2015年11月14日

上野公園のメジャーとマイナー

T君に誘われて東京都立美術館で開催されているモネ展を見に行った時は、西郷隆盛像の前で待ち合わせをした。中国人のT君にその場所を指定されて、そんなところを知っているんだと思ったが、考えてみれば留学生の頃から10年前後は東京に住んでいるのだから別に不思議でもない。

上野公園にはいくつも入り口があって、ここが西郷像に近い南側の入り口。
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似顔絵画家などがいるのが上野らしい雰囲気。
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階段を登ると、
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広い通路がある。西郷像はこの右手側。
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ご存じ西郷隆盛像。
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実物を見たことはなくても、たいていの人はその姿をイメージできるし上野にあることも知っている。たぶん日本で一番有名な銅像。

ところがT君に「西郷の銅像はなぜ上野にあるのか」と尋ねられた。エッ、上野にあるのが当たり前すぎて、今までそんなこと考えたこともなかったけど。やっぱり外国人は視点が違う。その時は「明治維新後に政府と対立した西郷は、反政府軍となってまず上野で戦い、その後に郷里の鹿児島でーーー」とデタラメなことを言ってしまった。思いも寄らなかった質問で、上野戦争と西南戦争が頭の中でゴッチャになってしまったと言い訳。

本当の理由はこんないきさつ。

明治維新の頃、旧幕府軍と新政府軍が繰り広げた内戦が戊辰戦争。戊辰戦争は関ヶ原の戦いのように一箇所での戦闘ではなく、2年ほど続いた内戦の総称。

発端は兵庫・大阪で、その後に有名な京都での鳥羽・伏見の戦い。敗退した旧幕府軍は江戸に戻る。攻め上ってきた新政府軍によって江戸城は開城。徳川慶喜は上野の寛永寺に移る。そこで慶喜を警護していたのが彰義隊(しょうぎたい)と呼ばれる親衛隊。今風に言うなら江戸の東側エリアを彰義隊が実効支配していた。その彰義隊の本拠地である寛永寺に新政府軍が攻め込んだのが上野戦争で、西郷隆盛は指揮官の1人として活躍する。

明治6年に西郷は政府内での対立から鹿児島に戻る。途中のいきさつは省略するが、その後に反政府軍の大将として西南戦争を戦い敗れる。つまり彼は明治政府の敵として生涯を終える。しかし政府は明治維新の最大功労者の1人である西郷を敵としたまま扱うのは心情的につらかったので、彼の死後10年くらいの時に名誉回復をおこなう。その象徴として彼の銅像を建て、選ばれた場所が彼が東京で軍人として活躍した上野戦争があった上野というのがいきさつ。上野公園は戦場であった寛永寺の敷地跡地に作られた公園。

以上が歴史のおさらいね。






こっちは彰義隊の墓。
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実際には墓ではなく、戦死者を荼毘に付した場所だと言われる。
敵将だった西郷の銅像のすぐ近くにあって意外な感じ。



美術館を出た後に公園をブラブラしたが、特に写真も撮らなかったので割愛。ところで大仏と言えば奈良と鎌倉だが、かつては上野にも大仏があること知ってた?

上野大仏は1631年建立と歴史は古い。しかし火事や地震で何度も壊れ、最後は関東大震災で頭も落ちてしまう(/o\) さらに戦争中の金属供出でほとんど溶かされてしまい、現在は顔だけがレリーフとして残っている。「もうこれ以上は落ちない」と受験生には人気があるとか(^^ゞ



本当はアメ横の話を書くつもりだったんだけれど、長くなったので次回に。

wassho at 20:01│Comments(0) イベント、旅行 

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