着ている。これは内閣府職員用の防災服で、2021年におよそ20年ぶりにデザインやカラーを改めたもの。自見、松村、加藤の3名は内閣府特命担当大臣だから、こちらを着ていると思われる。

参考リンク https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA021CQ0S1A400C2000000/


首相の後ろに座っているのは官僚だろうか。
とにかく皆で防災服を着て会議をするわけだ。
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東京の官邸内で防災服を着る合理的必要性はまったくない。
さぞかし野党が突っ込むかと思えば、彼らも防災服を着ていた(/o\)  画像はhttps://www.sankei.com/article/20240105-MOZDYKPJ2BINXNUHAUR7CLCXIE/から引用
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なぜか立憲民主、維新、共産の3党はお揃いの防災服。公明党の山口代表が着ているのは上の写真では色が黒っぽくて襟がスタンドカラーに見えて、作業服にしたらおしゃれに思えたものの、

過去に撮られた別の写真で見るとそうでもなかった(^^ゞ 画像はhttps://www.komei.or.jp/news/detail/20170312_23330から引用
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そういえば2011年の東日本大震災でも防災服だった。
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この時は東京でも激しい揺れを経験したし、原子炉が爆発するかもとの緊迫感があったから、あまり違和感は感じなかったように思う。


1995年の阪神淡路大震災のときの村山首相。今のようなデザインの防災服はなかったみたい。現地視察以外のときに何を着ていたかは記憶になく、調べてもよくわからなかった。画像はhttps://www.jiji.com/jc/d4?p=ton131-jlp00917548&d=d4_psnから引用
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首相タイプと内閣府タイプ以外にも、
省庁によって黄緑や水色、オレンジなどカラフルな防災服もある。
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面白いのは鈴木財務大臣で、上の写真は1月3日の第2回非常災害対策本部会議の様子(彼は水色着用)。こちら前日1月2日の第1回会議では一人だけスーツを着て参加している。会議に防災服など不要と思っていたのかも知れない。
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木原防衛大臣。
防衛省の防災服はかなり地味。もっとミリタリー調のデザインがいいと思うゾ(^^ゞ 画像はhttps://www.sankei.com/article/20240104-DV3POI5VIFLR7EKGDOQABCF26I/から引用
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これらの防災服姿については

   事に当たるに際しての団結力を生む
   やってる感を出しているだけの単なるパフォーマンス

との相反する見方がある。

イベントやお祭りでお揃いのTシャツやハッピを着ると気分が盛り上がるのは事実。しかし非常時の国政がそのレベルでは困る。それに野球の監督はユニフォームを着ているけれど、サッカーの監督がスーツ姿でチームの団結が薄れるなんてこともない。


ところでスーツでない姿で国民を鼓舞していると言えば、
現在ではゼレンスキー大統領を置いて他にない。
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軍服の一種ようにも見えるものの、
実は市販の服に軍隊のワッペンなどをつけているだけらしい。


昨年5月に広島サミットに来日したときもこの姿だった。画像はhttps://www.yomiuri.co.jp/world/20230520-OYT1T50229/、https://www.sankei.com/article/20230521-YSF2UBQQ3FIDJMUOYF2NTFZ2H4/から引用
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本国すなわち戦地を離れた場所でこんな服装である必要はないが、そこには彼の決意や信念のようなものが伺える。岸田首相らの防災服からはそうのようなものはまったく伝わってこない。単なる演出の意図が透けて見えるばかりで、いわゆるコスプレでしかない。

だから、やってる感を出している「だけ」とは批判しないまでも、
無駄なパフォーマンスだというのが私の考え。


ついでに安全な官邸でスーツではなく防災服を着ている岸田首相が、
昨年3月にウクライナを訪問したときの写真を載せておこう。
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おいフミオ、そこ戦地やぞ(^^ゞ

wassho at 20:47|PermalinkComments(0) ノンジャンル 

2024年01月06日

羽田空港の飛行機衝突事故で素朴な疑問 その2

さて素朴な疑問の本題。
写真はhttps://mainichi.jp/articles/20240103/k00/00m/030/008000cから引用

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事故の原因はまだ判明していないものの、現在のところ海保機が管制官からの指示を聞き間違えたまたは取り違えた、あるいはそのほかの理由で、誘導路からまだ進入すべきではない滑走路に入ってしまったからではないかと言われている。

管制官とパイロットとのやりとりなんて英語ではあるが定型文みたいなもの。その内容は毎回ほとんど変わらない。だからこそ慣れによる聞き違えや勘違いもあるのかも知れない。そのためにパイロットは受けた指示を必ず復唱するルールになっている。それでもミスコミュニケーションは起きるもの。


しかしそれよりもなによりも、
事故の状況がある程度報じられて最初にに浮かんだのは、理由はともあれ管制官の指示に反して、まだ進入してはいけない滑走路に飛行機が進入してしまったとして、それを誰も見ていなかったのか、衝突するまで気がつかなかったのかとの根本的な疑問。

管制塔から双眼鏡で見るか、あるいは監視カメラを設置しておくか、とにかく現場を見てさえおけば事故は防げたはずーーーと不思議だった。すると1月5日早朝になって「羽田空港には地上の飛行機の位置を探知するレーダーがある」「管制官はそれを見ていなかった」との報道が。

  ナンジャそれ(/o\)

もっとも「管制官が機体の位置を常時把握するとの規則はない」らしい。もちろん常時把握する必要はないとしても、要所要所では把握する必要あると思うけどなあ。それと地上機の位置をレーダーで把握しているなら、管制官の指示に反している動きをしている飛行機があれば、それを察知して警告を出すシステムを組み込んでいないのか。その程度ならAIとかを使うまでもなくたいして難しくない。


−−−と思っていたら1月5日の夕方に、

   着陸機が接近する滑走路に別の機体が進入した場合、
   管制官に画面上で注意喚起する「滑走路占有監視支援機能」が
   事故当時、正常に作動していた

と報道された。地上レーダーと連動しているのかの説明はなかったが、許可を出していない飛行機が滑走路に進入すると、飛行機の色が赤に変わり、滑走路が黄色く点滅されるわかりやすいシステム。アラートが鳴るかどうかは不明。
画像はhttps://news.yahoo.co.jp/pickup/6487328から引用
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そしてどうやら管制官はこれを見逃していた可能性があるとの報道。

  ナンジャそれ(/o\) 2回目

どうも昔からある管制官とパイロットの無線音声でのやりとりに、重きを置きすぎたシステムになっているように思えてならない。音声だけのコミュニケーションなんて絶対にミスが起こるのは分かりきった話なのに。



次に疑問に思ったのは、飛行機が誘導路から滑走路に入る手前に、信号機や踏切の遮断機のようなものはないのかということ。

これについては信号機を備えている空港もあるが羽田空港にはないとわかった。ただ停止線灯なるものがあって信号機と同じ役割を果たしているようだ。しかしその停止線灯が昨年12月27日から使用不能になっていたとも報じられている。

  ナンジャそれ(/o\) 3回目

もちろん装置が故障する場合もある(故障かどうかは報道では不明)。でもそれなら普段以上に気をつけておくべきなのに。



繰り返しになるが今回の事故は

  管制官:海保機に誘導路で滑走路のそばまで進み、
      そこで待機の指示を出した(つもり)

  海保機:管制官から滑走路の中で待機の指示と受け止めた

とのミスコミュニケーション説が濃厚。そして

  海保機の地上位置を把握するレーダーはあったが、それは監視されておらず、
  未許可の飛行機が滑走路に進入した場合に警告を出す装置はあっても、それを見逃し、
  さらに滑走路への進入を禁止する合図を出す停止線灯は作動していなかった。

大きな事故とは複合原因で起こるとよく言われるものの、
今回はまさにそれを絵に描いたような展開。

この状況下で事故を防ぐ手立てはあったのか?
管制のメインとなるのは管制官とパイロットとの無線交信だとしたら、

    誘導路から滑走路に入る位置で一旦停止、
    そして進入の許可を得る

との手順を、ひとつ加えておけばいいだけだったのでは?と思えてならないーーー クルマの教習所では踏切の前で一旦停止し、窓まで開けて電車の音がしないか確認させられるゾ。

もちろん、そんな手順が存在していて海保機がそれを怠った可能性はある。しかし管制官との交信記録が公開されて、専門家は誰もそれについての指摘はしていないから、おそらくその手順はないのだと想像している。


空港の管制についての知識はないから、ひょっとしたら的外れなことを書いているかも知れない。また詳しい状況についてはまだわかっていない、あるいは報じられていないものもあるだろう。レーダーとは空を監視するものだと思っていたから、地上レーダーがあるなんて1月5日に報道があるまで想像もしていなかった。

とにかくこんな「言った、言わない」に近いレベルのミスが、
事故を引き起こすのは今回が最後になりますように。



おしまい

wassho at 12:49|PermalinkComments(0) ノンジャンル 

2024年01月05日

羽田空港の飛行機衝突事故で素朴な疑問

元旦に能登半島で大地震そして2日には羽田で飛行機同士の衝突事故と、年明け早々二日連続で大きな災いに見舞われた。もちろん地震や事故に正月は関係ないとはいえ、正月気分も吹き飛ぶ出来事である。

亡くなられた方のご冥福をお祈りし、
また地震で被災された皆様にはお見舞いを申し上げたい。


さて羽田での事故は

  JALの旅客機が着陸したら
  そこに離陸予定の海上保安庁の飛行機(以降は海保機と略)がいた

というもの。

どう接触したのか、いわゆるオカマを掘るように海保機の真後ろに衝突したのか、あるいは海保機の主翼を引っかけるような形だったのかなどは、今のところ報じられていない。また海保機が停止していたのか移動中だったのかも同様。移動中なら海保機の側面に衝突した可能性もある。画像はhttps://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE031830T00C24A1000000/から引用
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でもとにかくJAL機の着陸地点の前方に海保機がいてJAL機はそれに衝突。不幸中の幸いは着陸後の衝突だったこと。着陸直前のまだ空中に浮いている間に接触していたらもっと大惨事になっていたと思う。


乗客乗員避難の様子。写真はhttps://mainichi.jp/articles/20240103/k00/00m/030/008000cから引用 続く3枚も同様
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衝突から18分後に乗客367人、乗員12人の計379人が全員脱出できたのは「奇跡の18分」と呼ばれているらしい。似たような経験がないから、状況の想像は難しいが多分そうなんだろう。18分とは衝突してから最後に機長が脱出するまでの時間で、脱出そのものはもっと短時間で実行されたはず。ちなみにこの飛行機の乗客定員は369名だから満席に近い状態。


その後、飛行機は大炎上して、
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変わり果てた姿に。
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すっかり焼け落ちて、特に主翼より前方はほとんど形がない。よく燃えているのは最近の飛行機が炭素繊維素材を多用している(この機種では全体の53%)のも影響していると思う。また写真を見ると主翼がほとんど燃えていない。単なる好奇心だけれどその理由が気になる。


こちらは海保機の残骸。
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まさに木っ端みじんな印象。なぜかJAL機とは反対に主翼が見当たらない。
乗員6名のうち5名が亡くなった。


衝突した機種は

 JAL:エアバス社A350-900型 全長66.8m 最大離陸重量217トン
 
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 海上保安庁:ボンバルディア社DHC-8-300型 全長25.68m 最大離陸重量19.5トン
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機体の大きさ比較。画像はhttps://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE0233J0S4A100C2000000/から引用

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ただし衝突のエネルギーは長さではなく重さと速度に比例する。衝突時のデータはないので、とりあえず最大離陸重量で比較すると(最大離陸重量は離陸可能な飛行機+燃料+人+荷物の合計最大重量)

  A350-900の217トン ÷ DHC-8-300の19.5トン=11倍

これは約1トンの軽四と、大型ダンプ約11トンの重さを較べた倍数と同じ(どちらも車両のみの重量)。しかも飛行機が着陸するスピードは時速250km前後。もちろん着陸後はブレーキをかけエンジンを逆噴射して急減速するとしても、着陸地点からさほど離れていない位置に海保機はいただろうから、着陸速度とあまり変わらなかったかも知れない。250kmで大型ダンプに突っ込まれれば、そりゃ軽四はひとたまりもない。

海保機乗員の死亡理由は司法解剖前でわからないが、離陸待機中ならまだシートベルトをしていなかった可能性もある。



何を疑問に思ったのかは次回で。



ーーー続く

wassho at 21:13|PermalinkComments(0) ノンジャンル 

2024年01月04日

祐天寺で除夜の鐘は聴くも初詣は叶わず

新年明けましておめでとうございます
今年も暇なときあればお読みください

お正月

2022年の大晦日に生まれて初めて除夜の鐘を聴きに出かけた
それがなかなかよかったので2023年も。
同じ寺じゃ芸がないから今回は自宅から少し離れた祐天寺というお寺。
祐天寺で除夜の鐘を突いているのは前回に確認済み。

でも念のためにとホームページを調べてビックリ。開始時間が午後11時45分となっている。除夜の鐘は大晦日に突いて、108の煩悩を落として正月を迎えるものだと何となく思っていた。そこでウィキペディアで調べてみると

  深夜0時を挟む時間帯に突く
  107回は12月31日に、残り1回を1月1日に突く
  1月1日になった午前0時から突き始める

など寺によって様々だと知る。ちなみに前回の円融寺は午後10時スタート。今回の11時45分からだとほとんどを1月1日になってから突くことになる。

でもこれは私にとっては好都合。なぜなら除夜の鐘は初詣に変わるイベントとして訪れるから。前回の除夜の鐘について書いたブログを引用すると

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ここ数年、正月には初詣に行くのを常としてる。それは別に信心深いからではなく、正月らしいことは何もしないし、いわゆるテレビの正月特番も見ないので、まったく生活に正月らしさがないから(鏡餅を買ったのも今年が初めて)。それで初詣くらいは行くかと始めたしだい。海上自衛隊が航海に出ると景色に変化がなく、曜日の感覚を失わないよう金曜日はカレーを食べるのと同じ理由。

しかし散歩がてら圏内にある近所の寺社は、もうほとんど訪れてしまった。何となく同じところに行くのはつまらないし、かといって初詣の有名どころまで出かけて人混みにまみれるのも気が進まない。そして年の瀬に来年の初詣はどうしようと思ってた時に閃いたのが、そうだ初詣じゃなくて除夜の鐘にしようとのアイデア。
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なので祐天寺の除夜の鐘が午後11時45分から始まるのなら、午前0時を回って元旦になってからお参りすれば初詣にもなる。一石二鳥だとほくそ笑む(^^ゞ なお鐘を突くには事前に配られる整理券が必要なので今回も見て聴くだけ。


祐天寺に近づく。
写真に記録された時刻は午後11時44分28秒。
デジカメではなくiPhoneで撮ったので正確なはず。
このすぐ後にゴーンと鐘の音がしたので「始まったな」と思った。
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祐天寺は駒沢通りに面している。
東横線の駅名にもなっている有名なお寺。
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写真では明るくなっているが、
実際はもっと暗くて電球で飾られた参道がいい雰囲気だった。
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鐘の前でお経を読んでいた。
先ほど聞こえた鐘は、その開始のときに突かれたものだったようだ。
それも108のうちに数えるのかな?
写真では2名が柱に隠れているけど、お坊さんは5名いて荘厳な印象。
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しかしお経を聴いていても退屈なので(^^ゞ
境内ブラブラ。

古くなったお守りやお札、仏具などを燃やすお炊き上げ。
入り口でお香も焚いていたのでいい香りが漂っていた。
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お参りに並んでいる列。
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時刻は11時51分。
まだ大晦日なので、これじゃ初詣にならないのにとこの時点では思っていた。


本堂の前をのぞいたら。
お坊さんが読経していて誰も参拝していない。
やはり初詣のための年越し待ちをしているのか?
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しばらくすると鐘の音が聞こえ始め除夜の鐘が始まった。
寺務所に戻るお坊さん。
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鐘楼に戻り鐘の音を聴く。
煩悩が消えますように(^^ゞ
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係員が鐘を突く人のスマホで写真を撮ってくれるのは昨年と同じ。
もう一般的になっているサービスのようだ。
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昨年はゴーンとカーンの中間くらいの高い音だった。
較べると祐天寺のはゴーン寄りでやや低い音色。鐘の大きさは

  円融寺 高さ151cm  口径91cm
  祐天寺 高さ180cm  口径102cm

それでもテレビ中継があるような大寺院の鐘と較べるとかなり高い音。


しばらくしたら、どこからとなくジュウ! キュウ! ハチ!とカウントダウンが始まった。お寺の境内でカウントダウンを聞くなんて新鮮な感じ。そしてめでたく2024年を迎える。



何発か除夜の鐘を聴いて、そろそろ初詣をしようと思ったら、
お参り待ちが長蛇の列になっている。
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なんと境内の外にまで!
時刻は0時ちょっと過ぎ。11時45分に来たときに門はガラガラだったのに。
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後で調べたらこれは「元朝(がんちょう)祈願」といって、新年を迎えた午前0時から参拝する習わしが祐天寺にはあるとわかった。だから先ほど11時51分の時点では、並んでいるだけで誰もお参りしていなかったんだ。


さて鐘の音を聴いて、煩悩が消えても列に並べない性格は変わらない(^^ゞ
あまりに列が長いので本堂への参拝、つまり初詣は断念。

もし祐天寺に除夜の鐘で訪れるなら、先に列に並んで除夜の鐘を聴きながら元朝祈願の順番を待ち、それを済ませてから除夜の鐘を突くところを見学するといいと思うよ。


そんなわけで初詣の参拝こそしなかったものの、カウントダウンのときに、心の中で「仏さん、Happy New Year!」と唱えたから今年もきっといい1年になる!

wassho at 20:27|PermalinkComments(0) 生活、日常 | イベント、旅行