2015年04月05日
パスキン展 その2
ツーリングに行ったとかチューリップが咲いたとかの話が途中に挟まったが、3月27日に書いたパスキン展の続き。展覧会に出かけたのは約1ヶ月前だから、そろそろ記憶もあやふやになりかけている。
さて第1次世界大戦の間はパリを離れて主にアメリカにいたパスキンは、戦争が終わって2年後の1920年にパリに戻ってくる。ここから10年後に自殺するまでがパリ第2期で彼の全盛期。(前回1921年に戻ってきたと記したのは間違い。現在は修正済み)
この1920年代にパスキンは画風を確立し、それは「真珠母色の時代」と呼ばれる。真珠の光沢を連想させる溶け合った淡い色彩と柔らかい輪郭が特徴。ポーラ美術館のモディリアーニ展で見た作品などもそれにあたる。しかし調べてみるとパスキンはパリに戻ってから真珠母色の絵ばかりを描いていたわけでなく、結構いろんな画風を使い分けている。ネットでパスキンの絵はかなりヒットするから、彼はかなり多作な画家だったようである。
展覧会で見たパリ第2期のパスキンの作品は3つのパターンに分けられる。
ただしあくまでも私の分類方法。
まずダークトーンで力強い作品。
「ヴィーナスの後ろ姿」 1925〜28年
ドシーンと存在感のあった絵。
でもこれがヴィーナスといわれてもピンとこないけどーーー
「二人のスイス娘」 1925年
アップした写真はわりと柔らかいタッチに写っている。本物はもうすこしゴリッとした感じ。でも表情なんかは真珠母色の作品につながるところもある。
「ジャネット」 1923〜25年
ひょっとしたらヴィーナスを正面から描いたのがこれかな。
真珠母色の作品群はまさにパスキン・ワールドであるが、このダーク・パスキンはそんなにオリジナリティは感じない。どこかで似たような絵を見たような気がするといえばする。だから展覧会でも、チラッと見た程度ではあまり興味も引かない。しかし会場内を往復して何度か見るうちに、だんだんといい絵に見えてくるというか、すごく味わい深い印象を受けるのが不思議。
その次はややモノトーン的な作品。真珠母色と同じようなノリだが、やや軽めに仕上げた、またはあまり手間を掛けなかった印象を受ける。
「ジメットとミレイユ」 1927年
「椅子に座る女」 1927年
「ミレイユ」 1930年
そしていよいよ真珠母色の作品。
色が混じり合っている、溶け合っているところがパスキン・マジック。残念ながらその感覚というか臨場感は写真ではなかなか伝わらない。
「二人の座る少女」 1925年
「長い髪のエリアーヌ」 1927年〜29年」
これこそがヴィーナスでしょ。
真珠母色シリーズは背景にいろんな色を溶け合わせてふんわりした感じをだす。ある意味ちょっと作為的。でもこの絵は背景を割と普通に描いているのに全体的なふんわり感は1番だった。
「テーブルのリュシーの肖像」 1928年
これに描かれているのはパスキンの不倫相手で自殺の一因にもなったといわれている女性。リュシーはLucyで英語読みならルーシー。
「幼い女優」 1927年
「腰かける女」 1928年
「マリエッタの肖像」 1928〜29年
真珠母色の作品群は10点くらいが1つのコーナーにまとめられていて、そのコーナーに足を踏み入れたとたん思わず「わあ〜」と声が出そうになったくらい、その場の空気がパスキン・ワールドに包まれていた。何かを訴えてくるような絵ではないのだが、とにかく見ていて幸せな気分になってくる。なんとなくスイーツみたいな存在の絵である。
ところで私はパスキンを相当に気に入っているのだが、日本ではあまり人気がないらしい。この日も平日の昼間とはいえ美術館にあまり人はいなかった。パナソニック汐留ミュージアムはあまり広くないので、もしこれが普通の美術館で開催されていたらガラガラ状態だったかも知れない。日本人受けする画家だと思うんだけれどなあ。
ここからは番外編。
「ダンス」 1925年
これはどうみてもマティスのダンスから影響を受けた作品。パスキンとマティスは仲がよかったとのこと。マティスにはそれほど興味がないが、この作品を見てすぐマティス!と思い浮かんだから、やっぱりあのダンスという作品はインパクトがあったのだと改めて気付いた。
「遊女に罵倒されるソクラテスと弟子たち」 1921年
これはまあ絵というよりタイトルに惹かれた。
こういう線画というか漫画みたいな作品もたくさん展示されていた。普段は資料的に展示されている素描や下書きの類はチラ見しかしないのだが、この日はわりと熱心に見た。落書きみたいなものも多かったが、なんとなくパスキンのは面白い。
ちなみにパスキンは暇さえあれば絵を描いていたらしく、仲間と写っているこの写真でも一人黙々とペンを走らせている。(右端がパスキン)この写真は展示会にもあったが、注目すべきはパスキンよりもテーブルにうずたかく積まれた小皿の山。1920年代のパリに回転寿司があった?
さてネットでパスキンの絵を探している時に見つけたのがこの写真。
左側のは展覧会でも見かけた。
山高帽をかぶってタバコをくわえているのがパスキン。モデルが二人いて、後ろに彼女たちを描いた絵がイーゼルに掛かっている。今風にいうならメイキング画像。白黒写真だからわからないが、後ろにある絵は真珠母色の絵のような気がする。
ーーーだとしたらである。
もう一度上に貼った真珠母色の作品を眺めて、それからこのイーゼルの絵を見て欲しい。白黒写真でも淡い色彩が混じり合ったパスキン・ワールドの絵が見えてくるような気がするはず。それで再びモデルの二人に目をやると「なんか違う」「夢が壊れた」という気にならない?
それで改めて気付いたのは、絵とは画家が描いたファンタジーを楽しむものだということ。ファンタジーという言葉は曖昧だけれど、空想とか願望とか演出とかが混じり合った画家が表現したかったことというような意味で使っている。絵に限らずほとんどの芸術も同じかな。ある作品が気に入る気に入らないというのは、そのファンタジーと自分の波長が合うかどうかということだと思う。
そこにどんなファンタジーが描かれているのかという観点から今まで見てきた絵、特にわりと写実的な風景画や肖像画を振り返ってみると、それまでとは違う見え方もする。何か視野が広がった感じ。とりあえずこのメイキング写真を撮ってくれたカメラマンに感謝。
前回に書いたようにパスキンは1930年に45歳で自殺する。リュシーとの不倫関係が原因かどうかはわかっていないが、手首を切って壁に血文字で「ADIEU LUCY」(さよなら、リュシー)と書いた後に首を吊ったといわれる。彼の葬儀の日にパリ中の画廊が店を閉めて弔意を表したというのは、モンパルナスの王子、エコール・ド・パリの貴公子と呼ばれたパスキンが皆に愛されていたことを伝えるエピソード。
ところで不倫相手の名前を血文字で書いて自殺されたら正妻としては怒り心頭のはず。しかし実はパスキンとリュシーのW不倫は妻エルミーヌも公認の仲。パスキン、エルミーヌ、リュシー、リュシーの息子ギィ(パスキンの子供ではない)と一緒によく出かけていたという記録や写真が残っている。エルミーヌ自身も画家でかなり人気があったらしい。パスキンの作品はエルミーヌとリュシーが半分ずつ相続することになったが、エルミーヌは自分の取り分をすべてリュシーに譲ったというから太っ腹。
左がエルミーヌで右がリュシー。
そして45歳で自殺したことと関係あるのかどうか、
パスキンは次のような言葉を残している。
人間、45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ。
それまでに力を発揮できていなければ、その歳で生み出すものは、
もはや何もないだろう。
おおムッシュ・パスキン、
20年ほど前にあなたの言葉を学んでいたかった(^^ゞ
おしまい
さて第1次世界大戦の間はパリを離れて主にアメリカにいたパスキンは、戦争が終わって2年後の1920年にパリに戻ってくる。ここから10年後に自殺するまでがパリ第2期で彼の全盛期。(前回1921年に戻ってきたと記したのは間違い。現在は修正済み)
この1920年代にパスキンは画風を確立し、それは「真珠母色の時代」と呼ばれる。真珠の光沢を連想させる溶け合った淡い色彩と柔らかい輪郭が特徴。ポーラ美術館のモディリアーニ展で見た作品などもそれにあたる。しかし調べてみるとパスキンはパリに戻ってから真珠母色の絵ばかりを描いていたわけでなく、結構いろんな画風を使い分けている。ネットでパスキンの絵はかなりヒットするから、彼はかなり多作な画家だったようである。
展覧会で見たパリ第2期のパスキンの作品は3つのパターンに分けられる。
ただしあくまでも私の分類方法。
まずダークトーンで力強い作品。
「ヴィーナスの後ろ姿」 1925〜28年
ドシーンと存在感のあった絵。
でもこれがヴィーナスといわれてもピンとこないけどーーー
「二人のスイス娘」 1925年
アップした写真はわりと柔らかいタッチに写っている。本物はもうすこしゴリッとした感じ。でも表情なんかは真珠母色の作品につながるところもある。
「ジャネット」 1923〜25年
ひょっとしたらヴィーナスを正面から描いたのがこれかな。
真珠母色の作品群はまさにパスキン・ワールドであるが、このダーク・パスキンはそんなにオリジナリティは感じない。どこかで似たような絵を見たような気がするといえばする。だから展覧会でも、チラッと見た程度ではあまり興味も引かない。しかし会場内を往復して何度か見るうちに、だんだんといい絵に見えてくるというか、すごく味わい深い印象を受けるのが不思議。
その次はややモノトーン的な作品。真珠母色と同じようなノリだが、やや軽めに仕上げた、またはあまり手間を掛けなかった印象を受ける。
「ジメットとミレイユ」 1927年
「椅子に座る女」 1927年
「ミレイユ」 1930年
そしていよいよ真珠母色の作品。
色が混じり合っている、溶け合っているところがパスキン・マジック。残念ながらその感覚というか臨場感は写真ではなかなか伝わらない。
「二人の座る少女」 1925年
「長い髪のエリアーヌ」 1927年〜29年」
これこそがヴィーナスでしょ。
真珠母色シリーズは背景にいろんな色を溶け合わせてふんわりした感じをだす。ある意味ちょっと作為的。でもこの絵は背景を割と普通に描いているのに全体的なふんわり感は1番だった。
「テーブルのリュシーの肖像」 1928年
これに描かれているのはパスキンの不倫相手で自殺の一因にもなったといわれている女性。リュシーはLucyで英語読みならルーシー。
「幼い女優」 1927年
「腰かける女」 1928年
「マリエッタの肖像」 1928〜29年
真珠母色の作品群は10点くらいが1つのコーナーにまとめられていて、そのコーナーに足を踏み入れたとたん思わず「わあ〜」と声が出そうになったくらい、その場の空気がパスキン・ワールドに包まれていた。何かを訴えてくるような絵ではないのだが、とにかく見ていて幸せな気分になってくる。なんとなくスイーツみたいな存在の絵である。
ところで私はパスキンを相当に気に入っているのだが、日本ではあまり人気がないらしい。この日も平日の昼間とはいえ美術館にあまり人はいなかった。パナソニック汐留ミュージアムはあまり広くないので、もしこれが普通の美術館で開催されていたらガラガラ状態だったかも知れない。日本人受けする画家だと思うんだけれどなあ。
ここからは番外編。
「ダンス」 1925年
これはどうみてもマティスのダンスから影響を受けた作品。パスキンとマティスは仲がよかったとのこと。マティスにはそれほど興味がないが、この作品を見てすぐマティス!と思い浮かんだから、やっぱりあのダンスという作品はインパクトがあったのだと改めて気付いた。
「遊女に罵倒されるソクラテスと弟子たち」 1921年
これはまあ絵というよりタイトルに惹かれた。
こういう線画というか漫画みたいな作品もたくさん展示されていた。普段は資料的に展示されている素描や下書きの類はチラ見しかしないのだが、この日はわりと熱心に見た。落書きみたいなものも多かったが、なんとなくパスキンのは面白い。
ちなみにパスキンは暇さえあれば絵を描いていたらしく、仲間と写っているこの写真でも一人黙々とペンを走らせている。(右端がパスキン)この写真は展示会にもあったが、注目すべきはパスキンよりもテーブルにうずたかく積まれた小皿の山。1920年代のパリに回転寿司があった?
さてネットでパスキンの絵を探している時に見つけたのがこの写真。
左側のは展覧会でも見かけた。
山高帽をかぶってタバコをくわえているのがパスキン。モデルが二人いて、後ろに彼女たちを描いた絵がイーゼルに掛かっている。今風にいうならメイキング画像。白黒写真だからわからないが、後ろにある絵は真珠母色の絵のような気がする。
ーーーだとしたらである。
もう一度上に貼った真珠母色の作品を眺めて、それからこのイーゼルの絵を見て欲しい。白黒写真でも淡い色彩が混じり合ったパスキン・ワールドの絵が見えてくるような気がするはず。それで再びモデルの二人に目をやると「なんか違う」「夢が壊れた」という気にならない?
それで改めて気付いたのは、絵とは画家が描いたファンタジーを楽しむものだということ。ファンタジーという言葉は曖昧だけれど、空想とか願望とか演出とかが混じり合った画家が表現したかったことというような意味で使っている。絵に限らずほとんどの芸術も同じかな。ある作品が気に入る気に入らないというのは、そのファンタジーと自分の波長が合うかどうかということだと思う。
そこにどんなファンタジーが描かれているのかという観点から今まで見てきた絵、特にわりと写実的な風景画や肖像画を振り返ってみると、それまでとは違う見え方もする。何か視野が広がった感じ。とりあえずこのメイキング写真を撮ってくれたカメラマンに感謝。
前回に書いたようにパスキンは1930年に45歳で自殺する。リュシーとの不倫関係が原因かどうかはわかっていないが、手首を切って壁に血文字で「ADIEU LUCY」(さよなら、リュシー)と書いた後に首を吊ったといわれる。彼の葬儀の日にパリ中の画廊が店を閉めて弔意を表したというのは、モンパルナスの王子、エコール・ド・パリの貴公子と呼ばれたパスキンが皆に愛されていたことを伝えるエピソード。
ところで不倫相手の名前を血文字で書いて自殺されたら正妻としては怒り心頭のはず。しかし実はパスキンとリュシーのW不倫は妻エルミーヌも公認の仲。パスキン、エルミーヌ、リュシー、リュシーの息子ギィ(パスキンの子供ではない)と一緒によく出かけていたという記録や写真が残っている。エルミーヌ自身も画家でかなり人気があったらしい。パスキンの作品はエルミーヌとリュシーが半分ずつ相続することになったが、エルミーヌは自分の取り分をすべてリュシーに譲ったというから太っ腹。
左がエルミーヌで右がリュシー。
そして45歳で自殺したことと関係あるのかどうか、
パスキンは次のような言葉を残している。
人間、45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ。
それまでに力を発揮できていなければ、その歳で生み出すものは、
もはや何もないだろう。
おおムッシュ・パスキン、
20年ほど前にあなたの言葉を学んでいたかった(^^ゞ
おしまい
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