2024年07月
2024年07月31日
トウケイとトキオ その2
江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それで人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態となる。
こんな風にテレビで「へいせい」と声が聞こえてきたわけじゃないからね。
まだラジオだってない時代。
物心ついたときからトウキョウと呼ばれていたし、そもそも東京は「東の京都」「首都である京都が東に移った」との意味合い。だからトウキョウを信じて疑ったこともないが、国語的にはトウケイが正しく、そして東京と名付けた明治新政府もトウケイの読みを意図していたとの説もある。
漢字は音を聞くと意味がわかる訓読みと、わからない音読みに分かれる。訓読みは漢字の意味に合う日本語を当てはめたもので、音読みは昔の中国の発音が元になっている。
例えば男の訓読みはオトコで、音読みはダン。
また長男などナンの音読みもある。
これは「音読みは昔の中国の発音が元になって」と書いた、その昔に幅があるため。
それで音読みの発音は
呉音:仏教と共に6世紀頃に伝わった。中国南方の方言がベース。
発音が柔らかい。拗音と促音が多い。男ならナン。
拗音(ようおん)→ゃゅょ(ちいさい文字)
促音(そくおん)→っ(音がはねる)
漢音:7〜8世紀の遣唐使が持ち帰った。唐の都である長安の発音。
発音が固い。濁音が多い。 男ならダン。
に分かれる。他には割合としては少ないものの、この呉音と漢音が日本語として定着して以降の平安末期に入ってきた宋音や唐音などもある。
東京を東と京に分けて、呉音と漢音で記すと
東
呉音 つう
漢音 とう
京
呉音 きょう
漢音 けい
熟語の場合、音読みは呉音か漢音かで揃えるのが原則。
例えば
老若男女 ろうにゃく・なんにょ
男女平等 たんじょ・びょうどう
でもトウキョウは呉音と漢音のチャンポンになっている。
東の呉音「つう」は一般的ではないので、東京は漢音で揃えてトウケイと読むのが国語セオリー的には正しい。また明治新政府幹部つまり当時のエリートは、漢文の素養も高いので当然ながらトウケイと考えていたはずーーーというのが先ほど書いた説の根拠。
エリートじゃないクラスでも、今よりは漢文あるいは漢文に近い日本語文章に接していたので、直感的にトウキョウの読みには違和感を覚えたかも知れない。それでもトウキョウと発音したのは、それだけ1000年も都が続いた「京都 キョウ」の存在が大きかったともいわれる。
一方でトウケイと発音したのは先祖代々から東京に住む「江戸っ子」が多かったらしい。彼らは地元の徳川びいきで、京都の朝廷と組んで幕府を倒した明治新政府を快く思っていない。それで京都を連想させるトウキョウの読みが気に入らなかったようだ。
やがてこの問題は1903年(明治36年)に国定教科書の制度が定められて解決を見る。その教科書で東京にトーキョーとのフリガナが付いた。これにより徐々にトウキョウの読みが定着していく。どうしてトウケイにしなかったのかの資料は見当たらなかった。
思うに京都に近い西日本ではトウキョウだったろうし、東京に全国から人が集まるようになってトウキョウがデファクトスタンダードになったのではないか。また明治も36年になると、当時の平均寿命は44歳程度だから、「てやんでえ、トウケイに決まってんだろうが、べらぼうめ!」と考える江戸時代生まれの徳川びいきが少なくなったのも影響したと考えられる。
ーーー続く
この「東京」には読みが記されていなかった。
それで人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態となる。
こんな風にテレビで「へいせい」と声が聞こえてきたわけじゃないからね。
まだラジオだってない時代。
物心ついたときからトウキョウと呼ばれていたし、そもそも東京は「東の京都」「首都である京都が東に移った」との意味合い。だからトウキョウを信じて疑ったこともないが、国語的にはトウケイが正しく、そして東京と名付けた明治新政府もトウケイの読みを意図していたとの説もある。
漢字は音を聞くと意味がわかる訓読みと、わからない音読みに分かれる。訓読みは漢字の意味に合う日本語を当てはめたもので、音読みは昔の中国の発音が元になっている。
例えば男の訓読みはオトコで、音読みはダン。
また長男などナンの音読みもある。
これは「音読みは昔の中国の発音が元になって」と書いた、その昔に幅があるため。
それで音読みの発音は
呉音:仏教と共に6世紀頃に伝わった。中国南方の方言がベース。
発音が柔らかい。拗音と促音が多い。男ならナン。
拗音(ようおん)→ゃゅょ(ちいさい文字)
促音(そくおん)→っ(音がはねる)
漢音:7〜8世紀の遣唐使が持ち帰った。唐の都である長安の発音。
発音が固い。濁音が多い。 男ならダン。
に分かれる。他には割合としては少ないものの、この呉音と漢音が日本語として定着して以降の平安末期に入ってきた宋音や唐音などもある。
東京を東と京に分けて、呉音と漢音で記すと
東
呉音 つう
漢音 とう
京
呉音 きょう
漢音 けい
熟語の場合、音読みは呉音か漢音かで揃えるのが原則。
例えば
老若男女 ろうにゃく・なんにょ
男女平等 たんじょ・びょうどう
でもトウキョウは呉音と漢音のチャンポンになっている。
東の呉音「つう」は一般的ではないので、東京は漢音で揃えてトウケイと読むのが国語セオリー的には正しい。また明治新政府幹部つまり当時のエリートは、漢文の素養も高いので当然ながらトウケイと考えていたはずーーーというのが先ほど書いた説の根拠。
エリートじゃないクラスでも、今よりは漢文あるいは漢文に近い日本語文章に接していたので、直感的にトウキョウの読みには違和感を覚えたかも知れない。それでもトウキョウと発音したのは、それだけ1000年も都が続いた「京都 キョウ」の存在が大きかったともいわれる。
一方でトウケイと発音したのは先祖代々から東京に住む「江戸っ子」が多かったらしい。彼らは地元の徳川びいきで、京都の朝廷と組んで幕府を倒した明治新政府を快く思っていない。それで京都を連想させるトウキョウの読みが気に入らなかったようだ。
やがてこの問題は1903年(明治36年)に国定教科書の制度が定められて解決を見る。その教科書で東京にトーキョーとのフリガナが付いた。これにより徐々にトウキョウの読みが定着していく。どうしてトウケイにしなかったのかの資料は見当たらなかった。
思うに京都に近い西日本ではトウキョウだったろうし、東京に全国から人が集まるようになってトウキョウがデファクトスタンダードになったのではないか。また明治も36年になると、当時の平均寿命は44歳程度だから、「てやんでえ、トウケイに決まってんだろうが、べらぼうめ!」と考える江戸時代生まれの徳川びいきが少なくなったのも影響したと考えられる。
ーーー続く
2024年07月30日
トウケイとトキオ
昔の人の名前は「藤原の道長」「源の頼朝」と「の」を挟んで読んでいたのに、時代が下るにつれて「の」がなくなって「足利尊氏」「徳川家康」となる。その名前が天皇から与えられた【ウジ(氏)なら「の」が付く】と日本史で習うけれど、それについての疑問を豊臣秀吉と千利休をテーマにして3回、それ以外に2回と少し前にあれこれ書いた。
その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。
まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。
1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。
内容は
天皇が江戸で政務を執る
(だから)江戸を東京に改称する
のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。
いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。
そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。
それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。
従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。
平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ
ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。
さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。
ーーー続く
その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。
まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。
1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。
内容は
天皇が江戸で政務を執る
(だから)江戸を東京に改称する
のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。
いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。
そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。
それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。
従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。
平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ
ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。
さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。
ーーー続く
2024年07月28日
金盛丸が倒れた、刺された
2019年に世田谷のボロ市で買ってきたときは、
このような姿だったのに、
盛大に徒長(とちょう:茎が細長く伸びる現象)して、
そして無駄に無限に子株が増え続けている金盛丸という名のサボテン。
もはや買ってきたものと同じ植物とは思えない(^^ゞ
5月に子株の1つが根元が腐っているのを見つけた。
何かの病気にでも感染したかと心配したものの、
他の株には広がらずひと安心。
しかし数日前に倒れかけている子株を発見。
植え直すために親株から切り離そうとしたら、
指にトゲが刺さった(>_<)
親切に手入れをしてあげるのに恩知らずなヤツである。
ベランダから放り投げてやろうかと思ったが、
気を取り直しバイク用の革手袋をして土の中に戻してやった。
そんなどうでもいいことを書いている、
平和な日曜の昼下がり。
でも気温は36度。
明日の予想最高気温は37度。
もっとも去年今年からこの暑さになったわけではなく、
それなりに酷暑耐性もできているはずで、
あまり熱中症、熱中症と大騒ぎする必要はないとも思っているけれど、
それなりにご自愛を。
暑中お見舞い申し上げます。
このような姿だったのに、
盛大に徒長(とちょう:茎が細長く伸びる現象)して、
そして無駄に無限に子株が増え続けている金盛丸という名のサボテン。
もはや買ってきたものと同じ植物とは思えない(^^ゞ
5月に子株の1つが根元が腐っているのを見つけた。
何かの病気にでも感染したかと心配したものの、
他の株には広がらずひと安心。
しかし数日前に倒れかけている子株を発見。
植え直すために親株から切り離そうとしたら、
指にトゲが刺さった(>_<)
親切に手入れをしてあげるのに恩知らずなヤツである。
ベランダから放り投げてやろうかと思ったが、
気を取り直しバイク用の革手袋をして土の中に戻してやった。
そんなどうでもいいことを書いている、
平和な日曜の昼下がり。
でも気温は36度。
明日の予想最高気温は37度。
もっとも去年今年からこの暑さになったわけではなく、
それなりに酷暑耐性もできているはずで、
あまり熱中症、熱中症と大騒ぎする必要はないとも思っているけれど、
それなりにご自愛を。
暑中お見舞い申し上げます。
2024年07月26日
百日草が初開花
ヒョロヒョロとして支柱がないと倒れてしまう百日草。
これは7月9日の撮影。
それでも7月22日にツボミ始めた。
23日には少し花びらものぞかせる。
ツボミが出来ると葉の間から茎を伸ばし、
また葉が下に垂れ下がる。
こちらはまだつぼみのできていない株。
25日に花びらが伸び出す。
もうしばらくで咲くだろうと思っていたら、
本日26日にいきなり開花。
夜のうちに急成長したのか?
でも花が小っさ!
それに茎が真っ直ぐに立っていないから、
2つ咲いたのに一緒に花の姿を撮れない。
マリーゴールドもとても小さな花しか咲かなかったのは7月10日に書いた。百日草と矢車草は花が小さい以前に株が細くてヒョロヒョロ。何が悪いのだろう? 土はチューリップを育てていたときの使い回したけれど、「古い土の再生材(中身は腐葉土)」と油かすを入れてリフレッシュさせたつもり。肥料も入れたし、何度か水やりの際に液体肥料も混ぜている。ベランダは東向きで直射日光が指すのは午前中だけ。それが花には厳しいのかな。でもチューリップはきれいに咲くから、トータルの日射量がそれほど低いとも思えない。
こちらは2012年にバイクツーリングで山中湖にある花の都公園で見た百日草。
これのミニチュア版をベランダに実現しようと企んでいたのに。
まあ咲いただけヨシと前向きに考えましょう。
プランターの下の方でクニャクニャしているのは矢車草。
6月下旬より成長の気配なく、もう諦めている。
かいわれ大根を植えた覚えはないのだが(^^ゞ
これは6月下旬に種を「追いまき」した百日草。
種まき時期はとっくに過ぎていて、
育ったらラッキー程度のつもりだったが、やはり無理だったみたい。
一方でミニヒマワリは何となく生命感が強そうで期待している。
来週くらいに咲くんじゃないかな。
これは7月9日の撮影。
それでも7月22日にツボミ始めた。
23日には少し花びらものぞかせる。
ツボミが出来ると葉の間から茎を伸ばし、
また葉が下に垂れ下がる。
こちらはまだつぼみのできていない株。
25日に花びらが伸び出す。
もうしばらくで咲くだろうと思っていたら、
本日26日にいきなり開花。
夜のうちに急成長したのか?
でも花が小っさ!
それに茎が真っ直ぐに立っていないから、
2つ咲いたのに一緒に花の姿を撮れない。
マリーゴールドもとても小さな花しか咲かなかったのは7月10日に書いた。百日草と矢車草は花が小さい以前に株が細くてヒョロヒョロ。何が悪いのだろう? 土はチューリップを育てていたときの使い回したけれど、「古い土の再生材(中身は腐葉土)」と油かすを入れてリフレッシュさせたつもり。肥料も入れたし、何度か水やりの際に液体肥料も混ぜている。ベランダは東向きで直射日光が指すのは午前中だけ。それが花には厳しいのかな。でもチューリップはきれいに咲くから、トータルの日射量がそれほど低いとも思えない。
こちらは2012年にバイクツーリングで山中湖にある花の都公園で見た百日草。
これのミニチュア版をベランダに実現しようと企んでいたのに。
まあ咲いただけヨシと前向きに考えましょう。
プランターの下の方でクニャクニャしているのは矢車草。
6月下旬より成長の気配なく、もう諦めている。
かいわれ大根を植えた覚えはないのだが(^^ゞ
これは6月下旬に種を「追いまき」した百日草。
種まき時期はとっくに過ぎていて、
育ったらラッキー程度のつもりだったが、やはり無理だったみたい。
一方でミニヒマワリは何となく生命感が強そうで期待している。
来週くらいに咲くんじゃないかな。
2024年07月25日
名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問 その2
古事記と日本書紀の次に調べたのは、
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!
これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー
まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。
ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。
それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。
仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)
次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。
その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。
のつもりだったのにーーー、
源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)
そんなわけで藤典侍も見つけられず。
ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)
御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
わが心ながら執念きぞかし。
その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m
それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!
さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。
平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。
しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
ここまでを作成年順に並べると
1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない
1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない
慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。
慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。
これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。
いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。
古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。
もう一度、最初の疑問に立ち返ると
天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。
そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。
古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら
ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、
その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。
平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
あるなしを使い分けていたと判明する。
まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。
ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。
歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。
おしまい
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!
これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー
まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。
ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。
それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。
仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)
次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。
その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。
のつもりだったのにーーー、
源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)
そんなわけで藤典侍も見つけられず。
ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)
御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
わが心ながら執念きぞかし。
その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m
それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!
さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。
平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。
しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
ここまでを作成年順に並べると
1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない
1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない
慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。
慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。
これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。
いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。
古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。
もう一度、最初の疑問に立ち返ると
天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。
そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。
古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら
ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、
その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。
平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
あるなしを使い分けていたと判明する。
まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。
ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。
歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。
おしまい
2024年07月22日
名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問
豊臣秀吉の呼び名はなぜ「の」が付かず、逆に千利休には「の」が付くのかについて先日3回にわたってブログを書いた。その時にいろいろと調べたわけであるが、すると「の」に関してもっと根源的な疑問がフツフツと。
豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
最初のブログから引用すると、
======
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======
そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ
さてである。
「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。
とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。
そして冒頭に書いた根源的な疑問とは
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> それってエビデンスあるの? <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。
さらにいえば
【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
そう読んでいたのではなく、
名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、
それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
設けた
ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。
少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。
ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。
ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。
ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。
それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。
そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。
さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。
教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。
そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。
これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用
ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ。
古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)
また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します
同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。
これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。
いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。
それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。
とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。
さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。
実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の
茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる
を万葉仮名で書くと
茜草指 武良前野逝 標野行
野守者不見哉 君之袖布流
恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。
万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。
万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。
残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。
ーーー続く
豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
最初のブログから引用すると、
======
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======
そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ
さてである。
「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。
とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。
そして冒頭に書いた根源的な疑問とは
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> それってエビデンスあるの? <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。
さらにいえば
【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
そう読んでいたのではなく、
名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、
それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
設けた
ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。
少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。
ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。
ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。
ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。
それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。
そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。
さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。
教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。
そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。
これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用
ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ。
古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)
また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します
同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。
これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。
いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。
それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。
とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。
さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。
実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の
茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる
を万葉仮名で書くと
茜草指 武良前野逝 標野行
野守者不見哉 君之袖布流
恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。
万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。
万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。
残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。
ーーー続く
2024年07月19日
中国のIHコンロは中華鍋の形をしている
前回のリバースATMに続いて「ところ変われば品変わる」の第二弾。
それを知ったのはドキュメント72時間というNHK番組。番組画像は2枚とも公式ホームページより引用編集
内容をかいつまむと、
中国の病院では病院食がないか、高いか、充実していないか理由は
忘れたけれど、入院患者の食事は家族が用意するのが基本。
それで病院の近くに貸し台所を提供している場所があり、
そこでご飯を作って病室まで運ぶ。
番組はそこの利用者の様々な人間模様の紹介なのだが、
今回のテーマとは関係ないので(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
上の写真で人がたくさんいるのがその貸し台所。
これは頭上から撮った画像。
写真上側が食材を切ったりするまな板コーナーで、
その反対側にたくさんのコンロが並ぶ。
中国なので皆さんは中華鍋っぽい形のもので調理をしている。
この写真ではわからないが使われているのはIHコンロ。
そしてビックリしたのは、
中国のIHコンロは中華鍋の形に合わせてある!
との新発見。
番組の動画や画像ではコンロが写っている場面が見当たらなかったので、「中華鍋 IHコンロ」を中国語の「炒锅 电磁炉」にして中国語サイトを検索してみた。
家庭用と業務用。
日本の中華料理店でIHコンロを使っているところもあるのかな?
こんな大きいのもある。
ご存じのように日本のIHコンロはフラットな構造。
底の丸い中華鍋は使えないね。
中華鍋の形をしたIHコンロは、
まさにところ変われば品変わるの典型例。
コンロのような身近なもので、そんな発見があるなんて思ってもみなかった。
世界は狭くなったようでまだまだ広い。
参考までに中国のIHコンロがすべて中華鍋の形をしているのではない。
そりゃ中国だって底の平たい鍋やヤカンも使うわけで。
これなんかは中華鍋型とフラットの両方を組み合わせている。
中華鍋型は「凹面电磁炉」と呼ぶみたいだ。
IHコンロはガスコンロより熱量が大きいので、元々中華料理には向いている。オール電化の家に住んでいて、でも中華鍋を振りたい人は輸入してみたら。
それを知ったのはドキュメント72時間というNHK番組。番組画像は2枚とも公式ホームページより引用編集
内容をかいつまむと、
中国の病院では病院食がないか、高いか、充実していないか理由は
忘れたけれど、入院患者の食事は家族が用意するのが基本。
それで病院の近くに貸し台所を提供している場所があり、
そこでご飯を作って病室まで運ぶ。
番組はそこの利用者の様々な人間模様の紹介なのだが、
今回のテーマとは関係ないので(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
上の写真で人がたくさんいるのがその貸し台所。
これは頭上から撮った画像。
写真上側が食材を切ったりするまな板コーナーで、
その反対側にたくさんのコンロが並ぶ。
中国なので皆さんは中華鍋っぽい形のもので調理をしている。
この写真ではわからないが使われているのはIHコンロ。
そしてビックリしたのは、
中国のIHコンロは中華鍋の形に合わせてある!
との新発見。
番組の動画や画像ではコンロが写っている場面が見当たらなかったので、「中華鍋 IHコンロ」を中国語の「炒锅 电磁炉」にして中国語サイトを検索してみた。
家庭用と業務用。
日本の中華料理店でIHコンロを使っているところもあるのかな?
こんな大きいのもある。
ご存じのように日本のIHコンロはフラットな構造。
底の丸い中華鍋は使えないね。
中華鍋の形をしたIHコンロは、
まさにところ変われば品変わるの典型例。
コンロのような身近なもので、そんな発見があるなんて思ってもみなかった。
世界は狭くなったようでまだまだ広い。
参考までに中国のIHコンロがすべて中華鍋の形をしているのではない。
そりゃ中国だって底の平たい鍋やヤカンも使うわけで。
これなんかは中華鍋型とフラットの両方を組み合わせている。
中華鍋型は「凹面电磁炉」と呼ぶみたいだ。
IHコンロはガスコンロより熱量が大きいので、元々中華料理には向いている。オール電化の家に住んでいて、でも中華鍋を振りたい人は輸入してみたら。
2024年07月18日
リバースATM
7月3日に新しいお札が発行されたのは記憶に新しいところ。
渋沢栄一がちょっとブ男(^^ゞ そのうち見慣れるでしょう。
発行日の前後にはマスコミの報道も加熱。そして渋沢栄一の出身地である埼玉県深谷市では3日0時前のカウントダウンや祝賀パレードなどお祭り騒ぎ。ただし五千円札の津田梅子の出身地の東京新宿、千円札の北里柴三郎の熊本県阿蘇で何かやったとの話は聞かなかったな。先日の選挙で「2位じゃダメなんですか」の人が3位になっていたけれど、やはり1位じゃないと盛り上がらないのか。ちなみにスパコンで「2位じゃダメなんですか」の考え方を私は否定しない。世界一の戦艦大和は結局、何の役にも立たなかった。
それはさておき、なぜかメデタイこととなっている新紙幣発行であるが、「大量に流通するお札としては、今回が最後になるのではないか」とも言われている。それはもちろんキャッシュレス社会の進行。
経産省によると2023年のキャッシュレス決済比率は39.3%で、これはこれは10年前の2.5倍。政府が目標に掲げている「2025年までに40%」は前倒しで達成しそうである。画像は同省2024年3月29日のニュースリリースより
(なおこの数字には家賃の支払い、公共料金の引き落としなどの銀行口座送金・決済は含んでいない。含んだ数字での比率は経産省発表で54%、他のシンクタンクでは70%となぜか大きな開きがある)
ただし目標達成でも、諸外国と比較すると日本はキャッシュレス後進国。
もっともキャッシュレス社会がバラ色の未来かどうかは疑問もある。
こちらは2021年のデータで出典は国連の機関である世界銀行。韓国、中国、カナダのグラフの色が違うのは統計の取り方が違うらしく参考値だから。グラフは一般社団法人キャッシュレス推進協議会のロードマップ 2023から引用編集
中国ではアリペイ(支付宝)やWeChat(微信)ペイなど、PayPayのようなスマホ決済が急速に拡大した話を以前はよく聞いた。今は当たり前になってニュースにならないほど。いろんな祝儀や春節のお年玉もそれで渡す、町中で現金を使える店がなくなり外国人旅行者が困る(ホテルや高級レストランなどを除いてVISAやMasterなど外国製クレジットカードは使えない)状況のようだ。
でも韓国はその中国以上にキャッシュレス社会とはまったく知らず、
見聞の狭さを反省(/o\)
アメリカはクレジットカードの普及していない時代から小切手を使うなど、キャッシュレス先進国のイメージがあったものの、現在の比率を見ると主要国の中では平均的レベル。そのアメリカでもさらなるキャッシュレス化は進んでおり、その中で日本とは違う「ところ変われば品変わる」的なお話が本日のメイン。
さてATMといえば現金自動預け払い機。英語フルネームは automatic teller machine で teller とは銀行の窓口。お金を引き出す、預け入れるなど現金を扱う機械のイメージ。振り込みもできるがネットバンキングの時代になって使わなくなったなあ。
ところが現金を扱う店が少なくなりつつあるアメリカではATMに現金を入れ、デビットカードに替えられるリバースATMなるものが登場している。
リバース reverse とは反対、裏返し、逆転などの意味。クルマで後ろ向きに走るのをバックすると言うけれど、バックギアは和製英語でシフトレバーにはリバースギア=R の表示があるはず。ついでにバックミラーも和製英語で正しくはリバースミラー。ある年齢以上ならカセットテープを裏返しにしなくても再生できるリバースデッキやオートリバースなんて言葉に聞き覚えがあるはず。
話をリバースATMに戻すと、それを知ったのは6月21日付の経済誌ダイヤモンド(元ネタはウォールストリート・ジャーナルからの転載)。記事は野球場の売店で現金が使えなかったため、仕方なく店員に教えられたリバースATMに200ドルを投入したら、3.5ドルの手数料を取られて196.5ドルがチャージされたデビットカードが出てきたとの体験談から始まる。計算すると手数料率は1.75%になる。(別の事例で20ドルで0.5ドル引かれたとあり、それだと手数料率は2.5%)
日本でデビットカードは銀行口座から直接引き落とす仕組みだけど、この記事のデビットカードは日本でいうプリペイドカードみたいなものか。デビット debit にはいろいろな意味があって、デビットカードの場合は「引き落とし」。
プリペイドカードも日本なら手数料なんて取られないのにと思ったら、
驚くなかれアメリカでは現金が不利な扱いで、
現金を受け取るお店では1〜6ドルの割増料金になる。
以前は現金だと割引してもらえたのに。(クレジットカードなどだと
カード会社から支払われるときにお店が手数料を取られるから)
税金や電話料金を現金で払うと、政府機関や民間企業は現金決済業務を
外部に委託しているのでそこが手数料を取る。
らしい。
現金の受け入れを企業に義務付ける連邦法はなく、州によっては現金受け取り拒否を禁じる措置をとっているようだ。また中国でも4月に政府が主要観光地に現金での支払いを受け付けるよう通知を出している。キャッスレス化=脱現金化を官民一体で進めている日本とは正反対の動きで、まさにところ変われば政策もリバースするである。
ところで今までのお札発行年次は
福沢諭吉・樋口一葉・野口英世:2004年(平成16年)
福沢諭吉・新渡戸稲造・夏目漱石1984年(昭和59年)
聖徳太子・聖徳太子・伊藤博文1958年(昭和33年)〜1963年(昭和38年)
期間を計算すると
2024 − 2004 = 20年間
2004 − 1984 = 20年間
1984 − 1958 = 26年間
と、この2回は20年間ペースで更新されている。さて2044年にはもう現金を使わない時代になっているのか、お札はどんな扱いになるのかな。
なおリバースATMをGoogleで検索すると、今のところ昨年4月に書かれたマネックスグループ会長である松本大氏のコラムがヒットする以外は、リバースモーゲージ(死亡時に担保の自宅を売却して清算する融資)関連しか出てこない。
だからこれはまだほとんどの人が知らない「ところ変われば」の話題のはず。「ショウヘイを応援しにアメリカの球場に行ったらさーーー」と知ったかぶりしてみて(^^ゞ
参考までに松本氏はリバースATMから出てくるのは、
デビットカードではなくプリペイドカードだと書いている。
渋沢栄一がちょっとブ男(^^ゞ そのうち見慣れるでしょう。
発行日の前後にはマスコミの報道も加熱。そして渋沢栄一の出身地である埼玉県深谷市では3日0時前のカウントダウンや祝賀パレードなどお祭り騒ぎ。ただし五千円札の津田梅子の出身地の東京新宿、千円札の北里柴三郎の熊本県阿蘇で何かやったとの話は聞かなかったな。先日の選挙で「2位じゃダメなんですか」の人が3位になっていたけれど、やはり1位じゃないと盛り上がらないのか。ちなみにスパコンで「2位じゃダメなんですか」の考え方を私は否定しない。世界一の戦艦大和は結局、何の役にも立たなかった。
それはさておき、なぜかメデタイこととなっている新紙幣発行であるが、「大量に流通するお札としては、今回が最後になるのではないか」とも言われている。それはもちろんキャッシュレス社会の進行。
経産省によると2023年のキャッシュレス決済比率は39.3%で、これはこれは10年前の2.5倍。政府が目標に掲げている「2025年までに40%」は前倒しで達成しそうである。画像は同省2024年3月29日のニュースリリースより
(なおこの数字には家賃の支払い、公共料金の引き落としなどの銀行口座送金・決済は含んでいない。含んだ数字での比率は経産省発表で54%、他のシンクタンクでは70%となぜか大きな開きがある)
ただし目標達成でも、諸外国と比較すると日本はキャッシュレス後進国。
もっともキャッシュレス社会がバラ色の未来かどうかは疑問もある。
こちらは2021年のデータで出典は国連の機関である世界銀行。韓国、中国、カナダのグラフの色が違うのは統計の取り方が違うらしく参考値だから。グラフは一般社団法人キャッシュレス推進協議会のロードマップ 2023から引用編集
中国ではアリペイ(支付宝)やWeChat(微信)ペイなど、PayPayのようなスマホ決済が急速に拡大した話を以前はよく聞いた。今は当たり前になってニュースにならないほど。いろんな祝儀や春節のお年玉もそれで渡す、町中で現金を使える店がなくなり外国人旅行者が困る(ホテルや高級レストランなどを除いてVISAやMasterなど外国製クレジットカードは使えない)状況のようだ。
でも韓国はその中国以上にキャッシュレス社会とはまったく知らず、
見聞の狭さを反省(/o\)
アメリカはクレジットカードの普及していない時代から小切手を使うなど、キャッシュレス先進国のイメージがあったものの、現在の比率を見ると主要国の中では平均的レベル。そのアメリカでもさらなるキャッシュレス化は進んでおり、その中で日本とは違う「ところ変われば品変わる」的なお話が本日のメイン。
さてATMといえば現金自動預け払い機。英語フルネームは automatic teller machine で teller とは銀行の窓口。お金を引き出す、預け入れるなど現金を扱う機械のイメージ。振り込みもできるがネットバンキングの時代になって使わなくなったなあ。
ところが現金を扱う店が少なくなりつつあるアメリカではATMに現金を入れ、デビットカードに替えられるリバースATMなるものが登場している。
リバース reverse とは反対、裏返し、逆転などの意味。クルマで後ろ向きに走るのをバックすると言うけれど、バックギアは和製英語でシフトレバーにはリバースギア=R の表示があるはず。ついでにバックミラーも和製英語で正しくはリバースミラー。ある年齢以上ならカセットテープを裏返しにしなくても再生できるリバースデッキやオートリバースなんて言葉に聞き覚えがあるはず。
話をリバースATMに戻すと、それを知ったのは6月21日付の経済誌ダイヤモンド(元ネタはウォールストリート・ジャーナルからの転載)。記事は野球場の売店で現金が使えなかったため、仕方なく店員に教えられたリバースATMに200ドルを投入したら、3.5ドルの手数料を取られて196.5ドルがチャージされたデビットカードが出てきたとの体験談から始まる。計算すると手数料率は1.75%になる。(別の事例で20ドルで0.5ドル引かれたとあり、それだと手数料率は2.5%)
日本でデビットカードは銀行口座から直接引き落とす仕組みだけど、この記事のデビットカードは日本でいうプリペイドカードみたいなものか。デビット debit にはいろいろな意味があって、デビットカードの場合は「引き落とし」。
プリペイドカードも日本なら手数料なんて取られないのにと思ったら、
驚くなかれアメリカでは現金が不利な扱いで、
現金を受け取るお店では1〜6ドルの割増料金になる。
以前は現金だと割引してもらえたのに。(クレジットカードなどだと
カード会社から支払われるときにお店が手数料を取られるから)
税金や電話料金を現金で払うと、政府機関や民間企業は現金決済業務を
外部に委託しているのでそこが手数料を取る。
らしい。
現金の受け入れを企業に義務付ける連邦法はなく、州によっては現金受け取り拒否を禁じる措置をとっているようだ。また中国でも4月に政府が主要観光地に現金での支払いを受け付けるよう通知を出している。キャッスレス化=脱現金化を官民一体で進めている日本とは正反対の動きで、まさにところ変われば政策もリバースするである。
ところで今までのお札発行年次は
福沢諭吉・樋口一葉・野口英世:2004年(平成16年)
福沢諭吉・新渡戸稲造・夏目漱石1984年(昭和59年)
聖徳太子・聖徳太子・伊藤博文1958年(昭和33年)〜1963年(昭和38年)
期間を計算すると
2024 − 2004 = 20年間
2004 − 1984 = 20年間
1984 − 1958 = 26年間
と、この2回は20年間ペースで更新されている。さて2044年にはもう現金を使わない時代になっているのか、お札はどんな扱いになるのかな。
なおリバースATMをGoogleで検索すると、今のところ昨年4月に書かれたマネックスグループ会長である松本大氏のコラムがヒットする以外は、リバースモーゲージ(死亡時に担保の自宅を売却して清算する融資)関連しか出てこない。
だからこれはまだほとんどの人が知らない「ところ変われば」の話題のはず。「ショウヘイを応援しにアメリカの球場に行ったらさーーー」と知ったかぶりしてみて(^^ゞ
参考までに松本氏はリバースATMから出てくるのは、
デビットカードではなくプリペイドカードだと書いている。
2024年07月15日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
豊臣秀吉がなぜ「豊臣の秀吉」と「の」を付けて呼ばれないかの推察を2回にわたって書いてきた。逆にどうして「の」を付けて呼ばれるのか不思議な人物が、秀吉と関係が深かった千利休。
彼の略歴と名前を並べると
1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。
子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)
ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは
茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
茶道:それが礼儀作法として形式化したもの
が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ
19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。
また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。
肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。
30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。
1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。
1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。
徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。
1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。
なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ
1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。
改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。
それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。
また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。
利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。
そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。
例えば源頼朝のフルネームは
源 の 朝臣 頼朝
で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。
そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。
前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?
まったくワケワカメ(>_<)
こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。
ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。
だったらーーー
秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ
いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。
彼の略歴と名前を並べると
1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。
子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)
ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは
茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
茶道:それが礼儀作法として形式化したもの
が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ
19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。
また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。
肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。
30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。
1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。
1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。
徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。
1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。
なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ
1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。
改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。
それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。
また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。
利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。
そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。
例えば源頼朝のフルネームは
源 の 朝臣 頼朝
で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。
そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。
前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?
まったくワケワカメ(>_<)
こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。
ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。
だったらーーー
秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ
いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。
2024年07月14日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
ミョウジ(苗字または名字)が名前の主流となってもウジ(氏)が無くなったわけではない。朝廷内や公的な業務では引き続きウジ(氏)が用いられる。そしてウジ(氏)の名前があるのは上級国民の証し。それがなければ朝廷内では名無しの権兵衛に等しく相手にされない。そこで戦国時代の下克上で成り上がった、すなわち出身が上級国民でない武将たちは家系図を捏造するなどして何とかウジ(氏)を手に入れている。(一度与えられたウジ(氏)は世襲され、つまり天皇の再承認なしに引き継がれるから、先祖をでっち上げるわけ)
信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。
源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)
家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。
その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。
そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。
しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。
前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。
もうひとつの推察は
豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。
秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。
何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。
そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】
もちろん
これも知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。
源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)
家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。
その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。
そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。
しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。
前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。
もうひとつの推察は
豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。
秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。
何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。
そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】
もちろん
これも知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
2024年07月13日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
先日に書いた「ああ勘違い」4部作。最も長く勘違いしていたケースで、その期間は半世紀にも及ぶからやるせない(>_<) とりあえず現在までに4つ判明しているとはいえ、他にもあるんだろうなといろいろ思いを巡らせていたら、勘違いとは別に、高校生の時に疑問が浮かんで、そのままになっている事柄をふと思い出した。それがまずは豊臣秀吉の「の」。
日本史の教科書を読むと
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。
織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、
日吉丸(幼名)
木下藤吉郎
木下藤吉郎秀吉
羽柴秀吉
豊臣秀吉
このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。
単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。
さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は
豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
菅原道真や在原業平などもこの部類。
※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する
臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。
トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。
それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。
そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。
そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。
その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。
また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。
まっ、
知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
日本史の教科書を読むと
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。
織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、
日吉丸(幼名)
木下藤吉郎
木下藤吉郎秀吉
羽柴秀吉
豊臣秀吉
このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。
単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。
さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は
豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
菅原道真や在原業平などもこの部類。
※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する
臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。
トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。
それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。
そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。
そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。
その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。
また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。
まっ、
知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
2024年07月10日
マイクロ・マリーゴールドだった(>_<)
6月24日にマリーゴルドが初開花して、でも見慣れたマリーゴールドとはまったく違う、ずいぶんと小さな花だとブログに書いた。これはそのときの写真。
そのうち花が大きくなるのかと期待していたのだがーーー
こちらは7月9日の撮影。
オレンジだけではなく黄色も開花した。
しかし最初に開花したマリーゴールドはこんな状態。
つまり6月24日から大きくならずに終了しようとしている。
これを見ればわかるように、それでも開花直後よりは大きくなっているのだ。
要するにこれは、
直径2センチほどの花にしかならないマイクロなマリーゴールド(/o\)
パッケージの写真に偽りあり。
最初に開花した株は2番目の花(上側)を咲かせたけれど、
一番花と同じ姿で、どう見ても花が大きくなりそうにない。
かなり期待外れでガッカリな気分。
百日草と矢車草も6月25日に書いた状態から基本的に変わらずで、
百日草:大きくはなってきているもののヒョロヒョロで、
支柱なしでは自立しない。
矢車草:百日草よりさらに柔らかく地面に這いつくばっている。
中央に茎がある構造ではないので支柱で支えるのも困難。
7月9日でこんな状態。
矢車草に関してはもう諦めている。
現在の株の大きさを見て当初の20センチ間隔でなくても大丈夫かと、6月27日にプランターの空いているスペースに種を「追いまき」したが矢車草は除外した。常識的にはどの品種も既に種をまくには遅すぎるタイミングとはいえ、昔と違って夏も長いのだから試しにとの判断。先に延びている株の日陰になって育たなければ、それはそれでよしと思っている。
なお長いほうの支柱は2020年にグラジオラスを育てたときに、適当な支柱が売っていなくて、100円ショップの菜箸をガムテープでつなぎ合わせた手作り品の再利用。捨てずにベランダに転がしておいてよかった。
ところで7月7日に、
丸いプランターに植えてあるミニヒマワリが臨終しかかっているのを発見(>_<)
水やりを忘れたのかな?
これだけ忘れるのは考えにくいが。
しかし、ダメモトでたっぷりと水をあげると、
翌日に奇跡の復活!!!
今のところ、夏のベランダガーデニングでいい話はこれくらいーーー
そのうち花が大きくなるのかと期待していたのだがーーー
こちらは7月9日の撮影。
オレンジだけではなく黄色も開花した。
しかし最初に開花したマリーゴールドはこんな状態。
つまり6月24日から大きくならずに終了しようとしている。
これを見ればわかるように、それでも開花直後よりは大きくなっているのだ。
要するにこれは、
直径2センチほどの花にしかならないマイクロなマリーゴールド(/o\)
パッケージの写真に偽りあり。
最初に開花した株は2番目の花(上側)を咲かせたけれど、
一番花と同じ姿で、どう見ても花が大きくなりそうにない。
かなり期待外れでガッカリな気分。
百日草と矢車草も6月25日に書いた状態から基本的に変わらずで、
百日草:大きくはなってきているもののヒョロヒョロで、
支柱なしでは自立しない。
矢車草:百日草よりさらに柔らかく地面に這いつくばっている。
中央に茎がある構造ではないので支柱で支えるのも困難。
7月9日でこんな状態。
矢車草に関してはもう諦めている。
現在の株の大きさを見て当初の20センチ間隔でなくても大丈夫かと、6月27日にプランターの空いているスペースに種を「追いまき」したが矢車草は除外した。常識的にはどの品種も既に種をまくには遅すぎるタイミングとはいえ、昔と違って夏も長いのだから試しにとの判断。先に延びている株の日陰になって育たなければ、それはそれでよしと思っている。
なお長いほうの支柱は2020年にグラジオラスを育てたときに、適当な支柱が売っていなくて、100円ショップの菜箸をガムテープでつなぎ合わせた手作り品の再利用。捨てずにベランダに転がしておいてよかった。
ところで7月7日に、
丸いプランターに植えてあるミニヒマワリが臨終しかかっているのを発見(>_<)
水やりを忘れたのかな?
これだけ忘れるのは考えにくいが。
しかし、ダメモトでたっぷりと水をあげると、
翌日に奇跡の復活!!!
今のところ、夏のベランダガーデニングでいい話はこれくらいーーー
2024年07月08日
祇園精舎の不覚 その3
鳥羽伏見の戦い、伊賀と甲賀に続いて恥を忍んで告白する「ああ勘違い」パート3は皇居の二重橋。これは2015年に発覚。
皇居を訪れた経験がなくても、誰もが写真や映像でならば一度は見たことのある皇居のアイコンともいえるこの橋。これを二重橋だとずっと思っていたのに、そうじゃなかったとの話。
上の橋の奥にあるこちらが二重橋。
どうしてこれが二重橋の名前なのかは「皇居見物 そして、ああ勘違い」に書いたからそちらを読んで欲しい。https://wassho.livedoor.blog/archives/53113149.html
ただし多くの人が最初の橋を二重橋と思っているようで、ネットで検索すれば同じような事例がたくさん出てくる。何となくトラウマになっている鳥羽伏見の戦い、伊賀と甲賀とは違って、これに気付いたときは「エーっ!違うの、何で〜?」とズッこけた感じだったかな。戦時中なら非国民扱いされたかも知れないが(^^ゞ
さて前置き3つが終わって、
いよいよ本題のパート4。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
ご存じ平家物語の書き出し部分。「春は、あけぼの」の枕草子、「いづれの御時にか」の源氏物語と3点セットで冒頭だけは何となく記憶にある人も多いと思う。(ふりがな付きはここをクリック)
問題はこの「祇園精舎」。
その後に「鐘の声」と続くので、これはてっきり京都の祇園あたりにある寺だとばかり思っていた。さにあらず、この祇園精舎とは釈迦が説法を行ったインドの寺院だった(/o\)
場所はここ!
今でも遺跡として残っている。
サクスクリット語(インドの古典語:梵語ぼんご)で Jetavane 'nāthapiṇḍadasya ārāma と書きジェータヴァナ・アナータピンダダスヤ・アーラーマと長い名前。その漢訳が称祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)、それを略して祇園精舎。略した祇園精舎のサンスクリット語は Jetavana-vihara でジェータヴァナ・ヴィハーラ。
それにしてもまさか祇園精舎がインドにあったとは。平家物語→平家が権勢を誇ったところは→京都→祇園にある寺だとばかり思っていた。今の祇園は歓楽街でも平安時代は静かなところだったのだろうと思い、「祇園精舎の鐘の声」の一節に触れるたび、その平安時代の祇園に鳴り響くゴ〜ンという鐘の音をイメージしてきたのに。
その最初はもちろん平家物語を初めて読んだ高校の古文での授業。そして祇園精舎がインドにあると知ったのは半月ほど前。そうなると勘違いしていたのはアラウンド半世紀もの期間になる。何たる不覚(>_<)
古文の先生は祇園精舎がインドの寺としっかり教えてくれたかなあ。もし教えてくれていたとしても「カロカツクイイケレマル」に気をとられて聞き逃していたのかも。
ところで祇園精舎はインドにあるけれど、
実は京都の祇園はこの祇園精舎がその名前のルーツ。
祇園の近くにあるのが八坂神社。ここは明治になるまで「祇園神社」や「祇園社」と呼ばれていた。八坂神社の歴史はややこしいものの、超簡潔にはインドにある祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀ることから始まったから。神社なのに仏教の守護神を祀るとは?だが、中世の頃の神道と仏教はクロスオーバー(神仏習合)している存在だった。後に牛頭天王は素戔嗚尊(=須佐之男命=スサノウ ノ ミコト=天照大神の弟)とされている。
祇園神社は大きな神社なので周辺の鴨川一帯に広大な社領を持っていた。そこが祇園と呼ばれ神社の名前が八坂神社に変わった後も地名として残る。今は舞妓さんや花街のイメージが強くても元は祇園神社の門前町。
参考までに現在の祇園はこのあたり。
ところで祇園精舎の鐘の声〜で始まるのが平家物語。しかし実際のインドの祇園精舎に鐘は存在しない。鐘は中国が起源で日本に伝わった。インドの寺に鐘を打つ文化などないのだ。
平家物語は作者も書かれた時期も不明であるが、1309年(鎌倉時代末期)までには成立していたとされる。その頃の作者が古代インドの状況を知るはずもなく、精舎=寺だから鐘を打つと考えたのだろう。鐘がなければ当然ながら、それに続く「諸行無常の響き」もあり得ない。たぶんあの世で「やってもうた!」と反省しているはず(^^ゞ
それでも日本において祇園精舎といえば「祇園精舎の鐘の声」である。それで何と日本国祇園精舎の鐘の会なる団体が(ネットで調べたが正体はわからず)が1981年にインドの祇園精舎に鐘を寄贈している。ないのなら作ってしまえホトトギス?
それがこの鐘。
釈迦はナンジャこれ?とビックリしているはず。 画像はhttps://kaz4649.com/2017/05/02/bihar-up-220/から引用
さてさて、
ならばである。
祇園精舎とは京都の祇園にある寺だと思っていた。
果たしてそれは不覚の至りなのか?
インドの祇園精舎に鐘はない。
それなのに「諸行無常の響き」とまで書いている。
それを考えると、
これは祇園「しょうじゃ」ではなく祇園「じんじゃ」の書き間違いに違いない!
オリジナルの平家物語は琵琶法師による語りで伝えられた。
それを文字に書き起こす際に聞き間違えた可能性も高い。
つまり祇園精舎とは八坂神社。
八坂神社は平安時代以前からあるし、
神仏習合の時代なら神社に鐘があってもおかしくない。
そこでゴ〜ンと鳴った鐘を平家物語の作者は聞いたのだ。
だから祇園精舎を「京都の祇園あたりにある寺」と思っていた私のイメージは、寺と神社の違いを除けば間違っていなかったのである!!!
古典にも負けず嫌いで挑む元気がないとね(^^ゞ
おしまい
皇居を訪れた経験がなくても、誰もが写真や映像でならば一度は見たことのある皇居のアイコンともいえるこの橋。これを二重橋だとずっと思っていたのに、そうじゃなかったとの話。
上の橋の奥にあるこちらが二重橋。
どうしてこれが二重橋の名前なのかは「皇居見物 そして、ああ勘違い」に書いたからそちらを読んで欲しい。https://wassho.livedoor.blog/archives/53113149.html
ただし多くの人が最初の橋を二重橋と思っているようで、ネットで検索すれば同じような事例がたくさん出てくる。何となくトラウマになっている鳥羽伏見の戦い、伊賀と甲賀とは違って、これに気付いたときは「エーっ!違うの、何で〜?」とズッこけた感じだったかな。戦時中なら非国民扱いされたかも知れないが(^^ゞ
さて前置き3つが終わって、
いよいよ本題のパート4。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
ご存じ平家物語の書き出し部分。「春は、あけぼの」の枕草子、「いづれの御時にか」の源氏物語と3点セットで冒頭だけは何となく記憶にある人も多いと思う。(ふりがな付きはここをクリック)
問題はこの「祇園精舎」。
その後に「鐘の声」と続くので、これはてっきり京都の祇園あたりにある寺だとばかり思っていた。さにあらず、この祇園精舎とは釈迦が説法を行ったインドの寺院だった(/o\)
場所はここ!
今でも遺跡として残っている。
サクスクリット語(インドの古典語:梵語ぼんご)で Jetavane 'nāthapiṇḍadasya ārāma と書きジェータヴァナ・アナータピンダダスヤ・アーラーマと長い名前。その漢訳が称祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)、それを略して祇園精舎。略した祇園精舎のサンスクリット語は Jetavana-vihara でジェータヴァナ・ヴィハーラ。
それにしてもまさか祇園精舎がインドにあったとは。平家物語→平家が権勢を誇ったところは→京都→祇園にある寺だとばかり思っていた。今の祇園は歓楽街でも平安時代は静かなところだったのだろうと思い、「祇園精舎の鐘の声」の一節に触れるたび、その平安時代の祇園に鳴り響くゴ〜ンという鐘の音をイメージしてきたのに。
その最初はもちろん平家物語を初めて読んだ高校の古文での授業。そして祇園精舎がインドにあると知ったのは半月ほど前。そうなると勘違いしていたのはアラウンド半世紀もの期間になる。何たる不覚(>_<)
古文の先生は祇園精舎がインドの寺としっかり教えてくれたかなあ。もし教えてくれていたとしても「カロカツクイイケレマル」に気をとられて聞き逃していたのかも。
ところで祇園精舎はインドにあるけれど、
実は京都の祇園はこの祇園精舎がその名前のルーツ。
祇園の近くにあるのが八坂神社。ここは明治になるまで「祇園神社」や「祇園社」と呼ばれていた。八坂神社の歴史はややこしいものの、超簡潔にはインドにある祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀ることから始まったから。神社なのに仏教の守護神を祀るとは?だが、中世の頃の神道と仏教はクロスオーバー(神仏習合)している存在だった。後に牛頭天王は素戔嗚尊(=須佐之男命=スサノウ ノ ミコト=天照大神の弟)とされている。
祇園神社は大きな神社なので周辺の鴨川一帯に広大な社領を持っていた。そこが祇園と呼ばれ神社の名前が八坂神社に変わった後も地名として残る。今は舞妓さんや花街のイメージが強くても元は祇園神社の門前町。
参考までに現在の祇園はこのあたり。
ところで祇園精舎の鐘の声〜で始まるのが平家物語。しかし実際のインドの祇園精舎に鐘は存在しない。鐘は中国が起源で日本に伝わった。インドの寺に鐘を打つ文化などないのだ。
平家物語は作者も書かれた時期も不明であるが、1309年(鎌倉時代末期)までには成立していたとされる。その頃の作者が古代インドの状況を知るはずもなく、精舎=寺だから鐘を打つと考えたのだろう。鐘がなければ当然ながら、それに続く「諸行無常の響き」もあり得ない。たぶんあの世で「やってもうた!」と反省しているはず(^^ゞ
それでも日本において祇園精舎といえば「祇園精舎の鐘の声」である。それで何と日本国祇園精舎の鐘の会なる団体が(ネットで調べたが正体はわからず)が1981年にインドの祇園精舎に鐘を寄贈している。ないのなら作ってしまえホトトギス?
それがこの鐘。
釈迦はナンジャこれ?とビックリしているはず。 画像はhttps://kaz4649.com/2017/05/02/bihar-up-220/から引用
さてさて、
ならばである。
祇園精舎とは京都の祇園にある寺だと思っていた。
果たしてそれは不覚の至りなのか?
インドの祇園精舎に鐘はない。
それなのに「諸行無常の響き」とまで書いている。
それを考えると、
これは祇園「しょうじゃ」ではなく祇園「じんじゃ」の書き間違いに違いない!
オリジナルの平家物語は琵琶法師による語りで伝えられた。
それを文字に書き起こす際に聞き間違えた可能性も高い。
つまり祇園精舎とは八坂神社。
八坂神社は平安時代以前からあるし、
神仏習合の時代なら神社に鐘があってもおかしくない。
そこでゴ〜ンと鳴った鐘を平家物語の作者は聞いたのだ。
だから祇園精舎を「京都の祇園あたりにある寺」と思っていた私のイメージは、寺と神社の違いを除けば間違っていなかったのである!!!
古典にも負けず嫌いで挑む元気がないとね(^^ゞ
おしまい
2024年07月05日
祇園精舎の不覚 その2 (伊賀と甲賀編)
前回に書いた、鳥羽が伊勢ではなく京都の地名だと知ったのがいつかはよく覚えていない。しかし少なくとも35歳は超えていて、つまり日本史を習い始めてからずっと伊勢の地名だと勘違いしていてショックが大きかった。足元の階段=歴史認識が崩れ落ちて、真っ逆さまに転落するイメージ。ちょっと大げさ(^^ゞ
さて次はブログにも記録が残る2006年に発覚した勘違いパート2。
それは伊賀と甲賀。どちらも忍者で有名。忍者に伊賀忍者と甲賀忍者がいるのはたぶん漫画で読んで何となく子供の頃から知っていた。でもそれがどうやら地名であると理解はしていても、どこにあるのかまでは気にしていなかった。
伊賀が三重県にあると知ったのは大学生の時。大阪から伊勢へサーフィンに行くのに名阪国道を通り、その途中に伊賀上野の大きな標識があったから。
それが伊賀忍者の伊賀だと知り「へえ〜忍者ってこんなところにいたんだ」と思った。
そしてそこからが勘違いの始まり。
伊賀忍者と甲賀忍者は対立しているとの思い込み(実際のところは知らない)
↓
対立するのは豊臣と徳川である
↓
伊賀がこの地域なら、伊賀は豊臣方に違いない
↓
ならば甲賀は徳川方
↓
徳川は東日本なので、そこで「甲」といえば甲州
↓
甲賀忍者の本拠地は山梨県!
と勝手に妄想が膨らみ、今と違ってネットでチャッチャと調べることもできないから、妄想が膨らんだ段階でその考察はストップ。やがてそれが私の中で疑うべきもない確固たる真実として認識された(^^ゞ
実際の甲賀は滋賀県にあり、
しかも伊賀と甲賀は県は違えどなんと隣町!
地図で見るとずいぶんと面積が広い。
少し調べると、
滋賀県甲賀市
面積:482平方キロ
人口:8万6000人
平成の大合併で2004年(平成16年)に甲賀市となる。
焼き物で有名な信楽町がある。
甲賀市の発音は「こうがし」ではなく「こうかし」
それにちなんで甲賀コーラというご当地飲料がある
三重県伊賀市
面積:558平方キロ
人口:8万4000人
同じく平成の大合併で2004年(平成16年)に伊賀市となる。
服部半蔵は伊賀忍者ーーー徳川家に仕えていた(>_<)
松尾芭蕉も伊賀出身(なので忍者や幕府の隠密説あり)
甲賀コーラに対抗して忍ジャーエールを発売
参考までに平成の大合併が推進されたのは
平成11年(1999)から平成22年(2010)
世田谷区の面積が58平方キロで人口94万人だから、人口密度は100倍以上違うね。また大阪府の面積は1905平方キロなので、伊賀と甲賀だけでその半分になる。なおこれは現在の行政区分なので忍者が本拠地としていたエリアはもっと狭い範囲だったはず。
前回の冒頭に記した「いわゆる常識となっている事柄」に伊賀・甲賀は含まれない。それで鳥羽伏見のようなショックは受けなかったものの、でもやはりしばらくは凹んだかな。それに鳥羽を伊勢の地名と思ってしまうのは、ある程度は仕方ない面があっても(京都の鳥羽がマイナーすぎるからと責任転嫁)、甲賀=山梨はまったくもって私のアホさ加減が生み出した勘違い。だから穴があったら入りたかったのはこちらのほう。
ーーー続く (祇園精舎までなかなかたどり着けない)
さて次はブログにも記録が残る2006年に発覚した勘違いパート2。
それは伊賀と甲賀。どちらも忍者で有名。忍者に伊賀忍者と甲賀忍者がいるのはたぶん漫画で読んで何となく子供の頃から知っていた。でもそれがどうやら地名であると理解はしていても、どこにあるのかまでは気にしていなかった。
伊賀が三重県にあると知ったのは大学生の時。大阪から伊勢へサーフィンに行くのに名阪国道を通り、その途中に伊賀上野の大きな標識があったから。
それが伊賀忍者の伊賀だと知り「へえ〜忍者ってこんなところにいたんだ」と思った。
そしてそこからが勘違いの始まり。
伊賀忍者と甲賀忍者は対立しているとの思い込み(実際のところは知らない)
↓
対立するのは豊臣と徳川である
↓
伊賀がこの地域なら、伊賀は豊臣方に違いない
↓
ならば甲賀は徳川方
↓
徳川は東日本なので、そこで「甲」といえば甲州
↓
甲賀忍者の本拠地は山梨県!
と勝手に妄想が膨らみ、今と違ってネットでチャッチャと調べることもできないから、妄想が膨らんだ段階でその考察はストップ。やがてそれが私の中で疑うべきもない確固たる真実として認識された(^^ゞ
実際の甲賀は滋賀県にあり、
しかも伊賀と甲賀は県は違えどなんと隣町!
地図で見るとずいぶんと面積が広い。
少し調べると、
滋賀県甲賀市
面積:482平方キロ
人口:8万6000人
平成の大合併で2004年(平成16年)に甲賀市となる。
焼き物で有名な信楽町がある。
甲賀市の発音は「こうがし」ではなく「こうかし」
それにちなんで甲賀コーラというご当地飲料がある
三重県伊賀市
面積:558平方キロ
人口:8万4000人
同じく平成の大合併で2004年(平成16年)に伊賀市となる。
服部半蔵は伊賀忍者ーーー徳川家に仕えていた(>_<)
松尾芭蕉も伊賀出身(なので忍者や幕府の隠密説あり)
甲賀コーラに対抗して忍ジャーエールを発売
参考までに平成の大合併が推進されたのは
平成11年(1999)から平成22年(2010)
世田谷区の面積が58平方キロで人口94万人だから、人口密度は100倍以上違うね。また大阪府の面積は1905平方キロなので、伊賀と甲賀だけでその半分になる。なおこれは現在の行政区分なので忍者が本拠地としていたエリアはもっと狭い範囲だったはず。
前回の冒頭に記した「いわゆる常識となっている事柄」に伊賀・甲賀は含まれない。それで鳥羽伏見のようなショックは受けなかったものの、でもやはりしばらくは凹んだかな。それに鳥羽を伊勢の地名と思ってしまうのは、ある程度は仕方ない面があっても(京都の鳥羽がマイナーすぎるからと責任転嫁)、甲賀=山梨はまったくもって私のアホさ加減が生み出した勘違い。だから穴があったら入りたかったのはこちらのほう。
ーーー続く (祇園精舎までなかなかたどり着けない)
2024年07月04日
祇園精舎の不覚 (鳥羽伏見の戦い編)
いわゆる常識となっている事柄でも、内容を勘違いしているのはままあること。このブログでも過去に「忍者とダ・ヴィンチ・コード」「皇居見物 そして、ああ勘違い」などで紹介してきた。
恥を忍んで(^^ゞ おさらいすると、
まずは幕末の「鳥羽伏見の戦い」。
歴史の授業では必ず習う薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った内戦。その後の戊辰戦争の始まりでもある。実際には旧幕府軍が大阪から京都へ攻め上る戦いなのだが、なぜかそれを江戸から海路で三重県の鳥羽に入って一戦交え、その後に鈴鹿山脈を越えて京都の伏見でまた戦ったと勘違いしていた。しかし鳥羽伏見の鳥羽とは京都の地名(/o\)
勘違いした理由は伏見といえば京都でも、
鳥羽といえば伊勢にある鳥羽しか思い浮かばなかったから。
世間一般では伊勢志摩との表現が有名なものの、
鳥羽市は伊勢市と志摩市に挟まれた位置にある。
市全体が伊勢志摩国立公園に指定され、また海女さんが海に潜って真珠の入ったアコヤ貝を採ってくるショーをやっているミキモトの真珠島もあるところ。小学校の修学旅行でも訪れた。少なくとも関西では鳥羽は伊勢志摩とセットになった有名な観光地。それに対して京都の鳥羽なんて聞いたこともなかった。
地図は現在の京都市区分図。
中心となるのは中京区と下京区。
鳥羽伏見の戦いの当時、鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があって、上鳥羽は地図で南区の「区」の文字があるあたり。名神の京都南インターの少し北側。下鳥羽はその下で現在は伏見区に入っている。
こちらは両軍の移動経路。画像はhttps://love-japanese-history.com/ikusa%EF%BD%B0tobahushiminotatakai/から引用
大阪から上ってきた旧幕府軍は淀の先で二手に分かれ、南下してきた新政府軍と交戦する。地図で示されている両軍が相まみえた左側の地点が鳥羽、右側が伏見であり、その地名をとって鳥羽伏見の戦い。
でもこの両地点は3kmも離れていない。実質的には同じエリアでの戦闘。記録では鳥羽からドンパチの音が聞こえたので伏見でも戦闘が始まったとある。
だったら鳥羽みたいなマイナーな地名は使わず「伏見の戦い」でいいじゃん!
ーーーと悔し紛れに常々思っている(^^ゞ
鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍が敗退し江戸城開城につながった経緯が重要なのであって、歴史の授業で戦闘場所までは習わない。多くの人が鳥羽伏見の戦いの名前くらいは知っていると思うが、どれくらいの人が鳥羽を京都の地名だと正しく認識しているのだろう。もし過半数を超えていたら落ち込むな(/o\)
ーーー続く
祇園精舎の話はまだちょっと先
恥を忍んで(^^ゞ おさらいすると、
まずは幕末の「鳥羽伏見の戦い」。
歴史の授業では必ず習う薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った内戦。その後の戊辰戦争の始まりでもある。実際には旧幕府軍が大阪から京都へ攻め上る戦いなのだが、なぜかそれを江戸から海路で三重県の鳥羽に入って一戦交え、その後に鈴鹿山脈を越えて京都の伏見でまた戦ったと勘違いしていた。しかし鳥羽伏見の鳥羽とは京都の地名(/o\)
勘違いした理由は伏見といえば京都でも、
鳥羽といえば伊勢にある鳥羽しか思い浮かばなかったから。
世間一般では伊勢志摩との表現が有名なものの、
鳥羽市は伊勢市と志摩市に挟まれた位置にある。
市全体が伊勢志摩国立公園に指定され、また海女さんが海に潜って真珠の入ったアコヤ貝を採ってくるショーをやっているミキモトの真珠島もあるところ。小学校の修学旅行でも訪れた。少なくとも関西では鳥羽は伊勢志摩とセットになった有名な観光地。それに対して京都の鳥羽なんて聞いたこともなかった。
地図は現在の京都市区分図。
中心となるのは中京区と下京区。
鳥羽伏見の戦いの当時、鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があって、上鳥羽は地図で南区の「区」の文字があるあたり。名神の京都南インターの少し北側。下鳥羽はその下で現在は伏見区に入っている。
こちらは両軍の移動経路。画像はhttps://love-japanese-history.com/ikusa%EF%BD%B0tobahushiminotatakai/から引用
大阪から上ってきた旧幕府軍は淀の先で二手に分かれ、南下してきた新政府軍と交戦する。地図で示されている両軍が相まみえた左側の地点が鳥羽、右側が伏見であり、その地名をとって鳥羽伏見の戦い。
でもこの両地点は3kmも離れていない。実質的には同じエリアでの戦闘。記録では鳥羽からドンパチの音が聞こえたので伏見でも戦闘が始まったとある。
だったら鳥羽みたいなマイナーな地名は使わず「伏見の戦い」でいいじゃん!
ーーーと悔し紛れに常々思っている(^^ゞ
鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍が敗退し江戸城開城につながった経緯が重要なのであって、歴史の授業で戦闘場所までは習わない。多くの人が鳥羽伏見の戦いの名前くらいは知っていると思うが、どれくらいの人が鳥羽を京都の地名だと正しく認識しているのだろう。もし過半数を超えていたら落ち込むな(/o\)
ーーー続く
祇園精舎の話はまだちょっと先
2024年07月02日
使っていないのに壊れていた(/o\)
机の引き出しの奥にVHSのビデオテープがあるのを発見。ラベルを見ると1988年に私が制作に関わったプロモーションビデオだった。そのプロジェクトのことは今でもよく覚えている。それにしても2024 − 1988 = 36年前。もうそんなに経つのか、そりゃ年もとるわと感慨にふける(^^ゞ
VHSのビデオデッキはもう持っていないのでそのままでは見られない。そこでVHSからDVDにダビングしてくれるサービスを利用した。ネットで「VHS DVDダビング」と検索すると、いろいろな会社がサービスを提供している。
いくつかを検討して選んだのはカメラのキタムラ。理由は他社のほとんどが宅配便で送る必要があるのに対して、ここは店頭で受け付けていたから。キタムラの店舗の前はよく通りかかるし、それなら宅配便でビデオテープが壊れないように梱包するのも面倒だった。
キタムラの価格は他社と比べて高くもなく安くもないといったところ。60分までが税込みで1650円。カビが生えていればそれを取るのに2750円、テープが癒着していればその修復に3850円かかる。ただし事前にお得パックなるものを申し込めば550円。これはカビや癒着がなくても返金されない。まるで保険みたいな仕組みのサービス。
ずっと引き出しの中に入れっぱなしで保管状況はよかったとはいえ、36年前のテープだからお得パックを申し込んで1650円 + 550円 = 2200円。
店頭に持ち込んだのは6月の最初。店員の説明では修復作業がなければ約1ヶ月、作業が必要ならさらに半月というような説明だったと思う。けっこう時間がかかるなと思ったけれど、ずっとその存在を忘れていたテープなので特に気にはかけず。
ところが2週間ちょっとで店舗から仕上がったとの連絡がある。クレーム対策でけっこうサバを読んで作業日数を案内しているようだ。それとおそらくお得パックは申し込む必要がなかった(>_<)
店舗でDVDを受け取り、
さっそく見ようとするとブルーレイのプレーヤーが何とご臨終!!!
症状としては電源が入らない。
コンセントを差し替えたり、軽く叩いたり揺すっても変化なし。
ブログには2019年の8月に「TSUTAYAが閉店していた」との記事を書いている。それ以降はAmazonプライムやAppleの配信でしか映画を見ていない。だから5年間まったく使っていないのに。
使っていなくても家電製品は壊れるんだとガッカリ。
皆さんも長らく使っていないものがあったら、たまには点検を。
もっとも私は以前にCDプレーヤーを自分で修理した経験がある。
これもそのうち分解して原因を突き止めてやると、実は今から楽しみにしている(^^ゞ
ただもし直せたとしても使い道はほとんどない。せっかく修理したCDプレーヤーも既に手持ちのCDはすべてパソコンに取り込んであるし、さらに最近はもっぱらサブスクで音楽を聴いていて出番なし。これも何かと時代の変化を感じる。
さてプレーヤーが壊れていたので、パソコンにDVDのファイルを取り込んで、パソコンで再生した。パソコンとテレビはつなげてあるのでテレビの大画面でも見た。もともとバックアップ用としてDVDの中のファイルは取り出すつもりでいたから、特に手間が増えたわけでもない。
その36年前のプロモーションビデオは今見てもなかなかの出来映え。なんと全編ニューヨークロケ! しかも映画的な味わいを出すためにVTRではなくフィルムでの撮影。そういえば撮影したのもちょうど今頃の季節だった。ニューヨークの各所でロケをして、観光では行くことのないニューヨークをあれこれ見られたのは懐かしい思い出。
それは私にとってはたまたま舞い込んできた畑違いの案件だった。初めての映像制作、しかも初めてのニューヨーク、さらにニューヨークの治安が最悪だった頃である。それでも全力で頑張ればなんとかやり遂げられるものだと自信にもなった仕事。
そのプロモーションビデオをここで紹介したいのは山々なのだが、
関係各位、著作権モロモロがあるので、当たり障りのない街角風景ショットをひとつだけ。
今より幅の狭い当時の画角に時代を感じる。
もしこちらの道に進んでいれば、
今頃はアカデミー賞のひとつやふたつくらい獲れてたかなあ(^^ゞ
VHSのビデオデッキはもう持っていないのでそのままでは見られない。そこでVHSからDVDにダビングしてくれるサービスを利用した。ネットで「VHS DVDダビング」と検索すると、いろいろな会社がサービスを提供している。
いくつかを検討して選んだのはカメラのキタムラ。理由は他社のほとんどが宅配便で送る必要があるのに対して、ここは店頭で受け付けていたから。キタムラの店舗の前はよく通りかかるし、それなら宅配便でビデオテープが壊れないように梱包するのも面倒だった。
キタムラの価格は他社と比べて高くもなく安くもないといったところ。60分までが税込みで1650円。カビが生えていればそれを取るのに2750円、テープが癒着していればその修復に3850円かかる。ただし事前にお得パックなるものを申し込めば550円。これはカビや癒着がなくても返金されない。まるで保険みたいな仕組みのサービス。
ずっと引き出しの中に入れっぱなしで保管状況はよかったとはいえ、36年前のテープだからお得パックを申し込んで1650円 + 550円 = 2200円。
店頭に持ち込んだのは6月の最初。店員の説明では修復作業がなければ約1ヶ月、作業が必要ならさらに半月というような説明だったと思う。けっこう時間がかかるなと思ったけれど、ずっとその存在を忘れていたテープなので特に気にはかけず。
ところが2週間ちょっとで店舗から仕上がったとの連絡がある。クレーム対策でけっこうサバを読んで作業日数を案内しているようだ。それとおそらくお得パックは申し込む必要がなかった(>_<)
店舗でDVDを受け取り、
さっそく見ようとするとブルーレイのプレーヤーが何とご臨終!!!
症状としては電源が入らない。
コンセントを差し替えたり、軽く叩いたり揺すっても変化なし。
ブログには2019年の8月に「TSUTAYAが閉店していた」との記事を書いている。それ以降はAmazonプライムやAppleの配信でしか映画を見ていない。だから5年間まったく使っていないのに。
使っていなくても家電製品は壊れるんだとガッカリ。
皆さんも長らく使っていないものがあったら、たまには点検を。
もっとも私は以前にCDプレーヤーを自分で修理した経験がある。
これもそのうち分解して原因を突き止めてやると、実は今から楽しみにしている(^^ゞ
ただもし直せたとしても使い道はほとんどない。せっかく修理したCDプレーヤーも既に手持ちのCDはすべてパソコンに取り込んであるし、さらに最近はもっぱらサブスクで音楽を聴いていて出番なし。これも何かと時代の変化を感じる。
さてプレーヤーが壊れていたので、パソコンにDVDのファイルを取り込んで、パソコンで再生した。パソコンとテレビはつなげてあるのでテレビの大画面でも見た。もともとバックアップ用としてDVDの中のファイルは取り出すつもりでいたから、特に手間が増えたわけでもない。
その36年前のプロモーションビデオは今見てもなかなかの出来映え。なんと全編ニューヨークロケ! しかも映画的な味わいを出すためにVTRではなくフィルムでの撮影。そういえば撮影したのもちょうど今頃の季節だった。ニューヨークの各所でロケをして、観光では行くことのないニューヨークをあれこれ見られたのは懐かしい思い出。
それは私にとってはたまたま舞い込んできた畑違いの案件だった。初めての映像制作、しかも初めてのニューヨーク、さらにニューヨークの治安が最悪だった頃である。それでも全力で頑張ればなんとかやり遂げられるものだと自信にもなった仕事。
そのプロモーションビデオをここで紹介したいのは山々なのだが、
関係各位、著作権モロモロがあるので、当たり障りのない街角風景ショットをひとつだけ。
今より幅の狭い当時の画角に時代を感じる。
もしこちらの道に進んでいれば、
今頃はアカデミー賞のひとつやふたつくらい獲れてたかなあ(^^ゞ