2021年10月17日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その6
眺めているだけで気が滅入りそうなシンドイ作品が並んだオランダ時代を経て、1886年の2月からゴッホのパリ時代が始まる。この時点で32歳。彼に仕送りを続けていた弟のテオを頼って経済的理由でやってきたのは確かだとしても、花の都パリで心機一転という気持ちもあったに違いない。
当時のパリは印象派のムーブメントが一段落して、あれこれ分派し始めた頃。ちなみにゴッホはルノアールやモネといった印象派の中心メンバーとは10歳ちょっと、日本語的に表現するなら一回りほど若い。
セーヌ川のほとりで、同じく画家のベルナールと話しているゴッホの後ろ姿とされる写真。1886年は明治19年。パリも少し中心を離れれば、まだ何もなかったことがわかる。
それにしても取って付けたようなテーブルと椅子の配置。写真が切れている左側に店でもあったのか? 奥にVINSというレストランが写っているが、そこのものでもなさそうだし。あるいは「バエ」を狙った仕込み?
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1886年10月
多くの画家が描いているモンマルトルにあったダンスホール。この時代のパリのアイコンともいうべき存在。ゴッホの絵は、まだちょっとオランダ時代の暗さを引きずっている。
しかし翌年の作品からは明るく色数も豊富になり
「そうだゴッホ、もっとイケ!」と声をかけたくなる。
「草地」 1887年4〜6月
「青い花瓶の花」 1887年6月
「レストランの内部」 1887年夏
これは印象派の流れを強く感じる作品。2年間をパリで過ごした後、アルルに移ってゴッホは自分の画風を確立する。しかし、もう少し長くパリにいて、もっと印象派系の技法を取り込んでも面白い展開になったはずとモーソー。
パリに来て2年後の1888年の2月に、
ゴッホはアルルに移る。
地図に赤い印があるのがアルル。矢印が少し内陸になっているが海沿いまで街が広がり、港町マルセイユの西約40キロといった位置関係。ゴッホによって有名になった街といえるが、ローマ時代の遺跡も多い古都である。RONINという映画では円形闘技場がロケ地になった。RONINはロバート・デ・ニーロやジャン・レノが出演しているのにマイナーな映画。でも痛快アクション物好きならきっと気に入るはず。
話がそれた。
ゴッホが次の拠点として、なぜ過去に訪れたこともないアルルを選んだのかは諸説あってはっきりしない。ただ浮世絵などで日本オタクだったゴッホは「ここはまるで日本のように美しい」と大いに気に入ったようである。来たことないくせに(^^ゞ そして私も南仏を訪れたことはないが、その明るい日差しが彼の絵に多大な影響を与えたことは想像が付く。
参考までに地図の上のラインは、北海道の北端である稚内からヨーロッパに向けて引いたもの。ほとんどのヨーロッパ諸国はその緯度からさらに北側である。下のラインはアルルから北海道に向けて引いた。南仏といえども札幌あたりである。ゴッホにはイタリアかスペインを南下して欲しかったな。
ところでゴッホはアルルで、画家の相互扶助組合のような組織を作る構想を持っていたようだ。もちろん何も実現していない。まあ社会に順応できない奴ほど、そういう理想の共同体を追い求めがちなもの。
それはさておき、いよいよアルル時代からが「私たちのゴッホ」なことがわかる。
次の作品は夕暮れにも柳にも見えないけれど、どこから見てもゴッホ!
「夕暮れの刈り込まれた柳」 188年3月
「糸杉に囲まれた果樹園」 1888年4月
ゴッホといえばヒマワリと糸杉に取り憑かれた画家。しかしこれはまだ背景としての描かれ方。パリから来てまだ2ヶ月だからか、何となく印象派的な匂いも残っている。
しかしその1ヶ月後には早くもヒマワリに通ずる雰囲気が出てきた。
「レモンの籠と瓶」 1888年5月
「種まく人」 1888年6月
これはミレーの「種まく人」へのオマージュ。ゴッホはドラクロア、レンブラントなど多くの画家の模写をしたが(中には歌川広重もある)ミレー作品の模写が一番多い。ミレーといえば最も有名なのは「落穂拾い」で、もちろんその模写も描いている。
それだけゴッホはミレーをリスペクトしていたのだろう。「私たちのゴッホ」からはミレーとの共通点を見いだせないとしても、前回に紹介したオランダ時代の農民や労働者を描いた絵を思い出せば、農民画を得意としたミレーとは社会を見る目に似たものがあったのかも知れない。ちなみにミレーはゴッホより40年ほど前の人。
「サント=マリー=ド=ラ=メールの海景」 1888年6月
やたら長いSaintes-Maries-de-la-Merとはアルルにある海沿いの町の名前。キリストが処刑された後に、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベなど彼にゆかりのあるマリアと名の付く女性がこの地に逃れてきた故事に由来するらしい。Saintes-Mariesは聖マリアの複数形。de-la-Merは「海の」という意味だから直訳すれば「海の聖マリアたち」。それにしてもどうしてマリアさんばかりやって来た?
それはともかくゴッホが海を描いた絵は珍しいのじゃないかな。少なくとも私は初めて見たような気がする。それでかなり長く眺めていたのだが、よく見れば、どうってことのない絵だと気がついた(^^ゞ
「黄色い家(通り)」 1888年9月
最初の投稿に書いたように本当に見たいのは「夜のカフェテラス」だけれど、まあそれの昼間版がこの「黄色い家」だと思い込むことにしてやって来たのがこの展覧会。
おそらく実際の風景はこんなに黄色くなかったはず。いくら黄色フェチのゴッホでも、昼間の街並みでこれ以上に黄色を鮮やかにすると破綻するから、ギリギリのところで押さえたんだろうなあと思いながら鑑賞。
ところでテラスと車道(人が歩いているが)の間にあるモッコリしたものは何だろう。これが緑色なら背の低い街路種・生け垣だろうが、土色なので正体不明である。ガードレール的な盛り土かな。しかしそんなものは他で見たことがないし。ナゾ
さてこの作品を目当てに訪れたのだから、相当にじっくりと眺めた。そうすると全体に対して建物群のバランスが小さい、奥に引っ込みすぎているような気がしてきた。パソコンやスマホの画面から少し目を離して確認してもらいたい。建物と道路の面積がほぼ同じである。だからタイトルを「黄色い家」ではなく「黄色い家(通り)」にしたのだろう。
英題ではThe Yellow House (The Street)。しかし最初から建物と道路の風景を描くはずならThe Yellow House & The Street になるはず。描いてる途中でバランスの悪さに気づいたて (The Street) を付け加えたんじゃないか?
それならばと、家がメインになるようにトリミングしてみた(^^ゞ
この「黄色い家・改」のほうが収まりいいでしょ。
「緑のブドウ園」 1888年10月
あまりゴッホ・ゴッホしていないのに、充分にゴッホを楽しめる作品。ゴッホの絵は見ているものに緊張を強いるものも多いが、これは肩の力が抜けているというか。この展覧会で一番気に入った。ほとんど雲ばかりなのに抜けるような高さを感じる秋空が不思議。
ーーー続く
当時のパリは印象派のムーブメントが一段落して、あれこれ分派し始めた頃。ちなみにゴッホはルノアールやモネといった印象派の中心メンバーとは10歳ちょっと、日本語的に表現するなら一回りほど若い。
セーヌ川のほとりで、同じく画家のベルナールと話しているゴッホの後ろ姿とされる写真。1886年は明治19年。パリも少し中心を離れれば、まだ何もなかったことがわかる。
それにしても取って付けたようなテーブルと椅子の配置。写真が切れている左側に店でもあったのか? 奥にVINSというレストランが写っているが、そこのものでもなさそうだし。あるいは「バエ」を狙った仕込み?
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1886年10月
多くの画家が描いているモンマルトルにあったダンスホール。この時代のパリのアイコンともいうべき存在。ゴッホの絵は、まだちょっとオランダ時代の暗さを引きずっている。
しかし翌年の作品からは明るく色数も豊富になり
「そうだゴッホ、もっとイケ!」と声をかけたくなる。
「草地」 1887年4〜6月
「青い花瓶の花」 1887年6月
「レストランの内部」 1887年夏
これは印象派の流れを強く感じる作品。2年間をパリで過ごした後、アルルに移ってゴッホは自分の画風を確立する。しかし、もう少し長くパリにいて、もっと印象派系の技法を取り込んでも面白い展開になったはずとモーソー。
パリに来て2年後の1888年の2月に、
ゴッホはアルルに移る。
地図に赤い印があるのがアルル。矢印が少し内陸になっているが海沿いまで街が広がり、港町マルセイユの西約40キロといった位置関係。ゴッホによって有名になった街といえるが、ローマ時代の遺跡も多い古都である。RONINという映画では円形闘技場がロケ地になった。RONINはロバート・デ・ニーロやジャン・レノが出演しているのにマイナーな映画。でも痛快アクション物好きならきっと気に入るはず。
話がそれた。
ゴッホが次の拠点として、なぜ過去に訪れたこともないアルルを選んだのかは諸説あってはっきりしない。ただ浮世絵などで日本オタクだったゴッホは「ここはまるで日本のように美しい」と大いに気に入ったようである。来たことないくせに(^^ゞ そして私も南仏を訪れたことはないが、その明るい日差しが彼の絵に多大な影響を与えたことは想像が付く。
参考までに地図の上のラインは、北海道の北端である稚内からヨーロッパに向けて引いたもの。ほとんどのヨーロッパ諸国はその緯度からさらに北側である。下のラインはアルルから北海道に向けて引いた。南仏といえども札幌あたりである。ゴッホにはイタリアかスペインを南下して欲しかったな。
ところでゴッホはアルルで、画家の相互扶助組合のような組織を作る構想を持っていたようだ。もちろん何も実現していない。まあ社会に順応できない奴ほど、そういう理想の共同体を追い求めがちなもの。
それはさておき、いよいよアルル時代からが「私たちのゴッホ」なことがわかる。
次の作品は夕暮れにも柳にも見えないけれど、どこから見てもゴッホ!
「夕暮れの刈り込まれた柳」 188年3月
「糸杉に囲まれた果樹園」 1888年4月
ゴッホといえばヒマワリと糸杉に取り憑かれた画家。しかしこれはまだ背景としての描かれ方。パリから来てまだ2ヶ月だからか、何となく印象派的な匂いも残っている。
しかしその1ヶ月後には早くもヒマワリに通ずる雰囲気が出てきた。
「レモンの籠と瓶」 1888年5月
「種まく人」 1888年6月
これはミレーの「種まく人」へのオマージュ。ゴッホはドラクロア、レンブラントなど多くの画家の模写をしたが(中には歌川広重もある)ミレー作品の模写が一番多い。ミレーといえば最も有名なのは「落穂拾い」で、もちろんその模写も描いている。
それだけゴッホはミレーをリスペクトしていたのだろう。「私たちのゴッホ」からはミレーとの共通点を見いだせないとしても、前回に紹介したオランダ時代の農民や労働者を描いた絵を思い出せば、農民画を得意としたミレーとは社会を見る目に似たものがあったのかも知れない。ちなみにミレーはゴッホより40年ほど前の人。
「サント=マリー=ド=ラ=メールの海景」 1888年6月
やたら長いSaintes-Maries-de-la-Merとはアルルにある海沿いの町の名前。キリストが処刑された後に、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベなど彼にゆかりのあるマリアと名の付く女性がこの地に逃れてきた故事に由来するらしい。Saintes-Mariesは聖マリアの複数形。de-la-Merは「海の」という意味だから直訳すれば「海の聖マリアたち」。それにしてもどうしてマリアさんばかりやって来た?
それはともかくゴッホが海を描いた絵は珍しいのじゃないかな。少なくとも私は初めて見たような気がする。それでかなり長く眺めていたのだが、よく見れば、どうってことのない絵だと気がついた(^^ゞ
「黄色い家(通り)」 1888年9月
最初の投稿に書いたように本当に見たいのは「夜のカフェテラス」だけれど、まあそれの昼間版がこの「黄色い家」だと思い込むことにしてやって来たのがこの展覧会。
おそらく実際の風景はこんなに黄色くなかったはず。いくら黄色フェチのゴッホでも、昼間の街並みでこれ以上に黄色を鮮やかにすると破綻するから、ギリギリのところで押さえたんだろうなあと思いながら鑑賞。
ところでテラスと車道(人が歩いているが)の間にあるモッコリしたものは何だろう。これが緑色なら背の低い街路種・生け垣だろうが、土色なので正体不明である。ガードレール的な盛り土かな。しかしそんなものは他で見たことがないし。ナゾ
さてこの作品を目当てに訪れたのだから、相当にじっくりと眺めた。そうすると全体に対して建物群のバランスが小さい、奥に引っ込みすぎているような気がしてきた。パソコンやスマホの画面から少し目を離して確認してもらいたい。建物と道路の面積がほぼ同じである。だからタイトルを「黄色い家」ではなく「黄色い家(通り)」にしたのだろう。
英題ではThe Yellow House (The Street)。しかし最初から建物と道路の風景を描くはずならThe Yellow House & The Street になるはず。描いてる途中でバランスの悪さに気づいたて (The Street) を付け加えたんじゃないか?
それならばと、家がメインになるようにトリミングしてみた(^^ゞ
この「黄色い家・改」のほうが収まりいいでしょ。
「緑のブドウ園」 1888年10月
あまりゴッホ・ゴッホしていないのに、充分にゴッホを楽しめる作品。ゴッホの絵は見ているものに緊張を強いるものも多いが、これは肩の力が抜けているというか。この展覧会で一番気に入った。ほとんど雲ばかりなのに抜けるような高さを感じる秋空が不思議。
ーーー続く
wassho at 22:49│Comments(0)│
│美術展