2016年12月17日

ゴッホとゴーギャン展 その3

ゴッホ:モンマルトル、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏 1887年
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ずっと見たいと思っていたルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を、今年の夏に目にすることができたのはいい思い出である。それでゴッホのこの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏」という作品が、ルノワールのそれとあまりに違うのに驚いた。ルノワールは店の中、ゴッホは外という違いはあるが、もしゴッホの描いた情景が正しいとすればムーラン・ド・ラ・ギャレットはずいぶんと田舎の畑の中にポツンとあることになる。しかもルノワールが描いたのはゴッホの11年も前。こんなところにルノワールが描いたような人々がダンスを楽しむ場所があったとは信じがたい。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットのあるモンマルトルはシャンゼリゼ通りから3〜4キロ。印象派の時代にはパリのど真ん中より家賃が安いので芸術家が多く住んでいたといわれる。ブドウ畑もあったらしい。明治の初め頃まで青山なんて東京の町外れといわれていたのと同じようなものか。

それにしてもあまりに田舎の風景。ところで、よく見ると遠くに山並みが描かれている。パリから山が見えるか? ということでゴッホは自然豊かな情景を描くのが好きだから、この絵はモンマルトルから見える風景に、彼のイマジネーションを重ねて描いたというのが私の推測。当たっているかな?



ゴーギャン:マルティニク島の風景 1887年
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ゴーギャンはパリ生まれのフランス人。でもあまりパリに馴染めなかったのか、画家になってからは他の地域にいることが多かった。この絵は中米のドミニカ近くのマルティニク島に半年ほど住んでいた時に描かれたもの。ちなみにマルティニク島は今でも海外県と呼ばれるフランスの植民地である。



ゴッホは1888年の2月に南仏のアルルに移り、
10月にゴーギャンが合流して共同生活が始まる。


ゴッホ:グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝 1888年
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何となく日本的な雰囲気を感じないだろうか。実はアーモンドの花はサクラにそっくりなのである。植物学的にも同じバラ科で品種としても近い。もっともアーモンドを食べながらサクラを連想することは難しいかも。かねてよりアーモンドの花見をしたいと思っているのだけれど、まとまって植えられているのは神戸、浜松、岡山あたりで関東に見あたらないのが残念。



ゴッホ:収穫 1888年
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ゴッホは黄色が好きだから畑を黄色く塗ったのかと思ったが、これは麦の穂が実っている表現みたいだ。日本で収穫というタイトルなら稲刈りをしている人をたくさん描きそうなものだが。画像で見ると平凡にしか見えないが、実物を見るとジワーッとよさの伝わる絵である。



ゴッホ:ゴーギャンの椅子 1888年
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ゴッホは自分用には質素な椅子を使っていたけれど、ゴーギャンのために肘掛け付きのいい椅子を用意してアルルに迎えたとされる。それにしても椅子の座面にロウソクを置くなんて、ちょっと不安定そうで心配になる。


ゴーギャン:アリスカンの並木路、アルル 1888年
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ゴーギャン:ブドウの収穫、人間の悲惨 1888年
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ブドウといわれなければブドウ畑を描いているとはわからない。そこに悲惨というテーマを被せる意味も、説明も読んでみたがよくわからない。ストレートなゴッホの絵と違ってゴーギャンは難解なメッセージを絵に込めるタイプ。


ゴーギャン:アルルの洗濯女 1888年
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この絵は特にメッセージ性はないと思うが、画面右上の炎のようなものは何を描いているのか不明。空間構成はかなり歪んでいるというか現実を無視した描き方。だから描いている内容は具体的なのに、何となく抽象画を眺めているような気分になる。



1888年の12月23日にゴッホは錯乱して耳切り事件を起こす。共同生活は解消となり25日にゴーギャンはパリに戻る。ゴッホの代表作の多くはアルルで描かれたもので、ゴーギャンとの共同生活が終わってから、風景画にはうねるような筆遣いが見られるようになる。


ゴッホ:タマネギの皿のある静物 1889年
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ゴッホ:オリーブ園 1889年
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ゴッホ:刈り入れをする人のいる麦畑 1889年
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ゴッホ:渓谷(レ・ペイルレ) 1889年
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ゴーギャンの絵はあまり変化していない。かなり風景をデフォルメした画風。

ゴーギャン:家畜番の少女 1889年
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1891年にゴーギャンはタヒチに渡る。誰でも名前はよく知っているだろうが、念のためにタヒチの場所はココね。現在もフランス領。リゾートとしてのタヒチで思い浮かぶのは水上コテージのあるこんなイメージかな。


ゴーギャン:タヒチの3人 1899年
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ゴーギャン:タヒチの牧歌 1901年
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最初のエントリーに書いたようにゴーギャンといえばタヒチ時代のものしか知らなかった。そしてゴーギャンのタヒチ絵は大好きなのだけれど、同時にやや複雑な気分にもなるのである。

ゴーギャンがなぜタヒチに住んだのかはよく調べていない。一度パリに戻ってきたが合計8年位をタヒチで過ごしている。タヒチの次はそこから1500キロほど離れたマルキーズ諸島に移り、2年後にそこで亡くなっている。先にも書いたようにアルル以前もあまりパリにはいなかったから、基本的に田舎が好きで、かつ非文明的なところを礼賛しているように思える。

そしてゴーギャンのタヒチ絵を見ると、うまく表現できないが人間の生命力、地に足が付いた生活感のようなものを感じる。そんな絵は他の画家にはない彼の魅力。でもーーー

かなり昔に、普通に生活を送り仕事もしているが、少し知恵遅れという設定の男性が主人公のドラマを見た。その彼がヒロインに恋をして、その気持ちがとてもピュアなものとして伝わってくるのである。そして少し知恵遅れという設定じゃなければ、そんなピュアな想いはドラマとして成立しないと思った。普通の人間じゃピュアになれないのもナンダカナ〜というのと、同時に知恵遅れならピュアということがすんなり腑に落ちるのは、ある種の差別意識が反映しているような気持ちにもなった。

10月に沖縄で警官が基地反対派に対して「土人」といって問題になった。タヒチ絵に描かれているのは、ゴーギャン当時の感覚ではまさに土人である。未開な土人だから感じる逞しい生命力と、知恵遅れなら恋もピュアだろうというのは同じような思考回路かと思う。

別に罪悪感を感じながらゴーギャンのタヒチ絵を見ているわけでは決してない。でも何となく無意識に上から目線になっているようで、そこのところがいつも少し引っかかる。



ゴーギャン:肘掛け椅子のヒマワリ 1901年
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ゴッホが自分の耳を切って終わったゴーギャンとの共同生活であるが(最初はゴーギャンの耳を切りにきたらしい)、その事件がなくても、性格がぶつかったり芸術上の意見が合わなかったりして関係はかなり悪化していたとのこと。しかし二人はその後に会うことはなかったが、手紙のやりとりなどは続いていたとされる。

ゴッホが自殺したのは耳切り事件の2年後の1890年。それから11年後、ゴーギャンのタヒチ時代の最後に描かれたこの絵は、もちろんアルルでヒマワリの絵をたくさん描いていたゴッホへのオマージュだろう。ゴーギャンを迎える時にゴッホは自分は粗末な椅子を使っていても、彼のために肘掛けのついた椅子を用意した。今度はゴーギャンがゴッホのアイコンであるヒマワリを肘掛け椅子にのせて描く。タイトルにわざわざ肘掛け椅子と書かれているから、この絵はアルルでのエピソードを踏まえていると思われる。ちょっといい話。



最初のエントリーに書いたように、タヒチ以前のゴーギャンはどんなだろうという興味で展覧会を見に来た。結論としてはビミョー。少なくとも特に欲しいと思う絵はなかった。やっぱりゴーギャンはタヒチ絵あってのゴーギャンかな。


おしまい

wassho at 19:24│Comments(0) 美術展 

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