2014年05月08日
さよなら浜ヤン
浜ヤンは高校時代の親友である。
昨日、亡くなった。
数年前から難病を患っていたから、
「〇〇の家内ですが」と電話があった時、瞬時に悟った。
身体が徐々に麻痺してくる病気である。原因も不明で治ることはないとされている。リハビリしていると知って一度電話を掛けた。その時はもう車椅子生活だった。会話の内容はしっかりしていたが、口元が不自由なのかロレツが少しあやしかった。何を話したかはほとんど記憶にない。たぶんたわいない話しかしなかったと思う。浜ヤンは「こんな病気になったことは仕方がないけれど悔しい」と何度も言った。その「悔しい」という声だけは今でも鮮明に覚えている。
去年の春だったと思うが退職したという挨拶が来た。もう寝たきりになっているかもと思っていたから、とてもビックリして「いいなあ〜、公務員は長い病欠でも給料もらえて」と返事を出しておいた。
予後(発症してから死亡するまでの期間)は平均10年前後の病気である。そのうち見舞いに行こうと思っていたが、その機会も失ってしまった。私が東京で彼が地元ということもあったが、何年か後に死ぬことはほぼ確実で、その後の身体の麻痺状態もどの程度かわからなかったから、どうお見舞いすればいいのかとためらう気持ちもあった。
同級生達と、浜ヤンが高校時代に大好きだったNさん(ただし片思い)に制服を着てもらって見舞いに行けば、奇跡が起きるかもと冗談で話し合ったこともある。しかし一番最近Nさんに会ったことのある私でもそれは25年前だった。その計画は夢を壊すリスクもあると却下になった(^^ゞ Nさんは今でも(たぶん)可愛いはずだけど。
考えてみると、いつ頃どのように仲良くなったのかは覚えていない。同じクラスになったこともない。でも友達なんてそんなものか。登校時はいつも駅から学校まで一緒のグループで歩いていたように思う。一番よく覚えているのは高校2年生と3年生の間の春休みに、浜ヤンも含めて何名かと山口県の萩・津和野に旅行に行ったこと。それは今でも私の思い出に残る旅行トップ3に入るくらい楽しかった。
高校を卒業してからしばらくは何度か会ったかもしれないが、その後は疎遠になった。それはほとんどの同級生がそうだ。それでも年賀状のやりとりは続いていた。最後に会ったのは仲のよかった同級生の結婚式で20数年前に一度きり。今、浜ヤンのことを思い出していても高校生の頃の顔しか思い浮かばない。たぶんそれは浜ヤンも同じはず。
一言で言えば明るくてひょうきんな奴だった。ニコニコ笑いながらよく卑猥な単語を発していた(高校生の頃の話です、念のため)。怒ったところは見たことがないが、たまに拗ねていたっけ。20年ほど前に5〜6歳の子供のいる女性と結婚し、その年の年賀状は「いきなり大きな息子ができました」と二人で写った登山かどこかの写真が微笑ましかった。その後に女の子も生まれた。病状がどのように進行していったかは知らないが、奥様を始めご家族は大変だったと思う。
ここ数年、ポツリポツリと同級生の訃報を聞き始めるようになった。この年齢なら早死と言えるものの、そろそろそういう時期に入りつつあることも確かである。当たり前だが同級生が減ることはあっても増えることはない。切ないものである。
合掌
昨日、亡くなった。
数年前から難病を患っていたから、
「〇〇の家内ですが」と電話があった時、瞬時に悟った。
身体が徐々に麻痺してくる病気である。原因も不明で治ることはないとされている。リハビリしていると知って一度電話を掛けた。その時はもう車椅子生活だった。会話の内容はしっかりしていたが、口元が不自由なのかロレツが少しあやしかった。何を話したかはほとんど記憶にない。たぶんたわいない話しかしなかったと思う。浜ヤンは「こんな病気になったことは仕方がないけれど悔しい」と何度も言った。その「悔しい」という声だけは今でも鮮明に覚えている。
去年の春だったと思うが退職したという挨拶が来た。もう寝たきりになっているかもと思っていたから、とてもビックリして「いいなあ〜、公務員は長い病欠でも給料もらえて」と返事を出しておいた。
予後(発症してから死亡するまでの期間)は平均10年前後の病気である。そのうち見舞いに行こうと思っていたが、その機会も失ってしまった。私が東京で彼が地元ということもあったが、何年か後に死ぬことはほぼ確実で、その後の身体の麻痺状態もどの程度かわからなかったから、どうお見舞いすればいいのかとためらう気持ちもあった。
同級生達と、浜ヤンが高校時代に大好きだったNさん(ただし片思い)に制服を着てもらって見舞いに行けば、奇跡が起きるかもと冗談で話し合ったこともある。しかし一番最近Nさんに会ったことのある私でもそれは25年前だった。その計画は夢を壊すリスクもあると却下になった(^^ゞ Nさんは今でも(たぶん)可愛いはずだけど。
考えてみると、いつ頃どのように仲良くなったのかは覚えていない。同じクラスになったこともない。でも友達なんてそんなものか。登校時はいつも駅から学校まで一緒のグループで歩いていたように思う。一番よく覚えているのは高校2年生と3年生の間の春休みに、浜ヤンも含めて何名かと山口県の萩・津和野に旅行に行ったこと。それは今でも私の思い出に残る旅行トップ3に入るくらい楽しかった。
高校を卒業してからしばらくは何度か会ったかもしれないが、その後は疎遠になった。それはほとんどの同級生がそうだ。それでも年賀状のやりとりは続いていた。最後に会ったのは仲のよかった同級生の結婚式で20数年前に一度きり。今、浜ヤンのことを思い出していても高校生の頃の顔しか思い浮かばない。たぶんそれは浜ヤンも同じはず。
一言で言えば明るくてひょうきんな奴だった。ニコニコ笑いながらよく卑猥な単語を発していた(高校生の頃の話です、念のため)。怒ったところは見たことがないが、たまに拗ねていたっけ。20年ほど前に5〜6歳の子供のいる女性と結婚し、その年の年賀状は「いきなり大きな息子ができました」と二人で写った登山かどこかの写真が微笑ましかった。その後に女の子も生まれた。病状がどのように進行していったかは知らないが、奥様を始めご家族は大変だったと思う。
ここ数年、ポツリポツリと同級生の訃報を聞き始めるようになった。この年齢なら早死と言えるものの、そろそろそういう時期に入りつつあることも確かである。当たり前だが同級生が減ることはあっても増えることはない。切ないものである。
合掌
wassho at 23:11│Comments(0)│
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