2024年06月
2024年06月30日
食のハックをタグ付けした
前回「餃子に酢ソース」のブログを書いた。そういえば少し前に「パンケーキを焼けなくても」も書いたし、それ以前にもちょっと変わった食べ方の話をいろいろと書いたなと思い出す。
抜き出してみた。
餃子に酢ソース
パンケーキを焼けなくても
汁そばにワサビ
夏以外はビールを冷やさずに
夏はほうじ茶を水出しで
ヨーグルトも常温に温めてみた
常温牛乳で冬でもシリアル
冷やしカップヌードル はじめました
アイスコーヒーのブレンド
カレーシチュー
スイカにレモン汁
フレンチプレスなら微粉は取り除こう
コーヒーは温め直すより保温しておいたほうが
手づくりの?トースタースタンド
どん兵衛をほうじ茶で
牛丼にチーズのトッピング
ラーメンにチーズのトッピング
焼き鳥にワサビ
夏は白ワインをシャーベットにして
アイスコーヒーは水出しで
コーヒーを淹れるのは急須で充分
たこ焼きにオリーブオイル
ソーセージは茹でる?焼く?
ざるそばに七味唐辛子
和風で冷たいイタリアンなアメリカン
コカコーラにバニラ・オイル
コーヒーにシナモン
まぜまぜ ビールとコーヒー
まぜまぜ アレコレ
ワインでアメリカン?
ブラック・アイ
カフェ・アメリカーノ
インスタント味噌汁をおいしく飲む方法
トマトキムチ鍋 Ver.2
トマトジュースの飲み方
日韓中仏伊の適当な出会い 鍋編
イタリアンと韓流(はんりゅう)の適当な出会い
夏野菜エスニックカレー
蕎麦の食べ方
夏を快適に暮らす方法2 水出し緑茶
なんと全部で41記事もあった(^^ゞ
ただこちらの総目次のタイトルだけで判断しているから、中身を読めばもう少しあるだろう。特に初期のブログは1つに記事に複数のテーマを含み、タイトルが内容のすべてではないページも多いから。
けっこう探すのは大変だったし、今後もまた参照したくなるかも知れないから、これらの記事には「食のハック」のタグをつけた。ここでのハック Hack とは「ちょっとしたコツや工夫」との意味。
ところで
このライブドアのブログでは記事を分類する機能として
カテゴリー
タグ
の2つが提供されている。
位置づけとしてはカテゴリーが大分類、タグが小分類といったところ。
カテゴリーはパソコンだとページの左側に表示されている。
スマホではどのページを見ているかで表示方法が異なる。
トップページの場合は下までスクロールして、プロフィール欄の上にある「カテゴリーアーカイブ」をタップすればパソコンと同じ内容がプルダウンメニューで現れる。
個別の記事を見ているなら、記事のさらに下までスクロールするとパソコンと同じようにカテゴリーの一覧が表示されている。「バイク」「ベランダガーデニング」「海外」のように下向きマークの ∨ が記されているのはサブカテゴリーを持っている。(パソコンでの表示例を参照)
カテゴリーと違ってどんなタグがあるかの一覧はブログ上に表示させていない。表示させることも可能なのだが、現在19個を設定しているカテゴリーと違って、タグの数は500個以上あるので実用性があまりないから。ちなみにライブドアの仕様では
カテゴリー:設定上限500個:1つの記事に適用できるカテゴリーは2つまで
タブ:設定上限不明、少なくとも1000個までは大丈夫みたい
:1つの記事に適用できるタグはは10個まで
となっている。
また各記事にタグやカテゴリーは必ずしも適用させる必要はない。このブログでは(設定忘れを除いて)すべての記事がカテゴリー分けされているものの、タグはつけていない記事のほうが圧倒的に多い。なおカテゴリーとタグは独立した機能で相互の関連はない。
それでタグはどこで見るかというと、パソコンでは記事が終わったところにある。画像で「※チューリップ以外」と表示されているのはカテゴリー。
スマホでは個別記事の後の「カテゴリーの最新記事」の下。
なぜかパソコンとはカテゴリーとタグの順番が違う。
とりあえずここでカテゴリーやタグに書かれている文字をクリックなりタップすると、それに属している記事が日付の新しい順番に検索結果として表れる。ただしスマホならタイトルと最初の写真と書き出しの数行が表示されるのに対して、パソコンでは記事のすべてが表示される。例えば348記事を書いている「ツーリング」をクリックすると348記事すべての文章を延々とスクロールしなければならない。
これは是非ともタイトルだけの表示に改めて欲しい。
スマホもタイトルだけでいい。スマホで表示されるのが、タイトルと最初の写真と書き出しの数行なのは、スマホでの一覧表示が元々そういう仕様であるからに過ぎない。
なおカテゴリーやタグの機能を使わなくても、ブログ内にある検索窓にキーワードを入れれば、その言葉を含む記事を探し出せる。以前はこのツールがいい加減でヒット率が低いので表示させていなかったが、今は充分に機能している。写真は上がパソコン、下がスマホでの検索窓。
さてタグとはパソコン関連でよく聞く言葉。
けれどもこれを正確かつわかりやすく定義するのは難しい。
ついでにタグとタブもよく言い間違える(^^ゞ
タグ tag の本来の意味は札(ふだ)で荷札、下げ札、値札などと使われる。名札は name tag である。また商品札としてシャツなら首の所に付いているブランド名が刺繍された布や、脇腹あたりにある素材名や洗濯方法が書かれた布テープもタグと呼ばれる。
そこから発展してタグは付箋の意味も持つようになった。ブログのタグはそのニュアンスに近い。私の「餃子に酢ソース」が原稿用紙に書かれているとしたら、それに「食のハック」のポストイットを貼る感じ。Twitterのハッシュタグ#も同じ言葉の使い方。
ここまでなら素直に理解できても、
コンピューターの分野では「命令」の意味でもタグが使われるから話がややこしい。
ブラウザーやスマホのアプリなどインターネットを介してみる文字やページはHTMLやXMLなどのマークアップ言語で記述されている。HTMLは Hyper Text Markup Language の略。マークアップ言語では元の文章に「命令」を埋め込むことによって見出しや本文などの書式を整えたり、画像の表示や他のページへのリンクを張れる仕組みになっている。
このブログも画面では見えなくても様々な命令が埋め込まれ、それによって今あなたが読んでいる位置に文章が表示され、またフォントの大きさや色が設定されている。
ブログを書く際に「命令」を自分で埋め込む必要はほとんどなく、操作画面にも現れないが、追加の命令を埋め込むのも可能。
これはブログを書く画面で何も命令を埋め込んでいない状態。
すると普通にこう表示される。
タグって何? → タグって何?
これにフォントサイズを400%にしろとの命令を埋め込むと、
タグって何? → タグって何?
フォントの色を赤にする命令では
タグって何? → タグって何?
と変化する。
上の画像にあるブラウザーやスマホのアプリには表示されない < > で囲まれた命令の部分もなぜかタグと呼ばれる。言葉的にタグには命令の意味はないから、これにどうしてタグという言葉が使われるのか疑問。おそらくは < > で囲んだ部分を「命令印」みたいなニュアンスでタグと言い出したのかなと想像している。
抜き出してみた。
餃子に酢ソース
パンケーキを焼けなくても
汁そばにワサビ
夏以外はビールを冷やさずに
夏はほうじ茶を水出しで
ヨーグルトも常温に温めてみた
常温牛乳で冬でもシリアル
冷やしカップヌードル はじめました
アイスコーヒーのブレンド
カレーシチュー
スイカにレモン汁
フレンチプレスなら微粉は取り除こう
コーヒーは温め直すより保温しておいたほうが
手づくりの?トースタースタンド
どん兵衛をほうじ茶で
牛丼にチーズのトッピング
ラーメンにチーズのトッピング
焼き鳥にワサビ
夏は白ワインをシャーベットにして
アイスコーヒーは水出しで
コーヒーを淹れるのは急須で充分
たこ焼きにオリーブオイル
ソーセージは茹でる?焼く?
ざるそばに七味唐辛子
和風で冷たいイタリアンなアメリカン
コカコーラにバニラ・オイル
コーヒーにシナモン
まぜまぜ ビールとコーヒー
まぜまぜ アレコレ
ワインでアメリカン?
ブラック・アイ
カフェ・アメリカーノ
インスタント味噌汁をおいしく飲む方法
トマトキムチ鍋 Ver.2
トマトジュースの飲み方
日韓中仏伊の適当な出会い 鍋編
イタリアンと韓流(はんりゅう)の適当な出会い
夏野菜エスニックカレー
蕎麦の食べ方
夏を快適に暮らす方法2 水出し緑茶
なんと全部で41記事もあった(^^ゞ
ただこちらの総目次のタイトルだけで判断しているから、中身を読めばもう少しあるだろう。特に初期のブログは1つに記事に複数のテーマを含み、タイトルが内容のすべてではないページも多いから。
けっこう探すのは大変だったし、今後もまた参照したくなるかも知れないから、これらの記事には「食のハック」のタグをつけた。ここでのハック Hack とは「ちょっとしたコツや工夫」との意味。
ところで
このライブドアのブログでは記事を分類する機能として
カテゴリー
タグ
の2つが提供されている。
位置づけとしてはカテゴリーが大分類、タグが小分類といったところ。
カテゴリーはパソコンだとページの左側に表示されている。
スマホではどのページを見ているかで表示方法が異なる。
トップページの場合は下までスクロールして、プロフィール欄の上にある「カテゴリーアーカイブ」をタップすればパソコンと同じ内容がプルダウンメニューで現れる。
個別の記事を見ているなら、記事のさらに下までスクロールするとパソコンと同じようにカテゴリーの一覧が表示されている。「バイク」「ベランダガーデニング」「海外」のように下向きマークの ∨ が記されているのはサブカテゴリーを持っている。(パソコンでの表示例を参照)
カテゴリーと違ってどんなタグがあるかの一覧はブログ上に表示させていない。表示させることも可能なのだが、現在19個を設定しているカテゴリーと違って、タグの数は500個以上あるので実用性があまりないから。ちなみにライブドアの仕様では
カテゴリー:設定上限500個:1つの記事に適用できるカテゴリーは2つまで
タブ:設定上限不明、少なくとも1000個までは大丈夫みたい
:1つの記事に適用できるタグはは10個まで
となっている。
また各記事にタグやカテゴリーは必ずしも適用させる必要はない。このブログでは(設定忘れを除いて)すべての記事がカテゴリー分けされているものの、タグはつけていない記事のほうが圧倒的に多い。なおカテゴリーとタグは独立した機能で相互の関連はない。
それでタグはどこで見るかというと、パソコンでは記事が終わったところにある。画像で「※チューリップ以外」と表示されているのはカテゴリー。
スマホでは個別記事の後の「カテゴリーの最新記事」の下。
なぜかパソコンとはカテゴリーとタグの順番が違う。
とりあえずここでカテゴリーやタグに書かれている文字をクリックなりタップすると、それに属している記事が日付の新しい順番に検索結果として表れる。ただしスマホならタイトルと最初の写真と書き出しの数行が表示されるのに対して、パソコンでは記事のすべてが表示される。例えば348記事を書いている「ツーリング」をクリックすると348記事すべての文章を延々とスクロールしなければならない。
これは是非ともタイトルだけの表示に改めて欲しい。
スマホもタイトルだけでいい。スマホで表示されるのが、タイトルと最初の写真と書き出しの数行なのは、スマホでの一覧表示が元々そういう仕様であるからに過ぎない。
なおカテゴリーやタグの機能を使わなくても、ブログ内にある検索窓にキーワードを入れれば、その言葉を含む記事を探し出せる。以前はこのツールがいい加減でヒット率が低いので表示させていなかったが、今は充分に機能している。写真は上がパソコン、下がスマホでの検索窓。
さてタグとはパソコン関連でよく聞く言葉。
けれどもこれを正確かつわかりやすく定義するのは難しい。
ついでにタグとタブもよく言い間違える(^^ゞ
タグ tag の本来の意味は札(ふだ)で荷札、下げ札、値札などと使われる。名札は name tag である。また商品札としてシャツなら首の所に付いているブランド名が刺繍された布や、脇腹あたりにある素材名や洗濯方法が書かれた布テープもタグと呼ばれる。
そこから発展してタグは付箋の意味も持つようになった。ブログのタグはそのニュアンスに近い。私の「餃子に酢ソース」が原稿用紙に書かれているとしたら、それに「食のハック」のポストイットを貼る感じ。Twitterのハッシュタグ#も同じ言葉の使い方。
ここまでなら素直に理解できても、
コンピューターの分野では「命令」の意味でもタグが使われるから話がややこしい。
ブラウザーやスマホのアプリなどインターネットを介してみる文字やページはHTMLやXMLなどのマークアップ言語で記述されている。HTMLは Hyper Text Markup Language の略。マークアップ言語では元の文章に「命令」を埋め込むことによって見出しや本文などの書式を整えたり、画像の表示や他のページへのリンクを張れる仕組みになっている。
このブログも画面では見えなくても様々な命令が埋め込まれ、それによって今あなたが読んでいる位置に文章が表示され、またフォントの大きさや色が設定されている。
ブログを書く際に「命令」を自分で埋め込む必要はほとんどなく、操作画面にも現れないが、追加の命令を埋め込むのも可能。
これはブログを書く画面で何も命令を埋め込んでいない状態。
すると普通にこう表示される。
タグって何? → タグって何?
これにフォントサイズを400%にしろとの命令を埋め込むと、
タグって何? → タグって何?
フォントの色を赤にする命令では
タグって何? → タグって何?
と変化する。
上の画像にあるブラウザーやスマホのアプリには表示されない < > で囲まれた命令の部分もなぜかタグと呼ばれる。言葉的にタグには命令の意味はないから、これにどうしてタグという言葉が使われるのか疑問。おそらくは < > で囲んだ部分を「命令印」みたいなニュアンスでタグと言い出したのかなと想像している。
2024年06月26日
餃子に酢ソース
お好み焼きソースの工場を見学するテレビ番組があって、
最後にそこの社員が考えたお好み焼きソースに合う料理が紹介されていた。
そのひとつが餃子のタレとしてお好み焼きソースを使うこと。餃子の材料は小麦粉と豚肉とキャベツなのだから、お好み焼きと同じで合わないわけがないとの触れ込みだったと思う。それ以外にも何点かの料理があったがもう忘れてしまった。たぶん私が作らない料理だったからだと思う。
それで先日に餃子を焼いたので試してみた。
使ったのはいわゆる中濃ソース。
ところで関東はトロッとした中濃ソース、関西はサラサラのウスターソースが主流である。また関西はウスターソース以外にとんかつソースやお好み焼きソースなど、複数のソースを使い分けている家庭が多い。
下記は日本ソース工業会が2021年に実施した調査で、自宅に常備しているソースの種類を示している。数字は% 表はhttps://nippon-sauce.or.jp/topix-past/16002.htmlから引用
まるで醤油の濃口・薄口の違いのよう。醤油の場合は「出汁を取る」という料理文化の波及度合いから違いが生まれたと理解している。しかしソースなんてのは日本で広まったのが明治中期以降なのに、どうして地域によって違いが生まれたのだろう。また名古屋のうどんやきしめんは濃い色の出汁で関東風なのに、ソースに関しては関西寄りなのも興味深い。
何かと奥が深そうなのでいずれ調べましょう。そういえば中濃ソースなどとウスターソースの粘度の違いが何によるのかも理解していない。
さて餃子にソース。
まずは酢醤油でいつもの味を確認。
そしてソースをつけて食べてみる。
合わなくはない。
小麦粉と豚肉とキャベツでお好み焼きと同じとの理屈はうなづける。
でもちょっとソースの味が勝ちすぎて辛い。
そこで普通は酢醤油なのだからと酢でソースを割ってみる。
日本の酢はなかったのでドレッシング用のワインビネガーを使用。
ソースだけより酢ソースのほうが餃子に合う。
これはこれで悪くない。
ただし、
これから餃子は酢ソースで食べるかと問われたら、やはり酢醤油にする(^^ゞ
まっ、その程度の結論ではあるけれど、
ものは試しに、あるいは途中の「味変」としてトライしてみてちょうだい。何より酢ソースなんて日本人の1%の1%のそのまた1%も味わったことがないと思うから、それだけ特別な体験が出来るよ。
最後にそこの社員が考えたお好み焼きソースに合う料理が紹介されていた。
そのひとつが餃子のタレとしてお好み焼きソースを使うこと。餃子の材料は小麦粉と豚肉とキャベツなのだから、お好み焼きと同じで合わないわけがないとの触れ込みだったと思う。それ以外にも何点かの料理があったがもう忘れてしまった。たぶん私が作らない料理だったからだと思う。
それで先日に餃子を焼いたので試してみた。
使ったのはいわゆる中濃ソース。
ところで関東はトロッとした中濃ソース、関西はサラサラのウスターソースが主流である。また関西はウスターソース以外にとんかつソースやお好み焼きソースなど、複数のソースを使い分けている家庭が多い。
下記は日本ソース工業会が2021年に実施した調査で、自宅に常備しているソースの種類を示している。数字は% 表はhttps://nippon-sauce.or.jp/topix-past/16002.htmlから引用
まるで醤油の濃口・薄口の違いのよう。醤油の場合は「出汁を取る」という料理文化の波及度合いから違いが生まれたと理解している。しかしソースなんてのは日本で広まったのが明治中期以降なのに、どうして地域によって違いが生まれたのだろう。また名古屋のうどんやきしめんは濃い色の出汁で関東風なのに、ソースに関しては関西寄りなのも興味深い。
何かと奥が深そうなのでいずれ調べましょう。そういえば中濃ソースなどとウスターソースの粘度の違いが何によるのかも理解していない。
さて餃子にソース。
まずは酢醤油でいつもの味を確認。
そしてソースをつけて食べてみる。
合わなくはない。
小麦粉と豚肉とキャベツでお好み焼きと同じとの理屈はうなづける。
でもちょっとソースの味が勝ちすぎて辛い。
そこで普通は酢醤油なのだからと酢でソースを割ってみる。
日本の酢はなかったのでドレッシング用のワインビネガーを使用。
ソースだけより酢ソースのほうが餃子に合う。
これはこれで悪くない。
ただし、
これから餃子は酢ソースで食べるかと問われたら、やはり酢醤油にする(^^ゞ
まっ、その程度の結論ではあるけれど、
ものは試しに、あるいは途中の「味変」としてトライしてみてちょうだい。何より酢ソースなんて日本人の1%の1%のそのまた1%も味わったことがないと思うから、それだけ特別な体験が出来るよ。
2024年06月25日
4品種ガーデニングここまでの経過
マリーゴールドが昨日に初開花したとはいえ、
マリーゴールド
百日草
矢車草
ミニヒマワリ
の4品種で今のところ明暗を分ける生育状況である。
私の備忘録を兼ねて、ここまでの経過を整理すると
<5月2日>
種まき。カッコ内数字は種をまいた数。
マリーゴールド (8)
百日草 (8)
矢車草 (16)
ミニヒマワリ (16)
1箇所にふたつの種をまき、両方が発芽したら成長の悪い方を間引く予定でスタート。
だから目標株数はカッコ内数字の半分。
<5月8日>
マリーゴールド、百日草、矢車草が初発芽。
<5月10日>
ミニヒマワリ初発芽。
<5月19日>
2つ目の数字が発芽数。
マリーゴールド (8) 7
百日草 (8) 7
矢車草 (16) 8
ミニヒマワリ (16) 8
この時点で最も成長が早いのが百日草。
矢車草は発芽率が悪く、
やたら細くてこの長さで倒れている株がある。
横長の650型プランターにまいたミニヒマワリは順調。
しかし丸形プランターにまいた8種は、
ひとつしか発芽しておらず形もおかしい。
マリーゴールドも順調。
<5月22日>
丸形プランター4つにミニヒマワリを2種ずつ合計8種まいたのに、ひとつしか発芽していない。650型プランターには7つ発芽しているので、そこから2つを丸いプランターに移植した。また残るひとつの丸形プランターに新たにミニヒマワリの種をまく。
また矢車草の発芽していない場所にも新たに種をまき、また発芽の後に倒れてしまい回復しそうにない株は取り除いた。
<6月2日>
百日草のプランター。
まあまあ成長している。
こちらは矢車草。
成長が遅いし、
少し成長したのもこんな感じ。
ミニヒマワリは650型プランターと、移植した丸形プランターも元気。
ただし5月19日にひとつだけ発芽していた株は消滅していた(>_<)
マリーゴールドもまずまず。
<6月6日>
消滅したり発芽しなかったりで空のままの丸形プランターに、7株発芽しているマリーゴルドから2株を移植。
また同じく7株発芽している百日草のうち2株を矢車草のプランターに移植。
<6月15日>
百日草は背丈が伸びてはいるものの、ヒョロヒョロで倒れる株が出てきたので、
竹串の支柱で支える。
矢車草も倒れまくっているが、
こちらは茎が短くて支えにくい。
矢車草の状態が思わしくないので、元気に育っている百日草を1株を再び矢車草のプランターに移植。また新たに8つの種をまいた
<6月24日>
竹串では長さが足らなくなり、割り箸も投入して支柱だらけになってしまった。百日草、矢車草ともに種のパッケージに支柱が必要なんて書かれていないのに、どうしてこんなにヒョロヒョロなのだろう。
6月15日に8つまいた矢車草の種は3つが発芽した。
でもガッチリと太く育ちそうなイメージはない。
百日草は大きくはなってきているものの、
こんなシワのできる株が出始めたのが気がかり。
マリーゴルドが順調なのは昨日に書いた通りで、
ヒマワリも元気に育っている。
というわけで今のところ
マリーゴールド:順調
ミニヒマワリ:順調
百日草:微妙
矢車草:不調
といったところ。
あと1ヶ月ほどしたらベランダにたくさん花が咲くのかなあ。
どうもそういうイメージが今のところ湧いてこない。
マリーゴールド
百日草
矢車草
ミニヒマワリ
の4品種で今のところ明暗を分ける生育状況である。
私の備忘録を兼ねて、ここまでの経過を整理すると
<5月2日>
種まき。カッコ内数字は種をまいた数。
マリーゴールド (8)
百日草 (8)
矢車草 (16)
ミニヒマワリ (16)
1箇所にふたつの種をまき、両方が発芽したら成長の悪い方を間引く予定でスタート。
だから目標株数はカッコ内数字の半分。
<5月8日>
マリーゴールド、百日草、矢車草が初発芽。
<5月10日>
ミニヒマワリ初発芽。
<5月19日>
2つ目の数字が発芽数。
マリーゴールド (8) 7
百日草 (8) 7
矢車草 (16) 8
ミニヒマワリ (16) 8
この時点で最も成長が早いのが百日草。
矢車草は発芽率が悪く、
やたら細くてこの長さで倒れている株がある。
横長の650型プランターにまいたミニヒマワリは順調。
しかし丸形プランターにまいた8種は、
ひとつしか発芽しておらず形もおかしい。
マリーゴールドも順調。
<5月22日>
丸形プランター4つにミニヒマワリを2種ずつ合計8種まいたのに、ひとつしか発芽していない。650型プランターには7つ発芽しているので、そこから2つを丸いプランターに移植した。また残るひとつの丸形プランターに新たにミニヒマワリの種をまく。
また矢車草の発芽していない場所にも新たに種をまき、また発芽の後に倒れてしまい回復しそうにない株は取り除いた。
<6月2日>
百日草のプランター。
まあまあ成長している。
こちらは矢車草。
成長が遅いし、
少し成長したのもこんな感じ。
ミニヒマワリは650型プランターと、移植した丸形プランターも元気。
ただし5月19日にひとつだけ発芽していた株は消滅していた(>_<)
マリーゴールドもまずまず。
<6月6日>
消滅したり発芽しなかったりで空のままの丸形プランターに、7株発芽しているマリーゴルドから2株を移植。
また同じく7株発芽している百日草のうち2株を矢車草のプランターに移植。
<6月15日>
百日草は背丈が伸びてはいるものの、ヒョロヒョロで倒れる株が出てきたので、
竹串の支柱で支える。
矢車草も倒れまくっているが、
こちらは茎が短くて支えにくい。
矢車草の状態が思わしくないので、元気に育っている百日草を1株を再び矢車草のプランターに移植。また新たに8つの種をまいた
<6月24日>
竹串では長さが足らなくなり、割り箸も投入して支柱だらけになってしまった。百日草、矢車草ともに種のパッケージに支柱が必要なんて書かれていないのに、どうしてこんなにヒョロヒョロなのだろう。
6月15日に8つまいた矢車草の種は3つが発芽した。
でもガッチリと太く育ちそうなイメージはない。
百日草は大きくはなってきているものの、
こんなシワのできる株が出始めたのが気がかり。
マリーゴルドが順調なのは昨日に書いた通りで、
ヒマワリも元気に育っている。
というわけで今のところ
マリーゴールド:順調
ミニヒマワリ:順調
百日草:微妙
矢車草:不調
といったところ。
あと1ヶ月ほどしたらベランダにたくさん花が咲くのかなあ。
どうもそういうイメージが今のところ湧いてこない。
2024年06月24日
マリーゴールドが開花!
ベランダ・フルーツガーデニングと名付けた食べ終わった果物の種の発芽率が思わしくないので、久々に花の種を買ってきて播いたのが5月2日。
播いたのは次の4品種。
マリーゴールド
百日草
矢車草
ミニヒマワリ
そして5月8日にマリーゴールド、百日草、矢車草、そして10日にはミニヒマワリも発芽したところまでは5月11日に書いた。
そしてそれから約1ヶ月半が経った本日、
現在6株あるマリーゴールドの1株が、
めでたく初開花\(^o^)/
ただ私の知っているマリーゴールドとはずいぶんと違う形。
ちなみに種のパッケージの写真はこんなの。
これから花びらが増えてマリーゴルドの丸い形になるのだろうか?
まあ気長に楽しみに育つのを待ちましょう。
ところでマリーゴールドの初開花はうれしいものの、
全体として4品種ガーデニングはあまり順調じゃない(/o\)
それは次回に。
播いたのは次の4品種。
マリーゴールド
百日草
矢車草
ミニヒマワリ
そして5月8日にマリーゴールド、百日草、矢車草、そして10日にはミニヒマワリも発芽したところまでは5月11日に書いた。
そしてそれから約1ヶ月半が経った本日、
現在6株あるマリーゴールドの1株が、
めでたく初開花\(^o^)/
ただ私の知っているマリーゴールドとはずいぶんと違う形。
ちなみに種のパッケージの写真はこんなの。
これから花びらが増えてマリーゴルドの丸い形になるのだろうか?
まあ気長に楽しみに育つのを待ちましょう。
ところでマリーゴールドの初開花はうれしいものの、
全体として4品種ガーデニングはあまり順調じゃない(/o\)
それは次回に。
2024年06月20日
山下公園で春バラ 2024 その2
(5月10日の横浜バラツアーその9)
山下公園は長さ約750メートル、幅は中央付近で100メートル弱の細長い形。面積は7.4ヘクタール。沈床花壇=「未来のバラ園」。その隣が中央広場。中央広場の左右に前回に書いたパーゴラがひとつずつある。
中央広場にある噴水。
噴水を見るとハイスピード撮影をしたくなるのは、波しぶきの一瞬の姿を浮世絵にした葛飾北斎の血が私に流れているからに違いない(^^ゞ
今回は虹も撮れた!
噴水の真ん中に立っている彫刻は「水の守護神」。前回に書いた「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」と同じく横浜市の姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られたもの。ミッションベルはこの石像を取り囲むように4基設置されている。
よく見ると下のプレートには複製と書かれている。寄贈されたオリジナルが壊れてレプリカを作ったのかと思ったがそうじゃなかった。これのオリジナルはサンディエゴ市庁舎前にある石像で、ここにあるのがそのレプリカ。「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」もレプリカだし、サンディエゴ市はレプリカを贈るのが好きなのか?
ところで最初の写真が石像の後ろ姿なのは、
正面からだと逆光だったのと、
ハトが顔にフンをしていたから(^^ゞ
さまざまな色と形のバラを楽しみましょう。
これはまるでアジサイみたいな変わったバラだなと思って、
ネームプレートを確認するとポリアンサローズ。
しかし後でポリアンサローズを調べると、この花とはまったく違う丸みのある小ぶりのバラしかヒットしなかった。そこでこの写真で画像検索して、これはオルラヤ(またはオルレア)・グランディフロラとわかった。違うネームプレートを見ていたようだ(/o\)
この植え込みはバラ以外の植物がない区画だったからバラだと思い込んでしまった。それに一番近くのネームプレートを見たのだけどなあ。普通なら勘違いして恥ずかしいところであるが、私レベルの植物知識だと変わった形と気付いたのがちょっと誇らしい(^^ゞ
ちなみにオルラヤ(オルレア)はセリの仲間。セリなんて野菜のイメージしかなく花が思い浮かばないものの、これとよく似た花だった。 ついでにセリ以外ではアシタバ、パクチー、セロリ、にんじん、三つ葉などがセリ科の野菜ね
以下は間違いなくバラ(のはず)。
今回のドアップは赤と白だけで。
あちこちのバラ園に出かけてきた経験から
無料でこれだけのボリュームのあるところは少ないと言える。
ただしーーー
この山下公園でバラを見るのは2018年の春に続いて2回目。6年経っているわけだけれど、前回からの変化がほとんどないのが残念。毎年は無理だとしても3年おきくらいでもう少しリニューアルというか見せ方に変化をつけて欲しいと思う。
密集感のある植え方も私好み。
最後に氷川丸をまた眺める。
山下公園の向かいにある、
赤いテントが特徴的なホテルニューグランド。
建物の横を通り抜け、
中華街をチラ見したら、
元町・中華街駅にたどり着いて、
本日5月10日の横浜バラツアーは無事終了。
昨年の横浜バラツアーは
前菜にアメリカ山公園
メインディッシュが港の見える丘公園
余裕があればデザートとして山手資料館とイタリア山庭園
の予定で、やはり港の見える丘公園でお腹いっぱいになって終了。
それで今年は
昨年に訪れなかった山手資料館とイタリア山庭園
バラとは関係ないけれど、ついでに山手の西洋館巡りを組み合わせて
それだけじゃバラ花見として物足りないので山下公園
とのコース。ただし坂を登らずに山手地区に出るためには元町・中華街駅の屋上にあるアメリカ山公園を通るから、そこは昨年と被る。結果としてバラとレトロな洋館の組み合わせで楽しい1日だった。
横浜では他にもヴェルニー公園と横浜イングリッシュガーデンにも行ったことがある。しかし振り返ってみればすべて春バラ。秋にはアメリカ山公園→港の見える丘公園→山下公園のゲップ出まくりツアーでもしてみようかな。
おしまい
山下公園は長さ約750メートル、幅は中央付近で100メートル弱の細長い形。面積は7.4ヘクタール。沈床花壇=「未来のバラ園」。その隣が中央広場。中央広場の左右に前回に書いたパーゴラがひとつずつある。
中央広場にある噴水。
噴水を見るとハイスピード撮影をしたくなるのは、波しぶきの一瞬の姿を浮世絵にした葛飾北斎の血が私に流れているからに違いない(^^ゞ
今回は虹も撮れた!
噴水の真ん中に立っている彫刻は「水の守護神」。前回に書いた「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」と同じく横浜市の姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られたもの。ミッションベルはこの石像を取り囲むように4基設置されている。
よく見ると下のプレートには複製と書かれている。寄贈されたオリジナルが壊れてレプリカを作ったのかと思ったがそうじゃなかった。これのオリジナルはサンディエゴ市庁舎前にある石像で、ここにあるのがそのレプリカ。「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」もレプリカだし、サンディエゴ市はレプリカを贈るのが好きなのか?
ところで最初の写真が石像の後ろ姿なのは、
正面からだと逆光だったのと、
ハトが顔にフンをしていたから(^^ゞ
さまざまな色と形のバラを楽しみましょう。
これはまるでアジサイみたいな変わったバラだなと思って、
ネームプレートを確認するとポリアンサローズ。
しかし後でポリアンサローズを調べると、この花とはまったく違う丸みのある小ぶりのバラしかヒットしなかった。そこでこの写真で画像検索して、これはオルラヤ(またはオルレア)・グランディフロラとわかった。違うネームプレートを見ていたようだ(/o\)
この植え込みはバラ以外の植物がない区画だったからバラだと思い込んでしまった。それに一番近くのネームプレートを見たのだけどなあ。普通なら勘違いして恥ずかしいところであるが、私レベルの植物知識だと変わった形と気付いたのがちょっと誇らしい(^^ゞ
ちなみにオルラヤ(オルレア)はセリの仲間。セリなんて野菜のイメージしかなく花が思い浮かばないものの、これとよく似た花だった。 ついでにセリ以外ではアシタバ、パクチー、セロリ、にんじん、三つ葉などがセリ科の野菜ね
以下は間違いなくバラ(のはず)。
今回のドアップは赤と白だけで。
あちこちのバラ園に出かけてきた経験から
無料でこれだけのボリュームのあるところは少ないと言える。
ただしーーー
この山下公園でバラを見るのは2018年の春に続いて2回目。6年経っているわけだけれど、前回からの変化がほとんどないのが残念。毎年は無理だとしても3年おきくらいでもう少しリニューアルというか見せ方に変化をつけて欲しいと思う。
密集感のある植え方も私好み。
最後に氷川丸をまた眺める。
山下公園の向かいにある、
赤いテントが特徴的なホテルニューグランド。
建物の横を通り抜け、
中華街をチラ見したら、
元町・中華街駅にたどり着いて、
本日5月10日の横浜バラツアーは無事終了。
昨年の横浜バラツアーは
前菜にアメリカ山公園
メインディッシュが港の見える丘公園
余裕があればデザートとして山手資料館とイタリア山庭園
の予定で、やはり港の見える丘公園でお腹いっぱいになって終了。
それで今年は
昨年に訪れなかった山手資料館とイタリア山庭園
バラとは関係ないけれど、ついでに山手の西洋館巡りを組み合わせて
それだけじゃバラ花見として物足りないので山下公園
とのコース。ただし坂を登らずに山手地区に出るためには元町・中華街駅の屋上にあるアメリカ山公園を通るから、そこは昨年と被る。結果としてバラとレトロな洋館の組み合わせで楽しい1日だった。
横浜では他にもヴェルニー公園と横浜イングリッシュガーデンにも行ったことがある。しかし振り返ってみればすべて春バラ。秋にはアメリカ山公園→港の見える丘公園→山下公園のゲップ出まくりツアーでもしてみようかな。
おしまい
2024年06月18日
山下公園で春バラ 2024
(5月10日の横浜バラツアーその8)
航空写真は山手イタリア山公園周辺。
そこを出て、
山手本通りに戻る。
写真は元町公園方向。
山下公園はさらにその先にある。しかしここに来た道を引き返すのじゃつまらないので、上の写真とは反対方向に進み、地蔵坂上の交差点から、
地蔵坂を下る。
かなりの急勾配。
それをほぼ下りきった所にある交差点。
諏訪神社までは250メートルほど離れているのに名前は諏訪神社前。
ここで右折すると、
ひらがな商店街に入る。
名前の由来は不明。
しばらく進むと石川町駅の南口と交差して、
そこから先はひらがな商店街から、
リセンヌ小路に名前が変わる。
リセンヌ lyceenne とはフランス語で女子高生。ただし日本語での表記はリセエンヌが一般的だし、フランス語でも「エ」は発音する。ちなみに高校はリセ lycee で男子高生がリセアン lyceen。
山手エリアにはフェリス女学院、横浜雙葉、横浜共立学園、横浜女学院などの有名女子校があり、それらの最寄りとなる石川町駅は「日本で一番女子高生が利用する駅」なんていわれたりもする。たぶんそれにあやかったのだろう。商店街の正式名称は石川壱商栄会で、愛称がリセンヌ小路のようだ。でもどうしてリセエンヌではなくリセンヌにした?
なお、ひらがな商店街とリセンヌ小路ともに昭和の雰囲気を残す商店街(^^ゞ
リセンヌ小径を抜けると本牧通りと交差する。
そこからひとつ北側が元町の交差点で元町商店街の西端。
シンボルのフェニックス。
でもこの鳥が何なのかはあまり知られていない気がする。
日本有数のオシャレなストリート。
お店などの様子は昨年に書いたブログをご参考に。
こちらは上の写真の撮影位置から180度回転、つまりリセンヌ小路と平行して並んでいる石川商店街。本牧通りを隔てただけでずいぶんと雰囲気が違う。
元町商店街を東に抜け、
マリンタワーの横を通って、
山下公園に到着。
これは翌日5月11日から始まる、
ワールドトライアスロンシリーズ横浜大会のための準備。
鉄棒みたいなのは自転車を置くための設備。
そしてバラ園となっている花壇にやってきた。
ここは沈床花壇といって周りより少し低く造られている。
以前は山下公園バラ園だったが2016年にリニューアルされて未来のバラ園との名前になった。ただしそのネーミングにどのような意味が込められているのかの情報は見当たらず。別に未来的な栽培をしているわけじゃない。
上の写真の右側にあるオベリスク仕立てのバラ。
本来のオベリスクは記念碑として大きな建造物だけれど、ガーデニングでのオベリスクとはこんなタイプを想像するから、このサイズならもはやローズタワーというべきか。
マリンタワーとローズタワー。
バラ好き、新緑好きなので同時に眺められてテンションが上がる。
バラと氷川丸。
この屋根ではない材木が天井にある構造物はパーゴラ pergola と呼ばれる。日本語では日陰棚(ひかげだな)や緑廊(りょくろう)。
棚(たな)は一般に物を載せるために横に渡した板を意味するが、植物がツルを這わせられるように木や竹を高いところに掛けた構造もそう呼ぶ。藤棚がその代表例。
ツルを這わせて日陰を作るのがパーゴラの目的だから、
こういう使い方は本来的ではないものの、
それはともかくバラの絡まった柱の美しさ。
パーゴラを外側から。
パーゴラの手前にあるエル・カミーノ・レアールのミッションベル。
まだカリフォルニアがメキシコと併せてスペインの植民地だった時代、スペイン語で「王の道」を意味する「エル・カミーノ・レアール」がサンディエゴからサンフランシスコまで約1000kmに敷設され、カトリック系フランシスコ会の修道士がその道路沿いに21箇所の伝道所(ミニ教会)を設けた。ちなみにサンフランシスコはフランシスコ会が地名の由来。
やがてエル・カミーノ・レアールは廃れたが、20世紀になりそのルート沿いに伝道所の象徴である釣り鐘=ミッションベルが建てられる。ある種の文化遺産保存活動。このミッションとはミッション系の学校と同じく伝道・布教との意味。
山下公園のミッションベルは横浜市と姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られたレプリカ。なお音を出すぶら下がっている部分(舌・ぜつ)はないので鳴らせない。
それにしても姉妹都市との友好の証しに、そのルーツが植民地支配されていた時代にまつわる物を贈るのはちょっとヘンな気がしなくもない。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
園内ブラブラ。
未来のバラ園は約5500平米(0.55ヘクタール)の敷地に、
これでもか!というくらいたくさんのバラが植えられている。
マリンタワーと一緒に。
ホテルニューグランドをバックに。
ーーー続く
航空写真は山手イタリア山公園周辺。
そこを出て、
山手本通りに戻る。
写真は元町公園方向。
山下公園はさらにその先にある。しかしここに来た道を引き返すのじゃつまらないので、上の写真とは反対方向に進み、地蔵坂上の交差点から、
地蔵坂を下る。
かなりの急勾配。
それをほぼ下りきった所にある交差点。
諏訪神社までは250メートルほど離れているのに名前は諏訪神社前。
ここで右折すると、
ひらがな商店街に入る。
名前の由来は不明。
しばらく進むと石川町駅の南口と交差して、
そこから先はひらがな商店街から、
リセンヌ小路に名前が変わる。
リセンヌ lyceenne とはフランス語で女子高生。ただし日本語での表記はリセエンヌが一般的だし、フランス語でも「エ」は発音する。ちなみに高校はリセ lycee で男子高生がリセアン lyceen。
山手エリアにはフェリス女学院、横浜雙葉、横浜共立学園、横浜女学院などの有名女子校があり、それらの最寄りとなる石川町駅は「日本で一番女子高生が利用する駅」なんていわれたりもする。たぶんそれにあやかったのだろう。商店街の正式名称は石川壱商栄会で、愛称がリセンヌ小路のようだ。でもどうしてリセエンヌではなくリセンヌにした?
なお、ひらがな商店街とリセンヌ小路ともに昭和の雰囲気を残す商店街(^^ゞ
リセンヌ小径を抜けると本牧通りと交差する。
そこからひとつ北側が元町の交差点で元町商店街の西端。
シンボルのフェニックス。
でもこの鳥が何なのかはあまり知られていない気がする。
日本有数のオシャレなストリート。
お店などの様子は昨年に書いたブログをご参考に。
こちらは上の写真の撮影位置から180度回転、つまりリセンヌ小路と平行して並んでいる石川商店街。本牧通りを隔てただけでずいぶんと雰囲気が違う。
元町商店街を東に抜け、
マリンタワーの横を通って、
山下公園に到着。
これは翌日5月11日から始まる、
ワールドトライアスロンシリーズ横浜大会のための準備。
鉄棒みたいなのは自転車を置くための設備。
そしてバラ園となっている花壇にやってきた。
ここは沈床花壇といって周りより少し低く造られている。
以前は山下公園バラ園だったが2016年にリニューアルされて未来のバラ園との名前になった。ただしそのネーミングにどのような意味が込められているのかの情報は見当たらず。別に未来的な栽培をしているわけじゃない。
上の写真の右側にあるオベリスク仕立てのバラ。
本来のオベリスクは記念碑として大きな建造物だけれど、ガーデニングでのオベリスクとはこんなタイプを想像するから、このサイズならもはやローズタワーというべきか。
マリンタワーとローズタワー。
バラ好き、新緑好きなので同時に眺められてテンションが上がる。
バラと氷川丸。
この屋根ではない材木が天井にある構造物はパーゴラ pergola と呼ばれる。日本語では日陰棚(ひかげだな)や緑廊(りょくろう)。
棚(たな)は一般に物を載せるために横に渡した板を意味するが、植物がツルを這わせられるように木や竹を高いところに掛けた構造もそう呼ぶ。藤棚がその代表例。
ツルを這わせて日陰を作るのがパーゴラの目的だから、
こういう使い方は本来的ではないものの、
それはともかくバラの絡まった柱の美しさ。
パーゴラを外側から。
パーゴラの手前にあるエル・カミーノ・レアールのミッションベル。
まだカリフォルニアがメキシコと併せてスペインの植民地だった時代、スペイン語で「王の道」を意味する「エル・カミーノ・レアール」がサンディエゴからサンフランシスコまで約1000kmに敷設され、カトリック系フランシスコ会の修道士がその道路沿いに21箇所の伝道所(ミニ教会)を設けた。ちなみにサンフランシスコはフランシスコ会が地名の由来。
やがてエル・カミーノ・レアールは廃れたが、20世紀になりそのルート沿いに伝道所の象徴である釣り鐘=ミッションベルが建てられる。ある種の文化遺産保存活動。このミッションとはミッション系の学校と同じく伝道・布教との意味。
山下公園のミッションベルは横浜市と姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られたレプリカ。なお音を出すぶら下がっている部分(舌・ぜつ)はないので鳴らせない。
それにしても姉妹都市との友好の証しに、そのルーツが植民地支配されていた時代にまつわる物を贈るのはちょっとヘンな気がしなくもない。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
園内ブラブラ。
未来のバラ園は約5500平米(0.55ヘクタール)の敷地に、
これでもか!というくらいたくさんのバラが植えられている。
マリンタワーと一緒に。
ホテルニューグランドをバックに。
ーーー続く
2024年06月13日
山手イタリア山庭園で春バラ その2
(5月10日の横浜バラツアーその7)
山手イタリア山庭園のほぼ中央にある通路。
背が高く茂っている木はメタセコイヤ。
和名ではアケボノスギ。以前は化石でしか見つからず絶滅種と考えられていたが、1946年(昭和21年)に中国・四川省で現存種が発見される。それで「生きた化石」と呼ばれることも。今は各地に多く植えられている。オレンジ色の紅葉が特徴。
外交官の家を横目に見て、
山手イタリア山庭園の奥にあるのが、
本日の山手西洋館巡りで7軒目のブラフ18番館。
「5月10日の横浜バラツアーその2」で書いたようブラフとは山手を意味している。
1993年(平成5年)にここに移築され公開。
外交官の家の移築は1997年(平成9年)。
なお山手イタリア山庭園の開園は1998年(平成10年)と移築より後。山手イタリア山庭園に移築したというより、移築した先を山手イタリア山庭園として整備したとの順番。ここは山手地区の大きな公園の中では最も新しい公園になる。面積は1.3ヘクタール。
このあたりが山手イタリア山庭園となる前は未利用の国有地だったようだ。1880年(明治13年)から1886年までイタリア領事館が置かれたことから、山手イタリア山庭園と名付けられたが、庭園を造る以前からイタリア山と呼ばれていたのかは知らない。港の見える丘公園のイギリス山とフランス山は昔からそう呼ばれているものの、アメリカ山は2009年(平成21年)に元町・中華街駅ビルの屋上を立体都市公園とした際に、無理矢理こじつけたネーミングなので何となくここもそんな気がする。
ついでに横浜市が所有している山手にある7つの西洋館の一般公開時期をまとめると
ブラフ18番館 移築1991年 公開1993
外交官の家 移築・公開1997年
(山手イタリア山庭園開園 1998年)
山手111番館 公開1999年
山手234番館 公開1999年
エリスマン邸 移築1990年 公開1999年
横浜市イギリス館 公開2002年(ホールや集会室の利用は1970年)
べーリック・ホール 公開2002年
ほとんどが2000年(平成12年)前後と意外に最近。神戸北野の異人館がブームになったのは1970年代の中頃だからずいぶんと差がある。てっきり同じ頃から観光スポットになっているものだと思っていた。公開年代的にはここイタリア山庭園が山手西洋館巡りの発祥ともいえる。
ブラフ18番館は中に入らず外から眺めただけ。
延べ床面積264平米。
北東角にある展望コーナー。
山手が高い位置にあるとわかる景色。
この地点の標高は34m(山手地区全体では10〜40m)
ベイブリッジ中央までの距離は3.3km
さてブラフ18番館から離れて、
外交官の家の裏側にやってくると、
そこにあるのは整形花壇と呼ばれる幾何学的に剪定されたゾーン。
公式ホームページによれば「イタリアで多く見られる庭園様式を模し」とある。
これは横浜市の緑化事業関連で使われているガーデンベアというゆるキャラ。熊なのに緑なのは体が苔に覆われているとの設定。
キンギョソウに囲まれてガーデンベアも楽しそう。
ところでヨーロッパの庭園造りにはイギリス式、フランス式、イタリア式がある。もっと他の国の様式もあるだろうが日本ではあまり有名じゃない。イギリス式は自然の形や姿を生かす作庭。フランス式は正反対に幾何学的に人の手を入れた美しさを追求する。よって全体の構成としてイギリス式は左右非対称、フランス式は左右対称である。
フランス式とイタリア式は整形・幾何学的な所は同じで、フランスの庭園は平面な土地に、イタリアの庭園は傾斜地や階段状の土地に作るのが違いらしい。
上の写真でわかるようにここはキレイに刈り込まれた生け垣で、幾何学的な造園がなされているけれど、平面だけだからフランス式じゃないのかな。逆に山手は起伏の多い地形で、実際ここでもブラフ18番館は外交官の家より低い位置にあるのに、どうしてそれを利用したイタリア式庭園にしなかったのか。あくまで「イタリアでござい」と謳いたければだけど。
アメリカ山公園、ブラフ99ガーデンに続いて、
本日3本目のベニバナトチノキ。
新緑の3色違い。
そして整形花壇一番のバエポイントはこの水路。
実は水路の両サイドにある低い木も高い木もバラ。咲いていればこんな感じだけれど、この日はまだ未開花。ツボミもごく小さかったからかなり遅咲きの品種。咲いていないのは事前にSNS情報で確認済みだったものの、やはり見たかったな。
おそらくこの水路のバラが咲く頃には前庭のバラは見頃を過ぎていると思う。
いつかこれだけを見に来ましょう。
ちなみに水路のバラが満開になったのは5月の後半に入ってからみたい。
整形花壇の端にあった水盤。
水があれば高速シャッターで水しぶきの時間を止めるのがお約束。
水路も噴水が吹き出してきた。
でも水量がちょっとショボい(^^ゞ
それでもこれでバラが咲いていれば最高なのに。
八角形の塔屋があって、外交官の家はこちらから見たほうが面白い。
前回に紹介した八角形のサンルームはこの塔の1階部分。
外交官の家の横を通り抜けて、
バラアーチのあった前庭に戻る。
バラのバラエティとボリュームをもう一度楽しんで、
山手イタリア山庭園を後にする。
ーーーまだ続く
山手イタリア山庭園のほぼ中央にある通路。
背が高く茂っている木はメタセコイヤ。
和名ではアケボノスギ。以前は化石でしか見つからず絶滅種と考えられていたが、1946年(昭和21年)に中国・四川省で現存種が発見される。それで「生きた化石」と呼ばれることも。今は各地に多く植えられている。オレンジ色の紅葉が特徴。
外交官の家を横目に見て、
山手イタリア山庭園の奥にあるのが、
本日の山手西洋館巡りで7軒目のブラフ18番館。
「5月10日の横浜バラツアーその2」で書いたようブラフとは山手を意味している。
1993年(平成5年)にここに移築され公開。
外交官の家の移築は1997年(平成9年)。
なお山手イタリア山庭園の開園は1998年(平成10年)と移築より後。山手イタリア山庭園に移築したというより、移築した先を山手イタリア山庭園として整備したとの順番。ここは山手地区の大きな公園の中では最も新しい公園になる。面積は1.3ヘクタール。
このあたりが山手イタリア山庭園となる前は未利用の国有地だったようだ。1880年(明治13年)から1886年までイタリア領事館が置かれたことから、山手イタリア山庭園と名付けられたが、庭園を造る以前からイタリア山と呼ばれていたのかは知らない。港の見える丘公園のイギリス山とフランス山は昔からそう呼ばれているものの、アメリカ山は2009年(平成21年)に元町・中華街駅ビルの屋上を立体都市公園とした際に、無理矢理こじつけたネーミングなので何となくここもそんな気がする。
ついでに横浜市が所有している山手にある7つの西洋館の一般公開時期をまとめると
ブラフ18番館 移築1991年 公開1993
外交官の家 移築・公開1997年
(山手イタリア山庭園開園 1998年)
山手111番館 公開1999年
山手234番館 公開1999年
エリスマン邸 移築1990年 公開1999年
横浜市イギリス館 公開2002年(ホールや集会室の利用は1970年)
べーリック・ホール 公開2002年
ほとんどが2000年(平成12年)前後と意外に最近。神戸北野の異人館がブームになったのは1970年代の中頃だからずいぶんと差がある。てっきり同じ頃から観光スポットになっているものだと思っていた。公開年代的にはここイタリア山庭園が山手西洋館巡りの発祥ともいえる。
ブラフ18番館は中に入らず外から眺めただけ。
延べ床面積264平米。
北東角にある展望コーナー。
山手が高い位置にあるとわかる景色。
この地点の標高は34m(山手地区全体では10〜40m)
ベイブリッジ中央までの距離は3.3km
さてブラフ18番館から離れて、
外交官の家の裏側にやってくると、
そこにあるのは整形花壇と呼ばれる幾何学的に剪定されたゾーン。
公式ホームページによれば「イタリアで多く見られる庭園様式を模し」とある。
これは横浜市の緑化事業関連で使われているガーデンベアというゆるキャラ。熊なのに緑なのは体が苔に覆われているとの設定。
キンギョソウに囲まれてガーデンベアも楽しそう。
ところでヨーロッパの庭園造りにはイギリス式、フランス式、イタリア式がある。もっと他の国の様式もあるだろうが日本ではあまり有名じゃない。イギリス式は自然の形や姿を生かす作庭。フランス式は正反対に幾何学的に人の手を入れた美しさを追求する。よって全体の構成としてイギリス式は左右非対称、フランス式は左右対称である。
フランス式とイタリア式は整形・幾何学的な所は同じで、フランスの庭園は平面な土地に、イタリアの庭園は傾斜地や階段状の土地に作るのが違いらしい。
上の写真でわかるようにここはキレイに刈り込まれた生け垣で、幾何学的な造園がなされているけれど、平面だけだからフランス式じゃないのかな。逆に山手は起伏の多い地形で、実際ここでもブラフ18番館は外交官の家より低い位置にあるのに、どうしてそれを利用したイタリア式庭園にしなかったのか。あくまで「イタリアでござい」と謳いたければだけど。
アメリカ山公園、ブラフ99ガーデンに続いて、
本日3本目のベニバナトチノキ。
新緑の3色違い。
そして整形花壇一番のバエポイントはこの水路。
実は水路の両サイドにある低い木も高い木もバラ。咲いていればこんな感じだけれど、この日はまだ未開花。ツボミもごく小さかったからかなり遅咲きの品種。咲いていないのは事前にSNS情報で確認済みだったものの、やはり見たかったな。
おそらくこの水路のバラが咲く頃には前庭のバラは見頃を過ぎていると思う。
いつかこれだけを見に来ましょう。
ちなみに水路のバラが満開になったのは5月の後半に入ってからみたい。
整形花壇の端にあった水盤。
水があれば高速シャッターで水しぶきの時間を止めるのがお約束。
水路も噴水が吹き出してきた。
でも水量がちょっとショボい(^^ゞ
それでもこれでバラが咲いていれば最高なのに。
八角形の塔屋があって、外交官の家はこちらから見たほうが面白い。
前回に紹介した八角形のサンルームはこの塔の1階部分。
外交官の家の横を通り抜けて、
バラアーチのあった前庭に戻る。
バラのバラエティとボリュームをもう一度楽しんで、
山手イタリア山庭園を後にする。
ーーーまだ続く
2024年06月11日
山手イタリア山庭園で春バラ
(5月10日の横浜バラツアーその6)
一体いつまで続く?(^^ゞ
山手公園から山手本通りに戻り、
しばらく歩くとイタリア山の道案内。
右折した先がY字路になっていて、
どっち?と思ったけれど、
そこにもしっかりコッチの表示。
もっともY字路の分かれ目まで近づくと、
入り口が見えているから表示はなくても大丈夫。
門がふたつあって左側が外交官の家、右側がブラフ18番館に通じている。
でも中でつながっていてどちらから入っても同じ。
まずは外交官の家から。
前庭にバラがたくさん。
これくらいの数があるとテンションが上がるね。
ここだけ訪れてもそこそこ満足できるレベル。
アーチもある。
お約束の青空ショット。
屋根的につながっているのではなく、
3つのアーチが並んだ造り。
ドアップで。
斑点があるのは模様ではなくてカビによる病気かも知れない。
でもこの状態なら充分にキレイ。
建物の中に入る。
隣接して増築された売店のようなところが入り口。
お土産品を売りつける魂胆丸見え。
そこを素通りして、
本日の山手西洋館巡りで6軒目となる外交官の家。
しかし中は特に見るべきものはなかった。
テーブルセッティングというか展示デコレーション制作中。
開館前に済ましておかないのか?
サンルームとか外が見える廊下のほうが面白かった。
ここのサンルームは八角形と凝った造りだが北向き。
この外交官の家は「5月10日の横浜バラツアーその3」にも書いたように、1910年(明治43年)に渋谷の南平台に建てられた日本人外交官の自宅を、1997年(平成9年)にこちらへ移築したもの。延べ床面積412平米。
実は1992年頃、短い期間だったものの南平台にオフィスがあった。南平台なんて300〜400m四方くらいの狭い範囲。こんな建物を見た記憶がないけれどどこに建っていたのだろう。調べたがまったく手がかりをつかめず。
ーーー続く
一体いつまで続く?(^^ゞ
山手公園から山手本通りに戻り、
しばらく歩くとイタリア山の道案内。
右折した先がY字路になっていて、
どっち?と思ったけれど、
そこにもしっかりコッチの表示。
もっともY字路の分かれ目まで近づくと、
入り口が見えているから表示はなくても大丈夫。
門がふたつあって左側が外交官の家、右側がブラフ18番館に通じている。
でも中でつながっていてどちらから入っても同じ。
まずは外交官の家から。
前庭にバラがたくさん。
これくらいの数があるとテンションが上がるね。
ここだけ訪れてもそこそこ満足できるレベル。
アーチもある。
お約束の青空ショット。
屋根的につながっているのではなく、
3つのアーチが並んだ造り。
ドアップで。
斑点があるのは模様ではなくてカビによる病気かも知れない。
でもこの状態なら充分にキレイ。
建物の中に入る。
隣接して増築された売店のようなところが入り口。
お土産品を売りつける魂胆丸見え。
そこを素通りして、
本日の山手西洋館巡りで6軒目となる外交官の家。
しかし中は特に見るべきものはなかった。
テーブルセッティングというか展示デコレーション制作中。
開館前に済ましておかないのか?
サンルームとか外が見える廊下のほうが面白かった。
ここのサンルームは八角形と凝った造りだが北向き。
この外交官の家は「5月10日の横浜バラツアーその3」にも書いたように、1910年(明治43年)に渋谷の南平台に建てられた日本人外交官の自宅を、1997年(平成9年)にこちらへ移築したもの。延べ床面積412平米。
実は1992年頃、短い期間だったものの南平台にオフィスがあった。南平台なんて300〜400m四方くらいの狭い範囲。こんな建物を見た記憶がないけれどどこに建っていたのだろう。調べたがまったく手がかりをつかめず。
ーーー続く
2024年06月10日
山手西洋館ブラブラ その3
(5月10日の横浜バラツアーその5)
べーリック・ホールを出て、
元町公園も少しだけ見ておこうかと、
べーリック・ホール敷地と元町公園の間の路地に入る。
途中で公園内に降りられる出入り口があって、
そこから見えるこの崩れたレンガ積みは、
山手80番館遺跡。
かつて山手町80番地にあった西洋館が関東大震災で倒壊した残骸。ただし「遺跡」と呼ぶのはちょっと大げさすぎる気がする。「山手80番館跡」でいいんじゃない?
それがどうして公園の中に建っていたかというと、
当時は公園じゃなかったから。元町公園は
幕末1863年に来日したフランス人実業家のアルフレッド・ジェラールが、
1868年(明治元年)頃にこのあたりの土地を取得。
山手の傾斜地から湧き出る良質な水を外国船に売る給水事業を始める。
その水は「赤道を越えても腐らない」と評判がよかったらしい。
今でも飲めるのかな?
同時に日本ではジェラール瓦(かわら)と呼ばれたフランス式瓦や、
煉瓦工場などの製造もここで始める。
つまり元町公園は給水施設と工場だった場所。ジェラールは1878年(明治11年)に帰国し、それからの変遷は省略。そして1923年(大正12年)の関東大震災で設備が大きな被害を受けた後、横浜市が土地の永代借地権を買い取り1930年(昭和5年)に公園となった。
山手80番館はおそらくジェラールの所有地とは別だろうけれど、
そのときに一緒に買い取って公園に組み込んだのでは。
全体を眺めると関東大震災ではなくて、
もっと古い時代のものに思える。
近づけばそうでもないか。
このレンガの長辺と短辺が列によって交互に並ぶのはイギリス積みと呼ばれる施工。積み方は他にフランス積み、小口積み、長手積みなどがある。
山手80番館の建設は明治末期から大正にかけてとされるだけで正確な時期は不明。鉄棒による補強(鉄筋じゃないのか?)で耐震配慮がされていたらしいが、マグネチュード7.9、震度6の関東大震災には耐えきれず倒壊。ここに残っているのは地下室の一部。建築面積は約180平米とされるので、単純3倍すると延べ床面積は540平米となりべーリック・ホールにつぐ広さ。
そういえば現存する山手西洋館は、他所からの移築を除けば関東大震災の後に建てられたものだけれど、すべて木造でレンガ造りはない。大震災では木造もすべて壊れたのだから、レンガ造りだけが危険とされたのではないはず。どうしてなんだろう。レンガ造りの西洋館がいくつか残っていれば山手の風景は少し違ったかも知れない。
少し進むとプールが見える。
ここはずいぶんと昔に1回だけ行った記憶がある。
プールの裏手に弓道場。
公園を全部回ると時間がかかるので早々に引き上げ。
今回の公園散策ルート。
再び山手本通り。
フェリスの前を過ぎると、
見えてくるのがカトリック山手教会。
でもなぜか掲示ボックスの表記は山手カトリック教会と語順が違う。
公式ホームページでも確認したけれど、間違いなく名称はカトリック山手教会。
どうしてこうなっているのかナゾ
だいたい中の掲示物にもカトリック山手教会と書いてあるじゃないか!
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
この教会はこの角度から眺めるのが格好いい。
真横からだとちょっと間延び感。
カトリック山手教会のところで山手本通りから路地に入る。
しばらく進むとフェリスの大学の通用門。
先ほど建物を撮ったのはフェリスの中学と高校。大学は1988年(昭和63年)から横浜市郊外に移転し、もう山手キャンパスには音楽学部しか残っていない。山手じゃないフェリスなんてーーー。私の世代ではJJ・ハマトラ・フェリスがワンセットだったのに(^^ゞ
先を進んでやってきたのは山手公園。
ここは初めて来る。
窪地を下って、
写真右の下が広場になっている。
そちらには降りずに、
目指したのは山手68番館。
ここにある山手68番館とテニス発祥記念館は、
山手西洋館には含まれていないものの案内マップに載っていたので。
なおここでの山手西洋館に含まれるとは、
山手に残る第二次世界大戦までに建てられた西洋館のうち
(5月10日の横浜バラツアーその3参照)
横浜市が所有し
ほぼ当時の姿で一般公開している
建物を指す。山手80番館は遺構だけだし、前々回に紹介した「えの木てい」は民間所有のカフェだから「含まれない」。含まれるのは上のマップで番号が振られている7つの西洋館。「えの木てい」以外にも民間所有の西洋館はいくつかあるみたい。
この山手公園が日本でのテニス発祥の地なので、
周りにテニスコートがたくさんある。
芝生広場を抜けて、
山手80番館を含めて本日5軒目となる山手68番館。
1934年(昭和9年)の建物で、1986年(昭和61年)にこちらに移築。
現在はこの公園の管理センターとなっている。
旧と名前につけているのは別の用途に使っているからだと思う。
山手西洋館に「含まれる」ところは靴を脱がなければいけないが、
ここはそうじゃないので助かる。
でもよかったのはそれだけで、
内部はこんな感じ。
わずかに展示コーナー。
窓の外はテニスコート。
That's all (>_<)
滞在は2分くらいだったかな。
わざわざ寄り道してソンしたの気持ちで引き返す。
こちらは横浜山手テニス発祥記念館。
この建物は西洋館に似せて1998年(平成10年)に建てられたもの。中に古いテニスの道具などが展示されているそうだが、山手68番館であまりにガッカリしたので素通り。
まあでも山手68番館がなければ、
山手本通りからそれた道を歩くなんて一生なかったかも知れない。
あれこれ経験が増えるのはよいことと気を取り直す。
山手本通りに戻ってきた。
いよいよ次はイタリア山庭園。
ーーー続く
べーリック・ホールを出て、
元町公園も少しだけ見ておこうかと、
べーリック・ホール敷地と元町公園の間の路地に入る。
途中で公園内に降りられる出入り口があって、
そこから見えるこの崩れたレンガ積みは、
山手80番館遺跡。
かつて山手町80番地にあった西洋館が関東大震災で倒壊した残骸。ただし「遺跡」と呼ぶのはちょっと大げさすぎる気がする。「山手80番館跡」でいいんじゃない?
それがどうして公園の中に建っていたかというと、
当時は公園じゃなかったから。元町公園は
幕末1863年に来日したフランス人実業家のアルフレッド・ジェラールが、
1868年(明治元年)頃にこのあたりの土地を取得。
山手の傾斜地から湧き出る良質な水を外国船に売る給水事業を始める。
その水は「赤道を越えても腐らない」と評判がよかったらしい。
今でも飲めるのかな?
同時に日本ではジェラール瓦(かわら)と呼ばれたフランス式瓦や、
煉瓦工場などの製造もここで始める。
つまり元町公園は給水施設と工場だった場所。ジェラールは1878年(明治11年)に帰国し、それからの変遷は省略。そして1923年(大正12年)の関東大震災で設備が大きな被害を受けた後、横浜市が土地の永代借地権を買い取り1930年(昭和5年)に公園となった。
山手80番館はおそらくジェラールの所有地とは別だろうけれど、
そのときに一緒に買い取って公園に組み込んだのでは。
全体を眺めると関東大震災ではなくて、
もっと古い時代のものに思える。
近づけばそうでもないか。
このレンガの長辺と短辺が列によって交互に並ぶのはイギリス積みと呼ばれる施工。積み方は他にフランス積み、小口積み、長手積みなどがある。
山手80番館の建設は明治末期から大正にかけてとされるだけで正確な時期は不明。鉄棒による補強(鉄筋じゃないのか?)で耐震配慮がされていたらしいが、マグネチュード7.9、震度6の関東大震災には耐えきれず倒壊。ここに残っているのは地下室の一部。建築面積は約180平米とされるので、単純3倍すると延べ床面積は540平米となりべーリック・ホールにつぐ広さ。
そういえば現存する山手西洋館は、他所からの移築を除けば関東大震災の後に建てられたものだけれど、すべて木造でレンガ造りはない。大震災では木造もすべて壊れたのだから、レンガ造りだけが危険とされたのではないはず。どうしてなんだろう。レンガ造りの西洋館がいくつか残っていれば山手の風景は少し違ったかも知れない。
少し進むとプールが見える。
ここはずいぶんと昔に1回だけ行った記憶がある。
プールの裏手に弓道場。
公園を全部回ると時間がかかるので早々に引き上げ。
今回の公園散策ルート。
再び山手本通り。
フェリスの前を過ぎると、
見えてくるのがカトリック山手教会。
でもなぜか掲示ボックスの表記は山手カトリック教会と語順が違う。
公式ホームページでも確認したけれど、間違いなく名称はカトリック山手教会。
どうしてこうなっているのかナゾ
だいたい中の掲示物にもカトリック山手教会と書いてあるじゃないか!
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
この教会はこの角度から眺めるのが格好いい。
真横からだとちょっと間延び感。
カトリック山手教会のところで山手本通りから路地に入る。
しばらく進むとフェリスの大学の通用門。
先ほど建物を撮ったのはフェリスの中学と高校。大学は1988年(昭和63年)から横浜市郊外に移転し、もう山手キャンパスには音楽学部しか残っていない。山手じゃないフェリスなんてーーー。私の世代ではJJ・ハマトラ・フェリスがワンセットだったのに(^^ゞ
先を進んでやってきたのは山手公園。
ここは初めて来る。
窪地を下って、
写真右の下が広場になっている。
そちらには降りずに、
目指したのは山手68番館。
ここにある山手68番館とテニス発祥記念館は、
山手西洋館には含まれていないものの案内マップに載っていたので。
なおここでの山手西洋館に含まれるとは、
山手に残る第二次世界大戦までに建てられた西洋館のうち
(5月10日の横浜バラツアーその3参照)
横浜市が所有し
ほぼ当時の姿で一般公開している
建物を指す。山手80番館は遺構だけだし、前々回に紹介した「えの木てい」は民間所有のカフェだから「含まれない」。含まれるのは上のマップで番号が振られている7つの西洋館。「えの木てい」以外にも民間所有の西洋館はいくつかあるみたい。
この山手公園が日本でのテニス発祥の地なので、
周りにテニスコートがたくさんある。
芝生広場を抜けて、
山手80番館を含めて本日5軒目となる山手68番館。
1934年(昭和9年)の建物で、1986年(昭和61年)にこちらに移築。
現在はこの公園の管理センターとなっている。
旧と名前につけているのは別の用途に使っているからだと思う。
山手西洋館に「含まれる」ところは靴を脱がなければいけないが、
ここはそうじゃないので助かる。
でもよかったのはそれだけで、
内部はこんな感じ。
わずかに展示コーナー。
窓の外はテニスコート。
That's all (>_<)
滞在は2分くらいだったかな。
わざわざ寄り道してソンしたの気持ちで引き返す。
こちらは横浜山手テニス発祥記念館。
この建物は西洋館に似せて1998年(平成10年)に建てられたもの。中に古いテニスの道具などが展示されているそうだが、山手68番館であまりにガッカリしたので素通り。
まあでも山手68番館がなければ、
山手本通りからそれた道を歩くなんて一生なかったかも知れない。
あれこれ経験が増えるのはよいことと気を取り直す。
山手本通りに戻ってきた。
いよいよ次はイタリア山庭園。
ーーー続く
2024年06月09日
山手西洋館ブラブラ その2
(5月10日の横浜バラツアーその4)
本日の西洋館2軒目はエリスマン邸。
これは元町公園の一角にある。
実は最初に訪れた山手234番館は道路を挟んで元町公園の向かい、この次のべーリリックホールは公園の隣だけれど、どれも元町公園に所属する施設ということになっている。
山手本通りからエントランスに向かう通路。
竣工は1926年(昭和元年)で、スイス人絹糸貿易商フリッツ・エリスマンの自宅として、ここより400mほど離れた場所に建築。1982年(昭和57年)にマンションへ建て替えられる際に、横浜市が建物を解体・保存し、1990年(平成2年)に元町公園に移築・復元の経緯を持つ。
前回に書いた山手234番館も横浜市が1989年(平成元年)に買い取り、改修工事をして1999年(平成11年)に公開と10年かかっている。けっこう仕事遅いね。
ルーバーなどがペパーミントグリーンに塗られていて爽やか。
でも自分の家ならちょっと恥ずかしいかも(^^ゞ
内部の様子。
ウッディー感があってリッチな雰囲気でも、どちらかといえばシンプルなデザイン。
この手の洋館ではお約束のサンルーム。
2階に上がる。
おそらく壁を取り払って広くした部屋に模型やジオラマが展示されていた。
なぜか窓の位置がちょっと低い。
エリスマン邸で最も印象的だったのはこの2階の広い廊下。
日本の家ならかなりの豪邸でもこの幅はない。
もちろん廊下をどれだけ広く取れるかは家の広さによる。それでこのエリスマン邸の面積だがどこを調べても出てこない。あるのは建築面積約81坪との情報だけ。
ただしそれは建築当時の数字で付属の和風建築部分を含んでいて、それは移築・復元されていない。それに建築面積とは建物を真上から見たときの面積。住宅の場合、普通は2階より1階のほうが広いから1階の床面積となる。
そこで和風建築部分を適当に15坪だったと仮定して、それを差し引くと66坪。これまた適当に2階は1階より10%狭くて60坪だとすると、合計の延べ床面積は126坪=417平米。これは超豪邸のレベル。それくらいでないとこの廊下は作れないとわかってショボーン(^^ゞ
廊下にあった小屋根裏部屋のプレート。
とても興味を引かれたのに残念ながら鍵がかかっていた。
エリスマン邸を出て、
その向かいにあるのは雙葉(ふたば)学園。
名門の女子中学・高校で小学校や幼稚園もある。幼稚園は共学でも小学校は女子のみ。いわゆるミッション系。ミッション mission とは使命や任務→伝道・布教なので仏教系の学校も含まれるはずなのに、とりあえず日本語ではキリスト教系専用用語。
なお雙葉とは双葉の古い書き方で、植物が芽を出した後に最初に出来る葉。
転じて人の幼少期も意味する。
雙葉は東京の四谷と田園調布、また静岡と福岡にも姉妹校がある。なぜかそれぞれ別々の学校法人が運営。四谷が雙葉でこちらが横浜雙葉だから四谷が本店なのかな。女子校御三家に入っているのも四谷だし。沿革を見ると1872年(明治5年)に来日したフランス人修道女の活動が起源。それで
東京四谷
1875年(明治8年):築地語学校設立
1909年(明治42年):雙葉高等女学校設立
横浜
1872年(明治5年):サンモール・インターナショナルスクール設立
1900年(明治33年):横浜紅蘭女学校設立
1951年(昭和26年):雙葉に校名変更→1958年(昭和33年)横浜雙葉に校名変更
と、どちらが先かは微妙なところ。田園調布は昭和になってから四谷の分校としてスタート。静岡は意外と早く1903年(明治36年)に仏英女学校として設立されている。福岡ができたのは1933年(昭和8年)。ちなみに雅子皇后は田園調布雙葉の小中高からハーバード、美智子上皇后は雙葉小学校から聖心の中高大をご卒業。
さて本日3軒目のべーリック・ホール。
この小径をを抜けると、
ドカーンと目に飛び込んでくる、いかにもスペイン風の建物。
よってカリフォルニアっぽく感じるのがクロスオーバーした現代のややこしさ。
現存する山手西洋館の中では最も大きく敷地面積2052平米(621坪)、建築面積283平米、延べ床面積654平米。
由来の説明書き。
ホールとの名前だが個人の邸宅である。カトリック・マリア会に寄贈されたときにベーリック・ホールと名付けられたみたい。それにしても施主の名前はバートラム・ロバート・ベリック(Berrick)なのに、それがなぜべーリックと長くなったのか不思議。(パネルにも名前はベリックと書かれている)
さすがに654平米もあると個人の家とは思えないくらい広々としている。
30人くらいは呼べそう。
ダイニングからキッチンに抜けると、
レトロな流し台があった。
地下にも降りられる。
古そうなものがいろいろ。
こういうデコレーションが古い建物ならではのよさ。
この階段のカーペット押さえは東京都庭園美術館=旧朝香宮邸で見て以来。べーリックホールが1930年(昭和5年)、宮邸は1933年(昭和8年)と同じ時期の建物だから、当時の大邸宅での仕様だろう。
2階の廊下はそれほど広くはなかった。
寝室にサンルーム付きの贅沢さ!
バスルームにも暖房完備。
床のタイルがオシャレ。
おそらく当時の日本家屋には絶対になかったウォークインクローゼット。
書斎。
子供部屋。
バスタブのサイズは同じだった。
1階の大広間に戻って先ほどとは反対方向から。
隣にあるのはサンルームぽいけれど、ここは北側だからかパームルームと書かれていた。でも三方向に窓があるので明るい。パーム palm とは植物の椰子(ヤシ)。冬には暖房をガンガンに効かせて温室にしていたのだろうか。
レトロなライオンの蛇口も温室なら雰囲気に似合いそう。
この日に見た西洋館の中では一番よかったべーリック・ホール。
どこかひとつだけ行くならここがお勧め。
なおどこも無料で入れる。
ただし靴を脱いでスリッパに履き替えなければならないのが面倒。
西洋館なのに(/o\)
ーーー続く
本日の西洋館2軒目はエリスマン邸。
これは元町公園の一角にある。
実は最初に訪れた山手234番館は道路を挟んで元町公園の向かい、この次のべーリリックホールは公園の隣だけれど、どれも元町公園に所属する施設ということになっている。
山手本通りからエントランスに向かう通路。
竣工は1926年(昭和元年)で、スイス人絹糸貿易商フリッツ・エリスマンの自宅として、ここより400mほど離れた場所に建築。1982年(昭和57年)にマンションへ建て替えられる際に、横浜市が建物を解体・保存し、1990年(平成2年)に元町公園に移築・復元の経緯を持つ。
前回に書いた山手234番館も横浜市が1989年(平成元年)に買い取り、改修工事をして1999年(平成11年)に公開と10年かかっている。けっこう仕事遅いね。
ルーバーなどがペパーミントグリーンに塗られていて爽やか。
でも自分の家ならちょっと恥ずかしいかも(^^ゞ
内部の様子。
ウッディー感があってリッチな雰囲気でも、どちらかといえばシンプルなデザイン。
この手の洋館ではお約束のサンルーム。
2階に上がる。
おそらく壁を取り払って広くした部屋に模型やジオラマが展示されていた。
なぜか窓の位置がちょっと低い。
エリスマン邸で最も印象的だったのはこの2階の広い廊下。
日本の家ならかなりの豪邸でもこの幅はない。
もちろん廊下をどれだけ広く取れるかは家の広さによる。それでこのエリスマン邸の面積だがどこを調べても出てこない。あるのは建築面積約81坪との情報だけ。
ただしそれは建築当時の数字で付属の和風建築部分を含んでいて、それは移築・復元されていない。それに建築面積とは建物を真上から見たときの面積。住宅の場合、普通は2階より1階のほうが広いから1階の床面積となる。
そこで和風建築部分を適当に15坪だったと仮定して、それを差し引くと66坪。これまた適当に2階は1階より10%狭くて60坪だとすると、合計の延べ床面積は126坪=417平米。これは超豪邸のレベル。それくらいでないとこの廊下は作れないとわかってショボーン(^^ゞ
廊下にあった小屋根裏部屋のプレート。
とても興味を引かれたのに残念ながら鍵がかかっていた。
エリスマン邸を出て、
その向かいにあるのは雙葉(ふたば)学園。
名門の女子中学・高校で小学校や幼稚園もある。幼稚園は共学でも小学校は女子のみ。いわゆるミッション系。ミッション mission とは使命や任務→伝道・布教なので仏教系の学校も含まれるはずなのに、とりあえず日本語ではキリスト教系専用用語。
なお雙葉とは双葉の古い書き方で、植物が芽を出した後に最初に出来る葉。
転じて人の幼少期も意味する。
雙葉は東京の四谷と田園調布、また静岡と福岡にも姉妹校がある。なぜかそれぞれ別々の学校法人が運営。四谷が雙葉でこちらが横浜雙葉だから四谷が本店なのかな。女子校御三家に入っているのも四谷だし。沿革を見ると1872年(明治5年)に来日したフランス人修道女の活動が起源。それで
東京四谷
1875年(明治8年):築地語学校設立
1909年(明治42年):雙葉高等女学校設立
横浜
1872年(明治5年):サンモール・インターナショナルスクール設立
1900年(明治33年):横浜紅蘭女学校設立
1951年(昭和26年):雙葉に校名変更→1958年(昭和33年)横浜雙葉に校名変更
と、どちらが先かは微妙なところ。田園調布は昭和になってから四谷の分校としてスタート。静岡は意外と早く1903年(明治36年)に仏英女学校として設立されている。福岡ができたのは1933年(昭和8年)。ちなみに雅子皇后は田園調布雙葉の小中高からハーバード、美智子上皇后は雙葉小学校から聖心の中高大をご卒業。
さて本日3軒目のべーリック・ホール。
この小径をを抜けると、
ドカーンと目に飛び込んでくる、いかにもスペイン風の建物。
よってカリフォルニアっぽく感じるのがクロスオーバーした現代のややこしさ。
現存する山手西洋館の中では最も大きく敷地面積2052平米(621坪)、建築面積283平米、延べ床面積654平米。
由来の説明書き。
ホールとの名前だが個人の邸宅である。カトリック・マリア会に寄贈されたときにベーリック・ホールと名付けられたみたい。それにしても施主の名前はバートラム・ロバート・ベリック(Berrick)なのに、それがなぜべーリックと長くなったのか不思議。(パネルにも名前はベリックと書かれている)
さすがに654平米もあると個人の家とは思えないくらい広々としている。
30人くらいは呼べそう。
ダイニングからキッチンに抜けると、
レトロな流し台があった。
地下にも降りられる。
古そうなものがいろいろ。
こういうデコレーションが古い建物ならではのよさ。
この階段のカーペット押さえは東京都庭園美術館=旧朝香宮邸で見て以来。べーリックホールが1930年(昭和5年)、宮邸は1933年(昭和8年)と同じ時期の建物だから、当時の大邸宅での仕様だろう。
2階の廊下はそれほど広くはなかった。
寝室にサンルーム付きの贅沢さ!
バスルームにも暖房完備。
床のタイルがオシャレ。
おそらく当時の日本家屋には絶対になかったウォークインクローゼット。
書斎。
子供部屋。
バスタブのサイズは同じだった。
1階の大広間に戻って先ほどとは反対方向から。
隣にあるのはサンルームぽいけれど、ここは北側だからかパームルームと書かれていた。でも三方向に窓があるので明るい。パーム palm とは植物の椰子(ヤシ)。冬には暖房をガンガンに効かせて温室にしていたのだろうか。
レトロなライオンの蛇口も温室なら雰囲気に似合いそう。
この日に見た西洋館の中では一番よかったべーリック・ホール。
どこかひとつだけ行くならここがお勧め。
なおどこも無料で入れる。
ただし靴を脱いでスリッパに履き替えなければならないのが面倒。
西洋館なのに(/o\)
ーーー続く
2024年06月07日
山手西洋館ブラブラ
(5月10日の横浜バラツアーその3)
さていよいよ西洋館巡り。
山手本通りを下って最初に現れるのがこの建物。
実はここは西洋館ではなく1967年(昭和42年)に建てられたカフェ&フレンチレストランの山手十番館。お店のホームページを見たら5月は9日間、6月は7日間も「Lunch,Cafe 貸切」となっている。ウェディング用に貸し出しているのかな?
ところで西洋館といえば神戸北野の異人館も有名。
ただしこちら山手の西洋館とは建てられた年代が違う。
西洋館は洋館や洋風建築ともいうが、その定義は
江戸時代末期の開国から第二次世界大戦までの時代に
日本で建設された、西洋の建築様式を用いた建物で
主として住宅を指す
さらに神戸では
幕末期から明治期に建築された西洋館を異人館
大正期から戦前昭和期に建築された西洋館を洋館
と区別している。
それで現在、
横浜で山手西洋館として公開されているのは7つあり、その竣工年は
外交官の家 1910年 明治43年
エリスマン邸 1926年 大正15年昭和元年
山手111番館 1926年 大正15年昭和元年
ブラフ18番館 関東大震災(1923年大正12年)より後
山手234番館 1927年 昭和2年
ベーリック・ホール 1930年 昭和5年
イギリス館 1937年 昭和12年
と比較的新しく、最も古い外交官の家でも明治43年と明治末期(明治は45年まで)。しかもこの家は施主が日本人の外交官で、渋谷の南平台に建てられたものを1997年(平成9年)に移築して山手の西洋館としている。ちょっとサギ(^^ゞ
ちなみに横浜山手に明治時代の西洋館が残っていないのは、関東大震災で壊滅的な被害を受けたから。なお横浜空襲で山手地区は標的から外されている。
さてカフェ&フレンチレストランの山手十番館の先にあるのが山手資料館。居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示している。前庭のバラがきれいだと聞いて昨年に訪れるつもりだったところ。ここは和洋折衷建築なので山手西洋館には数えられていない。しかし解説にあるように本牧からの移築だが、建てられたのは1909年(明治42年)と外交官の家より古い。
バラ園の規模ではないものの、
自宅の庭にこれだけのバラが咲いていたら引きこもりになるなあ(^^ゞ
解説があったので、とりあえず撮ってみた。
山手本通りを少し下って元町公園前のバス停。
その前にあるクラシックな建物は横浜山手聖公会。ノルマン様式という建築らしい。こういうのもあって異国情緒を味わえるのがこの通りの魅力。
そしてバス停のそばにあったナゾの構造物。
自働電話と書かれている。
なんじゃそれ?
中を覗くとーーー
これは1890年(明治23年)の横浜〜東京間の電話交換業務開始100年を記念して、NTTが1990年(平成2年)に設置した公衆電話。横浜の各地に様々なデザインの公衆電話ボックスがあるみたい。ここのは灯台がモチーフに思えるが、そうではなく当時はこれが最も一般的な公衆電話ボックスの形。
そして自働電話とは
1900年(明治33年)に公衆電話を設置し始めたとき、アメリカ製の電話機を導入
それがなぜかオートマチック・テレホンとの名前で
それを直訳して公衆電話を自働電話と名付けた。
ただしまったくオートマチックではなく
交換手を呼び出してつないでもらう電話初期の方式
大正14年に電話網にダイヤル式の自動交換方式採用。
それと自働電話とが紛らわしいので公衆電話と名前を変更
との歴史。
それにしてもどうしてオートマチックを自動ではなく自働の漢字にしたのだろう。それとレプリカとして置いてある昔の「自働電話」が、あまりに雑に省略された作りで、これならレトロデザインの電話ボックスだけでいいレベル。
本日の西洋館1軒目は山手234番館。
名前に数字がある場合は山手町◯◯◯番地の意味。
関東大震災で横浜に住む外国人は7650人から2156人に激減。ここは彼らを呼び戻す復興事業のひとつとして建てられた外国人向け共用住宅=アパートメント。ただし公営ではなく民間事業として。同じ3LDKの間取りが左右対称に1階と2階にふたつずつ合計4世帯分。専有面積は1戸当たり約100平米。当時の日本人の共同住宅はその1/3ほどの広さ。
1980年(昭和55年)頃まで使用され、1989年(平成元年)に横浜市が取得。
1999年(平成11年)から一般公開。
取得してから10年間は何をしていたのだろう。
館内は「まあこんな感じね」レベルでそれほど面白くなかった。
でも外観デザインは素敵だったので、
全部見てやろうと、
建物の反対側に来ると、
そこそこ広い裏庭があるのを発見!
バラも咲いていたし、
アヤメも久しぶりに見られた。
ここに来たら裏庭もお見逃しなく。
グルッと1周。
ファサードの造りは何となくアメリカっぽい。
山手234番館の隣にあるのは「えの木てい」というスイーツのお店。3段重ねのティースタンドで提供されるアフタヌーンティーも楽しめる。
ところで最初に紹介したカフェ&フレンチレストランの山手十番館は、1967年(昭和42年)に建てられたパチもんの西洋館風建築だが、この「えの木てい」は山手234番館と同じ1927年(昭和2年)に同じ建築家によって設計された本物の西洋館。上に示した地図には載っていないが、横浜市観光協会のホームページでは山手西洋館として紹介されている。
建物は昭和の後半に日本人夫妻の手に渡り、その妻がリビングでカフェを始めたのが「えの木てい」の始まり。オープンは1979年(昭和54年)。
ーーー続く
<補足>
山手十番館の十番は番地ではなく、その経営母体が出店する10番目の店だったから。
それを西洋館風のネーミングに仕立てたと思われる。
さていよいよ西洋館巡り。
山手本通りを下って最初に現れるのがこの建物。
実はここは西洋館ではなく1967年(昭和42年)に建てられたカフェ&フレンチレストランの山手十番館。お店のホームページを見たら5月は9日間、6月は7日間も「Lunch,Cafe 貸切」となっている。ウェディング用に貸し出しているのかな?
ところで西洋館といえば神戸北野の異人館も有名。
ただしこちら山手の西洋館とは建てられた年代が違う。
西洋館は洋館や洋風建築ともいうが、その定義は
江戸時代末期の開国から第二次世界大戦までの時代に
日本で建設された、西洋の建築様式を用いた建物で
主として住宅を指す
さらに神戸では
幕末期から明治期に建築された西洋館を異人館
大正期から戦前昭和期に建築された西洋館を洋館
と区別している。
それで現在、
横浜で山手西洋館として公開されているのは7つあり、その竣工年は
外交官の家 1910年 明治43年
エリスマン邸 1926年 大正15年昭和元年
山手111番館 1926年 大正15年昭和元年
ブラフ18番館 関東大震災(1923年大正12年)より後
山手234番館 1927年 昭和2年
ベーリック・ホール 1930年 昭和5年
イギリス館 1937年 昭和12年
と比較的新しく、最も古い外交官の家でも明治43年と明治末期(明治は45年まで)。しかもこの家は施主が日本人の外交官で、渋谷の南平台に建てられたものを1997年(平成9年)に移築して山手の西洋館としている。ちょっとサギ(^^ゞ
ちなみに横浜山手に明治時代の西洋館が残っていないのは、関東大震災で壊滅的な被害を受けたから。なお横浜空襲で山手地区は標的から外されている。
さてカフェ&フレンチレストランの山手十番館の先にあるのが山手資料館。居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示している。前庭のバラがきれいだと聞いて昨年に訪れるつもりだったところ。ここは和洋折衷建築なので山手西洋館には数えられていない。しかし解説にあるように本牧からの移築だが、建てられたのは1909年(明治42年)と外交官の家より古い。
バラ園の規模ではないものの、
自宅の庭にこれだけのバラが咲いていたら引きこもりになるなあ(^^ゞ
解説があったので、とりあえず撮ってみた。
山手本通りを少し下って元町公園前のバス停。
その前にあるクラシックな建物は横浜山手聖公会。ノルマン様式という建築らしい。こういうのもあって異国情緒を味わえるのがこの通りの魅力。
そしてバス停のそばにあったナゾの構造物。
自働電話と書かれている。
なんじゃそれ?
中を覗くとーーー
これは1890年(明治23年)の横浜〜東京間の電話交換業務開始100年を記念して、NTTが1990年(平成2年)に設置した公衆電話。横浜の各地に様々なデザインの公衆電話ボックスがあるみたい。ここのは灯台がモチーフに思えるが、そうではなく当時はこれが最も一般的な公衆電話ボックスの形。
そして自働電話とは
1900年(明治33年)に公衆電話を設置し始めたとき、アメリカ製の電話機を導入
それがなぜかオートマチック・テレホンとの名前で
それを直訳して公衆電話を自働電話と名付けた。
ただしまったくオートマチックではなく
交換手を呼び出してつないでもらう電話初期の方式
大正14年に電話網にダイヤル式の自動交換方式採用。
それと自働電話とが紛らわしいので公衆電話と名前を変更
との歴史。
それにしてもどうしてオートマチックを自動ではなく自働の漢字にしたのだろう。それとレプリカとして置いてある昔の「自働電話」が、あまりに雑に省略された作りで、これならレトロデザインの電話ボックスだけでいいレベル。
本日の西洋館1軒目は山手234番館。
名前に数字がある場合は山手町◯◯◯番地の意味。
関東大震災で横浜に住む外国人は7650人から2156人に激減。ここは彼らを呼び戻す復興事業のひとつとして建てられた外国人向け共用住宅=アパートメント。ただし公営ではなく民間事業として。同じ3LDKの間取りが左右対称に1階と2階にふたつずつ合計4世帯分。専有面積は1戸当たり約100平米。当時の日本人の共同住宅はその1/3ほどの広さ。
1980年(昭和55年)頃まで使用され、1989年(平成元年)に横浜市が取得。
1999年(平成11年)から一般公開。
取得してから10年間は何をしていたのだろう。
館内は「まあこんな感じね」レベルでそれほど面白くなかった。
でも外観デザインは素敵だったので、
全部見てやろうと、
建物の反対側に来ると、
そこそこ広い裏庭があるのを発見!
バラも咲いていたし、
アヤメも久しぶりに見られた。
ここに来たら裏庭もお見逃しなく。
グルッと1周。
ファサードの造りは何となくアメリカっぽい。
山手234番館の隣にあるのは「えの木てい」というスイーツのお店。3段重ねのティースタンドで提供されるアフタヌーンティーも楽しめる。
ところで最初に紹介したカフェ&フレンチレストランの山手十番館は、1967年(昭和42年)に建てられたパチもんの西洋館風建築だが、この「えの木てい」は山手234番館と同じ1927年(昭和2年)に同じ建築家によって設計された本物の西洋館。上に示した地図には載っていないが、横浜市観光協会のホームページでは山手西洋館として紹介されている。
建物は昭和の後半に日本人夫妻の手に渡り、その妻がリビングでカフェを始めたのが「えの木てい」の始まり。オープンは1979年(昭和54年)。
ーーー続く
<補足>
山手十番館の十番は番地ではなく、その経営母体が出店する10番目の店だったから。
それを西洋館風のネーミングに仕立てたと思われる。
2024年06月06日
ブラフ99ガーデン&外国人墓地
(5月10日の横浜バラツアーその2)
アメリカ山公園の駅とは反対側の出入り口。
こちら側が正門でエントランスと名付けられている。
180度向きを変えた光景。
右側に樹木が茂っているのは外国人墓地。
フェンスの隙間からお墓が見える。
しばらく進むと左手側に横浜地方気象台。
写真右側にある建物は日差しを浴びて真新しそうに見えるけれど1927年(昭和2年)の竣工。アールデコの建築様式で横浜市の有形文化財に指定されている。内部がけっこうレトロでいい感じらしい。一般公開されているからそのうち見に行きましょう。
気象台を過ぎると山手本通りに出る。写真右側から中央に延びているのはアメリカ山公園から歩いてきた道路。公園にもあったベニバナトチノキはこちらの方がきれいに咲いていた。
ところで上の写真を撮ったのは、写真を見てわかるように道路から少し高くなった場所で、そこが小さな公園のようになっている。
山手本通りはその昔にクルマでよく通った場所。
こんな公園があったっけ?と思って調べると、これは
2014年4月に
横浜税関の山手プール跡地に造られた
ブラフ99ガーデンという公園で
敷地は約1000平米
港の見える丘公園の「飛び地」扱いで横浜市営公園
山手の洋館の前庭をイメージして設計された
とわかった。
それはそうだとして何だその「横浜税関の山手プール」って?
これが調べてもなかなかわからない。プールとは泳ぐプールなのか。またプール pool には貯める蓄えるの意味もある。なら保税倉庫か。でも保税倉庫の英訳でプールを使った単語はない。
するとあるサイトに税関宿舎プール跡地との記述があった。プール付きの公務員官舎だったとしたら、どんだけ贅沢? またあるサイトには税関職員に向けた訓練用施設と書いてある。しかし横浜市公園緑地事業課のホームページに、ブラフ99ガーデンは旧横浜税関山手宿舎跡地とあるから訓練施設ではなかったと思われる。それに税関職員の訓練にどうしてプールが必要なのだ。密輸犯が船から飛び降りて泳いで逃げるのを捕まえるため? どうにもナゾ
ちなみに公園名のブラフ Bluff とはハッタリや脅しではもちろんなく、同じスペルでも絶壁や切り立った崖との意味。明治時代に居留地に住んでいた外国人が、小高い地形の山手地区をブラフと呼んでいたとのこと。そしてここが山手町99番地なのでブラフ99。
それはさておき、ここにもバラがきれいに植えられている。
アメリカ山公園にはなかった色も。
さてここから山手本通りを、
山手イタリア山庭園まで下っていく。
右側に広がるのは外国人墓地で、
ここがメインゲートの山手門。
入れるのは門の先の写真で見えているところまで。
土日祝日なら500円ほどの寄付金を払えば墓地内の一部を散策できる。
中には入らなくても山手本通りを歩けば、
チラチラとその雰囲気を眺められる。
最初はペリーが2度目に来航した1854年に、マストから転落死した水兵を埋葬したのが始まり。当時このあたりは寺の境内だった。それからも外国人死者がその近くに埋葬されたので、日本人の墓を移転して1861年に外国人専用の墓地となる。横浜が開港して居留地が出来たのは1859年なので墓地の開園は驚くほど早い。
そんなにすぐ死ぬ健康状態の人が、はるばる日本に多くやって来たのかと最初は疑問だった。しかし攘夷派の武士によって殺害された外国人も多く、幕府としてはその賠償の意味もあって墓地の整備に力を貸す必要があったのだろう。徐々に拡大して現在の規模になったのは1880年(明治13年)。
広さは約1.85ヘクタール。Wikipediaによれば「19世紀から20世紀半ばにかけての40ヶ国余、4400人余りの外国人が葬られている」とある。もう少し詳しい資料によると2009年の段階で埋葬されているのは約4870人。そのうち縁故者に連絡が付かず無縁仏状態になっているのは8割以上にのぼる。まあ江戸や明治時代の昔に遠い外国の日本で死んだ人たちの墓だから仕方ないか。
ただし現在でも墓地の購入は可能。
購入するのに国籍宗教は問われないものの、埋蔵されるには
生前外国籍である
死亡した時の戸籍が神奈川県内
の条件が付く。また中国籍の場合は、中国人専用の外国人墓地があるのでここでは受け入れていない。生前外国籍で神奈川県内に戸籍が持つの意味がよくわからないが、ここに私の墓を建てる予定はないので詳しく調べていない(^^ゞ
ーーー続く
アメリカ山公園の駅とは反対側の出入り口。
こちら側が正門でエントランスと名付けられている。
180度向きを変えた光景。
右側に樹木が茂っているのは外国人墓地。
フェンスの隙間からお墓が見える。
しばらく進むと左手側に横浜地方気象台。
写真右側にある建物は日差しを浴びて真新しそうに見えるけれど1927年(昭和2年)の竣工。アールデコの建築様式で横浜市の有形文化財に指定されている。内部がけっこうレトロでいい感じらしい。一般公開されているからそのうち見に行きましょう。
気象台を過ぎると山手本通りに出る。写真右側から中央に延びているのはアメリカ山公園から歩いてきた道路。公園にもあったベニバナトチノキはこちらの方がきれいに咲いていた。
ところで上の写真を撮ったのは、写真を見てわかるように道路から少し高くなった場所で、そこが小さな公園のようになっている。
山手本通りはその昔にクルマでよく通った場所。
こんな公園があったっけ?と思って調べると、これは
2014年4月に
横浜税関の山手プール跡地に造られた
ブラフ99ガーデンという公園で
敷地は約1000平米
港の見える丘公園の「飛び地」扱いで横浜市営公園
山手の洋館の前庭をイメージして設計された
とわかった。
それはそうだとして何だその「横浜税関の山手プール」って?
これが調べてもなかなかわからない。プールとは泳ぐプールなのか。またプール pool には貯める蓄えるの意味もある。なら保税倉庫か。でも保税倉庫の英訳でプールを使った単語はない。
するとあるサイトに税関宿舎プール跡地との記述があった。プール付きの公務員官舎だったとしたら、どんだけ贅沢? またあるサイトには税関職員に向けた訓練用施設と書いてある。しかし横浜市公園緑地事業課のホームページに、ブラフ99ガーデンは旧横浜税関山手宿舎跡地とあるから訓練施設ではなかったと思われる。それに税関職員の訓練にどうしてプールが必要なのだ。密輸犯が船から飛び降りて泳いで逃げるのを捕まえるため? どうにもナゾ
ちなみに公園名のブラフ Bluff とはハッタリや脅しではもちろんなく、同じスペルでも絶壁や切り立った崖との意味。明治時代に居留地に住んでいた外国人が、小高い地形の山手地区をブラフと呼んでいたとのこと。そしてここが山手町99番地なのでブラフ99。
それはさておき、ここにもバラがきれいに植えられている。
アメリカ山公園にはなかった色も。
さてここから山手本通りを、
山手イタリア山庭園まで下っていく。
右側に広がるのは外国人墓地で、
ここがメインゲートの山手門。
入れるのは門の先の写真で見えているところまで。
土日祝日なら500円ほどの寄付金を払えば墓地内の一部を散策できる。
中には入らなくても山手本通りを歩けば、
チラチラとその雰囲気を眺められる。
最初はペリーが2度目に来航した1854年に、マストから転落死した水兵を埋葬したのが始まり。当時このあたりは寺の境内だった。それからも外国人死者がその近くに埋葬されたので、日本人の墓を移転して1861年に外国人専用の墓地となる。横浜が開港して居留地が出来たのは1859年なので墓地の開園は驚くほど早い。
そんなにすぐ死ぬ健康状態の人が、はるばる日本に多くやって来たのかと最初は疑問だった。しかし攘夷派の武士によって殺害された外国人も多く、幕府としてはその賠償の意味もあって墓地の整備に力を貸す必要があったのだろう。徐々に拡大して現在の規模になったのは1880年(明治13年)。
広さは約1.85ヘクタール。Wikipediaによれば「19世紀から20世紀半ばにかけての40ヶ国余、4400人余りの外国人が葬られている」とある。もう少し詳しい資料によると2009年の段階で埋葬されているのは約4870人。そのうち縁故者に連絡が付かず無縁仏状態になっているのは8割以上にのぼる。まあ江戸や明治時代の昔に遠い外国の日本で死んだ人たちの墓だから仕方ないか。
ただし現在でも墓地の購入は可能。
購入するのに国籍宗教は問われないものの、埋蔵されるには
生前外国籍である
死亡した時の戸籍が神奈川県内
の条件が付く。また中国籍の場合は、中国人専用の外国人墓地があるのでここでは受け入れていない。生前外国籍で神奈川県内に戸籍が持つの意味がよくわからないが、ここに私の墓を建てる予定はないので詳しく調べていない(^^ゞ
ーーー続く
2024年06月04日
春バラはアメリカ山公園から 2024
昨年は「春バラはアメリカ山公園から」とのタイトルで、
横浜での春バラ鑑賞のブログを書いた。
予定では
前菜はアメリカ山公園
メインディッシュに港の見える丘公園
余裕があればデザートとして山手資料館とイタリア山庭園
だったものの、港の見える丘公園でお腹いっぱいになって終了。
そこで今年は昨年に訪れなかった山手資料館やイタリア山庭園などをまず見て、その後に山下公園のバラ園とのプラン。山下公園の春バラは2018年にも見ている。同じ場所は避ける主義だけれど、山手資料館やイタリア山庭園だけではボリューム的に物足りないし、山下公園も5年前だからまあいいかとの考え。
訪れたのは5月10日。今年もスタートがアメリカ山なのは、ここが元町・中華街駅の屋上に設置された立体都市公園で、小高い丘となっている山手エリアの最も標高の高い部分とつながっているから。つまりアメリカ山を経由すれば山手エリアの坂を登らなくて済む。また昨年に訪れてここをかなり気に入ったのも理由のひとつ。立体都市公園やアメリカ山についてはこのブログ1行目に埋め込んだリンクから昨年の記事を読んでちょうだい。
東横線は横浜駅から先が「みなとみらい線」となり終点が元町・中華街駅。
電車が着くのは地下4階のホーム。
そこから地上4階の屋上までだから、合計9階分をエスカレーターで上がる。
エレベーターを利用したほうがよかったかも。
エスカレーターを何度も乗り継ぎ、
屋上塔屋を抜けて、
いきなり広がるアメリカ山公園。
このダイナミックな展開は2度目でもちょっと感激する。
公園中程まで進んだ位置から屋上に出たところを振り返って。
バラが植えられているのは、
最初に公園を撮った写真の左右画角の外側と、撮影位置より後ろの部分。
なかなかベストなタイミングで来られたと思う。
芝生広場では保育園児がお遊び中。
ナスカの地上絵?
お幸せに!
今回は昨年も来たアメリカ山は通り抜けのつもりだったのに、
やはりあれこれとバラ以外も見てしまう(^^ゞ
タチアオイの別名をハナアオイとも言うが、
ラバテラは別の品種みたいだ。
デイジーとマーガレットは明確な見分けポイントがなく、名前の雰囲気から元気そうならデイジー、優しい感じがしたらマーガレットとするのが私のナゾ基準。ここでは品種名が書かれていた。
ユーフォルビアは草と木それに多肉植物までバラエティが広くて覚えきれない品種。これは草のタイプでよく見る形。
昨年はバラ以上に目立っていたベニバナトチノキ。
今年は少し成長が遅いようだ。
よく見るのより色の薄いミヤコワスレ。
この変わった名前は、鎌倉時代に承久の乱で北条氏に敗れて佐渡に流された順徳天皇が、当地でこの花を見つけ和歌に詠んだのに由来するとされる。しかしミヤコワスレはミヤマヨメナという野菊の園芸改良種。そしてそれが作られたのは江戸時代なので、ミヤコワスレ順徳天皇説はイイカゲンな話。
サルビアは赤いがネモローサ・カラドンナは紫。
まるでネギ坊主(ネギの花)みたいだが、それもそのはずアリウムとはネギ属の意味で、このアリウムもネギやニンニクの仲間。
近づくとちりめんじゃこだった(^^ゞ
紫のアリウムもあった。
この早咲きのラベンダーは香りが弱い。
でも花の部分をそっと握りしめてから手のひらをクンクンするといい匂いがする。
昨年は花の塊が人の頭ほどあったシャクナゲ。
今年はかなり小さい。
保育園児が帰ったので公園が静かになった。
アップで眺めましょう。
駅とは反対側の出入り口へ。
門の外から見た公園。
敷地面積は0.55ヘクタールで狭すぎず広すぎずで手頃なサイズ。そして何より美しい。この季節にしか訪れた経験はないけれど、もし東横線沿線に住んでいるなら元町・中華街駅まで来て屋上に上がり、しばらく公園を楽しんでそのまま電車に乗って帰ってもいい一日になる。
アメリカ山公園を出て外国人墓地の横を進むと山手本通りに出る。
それをイタリア山庭園まで下っていく途中に洋館が点在している。
ーーー続く
横浜での春バラ鑑賞のブログを書いた。
予定では
前菜はアメリカ山公園
メインディッシュに港の見える丘公園
余裕があればデザートとして山手資料館とイタリア山庭園
だったものの、港の見える丘公園でお腹いっぱいになって終了。
そこで今年は昨年に訪れなかった山手資料館やイタリア山庭園などをまず見て、その後に山下公園のバラ園とのプラン。山下公園の春バラは2018年にも見ている。同じ場所は避ける主義だけれど、山手資料館やイタリア山庭園だけではボリューム的に物足りないし、山下公園も5年前だからまあいいかとの考え。
訪れたのは5月10日。今年もスタートがアメリカ山なのは、ここが元町・中華街駅の屋上に設置された立体都市公園で、小高い丘となっている山手エリアの最も標高の高い部分とつながっているから。つまりアメリカ山を経由すれば山手エリアの坂を登らなくて済む。また昨年に訪れてここをかなり気に入ったのも理由のひとつ。立体都市公園やアメリカ山についてはこのブログ1行目に埋め込んだリンクから昨年の記事を読んでちょうだい。
東横線は横浜駅から先が「みなとみらい線」となり終点が元町・中華街駅。
電車が着くのは地下4階のホーム。
そこから地上4階の屋上までだから、合計9階分をエスカレーターで上がる。
エレベーターを利用したほうがよかったかも。
エスカレーターを何度も乗り継ぎ、
屋上塔屋を抜けて、
いきなり広がるアメリカ山公園。
このダイナミックな展開は2度目でもちょっと感激する。
公園中程まで進んだ位置から屋上に出たところを振り返って。
バラが植えられているのは、
最初に公園を撮った写真の左右画角の外側と、撮影位置より後ろの部分。
なかなかベストなタイミングで来られたと思う。
芝生広場では保育園児がお遊び中。
ナスカの地上絵?
お幸せに!
今回は昨年も来たアメリカ山は通り抜けのつもりだったのに、
やはりあれこれとバラ以外も見てしまう(^^ゞ
タチアオイの別名をハナアオイとも言うが、
ラバテラは別の品種みたいだ。
デイジーとマーガレットは明確な見分けポイントがなく、名前の雰囲気から元気そうならデイジー、優しい感じがしたらマーガレットとするのが私のナゾ基準。ここでは品種名が書かれていた。
ユーフォルビアは草と木それに多肉植物までバラエティが広くて覚えきれない品種。これは草のタイプでよく見る形。
昨年はバラ以上に目立っていたベニバナトチノキ。
今年は少し成長が遅いようだ。
よく見るのより色の薄いミヤコワスレ。
この変わった名前は、鎌倉時代に承久の乱で北条氏に敗れて佐渡に流された順徳天皇が、当地でこの花を見つけ和歌に詠んだのに由来するとされる。しかしミヤコワスレはミヤマヨメナという野菊の園芸改良種。そしてそれが作られたのは江戸時代なので、ミヤコワスレ順徳天皇説はイイカゲンな話。
サルビアは赤いがネモローサ・カラドンナは紫。
まるでネギ坊主(ネギの花)みたいだが、それもそのはずアリウムとはネギ属の意味で、このアリウムもネギやニンニクの仲間。
近づくとちりめんじゃこだった(^^ゞ
紫のアリウムもあった。
この早咲きのラベンダーは香りが弱い。
でも花の部分をそっと握りしめてから手のひらをクンクンするといい匂いがする。
昨年は花の塊が人の頭ほどあったシャクナゲ。
今年はかなり小さい。
保育園児が帰ったので公園が静かになった。
アップで眺めましょう。
駅とは反対側の出入り口へ。
門の外から見た公園。
敷地面積は0.55ヘクタールで狭すぎず広すぎずで手頃なサイズ。そして何より美しい。この季節にしか訪れた経験はないけれど、もし東横線沿線に住んでいるなら元町・中華街駅まで来て屋上に上がり、しばらく公園を楽しんでそのまま電車に乗って帰ってもいい一日になる。
アメリカ山公園を出て外国人墓地の横を進むと山手本通りに出る。
それをイタリア山庭園まで下っていく途中に洋館が点在している。
ーーー続く