2014年05月15日
サーフ&ターフ 海岸に行く前に旧吉田茂邸
富士山スカイラインの東部分である県道23号線は、そのまま御殿場市内までつながっている。箱根こっちの標識に従って走れば国道138号線に出て、乙女峠経由で箱根の山に登っていく。何度か書いたが138号線は山中湖あたりでは旧鎌倉往還(往還とは街道の古い、あるいは格式のある呼び方 おうかん)と古式ゆかしい名前なのに、御殿場から箱根の区間では箱根裏街道という悪事を企んでいるような名前で呼ばれる。それと138号線が箱根裏街道であっても、箱根表街道はなく箱根街道という道路すらない。あるのは箱根旧街道(旧東海道の一部)のみ。
調べてみると138号線のルーツとなった道は江戸時代から箱根裏街道と呼ばれていたみたいである。やはり箱根といえば西側の芦ノ湖が表で、反対の東側を通っているから裏なのかなと想像する。はっきりとした名前の由来はわからなかった。
箱根でお気に入りはポーラ美術館である。現在モディリアーニ展を開催中で心ひかれる。でも9月15日までやっているので、夏に涼みがてら来ようかと立ち寄らず。138号線はあまり箱根らしさを感じるところがない。芦ノ湖くらい見て帰るかとも思ったが、何となくズルズルとそのまま箱根を通り過ぎてしまう。もっとも箱根を下る国道1号線は箱根駅伝で見慣れた景色であり、それなりに箱根気分は味わえた。
138号線は宮の下で国道1号線に変わる。宮の下といってもよほど箱根に詳しくなければピンとこないと思うが、あの冨士屋ホテルのあるところといったらイメージできる人が多いかもしれない。その後は大平台、塔ノ沢と箱根駅伝の中継でおなじみの名前の温泉街を抜けて箱根湯本の駅前を通る。1号線沿いの駅前商店街の人出はかなり多かった。
そのまま走れば小田原に出る。小田原の駅から2つ手前の風祭というあたりは、かまぼこの鈴廣(すずひろ)の本拠地。1号線沿いに大きな店舗やレストラン、かまぼこ博物館など5〜6軒が集まって建ち並び、まるでかまぼこのテーマパークのような賑わいを見せている。
鈴廣の全国的な知名度がどの程度かは知らないが、関東では高級かまぼことして名前が通っている。ちなみに鈴廣で一番値段が高いかまぼこは、正月向けに限定300セットだけ販売される「超特選蒲鉾 一(はじめ)」という商品。そのお値段、なんと紅白のかまぼこ2本セットで1万8000円! そんな高い金を払うならサーフ&ターフを何回か食べるほうがいいが、1切れパックがあったら話のネタに買うかも(^^ゞ 鈴廣でその次の価格は1本3500円くらい。そのレベルも食べたことがないなあ〜。
小田原の1号線は海より少し内側を走っており、ところどころでチラッとしか海は見えない。「国道1号線」といっても、このあたりは片側1車線のショボイ道路。そこそこ渋滞していた。小田原を抜けると大磯。大磯は市ではなく神奈川県中郡大磯町。それで大磯で最初に立ち寄ったのが大磯城山公園。じょうやま公園と読む。
クルマは有料だがバイク駐車料金は無料。
県立公園の入り口にしてはやたら格式が高そうな雰囲気なのは、
ここが明治時代に三井財閥当主が建てた別荘の跡地だから。
園内に別荘当時の写真パネルが多数ある。
小高い丘になっていてテクテク登っていく。
門構えもあちこちにある。
このあたりに本館があったらしい。
今は当時の建築に似せたデザインの展望台になっている。
相模湾が見渡せる。海岸線に見えるのは西湘バイパス(高速道路)。
写真中央の滑り台は大磯ロングビーチ(大磯プリンスホテルにある)のプール。
遠くの山並みは伊豆半島である。
こっちは展望台じゃなくて休憩所。
シランという花。
そんな花はーーーというようなオヤジギャグは書きません(^^ゞ
公園内の風景いろいろ。
古い蔵がギャラリーになっていた。
広さは約9ヘクタール。この日に見て回ったのは1/3くらいかな。特に見たいものがあったわけじゃない。この公園は旧吉田邸とパンフレットも共通で、セットみたいな存在なのでちょっと立ち寄ってみただけ。
城山公園の入り口にある旧吉田邸への案内。
これは国道1号線を東京に向いた写真。
城山公園はこの交差点を左折してすぐの所に入り口がある。
こちらは反対側の小田原方向。これがこのあたりの1号線の雰囲気。旧吉田邸の入り口は左側のフェンスが途切れているところ。だから城山公園とは1号線を挟んでほとんど隣り合っている。
旧吉田茂邸の入り口。
今気付いたが、柱の文字を見ると城山公園の一部として扱われているみたいだ。
吉田茂を知ったのは子供の頃に彼の国葬があったから。今に至るまで戦後唯一の国葬で盛んに報道されていた。しかし小学校低学年だったので記憶に残っているのは、スーツ姿でも羽織袴姿でも太い葉巻を咥えている姿のみ。国葬=偉い人という認識はあったと思うが、それよりも子供心に個性的な人だなあという印象が強かった。
吉田茂の家が大磯に残っており、ときどき公開されていることを知ったのはいつ頃のことか思い出せない。でも戦後政治の裏舞台でもあった場所でもあり、機会があったら見に行きたいなあとは思っていた。しかし残念ながら2009年に火災によって焼失。その代わりといってはなんだが、残った庭園などを整備し直して、昨年から公園として一般公開されたので敷地内には自由に入れるようになった。
前栽みたいな感じでバラ園があった。
何となく吉田茂とイメージが結びつかず意外な感じがしたが、パンフレットによると彼は大のバラ好きで日本バラ会の会長を引き受けていた時期もあるとのこと。へ〜私と趣味が合うじゃない、茂ちゃん(^^ゞ
そんなに広いバラ園ではないが、大輪のバラが多く濃厚な香りが漂っていた。広くないといっても個人の邸宅だと考えれば充分に広い。もっとも吉田茂が生きていた頃は、今は駐車場になっているところがバラ園で、ここの10倍程度の面積があったらしいから驚く。駐車場は1号線に面しているから大磯の人は吉田バラ園を道路から楽しめたのかな。邸宅の敷地全体は3万3000平米=約3.3ヘクタール=約1万坪である。
内門あるいは兜門と呼ばれる中門。
それを抜けると日本庭園。
日本庭園にフェニックスはおかしい気もするが、まあここは暖かい大磯だからいいか。
庭園の中心となっている池。
この木の密集具合が何となくすごい。
これは七賢堂。
元は大磯にあった伊藤博文邸にあったものらしい。明治時代の大磯には伊藤博文・山県有朋・大隈重信・西園寺公望・後藤象二郎・西周・大倉喜八郎・岩崎弥之助・陸奥宗光・原敬・安田善次郎など政財界の大物多数が自宅や別宅、別荘を建てている。その頃なら大磯まで足を伸ばさなくても、江ノ島あたりあるいは横須賀でも充分のんびりした別荘地らしい場所だったと思うが、大磯に何か特別の魅力があったのかな? ちなみに吉田茂は東京生まれで少年期に大磯で暮らしている。
日本庭園から離れて敷地の海側のほうは少し小高くなっている。そこにあった愛犬ポチの墓。これがイヌの墓であることは疑いがない。この墓の情報はネット検索でいくらでもヒットする。
よくわからないのがこれ。
ポチの墓の右に竹で組んだ柵が写っているが、正面以外の三方をその柵で囲まれて並んでいる墓石のようなものがある。
1948年(昭和23年)にできた「墓地、埋葬等に関する法律」で、墓は市町村長の許可を得た墓地以外に作ることは禁じられた。それまでは自宅に勝手に墓を作ってもよかったみたいである。話はそれるが、人が死んだら届け出ることは法律で決まっているが、遺体をどうするかは決まっていない。自宅に放置しておけば、つまり遺体の尊厳を傷つけるようなことをすれば死体遺棄罪になるはずだが、宗教上あるいは信念の問題として例えばミイラにすることは一応可能。
また火葬した遺骨は墓に入れなければならないという規定もない。火葬した遺骨であろうと土葬であろうと墓に入れる、あるいは土に埋める場合に許可を得た墓地以外は禁止ということが定められているだけである。この法律ができた頃に散骨というものは想定していなかったから、最近それが問題になっている。
話を戻すと、この墓石のようなものを見た時は、法律ができる前に自宅に作った墓なのかなと思った。吉田茂は1967年(昭和42年)没だから、これは彼の墓ではない。だいたい国葬で弔った人物の墓がこの程度であるはずもない。だからもっと祖先の墓か何かかと。まあ後で調べてみようくらいの気持ちだったが、ネットで検索してもまったくこの墓石のようなものの情報が上がってこないのである。ついでにわかったのは吉田茂の墓は東京の青山墓地にあること。しかしごく普通サイズの墓で驚いた。
わからないなら、もう少し調べようホトトギス。
1番左の石は風化したのか字が読めない。
左から2番目の石には「無縁法界」と書いてある。仏教用語で無差別平等の
世界の意味らしい。無という漢字の上は梵字?
左から3番目は「心月圓海清善女 霊」。これも頭に梵字のようなものがある。
「心月圓」「心月園」「海清善女」と検索してみるもヒットせず。
左から4番目は松の枝で「三界」しか読めない。三界も仏教用語で欲界・色界・
無色界=平たくいえばこの世のこと。
右から2番目は風化して「安」という文字しか判別できず。
1番右は文字が2行(以上)あるが写真に写っているのは1番左の行だけ。
「依法禅定と不明な文字が1つ」。これもネット検索で何も見つけられなかった。
でも法とか禅とか仏教っぽい雰囲気。
というわけで、どうも仏教の言葉が刻まれている模様。でもなんのため? それと「心月圓海清善女」は何となく響きが戒名っぽい。「霊」という文字がついているもの気になる。結局ナゾは解明できず。神奈川県立城山公園には、是非ともこの石の解説パネルを現地に建てて、ホームページでも教えて欲しい。ポチ以外のイヌの墓だったりして(^^ゞ
歩き進んでいくと吉田茂の銅像があった。真逆光だったので写真が飛んでいるが左手には葉巻を持っている。やっぱり葉巻は彼のトレードマーク。愛煙家なところも私と気が合うじゃん、茂ちゃん(^^ゞ
逆光を避けて横下から。
吉田茂について詳しいわけじゃない。知っているのは世間常識程度。総理大臣としてサンフランシスコ講和条約で第二次世界大戦の戦争状態を終了させ(いわゆる終戦とは別の手続き)、同時に日米安全保障条約も結んだ。それが戦後日本のリスタートだったことは間違いない。もっとも彼でなくても、その時に総理大臣だったらその役割が回ってきたとは思うが、それは歴史のイフ。正しい時に正しい場所にいるのも才能であり能力である。
結果として戦後の繁栄と平和を享受できたのだから、国葬も然るべしだったと思う。なんとなく最近はこの国の先行きもあやしいが。残念なのは孫の麻生太郎が、吉田茂の憎めないキャラクター以外は何も受け継いでいないことかな。
銅像付近から見える大磯の海。
今は西湘バイパスが遮っているが、それができる前は自宅から直接海岸に出られたらしい。
なお邸宅が建っていた場所へは近づけなかった。更地でも「ここにあったのか〜」と見せてくれればいいのに。復元計画があるみたいだが、レプリカじゃあまり興味がわかないかな。
ーーー続く。
調べてみると138号線のルーツとなった道は江戸時代から箱根裏街道と呼ばれていたみたいである。やはり箱根といえば西側の芦ノ湖が表で、反対の東側を通っているから裏なのかなと想像する。はっきりとした名前の由来はわからなかった。
箱根でお気に入りはポーラ美術館である。現在モディリアーニ展を開催中で心ひかれる。でも9月15日までやっているので、夏に涼みがてら来ようかと立ち寄らず。138号線はあまり箱根らしさを感じるところがない。芦ノ湖くらい見て帰るかとも思ったが、何となくズルズルとそのまま箱根を通り過ぎてしまう。もっとも箱根を下る国道1号線は箱根駅伝で見慣れた景色であり、それなりに箱根気分は味わえた。
138号線は宮の下で国道1号線に変わる。宮の下といってもよほど箱根に詳しくなければピンとこないと思うが、あの冨士屋ホテルのあるところといったらイメージできる人が多いかもしれない。その後は大平台、塔ノ沢と箱根駅伝の中継でおなじみの名前の温泉街を抜けて箱根湯本の駅前を通る。1号線沿いの駅前商店街の人出はかなり多かった。
そのまま走れば小田原に出る。小田原の駅から2つ手前の風祭というあたりは、かまぼこの鈴廣(すずひろ)の本拠地。1号線沿いに大きな店舗やレストラン、かまぼこ博物館など5〜6軒が集まって建ち並び、まるでかまぼこのテーマパークのような賑わいを見せている。
鈴廣の全国的な知名度がどの程度かは知らないが、関東では高級かまぼことして名前が通っている。ちなみに鈴廣で一番値段が高いかまぼこは、正月向けに限定300セットだけ販売される「超特選蒲鉾 一(はじめ)」という商品。そのお値段、なんと紅白のかまぼこ2本セットで1万8000円! そんな高い金を払うならサーフ&ターフを何回か食べるほうがいいが、1切れパックがあったら話のネタに買うかも(^^ゞ 鈴廣でその次の価格は1本3500円くらい。そのレベルも食べたことがないなあ〜。
小田原の1号線は海より少し内側を走っており、ところどころでチラッとしか海は見えない。「国道1号線」といっても、このあたりは片側1車線のショボイ道路。そこそこ渋滞していた。小田原を抜けると大磯。大磯は市ではなく神奈川県中郡大磯町。それで大磯で最初に立ち寄ったのが大磯城山公園。じょうやま公園と読む。
クルマは有料だがバイク駐車料金は無料。
県立公園の入り口にしてはやたら格式が高そうな雰囲気なのは、
ここが明治時代に三井財閥当主が建てた別荘の跡地だから。
園内に別荘当時の写真パネルが多数ある。
小高い丘になっていてテクテク登っていく。
門構えもあちこちにある。
このあたりに本館があったらしい。
今は当時の建築に似せたデザインの展望台になっている。
相模湾が見渡せる。海岸線に見えるのは西湘バイパス(高速道路)。
写真中央の滑り台は大磯ロングビーチ(大磯プリンスホテルにある)のプール。
遠くの山並みは伊豆半島である。
こっちは展望台じゃなくて休憩所。
シランという花。
そんな花はーーーというようなオヤジギャグは書きません(^^ゞ
公園内の風景いろいろ。
古い蔵がギャラリーになっていた。
広さは約9ヘクタール。この日に見て回ったのは1/3くらいかな。特に見たいものがあったわけじゃない。この公園は旧吉田邸とパンフレットも共通で、セットみたいな存在なのでちょっと立ち寄ってみただけ。
城山公園の入り口にある旧吉田邸への案内。
これは国道1号線を東京に向いた写真。
城山公園はこの交差点を左折してすぐの所に入り口がある。
こちらは反対側の小田原方向。これがこのあたりの1号線の雰囲気。旧吉田邸の入り口は左側のフェンスが途切れているところ。だから城山公園とは1号線を挟んでほとんど隣り合っている。
旧吉田茂邸の入り口。
今気付いたが、柱の文字を見ると城山公園の一部として扱われているみたいだ。
吉田茂を知ったのは子供の頃に彼の国葬があったから。今に至るまで戦後唯一の国葬で盛んに報道されていた。しかし小学校低学年だったので記憶に残っているのは、スーツ姿でも羽織袴姿でも太い葉巻を咥えている姿のみ。国葬=偉い人という認識はあったと思うが、それよりも子供心に個性的な人だなあという印象が強かった。
吉田茂の家が大磯に残っており、ときどき公開されていることを知ったのはいつ頃のことか思い出せない。でも戦後政治の裏舞台でもあった場所でもあり、機会があったら見に行きたいなあとは思っていた。しかし残念ながら2009年に火災によって焼失。その代わりといってはなんだが、残った庭園などを整備し直して、昨年から公園として一般公開されたので敷地内には自由に入れるようになった。
前栽みたいな感じでバラ園があった。
何となく吉田茂とイメージが結びつかず意外な感じがしたが、パンフレットによると彼は大のバラ好きで日本バラ会の会長を引き受けていた時期もあるとのこと。へ〜私と趣味が合うじゃない、茂ちゃん(^^ゞ
そんなに広いバラ園ではないが、大輪のバラが多く濃厚な香りが漂っていた。広くないといっても個人の邸宅だと考えれば充分に広い。もっとも吉田茂が生きていた頃は、今は駐車場になっているところがバラ園で、ここの10倍程度の面積があったらしいから驚く。駐車場は1号線に面しているから大磯の人は吉田バラ園を道路から楽しめたのかな。邸宅の敷地全体は3万3000平米=約3.3ヘクタール=約1万坪である。
内門あるいは兜門と呼ばれる中門。
それを抜けると日本庭園。
日本庭園にフェニックスはおかしい気もするが、まあここは暖かい大磯だからいいか。
庭園の中心となっている池。
この木の密集具合が何となくすごい。
これは七賢堂。
元は大磯にあった伊藤博文邸にあったものらしい。明治時代の大磯には伊藤博文・山県有朋・大隈重信・西園寺公望・後藤象二郎・西周・大倉喜八郎・岩崎弥之助・陸奥宗光・原敬・安田善次郎など政財界の大物多数が自宅や別宅、別荘を建てている。その頃なら大磯まで足を伸ばさなくても、江ノ島あたりあるいは横須賀でも充分のんびりした別荘地らしい場所だったと思うが、大磯に何か特別の魅力があったのかな? ちなみに吉田茂は東京生まれで少年期に大磯で暮らしている。
日本庭園から離れて敷地の海側のほうは少し小高くなっている。そこにあった愛犬ポチの墓。これがイヌの墓であることは疑いがない。この墓の情報はネット検索でいくらでもヒットする。
よくわからないのがこれ。
ポチの墓の右に竹で組んだ柵が写っているが、正面以外の三方をその柵で囲まれて並んでいる墓石のようなものがある。
1948年(昭和23年)にできた「墓地、埋葬等に関する法律」で、墓は市町村長の許可を得た墓地以外に作ることは禁じられた。それまでは自宅に勝手に墓を作ってもよかったみたいである。話はそれるが、人が死んだら届け出ることは法律で決まっているが、遺体をどうするかは決まっていない。自宅に放置しておけば、つまり遺体の尊厳を傷つけるようなことをすれば死体遺棄罪になるはずだが、宗教上あるいは信念の問題として例えばミイラにすることは一応可能。
また火葬した遺骨は墓に入れなければならないという規定もない。火葬した遺骨であろうと土葬であろうと墓に入れる、あるいは土に埋める場合に許可を得た墓地以外は禁止ということが定められているだけである。この法律ができた頃に散骨というものは想定していなかったから、最近それが問題になっている。
話を戻すと、この墓石のようなものを見た時は、法律ができる前に自宅に作った墓なのかなと思った。吉田茂は1967年(昭和42年)没だから、これは彼の墓ではない。だいたい国葬で弔った人物の墓がこの程度であるはずもない。だからもっと祖先の墓か何かかと。まあ後で調べてみようくらいの気持ちだったが、ネットで検索してもまったくこの墓石のようなものの情報が上がってこないのである。ついでにわかったのは吉田茂の墓は東京の青山墓地にあること。しかしごく普通サイズの墓で驚いた。
わからないなら、もう少し調べようホトトギス。
1番左の石は風化したのか字が読めない。
左から2番目の石には「無縁法界」と書いてある。仏教用語で無差別平等の
世界の意味らしい。無という漢字の上は梵字?
左から3番目は「心月圓海清善女 霊」。これも頭に梵字のようなものがある。
「心月圓」「心月園」「海清善女」と検索してみるもヒットせず。
左から4番目は松の枝で「三界」しか読めない。三界も仏教用語で欲界・色界・
無色界=平たくいえばこの世のこと。
右から2番目は風化して「安」という文字しか判別できず。
1番右は文字が2行(以上)あるが写真に写っているのは1番左の行だけ。
「依法禅定と不明な文字が1つ」。これもネット検索で何も見つけられなかった。
でも法とか禅とか仏教っぽい雰囲気。
というわけで、どうも仏教の言葉が刻まれている模様。でもなんのため? それと「心月圓海清善女」は何となく響きが戒名っぽい。「霊」という文字がついているもの気になる。結局ナゾは解明できず。神奈川県立城山公園には、是非ともこの石の解説パネルを現地に建てて、ホームページでも教えて欲しい。ポチ以外のイヌの墓だったりして(^^ゞ
歩き進んでいくと吉田茂の銅像があった。真逆光だったので写真が飛んでいるが左手には葉巻を持っている。やっぱり葉巻は彼のトレードマーク。愛煙家なところも私と気が合うじゃん、茂ちゃん(^^ゞ
逆光を避けて横下から。
吉田茂について詳しいわけじゃない。知っているのは世間常識程度。総理大臣としてサンフランシスコ講和条約で第二次世界大戦の戦争状態を終了させ(いわゆる終戦とは別の手続き)、同時に日米安全保障条約も結んだ。それが戦後日本のリスタートだったことは間違いない。もっとも彼でなくても、その時に総理大臣だったらその役割が回ってきたとは思うが、それは歴史のイフ。正しい時に正しい場所にいるのも才能であり能力である。
結果として戦後の繁栄と平和を享受できたのだから、国葬も然るべしだったと思う。なんとなく最近はこの国の先行きもあやしいが。残念なのは孫の麻生太郎が、吉田茂の憎めないキャラクター以外は何も受け継いでいないことかな。
銅像付近から見える大磯の海。
今は西湘バイパスが遮っているが、それができる前は自宅から直接海岸に出られたらしい。
なお邸宅が建っていた場所へは近づけなかった。更地でも「ここにあったのか〜」と見せてくれればいいのに。復元計画があるみたいだが、レプリカじゃあまり興味がわかないかな。
ーーー続く。