2015年09月25日
油壺 胴網浜から横堀海岸
9月20日のツーリングの4エントリー目。
奥に見える胴網浜東端にある岩場を回り込めば、
隣の横堀海岸に行けることになっている。
写真で見るイメージ以上に足を運べるスペースは小さい。壁に手をつけば大丈夫なんだけれど、カメラを手に持っていてはそれもやりづらい。大型のウエストポーチを背中に斜めがけしているのだが、いちいちカメラを入れたり出したりも面倒。ということで海岸沿いを通って行くのは断念。まあ荒井浜〜胴網浜の探検で充分満足したのも理由のひとつ。
海岸から道路へ出る道を登っていく。
脇道に墓のようなものが見えた。
「陸奥守(むつのかみ)道寸義同公の墓」と書いてある。
供えられている花はまだ生き生きしていた。
隣にあるお墓の説明看板。
三浦義同(よしあつ)の墓である。陸奥守は彼の官職名。陸奥というのは太平洋側の東北地方のこと。守(かみ)というのは、4つあった国司の階級で最も高い位。その次が介(すけ)。なんとかの守、なんとかの介という呼び方は聞いたことがあると思う。国司とは朝廷=中央政府から地方に派遣される行政官。守(かみ)なら長官で県知事みたいなもの。
もっとも国司が任務地に「赴任」していたのは律令制が始まった頃だけ。平安時代になると守や介は都に残って下級の国司しか現地に行かなくなる。平安の終わりから鎌倉時代になると国司が地方を治めるという制度は実質的に崩壊。ただし国司という官職だけは一種の箔付けとして残った。信長は上総介(かずさ・のすけ=千葉)、秀吉は筑前守(ちくぜん・のかみ=福岡)と領地とは無関係に「官位として」任ぜられている。
ちなみに信長が介なのは低く見られていたわけではなく、上総の守は親王(皇位継承権のある皇族)がなるしきたりで、介が実質的なトップという位置づけだったから。そんな建前が、国司という制度が単に名目上のことになった後も続いていたのが面白い。忠臣蔵で敵役の吉良上野介(きら・こうずのすけ)も上野介は役職名で彼の本当の名前は義央(よしひさ)。上野とは今の群馬県あたり。名前を使わずに部長とか社長と役職名で呼ぶことがあるが、そんな風習はけっこう歴史が古いのかも知れない。
さて三浦義同は1451年生まれ1516年没。応仁の乱が1467年なので戦国時代初期の人物。当然、陸奥守というのも名目的な官位。道寸(どうすん)というのは出家してしてからの名前。出家したのは仏門に目覚めたからではなく、養子に入った家で実子が生まれ、養父に疎まれて暗殺されそうになったから。坊主なら暗殺のハードルが高くなるという理屈。
三浦一族は平安時代から相模=神奈川を支配していた豪族。やがて武士となりイイクニツクロウの源頼朝の挙兵に参加。鎌倉幕府の有力メンバーとなるが、執権である北条氏と対立して1247年に滅ぼされる。しかし親戚筋がお家再興して1331〜1333年に足利尊氏が鎌倉幕府を倒した戦いに参加。室町時代に再び200年ほど相模を治め繁栄するが、戦国時代になり北条早雲に滅ぼされる。ちなみに鎌倉時代の執権家の北条氏と、北条早雲から始まり小田原城を築いた北条氏は遠い親戚らしいが歴史的には別の系統に分類される。
三浦義同(よしあつ)はその北条早雲に滅ぼされた三浦家最後の当主。今は油壺マリンパークとなっている場所にあった新井城に4年近く籠城したが最後は落城。これは戦国時代最長の籠城記録とのこと。
看板に書かれている三浦義同(よしあつ)辞世の句
討つものも討たるるものも かわらけよ
砕けて後は もとの土くれ
「かわらけ」といいうのは土器・陶器のこと。ここではたぶん素焼きの杯を差していると思う。達観しているようでもあり自虐的なようでもある。
というわけで1516年に北条早雲に滅ぼされ「土くれ」となった三浦一族であったが、義同の次男は安房(千葉)に落ち延びる。その孫が養珠院お万の方。家康の側室となり家康の十男、十一男を産み、それぞれ紀州徳川家、水戸徳川家の初代藩主となっている。黄門様の水戸光圀は彼女の孫、暴れん坊将軍の紀州徳川吉宗はひ孫。2回も滅ぼされたのに徳川家にその血筋を残しているんだから三浦一族はしぶとい。
※リンクしたページの下のほうにお万の方の銅像を訪れたときのエントリーがある。
http://blog.livedoor.jp/wassho/archives/2011-09-19.html
いつものことながら話がそれた(^^ゞ
さて
胴網浜から坂を登り切ると油壺マリンパークの駐車場に出た。
マリンパークの入り口。
壮絶な戦場だった新井城も今は親子連れが集う平和な行楽地。
道路に出て市営駐車場のほうに戻っていく。
荒井浜に降りる分岐を通り過ぎると、
横堀海岸に降りる坂道がある。
ところで坂道の向こうに海が見えるとワクワクしてくるのは私だけかな?
別荘?やリゾートマンションに囲まれた道を下る。
横堀海岸到着。
サイズは胴網浜より少し小さいかな。全景は撮り忘れた(>_<)
他の2つの浜と違って海の家は休業中。
東隣はシーボニアというマリーナがあって(そっちに顔を向けていると)リッチな雰囲気。
ここにも海に延びるパイプがあった。もちろん荒井浜と違って水族館などはない。
海水を取り込んでいるのか、下水を流していのか。ナゾ
東側にはさらに小さな浜があった。足を濡らさずには渡れなかったので見ただけ。
かつては桟橋を支えていたと思われる朽ちた構造物。
西側の風景。つまり胴網浜方向。
アップで。
胴網浜から歩いてくるのはやはり無理だったみたい。
もう少し潮が引いていれば濡れずに歩けるのかも知れないが。
遠くに見えている岬の先端は荒崎だと思う。
ボケーッと海を眺めていたらスタンドアップボードの集団が通り過ぎた。
なぜかこのスポーツだけはやりたいと思ったことがない。
降りてきた坂道を登って三浦半島のマイナースポット巡りPart2は終了。あまり馴染みのなかった油壺を探索できて楽しかった。
高速道路に乗るまでの134号線はいつものように大渋滞。かなり強引なスリヌケをする4台位のバイク集団がいたので最後尾について便乗。できるだけ自重しているんだが、ついついーーー。走行150キロで午後6時前に帰宅。次の週末は交通安全週間中なのでバイクでは出かけない予定。
おしまい
奥に見える胴網浜東端にある岩場を回り込めば、
隣の横堀海岸に行けることになっている。
写真で見るイメージ以上に足を運べるスペースは小さい。壁に手をつけば大丈夫なんだけれど、カメラを手に持っていてはそれもやりづらい。大型のウエストポーチを背中に斜めがけしているのだが、いちいちカメラを入れたり出したりも面倒。ということで海岸沿いを通って行くのは断念。まあ荒井浜〜胴網浜の探検で充分満足したのも理由のひとつ。
海岸から道路へ出る道を登っていく。
脇道に墓のようなものが見えた。
「陸奥守(むつのかみ)道寸義同公の墓」と書いてある。
供えられている花はまだ生き生きしていた。
隣にあるお墓の説明看板。
三浦義同(よしあつ)の墓である。陸奥守は彼の官職名。陸奥というのは太平洋側の東北地方のこと。守(かみ)というのは、4つあった国司の階級で最も高い位。その次が介(すけ)。なんとかの守、なんとかの介という呼び方は聞いたことがあると思う。国司とは朝廷=中央政府から地方に派遣される行政官。守(かみ)なら長官で県知事みたいなもの。
もっとも国司が任務地に「赴任」していたのは律令制が始まった頃だけ。平安時代になると守や介は都に残って下級の国司しか現地に行かなくなる。平安の終わりから鎌倉時代になると国司が地方を治めるという制度は実質的に崩壊。ただし国司という官職だけは一種の箔付けとして残った。信長は上総介(かずさ・のすけ=千葉)、秀吉は筑前守(ちくぜん・のかみ=福岡)と領地とは無関係に「官位として」任ぜられている。
ちなみに信長が介なのは低く見られていたわけではなく、上総の守は親王(皇位継承権のある皇族)がなるしきたりで、介が実質的なトップという位置づけだったから。そんな建前が、国司という制度が単に名目上のことになった後も続いていたのが面白い。忠臣蔵で敵役の吉良上野介(きら・こうずのすけ)も上野介は役職名で彼の本当の名前は義央(よしひさ)。上野とは今の群馬県あたり。名前を使わずに部長とか社長と役職名で呼ぶことがあるが、そんな風習はけっこう歴史が古いのかも知れない。
さて三浦義同は1451年生まれ1516年没。応仁の乱が1467年なので戦国時代初期の人物。当然、陸奥守というのも名目的な官位。道寸(どうすん)というのは出家してしてからの名前。出家したのは仏門に目覚めたからではなく、養子に入った家で実子が生まれ、養父に疎まれて暗殺されそうになったから。坊主なら暗殺のハードルが高くなるという理屈。
三浦一族は平安時代から相模=神奈川を支配していた豪族。やがて武士となりイイクニツクロウの源頼朝の挙兵に参加。鎌倉幕府の有力メンバーとなるが、執権である北条氏と対立して1247年に滅ぼされる。しかし親戚筋がお家再興して1331〜1333年に足利尊氏が鎌倉幕府を倒した戦いに参加。室町時代に再び200年ほど相模を治め繁栄するが、戦国時代になり北条早雲に滅ぼされる。ちなみに鎌倉時代の執権家の北条氏と、北条早雲から始まり小田原城を築いた北条氏は遠い親戚らしいが歴史的には別の系統に分類される。
三浦義同(よしあつ)はその北条早雲に滅ぼされた三浦家最後の当主。今は油壺マリンパークとなっている場所にあった新井城に4年近く籠城したが最後は落城。これは戦国時代最長の籠城記録とのこと。
看板に書かれている三浦義同(よしあつ)辞世の句
討つものも討たるるものも かわらけよ
砕けて後は もとの土くれ
「かわらけ」といいうのは土器・陶器のこと。ここではたぶん素焼きの杯を差していると思う。達観しているようでもあり自虐的なようでもある。
というわけで1516年に北条早雲に滅ぼされ「土くれ」となった三浦一族であったが、義同の次男は安房(千葉)に落ち延びる。その孫が養珠院お万の方。家康の側室となり家康の十男、十一男を産み、それぞれ紀州徳川家、水戸徳川家の初代藩主となっている。黄門様の水戸光圀は彼女の孫、暴れん坊将軍の紀州徳川吉宗はひ孫。2回も滅ぼされたのに徳川家にその血筋を残しているんだから三浦一族はしぶとい。
※リンクしたページの下のほうにお万の方の銅像を訪れたときのエントリーがある。
http://blog.livedoor.jp/wassho/archives/2011-09-19.html
いつものことながら話がそれた(^^ゞ
さて
胴網浜から坂を登り切ると油壺マリンパークの駐車場に出た。
マリンパークの入り口。
壮絶な戦場だった新井城も今は親子連れが集う平和な行楽地。
道路に出て市営駐車場のほうに戻っていく。
荒井浜に降りる分岐を通り過ぎると、
横堀海岸に降りる坂道がある。
ところで坂道の向こうに海が見えるとワクワクしてくるのは私だけかな?
別荘?やリゾートマンションに囲まれた道を下る。
横堀海岸到着。
サイズは胴網浜より少し小さいかな。全景は撮り忘れた(>_<)
他の2つの浜と違って海の家は休業中。
東隣はシーボニアというマリーナがあって(そっちに顔を向けていると)リッチな雰囲気。
ここにも海に延びるパイプがあった。もちろん荒井浜と違って水族館などはない。
海水を取り込んでいるのか、下水を流していのか。ナゾ
東側にはさらに小さな浜があった。足を濡らさずには渡れなかったので見ただけ。
かつては桟橋を支えていたと思われる朽ちた構造物。
西側の風景。つまり胴網浜方向。
アップで。
胴網浜から歩いてくるのはやはり無理だったみたい。
もう少し潮が引いていれば濡れずに歩けるのかも知れないが。
遠くに見えている岬の先端は荒崎だと思う。
ボケーッと海を眺めていたらスタンドアップボードの集団が通り過ぎた。
なぜかこのスポーツだけはやりたいと思ったことがない。
降りてきた坂道を登って三浦半島のマイナースポット巡りPart2は終了。あまり馴染みのなかった油壺を探索できて楽しかった。
高速道路に乗るまでの134号線はいつものように大渋滞。かなり強引なスリヌケをする4台位のバイク集団がいたので最後尾について便乗。できるだけ自重しているんだが、ついついーーー。走行150キロで午後6時前に帰宅。次の週末は交通安全週間中なのでバイクでは出かけない予定。
おしまい
wassho at 07:49│Comments(0)│
│ *ツーリング