2018年07月16日
クロアチア
サッカー・ワールドカップの決勝戦はフランスが4-2でクロアチアに勝利。クロアチアの1点は、フランスのキーパーにバックパスされたボールに対して、クロアチアのフォワードがプレッシャーを掛けに行き、キーパーのミスを誘ってゴールしたもの。プレッシャーを掛けるシーンはよく見るけれど、本当に得点できることもあるんだとビックリ。
さてサッカーの話はここまで。本日のエントリーは前回に書いた「ワールドカップやオリンピックを機会に少し世界に目を向ける」の話。ただしあまりの酷暑にこの3連休は引きこもっていて、その暇つぶしに書いたものだから、そのおつもりで。
それでクロアチア。
サッカー以外ではたまに名前を聞く程度。白地図で場所を指し示すことができる人はほとんどいないと思う。簡単に説明しておくと
アドリア海を挟んでイタリアの東側、ギリシャの北側にあるいくつかの国が集まってユーゴスラビアという国を作った。1943年のこと。
↓
いろいろ仲違い(なかたがい)して分裂し、1992年にユーゴスラビアは解体。
そのいくつかの国というのが
クロアチア
コソボ(承認していない国もある)
スロベニア
セルビア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
マケドニア
モンテネグロ
ユーゴスラビアにチョコッと興味を持ったのは大学生の時。チトー大統領(1892-1980)というのがユーゴスラビアをまとめた立役者で、世界史に名前が残るレベルの政治家。ある授業で教授が「僕はチトーが来日した時、彼に呼ばれて一緒にメシを食いに行った」と言ったから。「ヘエ〜、このオッサン、そんなに有名あるいは優秀なのか」と思った。まあタダそれだけの話。
一般的に知られているのはユーゴスラビア時代の1984年にサラエボで開催された冬季オリンピックだろう。もっともサラエボ・オリンピックは覚えていても「それはどこの国?」と尋ねられたら答えられない人は多いかもしれない。
さてチトー亡き後のユーゴスラビアは紛争の歴史でもある。さらに遡ると第1次世界大戦はオーストリアの皇太子がサラエボで暗殺されたのがきっかけ。バルカン半島はヨーロッパの火薬庫などといわれ、昔からきな臭かったエリア。
話はそれるがバルカン半島は、ギリシャ、アルバニア、旧ユーゴスラビア、ルーマニア、ブルガリアを含めたエリアを指す。しかし半島になっている、つまり海に細長く突き出しているのはギリシャだけなので、バルカン半島という呼び名にはとても違和感を感じる。
それはさておきユーゴスラビアの紛争に話を戻すと、主なものは
スロベニア紛争(十日間戦争)(1991年)
クロアチア紛争(1991年 – 1995年)
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)(1992年 – 1995年)
コソボ紛争(1996年 - 1999年)
マケドニア紛争(2001年)
ニュースでよく報じられていたのはボスニア紛争とコソボ紛争かな。特にボスニア紛争は規模が大きく、オリンピックのあったサラエボも戦場になったからよく覚えている。広場にいる市民をビルの上から狙撃するというショッキングなドキュメンタリー番組を見たこともある。「民族浄化」という言葉もこの紛争では使われた。
ユーゴスラビアでの紛争は民族紛争である。ボスニアの場合はボシュニャク人vsセルビア人vsクロアチア人。ボスニア紛争あるいはユーゴスラビアに関する本は何冊か読んだことがある。しかし読んでいる時は何となく理解したつもりでも、24時間後にはすっかり頭から抜けてしまう。
基本的に話が込み入っていてややこしいし、仕事や生活で縁のないエリアだし。肌感覚として身につかないといったところ。だから現在、旧ユーゴスラビアは7カ国になっているが、それらの国名を聞くと苦手意識が先に立ってしまう。
ニュースで見たボスニア紛争では、破壊された市街地、銃弾で蜂の巣のようになった建物などが記憶に残っている。先ほど書いたように「それ以来は縁がない」なので、その記憶であのエリアの印象が固定されていた。
その印象が変わったのはジェームズ・ボンド役がダニエル・クレイグに変わって最初の「007 カジノ・ロワイヤル」の映画を観た時。舞台となったカジノが旧ユーゴスラビアのモンテネグロにあって、とてもきれいな街並みだったから。もう内戦の傷も癒えてよかったねという感想を持つと共に、機会があればいずれ訪れてみたいと思ったくらい。
もっとも映画を見終えた後、カジノの場所はモンテネグロではなく、あのエリアと曖昧にしか覚えていなかった。それでワールドカップで普段は聞かないクロアチアの名前を聞いた時、あのきれいな街並みのクロアチアと勘違い。当然、準決勝と決勝戦はクロアチアをひいきして応援した(^^ゞ
それで今調べてみたらカジノがあったのはクロアチアではなくモンテネグロ。しかも舞台設定はモンテネグロでも、実際の撮影はチェコで、映画の風景とモンテネグロとは似ても似つかないとかーーー。
ということで酷暑で頭が回らない日にふさわしいオチ(^^ゞ
皆様、熱中病には気をつけましょう。
さてサッカーの話はここまで。本日のエントリーは前回に書いた「ワールドカップやオリンピックを機会に少し世界に目を向ける」の話。ただしあまりの酷暑にこの3連休は引きこもっていて、その暇つぶしに書いたものだから、そのおつもりで。
それでクロアチア。
サッカー以外ではたまに名前を聞く程度。白地図で場所を指し示すことができる人はほとんどいないと思う。簡単に説明しておくと
アドリア海を挟んでイタリアの東側、ギリシャの北側にあるいくつかの国が集まってユーゴスラビアという国を作った。1943年のこと。
↓
いろいろ仲違い(なかたがい)して分裂し、1992年にユーゴスラビアは解体。
そのいくつかの国というのが
クロアチア
コソボ(承認していない国もある)
スロベニア
セルビア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
マケドニア
モンテネグロ
ユーゴスラビアにチョコッと興味を持ったのは大学生の時。チトー大統領(1892-1980)というのがユーゴスラビアをまとめた立役者で、世界史に名前が残るレベルの政治家。ある授業で教授が「僕はチトーが来日した時、彼に呼ばれて一緒にメシを食いに行った」と言ったから。「ヘエ〜、このオッサン、そんなに有名あるいは優秀なのか」と思った。まあタダそれだけの話。
一般的に知られているのはユーゴスラビア時代の1984年にサラエボで開催された冬季オリンピックだろう。もっともサラエボ・オリンピックは覚えていても「それはどこの国?」と尋ねられたら答えられない人は多いかもしれない。
さてチトー亡き後のユーゴスラビアは紛争の歴史でもある。さらに遡ると第1次世界大戦はオーストリアの皇太子がサラエボで暗殺されたのがきっかけ。バルカン半島はヨーロッパの火薬庫などといわれ、昔からきな臭かったエリア。
話はそれるがバルカン半島は、ギリシャ、アルバニア、旧ユーゴスラビア、ルーマニア、ブルガリアを含めたエリアを指す。しかし半島になっている、つまり海に細長く突き出しているのはギリシャだけなので、バルカン半島という呼び名にはとても違和感を感じる。
それはさておきユーゴスラビアの紛争に話を戻すと、主なものは
スロベニア紛争(十日間戦争)(1991年)
クロアチア紛争(1991年 – 1995年)
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)(1992年 – 1995年)
コソボ紛争(1996年 - 1999年)
マケドニア紛争(2001年)
ニュースでよく報じられていたのはボスニア紛争とコソボ紛争かな。特にボスニア紛争は規模が大きく、オリンピックのあったサラエボも戦場になったからよく覚えている。広場にいる市民をビルの上から狙撃するというショッキングなドキュメンタリー番組を見たこともある。「民族浄化」という言葉もこの紛争では使われた。
ユーゴスラビアでの紛争は民族紛争である。ボスニアの場合はボシュニャク人vsセルビア人vsクロアチア人。ボスニア紛争あるいはユーゴスラビアに関する本は何冊か読んだことがある。しかし読んでいる時は何となく理解したつもりでも、24時間後にはすっかり頭から抜けてしまう。
基本的に話が込み入っていてややこしいし、仕事や生活で縁のないエリアだし。肌感覚として身につかないといったところ。だから現在、旧ユーゴスラビアは7カ国になっているが、それらの国名を聞くと苦手意識が先に立ってしまう。
ニュースで見たボスニア紛争では、破壊された市街地、銃弾で蜂の巣のようになった建物などが記憶に残っている。先ほど書いたように「それ以来は縁がない」なので、その記憶であのエリアの印象が固定されていた。
その印象が変わったのはジェームズ・ボンド役がダニエル・クレイグに変わって最初の「007 カジノ・ロワイヤル」の映画を観た時。舞台となったカジノが旧ユーゴスラビアのモンテネグロにあって、とてもきれいな街並みだったから。もう内戦の傷も癒えてよかったねという感想を持つと共に、機会があればいずれ訪れてみたいと思ったくらい。
もっとも映画を見終えた後、カジノの場所はモンテネグロではなく、あのエリアと曖昧にしか覚えていなかった。それでワールドカップで普段は聞かないクロアチアの名前を聞いた時、あのきれいな街並みのクロアチアと勘違い。当然、準決勝と決勝戦はクロアチアをひいきして応援した(^^ゞ
それで今調べてみたらカジノがあったのはクロアチアではなくモンテネグロ。しかも舞台設定はモンテネグロでも、実際の撮影はチェコで、映画の風景とモンテネグロとは似ても似つかないとかーーー。
ということで酷暑で頭が回らない日にふさわしいオチ(^^ゞ
皆様、熱中病には気をつけましょう。
wassho at 13:04│Comments(0)│
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