2025年07月
2025年07月30日
烏帽子のあれこれ 番外編その4
ひょっとしたら縄文や弥生の時代から、少なくとも古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、日本の男性はミズラやモトドリを束ねるために今の女性のロングヘア程度に髪が長かった。男性は短髪、女性は長髪なんて概念ができたのはたかだか直近150年ほどの歴史に過ぎない。
ーーーというのが番外編の趣旨。
ついでに、それではどうして男性の髪が長かったのかを想像するのが今回。
ほとんど意識することはないものの、
髪の毛が生えている動物は人だけである。
眉毛、ひげ、脇毛、陰毛などもそう。
子供の頃に習った最古の人類はアウストラロピテクス。舌を噛みそうなくらいに長くてややこしい名前なのに、今でもスラッとその名前を口にできるのが不思議。でも2001年に発見されたサヘラントロプス・チャデンシスが現在は最古の人類となっている。
これが頭蓋骨の化石からの復元図。
ほとんどサルやね(^^ゞ
彼らがいたのは700万年前で猿人と分類される。人類は猿人(700万年前〜120面年前)→原人(240万年前〜11万年前)→旧人(40万年前〜4万年前)→新人(20万年前〜現在)と進化してきた。ちなみに霊長類の始まりは6500万年前で、恐竜がいたのは2億3000万年前〜6600万年前の期間。
新人とはホモ・サピエンス=現在の人類を指す。その誕生よりはるか昔のおよそ200万年前、原人に属するホモ・エレクトスあたりから体毛が大幅に減少して髪の毛などに変わったといわれている。
ところで、このホモ・エレクトス。これも子供の頃はピテカントロプス・エレクトスと習った原人。この名前も口が覚えていた。それにしても鎌倉幕府の始まりがいつの間にかイイクニツクロウの1192年ではなく1185年になっているように、昔の知識のアップデートが必要だね。
その体毛の代わりに発達した髪の毛やひげ。
体毛と違ってなぜかやたら伸びる。
ギネスブックでの最高記録は髪の毛が236.22 cm!(2023年)、ひげは5.5m!(2014年)でもひげは2本合わせた長さのような?画像はhttps://x.gd/6D7mSとhttps://www.afpbb.com/articles/-/3027155から引用(前者は短縮URL使用)
動物の体毛は一定の長さまでしか伸びないし人間の脇毛や陰毛も同じ。髪の毛やひげだけが限度なく長く伸びるのに何か意味はあるのか。でも意味=(ギネス級の長さに)実用性があるとは思えないので人体設計のバグのようにも思える。そのあたりは興味深いところ。
さて体毛がなくなって髪の毛が生えてきた原始人。栄養状態が違うからギネス記録のようにはならないとしても、それなりには長く伸びたはず。でも髪の毛を切らなかったと考えている。
石器時代の始まりは200万年前で髪の毛が生えてきた時代と重なる。でも石器でヘアカットは難しい。石器時代とはネーミングがおかしくて実際には木器時代だった説もあって、それならなおさら。伸びてくれば邪魔なので、たぶん木のツルかなんかで束ねていわゆるポニーテールにしていたんじゃないかな。ひげも剃る道具がなくて伸ばしっぱなしだったのだろうか?
石器時代は打製石器を使っていた旧石器時代から、磨製石器を使うようになった新石器時代 へ進化する。新石器時代の始まりは1万年前と700万年前に生まれた人類の歴史では、つい最近の出来事。その頃なら石のナイフのようなものがあって髪の毛も切れたかも知れない。でもショートカットは無理だろうね。
そして1万年前から始まった新石器時代は5000年前に青銅器時代に移り、さらに3200年前に鉄器時代へと文明進化のピッチが上がる。
日本列島の状況を見ると
4万年前に旧石器時代のホモ・サピエンスがやって来る
↓
1万6000年前に縄文時代へ
1万年以上続き旧石器時代後の中石器時代から新石器時代をカバー
↓
3000年ほど前に弥生時代が始まり
青銅器や鉄器も大陸から伝わる
↓
日本では弥生時代までが原始時代で、
1800年ほど前に古墳時代に移行
古墳時代の髪型はミズラであったとされる。「卑弥呼さま〜っ」のギャグに持って行かれた感はあるが、それ以前にミズラの代表的イメージといえば、因幡の白ウサギを助けた大国主命(おおくにぬし の みこと)。
もちろん彼は神話の世界の人物なので時代は関係ないとしても、古墳から出土した埴輪にもミズラは多く見られる。
なお神話が書かれた古事記は奈良時代初期の編纂。神話はずっと昔から存在しただろうが古事記が現存する日本で最古の書物。
ミズラが絵として残っている最も古い資料は「聖徳太子二王子像」。ただし描かれたのは聖徳太子の死後100年も経った奈良時代の722年〜739年頃らしく(聖徳太子は574〜622年で飛鳥時代)、服装も含めてすべてが想像での創作。
ミズラを結っているのは向かって左が聖徳太子の弟、右が息子との説が有力。なぜミズラがダブルループになっているのかはわからなかった。参考までにこの肖像画は如来(にょらい:仏の最高位)を中央に、菩薩(ぼさつ:如来より下のランク)をその両脇に配する仏教形式を模している。実際に弟や息子の身長が聖徳太子と較べてこれだけの差があったわけではない。
もう少し写実的なミズラのイラストも。
女性っぽく見えるがこれは少年らしい。なおミズラは男性の髪型なので卑弥呼はこのスタイルではなかったはず。彼女に仕えていた男性はミズラだっただろうが。
さてこのミズラ。
古墳時代の髪型とされ、次の飛鳥時代の603年に聖徳太子が冠位十二階を定め冠を被るようになったので、それに併せて髪を頭の上でひとつ束ねたモトドリに変化したと説明する資料が多い。
でもそうかな?
古墳時代にミズラを結っていたのはごく一部の支配階級だけの気がする。そう思う理由はこれがオーバーデコラティブで儀式っぽいヘアスタイルなのがひとつ。それとこの時代は支配階級を除けばほぼ全員が農民。顔の横でミズラがブラブラしていたら農作業の邪魔やろ?
それでは庶民の髪型は?
やはり伸ばしっぱなしを縛ったポニーテールか、クルクルと巻いて木の枝のかんざしでお団子にしていたのではないか。長い髪の毛をまとめたいときに、このふたつの方法で対処するのが最もシンプルで自然だと思う。そのお団子バージョンが、後にモトドリに変化したというのが私のモーソー的仮説。
冒頭に書いた「どうして男性の髪が長かったのか」をまとめると、ミズラやモトドリを結うためにロングヘアにしたのではなく、ロングヘアだったから邪魔にならないようにミズラやモトドリを結う工夫をした。
そしてロングヘアだったのは、人類に髪の毛が生えだした200万年前には髪を切るすべがなかったとの当然すぎる理由。1万年前の新石器時代には石のナイフなどで切れたとしても、199万年間も切らずにいたのだから髪の毛を切って短くしようとの発想は生まれなかった。また短くする理由も見当たらないので、その習慣は金属の刃物が登場した弥生時代や古墳時代になっても続いたはず。
ところでカミソリは仏教を伝えた朝鮮半島の僧によって日本に初めてもたらされたとされる。一般に仏教伝来は538年。一方でハサミに関しては「6世紀頃」と記してある資料ばかりではっきりとした時期は不明。でもカミソリと同じルート・時期だったと思う。とりあえず四捨五入して550年頃としよう。そして新し道具があれば使いたくなるのが人間。
冠位十二階は603年の制定でハサミ伝来の50年後。支配階級にはハサミは普及して、伸ばしっぱなしの髪の長さでは、ミズラやモトドリが大きくなりすぎるから、多少は切り揃えたロングヘアに整えたかも知れない。それでもショートカットにしようとは思わなかったのは先ほど書いた理由と同じ。
ついでに付け加えると、古墳時代(飛鳥時代は592年〜)に伝来したのはU字型の現在は和ばさみと呼ばれているタイプ。X字型の洋ばさみの伝来は奈良時代(710〜794年)になってから。しかし室町時代以降に植木ばさみとして独自の発展を遂げたものの、一般的にはまったく普及せず明治になるまで日本のハサミはU字型が主流。また現在もU字型が使われているのは世界で日本だけらしい。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
歴史あるいは考古学的に確定できるミズラやモトドリを結って男性が長髪だった期間は、古墳時代の始まりを250年として、明治政府が断髪令を出した1871年までで1871−250=1621年。そこから今年までは154年。比率を計算するなら1621÷154=10.5倍。
圧倒的に長髪の時代のほうが長いのだけれど、よく考えたらそれは200万年前から続いていると推測するのが妥当で、もう割り算する必要もないくらい男性にとって長髪が基本形。それもビートルズが短髪に思えるくらいの超ロングヘア。逆にどうして近代になって(全世界的に)男性の髪が短くなったのかそちらの方が不思議なくらい。
いずれ調べましょう。
おしまい
ーーーというのが番外編の趣旨。
ついでに、それではどうして男性の髪が長かったのかを想像するのが今回。
ほとんど意識することはないものの、
髪の毛が生えている動物は人だけである。
眉毛、ひげ、脇毛、陰毛などもそう。
子供の頃に習った最古の人類はアウストラロピテクス。舌を噛みそうなくらいに長くてややこしい名前なのに、今でもスラッとその名前を口にできるのが不思議。でも2001年に発見されたサヘラントロプス・チャデンシスが現在は最古の人類となっている。
これが頭蓋骨の化石からの復元図。
ほとんどサルやね(^^ゞ
彼らがいたのは700万年前で猿人と分類される。人類は猿人(700万年前〜120面年前)→原人(240万年前〜11万年前)→旧人(40万年前〜4万年前)→新人(20万年前〜現在)と進化してきた。ちなみに霊長類の始まりは6500万年前で、恐竜がいたのは2億3000万年前〜6600万年前の期間。
新人とはホモ・サピエンス=現在の人類を指す。その誕生よりはるか昔のおよそ200万年前、原人に属するホモ・エレクトスあたりから体毛が大幅に減少して髪の毛などに変わったといわれている。
ところで、このホモ・エレクトス。これも子供の頃はピテカントロプス・エレクトスと習った原人。この名前も口が覚えていた。それにしても鎌倉幕府の始まりがいつの間にかイイクニツクロウの1192年ではなく1185年になっているように、昔の知識のアップデートが必要だね。
その体毛の代わりに発達した髪の毛やひげ。
体毛と違ってなぜかやたら伸びる。
ギネスブックでの最高記録は髪の毛が236.22 cm!(2023年)、ひげは5.5m!(2014年)でもひげは2本合わせた長さのような?画像はhttps://x.gd/6D7mSとhttps://www.afpbb.com/articles/-/3027155から引用(前者は短縮URL使用)
動物の体毛は一定の長さまでしか伸びないし人間の脇毛や陰毛も同じ。髪の毛やひげだけが限度なく長く伸びるのに何か意味はあるのか。でも意味=(ギネス級の長さに)実用性があるとは思えないので人体設計のバグのようにも思える。そのあたりは興味深いところ。
さて体毛がなくなって髪の毛が生えてきた原始人。栄養状態が違うからギネス記録のようにはならないとしても、それなりには長く伸びたはず。でも髪の毛を切らなかったと考えている。
石器時代の始まりは200万年前で髪の毛が生えてきた時代と重なる。でも石器でヘアカットは難しい。石器時代とはネーミングがおかしくて実際には木器時代だった説もあって、それならなおさら。伸びてくれば邪魔なので、たぶん木のツルかなんかで束ねていわゆるポニーテールにしていたんじゃないかな。ひげも剃る道具がなくて伸ばしっぱなしだったのだろうか?
石器時代は打製石器を使っていた旧石器時代から、磨製石器を使うようになった新石器時代 へ進化する。新石器時代の始まりは1万年前と700万年前に生まれた人類の歴史では、つい最近の出来事。その頃なら石のナイフのようなものがあって髪の毛も切れたかも知れない。でもショートカットは無理だろうね。
そして1万年前から始まった新石器時代は5000年前に青銅器時代に移り、さらに3200年前に鉄器時代へと文明進化のピッチが上がる。
日本列島の状況を見ると
4万年前に旧石器時代のホモ・サピエンスがやって来る
↓
1万6000年前に縄文時代へ
1万年以上続き旧石器時代後の中石器時代から新石器時代をカバー
↓
3000年ほど前に弥生時代が始まり
青銅器や鉄器も大陸から伝わる
↓
日本では弥生時代までが原始時代で、
1800年ほど前に古墳時代に移行
古墳時代の髪型はミズラであったとされる。「卑弥呼さま〜っ」のギャグに持って行かれた感はあるが、それ以前にミズラの代表的イメージといえば、因幡の白ウサギを助けた大国主命(おおくにぬし の みこと)。
もちろん彼は神話の世界の人物なので時代は関係ないとしても、古墳から出土した埴輪にもミズラは多く見られる。
なお神話が書かれた古事記は奈良時代初期の編纂。神話はずっと昔から存在しただろうが古事記が現存する日本で最古の書物。
ミズラが絵として残っている最も古い資料は「聖徳太子二王子像」。ただし描かれたのは聖徳太子の死後100年も経った奈良時代の722年〜739年頃らしく(聖徳太子は574〜622年で飛鳥時代)、服装も含めてすべてが想像での創作。
ミズラを結っているのは向かって左が聖徳太子の弟、右が息子との説が有力。なぜミズラがダブルループになっているのかはわからなかった。参考までにこの肖像画は如来(にょらい:仏の最高位)を中央に、菩薩(ぼさつ:如来より下のランク)をその両脇に配する仏教形式を模している。実際に弟や息子の身長が聖徳太子と較べてこれだけの差があったわけではない。
もう少し写実的なミズラのイラストも。
女性っぽく見えるがこれは少年らしい。なおミズラは男性の髪型なので卑弥呼はこのスタイルではなかったはず。彼女に仕えていた男性はミズラだっただろうが。
さてこのミズラ。
古墳時代の髪型とされ、次の飛鳥時代の603年に聖徳太子が冠位十二階を定め冠を被るようになったので、それに併せて髪を頭の上でひとつ束ねたモトドリに変化したと説明する資料が多い。
でもそうかな?
古墳時代にミズラを結っていたのはごく一部の支配階級だけの気がする。そう思う理由はこれがオーバーデコラティブで儀式っぽいヘアスタイルなのがひとつ。それとこの時代は支配階級を除けばほぼ全員が農民。顔の横でミズラがブラブラしていたら農作業の邪魔やろ?
それでは庶民の髪型は?
やはり伸ばしっぱなしを縛ったポニーテールか、クルクルと巻いて木の枝のかんざしでお団子にしていたのではないか。長い髪の毛をまとめたいときに、このふたつの方法で対処するのが最もシンプルで自然だと思う。そのお団子バージョンが、後にモトドリに変化したというのが私のモーソー的仮説。
冒頭に書いた「どうして男性の髪が長かったのか」をまとめると、ミズラやモトドリを結うためにロングヘアにしたのではなく、ロングヘアだったから邪魔にならないようにミズラやモトドリを結う工夫をした。
そしてロングヘアだったのは、人類に髪の毛が生えだした200万年前には髪を切るすべがなかったとの当然すぎる理由。1万年前の新石器時代には石のナイフなどで切れたとしても、199万年間も切らずにいたのだから髪の毛を切って短くしようとの発想は生まれなかった。また短くする理由も見当たらないので、その習慣は金属の刃物が登場した弥生時代や古墳時代になっても続いたはず。
ところでカミソリは仏教を伝えた朝鮮半島の僧によって日本に初めてもたらされたとされる。一般に仏教伝来は538年。一方でハサミに関しては「6世紀頃」と記してある資料ばかりではっきりとした時期は不明。でもカミソリと同じルート・時期だったと思う。とりあえず四捨五入して550年頃としよう。そして新し道具があれば使いたくなるのが人間。
冠位十二階は603年の制定でハサミ伝来の50年後。支配階級にはハサミは普及して、伸ばしっぱなしの髪の長さでは、ミズラやモトドリが大きくなりすぎるから、多少は切り揃えたロングヘアに整えたかも知れない。それでもショートカットにしようとは思わなかったのは先ほど書いた理由と同じ。
ついでに付け加えると、古墳時代(飛鳥時代は592年〜)に伝来したのはU字型の現在は和ばさみと呼ばれているタイプ。X字型の洋ばさみの伝来は奈良時代(710〜794年)になってから。しかし室町時代以降に植木ばさみとして独自の発展を遂げたものの、一般的にはまったく普及せず明治になるまで日本のハサミはU字型が主流。また現在もU字型が使われているのは世界で日本だけらしい。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
歴史あるいは考古学的に確定できるミズラやモトドリを結って男性が長髪だった期間は、古墳時代の始まりを250年として、明治政府が断髪令を出した1871年までで1871−250=1621年。そこから今年までは154年。比率を計算するなら1621÷154=10.5倍。
圧倒的に長髪の時代のほうが長いのだけれど、よく考えたらそれは200万年前から続いていると推測するのが妥当で、もう割り算する必要もないくらい男性にとって長髪が基本形。それもビートルズが短髪に思えるくらいの超ロングヘア。逆にどうして近代になって(全世界的に)男性の髪が短くなったのかそちらの方が不思議なくらい。
いずれ調べましょう。
おしまい
2025年07月27日
烏帽子のあれこれ 番外編その3
もう「烏帽子のあれこれ」は番外編を含めてこれで9回目なので(^^ゞ
結論を急ぎましょう。
発端は昔の肖像画でよく見る、
どう見ても被っている帽子の位置がおかしいとの疑問。
彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)で、古来より正装用の冠(かんむり)と普段着用の烏帽子の2種類を日本男性は使い分けてきた。
これは↑どちらも平安後期の強装束(こわしょうぞく)スタイルで、烏帽子はその後に形が変化していく。最初の肖像画に描かれていたのは折烏帽子や侍烏帽子。冠は現在もほぼ同じ形。
冠に筒のようなパーツがあるのは、モトドリと呼ばれる束ねた髪の毛を納めるためのスペース。烏帽子にも膨らみや厚みがあるのも同じ理由。
そして肖像画で烏帽子の被る位置がおかしく見えるのは、折り曲げたモトドリを覆うように烏帽子が後ろに伸びているためであり、
それを正面からあまり角度を付けないで描くとおかしな被り方に見える。
ここまでが本編の超サマリー。
言い換えれば髪の毛を束ねたモトドリがあってこそ冠や烏帽子の形が生まれた。古来よりの服飾史を冠や烏帽子の存在を抜きにして語れないとすれば、ヘアスタイルのモトドリも同様。それが番外編につながる。
写真はポーラ文化研究所によるヘアスタイルの変遷。画像はhttps://x.gd/MtWadzから引用(短縮URL使用)
左はおそらく古墳時代からあった両サイドで髪の毛を束ねた美豆良(ミズラ)と呼ばれる形。聖徳太子が冠位十二階を定めて冠で身分を表す=常に冠を着用するようになったのが603年で、冠に納まるように束ねた髪を頭の上で団子状にしたのが写真中央。右は平安時代で団子状から直線的な形になっている。この部分がモトドリ。
戦(いくさ)で鉄製の兜(かぶと)を使うようになると、暑さや蒸れ対策で頭頂部を剃り落とし始める(写真右)。そこから発展して時代劇などでよく見るチョンマゲに。
現在もモトドリのある髪型をしているのは相撲の力士。これは「烏帽子のあれこれ その2」でも紹介した髪型を整えてもらっている力士と、モトドリがほどけた若き日の貴乃花。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344とNHKの放送100年スポーツ名場面より引用
力士が結う大銀杏(おおいちょう)は襟足を膨らませた形だから、普通にモトドリを束ねるよりは髪の長さが必要かも知れないが、それでもけっこうロングヘアでないとモトドリは作れない。
さて前回に書いた、こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきとはーーー
何となく「男性の髪は短い、女性のは長い」という固定観念がある。もちろん男女ともに人によるとはいえ、たとえばこんな後ろ姿を見かけたら女性だと思うはず。
さらに中高年以上なら昔の男性は一律に短髪で、髪を伸ばし始めたのは1960年代後半に活躍したビートルズの影響だとも知っている。
しかし、それはきわめて短期間の歴史だけによって形成された思い込み。
ミズラを両サイドにぶら下げていた古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、男性の髪の毛は ミズラやモトドリを束ねるために今の女性ならかなりのロングヘアに相当するほどに長かったのだ。古墳時代の前は弥生・縄文時代なので、この地に国らしき形ができて以来男性はずっとロングヘアだったともいえる。そんな風に考えたことあった?(おそらく弥生・縄文、その前の旧石器時代も長かっただろう)
昔の日本人男性の髪型といってまず思い浮かべるのは江戸時代のチョンマゲのはず。よく見れば実に変なヘアスタイルではあるけれど、時代劇などで見慣れていて特に疑問を持たないし、あれをどうやって結っているかを想像したりもしない。それに頭頂部は剃っているし、全体的には髪をなでつけて固めているのでロングヘアのイメージもない。
さらに何度も書いたように室町中期=戦国時代の始まりあたりまで、冠あるいは烏帽子を脱いでモトドリを他人に見せるのは恥ずかしいとの文化があった。だからそれ以前の髪型が描かれた絵などはきわめて少なく目にする機会がない。それが結果的に昔の日本人男性の髪型=チョンマゲ=長髪ではないとのイメージを生んでいるようにも思う。
それでチョットお遊び。
これは「烏帽子のあれこれ その4」で紹介した石山寺縁起絵巻。
庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。
僧侶以外は、烏帽子や冠を取るとモトドリを束ねた髪型をしていて、
そのモトドリをほどくと皆ロングヘア!
AIがチョット髪を長く描きすぎているけれど、まっそういうこと。
「古来より明治維新までずっと男性はロングヘアであった」。それを知ったとして歴史が変わるわけでもないが、そんなことはまったく考えてもみなかったので、それが何となく思考のツボにはまって面白かったしだい。
ところでどうして長かったのか、モトドリを束ねていたのか?
それを解説している資料は見当たらなかったが想像するとーーー
ーーー結論を書いたのにまだ続いてしまう
結論を急ぎましょう。
発端は昔の肖像画でよく見る、
どう見ても被っている帽子の位置がおかしいとの疑問。
彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)で、古来より正装用の冠(かんむり)と普段着用の烏帽子の2種類を日本男性は使い分けてきた。
これは↑どちらも平安後期の強装束(こわしょうぞく)スタイルで、烏帽子はその後に形が変化していく。最初の肖像画に描かれていたのは折烏帽子や侍烏帽子。冠は現在もほぼ同じ形。
冠に筒のようなパーツがあるのは、モトドリと呼ばれる束ねた髪の毛を納めるためのスペース。烏帽子にも膨らみや厚みがあるのも同じ理由。
そして肖像画で烏帽子の被る位置がおかしく見えるのは、折り曲げたモトドリを覆うように烏帽子が後ろに伸びているためであり、
それを正面からあまり角度を付けないで描くとおかしな被り方に見える。
ここまでが本編の超サマリー。
言い換えれば髪の毛を束ねたモトドリがあってこそ冠や烏帽子の形が生まれた。古来よりの服飾史を冠や烏帽子の存在を抜きにして語れないとすれば、ヘアスタイルのモトドリも同様。それが番外編につながる。
写真はポーラ文化研究所によるヘアスタイルの変遷。画像はhttps://x.gd/MtWadzから引用(短縮URL使用)
左はおそらく古墳時代からあった両サイドで髪の毛を束ねた美豆良(ミズラ)と呼ばれる形。聖徳太子が冠位十二階を定めて冠で身分を表す=常に冠を着用するようになったのが603年で、冠に納まるように束ねた髪を頭の上で団子状にしたのが写真中央。右は平安時代で団子状から直線的な形になっている。この部分がモトドリ。
戦(いくさ)で鉄製の兜(かぶと)を使うようになると、暑さや蒸れ対策で頭頂部を剃り落とし始める(写真右)。そこから発展して時代劇などでよく見るチョンマゲに。
現在もモトドリのある髪型をしているのは相撲の力士。これは「烏帽子のあれこれ その2」でも紹介した髪型を整えてもらっている力士と、モトドリがほどけた若き日の貴乃花。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344とNHKの放送100年スポーツ名場面より引用
力士が結う大銀杏(おおいちょう)は襟足を膨らませた形だから、普通にモトドリを束ねるよりは髪の長さが必要かも知れないが、それでもけっこうロングヘアでないとモトドリは作れない。
さて前回に書いた、こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきとはーーー
何となく「男性の髪は短い、女性のは長い」という固定観念がある。もちろん男女ともに人によるとはいえ、たとえばこんな後ろ姿を見かけたら女性だと思うはず。
さらに中高年以上なら昔の男性は一律に短髪で、髪を伸ばし始めたのは1960年代後半に活躍したビートルズの影響だとも知っている。
しかし、それはきわめて短期間の歴史だけによって形成された思い込み。
ミズラを両サイドにぶら下げていた古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、男性の髪の毛は ミズラやモトドリを束ねるために今の女性ならかなりのロングヘアに相当するほどに長かったのだ。古墳時代の前は弥生・縄文時代なので、この地に国らしき形ができて以来男性はずっとロングヘアだったともいえる。そんな風に考えたことあった?(おそらく弥生・縄文、その前の旧石器時代も長かっただろう)
昔の日本人男性の髪型といってまず思い浮かべるのは江戸時代のチョンマゲのはず。よく見れば実に変なヘアスタイルではあるけれど、時代劇などで見慣れていて特に疑問を持たないし、あれをどうやって結っているかを想像したりもしない。それに頭頂部は剃っているし、全体的には髪をなでつけて固めているのでロングヘアのイメージもない。
さらに何度も書いたように室町中期=戦国時代の始まりあたりまで、冠あるいは烏帽子を脱いでモトドリを他人に見せるのは恥ずかしいとの文化があった。だからそれ以前の髪型が描かれた絵などはきわめて少なく目にする機会がない。それが結果的に昔の日本人男性の髪型=チョンマゲ=長髪ではないとのイメージを生んでいるようにも思う。
それでチョットお遊び。
これは「烏帽子のあれこれ その4」で紹介した石山寺縁起絵巻。
庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。
僧侶以外は、烏帽子や冠を取るとモトドリを束ねた髪型をしていて、
そのモトドリをほどくと皆ロングヘア!
AIがチョット髪を長く描きすぎているけれど、まっそういうこと。
「古来より明治維新までずっと男性はロングヘアであった」。それを知ったとして歴史が変わるわけでもないが、そんなことはまったく考えてもみなかったので、それが何となく思考のツボにはまって面白かったしだい。
ところでどうして長かったのか、モトドリを束ねていたのか?
それを解説している資料は見当たらなかったが想像するとーーー
ーーー結論を書いたのにまだ続いてしまう
2025年07月23日
烏帽子のあれこれ 番外編その2
参考までに明治以前の日本の歴史区分を書いておくと
旧石器時代→縄文時代→弥生時代
古墳時代→空白の4世紀→飛鳥時代
奈良時代→平安時代
鎌倉時代→室町時代→戦国時代
安土桃山時代→江戸時代
そして前回でも紹介した髪型は、左は戦国時代の茶筅髷(ちゃせんまげ)で右が江戸時代のチョンマゲ(丁髷)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
それ以前の男性の髪型は明確にはわかっていない。
その理由は
平安時代の中頃まで肖像画を描くのを憚る風潮があった。
平安時代の貴族や武士は公的な場では冠(かんむり)、私的な場では烏帽子(えぼし)
を被っていた。また庶民も烏帽子を被っていた。
さらに冠や烏帽子を脱いで髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥とする考えが、
庶民レベルで鎌倉後期、公家や武士では室町中期まで続いた。
つまり戦国時代以前は髪型を描いたビジュアルな記録や資料に乏しい。
「烏帽子のあれこれ その4」で鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻を紹介した。こちらは886年に起きた放火事件である「応天門の変」を、平安末期に描いた伴大納言絵巻の模写の一部。
貴族の乗る牛車と警護の武士だろうか。
全員が烏帽子を着用。
こちらは庶民でやはり烏帽子を被っている。
しかしこの絵巻には清和天皇(850〜881年)が登場し、なんと彼は無帽!
冠や烏帽子について調べると、多くの資料で「宮中では冠を着用するのがルール。天皇は基本的に宮中にいるので冠を取ることはなく、烏帽子を被れるのは退位して上皇になってから」と書かれている。
なのにどうしてこの絵巻では天皇を無帽で描いたのだろうか。しかも場所は清涼殿(天皇が政務を行う場所)で、太政大臣より対面で事件について報告を受けている、言ってみれば公務中。描かれているのは夜半に急な来訪の場面とはいえ、寝るときもSEXするときもモトドリを見せなかった平安人、ましてや天皇が無帽は考えづらいと思うのだが。あるいは「チンチン見せてもモトドリ見せるな」との考えは平安前期のこの頃にはまだなかったのか。
平安中期以降に人前でモトドリを見せなかったのはいろいろとエピソードが残っている。ただし平安時代は約400年もあったから前期では風習が異なっていても不思議ではない。何かと興味深いものの、これ以上の深入りは手間がかかるのでやめておくm(_ _)m
なお清和天皇の髪型は、この図によれば冠下髻(かんむり したの もとどり)と思われる。というかここにあるイラストは伴大納言絵巻にソックリ。おそらく伴大納言絵巻を真似て描いたのではないか。それだけ当時の髪型の資料は少ないのだと思われる。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
戦国時代の茶筅髷と平安時代のば冠下髻は、髪の毛を束ねたモトドリを頭上高くに巻いている点でほぼ同じ。そして江戸時代のチョンマゲは頭頂部を剃った月代(さかやき)の上にモトドリを折り曲げて載せた形。つまりどれも髪の毛を束ねてそこそこの大きさのモトドリ作るのは共通している。
平安時代より前で髪型が描かれたものは見つけられなかった。しかしこの画像左側の聖徳太子は8世紀前半(奈良時代:710〜794年)に描かれたとされる日本で最古の肖像画(右側はその模写の旧1万円札)で、被っている頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠には以前に紹介したモトドリを納める巾子(こじ)のパーツがある。だから少なくとも奈良時代にはモトドリのある髪型をしていたと考えられる。おそらく彼が生きていた飛鳥時代(592〜710年)も、特に変化する要素はないので同じような髪型だったと推測する。
ポーラ文化研究所のホームページによると「推古天皇11年(603)、隋にならって朝廷に仕える官人はすべて冠を被ることになりました(聖徳太子が制定した冠位十二階を指している)。これにより髪型が変化し、冠の下に収まるように髻を結うようになりました」とあり、この髪型を冠下一髻(かんむり したの ひともと)と紹介している。時代が下って清和天皇の髪型はこれの豪華版とも推測できる。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
これは藤原京期(694〜710年:飛鳥時代末期)の築造と推定されている高松塚古墳に描かれていた壁画とその復元図。これがソフトな冠か烏帽子かはよくわからないが、いかにも頭の上にモトドリがありそうな形をしている。
冠下一髻の説明にある「冠の下に収まるように髻を結うようになりました」より以前はサイドで髪を束ねた「みずら」と呼ばれるスタイル。少し前に流行った「卑弥呼さま〜っ」を思い出すが、邪馬台国について記した魏志倭人伝によると、これは男性の髪型で卑弥呼がこうしていたわけじゃない。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきがあったのが今回の番外編のテーマ。
ーーー続く
旧石器時代→縄文時代→弥生時代
古墳時代→空白の4世紀→飛鳥時代
奈良時代→平安時代
鎌倉時代→室町時代→戦国時代
安土桃山時代→江戸時代
そして前回でも紹介した髪型は、左は戦国時代の茶筅髷(ちゃせんまげ)で右が江戸時代のチョンマゲ(丁髷)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
それ以前の男性の髪型は明確にはわかっていない。
その理由は
平安時代の中頃まで肖像画を描くのを憚る風潮があった。
平安時代の貴族や武士は公的な場では冠(かんむり)、私的な場では烏帽子(えぼし)
を被っていた。また庶民も烏帽子を被っていた。
さらに冠や烏帽子を脱いで髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥とする考えが、
庶民レベルで鎌倉後期、公家や武士では室町中期まで続いた。
つまり戦国時代以前は髪型を描いたビジュアルな記録や資料に乏しい。
「烏帽子のあれこれ その4」で鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻を紹介した。こちらは886年に起きた放火事件である「応天門の変」を、平安末期に描いた伴大納言絵巻の模写の一部。
貴族の乗る牛車と警護の武士だろうか。
全員が烏帽子を着用。
こちらは庶民でやはり烏帽子を被っている。
しかしこの絵巻には清和天皇(850〜881年)が登場し、なんと彼は無帽!
冠や烏帽子について調べると、多くの資料で「宮中では冠を着用するのがルール。天皇は基本的に宮中にいるので冠を取ることはなく、烏帽子を被れるのは退位して上皇になってから」と書かれている。
なのにどうしてこの絵巻では天皇を無帽で描いたのだろうか。しかも場所は清涼殿(天皇が政務を行う場所)で、太政大臣より対面で事件について報告を受けている、言ってみれば公務中。描かれているのは夜半に急な来訪の場面とはいえ、寝るときもSEXするときもモトドリを見せなかった平安人、ましてや天皇が無帽は考えづらいと思うのだが。あるいは「チンチン見せてもモトドリ見せるな」との考えは平安前期のこの頃にはまだなかったのか。
平安中期以降に人前でモトドリを見せなかったのはいろいろとエピソードが残っている。ただし平安時代は約400年もあったから前期では風習が異なっていても不思議ではない。何かと興味深いものの、これ以上の深入りは手間がかかるのでやめておくm(_ _)m
なお清和天皇の髪型は、この図によれば冠下髻(かんむり したの もとどり)と思われる。というかここにあるイラストは伴大納言絵巻にソックリ。おそらく伴大納言絵巻を真似て描いたのではないか。それだけ当時の髪型の資料は少ないのだと思われる。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
戦国時代の茶筅髷と平安時代のば冠下髻は、髪の毛を束ねたモトドリを頭上高くに巻いている点でほぼ同じ。そして江戸時代のチョンマゲは頭頂部を剃った月代(さかやき)の上にモトドリを折り曲げて載せた形。つまりどれも髪の毛を束ねてそこそこの大きさのモトドリ作るのは共通している。
平安時代より前で髪型が描かれたものは見つけられなかった。しかしこの画像左側の聖徳太子は8世紀前半(奈良時代:710〜794年)に描かれたとされる日本で最古の肖像画(右側はその模写の旧1万円札)で、被っている頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠には以前に紹介したモトドリを納める巾子(こじ)のパーツがある。だから少なくとも奈良時代にはモトドリのある髪型をしていたと考えられる。おそらく彼が生きていた飛鳥時代(592〜710年)も、特に変化する要素はないので同じような髪型だったと推測する。
ポーラ文化研究所のホームページによると「推古天皇11年(603)、隋にならって朝廷に仕える官人はすべて冠を被ることになりました(聖徳太子が制定した冠位十二階を指している)。これにより髪型が変化し、冠の下に収まるように髻を結うようになりました」とあり、この髪型を冠下一髻(かんむり したの ひともと)と紹介している。時代が下って清和天皇の髪型はこれの豪華版とも推測できる。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
これは藤原京期(694〜710年:飛鳥時代末期)の築造と推定されている高松塚古墳に描かれていた壁画とその復元図。これがソフトな冠か烏帽子かはよくわからないが、いかにも頭の上にモトドリがありそうな形をしている。
冠下一髻の説明にある「冠の下に収まるように髻を結うようになりました」より以前はサイドで髪を束ねた「みずら」と呼ばれるスタイル。少し前に流行った「卑弥呼さま〜っ」を思い出すが、邪馬台国について記した魏志倭人伝によると、これは男性の髪型で卑弥呼がこうしていたわけじゃない。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきがあったのが今回の番外編のテーマ。
ーーー続く
2025年07月19日
烏帽子のあれこれ 番外編
烏帽子(えぼし)をネタにあれこれと話が脱線した前回まで6回のブログ。もう烏帽子とはほとんど関係のない話になるので今回は番外編とした。
さて左は聖徳太子の時代の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)、右は平安後期から強装束(こわしょうぞく)のデザイン様式になり布を漆で固めたハードな冠である。右画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/から引用
ソフトな冠では袋状、ハードな冠では筒のように上に伸びているのは巾子(こじ)と呼ばれるパーツで、それは髪の毛を束ねた髻(モトドリ)を入れるためのもの。ハードな冠では巾子をモトドリに固定する簪(かんざし)も見える。
モトドリと巾子(こじ)とかんざしの関係図。
つまりモトドリがあるので巾子が作られた。
冠の普段着版である烏帽子が膨らんだ形をしているのも同じ理由。
写真はドラマでの朝倉義景(戦国時代)と徳川吉宗(江戸時代)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
モトドリがある=髪の毛をどこかで束ねた髪型を総称して髷(マゲ)と呼ぶ。朝倉義景の髪型は茶筅髷(ちゃせんまげ)。髪の毛を巻いている部分が茶筅(抹茶を点てるときにかき混ぜる道具)に似ているのでその名前。室町末期から安土桃山時代に流行ったとされる。
吉宗の髪型はチョンマゲ(丁髷)。厳密にはこれはチョンマゲではないのだが、広義にはチョンマゲといって差し支えないだろう。
このチョンマゲ、ドラマや映画で見慣れていて普段は何も感じないとはいえ、よく見れば見るほど不思議でおかしな髪型である。今もし茶筅髷にした人が現れても(例えばアーチストなどであれば)それほど違和感はないように思う。しかしチョンマゲだと吹き出してしまうに違いない。それはやはり頭頂部のセンターを剃っているから。いってみれば究極のツーブロック(^^ゞ
剃っている部分を月代(さかやき)と呼ぶ。月代にし始めたのは平安時代に武士が登場してから。目的は兜を被ったときに頭が蒸れるのを防ぐため(他にも諸説あり)。当初は戦(いくさ)の時だけ月代にしていて、やがて戦国の世になると戦多発で常に月代状態へ。そしてなぜか天下太平の江戸時代になっても、この戦闘用ヘアスタイルであった月代は生き残り、さらに武士ではない庶民にまで広がり明治になるまで続く。
月代を剃ると書いたが、当初は木製のピンセットのような毛抜きで抜いていたらしい。戦国時代に来日した宣教師の記録には「武士は頭を血だらけにしている」と記している。何と痛そうな(>_<)
また一説によると髪の毛を抜くのではなく剃って月代を作ったのは織田信長が最初とされる。宣教師の記録と合わせれば信長が最初かどうかはともかく、戦国時代(応仁の乱1467年〜信長上洛1568年)の中頃に剃り始めたと考えられる。しかしそれがどうにも解せない。
なぜなら毛を剃るのに使うカミソリは仏教と共に伝来した。時期は「手を合わせてご参拝」の538年。それ以降、僧侶は頭を剃ってきた。武士の登場が900年頃だとすれば月代を作り始めたのはカミソリ伝来から400年後である。
仏教と共に伝わったのは中国のカミソリ。信長が手にしたのは宣教師などがもたらした西洋式のカミソリといわれる。でもカミソリで中国と西洋にそんなに違いはない。中国からカミソリが伝来した当時は僧侶専用の「秘められた法具」だったかも知れない。ただし400年も経てばありふれた刃物のひとつで、誰もがカミソリで毛が剃れるのは知っていたはず。なのに900年から1500年の600年間もの期間、どうして武士は僧侶に「カミソリ貸して」と頼まずに、文字通り血の滲む痛い思いをして毛を抜いてきたのだろうか。謎すぎる。
ついでに言うと月代が兜を被ったときの暑さ対策だとして、髪の毛を剃った程度でそんなに涼しくなるかな? 仮に髪の毛があれば暑いとしても、別に剃らずに短くカットすればいいだけのこと。どうして剃る必要があった、あるいは痛い思いまでして抜いたのか。ちなみにハサミの伝来もかみそりとほぼ同時期。
まあそんなつまらないテーマを研究する歴史学者はいないだろうから、なぜ月代を無毛にした、どうしてを剃らずに毛を抜いたのかの疑問は解決しそうにない。
もうひとつついでに僧侶は坊主とも言う。そして僧侶は髪を剃ってツルツルにする。でも坊主頭はきわめて短くカットするだけで剃らない髪型である。なのにどうして坊主の名前が付いている?
あっ、番外編のキーワードはモトドリだったのに、
また話がそれてしまったm(_ _)m
ーーー続く
さて左は聖徳太子の時代の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)、右は平安後期から強装束(こわしょうぞく)のデザイン様式になり布を漆で固めたハードな冠である。右画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/から引用
ソフトな冠では袋状、ハードな冠では筒のように上に伸びているのは巾子(こじ)と呼ばれるパーツで、それは髪の毛を束ねた髻(モトドリ)を入れるためのもの。ハードな冠では巾子をモトドリに固定する簪(かんざし)も見える。
モトドリと巾子(こじ)とかんざしの関係図。
つまりモトドリがあるので巾子が作られた。
冠の普段着版である烏帽子が膨らんだ形をしているのも同じ理由。
写真はドラマでの朝倉義景(戦国時代)と徳川吉宗(江戸時代)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
モトドリがある=髪の毛をどこかで束ねた髪型を総称して髷(マゲ)と呼ぶ。朝倉義景の髪型は茶筅髷(ちゃせんまげ)。髪の毛を巻いている部分が茶筅(抹茶を点てるときにかき混ぜる道具)に似ているのでその名前。室町末期から安土桃山時代に流行ったとされる。
吉宗の髪型はチョンマゲ(丁髷)。厳密にはこれはチョンマゲではないのだが、広義にはチョンマゲといって差し支えないだろう。
このチョンマゲ、ドラマや映画で見慣れていて普段は何も感じないとはいえ、よく見れば見るほど不思議でおかしな髪型である。今もし茶筅髷にした人が現れても(例えばアーチストなどであれば)それほど違和感はないように思う。しかしチョンマゲだと吹き出してしまうに違いない。それはやはり頭頂部のセンターを剃っているから。いってみれば究極のツーブロック(^^ゞ
剃っている部分を月代(さかやき)と呼ぶ。月代にし始めたのは平安時代に武士が登場してから。目的は兜を被ったときに頭が蒸れるのを防ぐため(他にも諸説あり)。当初は戦(いくさ)の時だけ月代にしていて、やがて戦国の世になると戦多発で常に月代状態へ。そしてなぜか天下太平の江戸時代になっても、この戦闘用ヘアスタイルであった月代は生き残り、さらに武士ではない庶民にまで広がり明治になるまで続く。
月代を剃ると書いたが、当初は木製のピンセットのような毛抜きで抜いていたらしい。戦国時代に来日した宣教師の記録には「武士は頭を血だらけにしている」と記している。何と痛そうな(>_<)
また一説によると髪の毛を抜くのではなく剃って月代を作ったのは織田信長が最初とされる。宣教師の記録と合わせれば信長が最初かどうかはともかく、戦国時代(応仁の乱1467年〜信長上洛1568年)の中頃に剃り始めたと考えられる。しかしそれがどうにも解せない。
なぜなら毛を剃るのに使うカミソリは仏教と共に伝来した。時期は「手を合わせてご参拝」の538年。それ以降、僧侶は頭を剃ってきた。武士の登場が900年頃だとすれば月代を作り始めたのはカミソリ伝来から400年後である。
仏教と共に伝わったのは中国のカミソリ。信長が手にしたのは宣教師などがもたらした西洋式のカミソリといわれる。でもカミソリで中国と西洋にそんなに違いはない。中国からカミソリが伝来した当時は僧侶専用の「秘められた法具」だったかも知れない。ただし400年も経てばありふれた刃物のひとつで、誰もがカミソリで毛が剃れるのは知っていたはず。なのに900年から1500年の600年間もの期間、どうして武士は僧侶に「カミソリ貸して」と頼まずに、文字通り血の滲む痛い思いをして毛を抜いてきたのだろうか。謎すぎる。
ついでに言うと月代が兜を被ったときの暑さ対策だとして、髪の毛を剃った程度でそんなに涼しくなるかな? 仮に髪の毛があれば暑いとしても、別に剃らずに短くカットすればいいだけのこと。どうして剃る必要があった、あるいは痛い思いまでして抜いたのか。ちなみにハサミの伝来もかみそりとほぼ同時期。
まあそんなつまらないテーマを研究する歴史学者はいないだろうから、なぜ月代を無毛にした、どうしてを剃らずに毛を抜いたのかの疑問は解決しそうにない。
もうひとつついでに僧侶は坊主とも言う。そして僧侶は髪を剃ってツルツルにする。でも坊主頭はきわめて短くカットするだけで剃らない髪型である。なのにどうして坊主の名前が付いている?
あっ、番外編のキーワードはモトドリだったのに、
また話がそれてしまったm(_ _)m
ーーー続く
2025年07月15日
烏帽子のあれこれ その6
ついつい話がそれてしまうこのブログ。
今回のテーマはいつも以上にそんな予感がしていると初回に書いた。
やっぱり案の定ーーー
昔の人が頭に付けていたのには、
冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)があるところから始まり、
→西洋料理のコック帽はどうしてあんなに背が高いのか
→現在の皇室での使われ方
→日本人男子の髪型の変遷
→髻(モトドリ)
→力士の髪型
→力士の階級と給料
→強装束(こわしょうぞく)と柔装束(なえしょうぞく)
→源氏物語の衣装
→烏帽子の変化
→庶民と烏帽子
→モトドリは見せない、SEXのときでも烏帽子は脱がない
→(古代と)中世は「被帽の時代」、近世は「無帽の時代」
→でも大正時代から高度成長期前まで帽子が復活
と、我ながらアッパレ?
もっともそれは好奇心のなせる技で、それがある限り脳の活性も保たれるだろうし、またブログも書き続けられるのだと思っている。そして今のところそんな好奇心はAIには備わっておらず人間だけが持つ能力。本当は単に気まぐれで気移りしているなだけなのだけれど、それを前向きに捉えるのが私のいいところ(^^ゞ
さてそろそろ本題に戻りましょう。
それは昔の肖像画で見る武将や武士たちの、
頭に乗っている帽子の位置が、どう見てもおかしいとの疑問。
初回に紹介した肖像画を再掲しておく。
もう説明は省略するが被っているのは烏帽子。
被っているというより半分だけ頭に載っけている感じ。
こうなった理由は髪型にあると推測した。
これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
江戸時代がチョンマゲだったのは誰でも知っているが、それより以前も古墳時代の「みずら」を除けば男性は頭の上で髪を束ねていた。この束ねた髪がモトドリ(髻)。
モトドリを高くまとめた戦国時代の髪型と、頭の一部を剃ってそこにモトドリを置いた江戸時代の髪型。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
4名の肖像画の上段は戦国時代の浅井長政と北条氏康、下段は江戸時代の田沼意次と松平定信。田沼と松平はもちろんチョンマゲ。浅井と北条の具体的な髪型はわからないものの、頭にモトドリがあったのは間違いない。
そのモトドリがある頭に烏帽子を被るとどうなるのか。江戸時代以前の設定のドラマとかで烏帽子を被って横顔が映っているシーンを探してみたけれど、けっこうフツーで違和感なし。
始めて烏帽子を被る元服の儀式を再現したと思われる画像も見つけたが、これも同じく肖像画のように半分だけ載せた感じではない。画像はhttps://ameblo.jp/croon-yuuki/entry-12487737675.htmlとhttps://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=987161827170811904から引用編集
考えてみればそれは当たり前で、元服儀式に参加している青年は頭にモトドリはないし、ドラマだって烏帽子は脱がないのだからモトドリまでは仕込んでいないはず。
そしてこんな画像を見つけた。
これは4名の肖像画で右下に配置した松平定信の別の肖像画。
おそらくこのようにモトドリを覆うために、烏帽子を頭の後ろまで伸ばしてしたと思われる。それで正面からあまり角度の付いていない構図で肖像画を描けば、烏帽子が頭に半分だけ載っているように見える。100%納得はしていないのだが、もうそろそろこのテーマにも飽きてきたので(^^ゞ そういうことにしておきましょう。
ところでこの松平定信の肖像画、斜め前を向いている顔に対して、後頭部は顔よりもっと真横を向いているように見えなくもない。顔に合わせて同じ角度で描くとモトドリがあまり見えなくなるので、後頭部だけさらに横向きにしたのだろうか。
これって複数の多視点を絵画に導入した印象派のセザンヌと同じ技法。
江戸時代の絵師もなかなかやるね。
さて烏帽子が頭から半分はみ出して、
チョコンと載っているような肖像画の謎もとりあえずは解けた。
ーーーなのにまだ続く
今回のテーマはいつも以上にそんな予感がしていると初回に書いた。
やっぱり案の定ーーー
昔の人が頭に付けていたのには、
冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)があるところから始まり、
→西洋料理のコック帽はどうしてあんなに背が高いのか
→現在の皇室での使われ方
→日本人男子の髪型の変遷
→髻(モトドリ)
→力士の髪型
→力士の階級と給料
→強装束(こわしょうぞく)と柔装束(なえしょうぞく)
→源氏物語の衣装
→烏帽子の変化
→庶民と烏帽子
→モトドリは見せない、SEXのときでも烏帽子は脱がない
→(古代と)中世は「被帽の時代」、近世は「無帽の時代」
→でも大正時代から高度成長期前まで帽子が復活
と、我ながらアッパレ?
もっともそれは好奇心のなせる技で、それがある限り脳の活性も保たれるだろうし、またブログも書き続けられるのだと思っている。そして今のところそんな好奇心はAIには備わっておらず人間だけが持つ能力。本当は単に気まぐれで気移りしているなだけなのだけれど、それを前向きに捉えるのが私のいいところ(^^ゞ
さてそろそろ本題に戻りましょう。
それは昔の肖像画で見る武将や武士たちの、
頭に乗っている帽子の位置が、どう見てもおかしいとの疑問。
初回に紹介した肖像画を再掲しておく。
もう説明は省略するが被っているのは烏帽子。
被っているというより半分だけ頭に載っけている感じ。
こうなった理由は髪型にあると推測した。
これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
江戸時代がチョンマゲだったのは誰でも知っているが、それより以前も古墳時代の「みずら」を除けば男性は頭の上で髪を束ねていた。この束ねた髪がモトドリ(髻)。
モトドリを高くまとめた戦国時代の髪型と、頭の一部を剃ってそこにモトドリを置いた江戸時代の髪型。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
4名の肖像画の上段は戦国時代の浅井長政と北条氏康、下段は江戸時代の田沼意次と松平定信。田沼と松平はもちろんチョンマゲ。浅井と北条の具体的な髪型はわからないものの、頭にモトドリがあったのは間違いない。
そのモトドリがある頭に烏帽子を被るとどうなるのか。江戸時代以前の設定のドラマとかで烏帽子を被って横顔が映っているシーンを探してみたけれど、けっこうフツーで違和感なし。
始めて烏帽子を被る元服の儀式を再現したと思われる画像も見つけたが、これも同じく肖像画のように半分だけ載せた感じではない。画像はhttps://ameblo.jp/croon-yuuki/entry-12487737675.htmlとhttps://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=987161827170811904から引用編集
考えてみればそれは当たり前で、元服儀式に参加している青年は頭にモトドリはないし、ドラマだって烏帽子は脱がないのだからモトドリまでは仕込んでいないはず。
そしてこんな画像を見つけた。
これは4名の肖像画で右下に配置した松平定信の別の肖像画。
おそらくこのようにモトドリを覆うために、烏帽子を頭の後ろまで伸ばしてしたと思われる。それで正面からあまり角度の付いていない構図で肖像画を描けば、烏帽子が頭に半分だけ載っているように見える。100%納得はしていないのだが、もうそろそろこのテーマにも飽きてきたので(^^ゞ そういうことにしておきましょう。
ところでこの松平定信の肖像画、斜め前を向いている顔に対して、後頭部は顔よりもっと真横を向いているように見えなくもない。顔に合わせて同じ角度で描くとモトドリがあまり見えなくなるので、後頭部だけさらに横向きにしたのだろうか。
これって複数の多視点を絵画に導入した印象派のセザンヌと同じ技法。
江戸時代の絵師もなかなかやるね。
さて烏帽子が頭から半分はみ出して、
チョコンと載っているような肖像画の謎もとりあえずは解けた。
ーーーなのにまだ続く
2025年07月13日
烏帽子のあれこれ その5
聖徳太子の頃に正装用の帽子として定まったのが冠(かんむり)。そこから派生して普段着用の帽子となったのが烏帽子(えぼし)。冠は使用する場所や場面が定まっているとして、烏帽子は好きなときに被ればいいのかというと、そうではなくて基本的に四六時中の着用。前回で紹介したように寝るときも被っていたし、たとえ全裸になってSEXしていても烏帽子は脱がなかった。
奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。
まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。
これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)
しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。
この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では
大和〜平安:古代
鎌倉〜安土桃山:中世
江戸:近世
明治〜第二次世界大戦終戦:近代 それ以降:現代
となる(諸説あり)。
江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のようなポジション。それで二人とも勅使との面会に備えて異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。
この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくいし、それを踏みつけられれば動きを止められてしまう。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。
そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。
考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。
ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。
ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするなら彼らの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。
それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。
これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。
どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。
とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
ーーー続く
奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。
まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。
これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)
しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。
この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では
大和〜平安:古代
鎌倉〜安土桃山:中世
江戸:近世
明治〜第二次世界大戦終戦:近代 それ以降:現代
となる(諸説あり)。
江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のようなポジション。それで二人とも勅使との面会に備えて異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。
この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくいし、それを踏みつけられれば動きを止められてしまう。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。
そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。
考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。
ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。
ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするなら彼らの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。
それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。
これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。
どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。
とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
ーーー続く
2025年07月08日
烏帽子のあれこれ その4

聖徳太子の頃の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)。その下に着用した薄い袋状の圭冠(はしばこうぶり)が烏帽子(えぼし)のルーツとされる。どうして頭巾(ときん)の下に同じような圭冠(はしばこうぶり)を重ねたのか疑問なのだが、そこはスルーして、やがて冠は正装用、烏帽子は普段着用の帽子と用途が分かれる。(なお圭冠は冠の下に被るのではなく、最初から略式の冠として略服着用時に用いられたとの説もある)
圭冠(はしばこうぶり)そのもの、あるいはそれから発展した初期の烏帽子の形は不明。おそらくはスイミングキャップを膨らましたようなシンプルな形状だったのではないかな。しかしだんだんと上に伸びて、そして強装束(こわしょうぞく:前回参照)の頃にはよく見る平安貴族スタイルになっていく。その形が立烏帽子(たてえぼし)。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/295.htmlから引用
貴族ではこの高い立烏帽子が続く一方で、武家が着用する烏帽子は高さが低くなり、また立烏帽子をおったような折烏帽子(おりえぼし)、さらには各家ごとにその折り方に工夫を凝らした侍烏帽子(さむらいえぼし)などが登場する。画像はhttps://www.touken-world.jp/tips/92804/から引用
これらの烏帽子は貴族または武家が被るもの。そもそも冠はもちろんとして烏帽子も上級国民の装束であるイメージが今日では強い。しかし意外にも庶民だって烏帽子を被っていたのだ。
これは鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻の一部。
大工は平たい烏帽子を被り、指揮している人は立烏帽子で下っ端の役人(貴族)だろうか。
同時代の石山寺縁起絵巻では庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。僧侶が無帽なのは俗世とは違う習慣体系なのか、あるいは剃髪していて頭頂部に何もないからかはよくわからない。

これらで庶民が被っている平たい烏帽子の形を萎烏帽子(なええぼし)や揉烏帽子(もみえぼし)と呼ぶ。これが圭冠(はしばこうぶり)から発展した烏帽子の原型で、筒状の部分を普段は倒して着用し、改まった席では立てていたのが、やがて立烏帽子になったとの説もある。いずれにせよ庶民の烏帽子はこのスタイルで、その後の変化はなかったようだ。
それにしてもこの時代の庶民が烏帽子すなわち帽子を、まるで制服のように皆で被った生活をしているなんて認識はあまりなかったね。
さてなぜ男性は貴族から庶民まで帽子を被っているかというと、平安時代(794年〜)から室町時代(1336〜1573年)中頃までの約700年間は、男性が頭頂部を他人に見せるのは恥ずかしい行為との価値観があったのがその理由。どうしてそんな発想になったのか少し調べてみたものの長くなるので割愛。
これはネットで拾ってきた大河ドラマのワンシーン。キャプションに「宇治川で筏(いかだ)を押す平盛綱」とあった。状況はよくわからないが、服を脱いで川に飛び込んでも烏帽子は脱がなかったとの演出。画像はhttps://x.gd/Nf4Whから引用(短縮URL使用)
さらに驚くのが平安時代後期に描かれた源氏物語絵巻。場面は光源氏の正妻である女三宮と不義密通したのが、光源氏(この頃は天皇に準ずる身分)にバレてビビって病気になった柏木を(事情を知らない)光源氏の長男である夕霧が見舞うシーン。
注目は寝込んでいる柏木。このしばらく後に亡くなるのでかなり衰弱している設定。なのに頭に烏帽子を被っている! これは見舞客が来たから身なりを整えようと烏帽子を被ったのではなく、寝るときも烏帽子を外さないのが当時の風習。
まあとにかく烏帽子を脱がなかった。
そして何と実はSEXするときにスッポンポンになっても烏帽子は被ったまま。画像は後白河法皇(平安時代末期に源平の戦いに深く関わった実力者)がコレクションしていた春画「小柴垣草紙(こしばがきそうし)」を江戸時代に模写した「慶忍/潅頂巻絵詞(かんじょうまきえことば)」から。
ここまで来ると滑稽な姿だけれど、当時は頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリ(烏帽子のあれこれ・その2参照)を見られるのがよほど恥ずかしかったらしい。
とても合理的な説明がつかないが文化とはそういうものだろう。まあなかにはモトドリ攻めを好むドMな平安男子もいたかも知れないが(^^ゞ
ーーー続く
今回は書く前からあちこちに話がそれる予感がしていたとはいえ、
いい加減そろそろフィニッシュしないとーーー
2025年07月04日
烏帽子のあれこれ その3
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
既に書いたように冠(かんむり)は正装用で、烏帽子(えぼし)はそれ以外のときに被る帽子。冠は聖徳太子の頃に始まったとされるが、烏帽子のルーツは冠の下に着用した圭冠(はしばこうぶり)という薄い袋状のものだったようで、はっきりと形がわかる資料はないみたい。
聖徳太子が被っていた頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠は、平安後期に最初の写真のような漆で固めたハードタイプに変わる。それはその頃の日本に起きた「ファッションの大革命」の影響を受けている。

平安貴族の服装といえばこんなイメージが思い浮かぶはず。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/265.htmlから引用編集
しかしこれ、実は平安時代後期のスタイル。全体として直線的で威厳のある印象なものの、平安中期以前はもっと柔らかなデザインだったらしい。それでこの後期以降のデザインを強装束(こわしょうぞく)、それまでを柔装束(なえしょうぞく)と後の時代に区別するようになった。
歴史のお勉強的に書いておくと
飛鳥・奈良時代:中国大陸の隋や唐の影響を受けた「唐様(からよう)」のデザイン
↓
ナクヨウグイス平安京 794年から平安時代
それから100年ほど経つと唐の国力が衰え出す
ハクシニモドソウ遣唐使 894年に遣唐使廃止 唐の滅亡は907年
↓
約400年続いた平安時代の中期に唐の影響から脱却した日本独自の貴族文化が発達する。
いわゆる国風文化。平たくいえば日本風・和風の文化。
↓
衣装もシンプル・実用的な唐様から柔らかく曲線的で優美なものに変化。
それが柔装束(なえしょうぞく:萎装束とも書く)。
↓
平家が台頭してきた平安後期、中国大陸の宋より厚手の織物がもたらされるようになり、
また武家に対して威厳を示す必要もあって、強装束(こわしょうぞく)に変化して
いったとみられている。
まとめると唐様(からよう)→柔装束(なえしょうぞく)→強装束(こわしょうぞく)の変遷。平安時代は400年と縄文・弥生時代を除けば日本の時代区分の中で最も長い。ちなみに江戸時代は265年だから平安時代はその1.5倍もある。ひとくちに平安時代といっても様々なのだ。
時代は鎌倉まで下って源頼朝の肖像画。ほとんど直線で構成されていてまるで幾何学的デザイン。絵だから誇張しているのではなく、糊をきかせてガチガチに固めて着付けている。
戦国時代頃から始まり江戸時代には一般的となった裃(かみしも)も、強装束の流れを継承している。画像はhttps://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3298/から引用
柔装束から強装束のような大きな変化はその後は起きなかったので、明治になり洋装に変わるまで貴族の衣装はベースとして強装束が続く。現在の皇族がたまに儀式で着用する平安朝の衣装も強装束。こちらは1993年(平成5年)の「結婚の儀」の写真。
それでは柔装束(なえしょうぞく)は具体的にどんなデザインだったのか?
しかしこれがはっきりとは判明していない。
もちろん平安時代の衣装は現存しないので、当時の絵画やその他の資料で推測するわけであるが、平安時代中頃までは肖像画を描くのは憚られる風潮があった。それは明治時代にカメラと写真を見た日本人が「魂を抜かれる」と畏れたのと同じような理由。なんたって言霊(ことだま)を信じるくらいの民族だから、ビジュアルなんてもってのほかだったのだろう。
平安時代中期の絶対的権力者である藤原道長(966〜1028年)のこの肖像画も、紫式部絵日記という鎌倉時代初期に描かれたもの。その頃は強装束の時代なので、丸いラインで描かれてはいても強装束を着せられている。
それを逆手にとり、柔装束の事例としていくつかの資料で取り上げられていたのが聖徳太子絵伝すなわち聖徳太子の伝記を絵で表した作品。現在残っているのは1069年、つまり平安中期の制作。だからそこに描かれている衣装は柔装束とのロジック。
これがその柔装束姿の聖徳太子。
でも藤原道長の衣装との違いがよくわからない(/o\)
いずれにせよ平安貴族文化がピカピカに輝いていた時代の服装がはっきりわかっていないとは意外。
ついでに書くとよく映画やドラマの題材となる源氏物語。執筆されたのは平安中期である。物語は「いづれの御時にか=いつのことか忘れてしまったが」で始まるフィクション。でも内容から設定としては平安中期なのは間違いない。となれば柔装束の時代なはず。
でも映画やドラマで着せられているのは強装束だよね?画像はhttps://www.imdb.com/title/tt1705064/とhttps://www.cinematoday.jp/news/N0141179から引用
柔装束のデザインはわかっていないうえ、強装束=平安時代との認識回路が日本人の中にできあがっているので演出的にはこうせざるを得ないし、別にそれが問題だとも思っていない。でも無駄な知識が増えると、どうでもいいところに引っ掛かりが生まれてしまう。
あっ、今回も烏帽子まで話が進まなかったm(_ _)m
ーーー続く







































































