2024年09月
2024年09月29日
モグモグ・ゴクゴク・ブリブリ・シャー
「ヒマワリが枯れてベランダの夏が終了」のタイトルでブログを9月9日に書いた。
そのときに載せたこのヒマワリの写真は8月31日の撮影。
それから約1ヶ月が過ぎた現在はドライフラワー状態。
マリーゴールドや小さいプランターに植えたのも同じく。
チューリップのときと同じように、
朽ちていく姿も愛でるのが私のヘンタイ・ガーデニン(^^ゞ
憎きハダニもいるけれど、クモの巣のような膜の中で、
まったく動かないからもう死んでいるようだ。
それにしてもコイツらはどこから来て、そして植物から樹液を吸い取って枯らした後はどこへ行くのだろう。ここに残っているのは逃げ遅れたのか、それとも植物を枯らしたら自分も一緒に死ぬのか。とにかく迷惑な存在。ハダニだけに感染するウィルスが現れて早く地球上から絶滅しますように。
9月9日に「9月いっぱいは持ちそう」と書いた百日草は、
まだ地味に咲き続けている。
現時点で小さなツボミや、つぼみを付けるまで大きくなっていない花芽もあるから、10月中旬以降まで咲くのかも知れない。
結局、花を咲かすまで成長した百日草は7株。
そのうちの1株が完全終了したので、
引き抜いてみた。
長さは約1.8mで私の身長と同じ。
それにしても大きい。今まであちこちの公園で見た百日草は50cm位だったのに。ベランダは東向きで日当たりがいいのは午前中だけで十分とはいえない。ひょっとしてこれもサボテンの金盛丸と同じように徒長(病弱的にひょろひょろ伸びる現象)なのかな。
そんなことを考えていて、ふと思い出した。
百日草のタネはこんなに小さかったのを。
タネの長さは約7mm。
だから1.8m ÷ 7mm = 257倍に成長した計算になる。
いや〜すごいなあと感慨にふける。
そしてどうしてこれだけの大きさになれたのだろうかと不思議に思う。
調べてみると、人間の身体は約6割が水でできているとよく聞くが、植物は8割から9割が水なのだそうだ。ということは2〜3日おきにせっせと水やりした私のおかげだな。感謝しろよベランダの植物ども(^^ゞ
とりあえず8割だとして、じゃ残りの2割は何でできているのか。
土の中の栄養分?
測ってはないとしても、植物を育ててプランターの土が減っていると感じた経験はない。農家だって田や畑に土を補給したりはしない。だから減っているとしても見た目ではわからない程度の分量のはずで、257倍の成長への体積的な寄与はごくわずかと思う。
そう考えると残るのは光合成。
昔、授業で習った光合成とは植物が、
太陽の光のエネルギーを用いて、
空気中の二酸化炭素と、根で吸い上げた水から
デンプンなどの炭水化物を合成し
酸素を放出する
である。
光のエネルギーを用いての意味がよくわからないものの、
調べるのが大変そうなので気がつかなかったことにしよう(^^ゞ
二酸化炭素はCO2、水はH2O。
元素に分解すれば炭素のCと水素のHと酸素のO。
デンプンの元になるグルコースの化学式はC6H12O6。
その原子の数を約分すればC・H2・O。
二酸化炭素と水を足すと原子の数はC・H2・O3。
約分したグルコースの酸素原子はOがひとつだけ。
光合成でグルコースを作って酸素が2つ余るから放出するのか。
化学式ってこんなふうに計算していいんだっけ?
もちろん土の中にある栄養素(の原子)も炭素や水素と結びつき、なにがしかの化合物に形を変えて植物の一部になっているとしても、とりあえず植物は空気(二酸化炭素)を吸って、水を飲んでこんなに大きくなるわけだ。動物は草食であろうと肉食であろうと餌や獲物の獲得に苦労するのに、植物は楽でいいなあ。
ところで百日草はタネの大きさから257倍も大きくなったわけだが、よく考えたら人間だって負けてはいない。何たって精子は0.06mm、卵子は0.15mmしかないのだ。受精すると精子は卵子の中に潜り込むので、卵子の大きさと私の身長で同じように計算すると、
1.8m ÷ 0.15mm = 1万2000倍!
まあ別に百日草に勝ってもうれしくはないが(^^ゞ
さて精子と卵子が結合して受精卵となり、母親の体内で栄養をもらって大きくなり、だいたい3kgほどで人間は生まれてくる。その後は
モグモグ食べる
ガブガブ飲む
ブリブリとうんち
シャーとおしっこ
して成長し身体・生命を維持する。
そう考えてみると、今までの人生すべての
(モグモグ + ガブガブ) − (ブリブリ + シャー) − 3kg = 現在の体重
の計算が成り立つ。
厳密にはおしっこだけでなく汗を初めとする分泌液でも水分は排出されるし、汗のように水滴にまでならなくても皮膚からは水分が蒸発している。吐く息にも水蒸気として水分は含まれているし、逆に吸う息で水蒸気の水分を身体に取り込んでいる。なおうんちもその8割は水分である。
上記の摂取と排出と体重の関係式は、今までそんな風に考えてこなかったし、そんな考え方をする人も滅多にいないと思う。この式自体は当たり前の事実を表現しているだけで特に意味はない。しかし改めて、この身体と命は食べ物と飲み物から成り立っているのだと思いを新たにしたしだい。
だって食事をしてお腹が満たされる、おいしかったなどの満足感はあっても、それによって身体を維持している命をつないでいるなんていちいち考えないでしょ?
そんなわけで人間は身体でできているのだから(ちょっとヘンな表現)、もう少しいい食事、それは高級という意味ではなく栄養バランスとかを、もっと気にしなくてはいけないなあと反省する食欲の秋である。食べたもの以上の身体にはなれないのだから。
そのときに載せたこのヒマワリの写真は8月31日の撮影。
それから約1ヶ月が過ぎた現在はドライフラワー状態。
マリーゴールドや小さいプランターに植えたのも同じく。
チューリップのときと同じように、
朽ちていく姿も愛でるのが私のヘンタイ・ガーデニン(^^ゞ
憎きハダニもいるけれど、クモの巣のような膜の中で、
まったく動かないからもう死んでいるようだ。
それにしてもコイツらはどこから来て、そして植物から樹液を吸い取って枯らした後はどこへ行くのだろう。ここに残っているのは逃げ遅れたのか、それとも植物を枯らしたら自分も一緒に死ぬのか。とにかく迷惑な存在。ハダニだけに感染するウィルスが現れて早く地球上から絶滅しますように。
9月9日に「9月いっぱいは持ちそう」と書いた百日草は、
まだ地味に咲き続けている。
現時点で小さなツボミや、つぼみを付けるまで大きくなっていない花芽もあるから、10月中旬以降まで咲くのかも知れない。
結局、花を咲かすまで成長した百日草は7株。
そのうちの1株が完全終了したので、
引き抜いてみた。
長さは約1.8mで私の身長と同じ。
それにしても大きい。今まであちこちの公園で見た百日草は50cm位だったのに。ベランダは東向きで日当たりがいいのは午前中だけで十分とはいえない。ひょっとしてこれもサボテンの金盛丸と同じように徒長(病弱的にひょろひょろ伸びる現象)なのかな。
そんなことを考えていて、ふと思い出した。
百日草のタネはこんなに小さかったのを。
タネの長さは約7mm。
だから1.8m ÷ 7mm = 257倍に成長した計算になる。
いや〜すごいなあと感慨にふける。
そしてどうしてこれだけの大きさになれたのだろうかと不思議に思う。
調べてみると、人間の身体は約6割が水でできているとよく聞くが、植物は8割から9割が水なのだそうだ。ということは2〜3日おきにせっせと水やりした私のおかげだな。感謝しろよベランダの植物ども(^^ゞ
とりあえず8割だとして、じゃ残りの2割は何でできているのか。
土の中の栄養分?
測ってはないとしても、植物を育ててプランターの土が減っていると感じた経験はない。農家だって田や畑に土を補給したりはしない。だから減っているとしても見た目ではわからない程度の分量のはずで、257倍の成長への体積的な寄与はごくわずかと思う。
そう考えると残るのは光合成。
昔、授業で習った光合成とは植物が、
太陽の光のエネルギーを用いて、
空気中の二酸化炭素と、根で吸い上げた水から
デンプンなどの炭水化物を合成し
酸素を放出する
である。
光のエネルギーを用いての意味がよくわからないものの、
調べるのが大変そうなので気がつかなかったことにしよう(^^ゞ
二酸化炭素はCO2、水はH2O。
元素に分解すれば炭素のCと水素のHと酸素のO。
デンプンの元になるグルコースの化学式はC6H12O6。
その原子の数を約分すればC・H2・O。
二酸化炭素と水を足すと原子の数はC・H2・O3。
約分したグルコースの酸素原子はOがひとつだけ。
光合成でグルコースを作って酸素が2つ余るから放出するのか。
化学式ってこんなふうに計算していいんだっけ?
もちろん土の中にある栄養素(の原子)も炭素や水素と結びつき、なにがしかの化合物に形を変えて植物の一部になっているとしても、とりあえず植物は空気(二酸化炭素)を吸って、水を飲んでこんなに大きくなるわけだ。動物は草食であろうと肉食であろうと餌や獲物の獲得に苦労するのに、植物は楽でいいなあ。
ところで百日草はタネの大きさから257倍も大きくなったわけだが、よく考えたら人間だって負けてはいない。何たって精子は0.06mm、卵子は0.15mmしかないのだ。受精すると精子は卵子の中に潜り込むので、卵子の大きさと私の身長で同じように計算すると、
1.8m ÷ 0.15mm = 1万2000倍!
まあ別に百日草に勝ってもうれしくはないが(^^ゞ
さて精子と卵子が結合して受精卵となり、母親の体内で栄養をもらって大きくなり、だいたい3kgほどで人間は生まれてくる。その後は
モグモグ食べる
ガブガブ飲む
ブリブリとうんち
シャーとおしっこ
して成長し身体・生命を維持する。
そう考えてみると、今までの人生すべての
(モグモグ + ガブガブ) − (ブリブリ + シャー) − 3kg = 現在の体重
の計算が成り立つ。
厳密にはおしっこだけでなく汗を初めとする分泌液でも水分は排出されるし、汗のように水滴にまでならなくても皮膚からは水分が蒸発している。吐く息にも水蒸気として水分は含まれているし、逆に吸う息で水蒸気の水分を身体に取り込んでいる。なおうんちもその8割は水分である。
上記の摂取と排出と体重の関係式は、今までそんな風に考えてこなかったし、そんな考え方をする人も滅多にいないと思う。この式自体は当たり前の事実を表現しているだけで特に意味はない。しかし改めて、この身体と命は食べ物と飲み物から成り立っているのだと思いを新たにしたしだい。
だって食事をしてお腹が満たされる、おいしかったなどの満足感はあっても、それによって身体を維持している命をつないでいるなんていちいち考えないでしょ?
そんなわけで人間は身体でできているのだから(ちょっとヘンな表現)、もう少しいい食事、それは高級という意味ではなく栄養バランスとかを、もっと気にしなくてはいけないなあと反省する食欲の秋である。食べたもの以上の身体にはなれないのだから。
2024年09月26日
101回目の姿勢改善 その3
骨盤が少し後傾していて、上半身が仰け反り(のけぞり)気味なのが私の姿勢。それを20年ほど前に考案したコマネチ・メソッドで矯正し、さらに2022年に知った頭にお手玉メソッドでうつむき加減の癖も直って、完璧とは言わないまでも、これでもう十分でしょうと思っていた。
ところが先日、正しい姿勢とは
壁に背を向けて立って
カカト、ふくらはぎ、尻、肩甲骨、頭が壁につき、
腰のところには手のひらが入る程度の隙間ができる
とのチェック方法を知る。
今の私なら楽勝のはずと思って試しにやってみると、
頭が壁につかない!
指3本分も壁から離れている!!
−−−とショックな結果に愕然とする(/o\)
顔を少し上向きにすれば頭は壁に接するものの、それではお手玉が落ちてしまう。背中は既に壁についているわけで、その状態から頭を壁に付けるには、顔の向きを変えないまま水平に後ろへ引くしかない。
これがけっこうキツい。
やたら胸が張るし腹筋にも力が入る。
この姿勢を維持したり、ましてやこのまま歩くのはかなり困難。
「完璧とは言わないまでも、これでもう十分でしょう」とは、自分でそう思っているだけ。専門家はもちろん周りの人にも意見を求めたりしていないし、よく考えたら全身が映る鏡などでチェックしたこともない。判断基準はあくまで身体に無理のない、力みが感じられない楽ちん感や気持ちのよさ。だいたいが格好いい姿勢を目指したのではなく、正しい姿勢が楽だと気付いたところから私の姿勢矯正は始まっている。
どこが悪かったのだろうかと考える。
上半身の肩より下の状態は100回目(修辞的表現)の姿勢改善であるお手玉メソッドで、自分史上かつてないほど無理がなく楽ちんな状態にある。無理やり壁に頭を付けにいった101回目の姿勢がより正しいとは思えなかった。
そうなると問題は首より上。
そこで思い当たったのがストレートネック。
何年か前にいわゆる五十肩の痛みがひどくて病院に行った。腕は上げられるのに、横に水平に伸ばせないと私らしいひねくれた症状(^^ゞ 何が困るって服の袖に腕を通すのがひと苦労だった。
そのときのレントゲンで医者が「肩の骨には異常ないですね〜」「あっ(五十肩とは関係ないけれど)首はストレートネックです」と言っていた。そんな単語は初めて聞いたので「それってヤバいですか?」と尋ねると「別に心配はない」との話で特には気にすることもなく。
ちなみに病院で痛み止めの塗り薬や湿布を出されたものの、これといった効果は感じられずに2回目の通院もしなかった。それでも3ヶ月位したら自然と治った。まあ五十肩なんてそんなもの。
そのストレートネック。
頸椎(けいつい・首の骨)は緩やかに湾曲しているのが正常。
それが真っ直ぐに伸びてしまっている状態を指す。
最近はスマホの見過ぎ→下を向いてばかりでそうなる人も多いみたい。
そして猫背の人はたいていストレートネック。
猫背の人の多くは骨盤が後傾している→上体が後ろに傾く→それを避け上体のバランスをとるために背中を丸め、頭を前方に突き出すのでストレートネックになる。
同じく骨盤が後傾していても猫背には向かわず、仰け反りっぱなしだったのが私の姿勢。それじゃ顔が空を向いてしまうので顔を正面に向ける。つまり背骨基準で見ればうつむいている状態。それで見かけは猫背とまったく正反対な姿勢なのにストレートネックになったと推察。あくまで素人判断ではあるが。お手玉メソッドをするまで、歩くときにややうつむき加減だったのもストレートネックの影響で自然と頭が下がっていたのかも知れない。
さてこの「壁付きテスト」結果に対して、
肩までの上半身は、従来のお手玉メソッドで問題ないはず
頭がつかないのはストレートネックのせいなので仕方がない
というのが今のところの判定。
ストレートネック改善の方法もいろいろあるようだが、まだよく調べていない。ストレートネックが原因で首が痛いとか凝ったりもしておらず、それを治そうとのモチベーションが湧いていないのが現状。
でもでも、しかししかしである。
実は現在、頭も壁につくように心掛けて歩いているのだ。
後頭部を水平に少し後ろに引っ張られるような意識を持って。
もちろん指3本分は無理なので1本あるいは半本くらいかな。
なぜならそうするとお腹が引っ込むから!
私のお腹には南海トラフや首都直下地震で食糧供給が途絶える事態に備えて??たっぷりと脂肪が蓄えてある(^^ゞ 骨盤が後傾し上半身が仰け反り気味を言い換えれば、お腹を突き出している姿勢になる。この状態ではほとんど妊婦さん並にお腹が目立ってしまう。コマネチ・メソッドあるいはお手玉メソッドで骨盤を立てると、上体が真っ直ぐになり=お腹を突き出さないので「見た目」が相当に改善される。
これは太っていない人の例。
それでも背中が仰け反っている←→真っ直ぐでこれだけ違う。写真はhttps://yogajournal.jp/17827から引用編集
そして骨盤を立てた姿勢で頭を後ろに引くと、なぜか腹筋に力が入って、より一層お腹が引っ込むのである。誰でも腹筋を使って意識的にお腹を引っ込められる。それが自動的に行われる感覚。なぜ頭を引くと腹筋がそう動くのか人体は不思議。
その度合いは、オリジナルの仰け反った姿勢から骨盤を立ててお腹が引っ込む量を10だとすれば、頭を後ろに引くとさらに1〜2程度引っ込む。お腹が出ている絶対値が大きいから、このプラス2はバカにならない。
あと10kg太ってもごまかせそう(^^ゞ
ドスコイ!
もうひとつの理由は、頭を引くのがストレートネックの解消にも多少は効果があるだろうとも期待して。もしそうなればまさに一石二鳥。さらに自然と腹筋も鍛えられたら一石三鳥とほくそ笑む。
ただし最初の回に書いたように、この頭を引くメソッドはそれまでに数々試した「何々の意識を持つ」方法と同じように、ついそれを忘れてしまうのが難点。視界の違いによって自動的に脳にスイッチの入るお手玉メソッドは例外中の例外なのだ。
またやはりその矯正に無理があるのか、歩く際にわずかに不安定な感じがする。わずか指1本分とはいえ、重い頭の位置がそれまでとは違う=身体の重心も変化するのが原因かも知れない。それと頭を引くと肩に少し力が入ってしまうのも課題。あくまで素人判断でやっているし、多くの知識をネットで得ているから、ひょっとしてまったく勘違いな姿勢改善法の可能性はある。
というわけで基本的にお手玉メソッドに満足していることもあり、この101回目の姿勢改善は様子を見ながらボチボチと進めている。コマネチ・メソッドとお手玉メソッド以外の「何々の意識を持つ」方法のように、いつの間にかまったく忘れてしまっても、それはそれで仕方ない。
でもお腹は引っ込めたい(^^ゞ
おしまい
ところが先日、正しい姿勢とは
壁に背を向けて立って
カカト、ふくらはぎ、尻、肩甲骨、頭が壁につき、
腰のところには手のひらが入る程度の隙間ができる
とのチェック方法を知る。
今の私なら楽勝のはずと思って試しにやってみると、
頭が壁につかない!
指3本分も壁から離れている!!
−−−とショックな結果に愕然とする(/o\)
顔を少し上向きにすれば頭は壁に接するものの、それではお手玉が落ちてしまう。背中は既に壁についているわけで、その状態から頭を壁に付けるには、顔の向きを変えないまま水平に後ろへ引くしかない。
これがけっこうキツい。
やたら胸が張るし腹筋にも力が入る。
この姿勢を維持したり、ましてやこのまま歩くのはかなり困難。
「完璧とは言わないまでも、これでもう十分でしょう」とは、自分でそう思っているだけ。専門家はもちろん周りの人にも意見を求めたりしていないし、よく考えたら全身が映る鏡などでチェックしたこともない。判断基準はあくまで身体に無理のない、力みが感じられない楽ちん感や気持ちのよさ。だいたいが格好いい姿勢を目指したのではなく、正しい姿勢が楽だと気付いたところから私の姿勢矯正は始まっている。
どこが悪かったのだろうかと考える。
上半身の肩より下の状態は100回目(修辞的表現)の姿勢改善であるお手玉メソッドで、自分史上かつてないほど無理がなく楽ちんな状態にある。無理やり壁に頭を付けにいった101回目の姿勢がより正しいとは思えなかった。
そうなると問題は首より上。
そこで思い当たったのがストレートネック。
何年か前にいわゆる五十肩の痛みがひどくて病院に行った。腕は上げられるのに、横に水平に伸ばせないと私らしいひねくれた症状(^^ゞ 何が困るって服の袖に腕を通すのがひと苦労だった。
そのときのレントゲンで医者が「肩の骨には異常ないですね〜」「あっ(五十肩とは関係ないけれど)首はストレートネックです」と言っていた。そんな単語は初めて聞いたので「それってヤバいですか?」と尋ねると「別に心配はない」との話で特には気にすることもなく。
ちなみに病院で痛み止めの塗り薬や湿布を出されたものの、これといった効果は感じられずに2回目の通院もしなかった。それでも3ヶ月位したら自然と治った。まあ五十肩なんてそんなもの。
そのストレートネック。
頸椎(けいつい・首の骨)は緩やかに湾曲しているのが正常。
それが真っ直ぐに伸びてしまっている状態を指す。
最近はスマホの見過ぎ→下を向いてばかりでそうなる人も多いみたい。
そして猫背の人はたいていストレートネック。
猫背の人の多くは骨盤が後傾している→上体が後ろに傾く→それを避け上体のバランスをとるために背中を丸め、頭を前方に突き出すのでストレートネックになる。
同じく骨盤が後傾していても猫背には向かわず、仰け反りっぱなしだったのが私の姿勢。それじゃ顔が空を向いてしまうので顔を正面に向ける。つまり背骨基準で見ればうつむいている状態。それで見かけは猫背とまったく正反対な姿勢なのにストレートネックになったと推察。あくまで素人判断ではあるが。お手玉メソッドをするまで、歩くときにややうつむき加減だったのもストレートネックの影響で自然と頭が下がっていたのかも知れない。
さてこの「壁付きテスト」結果に対して、
肩までの上半身は、従来のお手玉メソッドで問題ないはず
頭がつかないのはストレートネックのせいなので仕方がない
というのが今のところの判定。
ストレートネック改善の方法もいろいろあるようだが、まだよく調べていない。ストレートネックが原因で首が痛いとか凝ったりもしておらず、それを治そうとのモチベーションが湧いていないのが現状。
でもでも、しかししかしである。
実は現在、頭も壁につくように心掛けて歩いているのだ。
後頭部を水平に少し後ろに引っ張られるような意識を持って。
もちろん指3本分は無理なので1本あるいは半本くらいかな。
なぜならそうするとお腹が引っ込むから!
私のお腹には南海トラフや首都直下地震で食糧供給が途絶える事態に備えて??たっぷりと脂肪が蓄えてある(^^ゞ 骨盤が後傾し上半身が仰け反り気味を言い換えれば、お腹を突き出している姿勢になる。この状態ではほとんど妊婦さん並にお腹が目立ってしまう。コマネチ・メソッドあるいはお手玉メソッドで骨盤を立てると、上体が真っ直ぐになり=お腹を突き出さないので「見た目」が相当に改善される。
これは太っていない人の例。
それでも背中が仰け反っている←→真っ直ぐでこれだけ違う。写真はhttps://yogajournal.jp/17827から引用編集
そして骨盤を立てた姿勢で頭を後ろに引くと、なぜか腹筋に力が入って、より一層お腹が引っ込むのである。誰でも腹筋を使って意識的にお腹を引っ込められる。それが自動的に行われる感覚。なぜ頭を引くと腹筋がそう動くのか人体は不思議。
その度合いは、オリジナルの仰け反った姿勢から骨盤を立ててお腹が引っ込む量を10だとすれば、頭を後ろに引くとさらに1〜2程度引っ込む。お腹が出ている絶対値が大きいから、このプラス2はバカにならない。
あと10kg太ってもごまかせそう(^^ゞ
ドスコイ!
もうひとつの理由は、頭を引くのがストレートネックの解消にも多少は効果があるだろうとも期待して。もしそうなればまさに一石二鳥。さらに自然と腹筋も鍛えられたら一石三鳥とほくそ笑む。
ただし最初の回に書いたように、この頭を引くメソッドはそれまでに数々試した「何々の意識を持つ」方法と同じように、ついそれを忘れてしまうのが難点。視界の違いによって自動的に脳にスイッチの入るお手玉メソッドは例外中の例外なのだ。
またやはりその矯正に無理があるのか、歩く際にわずかに不安定な感じがする。わずか指1本分とはいえ、重い頭の位置がそれまでとは違う=身体の重心も変化するのが原因かも知れない。それと頭を引くと肩に少し力が入ってしまうのも課題。あくまで素人判断でやっているし、多くの知識をネットで得ているから、ひょっとしてまったく勘違いな姿勢改善法の可能性はある。
というわけで基本的にお手玉メソッドに満足していることもあり、この101回目の姿勢改善は様子を見ながらボチボチと進めている。コマネチ・メソッドとお手玉メソッド以外の「何々の意識を持つ」方法のように、いつの間にかまったく忘れてしまっても、それはそれで仕方ない。
でもお腹は引っ込めたい(^^ゞ
おしまい
2024年09月23日
101回目の姿勢改善 その2
100回目のお手玉メソッドの次に試した、
本題である101回目の姿勢改善の話の前にちょっと寄り道。
自分の姿勢に気をつけるようになったのは前回に書いたように30代半ば。しかし姿勢そのものに初めて興味を持ったのはもう少し前。そのきっかけは映画「愛と青春の旅立ち」。
この映画はリチャード・ギアが演じる、いろいろと家庭に問題もあり生活のすさんでいた主人公が、一念発起して海軍士官候補生学校に入学。13週間の訓練期間中に人間として成長し、また恋愛も繰り広げる筋立て。何たって若い頃の甘いマスクのリチャード・ギアだし、最終的にはハッピーエンドのラブストーリーなのだけれど、それだけじゃない内容を含んでいるのが名作に数えられる理由。
訓練でリチャード・ギアと同期入学した一団は、教官の鬼軍曹にメチャクチャしごかれる。その舞台となるのは主に体力作りの基礎訓練。また肉体的なしごきだけでなく、何かあるとすぐ「退学届けを出せ」とプレッシャーを掛けて追い込まれる。つまり心身両面を鍛えるわけね。このあたりは上手に文章にできないから映画を見てちょうだい。
そして厳しい訓練を乗り越えてリチャード・ギアたちは卒業。卒業すると教官の軍曹より階級が上の少尉となる。今まで軍曹の命令に「イエス、サー」と答えていたのに、この日を境に軍曹から「サー」付きで話しかけられる。
たった13週間でただの民間人が少尉になれるのかとも思うものの、(/_')/ソレハコッチニオイトイテ、リチャード・ギアたちが軍曹に最後の挨拶に来るこのシーンはなかなか感動的。
そして私はこれを見て
「こんなに真っ直ぐに立っている人、見たことない」と思ったわけ。
アメリカでは士官(少尉以上)になって最初に敬礼してくれた、自分より階級の低い軍人に1ドル硬貨を渡す習慣があるらしく、これはその場面。よく見ると軍曹の手のひらには硬貨がある。何を言いたいかというと、軍曹はいわゆる上官に対する「気をつけ!」の体勢ではない。それなのにこの真っ直ぐな立ち姿。
映画を見た記憶としてはこのシーンしか覚えていなかったが、ブログを書くために画像を探すと、この鬼軍曹はリチャード・ギアをネチネチとイビるときや、ホースで水を浴びせていたぶるときすらもメッチャ姿勢がいい。
この役を演じているのはルイス・ゴセット・ジュニア。今年の3月に87歳で亡くなられていた。これからは姿勢の神様として崇めよう(^^ゞ
このルイス・ゴセット・ジュニアが普段から姿勢がよかったのか、軍人を演じる役作りでそうしていたのかは知らない。一般に軍人は洋の東西を問わず概して姿勢がいい。写真はオーストラリア軍。写真はhttps://x.gd/FYnjoから引用(短縮URL使用)
装備から見て儀仗(軍が参加する儀礼の式典)の場面かと思う。儀仗の際は特に姿勢をよくするものの、これだけ真っ直ぐなのに、どこにも力の入っていない立ち方は見事。
こちらは陸上自衛隊の特別儀仗隊。
本番と訓練の様子。写真はhttps://bunshun.jp/articles/-/14864から引用
姿勢は申し分ないとしても、少し力(りき)みが感じられ、見ているこちらまで疲れそうな印象がある。スクッと立っているオーストラリア軍、あるいはルイス・ゴセット・ジュニアとはどこか違う。
自衛隊もいわば幕末から導入された「西洋式軍隊」である。儀仗も西洋の風習だし、儀仗の姿勢も西洋のそれがお手本なのだろう。でも西洋人とアジア人では骨格や体つきが違う。だから西洋の軍隊と同じような姿勢をするのはちょっと無理があるのかも知れない。私もルイス・ゴセット・ジュニアのような立ち方に憧れるが、努力してもおそらくそうはならないと思う。
同じアジアの中国軍はこんな工夫までして姿勢改善をしている。写真はhttps://x.gd/SZwTPから引用(短縮URL使用)
以前に歌舞伎か能だったかの役者が、子供の頃は背中に長い定規を差し込まれて姿勢を矯正されたとのインタビューを読んだ。だからこの方法も効果的なのだろう。でもまるで十字架を背負って罰を受けているいるみたいだ。
そして絶対にうつむけない、こんな恐怖の方法が取り入れられていた(>_<)
そこまでやるか、中国オソルベシ!写真はhttps://gigazine.net/news/20080509_trooper_attention/から引用
ーーー続く
本題である101回目の姿勢改善の話の前にちょっと寄り道。
自分の姿勢に気をつけるようになったのは前回に書いたように30代半ば。しかし姿勢そのものに初めて興味を持ったのはもう少し前。そのきっかけは映画「愛と青春の旅立ち」。
この映画はリチャード・ギアが演じる、いろいろと家庭に問題もあり生活のすさんでいた主人公が、一念発起して海軍士官候補生学校に入学。13週間の訓練期間中に人間として成長し、また恋愛も繰り広げる筋立て。何たって若い頃の甘いマスクのリチャード・ギアだし、最終的にはハッピーエンドのラブストーリーなのだけれど、それだけじゃない内容を含んでいるのが名作に数えられる理由。
訓練でリチャード・ギアと同期入学した一団は、教官の鬼軍曹にメチャクチャしごかれる。その舞台となるのは主に体力作りの基礎訓練。また肉体的なしごきだけでなく、何かあるとすぐ「退学届けを出せ」とプレッシャーを掛けて追い込まれる。つまり心身両面を鍛えるわけね。このあたりは上手に文章にできないから映画を見てちょうだい。
そして厳しい訓練を乗り越えてリチャード・ギアたちは卒業。卒業すると教官の軍曹より階級が上の少尉となる。今まで軍曹の命令に「イエス、サー」と答えていたのに、この日を境に軍曹から「サー」付きで話しかけられる。
たった13週間でただの民間人が少尉になれるのかとも思うものの、(/_')/ソレハコッチニオイトイテ、リチャード・ギアたちが軍曹に最後の挨拶に来るこのシーンはなかなか感動的。
そして私はこれを見て
「こんなに真っ直ぐに立っている人、見たことない」と思ったわけ。
アメリカでは士官(少尉以上)になって最初に敬礼してくれた、自分より階級の低い軍人に1ドル硬貨を渡す習慣があるらしく、これはその場面。よく見ると軍曹の手のひらには硬貨がある。何を言いたいかというと、軍曹はいわゆる上官に対する「気をつけ!」の体勢ではない。それなのにこの真っ直ぐな立ち姿。
映画を見た記憶としてはこのシーンしか覚えていなかったが、ブログを書くために画像を探すと、この鬼軍曹はリチャード・ギアをネチネチとイビるときや、ホースで水を浴びせていたぶるときすらもメッチャ姿勢がいい。
この役を演じているのはルイス・ゴセット・ジュニア。今年の3月に87歳で亡くなられていた。これからは姿勢の神様として崇めよう(^^ゞ
このルイス・ゴセット・ジュニアが普段から姿勢がよかったのか、軍人を演じる役作りでそうしていたのかは知らない。一般に軍人は洋の東西を問わず概して姿勢がいい。写真はオーストラリア軍。写真はhttps://x.gd/FYnjoから引用(短縮URL使用)
装備から見て儀仗(軍が参加する儀礼の式典)の場面かと思う。儀仗の際は特に姿勢をよくするものの、これだけ真っ直ぐなのに、どこにも力の入っていない立ち方は見事。
こちらは陸上自衛隊の特別儀仗隊。
本番と訓練の様子。写真はhttps://bunshun.jp/articles/-/14864から引用
姿勢は申し分ないとしても、少し力(りき)みが感じられ、見ているこちらまで疲れそうな印象がある。スクッと立っているオーストラリア軍、あるいはルイス・ゴセット・ジュニアとはどこか違う。
自衛隊もいわば幕末から導入された「西洋式軍隊」である。儀仗も西洋の風習だし、儀仗の姿勢も西洋のそれがお手本なのだろう。でも西洋人とアジア人では骨格や体つきが違う。だから西洋の軍隊と同じような姿勢をするのはちょっと無理があるのかも知れない。私もルイス・ゴセット・ジュニアのような立ち方に憧れるが、努力してもおそらくそうはならないと思う。
同じアジアの中国軍はこんな工夫までして姿勢改善をしている。写真はhttps://x.gd/SZwTPから引用(短縮URL使用)
以前に歌舞伎か能だったかの役者が、子供の頃は背中に長い定規を差し込まれて姿勢を矯正されたとのインタビューを読んだ。だからこの方法も効果的なのだろう。でもまるで十字架を背負って罰を受けているいるみたいだ。
そして絶対にうつむけない、こんな恐怖の方法が取り入れられていた(>_<)
そこまでやるか、中国オソルベシ!写真はhttps://gigazine.net/news/20080509_trooper_attention/から引用
ーーー続く
2024年09月22日
101回目の姿勢改善
骨盤が少し後傾していて、上半身がのけぞり気味なのが私の姿勢。
これは腰に負担がかかり、長く歩くと腰が疲れる。
それを姿勢が原因とは気付かず、長く歩けば多少疲れるのは当たり前だと思っていた。しかし今でもよく覚えているが、30代半ばのあるとき渋谷を歩いていて、その日は辛抱たまらないくらいに腰がだるくなる。すると身体が勝手に軽く前屈みの姿勢をとって、それでかなり楽になった。姿勢を意識するようになったのはそれから。
それ以来、姿勢を矯正するためにいろいろと心掛けてきた。たとえば操り人形のように糸で吊られている、乳首から延びる仮想ラインを地面と平行にするなどの「意識を持つ」といった方法。タイトルの「101回目」とはもちろん数が多いと誇張した修辞的表現。しかし少なくとも何十種類と試したはず。
どれもそれなりに効果はあっても問題はその意識をすぐ忘れて、上半身がのけぞり気味な姿勢に戻ってしまうこと。そしてまた新しい方法を思いついてーーーの繰り返し。思いつく度に今回の方法こそ決定打だとほくそ笑むのだが(^^ゞ
それでも20年ほど前に考案したコマネチ・メソッドは完成度が高く、つい最近までこれだけをやってきたし、20年も続けていれば身体が覚えて上半身がのけぞる姿勢に戻ることもなくなった。写真はhttps://www.fashion-headline.com/article/19492/72から引用
コマネチ・メソッドは上半身を矯正するのではなく、後傾している骨盤そのものを真っ直ぐにする発想。いわゆるビキニラインに手を押し当てると、骨盤が後傾しているから指先が前に出る。それを手のひらが地面と垂直になるまで押し込んで骨盤を立てる。骨盤が立てば上半身ものけぞらないとの理屈。ビキニラインに手を押し当てるポーズが、タケシのやっていたコマネチ!に似ているのでコマネチ・メソッドと名付けた。
正しい姿勢というと子供の頃にやらされた「気をつけ! 休め!」を思い出して疲れるイメージがあるかも知れない。「気をつけ」は両足を閉じているし、身体を気合いでこわばらせるから疲れるのであって、本来の正しい姿勢=真っ直ぐに立つのはすごく楽。楽をしたいから私は姿勢フェチなのである。
自分の姿勢が正しいかどうかを確認するのは次の方法が簡単。
普通に立つ。
つま先立ちを3〜5秒する。
(目一杯高くカカトを上げなくても大丈夫)
そして、そっとカカトを下ろしたときの状態が正しい姿勢。
つま先立ちをする→不安定になる→身体が本能的に最もバランスのよい状態をとって正しい姿勢になるのだと思う。カカトを下ろしたときに、上半身のどこにも力の入っていない楽チンさを感じられるから試してみて。
このつま先立ちチェックの方法を知ったのは2019年。やってみてコマネチ・メソッドで正しくなったはずの私の姿勢にも、まだ改善の余地があると自覚した。でもどこが違うのか、どうやってさらに改善すればいいのかわからない。しばらくは自宅でしょっちゅうつま先立ちをして、正しい姿勢の感覚を身体に覚え込まそうとしたものの、そんな挑戦が長続きするはずもなくーーー
転機がやってきたのは2022年。インナーマッスルに関する番組を見たのがきっかけ。冒頭で頭にお手玉を乗せれば、インナーマッスルが機能して、マットレスの上を歩いても不安定にならないとの実験をやっていた。これを見て(インナーマッスルとは無関係に)「歩いているときに少しうつむき加減かも知れない」との意識があった私は、マンションの廊下に出て頭にお手玉を載せたつもりで歩いてみた。
うつむきが解消されて視界が広がったのはもちろんとして、姿勢がコマネチ・メソッドよりよくなった実感があった。つま先立ちチェック直後の正しい姿勢とまったく同じ感覚。考えてみればつま先立ちするときは真っ直ぐ前を見ている。つまり、つま先立ちチェックをして感じたコマネチ・メソッドの改善の余地は頭の向きにあったのだ。
コマネチ・メソッドは20年続けて身体が覚え込んでしまったけれど、そのほかの改善方法はすぐその意識がなくなり長続きしないと先ほど書いた。このお手玉メソッドの素晴らしい点は、視線が上がって風景の見え方が変わり、
視線が正面だと身体が楽
うつむき加減だと楽じゃない
と脳が学習するからなのか、とにかく一度体験すると、後は勝手に脳がスイッチを入れて身体が自動的にお手玉モードになる。意識して正しい姿勢に矯正する必要がない。さらにお手玉モードでは骨盤も自然に立つので、コマネチ・メソッドも不要。
考えてみれば頭にお手玉の載せて歩くなんて、大昔からファッションモデルが取り入れている練習方法。まさに温故知新とはこのこと。
なお今までが4〜5m先の地面を見ながら歩いていたのが、このお手玉メソッドでは視線は目の高さで地面と平行になる。だから地面を直接見ていない。そのせいで最初はよくつまずいた。しかし不思議なことにしばらくするとつまずかなくなってくる。視線が地面と平行でも視界の下側に地面は捉えている。そのいわば周辺視界で状況を察知する能力を高めるよう、脳がプログラムを改良したのだろうか。何となく人体の不思議。
さてお手玉メソッドを知って、これこそ正真正銘の決定打だ、これで姿勢に関して今後は何の努力もいらないと喜んでいた。でもこれはまだ「100回目」の姿勢改善だったのである。
ーーー続く
これは腰に負担がかかり、長く歩くと腰が疲れる。
それを姿勢が原因とは気付かず、長く歩けば多少疲れるのは当たり前だと思っていた。しかし今でもよく覚えているが、30代半ばのあるとき渋谷を歩いていて、その日は辛抱たまらないくらいに腰がだるくなる。すると身体が勝手に軽く前屈みの姿勢をとって、それでかなり楽になった。姿勢を意識するようになったのはそれから。
それ以来、姿勢を矯正するためにいろいろと心掛けてきた。たとえば操り人形のように糸で吊られている、乳首から延びる仮想ラインを地面と平行にするなどの「意識を持つ」といった方法。タイトルの「101回目」とはもちろん数が多いと誇張した修辞的表現。しかし少なくとも何十種類と試したはず。
どれもそれなりに効果はあっても問題はその意識をすぐ忘れて、上半身がのけぞり気味な姿勢に戻ってしまうこと。そしてまた新しい方法を思いついてーーーの繰り返し。思いつく度に今回の方法こそ決定打だとほくそ笑むのだが(^^ゞ
それでも20年ほど前に考案したコマネチ・メソッドは完成度が高く、つい最近までこれだけをやってきたし、20年も続けていれば身体が覚えて上半身がのけぞる姿勢に戻ることもなくなった。写真はhttps://www.fashion-headline.com/article/19492/72から引用
コマネチ・メソッドは上半身を矯正するのではなく、後傾している骨盤そのものを真っ直ぐにする発想。いわゆるビキニラインに手を押し当てると、骨盤が後傾しているから指先が前に出る。それを手のひらが地面と垂直になるまで押し込んで骨盤を立てる。骨盤が立てば上半身ものけぞらないとの理屈。ビキニラインに手を押し当てるポーズが、タケシのやっていたコマネチ!に似ているのでコマネチ・メソッドと名付けた。
正しい姿勢というと子供の頃にやらされた「気をつけ! 休め!」を思い出して疲れるイメージがあるかも知れない。「気をつけ」は両足を閉じているし、身体を気合いでこわばらせるから疲れるのであって、本来の正しい姿勢=真っ直ぐに立つのはすごく楽。楽をしたいから私は姿勢フェチなのである。
自分の姿勢が正しいかどうかを確認するのは次の方法が簡単。
普通に立つ。
つま先立ちを3〜5秒する。
(目一杯高くカカトを上げなくても大丈夫)
そして、そっとカカトを下ろしたときの状態が正しい姿勢。
つま先立ちをする→不安定になる→身体が本能的に最もバランスのよい状態をとって正しい姿勢になるのだと思う。カカトを下ろしたときに、上半身のどこにも力の入っていない楽チンさを感じられるから試してみて。
このつま先立ちチェックの方法を知ったのは2019年。やってみてコマネチ・メソッドで正しくなったはずの私の姿勢にも、まだ改善の余地があると自覚した。でもどこが違うのか、どうやってさらに改善すればいいのかわからない。しばらくは自宅でしょっちゅうつま先立ちをして、正しい姿勢の感覚を身体に覚え込まそうとしたものの、そんな挑戦が長続きするはずもなくーーー
転機がやってきたのは2022年。インナーマッスルに関する番組を見たのがきっかけ。冒頭で頭にお手玉を乗せれば、インナーマッスルが機能して、マットレスの上を歩いても不安定にならないとの実験をやっていた。これを見て(インナーマッスルとは無関係に)「歩いているときに少しうつむき加減かも知れない」との意識があった私は、マンションの廊下に出て頭にお手玉を載せたつもりで歩いてみた。
うつむきが解消されて視界が広がったのはもちろんとして、姿勢がコマネチ・メソッドよりよくなった実感があった。つま先立ちチェック直後の正しい姿勢とまったく同じ感覚。考えてみればつま先立ちするときは真っ直ぐ前を見ている。つまり、つま先立ちチェックをして感じたコマネチ・メソッドの改善の余地は頭の向きにあったのだ。
コマネチ・メソッドは20年続けて身体が覚え込んでしまったけれど、そのほかの改善方法はすぐその意識がなくなり長続きしないと先ほど書いた。このお手玉メソッドの素晴らしい点は、視線が上がって風景の見え方が変わり、
視線が正面だと身体が楽
うつむき加減だと楽じゃない
と脳が学習するからなのか、とにかく一度体験すると、後は勝手に脳がスイッチを入れて身体が自動的にお手玉モードになる。意識して正しい姿勢に矯正する必要がない。さらにお手玉モードでは骨盤も自然に立つので、コマネチ・メソッドも不要。
考えてみれば頭にお手玉の載せて歩くなんて、大昔からファッションモデルが取り入れている練習方法。まさに温故知新とはこのこと。
なお今までが4〜5m先の地面を見ながら歩いていたのが、このお手玉メソッドでは視線は目の高さで地面と平行になる。だから地面を直接見ていない。そのせいで最初はよくつまずいた。しかし不思議なことにしばらくするとつまずかなくなってくる。視線が地面と平行でも視界の下側に地面は捉えている。そのいわば周辺視界で状況を察知する能力を高めるよう、脳がプログラムを改良したのだろうか。何となく人体の不思議。
さてお手玉メソッドを知って、これこそ正真正銘の決定打だ、これで姿勢に関して今後は何の努力もいらないと喜んでいた。でもこれはまだ「100回目」の姿勢改善だったのである。
ーーー続く
2024年09月19日
18年ぶりに新聞を読んだ その2 オートロックの話
前回に書いたように現在の新聞は2000年と較べて、
発行部数は半減、広告収入は7割減と右肩下がりまっしぐら。
ちなみに発行部数のピークは1997年。
その原因はネットの普及。
正確に言うならスマホの普及である。
グラフは2000年からの新聞発行部数(一般紙&スポーツ紙計)を示している。部数の数字は入れると読みにくくなるので省略。またグラフの傾きをわかりやすくするため縦軸の下限はゼロではなく2500万部にしてある。参考までに2000年の発行部数は約5370万部、2023年が2859万部。
2000年当初より発行部数は緩やかに減少しているものの、2008〜2009年にスマホが発売されてグラフの傾きが増し、2017年にスマホ普及率が70%を超えるとさらに急ピッチで減少しているのがわかる。(ここでのスマホ普及率とは携帯電話に占めるスマホ比率)
わざわざこんなグラフを作るまでもなくスマホが新聞離れの原因なのは間違いない。しかし私が定期購読をやめたのはスマホ発売前の2006年。それはマンションがオートロックになって戸別の玄関ドアまで配達されなくなったのが理由。もはや玄関ドアには新聞受けもついていない。
言い換えればオートロックじゃなければ「知性のエサ」として今でも新聞を取っていると思う。そんな人はそれなりにいるはず。タワマンの上層階に住んでいれば1階の郵便受けまで、エレベーターで降りて上がって帰ってくるまでに5分近くかかる。なのに新聞の発行部数減少について調べてもオートロックに言及した解説は皆無。ちょっと分析が偏りすぎなんじゃない?
ーーーと思いながら、
はてオートロックのマンションに住んでいる人は、いったいどれくらいいるのだろうとの新たな疑問がフツフツと。
そこで調べてみた。
あまり詳細なデータは見つけられなかったものの、参照したのは総務省が所管する「住宅・土地統計調査」。これは国勢調査を始め全部で53ある国の基幹統計調査のひとつ。住宅・土地統計調査は5年ごとに実施され、最新は令和5年(2023年)版だが、令和5年と前回の平成30年版ではオートロックに関するサマリー(分析要約)が発表されておらず、データ集計表に当たるのも面倒なので平成25年(2013年)版を使った。それによると
住宅総数6063万戸
うち
居住世帯あり5210万戸
居住世帯なし853万戸
居住世帯なし住宅には別荘や建築中も含まれ、いわゆる空き家は820万戸。
空き家が住宅総数に占める割合は13.5%で何と「7軒に1軒」の割合。
またこの空き家率は2023年調査では900万戸13.8%に上昇している。
居住世帯あり5210万戸
うち
一戸建て2860万戸
共同住宅2209万戸
その他142万戸
その他のうち129万戸を長屋が占めている。今風に建ててあるならタウンハウス。
建築の分野では住民共用の玄関や廊下・階段など「共用部」があるのが共同住宅。
長屋は各住戸が連結しているだけだから共同住宅ではないとは初めて知った。
共同住宅2209万戸
うち
非木造1932万戸
うち
エレベータあり1002万戸 1932万戸に対して51.9%
オートロックあり694万戸 1932万戸に対して35.9%
となっている。
オートロックあり694万戸が結論だが、全体をイメージするために他の数値も書いてみた。
それで全住宅のオートロック比率を計算すると
オートロックあり694万戸 ÷ 居住世帯あり5210万戸 = 13.3%
ウ〜ン少ない(/o\)
たった13.3%じゃ新聞発行部数の減少に大きな影響を与える要因にはなり得ない。
人はどうしても自分の感覚や身の回りの経験値で判断をしがち。だからリサーチされたデータで客観的に状況を把握するのは大切。仕事柄そういう行動は身についているのに、それでも住宅・土地統計調査を調べるまで、オートロックもそれなりに影響しているのでは?と思っていたから、まだまだ修行が足りないね。
□\(.. ) 反省 (関係ないけど反省するサルが人気になったのは1988年)
おしまい
<補足>
前回の投稿は一部の年数表記に誤記がありました。
現在は修正済み。
発行部数は半減、広告収入は7割減と右肩下がりまっしぐら。
ちなみに発行部数のピークは1997年。
その原因はネットの普及。
正確に言うならスマホの普及である。
グラフは2000年からの新聞発行部数(一般紙&スポーツ紙計)を示している。部数の数字は入れると読みにくくなるので省略。またグラフの傾きをわかりやすくするため縦軸の下限はゼロではなく2500万部にしてある。参考までに2000年の発行部数は約5370万部、2023年が2859万部。
2000年当初より発行部数は緩やかに減少しているものの、2008〜2009年にスマホが発売されてグラフの傾きが増し、2017年にスマホ普及率が70%を超えるとさらに急ピッチで減少しているのがわかる。(ここでのスマホ普及率とは携帯電話に占めるスマホ比率)
わざわざこんなグラフを作るまでもなくスマホが新聞離れの原因なのは間違いない。しかし私が定期購読をやめたのはスマホ発売前の2006年。それはマンションがオートロックになって戸別の玄関ドアまで配達されなくなったのが理由。もはや玄関ドアには新聞受けもついていない。
言い換えればオートロックじゃなければ「知性のエサ」として今でも新聞を取っていると思う。そんな人はそれなりにいるはず。タワマンの上層階に住んでいれば1階の郵便受けまで、エレベーターで降りて上がって帰ってくるまでに5分近くかかる。なのに新聞の発行部数減少について調べてもオートロックに言及した解説は皆無。ちょっと分析が偏りすぎなんじゃない?
ーーーと思いながら、
はてオートロックのマンションに住んでいる人は、いったいどれくらいいるのだろうとの新たな疑問がフツフツと。
そこで調べてみた。
あまり詳細なデータは見つけられなかったものの、参照したのは総務省が所管する「住宅・土地統計調査」。これは国勢調査を始め全部で53ある国の基幹統計調査のひとつ。住宅・土地統計調査は5年ごとに実施され、最新は令和5年(2023年)版だが、令和5年と前回の平成30年版ではオートロックに関するサマリー(分析要約)が発表されておらず、データ集計表に当たるのも面倒なので平成25年(2013年)版を使った。それによると
住宅総数6063万戸
うち
居住世帯あり5210万戸
居住世帯なし853万戸
居住世帯なし住宅には別荘や建築中も含まれ、いわゆる空き家は820万戸。
空き家が住宅総数に占める割合は13.5%で何と「7軒に1軒」の割合。
またこの空き家率は2023年調査では900万戸13.8%に上昇している。
居住世帯あり5210万戸
うち
一戸建て2860万戸
共同住宅2209万戸
その他142万戸
その他のうち129万戸を長屋が占めている。今風に建ててあるならタウンハウス。
建築の分野では住民共用の玄関や廊下・階段など「共用部」があるのが共同住宅。
長屋は各住戸が連結しているだけだから共同住宅ではないとは初めて知った。
共同住宅2209万戸
うち
非木造1932万戸
うち
エレベータあり1002万戸 1932万戸に対して51.9%
オートロックあり694万戸 1932万戸に対して35.9%
となっている。
オートロックあり694万戸が結論だが、全体をイメージするために他の数値も書いてみた。
それで全住宅のオートロック比率を計算すると
オートロックあり694万戸 ÷ 居住世帯あり5210万戸 = 13.3%
ウ〜ン少ない(/o\)
たった13.3%じゃ新聞発行部数の減少に大きな影響を与える要因にはなり得ない。
人はどうしても自分の感覚や身の回りの経験値で判断をしがち。だからリサーチされたデータで客観的に状況を把握するのは大切。仕事柄そういう行動は身についているのに、それでも住宅・土地統計調査を調べるまで、オートロックもそれなりに影響しているのでは?と思っていたから、まだまだ修行が足りないね。
□\(.. ) 反省 (関係ないけど反省するサルが人気になったのは1988年)
おしまい
<補足>
前回の投稿は一部の年数表記に誤記がありました。
現在は修正済み。
2024年09月16日
18年ぶりに新聞を読んだ
2006年に引っ越してマンションがオートロックになり、玄関ドアまで新聞が配達されなくなるのを理由に定期購読をやめた。その後、特に気になるニュースがあって駅の売店で買ったり、あるいはどこかの待合室で備え付けのを読んだりした経験はあるものの、自宅でじっくり新聞を読む習慣はなくなった。
それがどうして今になってかというと、定期購読無料お試しキャンペーンの一環として郵便受けに投函されていたから。
読んでみて最初の感想は記事内容ではなく、新聞のインクがまったく手につかないのに驚いた。2006年時点でも昔と較べれば多少は改良されていて、手につくインクの量は少なくなっていたが、今はまったく手移りなし。試しに指で紙面を強めに擦ってみても同じだった。そういえばこの10年は新聞に触れてもいなかったかも。いつ頃からこのレベルに改良されたのだろう。
ところで時代設定の古い海外の映画を見ると、貴族や大富豪の家には執事がいて、新聞にアイロンを当ててからご主人様に渡すシーンがある。アイロンしてインクが手につくのを防ぐのも執事の仕事。実はずいぶんと昔に試したことがある。もちろん執事を雇う余裕はないので自分でアイロン掛け(^^ゞ
結果は新聞が暖かくなっただけで手にはインクがついた(/o\) 多少はマシになった程度の効果。おそらくアイロンの裏技が有効なのは活版印刷だった戦前の新聞じゃないかな。
さて生活したり仕事をする上で必要な情報はネットが普及した現在、(紙の)新聞を定期購読しなくてもそこそこ充分に得ることが可能。でも新聞の価値はそこにあるのではない。ネット普及以前でも社会・生活情報ならテレビニュースで事足りていた。
新聞の最も価値ある長所は、あの縦54.5cm・横40.6cm・見開きなら81.2cmにもなる大きな紙面。それによる一覧性で、自分に関係ないあるいは興味のない記事がチラッと目に飛び込んでくるところにある。
例えば今回の9月3日付の日経新聞にあったこんな記事。
一番「オーっ」と思ったのがこれ(^^ゞ
もちろんネットでニュースはそれなりにチェックしている。でもこのような記事は重要度が高くないので、ニュースサイトでは相当にスクロールしないと現れない=面倒=結果的には見つけられない。
例として挙げたミャンマーやニデックの記事は、私の生活や仕事に何の関係もない。情報を「その人の判断や行動に影響を与えるもの」と狭義に定義するなら、これらは情報ですらない。今回はたまたまブログにしたが、普段ならチラッと見てあるいは少しだけ読んで、おそらくその15秒後には忘れている内容。でもそれが「知性のエサ」として大切な役割を果たすというのが私の考え。(今回は日経新聞なので事例が少し適切ではないが)
1日に5つ知性のエサを得るとして、定期購読をやめた18年間で計算すると 5×365×18=3万2850。この計算結果はともかく、新聞を読まなくなったことによる知性への影響は自覚としてある。そして知性や教養の類いは食べ物と同じで頭に貯めておけないとも思っている。
少し変わった例えになるので説明すると、
人間の身体は食べたものによってできている。食物は消化され栄養として細胞に取り込まれる。その細胞は分裂を繰り返して新しい細胞が生まれ、それと同数の古くなって活動を停止した細胞がウンチなどになって排出される。人間に200種類60兆個ある細胞は、身体の部位によって異なるが早いものだと1日から3日、脳や内臓は1年くらい、全体として5〜7年ですべての細胞が入れ替わっている。仮に7年として身体の中に今より7年前にあった細胞=身体の一部はもう存在していない。細胞分裂はコピー作業で同じ内容の細胞に生まれ変わるので気がつかないだけ。まあ食べなきゃ死ぬんだから当たり前なんだけれど。
知性や教養は蓄積すると思われがち。しかし食べ物と同じで「知性細胞」はエサを与えないと分裂しないし、古くなったものはドンドン排出されるのではないかと。もちろんこれに科学的な裏付けは何もない。ただ現役時代はカミソリのようにシャープで頭脳明晰だったのに、引退して数年でただのオッサンになっている人を何人か見てきているので、この珍説を思いついたしだい。
過去18年間で3万2850回も知性のエサを摂らなかった。もちろん知性のエサは新聞だけではないし、記事や情報だけとも限らない。それで何とか「wasshoさん、最近なまってきたなあ」と陰口を叩かれずに済んでいるのかも知れない(本人が知らないだけだったりして)。そんな私が言うのも変だが、新聞は手軽で消化吸収のよい知性のエサだから、できれば定期購読して毎日読むべきなのである。
しかし新聞業界はビックリするほどの右肩下がり。
日本新聞協会のデータによると一般紙(スポーツ紙を含まない)の発行部数は、
2000年:4740万1669部
2023年:2667万4129部 26674129 ÷ 47401669 = 56%
と半分近くまで減少している。(発行部数の定義は常識なのかどこにも説明がない。おそらく1日当たりの部数のはず)
複数部を購入する事業所もあるし、逆に4人家族でも購入するのは1部。また新聞社が過剰に販売店に売りつける「押し紙」もあるので発行部数=読者数とはならないにしても、読者数の減少率も同程度だろう。ちなみに全国の新聞販売所数も
2001年:2万1864店
2023年:1万3373店
と61%まで減少している。
ついでにその他のデータを記すと
2000年スポーツ紙:630万7162部
2023年スポーツ紙:191万6357部 1916357 ÷ 6307162 = 30%
2000年新聞広告収入:1兆2474億円
2023年新聞広告収入:3512億円 3512 ÷12474 = 28%
2000年日本の総広告費:6兆1102億円
うち新聞広告の占める割合 12474 ÷61102 = 20%
2023年日本の総広告費:7兆3167億円
うち新聞広告の占める割合 3512 ÷73167 = 4.8%
思わず(>_<) (>_<) (>_<) (>_<) (>_<) (>_<) (>_<) と書きたくなる内容。
現在、新聞を定期購読している家庭は6割弱だと推計されている。2008年には9割弱だった(ただしこの数字は高すぎる気もする)。また発行部数の減少ペースから計算して15年後に紙の新聞は消滅するとの予測もある。もしそうなれば知性のエサどころの話ではなく、ジャーナリズムが崩壊する事態になる。
既に産経は2002年に東京本社版の夕刊を廃止。朝毎読も夕刊を発行していない地域がいくつもあり、中京圏では全国紙の夕刊がまったく発行されていない。また毎日と産経は富山県での新聞発行を今年の9月末で終了する。
ーーー続く
<9月19日追記>
一部の年数表記に誤記がありました。
現在は修正済み。
それがどうして今になってかというと、定期購読無料お試しキャンペーンの一環として郵便受けに投函されていたから。
読んでみて最初の感想は記事内容ではなく、新聞のインクがまったく手につかないのに驚いた。2006年時点でも昔と較べれば多少は改良されていて、手につくインクの量は少なくなっていたが、今はまったく手移りなし。試しに指で紙面を強めに擦ってみても同じだった。そういえばこの10年は新聞に触れてもいなかったかも。いつ頃からこのレベルに改良されたのだろう。
ところで時代設定の古い海外の映画を見ると、貴族や大富豪の家には執事がいて、新聞にアイロンを当ててからご主人様に渡すシーンがある。アイロンしてインクが手につくのを防ぐのも執事の仕事。実はずいぶんと昔に試したことがある。もちろん執事を雇う余裕はないので自分でアイロン掛け(^^ゞ
結果は新聞が暖かくなっただけで手にはインクがついた(/o\) 多少はマシになった程度の効果。おそらくアイロンの裏技が有効なのは活版印刷だった戦前の新聞じゃないかな。
さて生活したり仕事をする上で必要な情報はネットが普及した現在、(紙の)新聞を定期購読しなくてもそこそこ充分に得ることが可能。でも新聞の価値はそこにあるのではない。ネット普及以前でも社会・生活情報ならテレビニュースで事足りていた。
新聞の最も価値ある長所は、あの縦54.5cm・横40.6cm・見開きなら81.2cmにもなる大きな紙面。それによる一覧性で、自分に関係ないあるいは興味のない記事がチラッと目に飛び込んでくるところにある。
例えば今回の9月3日付の日経新聞にあったこんな記事。
一番「オーっ」と思ったのがこれ(^^ゞ
もちろんネットでニュースはそれなりにチェックしている。でもこのような記事は重要度が高くないので、ニュースサイトでは相当にスクロールしないと現れない=面倒=結果的には見つけられない。
例として挙げたミャンマーやニデックの記事は、私の生活や仕事に何の関係もない。情報を「その人の判断や行動に影響を与えるもの」と狭義に定義するなら、これらは情報ですらない。今回はたまたまブログにしたが、普段ならチラッと見てあるいは少しだけ読んで、おそらくその15秒後には忘れている内容。でもそれが「知性のエサ」として大切な役割を果たすというのが私の考え。(今回は日経新聞なので事例が少し適切ではないが)
1日に5つ知性のエサを得るとして、定期購読をやめた18年間で計算すると 5×365×18=3万2850。この計算結果はともかく、新聞を読まなくなったことによる知性への影響は自覚としてある。そして知性や教養の類いは食べ物と同じで頭に貯めておけないとも思っている。
少し変わった例えになるので説明すると、
人間の身体は食べたものによってできている。食物は消化され栄養として細胞に取り込まれる。その細胞は分裂を繰り返して新しい細胞が生まれ、それと同数の古くなって活動を停止した細胞がウンチなどになって排出される。人間に200種類60兆個ある細胞は、身体の部位によって異なるが早いものだと1日から3日、脳や内臓は1年くらい、全体として5〜7年ですべての細胞が入れ替わっている。仮に7年として身体の中に今より7年前にあった細胞=身体の一部はもう存在していない。細胞分裂はコピー作業で同じ内容の細胞に生まれ変わるので気がつかないだけ。まあ食べなきゃ死ぬんだから当たり前なんだけれど。
知性や教養は蓄積すると思われがち。しかし食べ物と同じで「知性細胞」はエサを与えないと分裂しないし、古くなったものはドンドン排出されるのではないかと。もちろんこれに科学的な裏付けは何もない。ただ現役時代はカミソリのようにシャープで頭脳明晰だったのに、引退して数年でただのオッサンになっている人を何人か見てきているので、この珍説を思いついたしだい。
過去18年間で3万2850回も知性のエサを摂らなかった。もちろん知性のエサは新聞だけではないし、記事や情報だけとも限らない。それで何とか「wasshoさん、最近なまってきたなあ」と陰口を叩かれずに済んでいるのかも知れない(本人が知らないだけだったりして)。そんな私が言うのも変だが、新聞は手軽で消化吸収のよい知性のエサだから、できれば定期購読して毎日読むべきなのである。
しかし新聞業界はビックリするほどの右肩下がり。
日本新聞協会のデータによると一般紙(スポーツ紙を含まない)の発行部数は、
2000年:4740万1669部
2023年:2667万4129部 26674129 ÷ 47401669 = 56%
と半分近くまで減少している。(発行部数の定義は常識なのかどこにも説明がない。おそらく1日当たりの部数のはず)
複数部を購入する事業所もあるし、逆に4人家族でも購入するのは1部。また新聞社が過剰に販売店に売りつける「押し紙」もあるので発行部数=読者数とはならないにしても、読者数の減少率も同程度だろう。ちなみに全国の新聞販売所数も
2001年:2万1864店
2023年:1万3373店
と61%まで減少している。
ついでにその他のデータを記すと
2000年スポーツ紙:630万7162部
2023年スポーツ紙:191万6357部 1916357 ÷ 6307162 = 30%
2000年新聞広告収入:1兆2474億円
2023年新聞広告収入:3512億円 3512 ÷12474 = 28%
2000年日本の総広告費:6兆1102億円
うち新聞広告の占める割合 12474 ÷61102 = 20%
2023年日本の総広告費:7兆3167億円
うち新聞広告の占める割合 3512 ÷73167 = 4.8%
思わず(>_<) (>_<) (>_<) (>_<) (>_<) (>_<) (>_<) と書きたくなる内容。
現在、新聞を定期購読している家庭は6割弱だと推計されている。2008年には9割弱だった(ただしこの数字は高すぎる気もする)。また発行部数の減少ペースから計算して15年後に紙の新聞は消滅するとの予測もある。もしそうなれば知性のエサどころの話ではなく、ジャーナリズムが崩壊する事態になる。
既に産経は2002年に東京本社版の夕刊を廃止。朝毎読も夕刊を発行していない地域がいくつもあり、中京圏では全国紙の夕刊がまったく発行されていない。また毎日と産経は富山県での新聞発行を今年の9月末で終了する。
ーーー続く
<9月19日追記>
一部の年数表記に誤記がありました。
現在は修正済み。
2024年09月12日
「殺害しました」の違和感
4年ほど前に「ゲームに課金するという言葉遣い」について、違和感が拭えない話を書いた。詳しくはリンクしたページを読んで欲しいが、
課金は課される、支払い義務を負う意味なのに
自らの意思で支払うのを「課金する」とは
税金を支払った納税を「税金を課税した」といっているようなもの
などの内容。
もっとも言葉なんてのは時代共に移り変わる。極端な話をすれば平安時代と現代ではまったく違う日本語である。だから古文の授業でその「解読方法」を習わないと読めない。それは充分に承知していても、自分が覚えた言葉が後になって意味が変わると、頭ではわかっても身体がついてこない場合もある。鎌倉時代の始まりが今は「いい国作ろう」の1192年ではないとされていると知って困惑するのと同じ。
一方で流行り言葉的なものは、そのときどきに生まれる=「覚えた言葉が後になって意味が変わる」のではないから案外と抵抗はない。何でもかんでもに「カワイイ」を連発するようになったのは35年くらい前かな。最近で似たようなポジションにあるのは「ヤバい」と「エモい」だろうか。私も口癖になっている(^^ゞ
覚えた言葉が後になって意味が変わる=自分の感覚とは違う使い方が広まったとしても無理に使う必要はないし、だからといって特に困りはしない。ただし言葉は自分で話す・書くよりも、聞く・読む分量の方が圧倒的に多い。それで否応(いやおう)なく目にしたり耳にして頭の中でモヤっとするのが困りもの。
幸い「課金する」に関して私の周りの日常会話ではあまり出てこない。
しかしその平穏が打ち破られた?のが今夏のパリオリンピック。
新聞の見出しになっとるやないか!
スポーツ紙や夕刊紙ならともかく全国紙の見出しにまで使われるのは「自らの意思で課金する」が、もはや正しい日本語として認められたことになるのだろうか。私はまだ抵抗があるけどな。
「ゲームに課金する」の表現を知らない人のために書いておくと、
このトルコのユスフ・ディケチ選手が「無課金おじさん」と呼ばれたのは、
・利き目でない目を遮蔽するブラインダー
・防音のためのイヤーマフ(エアピストルなのに必要なのかと思うが、無課金
おじさんも普通の耳栓はしているので会場のざわめき対策なのかも知れない)
・姿勢を安定させるための硬質素材のジャケットや射撃専用シューズ
などを使用せず、まるで普段着のようなTシャツ姿で競技に参加したから。
「ゲームに課金する」はオンラインゲームで、いろいろアイテムを買い揃えるところから生まれた。それになぞらえて反対の素の状態=無課金との表現。彼の射撃スタイルは世界中で話題になった。もちろん無課金おじさんなんてニックネームが生まれたのは日本だけ。海外ではそのさりげなさからか「トルコのヒットマン」と呼ばれていたみたいだ(^^ゞ
さてここからが本題。
モヤっとする言葉遣いは他にもいくつかあるものの、ここ最近で一番気になっているのはニュースなどでよくある「◯◯がテロリストの誰それを殺害しました」などの言い回し。
この表現がどうして引っ掛かるのか?
最初は殺害が「殺害される」と受け身に使うべき単語だからと考えた。しかし「人質を殺害した犯人」だと違和感はないから受動態・能動態説は却下。
自分でもよくわからないが、おそらく私の感覚で殺害を「悪の行為」と捉えているのが原因かもと思っている。だから「犯人によって殺害された」だと素直に読める。(例に挙げた見出しが「悪の行為」でないかどうかはスルーして読んでちょうだい)
以前は「射殺した」「攻撃により死亡した」と言っていたと思う。正当な攻撃の場合に「殺害しました」と言い始めたのは、ハッキリとした記憶はないものの、ここ5年ほどで早くても10年くらい前からだと思う。少なくとも20年前にそのような表現はなかったはず。
「殺害しました」がよく使われるようになった理由も不明。昔は小規模な戦闘の場合は銃撃・射殺がその方法だったのに、無人機から小さなミサイルなどを撃つようになった。それを見出しの長さでは説明し切れないし、かといって「殺しました」でもおかしいから、簡潔な言葉として殺害が使われるようになったのかなとも想像している。英語ではどうなっているかにも興味があるけれどまだ調べていない。
とりあえず「殺害しました」と聞くと、
未だにモヤッとすると同時にちょっとビクッとする。
課金は課される、支払い義務を負う意味なのに
自らの意思で支払うのを「課金する」とは
税金を支払った納税を「税金を課税した」といっているようなもの
などの内容。
もっとも言葉なんてのは時代共に移り変わる。極端な話をすれば平安時代と現代ではまったく違う日本語である。だから古文の授業でその「解読方法」を習わないと読めない。それは充分に承知していても、自分が覚えた言葉が後になって意味が変わると、頭ではわかっても身体がついてこない場合もある。鎌倉時代の始まりが今は「いい国作ろう」の1192年ではないとされていると知って困惑するのと同じ。
一方で流行り言葉的なものは、そのときどきに生まれる=「覚えた言葉が後になって意味が変わる」のではないから案外と抵抗はない。何でもかんでもに「カワイイ」を連発するようになったのは35年くらい前かな。最近で似たようなポジションにあるのは「ヤバい」と「エモい」だろうか。私も口癖になっている(^^ゞ
覚えた言葉が後になって意味が変わる=自分の感覚とは違う使い方が広まったとしても無理に使う必要はないし、だからといって特に困りはしない。ただし言葉は自分で話す・書くよりも、聞く・読む分量の方が圧倒的に多い。それで否応(いやおう)なく目にしたり耳にして頭の中でモヤっとするのが困りもの。
幸い「課金する」に関して私の周りの日常会話ではあまり出てこない。
しかしその平穏が打ち破られた?のが今夏のパリオリンピック。
新聞の見出しになっとるやないか!
スポーツ紙や夕刊紙ならともかく全国紙の見出しにまで使われるのは「自らの意思で課金する」が、もはや正しい日本語として認められたことになるのだろうか。私はまだ抵抗があるけどな。
「ゲームに課金する」の表現を知らない人のために書いておくと、
このトルコのユスフ・ディケチ選手が「無課金おじさん」と呼ばれたのは、
・利き目でない目を遮蔽するブラインダー
・防音のためのイヤーマフ(エアピストルなのに必要なのかと思うが、無課金
おじさんも普通の耳栓はしているので会場のざわめき対策なのかも知れない)
・姿勢を安定させるための硬質素材のジャケットや射撃専用シューズ
などを使用せず、まるで普段着のようなTシャツ姿で競技に参加したから。
「ゲームに課金する」はオンラインゲームで、いろいろアイテムを買い揃えるところから生まれた。それになぞらえて反対の素の状態=無課金との表現。彼の射撃スタイルは世界中で話題になった。もちろん無課金おじさんなんてニックネームが生まれたのは日本だけ。海外ではそのさりげなさからか「トルコのヒットマン」と呼ばれていたみたいだ(^^ゞ
さてここからが本題。
モヤっとする言葉遣いは他にもいくつかあるものの、ここ最近で一番気になっているのはニュースなどでよくある「◯◯がテロリストの誰それを殺害しました」などの言い回し。
この表現がどうして引っ掛かるのか?
最初は殺害が「殺害される」と受け身に使うべき単語だからと考えた。しかし「人質を殺害した犯人」だと違和感はないから受動態・能動態説は却下。
自分でもよくわからないが、おそらく私の感覚で殺害を「悪の行為」と捉えているのが原因かもと思っている。だから「犯人によって殺害された」だと素直に読める。(例に挙げた見出しが「悪の行為」でないかどうかはスルーして読んでちょうだい)
以前は「射殺した」「攻撃により死亡した」と言っていたと思う。正当な攻撃の場合に「殺害しました」と言い始めたのは、ハッキリとした記憶はないものの、ここ5年ほどで早くても10年くらい前からだと思う。少なくとも20年前にそのような表現はなかったはず。
「殺害しました」がよく使われるようになった理由も不明。昔は小規模な戦闘の場合は銃撃・射殺がその方法だったのに、無人機から小さなミサイルなどを撃つようになった。それを見出しの長さでは説明し切れないし、かといって「殺しました」でもおかしいから、簡潔な言葉として殺害が使われるようになったのかなとも想像している。英語ではどうなっているかにも興味があるけれどまだ調べていない。
とりあえず「殺害しました」と聞くと、
未だにモヤッとすると同時にちょっとビクッとする。
2024年09月09日
ヒマワリが枯れてベランダの夏が終了
この三日間の東京での最高気温は33.6〜33.8度とまだまだ暑いものの、さすがに9月も第2週目なので日差しはそれほど強くないし、夕方以降になると少し涼しく感じる。35度以上の猛暑日が19日あり、7月29日に最高気温37.3度を記録した今年の夏も、そろそろ終わりの始まりといったところ。猛暑日はもうないんじゃないかな。
5月2日に種まきして、10日に初発芽したミニヒマワリ。7月28日に初開花して、その後を期待していたのに8月10日くらいからハダニ発生(>_<)
これが650型プランターで元気に咲いている姿を、
最後に撮影した8月6日の写真。
そして8月31日。
クモの巣のようなところに点々といるのがハダニ。
見つけるたびに取り除き、殺虫剤もスプレーしていたが駆除には至らず途中からは諦めた。「泣く子と地頭には勝てない」ならぬ、大量発生してしまったら「ハダニとアブラムシには勝てない」のがガーデニングのセオリー。それにしてもコイツらは一体どこからやってくるのだ?
もう養分がないのか葉についていたハダニはいなくなった。
こちらの小さな丸形プランターにはハダニはつかなかった。
色が残っている部分もあるが時期的にもう終了間近。
650型プランターの9月7日。
もう9月1日からは水やりもしていない。
同日の丸形プランター。
こちらはまだ水やりしているけれど、そろそろご臨終。
ヒマワリが枯れて、
一足先にベランダの夏は終わり。
このミニヒマワリは枝咲きの品種で、茎に小さな花芽は複数付けたものの、その半分以上は開花していない。平均すれば1株につき5つの花芽を付けても咲くのは2つだけといったところ。まあそれでも夏らしい景色をベランダで眺められて満足はしている。
百日草はまだ咲き続けている。でもまったくボリューム感がなくて、期待していたのはずいぶんと違う姿。今以上に賑やかにはならないだろうが9月いっぱいは持ちそう。
たまに丸い形のが咲く。
でも基本はこの形。
今から咲き始める花芽もかなり残っている。
6月下旬に「追い種まき」した百日草は伸びてはいても、かいわれ大根のような細さ。これから太く成長するとは思えず、たぶんこのままで終わるだろう。
大きく育った百日草は上の写真のような、100円ショップの菜箸を継ぎ足した支柱では長さが足りなくなってきたので、7月の終わりにホームセンターでガーデニング用の支柱を買ってきた。
しかし650型プランターは深さがなくしっかりと支柱を突き刺せない。
それで株が風を受けると支柱がすぐに傾いてしまう。
それを何とか食い止めている割り箸による補強工事(^^ゞ
ごく小さな花を少しだけ咲かせたマリーゴールドは、その後に雑草と化し枯れてしまった。
そして矢車草は
このような状態から、
これくらいが精一杯で、いつの間にか姿を消した。
タネの購入代金を返して欲しい(/o\)
<2024年9月18日追記>
冒頭に「猛暑日はもうないんじゃないかな」と書いたけれど、本日9月18日に東京は最高気温35.1度を記録。予想が外れましたm(_ _)m
これは1875年(明治8年)の統計開始以降で最も遅い猛暑日で、これまでの記録は1942年(昭和17年)9月12日の35.3度。地球温暖化なんかなかった時代なのに意外と記録更新は82年ぶり。
なお夜7時頃に雨が降ったので、午後11時現在の気温は24.9度で涼しい。ブログを書いた9月9日頃に「そろそろ夏の終わりの始まり」と書いたのは間違っていたわけではないと言い訳しておきましょう(^^ゞ
5月2日に種まきして、10日に初発芽したミニヒマワリ。7月28日に初開花して、その後を期待していたのに8月10日くらいからハダニ発生(>_<)
これが650型プランターで元気に咲いている姿を、
最後に撮影した8月6日の写真。
そして8月31日。
クモの巣のようなところに点々といるのがハダニ。
見つけるたびに取り除き、殺虫剤もスプレーしていたが駆除には至らず途中からは諦めた。「泣く子と地頭には勝てない」ならぬ、大量発生してしまったら「ハダニとアブラムシには勝てない」のがガーデニングのセオリー。それにしてもコイツらは一体どこからやってくるのだ?
もう養分がないのか葉についていたハダニはいなくなった。
こちらの小さな丸形プランターにはハダニはつかなかった。
色が残っている部分もあるが時期的にもう終了間近。
650型プランターの9月7日。
もう9月1日からは水やりもしていない。
同日の丸形プランター。
こちらはまだ水やりしているけれど、そろそろご臨終。
ヒマワリが枯れて、
一足先にベランダの夏は終わり。
このミニヒマワリは枝咲きの品種で、茎に小さな花芽は複数付けたものの、その半分以上は開花していない。平均すれば1株につき5つの花芽を付けても咲くのは2つだけといったところ。まあそれでも夏らしい景色をベランダで眺められて満足はしている。
百日草はまだ咲き続けている。でもまったくボリューム感がなくて、期待していたのはずいぶんと違う姿。今以上に賑やかにはならないだろうが9月いっぱいは持ちそう。
たまに丸い形のが咲く。
でも基本はこの形。
今から咲き始める花芽もかなり残っている。
6月下旬に「追い種まき」した百日草は伸びてはいても、かいわれ大根のような細さ。これから太く成長するとは思えず、たぶんこのままで終わるだろう。
大きく育った百日草は上の写真のような、100円ショップの菜箸を継ぎ足した支柱では長さが足りなくなってきたので、7月の終わりにホームセンターでガーデニング用の支柱を買ってきた。
しかし650型プランターは深さがなくしっかりと支柱を突き刺せない。
それで株が風を受けると支柱がすぐに傾いてしまう。
それを何とか食い止めている割り箸による補強工事(^^ゞ
ごく小さな花を少しだけ咲かせたマリーゴールドは、その後に雑草と化し枯れてしまった。
そして矢車草は
このような状態から、
これくらいが精一杯で、いつの間にか姿を消した。
タネの購入代金を返して欲しい(/o\)
<2024年9月18日追記>
冒頭に「猛暑日はもうないんじゃないかな」と書いたけれど、本日9月18日に東京は最高気温35.1度を記録。予想が外れましたm(_ _)m
これは1875年(明治8年)の統計開始以降で最も遅い猛暑日で、これまでの記録は1942年(昭和17年)9月12日の35.3度。地球温暖化なんかなかった時代なのに意外と記録更新は82年ぶり。
なお夜7時頃に雨が降ったので、午後11時現在の気温は24.9度で涼しい。ブログを書いた9月9日頃に「そろそろ夏の終わりの始まり」と書いたのは間違っていたわけではないと言い訳しておきましょう(^^ゞ
2024年09月07日
原宿スーパーよさこい2024 番外編 ぼんおどり会場
会場マップには代々木公園の端に「代々木の杜ぼんおどり会場」と書かれている。そのネーミングを見れば、多くの人はこれをよさこいとは別に盆踊りを踊る場所だと思うはず。私はそう認識した。
でもここはNHK前ストリートや表参道と同じく、
よさこいパレードの会場だったのである。
下に引用したYouTubeは「ぼんおどり会場」の様子。
もちろん踊っているのは「盆踊り」ではなく「よさこい」なのは言うまでもない。
NHK前で見たソフトバンク。
途中からずーっとパレードを追いかけている女の子がカワイイ。
※スタートボタンをクリックした後、画面右下隅に現れる四角いマークをクリックするとディスプレイ一杯に映像が広がる。スマホだとほとんど違いはないけど。どちらの動画も最初の10〜20秒はピントが合っていないが、そのうちキレイな映像になる。
今回優勝した十人十彩(じゅうにん・といろ)。
さすがに芸術点が高そうで見応えがある。
YouTubeの映像を見る限り、ここに大勢が輪になって盆踊りを踊るようなスペースはない。
どこか別の近くに盆踊り会場が設けられているのだろうか。
もしそうだとしても、どうして「代々木の杜ぼんおどり会場」と、よさこいとまったく関連のない名前なのだ? ここでよさこいのパレードがあるとは思わないじゃないか。
表参道でのパレードが8月25日だけなのをホームページで充分に知らせないだけで、主催者のボンクラは確定していたが、この会場ネーミングでボンクラ再確定。
ついでに言うとこの会場は以前にブログでも紹介した、代々木公園とは4車線道路を隔てて西側にある「渋谷はるのおがわプレーパーク」のさらに西側にある道路。(ひょっとして盆踊りはプレーパーク内で?)
写真は右が代々木公園で、左が渋谷はるのおがわプレーパーク。
代々木の杜とは代々木公園のことなので、
「ぼんおどり会場」だけではなくネーミング前半もボンクラである。
それにこの付近に土地勘がなければ、あの会場マップを見て、それが代々木公園の外だと知るのも難しい。ボンクラ主催者は原宿表参道欅会(けやきかい)という地元商店街なので、彼らにとってはそれで充分な情報なのだろう。会場マップが誰のためのものかすらわかっていない。
また8月24日のNHK前ストリートでは
倭奏(わっか)
北里大学
ソフトバンク
の順でパレードを見た。
でもなぜかプログラムには北里大学の名前がない。
ひょっとしたら北里大学のエントリーが遅れたのかも知れない。だとしたら印刷のプログラムが空欄になってしまうのは仕方ない面もある(空欄すなわち出場枠だけが設定されている理由の推測は難しいが)。でもウェッブ上にあるプログラムなんて開始10分前でも北里大学と書き込めるはず。(先ほど確認したら現在もホームページは修正されていなかった。期待していなかったけど)
「神は細部に宿る」なんてことはボンクラ主催者はわかっていないようだ。もっとも表参道でのパレードが8月25日だけという重要な情報をしっかり伝えないコイツらに、細部まで気が行き届くはずがないかーーー
まっ、今日はこのくらいにしといタロ(^^ゞ
でもここはNHK前ストリートや表参道と同じく、
よさこいパレードの会場だったのである。
下に引用したYouTubeは「ぼんおどり会場」の様子。
もちろん踊っているのは「盆踊り」ではなく「よさこい」なのは言うまでもない。
NHK前で見たソフトバンク。
途中からずーっとパレードを追いかけている女の子がカワイイ。
※スタートボタンをクリックした後、画面右下隅に現れる四角いマークをクリックするとディスプレイ一杯に映像が広がる。スマホだとほとんど違いはないけど。どちらの動画も最初の10〜20秒はピントが合っていないが、そのうちキレイな映像になる。
今回優勝した十人十彩(じゅうにん・といろ)。
さすがに芸術点が高そうで見応えがある。
YouTubeの映像を見る限り、ここに大勢が輪になって盆踊りを踊るようなスペースはない。
どこか別の近くに盆踊り会場が設けられているのだろうか。
もしそうだとしても、どうして「代々木の杜ぼんおどり会場」と、よさこいとまったく関連のない名前なのだ? ここでよさこいのパレードがあるとは思わないじゃないか。
表参道でのパレードが8月25日だけなのをホームページで充分に知らせないだけで、主催者のボンクラは確定していたが、この会場ネーミングでボンクラ再確定。
ついでに言うとこの会場は以前にブログでも紹介した、代々木公園とは4車線道路を隔てて西側にある「渋谷はるのおがわプレーパーク」のさらに西側にある道路。(ひょっとして盆踊りはプレーパーク内で?)
写真は右が代々木公園で、左が渋谷はるのおがわプレーパーク。
代々木の杜とは代々木公園のことなので、
「ぼんおどり会場」だけではなくネーミング前半もボンクラである。
それにこの付近に土地勘がなければ、あの会場マップを見て、それが代々木公園の外だと知るのも難しい。ボンクラ主催者は原宿表参道欅会(けやきかい)という地元商店街なので、彼らにとってはそれで充分な情報なのだろう。会場マップが誰のためのものかすらわかっていない。
また8月24日のNHK前ストリートでは
倭奏(わっか)
北里大学
ソフトバンク
の順でパレードを見た。
でもなぜかプログラムには北里大学の名前がない。
ひょっとしたら北里大学のエントリーが遅れたのかも知れない。だとしたら印刷のプログラムが空欄になってしまうのは仕方ない面もある(空欄すなわち出場枠だけが設定されている理由の推測は難しいが)。でもウェッブ上にあるプログラムなんて開始10分前でも北里大学と書き込めるはず。(先ほど確認したら現在もホームページは修正されていなかった。期待していなかったけど)
「神は細部に宿る」なんてことはボンクラ主催者はわかっていないようだ。もっとも表参道でのパレードが8月25日だけという重要な情報をしっかり伝えないコイツらに、細部まで気が行き届くはずがないかーーー
まっ、今日はこのくらいにしといタロ(^^ゞ
2024年09月05日
原宿スーパーよさこい2024 その5
そろそろ帰ろうかと思いつつ、
もう一度「代々木公園ステージ」へ。
先ほどより人は少なくなって立ち見の最後列でこんな感じ。
ステージに上がっていたのは実践女子大学。
メルヘンっぽいコスチューム。音楽もそれに合わせた感じでアイドルグループのダンスみたいだった。まあどこも同じようなよさこいじゃつまらないから、これもまたよし。
次は、学生よさこいチームおどりんちゅ。
いろいろな大学のよさこい好きが集まったチームの模様。
こちらはコスチュームも和風テイストで、ザ・よさこい的な感じ。最後にまったく違うよさこい2つを見られてよかった。
ステージから離れて。
もっと離れて。
というわけで2015年に見た浅草のサンバカーニバル、2017年の高円寺の阿波踊りに続いて、今回の原宿スーパーよさこいで東京・夏の3大ダンスフェスティバルをめでたくコンプリート。
なお3大ダンスフェスティバルとは私が勝手に決めた名称。規模的には原宿スーパーよさこいと、10月に開催される池袋「ふくろ祭り」の一部である「東京よさこい」はほぼ同じ。でも個人的には原宿に馴染みがあるのでエコヒイキ(^^ゞ 今回の参加は106チーム。
ちなみにそれぞれが始まったのは
高円寺阿波踊り 1957年 徳島での起源は450年ほど前で秀吉の時代
浅草サンバカーニバル 1981年
原宿スーパーよさこい 2001年 徳島の阿波踊りに対抗して、高知で
よさこいが始まったのは1954年(昭和29年)
原宿よさこいの歴史が高円寺や浅草と較べて比較的浅いとはいえ、もう20年以上も続いている。その割には、そして表参道を閉鎖してまでパレードをやるのにその知名度はまったく高くない。東京に住んでいたら浅草サンバカーニバルは、まあほとんどの人が知っている。高円寺阿波踊りは1/4位の人かなあ。原宿よさこいは知っている人を探すのが難しいレベルだと思う。
その原因のひとつはボンクラな主催者にあるとして(まだネに持っている)、それにしても実にもったいない。もっとも見物客がが少ないおかげでパレードを見る場所取りには苦労しないし、ステージ前をのぞけば会場は混雑しておらず見物するには楽。でももっと盛り上がって欲しいな。やはり祭りはたくさんの人が集まらないと。
「代々木公園ステージ」のそばにある屋台村の様子。
そろそろ終了時刻が近いとはいえ、この寂れっぷり(>_<)
ところで主催者の告知が不十分なせいで、表参道でのパレードを見られなかった話は最初のブログに書いた通り。しかし考えようによっては「NHK前ストリート」と「代々木公園ステージ」は隣り合っているので、両方を行き来しながらパレードとステージを楽しむのが、結果的には一番よかったのかも知れない。NHK前ストリートは表参道と較べて距離は短いけれど、推しチームのパレードを追いかけるような見方をするのでなければ、どこか一箇所にとどまって見物するわけだし。
本日のきっかけとなった玉敷公園のよさこいは、女子中学生数人の創作ダンスのような内容だったので、本格的なよさこいを見るのは今回が初めて。
高知ローカルの祭りだったよさこいは、1992年(平成4年)に北海道でYOSAKOIソーランに発展し、それをきっかけに1999年(平成11年)には「よさこい全国大会」が開催されるまでに広まる。その頃はニュースでも各地のよさこいの様子がよく紹介されていた。
実はそのときの印象はあまりよくなかった。何となくヤンキーが特攻服もどきを着て、イキッて踊っているようなチームもあって、下品な祭りが流行りだしたなあと思っていた。
それから25年。
時代の流れでヤンキーらしさがなくなったのか、あるいは私がそれだけ歳をとって若い人が一生懸命踊っている姿を眺めるのが嬉しい年代になったのか(^^ゞ まあサンバも阿波踊りもそうだけれど、ニコニコしながら踊っている人を見ると楽しいし、こちらまで元気になってくる。このサンバ・阿波踊り・よさこいの3つは小規模なイベントなら全国各地で行われているので、探して出かけてみるのをお勧め。
ただ初めてよさこいを見て不満だった内容がひとつある。
それは
地方車(じかたしゃ)がジャマ!
よさこいでは地方車と呼ばれるトラック、祭りの一般用語で言えば山車(だし)がパレードを先導する。必然的に地方車が目の前を通り過ぎるまで、その後ろでよさこいを踊っているパレードが地方車に遮られてよく見えない。
この写真は地方車がかなり接近してからの撮影。
これをもっと離れた位置で見ている状況を想像して欲しい。
目の前まで来たパレードを見るだけでも楽しめるとはいえ、どうせならもっと長く眺めていたいもの。それにパレードの中間点からゴール寄りにいると、コスチュームの上側を脱いでのイメージチェンジがまず見られない。
長く続けてきたやり方に、よさこい初心者の私が文句を付けるのは気が引けるものの、サンバも阿波踊りも先導車はない。だから地方車が先頭にいなくてもパレードのペース維持には支障はないはず。地方車はパレードの最後尾にすべきと思う。
そうすると現在は地方車の後ろ向きに積んであるスピーカーを前に向ける必要がある。でもなんとかなるでしょう。音量が不足ならパレード列の中程にPA(音響装置)を積んだ手押し車を配置する手もある。夜間のパレード先頭を照らす照明だけはなんともならないが、まあ沿道に照明を増やしてちょうだい。
こちらは公式ホームページに載っていた審査結果。
全106チームでなにがしかの賞を取ったのは19チーム。そのうち高知県(他府県との連合も含む)のチームが9チームで、勝率的に計算するなら47%と半数近い。さすが本場の実力は伊達じゃないね。
入賞19チーム中、私が見たのは4チーム。次に来るときは過去の受賞歴を調べて、有力チームをたくさん見られるように見物の段取りを考えましょう。
この日の最高気温は34.4度。その割に雲が多くて日差しが弱く、日中もわりと過ごしやすかった。そして日が暮れるとまだ30度を少し下回った程度なのに、そこそこ風も吹いて涼しくなる。秋祭りの気配だなと感じたほど。
じゃせっかくなので渋谷あるいはもっと先まで散歩しながら帰ろうかと思ったのに、天気予報を確認すると午後8時より雨が降り出す予報。ひょっとしてゲリラ豪雨になったら困るので、無理をせず明治神宮前駅から電車に乗って帰宅。
それでも自宅に戻ってみると本日の歩数は1万歩を超えていた。
そんなに歩いたつもりはないのに、やはり明治神宮・代々木公園周辺は広いのだと実感。
おしまい
でも番外編がまだ残っている。
もう一度「代々木公園ステージ」へ。
先ほどより人は少なくなって立ち見の最後列でこんな感じ。
ステージに上がっていたのは実践女子大学。
メルヘンっぽいコスチューム。音楽もそれに合わせた感じでアイドルグループのダンスみたいだった。まあどこも同じようなよさこいじゃつまらないから、これもまたよし。
次は、学生よさこいチームおどりんちゅ。
いろいろな大学のよさこい好きが集まったチームの模様。
こちらはコスチュームも和風テイストで、ザ・よさこい的な感じ。最後にまったく違うよさこい2つを見られてよかった。
ステージから離れて。
もっと離れて。
というわけで2015年に見た浅草のサンバカーニバル、2017年の高円寺の阿波踊りに続いて、今回の原宿スーパーよさこいで東京・夏の3大ダンスフェスティバルをめでたくコンプリート。
なお3大ダンスフェスティバルとは私が勝手に決めた名称。規模的には原宿スーパーよさこいと、10月に開催される池袋「ふくろ祭り」の一部である「東京よさこい」はほぼ同じ。でも個人的には原宿に馴染みがあるのでエコヒイキ(^^ゞ 今回の参加は106チーム。
ちなみにそれぞれが始まったのは
高円寺阿波踊り 1957年 徳島での起源は450年ほど前で秀吉の時代
浅草サンバカーニバル 1981年
原宿スーパーよさこい 2001年 徳島の阿波踊りに対抗して、高知で
よさこいが始まったのは1954年(昭和29年)
原宿よさこいの歴史が高円寺や浅草と較べて比較的浅いとはいえ、もう20年以上も続いている。その割には、そして表参道を閉鎖してまでパレードをやるのにその知名度はまったく高くない。東京に住んでいたら浅草サンバカーニバルは、まあほとんどの人が知っている。高円寺阿波踊りは1/4位の人かなあ。原宿よさこいは知っている人を探すのが難しいレベルだと思う。
その原因のひとつはボンクラな主催者にあるとして(まだネに持っている)、それにしても実にもったいない。もっとも見物客がが少ないおかげでパレードを見る場所取りには苦労しないし、ステージ前をのぞけば会場は混雑しておらず見物するには楽。でももっと盛り上がって欲しいな。やはり祭りはたくさんの人が集まらないと。
「代々木公園ステージ」のそばにある屋台村の様子。
そろそろ終了時刻が近いとはいえ、この寂れっぷり(>_<)
ところで主催者の告知が不十分なせいで、表参道でのパレードを見られなかった話は最初のブログに書いた通り。しかし考えようによっては「NHK前ストリート」と「代々木公園ステージ」は隣り合っているので、両方を行き来しながらパレードとステージを楽しむのが、結果的には一番よかったのかも知れない。NHK前ストリートは表参道と較べて距離は短いけれど、推しチームのパレードを追いかけるような見方をするのでなければ、どこか一箇所にとどまって見物するわけだし。
本日のきっかけとなった玉敷公園のよさこいは、女子中学生数人の創作ダンスのような内容だったので、本格的なよさこいを見るのは今回が初めて。
高知ローカルの祭りだったよさこいは、1992年(平成4年)に北海道でYOSAKOIソーランに発展し、それをきっかけに1999年(平成11年)には「よさこい全国大会」が開催されるまでに広まる。その頃はニュースでも各地のよさこいの様子がよく紹介されていた。
実はそのときの印象はあまりよくなかった。何となくヤンキーが特攻服もどきを着て、イキッて踊っているようなチームもあって、下品な祭りが流行りだしたなあと思っていた。
それから25年。
時代の流れでヤンキーらしさがなくなったのか、あるいは私がそれだけ歳をとって若い人が一生懸命踊っている姿を眺めるのが嬉しい年代になったのか(^^ゞ まあサンバも阿波踊りもそうだけれど、ニコニコしながら踊っている人を見ると楽しいし、こちらまで元気になってくる。このサンバ・阿波踊り・よさこいの3つは小規模なイベントなら全国各地で行われているので、探して出かけてみるのをお勧め。
ただ初めてよさこいを見て不満だった内容がひとつある。
それは
地方車(じかたしゃ)がジャマ!
よさこいでは地方車と呼ばれるトラック、祭りの一般用語で言えば山車(だし)がパレードを先導する。必然的に地方車が目の前を通り過ぎるまで、その後ろでよさこいを踊っているパレードが地方車に遮られてよく見えない。
この写真は地方車がかなり接近してからの撮影。
これをもっと離れた位置で見ている状況を想像して欲しい。
目の前まで来たパレードを見るだけでも楽しめるとはいえ、どうせならもっと長く眺めていたいもの。それにパレードの中間点からゴール寄りにいると、コスチュームの上側を脱いでのイメージチェンジがまず見られない。
長く続けてきたやり方に、よさこい初心者の私が文句を付けるのは気が引けるものの、サンバも阿波踊りも先導車はない。だから地方車が先頭にいなくてもパレードのペース維持には支障はないはず。地方車はパレードの最後尾にすべきと思う。
そうすると現在は地方車の後ろ向きに積んであるスピーカーを前に向ける必要がある。でもなんとかなるでしょう。音量が不足ならパレード列の中程にPA(音響装置)を積んだ手押し車を配置する手もある。夜間のパレード先頭を照らす照明だけはなんともならないが、まあ沿道に照明を増やしてちょうだい。
こちらは公式ホームページに載っていた審査結果。
全106チームでなにがしかの賞を取ったのは19チーム。そのうち高知県(他府県との連合も含む)のチームが9チームで、勝率的に計算するなら47%と半数近い。さすが本場の実力は伊達じゃないね。
入賞19チーム中、私が見たのは4チーム。次に来るときは過去の受賞歴を調べて、有力チームをたくさん見られるように見物の段取りを考えましょう。
この日の最高気温は34.4度。その割に雲が多くて日差しが弱く、日中もわりと過ごしやすかった。そして日が暮れるとまだ30度を少し下回った程度なのに、そこそこ風も吹いて涼しくなる。秋祭りの気配だなと感じたほど。
じゃせっかくなので渋谷あるいはもっと先まで散歩しながら帰ろうかと思ったのに、天気予報を確認すると午後8時より雨が降り出す予報。ひょっとしてゲリラ豪雨になったら困るので、無理をせず明治神宮前駅から電車に乗って帰宅。
それでも自宅に戻ってみると本日の歩数は1万歩を超えていた。
そんなに歩いたつもりはないのに、やはり明治神宮・代々木公園周辺は広いのだと実感。
おしまい
でも番外編がまだ残っている。
2024年09月03日
原宿スーパーよさこい2024 その4
「代々木公園ステージ」で6チームのダンスを見て、
やはりよさこいはパレードのほうが面白いかと思い、再び「NHK前ストリート」へ。
時刻は午後6時半頃。まだ日没して10分ほどしか立っておらず明るさは残っていても、ここはケヤキ並木で日光が遮られて周りより暗い。先ほどのステージと違って照明も十分にない。それは、よさこいのように激しい動きを撮るには条件が厳しいことを意味する。
ほぼオート設定で撮るとシャッタースピードは6/10秒になり、
明るいけれど人物の動きについていけずにブレまくり。
試しに感度設定を ISO25600と普段ではあり得ない値にして、シャッタースピードは1/180秒で撮影。これだとブレないかわりに真っ暗。
画像ソフトで無理やり補正すると映像は浮かび上がってきても、
画質はガタガタ。(拡大して見るとよくわかる)
参考までに最初にここでパレードを見たのは午後5時過ぎから6時前で、「その2」に載せた写真はISO3200、シャッタースピードは1/250秒固定で撮っている。
少しカメラの話をすると、動いている被写体を撮るにはブレないようにシャッタースピードを速く(シャッターが開いている時間を短く)して、より一瞬だけを撮影する。しかしシャッタースピードが速いと、それだけカメラに入る光の量も少なくなって写真が暗くなる。
それを補うのが感度設定。デジカメの場合はレンズが捉えた光をセンサーが電気信号(電流)に変換して、それが最終的に映像になる。そのセンサーが変換した電流を増幅して、十分な光が入ったのと同じようにするのが感度を上げる操作。感度を2倍にすれば、光量を2倍にした効果がある。
例えば同じ光量のもとで
感度100 シャッタースピード1/100
感度200 シャッタースピード1/200
だと写真の明るさは同じで、後者はシャッタースピードが速いからブレが少ない。ただしテレビやラジオでボリュームを一杯に上げる(増幅)すると音が割れてしまうように、カメラでは感度を上げれば上げるほど画質は低下する。
まあとにかく暗い場所で動きのある被写体を撮るのは苦労するのである。
これは照明のあるところで ISO感度を25600、
シャッタースピードはオートにしてカメラが選んだ設定は1/70秒。
あれこれ試して、地方車(じかたしゃ)や沿道の照明が当たっていれば、ISO25600、シャッタースピードはオート設定で、多少はブレるものの何とか撮れるとわかった。
ここまでのチームは Funny で、
次にやってきたのは「れとろっく」
小さな子供も元気に参加していると思ったら、
こちらのママさんは抱っこひもに子供を抱えていた。
何が何でもよさこいを踊りたいみたい(^^ゞ
よさこいち〜夢 笑輝(しょうき)
先ほどの「れとろっく」は今年で解散、そしてこの笑輝は2020年を最後に解散する予定だったのに、コロナで何も活動できなかったので、今年1年だけ復活した後に解散するらしい。どうして解散するのかは不明なものの、よさこいの世界にもいろいろと新陳代謝はあるのだろう。
富山GRNサンダーバーズ公式よさこいチーム【みんと】
富山GRNサンダーバーズはプロ野球の独立リーグに所属する野球チームで、【みんと】はそれに属しているようだ。つまりソフトバンクや au のよさこいチームと似たような関係。
何となく神主さんぽいコスチューム。
チーム名が【みんと】だからミント色なのかな。
照明の当たる範囲しか撮れないから「その2」で載せたのと違って、パレードではなく何人かが集まって踊っているようなイメージになるのが残念。
ところでブログを書いている今になって、暗いのならフラッシュを使えばよかったのでは?と思いつく。普段はフラッシュを使わない、今のデジカメを買った2019年から一度も触っていなくて、まったくそれは発想から抜けていた。
でもフラッシュの光が届く範囲はデジカメ内蔵フラッシュのレベルだと、せいぜい数人が集まって記念写真を撮る際のカメラとの距離のような気もする。それとフラッシュを使えばシャッタースピードをどれくらい速くできるのだろうか。
試してみないとわからないとはいえ、夜に動きのある被写体を撮る機会は滅多にないし、たぶん次に同じような場面になってもフラッシュを思い出さないような気がする(^^ゞ
ーーー続く
やはりよさこいはパレードのほうが面白いかと思い、再び「NHK前ストリート」へ。
時刻は午後6時半頃。まだ日没して10分ほどしか立っておらず明るさは残っていても、ここはケヤキ並木で日光が遮られて周りより暗い。先ほどのステージと違って照明も十分にない。それは、よさこいのように激しい動きを撮るには条件が厳しいことを意味する。
ほぼオート設定で撮るとシャッタースピードは6/10秒になり、
明るいけれど人物の動きについていけずにブレまくり。
試しに感度設定を ISO25600と普段ではあり得ない値にして、シャッタースピードは1/180秒で撮影。これだとブレないかわりに真っ暗。
画像ソフトで無理やり補正すると映像は浮かび上がってきても、
画質はガタガタ。(拡大して見るとよくわかる)
参考までに最初にここでパレードを見たのは午後5時過ぎから6時前で、「その2」に載せた写真はISO3200、シャッタースピードは1/250秒固定で撮っている。
少しカメラの話をすると、動いている被写体を撮るにはブレないようにシャッタースピードを速く(シャッターが開いている時間を短く)して、より一瞬だけを撮影する。しかしシャッタースピードが速いと、それだけカメラに入る光の量も少なくなって写真が暗くなる。
それを補うのが感度設定。デジカメの場合はレンズが捉えた光をセンサーが電気信号(電流)に変換して、それが最終的に映像になる。そのセンサーが変換した電流を増幅して、十分な光が入ったのと同じようにするのが感度を上げる操作。感度を2倍にすれば、光量を2倍にした効果がある。
例えば同じ光量のもとで
感度100 シャッタースピード1/100
感度200 シャッタースピード1/200
だと写真の明るさは同じで、後者はシャッタースピードが速いからブレが少ない。ただしテレビやラジオでボリュームを一杯に上げる(増幅)すると音が割れてしまうように、カメラでは感度を上げれば上げるほど画質は低下する。
まあとにかく暗い場所で動きのある被写体を撮るのは苦労するのである。
これは照明のあるところで ISO感度を25600、
シャッタースピードはオートにしてカメラが選んだ設定は1/70秒。
あれこれ試して、地方車(じかたしゃ)や沿道の照明が当たっていれば、ISO25600、シャッタースピードはオート設定で、多少はブレるものの何とか撮れるとわかった。
ここまでのチームは Funny で、
次にやってきたのは「れとろっく」
小さな子供も元気に参加していると思ったら、
こちらのママさんは抱っこひもに子供を抱えていた。
何が何でもよさこいを踊りたいみたい(^^ゞ
よさこいち〜夢 笑輝(しょうき)
先ほどの「れとろっく」は今年で解散、そしてこの笑輝は2020年を最後に解散する予定だったのに、コロナで何も活動できなかったので、今年1年だけ復活した後に解散するらしい。どうして解散するのかは不明なものの、よさこいの世界にもいろいろと新陳代謝はあるのだろう。
富山GRNサンダーバーズ公式よさこいチーム【みんと】
富山GRNサンダーバーズはプロ野球の独立リーグに所属する野球チームで、【みんと】はそれに属しているようだ。つまりソフトバンクや au のよさこいチームと似たような関係。
何となく神主さんぽいコスチューム。
チーム名が【みんと】だからミント色なのかな。
照明の当たる範囲しか撮れないから「その2」で載せたのと違って、パレードではなく何人かが集まって踊っているようなイメージになるのが残念。
ところでブログを書いている今になって、暗いのならフラッシュを使えばよかったのでは?と思いつく。普段はフラッシュを使わない、今のデジカメを買った2019年から一度も触っていなくて、まったくそれは発想から抜けていた。
でもフラッシュの光が届く範囲はデジカメ内蔵フラッシュのレベルだと、せいぜい数人が集まって記念写真を撮る際のカメラとの距離のような気もする。それとフラッシュを使えばシャッタースピードをどれくらい速くできるのだろうか。
試してみないとわからないとはいえ、夜に動きのある被写体を撮る機会は滅多にないし、たぶん次に同じような場面になってもフラッシュを思い出さないような気がする(^^ゞ
ーーー続く