2026年04月
2026年04月29日
皇居東御苑でツツジと新緑 その3
天守台の前は芝生広場。
かつてはここに本丸御殿と呼ばれた江戸城の中枢をなす約130棟の建物が建ち並んでいた。ここを歩くとき自分が家康や家光と同じ場所にいると思うとテンションが上がるね。
皇居東御苑のパンフレットによると正式名称は本丸大芝生。
それには
本丸大芝生の面積は13万平米(13ヘクタール)で、
ここに建っていた本丸御殿の面積が3万3000平米と書かれている。
建ぺい率を計算すれば 3.3万 ÷ 13万=25%。
しかしこれが本丸御殿の図面。制作は家光天守も焼け落ちた明暦の大火(1657年)の後、1659年に本丸御殿を再建した当時。
どう見ても建ぺい率は25%ではなく70%以上はある。
どうしてこんな矛盾が生じるのか?
結論を書くと間違っているのはパンフレットに書かれた本丸大芝生の面積。
皇居東御苑は江戸城の本丸と二の丸と三の丸だったところで総面積は21ヘクタール。そしてこの図を見てわかるように本丸地区がその半分以上を占めている。つまり13ヘクタールというのは本丸大芝生ではなく本丸全体の面積。考えてみれば13ヘクタールは東京ドームの2つ半以上。この芝生がそんなに広いはずもない。画像はhttps://x.gd/Tqz09(短縮URL使用)から引用
しかしパンフレットの表現では芝生面積=13万平米としか読めない。どうしてこんなミスをするかな。こういうところにこの国のレベル低下がにじみ出ているようにも思う。とりあえず誰か宮内庁に説教してきて。
結局のところ本丸大芝生の正確な面積はわからなかった。ネットの情報はいつも指摘するようにコピペのループなので13ヘクタールとしているのものも多い。
Googleマップで計測すると2ヘクタールほど。でもそれだと本丸御殿の建築面積3万3000平米(3.3ヘクタール)より小さくなってしまう。しかし松の大廊下跡も芝生広場の外にあるので、本丸御殿の敷地は芝生広場よりもっと広い範囲だったのだろう。だとすればパンフレットの本丸大芝生に本丸御殿が建っていたとの記述も間違っていることになる。
さて芝生広場をローアングルで。
でもでもやはり今の季節は新緑に目が行く。
この新緑の密集感にクラクラするゼ。
芝生広場中程から天守台を振り返って。
2ヘクタールとはいえ芝生広場は充分に広く、天守台のそばにいてもあまり大きいと感じない。しかしもし江戸城の天守が現存していれば国内最大。図は姫路城との比較。
もっとも姫路城は大天守と小さな天守3つが連なる建物なので、見た目の体積感では江戸城の天守より存在感はあるかも知れない。画像はhttps://travel.rakuten.co.jp/mytrip/howto/worldheritage-kinkiより引用
これはAIが描いた江戸城天守の想像図。
芝生広場の脇に出て、
まだ残っていた八重系のサクラ。(この日は4月19日)
これはヤマブキ(たぶん)。
芝生広場を南に下がったところで天守台方向。本丸御殿で幕府の政治が、その大奥では権謀術数が繰り広げられ、背後に巨大な天守が睨みをきかしていた時期もあった。江戸時代が終わって159年。今は実にピースフルな光景が広がりツワモノどもが夢の跡。
ーーー続く
かつてはここに本丸御殿と呼ばれた江戸城の中枢をなす約130棟の建物が建ち並んでいた。ここを歩くとき自分が家康や家光と同じ場所にいると思うとテンションが上がるね。
皇居東御苑のパンフレットによると正式名称は本丸大芝生。
それには
本丸大芝生の面積は13万平米(13ヘクタール)で、
ここに建っていた本丸御殿の面積が3万3000平米と書かれている。
建ぺい率を計算すれば 3.3万 ÷ 13万=25%。
しかしこれが本丸御殿の図面。制作は家光天守も焼け落ちた明暦の大火(1657年)の後、1659年に本丸御殿を再建した当時。
どう見ても建ぺい率は25%ではなく70%以上はある。
どうしてこんな矛盾が生じるのか?
結論を書くと間違っているのはパンフレットに書かれた本丸大芝生の面積。
皇居東御苑は江戸城の本丸と二の丸と三の丸だったところで総面積は21ヘクタール。そしてこの図を見てわかるように本丸地区がその半分以上を占めている。つまり13ヘクタールというのは本丸大芝生ではなく本丸全体の面積。考えてみれば13ヘクタールは東京ドームの2つ半以上。この芝生がそんなに広いはずもない。画像はhttps://x.gd/Tqz09(短縮URL使用)から引用
しかしパンフレットの表現では芝生面積=13万平米としか読めない。どうしてこんなミスをするかな。こういうところにこの国のレベル低下がにじみ出ているようにも思う。とりあえず誰か宮内庁に説教してきて。
結局のところ本丸大芝生の正確な面積はわからなかった。ネットの情報はいつも指摘するようにコピペのループなので13ヘクタールとしているのものも多い。
Googleマップで計測すると2ヘクタールほど。でもそれだと本丸御殿の建築面積3万3000平米(3.3ヘクタール)より小さくなってしまう。しかし松の大廊下跡も芝生広場の外にあるので、本丸御殿の敷地は芝生広場よりもっと広い範囲だったのだろう。だとすればパンフレットの本丸大芝生に本丸御殿が建っていたとの記述も間違っていることになる。
さて芝生広場をローアングルで。
でもでもやはり今の季節は新緑に目が行く。
この新緑の密集感にクラクラするゼ。
芝生広場中程から天守台を振り返って。
2ヘクタールとはいえ芝生広場は充分に広く、天守台のそばにいてもあまり大きいと感じない。しかしもし江戸城の天守が現存していれば国内最大。図は姫路城との比較。
もっとも姫路城は大天守と小さな天守3つが連なる建物なので、見た目の体積感では江戸城の天守より存在感はあるかも知れない。画像はhttps://travel.rakuten.co.jp/mytrip/howto/worldheritage-kinkiより引用
これはAIが描いた江戸城天守の想像図。
芝生広場の脇に出て、
まだ残っていた八重系のサクラ。(この日は4月19日)
これはヤマブキ(たぶん)。
芝生広場を南に下がったところで天守台方向。本丸御殿で幕府の政治が、その大奥では権謀術数が繰り広げられ、背後に巨大な天守が睨みをきかしていた時期もあった。江戸時代が終わって159年。今は実にピースフルな光景が広がりツワモノどもが夢の跡。
ーーー続く
2026年04月26日
皇居東御苑でツツジと新緑 その2
日本庭園をブラブラ。
正確には二の丸庭園。
いつもはまずマツに目が行くのに、この季節は新緑の引き立て役。
二の丸庭園の池は「二の丸池」と何のヒネリもない名前がついている。
この池で泳いでいるのがヒレナガニシキゴイ。
その名前の通り胸ビレや尾ビレなどすべてのヒレが普通の錦鯉と較べて約2倍の長さ。ひらひらと舞っているように泳ぎ、特にこの金色のヒレナガニシキゴイはとても優雅かつ神秘的に見える。
この鯉は皇室ゆかりの品種。そのいきさつは、
1962年 皇太子時代の上皇がインドネシアを訪問し、当地でヒレナガゴイを見る。
1977年 埼玉県の水産試験場を視察。
その際にインドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを掛け合わせて
新種ができないかと提案。
水産試験場は1980年より品種改良に着手し、1982年にヒレナガニシキゴイが誕生。
1991年 二の丸池に放流される。
上皇といえばハゼの研究をライフワークとしていて、今までに10種類もの新種を発見しているのは知る人ぞ知る話。それに加えて鯉の交配にまで関わっていたとは根っからのサカナクンだね。
ちなみにこのヒレナガニシキゴイは別に皇室専用ではなく、鯉を売っているペットショップで普通に買える。
参考までに写真で形の比較
普通のニシキゴイ → https://x.gd/AB1vs
インドネシアのヒレナガゴイ→ https://x.gd/8jCZk
交配種のヒレナガニシキゴイ→ https://x.gd/53zLx
金色以外→ https://x.gd/a9HLx
二の丸池の奥に回り込むと、
落差1メートルほどの小さな滝がある。
この水はどこから来ているのだろう?
それはさておき滝とくれば、
ハイスピードシャッターで静止している水しぶき写真!
もっともこちらに来たのは滝の写真を撮るためではなく、
滝が池に注いでいる場所にヒレナガニシキゴイがよく集まるのを知っていたから。
泡と遊んでいるのか、あるいは水中の酸素が豊富なのか。
しばらく待っていると狙い通りヒレナガニシキゴイがやって来たものの、止まってポーズをとってくれるわけじゃないので思ったような写真にならず。これじゃ普通のニシキゴイとほとんど見分けがつかない(/o\)
あまり咲いていなかった二の丸庭園ツツジゾーンを後にして、
次の目的地へ向かう。
このそこそこ急な勾配の坂は梅林坂。
そういえば皇居東御苑の梅はまだ見ていない。
まあ70本しかないし。
梅林坂に入らず、そのまま真っ直ぐ住むと平川門に向かう。
平川門から出入りした経験はないので、その方向に何があるのか興味があった。
上の写真の外国人オバチャンと同じポーズで私も案内マップをチェック。
特に何もないようだ。
それで引き返して梅林坂。
これは坂の途中で下を見たところ。
美しい新緑に目を奪われる。
梅林坂を上ったところにあるのは宮内庁の書陵部。
皇室関連の文書や資料と陵墓の管理をしている。
ちなみに陵墓(りょうぼ)とは
陵(りょう、または みささぎ): 天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓。
墓(はか): その他の皇族の墓。
もちろん古墳も含まれて仁徳天皇陵なんて呼び方をする。それにしても書類と墓なんて変わった組み合わせの部署である。
ついでに
陵に葬られる太皇太后(たい こうたいごう)とは現在では先々代の天皇の配偶者=正妻=皇后を意味する。皇太后(こうたいごう)は一世代下がって先代の天皇の配偶者=正妻=皇后。つまり現在の天皇から見て祖母または母。ただし子や孫にあたる天皇が即位したときに存命しているのがこの称号が与えられる条件。
例えば昭和天皇の配偶者である香淳(こうじゅん)皇后は平成の天皇時代の皇太后。ただし2000年に亡くなり令和は2019年に始まるので、令和においての太皇太后ではない。なお美智子上皇后は本来ならば皇太后なのだけれど、
まず生前に譲位した平成の天皇を通例の太上天皇(だいじょうてんのう)ではなく上皇とした。そして皇太后=天皇が亡くなった未亡人のニュアンスがあるのと、上皇の名称とのマッチングを踏まえて上皇后に決まったいきさつがある。
いずれにせよ太皇太后と皇太后はかつては皇后であったわけで、そして皇后は「陵」にはいるのだから墓としては区別はない。
ここからが少しややこしい。
側室がいた時代には先々代または先代の皇后でなくても、天皇の祖母にあたる女性は太皇太后で母は皇太后とされた。ただしいろいろと例外や死後の贈位もあり、このあたりの事情は複雑でよく理解していない。
参考までに現在までの人数は天皇が126人で重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び即位)を差し引くと124人なのに対して、
皇后 110人
皇太后 68人 うち皇后でなかった女性 25人
太皇太后 16人
(カウント方法には諸説あり)
太皇太后(祖母)が16人なのは昔は寿命が短かったせいかも知れないが、皇太后(母)が68人なのは意外で何か制度上の理由がありそうだ。
案外と知られていないが明治天皇と大正天皇は側室の子供である。というか歴代天皇の半数以上はそうで、過去400年に限れば正妻である皇后もしくは中宮から生まれた天皇は明正天皇(102代:江戸時代初期:女性天皇)、昭和天皇、上皇、今上天皇の4人のみ。
それで
明治天皇の側室であった柳原愛子は3人の子供を産み、そのひとりが後に大正天皇となる。彼女が亡くなったのは1943年で、子である大正天皇の即位(1912年)、孫の昭和天皇の即位(1926年)時には存命。なのに皇太后や太皇太后になっていない。
逆に明治天皇の昭憲皇后は子供を産んでいないのに昭憲皇太后となった。また明治天皇の先代になる孝明天皇の側室である九条夙子(あさこ)は、別の側室である中山慶子が産んだ後の明治天皇を養育したとの理由で、明治天皇が即位すると英照皇太后となる。しかし生みの母の中山慶子は皇太后になっていない。
なにかと複雑な皇室のしきたりである。
さらに大宝律令の古代より「太皇太后→皇太后→皇后」の序列だったものを、明治43年になって「皇后→太皇太后→皇太后」の順に改めた。かつ追号(死後に贈られる・確定する位みたいなもの)は生前の最高位と定めたので、大正天皇の皇后は昭和になって皇太后になり、亡くなって皇后に戻るというややこしいことになっている。この法律は昭和22年に廃止されたが、昭和天皇の皇后もそれに準じて平成に皇太后、亡くなってからは皇后である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
宮内庁書陵部を過ぎると見えてくるのが天守台跡。
皇居東御苑で人気のスポットだが、それは後回しにして、
その先にあるのが北桔橋門(きた はねばし もん)の出入り口。
どうして桔橋が「はねばし」と読めるのか不思議なものの、かつては江戸城防御のために「跳ね橋」が架けられていたのでその名前が残る。写っているのは東御苑から出て行く人。
そしてこの北桔橋門のすぐそばにあるのが、
東京で最高に美しいと思っているケヤキの新緑。
ドーン!どや!(是非拡大して閲覧を)
たまらんなあ。
なぜか異常に新緑好きである。私があちこちの花を見て回っているのを知っている人に「何が一番好きですか?」と尋ねられて「実は花より新緑」と答えて笑われている。新緑のこのキミドリ色を見ると気分爽快になるし、同時にとても生命力を感じる。この季節に新緑を眺めて向こう1年分のエネルギーを蓄えているといっても言い過ぎじゃない。また首を伸ばしてムシャムシャ葉っぱを食べたい衝動に駆られて、前世はきっとキリンだったに違いないと思っている(^^ゞ
新緑と石垣とマツと鳥。
天守台の石垣とツーショットで。
北桔橋門から入ってきた人が、ここを素通りして天守台に向かうのが信じられない。私なんかこのケヤキの周りを3周したのに。この新緑を眺めないなんて皇居東御苑の楽しみの9割を見逃しているようものだゾ。
そろそろ天守台に上りましょう。
上部の様子。
ここは天守台の前に広がる芝生広場、かつての江戸城本丸跡を眺めるためのもの。
ーーーなのであるが私の目的は北桔橋門前の新緑を目線の高さでもう一度見ることにある。
ここまで行くとヘンタイの域に達しているね。
これが天守台を使った正しい景色の眺め方。
城には防御のための監視塔である櫓(やぐら)があり、建築構造的にはそれが巨大化したのが天守。しかし最初の天守は1576年に信長が築いた安土城に造られ、つまり戦国時代も終わりかけで、防御施設というより城のステイタスを誇示する建物である。
江戸城の天守はまず家康が1608年に築く。なのに二代将軍秀忠は「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と家康天守を取り壊し新天守を1622年に建設。このときにもう少し南側(日比谷寄り)にあった天守を、大奥を拡大する目的もあって、現在の天守台の位置に変更している。これで終わりかと思いきや三代将軍家光も「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と秀忠天守を取り壊し新天守を1638年に建設。どんだけ負けず嫌いな親子関係。
ただしこの家光天守は1657年(四代家綱の時代)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火で焼失。従って江戸城の天守は、解体・建て替え工事期間を考慮しない単純な引き算で
家康天守 1608年〜1622年=15年間
秀忠天守 1622年〜1638年=16年間
家光天守 1638年〜1657年=20年間
1608年〜1657年のトータルで50年しか存在しない。参考までに江戸時代は1603年〜1867年の265年。
明暦の大火の翌年に天守の基礎となる現在に残る天守台がまず復旧された。しかし「江戸市中が焼け野原になって困っているのに天守を再建するのはイカガナモノカ」と見送られ、その後も「もう徳川の御威光は広く行き渡っているし、今さらステイタスシンボルの天守は必要ない、財政もキビシイ」と再建されなかった。
ところで10年ほど前から江戸城天守の再建を目指す人々が活動を行っているようである。彼らは天守をインバウンド観光の目玉にとかクールジャパンの文化と技術を世界に発信とか理屈を並べているものの、江戸幕府が不要とした江戸城天守を再建する意義があるとは思えない。
そんなことをするより安土城を再建してくれ!
あの天守にこそ歴史のロマンが詰まっている。
さて
天守台の石垣も眺めましょう。
材質は花崗岩(かこうがん)、石材としての名称は御影石(みかげいし)。
この焦げ跡のようなものは何?
しかもなぜに円形?
全体としてけっこう緻密に積み上げられているのに、
ところどころにこういう「現物合わせ」的な処理もされている。。
ーーー続く
正確には二の丸庭園。
いつもはまずマツに目が行くのに、この季節は新緑の引き立て役。
二の丸庭園の池は「二の丸池」と何のヒネリもない名前がついている。
この池で泳いでいるのがヒレナガニシキゴイ。
その名前の通り胸ビレや尾ビレなどすべてのヒレが普通の錦鯉と較べて約2倍の長さ。ひらひらと舞っているように泳ぎ、特にこの金色のヒレナガニシキゴイはとても優雅かつ神秘的に見える。
この鯉は皇室ゆかりの品種。そのいきさつは、
1962年 皇太子時代の上皇がインドネシアを訪問し、当地でヒレナガゴイを見る。
1977年 埼玉県の水産試験場を視察。
その際にインドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを掛け合わせて
新種ができないかと提案。
水産試験場は1980年より品種改良に着手し、1982年にヒレナガニシキゴイが誕生。
1991年 二の丸池に放流される。
上皇といえばハゼの研究をライフワークとしていて、今までに10種類もの新種を発見しているのは知る人ぞ知る話。それに加えて鯉の交配にまで関わっていたとは根っからのサカナクンだね。
ちなみにこのヒレナガニシキゴイは別に皇室専用ではなく、鯉を売っているペットショップで普通に買える。
参考までに写真で形の比較
普通のニシキゴイ → https://x.gd/AB1vs
インドネシアのヒレナガゴイ→ https://x.gd/8jCZk
交配種のヒレナガニシキゴイ→ https://x.gd/53zLx
金色以外→ https://x.gd/a9HLx
二の丸池の奥に回り込むと、
落差1メートルほどの小さな滝がある。
この水はどこから来ているのだろう?
それはさておき滝とくれば、
ハイスピードシャッターで静止している水しぶき写真!
もっともこちらに来たのは滝の写真を撮るためではなく、
滝が池に注いでいる場所にヒレナガニシキゴイがよく集まるのを知っていたから。
泡と遊んでいるのか、あるいは水中の酸素が豊富なのか。
しばらく待っていると狙い通りヒレナガニシキゴイがやって来たものの、止まってポーズをとってくれるわけじゃないので思ったような写真にならず。これじゃ普通のニシキゴイとほとんど見分けがつかない(/o\)
あまり咲いていなかった二の丸庭園ツツジゾーンを後にして、
次の目的地へ向かう。
このそこそこ急な勾配の坂は梅林坂。
そういえば皇居東御苑の梅はまだ見ていない。
まあ70本しかないし。
梅林坂に入らず、そのまま真っ直ぐ住むと平川門に向かう。
平川門から出入りした経験はないので、その方向に何があるのか興味があった。
上の写真の外国人オバチャンと同じポーズで私も案内マップをチェック。
特に何もないようだ。
それで引き返して梅林坂。
これは坂の途中で下を見たところ。
美しい新緑に目を奪われる。
梅林坂を上ったところにあるのは宮内庁の書陵部。
皇室関連の文書や資料と陵墓の管理をしている。
ちなみに陵墓(りょうぼ)とは
陵(りょう、または みささぎ): 天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓。
墓(はか): その他の皇族の墓。
もちろん古墳も含まれて仁徳天皇陵なんて呼び方をする。それにしても書類と墓なんて変わった組み合わせの部署である。
ついでに
陵に葬られる太皇太后(たい こうたいごう)とは現在では先々代の天皇の配偶者=正妻=皇后を意味する。皇太后(こうたいごう)は一世代下がって先代の天皇の配偶者=正妻=皇后。つまり現在の天皇から見て祖母または母。ただし子や孫にあたる天皇が即位したときに存命しているのがこの称号が与えられる条件。
例えば昭和天皇の配偶者である香淳(こうじゅん)皇后は平成の天皇時代の皇太后。ただし2000年に亡くなり令和は2019年に始まるので、令和においての太皇太后ではない。なお美智子上皇后は本来ならば皇太后なのだけれど、
まず生前に譲位した平成の天皇を通例の太上天皇(だいじょうてんのう)ではなく上皇とした。そして皇太后=天皇が亡くなった未亡人のニュアンスがあるのと、上皇の名称とのマッチングを踏まえて上皇后に決まったいきさつがある。
いずれにせよ太皇太后と皇太后はかつては皇后であったわけで、そして皇后は「陵」にはいるのだから墓としては区別はない。
ここからが少しややこしい。
側室がいた時代には先々代または先代の皇后でなくても、天皇の祖母にあたる女性は太皇太后で母は皇太后とされた。ただしいろいろと例外や死後の贈位もあり、このあたりの事情は複雑でよく理解していない。
参考までに現在までの人数は天皇が126人で重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び即位)を差し引くと124人なのに対して、
皇后 110人
皇太后 68人 うち皇后でなかった女性 25人
太皇太后 16人
(カウント方法には諸説あり)
太皇太后(祖母)が16人なのは昔は寿命が短かったせいかも知れないが、皇太后(母)が68人なのは意外で何か制度上の理由がありそうだ。
案外と知られていないが明治天皇と大正天皇は側室の子供である。というか歴代天皇の半数以上はそうで、過去400年に限れば正妻である皇后もしくは中宮から生まれた天皇は明正天皇(102代:江戸時代初期:女性天皇)、昭和天皇、上皇、今上天皇の4人のみ。
それで
明治天皇の側室であった柳原愛子は3人の子供を産み、そのひとりが後に大正天皇となる。彼女が亡くなったのは1943年で、子である大正天皇の即位(1912年)、孫の昭和天皇の即位(1926年)時には存命。なのに皇太后や太皇太后になっていない。
逆に明治天皇の昭憲皇后は子供を産んでいないのに昭憲皇太后となった。また明治天皇の先代になる孝明天皇の側室である九条夙子(あさこ)は、別の側室である中山慶子が産んだ後の明治天皇を養育したとの理由で、明治天皇が即位すると英照皇太后となる。しかし生みの母の中山慶子は皇太后になっていない。
なにかと複雑な皇室のしきたりである。
さらに大宝律令の古代より「太皇太后→皇太后→皇后」の序列だったものを、明治43年になって「皇后→太皇太后→皇太后」の順に改めた。かつ追号(死後に贈られる・確定する位みたいなもの)は生前の最高位と定めたので、大正天皇の皇后は昭和になって皇太后になり、亡くなって皇后に戻るというややこしいことになっている。この法律は昭和22年に廃止されたが、昭和天皇の皇后もそれに準じて平成に皇太后、亡くなってからは皇后である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
宮内庁書陵部を過ぎると見えてくるのが天守台跡。
皇居東御苑で人気のスポットだが、それは後回しにして、
その先にあるのが北桔橋門(きた はねばし もん)の出入り口。
どうして桔橋が「はねばし」と読めるのか不思議なものの、かつては江戸城防御のために「跳ね橋」が架けられていたのでその名前が残る。写っているのは東御苑から出て行く人。
そしてこの北桔橋門のすぐそばにあるのが、
東京で最高に美しいと思っているケヤキの新緑。
ドーン!どや!(是非拡大して閲覧を)
たまらんなあ。
なぜか異常に新緑好きである。私があちこちの花を見て回っているのを知っている人に「何が一番好きですか?」と尋ねられて「実は花より新緑」と答えて笑われている。新緑のこのキミドリ色を見ると気分爽快になるし、同時にとても生命力を感じる。この季節に新緑を眺めて向こう1年分のエネルギーを蓄えているといっても言い過ぎじゃない。また首を伸ばしてムシャムシャ葉っぱを食べたい衝動に駆られて、前世はきっとキリンだったに違いないと思っている(^^ゞ
新緑と石垣とマツと鳥。
天守台の石垣とツーショットで。
北桔橋門から入ってきた人が、ここを素通りして天守台に向かうのが信じられない。私なんかこのケヤキの周りを3周したのに。この新緑を眺めないなんて皇居東御苑の楽しみの9割を見逃しているようものだゾ。
そろそろ天守台に上りましょう。
上部の様子。
ここは天守台の前に広がる芝生広場、かつての江戸城本丸跡を眺めるためのもの。
ーーーなのであるが私の目的は北桔橋門前の新緑を目線の高さでもう一度見ることにある。
ここまで行くとヘンタイの域に達しているね。
これが天守台を使った正しい景色の眺め方。
城には防御のための監視塔である櫓(やぐら)があり、建築構造的にはそれが巨大化したのが天守。しかし最初の天守は1576年に信長が築いた安土城に造られ、つまり戦国時代も終わりかけで、防御施設というより城のステイタスを誇示する建物である。
江戸城の天守はまず家康が1608年に築く。なのに二代将軍秀忠は「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と家康天守を取り壊し新天守を1622年に建設。このときにもう少し南側(日比谷寄り)にあった天守を、大奥を拡大する目的もあって、現在の天守台の位置に変更している。これで終わりかと思いきや三代将軍家光も「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と秀忠天守を取り壊し新天守を1638年に建設。どんだけ負けず嫌いな親子関係。
ただしこの家光天守は1657年(四代家綱の時代)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火で焼失。従って江戸城の天守は、解体・建て替え工事期間を考慮しない単純な引き算で
家康天守 1608年〜1622年=15年間
秀忠天守 1622年〜1638年=16年間
家光天守 1638年〜1657年=20年間
1608年〜1657年のトータルで50年しか存在しない。参考までに江戸時代は1603年〜1867年の265年。
明暦の大火の翌年に天守の基礎となる現在に残る天守台がまず復旧された。しかし「江戸市中が焼け野原になって困っているのに天守を再建するのはイカガナモノカ」と見送られ、その後も「もう徳川の御威光は広く行き渡っているし、今さらステイタスシンボルの天守は必要ない、財政もキビシイ」と再建されなかった。
ところで10年ほど前から江戸城天守の再建を目指す人々が活動を行っているようである。彼らは天守をインバウンド観光の目玉にとかクールジャパンの文化と技術を世界に発信とか理屈を並べているものの、江戸幕府が不要とした江戸城天守を再建する意義があるとは思えない。
そんなことをするより安土城を再建してくれ!
あの天守にこそ歴史のロマンが詰まっている。
さて
天守台の石垣も眺めましょう。
材質は花崗岩(かこうがん)、石材としての名称は御影石(みかげいし)。
この焦げ跡のようなものは何?
しかもなぜに円形?
全体としてけっこう緻密に積み上げられているのに、
ところどころにこういう「現物合わせ」的な処理もされている。。
ーーー続く
2026年04月24日
皇居東御苑でツツジと新緑
2024年4月30日 練馬区の平成つつじ園 完全終了
2025年5月3日 世田谷区の西沢つつじ園 9割終了
ーーーと、この2年間はツツジ見物に出遅れて空振りが続いた。
今年はその轍を踏むまいと4月19日に皇居東御苑へ。
もっとも皇居東御苑のツツジはそれほどの規模ではない。それでもここを選んだのは今までツツジの季節に訪れたことがなかったのと、ここには私が東京で最も美しいと評価している新緑の木があるから。
スタートは東京駅。
明治の建築遺産と高層ビル群が織りなす美しくも不思議な眺め。
東京駅センターから皇居方向に向かうのが行幸(みゆき)通り。
行幸通りと交差して皇居の東南側のお堀沿いを通っているのが国道1号線。
たまに地方から来た人を皇居に案内して、これは1号線と言うと「こんなところに?」と驚かれる。1号線は東京(日本橋)を起点に大阪(梅田)を結んでいるが、なぜか日本橋から真っ直ぐに横浜方向へ向かわず、いったん皇居をかすめるようなルートになっている。
江戸時代の東海道もそうなのかな。
気が向いたら調べましょう。
1号線を渡ると内堀エリアなので皇居ぽくなってくる。
もう前方にビルはない。
写真左側はお堀。
東京駅方向を振り返って。
クレーンが立っているところは東京海上の本社ビルを建て替え工事中。
もちろん正確には東京海上日動。正式社名は東京海上日動火災保険。東京海上と日動火災が合併して20年以上も経つのに、なぜか東京海上日動との呼び方に慣れない。普段の生活でほとんど縁がないからかも知れない。
少し皇居方向に進んで和田倉噴水公園。
ここは1961年(昭和36年)に上皇(平成の天皇)の結婚を記念して造られ、また1993年(平成5年)に今上天皇(きんじょう:現在令和の天皇)の結婚で再整備されためでたいウエディング公園。次のリニューアルはいつかな? あまり知られていなくて皇居周辺の穴場スポット的存在。
それはさておき、こういうのを見るとシャッタースピードを速くして静止した水しぶきを撮らずにはいられないのが性分。たぶん病気だと思う(^^ゞ
内堀通りに入ると見てくるのが巽櫓(たつみやぐら)。桜田巽櫓や桜田二重櫓ともいう。江戸城は最大時で28基の櫓(監視塔)に取り囲まれていたが現存するのは3基のみ。奥でわずかに見えているのは桔梗門(ききょうもん)。
内堀通り。
どうして自転車が道路のど真ん中を?と思ったら、
日曜日はクルマを通行止めにしてサイクリング道路にしていると後で知った。
こちらは歩道の様子。
皇居を周回している内堀通りのうちサイクリング道路となっているのはわずか1.5kmほど(前掲の地図参照)。その程度の距離はサイクリングとして意味がないし、またここまで自転車で来られる人だって限られているのだから、その1.5kmを歩行者天国にして欲しい。
東御苑に3つある出入り口のひとつである大手門が見えてきた。土日はとても混雑するので次の平川門まで歩いたほうがいいとも聞いていたものの、人の流れはスムーズなようだ。
大手門到着。
門の手前で少し混み合うのは、
手荷物検査をしているから。
東御苑に来る度に憤慨していつも書いているように思うが、この検査というのが実にいい加減な役所仕事。まず警官1人で対応しているのがこの種の業務としては常識外。逆にいえばそれはきちんと検査をするつもりはなく「やってる感」を出しているだけの証拠。だいたい東御苑から天皇がいるエリアには入れないのだから、ここで手荷物検査をする意味もない。
そんなわけで警官は私のバッグの中に0.5秒ほど目をやっただけで、タオルにくるんであったピストルは見つからずに無事内部に侵入成功(冗談ですよ)。もっとも手荷物しか見ないので、ピストルでもナイフでもポケットに入れておけば問題なく通過できる。
さていよいよ皇居東御苑の散策。
同心番所と百人番所。
これらは江戸城の警備に当たっていた武士の詰め所。初めて見たときは「そんなものが残っているんだ」「百人番所デカっ!」など印象的だったが何度も来て見慣れてしまった。
それよりも瓦屋根越しの新緑の美しさに見とれる。
百人番所とは反対方向、二の丸エリアに向かう。
つい新緑を見上げてしまう。
二の丸エリアは通路に近い側が雑木林的な仕立てで奥に日本庭園。
その一部がツツジ園になってる。
上の写真でも見えているツツジをアップで。
遠景→アップはいつもの撮り方手順。
でもこの季節は新緑とのツーショットでしょ。
雑木林を抜けて写真の左側が日本庭園。
庭園入り口付近のツツジは1分咲き未満。
来るのがまだ早すぎたかと思うより先に、
背後の巨大なケヤキの新緑に見とれてしまった。
日本庭園の池を横目で眺めて、
ツツジがたくさん咲いている場所へ。
それでも5分咲き程度。
もう1週間ほど後に来ればよかった(/o\)
ここのツツジは色違いを混ぜて植えられている。
それとなぜだかわからないが葉と花の高さが同じ。
これは別の場所の写真。
花が葉より高くなっているのがわかるでしょ。
これが一般的なツツジの咲き方。
天気は悪くなかったのに、周りに高い木が多いせいでツツジに日光が充分に当たっていない場所が多い。ツツジは光の反射率が高くて、強い日差しだと肉眼でも写真でも花が輝いて、まるで色が飽和しているように見える。それもツツジを鑑賞する楽しみのひとつ。
できるだけ日の当たっている部分を狙って。
ピンクや紫のツツジで強く日が当たっていて、
かつたくさん咲いているところはなかった。
これは偶然に撮れた前ボケ・後ろボケした葉の緑色に囲まれた写真。
満開でなかったのは残念とはいえ、
去年と一昨年が終了したツツジだったのと較べれば充分に満足。
ーーー続く
2025年5月3日 世田谷区の西沢つつじ園 9割終了
ーーーと、この2年間はツツジ見物に出遅れて空振りが続いた。
今年はその轍を踏むまいと4月19日に皇居東御苑へ。
もっとも皇居東御苑のツツジはそれほどの規模ではない。それでもここを選んだのは今までツツジの季節に訪れたことがなかったのと、ここには私が東京で最も美しいと評価している新緑の木があるから。
スタートは東京駅。
明治の建築遺産と高層ビル群が織りなす美しくも不思議な眺め。
東京駅センターから皇居方向に向かうのが行幸(みゆき)通り。
行幸通りと交差して皇居の東南側のお堀沿いを通っているのが国道1号線。
たまに地方から来た人を皇居に案内して、これは1号線と言うと「こんなところに?」と驚かれる。1号線は東京(日本橋)を起点に大阪(梅田)を結んでいるが、なぜか日本橋から真っ直ぐに横浜方向へ向かわず、いったん皇居をかすめるようなルートになっている。
江戸時代の東海道もそうなのかな。
気が向いたら調べましょう。
1号線を渡ると内堀エリアなので皇居ぽくなってくる。
もう前方にビルはない。
写真左側はお堀。
東京駅方向を振り返って。
クレーンが立っているところは東京海上の本社ビルを建て替え工事中。
もちろん正確には東京海上日動。正式社名は東京海上日動火災保険。東京海上と日動火災が合併して20年以上も経つのに、なぜか東京海上日動との呼び方に慣れない。普段の生活でほとんど縁がないからかも知れない。
少し皇居方向に進んで和田倉噴水公園。
ここは1961年(昭和36年)に上皇(平成の天皇)の結婚を記念して造られ、また1993年(平成5年)に今上天皇(きんじょう:現在令和の天皇)の結婚で再整備されためでたいウエディング公園。次のリニューアルはいつかな? あまり知られていなくて皇居周辺の穴場スポット的存在。
それはさておき、こういうのを見るとシャッタースピードを速くして静止した水しぶきを撮らずにはいられないのが性分。たぶん病気だと思う(^^ゞ
内堀通りに入ると見てくるのが巽櫓(たつみやぐら)。桜田巽櫓や桜田二重櫓ともいう。江戸城は最大時で28基の櫓(監視塔)に取り囲まれていたが現存するのは3基のみ。奥でわずかに見えているのは桔梗門(ききょうもん)。
内堀通り。
どうして自転車が道路のど真ん中を?と思ったら、
日曜日はクルマを通行止めにしてサイクリング道路にしていると後で知った。
こちらは歩道の様子。
皇居を周回している内堀通りのうちサイクリング道路となっているのはわずか1.5kmほど(前掲の地図参照)。その程度の距離はサイクリングとして意味がないし、またここまで自転車で来られる人だって限られているのだから、その1.5kmを歩行者天国にして欲しい。
東御苑に3つある出入り口のひとつである大手門が見えてきた。土日はとても混雑するので次の平川門まで歩いたほうがいいとも聞いていたものの、人の流れはスムーズなようだ。
大手門到着。
門の手前で少し混み合うのは、
手荷物検査をしているから。
東御苑に来る度に憤慨していつも書いているように思うが、この検査というのが実にいい加減な役所仕事。まず警官1人で対応しているのがこの種の業務としては常識外。逆にいえばそれはきちんと検査をするつもりはなく「やってる感」を出しているだけの証拠。だいたい東御苑から天皇がいるエリアには入れないのだから、ここで手荷物検査をする意味もない。
そんなわけで警官は私のバッグの中に0.5秒ほど目をやっただけで、タオルにくるんであったピストルは見つからずに無事内部に侵入成功(冗談ですよ)。もっとも手荷物しか見ないので、ピストルでもナイフでもポケットに入れておけば問題なく通過できる。
さていよいよ皇居東御苑の散策。
同心番所と百人番所。
これらは江戸城の警備に当たっていた武士の詰め所。初めて見たときは「そんなものが残っているんだ」「百人番所デカっ!」など印象的だったが何度も来て見慣れてしまった。
それよりも瓦屋根越しの新緑の美しさに見とれる。
百人番所とは反対方向、二の丸エリアに向かう。
つい新緑を見上げてしまう。
二の丸エリアは通路に近い側が雑木林的な仕立てで奥に日本庭園。
その一部がツツジ園になってる。
上の写真でも見えているツツジをアップで。
遠景→アップはいつもの撮り方手順。
でもこの季節は新緑とのツーショットでしょ。
雑木林を抜けて写真の左側が日本庭園。
庭園入り口付近のツツジは1分咲き未満。
来るのがまだ早すぎたかと思うより先に、
背後の巨大なケヤキの新緑に見とれてしまった。
日本庭園の池を横目で眺めて、
ツツジがたくさん咲いている場所へ。
それでも5分咲き程度。
もう1週間ほど後に来ればよかった(/o\)
ここのツツジは色違いを混ぜて植えられている。
それとなぜだかわからないが葉と花の高さが同じ。
これは別の場所の写真。
花が葉より高くなっているのがわかるでしょ。
これが一般的なツツジの咲き方。
天気は悪くなかったのに、周りに高い木が多いせいでツツジに日光が充分に当たっていない場所が多い。ツツジは光の反射率が高くて、強い日差しだと肉眼でも写真でも花が輝いて、まるで色が飽和しているように見える。それもツツジを鑑賞する楽しみのひとつ。
できるだけ日の当たっている部分を狙って。
ピンクや紫のツツジで強く日が当たっていて、
かつたくさん咲いているところはなかった。
これは偶然に撮れた前ボケ・後ろボケした葉の緑色に囲まれた写真。
満開でなかったのは残念とはいえ、
去年と一昨年が終了したツツジだったのと較べれば充分に満足。
ーーー続く
2026年04月15日
東品川海上公園でチューリップを見るつもりが品川運河祭り その2
屋上庭園に上がる階段で撮った広場の様子。
チューリップを見ようと思ってこの公園にきたら品川運河祭りだったわけだが、調べてもこれがどんなイベントなのかの解説は見つけられなかった。主催は地元のNPOだから地元を盛り上げようとの趣旨だろう。まあ祭りに理屈はいらない。初日の夜には運河祭りの一環として5分程度のミニ花火大会があり、また秋には花火がメインの「秋の運河花火まつり」と年に2回ここで祭りが開かれるようだ。
東品川ポンプ所の階段を上って最初のエリア。
屋上庭園のメインはさらに上。
シャボン玉で遊ぶ子供。
今はいろいろな器具を使って大きなシャボン玉を作れる。あっ「今」じゃなくてかなり前からか。でもそういうシャボン玉作りをしたことがないんだよな。私が子供の頃は石けん水にストローを浸けて吹くだけのシンプルな仕組みだった。
DJブースがあるものの聴衆のノリは今ひとつ。
こんなに人が少ないと恥ずかしさが先にたって踊りにくいよね。
ビルの屋上とは思えない広さ。
航空写真。
3階屋上は(庭園ではない部分を含めて)幅50m、奥行き80mくらい。
ところでビルの上に庭園を造っているのなら、2004年の都市公園法改正で可能になった立体都市公園のはず。横浜のアメリカ山公園のブログを書いたときに、それについて少し調べたがこの公園は検索でヒットしなかった。アメリカ山公園が5520平米、ここの屋上庭園は4664平米と広さはそんなに変わらないのだからアピール不足じゃない?
チューリップは一番奥のエリアを中心に咲いている。
ネモフィラと一緒にーーーというかネモフィラの引き立て役。
♪並んだ並んだ、赤、白、黄色 どの花見てもきれいだな〜♪
清楚なのと派手なの。
濃い赤紫だけれどチューリップの世界でこれは黒と呼ばれる。
こんな雰囲気の小径。
他の花も。
これはエルサレムセージ(たぶん)。
ラナンキュラスを品種改良したラナンキュラス・ラックスがあり、それをさらに改良したのがラナンキュラス・ラックス・ムーサ。ラナンキュラスとラックスはまったく違う花の形だが、ラックスとムーサは見分けられない。とりあえずこれはそのどちらか(おそらく)。
上を見上げるとハナミズキ。
正体不明。
これは八重系のサクラ。
ユニークなブースを見つけた。
ネイル屋さんごっこにお嬢ちゃんたちは夢中。
予約不要なのがなぜか面白く感じる。
ただ秘密基地という単語は近頃ーーー(/o\)
屋上庭園を降りる。
広場では謎のパフォーマンス。
とてもゆっくりとした動き。
屋上庭園から眺めていると、広場でたくさんの人々が手を振り上げている場所があったので何だろうと近づく。
盆ロック!
そんなものがあるとは初めて知った。
その名前の通り、
ロック音楽に合わせて盆踊りを踊っている。
浴衣を着て参加している人も多かったから、それなりの認知度はあるみたい。普通の盆踊りの人、かなり腰が揺れている人もいて、皆さんとても楽しそうである。
またここには写っていないが輪から少し離れた場所で、かなりお年を召した女性が粋に着こなした浴衣姿で踊っていた。それはとても正調的な盆踊りに思えて、そこでふと「音楽のリズムとダンスの動きは関係あるのかないのか?」と考えたり。
それはさておき、このときに演奏されていたのはサディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」。まさか令和の時代になって「タイムマシンにおねがい」をライブで聴けるとは。しかもそれに併せて人々が盆踊りを踊ってなんて夢にも思わなかった光景だゼ。いつかあの世に行ったら加藤和彦に伝えなくては(^^ゞ
さてそろそろ帰らなければとステージを離れかけたときに、サンバダンサーが入場! サンバ独特の羽根飾りがついていないものの雰囲気でサンバチームだとわかる。
このタイミングで入ってきたのなら、ステージでの出番は盆ロックの次の次当たり。
夕方から約束があったのでそこまでは待てない。
後ろ髪を引かれる思いでーーー
ちょっとチューリップを見るだけにやって来たつもりだったのに、品川運河祭りの賑わいにつられて1時間半ほど過ごした。公園内には子供たちがいっぱい。普段よく散歩する公園にも親に連れられた幼稚園くらいまでの子供はたくさんいるが、この日は小学3〜4年生くらいまでの子供同士のグループも多く見かけた。彼・彼女たちも元気いっぱいに動き回っていて、幼稚園児達よりは身体が大きいし、その年代の集団を見慣れていないせいもあり、近くを通りかかるとその熱量に押されそうになる。そしてそこからパワーを分けてもらったような気分にも。
当初の目的だったチューリップのボリュームは事前の想定通り。まあたいしたことはないわけで、それだけならごく普通の土曜日になっていただろう。この日にたまたま東品川海上公園を訪れたなんて、まさに日頃の行いの良さのたまもの(^^ゞ
ところでブログを書きながら気がついたのだけれど、
正調盆踊りを踊っていたあのバアさん。加藤和彦がもし生きていたら今年で79歳なので、彼と同い年くらいだったかも知れない。ちなみに「タイムマシンにおねがい」は1974年の発表。もう52年も昔ぢゃないか(>_<) 時が過ぎるのは早いね。
おしまい
チューリップを見ようと思ってこの公園にきたら品川運河祭りだったわけだが、調べてもこれがどんなイベントなのかの解説は見つけられなかった。主催は地元のNPOだから地元を盛り上げようとの趣旨だろう。まあ祭りに理屈はいらない。初日の夜には運河祭りの一環として5分程度のミニ花火大会があり、また秋には花火がメインの「秋の運河花火まつり」と年に2回ここで祭りが開かれるようだ。
東品川ポンプ所の階段を上って最初のエリア。
屋上庭園のメインはさらに上。
シャボン玉で遊ぶ子供。
今はいろいろな器具を使って大きなシャボン玉を作れる。あっ「今」じゃなくてかなり前からか。でもそういうシャボン玉作りをしたことがないんだよな。私が子供の頃は石けん水にストローを浸けて吹くだけのシンプルな仕組みだった。
DJブースがあるものの聴衆のノリは今ひとつ。
こんなに人が少ないと恥ずかしさが先にたって踊りにくいよね。
ビルの屋上とは思えない広さ。
航空写真。
3階屋上は(庭園ではない部分を含めて)幅50m、奥行き80mくらい。
ところでビルの上に庭園を造っているのなら、2004年の都市公園法改正で可能になった立体都市公園のはず。横浜のアメリカ山公園のブログを書いたときに、それについて少し調べたがこの公園は検索でヒットしなかった。アメリカ山公園が5520平米、ここの屋上庭園は4664平米と広さはそんなに変わらないのだからアピール不足じゃない?
チューリップは一番奥のエリアを中心に咲いている。
ネモフィラと一緒にーーーというかネモフィラの引き立て役。
♪並んだ並んだ、赤、白、黄色 どの花見てもきれいだな〜♪
清楚なのと派手なの。
濃い赤紫だけれどチューリップの世界でこれは黒と呼ばれる。
こんな雰囲気の小径。
他の花も。
これはエルサレムセージ(たぶん)。
ラナンキュラスを品種改良したラナンキュラス・ラックスがあり、それをさらに改良したのがラナンキュラス・ラックス・ムーサ。ラナンキュラスとラックスはまったく違う花の形だが、ラックスとムーサは見分けられない。とりあえずこれはそのどちらか(おそらく)。
上を見上げるとハナミズキ。
正体不明。
これは八重系のサクラ。
ユニークなブースを見つけた。
ネイル屋さんごっこにお嬢ちゃんたちは夢中。
予約不要なのがなぜか面白く感じる。
ただ秘密基地という単語は近頃ーーー(/o\)
屋上庭園を降りる。
広場では謎のパフォーマンス。
とてもゆっくりとした動き。
屋上庭園から眺めていると、広場でたくさんの人々が手を振り上げている場所があったので何だろうと近づく。
盆ロック!
そんなものがあるとは初めて知った。
その名前の通り、
ロック音楽に合わせて盆踊りを踊っている。
浴衣を着て参加している人も多かったから、それなりの認知度はあるみたい。普通の盆踊りの人、かなり腰が揺れている人もいて、皆さんとても楽しそうである。
またここには写っていないが輪から少し離れた場所で、かなりお年を召した女性が粋に着こなした浴衣姿で踊っていた。それはとても正調的な盆踊りに思えて、そこでふと「音楽のリズムとダンスの動きは関係あるのかないのか?」と考えたり。
それはさておき、このときに演奏されていたのはサディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」。まさか令和の時代になって「タイムマシンにおねがい」をライブで聴けるとは。しかもそれに併せて人々が盆踊りを踊ってなんて夢にも思わなかった光景だゼ。いつかあの世に行ったら加藤和彦に伝えなくては(^^ゞ
さてそろそろ帰らなければとステージを離れかけたときに、サンバダンサーが入場! サンバ独特の羽根飾りがついていないものの雰囲気でサンバチームだとわかる。
このタイミングで入ってきたのなら、ステージでの出番は盆ロックの次の次当たり。
夕方から約束があったのでそこまでは待てない。
後ろ髪を引かれる思いでーーー
ちょっとチューリップを見るだけにやって来たつもりだったのに、品川運河祭りの賑わいにつられて1時間半ほど過ごした。公園内には子供たちがいっぱい。普段よく散歩する公園にも親に連れられた幼稚園くらいまでの子供はたくさんいるが、この日は小学3〜4年生くらいまでの子供同士のグループも多く見かけた。彼・彼女たちも元気いっぱいに動き回っていて、幼稚園児達よりは身体が大きいし、その年代の集団を見慣れていないせいもあり、近くを通りかかるとその熱量に押されそうになる。そしてそこからパワーを分けてもらったような気分にも。
当初の目的だったチューリップのボリュームは事前の想定通り。まあたいしたことはないわけで、それだけならごく普通の土曜日になっていただろう。この日にたまたま東品川海上公園を訪れたなんて、まさに日頃の行いの良さのたまもの(^^ゞ
ところでブログを書きながら気がついたのだけれど、
正調盆踊りを踊っていたあのバアさん。加藤和彦がもし生きていたら今年で79歳なので、彼と同い年くらいだったかも知れない。ちなみに「タイムマシンにおねがい」は1974年の発表。もう52年も昔ぢゃないか(>_<) 時が過ぎるのは早いね。
おしまい
2026年04月13日
東品川海上公園でチューリップを見るつもりが品川運河祭り
特に理由はないけれど2026年シーズンもチューリップを植えなかった。だからかどうか4月11日に突然チューリップを見に行こうと思いつく。この日は最高気温27.3度を記録する陽気でそれも影響したのかも知れない。ただし夕方に人と会う約束があったのであまり遠くへは行けないし、できれば散歩圏内にしたい。
それで探し当てたのが東品川海上公園。
公園は池尻大橋から始まって、中目黒や五反田の駅前を流れているサクラで有名な目黒川(地図で水色のライン)が天王洲運河に合流する場所にある。散歩の目的地としてはちょっと遠く、特にチューリップの名所というわけでもない。でも今まで訪れていない適当なところが見つからず帰りは途中から電車でもいいやと。
自宅からテクテク歩いて1時間半弱。
この日は今年初めての短パンにサングラスと夏スタイル。
東品川海上公園が見えてきた。
公園の中に入ると人が多い。
土曜日で天気がいいにしてもちょっとビックリするくらいの人出。
少し奥に進むとテントが見えたので、
何かイベントでもやっているのかと考える。
しかしさらに進むとズラーッと屋台が並んでいて、
何かイベントどころではなくお祭りレベルだと理解する。
公園はいくつかの区画に分かれていて、
上の写真の左側に広がっているのがミッフィー公園。
別の公園ではなく東品川海上公園の一部がそう呼ばれている。
ミッフィーのバッテンは口ではなく口と鼻の両方を表しているらしい。でもウサギの鼻の部分はXではなくてYの形をしているんだけどな。バッテンだとおしゃべり禁止みたいでどうにも違和感がある。
ミッフィーの機関車はテントやシートに取り囲まれていて近づけず。
私もてっぺんに登りたいヨ(^^ゞ
ところでここの名前は海上公園とはいえ、
もちろん海の上にあるわけではなく、さらに海に面してもいない。
写真はミッフィー公園からの眺め。正面に見えている水門が天王洲運河で左から流れ込んでいるのが目黒川。写真手前を右に流れていく部分も天王洲運河なのでここがまさに目黒川の終点。もっとも天王洲運河を流れているのは海水で海といえば海だが。
公園はいくつかの区画に分かれている。
公式な案内図が見当たらずネーミングは適当につけた。
このうち屋上庭園は「東品川海上公園 屋上庭園」の名称だが、東品川ポンプ所の屋上に造られていて分類上は東品川海上公園と別の公園扱いとなっている。東品川ポンプ所は下水施設のようで、同じ品川区の施設でも管轄部署が違うのだろう。面積は東品川海上公園が2.7ヘクタール、屋上庭園が0.4ヘクタール。
飛び地は野球グラウンドが3つある天王洲公園に隣接しいる。天王洲公園は3ヘクタールあり、それも併せてとらえればそこそこ広い公園。
その天王洲(てんのうず)とは、元は江戸時代末期に東京湾を守る砲台として埋め立てられた土地。砲台のある場所=台場で品川に12箇所が計画され(海上埋め立て以外を含めて)6箇所が完成した。ペリーは2度目の来航で品川沖まで来たものの、台場を見てそれ以上は奥に進入せず上陸地点を横浜に変更したといわれている。
現在「お台場」と呼ばれていてフジテレビなどがあるのは第3台場。天王洲は第4台場だったが資金難で完成せず。大正時代に民間に払い下げられ埋め立てを拡大し造船所が建設された。昭和になった頃に造船所はなくなり、その後は倉庫街に。1980年代前半までは港湾地域独特のちょっとヤバそうな雰囲気を感じさせるエリアだった。しかしバブル期のウォーターフロントブームで再開発が始まる。そのときにつけられた愛称が天王洲アイル。駅名にもなっている。公園の飛び地に渡るアイル橋もそこからのネーミング。アイランド(island)が島でアイル(isle)とは小さな島。さらに近年はアートスポットの多い街としても知られる。
さてミッフィー公園を離れて歩いて行くと、また小さな機関車と列車があった。この公園はこういうのが好きなのかと思って眺めていたら、
なんと動き出した!
子供が中に入るだけの遊具と思っていたのでビックリ。
アイル橋を渡って飛び地に向かうのをお見送り。
広場のエリア。
自衛隊のブースもあった。
緑のゾーンに入る。
やや人が少なくなってホッとする。
チューリップ発見。
いろいろな草花と混植されていてきれい。
ここならゆっくりお弁当を食べられそう。
藤棚はまだ香りがしない。
シャクナゲが咲いていた。
いくつもの花が集まり房のようなって咲くのがシャクナゲ。
でもこの公園のは花と花とがあまり重なり合っていない。
緑のゾーンをブラブラ。
もう新緑の季節ですね。
遠くにまたシャクナゲ。
チューリップは主に屋上庭園にあるのは事前に確認済み。
この階段を上っていく。
そして階段に掲示されていたこのポスターで、
ようやくこの日に開催されているのが「しながわ運河まつり」だと知る。
漢字名称を平仮名にするネーミング手法は、文章の中だと読みにくい気がして「しながわ〜」と括弧でくくらなければいけないので嫌い。ブログのタイトルはスペースの関係もあって品川運河祭りにした。
ーーー続く
それで探し当てたのが東品川海上公園。
公園は池尻大橋から始まって、中目黒や五反田の駅前を流れているサクラで有名な目黒川(地図で水色のライン)が天王洲運河に合流する場所にある。散歩の目的地としてはちょっと遠く、特にチューリップの名所というわけでもない。でも今まで訪れていない適当なところが見つからず帰りは途中から電車でもいいやと。
自宅からテクテク歩いて1時間半弱。
この日は今年初めての短パンにサングラスと夏スタイル。
東品川海上公園が見えてきた。
公園の中に入ると人が多い。
土曜日で天気がいいにしてもちょっとビックリするくらいの人出。
少し奥に進むとテントが見えたので、
何かイベントでもやっているのかと考える。
しかしさらに進むとズラーッと屋台が並んでいて、
何かイベントどころではなくお祭りレベルだと理解する。
公園はいくつかの区画に分かれていて、
上の写真の左側に広がっているのがミッフィー公園。
別の公園ではなく東品川海上公園の一部がそう呼ばれている。
ミッフィーのバッテンは口ではなく口と鼻の両方を表しているらしい。でもウサギの鼻の部分はXではなくてYの形をしているんだけどな。バッテンだとおしゃべり禁止みたいでどうにも違和感がある。
ミッフィーの機関車はテントやシートに取り囲まれていて近づけず。
私もてっぺんに登りたいヨ(^^ゞ
ところでここの名前は海上公園とはいえ、
もちろん海の上にあるわけではなく、さらに海に面してもいない。
写真はミッフィー公園からの眺め。正面に見えている水門が天王洲運河で左から流れ込んでいるのが目黒川。写真手前を右に流れていく部分も天王洲運河なのでここがまさに目黒川の終点。もっとも天王洲運河を流れているのは海水で海といえば海だが。
公園はいくつかの区画に分かれている。
公式な案内図が見当たらずネーミングは適当につけた。
このうち屋上庭園は「東品川海上公園 屋上庭園」の名称だが、東品川ポンプ所の屋上に造られていて分類上は東品川海上公園と別の公園扱いとなっている。東品川ポンプ所は下水施設のようで、同じ品川区の施設でも管轄部署が違うのだろう。面積は東品川海上公園が2.7ヘクタール、屋上庭園が0.4ヘクタール。
飛び地は野球グラウンドが3つある天王洲公園に隣接しいる。天王洲公園は3ヘクタールあり、それも併せてとらえればそこそこ広い公園。
その天王洲(てんのうず)とは、元は江戸時代末期に東京湾を守る砲台として埋め立てられた土地。砲台のある場所=台場で品川に12箇所が計画され(海上埋め立て以外を含めて)6箇所が完成した。ペリーは2度目の来航で品川沖まで来たものの、台場を見てそれ以上は奥に進入せず上陸地点を横浜に変更したといわれている。
現在「お台場」と呼ばれていてフジテレビなどがあるのは第3台場。天王洲は第4台場だったが資金難で完成せず。大正時代に民間に払い下げられ埋め立てを拡大し造船所が建設された。昭和になった頃に造船所はなくなり、その後は倉庫街に。1980年代前半までは港湾地域独特のちょっとヤバそうな雰囲気を感じさせるエリアだった。しかしバブル期のウォーターフロントブームで再開発が始まる。そのときにつけられた愛称が天王洲アイル。駅名にもなっている。公園の飛び地に渡るアイル橋もそこからのネーミング。アイランド(island)が島でアイル(isle)とは小さな島。さらに近年はアートスポットの多い街としても知られる。
さてミッフィー公園を離れて歩いて行くと、また小さな機関車と列車があった。この公園はこういうのが好きなのかと思って眺めていたら、
なんと動き出した!
子供が中に入るだけの遊具と思っていたのでビックリ。
アイル橋を渡って飛び地に向かうのをお見送り。
広場のエリア。
自衛隊のブースもあった。
緑のゾーンに入る。
やや人が少なくなってホッとする。
チューリップ発見。
いろいろな草花と混植されていてきれい。
ここならゆっくりお弁当を食べられそう。
藤棚はまだ香りがしない。
シャクナゲが咲いていた。
いくつもの花が集まり房のようなって咲くのがシャクナゲ。
でもこの公園のは花と花とがあまり重なり合っていない。
緑のゾーンをブラブラ。
もう新緑の季節ですね。
遠くにまたシャクナゲ。
チューリップは主に屋上庭園にあるのは事前に確認済み。
この階段を上っていく。
そして階段に掲示されていたこのポスターで、
ようやくこの日に開催されているのが「しながわ運河まつり」だと知る。
漢字名称を平仮名にするネーミング手法は、文章の中だと読みにくい気がして「しながわ〜」と括弧でくくらなければいけないので嫌い。ブログのタイトルはスペースの関係もあって品川運河祭りにした。
ーーー続く
2026年04月11日
青山墓地でサクラ
新宿御苑でサクラを見た後に国立競技場を間近で眺め、
スタジアム通りで青山通りまで降りてきた。
写真は渋谷方向。
少し進んで青山通りと外苑西通りが交差する場所に建っているのがアーガイル青山。
と言っても、東京でもほとんどの人は「何、それ?」な反応になる。
でもここにはかつて青山ベルコモンズ、通称ベルコモが建っていたというと話が通じる。
1976年に開業し長らく青山の顔であったベルコモが閉館したのは2014年。当初はオフィスビルに改装されると報じられていたのに、いつの間にか解体された。そしてすぐには着工されず、アーガイル青山が竣工したのは2020年とかなり経ってから。何か権利関係で揉めていた?
それでも既に6年なのにベルコモと較べると知名度は雲泥の差。ここではアーガイル青山と書いたが、表記は基本的にthe ARGYLE aoyamaでカタカナでもジ アーガイル アオヤマとなる。そういう取っつきにくさも影響してるかも知れない。ところで母音の前のtheをジと発音するのはわかっていても、カタカナ表記でジと書くとヘンな感じ。
さらに渋谷方向に進んで。
この奥に都営住宅の団地があって、それを取り壊して再開発しているのは知っていたものの、青山通り沿いのビルやお店も再開発対象だったんだ。
先に再開発された区画に建ったタワマン。
このまま渋谷まで歩くつもりだったけれど、
ここで突然に気が変わって方針転換。
外苑西通りに戻り南側に進む。
スキーショップジローはまだ健在だった。
酒井法子が夫婦で覚醒剤でパクられた当時の旦那の実家が経営するお店。開業は1973年。バカ息子のせいでブランドは傷ついたとはいえ、日本のスキーウエアをファッションのレベルに高めたショップで、その功績は大きいと評価している。
スキーショップジローがある角を左折して、
青山通りと平行に赤坂方向に進み、
消防署の横を通って、
やって来たのは青山墓地。
ここはサクラの名所でもある。
ずっと昔によく花見をしていたのを思い出し懐かしくなって。
なお標識にも青山墓地とありほとんどの人が青山墓地と言うが、正式名称は青山霊園になる。都心の超一等地に26ヘクタールの広さを誇る東京都所管の公営墓地。
これが青山墓地のメインストリート。
この日(3月28日)、気象庁は東京でのサクラ満開宣言(=8分咲き)を発表。ただし新宿御苑では6.5分咲きくらいで、ここはそれよりまだ開ききっていない印象。
メインストリートはずっと同じ景色なので脇道に入る。
お花見に来ている人はそんなに多くなかった。
昔は墓石の横にシートを敷いて(^^ゞ 宴会しているグループがたくさんいたのに。
また記憶と較べてサクラはかなり減ったように感じる。
こんなキレイなサクラが咲いたら、
あの世から戻ってきたくなるね
ところで昔は広い墓地にぎっしりとお墓が建っていたのに、今回歩いてみるとところどころに更地になっている区画が目立つ。ここは明治初期からある古い墓地だし、いわゆる墓じまいとかの影響だろうか。
メインストリートに戻る。
また横道に入ろうと思ったがどこも似たり寄ったりなので。
メインストリートでサクラ越しに眺める六本木のミッドタウンと六本木ヒルズ。ここから直線距離で700メートルほど。
青山墓地は南まで通り抜けると西麻布につながっている。
ここはその少し手前。
そしてここでデジカメ2つ目のバッテリーが切れた。
最後にキレイなサクラ並木を撮れてよかった。
これも日頃の行いの良さ(^^ゞ
というわけで新宿御苑と青山墓地での花見のハシゴはここで終了。途中に国立競技場や青山界隈を挟み、この後も高樹町〜骨董通り〜渋谷まで歩いて本日の歩数は2万歩を突破!健脚に感謝。
スタジアム通りで青山通りまで降りてきた。
写真は渋谷方向。
少し進んで青山通りと外苑西通りが交差する場所に建っているのがアーガイル青山。
と言っても、東京でもほとんどの人は「何、それ?」な反応になる。
でもここにはかつて青山ベルコモンズ、通称ベルコモが建っていたというと話が通じる。
1976年に開業し長らく青山の顔であったベルコモが閉館したのは2014年。当初はオフィスビルに改装されると報じられていたのに、いつの間にか解体された。そしてすぐには着工されず、アーガイル青山が竣工したのは2020年とかなり経ってから。何か権利関係で揉めていた?
それでも既に6年なのにベルコモと較べると知名度は雲泥の差。ここではアーガイル青山と書いたが、表記は基本的にthe ARGYLE aoyamaでカタカナでもジ アーガイル アオヤマとなる。そういう取っつきにくさも影響してるかも知れない。ところで母音の前のtheをジと発音するのはわかっていても、カタカナ表記でジと書くとヘンな感じ。
さらに渋谷方向に進んで。
この奥に都営住宅の団地があって、それを取り壊して再開発しているのは知っていたものの、青山通り沿いのビルやお店も再開発対象だったんだ。
先に再開発された区画に建ったタワマン。
このまま渋谷まで歩くつもりだったけれど、
ここで突然に気が変わって方針転換。
外苑西通りに戻り南側に進む。
スキーショップジローはまだ健在だった。
酒井法子が夫婦で覚醒剤でパクられた当時の旦那の実家が経営するお店。開業は1973年。バカ息子のせいでブランドは傷ついたとはいえ、日本のスキーウエアをファッションのレベルに高めたショップで、その功績は大きいと評価している。
スキーショップジローがある角を左折して、
青山通りと平行に赤坂方向に進み、
消防署の横を通って、
やって来たのは青山墓地。
ここはサクラの名所でもある。
ずっと昔によく花見をしていたのを思い出し懐かしくなって。
なお標識にも青山墓地とありほとんどの人が青山墓地と言うが、正式名称は青山霊園になる。都心の超一等地に26ヘクタールの広さを誇る東京都所管の公営墓地。
これが青山墓地のメインストリート。
この日(3月28日)、気象庁は東京でのサクラ満開宣言(=8分咲き)を発表。ただし新宿御苑では6.5分咲きくらいで、ここはそれよりまだ開ききっていない印象。
メインストリートはずっと同じ景色なので脇道に入る。
お花見に来ている人はそんなに多くなかった。
昔は墓石の横にシートを敷いて(^^ゞ 宴会しているグループがたくさんいたのに。
また記憶と較べてサクラはかなり減ったように感じる。
こんなキレイなサクラが咲いたら、
あの世から戻ってきたくなるね
ところで昔は広い墓地にぎっしりとお墓が建っていたのに、今回歩いてみるとところどころに更地になっている区画が目立つ。ここは明治初期からある古い墓地だし、いわゆる墓じまいとかの影響だろうか。
メインストリートに戻る。
また横道に入ろうと思ったがどこも似たり寄ったりなので。
メインストリートでサクラ越しに眺める六本木のミッドタウンと六本木ヒルズ。ここから直線距離で700メートルほど。
青山墓地は南まで通り抜けると西麻布につながっている。
ここはその少し手前。
そしてここでデジカメ2つ目のバッテリーが切れた。
最後にキレイなサクラ並木を撮れてよかった。
これも日頃の行いの良さ(^^ゞ
というわけで新宿御苑と青山墓地での花見のハシゴはここで終了。途中に国立競技場や青山界隈を挟み、この後も高樹町〜骨董通り〜渋谷まで歩いて本日の歩数は2万歩を突破!健脚に感謝。
2026年04月10日
スタジアム通り
3月28日に新宿御苑でサクラ巡りをした後はノープランだった。そこでとりあえず国立競技場に向かい建物の周囲を半分ほど歩いて回った(前回の投稿)。その後は青山通りまで下って、外苑前か表参道あるいは渋谷まで散歩して、そこから電車で帰るつもりで歩き始める。
手前のビルはJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREとビル名がなぜか英語。フリガナを振ればジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア。日本スポーツ協会と日本オリンピック委員会の本部。ここが日本スポーツ界の総本山でありスポーツ利権の巣窟でもある(^^ゞ 以前は代々木競技場に隣接するビルに入っていたのを、東京オリンピックに併せてこのビルを2019年に竣工。
ところでビル名のJAPAN SPORT〜は日本スポーツ協会の英文表記がJapan Sport Associationなのによる。各種競技団体の集まりなのにsportSの複数形ではなくsporTと単数形なのは
複数形:具体的な複数の競技
単数形:個別の競技以外に「スポーツという概念・活動全体」を表す
から。英語は何かと難しい。日本スポーツ協会の前身の日本体育協会はJapan Amateur Sports Associationと複数形だったけれど、2018年の改称の際にAmateurを外しただけでなくSportsからSportへ変更している。しかし日本語表記ではスポートではなくスポーツのまま。英語と日本語の関わりはもっと難しい。ついでに書くとネイティブは語尾のTもSもごく弱くしか発音しないので、どちらもほとんど「スポー」にしか聞こえない。
奥のビルは日本青年館。かつては神宮第二球場(2021年に解体)の向かいで現在は国立競技場の敷地内となっているところに建っていた。こちらも国立競技場の建て替え・拡張に伴ってこの場所に移転。竣工は2017年。
日本青年館とはヘンな名前に感じる。ホームページによれば「日本青年館は、ホテル経営の傍ら、全国の青年団の育成と青少年活動を支援すると共に施設の利活用を通じ、スポーツの振興を図ることを目的とする一般財団法人です」となっている。青年団の全国組織としては日本青年団協議会があり(法人ではない任意団体)、その拠点とする日本青年館の設立運営のために分離・法人化したのが日本青年館のようだ(任意団体では不動産の所有はできない)。例えは悪いがヤクザの組とフロント企業のような関係。
それはさておき、これが1979年竣工で2015年まであった旧日本青年館。
現在の青年館はただのビルでも、こちらは「館」ぽい建物。
屋根が低くなっている部分はホール。私が初めて数百人を前に講演をしたのがここ。思い出の場所だったのに無くなってしまいちょっと残念。
なお新しい日本青年館の正式なビル名は「日本青年館・日本スポーツ振興センタービル」となっている。日本スポーツ振興センターとは国立競技場などの施設を所有している文科省の独立行政法人。totoやBIGなどのサッカーくじもここが運営している。日本青年館とビルを共同所有しているのだろう。
国立競技場から青山通りに向かう道路が通称スタジアム通り。
左側の植え込みは、
神宮球場。
正式には明治神宮野球場でオーナーは明治神宮。
ただしその名前で呼ばれることまずないね。
その先に秩父宮ラグビー場。
ゲートの上部に「国立競技場秩父宮ラグビー場」と書かれている。しかしそれが正式名称でも、ここが国立競技場の付属施設でもない。おそらくこれは国立の霞ヶ丘陸上競技場、国立の秩父宮ラグビー場と呼び分けていた頃の名残が建物に刻まれたまま残っていると思われる。文字も「國立」と旧字。
秩父宮ラグビー場は2030年頃に神宮第二球場跡へ移転され、その後にここは取り壊されて新しい神宮球場が建設される。だからこの「国立競技場秩父宮ラグビー場」を見られるのもあと4年ほど。
東京サントリー・サンゴリアスのバナー。
ところで上の写真もサンゴリアスの黄色ばかりで対戦相手の掲示が何もない。入場口を分けているのか? まあラグビーチームはどこも知らないからいいけど。サンゴリアスもこの日に初めて知った。ちなみに現在、新日鉄釜石は日本製鉄釜石シーウェイブス、神戸製鋼はコベルコ神戸スティーラーズになっているらしい。もう浦島太郎状態(^^ゞ
ところでサッカーのJリーグに相当するのが、ラグビーではジャパンラグビー リーグワン(JAPAN RUGBY LEAGUE ONE)で通称がリーグワン。JリーグにはJ1〜J2〜J3とあるのでリーグワンは最上位リーグかと思うと、そうではなくリーグワンの中にデビジョン1〜3と階層化されている。つまりリーグワン1、リーグワン2、リーグワン3。ネーミングセンス的にはちょっと首をかしげたくなる。
さらにラグビーには一般に普及している15人制とは別に13人制のラグビーが存在してルールもかなり違う。イングランド、フランス、オーストラリア、ニュージーランドそれにフィジー、パプアニューギニアなどの南太平洋の国々で人気がある。そしてそれを区別する英語名称が
15人制:ラグビーユニオン Rugby Union
13人制:ラグビーリーグ Rugby League
であり、13人制でリーグの単語が使われている。つまり日本のラグビーは15人制なのに13人制とリーグの文字が被るのだ。なのにどうしてジャパンラグビー リーグワンなんて名称にしたのだろう。次にラグビーに詳しい知人に会ったら尋ねてみよう。
秩父宮ラグビー場を過ぎれば青山通りまで200mほど。
さてこの後はどうするか。
手前のビルはJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREとビル名がなぜか英語。フリガナを振ればジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア。日本スポーツ協会と日本オリンピック委員会の本部。ここが日本スポーツ界の総本山でありスポーツ利権の巣窟でもある(^^ゞ 以前は代々木競技場に隣接するビルに入っていたのを、東京オリンピックに併せてこのビルを2019年に竣工。
ところでビル名のJAPAN SPORT〜は日本スポーツ協会の英文表記がJapan Sport Associationなのによる。各種競技団体の集まりなのにsportSの複数形ではなくsporTと単数形なのは
複数形:具体的な複数の競技
単数形:個別の競技以外に「スポーツという概念・活動全体」を表す
から。英語は何かと難しい。日本スポーツ協会の前身の日本体育協会はJapan Amateur Sports Associationと複数形だったけれど、2018年の改称の際にAmateurを外しただけでなくSportsからSportへ変更している。しかし日本語表記ではスポートではなくスポーツのまま。英語と日本語の関わりはもっと難しい。ついでに書くとネイティブは語尾のTもSもごく弱くしか発音しないので、どちらもほとんど「スポー」にしか聞こえない。
奥のビルは日本青年館。かつては神宮第二球場(2021年に解体)の向かいで現在は国立競技場の敷地内となっているところに建っていた。こちらも国立競技場の建て替え・拡張に伴ってこの場所に移転。竣工は2017年。
日本青年館とはヘンな名前に感じる。ホームページによれば「日本青年館は、ホテル経営の傍ら、全国の青年団の育成と青少年活動を支援すると共に施設の利活用を通じ、スポーツの振興を図ることを目的とする一般財団法人です」となっている。青年団の全国組織としては日本青年団協議会があり(法人ではない任意団体)、その拠点とする日本青年館の設立運営のために分離・法人化したのが日本青年館のようだ(任意団体では不動産の所有はできない)。例えは悪いがヤクザの組とフロント企業のような関係。
それはさておき、これが1979年竣工で2015年まであった旧日本青年館。
現在の青年館はただのビルでも、こちらは「館」ぽい建物。
屋根が低くなっている部分はホール。私が初めて数百人を前に講演をしたのがここ。思い出の場所だったのに無くなってしまいちょっと残念。
なお新しい日本青年館の正式なビル名は「日本青年館・日本スポーツ振興センタービル」となっている。日本スポーツ振興センターとは国立競技場などの施設を所有している文科省の独立行政法人。totoやBIGなどのサッカーくじもここが運営している。日本青年館とビルを共同所有しているのだろう。
国立競技場から青山通りに向かう道路が通称スタジアム通り。
左側の植え込みは、
神宮球場。
正式には明治神宮野球場でオーナーは明治神宮。
ただしその名前で呼ばれることまずないね。
その先に秩父宮ラグビー場。
ゲートの上部に「国立競技場秩父宮ラグビー場」と書かれている。しかしそれが正式名称でも、ここが国立競技場の付属施設でもない。おそらくこれは国立の霞ヶ丘陸上競技場、国立の秩父宮ラグビー場と呼び分けていた頃の名残が建物に刻まれたまま残っていると思われる。文字も「國立」と旧字。
秩父宮ラグビー場は2030年頃に神宮第二球場跡へ移転され、その後にここは取り壊されて新しい神宮球場が建設される。だからこの「国立競技場秩父宮ラグビー場」を見られるのもあと4年ほど。
東京サントリー・サンゴリアスのバナー。
ところで上の写真もサンゴリアスの黄色ばかりで対戦相手の掲示が何もない。入場口を分けているのか? まあラグビーチームはどこも知らないからいいけど。サンゴリアスもこの日に初めて知った。ちなみに現在、新日鉄釜石は日本製鉄釜石シーウェイブス、神戸製鋼はコベルコ神戸スティーラーズになっているらしい。もう浦島太郎状態(^^ゞ
ところでサッカーのJリーグに相当するのが、ラグビーではジャパンラグビー リーグワン(JAPAN RUGBY LEAGUE ONE)で通称がリーグワン。JリーグにはJ1〜J2〜J3とあるのでリーグワンは最上位リーグかと思うと、そうではなくリーグワンの中にデビジョン1〜3と階層化されている。つまりリーグワン1、リーグワン2、リーグワン3。ネーミングセンス的にはちょっと首をかしげたくなる。
さらにラグビーには一般に普及している15人制とは別に13人制のラグビーが存在してルールもかなり違う。イングランド、フランス、オーストラリア、ニュージーランドそれにフィジー、パプアニューギニアなどの南太平洋の国々で人気がある。そしてそれを区別する英語名称が
15人制:ラグビーユニオン Rugby Union
13人制:ラグビーリーグ Rugby League
であり、13人制でリーグの単語が使われている。つまり日本のラグビーは15人制なのに13人制とリーグの文字が被るのだ。なのにどうしてジャパンラグビー リーグワンなんて名称にしたのだろう。次にラグビーに詳しい知人に会ったら尋ねてみよう。
秩父宮ラグビー場を過ぎれば青山通りまで200mほど。
さてこの後はどうするか。
2026年04月09日
国立競技場へ
3月28日に新宿御苑でサクラ巡りを終えて時刻はまだ12時半。そのまま帰るにはもったいない天気。そこでとりあえず国立競技場へ向かう。外苑の周回路からいつも見ていても、その敷地内まで立ち入ったことはなかったので。もちろん競技場の中までは見られないが。
新宿御苑の千駄ヶ谷門を出てJRの線路沿いに進む。左側は御苑の塀(へい)で最後に通った桜園地あたり。電車との距離はこれだけしかなく、苑内の南東側は電車の車輪と線路がきしむ騒音がうるさいのが新宿御苑のマイナス点。
高架下をくぐって、
千駄ヶ谷の駅を過ぎ、東京体育館の横を通り抜ける。
目の前に見えている国立競技場に気を取られて、それらの写真は撮り忘れた。
国立競技場に到着。
新宿御苑の千駄ヶ谷門からは7〜8分の距離。
近づいて外観の特徴である木製のルーバーを見上げる。
見えている部分までの高さは41.5m。屋根のてっぺんだと47.4m。
さらに近づくと今まで見たことのない未知の構造物のようで、軽いトリップ感を味わえる。ただし首をそらして上を見ているせいもある(^^ゞ
最上段のルーバーは屋根で覆われていて雨をしのげるようになってはいても、その機能にルーバーは関係ない。それより下のルーバーは細長い角材が隙間だらけで建物から突き出しているだけ。つまりこれらのルーバーに実用性はなく装飾のためにあるとわかる。(それが悪いといっているわけではない)
ところで建物で雨よけや日差しを遮る構造には軒(のき)と庇(ひさし)がある。画像はhttps://www.daiken.ne.jp/blog/detail.html?id=6316から引用
国立競技場のこのルーバー部分は何と呼ぶのだろうと調べたら、何と「軒庇」なる造語を作っていた!パソコンで変換できないよ。画像は公式ホームページから
さて2015年にまで遡ると、この競技場は既に国際コンペで決まっていたザハ・ハディド(イラク出身でイギリスの建築家)の案をスッタモンダして取り下げ、隈研吾(くま・けんご)の案に切り替えて建設したいきさつがある。
ザハ・ハディド案
隈研吾案
ザハ・ハディド案では建設費用がかさむとの理由だったものの、デザインで見るならザハ・ハディド案が圧倒的に素晴らしい。このようなランドマークとなり得る建築には独創性と、ある種のエグさも必要。そうでないと時代の風雪に耐えられない。エッフェル塔だって建設当時は無用にして醜悪と非難囂々だった。隈研吾の案はまるで無印良品のように無個性で人畜無害なデザイン。ファッションや家具ならそれもありだが、こんな巨大建築には向かないし退屈。
ほら、1964年(昭和39年)の東京オリンピックのときに、
丹下健三が設計した代々木競技場(体育館)だって。
これくらいイキってくれないと。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
スタジアムに沿って歩く。
何かプレートが見えたので、
近寄ってみると、2021年のオリンピックでメダルを獲得した人が刻まれていた。ずっと名前が残っていいね。
それにしてもコロナの影響で1年遅れて2021年にオリンピックを開催したのに、名称が東京2020オリンピックなのは未だに違和感がある。まあニイマルニイマルで覚えやすいけれど。
そのまま壁沿いに進む。
でも通路じゃ景色がつまらないので外に出ましょう。
国立競技場は三菱UFJフィナンシャル・グループが今年からネーミングライツ(命名権)を取得し「MUFGスタジアム」となった。正式名称は「国立競技場」のままで略称が「MUFG国立」と少しややこしい。まだ3ヶ月ちょっとしか経っていないからあまり浸透していないような。またエムユーは発音しにくいね。
そして写真右側に見えているのがドコモゲート。これはネーミングライツとは別のスポンサー契約で、4つある出入り口のひとつにドコモの名前がつけられている。運用開始は4月から。この日は4日前でもう看板は完成。
しかしこう企業名が並ぶと何となく「金まみれ」なイメージになるというかナショナルスタジアムとしての威厳がそがれるというか、そんな気がしなくもない。
ただし、それも仕方ないのだろう。
この日は何も開催されていなかった。そこで国立競技場で何をやっているのか、ちょっと興味を持って公式ホームページで調べてみるとビックリの数字。
2024年12月 スポーツ2件 イベント2件
2026年1月 スポーツ6件
2026年2月 スポーツ3件
2026年3月 スポーツ5件
2026年4月 イベント5件
2026年5月 スポーツ4件
2026年6月 スポーツ2件
2026年7月 イベント1件
確認できたのはこれだけ。6月以降はこれから埋まるのかも知れないが、とりあえず単純計算すると243日間で30件。稼働率は12.5%で月に4日足らずしかない。逆にいえば月のうち25日は休業。これじゃスポンサーなしではやっていけない。
もう少し歩く。
彫刻があった。
全体の広さの割にこういった飾りの要素は少なめに感じた。
最後にまたルーバーを見上げて、
ここで国立競技場とはお別れ。
建築面積6.9ヘクタールの巨大建物の回りを約半周した。
でも散歩はまだ続く。
新宿御苑の千駄ヶ谷門を出てJRの線路沿いに進む。左側は御苑の塀(へい)で最後に通った桜園地あたり。電車との距離はこれだけしかなく、苑内の南東側は電車の車輪と線路がきしむ騒音がうるさいのが新宿御苑のマイナス点。
高架下をくぐって、
千駄ヶ谷の駅を過ぎ、東京体育館の横を通り抜ける。
目の前に見えている国立競技場に気を取られて、それらの写真は撮り忘れた。
国立競技場に到着。
新宿御苑の千駄ヶ谷門からは7〜8分の距離。
近づいて外観の特徴である木製のルーバーを見上げる。
見えている部分までの高さは41.5m。屋根のてっぺんだと47.4m。
さらに近づくと今まで見たことのない未知の構造物のようで、軽いトリップ感を味わえる。ただし首をそらして上を見ているせいもある(^^ゞ
最上段のルーバーは屋根で覆われていて雨をしのげるようになってはいても、その機能にルーバーは関係ない。それより下のルーバーは細長い角材が隙間だらけで建物から突き出しているだけ。つまりこれらのルーバーに実用性はなく装飾のためにあるとわかる。(それが悪いといっているわけではない)
ところで建物で雨よけや日差しを遮る構造には軒(のき)と庇(ひさし)がある。画像はhttps://www.daiken.ne.jp/blog/detail.html?id=6316から引用
国立競技場のこのルーバー部分は何と呼ぶのだろうと調べたら、何と「軒庇」なる造語を作っていた!パソコンで変換できないよ。画像は公式ホームページから
さて2015年にまで遡ると、この競技場は既に国際コンペで決まっていたザハ・ハディド(イラク出身でイギリスの建築家)の案をスッタモンダして取り下げ、隈研吾(くま・けんご)の案に切り替えて建設したいきさつがある。
ザハ・ハディド案
隈研吾案
ザハ・ハディド案では建設費用がかさむとの理由だったものの、デザインで見るならザハ・ハディド案が圧倒的に素晴らしい。このようなランドマークとなり得る建築には独創性と、ある種のエグさも必要。そうでないと時代の風雪に耐えられない。エッフェル塔だって建設当時は無用にして醜悪と非難囂々だった。隈研吾の案はまるで無印良品のように無個性で人畜無害なデザイン。ファッションや家具ならそれもありだが、こんな巨大建築には向かないし退屈。
ほら、1964年(昭和39年)の東京オリンピックのときに、
丹下健三が設計した代々木競技場(体育館)だって。
これくらいイキってくれないと。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
スタジアムに沿って歩く。
何かプレートが見えたので、
近寄ってみると、2021年のオリンピックでメダルを獲得した人が刻まれていた。ずっと名前が残っていいね。
それにしてもコロナの影響で1年遅れて2021年にオリンピックを開催したのに、名称が東京2020オリンピックなのは未だに違和感がある。まあニイマルニイマルで覚えやすいけれど。
そのまま壁沿いに進む。
でも通路じゃ景色がつまらないので外に出ましょう。
国立競技場は三菱UFJフィナンシャル・グループが今年からネーミングライツ(命名権)を取得し「MUFGスタジアム」となった。正式名称は「国立競技場」のままで略称が「MUFG国立」と少しややこしい。まだ3ヶ月ちょっとしか経っていないからあまり浸透していないような。またエムユーは発音しにくいね。
そして写真右側に見えているのがドコモゲート。これはネーミングライツとは別のスポンサー契約で、4つある出入り口のひとつにドコモの名前がつけられている。運用開始は4月から。この日は4日前でもう看板は完成。
しかしこう企業名が並ぶと何となく「金まみれ」なイメージになるというかナショナルスタジアムとしての威厳がそがれるというか、そんな気がしなくもない。
ただし、それも仕方ないのだろう。
この日は何も開催されていなかった。そこで国立競技場で何をやっているのか、ちょっと興味を持って公式ホームページで調べてみるとビックリの数字。
2024年12月 スポーツ2件 イベント2件
2026年1月 スポーツ6件
2026年2月 スポーツ3件
2026年3月 スポーツ5件
2026年4月 イベント5件
2026年5月 スポーツ4件
2026年6月 スポーツ2件
2026年7月 イベント1件
確認できたのはこれだけ。6月以降はこれから埋まるのかも知れないが、とりあえず単純計算すると243日間で30件。稼働率は12.5%で月に4日足らずしかない。逆にいえば月のうち25日は休業。これじゃスポンサーなしではやっていけない。
もう少し歩く。
彫刻があった。
全体の広さの割にこういった飾りの要素は少なめに感じた。
最後にまたルーバーを見上げて、
ここで国立競技場とはお別れ。
建築面積6.9ヘクタールの巨大建物の回りを約半周した。
でも散歩はまだ続く。
2026年04月07日
新宿御苑でサクラ巡り その5
日本庭園の芝生広場。
ここで見逃せないのがこの変わった形のマツ。
ゴツゴツのプラタナスと同様に新宿御苑に来たら見るのを楽しみにしている。
これを夏目漱石が坊ちゃんの中で書いていた「ローマの松」のショート版とずっと思っていたが、昨年に多行松(タギョウショウ)だと知る。黒松を土台に赤松を接木して江戸時代後期に生み出された園芸品種。
(参考写真:これがローマの松で日本とはずいぶん樹形が違う)
幹は赤くても、
地面すれすれのところの樹皮は黒っぽくて黒松の痕跡が見える。
こういう植物は漢字も併記して欲しい。
タギョウショウを眺めながら芝生広場を離れ、
台湾建築の旧御凉亭を横目で見て、
前回に文句をつけた水たまりだらけの砂利道を進む。
本当にどうにかして欲しい。
こ、こ、これは!
まるで犬神家の一族で衝撃的だった、池から突き出ている脚のシーンのようだと思っていたサクラじゃないか。私の中で新宿御苑の隠れ名物だった。この写真は2022年4月の撮影。
こちらは昨年1月の姿。
特に変わりはなかったのに。
この1年ほどの間にバッサリ切り落とされたことになる。もともと上部は伐採されていて樹勢は弱っていたのだろうけれど、さらに老化が進んだのか。最近はサクラ倒木のニュースも多く仕方のないところ。
残ってるのはもうほとんど根元だけ。それでもそこから枝を伸ばして花を咲かせているのには驚く。これってまた大きくなるのか、あるいは最後の延命措置のようなもの? いずれにせよ君の股裂き姿が見られなくなって寂しいよ、犬神クン。
日本庭園と風景式庭園の境界まで戻ってきた。
先ほど歩いてきた中の池。
今度はその南沿いを少し東に戻る。
途中の橋で池を北側に渡って、
池とサクラとドコモタワー。
ドコモタワーの段々になっている部分はアンテナが納められていて、それゆえの形状らしいがエンパイヤステートビルのパクりにしか見えない。それと苑内のどこからでもこいつが視界に入ってきて超ジャマ。
この日、最後のサクラゾーンはその名も桜園地。先にも書いたが新宿御苑はソメイヨシノだけではないので眺めていて楽しい。
左がヤマザクラで、右がオオシマザクラ(大島桜)。
オオシマザクラは純白に近い。ソメイヨシノは桜色をしていなくて嫌いといつもディスるのに、オオシマザクラはなぜか好き。人間とは矛盾した生き物(^^ゞ
本日撮影の最高傑作。
どうよこの色の豊かなこと。
このソメイヨシノは幹の形がアートしていた。
アートが続く。
アートが終わった先に見えた真っ赤な花は、
モモ。
赤が目に眩しい。
奥には白やピンク、ミックスの源平咲きもあった。
いろいろなサクラ巡りをして楽しかった一日。以前に寒桜と八重桜のシーズンにも来ていて、これで新宿御苑のサクラを一通りは見たかな。でもまたときどき来ましょう。
昼過ぎに千駄ヶ谷門から退出。
ここで新発見。新宿御苑ではお花見シーズンピーク時は入場予約制をとっている。今年は3/28(土)・3/29(日)・4/4(土)・4/5(日)。この日は3月28日で、前日に午前10時の予約チケットを買ったのは初回に書いた通り。
しかし出口にこんな看板が。
予約は1時間刻みで、例えば午前10時の予約なら10時〜10時59分までに入場する必要があると思っていたのに、予約時刻以降ならいつ入場してもいい決まりになっている。看板の隣にいた係員にも尋ねて、その解釈で間違いなし。
それを知っていたら、この日は徐々に晴れる予報だったので昼頃に来たのに。でも晴れ待ちの間に温室を見たし、思っていたより早く晴れたし、また新宿御苑を見終えた後に他の場所へ足を伸ばす余裕も生まれて結果オーライ(死語?)。
おわり
ここで見逃せないのがこの変わった形のマツ。
ゴツゴツのプラタナスと同様に新宿御苑に来たら見るのを楽しみにしている。
これを夏目漱石が坊ちゃんの中で書いていた「ローマの松」のショート版とずっと思っていたが、昨年に多行松(タギョウショウ)だと知る。黒松を土台に赤松を接木して江戸時代後期に生み出された園芸品種。
(参考写真:これがローマの松で日本とはずいぶん樹形が違う)
幹は赤くても、
地面すれすれのところの樹皮は黒っぽくて黒松の痕跡が見える。
こういう植物は漢字も併記して欲しい。
タギョウショウを眺めながら芝生広場を離れ、
台湾建築の旧御凉亭を横目で見て、
前回に文句をつけた水たまりだらけの砂利道を進む。
本当にどうにかして欲しい。
こ、こ、これは!
まるで犬神家の一族で衝撃的だった、池から突き出ている脚のシーンのようだと思っていたサクラじゃないか。私の中で新宿御苑の隠れ名物だった。この写真は2022年4月の撮影。
こちらは昨年1月の姿。
特に変わりはなかったのに。
この1年ほどの間にバッサリ切り落とされたことになる。もともと上部は伐採されていて樹勢は弱っていたのだろうけれど、さらに老化が進んだのか。最近はサクラ倒木のニュースも多く仕方のないところ。
残ってるのはもうほとんど根元だけ。それでもそこから枝を伸ばして花を咲かせているのには驚く。これってまた大きくなるのか、あるいは最後の延命措置のようなもの? いずれにせよ君の股裂き姿が見られなくなって寂しいよ、犬神クン。
日本庭園と風景式庭園の境界まで戻ってきた。
先ほど歩いてきた中の池。
今度はその南沿いを少し東に戻る。
途中の橋で池を北側に渡って、
池とサクラとドコモタワー。
ドコモタワーの段々になっている部分はアンテナが納められていて、それゆえの形状らしいがエンパイヤステートビルのパクりにしか見えない。それと苑内のどこからでもこいつが視界に入ってきて超ジャマ。
この日、最後のサクラゾーンはその名も桜園地。先にも書いたが新宿御苑はソメイヨシノだけではないので眺めていて楽しい。
左がヤマザクラで、右がオオシマザクラ(大島桜)。
オオシマザクラは純白に近い。ソメイヨシノは桜色をしていなくて嫌いといつもディスるのに、オオシマザクラはなぜか好き。人間とは矛盾した生き物(^^ゞ
本日撮影の最高傑作。
どうよこの色の豊かなこと。
このソメイヨシノは幹の形がアートしていた。
アートが続く。
アートが終わった先に見えた真っ赤な花は、
モモ。
赤が目に眩しい。
奥には白やピンク、ミックスの源平咲きもあった。
いろいろなサクラ巡りをして楽しかった一日。以前に寒桜と八重桜のシーズンにも来ていて、これで新宿御苑のサクラを一通りは見たかな。でもまたときどき来ましょう。
昼過ぎに千駄ヶ谷門から退出。
ここで新発見。新宿御苑ではお花見シーズンピーク時は入場予約制をとっている。今年は3/28(土)・3/29(日)・4/4(土)・4/5(日)。この日は3月28日で、前日に午前10時の予約チケットを買ったのは初回に書いた通り。
しかし出口にこんな看板が。
予約は1時間刻みで、例えば午前10時の予約なら10時〜10時59分までに入場する必要があると思っていたのに、予約時刻以降ならいつ入場してもいい決まりになっている。看板の隣にいた係員にも尋ねて、その解釈で間違いなし。
それを知っていたら、この日は徐々に晴れる予報だったので昼頃に来たのに。でも晴れ待ちの間に温室を見たし、思っていたより早く晴れたし、また新宿御苑を見終えた後に他の場所へ足を伸ばす余裕も生まれて結果オーライ(死語?)。
おわり
2026年04月05日
新宿御苑でサクラ巡り その4
中の池南側にある子供広場の横を通って、
外周通路に入る。次に向かうのは日本庭園ゾーンでこれだと遠回りになるけれど、ちょっと人混みに疲れたので静かなところを歩こうかと。
そのおかげで、
たくさんのツバキが咲いているのが見られた。
それがサクラとコラボレーション。
このサクラは満開なのに茶色い葉桜だからヤマザクラ。
そのヤマザクラの根元に落ちたツバキの花が重なって!
誰かが並べて置いたのかな。でも木の後ろにも花がたくさん落ちているから、まれに見る偶然に遭遇したと思うとする。
外周通路を途中で右折。
枯れているのに落ちずに元気いっぱいな葉。
見習おう(^^ゞ
日本庭園に到着。
この池は上の池。もっとも名前は上の池〜中の池〜下の池と変わっても、すべてつながっているひとつの細長い池。
このヤナギは毎回撮っているように思う。
今はまだ色がちょっと浅い。
上の池の南側に回り込んで対岸の風景。
ところで日本庭園ゾーンの通路は砂利道。前日まではかなりの降水量でこの日も朝まで雨は残っていて、このように水たまりがいっぱい。どうして舗装しない? アスファルトじゃ雰囲気が壊れるなら石畳でもいいはず。
これはボケの花。
奥に色の濃いのも咲いていたが状態があまりよろしくなく。
きれいな花なのだけれど名前がなあ(^^ゞ 関西弁ではボケ=アホ=カスでバカを意味する。この不名誉な名前の由来はボケの実が瓜(ウリ)に似ており、木になる瓜で木瓜(モッカあるいはモッコウ)だったのがモケ→ボケに転訛したとされる。なおボケの漢字は今も木瓜。ただし瓜に似た実もあるが、ネットで画像検索すると丸い実の方が多い。
名前がボケに変わったのは江戸時代中期が定説。ちなみに関西弁のボケは、「惚ける」から派生した軽いニュアンスの用法は江戸時代後期には見られ、罵り言葉として使われだしたのは昭和になってかららしい。よく関西弁のアホ・ボケはそんなにキツい意味合いはないと言われるものの、言葉そのものより前後の文脈や口調しだい。それは標準語のバカだって同じ。ただカスはちょっと攻撃的。
話を植物のボケに戻すとボケの花は家紋によく用いられ、藤、桐、鷹の羽、片喰(かたばみ)と並んで5大家紋に数えられる。変形バージョンは織田信長も使っていて織田木瓜として有名。もっとも彼は7つもの家紋を用途ごとに使い分けていたが。家紋としての木瓜の読みはモッコウ(家紋の始まりは平安時代後期で、まだボケの名称になっていなかった)。
それほど昔から日本人に馴染みの深い伝統花木のボケなのに、あまり見かけないように思う。これといった名所もほとんどない。低木なので公園や庭園のメインになりづらいせいかも知れない。
いい花なんだけどな。
ツツジのように道路脇の植え込みで見られるようになるとうれしい。
しだれ桜と、
ソメイヨシノが並んで。
その前でツボミをつけているのはハナカイドウ。
ソメイヨシノが終わる頃にサクラに似た花を咲かせる。
ハナカイドウはバラ科リンゴ属で、サクラはバラ科サクラ属と遠い親戚。
ところでハナカイドウって花街道?と連想してしまうが漢字は花海棠。原産は中国で中国語読みのハイタンが日本語読みのカイドウになった。海棠は桜や梅と同じように名称であり、その単語自体に意味はない。花とついているのは実がなる海棠もありハナカイドウとミカイドウで区別するため。ミカイドウの果実は食用にもなるが、どちらかといえばこれも実を観賞する花木でナンテンみたいな存在。実の直径は1〜2cm。
ーーー続く
外周通路に入る。次に向かうのは日本庭園ゾーンでこれだと遠回りになるけれど、ちょっと人混みに疲れたので静かなところを歩こうかと。
そのおかげで、
たくさんのツバキが咲いているのが見られた。
それがサクラとコラボレーション。
このサクラは満開なのに茶色い葉桜だからヤマザクラ。
そのヤマザクラの根元に落ちたツバキの花が重なって!
誰かが並べて置いたのかな。でも木の後ろにも花がたくさん落ちているから、まれに見る偶然に遭遇したと思うとする。
外周通路を途中で右折。
枯れているのに落ちずに元気いっぱいな葉。
見習おう(^^ゞ
日本庭園に到着。
この池は上の池。もっとも名前は上の池〜中の池〜下の池と変わっても、すべてつながっているひとつの細長い池。
このヤナギは毎回撮っているように思う。
今はまだ色がちょっと浅い。
上の池の南側に回り込んで対岸の風景。
ところで日本庭園ゾーンの通路は砂利道。前日まではかなりの降水量でこの日も朝まで雨は残っていて、このように水たまりがいっぱい。どうして舗装しない? アスファルトじゃ雰囲気が壊れるなら石畳でもいいはず。
これはボケの花。
奥に色の濃いのも咲いていたが状態があまりよろしくなく。
きれいな花なのだけれど名前がなあ(^^ゞ 関西弁ではボケ=アホ=カスでバカを意味する。この不名誉な名前の由来はボケの実が瓜(ウリ)に似ており、木になる瓜で木瓜(モッカあるいはモッコウ)だったのがモケ→ボケに転訛したとされる。なおボケの漢字は今も木瓜。ただし瓜に似た実もあるが、ネットで画像検索すると丸い実の方が多い。
名前がボケに変わったのは江戸時代中期が定説。ちなみに関西弁のボケは、「惚ける」から派生した軽いニュアンスの用法は江戸時代後期には見られ、罵り言葉として使われだしたのは昭和になってかららしい。よく関西弁のアホ・ボケはそんなにキツい意味合いはないと言われるものの、言葉そのものより前後の文脈や口調しだい。それは標準語のバカだって同じ。ただカスはちょっと攻撃的。
話を植物のボケに戻すとボケの花は家紋によく用いられ、藤、桐、鷹の羽、片喰(かたばみ)と並んで5大家紋に数えられる。変形バージョンは織田信長も使っていて織田木瓜として有名。もっとも彼は7つもの家紋を用途ごとに使い分けていたが。家紋としての木瓜の読みはモッコウ(家紋の始まりは平安時代後期で、まだボケの名称になっていなかった)。
それほど昔から日本人に馴染みの深い伝統花木のボケなのに、あまり見かけないように思う。これといった名所もほとんどない。低木なので公園や庭園のメインになりづらいせいかも知れない。
いい花なんだけどな。
ツツジのように道路脇の植え込みで見られるようになるとうれしい。
しだれ桜と、
ソメイヨシノが並んで。
その前でツボミをつけているのはハナカイドウ。
ソメイヨシノが終わる頃にサクラに似た花を咲かせる。
ハナカイドウはバラ科リンゴ属で、サクラはバラ科サクラ属と遠い親戚。
ところでハナカイドウって花街道?と連想してしまうが漢字は花海棠。原産は中国で中国語読みのハイタンが日本語読みのカイドウになった。海棠は桜や梅と同じように名称であり、その単語自体に意味はない。花とついているのは実がなる海棠もありハナカイドウとミカイドウで区別するため。ミカイドウの果実は食用にもなるが、どちらかといえばこれも実を観賞する花木でナンテンみたいな存在。実の直径は1〜2cm。
ーーー続く
2026年04月04日
新宿御苑でサクラ巡り その3
プラタナス並木は素敵なのに、センターの植え込みに芸がなさ過ぎて残念な整形式庭園を背にすると風景式庭園が広がっている。整形式と風景式については以前に少しだけ解説したので、ここを興味があれば読んでちょうだい→https://wassho.livedoor.blog/archives/53421344.html
でもこれが風景式庭園だと認識している人はほとんどいないんじゃないかな。一般的な感覚でいえばビッグサイズの芝生広場。庭園とは作り込んだものとの観念があるから風景式庭園は日本人にはピンとこない。
それでもサクラは楽しめてヨシ。
ところで整形式と風景式の間には不自然な更地がある。
実はここに元赤坂にある迎賓館のようなベルサイユ風の宮殿が建築されるはずだったが、日露戦争に戦費を取られて国家財政が苦しくなり中止になったいきさつがある。これが当時の完成予想図。
時間の経過で並べると
迎賓館(当初は東宮御所=皇太子の住まいとして建設)
1899年着工〜1909年竣工(明治32年〜42年)
農業試験場から新宿御苑への改造、含む宮殿建設計画
1901年立案〜1906年竣工(明治34年〜39年)
日露戦争1904〜1905年(明治37年〜38年)
日露戦争の5年前に着工していた東宮御所は予定通り完成させたものの、工期最盛期に戦争が始まった新宿御苑宮殿はそのとばっちりを受けた模様。なお当時の新宿御苑は今と違って皇室のための施設である。もっとも同じ宮殿でも建設の必要性があった東宮御所と違って、新宿御苑のそれは農業試験場から庭園への改造を依頼されたフランス人造園家が、整形式庭園は宮殿がつきもの程度で配置しただけで、その使い道が明確でなかったのも影響したかも知れない。
なお迎賓館は間口が約120mで奥行きが約85m。新宿御苑に計画されていた宮殿は完成予想図から推測すると間口50m奥行き30m程度かな。それでも充分に大きな建物。ここに西洋宮殿風の建物があれば新宿御苑の景色もずいぶんと違ったはず。
参考までに同縮尺での航空写真。
ただし宮殿計画が中止になって120年ほど経つのに、今でも砂利を敷いただけの更地のままなのが解せない。新宿御苑公式ホームページには「宮殿建設は実現しなかったものの、現在もバラ花壇の前には広いスペースが確保され、その先に広がる風景式庭園が臨めます」とまったく意に介していない様子。芝生を張るとかフラワーガーデンにするとか活用方法はあるはず。なんなら宮殿風の建物を建ててもいいと思うゾ。なぜなら前回に書いたように中央部分をもっとまともな幾何学模様に造り直すとして(勝手に決めた)、整形式庭園の美しさを堪能するには上から眺める必要がある。
風景式&背形式庭園を離れて第三目的地の下の池にあるしだれ桜に向かう。新宿御苑が素晴らしいのはいろいろなサクラがあって、ソメイヨシノだけの白一色でないところ。
多くの人が集まって写真を撮っていいるこの大きなサクラは、
地面すれすれにまで枝が伸びている珍しい樹形。
掲示はなかったが品種はたぶんソメイヨシノ。
なぜか苑内の他のソメイヨシノと違ってこれは満開で、
枝も大きく張りだしておりまさに咲き乱れるとの表現がぴったり。
このタイプでは中に入ってみるのがお約束。
サクラ越しのプラタネスを狙うも遠すぎて企画倒れ(^^ゞ
さらに進む。
しだれ桜が見えてきた。
状態は想像通りーーー
ソメイヨシノと一緒に。
5分散りといったところ。
でもたくさん花のあるところを眺めれば充分に楽しめる。
色もキレイでこのしだれ桜はモフモフに咲くタイプ。
青空だけじゃなくて緑も背景にしましょう。
隣のしだれ桜は白っぽい。
この一画はいくつもの種類のしだれ桜が植えられている。
右はヤマザクラ系。
逆光で透けて見える姿は白いフジを思い出した。
いつかここのしだれ桜が満開のときに来られますように。
これが下の池。
その隣に中の池が連なっている。
中の池沿いを日本庭園方向に歩くと、
またしだれ桜があって、
サンシュユもまだ咲いていた。
ウメと同時期と思っていたのに意外と開花期間が長い。
新宿御苑のツツジは私の好きな丸い刈り込み。
その背景にサクラ。
近くのサクラを見上げたり遠くのサクラを眺めたり。
イヌザクラは初めて知った。
樹皮や枝に臭気があるってイヤなサクラだな。
それに花もサクラのイメージとはずいぶんと違う。
中の池の東端、日本庭園との境目付近までやって来た。
ーーー続く
でもこれが風景式庭園だと認識している人はほとんどいないんじゃないかな。一般的な感覚でいえばビッグサイズの芝生広場。庭園とは作り込んだものとの観念があるから風景式庭園は日本人にはピンとこない。
それでもサクラは楽しめてヨシ。
ところで整形式と風景式の間には不自然な更地がある。
実はここに元赤坂にある迎賓館のようなベルサイユ風の宮殿が建築されるはずだったが、日露戦争に戦費を取られて国家財政が苦しくなり中止になったいきさつがある。これが当時の完成予想図。
時間の経過で並べると
迎賓館(当初は東宮御所=皇太子の住まいとして建設)
1899年着工〜1909年竣工(明治32年〜42年)
農業試験場から新宿御苑への改造、含む宮殿建設計画
1901年立案〜1906年竣工(明治34年〜39年)
日露戦争1904〜1905年(明治37年〜38年)
日露戦争の5年前に着工していた東宮御所は予定通り完成させたものの、工期最盛期に戦争が始まった新宿御苑宮殿はそのとばっちりを受けた模様。なお当時の新宿御苑は今と違って皇室のための施設である。もっとも同じ宮殿でも建設の必要性があった東宮御所と違って、新宿御苑のそれは農業試験場から庭園への改造を依頼されたフランス人造園家が、整形式庭園は宮殿がつきもの程度で配置しただけで、その使い道が明確でなかったのも影響したかも知れない。
なお迎賓館は間口が約120mで奥行きが約85m。新宿御苑に計画されていた宮殿は完成予想図から推測すると間口50m奥行き30m程度かな。それでも充分に大きな建物。ここに西洋宮殿風の建物があれば新宿御苑の景色もずいぶんと違ったはず。
参考までに同縮尺での航空写真。
ただし宮殿計画が中止になって120年ほど経つのに、今でも砂利を敷いただけの更地のままなのが解せない。新宿御苑公式ホームページには「宮殿建設は実現しなかったものの、現在もバラ花壇の前には広いスペースが確保され、その先に広がる風景式庭園が臨めます」とまったく意に介していない様子。芝生を張るとかフラワーガーデンにするとか活用方法はあるはず。なんなら宮殿風の建物を建ててもいいと思うゾ。なぜなら前回に書いたように中央部分をもっとまともな幾何学模様に造り直すとして(勝手に決めた)、整形式庭園の美しさを堪能するには上から眺める必要がある。
風景式&背形式庭園を離れて第三目的地の下の池にあるしだれ桜に向かう。新宿御苑が素晴らしいのはいろいろなサクラがあって、ソメイヨシノだけの白一色でないところ。
多くの人が集まって写真を撮っていいるこの大きなサクラは、
地面すれすれにまで枝が伸びている珍しい樹形。
掲示はなかったが品種はたぶんソメイヨシノ。
なぜか苑内の他のソメイヨシノと違ってこれは満開で、
枝も大きく張りだしておりまさに咲き乱れるとの表現がぴったり。
このタイプでは中に入ってみるのがお約束。
サクラ越しのプラタネスを狙うも遠すぎて企画倒れ(^^ゞ
さらに進む。
しだれ桜が見えてきた。
状態は想像通りーーー
ソメイヨシノと一緒に。
5分散りといったところ。
でもたくさん花のあるところを眺めれば充分に楽しめる。
色もキレイでこのしだれ桜はモフモフに咲くタイプ。
青空だけじゃなくて緑も背景にしましょう。
隣のしだれ桜は白っぽい。
この一画はいくつもの種類のしだれ桜が植えられている。
右はヤマザクラ系。
逆光で透けて見える姿は白いフジを思い出した。
いつかここのしだれ桜が満開のときに来られますように。
これが下の池。
その隣に中の池が連なっている。
中の池沿いを日本庭園方向に歩くと、
またしだれ桜があって、
サンシュユもまだ咲いていた。
ウメと同時期と思っていたのに意外と開花期間が長い。
新宿御苑のツツジは私の好きな丸い刈り込み。
その背景にサクラ。
近くのサクラを見上げたり遠くのサクラを眺めたり。
イヌザクラは初めて知った。
樹皮や枝に臭気があるってイヤなサクラだな。
それに花もサクラのイメージとはずいぶんと違う。
中の池の東端、日本庭園との境目付近までやって来た。
ーーー続く
2026年04月02日
新宿御苑でサクラ巡り その2
温室を出た横の通路。
これが東方向で、
こちらが西方向。
天気は西から変わるというが、温室にいた30分ほどでわずかながら晴れ間が増えてきた。もっとも気象庁の定義では全天に占める雲の割合が0〜1割なら快晴、2〜8割で晴れなので天気予報にはこれでも晴れマークがつく。一般的な感覚だと本日は半曇りかな。
向こうに見えるのが大木戸門の出入り口。
新宿門と較べると混雑は少ない。
大木戸門から延びる通路にあるサクラとツバキのコラボレーション。
左側が前回でも紹介したオトメツバキ。
右側が普通の赤いツバキ。
赤いツバキのほうは葉が黄色くなって色が賑やか。
ところでツバキの一般的な開花時期は12月〜4月と長い。でも私はツバキは冬に咲く花との先入観があり、ウメと一緒ならまだしもサクラと並んでいると違和感を感じてしまう。
その原因ははっきりしていて、小学校の頃に雪の上に落ちているツバキの花を見た経験。ツバキは花びらがバラバラになって散るのではなく、まだ花びらがそれほど傷んでいないうちに花の形を保ったまま丸ごとストンと落ちる。そんな花は初めて見たし、白い雪の上に真っ赤な散っていない花の姿が強烈に印象的で「あれ何〜?」「ツバキ」と教えてもらって、それ以来ツバキ=冬となってしまった。
でも何年か前に、ツバキとサザンカは日が強く照っている明るい場所だと、その派手な色と形で何となく南国植物のようにも見えるとわかり、どうにも脳内が困っている(^^ゞ
玉藻池に向かう途中の色違いのサクラの競演。
このピンクは河津桜に似ているものの、
河津桜の時期は終わっているのでヨウコウ(陽光)という品種だと思う。
その近くに植えられていたヨウコウより色の濃い横浜緋桜はまだ幼木。
これはジャノメエリカ。アップを撮り忘れたが紫色をした草ではなく、色が付いている部分は小さな花の集まり。
タカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸・桜)が見えてきた。
しかしその手前にあって無視して素通りできないのがこれ。
幹や枝を白くした盆栽のようだし流木のようでもある。
これも作庭要素?ナゾの配置。
新宿御苑に4つある池のひとつ玉藻池(たまもいけ)。
ここにある灯籠はデカい!
玉藻池は江戸時代に信州の高遠藩・内藤家の屋敷に造られた庭園の一部。そして内藤家の屋敷がどうしてここにあったのかのエピソードが興味深い。
三河岡崎に生まれ徳川家康の小姓(世話係)をしていたのが内藤清成。つまり最古参の家来。江戸時代的な歴史用語でなら譜代の家臣。家康と苦楽を共にし多くの戦を勝ち抜き、家康が秀吉に関東への国替えを命じられた際には鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣も務めた。
それまでの功績が認められ内藤清成は家康より「馬を走らせて回った範囲すべての土地を与える」と破格の褒美をもらう。内藤は「東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保」まで白馬で駆け回ったと伝わる。
その地名が付いた駅を直線で結んだのがこの地図。
皇居=江戸城より大きいやないかい(^^ゞ
そしてこの広い敷地の玉藻池当たりに内藤は屋敷を構えた。
上の地図は現在の駅と駅を単純に結んだだけなので相当に広くなっているが、資料によると内藤清成が拝領したのは20万余坪となっている。仮にマックスで23万坪だとすると、17.8万坪ある新宿御苑より2回り大きい程度で、駅を直線で結んだ面積の半分弱くらいか。江戸城=皇居の宮殿部分と外苑部分の総面積は230ヘクタール=70万坪。まあ家康も江戸城より広い土地は与えないだろうし。
それでも家康が住み江戸城の中心であった江戸城本丸(現在の皇居東御苑:21ヘクタール:6.35万坪)よりはるかに広い敷地。さすが家康は太っ腹とみるか、内藤清成が白馬を走らせたときにそこは何もない荒れ地だったはずで「この欲張り者に土地を整備させよう」と考えていたのか。
ただしどの資料にも内藤清成が20万余坪を拝領と書かれているものの、それについてはちょっと疑いも持っている。ネットで得られる情報はコピペにコピペを重ねたものが多く、最初が間違っている場合もあるから鵜呑みにできないとはいつも書いているところ。20万余坪の出所はネット以前の資料のようだが、それでも同じことがいえる。
そう考える理由は江戸時代の面積単位。
歩(ぶ)=坪
畝(せ)=30坪
反(たん)=300坪
町(ちょう)=3000坪
今と違って面積を示すのは坪だけではなく、坪は面積の中で最も小さな単位。こんな江戸城並みに広い面積を記すのに坪を使うか?との疑問。別に内藤清成が手にした正確な面積や地図を知りたいと思っているわけじゃないにせよ、ちょっと気になる。誰かが町で記されていた資料を現代人にわかりやすいよう坪に換算した可能性はあるが。
それはさておき、
その後、清成より5代後の内藤清枚が現在の伊那市にあった高遠(たかとう)藩の城主となる。徳川家直属の家臣から城持ちの大名への出世。なお一般に高遠藩内藤家と記されるのは城主(=藩主)が保科家〜鳥居家〜内藤家と変遷したのを区別するため。
とはいっても石高はわずかに3万3000石。家康から拝領した土地の広さと身分がまったく釣り合っていない。そこで時代が下るにつれても徐々に土地を幕府に返納していく。
それでも明治になった時点でまだ10万坪ほどを所有しており、それに元は内藤家の土地だった隣接地を合わせた17万8000坪(58.3ヘクタール)で誕生したのが、新宿御苑の前身である近代農業振興を目的とした内藤新宿試験場。内藤の名前は現在も新宿区に町名として残っていて新宿御苑も新宿区内藤町11番地。とはいっても内藤町の8割ほどは新宿御苑が占めている。
さて本日の第一目的であるタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸桜)。このサクラを初めて知ったのは芦花公園。ソメイヨシノの開花宣言が出る頃に満開を迎える。花の咲き方はソメイヨシノに似ているが、ソメイヨシノと違って淡いピンクすなわち桜色なのでお気に入り。
遠目ではそこそこキレイだったとはいえ、この日は既にソメイヨシノの満開宣言日。近づくと見頃過ぎな感はやはり否めない。
隣のソメイヨシノとの色の違いを楽しみましょう。
ところでこのタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸桜)はその名前の通り高遠(現在の長野県伊那市)地方の固有種。分類的には江戸彼岸と近畿豆桜の自然交雑種と見られている。ちなみにソメイヨシノは同じく江戸彼岸と大島桜の人工交配(自然交雑説もあり)。
そして高遠藩の時代からかどうかは不明なものの、なぜか現在でも門外不出の桜とされている。都内で植えられているのは新宿御苑と新宿周辺に数カ所、世田谷区の芦花公園のみ。そのうち御苑を含む新宿区内については、前述した高遠藩が幕府に返還した土地が「内藤新宿」という甲州街道で日本橋から最初の宿場町となり、それが現在の新宿や新宿区につながったので高遠の「門内」であるとの笑える理由。芦花公園については最初は門外不出を理由に当時の高遠町(現在は合併して伊那市)から断られたものを、東京都知事が直談判して移植したとか。
いいサクラなんだから高遠の人たちにはもっと心を広く持って、
このサクラを日本中に広めてもらいたいね。
玉藻池を離れて第二目的であるプラタナスのある整形式庭園に向かう。
これはアオキの新芽とつぼみ(たぶん)。
苑内のそこら中で芽吹いていた。
あと少し。
ツバキや高いところにある夏みかん?を眺めて、
やって来ましたプラタナス並木!
たまりませんな(^^ゞ このゴツゴツ感。
以前に書いた「プラタナスのゴツゴツ問題」について、その後は特に調べていないけれど、おそらくは剪定で枝が短く切られる→でもパワーが有り余ってゴツゴツ変形しているのだと想像している。
プラタナス並木は東西に延びていて先ほどの写真は一番北側。
その隣に中央の木を共有した少し幅の狭い並木がある。
その並木を少し外側で眺める。
もうちょっと離れて。
もっと離れて。
自分でも笑うほど、この時期の葉がなくてゴツゴツむき出しのプラタナスが好き。
プラタナス並木は南側にもあって、その間に挟まれているのが整形式庭園。整形式とはフランス発祥で幾何学模様的に木々を配置するのが特徴。ある意味人工的な造園美。しかし新宿御苑のはごく普通に植え込みがあるだけで、この程度で整形式と呼ぶのは間違いだと思っている。
(参考写真↓ ベルサイユ宮殿のオレンジ庭園)
南側のプラタナス並木。
北側と変わりはないのに毎回必ず4列すべて見て帰る(^^ゞ
お気づきのように中央の植え込みを挟んでプラタナス並木は左右対称。整形式の造園作法には幾何学模様だけでなく左右対称も含まれる。だから正確にはプラタナス並木を含めた全体が新宿御苑の整形式庭園な訳だけれど、このプラタナス並木が素晴らしいがゆえに、中央の植え込み部分をもっと頑張って欲しいと願っている。
最後にまたゴツゴツを眺めましょう。
中央部の周辺にはバラが植えられている。新宿御苑はバラの名所に名を連ねているとはいえ、写真で見える細長い花壇が周りを囲んでいるだけの規模で、なおかつ植え方にも芸がないので今までバラを目当てに見に来たことはない。関係者の皆さん、幾何学的にバラを配置した超エキセントリックな整形式庭園を!
ーーー続く
これが東方向で、
こちらが西方向。
天気は西から変わるというが、温室にいた30分ほどでわずかながら晴れ間が増えてきた。もっとも気象庁の定義では全天に占める雲の割合が0〜1割なら快晴、2〜8割で晴れなので天気予報にはこれでも晴れマークがつく。一般的な感覚だと本日は半曇りかな。
向こうに見えるのが大木戸門の出入り口。
新宿門と較べると混雑は少ない。
大木戸門から延びる通路にあるサクラとツバキのコラボレーション。
左側が前回でも紹介したオトメツバキ。
右側が普通の赤いツバキ。
赤いツバキのほうは葉が黄色くなって色が賑やか。
ところでツバキの一般的な開花時期は12月〜4月と長い。でも私はツバキは冬に咲く花との先入観があり、ウメと一緒ならまだしもサクラと並んでいると違和感を感じてしまう。
その原因ははっきりしていて、小学校の頃に雪の上に落ちているツバキの花を見た経験。ツバキは花びらがバラバラになって散るのではなく、まだ花びらがそれほど傷んでいないうちに花の形を保ったまま丸ごとストンと落ちる。そんな花は初めて見たし、白い雪の上に真っ赤な散っていない花の姿が強烈に印象的で「あれ何〜?」「ツバキ」と教えてもらって、それ以来ツバキ=冬となってしまった。
でも何年か前に、ツバキとサザンカは日が強く照っている明るい場所だと、その派手な色と形で何となく南国植物のようにも見えるとわかり、どうにも脳内が困っている(^^ゞ
玉藻池に向かう途中の色違いのサクラの競演。
このピンクは河津桜に似ているものの、
河津桜の時期は終わっているのでヨウコウ(陽光)という品種だと思う。
その近くに植えられていたヨウコウより色の濃い横浜緋桜はまだ幼木。
これはジャノメエリカ。アップを撮り忘れたが紫色をした草ではなく、色が付いている部分は小さな花の集まり。
タカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸・桜)が見えてきた。
しかしその手前にあって無視して素通りできないのがこれ。
幹や枝を白くした盆栽のようだし流木のようでもある。
これも作庭要素?ナゾの配置。
新宿御苑に4つある池のひとつ玉藻池(たまもいけ)。
ここにある灯籠はデカい!
玉藻池は江戸時代に信州の高遠藩・内藤家の屋敷に造られた庭園の一部。そして内藤家の屋敷がどうしてここにあったのかのエピソードが興味深い。
三河岡崎に生まれ徳川家康の小姓(世話係)をしていたのが内藤清成。つまり最古参の家来。江戸時代的な歴史用語でなら譜代の家臣。家康と苦楽を共にし多くの戦を勝ち抜き、家康が秀吉に関東への国替えを命じられた際には鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣も務めた。
それまでの功績が認められ内藤清成は家康より「馬を走らせて回った範囲すべての土地を与える」と破格の褒美をもらう。内藤は「東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保」まで白馬で駆け回ったと伝わる。
その地名が付いた駅を直線で結んだのがこの地図。
皇居=江戸城より大きいやないかい(^^ゞ
そしてこの広い敷地の玉藻池当たりに内藤は屋敷を構えた。
上の地図は現在の駅と駅を単純に結んだだけなので相当に広くなっているが、資料によると内藤清成が拝領したのは20万余坪となっている。仮にマックスで23万坪だとすると、17.8万坪ある新宿御苑より2回り大きい程度で、駅を直線で結んだ面積の半分弱くらいか。江戸城=皇居の宮殿部分と外苑部分の総面積は230ヘクタール=70万坪。まあ家康も江戸城より広い土地は与えないだろうし。
それでも家康が住み江戸城の中心であった江戸城本丸(現在の皇居東御苑:21ヘクタール:6.35万坪)よりはるかに広い敷地。さすが家康は太っ腹とみるか、内藤清成が白馬を走らせたときにそこは何もない荒れ地だったはずで「この欲張り者に土地を整備させよう」と考えていたのか。
ただしどの資料にも内藤清成が20万余坪を拝領と書かれているものの、それについてはちょっと疑いも持っている。ネットで得られる情報はコピペにコピペを重ねたものが多く、最初が間違っている場合もあるから鵜呑みにできないとはいつも書いているところ。20万余坪の出所はネット以前の資料のようだが、それでも同じことがいえる。
そう考える理由は江戸時代の面積単位。
歩(ぶ)=坪
畝(せ)=30坪
反(たん)=300坪
町(ちょう)=3000坪
今と違って面積を示すのは坪だけではなく、坪は面積の中で最も小さな単位。こんな江戸城並みに広い面積を記すのに坪を使うか?との疑問。別に内藤清成が手にした正確な面積や地図を知りたいと思っているわけじゃないにせよ、ちょっと気になる。誰かが町で記されていた資料を現代人にわかりやすいよう坪に換算した可能性はあるが。
それはさておき、
その後、清成より5代後の内藤清枚が現在の伊那市にあった高遠(たかとう)藩の城主となる。徳川家直属の家臣から城持ちの大名への出世。なお一般に高遠藩内藤家と記されるのは城主(=藩主)が保科家〜鳥居家〜内藤家と変遷したのを区別するため。
とはいっても石高はわずかに3万3000石。家康から拝領した土地の広さと身分がまったく釣り合っていない。そこで時代が下るにつれても徐々に土地を幕府に返納していく。
それでも明治になった時点でまだ10万坪ほどを所有しており、それに元は内藤家の土地だった隣接地を合わせた17万8000坪(58.3ヘクタール)で誕生したのが、新宿御苑の前身である近代農業振興を目的とした内藤新宿試験場。内藤の名前は現在も新宿区に町名として残っていて新宿御苑も新宿区内藤町11番地。とはいっても内藤町の8割ほどは新宿御苑が占めている。
さて本日の第一目的であるタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸桜)。このサクラを初めて知ったのは芦花公園。ソメイヨシノの開花宣言が出る頃に満開を迎える。花の咲き方はソメイヨシノに似ているが、ソメイヨシノと違って淡いピンクすなわち桜色なのでお気に入り。
遠目ではそこそこキレイだったとはいえ、この日は既にソメイヨシノの満開宣言日。近づくと見頃過ぎな感はやはり否めない。
隣のソメイヨシノとの色の違いを楽しみましょう。
ところでこのタカトオコヒガンザクラ(高遠・小・彼岸桜)はその名前の通り高遠(現在の長野県伊那市)地方の固有種。分類的には江戸彼岸と近畿豆桜の自然交雑種と見られている。ちなみにソメイヨシノは同じく江戸彼岸と大島桜の人工交配(自然交雑説もあり)。
そして高遠藩の時代からかどうかは不明なものの、なぜか現在でも門外不出の桜とされている。都内で植えられているのは新宿御苑と新宿周辺に数カ所、世田谷区の芦花公園のみ。そのうち御苑を含む新宿区内については、前述した高遠藩が幕府に返還した土地が「内藤新宿」という甲州街道で日本橋から最初の宿場町となり、それが現在の新宿や新宿区につながったので高遠の「門内」であるとの笑える理由。芦花公園については最初は門外不出を理由に当時の高遠町(現在は合併して伊那市)から断られたものを、東京都知事が直談判して移植したとか。
いいサクラなんだから高遠の人たちにはもっと心を広く持って、
このサクラを日本中に広めてもらいたいね。
玉藻池を離れて第二目的であるプラタナスのある整形式庭園に向かう。
これはアオキの新芽とつぼみ(たぶん)。
苑内のそこら中で芽吹いていた。
あと少し。
ツバキや高いところにある夏みかん?を眺めて、
やって来ましたプラタナス並木!
たまりませんな(^^ゞ このゴツゴツ感。
以前に書いた「プラタナスのゴツゴツ問題」について、その後は特に調べていないけれど、おそらくは剪定で枝が短く切られる→でもパワーが有り余ってゴツゴツ変形しているのだと想像している。
プラタナス並木は東西に延びていて先ほどの写真は一番北側。
その隣に中央の木を共有した少し幅の狭い並木がある。
その並木を少し外側で眺める。
もうちょっと離れて。
もっと離れて。
自分でも笑うほど、この時期の葉がなくてゴツゴツむき出しのプラタナスが好き。
プラタナス並木は南側にもあって、その間に挟まれているのが整形式庭園。整形式とはフランス発祥で幾何学模様的に木々を配置するのが特徴。ある意味人工的な造園美。しかし新宿御苑のはごく普通に植え込みがあるだけで、この程度で整形式と呼ぶのは間違いだと思っている。
(参考写真↓ ベルサイユ宮殿のオレンジ庭園)
南側のプラタナス並木。
北側と変わりはないのに毎回必ず4列すべて見て帰る(^^ゞ
お気づきのように中央の植え込みを挟んでプラタナス並木は左右対称。整形式の造園作法には幾何学模様だけでなく左右対称も含まれる。だから正確にはプラタナス並木を含めた全体が新宿御苑の整形式庭園な訳だけれど、このプラタナス並木が素晴らしいがゆえに、中央の植え込み部分をもっと頑張って欲しいと願っている。
最後にまたゴツゴツを眺めましょう。
中央部の周辺にはバラが植えられている。新宿御苑はバラの名所に名を連ねているとはいえ、写真で見える細長い花壇が周りを囲んでいるだけの規模で、なおかつ植え方にも芸がないので今までバラを目当てに見に来たことはない。関係者の皆さん、幾何学的にバラを配置した超エキセントリックな整形式庭園を!
ーーー続く

















































































































































































































































































































































