2018年11月24日
生誕110年 東山魁夷展 その2
まずは人物像のおさらい。
東山魁夷は1908年(明治41年)生まれで1999年(平成11年)に90歳で亡くなる。だから今年が生誕110年。ちなみに明治は45年まで。
横浜で生まれ3歳から神戸育ち。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業後にドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。終戦間近の1945年には兵隊に取られてもいる。戦後は千葉県の市川市を拠点とする。
美術学校在学中から展覧会に入選はしていたが、美術界で広く認められるようになったのは1947年に「残照」が日展で特選となってからといわれる。当時の東山は39歳だから意外と遅咲き。そして、それまでの間借り生活だったのが、1953年に自宅を新築しているから儲かりだしたみたい(^^ゞ
そこから先のことはあまり調べていない。しかし1960年に東宮御所、1968年には皇居宮殿の障壁画を制作していることから、「残照」から10数年以内に当代一流と見なされる画家まで登り詰めていたことになる。遅咲きでも咲いた後は早かった。1969年には文化勲章を受章。
1970年代から80年代にかけて唐招提寺の障壁画を担当。これらはいずれ重要文化財や国宝になるんじゃないかな。またこの頃から彼のことを「国民的画家」などと呼ぶようになったみたいだ。
こちらは75歳の時のお姿。
今まで東山魁夷の展覧会を訪れたことはない。でも彼のことは美術番組等でよく取り上げられているし、個展じゃなくても何度か作品を観たことはある。
それで東山魁夷に対する印象は、
東山ブルーと呼ばれる色を多く使う。実際には緑なんだけれど、日本は信号でも
「青」信号となぜか緑を青と置き換えるのでブルー。
写真でいうならソフトフォーカスのようなホワっとした画風である。
シンプルというか単純な絵が多い。悪くいえば大雑把な画風。
といったところ。前回のエントリーでも書いたように、あまり私の趣味ではなかった。この展覧会もボナールと同時開催でなければ、あるいは唐招提寺の障壁画が展示されていなかったら訪れていなかったかもしれない。でも百聞は一見にしかずじゃなくて、まとめて観ると違う世界が見えてくる体験であった。
「残照」 19477年
先ほど書いた東山魁夷の出世作。とても山岳地帯ぽく思えるが、実は千葉県君津市の鹿野山からの風景である。標高はたったの379メートル。隣の鬼泪山(きなだやま:標高319メートル)はマザー牧場のあるところといえば、千葉を知っている人にはイメージしやすいかもしれない。バイクツーリングで房総半島の山はよく訪れている。低い山並みだからつまらない景色なんだが、それと同じようなものを見てこんな絵になったかと、出だしから一発食らわされた感じ。
「道」 1950年
こちらは青森県の種差海岸。芝生が広がる美しい海岸のようだ。そしてこれは、東山魁夷といえば必ず紹介される有名な作品。戦後間もない時代にに、このまっすぐに伸びる道を見て人々が元気づけれれたなんて解説がよくされる。戦争が終わって5年でまったく余裕のない頃に、一体どれだけの人がこの絵を見たのだと、評論家のそんな後付けポエムには辟易するけれど。
東山魁夷は「残照」で画風を変え、この「道」はその路線で行くんだという決意の表れだともいわれる。そういう目で見ると「単純で大雑把な風景画」じゃなくて別の絵に見えてくるから不思議。風景に想いを込めることは可能なのかもしれない。ただ他の作品のすべてがそうではないと思う。
それとこれだけの規模の回顧展なのだから、「残照」以前の作品も見たかったところ。彼の初期の作品はネットで調べると何点かの名前はわかっても、画像がまったく見つけられない。大画伯の過去は封印されてる? ナゾ
「たにま」 1953年 長野県 野沢温泉
「木霊」 1958年 伊豆 淨蓮の滝
「秋翳(しゅうえい)」 1958年 群馬県 水上町
「青響」 1960年 福島県 土湯峠
「萬緑新」 1961年 福島県 猪苗代
ここからは北欧編。1962年(昭和37年)に北欧へスケッチ旅行して描かれた作品。「映象」や「冬華」は確かに寒そう。でもいわれなければ外国とは気づかないかな。
「映象」 1962年 スウェーデン ノルディングロー
「冬華」 1964年
「白夜光」 1965年 フィンランド クオピオ
次は京都を中心に描く時期になる。川端康成に京都も近代化してきているから今のうちに描いておけと勧められたらしい。しかし小説家と風景画家では京都の捉え方が違っていたようで、街中の風景を描いたのは数点しかない。ほとんどは自然の景色や古刹の庭など今でも描ける場所ばかり。ちょっと選び方がベタかな。川端康成も苦笑したかも(^^ゞ
「月篁(げっこう)」 1967年 嵯峨野
「谿紅葉(たにもみじ)」 1968年 芹生峠
「花明かり」 1968年 円山公園
「夏に入る」 1968年 大山崎
「春雪」 1973年 洛北
京都の次はまた海外で、1969年にドイツとオーストラリアの古都を巡っている。ドイツは2年間留学していたから思い入れはあっただろう。この時は建物を中心に描いているので外国だとわかりやすい。
「窓」 1971年 ドイツ ローデンブルク
「古都遠望」 1971年 ドイツ ヴィンブヘン
「晩鐘」 1971年 ドイツ フライブルク
作品を見続けるうちに東山魁夷への印象が少しずつ変わってきた。絵そのものに対する認識は同じだが、その評価が「単純で大雑把」から「おおらかで伸びやか」になったというか。今まで「退屈」と思っていたのに「安らぎを覚える」絵のように感じる。少し前の表現を使えば「癒し系」。作品を単体では特に感じることがなくても、まとまって観るとそこに共通する何かに刺激を受けることは草間彌生展でも経験した。両者はまったくタイプが異なるから、絵には、あるいは人間の感覚にはそういうところがあるのだろう。
東山ブルーにもけっこう酔えた。絵を観る時に特定の色は意識してない。しかし考えてみればゴッホの黄色やフェルメールの青など、それなしでは考えられない色もある。色は何がどう描かれているかと同じくらい重要なのかも。これから絵の楽しみ方に幅が出るような気もして、これはうれしい発見。
ところで東山魁夷は木をすごくデフォルメして描く。「青響」はブナ、「春雪」は杉の木でまあそんなものだと思うけれど、「月篁」の竹はちょっと違う気がするけどなあ。
ーーー続く
東山魁夷は1908年(明治41年)生まれで1999年(平成11年)に90歳で亡くなる。だから今年が生誕110年。ちなみに明治は45年まで。
横浜で生まれ3歳から神戸育ち。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業後にドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。終戦間近の1945年には兵隊に取られてもいる。戦後は千葉県の市川市を拠点とする。
美術学校在学中から展覧会に入選はしていたが、美術界で広く認められるようになったのは1947年に「残照」が日展で特選となってからといわれる。当時の東山は39歳だから意外と遅咲き。そして、それまでの間借り生活だったのが、1953年に自宅を新築しているから儲かりだしたみたい(^^ゞ
そこから先のことはあまり調べていない。しかし1960年に東宮御所、1968年には皇居宮殿の障壁画を制作していることから、「残照」から10数年以内に当代一流と見なされる画家まで登り詰めていたことになる。遅咲きでも咲いた後は早かった。1969年には文化勲章を受章。
1970年代から80年代にかけて唐招提寺の障壁画を担当。これらはいずれ重要文化財や国宝になるんじゃないかな。またこの頃から彼のことを「国民的画家」などと呼ぶようになったみたいだ。
こちらは75歳の時のお姿。
今まで東山魁夷の展覧会を訪れたことはない。でも彼のことは美術番組等でよく取り上げられているし、個展じゃなくても何度か作品を観たことはある。
それで東山魁夷に対する印象は、
東山ブルーと呼ばれる色を多く使う。実際には緑なんだけれど、日本は信号でも
「青」信号となぜか緑を青と置き換えるのでブルー。
写真でいうならソフトフォーカスのようなホワっとした画風である。
シンプルというか単純な絵が多い。悪くいえば大雑把な画風。
といったところ。前回のエントリーでも書いたように、あまり私の趣味ではなかった。この展覧会もボナールと同時開催でなければ、あるいは唐招提寺の障壁画が展示されていなかったら訪れていなかったかもしれない。でも百聞は一見にしかずじゃなくて、まとめて観ると違う世界が見えてくる体験であった。
「残照」 19477年
先ほど書いた東山魁夷の出世作。とても山岳地帯ぽく思えるが、実は千葉県君津市の鹿野山からの風景である。標高はたったの379メートル。隣の鬼泪山(きなだやま:標高319メートル)はマザー牧場のあるところといえば、千葉を知っている人にはイメージしやすいかもしれない。バイクツーリングで房総半島の山はよく訪れている。低い山並みだからつまらない景色なんだが、それと同じようなものを見てこんな絵になったかと、出だしから一発食らわされた感じ。
「道」 1950年
こちらは青森県の種差海岸。芝生が広がる美しい海岸のようだ。そしてこれは、東山魁夷といえば必ず紹介される有名な作品。戦後間もない時代にに、このまっすぐに伸びる道を見て人々が元気づけれれたなんて解説がよくされる。戦争が終わって5年でまったく余裕のない頃に、一体どれだけの人がこの絵を見たのだと、評論家のそんな後付けポエムには辟易するけれど。
東山魁夷は「残照」で画風を変え、この「道」はその路線で行くんだという決意の表れだともいわれる。そういう目で見ると「単純で大雑把な風景画」じゃなくて別の絵に見えてくるから不思議。風景に想いを込めることは可能なのかもしれない。ただ他の作品のすべてがそうではないと思う。
それとこれだけの規模の回顧展なのだから、「残照」以前の作品も見たかったところ。彼の初期の作品はネットで調べると何点かの名前はわかっても、画像がまったく見つけられない。大画伯の過去は封印されてる? ナゾ
「たにま」 1953年 長野県 野沢温泉
「木霊」 1958年 伊豆 淨蓮の滝
「秋翳(しゅうえい)」 1958年 群馬県 水上町
「青響」 1960年 福島県 土湯峠
「萬緑新」 1961年 福島県 猪苗代
ここからは北欧編。1962年(昭和37年)に北欧へスケッチ旅行して描かれた作品。「映象」や「冬華」は確かに寒そう。でもいわれなければ外国とは気づかないかな。
「映象」 1962年 スウェーデン ノルディングロー
「冬華」 1964年
「白夜光」 1965年 フィンランド クオピオ
次は京都を中心に描く時期になる。川端康成に京都も近代化してきているから今のうちに描いておけと勧められたらしい。しかし小説家と風景画家では京都の捉え方が違っていたようで、街中の風景を描いたのは数点しかない。ほとんどは自然の景色や古刹の庭など今でも描ける場所ばかり。ちょっと選び方がベタかな。川端康成も苦笑したかも(^^ゞ
「月篁(げっこう)」 1967年 嵯峨野
「谿紅葉(たにもみじ)」 1968年 芹生峠
「花明かり」 1968年 円山公園
「夏に入る」 1968年 大山崎
「春雪」 1973年 洛北
京都の次はまた海外で、1969年にドイツとオーストラリアの古都を巡っている。ドイツは2年間留学していたから思い入れはあっただろう。この時は建物を中心に描いているので外国だとわかりやすい。
「窓」 1971年 ドイツ ローデンブルク
「古都遠望」 1971年 ドイツ ヴィンブヘン
「晩鐘」 1971年 ドイツ フライブルク
作品を見続けるうちに東山魁夷への印象が少しずつ変わってきた。絵そのものに対する認識は同じだが、その評価が「単純で大雑把」から「おおらかで伸びやか」になったというか。今まで「退屈」と思っていたのに「安らぎを覚える」絵のように感じる。少し前の表現を使えば「癒し系」。作品を単体では特に感じることがなくても、まとまって観るとそこに共通する何かに刺激を受けることは草間彌生展でも経験した。両者はまったくタイプが異なるから、絵には、あるいは人間の感覚にはそういうところがあるのだろう。
東山ブルーにもけっこう酔えた。絵を観る時に特定の色は意識してない。しかし考えてみればゴッホの黄色やフェルメールの青など、それなしでは考えられない色もある。色は何がどう描かれているかと同じくらい重要なのかも。これから絵の楽しみ方に幅が出るような気もして、これはうれしい発見。
ところで東山魁夷は木をすごくデフォルメして描く。「青響」はブナ、「春雪」は杉の木でまあそんなものだと思うけれど、「月篁」の竹はちょっと違う気がするけどなあ。
ーーー続く
wassho at 17:43│Comments(0)│
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