2026年01月
2026年01月31日
やっぱりカビが生えてきたコーヒー豆粉腐葉土
昨年の11月に書いたコーヒー豆粉を腐葉土にする試みはこちらから
↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53517597.html
抽出した後のコーヒー豆粉カスを乾燥させただけのもの、乾燥の後にフライパン炒ったのに分けて、それぞれに腐葉土とミックスしてヨーグルト容器に入れたのだけれど、
作業を終えた後にいろいろと調べていたら
1)コーヒー豆粉が3、腐葉土が7位の割合
2)発酵するには水分が必要
3)毎日かき混ぜて酸素を行き渡らせる
とわかったので、容器をビニール袋にして腐葉土を追加し、少量の水を加えた。それをしたのは11月の終わりくらいだったと思う。最初の1週間くらいは袋を揉んでかき混ぜていたものの、その後はすっかり忘れてしまい(^^ゞ
というわけで約2ヶ月ぶりに状態チェック。
特に変化なし。
しかしこちらは全体がカビに覆われていた(>_<)
やっぱりな、
だから水分を足すのはイヤだったのよ。
不思議にもカビが生えたのはコーヒー豆粉を乾燥の後に炒ったほうだった。前回に書いたカビが発生したりキノコが生えてくるのがコーヒー豆粉の持っている菌などが原因とすれば、炒ることでそれをなくしたつもりだったのに。なお11月の終わりに加えた水は100ccほど。
そしてカビが生えていないほうも、予想通りコーヒー豆粉が腐葉土になったのかどうかはまったく判別できず。落ち葉を腐葉土にすれば形が崩れ色も土色に変化する。でもこれは粉だし最初から茶色。腐葉土に変化する際には熱を持つらしいが、最初の1週間ほど揉んでいたときも現在もそんな兆候はなし。
とりあえず再度100ccほどの水を加え充分にかき混ぜて、
またベランダに放置。
特に意図や期待はなく何となくそうしただけ。
↓
https://wassho.livedoor.blog/archives/53517597.html
抽出した後のコーヒー豆粉カスを乾燥させただけのもの、乾燥の後にフライパン炒ったのに分けて、それぞれに腐葉土とミックスしてヨーグルト容器に入れたのだけれど、
作業を終えた後にいろいろと調べていたら
1)コーヒー豆粉が3、腐葉土が7位の割合
2)発酵するには水分が必要
3)毎日かき混ぜて酸素を行き渡らせる
とわかったので、容器をビニール袋にして腐葉土を追加し、少量の水を加えた。それをしたのは11月の終わりくらいだったと思う。最初の1週間くらいは袋を揉んでかき混ぜていたものの、その後はすっかり忘れてしまい(^^ゞ
というわけで約2ヶ月ぶりに状態チェック。
特に変化なし。
しかしこちらは全体がカビに覆われていた(>_<)
やっぱりな、
だから水分を足すのはイヤだったのよ。
不思議にもカビが生えたのはコーヒー豆粉を乾燥の後に炒ったほうだった。前回に書いたカビが発生したりキノコが生えてくるのがコーヒー豆粉の持っている菌などが原因とすれば、炒ることでそれをなくしたつもりだったのに。なお11月の終わりに加えた水は100ccほど。
そしてカビが生えていないほうも、予想通りコーヒー豆粉が腐葉土になったのかどうかはまったく判別できず。落ち葉を腐葉土にすれば形が崩れ色も土色に変化する。でもこれは粉だし最初から茶色。腐葉土に変化する際には熱を持つらしいが、最初の1週間ほど揉んでいたときも現在もそんな兆候はなし。
とりあえず再度100ccほどの水を加え充分にかき混ぜて、
またベランダに放置。
特に意図や期待はなく何となくそうしただけ。
2026年01月27日
観泉寺でロウバイ その3
ロウバイの花だけではなく、
ロウバイのある風景を撮ろうと試みるも花数が少ないので冴えない。
諦めてきれいに整えられたマキでも撮りましょう。
境内には竹林もある。
まるで京都にでも来たような思いになるものの、
竹林が続いているのはコーナーを曲がった先までと短いよ(^^ゞ
竹林は鐘楼の裏手に。
その手前のウメが咲きそろえばバエる眺めになるはず。
さて初回に書いたこのあたりは江戸時代に今川氏の領地で、この観泉寺もその菩提寺というお話。石標に記されていた「今川氏累代墓」は東京都の指定旧跡になっている。
それが墓地エリアにあるこの一画。
ところろで今川氏累代といわれても、今川氏なんて信長に敗れた今川義元しか知らないし、その後も続いていたの?という人は多いと思う。私もそうだったので少し調べてみた。
義元(よしもと)は今川氏の11代目。その頃には東海地方において圧倒的な勢力を誇っていた。家康が8歳から今川家に人質として差し出されていたのは有名な話。
尾張に進軍してきた今川軍2万5000人に対して、2000人の兵力で織田軍が迎え撃った桶狭間の戦いが1560年。義元は討ち取られたとはいえ、これは義元の本陣だけを奇襲したゲリラ攻撃のようなもので、軍事勢力的に今川軍は決定的なダメージは負っていない。
義元の後を継いだのは嫡男(ちゃくなん:正妻の産んだ長男)の氏真(うじざね)。当時23歳。オトウチャンの義元は武田や北条とも同盟を結び、今川家の領地を最大限にまで拡大し「海道一の弓取り」と称された人物。海道とは東海道であり、現在のイメージと違って茨城から三重までの太平洋沿岸エリアを指す。また弓取りとは戦国大名の意。
そんな大物の息子がヘタレなのはよくある話で、あれよあれよという間に配下の武将に離反され、隣国の武田や徳川にも攻め込まれる。ヨメの実家の北条氏に援軍を求めたりしたものの、最終的には1569年にかつては人質として預かっていた家康の配下に入る。これをもって今川家は滅亡した。桶狭間からわずかに9年。
ところで歴史には滅亡との言葉がよく出てくる。辞書を引くと「ほろびる、絶えてなくなる」などと書いてある。全滅とイメージが重なるので何もかも消えてしまった響きがあるが、これは基本的に統治者ではなくなったとの意味。平家の滅亡のように主要メンバーがほとんど死亡するのは例外。今回だって別に氏真(うじざね)やその一族が皆殺しにされたわけじゃない。
家康配下の氏真(うじざね)は信長・家康連合軍と武田勝頼の軍勢が衝突した1575年の長篠の戦いなどには(後方支援部隊として)参加しているが、50歳過ぎの1590年頃に京都に移住して隠居生活に入り、和歌や蹴鞠(けまり)など文化人として過ごす。
その当時に家康より与えられていた石高は500石。かつての今川家40万石と較べれば800分の1。もっとも石高(領地の米生産量)のうち大名の取り分は約4割で、さらにその半分は家来の給料などに当てる必要があり、実質的な収入は石高の2割=40万石×0.2=8万石。それでも8万石÷500石=160分の1だから気絶しそうなくらいの年俸ダウンには違いないが。1石が今の貨幣価値でいくらかは諸説あり、その中間的な値を採って10万円とすると8万石は80億円、500石は5000万円。その計算が妥当だとすれば隠居暮らしには十分な年収だったかも。
晩年は江戸に移り、家康から品川に屋敷を与えられている。1614年に77歳で死去(大坂冬の陣のあった年)。同じく武田信玄という偉大な父親を持つ勝頼と較べれば、氏真(うじざね)は没落したとはいえそれなりに幸せな人生だったようにも思える。
そして氏真(うじざね)の孫、義元のひ孫が 直房(なおふさ)。彼が14歳のときに父親の範以(のりもち)が亡くなり母親は公家と再婚したので、それ以降は祖父である氏真に育てられる。生まれ育ったのも京都であり、そこで文化人としての教養も受け継いだと思われ、家光の時代に高家(こうけ)に登用される。高家とは幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職である。
ところで高家と聞いて思い浮かぶのは忠臣蔵で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた吉良上野介(きら・こうずけのすけ)。朝廷からの勅使接待の現場を任されたのが浅野で、その指導監督にあたったのが高家である上野介。田舎大名の浅野をバカにした上野介のイジメにぶち切れて斬りつけたのが忠臣蔵事件の始まり。
上野介以外の高家なんて今まで聞いたこともなかったが、
なんと今川家と吉良家は親戚だった!
そのルーツを探ると、
鎌倉前期の武将であり幕府有力御家人の足利宗家3代目当主:足利義氏(よしうじ)の庶長子(しょちょうし:正妻以外から生まれた長男)が足利長子(ながうじ)。ちなみに室町幕府を起こした足利尊氏は足利宗家8代目になる。
長子(ながうじ)は後に領地の三河国(愛知県東部)吉良荘の名前を取って吉良長氏と名乗り彼が吉良家の始祖となる。その次男の国氏(くにうじ)が三河国幡豆郡今川庄を領して今川姓を名乗ったのが今川家の始まり。つまり吉良家は足利家の傍流であり、今川家は吉良家の分家。
どちらも足利一門において名門とされ「将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と評されたほど。言ってみれば江戸幕府の尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のようなポジション。
イヤ〜それにしても、忠臣蔵の吉良上野介と桶狭間の今川義元の血縁がつながっていたとはビックリだわ。歴史ははおもしろいというか世の中は狭いね。
さて高家となった直房(なおふさ)は様々な職務をこなし一番の活躍は東照宮関連。ご存じのように家康を祀る神社であるが、当初に朝廷から示された名前は一段格下の東照「社」。これを「宮」にしたかったのが家光。本来「宮」は皇族男子を祀った神社に与えられる名前なので、これはかなり強引な要求。しかし直房は氏真以来培ってきた朝廷とのコネクションを生かして交渉し見事に宮号の宣下を得る。
この功績により直房は観泉寺周辺の3つの村を領地として与えられる。その石高は500石。氏真(うじざね)が家康から与えられていた500石も相続していて合計1000石。先ほどの計算に当てはめればめでたく「億り人」となり今川家中興の祖として賞賛されるようになった。
墓地にある説明看板。
ここに書かれている「義元から三代目となる直房」とはちょっと説明不足。三代目というと孫だけれど直房は義元のひ孫である。これには義元が今川家11代目、その子の氏真(うじざね)が12代目で、氏真の子=直房の父の範以(のりもち)が38歳と若くして亡くなったのでまだ家督を継いでおらず、その子の直房が13代目となった背景がある。それで今川家当主の順で数えると「義元から三代目」との表現になる。
この説明書きによると子孫やその妻など20名の墓がある。
直房の墓は一番右にある丸い石柱。
中興の祖の割にはあっさりしている。
右から4番目が氏真で最も大きい。その隣が氏真の妻で同じ造り。さらに隣が範以(のりもち)で次にその妻が続く。それぞれ夫婦で墓石デザインを揃えているようだ。直房の妻の墓は一番左でこの写真には写っていない。
なお江戸時代に今川家は幕末まで11代続いたものの、23代当主の範叙(のりのぶ)の子供は18歳で夭折したため後継者がおらず、彼の代で今川宗家の系統は断絶した。範叙が亡くなったのは明治20年(1887年)。桶狭間の戦いから数えれば327年後。誰だ、桶狭間で今川氏は終わったなんて言ったのは(^^ゞ
歴史のお勉強はこれくらいにして、
観泉寺を退出。
初回に書いた山門を出た先の、
観泉寺の敷地と思われる場所に立ち寄ってみる。
まずは塀(へい)に囲まれた左側。
ウメがきれいに咲いていたので園内もと期待したのに、
門をくぐった先にお地蔵さんなどの石像があっただけで、
ここ以外は入れないようになっていた。
右側の敷地は広場になっていて、同じくお地蔵さんその他の石柱や石仏が多数並ぶ。こちらは屋根付き。観泉寺の公式ホームページにこのエリアの記載はなし。
左側も含めてすべての石柱石仏の前にはペットボトルのお茶が供えられていたのに、このお地蔵さんにはなし。ナンデ?
いずれにせよどれもかなり古いもので200〜300年くらいは経っていそう。おそらく周辺各地にあった石柱石仏を、道路拡張工事など何らかの理由により移転したのだと思われる。
話をロウバイに戻すと、今回は訪れた時期が遅く咲きっぷりはイマイチだったが、それは別としても境内にロウバイは3本あるだけ(1本は植え込みの奥にあって近づけなかったのでブログには書いていない)。だからロウバイ目当てなら遠くから見に来るほどの場所ではない。しかしこの寺の静謐で凜とした美しさは特筆もの。一度は訪れておいて損はしない。私もまた別の季節に訪れるつもり。
ところでこんな雰囲気の寺は他にもあるのかな。
調べたいのだけれど、どうやって調べれば検索すればいいのか思案中。
おしまい
ロウバイのある風景を撮ろうと試みるも花数が少ないので冴えない。
諦めてきれいに整えられたマキでも撮りましょう。
境内には竹林もある。
まるで京都にでも来たような思いになるものの、
竹林が続いているのはコーナーを曲がった先までと短いよ(^^ゞ
竹林は鐘楼の裏手に。
その手前のウメが咲きそろえばバエる眺めになるはず。
さて初回に書いたこのあたりは江戸時代に今川氏の領地で、この観泉寺もその菩提寺というお話。石標に記されていた「今川氏累代墓」は東京都の指定旧跡になっている。
それが墓地エリアにあるこの一画。
ところろで今川氏累代といわれても、今川氏なんて信長に敗れた今川義元しか知らないし、その後も続いていたの?という人は多いと思う。私もそうだったので少し調べてみた。
義元(よしもと)は今川氏の11代目。その頃には東海地方において圧倒的な勢力を誇っていた。家康が8歳から今川家に人質として差し出されていたのは有名な話。
尾張に進軍してきた今川軍2万5000人に対して、2000人の兵力で織田軍が迎え撃った桶狭間の戦いが1560年。義元は討ち取られたとはいえ、これは義元の本陣だけを奇襲したゲリラ攻撃のようなもので、軍事勢力的に今川軍は決定的なダメージは負っていない。
義元の後を継いだのは嫡男(ちゃくなん:正妻の産んだ長男)の氏真(うじざね)。当時23歳。オトウチャンの義元は武田や北条とも同盟を結び、今川家の領地を最大限にまで拡大し「海道一の弓取り」と称された人物。海道とは東海道であり、現在のイメージと違って茨城から三重までの太平洋沿岸エリアを指す。また弓取りとは戦国大名の意。
そんな大物の息子がヘタレなのはよくある話で、あれよあれよという間に配下の武将に離反され、隣国の武田や徳川にも攻め込まれる。ヨメの実家の北条氏に援軍を求めたりしたものの、最終的には1569年にかつては人質として預かっていた家康の配下に入る。これをもって今川家は滅亡した。桶狭間からわずかに9年。
ところで歴史には滅亡との言葉がよく出てくる。辞書を引くと「ほろびる、絶えてなくなる」などと書いてある。全滅とイメージが重なるので何もかも消えてしまった響きがあるが、これは基本的に統治者ではなくなったとの意味。平家の滅亡のように主要メンバーがほとんど死亡するのは例外。今回だって別に氏真(うじざね)やその一族が皆殺しにされたわけじゃない。
家康配下の氏真(うじざね)は信長・家康連合軍と武田勝頼の軍勢が衝突した1575年の長篠の戦いなどには(後方支援部隊として)参加しているが、50歳過ぎの1590年頃に京都に移住して隠居生活に入り、和歌や蹴鞠(けまり)など文化人として過ごす。
その当時に家康より与えられていた石高は500石。かつての今川家40万石と較べれば800分の1。もっとも石高(領地の米生産量)のうち大名の取り分は約4割で、さらにその半分は家来の給料などに当てる必要があり、実質的な収入は石高の2割=40万石×0.2=8万石。それでも8万石÷500石=160分の1だから気絶しそうなくらいの年俸ダウンには違いないが。1石が今の貨幣価値でいくらかは諸説あり、その中間的な値を採って10万円とすると8万石は80億円、500石は5000万円。その計算が妥当だとすれば隠居暮らしには十分な年収だったかも。
晩年は江戸に移り、家康から品川に屋敷を与えられている。1614年に77歳で死去(大坂冬の陣のあった年)。同じく武田信玄という偉大な父親を持つ勝頼と較べれば、氏真(うじざね)は没落したとはいえそれなりに幸せな人生だったようにも思える。
そして氏真(うじざね)の孫、義元のひ孫が 直房(なおふさ)。彼が14歳のときに父親の範以(のりもち)が亡くなり母親は公家と再婚したので、それ以降は祖父である氏真に育てられる。生まれ育ったのも京都であり、そこで文化人としての教養も受け継いだと思われ、家光の時代に高家(こうけ)に登用される。高家とは幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職である。
ところで高家と聞いて思い浮かぶのは忠臣蔵で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた吉良上野介(きら・こうずけのすけ)。朝廷からの勅使接待の現場を任されたのが浅野で、その指導監督にあたったのが高家である上野介。田舎大名の浅野をバカにした上野介のイジメにぶち切れて斬りつけたのが忠臣蔵事件の始まり。
上野介以外の高家なんて今まで聞いたこともなかったが、
なんと今川家と吉良家は親戚だった!
そのルーツを探ると、
鎌倉前期の武将であり幕府有力御家人の足利宗家3代目当主:足利義氏(よしうじ)の庶長子(しょちょうし:正妻以外から生まれた長男)が足利長子(ながうじ)。ちなみに室町幕府を起こした足利尊氏は足利宗家8代目になる。
長子(ながうじ)は後に領地の三河国(愛知県東部)吉良荘の名前を取って吉良長氏と名乗り彼が吉良家の始祖となる。その次男の国氏(くにうじ)が三河国幡豆郡今川庄を領して今川姓を名乗ったのが今川家の始まり。つまり吉良家は足利家の傍流であり、今川家は吉良家の分家。
どちらも足利一門において名門とされ「将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と評されたほど。言ってみれば江戸幕府の尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のようなポジション。
イヤ〜それにしても、忠臣蔵の吉良上野介と桶狭間の今川義元の血縁がつながっていたとはビックリだわ。歴史ははおもしろいというか世の中は狭いね。
さて高家となった直房(なおふさ)は様々な職務をこなし一番の活躍は東照宮関連。ご存じのように家康を祀る神社であるが、当初に朝廷から示された名前は一段格下の東照「社」。これを「宮」にしたかったのが家光。本来「宮」は皇族男子を祀った神社に与えられる名前なので、これはかなり強引な要求。しかし直房は氏真以来培ってきた朝廷とのコネクションを生かして交渉し見事に宮号の宣下を得る。
この功績により直房は観泉寺周辺の3つの村を領地として与えられる。その石高は500石。氏真(うじざね)が家康から与えられていた500石も相続していて合計1000石。先ほどの計算に当てはめればめでたく「億り人」となり今川家中興の祖として賞賛されるようになった。
墓地にある説明看板。
ここに書かれている「義元から三代目となる直房」とはちょっと説明不足。三代目というと孫だけれど直房は義元のひ孫である。これには義元が今川家11代目、その子の氏真(うじざね)が12代目で、氏真の子=直房の父の範以(のりもち)が38歳と若くして亡くなったのでまだ家督を継いでおらず、その子の直房が13代目となった背景がある。それで今川家当主の順で数えると「義元から三代目」との表現になる。
この説明書きによると子孫やその妻など20名の墓がある。
直房の墓は一番右にある丸い石柱。
中興の祖の割にはあっさりしている。
右から4番目が氏真で最も大きい。その隣が氏真の妻で同じ造り。さらに隣が範以(のりもち)で次にその妻が続く。それぞれ夫婦で墓石デザインを揃えているようだ。直房の妻の墓は一番左でこの写真には写っていない。
なお江戸時代に今川家は幕末まで11代続いたものの、23代当主の範叙(のりのぶ)の子供は18歳で夭折したため後継者がおらず、彼の代で今川宗家の系統は断絶した。範叙が亡くなったのは明治20年(1887年)。桶狭間の戦いから数えれば327年後。誰だ、桶狭間で今川氏は終わったなんて言ったのは(^^ゞ
歴史のお勉強はこれくらいにして、
観泉寺を退出。
初回に書いた山門を出た先の、
観泉寺の敷地と思われる場所に立ち寄ってみる。
まずは塀(へい)に囲まれた左側。
ウメがきれいに咲いていたので園内もと期待したのに、
門をくぐった先にお地蔵さんなどの石像があっただけで、
ここ以外は入れないようになっていた。
右側の敷地は広場になっていて、同じくお地蔵さんその他の石柱や石仏が多数並ぶ。こちらは屋根付き。観泉寺の公式ホームページにこのエリアの記載はなし。
左側も含めてすべての石柱石仏の前にはペットボトルのお茶が供えられていたのに、このお地蔵さんにはなし。ナンデ?
いずれにせよどれもかなり古いもので200〜300年くらいは経っていそう。おそらく周辺各地にあった石柱石仏を、道路拡張工事など何らかの理由により移転したのだと思われる。
話をロウバイに戻すと、今回は訪れた時期が遅く咲きっぷりはイマイチだったが、それは別としても境内にロウバイは3本あるだけ(1本は植え込みの奥にあって近づけなかったのでブログには書いていない)。だからロウバイ目当てなら遠くから見に来るほどの場所ではない。しかしこの寺の静謐で凜とした美しさは特筆もの。一度は訪れておいて損はしない。私もまた別の季節に訪れるつもり。
ところでこんな雰囲気の寺は他にもあるのかな。
調べたいのだけれど、どうやって調べれば検索すればいいのか思案中。
おしまい
2026年01月26日
観泉寺でロウバイ その2
観泉寺を知ったヤフーニュースの記事によれば、
ロウバイは本堂手前のこの一画にあるはず。
しかし遠目で見てもわかるとおり、
アカン!終わりかけてる(>_<)
やはり1月6日の記事を参考に24日に来るのは遅かったか。
比較的きれいに残っている部分でもこの程度。
香りもほとんどしない。
せっかく電車を3本も乗り継いでやって来たのにガッカリ。
でも離れて眺めればそれなりに黄色を楽しめるとか、
お寺の建物と一緒なら少し枯れた感じも似合っているなどと、
自分を慰める(/o\)
それでも仏様のありがたいお導き。
周りの風景を背景にした面白い撮影ポイントはないかロウバイのある一画を回っていると、そこから数メートル離れたところに別のロウバイを発見。こちらは少し状態が良さそうだ。
ただしロウバイの実がたくさんなっている。これが黒くて醜い。また花数も少なかった。背丈も低いからまだ若い木なのだろう。
それにしても
最初のロウバイ:早咲き:実はほとんどなかった
こちらのロウバイ:遅咲き:なのに実が多い
どうにもよくわからないロウバイの生態である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
この木はロウバイの濃密に甘くてでも爽やかな香りが充分に楽しめた。
クンクンしながらアップで撮影。
花が多少は密集したところは実も写ってしまうので撮れなかったのが残念。
咲いていたのは花全体が黄色いからソシンロウバイ(素心)だと思う。最初のは花の内側が赤紫だったのでワロウバイ(和)かマンゲツロウバイ(満月)だろうけれど、もしかしたら萎れていて変色しているだけかも知れない。また全体が黄色いのはほかにフクジュロウバイ(福寿)がある。それぞれわずかな違いで花も小さくてロウバイの種類を見分けるのはなかなか難しい。
ロウバイは黄色くて小さな花なので、背景が地面だと色が同化して写真としては見栄えがしない。青空バックが基本で、私は空が曇っていたらロウバイを見に行かないほど。これは以前に撮った同じロウバイの背景による違い。まったく別物でしょ。
でも青空ばかりじゃ芸がないのでなんとか背景をごまかして。
この木はまだツボミも多かった。
ツボミと実が共存している不思議な光景。
ーーー続く
ロウバイは本堂手前のこの一画にあるはず。
しかし遠目で見てもわかるとおり、
アカン!終わりかけてる(>_<)
やはり1月6日の記事を参考に24日に来るのは遅かったか。
比較的きれいに残っている部分でもこの程度。
香りもほとんどしない。
せっかく電車を3本も乗り継いでやって来たのにガッカリ。
でも離れて眺めればそれなりに黄色を楽しめるとか、
お寺の建物と一緒なら少し枯れた感じも似合っているなどと、
自分を慰める(/o\)
それでも仏様のありがたいお導き。
周りの風景を背景にした面白い撮影ポイントはないかロウバイのある一画を回っていると、そこから数メートル離れたところに別のロウバイを発見。こちらは少し状態が良さそうだ。
ただしロウバイの実がたくさんなっている。これが黒くて醜い。また花数も少なかった。背丈も低いからまだ若い木なのだろう。
それにしても
最初のロウバイ:早咲き:実はほとんどなかった
こちらのロウバイ:遅咲き:なのに実が多い
どうにもよくわからないロウバイの生態である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
この木はロウバイの濃密に甘くてでも爽やかな香りが充分に楽しめた。
クンクンしながらアップで撮影。
花が多少は密集したところは実も写ってしまうので撮れなかったのが残念。
咲いていたのは花全体が黄色いからソシンロウバイ(素心)だと思う。最初のは花の内側が赤紫だったのでワロウバイ(和)かマンゲツロウバイ(満月)だろうけれど、もしかしたら萎れていて変色しているだけかも知れない。また全体が黄色いのはほかにフクジュロウバイ(福寿)がある。それぞれわずかな違いで花も小さくてロウバイの種類を見分けるのはなかなか難しい。
ロウバイは黄色くて小さな花なので、背景が地面だと色が同化して写真としては見栄えがしない。青空バックが基本で、私は空が曇っていたらロウバイを見に行かないほど。これは以前に撮った同じロウバイの背景による違い。まったく別物でしょ。
でも青空ばかりじゃ芸がないのでなんとか背景をごまかして。
この木はまだツボミも多かった。
ツボミと実が共存している不思議な光景。
ーーー続く
2026年01月24日
観泉寺でロウバイ
冬になるとその甘い香りが脳内に再生され、あちこちに出かけてはクンクンしているロウバイ。今までどれくらい訪れただろうかとブログを調べてみると、
2015年 葛西公園
2016年 神奈川県松田町 寄(やどりぎ)
2019年 新宿御苑
2020年 浜離宮
2020年 上野 東照宮
2020年 府中市 郷土の森博物館
2022年 池上梅園
2022年 京王百草園
2024年 港北ニュータウン 早渕公園
2024年 杉並区 梅里中央公園
2025年 町田市 忠生公園
2025年 新宿御苑
2025年 港北ニュータウン 中川八幡山公園
2025年 横浜市港北区 西方寺
この中にはウメなどを見に行ったらロウバイも咲いていたところもいくつか含まれるが、それにしてもたくさん見てきたものだと我ながら呆れる。 (文末の「ロウバイ」と書かれた薄い青文字のタグをクリックすると、これらがまとめて表示される)
しかしそんな愛してやまないロウバイなのに植えられている場所はごくわずかしかない。それに世間ではロウバイなんて聞いたこともないという人のほうが多数。ちなみに次の単語でのGoogle検索ヒット数は
サクラ 6190万件
ウメ 258万件
ロウバイ 82万件
何とサクラの75分の1。どうしてこんなにマイナーな存在なのか不思議。ロウバイ(蝋梅)の名前の通り、見た目はロウ細工のような不思議な光沢があり、香りは甘くて濃厚なのに爽やかだから、まだロウバイを知らない人は今すぐ探して見に嗅ぎに出かけましょう!
さて先週、そろそろロウバイを見に行くか〜どこか今までに訪れていないところはないかとネットで探して、杉並区にある観泉寺というお寺を見つけた。ヤフーニュースで1月6日の記事。写真では満開になっており、既におそらく取材時より3週間が経っているものの、たぶんまだ大丈夫でしょうと本日にお出かけ。
地図で白く抜けているのが杉並区。
山手線を高田馬場で西武新宿線に乗り換えて上井草駅で下車。
西武新宿線に乗ったのは初めてのような気がする。
写真を撮ったのは初の西武新宿線記念ではなくホームドアがなかったから。普段利用する東急や地下鉄ではすべてホームドアがあるのでびっくりした。
少なくとも23区内ならもう当たり前の設備と思っていたホームドアだが、調べてみると全国での設置率は13%にとどまっている。詳しいデータは見つからなかったものの、国交省が優先整備を求める1日の利用者10万人以上の駅でもまだ50%程度らしい。
またこの電車はドアの塗装がなくステンレスのまま。こういうのは珍しいのかな。鉄チャンではないのでよくわからない。
上井草駅の正面。
その脇にガンダムのブロンズ像。
2021年のデータでアニメ制作会社は全国811社のうち杉並区に149社があり、杉並区はアニメの街を標榜している。特に上井草周辺に集中しており、ガンダムの制作会社もかつてこの近くにあったのがこのブロンズ像の由来。電車の発車メロディもガンダムの主題歌とのこと。
へえ〜、でもガンダム世代じゃないから特に感激もないんだよな(/o\)
アトムか鉄人28号だったらよかったのにと言うと歳がバレる(^^ゞ
駅前商店街の様子。
そんなに賑やかなイメージはなし。
上の写真でセブンイレブンのところを右折して、
この道路を南下していく。
信号の写真を撮ったのは標識に杉並区と書かれていたのが理由。
こんなところに自治体の名前なんてあったっけ?
でも次の信号に杉並区の表記はなし。
ローマ字の振り方も chome のあるなしが違う。
管轄が違うのか?
そのうち調べましょう。
少し進んでこのあたりの地名は今川。
なぜ今川なのかは後ほど。
これは観泉寺の塀(へい)。
進行方向は南向きでこれは敷地西側にある塀が南北に延びている。寺の正門は基本的に南面にある。つまりこのまま進んで左折すればよい。しかしこの塀があまりにも長かったので、
少し戻りひとつ手間を左折して裏口はないかと。
これは寺の北側を東西に延びる塀。
そうするとたまたま写真に写っている女性が、
塀の切れ目から出てきて裏門が使えるのを発見。
ウメがきれいに咲いているのに見とれる。
でもちょっと胸騒ぎが。
なぜならロウバイはウメの前に咲く。
もちろん多少は時期的に重なるがーーー
少しだけ開いていた北側の裏門。
話が東西南北とややこしかったので、
航空写真でルートを示すとこうなる。
裏門から入ると墓地になっていた。
永眠中の皆様ゴメンアソアバセ。
墓地の中にあったこちらのウメはまだ開花前。
だからまだロウバイは大丈夫なはずと自分に言い聞かせる。
墓地を過ぎ本堂の横を進む。
左側に少し写っている壁が本堂。
通り抜けたところは庭園風の造りになっている。
それほど広くないとはいえ、
池もあって、
素敵な雰囲気なのに、
中に入って見て回れないのが残念。
庭に沿って歩くと南側の山門(正門)近くまで来たので、いったん山門から外に出る。道路で塀を見たときは延々と続いているように思えたがそれほどの距離ではなかった。
山門を出て道路を隔てた先の左右も観泉寺の敷地のようだ。
特に左側はウメも咲いていて美しい。
後で立ち寄りましょう。
振り返って山門。
その脇にあったのがこの石標。
このあたりはかつて今川氏の領地で、その名残で現在の地名も今川。そして観泉寺は今川氏の菩提寺でもある。えっ、今川氏って織田信長に急襲されて首を取られた今川義元しか知らないけれど、彼は駿府(静岡)の戦国大名じゃなかったって? そのあたりの話はまた後ほど。
改めて山門をくぐって境内に。
宝珠山が観泉寺の山号。「寶」は「宝」の旧字。

山号の説明はここをクリック→https://x.gd/uEJ3I
また寺の正門を山門と呼ぶのも同じいきさつ。
正面に見える本堂。
左側が先ほどの庭園。
なかなか美しい佇まいで凜とした趣がある。
参道右側には鐘楼。
鐘のサイズはまあ敷地相当といったところ。ここ数年は除夜の鐘を聴きに行っているけれど、さすがにここまで来ることはないだろうな。
ーーー続く
2015年 葛西公園
2016年 神奈川県松田町 寄(やどりぎ)
2019年 新宿御苑
2020年 浜離宮
2020年 上野 東照宮
2020年 府中市 郷土の森博物館
2022年 池上梅園
2022年 京王百草園
2024年 港北ニュータウン 早渕公園
2024年 杉並区 梅里中央公園
2025年 町田市 忠生公園
2025年 新宿御苑
2025年 港北ニュータウン 中川八幡山公園
2025年 横浜市港北区 西方寺
この中にはウメなどを見に行ったらロウバイも咲いていたところもいくつか含まれるが、それにしてもたくさん見てきたものだと我ながら呆れる。 (文末の「ロウバイ」と書かれた薄い青文字のタグをクリックすると、これらがまとめて表示される)
しかしそんな愛してやまないロウバイなのに植えられている場所はごくわずかしかない。それに世間ではロウバイなんて聞いたこともないという人のほうが多数。ちなみに次の単語でのGoogle検索ヒット数は
サクラ 6190万件
ウメ 258万件
ロウバイ 82万件
何とサクラの75分の1。どうしてこんなにマイナーな存在なのか不思議。ロウバイ(蝋梅)の名前の通り、見た目はロウ細工のような不思議な光沢があり、香りは甘くて濃厚なのに爽やかだから、まだロウバイを知らない人は今すぐ探して見に嗅ぎに出かけましょう!
さて先週、そろそろロウバイを見に行くか〜どこか今までに訪れていないところはないかとネットで探して、杉並区にある観泉寺というお寺を見つけた。ヤフーニュースで1月6日の記事。写真では満開になっており、既におそらく取材時より3週間が経っているものの、たぶんまだ大丈夫でしょうと本日にお出かけ。
地図で白く抜けているのが杉並区。
山手線を高田馬場で西武新宿線に乗り換えて上井草駅で下車。
西武新宿線に乗ったのは初めてのような気がする。
写真を撮ったのは初の西武新宿線記念ではなくホームドアがなかったから。普段利用する東急や地下鉄ではすべてホームドアがあるのでびっくりした。
少なくとも23区内ならもう当たり前の設備と思っていたホームドアだが、調べてみると全国での設置率は13%にとどまっている。詳しいデータは見つからなかったものの、国交省が優先整備を求める1日の利用者10万人以上の駅でもまだ50%程度らしい。
またこの電車はドアの塗装がなくステンレスのまま。こういうのは珍しいのかな。鉄チャンではないのでよくわからない。
上井草駅の正面。
その脇にガンダムのブロンズ像。
2021年のデータでアニメ制作会社は全国811社のうち杉並区に149社があり、杉並区はアニメの街を標榜している。特に上井草周辺に集中しており、ガンダムの制作会社もかつてこの近くにあったのがこのブロンズ像の由来。電車の発車メロディもガンダムの主題歌とのこと。
へえ〜、でもガンダム世代じゃないから特に感激もないんだよな(/o\)
アトムか鉄人28号だったらよかったのにと言うと歳がバレる(^^ゞ
駅前商店街の様子。
そんなに賑やかなイメージはなし。
上の写真でセブンイレブンのところを右折して、
この道路を南下していく。
信号の写真を撮ったのは標識に杉並区と書かれていたのが理由。
こんなところに自治体の名前なんてあったっけ?
でも次の信号に杉並区の表記はなし。
ローマ字の振り方も chome のあるなしが違う。
管轄が違うのか?
そのうち調べましょう。
少し進んでこのあたりの地名は今川。
なぜ今川なのかは後ほど。
これは観泉寺の塀(へい)。
進行方向は南向きでこれは敷地西側にある塀が南北に延びている。寺の正門は基本的に南面にある。つまりこのまま進んで左折すればよい。しかしこの塀があまりにも長かったので、
少し戻りひとつ手間を左折して裏口はないかと。
これは寺の北側を東西に延びる塀。
そうするとたまたま写真に写っている女性が、
塀の切れ目から出てきて裏門が使えるのを発見。
ウメがきれいに咲いているのに見とれる。
でもちょっと胸騒ぎが。
なぜならロウバイはウメの前に咲く。
もちろん多少は時期的に重なるがーーー
少しだけ開いていた北側の裏門。
話が東西南北とややこしかったので、
航空写真でルートを示すとこうなる。
裏門から入ると墓地になっていた。
永眠中の皆様ゴメンアソアバセ。
墓地の中にあったこちらのウメはまだ開花前。
だからまだロウバイは大丈夫なはずと自分に言い聞かせる。
墓地を過ぎ本堂の横を進む。
左側に少し写っている壁が本堂。
通り抜けたところは庭園風の造りになっている。
それほど広くないとはいえ、
池もあって、
素敵な雰囲気なのに、
中に入って見て回れないのが残念。
庭に沿って歩くと南側の山門(正門)近くまで来たので、いったん山門から外に出る。道路で塀を見たときは延々と続いているように思えたがそれほどの距離ではなかった。
山門を出て道路を隔てた先の左右も観泉寺の敷地のようだ。
特に左側はウメも咲いていて美しい。
後で立ち寄りましょう。
振り返って山門。
その脇にあったのがこの石標。
このあたりはかつて今川氏の領地で、その名残で現在の地名も今川。そして観泉寺は今川氏の菩提寺でもある。えっ、今川氏って織田信長に急襲されて首を取られた今川義元しか知らないけれど、彼は駿府(静岡)の戦国大名じゃなかったって? そのあたりの話はまた後ほど。
改めて山門をくぐって境内に。
宝珠山が観泉寺の山号。「寶」は「宝」の旧字。

山号の説明はここをクリック→https://x.gd/uEJ3I
また寺の正門を山門と呼ぶのも同じいきさつ。
正面に見える本堂。
左側が先ほどの庭園。
なかなか美しい佇まいで凜とした趣がある。
参道右側には鐘楼。
鐘のサイズはまあ敷地相当といったところ。ここ数年は除夜の鐘を聴きに行っているけれど、さすがにここまで来ることはないだろうな。
ーーー続く
2026年01月15日
クリスマス・カクタスは短日処理の甲斐なく
2008年に買ってきた鉢から挿し芽をして増やし、現在は4代目と5代目を育てているクリスマス・カクタス。年々花付きが悪くなってきたので今シーズンは初めて短日処理なるものをした。その内容はこちらで→ https://wassho.livedoor.blog/archives/53518662.html
今あるのは2008年の子孫だけれど、この植物との付き合いは古くクリスマス・カクタス歴は40年近くある。それで短日処理などしなくてもたくさん花を付けるときは付ける。だからその効果はあまり期待していなかった。
そうしたら案の定ーーー
短日処理を始めたのは11月15日で終了したのは12月の20日あたり。
その時点で花芽はわずかしかなく(/o\)
これは年が明けて1月2日の撮影。クリスマスの頃に咲くからクリスマス・カクタスなのにまだ開花せず大きく膨らんだツボミがいくつかだけ。
1月4日にそのひとつが初開花。
それから約2週間が経った現在の様子も実に寂しい限り。
写真は左から
2021年に状態のよい株だけを選別して植え替えた:4代目その1
2022年春に挿し芽した:5代目その1
2023年春に挿し芽した:5代目その2
お約束のベランダ手すりに乗せて。
少しでも賑やかに見えるよう2鉢だけで寄ってみても効果なし。
数少ない花のアップを。
2025年春に挿し芽した:5代目その3
プランター全面に植えたのに半分に減ってしまった。こちらは短日処理もしていないし部屋の中にも取り込んでいない。ツボミはそこそこ膨らんでいるものの、開花するまで育つのに最低でも3シーズンかかる。つまり咲くのは2027年の冬から。
とりあえず「チェ、つまんねえの」な今シーズンのクリスマス・カクタス。短日処理のカバーの掛け外しを毎日してあげたのにやるせないゼ。春になったら4代目その1と5代目その1の土を入れ替えてみようか。でも植え替えをすると今年の冬は咲かないし。まあ春になったら悩みましょう。
今あるのは2008年の子孫だけれど、この植物との付き合いは古くクリスマス・カクタス歴は40年近くある。それで短日処理などしなくてもたくさん花を付けるときは付ける。だからその効果はあまり期待していなかった。
そうしたら案の定ーーー
短日処理を始めたのは11月15日で終了したのは12月の20日あたり。
その時点で花芽はわずかしかなく(/o\)
これは年が明けて1月2日の撮影。クリスマスの頃に咲くからクリスマス・カクタスなのにまだ開花せず大きく膨らんだツボミがいくつかだけ。
1月4日にそのひとつが初開花。
それから約2週間が経った現在の様子も実に寂しい限り。
写真は左から
2021年に状態のよい株だけを選別して植え替えた:4代目その1
2022年春に挿し芽した:5代目その1
2023年春に挿し芽した:5代目その2
お約束のベランダ手すりに乗せて。
少しでも賑やかに見えるよう2鉢だけで寄ってみても効果なし。
数少ない花のアップを。
2025年春に挿し芽した:5代目その3
プランター全面に植えたのに半分に減ってしまった。こちらは短日処理もしていないし部屋の中にも取り込んでいない。ツボミはそこそこ膨らんでいるものの、開花するまで育つのに最低でも3シーズンかかる。つまり咲くのは2027年の冬から。
とりあえず「チェ、つまんねえの」な今シーズンのクリスマス・カクタス。短日処理のカバーの掛け外しを毎日してあげたのにやるせないゼ。春になったら4代目その1と5代目その1の土を入れ替えてみようか。でも植え替えをすると今年の冬は咲かないし。まあ春になったら悩みましょう。
2026年01月08日
イメージと違いつまらなかった青海波 その2
文様の青海波のネーミングともなった舞楽の青海波。平安時代によく舞われていたようだが、その名声を一気に高めたのは源氏物語。第7帖の紅葉賀(もみじのが)で光源氏が舞う姿を紫式部はこう綴っている。(以下はかなり意訳で順番もオリジナルとは違う)
「冒頭で節を付けて読み上げた漢詩は極楽浄土の鳥の声のように聞こえた。それがあまりに感動的で帝は涙を拭い、周りにいた貴族たちも皆涙を流した」
「それが終わると音楽が一斉に鳴り響き、ただでさえ美しい源氏の君がより輝いて見える」
「髪飾りに仕立てたモミジも、光源氏の美しさに圧倒されて散ってしまったので菊に差し替えられた。その菊さえ光源氏の素晴らしい舞に色を変えた」
「少し雨が降ってきて、それは天にいる神までが感動の涙を流しているかのようであった」
「クライマックスに差し掛かると、光源氏の足運びや表情などはこの世のものとも思われないほどだった」
「特に最後のアンコールは息を呑む出来映えで寒気を感じるほどゾクゾクした」
「舞を理解していない下働きの人々も、こっそり木や岩に隠れて光源氏を見つめ、また涙を流す者さえもいた」
「あまりに神々しく美しい舞だったゆえに、帝は光源氏が神隠しにあうのではないかと心配になり、寺々に命じて魔除けの念仏を唱えさせたくらいであった」
ーーーなどなど。
ここぞとばかりに青海波の素晴らしさが強調される。もっともこのとき、帝の妃の1人である藤壺が妊娠しており、それが不義密通した光源氏の子であって、なのに帝と藤壺が臨席している前で舞うというスリリングな場面ではある。
それはさておき、この青海波の舞は光源氏の青春の輝きを代表する出来事として描かれ(このときの光源氏は数えで18歳)、その後も多くの場面で回想・言及されるほどのハイライトシーン。
源氏物語を通読したことは何度かあるが(もちろん現代語訳で)、それとは別に解説などで、この青海波の美しさに触れた文章を読み、あるいは映画かアニメかで見たのか、いつしか私の頭の中で青海波=「この世のものとは思えない美しい舞」のイメージが固まっていた。モーソー的には天女が舞っているような姿。
その青海波が元旦早朝にNHKで放送されていたので録画しておいた。正月から「この世のものとは思えない美しい舞」の映像でトリップしようと思って。
見た。
見たけどーーー
想像とはまったく違った(>_<)
まっ、こんな感じ(画像はテレビ画面より)
画像で舞っている映像を想像するのは難しいだろうが、実は映像で見ても画像とあまり変わらない。それほど緩く単調な動きが繰り返されるだけ。これなら私でも半日練習すれば演じられそうなレベル。豪華なコスチュームに身を包んでいるからなんとか様になっているものの、もしこれがジャージ姿なら幼稚園のお遊戯のほうが見応えがある。
最初はこれはイントロで、これから盛り上がっていくはずと期待していたのに、ずっとこの調子で15分ほどで終了。青海波って短かったのね。
そして長年にわたって妄想を膨らませてきた「この世のものとは思えない美しい舞」との思いは、あっさり裏切られ木っ端みじんに吹き飛んだのである(/o\)
ところで青海波を「源氏物語にも登場する美しい舞」と書いている人は多い。
お前ら、青海波を見たことないヤロ!
もっとも紫式部は光源氏が舞う青海波が素晴らしいと書いただけで、青海波そのものを褒め称えているわけではない。「一緒に舞う相方の左大臣家の頭中将も容姿端麗で舞の技量も人並み以上とはいえ、光源氏と較べては山奥の木のようだ」とも表現している。山奥の木とは「美しい花と雑草」のような比喩。
つまり舞い手しだい。
それでもいくら光源氏が絶世のイケメンで超人的な舞の名手であったとしても、腕を広げたり閉じたり、足を前に出したり戻したりーーー程度の動きしかない青海波で、息を呑む神々しい舞になったとはどうしても思えない。
ひょっとして紫式部も青海波を見たことないんチャウカ?(^^ゞ
源氏物語はフィクションだけれど当時の社会に与えた影響は絶大で、この後に青海波はますます演じられるようになる。紅葉賀での青海波は、帝が上皇の50歳を祝う行事として催したとの設定。それを意識したのか1176年に後白河法皇の同じく50歳の祝賀会でも青海波が舞われる。
舞ったのは平維盛(これもり)。年齢も同じ18歳。清盛の孫である彼もまた光源氏の再来と称されたイケメンだったらしい。この史実は後に平家物語に収録されている。とはいっても青海波で人々が真っ先に連想するのは源氏物語。日本で一番高い山を富士山と知っていても二番目は知らないのと同じ。ちなみにGoogleでの次の単語での検索ヒット数は
「源氏物語 青海波」 2万8600件
「平家物語 青海波」 6510件
と大差がつく。
ひょっとしたら源氏物語で取り上げられなければ、青海波は今日まで伝わらなかったかも知れない。現在に伝承されている雅楽(舞を伴う舞楽を含む音楽全体)は400曲程度。これは平安時代のレパートリーの1/3程度との研究もある。
それはさておき、
何事も経験がモットーであるけれど今回はそれが裏目に。
青海波の実演なんて見なきゃよかったと後悔。
でも幻想が砕けたおかげで源氏物語の影響力を再認識できたからよしとするか。
おしまい
「冒頭で節を付けて読み上げた漢詩は極楽浄土の鳥の声のように聞こえた。それがあまりに感動的で帝は涙を拭い、周りにいた貴族たちも皆涙を流した」
「それが終わると音楽が一斉に鳴り響き、ただでさえ美しい源氏の君がより輝いて見える」
「髪飾りに仕立てたモミジも、光源氏の美しさに圧倒されて散ってしまったので菊に差し替えられた。その菊さえ光源氏の素晴らしい舞に色を変えた」
「少し雨が降ってきて、それは天にいる神までが感動の涙を流しているかのようであった」
「クライマックスに差し掛かると、光源氏の足運びや表情などはこの世のものとも思われないほどだった」
「特に最後のアンコールは息を呑む出来映えで寒気を感じるほどゾクゾクした」
「舞を理解していない下働きの人々も、こっそり木や岩に隠れて光源氏を見つめ、また涙を流す者さえもいた」
「あまりに神々しく美しい舞だったゆえに、帝は光源氏が神隠しにあうのではないかと心配になり、寺々に命じて魔除けの念仏を唱えさせたくらいであった」
ーーーなどなど。
ここぞとばかりに青海波の素晴らしさが強調される。もっともこのとき、帝の妃の1人である藤壺が妊娠しており、それが不義密通した光源氏の子であって、なのに帝と藤壺が臨席している前で舞うというスリリングな場面ではある。
それはさておき、この青海波の舞は光源氏の青春の輝きを代表する出来事として描かれ(このときの光源氏は数えで18歳)、その後も多くの場面で回想・言及されるほどのハイライトシーン。
源氏物語を通読したことは何度かあるが(もちろん現代語訳で)、それとは別に解説などで、この青海波の美しさに触れた文章を読み、あるいは映画かアニメかで見たのか、いつしか私の頭の中で青海波=「この世のものとは思えない美しい舞」のイメージが固まっていた。モーソー的には天女が舞っているような姿。
その青海波が元旦早朝にNHKで放送されていたので録画しておいた。正月から「この世のものとは思えない美しい舞」の映像でトリップしようと思って。
見た。
見たけどーーー
想像とはまったく違った(>_<)
まっ、こんな感じ(画像はテレビ画面より)
画像で舞っている映像を想像するのは難しいだろうが、実は映像で見ても画像とあまり変わらない。それほど緩く単調な動きが繰り返されるだけ。これなら私でも半日練習すれば演じられそうなレベル。豪華なコスチュームに身を包んでいるからなんとか様になっているものの、もしこれがジャージ姿なら幼稚園のお遊戯のほうが見応えがある。
最初はこれはイントロで、これから盛り上がっていくはずと期待していたのに、ずっとこの調子で15分ほどで終了。青海波って短かったのね。
そして長年にわたって妄想を膨らませてきた「この世のものとは思えない美しい舞」との思いは、あっさり裏切られ木っ端みじんに吹き飛んだのである(/o\)
ところで青海波を「源氏物語にも登場する美しい舞」と書いている人は多い。
お前ら、青海波を見たことないヤロ!
もっとも紫式部は光源氏が舞う青海波が素晴らしいと書いただけで、青海波そのものを褒め称えているわけではない。「一緒に舞う相方の左大臣家の頭中将も容姿端麗で舞の技量も人並み以上とはいえ、光源氏と較べては山奥の木のようだ」とも表現している。山奥の木とは「美しい花と雑草」のような比喩。
つまり舞い手しだい。
それでもいくら光源氏が絶世のイケメンで超人的な舞の名手であったとしても、腕を広げたり閉じたり、足を前に出したり戻したりーーー程度の動きしかない青海波で、息を呑む神々しい舞になったとはどうしても思えない。
ひょっとして紫式部も青海波を見たことないんチャウカ?(^^ゞ
源氏物語はフィクションだけれど当時の社会に与えた影響は絶大で、この後に青海波はますます演じられるようになる。紅葉賀での青海波は、帝が上皇の50歳を祝う行事として催したとの設定。それを意識したのか1176年に後白河法皇の同じく50歳の祝賀会でも青海波が舞われる。
舞ったのは平維盛(これもり)。年齢も同じ18歳。清盛の孫である彼もまた光源氏の再来と称されたイケメンだったらしい。この史実は後に平家物語に収録されている。とはいっても青海波で人々が真っ先に連想するのは源氏物語。日本で一番高い山を富士山と知っていても二番目は知らないのと同じ。ちなみにGoogleでの次の単語での検索ヒット数は
「源氏物語 青海波」 2万8600件
「平家物語 青海波」 6510件
と大差がつく。
ひょっとしたら源氏物語で取り上げられなければ、青海波は今日まで伝わらなかったかも知れない。現在に伝承されている雅楽(舞を伴う舞楽を含む音楽全体)は400曲程度。これは平安時代のレパートリーの1/3程度との研究もある。
それはさておき、
何事も経験がモットーであるけれど今回はそれが裏目に。
青海波の実演なんて見なきゃよかったと後悔。
でも幻想が砕けたおかげで源氏物語の影響力を再認識できたからよしとするか。
おしまい
2026年01月05日
イメージと違いつまらなかった青海波
青海波(せいがいは)とは、
古典的な幾何学文様の一種でありまた舞楽の演目のひとつ。
文様の青海波はその名前を知らなくても、
誰もが目にしたことがあるはず。
穏やかな「春の海ひねもすのたりのたりかな」のイメージだろうか。
あるいは水面に光が反射している様子にも思える。
もっとも青海波のネーミングがなければウロコを連想したかも知れない(^^ゞ
青海波は日本の伝統文様のように扱われるものの、その発祥は古代のササン朝ペルシャ(226年〜651年)。それがシルクロードを経て古墳時代の終わり頃に日本に伝来。古墳時代は250年あたりから600年代だからほぼ同時期に伝わったことになる。
当時の日本人はこのペルシャの最新モードが気に入ったらしく、この「盛装女子」と何となく今っぽい名前が付けられた埴輪にも青海波の文様が見られる。
現在でも着物など和風系を中心に青海波のデザインは使われている。
画像はhttps://x.gd/U4idT、https://x.gd/MC30f、https://x.gd/y2Ngr、https://x.gd/cDJbM、https://x.gd/dYjbG、https://x.gd/7G3jR、https://x.gd/iplzV、https://x.gd/nuVpr、https://x.gd/pVyD9(短縮URL使用))から引用編集
また青海波には、波のように見える同心円を扇状に重ねた連続模様以外にも様々なバリエーションがある。
花青海波:青海波の形を菊や梅などの花にアレンジ。
破れ青海波:波の一部が途切れていたり、欠けているデザイン。
松竹梅青海波:松、竹、梅といった縁起の良い植物と組み合わせ。
牡丹青海波:紅葉と牡丹の組み合わせ。
紅葉青海波:紅葉と青海波の組み合わせ。
画像中央上段の帯は菊にアレンジした花青海波だけれど、多少の知識がないとこれが青海波とは思えないね。まあ菊にも見えないが。 帯の画像はhttps://x.gd/J9YSn、茶碗はhttps://x.gd/GZWqp(短縮URL使用)から引用
青海波は縁起のよい吉祥文様とされている。円を扇状に重ねている=扇=末広がりがその理由で、またたくさんの扇形が連続している=未来永劫や子孫繁栄との解釈もある。そうすると破れ青海波は縁起が悪くなってしまうけど。
また青海波のネーミングによって波や海をイメージするが、意外にも水に関する文様として扱われるのは鎌倉時代以降らしい。
その青海波のネーミングは舞楽のタイトルである青海波から取られている。舞楽の青海波は平安時代に始まり、寄せる波・引く波を表現する舞で、装束には波模様と千鳥を配するしきたりになっていた。その波つながりでこの文様が青海波と呼ばれるようになったようだ。
ただし現在の装束は青海波文様が使われているものの、
平安時代の装束の波模様が青海波文様だったかどうかは不明。
青海波文様がいつ頃から青海波と呼ばれるようになったかも不明。
ではある。
例によって前書きが長くなった(^^ゞ
青海波には文様と舞楽があって本題は舞楽についてである。
ーーー続く
古典的な幾何学文様の一種でありまた舞楽の演目のひとつ。
文様の青海波はその名前を知らなくても、
誰もが目にしたことがあるはず。
穏やかな「春の海ひねもすのたりのたりかな」のイメージだろうか。
あるいは水面に光が反射している様子にも思える。
もっとも青海波のネーミングがなければウロコを連想したかも知れない(^^ゞ
青海波は日本の伝統文様のように扱われるものの、その発祥は古代のササン朝ペルシャ(226年〜651年)。それがシルクロードを経て古墳時代の終わり頃に日本に伝来。古墳時代は250年あたりから600年代だからほぼ同時期に伝わったことになる。
当時の日本人はこのペルシャの最新モードが気に入ったらしく、この「盛装女子」と何となく今っぽい名前が付けられた埴輪にも青海波の文様が見られる。
現在でも着物など和風系を中心に青海波のデザインは使われている。
画像はhttps://x.gd/U4idT、https://x.gd/MC30f、https://x.gd/y2Ngr、https://x.gd/cDJbM、https://x.gd/dYjbG、https://x.gd/7G3jR、https://x.gd/iplzV、https://x.gd/nuVpr、https://x.gd/pVyD9(短縮URL使用))から引用編集
また青海波には、波のように見える同心円を扇状に重ねた連続模様以外にも様々なバリエーションがある。
花青海波:青海波の形を菊や梅などの花にアレンジ。
破れ青海波:波の一部が途切れていたり、欠けているデザイン。
松竹梅青海波:松、竹、梅といった縁起の良い植物と組み合わせ。
牡丹青海波:紅葉と牡丹の組み合わせ。
紅葉青海波:紅葉と青海波の組み合わせ。
画像中央上段の帯は菊にアレンジした花青海波だけれど、多少の知識がないとこれが青海波とは思えないね。まあ菊にも見えないが。 帯の画像はhttps://x.gd/J9YSn、茶碗はhttps://x.gd/GZWqp(短縮URL使用)から引用
青海波は縁起のよい吉祥文様とされている。円を扇状に重ねている=扇=末広がりがその理由で、またたくさんの扇形が連続している=未来永劫や子孫繁栄との解釈もある。そうすると破れ青海波は縁起が悪くなってしまうけど。
また青海波のネーミングによって波や海をイメージするが、意外にも水に関する文様として扱われるのは鎌倉時代以降らしい。
その青海波のネーミングは舞楽のタイトルである青海波から取られている。舞楽の青海波は平安時代に始まり、寄せる波・引く波を表現する舞で、装束には波模様と千鳥を配するしきたりになっていた。その波つながりでこの文様が青海波と呼ばれるようになったようだ。
ただし現在の装束は青海波文様が使われているものの、
平安時代の装束の波模様が青海波文様だったかどうかは不明。
青海波文様がいつ頃から青海波と呼ばれるようになったかも不明。
ではある。
例によって前書きが長くなった(^^ゞ
青海波には文様と舞楽があって本題は舞楽についてである。
ーーー続く
2026年01月03日
目黒不動で除夜の鐘&初詣
初詣より除夜の鐘のほうが面白いかなと、2022年の大晦日に自宅近くの円融寺で「ナマ除夜の鐘」を初体験。今までテレビで見ていた大寺院のそれと較べると、鐘のサイズが小さいので音色もゴーンよりはカーンに近い。それでもその風情が気に入ったのか、あるいは煩悩多き身を仏が導いたのか翌2023年も自宅から少し離れた祐天寺へ。
ところが円融寺は開始時刻が午後10時だったのに祐天寺は午後11時45分。当然108回を突き終わるのは日付をまたいで元旦になってしまう。それまで除夜の鐘とは大晦日に鐘を突いて、それにより煩悩を落として正月を迎えるものだと思っていた。しかし
深夜0時を挟む時間帯に突く
107回は12月31日に、残り1回を1月1日に突く
1月1日になった午前0時から突き始める
など多くは大晦日から元旦に掛けて行う行事だと知る。
それなら除夜の鐘を聞いて、日付が変わったらそのまま初詣ができて一石二鳥。ただし祐天寺には「元朝(がんちょう)祈願」といって、新年を迎えた午前0時から参拝する習わしがあり、それが境内の外にまで延びる長蛇の列でお参りは諦めたが。
歩いて片道30分以内で除夜の鐘を突いているお寺が円融寺と祐天寺しかなかく、同じ寺に行くのも芸がないので2024年は除夜の鐘を聞きに出かけなかった。1万歩以上を週に3回散歩するのをノルマにしており、体力的にはもっと遠くの寺でもまったく平気なのだが、それは昼間の話で真冬の深夜にそれはちょっとツライ。
しかし昨年の秋頃に目黒不動でも除夜の鐘を突いていると知る。目黒不動は祐天寺とほぼ同じ距離。2022年に近所のお寺を調べた際に見落としていたようだ。また目黒不動には本堂以外にもお参りするところがたくさんあり、本堂が混雑していても祐天寺のように初詣をし損なう心配もない。
大晦日午後11時25分に自宅を出発。iPhoneのカメラがナイトモードになっているのでずいぶんと明るく写っている。実際の空はもちろん真っ黒である。
目黒不動は散歩のときによく前を通っている。
最短ルートで行くにはこんな路地もすり抜け。
住宅地の細い道を歩き、
カーブミラーの先に目黒不動の裏口がある。
ここまで来ると鐘の音が聞こえだした。
裏口に到着。
どうして裏口かというと、目黒不動は傾斜地に建っており敷地は上部と下部に分かれている。そして本堂や鐘楼(しょうろう)は上部敷地にあり、この裏口もそこに通じている。下部敷地にある正面の仁王門からだと階段を上がってこなければならない。
裏口をくぐるとすぐ本堂の裏手。
そして本堂の後ろに鎮座しているのが大日如来。
仏にもヒエラルキーがあって如来→菩薩→明王→天部の順番。目黒不動の本尊はもちろんその名の通り不動明王で本堂に祀られている。なのに仏のランク最高位の大日如来は寒風吹きすさぶ屋外。格差社会の仏界での下克上?(^^ゞ
傾斜地ゆえに急勾配な階段を降りる。
本堂の表側に出てビックリ。
午前零時よりの初詣待ちの列がズラーッと。
只今の時刻は11時53分。
本堂の下から。
先頭の人は何時から並んで待っているのだろう。
目黒不動は寺なのに鳥居がある。これは古代に神道と仏教がクロスオーバーした神仏習合思想の名残。さらにここは天台宗なので、天台宗総本山の比叡山延暦寺の守り神が日吉大社(滋賀県大津市)であるのも関係している。上部が三角形になっているのは山王鳥居と呼ばれ日吉神社と日枝神社(両者は同じ系統)に独特のスタイル。
本堂に上ってくる階段。安全のため階段途中では立ち止まれないようになっていて、階段の下に人がたくさん並んでいる。日付が変わった直後の初詣は人気があるんだね。
鐘楼は本堂の並びにある。
普段は立ち入り禁止のエリアだったように思う。
お堂形式になっており鐘やそれを突いている姿はほとんど見えない。お堂の下部が下に広がっているのは袴腰(はかまごし)と呼び格式が高い様式らしい。
並んでいるのは事前に申し込んで鐘を突く順番を待っている人。
円融寺と祐天寺は無料なのに目黒不動は1名につき3000円。
しかも事前振込制でキャンセルでも返金なし(>_<)
鐘楼(しょうろう)の正面。
鐘は2階にあって入り口奥に階段が見える。
鐘の音はやはりゴーンよりカーンの高音寄り。円融寺で初めてナマ除夜の鐘を聞いたときはそれがとても気になったものの、もう慣れたのか特に違和感なし。それにしても壁のほとんどは網目になっているとはいえ、一般的な壁のない鐘楼と較べたら内部は相当に大音響じゃないかな。
それとやはり鐘を突いている姿を見られないのはツマラナイ。円融寺と祐天寺も鐘突きを見物している人がいたが、ここでは見かけなかった。
何発か鐘の音を聞いた後に新年のカウントダウンが始まった。
これはその直後の本堂の様子。
お参りできるのは午前2時まで。
12月31日=大晦日=除夜なんだけれど、除夜を「除夜の鐘」以外で使われているのを見たのは初めてかも知れない。
子供の頃、賢くなると言われて煙を必死で頭になすりつけたやつ。
効果なかった(^^ゞ
深夜に絶賛営業中。
本堂は長蛇の列なのでお参りは諦めて大日如来で初詣。
なんたってこちらのほうが仏としての位は高いし。
この大日如来像は江戸時代初期の1683年に作られた銅製の仏像。
そんなに古いものには見えないね。
座っている蓮華部分も含めて高さ3.85m。
ちょっとあおり気味で。
実際はもっと暗く屋根の上の木々の部分が宇宙の星雲のように思えた。
賽銭箱は金属製だった。賽銭箱の上部にはスリットがあるが、それが2段か3段に重なっているのか、お賽銭を投げ入れるとカラカラカラーンととても澄んだ音が長く響く。その音で心が洗われた気分になり気持ちよく初詣のお参り。こいつは春から縁起がいい?
ところが円融寺は開始時刻が午後10時だったのに祐天寺は午後11時45分。当然108回を突き終わるのは日付をまたいで元旦になってしまう。それまで除夜の鐘とは大晦日に鐘を突いて、それにより煩悩を落として正月を迎えるものだと思っていた。しかし
深夜0時を挟む時間帯に突く
107回は12月31日に、残り1回を1月1日に突く
1月1日になった午前0時から突き始める
など多くは大晦日から元旦に掛けて行う行事だと知る。
それなら除夜の鐘を聞いて、日付が変わったらそのまま初詣ができて一石二鳥。ただし祐天寺には「元朝(がんちょう)祈願」といって、新年を迎えた午前0時から参拝する習わしがあり、それが境内の外にまで延びる長蛇の列でお参りは諦めたが。
歩いて片道30分以内で除夜の鐘を突いているお寺が円融寺と祐天寺しかなかく、同じ寺に行くのも芸がないので2024年は除夜の鐘を聞きに出かけなかった。1万歩以上を週に3回散歩するのをノルマにしており、体力的にはもっと遠くの寺でもまったく平気なのだが、それは昼間の話で真冬の深夜にそれはちょっとツライ。
しかし昨年の秋頃に目黒不動でも除夜の鐘を突いていると知る。目黒不動は祐天寺とほぼ同じ距離。2022年に近所のお寺を調べた際に見落としていたようだ。また目黒不動には本堂以外にもお参りするところがたくさんあり、本堂が混雑していても祐天寺のように初詣をし損なう心配もない。
大晦日午後11時25分に自宅を出発。iPhoneのカメラがナイトモードになっているのでずいぶんと明るく写っている。実際の空はもちろん真っ黒である。
目黒不動は散歩のときによく前を通っている。
最短ルートで行くにはこんな路地もすり抜け。
住宅地の細い道を歩き、
カーブミラーの先に目黒不動の裏口がある。
ここまで来ると鐘の音が聞こえだした。
裏口に到着。
どうして裏口かというと、目黒不動は傾斜地に建っており敷地は上部と下部に分かれている。そして本堂や鐘楼(しょうろう)は上部敷地にあり、この裏口もそこに通じている。下部敷地にある正面の仁王門からだと階段を上がってこなければならない。
裏口をくぐるとすぐ本堂の裏手。
そして本堂の後ろに鎮座しているのが大日如来。
仏にもヒエラルキーがあって如来→菩薩→明王→天部の順番。目黒不動の本尊はもちろんその名の通り不動明王で本堂に祀られている。なのに仏のランク最高位の大日如来は寒風吹きすさぶ屋外。格差社会の仏界での下克上?(^^ゞ
傾斜地ゆえに急勾配な階段を降りる。
本堂の表側に出てビックリ。
午前零時よりの初詣待ちの列がズラーッと。
只今の時刻は11時53分。
本堂の下から。
先頭の人は何時から並んで待っているのだろう。
目黒不動は寺なのに鳥居がある。これは古代に神道と仏教がクロスオーバーした神仏習合思想の名残。さらにここは天台宗なので、天台宗総本山の比叡山延暦寺の守り神が日吉大社(滋賀県大津市)であるのも関係している。上部が三角形になっているのは山王鳥居と呼ばれ日吉神社と日枝神社(両者は同じ系統)に独特のスタイル。
本堂に上ってくる階段。安全のため階段途中では立ち止まれないようになっていて、階段の下に人がたくさん並んでいる。日付が変わった直後の初詣は人気があるんだね。
鐘楼は本堂の並びにある。
普段は立ち入り禁止のエリアだったように思う。
お堂形式になっており鐘やそれを突いている姿はほとんど見えない。お堂の下部が下に広がっているのは袴腰(はかまごし)と呼び格式が高い様式らしい。
並んでいるのは事前に申し込んで鐘を突く順番を待っている人。
円融寺と祐天寺は無料なのに目黒不動は1名につき3000円。
しかも事前振込制でキャンセルでも返金なし(>_<)
鐘楼(しょうろう)の正面。
鐘は2階にあって入り口奥に階段が見える。
鐘の音はやはりゴーンよりカーンの高音寄り。円融寺で初めてナマ除夜の鐘を聞いたときはそれがとても気になったものの、もう慣れたのか特に違和感なし。それにしても壁のほとんどは網目になっているとはいえ、一般的な壁のない鐘楼と較べたら内部は相当に大音響じゃないかな。
それとやはり鐘を突いている姿を見られないのはツマラナイ。円融寺と祐天寺も鐘突きを見物している人がいたが、ここでは見かけなかった。
何発か鐘の音を聞いた後に新年のカウントダウンが始まった。
これはその直後の本堂の様子。
お参りできるのは午前2時まで。
12月31日=大晦日=除夜なんだけれど、除夜を「除夜の鐘」以外で使われているのを見たのは初めてかも知れない。
子供の頃、賢くなると言われて煙を必死で頭になすりつけたやつ。
効果なかった(^^ゞ
深夜に絶賛営業中。
本堂は長蛇の列なのでお参りは諦めて大日如来で初詣。
なんたってこちらのほうが仏としての位は高いし。
この大日如来像は江戸時代初期の1683年に作られた銅製の仏像。
そんなに古いものには見えないね。
座っている蓮華部分も含めて高さ3.85m。
ちょっとあおり気味で。
実際はもっと暗く屋根の上の木々の部分が宇宙の星雲のように思えた。
賽銭箱は金属製だった。賽銭箱の上部にはスリットがあるが、それが2段か3段に重なっているのか、お賽銭を投げ入れるとカラカラカラーンととても澄んだ音が長く響く。その音で心が洗われた気分になり気持ちよく初詣のお参り。こいつは春から縁起がいい?
2026年01月01日
今年で何年目?
めでたく年が明けて2026年。
2000年代になってから1/4世紀が過ぎて、
令和も8年となり年月の流れるのは早いものである。
昨年は昭和100年の年であったが、
それと同じように今年で何年になるかを計算してみると
1989年から始まり30年間続いた平成は38年。
1926年から始まり64年間続いた昭和は101年。
1912年から始まり15年間続いた大正は115年。
1868年から始まり45年間続いた明治は159年。
平成で38年か。
平成の初期に生まれた人はもう中年なんだね(/o\)
逆の計算をすると
昭和最後の64年(1989年)に生まれた人は今年で37歳
大正最後の15年(1926年)に生まれた人は今年で100歳
明治最後の45年(1912年)に生まれた人は今年で114歳
昨年8月時点で男性の最高齢者は111歳なので、既に明治生まれは存命していない。女性の最高齢者は明治43年生まれで今年で116歳になる。明治44年〜45年生まれがどれくらいいるのかはわからなかったものの、もうすぐ明治生まれの人がいなくなると思うと少し寂しい。
なお先ほど書いたように今年は平成38年にあたるが、平成元年(または昭和最終年)生まれの人は今年の誕生日で37歳になる。これが日数計算のややこしいところ。
ある年はある年の何年前かは単純に引き算すればいい。2025年は2026−2025=1で2026年の1年前である。これが2026年は2025年から数えて何年目かだと2026−2025+1=2年目となる。さらに今年に会社を起こしたら設立1年目で、今年に生まれた子供は0歳と数える。だから昨年にできた会社は今年で設立2年目になり、昨年に生まれた子供は今年に1歳である。
日数や年数の計算をするときに、いつもこのあたりを混同しかけてちょっとイラッとする。ちなみにもっとイラッとするのは年数と世紀の数字が一致しないこと。つまり645年の大化の改新は7世紀であり、1467年に始まった応仁の乱は15世紀。年数と世紀が混在して記載されている歴史の解説を読むと「どちらかに統一して書け!」と言いたくなる。
これはもちろん西暦の1年〜100年を1世紀、101年〜200年を2世紀と数えるから。最初を0世紀としたら年数と一致したのに。また世紀とは100年単位で区切るの数え方。しかし1年〜100年、101年〜200年ではなく、99年単位の1〜99年、100年〜199年にして欲しかった。2000年になったとき「えっ、まだ20世紀? 21世紀は2001年から?」と感じた人は少なくないと思うゾ。1600年に起きた関ヶ原の戦いも16世紀。
さて続きを計算しますか。
以降も2026年−当該年数+1の「今年はあれから何年目」で計算している。
1603年に江戸時代が始まって今年は423年目
1598年に秀吉が没して今年は429年目
1582年に信長が没して今年は445年目
1336年に室町幕府が始まって今年で691年目
1192年に鎌倉幕府が始まって今年で835年目
794年に平安時代が始まって今年で1233年目
710年に奈良時代が始まって今年で1317年目
593年に飛鳥時代が始まって今年で1434年目
最近は鎌倉時代の始まりを1185年と学校で教えているのは知っている。イイクニツクロウの1192年は征夷大将軍に任命された年。それより前の1185年に壇ノ浦で平家が滅亡し、同時に頼朝が諸国に守護・地頭を設置する権限を朝廷から得て、実質的に統治機能を握ったとするのがイイハコの1185年説。
その理屈はわかるのだけれど、室町幕府と江戸幕府も征夷大将軍任命基準だし。逆に家康が任命されたのは1603年でも大坂冬の陣で豊臣が滅亡したのは1615年と12年も後。どうして鎌倉時代だけ実質本位で考えるのかよくわからない。まあイイクニツクロウの語呂合わせが気に入っているからそう思うのかも知れないが。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
さて今年が各時代から何年目かなんて、ちょっと思いついて計算してみただけで「だからどうした」な話である。今年もそんなポリシーでブログを書いていくので(^^ゞ ヒマがあったらのぞいてみてください。
謹賀新年 元旦














































































































