2017年07月04日
ピカソとシャガール 愛と平和の賛歌
5月20日に箱根の山のホテルでツツジとシャクナゲを見た後に立ち寄った展覧会。バイクに乗るのと絵を鑑賞するのはまったく違う行為だが、その組み合わせが気に入って箱根に行く時はポーラ美術館でどんな展覧会が開かれているかを確認することが多い。擬音で例えればヴォーンと走ってシーンと眺めるといった感じ。
ところでこの展覧会、何ゆえピカソとシャガールの組み合わせ? 同世代の画家ではあるが共通点も、あるいは逆に対比すべきところもないように思う。ポーラ美術館の開館15周年記念展だから手持ちの作品を適当に組み合わせたレベルの企画ではないにしても、その意図は見終わった後でも理解できなかった。でも「天丼と蕎麦」のセット定食のように2つ楽しめたからよかった(^^ゞ
ピカソは1881年(明治14年)生まれで1973年没のスペイン人。1900年(明治33年)頃からパリで活躍する。シャガールは1887年(明治20年)生まれで1985年没のユダヤ系ロシア人。パリにやってきたのは1911年とされる。
展覧会のパンフレットには二人が仲良さそうにしている写真が使われている。
左がピカソで右がシャガール。これは1951年の撮影だからかなり晩年の頃。シャガールがパリにやってきた1911年に、ピカソはもう帝王的な地位を築いていたので、最初はシャガールにとって雲の上の存在だったんじゃないかな。ピカソは91歳、シャガールは97歳まで生きてどちらも長命の画家。
いつものようにエレベータを降りて展示室に向かう。
開館15周年を示すディスプレイ。
展示されている作品は約80点とやや少なめなものの充分に見応えはあった。それにポーラ美術館は都心の美術館と較べれば貸し切り状態といっていいほど空いている。つまりじっくり絵を眺められるから、これくらいでちょうどよかった気もする。
この展覧会の目玉、あるいは他の展覧会と違っているのはタペストリーの作品が展示されていること。タペストリーとは壁に掛ける絨毯みたいなもの。ゴブラン織りとも呼ばれる。インテリアとしてのタペストリーは馴染みがあるが、ピカソやシャガールといった巨匠クラスにタペストリーがあるとは知らなかった。解説によれば第2次世界大戦後のフランスではタペストリーの見直しが盛んになったとされる。
もちろんタペストリーは画家が織るのではなく専門の職人が制作する。この当時、一流レベルの職人は芸術家として扱われていたようだ。いってみればタペストリーは画家とタペストリー作家のコラボ作品。またタペストリーのための原画はカルトンと呼ばれる。そういえばゴヤの展覧会でカルトンを何点か見た。ゴヤはピカソ達より130年ほど前の画家。宮廷というものがあった時代はタペストリーが盛んで、それに回帰しようとしたのかもしれない。
「ミノタウロマキア」 1982年
原画:ピカソ
タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
画像で載せるとタペストリーなのか絵なのかはわからないね。絵の右側に描かれている牛の頭をした人間がギリシャ神話に登場するミノタウロス。海の神ポセイドンの呪いによって生まれた暴力と性欲の怪物。ピカソはミノタウロスをテーマとした作品を70点ほど残している。ミノタウロスに彼自身を投影していたともいわれる。ちなみにピカソは自他共に認める「肉食系画家」である(^^ゞ
タペストリーは1982年に制作されたが、原画は1935年に刷られた版画。それでこのミノタウロスはピカソ自身ではなく、迫り来る第2次世界大戦(1939年〜1945年)を象徴しているらしい。それはよくわからないとしても、何せ縦3.15メートル横4.5メートルのサイズなので、ミノタウロスの姿と相まって大迫力の作品である。だからといって何かビンビン感じるものはなかったのだがーーー
この展覧会の本当の目玉作品はあの有名な「ゲルニカ」のタペストリー。ただし「ゲルニカ」と「ミノタウロマキア」は入れ替え展示で、私が訪れた時はもう「ミノタウロマキア」になっていた。
話は変わるが私はゲルニカを見たことがあるーーーと思っていた時期がある。1980年代後半にニューヨーク近代美術館に行った時に確かにゲルニカを見た。それは強烈なインパクトで、その時の訪問で今でも明確に覚えているのはゲルニカとこの作品くらいである。しかしゲルニカがニューヨーク近代美術館のコレクションだったのは1939年から1981年までなのを後で知った。スペインに戻ったゲルニカは、それ以降どこにも貸し出されていない。私が見たのはレプリカあるいは写真展示だったのかなあ。我がアートライフ最大のナゾ
ニューヨーク近代美術館で「見た」ゲルニカに強烈なインパクトを受けたと書いた。しかしそれは素晴らしい作品と思ったり感動したのとはまったく違う。ひたすらひたすらナンジャコレ〜とビックリしただけ。ゲルニカのことはまったく知らなかったし、見てすぐわかったがピカソの作品だとも知らなかった。たまたま日本人の客がいて「スペイン内戦でゲルニカという街が爆撃を受けて廃墟となった情景」などと説明していたので描かれている内容は理解できた。しかし、そんなこととはまったく関係なくナンジャコレ〜だった。
ピカソはいろいろと画風が変遷するけれど、やはり彼をピカソたらしめているのはキュービスムやシュルレアリスム。特にバケモノ女のような絵。その美術史的な価値は理解できても、それのどこがいいのか未だちっともわからない。それでも展覧会に来るのは、たまには変わったものを見たいから。いわば目の気分転換。ゲルニカもその延長戦上にある。しかし世の中の人はゲルニカを見て、そこにピカソの愛や哀しみを感じ取って感動するらしい。考え過ぎじゃない?
展覧会では見なかったが参考までに画像を。ついでに原画のほうも。
タペストリーの「ゲルニカ」 1983年
タペストリー制作はジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバック
オリジナルの「ゲルニカ」 1937年
シャガールのタペストリーも展示されていた。
「平和」 2001年
原画:シャガール
タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
こちらのオリジナルはシャガールが1964年に国連の講堂のために制作したステンドグラス。その時の下絵をベースに彼の死後にタペストリーにされたもの。縦4.1メートル横6.2メートルとかなり大きかった。きれいだったし、まさにシャガールの世界ではあったが、ステンドグラスだったらもっとよかったかも。シャガールはヨーロッパ各地の教会でステンドグラスを残しているしエルサレムでも制作している。いつかどこかで見てみたい。
ーーー続く
ところでこの展覧会、何ゆえピカソとシャガールの組み合わせ? 同世代の画家ではあるが共通点も、あるいは逆に対比すべきところもないように思う。ポーラ美術館の開館15周年記念展だから手持ちの作品を適当に組み合わせたレベルの企画ではないにしても、その意図は見終わった後でも理解できなかった。でも「天丼と蕎麦」のセット定食のように2つ楽しめたからよかった(^^ゞ
ピカソは1881年(明治14年)生まれで1973年没のスペイン人。1900年(明治33年)頃からパリで活躍する。シャガールは1887年(明治20年)生まれで1985年没のユダヤ系ロシア人。パリにやってきたのは1911年とされる。
展覧会のパンフレットには二人が仲良さそうにしている写真が使われている。
左がピカソで右がシャガール。これは1951年の撮影だからかなり晩年の頃。シャガールがパリにやってきた1911年に、ピカソはもう帝王的な地位を築いていたので、最初はシャガールにとって雲の上の存在だったんじゃないかな。ピカソは91歳、シャガールは97歳まで生きてどちらも長命の画家。
いつものようにエレベータを降りて展示室に向かう。
開館15周年を示すディスプレイ。
展示されている作品は約80点とやや少なめなものの充分に見応えはあった。それにポーラ美術館は都心の美術館と較べれば貸し切り状態といっていいほど空いている。つまりじっくり絵を眺められるから、これくらいでちょうどよかった気もする。
この展覧会の目玉、あるいは他の展覧会と違っているのはタペストリーの作品が展示されていること。タペストリーとは壁に掛ける絨毯みたいなもの。ゴブラン織りとも呼ばれる。インテリアとしてのタペストリーは馴染みがあるが、ピカソやシャガールといった巨匠クラスにタペストリーがあるとは知らなかった。解説によれば第2次世界大戦後のフランスではタペストリーの見直しが盛んになったとされる。
もちろんタペストリーは画家が織るのではなく専門の職人が制作する。この当時、一流レベルの職人は芸術家として扱われていたようだ。いってみればタペストリーは画家とタペストリー作家のコラボ作品。またタペストリーのための原画はカルトンと呼ばれる。そういえばゴヤの展覧会でカルトンを何点か見た。ゴヤはピカソ達より130年ほど前の画家。宮廷というものがあった時代はタペストリーが盛んで、それに回帰しようとしたのかもしれない。
「ミノタウロマキア」 1982年
原画:ピカソ
タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
画像で載せるとタペストリーなのか絵なのかはわからないね。絵の右側に描かれている牛の頭をした人間がギリシャ神話に登場するミノタウロス。海の神ポセイドンの呪いによって生まれた暴力と性欲の怪物。ピカソはミノタウロスをテーマとした作品を70点ほど残している。ミノタウロスに彼自身を投影していたともいわれる。ちなみにピカソは自他共に認める「肉食系画家」である(^^ゞ
タペストリーは1982年に制作されたが、原画は1935年に刷られた版画。それでこのミノタウロスはピカソ自身ではなく、迫り来る第2次世界大戦(1939年〜1945年)を象徴しているらしい。それはよくわからないとしても、何せ縦3.15メートル横4.5メートルのサイズなので、ミノタウロスの姿と相まって大迫力の作品である。だからといって何かビンビン感じるものはなかったのだがーーー
この展覧会の本当の目玉作品はあの有名な「ゲルニカ」のタペストリー。ただし「ゲルニカ」と「ミノタウロマキア」は入れ替え展示で、私が訪れた時はもう「ミノタウロマキア」になっていた。
話は変わるが私はゲルニカを見たことがあるーーーと思っていた時期がある。1980年代後半にニューヨーク近代美術館に行った時に確かにゲルニカを見た。それは強烈なインパクトで、その時の訪問で今でも明確に覚えているのはゲルニカとこの作品くらいである。しかしゲルニカがニューヨーク近代美術館のコレクションだったのは1939年から1981年までなのを後で知った。スペインに戻ったゲルニカは、それ以降どこにも貸し出されていない。私が見たのはレプリカあるいは写真展示だったのかなあ。我がアートライフ最大のナゾ
ニューヨーク近代美術館で「見た」ゲルニカに強烈なインパクトを受けたと書いた。しかしそれは素晴らしい作品と思ったり感動したのとはまったく違う。ひたすらひたすらナンジャコレ〜とビックリしただけ。ゲルニカのことはまったく知らなかったし、見てすぐわかったがピカソの作品だとも知らなかった。たまたま日本人の客がいて「スペイン内戦でゲルニカという街が爆撃を受けて廃墟となった情景」などと説明していたので描かれている内容は理解できた。しかし、そんなこととはまったく関係なくナンジャコレ〜だった。
ピカソはいろいろと画風が変遷するけれど、やはり彼をピカソたらしめているのはキュービスムやシュルレアリスム。特にバケモノ女のような絵。その美術史的な価値は理解できても、それのどこがいいのか未だちっともわからない。それでも展覧会に来るのは、たまには変わったものを見たいから。いわば目の気分転換。ゲルニカもその延長戦上にある。しかし世の中の人はゲルニカを見て、そこにピカソの愛や哀しみを感じ取って感動するらしい。考え過ぎじゃない?
展覧会では見なかったが参考までに画像を。ついでに原画のほうも。
タペストリーの「ゲルニカ」 1983年
タペストリー制作はジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバック
オリジナルの「ゲルニカ」 1937年
シャガールのタペストリーも展示されていた。
「平和」 2001年
原画:シャガール
タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
こちらのオリジナルはシャガールが1964年に国連の講堂のために制作したステンドグラス。その時の下絵をベースに彼の死後にタペストリーにされたもの。縦4.1メートル横6.2メートルとかなり大きかった。きれいだったし、まさにシャガールの世界ではあったが、ステンドグラスだったらもっとよかったかも。シャガールはヨーロッパ各地の教会でステンドグラスを残しているしエルサレムでも制作している。いつかどこかで見てみたい。
ーーー続く
wassho at 08:22│Comments(0)│
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