2025年10月
2025年10月31日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その7
さて私の場合、日本の読みや発音のほとんどがニホンなのは前回に書いた。それは世間全般に同じようで2004年に国立国語研究所などが実施した調査によると、会話において日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている単語の97.6%はニホンと発音されていたとの結果が出ている。国名でも96.2%がニホンと比率は同じ。
またNHKでは国名についてニホンとニッポンのどちらがいいかの調査を行っており、
その回答は
1963年(昭和38年) ニホン 45.5% ニッポン41.8%
1993年(平成5年) ニホン 58% ニッポン39%
2003年(平成15年) ニホン 61% ニッポン37%
となっている。
両者を掛け合わせると
・時代が上がるにつれて国名はニホンがふさわしいと考える人が増え、
ニッポンと考える人が減っている
・ニッポンがふさわしいと考えている人でも実際にはニホンと発音している
何となくニホンよりニッポンのほうが響きとして古いイメージは私も持っている。それぞれの調査から20年以上経った現在に再調査すれば、ニホンがさらに優位になっていると思われる。
参考までにNHK=日本放送協会はニッポンと読む。
国語研の調査で日本とつく単語の97.6%はニホンと発音されていたが、次の単語に限っては数値が低かった=ニッポンと発音する人が相対的に多かった。(数値はニホンと発音する人の割合)
日本一 77.5%
日本代表 80.6%
これはおそらくニッポンはニホンより力強い印象があるから。ナンバーワンを表現するにはニホンよりニッポンのほうが似合う。ただしスポーツの日本代表については前回に書いた通り私はニッポン代表だが、日本代表はいろいろな分野があるので、例えば「国連の日本代表団」なんて文脈だとニホンと読んでしまう。
そしてニッポンにあってニホンにないのはリズム感。ニホンより「いよ!ニッポンイチ!」のほうが声を掛けやすい。また「がんばれニッポン」が「がんばれニホン」だと、どうにも言葉が詰まってしまうし、「ニッポン!ニッポン!」の連呼が「ニホン!ニホン!」では盛り上がらない。「ニッポン チャチャチャ」も同じく。
逆に山口百恵の「いい日旅立ち」の「♪あ〜あ〜日本のどこかに私を待ってる人がいる」がニッポンだと情緒がでない。知らず知らずに使い分けているものだ。
余談その3
ところで「がんばれニッポン」「ニッポン チャチャチャ」と応援しているのにスポーツの日本代表チーム名は森保ジャパン、なでしこジャパン、SAMURAI JAPANとジャパンばかりなのはこれいかに?
なお国名について公的な議論としては次のような変遷を経ている。
■1934年(昭和9年)3月
NHKが国号としてはニッポンを第一の読み方とし、ニホンを第二の読み方とすると暫定的に決定。
NHKの暫定決定の1週間後に、文部省の臨時国語調査会(国語審議会の前身)が「国号呼称統一案」を発表し、国号をニッポンとすると決議。しかしこれは政府に採択されず。
満州国の建国が1932年、日中戦争開戦が1937年で当時は軍国主義一色の時代。NHKや文部省の決定は国家主義・軍国主義者らの国名は大国・強国をイメージさせるニッポンに統一せよとの意見の反映とされる。大日本帝国は大ニッポン帝国と概ね呼ばれており、大ニッポン帝国陸海軍だった。いっぽう和歌などの伝統文化では「っ」の入る促音、また点や丸のつく濁点、半濁点を好まないので、皇室を初めとする面々がニッポンに反対したとの解説もあったが詳細はわからず。あの時代に皇室といえども和歌を理由に軍部に対抗できたのか。
■1945年(昭和20年)終戦
■1946年(昭和21年)
帝国議会における新憲法(日本国憲法)の審議において、金森国務大臣が「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは通念として認められている」と述べて、日本国憲法の読みをどちらかに統一する見解を否定。
■1951年(昭和26年)
NHKが1934年の暫定決定を正式決定に格上げ。
この理由を示す資料は見つからなかった。自らがニッポン放送協会だからか、あるいはアナウンサーごとに読みが違うのは不適切と考えて単に一本化しただけなのか?
■1965年(昭和40年)
郵便切手にローマ字で国名を入れる際、郵政省の「NIPPON」案が閣議で了承される。ただし政府として国名呼称を統一したわけではない。
■1970年(昭和45年)
佐藤内閣時代に、大阪万国博覧会を前に国名をニッポンに統一すべしの議論が国会であったものの結論を得ず。佐藤栄作首相や中曽根康弘防衛庁長官が「ニッポン」を強く推したとされる。
■そして最新版は2009年(平成21年)
当時の民主党議員が提出した「今後、日本の読み方を統一する意向はあるか」の質問主意書に対し、麻生内閣は以下の回答を閣議決定。
ニッポン、ニホンという読み方についてはいずれも広く通用しており、
どちらか一方に統一する必要はない
これで今のところは、ニッポン、ニホンのどちらでもよいと公式に確定された状態。ニホン酒を注文するときに「ポン酒ください」と頼むのも国家公認(^^ゞ
次回はようやく倭から日本になった飛鳥時代末期の700年前後に戻る予定。素直に本題に入れるかどうかはわからないがm(_ _)m
ーーー続く
またNHKでは国名についてニホンとニッポンのどちらがいいかの調査を行っており、
その回答は
1963年(昭和38年) ニホン 45.5% ニッポン41.8%
1993年(平成5年) ニホン 58% ニッポン39%
2003年(平成15年) ニホン 61% ニッポン37%
となっている。
両者を掛け合わせると
・時代が上がるにつれて国名はニホンがふさわしいと考える人が増え、
ニッポンと考える人が減っている
・ニッポンがふさわしいと考えている人でも実際にはニホンと発音している
何となくニホンよりニッポンのほうが響きとして古いイメージは私も持っている。それぞれの調査から20年以上経った現在に再調査すれば、ニホンがさらに優位になっていると思われる。
参考までにNHK=日本放送協会はニッポンと読む。
国語研の調査で日本とつく単語の97.6%はニホンと発音されていたが、次の単語に限っては数値が低かった=ニッポンと発音する人が相対的に多かった。(数値はニホンと発音する人の割合)
日本一 77.5%
日本代表 80.6%
これはおそらくニッポンはニホンより力強い印象があるから。ナンバーワンを表現するにはニホンよりニッポンのほうが似合う。ただしスポーツの日本代表については前回に書いた通り私はニッポン代表だが、日本代表はいろいろな分野があるので、例えば「国連の日本代表団」なんて文脈だとニホンと読んでしまう。
そしてニッポンにあってニホンにないのはリズム感。ニホンより「いよ!ニッポンイチ!」のほうが声を掛けやすい。また「がんばれニッポン」が「がんばれニホン」だと、どうにも言葉が詰まってしまうし、「ニッポン!ニッポン!」の連呼が「ニホン!ニホン!」では盛り上がらない。「ニッポン チャチャチャ」も同じく。
逆に山口百恵の「いい日旅立ち」の「♪あ〜あ〜日本のどこかに私を待ってる人がいる」がニッポンだと情緒がでない。知らず知らずに使い分けているものだ。
余談その3
ところで「がんばれニッポン」「ニッポン チャチャチャ」と応援しているのにスポーツの日本代表チーム名は森保ジャパン、なでしこジャパン、SAMURAI JAPANとジャパンばかりなのはこれいかに?
なお国名について公的な議論としては次のような変遷を経ている。
■1934年(昭和9年)3月
NHKが国号としてはニッポンを第一の読み方とし、ニホンを第二の読み方とすると暫定的に決定。
NHKの暫定決定の1週間後に、文部省の臨時国語調査会(国語審議会の前身)が「国号呼称統一案」を発表し、国号をニッポンとすると決議。しかしこれは政府に採択されず。
満州国の建国が1932年、日中戦争開戦が1937年で当時は軍国主義一色の時代。NHKや文部省の決定は国家主義・軍国主義者らの国名は大国・強国をイメージさせるニッポンに統一せよとの意見の反映とされる。大日本帝国は大ニッポン帝国と概ね呼ばれており、大ニッポン帝国陸海軍だった。いっぽう和歌などの伝統文化では「っ」の入る促音、また点や丸のつく濁点、半濁点を好まないので、皇室を初めとする面々がニッポンに反対したとの解説もあったが詳細はわからず。あの時代に皇室といえども和歌を理由に軍部に対抗できたのか。
■1945年(昭和20年)終戦
■1946年(昭和21年)
帝国議会における新憲法(日本国憲法)の審議において、金森国務大臣が「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは通念として認められている」と述べて、日本国憲法の読みをどちらかに統一する見解を否定。
■1951年(昭和26年)
NHKが1934年の暫定決定を正式決定に格上げ。
この理由を示す資料は見つからなかった。自らがニッポン放送協会だからか、あるいはアナウンサーごとに読みが違うのは不適切と考えて単に一本化しただけなのか?
■1965年(昭和40年)
郵便切手にローマ字で国名を入れる際、郵政省の「NIPPON」案が閣議で了承される。ただし政府として国名呼称を統一したわけではない。
■1970年(昭和45年)
佐藤内閣時代に、大阪万国博覧会を前に国名をニッポンに統一すべしの議論が国会であったものの結論を得ず。佐藤栄作首相や中曽根康弘防衛庁長官が「ニッポン」を強く推したとされる。
■そして最新版は2009年(平成21年)
当時の民主党議員が提出した「今後、日本の読み方を統一する意向はあるか」の質問主意書に対し、麻生内閣は以下の回答を閣議決定。
ニッポン、ニホンという読み方についてはいずれも広く通用しており、
どちらか一方に統一する必要はない
これで今のところは、ニッポン、ニホンのどちらでもよいと公式に確定された状態。ニホン酒を注文するときに「ポン酒ください」と頼むのも国家公認(^^ゞ
次回はようやく倭から日本になった飛鳥時代末期の700年前後に戻る予定。素直に本題に入れるかどうかはわからないがm(_ _)m
ーーー続く
2025年10月30日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その6
前置きのつもりだった倭の話が長かったが、
今回より「日本」の「読み」について。
初回に書いたように明治政府が東京の読みを定めなかったので、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した時期が明治36年まで続いた。江戸が東京になったのは明治維新のときだけれど、倭から日本に国名を変えたのは飛鳥時代末期の700年前後とはるか昔。タイトルに書いたジッポンやニフォンなど様々な読みがあったようである。その変遷はひとまず置いて、まずは現在のお話から。
ご承知のように日本にはニホンとニッポンの二通りの読みがある。私はほとんどニホンかな。口に出すかどうかは別として、ニッポンと発音するのはスポーツの対外試合で「がんばれニッポン」と応援するときくらい。あとその流れで選手団の「日本代表」はニッポン代表と読んでいる気がする。
ニッポンではなくニホンと発音するのは、単純にそのほうが小さい「っ」(促音)が入らなくて口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
国名としての日本以外に、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている名称や単語について、それをどう読むかはネットでいろいろ実例が載っている。固有名詞で意外だったのは
日本体育大学→ニッポン体育大学
日本武道館→ニッポン武道館
日本体育大学の読みを記した資料は見つからなかったものの、英文表記ではNipponと書かれている。もっとも普段はニッタイダイなので、ニッポン体育大学と声に出す機会はほとんどない。
ちなみに左側にあるのは校章で、體は体の旧字。骨に豊かとは味のある表現。また歴史的には體→軆→躰→体と変化していったとされる。軆は身が豊か、躰は身が本(もと)と書き方を簡略化しながらも意味を継承しているのが面白い。體の下にある而に似た字は大の古文字。つまり校章は「体大」のデザイン化。
こちらは日本武道館の英文ホームページ。インターネットのURLも “ https://www.nipponbudokan.or.jp ” となっている。
ところで名称がニホンかニッポンかでよく取り上げられるのが日本銀行。解説の多くはお札にNIPPON GINKOと記されているからニッポン銀行だとしている。でもそれは必ずしも正確ではない。
日銀のホームページには次のような記述がある。https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j02.htmより引用
「日本銀行」の読み方については、法律などで「〇〇と読む」と決められている訳
ではなく、また、日本の国名を「ニッポン」と読むか、あるいは「ニホン」と
読むのかという問題に似て、二者択一的に決めるのは難しいところです。
ただ、お札の裏に「NIPPON GINKOアルファベットでにっぽんぎんこう」と
印刷してあることもあって、日本銀行では「ニッポンギンコウ」と呼ぶように
しております。
説明はそれなりに筋が通っていると思えるものの、さらに遡ってどうしてNIHONではなくNIPPONと刷ったのか正確ないきさつは不明。紙幣にNIPPON GINKOの文字が入ったのは1885年(明治18年)。当時の大蔵大臣の松方正義、初代日銀総裁の吉原重俊らは薩摩出身で、その頃の九州人はニッポンの発音を好んだとの説もある。ただしこれもあくまで推測の域を出ない。
また以前は西日本がニッポン、東日本がニホンと発音しており、それで大阪の日本橋はニッポン橋、東京はニホン橋なんて真偽不明の説もある。
余談その1
ローマ字表記で銀行をGINKOと書いてあるのに違和感があるし気に入らない。名詞でも佐藤さんはSATO、加藤さんならKATOが圧倒的。フリガナを振ればギンコウ、サトウ、カトウとなるのに、どうしてローマ字ではUを省略するのか。いずれブログのテーマにしましょう。
さて社名に日本がつく企業はたくさんある。NTTは今年の7月に商号(会社名)変更するまで日本電信電話株式会社で、日本電信電話公社の時代から読みはニッポン。保険会社の日本生命はニホン。しかし子会社のNTT東日本や西日本はニホンを使ってたし、日本生命の英文表記はNippon Life Insurance Companyとけっこういい加減。あるいは臨機応変な対応と見るべきか。
日本航空はずっとニホン航空と呼ばれ自らもそう称してきたが、以前の正式というか公式な読みはニッポン航空だった。これは会社の定款の英語訳が「NIPPON KOKU」だったため。これも日本銀行と同じで英訳がNIPPONになった理由は不明。
そもそも会社を作って登記する際、商号(社名)にフリガナを付けるようになったのは2018年(平成30年)とつい最近。2018年以前に作られた会社を言い換えれば、ほとんどの会社。だから企業に正しい読みは存在しないといえる。それで創業時にニッポン〇〇〇と名前を付けたつもりでも、後になってニホン〇〇〇と呼ばれるたりするのだ。
余談その2
登記の制度が変わって以降、カタカナや平仮名の社名でも、申請書類にフリガナを振っていないと突き返されるらしい。
考えてみると日本語は漢字表記ファーストで読みはその次のような気もする。例えば東さんはヒガシともアズマとも読める。総理大臣だって菅(かん)直人と菅(すが)義偉がいた。名前の読みを間違えるのは失礼だけれど、初対面ならまあ許してもらえる。しかし芳田さんを吉田、荒居さんを新井なんて字を間違えると相当に印象が悪くなる。織田信長と書くべき宛名を尾田や緒多にしてしまったら切腹(^^ゞ
キラキラネームなんてのも、その漢字ファースト文化の反映、あるいは制度や風習を逆手に取ったようなもの。なお戸籍の氏名も今年の5月に制度が変わってフリガナの記載が義務づけられた。ただし読み方の自由度は高いので、よほど常識に反していない限りキラキラネームも認められる。
ーーー続く
今回より「日本」の「読み」について。
初回に書いたように明治政府が東京の読みを定めなかったので、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した時期が明治36年まで続いた。江戸が東京になったのは明治維新のときだけれど、倭から日本に国名を変えたのは飛鳥時代末期の700年前後とはるか昔。タイトルに書いたジッポンやニフォンなど様々な読みがあったようである。その変遷はひとまず置いて、まずは現在のお話から。
ご承知のように日本にはニホンとニッポンの二通りの読みがある。私はほとんどニホンかな。口に出すかどうかは別として、ニッポンと発音するのはスポーツの対外試合で「がんばれニッポン」と応援するときくらい。あとその流れで選手団の「日本代表」はニッポン代表と読んでいる気がする。
ニッポンではなくニホンと発音するのは、単純にそのほうが小さい「っ」(促音)が入らなくて口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
国名としての日本以外に、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている名称や単語について、それをどう読むかはネットでいろいろ実例が載っている。固有名詞で意外だったのは
日本体育大学→ニッポン体育大学
日本武道館→ニッポン武道館
日本体育大学の読みを記した資料は見つからなかったものの、英文表記ではNipponと書かれている。もっとも普段はニッタイダイなので、ニッポン体育大学と声に出す機会はほとんどない。
ちなみに左側にあるのは校章で、體は体の旧字。骨に豊かとは味のある表現。また歴史的には體→軆→躰→体と変化していったとされる。軆は身が豊か、躰は身が本(もと)と書き方を簡略化しながらも意味を継承しているのが面白い。體の下にある而に似た字は大の古文字。つまり校章は「体大」のデザイン化。
こちらは日本武道館の英文ホームページ。インターネットのURLも “ https://www.nipponbudokan.or.jp ” となっている。
ところで名称がニホンかニッポンかでよく取り上げられるのが日本銀行。解説の多くはお札にNIPPON GINKOと記されているからニッポン銀行だとしている。でもそれは必ずしも正確ではない。
日銀のホームページには次のような記述がある。https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j02.htmより引用
「日本銀行」の読み方については、法律などで「〇〇と読む」と決められている訳
ではなく、また、日本の国名を「ニッポン」と読むか、あるいは「ニホン」と
読むのかという問題に似て、二者択一的に決めるのは難しいところです。
ただ、お札の裏に「NIPPON GINKOアルファベットでにっぽんぎんこう」と
印刷してあることもあって、日本銀行では「ニッポンギンコウ」と呼ぶように
しております。
説明はそれなりに筋が通っていると思えるものの、さらに遡ってどうしてNIHONではなくNIPPONと刷ったのか正確ないきさつは不明。紙幣にNIPPON GINKOの文字が入ったのは1885年(明治18年)。当時の大蔵大臣の松方正義、初代日銀総裁の吉原重俊らは薩摩出身で、その頃の九州人はニッポンの発音を好んだとの説もある。ただしこれもあくまで推測の域を出ない。
また以前は西日本がニッポン、東日本がニホンと発音しており、それで大阪の日本橋はニッポン橋、東京はニホン橋なんて真偽不明の説もある。
余談その1
ローマ字表記で銀行をGINKOと書いてあるのに違和感があるし気に入らない。名詞でも佐藤さんはSATO、加藤さんならKATOが圧倒的。フリガナを振ればギンコウ、サトウ、カトウとなるのに、どうしてローマ字ではUを省略するのか。いずれブログのテーマにしましょう。
さて社名に日本がつく企業はたくさんある。NTTは今年の7月に商号(会社名)変更するまで日本電信電話株式会社で、日本電信電話公社の時代から読みはニッポン。保険会社の日本生命はニホン。しかし子会社のNTT東日本や西日本はニホンを使ってたし、日本生命の英文表記はNippon Life Insurance Companyとけっこういい加減。あるいは臨機応変な対応と見るべきか。
日本航空はずっとニホン航空と呼ばれ自らもそう称してきたが、以前の正式というか公式な読みはニッポン航空だった。これは会社の定款の英語訳が「NIPPON KOKU」だったため。これも日本銀行と同じで英訳がNIPPONになった理由は不明。
そもそも会社を作って登記する際、商号(社名)にフリガナを付けるようになったのは2018年(平成30年)とつい最近。2018年以前に作られた会社を言い換えれば、ほとんどの会社。だから企業に正しい読みは存在しないといえる。それで創業時にニッポン〇〇〇と名前を付けたつもりでも、後になってニホン〇〇〇と呼ばれるたりするのだ。
余談その2
登記の制度が変わって以降、カタカナや平仮名の社名でも、申請書類にフリガナを振っていないと突き返されるらしい。
考えてみると日本語は漢字表記ファーストで読みはその次のような気もする。例えば東さんはヒガシともアズマとも読める。総理大臣だって菅(かん)直人と菅(すが)義偉がいた。名前の読みを間違えるのは失礼だけれど、初対面ならまあ許してもらえる。しかし芳田さんを吉田、荒居さんを新井なんて字を間違えると相当に印象が悪くなる。織田信長と書くべき宛名を尾田や緒多にしてしまったら切腹(^^ゞ
キラキラネームなんてのも、その漢字ファースト文化の反映、あるいは制度や風習を逆手に取ったようなもの。なお戸籍の氏名も今年の5月に制度が変わってフリガナの記載が義務づけられた。ただし読み方の自由度は高いので、よほど常識に反していない限りキラキラネームも認められる。
ーーー続く
2025年10月24日
クリスマス・カクタス 秋の摘心
(国名のテーマは一回お休み)
5月に剪定と挿し芽をしたクリスマス・カクタス。たまの土の入れ替えを除けば毎年の作業はそれだけであるが、今年は「9月になって伸びてきた新芽には花芽がつかないので摘み取る」を初めて実行してみた。以前はそんなことをしなくてもたくさん花を咲かせたのに、最近は花数が少ないから。
作業日は10月10日。
上から
<2023年春に挿し芽した:5代目その2>
<2021年春に植え替えした:4代目その1>
<2022年春に挿し芽した:5代目その1>
そこそこ元気よく育っている。
園芸の解説を見ると多くは「9月に伸びた新芽は赤い色をしている」と書いてある。しかし今年の9月はまだ真夏だったせいか10月になっているのに新緑色。
赤っぽくなっているのも少しはある。
例年はもっと濃い赤になる。
それでもそれは9月ではなく10月以降のような気がするが正確な記憶ではない。
とりあえず新芽はすべて摘心した。
新芽の下が柔らかくて若葉っぽいのはそれも一緒に。
念のために書いておくと、9月以降に伸びた新芽はまだ若すぎて花芽を付けられない→花芽を付けられる十分に成長した茎まで先端をカットするのがこの作業。
ちなみに同じような作業だが
剪定:形を整える
摘心:成長を促す(今回は花芽をださせるため)
と目的によって用語が分けられている。
一緒に弱っている茎も取り除いた。
摘心後のクリスマス・カクタス。
ただここでふと疑問が。
クリスマス・カクタスが花芽を付けるのは早くて11月の中頃。
まだ1ヶ月も先。
摘心した後にまた新芽が出てこないか?
案の定、
10月19日に新たな新芽がいくつかでているのを発見。
ただしこれが摘心した茎から再び出てきたのか、まったく最初の新芽なのかは不明。摘心した数と、現在の新芽を比べると後者の数はごくわずか。すると最初の新芽のような気もするが、はっきりとしたことはわからず。
今のところは11月の第2週に入ったら、その時にある新芽はすべて摘心して、その後にまた生えてきたら、それはそのまま放置する予定。
ついでに
今年の5月に剪定した茎で挿し芽した <2025年春に挿し芽した:5代目その3>。
これは挿し芽したときの写真
実は前年の<2024年春に挿し芽した:4代目半>は古い株と同じプランターに挿し芽したのがいけなかったのか夏までに全滅した(>_<)
今年の<5代目その3>は現在のところ半分くらい残っている。
でも全体的に薄っぺらであまり元気がなく先行き不安。
5月に剪定と挿し芽をしたクリスマス・カクタス。たまの土の入れ替えを除けば毎年の作業はそれだけであるが、今年は「9月になって伸びてきた新芽には花芽がつかないので摘み取る」を初めて実行してみた。以前はそんなことをしなくてもたくさん花を咲かせたのに、最近は花数が少ないから。
作業日は10月10日。
上から
<2023年春に挿し芽した:5代目その2>
<2021年春に植え替えした:4代目その1>
<2022年春に挿し芽した:5代目その1>
そこそこ元気よく育っている。
園芸の解説を見ると多くは「9月に伸びた新芽は赤い色をしている」と書いてある。しかし今年の9月はまだ真夏だったせいか10月になっているのに新緑色。
赤っぽくなっているのも少しはある。
例年はもっと濃い赤になる。
それでもそれは9月ではなく10月以降のような気がするが正確な記憶ではない。
とりあえず新芽はすべて摘心した。
新芽の下が柔らかくて若葉っぽいのはそれも一緒に。
念のために書いておくと、9月以降に伸びた新芽はまだ若すぎて花芽を付けられない→花芽を付けられる十分に成長した茎まで先端をカットするのがこの作業。
ちなみに同じような作業だが
剪定:形を整える
摘心:成長を促す(今回は花芽をださせるため)
と目的によって用語が分けられている。
一緒に弱っている茎も取り除いた。
摘心後のクリスマス・カクタス。
ただここでふと疑問が。
クリスマス・カクタスが花芽を付けるのは早くて11月の中頃。
まだ1ヶ月も先。
摘心した後にまた新芽が出てこないか?
案の定、
10月19日に新たな新芽がいくつかでているのを発見。
ただしこれが摘心した茎から再び出てきたのか、まったく最初の新芽なのかは不明。摘心した数と、現在の新芽を比べると後者の数はごくわずか。すると最初の新芽のような気もするが、はっきりとしたことはわからず。
今のところは11月の第2週に入ったら、その時にある新芽はすべて摘心して、その後にまた生えてきたら、それはそのまま放置する予定。
ついでに
今年の5月に剪定した茎で挿し芽した <2025年春に挿し芽した:5代目その3>。
これは挿し芽したときの写真
実は前年の<2024年春に挿し芽した:4代目半>は古い株と同じプランターに挿し芽したのがいけなかったのか夏までに全滅した(>_<)
今年の<5代目その3>は現在のところ半分くらい残っている。
でも全体的に薄っぺらであまり元気がなく先行き不安。
2025年10月21日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その5
20万年前に南アフリカ周辺で誕生したホモサピエンス。6万年前にヨーロッパに進出し、あちこちを経由して日本列島にやって来たのが4万年前の紀元前3万8000年。そこから紀元前1万4000年までが旧石器時代で、さらにその先の紀元前900年代までを新石器時代にあたる縄文時代と呼ぶ。
縄文人は旧石器時代にやって来た人たちの子孫と考えられている。次の紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間が弥生時代であるが、弥生人は縄文人とは別系統。
弥生人がどこから来たのかは明確にはわかっていない(縄文人もだけれど)。それでも朝鮮半島から、あるいは中国から朝鮮半島経由で日本列島に渡ってきた人が多くいたのは確かだと思われる。
図はホモサピエンスの全世界移動ルート。画像はhttps://globe.asahi.com/article/14501100から引用
もちろんある時期に大挙して押し寄せたのではなく、縄文後期から少しずつ渡ってきた。そのころより地球の寒冷化が始まり暖かさを求めて南下した、あるいは大陸や半島の戦乱を逃れて来た難民などの説がある。すべての人が同じ理由ではないだろうし、弥生時代の1200年間には様々な理由があったはず。
前回、朝鮮半島の楽浪郡や中国の洛陽まで、弥生人がカヌーのような小さな船で朝貢に趣いていたのは驚くと書いた。しかし元々は海を渡ってやって来たのだから、当時はそれなりの海洋国家だったのかも知れない。
ただし中国の歴史書で最初に倭が登場するのは、時期は特定できないものの前漢王朝であった紀元前206年〜8年のどこかでの出来事である。その後の後漢の歴史書では紀元57年と107年の記述がある。つまり1200年続いた弥生時代の後期。
朝鮮半島から海を渡ってやってきたとはいえ、おそらく多くの弥生人にとってそれは数百年前の先祖の話であり、彼らが「海の民」であったわけではない。一方で多くは日本列島に定住したが、対馬あたりでは、そこを本拠地としながら朝鮮半島と頻繁に行き来している部族がいたものと思われる。
ところで弥生時代に古代中国王朝に朝貢していたと聞いて、
おそらく最初に思い浮かぶ疑問は
その時代にどうやって海を渡った?
中国語は話せたのか?
である。
航海については前回に紹介したようなカヌーを漕いで頑張った(^^ゞ そして朝鮮半島に行き来している部族は、朝鮮語や中国語を話せたのだと思う。おそらく彼らが朝貢外交団の一員として通訳を務めたのだろう。まさか身振り手振りだけで朝貢の役目を果たせたとは考えづらい。
さてここからが本題。
弥生時代の倭人には日本語と中国語のバイリンガルな人々がいたのである。
それは「文字」の存在を知っていたことを意味する。
なのになぜ国内では文字が使われなかったのだ?
そもそも中国大陸から渡ってきた弥生人がいるなら、
どうして日本に列島に来て文字を使うのをやめてしまった?
古代中国で漢字のルーツである甲骨文字が使われ始めたのは殷王朝(紀元前16世紀中頃〜紀元前1046年)の時代。それは占いの記録用途だったようで、コミュニケーションツールとしての文字は次の周王朝(紀元前1046年〜紀元前770年)から。弥生時代の始まりが紀元前900年代なので時期は重なる。
もっとも当時の中国で文字を使えるのはごく一部の支配階級だけで、日本に渡ってきた人々まで普及していなかった可能性はある。それはそれとして、朝貢で古代中国とやりとりをしていた弥生時代の支配階級は、文字の存在を知っていたはず。なのにそれを自分たちの言語に応用しなかったのかは大いにナゾ
以前に文字が使われるには
1.人口が多い
2.都市が形成される
3.支配者の権力が強く官僚制度がある
などの条件が揃ってからと何かで読んだ。
1は人が少なければ口頭で済むとの単純な理屈。2について記憶が曖昧なものの、いろんな職業や階層の人が集まるようになって、コミュニケーションツールとして文字が必要になるだったかな。例えば集落全員が農民で、皆が同じような暮らしをしているのなら情報交換は口頭だけで事足りる。3も基本的に同じで世の中の仕組みが複雑になると事務仕事が発生する。何となく世界各地で文字が発明された四大文明を逆算したような説ではあるが。
弥生時代に古代中国によって日本は倭と名付けられ、その各地域の支配者が倭の国王と呼ばれたけれど、現在になぞらえての実態イメージとしては「未開なジャングルに住む部族とその酋長」程度だったのだろう。そりゃまだ文字は必要ないな。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。世界最大のお墓である仁徳天皇陵なんて、それなりの文明力を感じさせるのに築造されたのは400年から450年頃と推定され、まだ文字はなし。考えてみればピラミッドと違って古墳なんて造るのにそんなに高度な技術はいらないか。
だから古墳時代になったとはいえまだまだ酋長の時代が続いていた。だいたい弥生時代と古墳時代は、有力者の大型の墓が円形だったか、丸と四角を組み合わせた前方後円墳だったか程度の違いしかない。
まあ歴史区分の半分はそういうもので、どこかで区切りを付けないと理解しづらいから後世になって分けているだけ。縄文時代と弥生時代は稲作の普及と鉄器の使用といった社会的な違いがあっても、奈良時代と平安時代なんて都が奈良から京都に移ったに過ぎない。また江戸時代と明治時代は社会のあり方に大きな違いがある。ただしその後に明治・大正・昭和・平成・令和と天皇の代替わりで何となく区別しているけれど、中身はそんなに変わっていない。あえて言えば戦前と戦後は違うかな。数百年先に明治以降は何時代と呼ばれるのだろうね。とりあえずこのブログは昭和人が平成と令和の時代に書いています(^^ゞ
話を文字に戻すと日本には古墳時代の中頃まで文字はなかった。古代中国との接触で文字は目にしていても、バイリンガル弥生人は別として、支配階級を含めて民族全体として文字は使わなかった。
「その2」で書いたように、紀元57年の朝貢では後漢の光武帝より漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と文字が刻まれた金印が贈られた。他にも文字が使われる4世紀以前の出土品で、鏡や土器などに漢字が記されたものが見つかっている(文章ではなく数文字程度)。
金印はもちろん、漢字が刻まれた鏡や土器は支配階級の所有物である。バイリンガル弥生人に多少は意味を教えられたかも知れないが、彼らは漢字は読めないし中国語もわからない。
どんな風にこれらの文字を眺めていたのかな。
単なる線を使ったデザインとしてか?
(関係ないが弥生時代に朱肉はなかったはず)

それで思い浮かべるのはこんな外国人の漢字タトゥー。弥生人も案外こんなノリで「この金印イケてるねえ、超クール!」なんて会話してたりして(^^ゞ
さて「その3」では倭という名前が蔑称(べっしょう)かどうかについて書いた。その文章を引用すると
飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。
唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
などの記述が見られる。
文字を使い始めてから200年。ようやく倭や邪馬台国や卑弥呼などが中国から馬鹿にされた名前だと気付いたみたい。遅すぎるゾ
そういえば昔は便所や便器なんて漢字タトゥーを入れた外国人がいたのに、最近は見かけない。写真のタトゥーは便所に較べればまだまとも。これは単にデザインだけで漢字を選んでいたのが、ネットで手軽に意味を調べられるようになったからだと思っている。とりあえず無知は怖いね。
先ほどの漢委奴国王の金印が江戸時代に田んぼで偶然見つかった話は、社会科だったか日本史だったかで習う。しばらくして、これが日本にもたらされたのは弥生時代で、その頃の日本にはまだ文字がなく、でも中国ではもっと大昔から文字を使っていたと知った。その時に日本はなんて遅れた国だったのかと情けなかった。その印象はかなり強烈で、実は日本民族が文字を生み出さなかったのを何となくコンプレックスに感じてきた。
紀元前1000年あたりで文字を使い始めた中国と紀元500年からの日本。
日本は文字について中国に1500年も後れを取った。
でもでもしかしである。
ホモサピエンスが誕生したのが20万年前。そしてどうやってそんなことがわかるのか根拠は見つけられなかったものの、人類が言葉を喋り出したのが10万年前とされる。
つまり言葉が生まれて10万年の歴史がある中で1500年の遅れなんて、その1.5%の期間に過ぎないのである。ホモサピエンス20万年の歴史でなら0.75%、何なら最初の人類である猿人が誕生した700万年前を持ち出せば0.02%となり誤差以下の値である。だから歴史的に見てたいした差ではなかったとこれからは思うようにしましょう。まあ都合よく数字をいじくるのは職業柄もあって得意である(^^ゞ
ーーー続く
倭の話は今回で終わりのつもり。
縄文人は旧石器時代にやって来た人たちの子孫と考えられている。次の紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間が弥生時代であるが、弥生人は縄文人とは別系統。
弥生人がどこから来たのかは明確にはわかっていない(縄文人もだけれど)。それでも朝鮮半島から、あるいは中国から朝鮮半島経由で日本列島に渡ってきた人が多くいたのは確かだと思われる。
図はホモサピエンスの全世界移動ルート。画像はhttps://globe.asahi.com/article/14501100から引用
もちろんある時期に大挙して押し寄せたのではなく、縄文後期から少しずつ渡ってきた。そのころより地球の寒冷化が始まり暖かさを求めて南下した、あるいは大陸や半島の戦乱を逃れて来た難民などの説がある。すべての人が同じ理由ではないだろうし、弥生時代の1200年間には様々な理由があったはず。
前回、朝鮮半島の楽浪郡や中国の洛陽まで、弥生人がカヌーのような小さな船で朝貢に趣いていたのは驚くと書いた。しかし元々は海を渡ってやって来たのだから、当時はそれなりの海洋国家だったのかも知れない。
ただし中国の歴史書で最初に倭が登場するのは、時期は特定できないものの前漢王朝であった紀元前206年〜8年のどこかでの出来事である。その後の後漢の歴史書では紀元57年と107年の記述がある。つまり1200年続いた弥生時代の後期。
朝鮮半島から海を渡ってやってきたとはいえ、おそらく多くの弥生人にとってそれは数百年前の先祖の話であり、彼らが「海の民」であったわけではない。一方で多くは日本列島に定住したが、対馬あたりでは、そこを本拠地としながら朝鮮半島と頻繁に行き来している部族がいたものと思われる。
ところで弥生時代に古代中国王朝に朝貢していたと聞いて、
おそらく最初に思い浮かぶ疑問は
その時代にどうやって海を渡った?
中国語は話せたのか?
である。
航海については前回に紹介したようなカヌーを漕いで頑張った(^^ゞ そして朝鮮半島に行き来している部族は、朝鮮語や中国語を話せたのだと思う。おそらく彼らが朝貢外交団の一員として通訳を務めたのだろう。まさか身振り手振りだけで朝貢の役目を果たせたとは考えづらい。
さてここからが本題。
弥生時代の倭人には日本語と中国語のバイリンガルな人々がいたのである。
それは「文字」の存在を知っていたことを意味する。
なのになぜ国内では文字が使われなかったのだ?
そもそも中国大陸から渡ってきた弥生人がいるなら、
どうして日本に列島に来て文字を使うのをやめてしまった?
古代中国で漢字のルーツである甲骨文字が使われ始めたのは殷王朝(紀元前16世紀中頃〜紀元前1046年)の時代。それは占いの記録用途だったようで、コミュニケーションツールとしての文字は次の周王朝(紀元前1046年〜紀元前770年)から。弥生時代の始まりが紀元前900年代なので時期は重なる。
もっとも当時の中国で文字を使えるのはごく一部の支配階級だけで、日本に渡ってきた人々まで普及していなかった可能性はある。それはそれとして、朝貢で古代中国とやりとりをしていた弥生時代の支配階級は、文字の存在を知っていたはず。なのにそれを自分たちの言語に応用しなかったのかは大いにナゾ
以前に文字が使われるには
1.人口が多い
2.都市が形成される
3.支配者の権力が強く官僚制度がある
などの条件が揃ってからと何かで読んだ。
1は人が少なければ口頭で済むとの単純な理屈。2について記憶が曖昧なものの、いろんな職業や階層の人が集まるようになって、コミュニケーションツールとして文字が必要になるだったかな。例えば集落全員が農民で、皆が同じような暮らしをしているのなら情報交換は口頭だけで事足りる。3も基本的に同じで世の中の仕組みが複雑になると事務仕事が発生する。何となく世界各地で文字が発明された四大文明を逆算したような説ではあるが。
弥生時代に古代中国によって日本は倭と名付けられ、その各地域の支配者が倭の国王と呼ばれたけれど、現在になぞらえての実態イメージとしては「未開なジャングルに住む部族とその酋長」程度だったのだろう。そりゃまだ文字は必要ないな。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。世界最大のお墓である仁徳天皇陵なんて、それなりの文明力を感じさせるのに築造されたのは400年から450年頃と推定され、まだ文字はなし。考えてみればピラミッドと違って古墳なんて造るのにそんなに高度な技術はいらないか。
だから古墳時代になったとはいえまだまだ酋長の時代が続いていた。だいたい弥生時代と古墳時代は、有力者の大型の墓が円形だったか、丸と四角を組み合わせた前方後円墳だったか程度の違いしかない。
まあ歴史区分の半分はそういうもので、どこかで区切りを付けないと理解しづらいから後世になって分けているだけ。縄文時代と弥生時代は稲作の普及と鉄器の使用といった社会的な違いがあっても、奈良時代と平安時代なんて都が奈良から京都に移ったに過ぎない。また江戸時代と明治時代は社会のあり方に大きな違いがある。ただしその後に明治・大正・昭和・平成・令和と天皇の代替わりで何となく区別しているけれど、中身はそんなに変わっていない。あえて言えば戦前と戦後は違うかな。数百年先に明治以降は何時代と呼ばれるのだろうね。とりあえずこのブログは昭和人が平成と令和の時代に書いています(^^ゞ
話を文字に戻すと日本には古墳時代の中頃まで文字はなかった。古代中国との接触で文字は目にしていても、バイリンガル弥生人は別として、支配階級を含めて民族全体として文字は使わなかった。
「その2」で書いたように、紀元57年の朝貢では後漢の光武帝より漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と文字が刻まれた金印が贈られた。他にも文字が使われる4世紀以前の出土品で、鏡や土器などに漢字が記されたものが見つかっている(文章ではなく数文字程度)。
金印はもちろん、漢字が刻まれた鏡や土器は支配階級の所有物である。バイリンガル弥生人に多少は意味を教えられたかも知れないが、彼らは漢字は読めないし中国語もわからない。
どんな風にこれらの文字を眺めていたのかな。
単なる線を使ったデザインとしてか?
(関係ないが弥生時代に朱肉はなかったはず)

それで思い浮かべるのはこんな外国人の漢字タトゥー。弥生人も案外こんなノリで「この金印イケてるねえ、超クール!」なんて会話してたりして(^^ゞ
さて「その3」では倭という名前が蔑称(べっしょう)かどうかについて書いた。その文章を引用すると
飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。
唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
などの記述が見られる。
文字を使い始めてから200年。ようやく倭や邪馬台国や卑弥呼などが中国から馬鹿にされた名前だと気付いたみたい。遅すぎるゾ
そういえば昔は便所や便器なんて漢字タトゥーを入れた外国人がいたのに、最近は見かけない。写真のタトゥーは便所に較べればまだまとも。これは単にデザインだけで漢字を選んでいたのが、ネットで手軽に意味を調べられるようになったからだと思っている。とりあえず無知は怖いね。
先ほどの漢委奴国王の金印が江戸時代に田んぼで偶然見つかった話は、社会科だったか日本史だったかで習う。しばらくして、これが日本にもたらされたのは弥生時代で、その頃の日本にはまだ文字がなく、でも中国ではもっと大昔から文字を使っていたと知った。その時に日本はなんて遅れた国だったのかと情けなかった。その印象はかなり強烈で、実は日本民族が文字を生み出さなかったのを何となくコンプレックスに感じてきた。
紀元前1000年あたりで文字を使い始めた中国と紀元500年からの日本。
日本は文字について中国に1500年も後れを取った。
でもでもしかしである。
ホモサピエンスが誕生したのが20万年前。そしてどうやってそんなことがわかるのか根拠は見つけられなかったものの、人類が言葉を喋り出したのが10万年前とされる。
つまり言葉が生まれて10万年の歴史がある中で1500年の遅れなんて、その1.5%の期間に過ぎないのである。ホモサピエンス20万年の歴史でなら0.75%、何なら最初の人類である猿人が誕生した700万年前を持ち出せば0.02%となり誤差以下の値である。だから歴史的に見てたいした差ではなかったとこれからは思うようにしましょう。まあ都合よく数字をいじくるのは職業柄もあって得意である(^^ゞ
ーーー続く
倭の話は今回で終わりのつもり。
2025年10月19日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その4
かつて東京がトウケイやトキオと呼ばれていたのと同じように、日本にもニッポンとニホン以外の読み方があったと知り、それでそもそもいつから日本?と調べだしたら、その前は「倭」だったのを思い出して、そちらが何かと興味深く今回で「その4」になってしまった。
こんなことなら「日本」の話題に入るまで、
「倭」にちなんだタイトルにするべきだったと反省□\(.. )
ところでこの反省の絵文字はもう意味がわからない人が多いかも知れない。1980年代後半に猿回しでサルが反省するポーズが大人気になったのよ。
さて今回は名称としての倭についてではなく、
それ以外のあれこれ。
何度も書いたように弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族は文字を持たなかったので、その記録が最初に現れるのは前漢王朝(紀元前206年〜8年)の歴史書である漢書によって。そこには倭人が貢ぎ物を持って、前漢が朝鮮半島支配の拠点とした現在の平壌あたりである楽浪郡までやって来たと記されている。
漢書には具体的な時期は記されていないものの、次の次の王朝である後漢(25年〜220年)の歴史書には紀元57年、107年の朝貢(ちょうこう:中国皇帝に貢ぎ物を献上して臣下の礼を示す外交)が記録されている。このうち少なくとも57年の謁見は後漢の都である洛陽(らくよう)で行われたと考えられる。
中国大陸中部の洛陽と、朝鮮半島の楽浪郡の位置図。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
それにしても弥生時代に海を越えて朝鮮半島や中国大陸まで出かけていたことに驚く。埴輪や船が描かれた絵など様々な出土品から、当時の船は丸太をくりぬいた丸太舟(考古学では丸木舟と表現する)か、長距離航海にはそれの側面に板を張ってかさ上げした準構造船が使われていたと見られている。作り方はともかくとして、今でいえば大型のカヌーみたいなもの。全長は大きい船で12m程度の推定。参考までに大型観光バスが12mくらい。画像はhttps://shimonaga-iseki.yayoiken.jp/n-fune.htmlから引用
これは弥生時代より後の古墳時代前期(4世紀初頭)の古代船を復元したもの。これで全長は11m。弥生時代の船はこれよりもっとショボかったはずで、そんな船でよく海を渡ったものだ。画像はhttps://x.gd/mjnEP(短縮URL使用)より引用
ところで仮に九州から対馬経由で朝鮮半島に渡ったとすれば120kmプラス50km。こんな小さな手漕ぎボートでの航海は危険極まりなく漂流や沈没も多かったと思われる。それでも海を渡った弥生人のバイタリティに感心しながら、ふと後漢書に書かれていた内容が気になった。
それは
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した
こんな船で160人も運んだのか?
復元された古代船の写真では漕ぎ手が8人に船頭が2人乗っている。奴隷に漕がせるとして160人 ÷ 8人 =20隻。外交使節団や随行員とその他に人足モロモロを加えると、少なくともあと10隻は必要に思える。
そうなると30隻以上の大船団。それを送り出せるような国力が弥生時代にあったのだろうか。もちろん数隻でのピストン輸送も考えられるとしても、それだとかなりの日数が掛かりそうだ。
これについては様々な学説がある。
あまり詳しく調べていないが、
・後漢サイドが自らの権威を誇張するために人数を盛った
・160人の奴隷を献上したいと言っただけで、実際に献上されたかは不明
・帥升が治めていた国は朝鮮半島にあった
→つまり対馬海峡を渡って奴隷を運んだのではない
→その場合の倭国全体は日本列島と朝鮮半島にまたがる連合国家のような形態となる
などを見つけた。
弥生時代の倭について記した文書は漢書、後漢書、魏志倭人伝と他にもいくつかあるようだけれど、全部足してもたいした分量(文字数)ではない。また書かれている内容が正確とも限らない。歴史家はその背景や行間をあれこれ推測しながら、あるいはこじつけたりして自説を唱えている。それが歴史のロマンにも思えるし、エエ加減な学問・気楽な商売だとうらやましくもある(^^ゞ
次回も「日本」にたどり着かない予定m(_ _)m
ーーー続く
<2025年10月21日追記>
やはり倭の話を書いているのに、タイトルが「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン」なのはふさわしくない。しかし既に4回もそのタイトルでアップしている。
そこで折衷策として「その2」の回以降を「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)」と変更した。
こんなことなら「日本」の話題に入るまで、
「倭」にちなんだタイトルにするべきだったと反省□\(.. )
ところでこの反省の絵文字はもう意味がわからない人が多いかも知れない。1980年代後半に猿回しでサルが反省するポーズが大人気になったのよ。
さて今回は名称としての倭についてではなく、
それ以外のあれこれ。
何度も書いたように弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族は文字を持たなかったので、その記録が最初に現れるのは前漢王朝(紀元前206年〜8年)の歴史書である漢書によって。そこには倭人が貢ぎ物を持って、前漢が朝鮮半島支配の拠点とした現在の平壌あたりである楽浪郡までやって来たと記されている。
漢書には具体的な時期は記されていないものの、次の次の王朝である後漢(25年〜220年)の歴史書には紀元57年、107年の朝貢(ちょうこう:中国皇帝に貢ぎ物を献上して臣下の礼を示す外交)が記録されている。このうち少なくとも57年の謁見は後漢の都である洛陽(らくよう)で行われたと考えられる。
中国大陸中部の洛陽と、朝鮮半島の楽浪郡の位置図。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
それにしても弥生時代に海を越えて朝鮮半島や中国大陸まで出かけていたことに驚く。埴輪や船が描かれた絵など様々な出土品から、当時の船は丸太をくりぬいた丸太舟(考古学では丸木舟と表現する)か、長距離航海にはそれの側面に板を張ってかさ上げした準構造船が使われていたと見られている。作り方はともかくとして、今でいえば大型のカヌーみたいなもの。全長は大きい船で12m程度の推定。参考までに大型観光バスが12mくらい。画像はhttps://shimonaga-iseki.yayoiken.jp/n-fune.htmlから引用
これは弥生時代より後の古墳時代前期(4世紀初頭)の古代船を復元したもの。これで全長は11m。弥生時代の船はこれよりもっとショボかったはずで、そんな船でよく海を渡ったものだ。画像はhttps://x.gd/mjnEP(短縮URL使用)より引用
ところで仮に九州から対馬経由で朝鮮半島に渡ったとすれば120kmプラス50km。こんな小さな手漕ぎボートでの航海は危険極まりなく漂流や沈没も多かったと思われる。それでも海を渡った弥生人のバイタリティに感心しながら、ふと後漢書に書かれていた内容が気になった。
それは
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した
こんな船で160人も運んだのか?
復元された古代船の写真では漕ぎ手が8人に船頭が2人乗っている。奴隷に漕がせるとして160人 ÷ 8人 =20隻。外交使節団や随行員とその他に人足モロモロを加えると、少なくともあと10隻は必要に思える。
そうなると30隻以上の大船団。それを送り出せるような国力が弥生時代にあったのだろうか。もちろん数隻でのピストン輸送も考えられるとしても、それだとかなりの日数が掛かりそうだ。
これについては様々な学説がある。
あまり詳しく調べていないが、
・後漢サイドが自らの権威を誇張するために人数を盛った
・160人の奴隷を献上したいと言っただけで、実際に献上されたかは不明
・帥升が治めていた国は朝鮮半島にあった
→つまり対馬海峡を渡って奴隷を運んだのではない
→その場合の倭国全体は日本列島と朝鮮半島にまたがる連合国家のような形態となる
などを見つけた。
弥生時代の倭について記した文書は漢書、後漢書、魏志倭人伝と他にもいくつかあるようだけれど、全部足してもたいした分量(文字数)ではない。また書かれている内容が正確とも限らない。歴史家はその背景や行間をあれこれ推測しながら、あるいはこじつけたりして自説を唱えている。それが歴史のロマンにも思えるし、エエ加減な学問・気楽な商売だとうらやましくもある(^^ゞ
次回も「日本」にたどり着かない予定m(_ _)m
ーーー続く
<2025年10月21日追記>
やはり倭の話を書いているのに、タイトルが「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン」なのはふさわしくない。しかし既に4回もそのタイトルでアップしている。
そこで折衷策として「その2」の回以降を「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)」と変更した。
2025年10月15日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その3
文字を持っていなかった弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族。歴史に初めてその存在が記録されるのが、紀元後80年前後に編纂され中国・前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた「漢書(かんじょ)」によって。「朝鮮半島の海の向こう」に「倭人」が住んでいて「ときどき貢ぎ物を持ってやって来る」と紹介された。
それ以外に有名な史実として魏志「倭」人伝、漢委奴国王印(かんの「わ」のなのこくおういん)の金印、邪馬台国の卑弥呼が親魏「倭」王の称号を授けられたとか、なんとなく昔の日本は「倭」と呼ばれていたとの認識はある。しかしなぜ「倭」なのか?
論理的には2通りある。
日本人が倭と名乗った
中国側で倭と名付けた
後者は朝鮮半島の先に島々があって、会ったことはなくても人が住んでいるだろうから、元々そこを倭と呼んでいたケース。地球人が勝手に火星や火星人と呼ぶようなものである
学説では一般に前者である。
しかしいくつかの疑問がある。
まず日本人が名乗ったとして、倭はその名乗った言葉の音を中国の漢字に当てはめている。歴史の教科書でそれを「わ」と習うけれど、中国ではどうだったのか。現代の中国語で倭はウェイまたはゥオー、朝鮮語ではウェらしい(貢ぎ物を献上しに行ったのは朝鮮半島にあって前漢支配下の楽浪郡)。前漢時代の発音まではわからないが、日本人が名乗ったのは「わ」ではなかった気がする。
ちなみに英国をイギリスと呼ぶのは日本だけ。これはポルトガル語のイングレスがエゲレス→イギリスと変化した。日本人が名乗ったのはイングレスで倭はイギリスみたいなものかも知れない。同じことを前回に後漢書で歴史に初めて記された日本人の名前とされる「帥升(すいしょう)」についても書いた。
次に倭とは現在の感覚でなら日本列島を意味するが、当時は弥生時代後期に栄えていた北九州か出雲か奈良あたりを指していたと思われる。漢書によれば百くらいの小国に分かれていたらしい。この百が実際の数字なのか、たくさんとの意味なのかは不明として、弥生時代後期の国とはいわゆる部族集団で、統治していた面積も今の「市」程度かと想像する。
つまり日本国のような国家概念はなかった。
それなのに「私は倭という国から来ました」と名乗るか?
弥生時代に各部族の支配地域を越えた地域を表す名前があったとはどうにも想像しづらい。
それと中国の歴代王朝は夏、殷、周、秦、漢から始まり隋、唐、宋、元、明、清に至るまですべて一文字である。また苗字も李、王、張、劉、陳など一文字がほとんど。韓国でも金、李、朴、崔、鄭など同様。王朝名や苗字と、そして現代と弥生時代を較べる無理を承知で書けば日本の地名は二文字以上がほとんど。漢字が一文字でも訓読み(すなわち日本語読み、音読みは中国読み)なら呉(くれ)、柏(かしわ)など音節は2つ以上。一文字一音節である三重県の津(つ)なんて例外中の例外。
そんなこんなで「日本人が倭と名乗った」のではなく「中国側で倭と名付けた」のではないかとモーソーしている。つまり火星人方式のネーミング。だいたいウェイやゥオーなんてとても日本語の地名とは思えない。
そう考える理由はもうひとつある。
倭の文字にどんなイメージをいだくだろうか?
私にはネガティブな語感に響く。
日本でこの漢字は古代の倭国や倭人関連以外ではほとんど使われない。普段の日本語にはない漢字と言ってもいい。それなのにイメージが悪いのは、おそらく倭と矮(わい)が似ていて、矮には矮小や矮性(園芸用語)など小さいや背が低いの意味があるせいだ。
それで中国語で倭はネガティブな意味合いを持っていたのか。悪字を当ててチビな列島人と見下す蔑称(べっしょう)だったのか。学説的には「よくわからない」との意見が多いみたい。倭は固有名詞で矮は形容詞との指摘もある。
それでも蔑称だったような気がする。
なぜなら他にも、
邪馬台国→邪悪の邪
卑弥呼→卑しいの卑
なんでその漢字ヤネン絶対にバカにしてるやろ!と思える例がある。
また日本に対してだけでなく他の周辺国に対しても同様。
匈奴:紀元前3世紀から紀元1世紀後半に中国北部にいた遊牧民。
しばしば古代中国王朝と対立した。
匈は「悪い」。
奴は奴隷の奴であり、人々ではなく連中とさげすんだ表現。
日本人に対して倭奴(わど)との呼び名もあった。
そういえば前回に書いた後漢書には倭奴国と記されていた。
日本史では「わのなこく」と読むことになっているので印象が和らぐが。
南蛮:古代中国王朝に帰順しようとしない南の地方。
蛮は野蛮など文明未開で粗暴。
日本にやって来たポルトガルやスペイン人を南蛮人と呼んだのは、
彼らが南蛮エリアである東南アジア経由で来日したから。
鴨南蛮については諸説あり不明(^^ゞ
蒙古:モンゴルをそう呼んだ。
蒙は「おろか」を意味し無知蒙昧」(むちもうまい)の蒙。古は「古くさい」。
今年の春に朝青龍が、三谷幸喜の演劇「蒙古が襲来」に対して
「おいジャップ! 蒙古言うな」と憤慨していた。
これはもちろん優れた我が民族が天下の中心で、周辺国は愚かで劣ると見なす中華思想の表れ。春秋時代(紀元前770年〜紀元前453年)に始まったとされる。
なお飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られる。
意外にも唐はあっさりこれを受け入れ、その後の歴史書には日本と記される。しかし南北朝・室町時代初期から秀吉の時代にかけて倭寇が起こる。いわゆる日本人(だけではないが)による東アジア各地での海賊行為。それを日本海賊ではなく倭寇と呼んだのはもちろん中国側。唐の時代に終わった倭の名前が復活したのはそれが蔑称だった以外の理由はないだろう。
なおかつ弥生人が名乗った地名の音が、都合よく倭の中国読み発音に当てはまった確率は低いと考えるのである。
それにしても弥生人は何と名乗っていたのかな。
こればかりは過去に遡れるタイムマシンでも発明されない限り解明されない。
ーーー続く
次回もまだ「日本」以前の話の予定。
それ以外に有名な史実として魏志「倭」人伝、漢委奴国王印(かんの「わ」のなのこくおういん)の金印、邪馬台国の卑弥呼が親魏「倭」王の称号を授けられたとか、なんとなく昔の日本は「倭」と呼ばれていたとの認識はある。しかしなぜ「倭」なのか?
論理的には2通りある。
日本人が倭と名乗った
中国側で倭と名付けた
後者は朝鮮半島の先に島々があって、会ったことはなくても人が住んでいるだろうから、元々そこを倭と呼んでいたケース。地球人が勝手に火星や火星人と呼ぶようなものである
学説では一般に前者である。
しかしいくつかの疑問がある。
まず日本人が名乗ったとして、倭はその名乗った言葉の音を中国の漢字に当てはめている。歴史の教科書でそれを「わ」と習うけれど、中国ではどうだったのか。現代の中国語で倭はウェイまたはゥオー、朝鮮語ではウェらしい(貢ぎ物を献上しに行ったのは朝鮮半島にあって前漢支配下の楽浪郡)。前漢時代の発音まではわからないが、日本人が名乗ったのは「わ」ではなかった気がする。
ちなみに英国をイギリスと呼ぶのは日本だけ。これはポルトガル語のイングレスがエゲレス→イギリスと変化した。日本人が名乗ったのはイングレスで倭はイギリスみたいなものかも知れない。同じことを前回に後漢書で歴史に初めて記された日本人の名前とされる「帥升(すいしょう)」についても書いた。
次に倭とは現在の感覚でなら日本列島を意味するが、当時は弥生時代後期に栄えていた北九州か出雲か奈良あたりを指していたと思われる。漢書によれば百くらいの小国に分かれていたらしい。この百が実際の数字なのか、たくさんとの意味なのかは不明として、弥生時代後期の国とはいわゆる部族集団で、統治していた面積も今の「市」程度かと想像する。
つまり日本国のような国家概念はなかった。
それなのに「私は倭という国から来ました」と名乗るか?
弥生時代に各部族の支配地域を越えた地域を表す名前があったとはどうにも想像しづらい。
それと中国の歴代王朝は夏、殷、周、秦、漢から始まり隋、唐、宋、元、明、清に至るまですべて一文字である。また苗字も李、王、張、劉、陳など一文字がほとんど。韓国でも金、李、朴、崔、鄭など同様。王朝名や苗字と、そして現代と弥生時代を較べる無理を承知で書けば日本の地名は二文字以上がほとんど。漢字が一文字でも訓読み(すなわち日本語読み、音読みは中国読み)なら呉(くれ)、柏(かしわ)など音節は2つ以上。一文字一音節である三重県の津(つ)なんて例外中の例外。
そんなこんなで「日本人が倭と名乗った」のではなく「中国側で倭と名付けた」のではないかとモーソーしている。つまり火星人方式のネーミング。だいたいウェイやゥオーなんてとても日本語の地名とは思えない。
そう考える理由はもうひとつある。
倭の文字にどんなイメージをいだくだろうか?
私にはネガティブな語感に響く。
日本でこの漢字は古代の倭国や倭人関連以外ではほとんど使われない。普段の日本語にはない漢字と言ってもいい。それなのにイメージが悪いのは、おそらく倭と矮(わい)が似ていて、矮には矮小や矮性(園芸用語)など小さいや背が低いの意味があるせいだ。
それで中国語で倭はネガティブな意味合いを持っていたのか。悪字を当ててチビな列島人と見下す蔑称(べっしょう)だったのか。学説的には「よくわからない」との意見が多いみたい。倭は固有名詞で矮は形容詞との指摘もある。
それでも蔑称だったような気がする。
なぜなら他にも、
邪馬台国→邪悪の邪
卑弥呼→卑しいの卑
なんでその漢字ヤネン絶対にバカにしてるやろ!と思える例がある。
また日本に対してだけでなく他の周辺国に対しても同様。
匈奴:紀元前3世紀から紀元1世紀後半に中国北部にいた遊牧民。
しばしば古代中国王朝と対立した。
匈は「悪い」。
奴は奴隷の奴であり、人々ではなく連中とさげすんだ表現。
日本人に対して倭奴(わど)との呼び名もあった。
そういえば前回に書いた後漢書には倭奴国と記されていた。
日本史では「わのなこく」と読むことになっているので印象が和らぐが。
南蛮:古代中国王朝に帰順しようとしない南の地方。
蛮は野蛮など文明未開で粗暴。
日本にやって来たポルトガルやスペイン人を南蛮人と呼んだのは、
彼らが南蛮エリアである東南アジア経由で来日したから。
鴨南蛮については諸説あり不明(^^ゞ
蒙古:モンゴルをそう呼んだ。
蒙は「おろか」を意味し無知蒙昧」(むちもうまい)の蒙。古は「古くさい」。
今年の春に朝青龍が、三谷幸喜の演劇「蒙古が襲来」に対して
「おいジャップ! 蒙古言うな」と憤慨していた。
これはもちろん優れた我が民族が天下の中心で、周辺国は愚かで劣ると見なす中華思想の表れ。春秋時代(紀元前770年〜紀元前453年)に始まったとされる。
なお飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られる。
意外にも唐はあっさりこれを受け入れ、その後の歴史書には日本と記される。しかし南北朝・室町時代初期から秀吉の時代にかけて倭寇が起こる。いわゆる日本人(だけではないが)による東アジア各地での海賊行為。それを日本海賊ではなく倭寇と呼んだのはもちろん中国側。唐の時代に終わった倭の名前が復活したのはそれが蔑称だった以外の理由はないだろう。
なおかつ弥生人が名乗った地名の音が、都合よく倭の中国読み発音に当てはまった確率は低いと考えるのである。
それにしても弥生人は何と名乗っていたのかな。
こればかりは過去に遡れるタイムマシンでも発明されない限り解明されない。
ーーー続く
次回もまだ「日本」以前の話の予定。
2025年10月09日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その2
弥生時代の日本にまだ文字はなかったので、当時の日本で書かれた=歴史の資料となるものは存在しない。日本について最初に記されたのは中国の書物。有史以前や先史時代とは文字が使われていない時代を指す。言い換えれば歴史に日本が登場したのは中国の書物によって。
その最初は「漢書(かんじょ)」。これは後漢王朝(25年〜220年)の時代に、前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた歴史書。編纂に約20年を費やしておおよそ80年前後に完成した。
ただし記念すべき日本の歴史デビューは
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
とわずかに19文字の記述のみ(>_<)
ちなみに漢書は「本紀」12巻、「列伝」70巻、「志」10巻、「表」8巻の計100巻から成る膨大な量の書物。現在も写本が販売されていて、それのページ数は3348ページあるらしい。その中のたった19文字とは中国から見て日本はその程度の存在だったのだろう。片や100巻の歴史書を制作する文明国、対して文字すらない文明以前の僻地では仕方がない。
この19文字は漢書の「地理志」に記載がある。「志」とは分野史を意味しており、地域情報のひとつとしてに日本が紹介されている。他の「本紀」は前漢歴代皇帝の治世について、「列伝」は重要人物の伝記、「表」は年表や系図など。
19文字を超意訳すると
楽浪海中有倭人→「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいる」
楽浪郡とは前漢が支配していた朝鮮半島北部。
現在の北朝鮮・平壌あたりとされる。
分為百余国→「百くらいの小国に分かれている」
以歳時来献見云→「定期的に貢物(みつぎもの)を持って楽浪郡を訪れる」
頻度は不明としても弥生時代に平壌まで定期的に往来していたとはビックリ。もっとも弥生人は朝鮮半島や中国大陸北部から渡来してきた民族の子孫だから(諸説あり)馴染みはあったのかな? それとこれはいわゆる朝貢外交だけれど、この時代に前漢=古代中国は日本にそれだけの影響力を持っていたのだろうか。そうだとして朝貢している=付き合いのある相手であれば、もう少し詳しく記述してくれてもよさそうなものなのに。百ほどあった小国のどこが朝貢していたのかくらいは書いておいて欲しかったゾ。
これらについては何かと興味をそそるものの本題から外れるので、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ここでのポイントは当時の日本人が倭人(わじん、現代の中国語発音ではウォーレン)と呼ばれていたこと。倭人が住むのだから国名というか日本列島の地域名は倭である。「古代中国にあった魏・呉・蜀の三国」と表現するのと同じ理屈。
次に日本が登場するのは「後漢書」の「東夷列伝(東夷伝ともいう)」で全120巻の歴史書。これは後漢王朝(25年〜220年)の出来事を宋(そう:420年〜479年)の時代に記された。成立は432年。なおこの宋は平家が日宋貿易をしていた960年〜1279年の宋とは別物。古代の中国は同じ国名が何度も使われてややこしい。
それにしても後漢が滅亡してから200年も後に編纂されている。漢書も前漢滅亡から70年以上が経っている。もっと早く書かないと資料も失われてしまのに、当時はそういうものだったのだろうか。あるいはその時代に歴史を書くとは研究だけではなくて政治の一環でもあったはずで、あまり前王朝の記憶が生々しいうちは書けなかったのかも知れない。後漢と宋の間には三国志で有名な魏・呉・蜀を含めて6代も王朝を挟んでいる(そのうちの1つはさらに16国に分かれる)。
さて後漢書に書かれていた内容は
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢書と違って漢字を眺めるだけでの解読は難しいが、この文章にまつわるエピソードは社会科の授業で習ったはず。漢文のポイントを丸めると
紀元57年に「倭」の「奴国(なこく)」の王の使者が都にやって来て
後漢の光武帝から印鑑を授かった
ここに書かれている印鑑が、それから1727年後の江戸時代後期に入った1784年に、福岡の志賀島で農民が水田の補修工事中に偶然見つけたとされる金印。1931年(昭和6年)に国宝に指定。一辺が約2.3cm、金の純度は95.1%。授業では漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と舌を噛みそうな名前を覚えさせられた。
ちなみに後漢の都は洛陽(らくよう)で中国の中部。弥生時代の54年によくそんなところまで行ったなと感心する。海路で東シナ海を渡ったのか、あるいは朝鮮半島経由の陸路か。地図には現在の平壌の位置で楽浪郡も示しておいた。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
ところで後漢書には「倭奴国」と書かれているのに、印鑑に彫られている文字は「漢」「委」「奴」「国王」で「倭」が「委」になっている。(現代人には委や奴には見えないが)
これについては様々な学説・論争があり、また発見の経緯が不自然なことも加わって、中にはこの金印は福岡藩が捏造した偽物だとの説まである。
(/_')/ソレモコッチニオイトくとして
漢書と同じく後漢書でも「倭国」と記されている。朝貢した紀元57年は紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間続いた弥生時代の後期に当たる。
また後漢書にはこれに続いて
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した。
後漢の桓帝(146年〜168年)と霊帝(168年〜189年)の在位中、
すなわち2世紀後半に倭国では大きな内乱があった。
と合計3つの記述がある。
この奴隷を献上した帥升(すいしょう)は、歴史に初めて記された日本人の名前とよく解説される。しかし倭人は文字を持っていないので、中国側で名前の音を帥升の漢字に当てはめたはず。そして「すいしょう」は日本語読み。だから本当の名前はわからないと思っているのだが、そういう解説はどこを探してもなかった。ちなみに帥升は現代の中国語では「シュアイ シェン」と発音する。
後漢書にはほかにも倭国について書かれているものの、それらは先に書かれた魏志倭人伝からの引用。それを除いたこの3つの記述が新事実となる。漢文での文字数は3つ合わせて69文字。
最後に邪馬台国&卑弥呼で有名な魏志倭人伝。
もっともそういう書物があるわけではなく、これは「三国志」の「魏志(30巻)」の30巻目の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」の「東夷」の章の「倭」の項に書かれている記述の略称。
その三国志とは古代中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代(220年〜263年)とその前後を記したもの。王朝は後漢→三国時代→晋の順で、編纂されたのは晋の時代になった280年頃。後漢書より対象とする時期は後でも、編纂されたのはこちらが先。だから後漢書に魏志倭人伝を引用した箇所がある。魏志のほか呉志(20巻)と蜀志(15巻)の合計65巻構成。
ところで三国志と聞くと魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)、あるいは諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)などの活躍を思い浮かべるものの、それは歴史書の三国志を題材に歴史長編フィクションとして書かれた小説「三国志演義」のイメージがベースになっている。執筆されたのは三国時代(220年〜263年)よりずっと後の1400年前後。さらに日本で一般に三国志と呼んでいるのは三国志演義を元ネタに吉川英治が執筆した小説の「三国志」。新聞連載小説として戦時中の1934年〜1943年まで掲載された。日本で製作されるドラマやゲームの三国志は彼の作品が大元の原作。
さて魏志に書かれている倭の情報は
・倭のいくつかの国の紹介と、帯方郡(最初に書いた楽浪郡と同じ場所)から
それらの国を経て邪馬台国に至るルートの解説
・倭人の生活と倭の自然
・邪馬台国と魏との外交
の3つに分かれる。
漢文はここをクリック
訓み下し文はここをクリック
日本語訳はここをクリック
読み下し文で4ページちょっとの分量。19文字の漢書、69文字の後漢書と較べれば多いとはいえ、それでもたかだか4ページである。
そして紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで、1200年続いた弥生時代が記録された文書資料は19文字+69文字+4ページのこれだけなのである。ちょっと残念というか寂しいね。
それもその場の記録ではなく、中国古代の各王朝が滅亡して70年・200年・17年後に編纂されている。物事が起きたときにリアルタイムで書かれた資料がそれほど豊富に残っていたとも思えず、すべての内容が正確とは考えづらい。邪馬台国がどこにあったかの論争なんてずっと続いているけれど、つまりは4ページのうちの一部であるルート解説の解釈を巡って「ああでもない、こうでもない」とやっている。しかもそれは倭の国にやって来た人が自ら書いた記録でもない。
まあ歴史とはそういうもの。
ひとつの事実に対して99の想像を巡らせるから面白いのかも知れない。
毎度のことながら話があちこちにそれて、なかなか「日本」までたどり着かない(^^ゞ
次回もまだ「倭」止まりの予定m(_ _)m
ーーー続く
その最初は「漢書(かんじょ)」。これは後漢王朝(25年〜220年)の時代に、前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた歴史書。編纂に約20年を費やしておおよそ80年前後に完成した。
ただし記念すべき日本の歴史デビューは
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
とわずかに19文字の記述のみ(>_<)
ちなみに漢書は「本紀」12巻、「列伝」70巻、「志」10巻、「表」8巻の計100巻から成る膨大な量の書物。現在も写本が販売されていて、それのページ数は3348ページあるらしい。その中のたった19文字とは中国から見て日本はその程度の存在だったのだろう。片や100巻の歴史書を制作する文明国、対して文字すらない文明以前の僻地では仕方がない。
この19文字は漢書の「地理志」に記載がある。「志」とは分野史を意味しており、地域情報のひとつとしてに日本が紹介されている。他の「本紀」は前漢歴代皇帝の治世について、「列伝」は重要人物の伝記、「表」は年表や系図など。
19文字を超意訳すると
楽浪海中有倭人→「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいる」
楽浪郡とは前漢が支配していた朝鮮半島北部。
現在の北朝鮮・平壌あたりとされる。
分為百余国→「百くらいの小国に分かれている」
以歳時来献見云→「定期的に貢物(みつぎもの)を持って楽浪郡を訪れる」
頻度は不明としても弥生時代に平壌まで定期的に往来していたとはビックリ。もっとも弥生人は朝鮮半島や中国大陸北部から渡来してきた民族の子孫だから(諸説あり)馴染みはあったのかな? それとこれはいわゆる朝貢外交だけれど、この時代に前漢=古代中国は日本にそれだけの影響力を持っていたのだろうか。そうだとして朝貢している=付き合いのある相手であれば、もう少し詳しく記述してくれてもよさそうなものなのに。百ほどあった小国のどこが朝貢していたのかくらいは書いておいて欲しかったゾ。
これらについては何かと興味をそそるものの本題から外れるので、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ここでのポイントは当時の日本人が倭人(わじん、現代の中国語発音ではウォーレン)と呼ばれていたこと。倭人が住むのだから国名というか日本列島の地域名は倭である。「古代中国にあった魏・呉・蜀の三国」と表現するのと同じ理屈。
次に日本が登場するのは「後漢書」の「東夷列伝(東夷伝ともいう)」で全120巻の歴史書。これは後漢王朝(25年〜220年)の出来事を宋(そう:420年〜479年)の時代に記された。成立は432年。なおこの宋は平家が日宋貿易をしていた960年〜1279年の宋とは別物。古代の中国は同じ国名が何度も使われてややこしい。
それにしても後漢が滅亡してから200年も後に編纂されている。漢書も前漢滅亡から70年以上が経っている。もっと早く書かないと資料も失われてしまのに、当時はそういうものだったのだろうか。あるいはその時代に歴史を書くとは研究だけではなくて政治の一環でもあったはずで、あまり前王朝の記憶が生々しいうちは書けなかったのかも知れない。後漢と宋の間には三国志で有名な魏・呉・蜀を含めて6代も王朝を挟んでいる(そのうちの1つはさらに16国に分かれる)。
さて後漢書に書かれていた内容は
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢書と違って漢字を眺めるだけでの解読は難しいが、この文章にまつわるエピソードは社会科の授業で習ったはず。漢文のポイントを丸めると
紀元57年に「倭」の「奴国(なこく)」の王の使者が都にやって来て
後漢の光武帝から印鑑を授かった
ここに書かれている印鑑が、それから1727年後の江戸時代後期に入った1784年に、福岡の志賀島で農民が水田の補修工事中に偶然見つけたとされる金印。1931年(昭和6年)に国宝に指定。一辺が約2.3cm、金の純度は95.1%。授業では漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と舌を噛みそうな名前を覚えさせられた。
ちなみに後漢の都は洛陽(らくよう)で中国の中部。弥生時代の54年によくそんなところまで行ったなと感心する。海路で東シナ海を渡ったのか、あるいは朝鮮半島経由の陸路か。地図には現在の平壌の位置で楽浪郡も示しておいた。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
ところで後漢書には「倭奴国」と書かれているのに、印鑑に彫られている文字は「漢」「委」「奴」「国王」で「倭」が「委」になっている。(現代人には委や奴には見えないが)
これについては様々な学説・論争があり、また発見の経緯が不自然なことも加わって、中にはこの金印は福岡藩が捏造した偽物だとの説まである。
(/_')/ソレモコッチニオイトくとして
漢書と同じく後漢書でも「倭国」と記されている。朝貢した紀元57年は紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間続いた弥生時代の後期に当たる。
また後漢書にはこれに続いて
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した。
後漢の桓帝(146年〜168年)と霊帝(168年〜189年)の在位中、
すなわち2世紀後半に倭国では大きな内乱があった。
と合計3つの記述がある。
この奴隷を献上した帥升(すいしょう)は、歴史に初めて記された日本人の名前とよく解説される。しかし倭人は文字を持っていないので、中国側で名前の音を帥升の漢字に当てはめたはず。そして「すいしょう」は日本語読み。だから本当の名前はわからないと思っているのだが、そういう解説はどこを探してもなかった。ちなみに帥升は現代の中国語では「シュアイ シェン」と発音する。
後漢書にはほかにも倭国について書かれているものの、それらは先に書かれた魏志倭人伝からの引用。それを除いたこの3つの記述が新事実となる。漢文での文字数は3つ合わせて69文字。
最後に邪馬台国&卑弥呼で有名な魏志倭人伝。
もっともそういう書物があるわけではなく、これは「三国志」の「魏志(30巻)」の30巻目の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」の「東夷」の章の「倭」の項に書かれている記述の略称。
その三国志とは古代中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代(220年〜263年)とその前後を記したもの。王朝は後漢→三国時代→晋の順で、編纂されたのは晋の時代になった280年頃。後漢書より対象とする時期は後でも、編纂されたのはこちらが先。だから後漢書に魏志倭人伝を引用した箇所がある。魏志のほか呉志(20巻)と蜀志(15巻)の合計65巻構成。
ところで三国志と聞くと魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)、あるいは諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)などの活躍を思い浮かべるものの、それは歴史書の三国志を題材に歴史長編フィクションとして書かれた小説「三国志演義」のイメージがベースになっている。執筆されたのは三国時代(220年〜263年)よりずっと後の1400年前後。さらに日本で一般に三国志と呼んでいるのは三国志演義を元ネタに吉川英治が執筆した小説の「三国志」。新聞連載小説として戦時中の1934年〜1943年まで掲載された。日本で製作されるドラマやゲームの三国志は彼の作品が大元の原作。
さて魏志に書かれている倭の情報は
・倭のいくつかの国の紹介と、帯方郡(最初に書いた楽浪郡と同じ場所)から
それらの国を経て邪馬台国に至るルートの解説
・倭人の生活と倭の自然
・邪馬台国と魏との外交
の3つに分かれる。
漢文はここをクリック
訓み下し文はここをクリック
日本語訳はここをクリック
読み下し文で4ページちょっとの分量。19文字の漢書、69文字の後漢書と較べれば多いとはいえ、それでもたかだか4ページである。
そして紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで、1200年続いた弥生時代が記録された文書資料は19文字+69文字+4ページのこれだけなのである。ちょっと残念というか寂しいね。
それもその場の記録ではなく、中国古代の各王朝が滅亡して70年・200年・17年後に編纂されている。物事が起きたときにリアルタイムで書かれた資料がそれほど豊富に残っていたとも思えず、すべての内容が正確とは考えづらい。邪馬台国がどこにあったかの論争なんてずっと続いているけれど、つまりは4ページのうちの一部であるルート解説の解釈を巡って「ああでもない、こうでもない」とやっている。しかもそれは倭の国にやって来た人が自ら書いた記録でもない。
まあ歴史とはそういうもの。
ひとつの事実に対して99の想像を巡らせるから面白いのかも知れない。
毎度のことながら話があちこちにそれて、なかなか「日本」までたどり着かない(^^ゞ
次回もまだ「倭」止まりの予定m(_ _)m
ーーー続く
2025年10月06日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン
明治新政府が江戸を東京と改名した際に、その読みを記さなかったゆえに、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した話を1年ほど前に3部作で書いた。
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484135.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484136.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484137.html
どうして読みを記さなかったのだろうと思ったけれど、考えてみれば首都である東京だけではなく、国名の日本だってニホンとニッポンの2つの読み方がある。そして歴史的にはさらにいくつもあったとのお話が今回。
日本がいつから国名として日本を使い始めたのか正確なところはよくわかっていない。さらに言えば当時の「国の概念」も現在とは相当に違うはずで、そこまで話を含めると大変にややこしい歴史問題。
我々の直接の先祖であるホモサピエンスが、現在の南アフリカあたりで誕生したのが20万年前(ちなみに猿人と呼ばれる最初の人類が誕生したのは700万年前)。彼らは14万年間をアフリカ大陸で過ごし6万年前にヨーロッパ方面に向かう。さらに進んでユーラシア大陸を通り、あるいは東南アジアの海沿いを渡って日本列島にやってきたのが4万年前。現在は2000年代なので紀元前3万8000年。もちろんこれらの地理や年代は諸説ありで、新しい発掘があれば学説も変わる。
その紀元前3万8000年以降は日本において3つの時代区分がある。
紀元前3万8000年〜紀元前1万4000年までの2万4000年間:旧石器時代
紀元前1万4000年〜紀元前900年代までの1万3000年年間:縄文時代(新石器時代)
紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間:弥生時代
社会的な違いを見ると
旧石器時代:石を打ち砕いた打製石器を使用
非定住の狩猟採集社会
縄文時代(新石器時代):石を研磨加工した磨製石器、土器や弓矢の使用
後期には野生植物の移植など初期の農耕&定住化が始まる
弥生時代:金属の使用
稲作が盛んになる
※原始時代は旧石器時代+新石器時代の総称
野生動物にとって生きるとは=食べる、あるいは食べ物を探したり狩りをするである。旧石器時代は人類もそんな生活だったと思う。だから社会の最大単位は家族や血縁関係のある一族。野生動物の「群れ」みたいなもの。
時代が下って初期の農耕&定住化が始まるとと、徐々にその「群れ」の集合体である部族のようなものが形成される。そして農耕が本格すると食料が増え人口も増大する。またその食料は狩猟してきた動物と違い備蓄できるから貧富の差が生まれたり、支配する側される側の社会構造も生む。あまり言われないけれど農耕をするしないは動物と人間を分ける大きな違いだと思う。
こうやって野生動物に近い「群れ」から部族社会になると部族同士の抗争が始まる。受傷人骨と呼ばれる武器によって傷つき死亡したと思われる人骨の発掘は、弥生時代になって急激に増える。野生動物と同じような暮らしから、やや人間らしい社会になった途端に争いを始めたのが人類。人類がホモサピエンスの段階にある限り、未来永劫に戦争はなくならないような気がしている。
弥生時代に部族間の抗争を繰り返し、やがて一定地域を支配する勢力が登場する。有名な邪馬台国もそのひとつ。弥生時代と邪馬台国が結びついていない人は意外と多いが。いずれにせよ野生動物に近かった旧石器時代から、1万3000年ほど続いた縄文時代を経て、弥生持代の1200年間に今につながる人間社会の基礎が作り出された。ただし日本民族は文字を持たなかったので自らが記した当時の記録はない。
ーーー続く
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484135.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484136.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484137.html
どうして読みを記さなかったのだろうと思ったけれど、考えてみれば首都である東京だけではなく、国名の日本だってニホンとニッポンの2つの読み方がある。そして歴史的にはさらにいくつもあったとのお話が今回。
日本がいつから国名として日本を使い始めたのか正確なところはよくわかっていない。さらに言えば当時の「国の概念」も現在とは相当に違うはずで、そこまで話を含めると大変にややこしい歴史問題。
我々の直接の先祖であるホモサピエンスが、現在の南アフリカあたりで誕生したのが20万年前(ちなみに猿人と呼ばれる最初の人類が誕生したのは700万年前)。彼らは14万年間をアフリカ大陸で過ごし6万年前にヨーロッパ方面に向かう。さらに進んでユーラシア大陸を通り、あるいは東南アジアの海沿いを渡って日本列島にやってきたのが4万年前。現在は2000年代なので紀元前3万8000年。もちろんこれらの地理や年代は諸説ありで、新しい発掘があれば学説も変わる。
その紀元前3万8000年以降は日本において3つの時代区分がある。
紀元前3万8000年〜紀元前1万4000年までの2万4000年間:旧石器時代
紀元前1万4000年〜紀元前900年代までの1万3000年年間:縄文時代(新石器時代)
紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間:弥生時代
社会的な違いを見ると
旧石器時代:石を打ち砕いた打製石器を使用
非定住の狩猟採集社会
縄文時代(新石器時代):石を研磨加工した磨製石器、土器や弓矢の使用
後期には野生植物の移植など初期の農耕&定住化が始まる
弥生時代:金属の使用
稲作が盛んになる
※原始時代は旧石器時代+新石器時代の総称
野生動物にとって生きるとは=食べる、あるいは食べ物を探したり狩りをするである。旧石器時代は人類もそんな生活だったと思う。だから社会の最大単位は家族や血縁関係のある一族。野生動物の「群れ」みたいなもの。
時代が下って初期の農耕&定住化が始まるとと、徐々にその「群れ」の集合体である部族のようなものが形成される。そして農耕が本格すると食料が増え人口も増大する。またその食料は狩猟してきた動物と違い備蓄できるから貧富の差が生まれたり、支配する側される側の社会構造も生む。あまり言われないけれど農耕をするしないは動物と人間を分ける大きな違いだと思う。
こうやって野生動物に近い「群れ」から部族社会になると部族同士の抗争が始まる。受傷人骨と呼ばれる武器によって傷つき死亡したと思われる人骨の発掘は、弥生時代になって急激に増える。野生動物と同じような暮らしから、やや人間らしい社会になった途端に争いを始めたのが人類。人類がホモサピエンスの段階にある限り、未来永劫に戦争はなくならないような気がしている。
弥生時代に部族間の抗争を繰り返し、やがて一定地域を支配する勢力が登場する。有名な邪馬台国もそのひとつ。弥生時代と邪馬台国が結びついていない人は意外と多いが。いずれにせよ野生動物に近かった旧石器時代から、1万3000年ほど続いた縄文時代を経て、弥生持代の1200年間に今につながる人間社会の基礎が作り出された。ただし日本民族は文字を持たなかったので自らが記した当時の記録はない。
ーーー続く






























