2021年03月08日
旧中川の河津桜
2月20日から23日にかけて、
アチコチに出かけてきた「早春の花見6連発」。
最後の1日の前半である第5弾は旧中川の土手に咲く河津桜である。訪れたのは天皇誕生日の2月23日。場所は江戸川区の平井というところ。とは言っても「ああ平井ね」とわかる人は東京に住んでいる人でも少ないだろうから、ますは都心との位置関係を。
実は21日に第3弾としてウメを見てきた小村井(おむらい)の香梅園からそう離れていない。直線距離にして約1.4キロ、徒歩で20分程度。もちろん21日に一緒に回ることもできたが、花見というのはそうガツガツするものじゃない。4日連続で見歩いているお前が言うなと突っ込まれそうだが。
河津桜はJR総武線が旧中川と交差する下流の左岸(上流から見て左)にある。旧中川は地図でS字型が伸びたような形をしている川。しかし、どうしてこれだけがクネクネしている? だいたい「旧」って何?と思って調べてみるとーーー
詳しいことは下記のリンク先等に任せるとして(手抜き)
https://edogawa-photo.net/2016/10/13/56087686/ 下の地図も引用
https://edogawa-photo.net/2016/10/13/56087686/
https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670314.pdf
もともと中川は利根川の支流〜江戸時代に周辺の池や沼をつなぐルートに改修をしてクネクネの形になった〜(/_')/ソレハコッチニオイトイテ〜明治の終わり頃に水害が多発したので、1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にわたる17年間の治水工事で荒川を、このあたりを流れて東京湾に注ぐように付け替えた〜それによって中川はこの新しい荒川によって分断され、分断の下流側が旧中川と呼ばれるようになる。
この旧中川は全長約6.5キロ。新しい荒川から分離して再び合流するコースをとる。そうまでして残しておく必要があったのかと思うが、隅田川とつながっている他の川や運河との関係があったのかな。ちなみに中川も新しい荒川左岸と平行するように進路が変更されたが(これも新しい荒川と分離帯を設けた意味がわからない)、これとは別に「新」中川というのも掘られて、しかもそれは「旧」江戸川と合流している。
かように東京の河川の歴史と変遷はけっこうややこしい。
いずれじっくり勉強したいと思っているが、しないような気もする(^^ゞ
ついでに言うと隅田川とは旧荒川であり、前述の新しい荒川を本流扱いとして正式に荒川としたので、1965年(昭和40年)に荒川から隅田川へ改称された。つまり割と最近のネーミングということになる。なおそれまで新しい荒川は荒川放水路という名前で呼ばれていた。
しかしである。
隅田川と聞いて思う浮かぶのは ♫春のうららの隅田川〜の歌。
この曲のタイトルを隅田川だと思っている人が多いが、正しくは「花」。作詞は武島羽衣、作曲が瀧廉太郎。そしてこの曲が発表されたのは1900年(明治33年)なのである。
隅田川への改称が1965年なら、曲の中で隅田川と歌われるのはおかしい。それに荒川放水路が完成したのは1930年なのに、それを荒川と名前を改めるのにどうして1965年まで35年も掛かったのか。
少し調べただけで正確なところはよくわかっていないが、どうやら現在の隅田川が荒川と呼ばれていたのは行政区分の上でのことであり、通称としては昔から隅田川だったようである。どれくらい昔かというと835年の古文書に「住田河」と記されているとのことだから、遅くとも平安時代初期! 伊勢物語には「すみだ川」という和歌があるらしい。
その後は「墨多」「墨田」「住田」「澄田」「角田」等の漢字が当てはめられ、また「大川」や「浅草川」との愛称でも呼ばれた。ということで源流的に荒川水系だから公的には荒川と定められたが、市民生活的には昔から「すみだがわ」で「花」の曲が作られた時には「隅田川」が一般的だったようである。
さて話を中川に戻すと、関東の主要河川ではあるものの全国的な知名度はほとんどないだろう。関東でも流域に住んでいなければ話題になることもない河川。だいたい荒川と江戸川の中間を流れているから、中川と名付けられたという安直なネーミングが、その生い立ちの不幸を物語っている(^^ゞ
私も普段の生活で中川を意識することはない。しかし過去には「中川やしおフラワーパーク」の桃と、「権現堂堤」の彼岸花を見に中川沿いに出かけている。それと東京で一番素晴らしい公園と思っている「水元公園」も中川の水流を引き込んでいる。意外とご縁があるのかも。
川の話が長くなったので河津桜は次回からm(_ _)m
ーーー続く
アチコチに出かけてきた「早春の花見6連発」。
最後の1日の前半である第5弾は旧中川の土手に咲く河津桜である。訪れたのは天皇誕生日の2月23日。場所は江戸川区の平井というところ。とは言っても「ああ平井ね」とわかる人は東京に住んでいる人でも少ないだろうから、ますは都心との位置関係を。
実は21日に第3弾としてウメを見てきた小村井(おむらい)の香梅園からそう離れていない。直線距離にして約1.4キロ、徒歩で20分程度。もちろん21日に一緒に回ることもできたが、花見というのはそうガツガツするものじゃない。4日連続で見歩いているお前が言うなと突っ込まれそうだが。
河津桜はJR総武線が旧中川と交差する下流の左岸(上流から見て左)にある。旧中川は地図でS字型が伸びたような形をしている川。しかし、どうしてこれだけがクネクネしている? だいたい「旧」って何?と思って調べてみるとーーー
詳しいことは下記のリンク先等に任せるとして(手抜き)
https://edogawa-photo.net/2016/10/13/56087686/ 下の地図も引用
https://edogawa-photo.net/2016/10/13/56087686/
https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670314.pdf
もともと中川は利根川の支流〜江戸時代に周辺の池や沼をつなぐルートに改修をしてクネクネの形になった〜(/_')/ソレハコッチニオイトイテ〜明治の終わり頃に水害が多発したので、1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にわたる17年間の治水工事で荒川を、このあたりを流れて東京湾に注ぐように付け替えた〜それによって中川はこの新しい荒川によって分断され、分断の下流側が旧中川と呼ばれるようになる。
この旧中川は全長約6.5キロ。新しい荒川から分離して再び合流するコースをとる。そうまでして残しておく必要があったのかと思うが、隅田川とつながっている他の川や運河との関係があったのかな。ちなみに中川も新しい荒川左岸と平行するように進路が変更されたが(これも新しい荒川と分離帯を設けた意味がわからない)、これとは別に「新」中川というのも掘られて、しかもそれは「旧」江戸川と合流している。
かように東京の河川の歴史と変遷はけっこうややこしい。
いずれじっくり勉強したいと思っているが、しないような気もする(^^ゞ
ついでに言うと隅田川とは旧荒川であり、前述の新しい荒川を本流扱いとして正式に荒川としたので、1965年(昭和40年)に荒川から隅田川へ改称された。つまり割と最近のネーミングということになる。なおそれまで新しい荒川は荒川放水路という名前で呼ばれていた。
しかしである。
隅田川と聞いて思う浮かぶのは ♫春のうららの隅田川〜の歌。
この曲のタイトルを隅田川だと思っている人が多いが、正しくは「花」。作詞は武島羽衣、作曲が瀧廉太郎。そしてこの曲が発表されたのは1900年(明治33年)なのである。
隅田川への改称が1965年なら、曲の中で隅田川と歌われるのはおかしい。それに荒川放水路が完成したのは1930年なのに、それを荒川と名前を改めるのにどうして1965年まで35年も掛かったのか。
少し調べただけで正確なところはよくわかっていないが、どうやら現在の隅田川が荒川と呼ばれていたのは行政区分の上でのことであり、通称としては昔から隅田川だったようである。どれくらい昔かというと835年の古文書に「住田河」と記されているとのことだから、遅くとも平安時代初期! 伊勢物語には「すみだ川」という和歌があるらしい。
その後は「墨多」「墨田」「住田」「澄田」「角田」等の漢字が当てはめられ、また「大川」や「浅草川」との愛称でも呼ばれた。ということで源流的に荒川水系だから公的には荒川と定められたが、市民生活的には昔から「すみだがわ」で「花」の曲が作られた時には「隅田川」が一般的だったようである。
さて話を中川に戻すと、関東の主要河川ではあるものの全国的な知名度はほとんどないだろう。関東でも流域に住んでいなければ話題になることもない河川。だいたい荒川と江戸川の中間を流れているから、中川と名付けられたという安直なネーミングが、その生い立ちの不幸を物語っている(^^ゞ
私も普段の生活で中川を意識することはない。しかし過去には「中川やしおフラワーパーク」の桃と、「権現堂堤」の彼岸花を見に中川沿いに出かけている。それと東京で一番素晴らしい公園と思っている「水元公園」も中川の水流を引き込んでいる。意外とご縁があるのかも。
川の話が長くなったので河津桜は次回からm(_ _)m
ーーー続く
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