2021年04月11日
池上本門寺で力道山の墓参り
仁王門〜大堂のある境内のメインエリアから五重塔に向かう途中に、
こんな案内を見つけた。
池上本門寺に力道山の墓があることは何となく知っていて興味もあったのだが、広い墓地のどこにあるのかわからないしーーーと思っていたら、まさかの墓コッチの矢印。それだけ訪れる人がいるということか。
とはいっても、1963年(昭和38年)に亡くなっている人物なので、今となっては知らない人のほうが多いかも知れない。
力道山は1924年(大正13年)生まれのプロレスラー。たんなるレスラーじゃなくて日本にプロレスを導入した人物。ジャイアント馬場もアントニオ猪木も彼の弟子である。初興行が1954年(昭和29年)で、ちょうどその前年から始まったテレビ放送でプロレスは、今風に表現するなら大人気コンテンツとなった。
どれだけ人気があったかというと、当時、普通の家庭にはテレビは普及しておらず、まだ街頭テレビが主流の時代。そしてこれが1955年(昭和30年)に新橋駅前に力道山のプロレスを見ようと集まった1万2000人!!
現在でもパブリック・ビューイングというのがあるが、
当時の街頭テレビで使われていたのはこんなテレビ。これはレプリカであるが、チャンネルのダイヤル(それすら知らない世代も増えたが)の大きさなどから推測すると14インチ以下のサイズじゃないかな。
新橋駅前に設置されていたテレビは2台。だから上の写真では人々の顔の向きが2分されている。しかしほとんどの人はテレビで力道山のプロレスを観戦したというより、遠くで小さく光る箱を見ただけだと思う。おそらく音も聞こえなかったはず。
それでも戦争に負けてヘコんでいた日本人にとって、力道山が大きな外人レスラーをボコボコにやっつけるのは何よりの楽しみだったのである。ある意味ではロマンのある時代だったのかも知れない。
力道山の人気は絶大で、1963年にデストロイヤーという覆面レスラーと戦った試合は64%の視聴率を叩き出す。これは現在でも歴代4位の記録。もっとも歴代視聴率10位までのうち1960年代が6つを占め、昔はそれだけテレビの価値が高かったということでもあるが。
力道山の晩年に私はまだ幼稚園。だから具体的なことは何も覚えていない。それでも彼が今でいうスーパースターだったことは何となく理解していたし、トレードマークの黒タイツ姿は今でも目に焼き付いている。別に力道山のファンでもないが、身近な歴史上の人物といった感じで、彼の墓が自宅からそこそこ近い場所にあることを知った時から、機会があれば訪れてみたかったのである。いくつになっても強いヒーローに憧れるのがオトコノコ(^^ゞ
案内の看板はけっこうアバウトで、最初の矢印に従って進んだら、分かれ道のところでどちらに行けばいいのかわからなくなった。しかし適当に歩いていたらまた看板を発見。
それにしても縁もゆかりもない墓地の奥まで入っていくのはヘンな気分だ。
3つめの看板。
比較的新しく造成されたぽいエリアの中に入っていくと、
いました! 力道山。
なかなか広くて立派なお墓。
ヘタとはいわないが、決して達筆ではない文字かな。
亡くなったのは39歳だったんだ。幼稚園児にとって39歳なんてジジイもいいところだから、もっと年配だと思っていた。ちなみに死因はナイトクラブでヤーさんと喧嘩になり、馬乗りになってシバいていたら、下からナイフで刺されて、それが原因で腹膜炎を発症して1週間後に亡くなったというもの。
梶原一騎に真樹日佐夫と濃い名前が並んでいる(^^ゞ
北野武も名前を連ねているが力道山と縁があったのかな?
ところでこの墓は少し変わっている。正面の墓石には南無妙法蓮華経と刻まれている。日蓮宗ではそういう墓も建てるらしいのだが、この墓は墓標を見ると長男のものである。その右側が力道山の墓。なぜに親じゃなくて息子がセンター? そして彼の墓には戒名が刻まれている。墓石の正面に戒名というのは珍しいと思う。
もっとも墓のこととかは詳しくないから、
あくまで私の乏しい知識に照らし合わせての感想ではあるが。
お墓に軽く黙礼して銅像をポンポン叩いて(相撲取りとかレスラーの身体は叩きたくなるでしょ)お墓参りは終了。有名人の墓を訪れたのは初めてかな。世の中にはそれを趣味とする「墓マイラー」という人もいるらしい。意外と楽しいかも知れない。
池上本門寺の三部作ブログはこれにて終了。はっきり言ってサクラ的にはそれほどの名所ではない。しかし五重塔と力道山で「来た甲斐」は充分にあって、満足した気持ちで石段を降りることができた。
おしまい
こんな案内を見つけた。
池上本門寺に力道山の墓があることは何となく知っていて興味もあったのだが、広い墓地のどこにあるのかわからないしーーーと思っていたら、まさかの墓コッチの矢印。それだけ訪れる人がいるということか。
とはいっても、1963年(昭和38年)に亡くなっている人物なので、今となっては知らない人のほうが多いかも知れない。
力道山は1924年(大正13年)生まれのプロレスラー。たんなるレスラーじゃなくて日本にプロレスを導入した人物。ジャイアント馬場もアントニオ猪木も彼の弟子である。初興行が1954年(昭和29年)で、ちょうどその前年から始まったテレビ放送でプロレスは、今風に表現するなら大人気コンテンツとなった。
どれだけ人気があったかというと、当時、普通の家庭にはテレビは普及しておらず、まだ街頭テレビが主流の時代。そしてこれが1955年(昭和30年)に新橋駅前に力道山のプロレスを見ようと集まった1万2000人!!
現在でもパブリック・ビューイングというのがあるが、
当時の街頭テレビで使われていたのはこんなテレビ。これはレプリカであるが、チャンネルのダイヤル(それすら知らない世代も増えたが)の大きさなどから推測すると14インチ以下のサイズじゃないかな。
新橋駅前に設置されていたテレビは2台。だから上の写真では人々の顔の向きが2分されている。しかしほとんどの人はテレビで力道山のプロレスを観戦したというより、遠くで小さく光る箱を見ただけだと思う。おそらく音も聞こえなかったはず。
それでも戦争に負けてヘコんでいた日本人にとって、力道山が大きな外人レスラーをボコボコにやっつけるのは何よりの楽しみだったのである。ある意味ではロマンのある時代だったのかも知れない。
力道山の人気は絶大で、1963年にデストロイヤーという覆面レスラーと戦った試合は64%の視聴率を叩き出す。これは現在でも歴代4位の記録。もっとも歴代視聴率10位までのうち1960年代が6つを占め、昔はそれだけテレビの価値が高かったということでもあるが。
力道山の晩年に私はまだ幼稚園。だから具体的なことは何も覚えていない。それでも彼が今でいうスーパースターだったことは何となく理解していたし、トレードマークの黒タイツ姿は今でも目に焼き付いている。別に力道山のファンでもないが、身近な歴史上の人物といった感じで、彼の墓が自宅からそこそこ近い場所にあることを知った時から、機会があれば訪れてみたかったのである。いくつになっても強いヒーローに憧れるのがオトコノコ(^^ゞ
案内の看板はけっこうアバウトで、最初の矢印に従って進んだら、分かれ道のところでどちらに行けばいいのかわからなくなった。しかし適当に歩いていたらまた看板を発見。
それにしても縁もゆかりもない墓地の奥まで入っていくのはヘンな気分だ。
3つめの看板。
比較的新しく造成されたぽいエリアの中に入っていくと、
いました! 力道山。
なかなか広くて立派なお墓。
ヘタとはいわないが、決して達筆ではない文字かな。
亡くなったのは39歳だったんだ。幼稚園児にとって39歳なんてジジイもいいところだから、もっと年配だと思っていた。ちなみに死因はナイトクラブでヤーさんと喧嘩になり、馬乗りになってシバいていたら、下からナイフで刺されて、それが原因で腹膜炎を発症して1週間後に亡くなったというもの。
梶原一騎に真樹日佐夫と濃い名前が並んでいる(^^ゞ
北野武も名前を連ねているが力道山と縁があったのかな?
ところでこの墓は少し変わっている。正面の墓石には南無妙法蓮華経と刻まれている。日蓮宗ではそういう墓も建てるらしいのだが、この墓は墓標を見ると長男のものである。その右側が力道山の墓。なぜに親じゃなくて息子がセンター? そして彼の墓には戒名が刻まれている。墓石の正面に戒名というのは珍しいと思う。
もっとも墓のこととかは詳しくないから、
あくまで私の乏しい知識に照らし合わせての感想ではあるが。
お墓に軽く黙礼して銅像をポンポン叩いて(相撲取りとかレスラーの身体は叩きたくなるでしょ)お墓参りは終了。有名人の墓を訪れたのは初めてかな。世の中にはそれを趣味とする「墓マイラー」という人もいるらしい。意外と楽しいかも知れない。
池上本門寺の三部作ブログはこれにて終了。はっきり言ってサクラ的にはそれほどの名所ではない。しかし五重塔と力道山で「来た甲斐」は充分にあって、満足した気持ちで石段を降りることができた。
おしまい