2016年10月26日

レオナール・フジタとモデルたち

10月15日にバイクツーリングで訪れたDIC川村記念美術館のレオナール・フジタ(藤田嗣治)の展覧会の話。藤田嗣治(つぐはる)といえばこのオカッパ頭。どう見ても濃さそうなそのキャラクターとはまったく違う繊細な画風が彼の魅力。藤田嗣治(つぐはる)についての簡単な説明は以前のエントリーをご参照。
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いきなり脱線するけれど、いろんな意味でオープンな国といえばまずアメリカを思い浮かべる。しかしフランスあるいはパリというのは、異文化を積極的に受け入れる所だということに最近あらためて気がついた。藤田嗣治の少し前の印象派時代は浮世絵に関心が高かったし、黒澤明や北野武の映画を評価したもの海外ではパリからだ。コム・デ・ギャルソンやイッセイミヤケなんかも同じことがいえる。日本料理に対するリスペクトも高い。何かそういう気質があるのかな。私も日本は窮屈だから、これで話す言葉がフランス語じゃなければ住んでみたい気もするのだが(^^ゞ


さて展覧会のタイトルは「レオナール・フジタとモデルたち」と、描かれているモデル達にスポットを当てた構成になっている。でも普通に回顧展的に作品の変遷を楽しめる内容でもあった。ところで、ほとんどの画家はキャリアの最初の頃は、ごく普通のどこかで見たような絵を描いているものだが、藤田嗣治は最初からかなり個性的だったみたい。次の2つはパリに渡って数年目の作品。

フェルナンドとオウム  1917年
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なぜかエジプト的なものが想像され、最初はクレオパトラを描いているのかと思った。フェルナンド・バレーは彼の2度目の奥さんでフランス人。ちなみに最初の奥さんは日本人だった。しかし彼が1913年(大正2年)にフランスへ渡ったことで離婚というか解散ということになったみたい(/o\)



家族  1917年
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これはエジプト×モディリアーニ?



二人の女  1918年
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先の2つとたった1年しか違わないが、
だんだんとよく知っている藤田嗣治のイメージになってくる。



藤田嗣治は1920年代に「乳白色の肌」と呼ばれる独自の裸婦像でスター画家となる。次の2つは3番目の奥さんであるリュシー(英語読みだとルーシー)・バドゥーがモデル。目の色が2枚で異なるがそれは気にしないでおこう。藤田嗣治は彼女にユキと日本風の名前をつけている。

横たわる女  1923年
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ユキの肖像  1928年
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こちらは有名モデルだったモンパルナスのキキを描いたもの。最初はキキを描いた絵で藤田嗣治はパリに受け入れられるようになる。(この作品じゃない)

横たわる裸婦 1922年
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次の3つは4番目の奥さんであるマドレーヌ・ルクー。彼女は藤田嗣治の帰国にともなって来日し、なんと歌手として日本でレコード・デビューまでしている。まだ外人は珍しかったんだろう。もし音源が残っているなら聴いてみたいものだ。残念ながら身体が弱かったらしく、何度目かの来日の際、1936年に29歳の若さで亡くなっている。藤田嗣治はそれ以降も彼女をモデルに絵を描いていてとても愛していたように思える。しかし実は彼女が亡くなる1年前から、後に5番目の妻となる君代と付き合いだしている。オトコとオンナはいつの時代もワカラナイものである(^^ゞ


眠れる女  1931年
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私の夢  1947年
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オペラ座の夢  1951年
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山田キクの肖像  1926年
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藤田嗣治は1920年代に乳白色ばかり描いていたわけではなかった。山田菊(1897年〜1975年)は日本人外交官の父とフランス人の母を持つハーフで、幼少期を日本で過ごし、後にフランスで活躍した作家。1920年代には有名だったらしい。こんな人知らなかったわ。



アンナ・ド・ノアイユの肖像  1926年
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この人も知らなかったが著名な詩人であり小説家。フランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を女性として初めて授与されている人物。ルーマニア貴族の血を引き、また伯爵夫人でもある。本当かどうか確認していないが、フランス人で名前に「ド」が入っているといい家柄だと聞いたことがある。しかし気難しい性格だったらしく、あれこれと描き方に注文をつけ、それで途中で藤田がイヤになって、この作品は製作途中の未完成品扱い。

でも背景はまだ描かれてはいないが、それも何となくこの絵の不思議な魅力になっているように思えて私はとても気に入った。社交界の女王的存在だった彼女のオーラも絵ににじみ出ている。画風的にも乳白色の時代と晩年の精巧な画風がちょうどいい感じでミックスされているように思う。このタイプの藤田の作品は初めて見た。他にも同じようなものがあれば是非見てみたい。



見応えがあった3メートル四方×4枚の大作。いわゆる群像作品。それが乳白色の技法で描かれているのもおもしろい。好みとしては「構図」の対のほう。「争闘」は筋肉の描き方のデフォルメがちょっと漫画チック。絵の中に「ドリャー」とかセリフの吹き出しを入れたくなる。

「争闘」のような筋肉描写は、その後の作品に引き継がれていないから、この作品はある種の実験的なものだったのかもしれない。関係ないけれど闘争ではなく争闘という言葉は初めて目にした。明治や大正の頃はそういう言い方をしていたんだろうか。


ライオンのいる構図 / 犬のいる構図  1928年
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争闘 I / 争闘 II   1928年
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1931年から藤田は中南米を巡る旅をする。そして2年後に日本に帰国。その頃の作品は従来とはガラッと変わった画風で興味深いものが多かったが、ブログに適当な画像があまり見つからず。

メキシコにおけるマドレーヌ  1934年
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自画像  1936年
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そして1938年頃から従軍画家として戦地に赴き、いわゆる戦争画の制作を手がける。ストレートな国威発揚モノと違い、藤田嗣治が描くとこうなるのかと思わせる作品が多い。残念ながらこの展覧会では展示されていなかった。戦後になると戦争画の件で批判され、それに嫌気がさして1950年にフランスに戻る。レオナール・フジタはその後にフランスに帰化して以降の名前。ちなみにフジタはFoujitaと綴る。


パリに戻ってからはかなり精緻な画風になってくる。

ジャン・ロスタンの肖像  1955年
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カルチエ・ラタンのビストロ  1958年
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そして宗教をテーマとした作品も手がけるようになる。そこでも後期の藤田嗣治ワールド全開。この頃は少女の絵が多くて、なぜか鳥の物まねをするように口をすぼめたような表情で描く。ただし次の作品はそういう顔つきをしていない。

花の洗礼  1959年
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礼拝  1962〜63年
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正直にいうと、この絵を見た時に思わず吹き出してしまった(^^ゞ あのオカッパ頭がまじめな顔をして、しかもひざまずいた修道士の姿で! 私にはどう見ても笑いを取りにいっているようにしか見えないのだが、藤田嗣治にそんな意図はあったのかな。左側の修道女は5番目の奥さんである君代夫人とされる。


デッサン(作品の下絵みたいなもの)を始め、いろんな資料も数多く展示されていた。写真は藤田嗣治が出した手紙やハガキ。読んでみると、もちろん私宛に書かれたものではないのだが、なぜか彼とやりとりしているような感覚になってきて不思議な気分。ただ字が細かいし、かなり崩した筆跡なので内容は大まかにわかった程度。
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乳白色を堪能できたし、アンナ・ド・ノアイユという今まで知らないタイプの作品もあり、最後に笑うこともできて?満足度の高い展覧会だった。またポーラ美術館なみにガラガラなのでゆったりと鑑賞できる。藤田嗣治に関心があるなら、少し遠いけれど出かけていって損はない。来年の1月15日まで開催されていて、もう少ししたら美術館の庭で紅葉も楽しめるかもしれない。

wassho at 23:32│Comments(0) 美術展 

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