2025年12月

2025年12月30日

カーブミラーの光輪

冬になると太陽高度が低くなるので、カーブミラーに日光が反射して道路に光輪を描くことがある。私がコッソリ楽しみにしている冬の風物詩。
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太陽の方位と高さ、それとカーブミラーの向きが関係するので、どこにでも光輪が現れるわけではない。周囲にあまり高い建物がなく西向きにミラーのあるところで、午後2時から3時過ぎにかけて見る機会が多いかな。


最初に太陽高度と書いたが、これが紛らわしい言葉である。

高度と言えば「当機はただいま高度3万3000フィート、約1万メートルを順調に飛行中です」なんて飛行機の機内アナウンスを思い出す。これは地上(正確には海抜面)から1万メートル上空という距離を示している。だから単位はフィートやメートル。

ちなみに飛行機の高度単位はフィートを使うのが一般的。これは航空機産業がアメリカから発展したのと、飛行機がすれ違う際に1000フィート(300メートル)の高度差を保つのがちょうどよく単位として使い勝手がいいとの理由もあるらしい。

ただし中国や北朝鮮それとロシアはメートルを使っている。フィートだと管制官は高度を3万フィート、3万1000フィート、3万2000フィートに保てと切りのいい数字で指示するところを、メートルの場合は8,900m、9,500m、10,100mなどとややこしい数字になる。


さて飛行機の高度が高さの距離なのに対して太陽高度はそれとまったく異なる。太陽高度とは水平方向に対して太陽をどれだけ見上げるかの仰角を示している。従って単位は「度」である。太陽は真南にあるときに最も高度が高くなるが、東京の場合は夏至で78度、冬至だと31度で46度も差がある。

それにしても距離と角度を同じ高度の言葉で表すなんてちょっと乱暴。この言葉がもたらされた当時の翻訳が悪かったのかとも思ったけれど、英語でも

  飛行高度:flight altitude
  太陽高度:solar altitude

と、どちらも高度を意味する altitude を使っている。つまり高度には上空までの距離と見上げる仰角の2つの意味があって、角度のほうは普段の馴染みがないから奇異に感じるというわけ。

なお角度の高度は太陽だけでなく天体全般で使われる。そういえばこんな分度器を使って観測している昔の絵をたまに見るな。これの正しい名前は四分儀(しぶんぎ)または象限儀(しょうげんぎ)。
四分儀


話は変わるが、子供の頃に買ってもらった理科教材キットの外箱に「太陽高度の測定」と書いてあって「わっ太陽までの距離がわかるのか、これはスゲェー!」と思ったのに、紙で作られた分度器のようなものが入っていただけでガッカリした。

冬になってカーブミラーが光輪を描いているのを見つける度に、太陽高度の連想からその理科教材キットを思い出す。もう半世紀以上も昔のことなのに。子供心によほどガッカリしたのに違いない(^^ゞ


そんな与太話を書いているうちに、
♪♪もうふたつ寝るとお正月

それではよいお年をお迎えください。

wassho at 23:12|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2025年12月26日

去年と1日しか違わないのに終了していた九品仏の紅葉

なかなか時間が取れなかったり、時間が取れたと思ったら天候が悪かったりで今シーズンはレッドオータム巡りができず。気がつけばクリスマス目前になってしまったけれど、2019年から毎年見ている九品仏だけは見ておこうと出かけたのが12月22日。

ちなみに2023年は紅葉・黄葉を13箇所も見て回り、その反動で?2024年はどこにも出かけていなかったものの、今回と同じく自宅に近い九品仏は見ておくかと訪れたのが12月21日。紅葉のピークは少し過ぎていたとはいえ充分に楽しめた。それと較べて今年はたった1日遅いだけなのにーーー。


紅葉シーズンに境内に足を踏み入れると、本当にここが自由が丘駅徒歩10分の場所なのかと別世界にワープした感覚を味わえるのが九品仏の魅力。この写真は2022年12月8日の撮影。
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それが今回は実に寂しい光景。
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昨年は12月21日でもこれだけの紅葉があったのに。
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南門へと続く通路もスカスカ。
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これが昨年の12月21日。
1日違いの同じ場所なんて信じられる?
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九品仏に毎年来ているのは、私の知る限りここが紅葉のピュアレッド度合いで都内ナンバーワンだから。昨年の12月21日に撮った、この写真の奥にあるのが境内で最も赤が鮮やかな木。
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それと同じ木が、
本日は葉の枚数を数えられそうなくらい(/o\)
何度も書くが昨年は12月21日、今年は12月22日とわずか1日の違い。
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こんなショボい紅葉を撮ったのは初めてかも知れない。
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モミジに文句を言っても始まらないので、
オレンジオータムを眺めましょう。
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これは東京都天然記念物のイチョウ。
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このイチョウの黄葉はモミジの紅葉より早く、紅葉を見に来たときにはいつも葉が落ちている。そこで一度くらいはこれのイエローオータム姿を見ておこうと今年の11月19日にイチョウ狩りを敢行。その時のブログはこちらで→ https://wassho.livedoor.blog/archives/53518776.html

そして天然記念物の向かいにもうひとつ大きなイチョウがある。こちらは例年、紅葉シーズンでも黄色い葉が残っているのに本日の姿がこれ。モミジが落ちるのにタイミングを合わせたかのような散りっぷり。
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さて、来たばかりだけれど帰りますか(^^ゞ

南門への通路の手前に少しだけ残っていた紅葉。
でも色あせ気味。
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まばらになった黄色いモミジを見上げる。
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しかし南門の近くにまだ葉を残しているモミジがあった。日光を葉に透かすいわゆる逆光テクニックを使っていないのに、これだけの赤さはさすが九品仏。
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モミジの絨毯とお地蔵さん。
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南門より退出。
最初とこの写真の撮影時刻を確かめると滞在時間はわずか8分。
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南門から延びる参道にも真っ赤なモミジが少し残っていた。
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自然現象の紅葉は当然ながら年によって早かったり遅かったりする。それでも昨年とのあまりの違いに驚いた。何となく夏が暑ければ紅葉は遅くなる気がする。しかし東京の気温は

 2025年6〜8月 真夏日69日(うち猛暑日25日)
 2024年6〜8月 真夏日61日(うち猛暑日19日)

と、今年のほうが暑いので昨年より紅葉が早く終わった説明がつかない。おそらく夏だけではなく秋になっての気温の推移も影響するのだろう。細かく気象データを拾うのも面倒だし、それをやったとしてたいした結果を得られるとも思えないので、これ以上は調べてはいない。まあ結論としてはSNSなどでこまめに紅葉の状態をチェックしてから出かけましょうといったところ。


参道の入り口から南門を眺めて。
そこそこ長い参道は約150m。
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その参道入り口から50mほど離れたところにある東急大井町線の九品仏駅。
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ここの駅は構造がちょっと変わっていて、線路と線路に挟まれた道路に面して改札口がある。普通の踏切は上下線2本の線路両方に対して遮断機が下りるが、ここはそれぞれの遮断機が独立している。
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紅葉狩りとしては期待はずれだったのは間違いないものの、
それでも南門近くの鮮烈な赤モミジが見られてよかった。
九品仏へは今年で連続7シーズン達成。
来年もまた来ましょう。

wassho at 19:07|PermalinkComments(0) お花畑探訪 

2025年12月22日

ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その11

「その10」で1592〜1593年にイエズス会が発行した、宣教師の語学教材である天草版平家物語にニフォン(NIFON)とニッポン(Nippon)の読みが掲載されているのを紹介した。そしてブログタイトルにあるジッポンも同じくイエズス会が1603〜1604年に編纂した日葡辞書(にっぽ辞書)に載っている。

葡はポルトガルを意味し日葡辞書とは日本語・ポルトガル語辞書。漢字表記のポルトガルは葡萄牙となる。カタカナ国名の漢字表記はほとんどが中国語での当て字で、ポルトガルがワインの産地だからといって国名とブドウは関係ない。ところで漢字一文字で表す英仏伊独蘭露米加印豪などは馴染みがあっても葡はわからないね。ポルトガルの隣のスペインは西なのをギリ知っている程度。フルネームでは西班牙。

これがイエズス会の日葡辞書で現存するのは世界に4冊。約3万2000語を収録している。広辞苑は25万語だが小学生の学習用国語辞典だと3〜4万語程度。イエズス会が最初に来日したのは1549年。わずか50年でまったく未知の言語だった日本語でこれだけの辞書を作ったのは、当時のコミュニケーション手段を考えると凄い。なお日本についてニフォン、ニッポン、ジッポンの3つの読みが載っているらしいがその箇所の画像は見つけられなかった。

日葡辞書1

日葡辞書2


ジッポンの語源はニチホンと同じで時代が少し違う。
これは「その9」でも書いた現在の「日」と「本」の音読み・訓読み。

  日:音読み ニチ・ジツ  訓読み ひ・か
  本:音読み ホン     訓読み もと

音読みのニチとホンを組み合わせればニチホンとなり、ジツとホンならジツホン。それでは発音しにくいのでツが詰まって小さな「ッ」となり、それに併せてホンもポンと変化してジッポン。(本は「ッ」の後では「ポン」、「ン」の後では「ボン」)

訓読みは漢字の意味に古来よりある日本語の読みを当てはめ、対する音読みは中国語風の発音をそのまま使っている。そして「日」の音読みにニチとジツがあるのは由来となった中国語の時期が違うから。中国は代表的なものだけで「殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清」と10の王朝があり漢字の発音も変化している。

日本の音読みになっているのは主に3つの時代で

 呉音:日本で文字を使うようになった古墳時代中頃の6世紀頃に伝来。

 漢音:7〜8世紀の飛鳥時代から平安時代の初めに、遣隋使や遣唐使と
    来日した僧侶などによって伝えられた音。現在の音読みでは一番多い。

 唐音:10世紀の平安中期から江戸時代末期までに入ってきた読み方。

ただし音読み名に古代中国の王朝名がついているものの、
それぞれの王朝が成立していたのは

  三国志の魏・呉・蜀の呉:222〜280年
  漢:前漢:紀元前206〜紀元8年、後漢:25〜220年
  唐:618年〜907年

であり音読みの名前と一致しない。呉音が伝来したときの中国は南北朝から隋の時代、漢音は唐、唐音では宋以降となる。これについて呉音はよくわからないが、漢音が伝来した唐の時代に日本では中国を通称として漢と呼び、唐音が伝来した唐が滅びた以降でも中国を唐と呼んでいたのが理由らしい。唐に関しては今でも唐物(からもの)、唐人(とうじん)なんて言葉が残っている。ちなみに現在の中国語発音で日本はリーベン。


日は呉音がニチで漢音がジツ。日本が「倭」から「日本」へと国名の変更を宣言したのは702年。当時はまだ呉音が主流。だから呉音の音読みでニチホンと読み、その後に漢音も広まってくるとジッポンとも読んだのではないかと思う。(本は呉音と漢音ともにホン)

呉音読みのニチホンはニフォンやニッポンなどに変化し、「その10」で書いたように江戸時代にニフォンはニホンとなってニッポンと共に現代まで続いている。漢音読みのジッポンは漢文国家であった平安中期以降にエリート層に広まったと思われる。そして江戸時代初期には廃れてしまったようだ。理由はわからないが漢文国家の色彩が薄れるにつれて自然淘汰したのだろう。


しかしジッポンの読みは中国に渡り、その中国で日本は黄金の国などの噂を聞きつけたマルコ・ポーロが東方見聞録第3巻で日本をジパング(ZipanguまたはCipangu)と紹介した。彼がアジア諸国を訪問したのは1271〜1295年。中国は元、日本は鎌倉時代。その前の平安後期から盛んになった日宋貿易によってジッポンの名前も中国に伝わっていたと思われる。なおジパングのグは国を表しており直訳すれば日本国になる。つまり日本だけだとジパンでありジッポンとかなり近い。

東方見聞録がヨーロッパ各国で読まれるうちに、ジパングもそれぞれの国の言葉になってくる。(異説あり)

 英語:ジャパン(Japan) 
 フランス語:ジャポン(Japon) 
 ドイツ語:ヤーパン(Japan)
 イタリア語:ジャッポーネ(Giappone)
 スペイン語:ハポン(Japon)
 ポルトガル語:ジャポン または ジャパーン(Japao)
 オランダ語:ヤパン(Japan)
 フィンランド語:ヤパニ(Japani)
 ギリシア語:イアポニア(Iaponia)
 ロシア語:ヤポーニヤ(Япония)

それぞれジパングがベースとなっているとわかる。
でもアイルランド語ではなぜか

 アン・チャパーン(an tSeapain)

ナンヤソレ? 
でもアンは定冠詞なのでそれを除けばチャパーンでジパング寄り。

ヨーロッパ以外では (閲覧環境によって文字化けの可能性あり)

 中国語:リーベン
 朝鮮語:イルボン(일본)
 タイ語:イープン(ญี่ปุ่น)

 ベトナム語:ニャッバーン(Nhật Bản)

 フィリピン語(タガログ語):ハポン(Hapon)
 マレー語:ジェプン(Jepun)
 インドネシア語:ジェパン(Jepang)
 インド語(ヒンディ語):ジャパン(जापान)
 アラビア語:アル・ヤバーン(اليابان) アルは定冠詞
 ペルシャ語:ジャポーン (ژاپن )

フィリピン語以下はジパング系統(マレー語のジェプンがジパングの語源との説あり)。ベトナム語は日本に改名した当時の中国読みとされるニェットプァンに近い。中国、朝鮮、タイの言葉はそれぞれのオリジナルのようだ。



東京がトウキョウではなくトウケイやトキオと呼ばれていた時代があった。それは明治政府が江戸を東京と改名した際に読みを決めなかったのが原因。そんな話を以前にブログに書いて、そういえば地名ではなく国名だってニホンとニッポンの2つの読み方があると気付く。調べてみるといろいろ変遷があったと知り、それをテーマに書き出したのが今回のブログ。それにしても「その11」まで続くとは思っていなかったが。

古代の日本語は漢文で書かれ、その漢字にフリガナが振られているのはまれで、正確なところはなかなか確かめられない。あの織田信長だってオタやオリタだったと主張する説もある。

あまり細かなことはともかく、とりあえず遠い昔に日本をニフォンやジッポンと読んでいた時代があったらしいと漠然とした想像を楽しんでいる。


ところで「その7」に書いたように2004年の調査で、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている単語の97.6%はニホンと発音され、国名でも96.2%がニホン。私もニッポンは「がんばれニッポン」と応援するときくらいで基本的にニホン。

その理由は小さい「ッ」が入るニッポンよりニホンのほうが口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。

しかしそう考えるとニホンよりニフォンのほうが楽。ハヒフヘホは口の奥から音を出すのに対してファ、フィ、フゥ、フェ、フォなら軽く息を吐くだけで済む。またホは唇を突き出すがフォならそのまま。

それに気付いてから人との会話でコソッと日本をニフォンと発音している(^^ゞ 今まで変に思われたことはない。まあ気恥ずかしさもあって、かなりニホン寄りのニフォンなせいもあるけれど。また話題の文脈的に日本だとわかるので相手が脳内でニフォンをニホンに変換してくれているのかも知れない。

よかったらお試しを。
いにしえの平安言葉の雰囲気を味わいましょう?
平安時代ニフォン




おしまい

wassho at 20:06|PermalinkComments(0) ノンジャンル 

2025年12月17日

ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その10

飛鳥時代の終わりに国名を倭から日本に変更した際に、
その読み方は

  1)ヤマト
  2)ニェットプァン

などだったとする説がある。

ヤマト説について疑問に思うところは前回に書いた。
今回はニェットプァン。


国名を変更したのは700年前後。中国は唐の時代(618年〜907年)であり、このニェットプァンはその頃の中国語発音。「日」がniet(ニェット)で「本」がpuən(プァン)。それはいいとして、この日本人には発音しにくいニェットプァンを、中国人がそういうのを聞いて日本人も日本をニェットプァンと読んでいたするのがニェットプァン説。

そんなことがあるかあ?というのが直感的な疑問。自分の国をニホンと呼んでいたのに、鎖国が解けて英語ではJAPANだと知ったら自らもジャパンと言い出したような話。

ニェットプァン説では来日した中国人僧侶などが口にするニェットプァンを聞いて、日本人もそれに倣ったとするのだが、彼らが「日本語に影響を与える」ほどの人数と接触していたかも疑問。ただしこれは、前回に書いたように古代の支配層や役人は「書く:漢語」「読む:訓読み」「儀礼や外交の場:漢音」とバイリンガル的な言語体系を駆使していたし、またそれ以外の一般庶民に国家の概念があったかどうかを含めて、私レベルの知識では想像・推測が追いつかないのが残念。


その後、ニェットプァンではあまりにも発音しづらいのでニエップン→ニエッポン→ニッポンのように変化していったとされる。ニエップンなどと言っていたエビデンスはどこにあるのかと思ってしまうが、さらに大きな疑問は、どうして国名の読みとしてヤマトが使われなくなったかである。遅くとも平安中期にはその呼び名は用いられなくなる。

ヤマトがニェットプァンやその後継語に駆逐された理由は様々な説があるものの、日本という明らかに漢語的な国名を採用したのに、どうしてわざわざ和語(訓読み)で「ヤマト」と読ませ続けたのか、そしてなぜ後に自然に漢音(音読み)に切り替わったのかを充分に説明できているものはない。

だったら

  国名を倭から日本に変更した際の読み方は
  ヤマトでもニェットプァンでもなく
  日本語の音読みであるニチホンなどだった

とすればすべてを素直に説明できるのにと思ってしまう。
歴史学者には「これだから素人は」と笑われるかも知れない。
でも私はこの説を信じよう。前回に書いたように歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちなのだ(^^ゞ



さて始まりがニェットプァンかニチホンだったかはともかく、その後の読み方の変化について。ようやく「その10」にして内容がブログタイトルに追いついてきた。


まず奈良から平安前期の日本語に「ハヒフヘホ」の音はなく、ハ行は「パピプペポ」とP音で発音していたするのが定説。(例によってエビデンスが気になるが面倒なので調べていない、また諸説あり)

  →したがって日本はニッポンあるいはニポン

そして平安中期の源氏物語が書かれた1000年頃になると、ハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」のF音に変化。

  →日本はニフォンあるいはニッフォンになる。

この傾向は江戸時代の初めまで続く。

室町時代のなぞなぞに「母には二回会うけれど、父だと一回も会えないものなーんだ?」と問うのがある。現代人には解けないが答えは「唇」。母はハハではなくファファだったので唇が2回接触するから。一方のチチは一度も唇を閉じない。

ちなみに母という単語は万葉集にも載っていて奈良時代には存在していた。でも当時のハ行は「パピプペポ」だから母=パパとなってしまうのが面白い。


また天草版平家物語と呼ばれる書物がある。これは日本で活動していたイエズス会が宣教師の語学学習用に日本で出版し、平家物語が日本語のままポルトガル式のローマ字で書かれている。発行は1592〜1593年。九州の天草コレジオで印刷されたのが天草版の由来。コレジオはポルトガル語でカレッジを意味する。平家物語以外に伊曽保物語=イソップ物語などが収録されている。

1天草版1

発行されたのは秀吉が政権の座にあった安土桃山時代であるが、その前の室町時代(1336〜1573年)の日本語の特徴を知る貴重な資料とされる。つまりハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」となるF音。

挿絵の上の文字を漢字かな交じりにすると

 日本の言葉とヒストリアを習い知らんと欲する人のために
 世話に和らげたる平家の物語

2天草版2

ヒストリアはラテン語のhistoriaがベースで英語のhistoryと同じく歴史。辞書でポルトガル語を引くとhistoriaだけれど、この頃はhiftoriaだったのかな。

またここだけがヒストリアとポルトガル語なのは、日本語にまだ「歴史」と言う単語がなかったためと思われる。「歴史」は江戸時代中頃に中国からもたらされ、明治以降に翻訳語と一緒に定着した。翻訳語とは社会・自由・科学・哲学のように外国語の概念を日本語で表現するために作られた言葉。ではそれまで歴史のことを何といっていたんだろうね?

「世話に和らげたる」は優しい言葉遣いにしたとの意味らしい。

そして日本はニフォン、欲するがフォッスル、人がフィト、平家がフェイケとなっている。平家なんて文字だけを抜き出すとまったく平家とイメージがつながらない。 平安中期にハ行がF音だとすると光源氏もフィカル源氏(^^ゞ
3天草版3


ただし天草版のイソップ物語ではNipponと書かれ、当時はニフォンとニッポンが混在していたのがわかる。今のニホンとニッポンと同じような状況。
4イソップ物語

画像はESOPOがイソップ、FABVLASは寓話。現在のポルトガル語では fabula。

この天草版がベースになったかどうかはよくわからないものの、江戸時代の初期にイソップ物語が伊曽保物語として出版される。「アリとキリギリス」「北風と太陽」「オオカミ少年」など現在でも多くの人が慣れ親しんでいる童話を、江戸時代の人も読んでいたとは驚いた。

これが1659年に出版された伊曽保物語。
どうやら子供向けの童話扱いではなさそう。
5伊曽保物語1659



さてP音→F音と変化してきたハ行は江戸時代になってしばらくした頃にH音、すなわち現在と同じハヒフヘホになる。

これはせっかちな江戸っ子が早口で喋るためにファ、フィ、フゥ、フェ、フォをハヒフヘホに短縮したとする解説が多い。
6江戸っ子

本当かな? 江戸っ子がせっかちなんて時代劇が作られるようになってからのイメージにも思える。それに江戸時代の中頃まで江戸と上方(京阪神)の人口にそれほど差はない。江戸弁が標準語として普及する影響力があったかどうか。もちろんテレビやラジオで江戸っ子の喋りを聞くこともできない。さらにやがて100万都市になった頃の江戸でも、人口の半分は武士であり、その50万人の多くは地方から江戸に出仕してきた人々。

またせっかちな江戸っ子説では、東京の日本橋はニホンバシ、大阪のはニッポンバシと漢字は同じでも読みが違うのを、江戸ではH音に変化したのに大阪ではニッポンとP音の発音が残っていたからと説明する。しかし江戸の日本橋は1603年、大阪は1619年の完成である。家康が秀吉によって江戸への国替えを命じられたのは1590年で、橋が架けられた当時の江戸の人口は15万人程度。せっかちな江戸っ子の早口によってH音になったとしても、そんなチャキチャキの江戸っ子が登場するのはもっと後の時代だろう。江戸の日本橋も最初はニッポンバシだった気がする。

なおP音がF音に変化したのは1000年頃だけれど、600年後に大阪の日本橋がニフォンバシではなくニッポンバシだったのは、1592〜1593年発行の天草版平家物語にNippon表記もあるから、P音の発音が残っていたとの説はあり得る。

発音とは関係ないが、どちらの橋も江戸幕府が直接手がけた公儀橋=主要建造物なのに、どうして江戸と大阪で同じ日本橋と名付けたのかのほうが不思議。


せっかちな江戸っ子説はマユツバだとしても、言葉なんて時代の流れでナントナク変化していくもの。そういえばP音やF音になったのも、そのきっかけや理由まで説明している解説は見つけられなかった。




ーーー続く

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2025年12月12日

ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その9

前回の「その8」から1ヶ月以上も経ってしまったが続編再開。これまでのブログは下記のページ「その1」から順番にどうぞ。なお「その5」と「その6」、「その7」と「その8」の間には違うテーマが挟まっている。
https://wassho.livedoor.blog/archives/53515793.html

遠い昔に日本はジッポンやニフォンなどと読まれていた話を書こうと思っていたら、その前の名前である「倭」に「その2」から「その5」を費やしてしまい、「その6」と「その7」は現在のニッポンとニホンについて。古代の日本の読みに具体的に触れ始めるのは今回から。


日本にまだ文字がなかった時代に、古代中国王朝が日本列島に住む人々を「倭人」と名付けていた記録が現れるのは弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期。それは日本人をバカにした蔑称だったのだが(諸説あり)、文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。

それから数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたりに日本でも文字が使われるようになる。それでようやく「倭」が蔑称であったと日本人も気づき、607年に聖徳太子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に〜」と一発かまし、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると唐に対して宣言する。

当時の「日本」の読み方はニッポンやニホンでもなく、学説には

  1)ヤマト
  2)ニェットプァン

などがある。

歴史なんて一般常識的なことしか知らないし、ましてや古代についてはさっぱりとはいえ、これがどちらも納得できないシロモノなのである。



まずは日本をヤマトと読んでいた説。

それにしてもどうして「日本」がヤマトと読めるのだ。
いくつかの解説を読むとどうやら、

  中国が名付けたのは「倭」だったが、
  やがてそれが「和」の文字に置き換わり、
  それに美称である「大」をつけ(大日本帝国みたいなノリ)、
  大和をヤマトと読んでいた。

  従って、その頃の国名は大和であり読みは「ヤマト」。
 「日本」は海外=主として中国に向けた対外的な国名表記の漢字変更。
  だから日本と書いてヤマトと読んだ。

とのロジック。
JAPANと書いてニホンと読むような感覚か。

以前に「名前の間に入る“の”について歴史学説への疑問」でも書いたように古代の文書にフリガナが振ってあるわけではない。つまりヤマト説にはエビデンスがない。振りたくてもカタカナや平仮名が発明されたのは平安時代に入った800年代である。

ただし日本語の音を漢字に当て字した万葉仮名は650年頃からあって、
720年に編纂された日本書紀には

  日本 此云 耶麻騰

との一説がある。現代語に直訳すると「日本、これはヤマトという」。
この耶麻騰が万葉仮名。

あっ、エビデンス発見!と思ったものの、
もう少し日本書紀の前後を読むとこれは

 「倭」の文字は好ましくないので「日本」置き換える
  だから「日本」は「ヤマトと読んでいた倭」と同じ意味

というだけで、「日本」を「ヤマト」と読むと定めた決まりではない(との学説が主流)らしい。これ以上は歴史以外に漢文の知識も必要になりお手上げ(/o\)


ちなみに大和(ヤマト)は単字単位ではなく熟字単位で訓読みを当てはめた熟字訓で、ヤ・マ・トの音を大と和の字に振り分けられない。明日(あす)、大人(おとな)、梅雨(つゆ)、眼鏡(めがね)、浴衣(ゆかた)なども熟字訓。

(これは1599年に復刻された慶長勅版と呼ばれる日本書紀の表紙)
日本書紀



もうひとつは漢字には音読みと訓読みとがあり、ご承知のように

  音読み:中国語ベースの発音
  訓読み:漢字の意味に日本古来の言葉を当てた発音

であるから国名は訓読みのはずとのロジックもある。

現在、日と本の音読み・訓読みは

  日:音読み ニチ・ジツ  訓読み ひ・か
  本:音読み ホン     訓読み もと

当時の訓読みは今と多少は違うとしても、日本と書いてヤマトとは読めないはず。だからかどうかはわからないものの、それで「日の本(ひのもと)」と読んでいたとの説もある。ただしこれも

  「日の本」自体は奈良時代から存在する言葉であるが、単に太陽の昇る東方との意味
   平安中期まで「ひのもと」は「日の本」と表記
   日本と書いて「ひのもと」と読むのは平安後期以降

のようだ。

それと古代(古墳時代〜平安時代)の支配層や役人は

   書くとき:漢語
   読むとき:訓読み
   儀礼や外交では:漢音(音読み=中国語読みのうち唐時代の発音)

と、今から考えるととても複雑な言葉の使い分けを行っていた。いわば日本は「漢文国家」だったともいえる。だから国名は訓読みのはずとのロジックそのものがずれているようにも思える。


というわけで「日」「本」の音読み・訓読みのいずれも無視して、熟字訓で日本をヤマトと読んでいたと考えるのは無理があるし、「ひのもと」説もこれまで確認されてきた歴史的事実を無視している。

まあ歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちの側面を持つ。それでも「倭から日本に国名を改めた当時はヤマトと読んでいた」と100%の断定調で書かれている資料を読むとナンダカナア〜と思ってしまう。またそれを読んで信じた人が増えれば、ウソも100回言えば真実になるのと同じことが起きる。

しかし私が多少はかじった歴史の知識も、それとそう変わらないようにも思えて、あまりエラソーな発言は慎もうと思ったり(^^ゞ




ーーー続く

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2025年12月04日

イエローオータムを探して代々木公園&残り秋バラ

タイトルを微妙に修正して、
明治神宮の後に訪れた代々木公園の続き。


周回通路で公園の北側まで歩いて中央広場に入る。ここは世界陸上でのブルーインパルス展示飛行の予行演習を9月12日に見に来たところ。あいにく曇り空で飛行は中止になったが。
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9月12日のブログは次の2つ。
  https://wassho.livedoor.blog/archives/53514614.html
  https://wassho.livedoor.blog/archives/53514804.html


その当日にブルーインパルスが飛んでくる国立競技場方向を撮った写真。
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そしてこれがほぼ同じ向きでの11月24日。
木々が茶色に色づいて芝生の緑は色あせた。
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上の写真の中央奥に赤く紅葉しているところがある。
近寄ってみるとここだけがモミジ。
ただしそれほどきれいな紅葉ではない。
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でも日光を透かすように逆光で撮ると、
こうなるのが紅葉の魅力でもあり恐ろしいところ。
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中央広場の一画にあるフラワーランド。ここは代々木公園の第2バラ園でもある。しかし前回の9月12日は秋バラには早すぎて、本日11月24日だと遅すぎでーーー
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まだきれいに残っているバラを選んで。
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こうやって写真を並べるとたくさんのバラを眺めてきたような印象になってしまうが、あくまで咲いていた状態は最初に撮った風景の通り。それでも今年は他に秋バラを見に出かけなかったから「残り物には福がある」と思うとしよう。



どこかに見応えのあるイエローオータムはないかと周回通路を歩いていると現れたのがこのイチョウ。手前がまだグリーンで、そのコントラストがキレイ。
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幹に近づき見上げてイエローシャワーを浴びる。
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当日のルートはこんな感じ。
62代々木公園マップ1

先ほどのイチョウの場所はよく覚えていないが、
次のイチョウは中央広場右下に黄色い星印を付けたところ。

園内2本目の黄葉イチョウ。
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ここは3月1日に河津桜を見に来た場所。
だから場所をマップに書き込めた。
河津桜は葉が1枚残らず落ちている。
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ツルッパの河津桜とイチョウのツーショット。
意味のある組み合わせじゃないけどまあ記念に。
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そしてまた見上げる。
行動がワンパターンだ(^^ゞ
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このあと原宿門に戻って本日の明治神宮と代々木公園でのイエローオータム探しは終了。ところがあとで代々木公園のマップを見ていたら「イチョウ並木」の文字があるではないか(黄色のアンダーライン箇所)。
73代々木公園マップ2

周回通路からイチョウは見えなかったと思う。また並木のあるところが現在は立ち入り禁止となっている改修工事エリア内かだったかもよくわからない。

見逃したとしたら残念だけれど、まあ代々木公園へはよく出かけているし、いつか黄葉したイチョウ並木を歩く機会はあるでしょう。




おしまい

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2025年12月02日

イエローオータムを探して代々木公園

11月24日は明治神宮を散策した後に代々木公園へ。ここも明治神宮と同じく特に紅葉・黄葉の名所でもないので、あまり期待できないがついでに。


と思っていたら明治神宮の原宿口を出ていきなり眩いばかりのイエローオータム!
来たときは反対側の歩道を反対方向に歩いていて気がつかなかった。
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代々木公園に向かう途中に代々木競技場へ渡る歩道橋。
ここにわざわざ上がったのは、
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このイチョウ並木を見るため。
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この道路は渋谷から原宿へ続く通称ファイヤー通りで、このあたりは隠れたイチョウの名所。クルマの交通量は多くても、イチョウが並んでいるのはお店とかがないエリアで人通りも少ない。私もここを知らずにいて、初めて黄葉を眺めに来たのは2023年と最近。その時のブログのほうが写真はキレイなのでご参考に。https://wassho.livedoor.blog/archives/53465884.html


完熟黄色とまだグリーンなイチョウをアップでツーショット。
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歩道橋の上より代々木公園の原宿門。
時刻は3時半で日没の約1時間前。
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公園入り口前のイチョウ。
撮影位置からだともう影になっていてあまりきれいではないが、
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その反対側はご覧の通り。
まだ3時半だけれど、この季節なら夕日に照らされてといっていいだろう。
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上の写真の右側のイチョウ。
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まだ緑の葉も混じっている。
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左側のほうが黄色が濃く見えるのは日光がより当たっているせい。
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冬は太陽の位置が低い=太陽光線が大気中を通過する距離が延びて、波長の長い赤やオレンジの光が優勢になる=日光が黄色みを帯びる。これは夕焼けが赤くなるのと同じ理屈

真ん中の木も葉の付き方が左右と違うけれどイチョウ。イチョウには雄株と雌株があり、雄株は枝が上向きに立ち上がる樹形。なので真ん中が雄株で左右が雌株なのだと思う(あまり自信はない)。

雄株イチョウの先端、日を浴びている部分を狙って撮影。
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園内に入る。
2024年の5月に始まった改修工事はまだ続いていて完成は来年の秋らしい。
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フェンス越しに遠くにあるイエローオータムを。
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これは道路をまたいでイベント広場に向かう歩道橋。
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道路沿いの並木を見に来たのに、
残念!イエローじゃなく茶色オータムだった(>_<)
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ちなみにこの歩道橋は展望デッキとも名付けられていている。それはもちろん道路を見るのでなく、代々木公園を高い位置で眺めるために設けられている。しかし現在この展望デッキから望めるバラ園〜水回廊は改修工事中ーーー
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この写真上部の黒いラインは歩道橋の一部が映り込んでしまったのだと思う。
心霊写真でこんなのは見たことがないし(^^ゞ


春には大混雑の花見名所となる桜ゾーンに入ってきた。
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桜の紅葉はこんな感じ。
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モミジと違って何となくもの悲しいというかワビサビの世界。
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今までに何度も書いたように、私は折り紙の赤色のようなピュアレッドなモミジが好きである。茶色が感じられるようなものは紅葉とは認めていない。そんな紅葉を求めて以前はバイクツーリングであちこちの紅葉名所を巡ったりもした。またイチョウもまるでゴッホの塗る黄色のように明るく力強いのを好む。

話は変わるがゴッホはあんなに黄色フェチのくせになぜかイチョウを描いていない。イチョウは鎌倉時代(諸説あり)に中国から日本に伝わり、江戸時代の1695年頃に出島のオランダ商館付の医師だったエンゲルベルト・ケンペルによって種が持ち帰られ、オランダのユトレヒト植物園に植えられる。そしてそこからヨーロッパ中に広まった。

ゴッホが生きたのは1853年〜1890年で、ヨーロッパにイチョウが伝わったのはその約200年前になる。その時点でイチョウがヨーロッパでどの程度一般的だったのかはわからない。でもゴッホより100年ほど前に生まれたゲーテは1815年にイチョウの詩を書いているし、ゴッホはヨーロッパで最初にイチョウが移植されたオランダ出身だし(黄色フェチになったのは晩年に南仏アルルに移って以降だが)ーーーまあそんなことを考えても仕方がないもののゴッホの描いたイチョウが見たかったな。

そこでAIにゴッホ風にとリクエストして描かせてみたら、
40点くらいの出来映えでトホホな結果に。
30-1ゴッホのイチョウ



話を紅葉・黄葉の好みに戻すと要はマッカッカ、マッキッキが好きなわけで、考えてみれば感覚が単純で子供っぽい。代々城公園を歩きながら、こういうアースカラーの色合いも愛でられるようにならねばなんて思ったり。うん、もう十分すぎるくらい大人なのだし(^^ゞ
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ーーー続く

wassho at 22:19|PermalinkComments(0) イベント、旅行