2014年12月06日
三渓園の紅葉
12月に入ったこの最初の週末は真冬並みの寒さ。遠出しなくてどこかいいところはないかと考えて、思いついたのが横浜は本牧にある三渓園(さんけいえん)。
ここはちょっとユニークな日本庭園。簡単にまとめると
明治時代の実業家である原富太郎の自宅跡。
日本各地から古い建物が移築・保存されている。
全部で17ある建築物のうち9つが国の重要文化財に指定されている。
原富太郎は生糸貿易で財をなした人物。先日、世界遺産になった富岡製糸場のオーナーだった時代もある。ここの地名が三之谷で三渓と名付けたらしい。彼自身も号(ペンネームみたいなもの)として原三渓とも名乗っている。
広さは17.5ヘクタール。日本じゃ面積の単位として使われる東京ドームが4.7ヘクタールだからドーム3.8個分。坪に直せば5万3000坪。ちなみに彼の養祖父(富太郎は養子だった)である原善三郎の自宅は9.1ヘクタールあり、その跡地は横浜の代表的な公園のひとつである野毛山公園になっている。ジイちゃんと孫で併せて横浜に26.6ヘクタール!こういうのを華麗なる一族というんだろうな。
財閥としての原家はその後衰退していったようだが、関東大震災後の復興事業であったホテルニューグランド創設にも原富太郎は主導的な役割を果たし、現在のホテル会長は原富太郎から数えて3代目の原家当主がつとめている。ちなみにホテルニューグランドは山下公園に面していて、その山下公園も関東大震災で出たガレキで海を埋め立てた造成地=復興事業だった。
朝は寒いし、そんなに遠くないから出発は12時頃。
第三京浜〜首都高で新山下まで行き1時間ほどで三渓園到着。
三渓園の駐車場はあまり広くない。クルマが数台順番待ちをしていた。
駐車場の中にある数台のバイク置き場は埋まっていたので、ガードマンにどうすればいいか尋ねると、ここに駐めろと入り口のそばにカラーコーン(赤いやつね)を置いて場所を作ってくれた。そこで革ジャンを脱いだりしてしていると公園の中から職員がやってきて「お客さん、ここはーーー」と困った口ぶり。ガードマンに指示されたというと、ああそうですかという返事。三渓園では職員よりガードマンの方がエラいみたい。
入ったところにある案内地図。
方位は右に90度回転していて左側が南。三渓園は大きく3つのブロックに別れている。まず池の周り。それからちょうど地図で影になっている敷地の上側が内苑と呼ばれる。ここは自宅として使われていた時代は原家のプライベートゾーンだったエリア。それ以外が外苑。三渓園はいわゆる公園になってから一般に解放されたのではなく、自宅であった当初から横浜市民に楽しんでもらおうと作られた、いってみれば自宅兼日本の伝統建築のテーマパークみたいな存在。原富太郎は関東大震災後の横浜復興にかなりの私財を投じたことでも知れられる篤志家。孫さんや三木谷さんもこういうスケールの大きな人物になって欲しいね。
大池と呼ばれるまさに大きな池。
背後に三渓園のシンボルである三重の塔が見える。
松とツバキ。
気温9度くらいでバイクで高速を走っている時は寒かったが、快晴で日差しがあって三渓園では寒さを感じず。
園内では結婚の記念写真を撮っているカップルが多かった。10組近くはいたように思う。しゃがんでいるのがカメラマンでその隣が助手。打ち掛け姿の女性がいると周りの雰囲気がとても華やぐ。
大池の横を歩いて最初にある建物のほうに行くと残念ながら
入れなかったのは鶴翔閣(かくしょうかく)という原富太郎の自宅だった建物。床面積950平米の大豪邸。
茅葺き屋根の昔っぽい作りなのに、入り口のところは上部がせり出しているから車寄せになっているのだろうか。いわゆる普通の古民家では見たことがない建築デザイン。
鶴翔閣と大池の間には睡蓮池という池が設けられている。全景は見えなかったが大きな家だというのは遠目にもわかる。ちなみに当時は女中が50名ほどいたらしい。
鶴翔閣は内苑とは独立した分類らしく、
鶴翔閣から離れてしばらくすると内苑の入り口がある。
御門という立派な門構えをくぐる。
くぐったところから紅葉越しに三重の塔が見えた。
池と芝生の前庭付きの建物は臨春閣。3つの建物が雁行して並んでいる。臨春閣は桂離宮と並ぶ数寄屋風書院造りの名作といわれている。もっとも数寄屋風書院造りという言葉はよく聞くが、どういうデザインを指しているのか具体的には知らない。でも美しい建築だということは見ればわかる。
横に回って臨春閣を眺める。
この臨春閣は大阪から運ばれてきたものだが、
秀吉が京都に建てた聚楽第の一部
紀州徳川家の別荘だった建物
という2つの説がある。どちらがオリジナルにせよ原富太郎が購入した時は、大阪の此花区で会所(集会所みたいなもの)として使われていた建物。昔のいい建物はあちこちに移築して使い回すということをしていたのかな。
建物の中には入れなかったが、外から部屋の一部を見ることはできた。
臨春閣を過ぎると少し坂を上っていく。階段の上にあるのが月華殿。伏見城にあった大名達の控え室として使われていた建物。
関係ないけど紅葉を見に行くと、
緑のもみじもキレイだなと見とれてしまうのは私だけかな?
とはいいつつ紅葉もしっかり堪能。
聴秋閣(ちょうしゅうかく)
家光が二条城内に建て、後に春日局が譲り受けたとされる建物。この建物も京都の二条城から春日局の孫に当たる人物の江戸屋敷、明治にになってからは新宿にある公爵邸と、三渓園に来るまで3回も移築されている。
四角ではなく斜めのラインがある珍しいデザイン。
聴秋閣の先は、小さな渓谷を登って降りる遊歩道となっており紅葉がキレイだった。
できるだけ人が入らないように写真は撮っているが、実際には紅葉の見物客が多い。ここは渓谷を登ってUターンする場所の橋。
流れているのは小さな水の流れで、その左岸右岸では多少見える景色が違って楽しめる。これは下り方向の左岸から撮った聴秋閣。
聴秋閣の周りはレッドオータムだが、次の春草廬(しゅんそうろ)に近づくとイエローオータムに景色が変わる。
春草廬は信長の弟である織田有楽(うらく)が建てた茶室ともいわれている。
天井の照明は後で付けたと思うけど(^^ゞ
これは茶室に入る順番を待つためのものかな。
屋根に積もったイチョウの葉っぱを撮ってみる。
春草廬の後は再び赤、黄色、緑のミックスオータムな紅葉を眺め、ついでに竹林を見て、秀吉が母親のために建てたお堂の横を通り、海岸門という門をくぐって内苑見学が終了。
ーーー続く
ここはちょっとユニークな日本庭園。簡単にまとめると
明治時代の実業家である原富太郎の自宅跡。
日本各地から古い建物が移築・保存されている。
全部で17ある建築物のうち9つが国の重要文化財に指定されている。
原富太郎は生糸貿易で財をなした人物。先日、世界遺産になった富岡製糸場のオーナーだった時代もある。ここの地名が三之谷で三渓と名付けたらしい。彼自身も号(ペンネームみたいなもの)として原三渓とも名乗っている。
広さは17.5ヘクタール。日本じゃ面積の単位として使われる東京ドームが4.7ヘクタールだからドーム3.8個分。坪に直せば5万3000坪。ちなみに彼の養祖父(富太郎は養子だった)である原善三郎の自宅は9.1ヘクタールあり、その跡地は横浜の代表的な公園のひとつである野毛山公園になっている。ジイちゃんと孫で併せて横浜に26.6ヘクタール!こういうのを華麗なる一族というんだろうな。
財閥としての原家はその後衰退していったようだが、関東大震災後の復興事業であったホテルニューグランド創設にも原富太郎は主導的な役割を果たし、現在のホテル会長は原富太郎から数えて3代目の原家当主がつとめている。ちなみにホテルニューグランドは山下公園に面していて、その山下公園も関東大震災で出たガレキで海を埋め立てた造成地=復興事業だった。
朝は寒いし、そんなに遠くないから出発は12時頃。
第三京浜〜首都高で新山下まで行き1時間ほどで三渓園到着。
三渓園の駐車場はあまり広くない。クルマが数台順番待ちをしていた。
駐車場の中にある数台のバイク置き場は埋まっていたので、ガードマンにどうすればいいか尋ねると、ここに駐めろと入り口のそばにカラーコーン(赤いやつね)を置いて場所を作ってくれた。そこで革ジャンを脱いだりしてしていると公園の中から職員がやってきて「お客さん、ここはーーー」と困った口ぶり。ガードマンに指示されたというと、ああそうですかという返事。三渓園では職員よりガードマンの方がエラいみたい。
入ったところにある案内地図。
方位は右に90度回転していて左側が南。三渓園は大きく3つのブロックに別れている。まず池の周り。それからちょうど地図で影になっている敷地の上側が内苑と呼ばれる。ここは自宅として使われていた時代は原家のプライベートゾーンだったエリア。それ以外が外苑。三渓園はいわゆる公園になってから一般に解放されたのではなく、自宅であった当初から横浜市民に楽しんでもらおうと作られた、いってみれば自宅兼日本の伝統建築のテーマパークみたいな存在。原富太郎は関東大震災後の横浜復興にかなりの私財を投じたことでも知れられる篤志家。孫さんや三木谷さんもこういうスケールの大きな人物になって欲しいね。
大池と呼ばれるまさに大きな池。
背後に三渓園のシンボルである三重の塔が見える。
松とツバキ。
気温9度くらいでバイクで高速を走っている時は寒かったが、快晴で日差しがあって三渓園では寒さを感じず。
園内では結婚の記念写真を撮っているカップルが多かった。10組近くはいたように思う。しゃがんでいるのがカメラマンでその隣が助手。打ち掛け姿の女性がいると周りの雰囲気がとても華やぐ。
大池の横を歩いて最初にある建物のほうに行くと残念ながら
入れなかったのは鶴翔閣(かくしょうかく)という原富太郎の自宅だった建物。床面積950平米の大豪邸。
茅葺き屋根の昔っぽい作りなのに、入り口のところは上部がせり出しているから車寄せになっているのだろうか。いわゆる普通の古民家では見たことがない建築デザイン。
鶴翔閣と大池の間には睡蓮池という池が設けられている。全景は見えなかったが大きな家だというのは遠目にもわかる。ちなみに当時は女中が50名ほどいたらしい。
鶴翔閣は内苑とは独立した分類らしく、
鶴翔閣から離れてしばらくすると内苑の入り口がある。
御門という立派な門構えをくぐる。
くぐったところから紅葉越しに三重の塔が見えた。
池と芝生の前庭付きの建物は臨春閣。3つの建物が雁行して並んでいる。臨春閣は桂離宮と並ぶ数寄屋風書院造りの名作といわれている。もっとも数寄屋風書院造りという言葉はよく聞くが、どういうデザインを指しているのか具体的には知らない。でも美しい建築だということは見ればわかる。
横に回って臨春閣を眺める。
この臨春閣は大阪から運ばれてきたものだが、
秀吉が京都に建てた聚楽第の一部
紀州徳川家の別荘だった建物
という2つの説がある。どちらがオリジナルにせよ原富太郎が購入した時は、大阪の此花区で会所(集会所みたいなもの)として使われていた建物。昔のいい建物はあちこちに移築して使い回すということをしていたのかな。
建物の中には入れなかったが、外から部屋の一部を見ることはできた。
臨春閣を過ぎると少し坂を上っていく。階段の上にあるのが月華殿。伏見城にあった大名達の控え室として使われていた建物。
関係ないけど紅葉を見に行くと、
緑のもみじもキレイだなと見とれてしまうのは私だけかな?
とはいいつつ紅葉もしっかり堪能。
聴秋閣(ちょうしゅうかく)
家光が二条城内に建て、後に春日局が譲り受けたとされる建物。この建物も京都の二条城から春日局の孫に当たる人物の江戸屋敷、明治にになってからは新宿にある公爵邸と、三渓園に来るまで3回も移築されている。
四角ではなく斜めのラインがある珍しいデザイン。
聴秋閣の先は、小さな渓谷を登って降りる遊歩道となっており紅葉がキレイだった。
できるだけ人が入らないように写真は撮っているが、実際には紅葉の見物客が多い。ここは渓谷を登ってUターンする場所の橋。
流れているのは小さな水の流れで、その左岸右岸では多少見える景色が違って楽しめる。これは下り方向の左岸から撮った聴秋閣。
聴秋閣の周りはレッドオータムだが、次の春草廬(しゅんそうろ)に近づくとイエローオータムに景色が変わる。
春草廬は信長の弟である織田有楽(うらく)が建てた茶室ともいわれている。
天井の照明は後で付けたと思うけど(^^ゞ
これは茶室に入る順番を待つためのものかな。
屋根に積もったイチョウの葉っぱを撮ってみる。
春草廬の後は再び赤、黄色、緑のミックスオータムな紅葉を眺め、ついでに竹林を見て、秀吉が母親のために建てたお堂の横を通り、海岸門という門をくぐって内苑見学が終了。
ーーー続く