2020年03月09日
ハマスホイとデンマーク絵画 その3
「こりゃ、ハズレの展覧会に来てしまったか?」と思った第1部の「日常礼賛 ― デンマーク絵画の黄金期」だったが、第2部の「スケーイン派と北欧の光」でテンション回復。そしてこの第3部「19世紀末のデンマーク絵画 ― 国際化と室内画の隆盛」はなかなか面白かった。
とはいっても前半はどこかで見たような作風が並ぶ。
「花咲く桃の木、アルル」 1888年
クレスチャン・モアイェ=ピーダスン
(一般的にはクリスチャン・ムーリエ=ペーターセン)
印象派そのものの描き方。モアイェ=ピーダスンはゴッホと親しく、これはアルルでゴッホとキャンバスを並べて同じ桃の木を描いた作品といわれている。マーケット的には、そのエピソードだけで価格が跳ね上がるね(^^ゞ
参考までにゴッホの「花咲く桃の木、マウフェの思い出に」も紹介しておく。モアイェ=ピーダスンの絵を見て「どこかで見たような気がすると思ったら、そうかゴッホの〜」とか書けたらカッコよかったんだけれど。
「居間に射す陽光、画家の妻と子」 1888年
ヴィゴ・ピーダスン (一般的にはヴィゴ・ペダーセン)
赤ちゃんが描かれているだけで可愛いとか、母と子の愛情に癒やされたなんてことは思わないし書かない。しかし、この後はだんだんと精気のない作品が続くので、意外とこの作品が印象に残った。作風はルノアールをお手本にしたのかな。
「アンズダケの下拵えをする若い女性」 1892年 ※下拵え=したごしらえ
ピーダ・イルステズ (英語読みならピーター・イルステッド)
これはまんまフェルメールの追随。ドレスの色は黄色以外にして欲しかったけど。それにしても食材の下準備をしているにしては雰囲気が怖いな。
「春の草花を描く子供たち」 1894年
ヴィゴ・ヨハンスン
ほのぼのとした光景。4人の子供の「描く姿の描きわけ方」が上手いなあと思った。ところでデンマークにはヒュゲ(hygge:一般的にはヒュッゲ)という言葉があって、くつろいだ、心地よい雰囲気という意味。それはデンマーク人が大切にしている文化・価値観だと、あちこちの解説に書いてある。そんなのどこの国でも同じやろーーーと思ってしまうのはヒュゲとは真逆のひねくれた態度かな(^^ゞ
それはともかく、これはヒュゲを表現した絵らしい。展覧会のホームページには「デンマーク文化“ヒュゲ”に触れる」というのがこの展覧会の「見所」と紹介されていたが、そういう作品は数点しかなかったような。もっともヒュゲはフワーッとした概念だから、それを感じる感じないは微妙なところではあるが。
そして次が、この展覧会でのヒュゲ代表作とされる同じくヴィゴ・ヨハンスンが1891年に描いた「きよしこの夜」。ヒュゲ感じる? 幸せそうなことは充分に伝わってくるけれど。
そのヒュゲから距離を置き始めるのが1900年頃からのデンマーク絵画。大切にしている価値観じゃなかったのかと突っ込みたいところだが、ときどき方向転換したくなるのが芸術家というもの。そしてここからの作品はすべて人物は後ろ姿、また一人だけで描かれている。絵の要素として人物は必要でも、人の気配は最小限に抑えたかったのか。美術的には背景としての室内ではなく、室内の美しさそのものを表現するためにとか解説される。
「遅めの朝食、新聞を読む画家の妻」 1898年
ラウリツ・アナスン・レング (一般的にはローリット・アンデルセン・リング)
まだヒュゲの面影は少し残っているかもしれない。なぜかこの絵を見た時、昭和の団地の光景が脳裏でシンクロした。室内に似ているところは特にないのに、オバチャンの服装の雰囲気だろうか?
ところで画家の名前はLaurits Andersen Ring。このAndersen:アンデルセンをアナスンと読ませるのだから、この展覧会の表記はやはり変わっている。デンマーク語に忠実にというのは理解できなくもないが、ちょっと原理主義的。
「読書する女性のいる室内」 1913年以前
カール・ホルスーウ
だんだんと絵がミニマルになってハマスホイとの近似性を感じる。カール・ホルスーウの作品をネットで調べると、人物はほとんどが後ろ姿あるいは横顔で、わずかにある正面から描かれた絵も下を向いているものばかり。よほど顔を描くのを避けていたみたい。
「ピアノに向かう少女」 1897年
「縫物をする少女」 1898-1902年
ピーダ・イルステズ (英語読みならピーター・イルステッド)
同じような手法でも、幼い子供が描かれていると情感がにじみ出るというか人間味のある絵になる。よく番組制作で「子供と動物にはかなわない」などという。少し意味合いは違うものの、その言葉を思い出しながら眺めていた。
関係ないが、この頃のピアノは鍵盤の下に何もなかったんだ。
「読書する少女のいる室内」 1903年
カール・ホルスーウ
先ほどの絵とは違って調度品が多く描かれている。カール・ホルスーウ作品ではこちらが通常で、あのミニマル感は例外。でもこれは、ちょっと詰め込みすぎな感じもする。少女の後ろのテーブルのザルは必要だった?
ところで「おさげの髪」を前と後ろに分けて垂らしているのは何か意味があるのかな?
「飴色のライティング・ビューロー」 1901年
ギーオウ・エーケン (一般的にはゲオルク・アーヘン)
この絵の前に立つと自分の顔が映り込むかと思うくらい、見事にリアルな質感で描かれている。しかし、あんな高いところに花瓶があったら取り替えるのに不便だと、いつもながら絵の本質とは関係ないところに最初に目がいってしまう。
この絵を見ると、後ろ姿でも人を入れたかった気持ちがわかる。もちろん人がいなければこの構図では描かないにしても、人あっての家具であり部屋であるという気がする。もっともハマスホイは人はおろか家具さえない室内画を描くのだけれど。
ーーー続く
とはいっても前半はどこかで見たような作風が並ぶ。
「花咲く桃の木、アルル」 1888年
クレスチャン・モアイェ=ピーダスン
(一般的にはクリスチャン・ムーリエ=ペーターセン)
印象派そのものの描き方。モアイェ=ピーダスンはゴッホと親しく、これはアルルでゴッホとキャンバスを並べて同じ桃の木を描いた作品といわれている。マーケット的には、そのエピソードだけで価格が跳ね上がるね(^^ゞ
参考までにゴッホの「花咲く桃の木、マウフェの思い出に」も紹介しておく。モアイェ=ピーダスンの絵を見て「どこかで見たような気がすると思ったら、そうかゴッホの〜」とか書けたらカッコよかったんだけれど。
「居間に射す陽光、画家の妻と子」 1888年
ヴィゴ・ピーダスン (一般的にはヴィゴ・ペダーセン)
赤ちゃんが描かれているだけで可愛いとか、母と子の愛情に癒やされたなんてことは思わないし書かない。しかし、この後はだんだんと精気のない作品が続くので、意外とこの作品が印象に残った。作風はルノアールをお手本にしたのかな。
「アンズダケの下拵えをする若い女性」 1892年 ※下拵え=したごしらえ
ピーダ・イルステズ (英語読みならピーター・イルステッド)
これはまんまフェルメールの追随。ドレスの色は黄色以外にして欲しかったけど。それにしても食材の下準備をしているにしては雰囲気が怖いな。
「春の草花を描く子供たち」 1894年
ヴィゴ・ヨハンスン
ほのぼのとした光景。4人の子供の「描く姿の描きわけ方」が上手いなあと思った。ところでデンマークにはヒュゲ(hygge:一般的にはヒュッゲ)という言葉があって、くつろいだ、心地よい雰囲気という意味。それはデンマーク人が大切にしている文化・価値観だと、あちこちの解説に書いてある。そんなのどこの国でも同じやろーーーと思ってしまうのはヒュゲとは真逆のひねくれた態度かな(^^ゞ
それはともかく、これはヒュゲを表現した絵らしい。展覧会のホームページには「デンマーク文化“ヒュゲ”に触れる」というのがこの展覧会の「見所」と紹介されていたが、そういう作品は数点しかなかったような。もっともヒュゲはフワーッとした概念だから、それを感じる感じないは微妙なところではあるが。
そして次が、この展覧会でのヒュゲ代表作とされる同じくヴィゴ・ヨハンスンが1891年に描いた「きよしこの夜」。ヒュゲ感じる? 幸せそうなことは充分に伝わってくるけれど。
そのヒュゲから距離を置き始めるのが1900年頃からのデンマーク絵画。大切にしている価値観じゃなかったのかと突っ込みたいところだが、ときどき方向転換したくなるのが芸術家というもの。そしてここからの作品はすべて人物は後ろ姿、また一人だけで描かれている。絵の要素として人物は必要でも、人の気配は最小限に抑えたかったのか。美術的には背景としての室内ではなく、室内の美しさそのものを表現するためにとか解説される。
「遅めの朝食、新聞を読む画家の妻」 1898年
ラウリツ・アナスン・レング (一般的にはローリット・アンデルセン・リング)
まだヒュゲの面影は少し残っているかもしれない。なぜかこの絵を見た時、昭和の団地の光景が脳裏でシンクロした。室内に似ているところは特にないのに、オバチャンの服装の雰囲気だろうか?
ところで画家の名前はLaurits Andersen Ring。このAndersen:アンデルセンをアナスンと読ませるのだから、この展覧会の表記はやはり変わっている。デンマーク語に忠実にというのは理解できなくもないが、ちょっと原理主義的。
「読書する女性のいる室内」 1913年以前
カール・ホルスーウ
だんだんと絵がミニマルになってハマスホイとの近似性を感じる。カール・ホルスーウの作品をネットで調べると、人物はほとんどが後ろ姿あるいは横顔で、わずかにある正面から描かれた絵も下を向いているものばかり。よほど顔を描くのを避けていたみたい。
「ピアノに向かう少女」 1897年
「縫物をする少女」 1898-1902年
ピーダ・イルステズ (英語読みならピーター・イルステッド)
同じような手法でも、幼い子供が描かれていると情感がにじみ出るというか人間味のある絵になる。よく番組制作で「子供と動物にはかなわない」などという。少し意味合いは違うものの、その言葉を思い出しながら眺めていた。
関係ないが、この頃のピアノは鍵盤の下に何もなかったんだ。
「読書する少女のいる室内」 1903年
カール・ホルスーウ
先ほどの絵とは違って調度品が多く描かれている。カール・ホルスーウ作品ではこちらが通常で、あのミニマル感は例外。でもこれは、ちょっと詰め込みすぎな感じもする。少女の後ろのテーブルのザルは必要だった?
ところで「おさげの髪」を前と後ろに分けて垂らしているのは何か意味があるのかな?
「飴色のライティング・ビューロー」 1901年
ギーオウ・エーケン (一般的にはゲオルク・アーヘン)
この絵の前に立つと自分の顔が映り込むかと思うくらい、見事にリアルな質感で描かれている。しかし、あんな高いところに花瓶があったら取り替えるのに不便だと、いつもながら絵の本質とは関係ないところに最初に目がいってしまう。
この絵を見ると、後ろ姿でも人を入れたかった気持ちがわかる。もちろん人がいなければこの構図では描かないにしても、人あっての家具であり部屋であるという気がする。もっともハマスホイは人はおろか家具さえない室内画を描くのだけれど。
ーーー続く
wassho at 23:23│Comments(0)│
│美術展