2015年12月01日

平林寺の紅葉 その2

本堂エリアから離れて散策コースを歩く。
総門から含めて1周2.3キロとパンフレットにあった。
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しばらく歩くとこんな表示。
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古いお墓と新しいお墓が混在したエリアがあった。
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これはお墓なのか、不要になった墓石を捨てずに並べてあるだけなのか?
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見性院の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
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見性院は武田信玄の二女。ここにあるのはお墓ではなく宝篋印塔という形の供養塔。埼玉で信玄ゆかりのものに遭遇してちょっとびっくり。


夏目漱石の草枕に登場する人物のモデルだった人のお墓。
草枕を読んだ記憶はあるけれど、冒頭の一節以外はまったく覚えていないなあ。
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お墓エリアの一角しか見なかったので島原の乱供養塔は見落とした。
さらに進むと、
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こんな場所に出る。
墓ばっかりかと思ったが、ここはお寺なんだからしかたない(^^ゞ
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松平信綱は川越藩主。徳川家光の側近ナンバー1といえる人物で老中首座まで務めた。官職は伊豆守(いずのかみ)で、頭脳明晰なことから知恵伊豆というのがニックネーム。島原の乱の鎮圧軍司令官でもあったから、先ほどのエリアに供養塔もあるのだろう。

松平というと徳川家の血筋のイメージがあるが、有力大名にも松平姓が多く授けられている。一種の称号のようなもの。信綱は大河内という一族の出身。親戚が松平姓を授けられ、そこに自ら養子に入って松平となっている。家光の頃には徳川幕府も安定期になって、家の格式とかが重視される時代になったんだろう。明治維新後、そういった血縁関係のない松平家は元の名字に戻ることになる。写真の看板に現在は大河内家墓所と書いてあるのは、そういう歴史の反映。

ちなみに家康はもちろん松平の一族。幼名の竹千代から3回目の改名で家康となったが、その時はまだ松平家康。信長と同盟を組んでしばらくした後に徳川と名字を替えている。これは松平一族の中で、自分の家だけが特別であることを示すため、他の松平一族を押さえるためだったといわれている。また11人いた息子に対しても見込みのある4名にしか徳川姓を与えず、他7名は家康と親子にもかかわらず松平姓である。このあたりが家康のすごいところ。今風にいえばブランドの育て方がわかっている。

ついでにいうと徳川という名字にしたのは松平一族のルーツにその名前があったから。でもそれは徳川ではなく得川という名前。言葉のイメージを考慮するのも家康なら当然か。



松平信綱一族のお墓が3000坪の墓所にズラーッと並んでいる。
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少し低い門?をくぐった奥にお墓がある。
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墓石は四角や丸や三角を積み上げた五輪塔の形。
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これは本堂に直結しているこの墓所専用の参道。
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信綱墓所から少し歩くと紅葉がきれいなエリアになってきた。
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しかししばらく進むと、
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一面が緑のモミジだったりする。
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緑の中にポツンと紅葉があったりするから、紅葉の進み度合いはエリアで決まるのでもなさそうである。
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全体でいえば色づいていないモミジのほうが多い。内訳的には紅葉が進んで少し傷んだモミジとまだ緑のモミジのミックス。なかなか今が紅葉の盛りというモミジには出会えなかった。落ちている葉っぱは干からびているものばかりで絵にならず。
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紅葉の名所の楽しみは、たいていは大きなモミジがあるから、上から差し込んでくる太陽の光に透けた紅葉を見られること。それがとてもキレイで幻想的。こればかりは普通の庭のモミジでは味わえない紅葉見物の醍醐味。残念ながら写真では、その光の雰囲気がうまく撮れないけど。
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ーーー続く

wassho at 08:16│Comments(0)   *ツーリング | お花畑探訪

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