2016年10月08日
東京都庭園美術館 その2
東京都庭園美術館には建物、すなわち旧朝香宮邸を見に来たわけで、開催されている展覧会はどうでもよかった。しかも私が苦手というか関心のないモダンアートな内容である。でも900円の入場料には展覧会分が含まれているし、館内の部屋を見て回る途中にあるのでしっかり見てきた。
美術館のホームページから制作者のプロフィール冒頭をコピペすると
フランスの現代美術家クリスチャン・ボルタンスキー(1944年−)は、映像作品や
パフォーマンス性の高い作品を制作していた初期から現在まで一貫して、歴史の中で濾過
される記憶の蘇生、匿名の個人/集団の生(存在)と死(消滅)を表現してきました。
もうこの辺から理解不能(^^ゞ
展覧会のタイトルは「アニミタス さざめく亡霊たち」。再度ホームページから解説の一部をコピペすると
この<亡霊たち>は、すでに失われた過去のものではなく、「アニミタス」という言葉の
語源が「霊魂」のほかに「生命」をあらわすように、今ここに存在しないもの(あるは、
したかもしれないもの)、まだ生まれていないものたちが、この世界に確かに存在し、
そうした無数の「他者」と共に私たちは生きているということを伝えるものです。
別にややこしい解説の所だけを選んで抜き出したんじゃないよ。まあモダンアートのこういう頭でっかちなところが、私がアートに求めているものと違っていて、アホクサと感じるところ。
展覧会は3つのエリアに分かれている。まず美術館本館=旧朝香宮邸の1階ではコピペしたような内容の話を男女の会話の構成で流していた。興味もなく聞いていなかったので具体的には覚えていない。
本館の2階、たぶん若宮の部屋のいくつかを利用して展示されていたのは、まずこんな影絵のようなものが2つ。小さな窓から覗くようになっている。
こちらは真っ暗な部屋に心臓のバックバックという鼓動を録音した音が流れていて、それに併せて赤いランプが点滅する仕掛け。
こんなのを見て生命の何かを感じて、それを何かしら楽しめたり、あるいは考えを巡らせる人って本当にいるのかな。いるから展覧会をやっているんだろうけれど、私には中学の文化祭の「出し物」程度にしか思えなかった。
旧朝香宮邸に隣接された新館にあった展示はまず、薄いヴェールに目を印刷したものがたくさんぶら下がっているもの。これはヴェールくぐりながら部屋の中を歩いて鑑賞する。
もう1つは、部屋の中に大きなスクリーンがあって、風鈴のようなものが映し出されチリリンと音も聞こえる。この景色がエンドレスで続く。
部屋の中には草が敷き詰められていて、その触感を靴底から感じる。デジカメ写真だから少し床も写っているが、実際には真っ暗で床の様子は見えない。でも匂いからしたら麦わらだったかもしれない。
スクリーンの裏側に回ると、風鈴のぶら下げられている景色が海から山になっている。ただそれだけ。
この部屋に30分もいたら感じるものがあるんだろうか。時間の無駄としか思えないから、そんなことはしない。滅多に見ないモダンアートの感想は、こんなもの作ってアーティストと呼ばれ、それでメシが食えるんだからいい商売だなあと相変わらず敵意むき出し(^^ゞ
目玉と風鈴映像が展示されていた新館は写真右の通路で本館とつながっている。2年前にできた建物で、展示スペースの他にレストランや売店が入っている。
テラスとか。
隣の本館を見上げる。
逆光で写りがおかしいが新館の前にあった謎の木。幹の様子は松で葉も針状なのに、今までに見たことのない葉の付き方。やっぱり松なのかなあ。とても気になる。
新館全景。今風の建築であるものの、そんな印象を持たないのは色使いのせいだろう。レトロな旧朝香宮邸の隣にあって違和感を感じさせないのはいい仕事だと思う。
新館から本館に戻り、部屋のいくつかをもう一度見学した後に本館を出る。
庭園美術館なので、もちろん庭付きである。
しかし何と、そのほとんどが工事中で閉鎖!(>_<)
でも芝庭から眺める旧朝香宮邸の優雅な姿に大満足。
吉田茂は外相から首相になった後も、首相公邸に移らず外相公邸であるここに居座り続けた。その彼の気持ちはよくわかる。私も3日でいいからここに住みたい。
芝生の片隅にオブジェ。
近寄ってみると大理石でできていた。
オブジェ越しに旧朝香宮邸。
なんとなく上質な異空間を散歩してきた気分(除くボルタンスキーの展示物)。セレブなんて安っぽい言葉ではなく、本物の上流階級がわずかながらも日本にも存在した時代があったんだなあなどと思いを巡らせた旧朝香宮邸の見学だった。それがいい時代だったかどうかは別の話だとしても、芸術はそういう人たちが育ててきたのもまた事実。まあそんな理屈は抜きにして、美しい建物や部屋を見て目の保養になった。庭園部分の工事が終わったら、また訪れて見ようと思う。
おしまい
美術館のホームページから制作者のプロフィール冒頭をコピペすると
フランスの現代美術家クリスチャン・ボルタンスキー(1944年−)は、映像作品や
パフォーマンス性の高い作品を制作していた初期から現在まで一貫して、歴史の中で濾過
される記憶の蘇生、匿名の個人/集団の生(存在)と死(消滅)を表現してきました。
もうこの辺から理解不能(^^ゞ
展覧会のタイトルは「アニミタス さざめく亡霊たち」。再度ホームページから解説の一部をコピペすると
この<亡霊たち>は、すでに失われた過去のものではなく、「アニミタス」という言葉の
語源が「霊魂」のほかに「生命」をあらわすように、今ここに存在しないもの(あるは、
したかもしれないもの)、まだ生まれていないものたちが、この世界に確かに存在し、
そうした無数の「他者」と共に私たちは生きているということを伝えるものです。
別にややこしい解説の所だけを選んで抜き出したんじゃないよ。まあモダンアートのこういう頭でっかちなところが、私がアートに求めているものと違っていて、アホクサと感じるところ。
展覧会は3つのエリアに分かれている。まず美術館本館=旧朝香宮邸の1階ではコピペしたような内容の話を男女の会話の構成で流していた。興味もなく聞いていなかったので具体的には覚えていない。
本館の2階、たぶん若宮の部屋のいくつかを利用して展示されていたのは、まずこんな影絵のようなものが2つ。小さな窓から覗くようになっている。
こちらは真っ暗な部屋に心臓のバックバックという鼓動を録音した音が流れていて、それに併せて赤いランプが点滅する仕掛け。
こんなのを見て生命の何かを感じて、それを何かしら楽しめたり、あるいは考えを巡らせる人って本当にいるのかな。いるから展覧会をやっているんだろうけれど、私には中学の文化祭の「出し物」程度にしか思えなかった。
旧朝香宮邸に隣接された新館にあった展示はまず、薄いヴェールに目を印刷したものがたくさんぶら下がっているもの。これはヴェールくぐりながら部屋の中を歩いて鑑賞する。
もう1つは、部屋の中に大きなスクリーンがあって、風鈴のようなものが映し出されチリリンと音も聞こえる。この景色がエンドレスで続く。
部屋の中には草が敷き詰められていて、その触感を靴底から感じる。デジカメ写真だから少し床も写っているが、実際には真っ暗で床の様子は見えない。でも匂いからしたら麦わらだったかもしれない。
スクリーンの裏側に回ると、風鈴のぶら下げられている景色が海から山になっている。ただそれだけ。
この部屋に30分もいたら感じるものがあるんだろうか。時間の無駄としか思えないから、そんなことはしない。滅多に見ないモダンアートの感想は、こんなもの作ってアーティストと呼ばれ、それでメシが食えるんだからいい商売だなあと相変わらず敵意むき出し(^^ゞ
目玉と風鈴映像が展示されていた新館は写真右の通路で本館とつながっている。2年前にできた建物で、展示スペースの他にレストランや売店が入っている。
テラスとか。
隣の本館を見上げる。
逆光で写りがおかしいが新館の前にあった謎の木。幹の様子は松で葉も針状なのに、今までに見たことのない葉の付き方。やっぱり松なのかなあ。とても気になる。
新館全景。今風の建築であるものの、そんな印象を持たないのは色使いのせいだろう。レトロな旧朝香宮邸の隣にあって違和感を感じさせないのはいい仕事だと思う。
新館から本館に戻り、部屋のいくつかをもう一度見学した後に本館を出る。
庭園美術館なので、もちろん庭付きである。
しかし何と、そのほとんどが工事中で閉鎖!(>_<)
でも芝庭から眺める旧朝香宮邸の優雅な姿に大満足。
吉田茂は外相から首相になった後も、首相公邸に移らず外相公邸であるここに居座り続けた。その彼の気持ちはよくわかる。私も3日でいいからここに住みたい。
芝生の片隅にオブジェ。
近寄ってみると大理石でできていた。
オブジェ越しに旧朝香宮邸。
なんとなく上質な異空間を散歩してきた気分(除くボルタンスキーの展示物)。セレブなんて安っぽい言葉ではなく、本物の上流階級がわずかながらも日本にも存在した時代があったんだなあなどと思いを巡らせた旧朝香宮邸の見学だった。それがいい時代だったかどうかは別の話だとしても、芸術はそういう人たちが育ててきたのもまた事実。まあそんな理屈は抜きにして、美しい建物や部屋を見て目の保養になった。庭園部分の工事が終わったら、また訪れて見ようと思う。
おしまい
wassho at 17:44│Comments(0)│
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