2016年06月02日
黒田清輝展 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 その2
フランスから帰国してからの黒田清輝の足跡は以下の通り。子爵であり貴族院議員であり、そして帝国美術院の院長にまでなったのだから、社会的に充分な成功を収めた人生といえる。亡くなった時には、従三位・勲二等旭日重光章が贈られている。
1893年 27歳で帰国(明治26年)
1894年〜95年 日清戦争に従軍
1898年 東京美術学校の教授になる(現在の東京芸大)
1900年 腰巻き事件起こる→次のエントリーで
1910年 洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれる
(現在の日本芸術院会員のようなもの)
1917年 子爵の身分になる(51歳)
1920年 貴族院議員に当選
1922年 帝国美術院の院長になる(現在の日本芸術院)
1924年 57歳で死去(大正13年)
年表を2段に分けたのは1915年くらいを境に、なぜか彼の絵は「これがあの黒田清輝?」と疑うくらいつまらなくなってくるから。政治家になって忙しく絵に専念できなかったのかな。絵は素人の政治家が趣味で描いているレベルの作品になっているのは驚くと共に残念。画家の画風は年代と共に移り変わるものだし、歳を取れば力量が衰えるのも仕方がない。でも50歳前後で衰えるのは早すぎる。
帰国してからの黒田は前期・中期・後期に分けられると思う。
おもに前期の作品の感想を。
舞妓 1893年(明治26年)
サイケデリックーーー思わず、そんな死語な表現が思い浮かんだ。理屈的には着物が派手だったら絵も派手になるが、こんなドギツイ柄の着物ってあるのかなあ。タイトルが舞妓だから場所は京都。描かれたのは帰国した年。10年振りに帰国したフランス帰りの黒田には、京都らしいこの情景も、印象派の画家達が日本に対して思い抱いていたようなエキゾチックなものに写ったのかもしれない。トレビアン!と言ったりして(^^ゞ
昼寝 1894年(明治27年)
黒田がフランスで師事したのは印象派の先生ではないと前回のエントリーで書いた。でも彼はしっかり印象派の極意を学び取ってきたようである。というか並の印象派作品を超えてるんじゃないかな。
ところで1900年のパリ万博に黒田は「智・感・情」「湖畔」ほか3点を出展し、「智・感・情」が銀牌(銀メダル)を得ている。ただ「ほか3点」がどの絵だったのかが調べてもわからなかった。「舞妓」や「昼寝」を出展したらヨーロッパの人には気に入られたと思う。
帰国前期から中期の、つまり全盛期の黒田は綿密に構想を練って作品を描いていたようであり、またその下絵などもよく残っている。スケッチでの下絵はよく見るが、スケッチがあって、それとは別に絵の部分ごとに色を塗った下絵があるのは珍しいと思う。各パーツの下絵は登場人物すべてについて描かれているから実に念入りな準備。何度も実験を重ねて最終作品を仕上げていくのは、ある種の科学的なアプローチにも思える。
それにしても色っぽい(^^ゞ
昔語り 下絵(構図II) 1896年(明治29年)
さらに全体の下絵も何枚か描かれている。絵巻のようなものを除くと、こういうストーリーを感じさせる絵は日本にはあまりなかったような気がする。そんな発想も留学体験でつかんできたものかもしれない。残念ながら完成作品は戦災で失われてしまった。
湖畔 1897年(明治30年)
「舞妓」や「昼寝」のコッテリ感とは打って変わって、まるで水彩画のようにも見える作品。浴衣に団扇、そして水色主体の色使いで「涼」を感じない人はいないだろう。場所は箱根の芦ノ湖。それを知らなくても標高のある避暑地的な雰囲気があらわれていると思う。
前回のエントリーで書いたように子供の頃から馴染みのある絵であるが、ある程度美術に関心を持つまで、これは日本画だと思っていた。もっともその頃は日本的な内容の絵=日本画という認識だったが。湖畔は油絵だから洋画という区別になる。洋画と日本画の区別は作品の内容には関係なく、油絵の具など西洋の絵の具を使っていたら洋画で、岩絵の具など日本伝統の絵の具を使っているものが日本画ということになっている。西洋の絵画が日本に入ってきた明治の頃はともかく、今ではあまり意味のない区別。ただ油絵で岩絵の具や水彩絵の具のように描くことはできるが、その逆は無理(たぶん)。それはともかく、西洋の画材・画法で日本的な情景を描いたということもこの作品の歴史的な価値だと思う。
この絵については子供の頃から名画だと刷り込まれてきたから、どうみても名画にしか見えない(^^ゞ 人物の大きさは、これより1%大きくても小さくてもバランスが崩れる絶妙のプロポーションだと感じる。改めて眺めれば向こう岸の木や山の描き方が中途半端で、もう少し描き込むか逆にもっとボカして欲しかったかなとは思う。
ところで描かれているのは、後に照子と改名し黒田の奥さんとなる芸者の女性。この時、黒田は既にバツイチ。おい清輝!パリの肉屋のネエチャンはどうした(^^ゞ
赤き衣を着たる女 1912年(明治45年)
私の分類では帰国後中期に入る作品。これもたぶんモデルは奥さんかな。真横から描かれた人物画は珍しいような気がする。日本髪だし着物だから人物は日本そのものだけれど、全体的に漂う雰囲気はどこか西洋っぽい。こういうクロスカルチャーなところも黒田の魅力。
ーーー続く
1893年 27歳で帰国(明治26年)
1894年〜95年 日清戦争に従軍
1898年 東京美術学校の教授になる(現在の東京芸大)
1900年 腰巻き事件起こる→次のエントリーで
1910年 洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれる
(現在の日本芸術院会員のようなもの)
1917年 子爵の身分になる(51歳)
1920年 貴族院議員に当選
1922年 帝国美術院の院長になる(現在の日本芸術院)
1924年 57歳で死去(大正13年)
年表を2段に分けたのは1915年くらいを境に、なぜか彼の絵は「これがあの黒田清輝?」と疑うくらいつまらなくなってくるから。政治家になって忙しく絵に専念できなかったのかな。絵は素人の政治家が趣味で描いているレベルの作品になっているのは驚くと共に残念。画家の画風は年代と共に移り変わるものだし、歳を取れば力量が衰えるのも仕方がない。でも50歳前後で衰えるのは早すぎる。
帰国してからの黒田は前期・中期・後期に分けられると思う。
おもに前期の作品の感想を。
舞妓 1893年(明治26年)
サイケデリックーーー思わず、そんな死語な表現が思い浮かんだ。理屈的には着物が派手だったら絵も派手になるが、こんなドギツイ柄の着物ってあるのかなあ。タイトルが舞妓だから場所は京都。描かれたのは帰国した年。10年振りに帰国したフランス帰りの黒田には、京都らしいこの情景も、印象派の画家達が日本に対して思い抱いていたようなエキゾチックなものに写ったのかもしれない。トレビアン!と言ったりして(^^ゞ
昼寝 1894年(明治27年)
黒田がフランスで師事したのは印象派の先生ではないと前回のエントリーで書いた。でも彼はしっかり印象派の極意を学び取ってきたようである。というか並の印象派作品を超えてるんじゃないかな。
ところで1900年のパリ万博に黒田は「智・感・情」「湖畔」ほか3点を出展し、「智・感・情」が銀牌(銀メダル)を得ている。ただ「ほか3点」がどの絵だったのかが調べてもわからなかった。「舞妓」や「昼寝」を出展したらヨーロッパの人には気に入られたと思う。
帰国前期から中期の、つまり全盛期の黒田は綿密に構想を練って作品を描いていたようであり、またその下絵などもよく残っている。スケッチでの下絵はよく見るが、スケッチがあって、それとは別に絵の部分ごとに色を塗った下絵があるのは珍しいと思う。各パーツの下絵は登場人物すべてについて描かれているから実に念入りな準備。何度も実験を重ねて最終作品を仕上げていくのは、ある種の科学的なアプローチにも思える。
それにしても色っぽい(^^ゞ
昔語り 下絵(構図II) 1896年(明治29年)
さらに全体の下絵も何枚か描かれている。絵巻のようなものを除くと、こういうストーリーを感じさせる絵は日本にはあまりなかったような気がする。そんな発想も留学体験でつかんできたものかもしれない。残念ながら完成作品は戦災で失われてしまった。
湖畔 1897年(明治30年)
「舞妓」や「昼寝」のコッテリ感とは打って変わって、まるで水彩画のようにも見える作品。浴衣に団扇、そして水色主体の色使いで「涼」を感じない人はいないだろう。場所は箱根の芦ノ湖。それを知らなくても標高のある避暑地的な雰囲気があらわれていると思う。
前回のエントリーで書いたように子供の頃から馴染みのある絵であるが、ある程度美術に関心を持つまで、これは日本画だと思っていた。もっともその頃は日本的な内容の絵=日本画という認識だったが。湖畔は油絵だから洋画という区別になる。洋画と日本画の区別は作品の内容には関係なく、油絵の具など西洋の絵の具を使っていたら洋画で、岩絵の具など日本伝統の絵の具を使っているものが日本画ということになっている。西洋の絵画が日本に入ってきた明治の頃はともかく、今ではあまり意味のない区別。ただ油絵で岩絵の具や水彩絵の具のように描くことはできるが、その逆は無理(たぶん)。それはともかく、西洋の画材・画法で日本的な情景を描いたということもこの作品の歴史的な価値だと思う。
この絵については子供の頃から名画だと刷り込まれてきたから、どうみても名画にしか見えない(^^ゞ 人物の大きさは、これより1%大きくても小さくてもバランスが崩れる絶妙のプロポーションだと感じる。改めて眺めれば向こう岸の木や山の描き方が中途半端で、もう少し描き込むか逆にもっとボカして欲しかったかなとは思う。
ところで描かれているのは、後に照子と改名し黒田の奥さんとなる芸者の女性。この時、黒田は既にバツイチ。おい清輝!パリの肉屋のネエチャンはどうした(^^ゞ
赤き衣を着たる女 1912年(明治45年)
私の分類では帰国後中期に入る作品。これもたぶんモデルは奥さんかな。真横から描かれた人物画は珍しいような気がする。日本髪だし着物だから人物は日本そのものだけれど、全体的に漂う雰囲気はどこか西洋っぽい。こういうクロスカルチャーなところも黒田の魅力。
ーーー続く
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