2015年11月26日
さよならHM
HMは高校の同級生。卒業以来、毎年欠かさず正月に集まっている6名のメンバーの1人。つまり私にとって、もっともつきあいが長くて深い友人といえる。
40歳代中頃から心臓が悪くなり、2007年にはペースメーカーを埋め込む手術をした。とはいっても当時はまだ見た目には健康そのものだった。しかし数年前からかなり「はっきりと弱って」きた。あまり出歩くこともなくなったようなので、気晴らしにでもなればと思い、その頃からたまに電話をするようになった。といっても半年に1回程度。
勤労感謝の日の月曜日にも電話した。自宅にかけると「この電話は使われていない」とのアナウンスが流れた。?と思って携帯に電話した。すると「番号が変わって、新しい番号は〜」とアナウンスが流れた。その時は携帯を乗り換え、あまり使わない固定電話は解約したんだろうと想像した。
その新しい番号にかけた。電話に出たのはHMとは違う声だった。アナウンスされた番号を聞き間違えたかと思い「これはHMさんの電話ですか?」と尋ねた。すると「私はHMの弟で、実は兄は先月の11日に亡くなりました」という答えが返ってきた。HMへの電話はいつも私の「別に用事はないけれど、死んでいないかどうかの確認で電話した〜」で始まる。まさか確認することになるとは夢にも思っていなかった。
誰にも連絡せず、電話があった場合にだけに伝えよという遺言をHMは残していた。葬式もごく肉親だけで済ませたとのこと。人に迷惑をかけたり煩わせたりすることが嫌いなHMらしかった。もっとも年末には新年会の連絡をするから、遅くともその頃に我々のメンバーに伝わることは計算していたと思う。
8月に容体がかなり悪くなったということだった。実は8月にも何度か電話したのだがつながらなかった。もう入院していたのかも知れない。彼に電話がつながらないことはよくあるので別に気にもせず、それっきりになっていた。ちなみにHMは極度のハイテク音痴でメールやLINEは使わない。携帯電話を持ったのもほんの数年前からである。
HMは「剛」な男だった。
まだ番長とかがいた中学時代。よその学校の生徒とのいざこざもたまにあった。N中学に通っていた彼はTという悪友ともに、近隣の喧嘩が強いといわれている中学校をよく巡っていた。HMいわく「トラブルが起きないように話し合いに出かけていた」ということ。しかしバット持参だから、一般的にはそれは殴り込みという行為である(^^ゞ Tは史上最強の男だったらしいが、それにしてもたった二人で「話し合い」に行くのだから、HMもどれだけ気が強いかわかろうというもの。さいわい私が通っていたのはごく普通の中学校だったので、彼に出会ってボコボコにされずに済んだ。
高校では野球部に入りピッチャーだった。とある高校野球の予選大会でのこと、彼の投げた球がデッドボールになった。ふつう高校球児ならデッドボールの時、野球帽を脱いで頭を下げて謝る。しかしHMは「しっかりよけろ、ボケ!」と暴言を吐き退場処分になった(/o\) 一説によると高校野球でそんな退場処分は前代未聞。HMが最初でいまだに最後らしい。まあともかく彼は高校野球の歴史にその名を刻んだようである。
誤解のないように書いておくとHMは別に乱暴者じゃない。ひょうきんだったし人の面倒見もよく、高校ではクラスというか学年全体での人気者だった。何かトラブルが起きた時、彼が仲裁に入ることも多かった。「HMがそういうなら」とうことで、たいていは丸く収まった。
武勇伝を上げればキリのないHMであるが、30代の中頃(だったと思う)にうつ病になった。かなりの重症でしばらく入院もしていた。その知らせを聞いた時は本当にビックリした。HMとうつ病というのは180度正反対のイメージだからである。おそらく高校の同級生の誰に尋ねても同じ答えが返ってくると思う。当時はうつ病になる人が増えてきた時期であったが、うつ病なんて自分には無関係な病気だと考えていた。しかしHMがうつ病になったのなら、私も明日発症しておかしくはないと思ったことを覚えている。
病気が病気だけにお見舞いには行かなかった。しかし退院後に会った彼は拍子抜けするほど以前と変わりなかった。どんな体験をしたか、入院中に出会った他の患者のことなどを面白おかしく語ってくれた。コイツは本当にうつ病だったのかと疑ったくらい。しかし薬は大量に処方されていたし、ずっと飲み続けなければいけないというようなことも言っていた。
残念ながら勤務先では子会社に出向となった。しかし塞翁が馬。後にその会社でリストラがあった時、既に出向となっていた彼はそのリストに載らずに済んだ。さらにリストラで彼の先輩達はほとんど会社を去った。こうなるとHMの天下みたいなものである。仕事は暇だし文句を言う奴もいない。午後5時半には行きつけの神田にある寿司屋で一杯やるのが彼のライフスタイルになった(^^ゞ
10年以上前だがHMとは一度だけ一緒に仕事をしたことがある。ある時2人で飲んでいると、彼がプロ野球絡みでちょっと面白いアイデアを口にした。それを私が企画にまとめ上げて彼の会社のアドバイザー役として同行し、いくつかの球団に売り込みに行った。残念ながらビジネスとしてはほとんど成果はなかったが、彼と出張できたのは楽しかった。球団との間には紹介者を立てたので、その接待名目であれこれ豪勢に飲み食いもした。
その頃からもう心臓は悪かった。見た目も動きもまったく普通であるが、少し長い距離を歩くと、すぐに休憩したがった。別に心臓がハーハーしている風でもないのに、血の巡りが悪くて疲れやすかったのかも知れない。
病状は徐々に進み2007年にペースメーカ埋め込み。そして3年ほど前に病院から「可能な治療はすべて施した。残念ながら症状の改善は見られず、後は心臓移植しかない」と告げられる。心臓移植ってほとんどニュースでは聞かないが、年間に30件くらい行われているらしい。自分に合う心臓を提供してくれる人がいつ現れるかわからず、現実的には望み薄らしいが、とりあえず順番待ちの登録はしていた。
ペースメーカーを埋めた後、担当医は「70歳まではがんばりましょう。我々も70歳まで生きられるよう万全のサポートをします」というのが口癖だったらしい。しかし2013年に東京オリンピック招致が決まった後に病院に行くと、それが「オリンピックまでがんばりましょう」に変わったと彼はよく笑っていた。「適当なことを言う医者とオリンピックのせいで残りの寿命が半分になった」と。
残念ながらHMと一緒に東京オリンピックを観ることはできなくなった。長生きできないのはわかっていたけれど、オリンピックのことが冗談になるくらいだから、こんなに早く逝くとは想像すらしていなかった。
さよならHM。
今は地獄の何丁目あたりかな(^^ゞ
来年の新年会は残った5人で盛大にやるから心配無用。
合掌
40歳代中頃から心臓が悪くなり、2007年にはペースメーカーを埋め込む手術をした。とはいっても当時はまだ見た目には健康そのものだった。しかし数年前からかなり「はっきりと弱って」きた。あまり出歩くこともなくなったようなので、気晴らしにでもなればと思い、その頃からたまに電話をするようになった。といっても半年に1回程度。
勤労感謝の日の月曜日にも電話した。自宅にかけると「この電話は使われていない」とのアナウンスが流れた。?と思って携帯に電話した。すると「番号が変わって、新しい番号は〜」とアナウンスが流れた。その時は携帯を乗り換え、あまり使わない固定電話は解約したんだろうと想像した。
その新しい番号にかけた。電話に出たのはHMとは違う声だった。アナウンスされた番号を聞き間違えたかと思い「これはHMさんの電話ですか?」と尋ねた。すると「私はHMの弟で、実は兄は先月の11日に亡くなりました」という答えが返ってきた。HMへの電話はいつも私の「別に用事はないけれど、死んでいないかどうかの確認で電話した〜」で始まる。まさか確認することになるとは夢にも思っていなかった。
誰にも連絡せず、電話があった場合にだけに伝えよという遺言をHMは残していた。葬式もごく肉親だけで済ませたとのこと。人に迷惑をかけたり煩わせたりすることが嫌いなHMらしかった。もっとも年末には新年会の連絡をするから、遅くともその頃に我々のメンバーに伝わることは計算していたと思う。
8月に容体がかなり悪くなったということだった。実は8月にも何度か電話したのだがつながらなかった。もう入院していたのかも知れない。彼に電話がつながらないことはよくあるので別に気にもせず、それっきりになっていた。ちなみにHMは極度のハイテク音痴でメールやLINEは使わない。携帯電話を持ったのもほんの数年前からである。
HMは「剛」な男だった。
まだ番長とかがいた中学時代。よその学校の生徒とのいざこざもたまにあった。N中学に通っていた彼はTという悪友ともに、近隣の喧嘩が強いといわれている中学校をよく巡っていた。HMいわく「トラブルが起きないように話し合いに出かけていた」ということ。しかしバット持参だから、一般的にはそれは殴り込みという行為である(^^ゞ Tは史上最強の男だったらしいが、それにしてもたった二人で「話し合い」に行くのだから、HMもどれだけ気が強いかわかろうというもの。さいわい私が通っていたのはごく普通の中学校だったので、彼に出会ってボコボコにされずに済んだ。
高校では野球部に入りピッチャーだった。とある高校野球の予選大会でのこと、彼の投げた球がデッドボールになった。ふつう高校球児ならデッドボールの時、野球帽を脱いで頭を下げて謝る。しかしHMは「しっかりよけろ、ボケ!」と暴言を吐き退場処分になった(/o\) 一説によると高校野球でそんな退場処分は前代未聞。HMが最初でいまだに最後らしい。まあともかく彼は高校野球の歴史にその名を刻んだようである。
誤解のないように書いておくとHMは別に乱暴者じゃない。ひょうきんだったし人の面倒見もよく、高校ではクラスというか学年全体での人気者だった。何かトラブルが起きた時、彼が仲裁に入ることも多かった。「HMがそういうなら」とうことで、たいていは丸く収まった。
武勇伝を上げればキリのないHMであるが、30代の中頃(だったと思う)にうつ病になった。かなりの重症でしばらく入院もしていた。その知らせを聞いた時は本当にビックリした。HMとうつ病というのは180度正反対のイメージだからである。おそらく高校の同級生の誰に尋ねても同じ答えが返ってくると思う。当時はうつ病になる人が増えてきた時期であったが、うつ病なんて自分には無関係な病気だと考えていた。しかしHMがうつ病になったのなら、私も明日発症しておかしくはないと思ったことを覚えている。
病気が病気だけにお見舞いには行かなかった。しかし退院後に会った彼は拍子抜けするほど以前と変わりなかった。どんな体験をしたか、入院中に出会った他の患者のことなどを面白おかしく語ってくれた。コイツは本当にうつ病だったのかと疑ったくらい。しかし薬は大量に処方されていたし、ずっと飲み続けなければいけないというようなことも言っていた。
残念ながら勤務先では子会社に出向となった。しかし塞翁が馬。後にその会社でリストラがあった時、既に出向となっていた彼はそのリストに載らずに済んだ。さらにリストラで彼の先輩達はほとんど会社を去った。こうなるとHMの天下みたいなものである。仕事は暇だし文句を言う奴もいない。午後5時半には行きつけの神田にある寿司屋で一杯やるのが彼のライフスタイルになった(^^ゞ
10年以上前だがHMとは一度だけ一緒に仕事をしたことがある。ある時2人で飲んでいると、彼がプロ野球絡みでちょっと面白いアイデアを口にした。それを私が企画にまとめ上げて彼の会社のアドバイザー役として同行し、いくつかの球団に売り込みに行った。残念ながらビジネスとしてはほとんど成果はなかったが、彼と出張できたのは楽しかった。球団との間には紹介者を立てたので、その接待名目であれこれ豪勢に飲み食いもした。
その頃からもう心臓は悪かった。見た目も動きもまったく普通であるが、少し長い距離を歩くと、すぐに休憩したがった。別に心臓がハーハーしている風でもないのに、血の巡りが悪くて疲れやすかったのかも知れない。
病状は徐々に進み2007年にペースメーカ埋め込み。そして3年ほど前に病院から「可能な治療はすべて施した。残念ながら症状の改善は見られず、後は心臓移植しかない」と告げられる。心臓移植ってほとんどニュースでは聞かないが、年間に30件くらい行われているらしい。自分に合う心臓を提供してくれる人がいつ現れるかわからず、現実的には望み薄らしいが、とりあえず順番待ちの登録はしていた。
ペースメーカーを埋めた後、担当医は「70歳まではがんばりましょう。我々も70歳まで生きられるよう万全のサポートをします」というのが口癖だったらしい。しかし2013年に東京オリンピック招致が決まった後に病院に行くと、それが「オリンピックまでがんばりましょう」に変わったと彼はよく笑っていた。「適当なことを言う医者とオリンピックのせいで残りの寿命が半分になった」と。
残念ながらHMと一緒に東京オリンピックを観ることはできなくなった。長生きできないのはわかっていたけれど、オリンピックのことが冗談になるくらいだから、こんなに早く逝くとは想像すらしていなかった。
さよならHM。
今は地獄の何丁目あたりかな(^^ゞ
来年の新年会は残った5人で盛大にやるから心配無用。
合掌
wassho at 08:25│Comments(0)│
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