2014年12月10日
三渓園の紅葉 その2
内苑の次は外苑。
内苑の海岸門を出た前の小高い丘を登っていく。
そこそこの高さまで登るのだが、あまりきつくなかった。
坂を登ったところにあった案内標識。
展望台の方に向かう。
標識では展望台の名前が松風閣(しょうふうかく)となっているが、オリジナルの松風閣は原富太郎の養祖父である原善三郎が明治20年頃に三渓園に最初に建てた別荘で、原家のゲストハウスとして使われていた。もともと三渓園は善三郎が購入した土地であり、後に富太郎が引き継いで徐々に伝統建築のテーマパークのようになっていく。しかしこの広い敷地に最初は別荘がポツンと一軒だけだったというのは何とも贅沢というか寂しいというか。ちなみに善三郎の別荘を松風閣と名付けたのは伊藤博文。さすが華麗なる一族。
残念ながらオリジナルの松風閣は関東大震災で倒壊。現在はレンガ造りだった玄関部分(といわれても原型を想像しづらいが)だけが残っている。
日本の伝統建築を集めた三渓園の中で、ここだけは「ハイカラ」な建物だったのかな。しかし案内板を見ると中国風と書いてある。どんな建物だったのか1枚の白黒写真だけではイメージできない。できたら再建して欲しいなあ。
こちらは名前を譲り受けた展望台の松風閣。
ごく普通のコンクリートの建物。
内部の様子。
ここから見えるのは本牧の埋め立て地。コンビナートの手前の道路は首都高で、展望台に上がるとクルマの騒音が聞こえる。展望台の周り以外は木に囲まれているから園内はまったく静かなもの。
三渓園が作られた当時ここから見えたのは本牧海岸。海岸が昭和30年代に埋め立てられるまでは海水浴場として賑わっていたらしい。つまりオリジナルの松風閣は海を高台から眺められる別荘だったことになる。たぶん三浦海岸や、その対岸の富津岬あたりを見渡せたはず。
三渓園の一番南側にある展望台から、
敷地のほぼセンターにある三重の塔に向かう。
この塔は京都の燈明寺(とうみょうじ)という所から移築されてきたもの。燈明寺は奈良時代に聖武天皇によって建てられた古刹だったが室町時代にいったん廃れ、その後も浮き沈みを繰り返していたようである。この塔は室町時代のものと案内板に書いてあるから、500年から700年くらい前の建築ということになる。そんなものを自宅の敷地に移築するなんてビックリするね。
展望台からは工業地帯が見えただけだったが、三重の塔のあたりからは三渓園の山々を眺めおろせて見晴らしがいい。
少し下から三重の塔を撮りたかったのに、木がジャマでうまく撮れなかった。
丘を下ったところにある東慶寺仏殿。東慶寺は北鎌倉にある縁切り寺だったことで有名なところ。最近じゃミシュラン・グリーンガイド(観光地案内みたいなランキング)でも三つ星と、燈明寺と違って廃れた寺じゃないから、どうやってこの仏殿を手に入れたんだろう。
東慶寺仏殿の近くはきれいな紅葉が多い。
きれいな紅葉のところには記念写真を撮影している新婚さんが。新婚さんといっても、こういう記念写真は前撮りといって結婚式より1〜2ヶ月前に撮ることが多い。だからどのカップルも時期的に幸せオーラ全開(^o^) 結婚式はウエディングドレスだから前撮りは和装というパターンに人気があるらしい。
大きな合掌造りの家。前回のエントリーで数寄屋風書院造りの意味を知らないと書いたが、よく考えれば合掌造りも正確なところを知っているわけではない。なんとなく茅葺きの大きな屋根の建物を合掌造りと認識しているような気がする。
調べてみると合掌造りと呼ぶには、屋根の骨組みにも満たすべき要件があるらしい。でも私の認識で当たらずといえども遠からず。
案内板によると1960年に白川郷から移築されたとある。白川郷は1995年に合掌造りで世界遺産になっているが、1961年に完成した御母衣ダム(みぼろダム)によって半数近くの家が水没対象地帯となった。合掌造りは当時から人気があったらしく、そのときに全国各地に移築が進められる。この三渓園の合掌造りもそのひとつだと思う。
移築の目的は保存だったり店舗や民宿としての利用だったりと様々だが、観光用としての移築もあった。岐阜の下呂温泉にある合掌村もそのひとつで10棟ほどが移築されている。合掌村にはたぶん小学3〜4年の頃だったと思うが家族旅行で行ったことがある。正確にいうと下呂温泉に訪れて、夜になってから父親が突然、合掌村を見に行こうと言い出し、家族4人でテクテクと歩いて出かけた。たぶん温泉にも入って夕食も食べた後だったような気がする。なぜなら旅館の浴衣姿で下駄を履いていた記憶があるから。旅館から合掌村まではかなり距離があり、遠くに合掌村の明かりが見えたあたりで諦めて引き返したと思うが記憶が定かではない。覚えているのは下駄で歩きにくかったことくらい。下駄である程度の距離を歩いたのは、あれが最初で今のところ最後である。
ここは中に上がれるが、バイクブーツを脱ぐのが面倒で入り口の土間のあたりまで入っただけ。中にフランス人の夫婦がいて、ご主人がやたらこういうことに詳しいらしく奥さんに熱心に建物のことを説明していた。もっとも聞き取れたのはシラカワゴウとガッショウヅクリだけだった(^^ゞ
屋根の形と勾配は写真でよく見る白川郷の合掌造りとはずいぶん違う。今、白川郷にあるのは水没を免れた地域だから、移築されたよその地域では建築様式も多少は違っていたのかも知れない。
また紅葉がきれいなところを通って池の方に降りる。
三渓園はとても広い敷地で、紅葉しているのは相対的にはごくわずかだから、紅葉をたくさんたくさん見てお腹一杯という感じにはならない。また写真では真っ赤に写っている紅葉も、私が好きな「くすんでいない、黒や茶色が混ざっていない本当の赤い色」ではなかったのは残念。しかし、とても横浜のど真ん中にあるとは思えない広い日本庭園の中を紅葉を探しながらブラブラするのも悪くない。もっとも庭園らしいのは池の周りだけで他は山里っぽいかな。ところどころに伝統建築が配置されているので、まさに「巡り歩いている」感覚が味わえる。
最後に池の手前にあったのが燈明寺の本堂。燈明寺から三重の塔を移築したのは1914年(大正3年)だが、この本堂が移築されたのは1987年(昭和62年)とかなり後から。原富太郎が亡くなったのは1939年(昭和14年)で、合掌造りとこの本堂は彼の死後の移築。
立派な建物だけれど、何となく殺風景なイメージもぬぐえない。ここは階段にも上がってはいけないと書いてあった。ズームで仏像を撮るのが精一杯で、内部の様子はあまり見られず。
池に戻ってくる。最初に歩いたのとは対岸の位置。正面に見えているのはこの日は貸し切りで見学できなかった鶴翔閣(かくしょうかく)。
橋が架かっていたので渡る。
橋の上から見上げる三重の塔。
入り口方面。
来た時は快晴だったのに少し雲が多くなった。
池にはカモがたくさんいる。茶色や頭が緑色のカモはよく見るが、こんな黒いカモはあまり見たことがない。日本野鳥の会のホームページで調べるとキンクロハジロという種類みたいだ。茶色いのは他でもいろいろ調べてみたがよくわからず。手前にいるのと奥のカモではクチバシの色が違うから別の品種かも知れない。
何か起こりそうな形になってきた雲と、池をお約束のローアングルで最後に撮って三渓園を後にする。滞在約2時間。しかし池の真ん中に浮かべてある舟は何のために? オブジェ?
書き忘れていたが三渓園の入場料は500円と安い。これだけの広さの庭だから季節ごとの花もいろいろ咲く。春夏秋冬ちょくちょく来てみることにしよう。
帰りは久しぶりに横浜の山手(地名です)を少し走り、首都高横羽線で戻ってきた。雲に遮られて日が射さなくなり気温7.5度。高速道路ではかなり寒かった。走行72キロで午後4時頃帰宅。バイク2時間・現地2時間の気分転換。これからしばらくはこんなツーリングかな。
おしまい
内苑の海岸門を出た前の小高い丘を登っていく。
そこそこの高さまで登るのだが、あまりきつくなかった。
坂を登ったところにあった案内標識。
展望台の方に向かう。
標識では展望台の名前が松風閣(しょうふうかく)となっているが、オリジナルの松風閣は原富太郎の養祖父である原善三郎が明治20年頃に三渓園に最初に建てた別荘で、原家のゲストハウスとして使われていた。もともと三渓園は善三郎が購入した土地であり、後に富太郎が引き継いで徐々に伝統建築のテーマパークのようになっていく。しかしこの広い敷地に最初は別荘がポツンと一軒だけだったというのは何とも贅沢というか寂しいというか。ちなみに善三郎の別荘を松風閣と名付けたのは伊藤博文。さすが華麗なる一族。
残念ながらオリジナルの松風閣は関東大震災で倒壊。現在はレンガ造りだった玄関部分(といわれても原型を想像しづらいが)だけが残っている。
日本の伝統建築を集めた三渓園の中で、ここだけは「ハイカラ」な建物だったのかな。しかし案内板を見ると中国風と書いてある。どんな建物だったのか1枚の白黒写真だけではイメージできない。できたら再建して欲しいなあ。
こちらは名前を譲り受けた展望台の松風閣。
ごく普通のコンクリートの建物。
内部の様子。
ここから見えるのは本牧の埋め立て地。コンビナートの手前の道路は首都高で、展望台に上がるとクルマの騒音が聞こえる。展望台の周り以外は木に囲まれているから園内はまったく静かなもの。
三渓園が作られた当時ここから見えたのは本牧海岸。海岸が昭和30年代に埋め立てられるまでは海水浴場として賑わっていたらしい。つまりオリジナルの松風閣は海を高台から眺められる別荘だったことになる。たぶん三浦海岸や、その対岸の富津岬あたりを見渡せたはず。
三渓園の一番南側にある展望台から、
敷地のほぼセンターにある三重の塔に向かう。
この塔は京都の燈明寺(とうみょうじ)という所から移築されてきたもの。燈明寺は奈良時代に聖武天皇によって建てられた古刹だったが室町時代にいったん廃れ、その後も浮き沈みを繰り返していたようである。この塔は室町時代のものと案内板に書いてあるから、500年から700年くらい前の建築ということになる。そんなものを自宅の敷地に移築するなんてビックリするね。
展望台からは工業地帯が見えただけだったが、三重の塔のあたりからは三渓園の山々を眺めおろせて見晴らしがいい。
少し下から三重の塔を撮りたかったのに、木がジャマでうまく撮れなかった。
丘を下ったところにある東慶寺仏殿。東慶寺は北鎌倉にある縁切り寺だったことで有名なところ。最近じゃミシュラン・グリーンガイド(観光地案内みたいなランキング)でも三つ星と、燈明寺と違って廃れた寺じゃないから、どうやってこの仏殿を手に入れたんだろう。
東慶寺仏殿の近くはきれいな紅葉が多い。
きれいな紅葉のところには記念写真を撮影している新婚さんが。新婚さんといっても、こういう記念写真は前撮りといって結婚式より1〜2ヶ月前に撮ることが多い。だからどのカップルも時期的に幸せオーラ全開(^o^) 結婚式はウエディングドレスだから前撮りは和装というパターンに人気があるらしい。
大きな合掌造りの家。前回のエントリーで数寄屋風書院造りの意味を知らないと書いたが、よく考えれば合掌造りも正確なところを知っているわけではない。なんとなく茅葺きの大きな屋根の建物を合掌造りと認識しているような気がする。
調べてみると合掌造りと呼ぶには、屋根の骨組みにも満たすべき要件があるらしい。でも私の認識で当たらずといえども遠からず。
案内板によると1960年に白川郷から移築されたとある。白川郷は1995年に合掌造りで世界遺産になっているが、1961年に完成した御母衣ダム(みぼろダム)によって半数近くの家が水没対象地帯となった。合掌造りは当時から人気があったらしく、そのときに全国各地に移築が進められる。この三渓園の合掌造りもそのひとつだと思う。
移築の目的は保存だったり店舗や民宿としての利用だったりと様々だが、観光用としての移築もあった。岐阜の下呂温泉にある合掌村もそのひとつで10棟ほどが移築されている。合掌村にはたぶん小学3〜4年の頃だったと思うが家族旅行で行ったことがある。正確にいうと下呂温泉に訪れて、夜になってから父親が突然、合掌村を見に行こうと言い出し、家族4人でテクテクと歩いて出かけた。たぶん温泉にも入って夕食も食べた後だったような気がする。なぜなら旅館の浴衣姿で下駄を履いていた記憶があるから。旅館から合掌村まではかなり距離があり、遠くに合掌村の明かりが見えたあたりで諦めて引き返したと思うが記憶が定かではない。覚えているのは下駄で歩きにくかったことくらい。下駄である程度の距離を歩いたのは、あれが最初で今のところ最後である。
ここは中に上がれるが、バイクブーツを脱ぐのが面倒で入り口の土間のあたりまで入っただけ。中にフランス人の夫婦がいて、ご主人がやたらこういうことに詳しいらしく奥さんに熱心に建物のことを説明していた。もっとも聞き取れたのはシラカワゴウとガッショウヅクリだけだった(^^ゞ
屋根の形と勾配は写真でよく見る白川郷の合掌造りとはずいぶん違う。今、白川郷にあるのは水没を免れた地域だから、移築されたよその地域では建築様式も多少は違っていたのかも知れない。
また紅葉がきれいなところを通って池の方に降りる。
三渓園はとても広い敷地で、紅葉しているのは相対的にはごくわずかだから、紅葉をたくさんたくさん見てお腹一杯という感じにはならない。また写真では真っ赤に写っている紅葉も、私が好きな「くすんでいない、黒や茶色が混ざっていない本当の赤い色」ではなかったのは残念。しかし、とても横浜のど真ん中にあるとは思えない広い日本庭園の中を紅葉を探しながらブラブラするのも悪くない。もっとも庭園らしいのは池の周りだけで他は山里っぽいかな。ところどころに伝統建築が配置されているので、まさに「巡り歩いている」感覚が味わえる。
最後に池の手前にあったのが燈明寺の本堂。燈明寺から三重の塔を移築したのは1914年(大正3年)だが、この本堂が移築されたのは1987年(昭和62年)とかなり後から。原富太郎が亡くなったのは1939年(昭和14年)で、合掌造りとこの本堂は彼の死後の移築。
立派な建物だけれど、何となく殺風景なイメージもぬぐえない。ここは階段にも上がってはいけないと書いてあった。ズームで仏像を撮るのが精一杯で、内部の様子はあまり見られず。
池に戻ってくる。最初に歩いたのとは対岸の位置。正面に見えているのはこの日は貸し切りで見学できなかった鶴翔閣(かくしょうかく)。
橋が架かっていたので渡る。
橋の上から見上げる三重の塔。
入り口方面。
来た時は快晴だったのに少し雲が多くなった。
池にはカモがたくさんいる。茶色や頭が緑色のカモはよく見るが、こんな黒いカモはあまり見たことがない。日本野鳥の会のホームページで調べるとキンクロハジロという種類みたいだ。茶色いのは他でもいろいろ調べてみたがよくわからず。手前にいるのと奥のカモではクチバシの色が違うから別の品種かも知れない。
何か起こりそうな形になってきた雲と、池をお約束のローアングルで最後に撮って三渓園を後にする。滞在約2時間。しかし池の真ん中に浮かべてある舟は何のために? オブジェ?
書き忘れていたが三渓園の入場料は500円と安い。これだけの広さの庭だから季節ごとの花もいろいろ咲く。春夏秋冬ちょくちょく来てみることにしよう。
帰りは久しぶりに横浜の山手(地名です)を少し走り、首都高横羽線で戻ってきた。雲に遮られて日が射さなくなり気温7.5度。高速道路ではかなり寒かった。走行72キロで午後4時頃帰宅。バイク2時間・現地2時間の気分転換。これからしばらくはこんなツーリングかな。
おしまい