2011年12月09日
映画「オーケストラ」〜バックグラウンド・ストーリー
たまたまレンタルした映画「オーケストラ」。観たかったからではなく、ツタヤでは4枚借りるとで1000円になるので、その枚数合わせのために選んだ作品。でも、なかなかよかった。どれくらいよかったかというと、わざわざブログに書くほどにである。
共産主義時代の政治的なイザコザから、30年前にモスクワのボリショイ・オーケストラを解雇された元楽団員達が、パリでボリショイ・オーケストラになりすまして演奏するというストーリー。公開は1年ほど前。まだ公式サイトが残っているので詳しくはそちらで。
主演のオッサン。アレクセイ・グシュコブというらしい。
写真は指揮者の正装をしているし、決めポーズだから渋い感じだけれど、けっこうブオトコ。日本じゃ不細工だと実力があっても脇役止まり。例外は渥美清くらいか。不細工でも実力のある俳優をメインの映画を作れば、日本映画も幅が広がるのに。
同じく主演のメラニー・ロラン。
名前は知らなかったが、以前ブログにも書いたParisという映画にも出ていたから顔は覚えていた。とにかく気絶するほど美しい(^^ゞ
さて、おもしろかったとは書いたが、実はこの映画の最初から2/3位まではあまり出来がよくない。何となくストーリーも演出も、練られていない感じの平凡なコメディタッチ。ときどきメラニー・ロランが出てくるから我慢できるレベル。
ラスト15分くらいで、まんまとボリショイ・オーケストラになりすまして、パリで満員の聴衆を前にして演奏するシーンになる。ここが圧倒的に素晴らしい。終わりよければすべてヨシの典型例。ちなみにメラニー・ロランは偽楽団員ではなく、バイオリン協奏曲のソリストとしてコンサートに呼ばれているという設定。
どう素晴らしいかーーーそれを私の文章力で表現できるわけがない(^^ゞ。
是非レンタルしてください。でも書かないと話が進まないので、ここからは、このDVDを観ないことには伝わらないことを承知で書く。
素晴らしい理由のひとつは、演奏する曲が素晴らしいからである。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。そういわれてもピンとこないかも知れないが、名曲中の名曲でCMなんかでもたまに使われているので聴けば知っている人は多いと思う。(←リンク先のユーチューブは、この映画のラストシーンの一部。いずれ削除される可能性もある) ちなみにチャイコフスキーはピアノ協奏曲は3番まで、交響曲は6番まで残しているけれど、なぜかバイオリン協奏曲は1つだけ。
しかしチャイコフスキーのバイオリン協奏曲はCDも持っている好きな曲だし、何度も聴いている。それでも、この映画で聴いた(観た)時は格段にのめり込んだ。
それはやっぱり映画にはストーリーがあるから。実はメラニー・ロランの母親も30年前に解雇された楽団員の一人でーーー非業の死を遂げーーー彼女は会ったことのない母親への想いをこの曲にーーーというようなストーリー設定になっている。けっこう胸に迫るものがあるので、このラストシーンで泣く人もいるかも知れない。
ドラマやCMでバックに流れる音楽は重要である。選曲によって印象はガラッと変わる。ニュース番組の特集コーナーでもドキュメンタリーをしみじみと見せたいときは、それっぽい曲を流すというセコイことをしている。いわゆるバックグラウンド・ミュージック。映像を引き立てる演出の手法である。
この映画を観て気づいたのはバックグラウンド・ストーリーというのもあり得ること。もしDVDを観た後に冷静になって考えてもらえばわかると思うが、メラニー・ロランの母親の件は、前半の平凡なコメディ同様、かなり強引で安っぽいストーリー設定なのである。そのストーリー設定だけではとくに感激もしないし、まして泣くことはない。
しかしバックグラウンド・ストーリーとして、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲をドラマチックに引き立てている。だから音楽というより、人間の感情表現そのもののように聞こえてくる。
う〜ん、やっぱりDVDを観ていない人には、
何いっているかわかんないだろうな(^^ゞ
公式サイトとユーチューブの映像で少しはわかったかなあ?
映画というのはストーリーと映像が主であって、音楽は従な存在。作曲家が主人公の映画でもそうだった。でもこの映画はそうじゃない。本日は “主と従。入れ替えてみたら、いろいろ発見があったり、新しい価値を作り出せるかも” の下書きでしたーーーと、何年かぶりに、マーケティングのブログらしかった時代のフレーズで締めてみる(^^ゞ
wassho at 11:13│Comments(0)│
│映画、ドラマ、文学