2014年06月18日

自分たちのサッカーという呪縛

日本代表ユニフォーム

残念ながらコートジボワール戦は負けてしまったが、その分析やら次への期待やらで、テレビ局的にはかえっておいしかったような気がしなくもない。ワールドカップは予選リーグで2敗1勝でも、他のチームの勝敗状況いかんで2位に入って決勝トーナメントへ進出できる可能性はある。でも次がギリシャ、最後がコロンビアという組み合わせを考えると、次で負ければジ・エンドはほぼ確実に。そうなっても応援モチベーションをキープできるかな。

コートジボワール戦は残念だったが、あまりガッカリもしていない。前回のエントリーにFIFAランキングを書いたが、その実力差を考えれば「もし勝てればメチャうれしい」という期待値でしかなかったから。ギリシャ戦にはもちろん気合いが入るけれど、コロンビア戦は世界トップランクのサッカーと較べて日本のサッカーがどの程度イケテナイのかを見較べたいという気持ちのほうが強いかも。

できるだけ勝ち進んで欲しいとは当然ながら思っている。それはそれとして、毎回ワールドカップに出場できるレベルになったことをうれしく思っているというのが素直な気持ち。私の場合、そうじゃなきゃサッカーを観る機会がほとんどなくなってしまうので(^^ゞ 


ところで日本代表が負けた時に必ずいわれるフレーズがある。以前は「決定力不足」がお約束だったが最近は「自分たちのサッカー」である。自分たちのサッカーをすれば勝てる、自分たちのサッカーができなかったから負けたーーー。

北京オリンピックの時にも書いた気がするが、この自分たちのサッカーというフレーズにはとても違和感を感じる。他の競技でこんな言い方はしない。サッカーに限っても日本以外の国でこんな表現はあまり使われていない気がする。ところが日本のサッカーでは二言目には「自分たちのサッカー」なのである。


自分たちのサッカーがピッチ上での戦術を意味しているくらいは私でも想像がつく。サッカーの強さを「テクニック×センス×いわゆる身体能力×戦術」に分解するなら、前三者で劣る日本は戦術でカバーするしかない。テクニックはもうそこそこだし、センスもウン十年後に追いつくかもしれない。しかし身体能力は仮に改善できるものだとしても数世紀レベルかかるから、戦術重視というのは日本サッカー永遠の課題といってもいい。ただし、それは決して悲観すべきことでもない。日本は国土が狭いし資源もないから、それがバネなってここまで発展してきた側面もある。多少はハンディキャップがあったほうが強くなれる場合もあるのだ。

話はそれるが、身体能力というのもJリーグが始まったころから使われ出した言語明快・意味不明な言葉の1つ。サッカー界はそういう言葉づかいが好きなのかな。とりあえず私がここで意図しているのは、簡単にいえば図体の大きさや強靱さ。なんたって走りながらぶつかり合う競技だからね。ヘディングは空中戦だし。




さて、というわけで日本の場合、戦術が大切だということは理解できるとして、それが「自分たちのサッカー」という言葉に落とし込むことが疑問だし危険だとも思っている。

自分たちのサッカー=日本代表が取るべき戦術の内容は私にはチンプンカンプン。ある程度サッカーに詳しければ具体的なプレー方法を説明できるのかもしれない。しかし確信しているのは、その内容は十人十色に違いないいうこと。代表メンバーはもちろんとして、ザッケローニ監督まで自分たちのサッカーを連発しているが、その定義は微妙にずれているはず。

どの程度、共有化あるいは一本化されているんだろうね。
もっとも「自分たちのサッカーとはこういうプレーである。その1ーーー、その2ーーー」とマニュアル化されていなくても、トップアスリートの集団だから6〜7割メンバーの向いている方向が同じだったら、それで充分な気もする。

だから自分たちのサッカーの中身は別にどうでもいい。
問題は3つある。


まずは、自分たちのサッカーという言葉が持つ魔力である。日本人なら〜〜とか、大人なんだから〜〜などと同じように、どうにも逆らいがたい言葉の力を持っている。その先にあるのは盲信=それさえ言っておけば問題が解決したような気になる=思考停止である。あまりに皆が口を揃えて自分たちのサッカーというので私はそれが気掛かり。表現的には「自分たちの」というところが曲者(くせもの)。ここがもっと具体的な内容なら議論は建設的になるはず。


2つめの問題は、この言葉が内向きな発想に向かわせること。言葉というのは侮りがたいパワーを持っていて「自分たちのサッカー、自分たちのサッカー」と念仏のように唱えていると相手の分析がおろそかになってくる。自分たちのサッカー=日本チームの戦術が何パターンあるか知らないけれど、それがツボにはまって通用する相手は何チームある? 冷静に考えれば当たり前のことなのに、それをどこかに忘れてしまうのが自分たちのサッカーという言葉の恐ろしさである。


最後の問題は2つめとも絡む。不思議なことに負けたら「自分たちのサッカーができなかったから」という論調ばかり。相手が強ければ自分たちのサッカーをさせてもらえないのは当たり前なんだけどな。だから自分たちのサッカー=日本の長所を生かした必殺の戦術があるとしたら、ほとんどが格上相手となるワールドカップでは、それとセットで自分たちのサッカーができる状態に持っていく戦術が必要になる。もちろん後者の戦術は相手によって千差万別になるはず。必殺技をいくつかを研けば勝てるほど甘くはないのだ。自分たちのサッカーという言葉は甘美で幻想的だから、それを「する」のと「できる」との違いもあやふやになってしまう。


4つめを付け加えるならば、自分たちのサッカー=必殺の戦術ということもあり得ない。それはあまたあるサッカーの戦い方の中で、日本のプレーヤーに向いているパターンということに過ぎない。自分たちのサッカーは自分たちにしかできないサッカーでは決してないはず。だから自分たちのサッカーは、相手のレベルが高ければ予測されて対策される。コートジボワール戦はまさにそういう展開じゃなかったけ。ビジネスで新規事業というと期待が高まるが「自社の新規事業はヨソの会社の既存事業」でもある。新規事業も自分たちのサッカーも言葉に夢を見ている点では似ている。



あまり考えすぎると身も蓋もなくなっちゃうかな(^^ゞ 本当は「なぜ大久保をもっと早く出さない」とか「ドログバが後半出てくるのはわかりきっていたはずだろ」とか言ってみたいけれどサッカーの知識がないもので。だからこれも「私のサッカー」の楽しみ方。タワゴトにつきあってくれて感謝。

ちなみにドログバは日曜日に初めて知ったので、マスコミが言うほどには彼に引っかき回されたという印象は受けなかった。得点に絡みもしなかったし。印象は情報の有無にも左右されるということかな。

いろいろ書いたが、たまには信じるものは救われると神頼みも悪くない。
ギリシャ戦では自分たちのサッカーをつらぬいてガンバレ・ニッポン!!!

平日早朝だからアルコール抜きの観戦なのが淋しいーーー(^^ゞ

wassho at 23:32│Comments(0) ノンジャンル 

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