2021年10月13日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その4
ゴッホの画業は10年ほどだと「その2」でも述べたが、
もう少しその前からの経歴を書いておくと
彼は1853年3月30日にオランダ南部で生まれる。(明治維新が1868年)
父親は牧師。5人の叔父がいて、そのうちの3人は画商になっている。
そういうDNAが彼にも引き継がれていたのかも知れない。
画商の叔父の口添えで、パリに本社のある大手画廊に16歳から23歳まで勤務する。最初はオランダのハーグ支店に約4年。次にロンドン支店へ2年間移り、最後にパリ本店で約1年。こう書くとなかなかの国際ビジネスマンのようであるが、ハーグでの素行不良を理由にロンドンに飛ばされ、ロンドンでも同じようなことをして、パリでクビになったといういきさつ。ゴッホ的には金儲け主義の会社に対する反発もあったらしい。
ちなみにオランダの首都はアムステルダムだと習ったはずだが、国会議事堂、王宮、官庁、各国の大使館などはハーグにあり、事実上の首都はハーグという変わった体制になってる。
これはゴッホが18歳の時の写真。
なお「その2」に載せたのは33歳頃のもの。
画廊をクビになってからはイギリスで教師をした後、オランダに戻って書店の店員になる。これが23歳から24歳になった頃まで。
そのあたりから聖職者になりたいという希望を持ち始め、24歳で大学の神学部を目指す。しかし受験勉強について行けずに挫折。言ってみれば落ちこぼれ。ただしめげずに25歳の時にベルギーで伝道師養成学校に入る。これはキリスト教業界を目指す者の専門学校みたいなところだろうか? 約3ヶ月で仮免許を取得する。
それにしてもこの時代(日本では明治の初め)なのによく各国を渡り歩くものだ。あるいはこの時代のヨーロッパでは国境の感覚が薄いのかな。
25歳の中頃から、ベルギーの炭鉱地帯のボリナージュというところで伝道師としての活動を始める。しかし地元住民との折り合いが悪化し、さらに教会とも揉めて約1年ほどで伝道師の仮免許を剥奪される(/o\) ゴッホは何をさせてもアカン奴だったみたい。
ただしオランダへは戻らず、同地の伝道師や炭鉱夫の家に泊まり込んでプー生活を始めた。26歳なのに親からの仕送りに頼っていたようだからますますアカン奴。そしてこの時期から絵を描き始めたようだ。ただしまだスケッチやデッサンの類いだけ。27歳の中頃には画家になる決心を周りに語っている。
そしてブリュッセルに移り住んでスケッチやデッサンに精を出す。ボリナージュは絵の修行をするには田舎過ぎたのかも知れない。こちらでは美術学校の短期コースなども受講していたようである。
ただしブリュッセルでは金が続かずに、28歳になると実家のあるオランダのエッテンに帰ってくる。後世ではここからのゴッホが画家と見なされオランダ時代と称される。期間は1881年4月から1885年11月(28歳から32歳)。この間にエッテン、ハーグ、ニューネンと拠点を変えている。
その後にごく短期間をベルギーで過ごすが、
美術史的にそこは省略してオランダ時代の次を
パリ時代 :1886年2月〜1888年初頭 :32歳〜34歳
アルル時代 :1888年2月〜1889年5月 :34歳〜36歳
サン=レミ時代:1889年5月〜1890年5月 :36〜37歳
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 :1890年5月〜1890年7月 :37歳で没
に区分するのが一般的。
それでゴッホの絵が多くの人がイメージするゴッホの画風になるのはアルル時代からである。つまりゴッホの画業は10年で短いと言われるが(オランダ時代から数えると正確には9年と3ヶ月ほど)、アルル以降に限れば2年と半年にすぎない。どれだけ密度の濃い2年半を過ごしたのだろうか。私の過去2年半なんてゴッホの3日分くらいじゃないかと思ったり。いや、2年半であれだけのことができるのだから、まだまだ私にも可能性は山ほど残っていると前向きに解釈しよう(^^ゞ
チャッチャと経歴を書くだけのつもりが、
思ったより長くなってしまったので
ーーー続く
もう少しその前からの経歴を書いておくと
彼は1853年3月30日にオランダ南部で生まれる。(明治維新が1868年)
父親は牧師。5人の叔父がいて、そのうちの3人は画商になっている。
そういうDNAが彼にも引き継がれていたのかも知れない。
画商の叔父の口添えで、パリに本社のある大手画廊に16歳から23歳まで勤務する。最初はオランダのハーグ支店に約4年。次にロンドン支店へ2年間移り、最後にパリ本店で約1年。こう書くとなかなかの国際ビジネスマンのようであるが、ハーグでの素行不良を理由にロンドンに飛ばされ、ロンドンでも同じようなことをして、パリでクビになったといういきさつ。ゴッホ的には金儲け主義の会社に対する反発もあったらしい。
ちなみにオランダの首都はアムステルダムだと習ったはずだが、国会議事堂、王宮、官庁、各国の大使館などはハーグにあり、事実上の首都はハーグという変わった体制になってる。
これはゴッホが18歳の時の写真。
なお「その2」に載せたのは33歳頃のもの。
画廊をクビになってからはイギリスで教師をした後、オランダに戻って書店の店員になる。これが23歳から24歳になった頃まで。
そのあたりから聖職者になりたいという希望を持ち始め、24歳で大学の神学部を目指す。しかし受験勉強について行けずに挫折。言ってみれば落ちこぼれ。ただしめげずに25歳の時にベルギーで伝道師養成学校に入る。これはキリスト教業界を目指す者の専門学校みたいなところだろうか? 約3ヶ月で仮免許を取得する。
それにしてもこの時代(日本では明治の初め)なのによく各国を渡り歩くものだ。あるいはこの時代のヨーロッパでは国境の感覚が薄いのかな。
25歳の中頃から、ベルギーの炭鉱地帯のボリナージュというところで伝道師としての活動を始める。しかし地元住民との折り合いが悪化し、さらに教会とも揉めて約1年ほどで伝道師の仮免許を剥奪される(/o\) ゴッホは何をさせてもアカン奴だったみたい。
ただしオランダへは戻らず、同地の伝道師や炭鉱夫の家に泊まり込んでプー生活を始めた。26歳なのに親からの仕送りに頼っていたようだからますますアカン奴。そしてこの時期から絵を描き始めたようだ。ただしまだスケッチやデッサンの類いだけ。27歳の中頃には画家になる決心を周りに語っている。
そしてブリュッセルに移り住んでスケッチやデッサンに精を出す。ボリナージュは絵の修行をするには田舎過ぎたのかも知れない。こちらでは美術学校の短期コースなども受講していたようである。
ただしブリュッセルでは金が続かずに、28歳になると実家のあるオランダのエッテンに帰ってくる。後世ではここからのゴッホが画家と見なされオランダ時代と称される。期間は1881年4月から1885年11月(28歳から32歳)。この間にエッテン、ハーグ、ニューネンと拠点を変えている。
その後にごく短期間をベルギーで過ごすが、
美術史的にそこは省略してオランダ時代の次を
パリ時代 :1886年2月〜1888年初頭 :32歳〜34歳
アルル時代 :1888年2月〜1889年5月 :34歳〜36歳
サン=レミ時代:1889年5月〜1890年5月 :36〜37歳
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 :1890年5月〜1890年7月 :37歳で没
に区分するのが一般的。
それでゴッホの絵が多くの人がイメージするゴッホの画風になるのはアルル時代からである。つまりゴッホの画業は10年で短いと言われるが(オランダ時代から数えると正確には9年と3ヶ月ほど)、アルル以降に限れば2年と半年にすぎない。どれだけ密度の濃い2年半を過ごしたのだろうか。私の過去2年半なんてゴッホの3日分くらいじゃないかと思ったり。いや、2年半であれだけのことができるのだから、まだまだ私にも可能性は山ほど残っていると前向きに解釈しよう(^^ゞ
チャッチャと経歴を書くだけのつもりが、
思ったより長くなってしまったので
ーーー続く
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